抜き身を下げたまま、ファルハードは夜の王宮の廻廊を走った。
宮廷のしきたりでは、許可無く王宮内で抜剣した者は笞打以上の刑に処せられる。
たとえ王太子であろうと、それは例外ではない。
だが、パルティア王国の歴史を紐解けば、武装した戦士たちがこの廻廊を往来した例は、
両手で数えられる程度に存在する。
それも表ざたになった事件だけでだ。
そういう事例の原因は、ほとんど決まっていた。
「ぁ……、ぁぁ……」
入り口の門扉の前で、王の私室を守る宦官兵たちが腰を抜かして床に坐り込んでいた。
普段なら、『自分の許しなくここを通る事は出来ない』とばかりに
不必要な程に威圧的な態度で扉の脇に直立している輩らだ。
だが今は、まるで瘧に罹ったかの如く震えてうわ言を上げている。
「……」
何事が起こったのか聞き出す事は出来ないと、ファルハードは即座に判断した。
明らかに正気を失っている彼らと話をする暇は、残念ながら彼には無い。
彼らが何を見、何を聞いたのか、それは実際に王の間に足を踏み入れれば判る事だ。
躊躇わずに、ファルハードは王の間に入った。
胸がむかつく程の、腥い臭いが鼻を突いた。
「ぐっ……!?」
軍を束ねる将として、また一人の戦士として、その臭いを知らぬファルハードではない。
にしても、ここまで濃密なものは嗅いだ事がない。
剛勇を持って鳴る王太子ファルハードでさえ、思わず鼻を塞いだ。
撒き散らされた血と、臓の臭いだった。
さしもの彼も、一瞬足を止めたほどの異臭。
まるで、ここは処刑場だ。
ファルハードは、そんな感想を抱いた。
そして、芳しき花溢れる王の後宮において、そんなおぞましい想像を抱いた事実に愕然とする。
改めて臭いの元へと急ごうとしたファルハードだが、幸いな事にその原因は直ぐに突き止められた。
鮮やかなまでに赤一色で塗り替えられた王の私室で、
彼はこの事件の元凶である人物と顔を合わすことができたのだ。
「やあ、遅かったな。ファルハード」
「あ、兄上……」
赤く染まった王のソファーにただ一人腰掛け、父親の金杯で酒を啜りながら、
第二王子アタセルクスは弟に笑いかけた。
ソファーの周りには、切り裂かれた人間の身体が欠片となって散らばっている。
それも、無数に。
夥しい血臭の原因はこれだった。
首を刎ねられた女官の骸の隣に、頭蓋骨を割られて脳漿を溢した護衛兵の死体が転がる。
かと思えば、唐竹割りに切り裂かれた宦官の亡骸からは、臓物が床へと盛大に零れている。
両腕を切り落とされ、出血死したであろう侍従の青ざめた死に顔には、驚愕と恐怖が刻まれたままだ。
それでも、衣服や装身具から身元が判りそうな者は、まだ幸いと言うべきであろう。
犠牲者の多くは過剰なまでに斬り刻まれ、死後にニの太刀、三の太刀が加えられたであろう死体さえある。
王の間にいたであろう、少なくとも十数人の男女が無差別に解体されたことは確かだ。
日没までは花と香料の薫りに満たされていたこの部屋を、血で靴を濡らさずに歩むことは不可能だった。
余りに斬り散らかされているため、床に散らばる肢体を繋ぎ合わせても
何人分の遺体を再生できるか定かではない。
この徹底した殺戮の現場で、ファルハードの兄は涼しい顔をして佇んでいた。
彼が、この場に残った只一人の生存者であった。
手酌で葡萄酒の壷を傾け、彼の父親のものであった王家伝来の杯で喉を潤している。
洒落者で通った人物にしては珍しく、布地をだぶつかせた上着を纏う格好はどこか野暮ったい。
ただし、手足と言わず胴も頭も、全身隈なく鮮血にまみれれていれば、
どんな洒落た服でも意味がないであろうが。
「……兄上! 父上は何処に居られるっ?」
語気を強めて、ファルハードは兄に問うた。
それを確かめるため、急を知らされた彼は取るものもとりあえずここに来たのだ。
だが、真剣さが滲む弟の声とは逆に、おどけた態度でアタセルクスは床を一望する。
その視線は、王の間に転がる犠牲者たちの欠片に向けられた。
「父上か? はて……、どれだったかな?」
「貴様……」
「こう散らかっていると、どれが誰の体か判りにくくてなあ…… 後で奴隷に探させようじゃないか。
それより一杯どうだ? 今宵はこの手でお前に酒を注いでやってもいい位、我は機嫌が良いのだ」
軽く杯を持ち上げるアタセルクスに、ファルハードは剣を突きつけた。
「兄…… いやっ、もう兄とは呼ばぬっ!
