誕生祝いと即位祭を前に、大勢の諸侯や貴族が王都に詰め掛けた。
彼らも参加した狩猟祭は、近年稀に見る盛大なものになった。
それはそうだろう。
未来のパルティア王の名の下に催される、初めての狩猟祭に加わるという栄誉に、
無関心でいられる貴族がいるはずも無い。
痛風で身体が動かぬ老諸侯は、自分の名代に息子達を寄越して顔と名前を売らせようと画策し、
下級貴族は参加名簿に何とか名前を連ねられないかと、密かに賄賂を使う始末。
そうして国中から選りすぐられた千人の貴族、武人を引き連れて、狩猟祭は行われた。

主催者が招かれた者たちと決定的に違うのは、
参加者が狩る立場ならば、主催者は獲物を狩らせる立場であることだ。
それは丁度、戦士と将帥の立場に似る。
主催者は物見を放って獲物の場所を探させ、勢子たちに獲物を追い立てるよう差配し、
腕を鳴らして待ち構えている参加者達にそれを狩らせる。
参加者たちが不平を抱かぬように、猟果はなるべく公平にならなければいけないし、
見事な手腕を見せた者には賞賛の言葉を掛ける。
狩猟が練兵の一環であると言われるのは故無いことではない。
大掛かりな狩猟祭を成功させるのには、人士を率いる器量と才覚が必要だ。
この場で培う連帯感が、戦場での軍事行動を円滑にする。
初めてながら、それらを上手にこなした自信がある。
狩りに慣れた老臣たちに補佐されてだが、順調に進んでいたのだ。
あの時、勢子の列が突如として崩れるまでは。

悲鳴が上がった時、自分の心が浮き立ったことは否定しない。
それは、お付の年寄りたちに言われるがままに指図する立場に退屈していたからでもある。
何よりも、人に狩らせるだけで終わるのはつまらない。
自分も猟果が欲しかった。
別集団に加わって狩りをしている父王に誇れるだけの獲物が。

「し、獅子だぁっ! でかいぞっ!」

その声を聴いた瞬間、思わず従卒の腕から槍をもぎ取り、馬の腹に鐙を当てていた。

「殿下!?」
「お前達は来るなっ!」

風に乗って、唸り声と悲鳴が聞こえる。
勢子が何人か犠牲になったらしい。
彼らは通常武装をしていない。
貴顕の獲物を横取りしないようにだ。
それでも、普通の動物ならば人の気配と声に怯えて追い立てられる。
しかし、稀に人間の存在などに微塵も恐怖を感じない、異質な獣が登場する事がある。
そういう場合、彼ら勢子たちを待つ運命は、大抵悲惨なものになるのだ。

「ギャァァーーーッ!!」

勢子の断末魔が上がる。
巨体が飛び掛り、人間の小さな身体を倒す。
鋭い爪牙によって、柔らかい喉首はたやすく食い破られた。
獅子の口は、赤い血によって染まっていた。
大きい。
ひょっとしたら、王宮で一番大きな獅子の敷皮に匹敵する大きさかも知れない。
鬣を逆立ててこちらを見るその目には、人間に対する怒りこそあれ、恐れや侮りは感じられない。
よろしい、それでこそ自分が狩る価値がある。
槍を握り直し、馬ごと獅子に突撃する。
相手もこちらへ襲い掛かってくる。
その爪の鋭さは、研ぎ澄まされた短剣に劣るまい。
だが、先に攻撃が届くのは長さに勝る槍だ。
肉食獣の威勢に恐れをなし、馬が歩調を乱しそうになったが、巧みにそれを操りながら槍先を合わせる。
大きく開け放たれ鋭い牙が並ぶ獅子の口から、凄まじい咆哮が放たれた。
手の中で柄が強く撓る。
ヒビが走り、折れた。
壊れた得物には執着せず、直ぐに捨てた。
左に逸れる馬体に向かって振り下ろされた爪は、紙一重で手綱を引いて躱させた。
そのまま数十完歩走り抜けさせてから振り向く。
獅子の右眼に、槍の穂先が深々と突き刺さっていた。
賞賛すべき事に、まだその獅子は戦意を失っていなかった。
己に傷を付けた敵を振り返り、激痛に耐えながら睨みすえる。
その姿には感動すら覚えた。
腰から剣を抜く。
これには長さという利点は無い。
もう一度、馬を獅子に向かって駆けさせる。
先程の様な小細工はさせまいと、獅子は真正面から体当たりせんと向かってくる。
今度は手綱を右に引いた。
馬上の騎手は、左側の敵には不利になると言われている。
あえてそうしたのは、右の視界を失った敵の弱点に乗ずるのを良しとしない気持ちもあったが、
馬にのった人間は左にすれ違うという行動を、獅子が知っている様に思えたからだ。
もしかしたら、大獅子はこれまでに何人かパルティアの騎士を喰らってるのかもしれない。
だとしたら、恐るべき老練の強者ということになるだろう。
自分が狩る始めての獅子に、改めて敬意を覚えた。

