ホームルーム
ヤバイ。息が乱れてる。脚の動きと呼吸のリズムが一致しなくなって、それが急激に体力を
奪っていくのが判る。
だからと言って止まる訳には行かないぜ。
離れていても判る。そいつの纏っているオーラの色は真っ黒だ。
ドス黒い殺気が球状の塊を描くように迫り、俺は背筋をジリジリと焦がされるような錯覚さえ
覚える。
――捕まったら殺されるぞ――
俺のアラームがビンビンに反応して危機を告げていた。
息が切れ始めると共に、背後の足音に呼吸音が重なって聞こえてくる。いかん!若干だが、
奴の方が足が速いらしい。
あと少し。あと少しでゴールに辿り着く。そのサンクチュアリに到達さえしてしまえば後は
どうにでもなるだろう。
「そろそろ限界!」悲鳴を上げそうになる両脚に喝を入れて、ラストスパート。目指す場所は、
ようやく視界に入ってきたあの扉!
見えてしまえば後はあっと言う間だ。アイツとの差はもはや10……いや数mか。しかし俺の
手はもうすぐ扉に手が届こうとして……届いた!
急ブレーキ!ガラリと音を立てて扉を開く。その瞬間、俺の頭の中には勝利のファンファーレ
が高らかに鳴り響いていた。
そのファンファーレを背景に俺は高らかに勝利の言葉を告げる。
「先生!遅れました!速やかに授業に参加したいと思います!」
遅れる事1秒、開けっ放しの扉の向こうでズザザッと横滑りに急ブレーキをかけ、そのまま
ドリフトを決めるように教室に駆け込んで来る追撃者の姿。
朱のリボンでポニーテールにまとめた深紫色の髪が全力疾走の余韻でフワリと跳ねた。
リボンと同じくらい真っ赤になった顔には憤怒の色が浮かび、教室内に辿り着いた俺の顔を
睨みつける。
「ハア、ハア、バイス……ハア、ハア、今日という今日は……げほ!けほ!」
「まあ落ち着けアルカ。ほら、この牛乳は俺のおごりだぜ」
朝ご飯代わりにカバンに入れてあった牛乳パックを差し出す。
本当だったらアルカを迎えに行ったついでに、いつもの様にアルカのお袋さんにサンドイッチ
を貰って、通学兼朝食タイムと洒落込むはずだったんだがな。
「あ、ありがと。んぐ、んぐ、んぐ、ぷは。……ふう」
「落ち着いたか?」
「うん」
「おっけ。んじゃあ席に着こうぜ?」
「うん。でも、その前に……死ね――――っっ!!」
――ドゴッ!
俺の立っていたすぐ後ろの壁にヒビが走った。
すんでのところでアルカの一撃をかわした俺は、一方的な暴力に抗議の声を上げた。
「てててめえアルカっ!牛乳の礼がそれかよ!」
「バイスぶっ殺し用の栄養補給でしょ?殊勝な心がけに免じて今のカロリーは全部アンタを
ボコボコにするために使ってあげるから感謝しなさい!」
「恩知らず!全然免じてないし!飲んだ牛乳返せ!」
「おかげさまで絶賛消化中よ!そ・れ・よ・り・も!あれだけの事やらかしといて、牛乳一本で
誤魔化せるとでも思ってるんじゃないでしょうね!?」
ゴゴゴと暗黒オーラを立ち上らせながら、アルカが迫る。
あれだけの事?何だ?一体どれの事だ?
俺の顔を見た途端に壮絶チェイスが始まった事で、「ああ、イタズラがバレたんだな」と察する
事はできた。
しかし……はて、どのイタズラがバレたのだろうか?
昔の俺はもう少し慎重にやらかしていたもんだが……今時の俺には心当たりがありすぎる
から困る。
最近やった派手なイタズラと言えば、寝顔を魔法「スクリーンショット」で撮影して、その写真を
クラスの男子にばら撒いた事か。うん。あれは大好評だった。
あとは戦技実習中にスカートが落ちるように、紐に切れ込みを入れた事くらいか?