弑逆者アタセルクス! 英雄王の名において、貴様は許しておけぬ!」
「ほう、兄とは呼ばぬと?
生憎だが、我はとっくの昔ににお前の事を弟とは思わなくなっていたよ」
「剣を取れ。せめて抵抗する権利ぐらいは呉れてやる」
「有り難いことだが、我の方こそお前ご自慢の戦鎚を取ってくる時間ぐらいはやる心算だぞ」
アタセルクスは、静かに立った。
そして足元に転がしてあった剣へ手を伸ばす。
既に数十本の骨肉を斬り割り、穿ち、砕いたその剣は所々に刃毀れが生じていたが、
そんな事は全く意に介さぬかのように、アタセルクスは構える。
丁度その時、血の水音を鳴らして数人の将官が入ってきた。
彼らはファルハードの侍衛たちであった。
第二王子の謀反とも、御前での発狂とも錯綜する情報の中で、
王太子を護衛する彼らを置いてファルハードは単身動いた。
それは己がパルティア随一の丈夫であるという実績に基づいた自負ゆえの行動だったが、
護衛が主に遅れをとっては彼らの立つ瀬が無い。
馳せるファルハードの背を追って、ようやく彼らもこの惨劇の場にたどり着いたのだった。
「で、殿下……!? これは……?」
「お前達は手を出すな。アタセルクスは、父祖カイクバードの名を穢す畜生に成り下がった!
同じ血を引く我の剣で、此奴は仕留める」
「カイクバードだと? とうの昔にくたばった者の名を呼んだところで、何の意味があるのだ?」
「なっ……」
「死人の威光を借りて力が増すというのなら、百万遍でも唱えるが良いっ。
クククッ…… 我にはそんなものいらぬわ!」
仮にも王家の一員の言とも思えぬアタセルクスの言葉に、ファルハードも侍衛も息を呑む。
聖賢王ジャムシードの娘を娶り、ザッハーグを倒した開国の英雄に対する完全な否定だった。
「アタセルクス、貴様…… 王家の誇りさえ捨てたか?」
「ジャムシードもカイクバードも糞喰らえだ!
