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「もとはと言えばな、そなたら毒姫は人に害を成すドラゴンを屠る為に考え出されたのよ」

朱天幕の床に胡坐をかき、ネリィに髪を梳らせながらティラナは語る。
人目の無いこの場所では、腰巻さえ履かない気楽な姿だ。
その後ろに坐って、ネリィは丁寧に櫛を入れる。
衣服を着るのは大嫌いなティラナも、毛繕いだけは欠かさない。
こうして身軽な格好で髪を梳かせるのは、ティラナにとって大のお気に入りの時間だった。

「太古の頃は、今よりもずっと竜種は世にのさばっておった。
 ようやく殖え始めた人間族にとっては、奴らは逆立ちしても敵わぬ敵じゃった。
 ゆえに人間どもは、奴らにしばしば生贄を差し出し、暴れる竜を宥めておったのよ。
 生贄に供されるのは決まって、選び抜かれたうら若い生娘じゃった……
 まあ、そちらは人間の美意識の話で、実際はドラゴンどもに生娘と経産婦の味さえ区別が付くと思えんがね」
「そんなに味が違うものなの?」
「当たり前じゃっ。妾の如く高尚な種族なれば、一噛みしただけで判るわえ!」

ティラナは誇らしげに言った。
まるで地上で最も古く誕生したと言われる竜族でさえ、粗野で悪食な下級種族であるかのような口ぶりだ。

「処女の肉は、舌触りがまろやかで臭みが無い。
 しかし身体が男を知ると、子を産むためのものに変わるゆえ味が落ちてしまうのじゃ……と、話が逸れたな。
 どこまで話したかの?」
「竜を屠るために、毒姫が考えだされたという事までよ」
「そうじゃった…… そうして人間は長い事ドラゴンに生贄を捧げて続けていたが、
 地上で最も悪知恵の働く種族である人間たちは、いつまでも竜に娘を喰われるのが気に入らなかった。
 ある時、どこかの誰かが考えた。『ドラゴンに一服盛ってやろう』と。
 無論、まっとうな方法では毒を喰らってくれるはずが無い。
 そこで生贄に捧げる娘に毒を帯びさせたのじゃよ。
 数え切れぬほどの娘達が、技法が確立されるまでに死んだ……
 ドラゴンを悶絶させるだけの毒を蓄えつつ、女子を生かす方法が見つかるまでにな。
 しかし、たった娘一匹の生贄で竜を殺せるようになるのなら、それは安い犠牲じゃったろう」
「……」

そもそも、古代の物語に詳しいこの少女に毒姫の話をねだったのはネリィからだった。
彼女が長い間抱いてきた疑問、『自分を抱いても、魔王は何故死なないのか』という事を、
同じように死なないティラナに聞いたのだ。

『魔王は毒にやられない、と思っておるのか?
 逆じゃ。毒で殺されるような軟弱者は、ハナから魔王は名乗れんのよっ』

自慢げに話す口ぶりは、その毒にやられない己も同格とでも言いたそうなものだ。
髪を梳き続けるうちに話は自分自身の話へ、毒姫という存在について続いていった。
しかし、あらゆる形であれ死を厭うネリィにとって、それは愉しい話ではなかった。
まして、自分と同じ宿命を背負わされ、死んでいった少女達のことを思うと、
ネリィは心穏やかではいられなかった。

「こりゃ、手が止まっておるぞよ」
「……あっ、ごめんなさい」

再び、ネリィは輝く金色の髪に櫛を入れる。
ネリィも、ティラナの髪を整えるのは好きだ。
物心ついてから、彼女の人生には友と呼べる者が一人も居なかった。
自分を養育した薬師と、一定の範囲以上には決して近付く事の無い冷たい乳母達に囲まれて、
奥深い王宮の片隅で密かに育てられてきた。
誰かの髪を梳かすなどという境遇は、幾ら憧れても手に届かなかった。

魔王の寵姫になった今ならば、権力を嵩に命じることは出来よう。
ただし、毒に染まった自分を知っている女達の、怯え震える首筋を見ながら髪を梳くのでは、
己の存在が一層惨めに思えて、とても愉しむどころではない。
だから、ネリィはティラナのことが好きだ。
ティラナは、自分の身体の毒をこれっぽっちも恐れない。
髪も梳かさせてくれる。
彼女にとって、ティラナはたった一人の対等の友達だった。

