パルティア西方の山岳地帯。
第三王子ファルハードは自軍を離れてそこに居た。
山地の麓には、現在もパルティア軍とルーム軍団がにらみ合っている。
先だって、ファルハード王子はマーザンダラーン遠征軍を率いて、まず北方のエフタウル族を叩いた。
痛烈な反撃を喰らった遊牧戦士たちは、来たときと同じように風の如く退いていった。
平時なれば、再び侵攻する力を奪うためにも追撃戦を仕掛けるところだが、
同時に三国を相手取って戦うパルティアにその余力は無い。
王都へ戻る間もなく、ファルハードは南に進軍方向を変え、対シンド戦に合流した。
シンドの誇る戦象部隊に苦戦を強いられながら、彼の率いる兵は果敢に敵本陣に突撃を繰り返し、
ついにシンド軍を撤退させることに成功する。
だが、それで終わりではない。
最後に残ったルーム軍が、迎撃に出たパルティア勢を破り西方国境を深く踏み越えてきたのだ。
不退転の命令を与えられていたルーム軍は、
『皇女を救出するまでは、いかなる犠牲を払ってでも探索を続ける』として、
パルティア側からの和平案を尽く突っぱねた。
敗れた西方守備軍を吸収してルーム軍と対峙するファルハードには、
最早決戦しか残されて居ないように見えた。
そんなある日の事である。
王子の幕舎に、婀娜めいた美女が密かに訪れたのは……
「あちらの洞窟でございますわ。ファルハードさま」
「間違いないか?」
「わたくしが御身に嘘を吐いたことがありまして? おほほ」
口元を手で覆いつつ、女は笑った。
その軽装は険しい山道を歩くには相応しからぬどころか、
首飾りや足環の如き装飾品までいつもの通り着けていた。
「洞窟に巣くう竜の元に、お探しのコリーナ姫は囚われております」
「ふむ…… どうやって奪い返すべきかな」
そんな彼の悩みを、シャフルナーズは一笑に付した。
「ファルハードさま? 御身がお持ちの戦鎚は、釘でも打つための道具ですの?」
「戦って取り返せ……か」
「左様でございます。ファルハードさま程の大英雄ならば、
竜の一匹も屠っておかねば箔が付きませんからねえ」
「簡単に言ってくれるものだ」
「後世の詩人どもは詠うでしょう。『ファルハード王子、苦闘の末に悪竜を倒し皇女を救う』と。
どんな素晴らしい詩が付けられるのか、今から楽しみですわ! うふふ……」
「ふん、我はもう行くぞ。今日の借りは、またいずれ返す」
「フフフッ、いつも楽しみにしておりますわ。愛しい方…… そしてご武運をお祈りしております」
妖しの姫に見送られ、ファルハードは洞窟の入り口へ向かう。
その背中が闇の中に消えていくと、岩陰から老いた鬼が姿を現す。
彼はまっとうな妖魔の一員として、敵であるカイクバード王家の人間とは馴れ合いたくないのだ。
「相変わらずじゃが、恐ろしい姫さまじゃのう」
「あら、どこがかしら?」
「自分が攫った皇女を大叔父上に押し付け、
カヤーニ家の奴輩をけしかけて身内を消そうとするのじゃもの。
その悪辣なる事、大王ザッハーグも呆れるわい」
「ほほほ、邪魔な大叔父を片付けられるのなら、父も悦ぶでしょう?」
「……しかし、大叔父上もザッハーグ王の血脈ぞ?
いくらマーザンダラーンのお父上と不仲とは言え、
身内を倒すに仇の片割れを使うというのは気に食わん」
「そんな固いことを考えているから、父はこれまで大叔父をのさばらせてしまったのよ」
「やれやれ」
「親類縁者で殺しあうのは王家の宿命。常人でさえ骨肉相食むものを、ましてや我ら蛇王家の者をや!
ファルハードさまも、皇女を救出して大戦を止めたとなれば、
その武勲は両国中に鳴り響きましょうよ!
