最初から、どうもこれはまた厄介ごとの匂いがする、という始まりであった。
夜番の同僚に引継ぎを済ませ、一日の勤めを終えた女騎士アリューシアが、
主人──マルゴット第四王女にいとまを告げに行った時である。
姫の寝室を訪ねると、マルゴットは寝椅子に横たわり、手足を侍女に揉ませて
くつろいでいるところであった。
アリューシアを見ると口元に微笑を浮かべ、持っていた扇でちょい、と手招きをする。
「アリューシア。こちらへ」
アリューシアは主のすぐ傍らへと歩み寄る。
マルゴットは今度は人差し指で「もっと側まで」と示した。
勿忘草の花のような青い瞳の目を細め、年下の可憐な王女は甘く緩んだ表情を浮かべている。
就寝前にやわらかく身体をもみ解されて、なんとも機嫌がよさそうであった。
寝椅子の横でアリューシアが慇懃に膝を折ると、マルゴットは上半身を起こして
その肩に手を回した。
耳元にキスをするように、そっと女騎士の亜麻色の髪に唇を押し付ける。
「部屋に戻ったらすぐに読んで。──これは誰にも内緒よ」
小声で囁き、するり、としなやかな指が掌に触れる。
気が付くと、掌の中に一片の紙切れを握らされていた。
忠実な女騎士は言われたとおり、誰の目にも留まらぬように
掌に紙を隠し持ったまま退室し、自室に帰ってすぐに折り畳まれていたそれを開いた。
紙にはこんなことが書かれていた。
半時間後に、こっそりと中庭の糸巻き小屋に来て。
部屋を抜け出したことを誰にも気付かれぬよう、
細心の注意を払うように。
「……………」
目を通したとたんに、アリューシアの顔には渋い表情が浮かんだ。
あの奔放な姫のこと、もうこれだけで胡散臭さ満載である。
(絶対、姫はまた何か企んでいる……)
心の中で警鐘が鳴る。
君子危うきに近寄らず。
しかし、そうとわかっていても主の手紙を無視する訳にはいかないのが、
従者のつらいところである。
アリューシアは着替えもせぬまま、命じられたようにこっそりと
人目を避けつつ糸巻き小屋へと向かった。
糸巻き小屋とは、中庭にある田園風景を模した一角にひっそりと立つ、
小さな建物のことである。
実際には『糸巻き小屋風』の建築物で、散策の際の休息所として使用している。
内装はそこかしこに田舎風の演出がなされ、質素で素朴なしつらいがなされていた。
中に入ると、そこにはすでにマルゴットが年配の侍女を従え、おとぎ話に
出てきそうな小さな木の椅子に座っていた。
「ちょうど良い時間ね」
マルゴットはにっこりと微笑んだ。
「誰にも見つからずに此処には来られた?」
「はい。……しかし、マルゴット様。これは一体どういうおつもりなのですか?」
アリューシアは姫の前に立つと、訝しげにあたりを見回した。
窓と言う窓はすべて分厚いカーテンで閉じられ、明かりが漏れないようにされている。
扉の向こうの支度部屋からは、複数の人間のざわめきが漏れ聞こえている。
それに……もうとっくに下がっていたはずの、マルゴット専属の衣裳部屋を取り仕切る
侍女長・カーライル夫人が何故こんな夜遅くに彼女の傍らにいるのだろう。
漠然とそう思っていると、マルゴットが件の侍女長にすっと視線を送る。
首のすらりと長い細身の婦人は、落ち着きある仕草で品よく頷いた。
「こちらのほうの準備も万端整ってございます」
「そう」
マルゴットはそう呟くと、獲物を見るような目つきでアリューシアを見定めた。
男の衛兵と変わらない深緑色のいかつい制服姿。
まだ一仕事あるのかと気を利かせて着替えを控えたのであろう。
生真面目で、骨の髄まで軍人気質のこの女は化粧っ気など皆無で、
同じ年頃の娘が持つたおやかさや装いによる華々しさなどからは程遠い。
しかし、それでも充分に人の目を惹き付けるのは、
彼女が美しい顔立ちと鍛え上げられた均整の取れた肉体の持ち主であるのも
さることながら、
その凛々しい表情が生み出す清冽な印象あるが故であろう。
矯飾とは無縁な彼女の人柄を表す力ある眼差しの深い藍色の瞳は、
