「兄上、先日の一件が謹慎で済んだ事、まずは祝着……」

はなから弟に皮肉を浴びせられたバハラームは、心中の憤怒を何とか抑えた。
実際は祝着どころではない。
自分は何者かに陥れられて、後宮の女と密通したという濡れ衣を着せられたのだ。
下手をすれば廃嫡追放もありえたのだから、これは軽い処分とも言える。
だが、それも他聞をはばかる事件を隠蔽しようという意向の為であり、
無実が認められた訳では無い。

「あれは誰かに嵌められたのだ! 誰かにな」

ギロリと、その大きな目で睨みつけたバハラームであった。
その瞳は『お前の様な輩がやりそうな事だ』と言っているが、弟も一筋縄でいく人物ではない。
優越感を隠そうともせず、笑いながら切り返す。

「ひょっとしてこの私もお疑いで? まさかまさか!
 敬愛する兄上をお嵌めするなど、天地がひっくり返ってもありえませんよ」
「ふんっ!」

バハラームは心中、『天地という代物は案外簡単に覆りそうだな』と思いつつ鼻息を鳴らした。

「で、こうして離宮に逼塞してる我に何の用だ?」
「ちと、兄上にご相談がありましてな……」

謹慎中の人物と密会するのだから、それなりの事情があるはずだった。
部屋は人払いをしてあるが、アタセルクスの声音が低くなる。

「ファルハードの事ですよ、兄上」
「……」
「どうも、奴を支援している貴族連中の間で、
 王太子に推挙しようとする動きが活発になってきた様子……」

「ほーお」
「驚かれませんのか?」
「我も諜者ぐらい飼っておるわ。今更何を言い出すのかと思えば、そんな事か?」

今度はバハラームが勝ち誇った笑いをあげた。
しかし、その笑いはどこか乾いている。

「我とお前、二人とも父上の目の前でしくじりを犯したからな。
 よっぽどの間抜けでもない限り、誰でも今が好機と思うわ」

落ち着き払って言い捨てる兄に、アタセルクスは詰め寄る。

「ならばこのまま、むざむざと奴に王位を明け渡すつもりで?」
「たわけ、それとこれは話が別だろうが」
「では……」
「こうして謹慎中の身ではそう目だって動きも取れん。
 怒りが解けるまでは……のう?」
「そこはそれ、私が兄上に成り代わって事を運びます」
「ほほう」
「母の一門を始め、私の味方たちも動かします。
 そこに兄上と付き合いのある貴族が加われば、かなりの勢力になりましょうぞ」

さりげなくだが、弟は兄の策略を躱した。
案だけ出して実行は弟にやらせ、失敗した時の責めは彼一人に負わせる腹であった。
だが、弟もさる者。
連合するという名目で兄の後援者も巻き込み、
イザという時に傷を負うのは自分だけでは無いと言う事を明確にする。

「よし、やるか」
「二人力を合わせれば、なんのファルハード如き」

ようやく探り合いが終わり、二人は目を見合わせてニヤリとした。
年齢の近い三人の国王候補、その内一人だけが先んじたとなれば、
残りの二人が手を取り合うことも不自然ではあるまい。
ただし、先行する一人を引きずり落とすまでの臨時共闘だが。

「あいつにも女がらみの醜聞をでっちあげるというのは?」
「いや、金がらみの不始末は?」
「本人を罪に落とすのが難しければ、部下や後援者に失態を演じさせればいい。
 上手くそれに連座するように仕向ける手は?」
「王位を狙って、異国の王と提携しようとしていたという虚言を流せば?」

血を分けた弟を陥れるために、兄達の口からありとあらゆる策謀が講じられてゆく。
もし蛇王が聞けば、法と正義の擁護者を自称したカイクバードが末裔達の堕落を
さぞ嘲ったことであろう。
いつ終わるともしれぬ謀議の末に、どちらかからか一つの案が出された。

「奴をマーザンダラーンへ遠征させてはどうかな?
 しくじって失点を稼げば良し。悪疫にやられてくたばれば尚良しだ」


・・・・・・・・・


「本当に、マーザンダラーンへご出征なさいますの?」
「ああ、昨年の内戦を落ち延びた残党達が逃げ込み、再起を目論んでいるそうなのでな」

白磁の如き指に顎を撫でられながら、ファルハードは答えた。
隣に寝そべる美女へ、その腕を枕代わりに貸しつつ、交合の熱を夜風で冷やしている時だった。
近いうちに、彼は軍を率いて反逆者の鎮定に向かわなければならぬ身だった。
まだ内々の事であり公表もされていないのだが、相方はそれを知っていた。
けれども、今更それを問いただすには、彼はこの妖姫の性質を理解しすぎている。