あの時は戦技実習中どころか登校中にスカートが落ちちまったんだっけ。
そして……あろう事かアルカは風通しが良くなった事に気付かず、パンツ丸出しのまま
元気一杯に登校しちまったんだ。
いや、俺も言おう言おうとは思いつつも、タイミングを逃したと言うか、パンツに見とれてた
というか。あ、ちなみに紐パンツな。
折りしもその時には格闘戦技講師のグレオール先生(42歳男、独身、恋人なし)が校門で
抜き打ち検査をしていたんだが、アルカの姿に鼻血を噴いてぶっ倒れた為に所持品検査が
有耶無耶になり、勇者の称号を得るに至った訳だ。
「ななななっ!あのスカートもやっぱりアンタの仕業かあっ!!」
しまったぁ―――っ!そっちじゃなかったか!
アルカが2週間前の事件を思い出して、唯でさえ赤い顔を更に真っ赤にさせる。
いかん!完全にやぶ蛇だ。放っておけば犯人はバレなかったのに何てこった!写真の件
だけでなく、スカートの件の燃料を投下しちまった!
何とかアルカをなだめないと俺の命がない!
そうだ!ここは神聖なる教室。ここに入ってさえしまえば何とかなるんだった。
「そ、それはともかく、今はホームルーム中だぜ?迷惑かけちゃ駄目だよな。うん!」
「ねえ先生」同意を得ようと教卓の方を見たが、先生は姿を消していた。
あれ?インビジブル(透明化)の魔法実習か?いや、今の時間はホームルームだよな。
だったら先生は居るに決まってる。頼むよ。居てくれよ。俺、死んじゃうよ。
助けを求めるようにクラス内を見渡すと、ジト目で俺を見つめる眼鏡クンと目が合った。
ヒョロリとした痩せ型でいかにも真面目そうな眼鏡クンは、受け止めた俺の視線を黒板の
方へと投げ返す。視線を追って黒板を見ると、
――HRは自習なのです。一時間目が始まるまで静かにしてるようにね☆――
「バイスのせいで……バイスのせいで……あたしは“勇者パンツマンレディ・しましまピンク”
とか“身体を張ったエロ面白い前衛的ファッションの先駆者”とか呼ばれる事に……」
ヤバイ。エロ面白かったのは紛れもない事実だが、これはヤバイ状況だぞ。
ぶつぶつと恨み言を言うように黒いオーラをどよんどよんと漂わせるしましまピンク。全速力で
怒りゲージをチャージ中のご様子だ。
俺はダラダラと溢れ出す汗を誤魔化すように、爽やかな笑顔で教卓に立ち、様子を見守って
いる皆に向かう。前置き代わりにコホンと咳払いを一つ。
「あー。皆おはよう。こないだの写真は見てくれたよな?こんなに可愛らしい女の子がうちの
クラスに居てくれるなんて、とても喜ばしい事だ。この無上の喜びを皆で分かち合う事は、
俺達の学園生活の充実のために重要な事だとは思わないか?」
お世辞にも成績は良いとは言えないこのクラスの男子の殆どは、力強くウンウンと頷いている。
あ、女たらしのロステアも珍しくこの時間に登校してるな。楽しそうにニヤニヤして見物してやがる。
殺意のナントカに目覚めちゃった誰かさんのような今の形相からはとても想像もできないが、
アルカはクラスの男子の中ではナンバー1か2と言った高い人気を集めている。
確かに、ややツリ目ながらも子供っぽい丸顔に、喜怒哀楽の激しい性格。判りやすく、他人に
警戒心を抱かせないタイプだ。人気があるのも頷けるぜ。
その寝顔をスクリーンショットの魔法で撮影してクラスの男子達と分かち合うのは、幼馴染である
俺の趣味……もとい義務みたいなもんだ。
それにあの日の朝、いつものように迎えに行ったらアルカのお袋さんが言ったんだ。「まだ寝てるから、
写真でも撮ってバラ撒いてやって」と。
それが本気であったか冗談であったかは知らんけどな。
ともあれ俺は演説の反応を確かめる。
真面目なコルデ――さっきの眼鏡クンだ――は何も聞かなかったように一時間目の予習をしている。
まあ、コルデの反応はそんなもんだろう。最初から期待しちゃいないさ。
しかし、それ以外のクラスメイトのこの反応を見よ!
