椛3
うpろだ1040
パチリ、……パチリ。
辺りに聞こえるのは、流れる滝の音と駒を打つ甲高い音だけである。
私が駒を動かした後、目の前の人物は長考に入った。
今、私たちがやっているのは将棋である。
とはいっても、いつも河童とやっている大将棋とは違い、普通の将棋である。
既に大勢は私に傾いており、いつ彼が投了するか、といったところだ。
ちらりと彼の顔を見れば、眉間にしわを寄せ、真剣な表情で盤を見つめている。
いくら考えても無駄だろうと思う一方で、その真剣さを好ましく思う私もいた。
やがて、彼は落ち込んだ表情を見せた後、居住まいを正した。
「負けました。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
礼と共に挨拶をする。
顔を上げた彼は、ひどく残念そうな顔をしていた。
「あーあ、途中までは調子良かったのになぁ……」
「あそこでそんな風に思っていたなら、まだまだですね」
「ぐっ……。しかし、椛は強いなぁ」
「まぁ、年季が違いますからね」
人間と違い、妖怪には有りすぎるほどの時間がある。
暇を潰すのも、楽ではないのだ。
「そういえば、これで通算52連勝ですね」
「ええい、次こそは勝つ!」
ビシィッと大きな音がしそうなポーズで私を指差す。
そんな彼を見て、私は常日頃から思っていたある疑問をぶつけた。
「一つ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
ゴクリと唾を飲み込む。
彼の返答次第では、私たちのこの奇妙な関係も壊れてしまうかもしれない。
それでも聞かずにはいられなかった。
「あなたは、私とこんなことをしていて楽しいですか?」
「……? 楽しくなきゃやらんだろ」
「質問の仕方が悪かったですね。では、あなたは負け続けても楽しいのですか?」
いつものように会い、いつものように話し、いつものように将棋を打つ。
その繰り返しの中で、次第に私は彼に惹かれていった。
だから、不安……だった。
本当は彼は楽しくないんじゃないか?
私に無理して合わせているのではないか?
もし、そうなら彼はいずれここに来なくなるのではないか?
そして、彼との絆が消えてしまうのではないか?
私は怖かったのだ。
それで、確かめることにした。
私の問いに対し、彼は顎に手を当て考える素振りを見せた。
少し経ち、彼は口を開いた。
「さっきも言ったけど、楽しくなきゃやらないよ」
あっけらかんとした口調でつぶやく。
それは、いつも通りの能天気で優しい彼だった。
「もしかして、何か責任でも感じてんのか? どこまで殊勝なんだよ、おい」
にしし、と笑いながら、からかうように言う。
彼の言葉が、私の思いが杞憂に過ぎなかったことが、何よりも嬉しいのに思っていたこととは別の言葉が出た。
「なら、手加減する必要は皆無ですね。次もあなたの負けで決まりです」
「上等だ! 絶対、勝つ!」
立ち上がり、腕を組んで不敵に笑う。
そんな彼が本当に眩しかった。
とりあえず、悩み事は一つ減った。
ただ、この調子では最大の悩み事を解決出来るのは当分後になりそうだ。
そう、彼に私の思いを伝えるということを……。
それにはまず、私が素直にならなければならない。
それが唯一にして、最大の障害であることは、他ならぬ私が一番理解していた。
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うpろだ1045
「俺……椛との将棋に勝ったら告白するんだ」
その言葉を聞いたとき、私、射命丸文は飲んでいた緑茶を吹き出しそうになった。
「げほげほ……。今、何て?」
「いや、だからさ、椛との将棋に勝ったら彼女に告白しようと思って……」
再度、問うてみるも、やはり聞き間違いではなかった。
「その、普通に告白すればいいのでは?」
「何ていうかさ、俺って文や椛と違って、ただの人間だろ? 何にも出来ない弱い俺じゃ、椛には釣り合わない」
「それで、何故将棋?」
「だから、何か一つでも椛に負けないものを作ろうと……。それに一種の願掛けにもなるし」
そこまで聞いて、私は目の前の奇妙な朴念仁に呆れる他なかった。
元々、普通の人間、いや多くの妖怪達以上に突拍子のないことを思いつく彼ではあったが、まさかここまでとは……。
単に、弱い自分じゃ釣り合わないから、強くなってから告白する。ここまでなら、まだ分かる。