「マーザンダラーンがどんな土地か、ご存知ない訳でもありますまい?」
「我も一応パルティア人なのでな。とりあえず一通りの知識は有るつもりだ」
「ならばお止しなさいませ。あそこは野獣と妖魔が巣食う、常人の住まぬ荒地。
 あんな所を鎮定しても銀貨一枚の得もありませぬ」
「それでも、王命とあれば行かねばなるまいよ」

ファルハードは嘆息しつつ言った。
マーザンダラーンとは、王都シャーシュタールよりはるか東北の方角、国境線付近にある地方の名である。
対外的には、一応パルティア領とされてはいる。
しかし、他の地方と異なり王都よりの行政官が派遣されていないばかりか、
正確な人口調査さえ行われた例が無い。
いわば、文明国パルティアの中にある異界である。
パルティアの国土の半分以上は荒れ果てた原野であるが、それでも彼の地に比べれば天国だ。

そこがどれほど恐ろしい場所かを理解するのに、判りやすい例がある。
国内で何か罪を犯した者がいたと仮定し、被疑者が逃亡したとする。
その場合、犯人がマーザンダラーンに逃げ込んだ事が明らかであれば、
ほぼ間違いなく容疑者死亡として事件は決着する。
わざわざ捜索の手を出す事はない。
骸骨には名前が書いていないからだ。

ただ、入り込んだ者が全員出てこられない訳ではない為、誰も内情を知らないわけではない。
それはそうだろう。
全員死ぬのなら、どうして恐ろしい場所だと皆が知るだろうか?
偶然に恵まれ生命は助かった幸運な者たちの中には、
人間の言葉を忘れる程の恐怖を味わう前に出てこられた強運の持主も居る。
そんな彼らが語る体験談は幼子を夜眠らせず、
『マーザンダラーンへ捨ててくるよ』と言われれば、相当の聞かん坊でも震える。
それがマーザンダラーンだった。

「敗軍の中で上がっていない首が幾つかあるが、それを放置しておく事も出来ん。
 後々に禍根となるやもしれんからな」
「仮に叔父上の残党が入り込んだとしても、マーザンダラーンですわよ?
 碌に兵も募る事も出来ますまい…… そもそも、本当にそこに残党が居るという証拠がありますの?」
「幾人かの地方官がそれぞれ上奏してきた。加えて廷臣たちの多くが今回の追討に賛成している」
「信用できますの? その地方官と廷臣たちは」
「それは我が判断するべき事ではない。父上が信用できると思ったのなら従うだけだ」
「ふぅ、シャーシュタールの絹のベッドでお眠りの王侯たちには、
 あそこがどんな所が想像さえ出来ないのでしょうね」

呆れた様に、女は逞しい腕枕から頭を擡げる。
そして真剣な目で、魔境へ進軍しようとする第三王子の瞳を見つめた。

「恐らく御身も、彼の地についての伝説を話半分にしか信じておられますまい。
 しかしお生憎様。『マーザンダラーンより風が吹けば百人死ぬ』と怖れられる彼の地。
 その恐ろしさの半分でさえ、生き残りの口からは語られていませんのよ」
「詳しいな、やはり蛇の道は蛇か?」
「はぐらかさないで下さいませ!
 ファルハード様、ここは仮病でも使ってお断りになるのが上策でございますよ」
「嘘は苦手だ」
「それは王者にとって美徳ではなく欠点ですわ」
「おまけに『出来ぬ』、『やるな』と言われると挑戦してみたくなる性分でな」
「このわたくしが言ってもですか?
「お前に言われたのなら尚更だ」
「もうっ! 結局わたくしの忠告などお聞きになる気は無いのですねっ!」

腹を立てたのか、唇を尖らせて女はそっぽを向く。
同時に、彼女の指はファルハードの太腿へ伸びた。

「痛っ、抓るな! シャフルナーズ」
「抓られる位なんですの、人の好意を無下になさって」

しなやかな肢体が、逞しく割れたファルハードの腹筋の上に再び圧し掛かってきた。
柔らかく、温かい女体の重みには苦しさは感じなかった。

「よろしいですわっ、ご自分の心の儘になさいませ。でもわたくしも思う通りにしますから」
「はっ、お前が思い通りにしなかったことが有るのか?」
「ぷんっ、知りませんっ!」