「毒姫が生まれてから、ドラゴンはより容易に人の手にかかるようになった。
 絶命までには至らずとも、臓を灼かれて苦しむ彼奴らを屠るのは簡単じゃものな。
 そうして毒姫が育てられ、使われて行く中で……クククッ、ある時とんでもない不届き輩が現れたのじゃよ」
「不届き者?」
「そうじゃ。乙女であるはずの毒姫を、竜に捧げる前につまみ食いしようとした馬鹿がおったのよ。
 そんな真似をすればどうなるか、そなたには言うまでも無かろ?」
「……」
「骸となった愚か者を見つけて、人間達は閃いた。
 『ドラゴン以外にも、この毒は使える……』
 その頃には毒の効く下級竜種も頭数を減らし、人間族にとって危急の存在では無くなっておった。
 それよりも、頻発する人間同士の争いの方にそれを使い出した。
 毒姫育成の技法と存在を秘伝とし、同族同士の暗殺に用い始めたのじゃよ。
 いかなる英雄豪傑も、美しい女にはほんに弱い…… ひゃひゃひゃっ、げにも女子に勝る毒は無しじゃ」
「そう…… そんな歴史があったのね」

ヒトの営みの愚かさを嘲笑うかのようなティラナの言いっぷりに、ネリィは哀しげに応じた。
反逆を企てた父、まだ母体に居た自分に毒を含ませた薬師、魔王を殺そうと自分を差し出した王族たち。
自分の出自もまた、その愚かさの一端に連なるのか。

「む…… 辛気臭い声は出すでない。
 少なくとも、魔王や妾はそなたを喰らっても死なんのじゃ。それで我慢せい」
「ええ…… 私には陛下と貴女が居る。
 これまで育てられてきた中で、私は一番幸せな毒姫だわ」

金髪の少女の身体を、ネリィは背後から抱き締めた。
彼女にとってかけがえの無い、小さな友達の身体を優しく包む。

「ひゃう! こそばゆい真似をするでないっ」
「うふふふふ…… 良いじゃない、これ位」
「妾にこんな風に気安くしていいのは魔王だけじゃっ」
「あら、陛下にこんな感じに抱き締めて頂いたことが有るの?」
「それは無いが……」
「私は有るわよ」
「が、がるるるるっ。自慢しよってからに!」

腕の中で口惜しそうに咆えるティラナを抱き締めながら、
ネリィは幸せな時間を堪能するのであった。


・・・・・・・・・


用意された甲冑を試着し、アデラはその軽さに驚いていた。
信じがたいことに、装甲板の隙間を守る鎖帷子までもが高純度のミスリル合金だ。
剣と盾はラルゴン王の遺物を借り受けられるが、甲冑はそうは行かない。
正式に軍務に就いて以来初めて、彼女は自分用の鎧を仕立てることになったのだ。

「動かし辛い所はないかね?」
「いや…… 大丈夫」

これまでは、聖騎士団所有の鎧の中から体型に近い物を貸与してもらっていた為、
多少の不自然さは『鎧に身体を合わせろ』と言われてきた。
だが、さすがは鍛冶の匠と音に聞こえたドワーフ族の誂えた甲冑だ。
体格の寸法を測って作製されたこの板金鎧は、部屋着を着ているかの如く全く行動に不自由がない。

「とてもお似合いです。アデラ隊長」
「ありがとう」

装着を手伝ってくれた従兵の賞賛を受け止め、その場でアデラはくるりと廻った。
脚に履くのは一角獣の革をなめしたという稀少なブーツ。
片足分の価値だけでも、聖騎士としての彼女の生涯俸給を軽く上回る。
その代わり、履き心地は極上。
まるで足に羽根が生えたかのような気持ちにさえなる。
脛当て、膝当ても同様の特注品だ。
たった一人の為に、こうまで王国の重宝が集められ、用いられるなど例があるまい。
光の陣営が勇者に掛ける期待が、ここに伺えた。

「ふふふ、本当にお似合いよアデラ。非の打ち所のない、立派な軍装ね」
「魔道士の眼から見ても問題は無いかしら? マリガン」
「ええ…… 重すぎず、軽すぎず。
 各所に施された防御のルーンもしっかりしてるわ」