此度の策は、どちらにとっても本当に得。おほほほほ……」
楽しそうに言ってのける姫君を、老小鬼は呆れた顔で眺める。
そんな守役の心境など意に介さず、妖姫は微笑んでいた。
「ところでひい様や。御身の愛しの君は大叔父上に勝てるかの?」
「勝てると思うわ」
「大叔父上はお父上も手を出すのをお控えておられた、ザッハーグの蛇の血を濃く引く方ぞ?」
「ファルハードさまとて、カイクバードの血を引く方よ」
「……」
老小鬼は肩を落とした。
ザッハーグの率いた妖魔の一族とカイクバード家の遺恨を、もう今更繰り返す気力は無い。
自分が扶育した姫君は、そういった事に囚われない奔放な性分の持主なのだ。
グ ォ ォ オ オ オ オ オ オ オ オ ゥ ッ !!!
洞窟の奥から、地を揺るがすかのような咆哮が轟く。
「始まったのう」
「ええ……」
「儂としては、共倒れになってくれるのが一番いいのじゃが」
「おほほ、そうお前の思い通りにはいかなくてよ?」
シャフルナーズの予言通り、老小鬼の望んだ様に事は運ばなかった。
ファルハードは見事悪竜を屠り、コリーナ姫の救出に成功した。
けれども、森羅万象全てを目論みどおりに進めるなどという事は、神ならぬ身には不可能なことである。
まさか、竜の巣穴から救い出された皇女が、竜殺しの王子に一目惚れするなどとは。
ましてや彼の王子に嫁げないのなら命などいらぬと食を断ち、
娘に根負けしたルーム皇帝がしぶしぶ婚姻を申し入れてくるなどとは。
奸智に長けた妖しの姫も予想しえなかった事態であった。
・・・・・・・・・
「グワハハハハッ!!」
「オホホ!!」
「にしても目出度い! ルームとパルティアがこうして姻戚となるとは!」
「その通り! これで西方は安泰! アルダシール王の御世も大磐石というものよ」
夕刻前から始まった婚姻の儀は、日が傾きかけてからも続いていた。
王侯貴族、廷臣から庶民に至るまで、王宮の庫から放出された酒や肴に老いも若きも酔いしれている。
掌中の玉とも言うべき皇女を送り出したルーム皇帝の悲嘆とは反対に、
大方のパルティア人は今回の婚姻を大歓迎した。
これで西方国境は一先ず落ち着くだろうと、ほとんどの臣民が安心したのだった。
だが、どんな慶事であろうと必ずしも全員が歓迎する訳ではない。
「くそう、読み誤ったか……」
「そういえば、貴殿はご嫡男を第一王子の側に仕えさせておられたな。
もし第三王子の側近に仕立てておれば、今頃は……」
「ふん! 今頃は祝宴の真ん中で大笑いしておったわい。
だが、そちらこそ娘御を第二王子の宮に仕えさせておったと記憶するが?」
「へへへ…… 幸いうちにはもう一人娘が居るのでね。
あと二三年もすれば年頃になる故、『ファルハード王太子』の宮へ送り込むのに不都合はないさ」
「ちっ! 儂もこんなことなら、無理してでもさらに二三人子を産ませておくべきだった……」
第三王子派以外の勢力、第一・第二王子を支持する貴族達にとっては、
めでたい婚儀も『余計な事をしてくれた』という気持ち以外の代物ではない。
西方の大国ルームの姫君を迎えたとなれば、おのずと宮廷での重みが違ってくる。
舅となるルーム皇帝も、自分の婿が一介の王子で終わるのを承知する筈がない。
パルティア王アルダシールが西方との決裂を覚悟しない限り、
これで次期王太子はほぼ内定したような物だった。
我が世の春の到来を予感する者達と、当てが外れて嘆く者達。
複雑な宮廷模様に彩られたシャーシュタールの宮殿に、婚姻の祝宴は続いていく。
そこにもう一人、今回の慶事を喜べぬ人物がいた。
「……ぷんっ」
「ご機嫌斜めじゃのお? ひい様…… 痛っ」
吹き付けられた葡萄の種が、老小鬼の額に当たった。
普段は辛辣な言葉を放つ紅色の唇から、今は八つ当たりの葡萄種が放たれる。
宴に浮かれ騒ぐ賓客どもの声を下に聞きながら、
シャフルナーズは宮殿の屋根に寝そべり、老侍従と干し葡萄を貪っている。
無論彼らが婚儀へ正式に招待される訳も無く、飲み物と肴は宴席から掠め取っての酒宴であった。
「のほほ、そんなにお怒りにならずとも。
雄獅子には雌獅子、雌蛇には雄蛇と言うではござらぬか?