前方に伸ばされた獅子の前脚が、自分の左足をかすめる。
同時に、相手の頸部に剣を滑らせていた。
肉を切り裂く重い手ごたえがあった。

 グ ァ オ オ オ ォ ォ ゥ・・・

獅子の口から、苦痛の叫びが漏れる。
深手を負い倒れこみそうになるのを、獅子は必死に堪えていた。
勝敗は決した。
最後の力を振り絞った一撃を躱され、さらに痛撃を喰らっては勝機は無い。
それでもなお屈しようとせずにいるのは見事だが、これ以上苦しみを長引かせる心算はなかった。
周りに集まってきていた兵士たちに合図する。
十本近い投げ槍が宙を飛ぶ。
獅子の身体にそれらが突き刺さり、平原の王は地に伏した。
右手に握った、獅子の血に濡れた剣を高々と掲げた。

「イスファンディアール王子、万歳! 古今に類なき技前なり!」

固唾を飲んで両者の戦いを見守っていた老臣、近侍、参加者一同が、若き王子の手腕を讃えた。
あと三日で、パルティア王ファルハードの嫡子イスファンディアールは十四歳になる。
彼の年齢は父王の在位年数と等しい。
これは、いまだ自分が負う宿命を知らぬ、幼き日の彼の記憶であった……


・・・・・・・・・


「お兄様? どちらにいらっしゃるの~。お兄様~!?」

妹の声が王子宮から聞こえてくる。
母親に言われて、自分を探しているのだろう。
しかし、姿を見せてやるつもりは無い。
ここは自分の秘密の場所だ。
ここに居れば誰の目に触れる事も無い。
唯一、眼前に立つ塔の窓から覗けば自分が寝転がっているのが見えるだろうが、
そこは女の幽霊が現れると言う話で、ここ十数年封鎖されたままだ。

「明日は、私達の誕生日なのよ!? 主役が居ないと始められないわ~!」

王宮の壁に跳ね返って、相変わらず妹の声が聞こえてくる。
聞く気は無くても、人一倍耳が良いせいで嫌でも聞こえてしまうのだ。
そう、明日は自分と妹の十四回目の誕生日だ。
そして、現パルティア王の即位記念の日でもある。
厳密に言うと、自分の父親が正式に戴冠式を行った日は二月ほど先である。
しかし、凶悪な弑逆者をその手で殺し、
諸侯将兵から『パルティア王ファルハード万歳!』との歓呼を受けた事実を優先し、
明日が即位の日として定められている。

だから、自分たちの誕生日は毎年即位の祝典と同時に行われる。
二つのめでたい祝い事を一遍にやるのだから、盛大にならない方がおかしい。
都大路には出店が並び、軽業師や芸人たちが腕を競うのだろう。
宮殿に招かれた貴族やその子弟には、パルティア王の勢威を見せ付けるが如き珍味佳肴が振舞われる。
王宮で働く官吏や士族たちには下賜金が与えられるし、
広場に組まれた櫓の上から、庶民たちに花や菓子や貨幣が撒き与えられる。
軽犯罪者に恩赦が与えられるのもこの日だし、重犯罪者もこの日を嫌がる事は決して無い。
恐ろしい獄卒たちもほとんど町に繰り出しているはずなので、拷問も処刑も行われないからだ。