先のドレイクの来襲時に、勇者アデラを助けて活躍したという触れ込みで、
いつの間にかマリガンは聖騎士庁にまで出入りを許されるようになっていた。
ただし、付き合いの長いアデラは、それを十全に信じている訳では無い。
おそらく聖庁の有力者の誰かが、彼女に致命的な急所を強請られた所為ではないかと推測している。
アデラも、マリガンの魔術師としての実力は少しも疑ってはいない。
協力が得られるうちは頼もしい味方である…… 忠誠心には疑問符が付くが。

「ちょっと外で剣を振るってみていいかな?」
「どうぞ、存分に」

剣を手にして錬兵場へ向かおうとすると、身体の動きに合わせて甲冑がカシャカシャと擦れ合う。
しかし、鋼板の無粋な音と比べれば、ミスリル銀は鎧の鳴る音さえ心地良い。
アデラも一人の騎士として、素晴らしい軍装を纏えば気持ちが昂る。
篭手で固めた手で鞘から刀身を抜き、構える。

「ふんッ……、ハッ、やぁっ! たぁーッ!!」

一振り、二振りと動作を確かめるように基本の型をなぞると、信じられないほどに甲冑が軽い。
切っ先は風を切り裂き、日の光を浴びて白銀の鎧が輝いた。

「隊長、すっごく素敵……」

その様を眼にした従卒が、思わず呟いた時だった。

「ふーん、君はアデラのことが好きなのね」
「……えっ!! そ、そういう訳じゃっ」
「あら? じゃあ嫌いなの?」
「違いますっ。アデラ隊長は…… あっ、憧れなんですっ!」

顔を真っ赤にして抗弁する従卒の肩に、マリガンはそっと手を置いた。
そして、耳元でそっと囁く。

「じゃあ、『アデラが欲しい』とか、『一つになりたい』とか思ったことは?」
「あっ、ある訳無いでしょう! まだ見習いですが、これでも聖騎士団の一員ですよっ」
「うふふ…… 聖庁の人間全員が聖人君子じゃないでしょ。
 君のアデラもひょっとしたら、こっそりそういう妄想を抱えているかもよ?」
「隊長に限って、そんな事は絶対ありませんっ」
「『アデラに限って』? じゃあアデラ以外は、そういう事をするかもしれないって意味よね。
 何か身に覚えでもあるのかしら?」
「うぅ……」

侮辱されて腹は立つのだが、何か口に出せば巧みに言葉尻を取られそうだ。
それが怖くて、うかつに言い返せないのが忌々しい。

「次の戦には、君も参加するの?」
「志願はするつもりです」

(なんでこんな人が隊長殿の友人なんだろうか?)
そんな疑問が、従卒の脳裏から離れなかった。
不躾なほどに近付いたり、気安く触ったり、吐息が当たるほど耳元近くで囁くのは止めて欲しい。
はっきり言って落ち着かない。
ついでに魔道士なんだから、谷間が見えるほど胸元が開いたローブはいかがなものか。

「じゃあ、思い残しの無いようにしといた方がいいんじゃない?」
「お、思い残しってなんですか……」
「好きな人に告白するとか。それ用の店に行って、大人になっておくとか」
「そんなこと、出来ませんよ……」
「なぜ?」
「言いたくありませんっ」

そう言ったきり、従卒はマリガンから顔を背けてしまった。
従卒としての仕事さえなければ、この女術師からとっとと離れてしまいたい。
でもアデラが甲冑を脱ぐ時に、自分は手伝わなければならない。
その役目を誰かに譲る気はないので我慢しているのだ。

「可愛いわねぇ。手取り足取り私が教えてあげようかしら?」
「……何をですか」
「この世の中の半分の事よ」
「世界の半分?」
「うふふ…… 女を知れば世界の半分が判るし、男を知れば、残りの半分が判るわよ」
「ぐっ、からかわないで下さいっ。いくら何でも怒りますよ!」

肩に乗せられた手を振り払い、従卒はマリガンを睨みつけた。

「マリガン、私の従卒を堕落させようとするのは止めて頂戴」

外野の騒ぎを聞きとがめ、アデラは二人に向き直った。

「あっ、お邪魔して申し訳ありません。隊長……」
「御免なさいね。この子があんまり可愛いものだから」

従卒の謝り方は真剣そのものだったが、マリガンのそれはいつも通り遊んでいるかのような雰囲気が抜けない。
アデラにとって友人の行動はまさにいつも通りのことなので、今更それを咎めることも無かった。