涼やかな輝きを湛えて、見る者の目を奪う。
己の所有物である美しい従者を眺めながら、マルゴットは可憐な顔に
にやり、と悪魔の笑みを浮かべた。
そして、
「───やっておしまい」
と、一言。
「ひ、姫?」
応えた侍女長が二度手を叩いた。
その乾いた音が部屋の中に響くやいなや、隣の支度部屋からの扉が勢いよく開かれた。
待機していた侍女達が目をきらきらと輝かせ、一斉になだれ込んでくる。
────手に手にそれぞれの獲物を持って。
疑問を口に出す間も無く、アリューシアはあれよあれよと言う間に、その女達に囲まれて
しまったのであった。
*
そして現在。
化粧を施し、流行のドレスに身を包んだアリューシアはそのまま馬車に押し込まれ、
マルゴットと共に暗い夜道を進んでいた。
「何故私がこんな格好を……」
「しつこいわねぇ。まだ言っているの? 良いじゃない。似合っているわよ」
「似合う、似合わないの問題ではありません、姫」
アリューシアは険しい顔で主を見据えた。
しかし、その迫力を削ぐように、耳元でイヤリングが可憐に揺れ動く。
「随伴ならば、制服か、お忍びの場合でも動きやすい服装でよいではありませんか。
このような格好をする意味が解せないといっているのです」
「だって、あそこに一目で護衛だと分かる者を連れて行くなんて無粋なこと
したくないもの。
お前だって、少し考えたらそのくらいは分かるでしょう?」
「……………まあ、それはそうでしょうが…」
口を尖らせたマルゴットに対し、まだ納得いかないという顔で女騎士は呻く。
「……しかし、姫が『蜃気楼』の場所をご存知だったとは」
「驚いた?うふふっ」
「笑い事ではありませんよ」
アリューシアは重い息を吐き、がっくりと崩れ落ちそうになる額を手で支えた。
蜃気楼──
短期間のうちに次々と場所を移し、国の取締りの手を逃れている無認可の賭博場。
この国では賭博場自体は違法ではないが、この蜃気楼は犯罪の温床となり、
地下組織の資金源にもなっている悪質なもので、取締りの対象となっている。
第一王子の指揮の元、憲兵隊が躍起になって場所を突き止めるのだが、
いつもいざその場所に踏み込めば、既にもぬけの殻となっているのである。
手が届いたかと思えば、忽然と消える。
まさにその名の通り蜃気楼。治安を守る者の頭痛の種となっている場所であった。
危険で背徳的な香りがいかにもマルゴット王女の興味を引きそうな代物であるから、
そのような場所へ出入りすることが無いようにと、
護衛を任されているアリューシア達も重ねて注意を受けていた。
常日頃その素行の悪さを心配している一人である兄王子が、直接彼女に蜃気楼と
関わりが無いかを問い正したこともある。
その時にマルゴットがきっぱりと否定したこともあり、
側近一同安堵したのはつい一週間ほど前のことであった。
どうしてこの人はこうも人の目をすり抜けて何かをやらかすのが上手いのだろう。
今に始まったことではないが、アリューシアは軽い眩暈を覚え、眉間を押さえた。
ちなみに、馬車に乗った直後行き先を知った彼女とマルゴットの間で、
「行ってはだめです」「いいや、行く」という問答は既にたっぷりと繰り返されていて、
結局彼女が根負けする形で決着している。
「仕方ありません。今夜のところはお付き合いしますが、先ほども言ったように、
今夜限りですよ、姫。
私が知った以上、黙っていることは出来ません。
城に戻りしだい殿下に報告し、すぐに摘発の手を向けることになるでしょう。
そのことはご承知下さい。いいですね」
「お前だって知らん顔して楽しめば良いのに。面白いところよ」
半ばからかうように微笑んでマルゴットはアリューシアの顔を覗き込んだ。
「ご冗談を」
アリューシアはむっつりとして顔を背ける。
憤然とした横顔で、透き通った淡黄色の石のイヤリングがきらきらと光を放った。
「お前は本当に頭が固いわねぇ……まあ、いいわ」
