「ローズマリー」
整った顔に甘い表情を浮かべ、レオンが熱っぽく囁く。
耳元を男の息が掠めた。
アリューシアの身体の横に手をつき、覆いかぶさらんばかりに身体を傾けてくる。
顔の接近をこれ以上は避けようと仰け反るあまり、アリューシアは後ろに
倒れそうになった。
だが、危ういところで後ろ手を付き、なんとか身体を支える。
ここでソファに仰向けに倒れ込んだら女として一貫の終わりだということは、
経験が無くても本能でわかる。
普段の振る舞いが許されるのならば、もうとっくに「ええい! 離れろっ! 破廉恥な!!」
と相手を張り倒しているところである。
いや、そもそも言い寄ってくる男には毅然とした態度で片っ端から追い払い、
相手にこんな状況にさえ持ち込ませないのが、普段のアリューシアだ。
こんな女々しい──淑女の振りなどさえしていなければ──
腰の曲線を探るように撫でられ、アリューシアは震え上がった。
マルゴット様に言わせれば、こういう『戯れ』は社交界での男女の優雅な遊びみたいな
ものであって、それを如才なくこなすのが淑女の嗜みだそうだが、自分には無理だ。
いつもこんな事をされていて、姫はよく平気な顔をしていられる。
しかも、角を立てずにやんわりとあしらえるのだからすごい。
戯れだろうが……いや、戯れだからこそ私には我慢ができない。
────こんな、好きでもない男に身体をべたべた触られるのなんて!
「レオン、待って。あの…………」
アリューシアは困惑の表情を浮かべ、レオンを見上げた。
しかし、美しい貴婦人の弱々しい拒絶の様は、かえって男を悦ばせるばかりである。
うまくいなす言葉も浮かばずただ戸惑い、困ったように身をよじると、
「恥ずかしいのかい? 可愛いね」
男の声はいっそう甘く、濃密になる。
目の前にいる子ウサギをじわじわと追い詰めていく、腹を空かせた優しい狼のように。
「でも、恥ずかしがらなくて良いよ。ほら、皆だって愉しんでいるだろう?」
男は悪戯っぽく、あたりを見るように促した。
照明は他よりも一段と低く抑えられて、人々の手にした煙草からは、
ゆらゆらと紫煙がたなびいている。
薬入りの煙草の匂いが立ち込める官能的な空間で、人々は互いにしな垂れかかる様に
低いソファに身を沈めていた。
ある者達はうっとりと頬と頬と寄せ合い、ある者達は身体を密着させて囁き合い。
淫らな戯れに興じる者さえいるようだ。
アリューシアは改めて言葉を失った。
姫のことしか頭になくて、自分がどういう場所で、どういう状況にいるのか
思い至っていなかった甘さにようやく気付く。
「僕達も愉しもう」
レオンの言葉に、アリューシアは総毛立った。
「……こんなこと、困るわ。本当に、もうお止しになって」
「ローズマリー」
「ごめんなさい、レオン」
ついにアリューシアは彼の手を振り払い、するりと立ち上がった。
だが、その手をレオンはすばやく掴み取った。
「逆らうな」
手首をつかむ男の手に、ぎりり、と力が篭もった。
「────人が親切にしてやっているというのに、恩をあだで返す気かい?」
脅しをかけるような低く冷たい声。
優しい微笑の後ろに隠していた、凶暴で強欲な牙が剥き出しになっている。
手首を絞られた痛みに眉根を寄せたアリューシアに、レオンはさらに畳み掛けた。
「僕の機嫌を損ねるような事はしないほうが身の為だ。
僕がその気になれば、君をこの場で奈落の底に突き落とすことも出来るんだよ。
………それがどういう意味ぐらいかは君だって、わかるだろ?