「これなら、魔王に勝てるかしら?」

アデラはそう呟く。
以前挑んだ時は無手であったが、実力差は圧倒的だった。
神器を手に、優れた甲冑を纏った位で、その差は埋められるだろうか?
それに答える女魔術師の声は、冷たいほど突き放した声だった。

「さあ、それはどうかしらね?
 どれだけ高価な武装したところで、勝てるかは別次元の話よ。
 なんせ相手はあの『魔王』だもの」
「失礼ですよっ! いくらアデラ隊長のご旧友とはいえっ! 隊長は絶対に勝ちます。
 そして王国を救って下さいます!」
「……だそうよ、アデラ。貴女の勝利は、この子が保証してくれるって」

マリガンは肩を竦めた。
知らないということは幸せな事だ。
魔王の持つ絶大な魔力を、この未熟な従卒は毛ほども判っていない。

(まあ私もあの夜まで魔王陛下の本当の力を理解できていなかったのだから、似たようなものだったけど)

そう思うと苦笑が洩れる。
アデラを追って夢の世界で魔王に出会い、底知れない力の存在を体験した。
だからこそ今なら判る。
王国最強を自負する己の、少なくとも十数倍の魔力を魔王が蓄えており、
それを自在に使いこなす事が出来るという事を。

(うふふ、山は高くなければ登り甲斐が無く、人妻は貞淑でなければ誘惑し甲斐が無いってね……)

自分の卑小さを思い知って、かえってマリガンの胸は高鳴った。
己の求める魔道の深淵とは、全てを賭けるに値する物だという確信が、彼女の情熱に火を付けたのだ。
あの夜を境に、マリガンは一つの壁を破った。
昨年までの自分なら、魔王との差は数十倍はあった。
今は十数倍である。
いずれ、この差を数倍にまで縮めてみせる。
さらにいつの日にか、あの漆黒の背中にこの手を届かせて見せる。
それは、確固たる誓いであった。

「私も、魔王を倒すのに何かが足りないとは思ってるわ」
「隊長……」
「やっぱりアレじゃない?」
「『アレ』って?」
「ほら、私達がナニをした、あの夜に見せたアレよ。私が貴女に一服盛って、手ご……」
「わわわわわあっーーーーーー!!」
「?」

アデラが突然大声を出してマリガンの話を遮ったので、従卒は何の意味か判らなかった。
大人の雰囲気が魅力の隊長にしては、見た事のない慌てぶりだ。

「だっ、駄目よマリガン! そんなこと白昼堂々言っちゃ駄目っ!!」
「じゃあ夜中にこっそりとなら良いのかしら?」
「……アレとかナニとか、手ごって何のことですか?」
「フフッ、知りたい?」
「そんな事聞いちゃ駄目っ! 絶対にダメよっ!」

取り乱すアデラと、面白そうに笑う女術師。
従卒は双方を交互に見る。
一体この二人の間に、どんな秘密が有るのだろうか?
従卒にとって、解けない謎が一つ加わったのだった。


・・・・・・・・・


『古く深き森』の辺に、闇の軍勢の野営地は設けられている。
もう一息で光側のエルフ族に止めをさせる所まで追い込んだ闇の軍勢であるが、
現在大規模な攻撃は中断されていた。
侵攻の要である『煉獄を運ぶ者』が先日の王都奇襲で炎を吐き尽くし、休息が必要になった為だ。

そんな状況の中、イリアは陣地の柵に腰をかけながら林檎を齧っていた。
一人ではなく、側にはフィリオがいる。
ただし、端女である彼女がイリアと同列に坐ることは許されないので、
フィリオは地べたに腰を下ろしていた。

「王都とやらはどんな感じだった?」
「すっごく珍しいものが一杯で、吃驚しました!
 亜人や獣人が居ないし、建物や着てる服も違うし、食べ物の味付けもこちらとは違ってましたっ。
 西の国ってああいう感じなんですね。
 あと白いエルフも大勢居ましたよ!」
「ふん、居留地を追い出された連中が、王都の軍勢に合流してるらしいな」
「他にも、背は小さいのに酒樽みたいに太った髭もじゃの御爺さんたちとか……」