シャフルナーズの赤い唇が、ファルハードのそれを塞いだ。
相手の舌をねぶり、深い深い口付けを交わす。
しばしの内に、男の手がシャフルナーズの背に廻され、優しく彼女を抱き締めた。
彼らの夜は、まだまだ終わらない。
若さと情熱のままに、シャフルナーズは深く熱く相手の体を求めるのであった……


・・・・・・・・・


王宮の丸屋根の上に、一人と一匹が坐っている。
月は傾きかけ、あと一刻もすれば地平線から太陽が姿を現すだろう。
それは彼らの時間の終わりを告げる光。
そこから日没までの半日間、真っ当な人間達の時間が始まるのだ。

「ひい様や、ここは思案のしどころじゃぞ」
「……」
「お悩みなさるのは当然じゃ。
 大海の塩と男女の情は尽きぬ物、一夜の契りは万日の親交に勝るというからの。
 だが、世に星の数ほど男はおる。
 あ奴でなくとも、きっとひい様に相応しい公達も見つかるわえ」

老小鬼が自分に向けて繰り返す忠告を聞いているのかいないのか、シャフルナーズは静かに月を眺めていた。
闇夜に浮かぶ月の輝きは、まるで美女の横顔のようだ。

「よもや、まさか奴のマーザンダラーン入りを助けてやろうという心算ではありますまいの?
 あそこをカヤーニ家の輩に蹂躙させることは、全魔族が許さぬ。
 それこそ草木の一片に潜む小妖でさえ、爪牙を研いで迎え撃つじゃろう」
「……」
「ましてマーザンダラーンを攻めるとなれば、奴に肩入れするのはお父上へ弓を引くに同じじゃ。
 御身のご身分をもう一度考えて見るがよろしい。
 あ奴に身体をお許しになったとて、所詮は我らと奴らは相容れぬ。
 手遅れになる前に見限って、お父上に詫びを入れなされ」

老鬼にしてみれば、これを機に仇敵に何かと肩入れする主に心を入れ替えて貰いたかったに違いない。
蛇王ザッハーグ家とカイクバードの王家は不倶戴天の敵。
このままずるずると関係を続けても姫君に良い事があるはずも無い。
それゆえ彼は、言葉を尽くして生木を裂こうと試みるのだ。

「おーっほっほっほっほっほーーーっ……」
「!?」

だが、そんな守役の赤心をあざ笑うかの如く、妖姫は月夜に響く声で哄笑を上げた。

「爺や。お前は私よりもずっとずっと年嵩の癖に、智恵が全然回らないのねえ…… ほほほっ」
「むぅ?」
「要するに、ファルハード様がマーザンダラーンに攻め込まないようにすれば良いのでしょう?
 そんなのニ三手でひっくり返せる事じゃないの…… 耳をお貸し」

老小鬼の耳元でシャフルナーズが囁くと、途端に守役の顔が渋くなる。
皺だらけの顔を、諦めと呆れで一層歪めながら彼は主に言った。

「ひい様や…… コプトの諺に『小火を消すのにニール河の堤を切る』とゆうのがあるのをご存知かえ?」
「おほほ、ファルハード様のためになら、例え何万人巻き添え食って溺れようが構うものではないわ。
 早速準備に取り掛かるとしましょうか」

屋根を蹴り、暗闇を駆けて行く姫君の背を追うように、老小鬼も背の蝙蝠の翼を羽ばたかせて飛ぶ。
久方ぶりにシャーシュタールの王宮に闇の眷属が存在しなくなったのだが、
それに気が付いた者は誰も居なかった。


・・・・・・・・・


パルティアの西方に、ルームの地はある。
そこに栄えるルーム帝国は、パルティア王国を相手に世界の覇を争う大国であり、
互いに異なる文明を育み、文化の進歩を競い合う好敵手でもある。
ルームの首都、ビュザンティオーンの宮殿はシャーシュタールのそれに勝るとも劣らず、
『両方を目にせずに人間世界の美を語るのはおこがましい』とさえ先人は語ったものだ。

その偉大なる皇宮に設けられた花園を、ルーム皇帝の娘コリーナが侍女たちを連れて散歩している。
貴顕の血筋に生まれた女子としては、そろそろ配偶者を探してもよさそうな年頃なのだが、
皇帝が娘を愛するあまり、彼女を手放すのを嫌がっているのだ。