誰もが明日を楽しみにしている筈だ。
去年の今日は、自分も次の日が待ち切れずにやきもきしていた。
本当なら、今年だってそうならなければいけない筈なのに……

『誰が出てってやるものか!』

王宮の屋根の上で、心中呟いた。
たとえ妹がどんなに呼ぼうと、今年の祝祭はすっぽかしてやる、そう決めていた。
妹は残念がるだろうし、母は悲しむだろう。
重要な式典に姿を見せなかったと、父は叱るだろう…… 一昨日みたいに。

「くそったれ…… 初めて狩った獅子だったんだぞっ」

思わず父親を罵ってしまった事に気が付く。
しかし、それだけ腹が立っていた。
王宮の屋根の上からなら、王都の城壁のはるか西方にある平原が望める。
その向こうに広がる狩猟場は、国王の許し無く立ち入る事の出来ない場所だ。
悔しさを噛み締めながら、沈み行く太陽で赤く染まりつつある地平線を見つめた。

こんな気持ちで誕生日を迎える気は全く無かった。
今年で自分は十四になる。
もう子供じゃない。
それを皆に認めさせる誕生日にするつもりだったのに……

右の肩をそっと撫でた。
痛みは無いが、思い出すだけで腹が煮える。
思い出したくもないが、忘れられそうにない。
もう一度、悔しさのあまり呟く。

「くそっ……」
「ヒョヒョヒョ、随分とお腹立ちのようじゃの?」

自分以外は梯子を使わなければ登れない屋根の上で、誰かに話しかけられたのは初めてだった。
丸屋根の陰に誰かが潜んでいるらしい。
思わず声のした方を睨む。

「誰だっ!?」
「ヒョホホホホ…… さて、誰じゃろう?」
「さては、物心ついく前からずっと僕を見張ってた奴だな?」

何時ごろ気が付いたか定かではないが、いつも誰かが自分を見つめている事は判っていた。
それを放っておいたのは、視線に害意を感じなかったためだが、
余りに昔から見られていたので慣れてしまった為でもある。
もともと王族として周りの意識を集める身であるから、
今日までそれを自分の生活の一部と見なしてしまっていた。

「ほほう、儂の気配にお気付きであったかえ」
「見張ってるだけで話し掛けてこないから、てっきり幽霊の類かとも思ったぞ」
「『見張る』だなどとお言い下さるな。
 若君がご誕生になる前から、爺はずーっと見守って差し上げてきたのじゃ」

相手の声はかなり年老いているようだが、聞き覚えは無い。
一体何者なのだろうかと興味を引かれた。
しかし、陰から現れた姿を見て、思わず口から驚きの声を出してしまった。

「へえ、随分としょぼくれた鬼が出てきたなぁ!」

背丈は自分の半分以下だが、頭でっかちな上に腰が曲がっている。
頭と身体の釣り合いが取れていないのは、赤ん坊みたいだが、
肌は浅黒くあちこちシミと皺があるし、酷く醜い生き物だった。
そして、それが人間ではない証に、頭には角が、背中には蝙蝠の羽が生えていた。
これまで自分が見た生き物の中で、一番不思議な部類に入る。
老いた小鬼は、目の前に歩んで来たかと思うと深々と自分に頭を下げた。
突然現れた相手の意図が掴めぬまま、はてどうしたものかと思ってた矢先、
老小鬼の瞳に光るものが溢れた。

「お言葉を交わすのは初めてじゃが…… ご立派に成長あそばされまして、
 爺は…… 爺は嬉しゅうございますぞ! グスッ……」
「鬼が涙ぐむなよ。気色悪いなぁ」

いきなり成長を褒められるのもこそばゆいが、鬼に涙まで流されては居心地悪いことこの上ない。
だが、人外の者と口を聞いているというのに、何故かそれを当たり前の様に受け入れている自分に
この時はまだ気付く事はなかった。

「ひえぃっ、口のお悪い所もそっくりじゃわ」
「誰にだよ? 一昨年卒中で死んだ乳母のドルリにか?」
「ありゃ口が悪いのではなく、頭と性根と素性と食い意地が悪い女じゃ! 若君があんなのに似る訳はないわい」
「へえ、判ってるじゃないか。僕も口うるさいあいつの事は嫌いだった」