「サイッテー」
「セクハラよ、セクハラ」
「バイス、本人の承諾なしでの変態行為は慎んだ方が良いぞ?」
あれ?約半分の反応はあまり良くないぞ?しかも俺には割と甘いはずの委員長シェルティアまでもが
淡々と非難の言葉を俺に投げかけてくる。
……しまった。あの写真が女子の間にまで広まるとは計算外だった。
しかしそんな反応にもめげず、俺は爽やかな笑顔を保ったまま、背後の殺る気満々の仁王像に向き直り、
「な?良い評判だろ?これも全部アルカが可愛いから、」
「喰らえ――っっ!!」
「ひいっ!」
俺の頭のあった位置を、殆ど目に見えない速度で拳が通過していた。
辛うじて身をのけぞらせてイナバウ――じゃない、背中が攣った海老のような姿勢になった俺は、
通過したまま突き出されたアルカの拳を見て肝を冷やした。
アルカの拳――と言うより、拳から肘にかけて――には、着用している女生徒用の制服とは明らか
にミスマッチなゴツゴツしたガントレットが装着されている。
拳の先端部分にいかついトゲトゲがくっ付いているその過激な形状は、このガントレットが防御より
も、むしろ攻撃の為の物である事を物語っていた。
そんな物騒なものを何処からとも無く取り出したアルカだが、別に手品が趣味ってわけじゃないぞ。
いや、ある意味手品かも知れんが、俺達にとっては驚くべきことじゃないって事な。
「あ……アルカさん?もしかして、マテリアライズ(物質化)しやがっていらっしゃいますね?それって、
そのー、校則違反……」
「あ~ら?何を仰っているのかしら?残念だけど目撃者の一人も居ないんじゃ関係ございません事よ?」
ほ~っほっほっ!とか後に続きそうな、似合いもしないお嬢様言葉が凶悪な意味を帯びて教室に
響き渡る。
女子がアルカの味方なのは仕方ないとして、男子勢は――くそ、だめだ。
皆、気まずそうに下を向いて、何事も起きていないようにいそいそと一時間目の準備をし始めていた。
さすがはアルカ、脅迫の効果は覿面だ。
あ、ロステアの馬鹿野郎は横向いて口笛ピューピュー吹いてやがる。くそ、白々しいのが尚更ムカつくぜ。
「みんな!脅迫に屈するのか!?暴力に撒けたら同じ悲劇が何度も起きちゃうじゃないか!このまま
被害者が増えて良いのか!?」
「質問。同じ悲劇って、例えばどんな事よ」
ロステアがニヤニヤしながら聞いてくる。
そんなの決まってるだろうが!考えるだに恐ろしい。
「俺がアルカにボコられる」
「被害者って誰と誰よ」
「俺と……俺と……俺……かな」
「問題ないな」
「問題ないね」
くそ!なんて薄情な奴らだ!
しかし、これはマジにヤバイぞ。
俺が生きて一時間目を受けるためには、ここは何としてもアルカのご機嫌を取る必要があるってわけだ。
「待て待てアルカ。お前には不本意だったかもしれないが、これもお前の事を思っての事なんだぜ?」
「へぇ~え?」
冷やかな返事とは裏腹の笑顔が怖すぎる。
ええい!負けるか!ここは形振り構わず褒め殺しだ!
「いいか。お前の事は幼馴染の俺が良く知ってる。お前が本当はすげえ可愛いって事も、昔っから知ってる。
お前の寝顔があんまり可愛いから、思わず見とれちまったくらいだ!」
……判ってる。判ってる。何も言うな。頼む。
こんな見え見えの言い訳でこいつの怒りが解ければ苦労は――と、何だ?アルカの奴、意表を
付かれたようなビックリ顔で、しかも頬を赤らめてやがる。
なんて馬鹿――じゃない、単純な女だ。だが、これはもう一押しでイケるか?
「だから、魅力的なアルカをもっと皆に知ってもらいたくてだな……。そう、お前の寝乱れた姿とか、
枕を抱っこして寝てる様子とかを」
「……アンタの気持ちは良っく判ったわ」
いや判ってねえ!その引き攣ったように吊り上がった口元は、絶対に笑ってねえよな?
