「ルナと呼んでいいかしら」
すぐにでもクウリへと進むかと思われた王妃は、まったく穏やかな様子で軽やかに言った。
ルナは驚いて、上ずった声で応えた。「もったいなきお言葉でございます」
うっすらと微笑んで王妃は、親愛を示してルナの前に手の甲を差し出しながら、
「仲良くしていただける?」
意外な言葉が続くのにルナは戸惑い、一瞬その手を見つめた。
「光栄でございます」見惚れながらルナは自分の胸が高鳴っていると意識する。
白く華奢な指が美しかった、磨かれた桜貝のような爪、彫刻の一部かと見紛うほどだ。
なんだ、この感じは。
眩しくて、どきどきとする。
綺麗だ、どこもかしこも。
ルナは目を伏せたが、震えのため瞬いてしまうのに焦りを感じる。
震えを押さえる為に力強く、すっと自分の指を添える。
王妃の指に比べれば、女性らしく美しいといわれたこの指も無骨に思えて仕方ない。王妃の手はひんやりと冷たくさらりとしていた。
礼儀どおり、口付ける真似で舌を鳴らしたとき、王妃の指は動き意思を持ってルナの唇に押し当てられた。
「・・・し、失礼を!!」
慌てて身を下げルナは非礼を詫びた。
高貴な方に、ドレスの裾でもあるまいに直接唇をつけるとは考えられない失態だ。
罠のように意識的な王妃の行為だったのは言うまでもないが、まんまと引っかかる以外に手立てがあるわけでもない。
致し方ない。王妃のなすように任せるしかなく、選択の余地はない。
どんな叱責、どんな措置になりうるか考えて、ルナは身を強張らせた。
沈黙があり、緊張は高まっていく。耳だけが敏感になる、隣のサクラの喉を鳴らす音さえ聞こえてくる気がした。
ルナは強く目を閉じていた。
失態は明らかであるが、それだけではない動悸にめまいがする。
その動悸の正体に思い巡らせているうち、声を上げそうになった。
これは、これではまるで。
触れた唇には柔らかな皮膚の感触が残り、あまい香りが鼻腔に残っている。
それらは柔らかに喉から胸へと続く、心地よくも切羽詰まった刺激に繋がっていた。
まるでこれは、恋情ではないか。
ルナは愕然とする。
美しい、確かに王妃は美しく華やかだ。
だからと言って、これは、…どうしたことだ。
そして二度目にサクラの喉がなったとき、王妃の声が優しく響いた。
「結構よ」
糸が切れるように、3人の間に安堵がもたらされる。
熱に浮かされるような歓喜を覚えルナは少しだけ顔を上げ、王妃の裾に今度こそ唇を当ててから、
「申し訳のないことでございました」
最大限に詫びると、その動きにひらりと花びらが落ちる。
裾には瑞々しい花がいくつも飾られていて、そのうちの一つだった。
飾られるのは一時であるのだろう、水分もない場所でこれだけ瑞々しい花。
花の香り、王妃の優美さ、王妃の身を飾るためだけのために摘まれた花…
ふとルナは我に返った。
感情を巻き戻して違和感を確認する。
王妃の権勢を思わせると同時に、まるで対極の、ひどく無邪気なものも感じたのだ。
布に飾られる生花と同じような違和感、なぜだろう。
どういう方なのだろう・・・ルナは改めてひどく心を騒がされ、にわかに困惑する。
どこが、と言うわけではない、王妃は美しく、自然に微笑み優美である。強いて言えば……。
ルナはゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、奥に奥にと踏み込んでいく危うさを実感しながら思い至る。
強いて言えば、この美しさ自然さが危ういほどしっくりとしているところか。
裾に飾られた生花から目を離せなくなっていく。
クウリの母、破壊された生活、運命に抗えなかった王妃、再会の息子。
この状況の王妃が、こんなにも満ち足りて、自然な顔をしていられるものだろうか。
離れて久しい最愛の息子、息子の命綱ながら諸刃の私、暗殺者に等しいサクラ。
いくら洗練され、感情を管理できるよう教育を受けていたとしても、これほどまったく意に介さない態度になるものだろうか。
隠し隠し言葉を飾りながらでも、一刻も早く息子へと向かわないものだろうか?
だが無邪気に見えるその声音、仕草。どこにも不自然を隠した自然を装った風がない…
なぜここへ私たちを呼んだ?
ルナの心にしんとしたものが降りた。
むせ返るほどの甘い香りがする。

