終戦の日:戦後60年 刻みつける平和/語り継ぐ4世代

終戦の日:戦後60年 刻みつける平和/語り継ぐ4世代
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終戦の日:戦後60年 刻みつける平和/語り継ぐ4世代
市民の平和への思いが詰まったガリ版刷りの文集「戦後六十年 平成の今、考えること」
 戦後60回目の8月15日が巡ってきた。あの戦争を経験した世代は減り、未来にどうつなげるか問われる終戦記念日。しかし、改憲の動きや靖国神社参拝を巡る問題はくすぶり、節目の年は、子や孫に平和を引き継ぐ岐路にあると言っていい。戦争の悲しみ、怒り、犯した罪を、もう一度思い起こさねばならない。追悼式や各地の集会では、そんな決意が聞かれ、平和な世の中を誓った。

 ◆刻みつける平和

 ◇鉄筆に思い込め、ガリ版刷り体験集発行--明石の安藤さん

鉄筆で一文字一文字をろう原紙に刻む安藤さん=兵庫県明石市で、花岡洋二写す
 戦後60年の終戦の日にあわせて、兵庫県明石市の印刷業、安藤信義さん(70)が、昔懐かしいガリ版を使った平和文集「戦後六十年~平成の今、考えること」を15日発行した。終戦直後から80年代にワープロが登場するまで、学校や職場などで活躍したガリ版。戦争遺族や在日コリアンら全国の約160人が体験文などを寄せ、次代につなぐ平和への思いをガリ版に刻んだ。【花岡洋二】

 ◇母は軍歌を徹底的に嫌った。口ずさむのは、死んだ息子や娘の愛唱歌だった

 安藤さんは、明石空襲を経験し、米潜水艦による輸送船「阿波丸」の撃沈で兄を亡くした。こうしたさまざまな戦争体験を語り継ごうと、文集発刊を提案。鉄筆に寄稿者の思いを込め、ろう原紙に一つ一つの体験文や短歌などを刻んでいった。

増田順一さん
 呼び掛けに応じて寄稿した神戸市灘区の増田順一さん(67)は、1945年6月の神戸空襲で、兄と姉を亡くし、叔母一家4人も長崎原爆の犠牲となった。

 <母は戦争を憎み、軍歌の懐メロを徹底的に嫌った。針仕事で口ずさむのは、死んだ息子や娘の愛唱歌だった>

 体験文をそう結んだ。増田さんが疎開先から戻った時、母に、大切な家族を奪った空襲や長崎の話を生涯覚えておくよう言われたという。自分の孫の代に家族が受けた戦争の傷を知ってもらおうと娘とめいに文集を渡す。

金忠さん
 大阪府忠岡町の在日コリアン2世、金忠亀(キムチュング)さん(69)は、短歌15首を寄せた。父は戦前、韓国から兵庫県北部に渡り、鉱山で懸命に働いた。

 戦争で生活はより貧しくなり、金さんは学校で同級生に「弁当が臭い」といじめられる。おかずはキムチだけだった。心配した母は、キムチを水洗いして弁当に入れた。

 <キムチ売る店の増えいる街ゆきつつわが少年期の差別を思う>

 時代が大きく変わったことを歌に込めた。

 反対に、戦後築いてきた平和立国が崩れそうな危機感を、こんな歌に託した。

 <異邦人のわれも守られ来し九條改憲許すなの声を上げたし>

 活版印刷職人だった増田さんは、雑誌を読んで青春論を語るサークルに所属し、機関紙をガリ版で刷った。金さんは大阪の民族学校で教師をしていた時、ガリ版で教材を刷った思い出がある。

 安藤さんは「この文集が、戦後60年の平和を求める証人となってほしい」と話している。B5判、194ページ。希望者には実費(1冊なら郵送料込み1300円)で販売する。安藤さん(078・912・2733)。

 ◇「市民交流で問題解決」--大阪でアジア平和集会

「戦後60年集会」の講演を真剣に聴く若者たち=大阪市北区の中央公会堂で15日午前10時23分、梅村直承写す
 大阪市北区の中央公会堂で15日、「アジアを共に生きるための戦後60年集会」(同実行委主催)が開かれた。日本、中国、韓国の歴史研究者やイラク人カメラマンらが、日本の歴史認識や自衛隊のイラク派遣などをテーマに、反戦・平和の提言を発表。戦争を知る高齢者や若者ら約400人が聴き入った。

 内海愛子・アジア太平洋資料センター理事が靖国神社の問題などについて講演。「日本兵の遺骨は放置され靖国に合祀(ごうし)することで遺族の口を封じた。夫や父の悲劇にこだわり、国民を動員した指導者の責任を追及しなかったのが問題」と訴えた。

 1938~43年に旧日本軍が重慶を中心に行った空爆について賠償を求める原告団の顧問、牟之先(ムゥジイシェン)さんは、昨年、重慶で開かれたアジア杯サッカー決勝の日本対中国戦で、ファンが一部暴徒化したことを取り上げた。「重慶空爆で2万3600人の市民が犠牲になったが、大半の市民は暴徒化したファンに賛成していない。互いの市民が交流することで、問題は解決できる」と話した。