小鬼が乳母を罵るのを聞くと、なんとなく相手に親近感が沸いてきた。
妹はそれなりに懐いていたようだが、自分が王宮の屋根に登る度に、蛇や蠍を見つけて遊ぶ度に、
ドルリはすぐ父母に告げ口をする嫌な女だった。
乳母が死んだ日を、自分はこっそり卒中記念日と名付けている。

「どうやら、お前は悪い鬼じゃないらしいな」
「ほう、お分かり頂けたかい」
「うむ。一応僕に敵意は無さそうだと認めてやろう。
 しかし、ずーっと僕を見てた癖に、なんで今になって声を掛けて来たんだ?」
「そこいらの事情は、いろいろとややこしくてのぉ。簡単に話すことは出来ませぬわえ。
 それよりも、宮殿にお戻りになって以来ここにお引き篭もりでは、さぞ喉も渇きましょう。
 よろしければ一口お飲み下されい……」

そう言うと、老小鬼は背負っていた皮水筒を差し出してきた。

「おっ、中々気が利くな」

栓を開けて、躊躇わずに飲み口に唇を当てる。
毒見をさせようとかは全く考えない。
こういう所も、父やドルリには軽はずみだと叱責された所だ。
それとも無意識のうちに、自分を殺せる毒など無いという事に気が付いていたのか。
丁度何かで喉を潤したかった所であり、威勢良く皮水筒を傾ける。
だが、一口含んだだけで吐き出してしまった。

「……ブハッ! こ、これは葡萄酒じゃないかっ!?」
「左様、ルーム皇帝から送られた、彼の国の銘酒じゃわい。
 久しぶりに王家の酒蔵に忍び込んでのう、国王しか飲めない代物をちょろまかして参った」
「げほっ、げほっ…… てっきり薔薇水だと思ったのに……
 僕はまだ酒なんか飲んだことないんだぞっ」
「おひょひょ? 何とまあ、獅子すらその手でお狩りになられる若君が、
 『まだ酒は早い、嗜まれぬ』と仰せか?」
「ぐっ……」
「若はまだ、蜂蜜入りの薔薇水の方がお好みなんじゃの。
 どれ、爺がもうひとっ走りして、厨房から調達して参りましょうか……」
「待てよっ!」
「はいな」
「これ位、僕はもう飲めるっ」

再び皮水筒に口を当て、口の中に零れる液体を思い切って飲み込む。
葡萄酒は冷えていたが、食道から胃に降りてくるあたりが妙に熱い。
それでも息継ぎを重ねながら、中に入っていた液体全てを喉の奥に流し込こむ。
空になった皮水筒を屋根の上に投げ捨てるが、飲み口から葡萄酒は零れなかった。

「げふぅ…… ど、どうだっ!?」
「お見事お見事っ! さすが若君じゃ。もう一人前の男子よのぉ」
「ふん、おだてても何にもやらんぞ」
「かように逞しくお育ちになられたというのに、ファルハードの奴ときたら……」

苦々しそうな顔をした老小鬼が、父親の名を呼ぶ。
こいつはあの事情を既に知っているらしい。
いや、おそらくもう宮廷中の奴らが聞いているだろう。
狩猟祭に参加した千人の貴族たちが、あんな出来事を黙っているはずが無い。

「若君のお腹立ちは当然じゃわ。あれで腹を立てねば男児とは言えぬ」
「そう思うか?」
「うむ、若君が御手で初めて獅子を仕留められたというのに……」

めでたい筈の気分を台無しにされたあの時の屈辱が、老小鬼の言葉で再び蘇る。
今回の狩猟祭では、自分は初めて狩りの主催者となったのだ。
これまでもずっと狩りを主催させて欲しいと父親に頼んできたが、
『お前にはまだ早い』との一点張りで実現しなかった。
自分では早いと思わなかった。
弓や槍の腕は武術師範が舌を巻くほどだし、馬術だって勝てない相手は父だけだ。
十三の誕生日を迎えた時と同じ言葉で断られたため、
母にねだってルームの祖父にまで口添えを依頼した。
外孫のために祖父は直筆の信書を父に送って寄越し、それが功を奏して一昨日の狩猟祭になったのだ。
それなのに……