パルティアの王子とルームの皇女、正に似合いのつがいでありましょう…… あ痛っ」
こりない守役に、また種がぶつけられた。
「まさか、こんな事になるとはねえ…… 失策だったわ」
「ヒヒヒッ…… パルティア一の知恵者であられるひい様も、たまには読み間違いをするのじゃのお」
「お前は嬉しそうねえ! 爺や?」
「まさか! ひい様の心中をお察しすると、爺の胸も痛みますわい」
老小鬼にとってはカヤーニ家の慶事などどうでもよい。
仇敵の祝い事は喜ばしくないが、長い敵対の年月のうちにはそんな事もあるだろうと割り切り、
一々邪魔をする気も起こらない。
むしろ、これを機に主があの王子と手を切ってくれれば、彼にはそちらの方が大慶事なのだ。
反対にシャフルナーズの心中は複雑である。
「そんなにお気に召さずば、あの小娘の首をちょちょいと締めてしまえばよろしゅうに?
魔族の掟などはなから無視のひい様なれば、それこそ赤子の手を捻るが如しじゃろうが」
(プッ!!)
「あ痛ッ!」
「それが出来ないから、こうして我慢してるんじゃないの!」
「ヘヘヘ…… ここでコリーナ皇女が死ねば、王太子を巡る争いは振り出しに戻るじゃ」
「抜かったわ。攫う相手はルーム皇妃にでもすれば良かった」
「ひょほほほほ。さりとて『同じ攫うならば、詩に美しく映える方が良い』と仰られたであろう?」
「……」
「仰るとおり、娘でなく母の方を攫った方が良かったかものう。
そして精悍な若武者に恋慕した皇妃を巡って、パルティアとルームの大戦が起こるのじゃ。
妻の心を奪った色男ファルハードに、皇帝の怒りが降り注ぎ、再び血の河が大地を濡らす。
それもまた楽しい一大絵巻であったろうが、今となっては空しい想像じゃ…… ひひ!」
「チッ! 本当にそうなれば良かったわ」
忌々しそうに老小鬼の言葉に応じたシャフルナーズであるが、
愛する殿方の未来を思えば余計な手出しも致しかねる。
いかに蛇王の血を引くとはいえ、彼女も男の行く末を守りたいという気持ちがあるのだ。
「まったくルーム皇帝の腰抜けめ! 娘の手綱一つ搾れないのかしら?」
「どこの国も、娘の恋心に親が悩まされるのは同じじゃのお…… 痛っ」
「黙りなさい。ファルハードさまもファルハードさまだわ。
この私というものがありながら……」
「そりゃあ真っ当な人間ならば、素性の怪しい妖魔の姫よりもルームの皇女を選ぶわな」
「……このままでは済まさないわよ」
シャフルナーズが立ち上がったのを見て、老小鬼の心に不安と期待が膨らむ。
その気になれば何をやらかすか判らない危うさというものが、この姫君にはある。
「一体、何をやらかす積りで?」
「最初に言っておくけど、お前の期待にはそぐえないわよ」
老小鬼にしてみれば、ないがしろにされた事を怨んで敵方に害をなしてくれればいいと思ったのだが、
さすがにそう上手く行くものでは無かった。
「女の恨みの怖ろしさという物を、ファルハードさまにもお教えして差し上げましょう」
それだけ言うと、妖しの姫は屋根を蹴ってその場から消えた。
残された老小鬼といえば、主の恨みの怖ろしさを味わうはずのファルハードに、
雄として僅かに憐憫の情を抱かぬでもなかった。
(続く)