マルゴットは鷹揚に扇を煽った。
「お前の好きにしなさい。どうせ私も今夜で最後にするつもりなのだから、構わなくってよ。だたし……」
優雅な仕草で扇を閉じると、すっとアリューシアの胸に突きあてる。
「その軍人丸出しの仕草と言葉遣いをさっさと何とかおし。今から行く場所で
不審がられてもいいの?」
こころもち顎を上げ気迫で己の従者を威圧しつつ、鈴を鳴らすような声を響かせた。
「…………む」
「お前には、私付きになる前に淑女としての宮廷作法も学ばせたはずよ。
貴族の令嬢として完璧に振舞いなさい。
今みたいな勇ましい口調の女が側にいたら、恥をかくのはこの私なのよ」
くぅ、と物言いたげな表情でアリューシアは唇を噛む。
その反応にマルゴットの細い眉がぴくりと吊り上がった。
「わかったわね?『ローズマリー』」
素性を隠すためにアリューシアはローズマリー、マルゴットはマリア、と
偽名で呼び合うことになっている。
馴染めそうにない名前で呼ばれ、アリューシアは嫌そうに眉根を寄せたが、
結局は逆らわず、しぶしぶと頷いた。
「………わかりました」
その言葉を聞くと、ようやくマルゴットは満足したように柔和に微笑んだ。
「それにしても本当にさっきは見ものだったわね。カーライル女史のあんなに
はつらつとした姿を見たのは初めてかもしれないわ」
そう言って、上機嫌でころころと笑い声を上げる。
「うう……」
返す言葉も無く、アリューシアは居心地の悪そうに視線を泳がした。
美への追求に対し並々ならぬ情熱を注ぐマルゴットの専属の衣装係たちは、
宮廷内でも、もっとも高い技術を誇る美の職人集団と称えられている。
その彼女たちに活き活きと腕を振るわれ、平素は凛々しい姿のアリューシアは今や
見た目だけは何処に出しても恥ずかしくない美しい貴婦人となっていた。
藍色の瞳の色に合わせたような瑠璃色の生地に、金のリボンの縁取りが入った豪華なドレス。
共布の長手袋はわざわざ誂えたかのように、二の腕から指先までを
しっくりと包んでいる。
いつもは下ろしたままの亜麻色の長い髪は、丁寧に結い上げられ
色白なうなじには、後れ毛が柔らかに揺れていた。
ドレスの肩と胸元は大胆に開き、腰はきつく引き絞られているため
身体の曲線はごまかしようも無く、胸なども半分近くその豊かな丸みを晒している。
着る者によっては下品になりかねないのに、決して過度ないやらしさを感じさせないのは、
アリューシア自身が本来備えている凛としたたたずまいのせいであろう。
マルゴットの指示により、街の中で待っていた馬車に乗換え、
辿りついたのは郊外のとあるこぢんまりとした建物だった。
「ついて来なさい」
「マリア様、此処は………」
お前の言いたいことはわかっている、という顔でマルゴットは頷く。
馬車を降りる前に目の部分だけを隠す仮装用マスクをつけたマルゴットが
落葉の混じった砂利を踏みしめて向かう先。
それは、尖塔に神の印を掲げる何の変哲もない、古ぼけた小さな教会であった。
「扉をノックせよ。そうすれば神の使いがお前を暖かく招き入れるだろう。
欲望の炎を三度振れ。そうすれば悪魔の使いがお前を魅惑の世界へ導くだろう」
教会の門の前に立ち、マルゴットが口にする。
意味を図りかねているアリューシアに向かって、彼女はいたずらっぽく笑った。
「蜃気楼への行き方よ。場所が変われば、言葉も代わるのだけどね。
…………ランプを高く掲げて、三度大きくゆらして頂戴。それが合図になるわ」
*
聖職者の衣を着た男に案内され地下への階段を下りると、確かに
マルゴットの言葉どおり、そこには別の世界がひろがっていた。
暗闇に浮かび上がった大きな空間には、無数の蝋燭の明かりと人とがひしめき合っていた。
アリューシアはしばし圧倒され、その場に立ち竦む。
教会の地下礼拝堂に隠し作られた、非合法の賭博場。
一攫千金を狙う人々の熱気と、それを楽しむ傍観者達のざわめき。
気だるげな脚捌きで人込みを縫うようにして酒を運ぶ女と、