「若輩者の分際で、一人で獅子に挑むとは軽率な!」

一喝を浴びせられ、肩を鞭で叩かれた。
『世継ぎの王子が御手で大物を仕留めた』
その慶事に浮かれる参加者達を静まり返らせた一言だった。
パルティアで王子に手を上げられるのは一人しかいない。
それは王子の父親、パルティアの国王だ。

「じゃあ、僕は何を狩れって言うんだ!
 このカイクバード家の王子に、ジャッカルでも相手にしていろとでも!?」

いくら嫡子とはいえ、面と向かって王に背く事は許されない。
あの場で言えなかった憤懣が溢れる。
嬉々として猟果を報告に行った自分を迎えたのは、思わぬ父の叱責だった。
確かに、世継ぎの身として危険に身を晒すのは軽率だったかもしれない。
でも、自分には獅子を狩れる自信があったし、事実狩れたではないか。
それなのに、あのように皆の眼がある所で叱らなくても良いではないか。
父親として息子の初めての獲物を喜んで見せてくれても良かったではないか。
目の前にいるのが胡乱な鬼族だという事も忘れ、父王への不満を口走っていた。

「偉大なる三王の血を引くお方を鞭打つとはっ。爺も腹に据えかねておりまする」

老小鬼はそう応じる。
まだこの時は、偉大なる三王という言葉を『ジャムシード』『カイクバード』
そして『ルーム皇帝』の三者と受け取った。
この身体には、地上でもっとも尊貴な血が流れている。
自分は大陸に覇を唱えうる両大国を繋ぐ、たった二人のうちの一人なのだ。
しかし、小鬼の指す三者は、最後の名前だけ違う。
けれども、まだ今日はその事を知る日ではない。

「儂が御身の前に姿をお見せしようと思い立ちましたのは、頃合と考えたからでございます」
「頃合?」
「左様…… 獅子すら屠る若君じゃもの、色々な事をお知りになられてもよい年頃じゃ。
 予想よりもずんと早いですがな」
「なんだよ、お前は僕の教師にでもなるつもりか?」
「ヒョヒョヒョッ…… まあ付いて来なされ」

蝙蝠の翼をはためかせると、老小鬼の身体が宙に浮く。
その手招きに応じたのは、初めて出会った魔族の者が、自分に何を見せようというのか興味があったからだ。
宮殿の上を、一人と一匹は移動した。
小鬼は飛ぶ事ができるが、自分は両脚で屋根から屋根へと跳び回る。
高さはまったく気にならない。
小さい頃から何故か高い所が好きで、ドルリに叱られるのも承知で屋根や塔に登って遊んだ。
どこの屋根から壁の上へ跳び移り、生垣の間を走り抜けて次の屋根によじ登れば良いか、全て判っている。
十四にもなって、こんな真似をしている事が発覚したらまた大目玉だが、
日が沈み夜の帳が降りかけた今、王宮の各所に点るのは仄かな灯りだけだ。
今ならこんな真似をしても誰かに見つかることは無い。
こんな時分に天井の上を駆け回ろうなど、話に聞くチーナの間者でもなければ無理だ。
でも自分には出来る。
並の人間なら足元すら覚束無い薄闇の中でも、次に何処に足を運べば良いかはっきりと見える。
むしろ、なんで妹を含めた周りの人間が出来ないのか不思議だった。
勢いを付けて踏み込んで屋根を蹴るときも、着地する時も音は立てない。
何故かは知らないが、生まれながらに自分はこういう事が出来た。

『おいっ! どっちに向かう気だよ?』

先行する小鬼の背中に、小声で問いただす。
幾ら素早く王宮を駆け回れても、空中を飛べる方が流石に速いので追いつけない。

『そ、そっちは父上の後宮だぞ!?』
『ほう? 後宮への入り方はご存じ無いかえ』
『ていうか、王子が後宮に出入りできるのは子供の頃だけで……』

自分の宮を持つようになった王子は後宮から出る。
それがパルティア宮廷のしきたりだ。
母や妹と会いたい時も取次ぎの者に呼んでもらうのが当然で、直接会いに入るなど思いもよらない。
嫡出の王子であっても例外は無い。
生まれる前に、後宮に王族が忍び込んだ事件があったらしいが、そんなことが発覚したら大問題だ。