ルナは本能的に身を奮い立たせる。
感情は後からついてくる感じだった。
毒々しい毒はまだ良心的だ。真っ白な毒薬ほど厄介なものはない。
ぼうっとした頭を無理やり整理だてはじめたところへ、
「もう一度、やり直してくださる?」
王妃は慰めるように言って、再び手を差し出した。
は、と言ってルナは冷えたその手をとった。
唇を近づけたとき、王妃の指は動く。ルナは薄目でその指を見守っていた。
案の定、完全に意思を持って指はルナの唇の間へと差し込まれた。
舌に爪と指先の感触が伝わり、それが舐めあうように動くのに応えた。
待っていたと否が応でも認めざるを得ない。陶酔に引き込まれ、抗いようもなく吸い込まれていく。
「ありがとう」
何か反応する前に王妃の声は響き、ルナは黙ってその指を受け入れる。
そのとき、厳しい叱責が聞こえた。「伏せていなさい」
クウリが顔を上げたらしい、伏せたルナに慌てて頭を下げる気配が感じ取れた。ルナは瞬間意識を取り戻して舌の感触から気を引き剥がして懸命に考える。
そこへもあくまで王妃の声色は優しく、ルナに問いかけた。
「もっとお話したいわ」
ありがたきお言葉、と口にしたが、王妃の指で言葉にならない。
しっとりと濡らされていく感覚、王妃の指は官能的にルナの舌を撫でては爪を立てた。
「後で私の部屋に来て頂戴」
ささやくような王妃の声に、クウリが大きく反応するのを気配で感じた。
ルナは疑問をぶつけることも出来ない、ただ際どくも無礼にならない返答をする。
柔らかに王妃は微笑んだ。
す、と指を抜かれルナは唇を閉じた。指の感触が残り、物欲しげな舌の周りを唾液が囲む。
美しい、王妃。蕩けるような指。
ルナは王妃を見上げた。合わされた目に吸い込まれて熱に浮かされたように口から滑り出た
「はい、後ほど」
満足そうに王妃はまた微笑み、サクラとルナ、2人の労を改めて述べた。
「リタ中佐、あなたをお呼び出来ないのが残念だわ」
王妃は当然のようにサクラに問いかけた。差し出された指を同じように受け取るサクラから、ルナは自分と同じように引き込まれていく様を見る。
「私の気持ち、お分かりになる」
王妃は聞いた。
サクラのついた吐息はルナのものと酷似していて、サクラはまた引き込まれるように頷いた。
「は」
それはまるで、恋情ではないか…。
「ごきげんよう。それから、ルナ、後ほど」
クウリの名がないが、3人は作法どおりに頭を垂れる。
では、と暇を告げる声と優雅に会釈し身を翻す気配。
思いがけず王妃の寵を得たルナは、気まずいながらに、この後で思いっきりクウリを労ってやろう、一目でも王妃に会えたことを喜ぶべきだとクウリを諭し、変な気を起こすなと能書きを垂れるつもりでいた
そのときだった。
一瞬のことで止める間もない、クウリは叫んだ
「はっ…」
瞬時にサクラもルナも緊張を持って彼を諌めたが、もう遅い。彼の口はせわしなく動く。
「…いえ、王妃様」
母上、と呼びそうになったのは明らかだった。もしくは彼はわざと母上と連想させるようにどもったのかもしれない。
王妃は肩越しにゆっくりとあごを見せた。
クウリは食いつくように首をもたげ、強い口調で王妃を引き付ける。
「ご挨拶を申し上げたく」
それは必死に礼を尽くそうとしているように見えたが、王妃への期待は隠しきれない。
声が喜びに満ち溢れていた、自分の行為を王妃は喜ぶと信じて疑わない様子だった。
ルナは舌打ちをこらえた。
王妃がこの態度なのである。
クウリの顔を一目見ただけでよいと観念していたのかもしれない。
どう考えても、彼の存在は今のところ隠しておいたほうがよさそうだった。
理由は定かでないにしろ、クウリを目視し取り立てて声がけする状況には、少なくとも王妃はいなかったのだろう。
だが、クウリの体は今にも立ち上がり駆け寄ってしまいそうだ。
ルナはせめてもとクウリを睨み付けていたが、クウリはそわそわとした様子で王妃の次の言葉を待ちかねている。

「挨拶をと?」
王妃は振り返り、いぶかしげに問うた。

「ええ、久闊を叙するために」
王妃の声を意に介さず、冗談を、と言った調子でクウリは声を張り上げる。笑い声さえにじませながら。
「なぜそなたが」
深くため息をついた王妃に対し、
「わたくしだからご挨拶をするのです」
抑えきれないまま広間に響く声で一気に自分の正式名を口にして、クウリは大きく息を継いだ。
王妃は、名を聞いてもピクリとも動かず、ただ沈黙した。
その沈黙に、これで許されたとでも言わんばかりに高潮した頬を見せてクウリは、王妃の許しもないまま顔を上げる。
王妃の小さい息遣いが聞こえた。
ルナは身を伏せたまま非礼を詫びるか流れを見守るか考えているところだった。
王妃の顔を仰げればまだ判断しやすいがそうもいかない。
サクラとて同じと見える、彼も声を上げない。