「本当に今日はいい天気ね」
「左様でございますね、皇女様」

雲一つ無い良い日和である。
見上げた空には、太陽と天空を飛ぶ鳥の姿しかない。
太陽に照らされた草花の芳しい香りが、コリーナにとって心地よかった。

「ねえ? あれは何の鳥でしょうか」

始めに気が付いたのは、侍女の一人だった。
皇宮の上空を廻るように飛ぶ黒いシルエットを、訝しげに指差す。

「鷹……かしら? 小屋から逃げた狩猟鷹かも」
「それにしては形が変じゃない?」
「紐でも引っ掛かっているのかしら? あの尻尾のように見えるのは」

太陽光の所為で、それを見つめ続けることが出来ないでいた侍女たちは、
誰もその正体を言い当てることは出来ないでいた。

「え?」

その姿が、急に大きくなってきた事に気が付いた時には手遅れであった。
小さく見えたのは、そ鳥よりも遥かに高みを飛んでいたからであり、
それは今、まるで獲物を見つけた鷹が急降下をするかの如く地上に舞い降りようとしていたのだ。

「きゃぁああああーーーーーっ!!」

少女達の絶叫が、花園に響いた。
先ほどまで地面に映っていた小粒の様な影が、彼女たちを覆うほどの広さとなって太陽光を遮る。
それは地上に降り立つと同時に、鱗に覆われ鋭い爪の生えた足で皇女の身体を捕らえ、
翼をはためかせて再び天空へと去っていった。

「だっ、誰かーー! 皇女様がっ!!」
「いやぁーーん!!」

怪物から何とか逃れようと身をよじったコリーナであったが、瞬く間に地上は遠く離れ、
慌てふためく侍女たちの姿が遠くなっていく。
生まれて初めて空から地上を眺める彼女には、まるで現実とは思えない光景であった。

「誰か、助けてぇ! お父様ぁぁーーー……」

ルームの皇女コリーナ、ドラゴンに攫われる。
その報を聞いた皇帝は直ちに軍を発し、なんとしてでも娘を救い出すよう厳命を下した。
行き先はドラゴンが飛び去っていった東の方角、パルティア方面である。


・・・・・・・・・


パルティアの北方、そこに広がるのは何処までも続く草原である。
耕作には向かないが、青々と茂る草を家畜に食ませる騎馬民族が興亡を繰り返し、
剽悍な遊牧部族を育んできた土地である。

「エフタウルの諸酋長たちよ、我が皆を集わせたる理由はすでに判っていると思う。
 先月に最初の犠牲者が出て以来、これまで三つの集落が襲われ、民は殺され家畜は奪われた。
 遺骸に残されていたのはパルティア人の鏃、パルティアの箙だ」
「オオゥーー……」
「我らも、天に召された同胞の死を悼む気持ちは皆に等しい。
 だが、悲しむと同時に我らにはすべき事がある。それは何か?」
「報復! 報復! 報復!!」
「その通りだ! 我らを侮り、同胞の血を流させた敵には報復こそ相応しい。
 今こそ我らはパルティアに報復し、奴らに思い知らせてやらねばなるまい。
 我らの血が、如何ほど高くつくかを!」
「その通り! その通り! その通り!!」

エフタウル人の長達を束ねる集会で、まさにパルティアへの報復が決議された。
もしパルティアの賢人のように智恵を思慮を兼ね備えた者が居たのならば、
犠牲者が出た包の側に残された蹄の後が不自然に少なく、
そして襲撃者の姿を見た生き残りが一人も居なかった事へ、何らかの疑問を呈したかもしれない。
しかし、智よりも武を重んじる遊牧民たちにとっては、そのような些事は問題ではない。
パルティア人の得物が残っていたという事だけで、証拠は十分なのだった。

「エフタウルの全ての戦士たちよ、我が旗に集え!
 我らの怒りを敵に知らしめるために! 我らが敵の嘆きで天地を震わせてやる!」
「カーン万歳! カーン万歳! 万々歳!!」

エフタウルの戦士たちの唱和が草原に響く。
彼らが誇る騎馬軍団を率いてパルティアへ侵攻を始めたのは、
この集会より数日後のことであった。


・・・・・・・・・


「皆の者! 朕はパルティアへの親征を決めたぞよ!!」
「だっ、大王?! どうか落ち着き下さいませ。
 パルティア国境は平穏、兵を発するの口実は見出せぬ今、何ゆえ兵を西に向けられますのか?」

朝議が始まっていきなりの勅語に、シンドの大臣たちは度肝を抜かれた。
隣国パルティアへの対抗心に燃える国王の意図は重々承知だが、あまりに唐突な宣言であった。

「昨晩、恐れ多くも朕が枕元に戦女神が立たれたのだ!」
「え?」
「煌く軍装に身を包んだ美しき戦女神が朕に仰せになった事には、
 『パルティアをシンドの領域に加えるは、そなたへ課される天命也。
 諸部族より攻め入られし彼の国が天命は尽きしぞ。遅滞無く兵を催し、彼の地へ入るべし』
 女神はそう仰せであった!」
「陛下、それは余りに……」