俺、何か間違えたか?アルカの顔の上半分が暗黒に包まれたように表情が読めなくなっているぞ。
どこだ?どこで地雷を踏んだんだ?
「そうねぇ……。アンタもあたしの為を思ってやってくれたんならしょうがない。一発で許してあげる」
「待て待て!そうやってすぐに暴力を振るうのを改めないとだな!お前もアルカザンって呼ばれる
のは嫌だろう!?」
「――――ッ!!」
ビキッと空気が凍る音がして、俺は思わず禁句であるアルカの本名を言ってしまった事に気付いた。
ああ、今のは判る。判るとも。完璧に地雷だ。
えーと、まったくもってそんな余裕は無いんだが一応説明しておくとだ、「アルカザン」ってのは
アルカの本名であると同時に、100年前の魔竜戦線の時代に大活躍した拳士の名前だ。
今は亡きアルカの親父さんが、その無敵伝説の大ファンだったそうで、アルカが生まれた時に
一も二もなくその名前が付けられてしまったらしい。
まあ、そこまではそう悪い話じゃないと思うよ。アルカもその名前を気に入っていて、親父さんの
希望通りに拳士としての修練も積んでいた。
まだ「戦技科」なんてものが無かった頃の話だって事を考えると、結構凄い入れ込みようだったと
思うぜ。
それに付き合わされるのは隣の家に住む俺。
と言っても、子供のときから両親は居なかったし、殆どアルカの両親に面倒見て貰ってたから兄妹
みたいなもんだったけどな。
そんな俺はガキ共のイジメに対抗するためにケンカの腕を磨いていたから、お互いに相手にとって
不足は無かったわけで……まあそんなに悪い関係じゃなかったんだろう。
オヤジさんが他界した後もその関係は続いたんだが……それは、アルカザンってのが“ドワーフの
爺さん”の名前、つまりドワーフ族におけるガチムチマッチョな男性名だって事が判るまでの話だった。
それ以来、アルカはアルカザンと呼ばれる事を極端に嫌い、もしもうっかり口を滑らせたりしたら……。
「前言撤回。一撃で楽にしてあげるね☆」
語尾のアクセントを可愛らしく上げて告げる言葉が、ニッコリと微笑んだ笑顔と相まって眩しいぜ。
いや、これはアルカのマジギレモードなんだよ!
メイデー!メイデー!ああ、もうだめかも。色んな意味で!
「死ねえっっ!!」
「ひいっ!」
ズバンッ!乾いた音を立てて空気が裂帛した。
まるでサンドバックを殴ったような音だが、アルカの拳が命中したわけじゃないぞ?
あれはアルカの拳が風を切る音、もとい突き出した拳に空気が圧縮され、更にそれを叩き潰した
衝撃波の音だ。
もちろん人間にはそんな力を発揮する事は不可能。それを可能にしているのが、アルカが装備
している「想具」と言う魔法の武器……って説明してる場合じゃねえ!死ぬ!死んじゃううっ!!
再び轟音を立てる拳を回避しつつ、猛然とダッシュ。もはやこの教室には救いの道はないようだ。
俺は一時間目の単位を諦め、廊下へと遁走すべく扉の方に駆け寄り――、一瞬の躊躇の末、
扉を開けずに右へと回避した。
廊下に走り出るものと思い込んでいたアルカは俺の唐突な動きについて来れず、思いっきり
空振りして――、
ガラリ――グシャ。
うむ。アルカの一撃はいつも冴えてるな。
想具で強化された拳は、扉を開けた一時間目の光学魔法の教師アラドの顔面に見事にめり込み、
「あ」と言ったまま固まっているアルカを他所に、廊下の対面の壁へとぶっ飛ばしていた。
「――ふむ。事情は概ね理解しました」
二つの鼻の穴にチリ紙を詰めたまま、苦虫をかみ殺したような表情でアラドは俺のフルネームと
共に処分を告げた。しかし頑丈な教師だな。
「バインアース・グリード、光学魔法の単位は――この分なら大丈夫ですね?それでは一時間目が
終わるまで生徒指導室で反省する事」
「待てよ!それ絶対判ってねえぞ!教師がそんな不公平していいのかよ!」
「私が女生徒を贔屓するのは今に始まった事じゃないでしょう」
光学魔法学科の教師、アラドは眉一つ動かさずにぬけぬけと言いやがった。
浅黒い肌のヤサ男――と言った印象のこの教師はいつもこの調子で女子ばかり贔屓しやがる。
その女子が大勢見てる前で美形な顔面から鼻血を垂れ流したのが屈辱だったのだろう。
しかし、問題はその矛先が俺にのみ向いていると言う事だ。
校則違反で想具を使ったのもアルカならば、アラドをぶっ飛ばしたのもアルカだ。なのに罰を受ける
のは俺一人。そんな理不尽があるかよ!