だが、その手段がよりにもよって将棋とは……。理解に苦しむ。
「そんな頭抱えて、珍獣を見るみたいな目で見ないでくれ」
「珍獣の方がまだ居そうです……」
「そんなに変かなぁ……」
「変に決まってます! 一体どう飛躍したら、そんな考えになるんですか!?」
私は立ち上がり、彼に人差し指を指す。
「古今東西、あなたみたいな訳のわからない人は見たことないです!いいですか、そもそも出来ないことをやっても意味がありません!」
「む、そんなのはやってみなきゃ分からないだろうが」
「いいえ、分かります。一生かかっても、あなたは椛に勝てません! それぐらいの差があります!」
「ぐっ……」
興奮した体を宥めつつ、座りなおす。
そして、彼に聞こえないように一人ごちる。
「全く、椛といい○○さんといい……」
以前、椛から相談を受けたことがある。
曰く、私は○○さんのことが好きだが、どうも素直になれず思いを伝えることが出来ない、と。
ちゃっちゃと伝えてしまえばいいのに、と何度言ってもそれが実行出来ない椛にやきもきしていたのだが……。
彼と椛が実は両想いだったということは喜ばしいことだが、ひいき目に見ても、そこから進展するとは思えない。
しかし、逆に何かがあれば進展する可能性もあるわけだ。
私は一人笑みを浮かべ、計画を練り始めた。
「あそこで言えば良かったのに……」
椛と○○さんが将棋をしているのを、私は少し遠くから見つめていた。
如何に椛の能力とて、風を使い姿と匂いをごまかした私は、よくよく注意しなければ見つけられないだろう。
しかし、あんな質問を自分からしておいて……。
素直になれないというか何というか。
しかも、○○さんは○○さんで全然気がついていないし。
はぁ……。
「それじゃ、やってみますか」
右手を前へ伸ばし、風を操り始める。
最初はゆっくりと、少しずつ。椛に気取られないように。
そして頃合いをみて、一際強い風を○○さんの元へ送った。
椛が風下となるように。
「うおっ!」
立ち尽くしていた○○さんは将棋盤の方、椛を巻き込んで倒れこんだ。
さすがの椛も急なことに対処できなかったようだ。
「痛てて……、怪我はないか椛?」
「は、はい……。あなたも大丈夫ですか?」
先ほどのように、風に乗せて二人の会話を盗み聞く。
もつれ合ったまま、互いに心配し合っていたようだが、少しした後、ぴたりと二人の動きが止まる。
二人はお互いに見つめあったまま、ここからでも分かるほど、顔を真っ赤にしている。
第一段階は成功、といったところか。
私の立てた計画とは、二人を無理やり密接させてお互いのことを今まで以上に意識させよう、というものだ。
後は、野となれ山となれ。
○○さん、男を見せるなら今ですよ!
キスしましょう、キス!
……て、何離れてんですか!
しかも、顔真っ赤で椛に背中見せて!
ええい椛、今すぐ○○さんに後ろから抱きつきなさい!
そしてその勢いで……。
「……すまん、もう帰るわ……」
「……え、ええ。また……」
え、ちょ、ホントに帰ってるし!
椛も椛で将棋盤片付け始めてるし!
だ、駄目だこの二人……。
意気地がないにも程がある……。
やがて、二人の姿は引っ込んでいった。。
私は大きな溜め息を吐かざる負えなかった。
「あんな状況なら、キスの一つや二つ、いやそれ以上のことが起こってもおかしくないでしょうに……」
しかし、こうくっつくかくっつかないかぐらいの方がおもしろいのかもしれない。
いざ、付き合いだしたら、きっと目の前で惚気られるだろうし。
まぁ、いい暇潰しが出来たことにしておこう。
成功したら、この顛末を新聞に書くことも出来るのだから。
暇を潰すのも楽ではないのだ。
今の私に出来たのは、こうやって少しでも前向きに考えることだけだった。
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うpろだ1085
それは酒の席での何気ない一言だった。
『椛も将棋ばっかり指してないでもっと外で遊ばなきゃ駄目だぞ』
別にムキになって反論する程の事でもない。多少の自覚はあるし、仲間内で同じように揶揄された事だって一度や二度ではなかった。
だから今回もいつものように軽く受け流しておいた。
「考えておきます」とか「任務が大事ですから」とかそんな風な事を言ったと思う。
酔っ払い同士の話題なんてものはちょっとした事ですぐに移り変わってしまうものだ。