今日からパルティアの臣民達は、新たなる神アタセルクスの名を唱えるのだ!」
「狂ったか…… せめて、これ以上神々と父祖を辱める言葉を吐かぬよう、その舌を切り取って清めてやる」
「纏めてかかって来なくてもいいのか? 我は何人がかりでも構わないぞ?」
「……ほざけっ!」
鋼と鋼がぶつかり、激しい金属音を立てる。
アタセルクスの剣は、軽々と相手の剣を弾いた。
驚愕が、ファルハードに沸き起こった。
力で兄に負けるというなど、夢想もしていなかったのだ。
彼は初手で相手の剣をはたき落してやるつもりで打ち込んだのだが、
逆にあやうく弾き飛ばされそうになった。
「っ!?」
「ハハハ、懐かしいなあファルハード」
「……」
「今でも覚えてるぞ、剣の稽古でお前にぶん殴られた日の屈辱はっ」
弑逆者とはいえ、この惨劇が一人で引き起こされたとは思えず、
事の背後にある物を聞き出そうという気持ちがあった。
彼が武術の鍛錬に参加したのは六歳の時だが、これまで一度も兄に遅れを取ったことはない。
一歳年下の弟を苛めてやろうと無理矢理稽古に誘ったアタセルクスを、
ファルハードは剣を習い始めた初日に打ちのめした。
始めた時点で、既に彼はアタセルクスよりも上手だった。
それが、二人が一緒に稽古をした最初で最後の日になった。
「あの頃から、お前は気に食わない奴だった。
バハラームの下種も気に入らなかったが、お前は遥かに気に入らん。
ちょっとばかりの才覚を鼻にかけ、父上の寵愛を盗みおったあげく、この兄を蔑ろにしおって!」
自分が長兄を敬っているかどうかは棚に上げて、アタセルクスは咆える。
今度は、次兄の側から打ち込みを仕掛けてきた。
初太刀の成り行きに衝撃を受けたファルハードだが、戦いの最中に隙を作る未熟者ではない。
訝しい気持ちを覚えつつも、身体は敵の攻撃に対応する。
激しい金属音が、立て続けに鳴った。
そして一太刀ごとに、ファルハードの疑念は増幅されていった。
(馬鹿な? これが兄の剣だというのか!?)
アルダシールの三嫡子のうち、アタセルクスは体格に恵まれた方ではない。
背は高いが、三人並べばその痩身は一目瞭然だった。
誰しもが羨むのはファルハードの偉容だが、
第二王子の痩身よりは、大柄なバハラームの巨躯の方が武勇を尊ぶパルティア人の気風に合った。
おまけに、これまで目だった軍功を上げるどころか、戦場に出たことさえないのだ。
ポロをするのは、手加減の上手な取り巻き立ちとだけ、
狩猟をすれば、あらかじめ下僕が捕まえ、飛び跳ねないよう足を傷つけておいた獲物にさえ矢を外すほどだ。
だからこそ、アタセルクスは武で名を上げることを諦め、政略と権謀で宮廷に地歩を固めようとしてきたのだった。
その兄に、パルティア随一の勇者といわれるファルハードは押されている。
けして巧みとは言えない剣技だが、込められた力が違いすぎる。
一撃受けるごとに、柄を握る掌が痺れた。
「ぐはははっは! いい様だなファルハード!?」
「う……」
「ほらほら、どうした? ご自慢の武芸を見せてみろよ?」
愉しそうに笑いながら、アタセルクスは切り込む。
反対に、ファルハードにはそんな余裕は無い。
いつの間にか、防戦一方に追い込まれていた。
並みの剣士なら闘志を失い、逃げるか加勢を求めてしまう状況だが、ファルハードは冷静に反撃の機を伺う。
そして、機は意外な形で訪れた。
「うおっ?」
「!」
撒き散らされた臓物をアタセルクスが踏み、そのぬめりに足を取られたのだ。
その隙を見逃すファルハードではない。
反射的に放った一閃が、アタセルクスの、今晩だけで十数名の身体を切り刻み、痛みつつあった剣の峰を撃つ。
高く澄んだ音を立てて、剣が根元から折れた。
「うぬ?」
「やぁっ!!」
続けざまに、敵に生じた隙── 肩目掛けて必殺の一撃を見舞う。
決闘を見つめる侍衛たちも、切り込んだ当人も勝敗は決したと思った。