「無礼な」
刃のような口調だった。

耳を疑う。

「なんと無礼な」

王妃の声だった。
先ほどとは全く打って変わった厭わしげな口調だった。
「身分をわきまえず、王妃たる私へ、言葉をかけるとは」
おおいやだ、と王妃は袖で口元を隠して眉をひそめ、嫌悪をあらわにした。
「母…、」
呆然としたクウリは言いかけて、圧倒する威勢にはじかれたように身を伏せる。
「行き過ぎでございました」
地に額を着け、最大限謝罪を表したが、王妃は声をだすのも惜しむようにつぶやいた。
「結構よ」
先ほどと同じ言葉とは思えぬ、冷たく軽蔑のこもった声音だった。
見ていられずにルナは、自分の責任であると淀みなく口上を述べ、
「無礼をお許しくださいませ、この者、王妃様の美しさの前で心を焦がされたかと」
「まあ、ルナ」
そう言って王妃は少し考えるように見せてから、追従は要らぬと微笑んだが、釘を刺すように、
「ですが、この者の同席は許しません」
かちりと固まった空気の中、王妃は繰り返した。
「二度と許しません」
淡々と述べる様子はまことに屈託もなく、それどころかルナに免じて許してやった風情だ。
それぐらい王妃の態度には、情と言うものがなかった。
非礼を譴責しただけとは言い切れない、長年会わなかった息子の非礼に失望したわけでもない、
むしろ、心底嫌悪し、排除を望んだとしか思えない…。
どういうことだ?

ルナは状況を何度も解釈しなおしている中で、横でサクラは「恐れながら」恐々と口を開いた。
乾いているのか幾度かあえぐような仕草を見せたが、潤った力強い声で、
「この者は、わが国に来て間もないとはいえ、私の指導不足でございます」
暗にクウリの出生を暗に主張しながら、詫びた。
「まあ」
王妃は眉を寄せ、
「あなたのように有能な軍人でも、不可能はあるものなのですね」と同情的に微笑んだかと思うと、
「では、もう捨て置きなさいな」
表情は変えずに言い放った。
息を呑みサクラは、ご冗談を、とかすれて言って、
「恐れながら王妃様、不可能とはご冗談が過ぎます」
眉をひそめた王妃に、一呼吸おいて「この者はメリカの出身で」サクラは言った。
「現状、メリカをでているのでしょう。名を聞いたこともない」
相変わらず微笑んだまま王妃は決め付けた。
扇でクウリを指し、ひらりと先を上げ、
「それなら、もとからこの国に必要な人間ではなかったのでしょうね」
鮮やかな手さばきで扇を広げ、首をのけぞらせて笑った「無礼者にふさわしく、まことに結構だこと」
気が付いているのだ、この者がクウリだと、自分の息子だと。
その上での排除を匂わせているのだ。
唖然とした3人の前に、王妃の高笑いが響く。
冷酷とはまた違う、踏みにじるような宣言。
従者が王妃を促した。
状況を飲み込めぬまま、ルナは耳を澄ませ、気配をうかがう。耳打ちを受けて王妃は一気に華やいだ。従者に応える、もはや追い討ち以外の何者でもない、よく響く声で従者に返す。
「王太子が?ええ、ええ、すぐに参りましてよ。
母はすぐに行くとお伝えくださいな。ええ、誰よりも大事な王太子ですものね」
クウリの耳をふさいでやりたいと、ルナは思わずにいられなかった。

 

甘い香りを残して、王妃たちは広間を去った。
なんと声をかけていいものかとルナがしばし思い巡らせているところに、
「王妃のお気は変わられているらしい。どうしますか」
クウリ様、とサクラの声がした。
ルナは瞬きを繰り返す「ちょっと待て」
サクラは困ったように口をまげて笑って流し、クウリに視線を向ける。
「サクラ、…」
冗談を、と言おうとしていきなり合点がいった。

「そうか、お前が」

応えずにサクラはいる。クウリは目をそらし王妃の余韻を噛み締めるように辛そうな表情を浮かべていた。その二人の間でルナは震えた唇をなだめながら、
「お前は、クウリの…」
サクラが、まさか、と何度も反芻しながら、反論のない二人を前にルナは自嘲する。
「なぜ、いつから」ルナは言ってうなだれながら、「サクラ…、なんで私なのか」
「そうか、そうだったのか」

これで納得がいった。
王妃が私だけを部屋に呼んだ理由も、この二人の前で王太子を宣言したことも。

 

 

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最終更新:2008年12月28日 08:10