いつの間に会話が飛躍したのやら、気がつけば文さんは一升瓶を抱きかかえて報道の何たるかを声高々に主張し、○○さんはそれに控えめな野次を飛ばしつつヤツメウナギに舌鼓を打っていた。
その後暫く続いたささやかな酒宴は、店主の「今日はもう店仕舞い」の一言を機にお開きとなり、念の為里まで送ってくると言って○○さんを抱えて飛び去る文さんと別れ、私は家路に着いた。
あくる朝、寝ぼけ眼のまま布団から這い出た私は、今日が非番だったことを思い出してつい二度寝の誘惑に駆られたものの、結局そのまま家を出て少し先にある河まで辿り着き、そこへ躊躇無く飛び込んだ。
ふにょふにょと形を成さない胡乱な意識は冷たい河水の流れの中で次第に鮮明になっていき、同時に昨夜の記憶を呼び起こす。
浮かぶのは酔っ払って赤らんだ○○さんの顔。
気にしていない筈だった。
いや、白状しよう。正直ムッとした。そんな言い方は無いとも思った。
だってそれではまるで、私が将棋を指すことしか知らない退屈な妖怪みたいではないか。
確かに彼が山に訪れた時、私はいつも対局してくれとせっついていたかもしれない。
だが、それはあくまで仕事柄持ち場を離れられないからであって、その上で暇を潰すには将棋くらいしかする事が無かったからに他ならない。
彼は其処の所をちゃんと理解しているのだろうか。
「ぷはっ」
水面から勢いよく顔を上げて息を肺に送り込む。
それと同時に燻っていた思考は呆気なく霧散してしまった。
既に目は覚め、頭も冴え始めていた。一度空になった脳にはすぐさま別の思考が割り込んでくる。
退屈? 上等だ。
ならば教えてもらおうではないか。貴方の言う愉快な遊びとやらを。
たかだか一介の人間が、端くれとはいえ天狗であるこの私にしたり顔で説教をしてくれたのだ。ならばその辺り、きっちりと責任を取ってもらおうじゃないか。迂闊な事を口走ったと精々後悔するがいい。
自然と口元に挑みかかるような笑みが浮かぶ。頭の中では棒切れを遠くへ放り投げる○○さんと、それを嬉々として拾ってくる自分の姿が描かれていく。自分の発想に若干ヘコんだ。
気を取り直して陽が昇る東の空を睨み付けてから、一人不敵に嘯く。
「……ふふふ、楽しみです」
貴重な休日を充ててまで会いに行くのだ。それ相応の対価は期待させてもらうとしよう。
「で、意気揚々と里に降りてきてこの始末か」
もふもふもふ。
「はい……あの、猛省しております。ですからそろそろ放してもらえませんか?」
ふにふにふにふに。
「不許可だ」
なでなでなでなで。
「……わふ」
身支度をして家を出た私は早速山を降り里を訪れ、そこであまりの活気の良さに驚かされた。
朝も早い時間だというのに既に通りは行き交う人達でごった返しており、いくつか店も開いているようだった。
物珍しさからその一つ一つを見物しながら歩いていると、開けた一角に人だかりができているのを見つけたので近寄ってみれば、なんと若い人間の娘が怪しげな仮面を被った連中に絡まれているではないか。
他種族の事とはいえ、一人の女性を多人数でどうこうしようというのが気に食わなかったので、私はついそこに割って入ってしまった。
「貴様等! 白昼堂々かよわき女性に対し無礼の数々。恥を知れ!」
突然の第三者の介入にうろたえる仮面の男達。
「て、天狗様!?」
「如何にも。不肖、白狼天狗犬走椛、このような無法断じて許さん!」
「誤解ですって。我々は」
「黙れ! 潔くこの場を去ればよし。退かぬと言うのなら貴様から刀の錆にしてくれる!」
「いや、だからこれはいわゆるお芝居という奴でして、ちょ、話聞いて! 刀向けないで! 座長! ざちょー!!」
後で聞いた所によると、それは一座の宣伝を兼ねた出張キャンペーンというものだったらしい。
そんな事とは露知らず大見得を切ってしまった私は、山の天狗が劇に乱入して大立ち回りを演じているとの騒ぎを聞きつけてやってきた里の守護者と ○○さんによって取り押さえられてしまった。
そして今に至るわけだが、
「もう本当に勘弁してください……人の目が痛いです」
情けない声を上げるのには理由がある。
「いや、何というかこの抱き心地が癖になってしまって」
今の私はお仕置きの名の下に、茶店の軒先の長椅子に腰掛けた○○さんの膝の上に乗せられて耳を弄られたり頭を撫でられたりされているのである。