『ひょひょひょっ! ご案じ召されるな。まだ若君は「若輩者の青二才」であろうが?
 そんな呼ばれ方をする子供が、ちと忍び込んだ所で咎め立てする筋合いがあろうかの?』
『……』

笑いながら老小鬼は後宮の壁を飛び越えて、敷地の中に潜り込む。
それなりに迷ったが、あの小鬼が何を企んでいるのかという疑念と、
青二才呼ばわりした父への反感が後押しした。
いざとなったら、見つからずに即座に逃げ出せる自信もある。
警護の宦官兵に悟られぬように、廻廊の屋根の上を小走りに走り抜けた。


・・・・・・・・・


パルティアの今上王ファルハードの前に、一人の女が跪いていた。
この国の女性にしては、背の高い部類に入る。
束ねてはいるが、ともすれば弾けて散らばりそうなほど癖の強い巻き毛をしていた。
腰には剣が下げられており、その身に纏うのは皮革の甲であった。
武装した身形りから、彼女が後宮内を警護する娘子兵である事が判る。
それは、ファルハードが立太子される以前にはパルティアになかった物だ。
彼の正妃であるルームの皇女が、母国から持ち込んだ制度だった。

「イスファンディアールの一件、既に聞き及んでいるな」
「はい、些か……」
「宮廷の者どもは、どう言っている?」

敷物の上に胡坐をかきながら、ファルハードは跪く女にそう尋ねた。

「国王陛下がお叱りしたのは、王者としての心構えをお教えするがため。
 誉めそやし、ご機嫌を取るしか能のない貴族連中には及びも付かぬ、ご立派な為さり様だと……」
「リラーよ、お前もそういった貴族連中の一員か?」

王の一言で、女兵士は言葉に詰まった。

「上辺でどう言っているかなどどうでもよい。余の知りたいのはその心底だ」
「……では、恐れながら申し上げます。
 此度の狩猟祭で殿下をお叩きあそばされた事、宮中で訝しまぬ者はございませぬ。
 その…… 海の如きご大度で知られた陛下とも思えぬ…… あ、余りにご狭量ではないかと……」

深く頭を下げながら、リラーは正直に言った。
君主に真実を話すのは、時に危険を伴う。
しかし、自分が仕える相手は、追従よりも真実を好むと知っている。
だから事実を口にする事ができたのだ。

「その他には?」
「イスファンディアール殿下は才気煥発。
 弓を取っても槍を取っても、人後に落ちる事はありませぬ。
 将来のパルティアを背負うに足る、末頼もしき王子であると……」

だんだんと、リラーの声が小さくなる。
公正で寛容な君主だとは知っていても、それに期待し過ぎるべきではない。
全て正直に答えてしまうべきか迷いつつ、彼女は続けた。

「それを、若さ故の大胆無謀な行動とは言え…… 王子の勇敢さをお認めにならず、
 あの様におっ、お叱りになったのは……」
「……」
「だ、大王が…… ご子息に、その……」
「仮にも大王と呼ばれる余が、十四にもならぬ息子の才覚に嫉妬を抱いているからだと?」
「私ではありません。周りの者がそう言っているのを小耳に挟んだだけでございます」
「お前はどう思う」
「はっ?」
「余の振る舞いが、イスファンディアールに対する妬心からだと思うか?」
「……だ、大王の御心を、どうして私め如きが量れましょう」

答えを口に出すべきか判らず、そうはぐらかした。
もとよりパルティアの国王と一娘子兵では、天と地ほどに身分の差が有る。
下手な口の利き方をすれば、不敬の罰は免れない。

「……リラー、面を上げよ」
「はっ」

額が床に着きそうなほど深々と下げていた頭を、ようやくリラーは上げた。
上目遣いに王の顔を窺う。
現在のパルティアを治める偉大な国王の、精悍なる面立ちがそこにあった。
イスファンディアール王子は、どちらかといえば父親似だ。
髪と眼の色を始め、ルーム人の特徴を濃く受け継いだ妹姫と比べて、
王子はパルティア人の特徴を色濃く残している。
やんちゃな子供の頃から、武勇に長けた父方の血のほうが強く出ていた。
それでも、その顔立ちは精悍と言うよりもよりも秀麗と呼んだ方が当てはまる。
その点は母親似とも言えるが、眼や鼻の形は美人として鳴らした父方の祖母に似たのだという話だ。
自分が生まれる前に亡くなっているので、リラーは王の母親を見たことがないが、
成人なされる頃には大層な美男子になられるだろうと、宮廷スズメたちは噂している。