楽しそうにフィリオは喋り続ける。
闇の軍勢が蹂躙した都市は幾つも見ているが、光の勢力下にある大都市を生で見たのは初めてだった。
ほんの僅かな時間だったが、目新しいものだらけの滞在だった。

「それから、ティラナさまの背中に乗せて頂いて、宮殿の屋根を飛び跳ね廻って……」

気が利くのなら、雌剣牙虎の活躍は少々省いて話すべきだろう。
しかし、そこは根が素直なフィリオである。
平静を装うイリアの態度をそのまま受け取り、王都での出来事を包み隠さず話す。

「で、楽しかったか?」
「はいっ、とっても!」
「……」

忠実と正直がこの端女の美徳だが、時々それが過ぎる。
内心イリアは不満を抱えているのだ。
魔王があの雌虎を伴ったというのに、自分には声すら掛からなかったことに。
ただ、そんな詰まらない事で僻んでいると端女如きに知られるのは嫌なので、
そんな素ぶりは見せないが。

(チッ……)

話を聞いている内に、イリアは益々気が塞いできた。
終いまで食べるのが億劫になり、齧りかけの林檎をそのままフィリオに投げ与える。

「わぁ! ありがとうございますっ」

抛られた林檎をすかさず掴むと、フィリオは満面の笑みを浮かべ、齧り残しの果実にむしゃぶりついた。
このように、イリアは食べ残しの果物や、まだ肉が付いている骨などを時折フィリオに与えていた。
イリアにすれば、この風呂係の端女は愛しい主君のことを聞ける貴重な相手である。
取るに足らない下女だが、手懐けておいて損は無い。
そこで、犬に餌付けをするような気持ちで、色々呉れてやっているのだった。
まあフィリオにすれば、イリアがどんな思惑であろうと余り関係が無い。
食べ物をもらえるのならそれで十分だ。
だから、フィリオは彼女のことが好きだった。
果肉がまだ結構残っている林檎を呉れるのなら、何と思われようと平気である。
むしろ、イリアたちが自分を家畜同然に扱う事に、何の疑問も抱かきはしない。
フィリオにとっては、それが自然なのだ。

自分が齧り残した林檎を美味しそうに頬張るフィリオを見て、イリアは無性に腹が立った。
卑しい人間族の端女は、何の不安も無さそうに残飯を貪っている。
それに引き換え、永き時を自侭に愉しみつつ生きる高貴なる闇エルフの自分は、
こんな些細なことで思い悩んでいる。

「……なあ、フィリオ」
「ふぁい?」
「何で、陛下はお前まで王都に連れて行ったんだろうな?」
「ふぇ?」
「あの雌虎なら判る。忌々しいが、あ奴に虎の皮を被せればそれなりに役に立つからな。
 だが、何でお前をわざわざ連れてく必要があったんだ?」

アデラの事を、イリアは詳しく知ろうとはしなかった。
戦の最中に捕らえられた、慰み者のうちの一匹ぐらいの認識しかなかった。
故に、解放されたアデラが、光の勇者として選定されたという事も知らない。
そもそも、魔王は陣営の誰にも王都へ向かう理由を告げなかった。
だから、勇者となったアデラの様子を探るために、フィリオを伴ったという答えには、
イリアは残念ながら至らなかった。

「そんな事は私には判りませんよ」
「……」
「でも、そもそも理由なんて考えなくってもいいんじゃないでしょうか?」
「何だと?」
「私は、陛下が連れて行くと仰るのならその通りにするし、
 連れて行かないというなら残るだけです。
 理由なんて物は、陛下が判っておられればそれで良いと思いますけど」

どうしてそんな事を聞くのかと言いたげな顔で、フィリオは答えた。
彼女は自由な意思で生きてきた人種ではない。
生まれる前から奴僕になることは決まっており、従う事がほとんど本能になっている。
望むことといえば、せいぜい持ち主から不当な罰を受けたくないという事と、
時々配給以外の食べ物にもありつきたいという事ぐらいだ。

「……」

己を完全に魔王に委ねきった端女の瞳が、彼女を見詰め返す。
イリアは言葉を失った。
その瞳には一点の濁りも曇りも無い。
もしも魔王が毒薬を飲めと言ったとしても、フィリオは直ぐに飲むに違いない。
そして飲んでから、飲まずに済ます方法はなかったかと考えるだろう。