公衆の面前でこれは非常に情けない格好だ。何かこう、天狗の名誉とか誇りとかそういったものに、大きな傷をつけているような気がする。
しかし私には先刻の負い目があるのであまり強く出ることも出来ない。己の不甲斐なさについ心情が零れ落ちてしまう。
「文さん、大天狗様、申し訳ありません……」
「何の話だ?」
不意にその手が尻尾に伸びる。
「ひぁ!? だ、だめっ、シッポは!尻尾はやめてください!」
「ここかー。ここがええのんかー」
「うううぅ……文さん助けて」
「はい、そこまでだ。と」
いい加減○○さんの暴走を見かねたのか、隣に座っていた上白沢慧音と名乗る女性が彼の凶行を止めてくれた。
そして椅子から腰を上げると、こちらを苦笑交じりに見下ろして告げる。
「まぁ里を襲いに来たというわけでもないみたいだからな。私は帰るよ。○○、あまりその子を苛めるんじゃないぞ」
「馬鹿を言え。こんなに嬉しそうにはしゃいでる椛の姿が見えないのか」
「嫌がってるんです!」
しれっとした顔で言い張る○○さんを見て、偶に、この人は本気で言ってるんじゃないかと思ってしまう。
慧音さんはやれやれと肩を竦めてみせると、今度こそ「じゃあな」と言って立ち去ってしまった。
二人して彼女の背中を見送っていると、不意に○○さんが口を開いた。
「さてと、折角里まで来たんだ。この○○さんが隅から隅までズバッと案内してやるから大船に乗ったつもりでだな」
「……結構です。私ももう帰りますから」
拗ね気味に呟く。我ながら大人気ないと思うが暗澹とした気持ちはどうにも晴れない。
最初はちょっとした悪戯のつもりで、だけど本当はとてもわくわくしていたのだ。
いつも足を運んでもらうばかりだった○○さんに、私の方から会いに行く。
きっと、とても驚くに違いない、と。
なのに。
「ちゃんとエスコートしてやるから」
私を抱きかかえたまま○○さんは言う。
「信用できません」
「むぅ」
いつまでもへそを曲げたままの私を見て弱ったように唸る○○さん。
違うんです。こんな風に困らせるつもりで来たわけじゃ―――
「よし。ちょっとここで待ってろ」
そう言うと、○○さんは私を残して茶店を離れて歩き出してしまった。
呆れて行ってしまったのかと思い不覚にも涙が滲んだが、待っていろと言われたので我慢して待つことにした。
○○さんはすぐに戻ってきてくれた。
「な、泣いてるのか?」
慌てて目を拭う。
「泣いてない、です」
「あー、……悪かった。ちょっとからかいすぎたな」
「……っぐす」
「悪かった。ホントに。ほら、お詫びの印」
そう言って開いた手に持っていたのは、
「……かんざし?」
「ヘアピンって言うんだ。そこの露天で買ってきた」
小さな鈴のついた髪留めだった。
「私に、くれるんですか?」
「あーげない。とでも言うと思ったか」
「○○さんなら言うかもしれません」
私の言葉に渋面を作る○○さん、それを見て思わず笑ってしまう。
受け取ったヘアピンを耳の横の髪に挟み込むと鈴が小さく揺れてチリンと音がした。
それを見て満足したのか○○さんはにっと笑って「よし」と呟いた。
「さ、行くか。おっちゃーん、お勘定ここに置いとくぞー」
店の奥から返ってきた「毎度ー」と言う声を背に○○さんは歩き始め、慌てて私もその後について行く。
「あ、あの」
「うん」
「ありがとうございます。絶対、大事にします」
「おう」
「それでその……ど、どうでしょうか」
「ん?」
絶対わかっててやっている。
半目で睨む私の頭に手を乗せて笑う○○さん。再び鈴が控えめに音を立てる。
「似合ってるぞ。椛」
さっきと同じように撫でられている筈なのに、何故か私は頭の上の手の感触に妙な気恥ずかしさを感じていた。
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うpろだ1186
文には、最近気になることがあった。
椛の様子が普段と違う。
いつもどおり真面目に見回りの仕事をこなしてはいるのだが、
やけに明るく、楽しそうなのだ。気がつくと、尻尾がぱたぱたと揺れている。
意を決して尋ねてみると、
「えへへ……私にも、恋人ができたんですよ!」
と満面の笑顔で答えられた。
半分は可愛い後輩のことが気にかかって、半分は記者根性で、
文は休暇中の椛をこっそり尾行することにした、のだが……
「○○さーん!遊びに来ましたー!」
「おお、椛。よーし、今日は山まで競走しようか!」
「はーい!」