「お前も、イスファンディアールがパルティアの王に相応しいと思うか?」

不自然な言葉だ、リラーはそう思った。
ファルハード王には嫡出庶出を問うまでもなく一人しか男児がいない。
相応しい以前に、王子が跡継ぎとなるのは決定した事項のはずだ。
それでも、王の瞳が自分を観察している。
臣下の虚実を尽く見抜き、偽りを許さぬ厳正な眼だ。
顔を伏せたい気持ちになるが、意に逆らうことは出来ない。
主君の視線を浴びながら、彼女は存念をそのまま述べた。

「殿下のご器量は大王譲り。いずれ玉座を継ぐに不足無しと存じます」
「……そうか」

大王は弱いため息を吐いたかのように見えた。
宮廷人たちが噂するように、息子に嫉妬心を抱いているようには思えないが、
王子の成長を単純に喜んでいる訳でもない事ははっきりしている。

「リラー」
「はっ」
「剣を置け」
「……はい」

命じられるままに、腰に帯びた剣を鞘ごと床に置く。
そして、その命令がどんな意味を含んでいるかは判っていた。
武器を持ってこそ、娘子兵は戦士だ。
『寝ている時でさえ、剣は手放すな』
ルーム人の娘子兵団長は、口が酸っぱくなるほどそう言った。
それがなければ、単なる女と同じになる。

「近う」

手招きされ、王の側近くに進む。
君主の坐る敷物の上まで近寄り膝を着くと、ファルハード王の節くれだった指が首筋を撫でた。

「ぁ……」

リラーは小さな声を上げた。

娘子兵団の設置は、パルティアのお転婆娘たちにある種の恩恵を与えた。
あまりのお転婆振りに、母親から『お嫁の貰い手がなくなるわよ』と言われた少女達も、
『なら後宮に行って娘子兵になるわ!』と反駁できるようになったのだから。
王都育ちのリラーも、男児に混じって裏小路で遊び廻る、非常に活発な少女の一人だった。
一口に後宮勤めと言っても、上は高級女官から下は雑役婦まで沢山ある。
持ち込まれてから歴史が浅く、活動も限定的な娘子兵の位置づけは曖昧な所もあるが、
王妃直属という立場から近衛兵並の給金は貰っている。
その代わり、兵士が宿営地から勝手に出歩けない様に、許可無く後宮を出ることも出来ない。
家族への手紙も検閲される。
何より、除隊するまで男性との接触の機会は殆どない。
娘の婚期を逃したくない両親なら、娘を兵士にはさせたくないだろう。

おそらく、生きていたならリラーの父親も認めなかったはずだ。
母親は今でも手紙で詫びてくる。
しかし、後悔していない。
あの時の家族には、それが必要だった。
西方遠征に従軍した父は戦傷が元で病気がちになり、その治療代、薬代は家の身代を傾けた。
生計を支える為に母と兄姉は懸命になったが、幼い弟妹たちを抱えた家族全員を養うのは困難だった。
父が死んだ時には、隣近所の住人から最後の借金をして葬儀の支度を整えた。
娘子兵の募集があったのは、丁度その頃だ。
ルームから付き従ってきた娘子兵は、帰国したり除隊があったりで欠員が増えた。
そこで、新たにパルティア人からなる隊を編成するとの触れが出されたのを知り、リラーは決心した。
物乞いまでに落ちぶれるよりは、口減らしを図るべきだった。

二人の兄たちは比較的すんなり納得してくれた。
今のままでは、嫁入りの持参金すら作る事が出来ない。
ましてお転婆娘の引き取り先を探すために積む金など、何処にあるというのだろう?
母と姉は反対したが、まがりなりにも家長となった長兄の説得で、泣く泣く承諾した。
自分を見送る事も出来ずに部屋の隅ですすり泣いていた母親のことを、彼女は今でも覚えている。
その後、似たような境遇の応募者たちを相手に選抜戦が行われ、素質の無い応募者が大量にふるい落とされた。
リラーは勝ち残り、見習い兵士として後宮に入ったのだ。