それだけじゃない、僕の親父は王宮憲兵隊の最高責任者だ。
なんなら君の家族を罪人に仕立て上げて、牢屋にぶち込んでやろうか?」
アリューシアは動きを止め、レオンを見下ろした。
「…………立派な権力をお持ちなのね」
掴んだ女の手首からは、逃げる力が無くなっている。
反抗の気配が消えたことに満足したのか、レオンはすぐに優しい紳士の顔に戻った。
「そんなに硬くなることはないよ。僕の言う事さえ素直に聞いていれば、
君にはこれからもずっと良い思いをさせてあげる」
アリューシアの腕を引き、再びソファに身体を沈ませる。
その肩から腕を、彼の手は慈しむように撫でた。
「さっきは痛かったかい? 君みたいな綺麗な子には、もうひどい事なんてしないから
安心して」
(まずい事になったな……)
身体を撫でられながら、アリューシアは醒めた気持ちでそう思った。
幸いなことに、手首を掴まれた痛みは、かえって女騎士の落ち着きを取り戻す結果と
なっていた。
どうも自分は随分と厄介な男に関わってしまったらしい。
憲兵隊総大将の子息の一人が、成人しているにも関わらず公の場にもあまり顔を出さない
放蕩息子で手を焼いているという話を聞いたことがあった。
こんなところで親の権力を振りかざして遊んでいるという訳か。
もしかしたら、蜃気楼が摘発の直前にいつも場所を移動して難を逃れているというのも、
この男が情報を流しているからではないか。
アリューシアは、ふと、そんな事を考えた。
従順になったとみたのか、レオンの手は欲望をむき出しにしてドレスの上を
這い登っていく。
膝から太腿を何度も往復し、緩慢な動きで腰の丸みを撫で回した。
背中にじっとりと不快な汗が浮かぶのを感じながら、アリューシアは逡巡する。
どうすればこの局面から逃れられるのか。
自分には拒絶の権利は微塵も与えられていないらしい。
さっき立ち上がった時に気づいたのだが、彼には護衛をかねた従者が一人ついている。
腰に下げた剣を見るまでもなく、屈強な体つきの男が少し離れた所から、
常にこちらを見張っている。
逃れるために力ずくでこの男をなぎ倒しでもしようものなら、すぐに走りよって来る
算段になっているのだ。
騒ぎになってしまうのは困る。
目立つような真似をして、万が一姫にも危害が及んだらことだ────
そう考えている間にも、レオンの指が頬を撫でる。
その唇が獲物を狙う蛇のように、ゆっくりと近づいてきた。
もう抗いようが無い。
アリューシアは腹をくくった。
男を見据え、間近に迫ったその唇にすっと指を伸ばす。
そのまま、唇のふちを手袋をはめた指でゆっくりと撫でた。
自分の唇を艶かしく撫でる美しい指に、レオンは目を落とした。
「ねえ、レオン──」
名前を囁かれ、再び女の顔に視線を移す。
その視線を受け止め、アリューシアは微笑を浮かべた。
澄み切った藍色の瞳は涼やかで、媚を売るようには見えない。
だが、形のいい白い歯を微かに覗かせて、紅を塗られた唇が微笑みを作ると
それは本人が思っている以上に妖艶に男の目に映った。
「私が男に溺れるなんてこと、できるのかしら」
深みのある声色は、甘い色香を感じさせる。
女の態度の軟化に、レオンは微かにほくそ笑んだ。
「もちろんさ。男を知れば、女同士の慰め合いなんて馬鹿らしくなる」
唇に触れている手を取ると、その甲に口付けをする。
「男に抱かれる悦びを味わってごらん。
一度火がついたら、あとは燃え盛る一方だ。女はね」
「…………じゃあ、あなたが火をつけて」
微かに掠れる吐息のような声で男に応える。
アリューシアは婀娜めいた言葉を交わしつつ、胸に触れようとした指を絡めとると、
自分の腰に回した。
レオンに柔らかな眼差しを向けたまま、猫科の獣のようなすらりとした身体をしならせる。
顔を寄せると、上質な白粉の芳香が誘うように彼の鼻先を掠めた。
「でも、ここでは嫌よ」
男の耳元で、そっと囁く。
「もっと静かな所がいいわ。二人で、──あなたと二人きりで、
ゆっくりと身体を伸ばすことができるような場所………」
「向こうに僕の部屋がある」
レオンは満足げな表情を浮かべた。
飼いならした獣の咽元を撫でるように、アリューシアの白い首筋を指で擽る。
「君は特別だ。そこへ連れて行ってあげよう」
そう告げると、彼はアリューシアの手を引き立ち上がった。
広間を抜け、建物のさらに奥へと歩き始める。
途中、レオンは控えていた護衛に『飲み物を』と手で合図した。
男は無言で頷き、その場を離れた。
レオンは歩廊の先の、とある一室へとアリューシアを案内した。
教会の一室だけに広さはさほどではないが、豪華な調度品がそろえられ、
その中でもひときわ贅を凝らした豪勢な寝台が目に入る。
アリューシアを先に入るよう促し、扉を閉めるとレオンは彼女に語りかけた。
「ここなら満足かい?」
