XII
腕の中のいとおしい、女。
稚い子供を寝かしつけるように、ゆっくりとリズムをとって、髪をなでる。
まだ少し震えているようだ。身に起こったことを受け入れるのは、簡単なことではないだろう。
女神の存在を民は知らない。
あの存在は、莫大な益を生む。
何百年もかけて、天眼者が自らの利益のため隠し守り通してきたのだ。
地母神も面倒をきらい、おおかた依代となった女の記憶を奪う。
女たちは儀式が終われば普通の生活に戻っていくのだ。
例外は、ある。
女神に深く愛されたものがたまさか、女神の意思で宮城に迎えられてきた。
迎えられた女は国王に供され、女神の気分によっては寝間で国策を囁く。
あるものは国王の子をなし国母として正妃に立てられ、あるものはひっそりと王宮の奥で生を終える。タイロンの母のように。
しかし今回の女神はアビゲイルを後宮に納めよとは言わず、彼女を労れ、と告げるのみであった。
タイロンには女神の真意がわからない。
想定外の事態に、タイロンの考えは定まらなかった。
アビゲイルを、前例に従い、愛されし者として後宮に納めるか。
・・・この逞しく生きる女を、一生宮城から出られない籠の鳥に。
できるわけがない。
アビゲイルに現在まで続く女神と国主との間柄を理解してもらい、納得ずくで王家の共犯者になってもらうか・・・
世界の秘密を垣間見た上で、これまで通り生活することは思った以上に枷になるだろう。
出自がわかった以上、この娘は儀礼の鎧に身を固め、二度と友として見せてきた笑顔を自分に向けてくれることはないに違いない。
全てなかったことにする。
手っ取り早いのはアビゲイルにすべて忘れてもらうことだ。
今夜のこの部屋での出来事を全て忘れてしまえば、気ごころの知れた友に戻れる・・・結局、自分の都合だ。なんという傲慢。
「苦しい・・・タイロン」
アビゲイルが身をよじって抗議の声を上げた。
無意識に手の中のぬくもりを強く抱きしめていたようだ。我に返って、込めていた力を緩めた。
そっとアビゲイルの手がタイロン・ツバイの額に伸びてきて、天眼を包み込む。
「善からぬことを、考えていただろう」
金の天眼が完全に隠れてから、やっとアビゲイルが視線を上にあげ、タイロンに絡ませてきた。
「捕らえて支配下におくか」
瞳にはいつものアビゲイルの理知的な輝きが戻っている。
「すべて忘れろと命ずるか」
その洞察力には頭が下がる。タイロンは黙って目を閉じた。
しばらくのあいだ、二人の間を沈黙が支配する。
「・・・そうするのがアビゲイルにとってもいいと思う」
アビゲイルがそっと天眼にあてていた手をタイロンの頭にまわし、唇を額に当てる。
「・・・大きなものを背負っているんだな」やさしく日向の匂いがタイロンを包み込んだ。
今までとは逆に、アビゲイルがタイロン・ツバイを抱きしめていた。
愛おしい人を手に入れた、充足感。
受け入れられている安心感。
一言忘れろと命じれば、アビゲイルは全て忘れる。
心地よいこの瞬間を、自分の胸の内に綴じ込んで慈しみ、この先を生きていかねばならない・・・
さまざまな感情が押し寄せ、綯交ぜになって正気を失いそうだ。
「これからも、一人で耐えるのか?」
アビゲイルの唇が眼尻に当てられてはじめて、自分が涙を流していることに気がついた。
ただ、滂沱する男を抱き寄せて、むずがる幼子をなだめるように背中をさすってやる。
飄々と立ち回るタイロン・ツバイの人懐こい笑顔の裏には世界の秘密が隠されていた。
この人は黙々と、神との約束を果たして、この国の民の生活を守ってきた。
そのことを、誰も知らない・・・自分だけが知っている・・・
抱き寄せた男に湧く気持ちを何と呼ぶかは、アビゲイルはわからない。
先ほどまで自分の中にいた貴き者は、タイロンのことを愛おしい吾子、と呼んだ。それが近いような気もする。