 イラク・ファルージャでの米軍による住民虐殺を撮影し、逮捕されたイサム・ラシードさんは現地の生々しい様子を説明した。

 集会に参加した大阪市立大1年、森田実紀さん(19)=同市港区=は「祖父母が大阪大空襲に遭った。戦争がなぜ起き、被害者はどう考えているか知りたい」と話した。

 壇上に上がったアジア各国からの招待者10人を前に、主催者が「日本を再び戦争のできる国にさせないよう、努力を続ける」などとした不戦の誓いを読み上げ、会場は拍手に包まれた。【花岡洋二】

 ◆語り継ぐ4世代

 ◇つむぐ歴史の記憶

 終戦の日の15日、東京都千代田区の日本武道館で開かれた全国戦没者追悼式(政府主催)は、高齢のため初めて戦没者の父母が参列しなかった一方で、妻からひ孫までの4世代がそろって追悼する家族もあった。戦後60年がたち、戦争の記憶がいっそう風化する中で、平和を願う思いが新しい世代に引き継がれる節目の年になった。【玉木達也、鳴海崇】

 ◇「95歳」最高齢・田中さん参列

 「長い時間をかけて日本は立ち直った。ようやったな、と喜んでくれるやろ」。参列者で最高齢となった和歌山市の田中勇さん(95)は、旧満州で戦病死した兄の三郎さん(当時36歳)をしのんだ。

 洋服商だった兄は三つ下の自分を可愛がり、スキーの用具も買ってくれた。41年7月に召集で店をたたむと「母ちゃんを大事にしてくれ」と言い残して出征した。

 2年後、勇さんも陸軍に入り、船舶兵として台湾やフィリピン、朝鮮半島を転戦した。米軍の機雷で沈む潜水艦から、命からがら泳いで逃げたこともある。数多くの戦友が犠牲になった。

 激しい攻撃を受ける前夜は、和服姿の兄が枕元に立った。「おい」。それだけの言葉で「危険が近いと教え、守ってくれた」と思う。怖さが消えた。44年2月、夢の中の兄は目の部分を残し、包帯を巻いていた。翌日、家族からの電報で、亡くなっていたことを知った。

 勇さんは戦地を逃げ回りながら終戦を迎える。復員後、焼け野原になった故郷で兄と同じ洋服店を開いた。「もう絶対に戦争をしたらいかん」。兄や仲間が、ずっとそう話しかけてくる。

 ◇「戦争ないよう見守って」--福井

 ◇「いつか帰ってくる」と帰還を信じた妻。だが、夫は戦地で餓死していた

 福井市で開かれた「戦没者追悼式」には、夫が戦死した黒田トシヲさん(91)=同市高木中央1=が、ひ孫までの4世代計9人で参加、犠牲者の冥福と平和への祈りをささげた。戦後60年。苦しい時代を共に生き、歴史を紡いできた家族が、記憶を受け継いでいく。

 黒田さんは同郷の一男さんと結婚し、3人の娘をもうけた。しかし、結婚後8年で一男さんは召集を受け、3年半後の1945年2月、ニューギニアで戦死。39歳だった。終戦後に通知を受けたが遺骨はなく「いつか帰ってくる」と信じた。だが約10年後、訪れた一男さんの戦友に「最期は餓死だった」と告げられ、現実を受け入れた。

 出征の日、一男さんが残した言葉は「子どもだけは頼む」。45年7月の福井空襲では1人で3人の幼い子どもを連れて逃げた。戦後は女手一つで米を作った。48年の福井大地震では自宅が全壊した。つらくなると「夫が生きていてくれたら。戦争なんかなければ」と何度も思ったが、家族が身を寄せ合ってくぐり抜けてきた。

 毎年、この時期になると家族と一男さんの思い出を語る。この日は近所のお墓に参った後、追悼式に参列。苦労をともにした長女加代子さん(72)と二女登美子さん(69)に、孫の章代さん(45)、ひ孫の康生君(13)、翔英君(3)、亘君(1)ら5人も加わった。

 黙とうの後、祭壇に遺族を代表して献花した。康生君は遺影でしか見たことのない曽祖父に「家族のために頑張ってくれてありがとう。世界から戦争が無くなるよう、見守っていてください」と語りかけた。【田辺一城】

 ◇しっかり手つなぎ

 フィリピンで1945年に戦死した高知市の森澤敏郎さん(当時27歳)の遺族も4世代で参列した。妻富さん(83)の思い出は「元気がいい、気持ちのいい人」のまま変わらない。敏郎さんが43年末に召集された時、妊娠していた。翌年1月に生まれた長男秀(しゅう)太郎さん(61)は一度も父親に会っていない。出生前から敏郎さんが命名し、生まれて戦地に写真を送ると「元気そうでよかった」と返事が来た。

 秀太郎さんは「子どもや孫ができ、父の無念さが分かった」と言う。富さんや秀太郎さん、二男之善(ゆきよし)さん(32)らに加え、参列者全体で最年少となる秀太郎さんの孫佑紀君(6)の6人が訪れた。

 秀太郎さんの妻由喜さん(59)は「孫は小さいので今は理解できないけど、小学校高学年くらいから戦争について教えてあげたい。何年か前に、みんなで追悼式に来たことを思い出し、戦争や平和のことを考えてくれれば」と思っている。

 ◇甲子園で黙とう

 第87回全国高校野球選手権大会が開かれている阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)では、15日正午、約1分間の黙とうをささげた。第2試合の駒大苫小牧(南北海道)-日本航空(山梨)戦が一時中断され、選手や観客らは目を閉じて戦没者の冥福と平和を祈った。【平川哲也】

毎日新聞 2005年8月15日 大阪夕刊
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最終更新:2005年12月12日 12:29
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