「ええ、そうね」
背中を向けたままでアリューシアは答える。
「こっちを向くんだ。ローズマリー」
レオンは彼女の肩に手を添えた。
アリューシアは逆らわずにゆっくりとレオンの方へと向き直った。
その口元には従順な微笑。
肩に置かれた男の手に、彼女はそっと自分の手を添える。
────かと思われた。
だが、突如、その容姿からは信じがたい力がレオンの手首を掴み上げた。
「──細い。鍛えておらぬな」
その力と言葉にレオンはぎょっと目を見張った。
淑女の目には、今までにない射るような力強さが篭っている。
そう察した時にはもう遅かった。
ひゅっと風を切るような速さで、アリューシアは男の脇腹に鋭い拳を叩き込む。
「──ぐっ!」
体に拳がめり込む鈍い音がし、一撃をまともに食らった衝撃にレオンの腰が
前屈みに折れ曲がった。
防御の隙を与えず半歩踏み込み、男の顎を狙って正確に肘打を放つ。
助けを呼ぶこともできず、レオンは苦悶の呻きを漏らし床に崩れ落ちた。
無駄の無い動きでうつ伏せにした男の背を踏みつけると、その足に体重をかけ、
腕を掴んで後ろにひねり上げる。
「女を従わせたいと思うのならば、親の威光を借りずに自身の力量で勝負
されてはどうだ。そのほうが御父上も喜ばれよう」
ドレスについたリボンを解き、痛みに身動きのできなくなっている男の手足を
素早く拘束した後、シーツを引き裂いて作った紐でさらに強固に縛り上げ、猿轡をかませる。
「ぅううっ! うぐ、うぐぅっ!……」
床に転がるレオンは唸りながら拘束された身体を必死でよじるが、
彼にできるのは所詮それだけであった。
顔を真っ赤にして、自分の前に立つアリューシアに目だけで怒りを訴える。
アリューシアはレオンに冷ややかな視線を投げつけた。
「しばらくそうやって頭を冷やしていろ。お前の腕で私を手篭めにしようなど、百年早い」
そう言い放ち、スカートについた皺をぱんっ、と払った。
「二度とその手で私に触れるな。汚らわしい」
姫には悪いがさっさと姫を連れ出しここを去ろう。
遅かれ早かれこの男が見つかるのは時間の問題。
こうなった以上、一刻も早くここを離れたほうがいい。
アリューシアが素早く退散の手順を考えている矢先──
「おい!」
突然の叫び声に、アリューシアははじかれた様に声のほうを振り返った。
「これは一体どういう事だ!」
戸口に先ほどの護衛の大男が立っている。
その背後にもう一人。
飲み物を持っていた男がその盆を放り出し、慌てふためいて異変を知らせに
広間に走り去っていく。
(しまった──)
「どういう事だと聞いている! 女!!」
腰の剣を抜き、殺気立った男は一直線にアリューシアに向かって来る。
抜き身の剣のぎらりとした鋼の煌きを見るや、反射的にアリューシアの目に鋭い光が宿った。
一瞬にして闘志みなぎる騎士の顔へと変化する。
スカートの裾を思い切りよく跳ね上げ、太ももに隠し持っていた短剣に
手を伸ばした時──
刹那、男の背後に赤い影が走った。
地に響く衝撃音と共に、男の体が前のめりに弾き飛ばされる。
何かに衝突したように巨体が勢いよく跳ね上がり、アリューシアの足元にどう、と
倒れこんだ。
そのままぴくりとも動く気配が無い。
顔を覗き込むと、男は白目をむいて気絶していた。
アリューシアは視線を戸口に向けた。
寒々とした薄暗い石壁の歩廊に一人、背の高い道化師の姿があった。
菱形模様の赤い服に、口を吊り上げて笑う白い仮面。
目はくりぬかれた暗い洞窟のようで、じっとこちらを向いている。
その手には、先ほど走り去ろうとした男をだらんとぶら下げていた。
「お前は…………」
道化師が手を離すと、男はどさりと石の床に崩れ落ちた。
こちらも気絶させられているらしい。
無言のまま道化師は顔に手をやり、ゆっくりと仮面をはずした。
アリューシアはあっと小さく声を上げた。
仮面の下から現れたのは、アリューシアのよく見知っている、冷淡な眼差しの
理知的な男の顔であった。
「こんばんは」
「………グルドフ、お前だったのか」
耳慣れた落ち着いた口調に、アリューシアは安堵の息を漏らした。
緊張にこわばっていた頬が思わず緩む。
「助かった。一時はどうなる事かと」
「災難でしたね」
「全くだ。──ところで、お前はどうしてこんな所にいるんだ。
ここを探るように殿下に頼まれているのか?」
アリューシアの問いかけに、薬師はいいえ、と首を横に振った。
「私がここにいるのは、貴方を捕らえる為ですよ。ローズマリー」
「私を?」
意外な答えに、アリューシアは思わず聞き返す。
「ええ」
グルドフは怜悧なこげ茶色の瞳でアリューシアを見定めたまま、
ゆっくりと彼女に向かって歩き始めた。
「貴方は姫をそそのかして『蜃気楼』に誘い込み、大金を巻き上げようとする
悪い女詐欺師なのでね」
(蜃気楼 後編へ続く)