都合の良すぎる夢ではないかとの言葉を、大臣たちは飲み込んだ。
忠言の代わりに首を刎ねられては堪らない。
何とかして思いとどまらせる言い方はないかと思案するうちに、重臣の一人が口火を切った。

「大王、諸部族がパルティアへ攻め入るとの事であれば、
 我らはそれを確かめてから侵攻すればよろしいのでは?」
「左様、何も好き好んで我らが余所の軍を助けてやる事はございますまい」

群臣達はなんとかして国王の思い付きとしか思えないこの遠征を遅らせようとするが、
シンド王は地団駄を踏んで諫言を拒絶した。

「朕よりも速く、余所の軍がシャーシュタールを落としたらどうするのだ!!」

こうしてシンドの臣の思いも空しく、国王一人の夢に始まったパルティア遠征が始まるのであった。


・・・・・・・・・


「火急ゆえ、馬上にて御免被る!」

マーザンダラーンへあと数日という場所で、ファルハードは軍使を迎えた。
王子にして軍司令官への礼も省き、王都よりの使者は軍令を彼に差し出した。
それを開き、父の筆跡と勅印を認めた瞬間、余りの大事に彼でさえ震えた。

「ルーム! エフタウル! シンド! 三国がそろって侵攻を開始したというのか?」
「はっ! ルーム国境の烽火塞は、二条の青煙を焚き伝えております!」
「二個軍団か!」
「またエフタウルの来寇により、すでに国境近辺の村落が数箇所攻め落とされました!
 さらに私が王都を出立した時には、シンド王自ら率いる軍勢は国境の大河に集結を完了していたとの由、
 今ごろは東方領域へ侵入しているやも知れませぬ!」

軍使のもたらした報告により、歴戦の幕僚達の顔も青くなる。
まさに今、パルティアは未曾有の国難を迎えているのだった。

「でっ、殿下! かように時を合わせて来寇したということは、
 三国示し合わせての事としか思えませぬぞ?」
「まさしくその通り! つまらぬ内戦の残党狩りなどしている暇はない!」

実際、その三国が連携を取っていたという事実は無い。
その裏に在るのはたった一人の思惑であったのだが、そんなことを理解する方法は彼らに無かった。

「父王よりの指令は『遠征中止、北方辺境へ向かえ』だ。
 全軍、方向を北へ向けよ! 敵はエフタウルのハーカーンぞ!!」
「おおっー!!」

号令に従い、侵攻軍はその向きを変えて北方へと進んでゆく。
もとよりマーザンダラーンなどという異境へ入るのは将兵とても本意ではない。
全軍はむしろ嬉々として方向転換を受け入れる。
その様子を、一人と一匹は岩山の頂から眺めていた。

「ほらご覧、ファルハード様は進軍を取りやめて下さったでしょう?」
「けっ、わざわざ三国も動かして止めさせる程の事だったかのう」

シャフルナーズの目論見どおりに、パルティアはマーザンダラーン遠征を中止した。
しかし、それは遠征を思い留まらせるというより、
もっと甚大な危険を誘発させて緊急停止させるといった方法だったのだが。

「おほほ、ファルハード様は苦労多くして実りの無い遠征から逃れられ、
 妖魔たちは戦の犠牲に捧げられる民や兵士の魂と骸が手に入る…… どちらも損はないでしょう?」
「確かにの…… だがひい様、戦という物は全てが思い通りに行くものではないぞ。
 この戦で御身の思い人がくたばったらどうする心算じゃ?」
「ほほほっ! ファルハード様がこの程度の戦で死ぬような方であるものですか!
 でも、もしこの程度の戦で死ぬようなら、私が愛するに及ばぬ弱い方であったと諦めましょう」
「……やれやれじゃ」
「うふふふふ、おーっほっほっほほほほほほーーーーー……」

「ん!?」
「どうなされた? 殿下」
「いや、空耳だろう……」

荒野にそよぐ風の中に、聞きなれた笑い声が混じっていたかと思ったファルハードであったが、
今の彼にはそれを確かめる余裕は無い。
建国以来未曾有の大難を乗り切るべく、彼はまず北方へと向かわねばならなかった。
ただしまだ誰も知らぬ事ながら、今年はザッハーグ以来のパルティアに降りかかる災悪のなかで
最も酷い年という訳ではなかったのである。


(終わり)

 

 

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最終更新:2008年12月28日 07:48