(くそっ……)

何も求めない代わりに、何にも惑わされない。
貪欲と放埓が美徳である闇エルフとは、なんと違った生き方であることか。
畜生に相応しい、哀れな生き方だとも思う。
しかし現実にはイリアは迷い、フィリオは迷わない。
そんな事を考えているうちに、ここで悩む事すら嫌になってきた。
何も言わずに柵から降り、フィリオに背を向ける。

「イリアさま、美味しい林檎をありがとうございました」
「……クッ!」

背にかけられた感謝の言葉さえ、今は忌々しい。
イリアは、この端女を鞭打ちにしてやりたいという衝動に駆られた。
もしもフィリオが魔王の所有物ではなかったら、彼女はきっと実行していたに違いない。
去っていく闇エルフの少女の背中を見送りながら、フィリオは林檎の芯を種まで齧り続けていた。


・・・・・・・・・


ベッドに横になった妃の手を、枕元に立ったクルガン王は励ますように握った。

「ご心配をおかけして申し訳ありません。もう何ともありませんから」
「身体を労わらねばならんぞ、ヘルミオーネ。
 もう少しだ。もう少しの辛抱で、全てが上手くいくのだからな」

暗黒竜の来襲があった晩以来、体調を崩して床に伏せったままの妻に、クルガンはそう断言した。
まるで、その未来が既に確定したものであるかの如く、無邪気といっていい声色で王は妃に笑いかける。
夫とは昨日今日の付き合いでは無い。
つられた様に、ヘルミオーネは笑った。
王の言葉に、自然と愛想笑いを浮かばせることが出来るようになったのは一体いつ頃のことだっただろうか。

「ああ、お前も待ち遠しいだろう。
 光の陣営が勝利し、正義が取り戻され…… そして余は、正統な権能と栄光を手にするのだ。
 その日は遠い日の事ではないぞ」
「本当に、待ち遠しいことです」
「うんうん、お前にも苦労をかけた。
 だが、それらが報われる日が来るのだぞ!」

自分がその勝利とやらにどれほどの貢献をしてきたかという事には、
どうやらラルゴンは気を払わないらしかった。
降って湧いた勇者の登場も、彼にとってはある意味当然だった。
英雄王の末裔たる自分が苦難に陥っているのだから、光と善の神々から助力が下されてしかるべきなのだ。
いや、彼にとっては助力が下されるのが遅すぎた感さえある。

「邪竜を退けたアデラの活躍は聞いたであろう?
 あの娘なら、きっと魔王を倒してくれる」
「……ぅ」

何気ないクルガン王の一言だったが、その名前を聞いた瞬間にヘルミオーネの表情は翳る。
しかし、上機嫌で独り善がりの想像を語るクルガンは、妻の変調に気が付かなかった。

「いかに魔王とは云え、勇者が誕生した以上恐るるに足りん。
 だからな、早く本復せねばならんぞ。
 邪悪な勢力が滅ぼされ、平和と繁栄が復活するのを共に祝おうぞ」
「はい…… では、一日でも早く床上げ出来る様に、もうお休みさせて頂くことと致しましょう」
「そうか? うむ、それが良いな。ではゆっくり休めよ」

念を押すように何度も頷くと、クルガンはようやく王妃の寝室を去った。
夫から解放されたヘルミオーネは、安堵したように息を吐く。
慣れているはずの夫の相手が、なぜか今日は疲労に感じた。

(単に、体調が優れない所為なのかしら? それとも、もう私もそんな歳?)

まだ三十にもならないというのに、自分の身体はどうなってしまったのか。
あの日までは、いつも変わらない日々の積み重ねだった筈なのに。
絹の綿入れを被り直すと、ヘルミオーネは安息を求めて瞼を閉じた。
しかし、先程夫の口から洩れた名が、彼女に安らかなる眠りを与えなかった。

(……う、)

暗黒竜が王都を襲撃した夜、同時に魔王も出現していたという事は、光側では三人の女しか知らない。
一人は勇者アデラ、二人目は女術師マリガン、最後は王妃ヘルミオーネだ。
魔王は妖術を用いて王宮の人士から正気を奪い、その出現を悟らせなかった。
唐突に現れて数名の兵士を殺傷し、宮殿の屋根を跳ね回って逃げた魔獣の存在も併せ、
それらは暗黒竜の攻撃を支援するための撹乱工作だと、廷臣およびクルガン王は判断した。
真実は、王妃によって伏せられた。
彼女がアデラに口止めをしたのだ。
自分が夫の前で陵辱されたという事実を、誰にも漏らして呉れるなと。