「いつもの事だが、そう堅くなるな」
「でも…… 私めの様な者に……」
「気にすることはない」

逞しい腕が、リラーを抱きすくめる。
ファルハード王は、まだ四十にもならない。
若くしてパルティア随一の勇者と称されたその身体は、王子時代から少しも衰えていない。
絹の布地越しに、リラーは厚く硬い胸板の存在を頬で感じた。
王の指が、自分の髪に触れる。
纏めるのに毎朝一苦労する、我儘な髪だ。
そんな髪質が面白いのか、ファルハード王はそれを弄り回した。

ふと、自分は幸運な存在なのかと感じた。
国王に抱かれたがっている女は、後宮に幾らでもいる。
いや、ファルハード王が国王ではなく、諸侯でも貴族でも、たとえ一騎士であっても、
抱かれたがる女には事欠かぬだろう。
鷲の様に鋭い瞳。
威厳に溢れ、精気に満ちた顔立ち。
そして獅子の如く鍛え上げられた肉体。
ファルハード王の姿こそ、パルティアの壮士の理想像と言っても過言ではない。
リラーも、初めて主君を間近に見たときには驚きを隠せなかった。
国王に比べれば、イスファンディアール王子はまだ子供だった。
そのうち父に似てくるのかもしれないが、父親の身体が獅子ならば彼はまだ猟豹だ。
逆にそれが良いという宮女や趣味人もいるらしいが。
いずれにせよ、国王は男として全く不足の無い人間である。
だが、自分はどうなのか?

「……」
「どうした?」

女の身体が震えたのを悟り、王は問うた。

「……我が身の分際も弁えず、王の御手に触れて頂く事が…… 改めて恐ろしくなりました」

自分には、女としての順応力が足りないのだろうか?
それとも相手の身分に萎縮してしまうのか。
そう思うが、こればかりはいつになっても慣れる事がない。
まさか自分が、王の指に触れられる日がこようとは、夢にも思わなかった。
王の権勢に逆らう事など、パルティア人には出来ない。
けれども最初の一度目の時に、なんとかして逃れるべきではなかったかとも悩むのだ。
後宮では、夢の様な出世物語が起こりうる。
取るに足らぬ奴隷娘がふとした拍子に王のお手つきになり、末には国母になった例もある。

だが、自分は娘子兵だ。
訓練開始前に叩き込まれたことは、『国王の眼に止まろうなどとは、夢にも思うな』だ。
そんな妄想は、いつか国王に見初められて寵を受ける様になり、
意地悪な宮女に扱き使われる日々から脱出したいと願っている、愚かな小間使いどもに任せていればいい。
リラーは、その訓戒をごく自然に受け入れた。
もとより自分の容姿に自惚れを持っていない。
顔は幼い頃からよく少年に間違えられた。
褒めて言えば羚のような身体とも言えるが、筋肉質だと言った方が早かろう。
曲げれば力瘤の盛り上がるニの腕、腹にうっすらと浮き出る筋肉の隆りは、
一般的に言う魅力のあるパルティア女性の像からは少々離れている。
その代わり、何時まで経っても国王に見初めてもらえない宮女や小間使いから
日頃熱っぽい視線を送られており、時折恋文さえ貰う。
それを苦笑いしながら受け取っていた自分が、まさか国王に抱かれる日がこようとは、
本当に夢想だにしなかった事だ。

息が詰まるほど力強く、ファルハード王はリラーを抱き締めた。

「恐れなくてもいい。余は気にしておらぬ」
「しかし、私は娘子兵でございます」
「余の立太子まで、パルティアに娘子兵はいなかった。
 故に、ルームはいざ知らず、この国には娘子兵が王に身を委ねてはならぬという決まりは無い」

ファルハード王はそう諭すと、女の身体を締め付けている革鎧の紐に手をかけた。
結び目が一つ一つ解かれる。
身に纏う鎧が緩むにつれ、リラーは娘子兵としての自分が遠くなるような気がした。

「陛下……」

ファルハード王はリラーの鎧を引き剥がし、床に抛り捨てた。
二人の唇が、そっと重なった。

(続く)

 

 

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最終更新:2008年12月28日 07:57