タイロンの閉じられた瞳から流れ落ちるしずくをていねいに舐めとる。
愛おしい、と思うと胸に暖かい灯火がともったようだった。
「忘れる以外に・・・私にできることはないのか?」
アビゲイルの言葉に、ゆっくりとタイロン・ツバイが眼を開ける。
「アビゲイル」
微笑にさびしげな影がくっきりと浮かぶ。
「ありがとう、充分だ」
その顔が思った以上に穏やかで、かえってアビゲイルの頭の中に危険信号が鳴り響く。
どうすれば、忘れろと命ずることをやめさせることができるのか・・・
XIII
それは本当に突然、タイロンの唇をやわらかく塞いだ。
押し当てられる唇は少し乾いてかさつき、タイロンのそれに引っかかる。
勢いにたじろぐタイロンの目の前には、アビゲイルの閉じた眼を縁取るまつ毛が白い頬に落す影があった。
あわてて身をよじって逃れようとしても、首がすでに彼女の腕に絡めとられて逃げ場がない。
すぐに唇をこじ開けられ、舌がするりと絡みつく。
蠢く唇と舌に何もいうな、という明確な意思が伝わってきて、圧倒された。
どうして、そのような行為にいたったのか。
唇さえふさいでしまえば・・・いささか子供じみているが、アビゲイルは夢中だった。
己の唇でタイロン・ツバイの唇を封じ込め、動こうとする舌を吸い上げ絡めとる。
抵抗を見せていたタイロンの舌が従順になり、彼女の動きに呼応する反応を見せ始めた。
唇をあわせることがこのように心地く、快楽さえ伴うことを、彼女は初めて知った。
やがて当初の言葉を封じるという目的を忘れて、アビゲイルは接吻に没頭しはじめる。
長い長いその口づけの儀式は終わらせるには余りにもせつなく、甘美な一時だった。
どれぐらいそうしていたのだろうか。開いた窓の外は暗いとはいえ、清清しい明け方の気配が漂う。
ゆっくりと、名残惜しげに唇が離れていく。
どちらとはなしに深いため息がもれ、そのため息にはそこはかとなく快楽の種火のようなものが混じっており、お互いに少々気不味い。
アビゲイルがおずおずと、離れたばかりの相手の唇に指をあてた。小さい子に、静かにしていましょうね、と示すしぐさだった。
彼に触れると、じんわりと疼くような暖かさが心に点る。
天眼と言霊による呪縛の影響が大きいが、いままでアビゲイルは異性に心を寄せたことがない。
初めて胸に点るタイロンに対する感情を今、消してしまうのは余りにも惜しいことに感じられる。
「私は」
少し掠れた、しかしはっきりとした口調でアビゲイルは語りかける。
「今夜のことを忘れたくは、ない。」
うれしさに不覚にも満ち足りたなにかがタイロンの内側から溢れ出そうで、目を閉じた。
そろり、と唇の上をアビゲイルの指が行き来する。
「決して口外はしない・・から」泣き出しそうなのは、アビゲイルも同じだった。
タイロンに持った感情は人が異性に持つ好意で、恋とか愛、情などと呼ぶことに彼女自身は気がついてはいない。
そっと、アビゲイルの手をタイロンが握って口付ける。
「・・・そういってくれるなら、奪ったりはしない」
大きく息をつき、もう片方の手で真円に開いた天眼をそっとなでる。
アビゲイルの見ている前で黄金の眼が次第に細くなり、やがてぴったりと閉じられた。
アビゲイルがまじまじと額を眺めている。
「閉じてしまうとここに眼があったようには見えないな」
ぎこちなく、タイロンと視線を合わせて微笑もうとしたが、失敗して頬がひきつった。
「この先、何が起こるか俺にはわからない」
タイロンの声音は真剣で、アビゲイルは秘密の大きさを改めて思い知る。
「・・・誰にだって、何をしていたって、先のことはわからないものじゃないか・・・」
「そりゃそうだ」タイロンの眉間のしわが緩む。
どちらからともなくお互いに腕をまわして、寄り添った。
東の空が白み始め、豪奢な部屋に朝が訪れようとしていた。
もう間もなく城砦都市に生活の喧騒が訪れるだろう。