石化術を解かれたクルガン王は泥酔していた所為もあって、
禄にあの時のことを憶えていなかった。
それは彼ら夫婦にとって幸いな事だったに違いない。
情緒不安定なクルガンが、自分の前で妻が辱められたと知ればどんな反応をしたことか。

目を閉じると、魔王にされた行為が脳裏に蘇った。
細いが強靭な力が篭った腕で組み敷かれ、
冷たい掌で身体中を触られ、
唇を奪われ、乳首を摘まれ、臀部を撫でられ、太腿を割って秘所を弄られ……
彼女には、魔王を憎む資格がある。
そして憎むべきなのだ。
光の陣営に生まれた身として、王妃という地位にあって、魔王を許すということはありえない。
さらに女としても、自分を蹂躙した男に憎悪を抱いてしかるべきなのだ。

だが、身体は憶えてしまった。
魔王との出会いで知った、男女の交わりの味を。
あれこそが、身も焦がれるような官能の歓びなのだ。
夫からは与えられなかった法悦を、あの晩初めて感じてしまったのだ。

豪華な寝台の上で一人、ヘルミオーネは煩悶した。
二度と、あの男と会う事は無いだろう。
そして会うべきでもない。
だが、知らなければ己の不幸を自覚することも無かったろう。
記憶だけが、冷たい人生に焼き鏝を当てられたが如く残る。
火傷の如く熱い一夜の思い出だけを残したまま、自分は再び賢く貞淑な王妃に戻らなければならない。
そんな人生を受け入れ、続けて行く覚悟は出来ていたはずなのに、今は何故か一抹の哀しさを憶える。
燻る想いを押し殺しながら、彼女は瞳を閉じた。


・・・・・・・・・


そこは広い浴室だった。
古代帝国期に各地に造られた、公衆浴場並みの広さがあった。
絶え間なく湧き出す熱水が地下から汲みだされ、大理石の浴槽に注ぎ込まれている。
ただし、この浴室に居たのはたったの二人だ。
大理石の縁に背をもたれかからせた、恐ろしいほどに青白い肌をした白髪の女が一人。
その女に背後から抱き締められ、女の両脚の間に納まるように坐った少年が一人。
二人は重なるように湯に浸かっていた。

「師よ、何人も運命を変えることは出来ないのですか?」

少年は、抱き締められたまま背後の女に問うた。
二人は師弟である。
そして同時に男女の関係でもある。
湯に煙る浴室も、二人にとっては教育の場であった。
背中に当たる女の柔らかい肉の感触よりも、少年の関心は世界の真理に向かっていた。
そんな真摯な態度を愛でるように白髪の女は微笑み、授業を続けた。

「ご覧…… 我が弟子よ」

女は湯面の上に腕を伸ばした。
細く、白い指先から水滴がぽつりぽつりと落ち、湯面に波紋を形作る。
そしていくつもの波紋が重なりあって、複雑な紋様を織り成していく。

「落ちる水滴と波紋の間には因果が存在する。
 それは、神々でさえ抗えぬ黄金律だ。
 そして何者であろうとも、波紋を作らずに水面を歩むことは出来ない。
 現世の事象とは、生ける者と死せる物たちの波紋同士で揺蕩う大海原のようなもの。
 運命の内側にあるものが、その水紋を変えようと動くのなら、新たな水紋を造らずには居られない。
 複雑に絡み合う宿命を読み解き干渉するのは、
 混沌の中から秩序が発生するのを観測するより難しいだろうな」
「御身にでさえもですか?」
「私にも、お前にもだよ」

少年は、雫が象る水紋に視線を注いだ。
この湯面が世界としたら、師と己がこうして湯を浴びることも水紋の波の一つ、運命の一欠片に過ぎぬのか。
だとしたら、なんと師も自分も矮小な存在であることか。

「末頼もしい子だな。
 無窮なる運命の深淵さえも、お前の渇望を止めることはできぬのか」

揺らぐ波紋をじっと見詰める教え子を、師は愛しげに抱き締めた。
世に稀なる資質を持ちながら、なお全ての叡智を掻き集めるには足らぬと己の非才を嘆く――
若き弟子に、女はかっての自分の姿を重ね合わせていた。