「クククッ…… 惜しい惜しい」
「……ばっ、馬鹿な?」
しかし、肩に食い込んだ剣を素手で掴むのを見て、歴戦の彼ら全員が度肝を抜かれた。
ファルハードの剣は、致命傷を与えることはなかった。
鎖帷子で阻まれた感触は無く、彼には確かに肉を斬り、骨を裂いた手応えがあったにも関わらずだ。
いや、いかに防具で防いだとしても、鋼の剣でしたたかに切り込まれれば、衝撃は骨まで響く。
ましてやファルハードの剛剣を喰らって、何食わぬ顔をして抜き身を掴み取るとは。
ファルハードは、咄嗟に剣を引こうとした。
鋭利な刃を素手で握り締めたアタセルクスの指は、それで半ば切り落とされるはずであった。
だが、まるで大木の幹に打ち込んだ斧の様に、彼の剣は微動だにしない。
「ぬ……」
「おっと、逃さぬぞ」
驚きが、ファルハードの判断を歪めた。
武器が自由にならぬとなれば、手を離して敵と距離を取るべきであった。
一瞬だが、剣を引き抜くことに固執したために対処が鈍る。
それに気が付いた時には遅かった。
アタセルクスの手は、まるで襲い掛かる蛇の如くファルハードの首筋へ伸びていた。
「ぐあぅっ……」
「ククククク……」
怪力で喉を締め上げられ、ファルハードは呻く。
それを聞き、実に愉しそうにアタセルクスは嘲った。
「残念だなあファルハード…… 折角父上が呉れた好機だったのになあ」
「……!」
その言葉の意味を悟れず、ファルハードは床に目を向けた。
そして、アタセルクスの足元に転がっている骸が、自分とこの弑逆者共通の父親であった事を知った。
今日の日没までは、大王としてパルティアに君臨し、威勢を隣国にまで轟かせた男だったが、
現在は腰の位置で二等分された哀れな骸となって、臓を床に溢れかえらせている。
「ち、父う……」
「全く糞親父めが。最期の最期まで弟を贔屓しくさるかっ」
片手で弟の首を絞めたまま、アタセルクスは父王の遺骸を足蹴にした。
まるで毬のように、アルダシール王の上半身は壁まで飛ばされる。
暴挙に憤慨したファルハードは、何とかこの腕を振り解こうともがいたが無駄だった。
殴ろうが、蹴ろうが、アタセルクスの身体は痛みを感じないかの様だ。
「このまま縊り殺してやってもいいが……」
「うぐ……」
喉仏が潰れるかと思うほどの力が加わり、ファルハードの呼吸は止まりかけた。
そんな弟の耳元に口を寄せ、アタセルクスは囁く。
「知っているか、ファルハード? 人間の脳みそという代物は、奴隷も王子も同じ味なのだぞ……」
「!?」
「だが、父上に愛されて王太子にまでなったお前だ。バハラームとはまた一味違った脳髄をしているかもしれん。
その頭蓋を割って、瑞瑞しい脳みそを啜ってくれよう……」
おぞましくも信じがたい宣告であったが、本能的にファルハードは兄が本気であると理解できた。
しかし、いかに抵抗しようとも指は喉から外れない。
アタセルクスが纏う衣服の裾から、のたうつ何かが零れ落ちる。
呼吸を絶たれる苦痛の中、彼は兄の両肩を覆う衣の下で何かが蠢いているのを見た。
魔人と化したアタセルクスが、ファルハードの頭蓋を床に叩きつけるべく彼の身体を高く差し上げた、
その時だった。
高窓から一瓶の壷が投げ込まれ、アタセルクスの背にぶつけかる。
薄焼きの瓶が衝撃で割れた瞬間、途端に炎が上がった。
「グォォ!?」
剣で切り裂かれても平然としていた第二王子が、流石に悲鳴を上げる。
パルティアでも僅かな土地でしか湧かない『燃える水』を使った火壷だった。
素焼きの壷の中に厳重に分けて入れられた数種類の薬剤は、混合すると自然発火する。
一瓶に留まらず二つ三つ四つと、続けざまに火壷は投げつけられた。
アタセルクスの背中は、忽ちのうちに炎に包まれた。
「ふんッ!!」
炎熱に気を取られ、締め上げる握力が弱まったこの隙に、渾身の力を込めて兄の胸板を蹴る。
指を振りほどくと、ファルハードは即座に床を転がって距離を取り直す。