所々で鋭い目を光らせる男。
揺れ動く炎に炙り出される煙草の煙と歓声と溜息。
全てを囲い込む冷たい石壁には極彩色で彩られた俗物的な模様の垂れ幕がかかり、
毒々しいほどに豪華に装飾されている。
赤い服を着た一人の道化師が、その前で器用にナイフを操り、ジャグリングを
披露していた。
アリューシアは気づかない事であったが、彼女がその場の全てのものに
目を奪われているように、彼女達もまたその場の注目を集めていた。
華奢な身体にバタフライマスク越しでもわかる愛くるしい顔立ちのマルゴット。
その印象によく合う淡いクリーム色のドレスは、屈託のない天使のような可憐な輝きを
いっそう極めるのはもちろんのこと、周囲の空気までもを明るく染めているようである。
一歩後ろにつき従うアリューシアの対照的な落ち着きのある色彩の装いは、
けっして主を差し置いて主張することなく、それでいて本人の魅力を十分に
引き出していた。
互いに引き立てあうように佇む美しい二人に、人々の視線が集まるのも
無理もないことであった。
やがて一人の恰幅のいい男が身体を揺らしながら人ごみから現れ、マルゴットに向かって
親しげに声をかけた。
「マリア。来たのかね」
つかの間の名を呼ばれ、マルゴットは優雅な仕草でそのほうを向いた。
「ええ、パパ。待っていてくれたの?」
口元に微笑を浮かべ、さも当然であるかのように、
呼びかけた初老の男の脇にするりと入り込む。
「嬉しいわ」
「今日はあの男は一緒じゃないのかい?」
純白の聖衣のでっぷりとした腹に金糸の帯を締めた男は、馴れ馴れしい手つきで
マルゴットの肩を抱き寄せると額に唇を押し付けた。
────これは一体どういう事かと、マルゴットの態度に衝撃を受けている
アリューシアの目の前で。
「ええ。パパが嫌がるから、今日は置いてきちゃった。約束どおりでしょう?」
挨拶のキスが済んでもなお、男はマルゴットを手離そうとはせずにその肩を撫で回す。
太い指にはめられた指輪の大きな黒オパールが動きにあわせ、マルゴットの肩の上で
神秘的な七色の光を煌めかせた。
「では、今日は私がマリアを独り占めできるのかな?」
「もちろんよ。そのつもりで来たんですもの」
「良い子だね、マリア。では、こちらへおいで」
言いながら男はアリューシアの方へと初めて視線を向けた。
色素の薄い好色な目で、じろりと体中を嘗め回す。
「お友達も一緒に……」
「まあ! パパったら。駄ぁ目」
マルゴットは男の言葉をさえぎる様にその顔を両手で挟みこみ、悪戯っぽい仕草で
強引に自分に向けさせた。
「二人きりでって言ったのはパパのほうよ?
それに、ローズマリーは少しゲームをしたいんですって」
可愛らしく語調を強めて男を制し、
素早くアリューシアには有無を言わせぬ力強さで目配せを送る。
「ね、そうよね、ローズマリー。あなたも楽しんできてね」
男は名残り惜しそうな様子を見せたが、それでもマルゴットに促されると
口元をだらし無く緩ませて彼女の肩を抱き、歩いていった。
「マル…マリア様! 待っ───あぁ」
ひときわ豪華な垂れ幕の掛かった扉の向こうに主が消え、
後を追おうにも追えないアリューシアの声は嘆息に変わった。
(ああ、ほんとうに、あの姫は……!!)
一人取り残された女騎士の心に、主に対する心配よりも先に、
じわじわと怒りがこみ上げる。
確かに、マルゴット様は自分が思っている以上に『しっかりしている』。
最早自分などが心配をする必要が無いほどに、世故に長けているという事もわかっている。
しかし、今のはなんだ。
あんな好淫な目つきのじじいに……。あれではまるで場末の酒注ぎ女ではないか。
塵埃に染まるのにも程がある。
常日頃、たとえ身分を隠して忍び歩きなさる時でも、王族の一員としての誇りと
気品に満ちた振る舞いをなさるようにと、何度も何度も何度も何度も何度も
口をすっぱくして言っているというのに。
────それなのに!