「堂々と問題発言するんじゃねえ!それでも教師かよ!」
「――にしても、よく撮れてますね。ごく普通のレンズを媒体にしているにも関わらず、イメージ固定
時の歪曲もきっちりと補正されています。何よりも被写体に対する集中力が素晴らしい」
俺の抗議を事も無げに受け流しながらアラドがまじまじと見ているのは、問題のアルカの
寝姿の写真だ。
うむ。アラドが褒めるのも当然、俺としても会心のショットが撮れたと思う。
学園ではまずお目にかかれないポニーテールを下ろした姿は誰の目にも新鮮だし、
すやすやと心地良さげな寝顔で枕を抱いて丸くなっている無防備なアルカの姿は、見慣れた
俺でも可愛いと思うぜ。
しかも、今回取った写真は寝崩れたパジャマの隙間からチラリと薄いピンク色の布が覗いて
おり、あー、なんだ、つまり、これを見た野郎共は須らくこの日のアルカの下着の色を知るに
至ったと言うわけだ。
ともあれ、アルカの写真をクラスの皆に見せたのは、実は今回が初めてではない。と言うか、
しょっちゅうやってる。
しかし今回の写真は、今までの最好評を記録した1ショットを超えるかも知れん。
無防備な寝顔も高ポイントながら、ほんの僅か、チラリとではあるがアルカのパンツが映り
こんでいるのだ。
もっとも、2週間前にはチラリどころかパンツ全開で登校したわけで、それに比べれば全然
大した事ないはずなのだが。
しかし、この“チラリ”と言うのが、その破壊力を増幅しているらしい。
パンツの世界とは誠に深遠なるものである。
「うわわっ!先生!見ないでーっ!」
真っ赤な顔をしたアルカが慌てて先生の手から写真をひったくった。こいつはこの調子で全て
の写真を回収するつもりなのだろうか?
そう言えば以前の写真も、こうやって殆どの写真を回収してのけたんだっけな。
どちらの写真もあまりにも好評な為、このクラスどころか他校にまで広まっているかも知れない
と言う事実は秘密にしておいた方が良さそうだ。
アラドはアルカの暴挙は意にも介せぬようにニコリと微笑んで俺に向かって言った。
「私の光学魔法の授業の成果が表れているようで大変結構。ご褒美として今回は特別に貴方の
意見を聞き入れましょう」
お、思わぬ高評価。よっしゃ!これでアルカも罰に巻き込む事ができるぞ。つーか、そもそも
アラドをぶん殴ったのはアルカなんだけどな。
「バインアース・グリード、並びにアルカザン・エイキューム。私の授業の間、生徒指導室で反省
している事。――2人きりでな」
「ちょ」
「はーい。わっかりましたー」
校則ぶっちぎりでマテリアライズしたガントレットが俺の首根っこをむんずと掴み、そのままずるずる
と教室の外へと引きずり出した。
女生徒と2人きりで生徒指導室!いけない課外授業の予感!?断じて違うぞ!これは死の予感だ!
どうやら俺はここまでらしい。じゃあな皆。命があったらまた会おう!