流れ落ちた人血で彼の服も朱に染まったが、そんな事を気にしている場合ではない。
獲物を仕留める直前で邪魔をされたアタセルクスが、高窓を睨み据えて怒鳴った。
「おのれぇ! どこの下郎だぁっ!?」
憤怒にいきり立つアタセルクスの誰何だったが、名乗りの声は上がらない。
代わりに高窓から響いたのは、侍衛たちへの叱咤の声だ。
「戯けどもめ! いつまで案山子の如く突っ立っておるのか!? 貴様らの主を助けんのか!?」
声は年を重ねた老人の声だったが、この場の一人を除いて聞き覚えのないものだ。
だが想像もし得なかった事態の連続で、我を忘れたかのように動けなかった侍衛たちが、
その声で我に返りった。
「王太子殿下を守れっ!」
弑逆者アタセルクスとファルハードの間に、彼らは割って入った。
侍衛たちは、火に焼かれつつある敵を半円に取り囲む。
けれども、彼らは自分たちが発した台詞が、アタセルクスの真の激怒を買うものだとは思わなかっただろう。
燃え続ける衣はそのままに、第二王子は弟の忠臣たちを睨む。
「我の前で、そやつを王太子と呼ぶかっ! ゴミめらが!」
一番手近な所に居る、つまり一番敵に近付く勇気のあった侍衛目掛け、アタセルクスは殴りつけた。
無論、侍衛も何の抵抗も見せなかった訳ではなく、敵に一太刀は浴びせた。
しかし勇敢なるその侍衛は、敵に掠り傷を負わせる代償に首をへし折られてしまった。
アタセルクスは侍衛から剣を奪うと、背中に切りつけようとした身の程知らずへとそれを振るう。
二人目は胴で身体を真っ二つに両断された。
彼らとて選りすぐりの腕利きであるが、数人がかりであっても、
この魔人との間の力の差を埋める事は出来ないのだった。
背中に炎を背負いながら、アタセルクスは次々と侍衛たちを片付けてゆく。
「……」
「このウスノロっ! とっとと逃げんかっ!」
兄と侍衛との死闘に気を取られているうちに、ファルハードの背中に老いた小鬼が回りこんでいた。
憎憎しげな顔でこちらを見つめる風貌には見覚えがある。
彼に付きまとう蛇姫の、老いた守役であった。
「貴様が子を孕ませたルームの小娘を連れて、今すぐ王都を脱出せよ! あれには絶対勝てんぞ!」
「それはシャフルナーズの指図か?」
「当たり前じゃ! ひい様の命でなくば、何ゆえ貴様らなぞ助けるものか」
言うだけ言えば用は無いとばかりに、老小鬼は飛び去ろうとする。
ファルハードが彼の背中を追って王の間から逃げ出したのは、
最後の侍衛がアタセルクスの手にかかった時であった。
「卑怯者めっ、家臣を殺されておめおめと逃げる気か!?」
「くっ……」
「何しとるっ! 遊んでいる暇はないぞ!」
思わず振り返りそうになる。
罵る敵に背を向ける屈辱に、彼は慣れていない。
だが、歯を食いしばってファルハードは耐えた。
「こっちじゃ!」
王の間を出るなり、老小鬼はファルハードの袖を引いて廻廊から中庭へ出る。
すると、入れ違の形で廻廊の向こう側から一小隊の兵士たちが現れた。
彼らは口々に『逆賊アタセルクスを殺せ! バハラーム様を王位に!』と叫びつつ、王の間へ乱入する。
「貴様の長兄の一派を焚き付けて、アタセルクスに当たらせたのじゃ。
当人は死んだとも知らず、またどうせ皆殺しになるんじゃろうが、時間稼ぎにはなるわい」
「急場を救って貰い、ありがたいと言うべきかな」
「けッ、礼はひい様に言え。既に輿と馬の手筈は整えさせてある。
王宮の東口から、シンド門へ抜けろっ。そこは安全じゃ」
背中に生えた蝙蝠の羽根をはためかせ、老小鬼は夜の暗闇に紛れて消えようとした。
抑え切れぬ疑念のあまり、闇に向かってファルハードは叫んだ。
「一つだけ教えろ! 兄は、アタセルクスは一体何になったのだ!?」
「ふん、おのれは史書もよく読まんのか?」
蔑みが含まれた声で、老小鬼は答えた。
「あれは蛇王じゃ!」
(終わり)