「良く聞く事だ。我が賢き弟子よ」
「……はい、師よ」
「宿命を変える事は、水面を歩む者たちには無理だ。
 もしお前がそれ変えようと欲するのなら、宿命の外に飛翔し、世界に相対さねばならぬ」

女は、少年の身体を強く抱き締めた。
魔道を極めた自分にすら不可能な事だが、この弟子ならばやり遂げるかもしれない。
彼女には、そんな期待があった。

「……出来ましょうか、そんな事が」
「可能かもしれないし、不可能かもしれない。
 しかし、お前が運命を変える運命には無いと、誰に判るのだ?」
「あっ……」

白い手が、いつの間にか弟子の膝の間に忍び込んでいた。
そこにある男子の証左を掴まれて、少年は思わず声を上げた。
根元から先端まで、指が巧みに撫で上げてゆく。

「授業は終わりだ、我が弟子よ。
 続きは、またいずれ話してやろう。
 それより今は―――― 」


女の声は、そこで終わった。

 

「……ん」

湯屋で、魔王は瞼を開けた。
浴槽の脇には、寵姫であるネリィが立っている。
ティラナが魔王の湯船を損傷させてしまったため、新注されるまで彼はネリィのそれを使わざるを得なくなったのだ。
生憎と虎も浸かれる巨大な湯船と比べれば、彼女の物は大分小さいが。

「……ネリィ」
「はい、陛下」
「余はどれほど眠っていたか?」
「あっ、……お休みになられていたのですか?
 申し訳ありませぬ。数えてはおりませんでした」

ネリィは面目なさげに頭を垂れた。
だが、常日頃から瞑目することの多い魔王である。
目を閉じているだけなのか、瞑想に耽っているのかの区別はつき辛い。
そんな時はいつも、邪魔をしないように控えているのが常だった。
よって、この場合も眠っていた事に気付けという方が難しかったろう。
魔王もネリィを責めることも無く、ただ呟くのみであった。

「夢を見た…… かって黒檀の玉座を所有せし、偉大なる魔道士とその弟子の夢だ」
「……?」
「まだ与える者と欲する者の心が一つであった、幸福な時代の二人。
 あれは―― 」

話し続けようとした瞬間、仮湯屋の外で盛大な水音が鳴った。
それに阻れて、ネリィは続く言葉を聞く事が出来ずに終わる。
魔王が何を言おうとしたのか、もはや彼女には知る機会が与えられなかった。

「ちょっとクォン! しっかりと腰を入れて運ばないからよ」
「……ごめんなさい」
「もうっ、私だって自分が食べていくだけで精一杯なんだから。
 働けないなら、身体か命で稼ぐしかないんだからね!」

水を入れた桶でも落としたか、新入りの端女を先達が叱っているようだ。

「そこの者たち、静かになさい。陛下がご入浴中なのですよ?」
「あっ、ご無礼いたしましたっ。水は直ぐに運んでおきますので」
「急いで頂戴ね」

そう、いつも魔王の入浴の世話をする端女たちも、仮湯屋の中にまでは入ってこない。
毒姫の湯屋になど、誰が入りたいと思うだろう。
ここは、ネリィが魔王を独り占めできる場所だ。
主には悪いと思うが、ネリィにとっては新しい湯船が完成するのは遅いほど嬉しい。
二人きりになれる機会が、湯船が壊されて以来ずっと増えた。
だから、拙いながらも彼女は自分一人で魔王の入浴の世話をする。
魔王はいつも通り眉も動かさずに、黙って寵姫の奉仕を受け入れていた。

だが、湯を浴びながら眠るなど未だかって無かった。
まして、微睡みの最中で夢を見るなどということは。

(意図せずに夢に落ちるなど、幾年ぶりの事か……)

図らずも、術を使わずに夢を見たのは久方ぶりであった。
魔力を消耗している所為ではない。
この程度の状況は、過去に何度もある。
何故、この時期にあの夢を見たのか。
それは兆しであるのか。
答えを探すために、魔王は瞼を閉じた。
しかし、いくら瞑目を続けても、あの夢の中に再び落ちることは出来なかった。


(終わり)

 

 

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最終更新:2008年12月28日 08:16