一時間目:光学魔法
――やれやれ、今日も相変わらず賑やかな事だ。
先生のお墨付きを得たアルカに連れ去られるまでの間、バイスは何度か僕に助けを求めるような
視線を送ってきた。
でも僕だって無意味にアルカを敵に回したいとは思わないさ。
何やら指導室の方から「きゃー」「いやー」「らめぇー」などと不穏な声が聞こえるけど、まあ問題は
ないだろう。
男女が2人きりでいる部屋からこんな悲鳴が聞こえてきたら、本来は教師がすっ飛んで行くところ
なんだろうけど、聞こえる悲鳴が男子のものである限りは放置するのがこの学園の方針らしい。
「やれやれ、今日も相変わらず賑やかな事だね。そうは思わないか?コルデ」
僕が今思っていた事をそのまま言葉にして話しかけて来る声があった。
視線を横に移すと、銀色の細工物のような髪が呼吸に合わせて控えめに揺れている。
シェルティア・ライザ・グランディス。このクラスの委員長だ。
腰まで伸ばした髪をサラサラと揺らめかすその姿は、まるで壁画から抜け出した女神様のよう。
髪と同じ銀色のフレームの眼鏡が良く似合う顔立ち。歳相応なあどけなさを残してはいるものの、
しかし、それでいて強い意志を秘めたように凛としている。
性格もその印象どおりハキハキとした態度ではっきりと物を言い、そうだね、一言で言えばクール
な才女と言ったところか。
ちょっと近寄りがたい冷たいイメージが付きまとっていて、クラスでも凄く人気はありながら、でも
声を掛けようとする男子は殆ど居ない。
そんな彼女が僕に話しているのは、特別僕が彼女と仲が良いから……だったら良かったんだけど、
僕が彼女と同じ班(パーティ)に所属しているからと言うだけの話だ。
「う、うん。僕もそう思ってたとこ。バイスも懲りないよねえ」
ああ、せっかくシェルティアの方から話しかけてくれたんだから、話を繋がないと。話題、話題、
何か無いかな。
「では、コルデ。続きを読みたまえ」
「えっ?はいはい。……あっ、その、ええと」
アラド先生、タイミング最悪だよ。しかもシェルティアと話すことばかり考えていて、授業なんて聞いちゃ
いなかった。大失敗だ。
こりゃ謝って勘弁してもらうしかないかな……。と、そんな僕の様子に、シェルティアがクスッと笑って
一言二言何か呟いて僕の教科書を指差した。
直後、開かれたままの僕の教科書の上で変化が起きる。長ったらしい魔術理論が展開されている
文章の一部分がポゥと光を放っていた。銀色の光は術者の魔法属性を示してる。
もちろん確認するまでも無くシェルティアの助け舟だ。ここを読めば良いのかな。助かったよ。
でも、シェルティアの好意は凄く嬉しいけど……。僕、カッコ悪いなあ。そんなことを考えながら教科書を
読み始めた。
――問題児が二人程少ない事もあり、アラド先生の講義は予定よりも若干早く終わったようだ。
あの二人が痴話喧嘩を始めて授業がストップするのはいつもの事だけど、それを見越して授業の
予定を立てる先生もどうかと思うよ。
「……では残りの時間は、そうだな。スクリーンショットの実技でもやっておいてもらおうか。バイス
に負けないようにな」
半ば自習となった教室が途端にざわついてくる。
僕はさっき指名されてからずっと続いていた緊張がようやく解け、机に突っ伏すように脱力していた。
そんな僕の背中に話しかけてくるクールボイス。
「コルデ、先ほどは済まなかったね」
「いや、こっちこそありがとね。危いとこだったよ」
「ん。まあ半分は私の責任みたいなものだからね。ところで、私の被写体になってもらえるかな?」
「え?」
突然の申し出に、一瞬何の事か判らなくなる。
ああ、スクリーンショットの実技か。……って、これはチャンスだ!