怒りのあまり辺りの事などすっかり眼中にないまま、扉の向こうに消えた主に
ひたすら恨み節の念を送っているアリューシアのわき腹に、すっと何かが触れた。
「見慣れない顔だね」
「──え?」
声をかけられて初めて、自分のすぐ横に身なりの良い若い紳士が立っているのに気が付く。
親しみのこもった優しい眼差しの碧眼が、息のかかりそうな距離でアリューシアに
向けられていた。
驚き慌てて後ろに身を引こうとしたが、さりげなく腰に回された腕で
それを阻まれているのを知り、その周到さに愕然となる。
「ここは初めて? 名前は?」
「…………ローズマリー」
「素敵な名前だ」
柔らかな金髪の紳士はにこっと微笑んだ。
嫌味のない、実に爽やかな笑顔である。
「初めてなら、僕がここを案内してあげよう」
親切そうな顔で、男はさりげなく耳打ちをする。
「……………ここでは君のような美しい人がいつまでも独りでいるのは危ないよ。
ほら、みんなが君を見ている。君を狙っているんだ。悪い男に捕まってしまうよ?」
アリューシアが辺りを見回すと、男は腰に回した手にぐっと力を込めた。
「心配しなくていい。君には僕がついていてあげる。
ここでは僕に刃向かえる男はいないからね」
引き寄せられて、男に身体を思いっきり押し付けることになってしまい、
ひっ、と悲鳴を上げそうになる。
それを慌てて堪え、アリューシアはただ頬を染めて、自分を抱き寄せる男を
まじまじと見上げた。
男は上品な微笑を浮かべたまま、優雅にアリューシアに視線を絡めた。
「僕の名前はレオンだ。よろしく、ローズマリー」
その様をどう受け取ったのか、アリューシアを注視していた男達が
諦めたような気配と共に、一人、一人と視線を外していった。
「色んなゲームがあるけど、最初は簡単なものからすると良いよ。
さあ、こっちにおいで」
レオンはあくまで優しく、しかし、社交慣れした紳士特有の強引さで
アリューシアの手を取ると歩き始めた。
人をすり抜けカードゲームのテーブルへと案内すると、アリューシアをそこに座らせて、
その背後に立つ。
後ろから彼女の肩に親しげに片手を添えつつ、もう片方の手で
自分のポケットからコインを出しテーブルの上に乗せた。
──アリューシアの気づかないうちに、さりげなくディーラーに目配せをして。
「あの、コインなら自分で……」
「いいよ。気にしないで」
レオンは気さくに笑って、肩越しにテーブルに一列に並べられたカードを指し示した。
「自分の好きなカードを五枚引いてごらん。
合計した数がディーラーのより高くなればいいんだ。簡単だろ?ほら、引いて」
勧められるままに自分の前に並べられたカードを選び取り、
次いで、ディーラーの引いたものと見比べる。
手持ちのカードの合計は41。
相手は35。
「……………勝った」
「ついてるんじゃない? もう一回やってごらんよ。ほら…」
その後も連続してアリューシアは勝ち、台の上にはみるみるうちに大量のコインが
積み上げられていった。
息つく暇も無く男の調子に乗せられたまま、時間があっという間に過ぎていく。
レオンという男はまるで手品師のように、次から次へと様々な娯楽を
アリューシアの前に差し出して見せた。
この国では、賭博場は貴族の社交の場でもある。
洗練された身のこなしに、気の聞いた会話。非の打ち所のない完璧なエスコート。
彼の態度は、社交界に名を連ねる、または、それに憧れを持つ女性ならば
十分に心を奪われるに値するものであった。
しかし、アリューシアにとっては居心地が悪いばかりである。
くるくるとめまぐるしく他の台にも連れまわされ、同じように勝ちを経験させられ、
淑女としての振る舞いを心がける緊張感も相まってそろそろ疲れた、と感じた頃。
ようやくアリューシアは案内されるがままに低いソファに腰を下ろし、一息をついた。
改めて人ごみを見渡してみると、なるほど宮廷で見かける顔がちらほらとある。