タイロンがのろのろと寝台から起きだして、女神がむしり取って放り出した着物を集めて身につけ始めた。
そのまま倒れた城主の身支度を手早くととのえ、担ぎあげようとしている。
アビゲイルも作業を手伝おうと起き上がろうとして、下肢の違和感にうめく。
腰から下が重い。まるで水草の密集した小川を渡河しているようだ。
違和感に首を傾げながらひろい寝台の端まで這うようにたどり着くと、鏡の扉に城主を放り込むタイロンから声がかかる。
「横になっとけよ」
城主が流した血を一度着こんだ上着を脱いで拭う背中が、くつくつと笑っている。
「やりすぎなの」普段と変わらない人を喰ったような笑顔を浮かべるタイロンがいる。
アビゲイルはその場でぽかんと男を眺めるしかない。
「激しく抱き合っただろ?」抜けぬけと、片目をつぶってみせた。
頭の中に、長い夜の記憶が次々と浮かび、アビゲイルの顔が見る間に赤く染まった。
タイロンの顔を直視できず、思わず寝台に顔を伏せた。
男が近寄ってくる気配を感じて、身を固くする。
「アビゲイルはそのまま、寝台にいればいい。侍女が身支度をしてくれる」
タイロンが昨晩はアビゲイルの衣裳であった水色の薄布を掻きよせて、掛けてやる。
「お前が城主に無体な真似をされた、と涙してくれるかもしれない」
軽口を叩く口調とは裏腹にそっと触れた手が、優しく髪をすき流していく。
なるほど寝台の上は乱れ、ところどころ湿って色が変わっている。
部屋全体に情交の匂いが立ち込めているような気がしてきた。
気恥ずかしく感じられ、タイロンのほうに目を向けることができなかった。
XIV
・・・くる。
二人の兵士の部分が、近寄ってくる気配を感じ取った。
見回りの兵か、侍女か。
白々と夜が明け、城全体が起き上がり、活動が始まる時間になったのだ。
「アビゲイル」
顔をそむけたままの女に語りかけた。ほんのりと赤くなった耳やうなじがかわいらしい。
「やらなくてはならないことが、たくさんある。」
人の気配は刻々と迫ってくる。アビゲイルにあてがわれた侍女が、朝の支度のために部屋を訪れるのだろう。
「次にいつ、お前に会えるかわからない。」
アビゲイルが顔をあげて、タイロンを見た。
紅潮した頬、こちらを見上げる瞳を脳裏に焼き付ける。
「どうか壮健で」
タイロンが触れるだけの接吻を残して本当にあっけなく扉の向こうに姿を消したのと、侍女が扉をたたくのが、同時だった。
城に仕える侍女にとって、中庭付きの豪奢な客間を訪れるのが一番いやな仕事であった。
もちろん、人の情事の後片付けなど、誰にとってもいやなものではある。
なにより前夜、気高くあった貴婦人や、無垢な少女や、不安そうな人妻が、皆一様に表情を失い放心して横たわる様を見るのは、同じ女として居たたまれなかった。
みな、望んでこの部屋に招かれるわけではないことも知っている。
今回の客人は、騎士だと聞いている。
以前もこの部屋に泊まったことあるらしいが、侍女は担当していなかった。
さわやかな笑顔や、一見細身で少年のように見えるりりしさを好ましく思ったがゆえに、朝の身支度の役目は気が重かった。
香木のドアをノックしたが、案の定、返事はない。
できるだけそっと扉をあけた。
部屋には香木の香りと、情事特有の籠った臭いと、微かに血の匂いが混じってる。
・・・ひどく殴られたのかしら。侍女はため息をついた。
ドアが閉じてしまわないように、楔をはさんで固定して部屋に入る。
驚いたことに、客人は外に開いた窓辺にたち、昇る朝日に照らされる山なみに目を細めていた。
その首すじには強く吸った跡が見えているし、乳房には指のあとがくっきりと浮いている。
下半身には体液が乾いてこびりついている。明らかに、凌辱のあとがみえていたいたしい。
普段なら、放心状態の客人の体を拭き、着替えをおいてそっと退室する。