「あ!ああ、いいよ。そ、その代わりと行っては難だけど……し、シェルティアも、ぼ、ぼぼ僕の実技の
被写体に……」
「いいとも」
舌が回らない僕が皆まで言う前に快諾してくれた。
うう……嬉しいけど……カッコ悪い僕。
……ここまでの様子で丸判りだよね。うん、僕は彼女に特別な思いを抱いている。
彼女が傍に居るだけで暖かい気持ちになるし、彼女と話をしているだけで地に足が着いていないような
フワフワとした気分になってくる。
きっかけは良くある話さ。
何だったかな、僕らしからぬ凄く恥ずかしいミスをして、穴があったら入りたい、まさにそんな気分を
味わっていた時、カツカツと歩いて僕の目の前に立ったのが彼女だった。
彼女の眼鏡が反射する光が冷たく感じて、僕はすっかり萎縮してしまっていた。
でも彼女が僕の手を取ってフォローしてくれた時、初めて僕は彼女の顔をちゃんと見たんだ。
眼鏡の中の意思の強そうな表情がホワリと崩れて、僕に向かって微笑んでいた。
その笑顔は今でも僕の脳裏にはっきりと焼きついている。
眼鏡やクールな喋り方で冷たいイメージが付きまとって敬遠されてはいるけど、彼女はとても、とても
優しく微笑むんだ。
それを見てしまって以来、僕の心は彼女のものになってしまった。
あの笑顔だけが僕を生かしていると言っても過言では無い。こんな気持ち、判らないかな。
――流石にシェルティアは一発で完璧な写真を撮っていた。
眼鏡を外して僕に照準を合わせるようにレンズを向ける。片目を閉じて僕に集中するシェルティアに
ドギマギして、妙に緊張したような顔が赤いままの写真を撮られてしまった。
次は僕の番だ。こっちを向いて座ってもらう。
外した眼鏡を伸ばした手の先でしっかりと持って、シェルティアがそのレンズにぴったりと収まるよう
に位置づける。
もう片方の手には黒い石。消しゴムのような長方形を二周りほど小さくしたものを想像してもらえば
正確だろうか?
カタール・モノリス。略して“カタリス”と呼ばれるこのエーテル塊は汎用の魔法触媒として広く使われ
ている。
アラド先生が授業で説明していたスクリーンショットの呪文を詠唱。
手に持ったレンズの周りにポゥと水色の光が宿り、小さな魔法陣を形成する。
詠唱しながらも、その間は被写体に対する集中力を切らさない。これがなかなか難いんだよね。
スクリーンショットの魔法は術者が見たイメージをカタリスに情報固定する魔法なんだ。
詠唱を間違えまいとして被写体に対する集中力を絶やしてしまうと、途端にピンボケになってしまう。
レンズを使うのは、イメージの範囲を限定して成功率を高めるため。
普通は光学魔法の教材に含まれているレンズを使うんだけど、僕やシェルティアの眼鏡みたいに
愛用しているレンズがあるなら、そっちの方がやりやすいんだ。
普通スクリーンショットと言えば、魔法を代行してくれる「魔動機」を使うものなんだけど、この学園では
そう言った魔動機に頼らずに魔法を行使する技術を教えている。
いや、そもそもそう言った魔動機の基本となる魔法を教えるのが魔法学園(コーデック)の存在する
理由と言っても良いかな。
と言うのも、平和な今の時代、魔法ってのは戦闘技術ではなく生活を便利にする為に磨き上げられ、
生活の色々な場所に「魔動機」と言う形で浸透していて……
「ところでコルデ?」
「うん?」
モノローグの最中にも僕はシェルティアの写真を撮っていた訳で。
「その……もう良いか?既に10枚近く撮ってる気がするのだが」
「あわわっ!ご、ごめん!」
「いや、構わないが……じっくり見られるのにはあまり慣れて無くてね」
そんな事を言うシェルティアの顔は、珍しく微妙に赤くなっている。か、可愛い……。
思わずもう一枚写真を撮りたくなってしまう僕。そんな考えが後ろからの声で遮られた。
「よっ!お二人さん。オレも混ぜてもらって良いかい?」
自他共に認める「女ったらしのヤサ男」ことロステアだ。
シェルティアと一緒に居る時に声をかけてくるって事は……。
「昨日オンナに三又がバレちまってな。一挙玉砕、パートナーが全員いなくなっちまったんだよ」
「えー」
シェルティアの写真を堂々と撮れると喜んでいたのに、ちゃっかり便乗する気か。別に損する訳じゃ
ないけど、面白くないね。女の子にまとめてフラれたって言うのに、悲壮感の欠片もないし。
ロステアの事だから、どうせ頼めば大抵の女子はオッケーしてくれるだろうし、何も僕のささやかな
喜びに割り込んでくる事はないじゃないか。
と、僕の腕を肘で小突いてくる。そのまま僕にだけ聞こえる声で耳打ち。
「シェルティ嬢の写真、後でコピッてくれ。その代わり……」
乗った!方針変更だ!