ここが違法かどうかなどは純粋に賭博を楽しむものにとってはあまり関係が
ないのであろう。
マルゴットのようにマスクをつける等して積極的に身元を隠している者が
意外に少ないのは、ここにいる皆が秘密を共有する共犯者意識があるからか。
「飲む?」
運ばれてきた酒を取り、レオンはアリューシアに差し出した。
「ええ…ありがとう」
唇をつけると、だいぶ強い酒である。
それに気が付き、飲むふりだけにとどめた。
レオンはごく自然にアリューシアの横に腰を下ろしていた。
ずいぶんと馴れ馴れしい男だが、一方で彼といれば場に溶け込むことができ、
その場しのぎにもなる。
こういった社交の場では、こちらが淑女として振舞っている以上、
多少はこのような態度を取られるのは仕方が無あるまい。
ふいに視線があうと、レオンはすぐさま優しげな微笑をアリューシアに返してくる。
(あの男とは正反対のような男だな)
アリューシアはふっと、冷淡な印象を与えさせる薬師の姿を思い浮かべた。
(これほどではなくても、あの男ももう少し愛想よくすればいいのに……)
そんな事を少しだけ考えてから、アリューシアはちら、と視線をある所に向けた。
幸いにも彼女の座る位置からは、先程マルゴットが入っていった部屋の扉がよく見えた。
(ここにいれば、姫が扉の外に出てきた時すぐに分かる)
今までの経験上、自分に目配せをした姫のあの様子なら、側についていなくても
問題は無いはずである。
喜ばしい事かどうかは別にして、あんな中年男の一人くらい、簡単にあしらえるお方だ。
きっと、なにか考えがあってのことなのだろう。
しかし、頭の中では冷静にそう判断していても、やはり気に掛けてはいたい──
「楽しい?」
「えっ? ──ええ、楽しいわ」
レオンに語り掛けられ、アリューシアは慌てて笑顔を繕った。
「ここは楽園だよ。欲しいものは何でも手に入る」
そう言うとレオンは、するり、とアリューシアの膝に手を伸ばした。
「ねぇ」
アリューシアの横顔を眺め、彼は声を落とした。
「君と一緒に入ってきたあの娘、君の恋人なの?」
「───えっ?」
「さっき、メギンチ卿があの娘を連れて行ったとき、ものすごい怖い顔で睨んでいた。
今も気にしているんだろ」
(私と姫が?……………なんと馬鹿げたことを)
姫にまで及ぶ非礼な憶測に気分を損なうが、もちろん顔に出す訳にはいかない。
アリューシアはあいまいに笑った。
「メギンチ卿……、彼は何者なの?」
「この『蜃気楼』の元締めだよ。彼は前からあのマリアって娘に執着していた。
今までは連れの男がいて、手は出せなかったみたいだけど
あの娘もまんざらじゃないみたいだった。
今日は連れの男はいないようだし、君も諦めたほうがいいよ」
気がつけば、いつの間にか必要以上に男の体が密着してきている。
アリューシアはさりげなく体をずらして距離を取ろうとしたが、レオンもすぐに隙間を
詰めてきた。
「僕なら君を慰めてあげられるよ」
布越しに太腿をなぞりあげられ、アリューシアはびくっと身を竦めた。
その反応に初々しさを感じたのか、レオンは優しく囁いた。
「こうされるのは、慣れていないの?」
かちかちに固まったアリューシアの身体をほぐす様に、掌でさすり上げていく。
「意外だな。君みたいな美人が、男を知らないなんて………」
手の中でぎこちなく身を固める小鳥を可愛がるように
楽しそうに身体に触れるレオンに、アリューシアは何も言おうとはしなかった。
──否。
紳士淑女の艶かしい駆け引きなどに免疫の無いお堅い女騎士は、
今までに経験したことの無い事態に、完全に言葉を失っていたのである。
(いったい、どうしたらいいんだ────)
経験も無いのに、咄嗟にいい対処法が浮かぶはずも無い。
剣を向けられるのとは全く異なる種類の危機を前に、頭の中は空白に近かった。
「あの娘のことは、僕が忘れさせてあげよう」
蜘蛛の糸で絡み取るようにねっとりと、レオンは身体を乗り出した。
(蜃気楼 中編へ続く)