皆、心を手折られて打ちひしがれている。前夜のことを思いだして錯乱してしまい、心を病んだ女性もいたのだ。
迷った末に、勇気をだして声をかけた。
「お支度をお手伝いします。」
「ありがとう」昨日より、穏やかな答えが返ってきた。落ち着いている。
・・・この人は、大丈夫。
城主に犯されはしたのだろうけれど、心の大事な部分は保つことができたのだろう。
その強さを、うらやましく思った。
暁の光のなかなら、火照った頬がごまかせるだろうか。
平静を装いながら素裸のまま窓際に移動する。
相変わらず体はなにかを引きずっているように重い。
・・・あの男には、振り回されてばかりだ。
別れを惜しむまもなかった。
いろいろな感情や思いが次々と浮かんでは消える。首をふって、窓の外に目をやった。
濃密な森の向こうに、赤く輝く尾根。
抜けるような東雲の朝。
世界は変わらず美しい。
思わず見惚れているところに、侍女がおずおずと入室してきた。
素裸で立つアビゲイルにたじろいでいたようだ。
身支度は自分でする、と侍女から湯と綿布を受取り、固く絞って全身を拭う。
背中は侍女が拭いてくれた。何も聞かないでいてくれるのがありがたい。
清潔な衣服に着替えて、やっと人心地つくことができた。
窓辺にすわり、侍女が手早く室内を片付け整えてゆくのを眺めていた。
別の侍女が朝食を運び入れ、二人で退室していく。
礼を述べるアビゲイルに、二人はていねいにお辞儀を返した。
城主が突然の病に倒れ、北城内は多少混乱しているようだ、と教えてくれたのは件の侍女だった。
「お客様が滞在中だということが忘れられているようで」と申し訳なさそうに詫びる。
近日中に退室できるように、上司に働きかけてくれる、と約束してくれた。
結局、アビゲイルが解放されるまでに3日かかった。
侍女たちの配慮で、不自由なく過ごすことができた。
城主の身に起こったことをアビゲイルは承知していたので、大人しくしていた。
城主の在・不在にかかわらず、日常の生活は営まれている。
多少の混乱はあるようだが、巡察正使の采配でクンツは療養のために主都へ送還され、次の城主を迎え入れる準備を終えて、到着を待つばかりとなったようだ。
アビゲイルが開放されて本来の宿舎に戻った日、城内に滞在していた巡察師団は次の目的地、北西城にむけて出立した。
配置された城門の上からタイロン・ツバイの姿を探してみたが、見つけることはできなかった。
やらねばならないこと、のために既に城を去ったのだろう。
隊の帰砦も決まった。小隊長として当面の物資を受け取る作業などで毎日が忙しい。
日々、やるべきことをやる。
世界のどこかで、黙々とそれをする男がいることを知っている。
私も、そうするだけ。
終章
山の砦に初夏のさわやかな風が吹き抜けていく。
雪渓から流れ出る水も水量が増し、いよいよ夏の到来を感じさせる。
父と慕うロク砦主の片腕として、相変わらず、忙しい日々だ。
麦の収穫期に入り、侵入を試みる山岳民族を追い払うのに苦労している。
弟は訓練所で才を認められ、参謀課程に進み兵法を勉強していると知らせてきた。
今しばらく、軍での生活が続くだろう。それも悪くない、と思い始めていた。
アビゲイルは巣立ったばかりのイワツバメのつたない飛行を目を細めて眺めていた。
大地のたくましさ、美しさ、はかなさを実感するたび、アビゲイルはかつて自分の中に入り込んできた女神と男を思い出す。
そうすると、心の底に暖かい火がともったように感じる。何度も心に火をともし、慈しむのが日課のようなものだ。
それは愛情という名でしっかりと彼女に根差し、陽光を得た花のように彼女自身を開花させたのだが、自覚はない。
「我が国土は本当に美しいよなぁ」
思わずそばにいる部下に同意を求めた。
ほんとうに、と答える部下が胸の内で「あなたは美しい」と続けていることを、彼女は知らない。