「そ、それじゃあ仕方ないね。こっちは終わってるから、好きなだけ撮って良いよ」
さっきまでの悪態は何処へやら、椅子をシェルティアの横に置き、並ぶようにロステアの方を向く
現金な僕。シェルティアも仕方ないねと言いながら、動かずに座っている。
ロステアは教材のレンズを構えながら、フームとか言いながら難しい顔をした。
「ちょっと収まらないな。二人共もっと寄ってくれ……そうそう。もうちょい」
「こ、こうかな?」
ロステアに言われて仕方なくと言ったふうを装って、僕は座っている椅子をガタンとずらして
シェルティアに近づく。
うん。この距離なら良いツーショットになりそうだ。この写真は生徒手帳にしまっておこうっと。
「うーん、すまん。オレの集中力じゃ、ちょっと入りきれないんだ。もう少し、頼む」
ロステアの言葉はごく自然な事だ。
スクリーンショットの魔法は集中力が高いほど広範囲を撮影できるけど、逆に集中力が散漫だと
撮影範囲はグンと狭くなってしまう。
でも、これもロステアの気の利いたサービスと言ったところだろうね。
ついに、僕はシェルティアと腕が触れるくらいの距離までピッタリとくっ付いてしまう。
うわ……彼女の腕が触れてるよ。こら、僕の心臓、落ち着けってば。
チラリと横目で見ると、シェルティアもやはり少し赤面していた。そりゃそうだよね。この距離で
意識しないわけないよね。
ロステアには感謝だけど、でもさすがに息が詰まっちゃう。気まずくなる前に早く撮って欲しいけど。
「いいねいいね。よーし、撮るぜー」
ロステアの手の中でカタリスがブン、と振動する。
右手に持ったレンズと、左手に持ったカタリスが魔法力の糸でつながり、レンズに映ったイメージが
カタリスに流れ込んでいく。
この右手から左手への魔力移動が肝心なんだけど、正直こんなのは光学魔法だけでなく、あらゆる
魔法の基礎だ。
ロステアの成績が上の方じゃないからと言って、失敗するはずは――。
――パァンッ!
「うわあっ!」
突然、僕の目の前でロステアの左手のカタリスが音を立てた。
魔力を急激に流しすぎて一時的にオーバーフローすると、こう言う破裂音が響く事があるんだ。
そんな事を考えながら――僕の身体は椅子ごと後ろへと倒れていった。
「うわああっ!!」
今度はビックリの声じゃなくて、本気で慌てて声を上げてしまう。
崩れたバランスは立て直すのは難しそうで、僕はせめて後頭部を床にぶつけるまいと、身体を
捻った。途中でガキンと音がしたような……?
「うー、いてて……何だってそんなポカミスをするのさ」
「いやー、すまんすまん。集中は苦手でなー」
抗議の声を上げながら、僕は何とか立ち上がろうとする。
が、身体が妙に頼りない。床に手を付いて身体を起こそうとしてるけど、その床が……床が……
何だかふにふにして、柔らかくて、ぷよぷよして、まるで天国のような揉み心地と言うか、その、
ええと、いや、言わないで。頼むから、お約束だとか言うツッコミは勘弁して。
もしかしてさっきのガキンって音は、僕の椅子が倒れるときにシェルティアの椅子も引っ掛けて
一緒に倒れこんじゃったって事……?
そして、僕は後頭部を打つのを避けようと、横に身体を捻ったんだ。
その時、もしも僕の下にシェルティアが倒れていたら、さて一体どうなるでしょう?
恐る恐る視線を上にずらすと、そこには、普段のクールさが消し飛んだようにビックリ顔を真っ赤に
染めた天使がいたんだ。
ああ、やっぱりシェルティアは可愛いなあ。
そんな事を考えながら、僕の身体は平手打ちを喰らった勢いで数m後ろにすっ飛んでいた。
うう……やっぱりロステアの誘いになんて乗るんじゃなかった。
いや、やっぱり誘いに乗ってラッキーだったのかな。
良く判らないので、僕は考えるのを止めた。
もう、どうにでもな~れ。