「飛ぶの禁止なー」
わふわふもふもふもふわふもふもふわふ
……また、別の日。
「○○さーん!遊びましょー!……あれ、なんですかそれ?盾ですか?」
「おお、椛。これは盾じゃなくてフリスビーと言ってね……それ!」
「わあ、あれを取りに行くんですね?楽しいですー!」
わふもふわふわふわふもふもふわふもふもふわふ
「……椛」
「はい、なんですか文さん?」
「……ちょっとそこに座りなさい」
文は休憩中の椛を呼び出していた。
ちょこんと前に座る椛を見ていると、あらためてため息が出る。
「貴女と○○さんのことだけど……この間『たまたま』一緒にいるところを見かけたわ」
後を尾けた、とは言わない。
言われた椛はそれに気付かず、恥ずかしそうに頬を染める。
「あ、見られちゃったんですか?照れますね……」
可愛らしくはにかむ椛に対し、文は話の核心を切り出す。
「それでね、椛?―あれは、何をしていたのかしら?」
「何って……やだなあ文さん、見てのとおり恋人同士のスキンシップですよう」
文は内心頭を抱えた。
「言いにくいけど……愛犬と飼い主のコミュニケーションにしか見えなかったわ」
「えー、あんなにラブラブなのに……」
椛の口からラブラブなどという言葉を聞く日が来るとは思ってもみなかった。
が、問題はそこではない。
「あのね、椛……私が心配してるのは、○○さんが貴女のことをどう思ってるのか、よ」
「……?」
「○○さんが、椛のことを単に仲の良いわんこだと思ってるのなら……
いずれ庭先から○○さんと他の女性がイチャついてるのを眺めることになりかねないわよ?」
「そっ、そんな!○○さんはそんなことしません!」
必死になって抗議する椛。
顔を真っ赤にして弁明してくる。
「わ、私、○○さんと一緒の布団で寝たことだってあります!」
……爆弾発言だ。
(あの椛が……私の予想の遥か上まで大人の階段を昇っていたということでしょうか)
自分の心配は取り越し苦労だったかと思いつつ、
文は念のため聞いてみた。
話題が話題だけに、少し顔が赤くなるのを感じる。
「……いつ頃なの?」
実のところ、ずいぶん長く生きてきた文も経験はない。
全く何の興味もないと言えば嘘になるし、何よりここで詳細を聞こうとしないなど、新聞記者の魂が許さない。
問いかけられた椛は、ためらいながらも口を開いた。
「えーっと、あれは一週間くらい前に○○さんの家で……」
『○○さーん、遊んでくださーい』
『ZZZ……』
『あれ、まだ寝てるんですか?』
『ZZZ……』
『あったかそう……ちょっと、入れてもらおうかな?』
『ZZZ……うーん』
『お邪魔しますね』
もそもそもそもふもふもふもふ
「―まるっきりわんこじゃないですか!」
文は力いっぱいつっこみを入れた。
思わず口調が変わってしまったことにも気付かない。
「全く、ドキドキして損したわ。
椛、貴女このままじゃ本当に人なつっこいわんこで終わっちゃうわよ?」
「え、で、でも私○○さんのこと好きですし、
そう言ったら○○さんだって『俺も椛のこと好きだよ』って言ってくれましたよ?」
「うーん、○○さん結構鈍いところがあるから。果たして女性として好きだっていう意味だったかどう、か―」
下を向いて考え込みながらそこまで言ったところで、ふと文は顔を上げた。
見ると椛は耳を伏せ、尻尾を巻き、今にも泣き出しそうな顔で文の方を見ている。
「ああ、ほら椛泣かないで!まだそうと決まったわけじゃないんだから、
一度ちゃんと○○さんに聞いてみたら?ね?」
そもそも椛のこの先を心配してのことで、泣かせるのは本意ではない。
文は、慌ててなだめにかかる。
「ぐすっ、は、はい……」
なんとか涙をこらえて、椛は頷いた。
「さて、と」
妖怪の山の外れ。
文は手ごろな木の枝に腰かけ、望遠レンズのついたカメラを覗き込んだ。
ファインダーの中、森の外に広がる草原には椛と、彼女に呼び出された○○が立っている。
文から見て正面に○○が、○○に向かい合って椛が立っている状態だ。
「こういう時は椛の能力がうらやましいですね……」
声は聞こえないが、表情や口の動きぐらいは何とか読み取れる。
半ば自分が焚きつけたようなものなので心配で様子を見に来たのだが、まだ動きはないようだ。
「あっ、椛が動きましたね」
椛はうつむきながら、○○に何かを問いかけている。
○○は驚いたような顔をしながら聞いていたが、やがて微笑んで椛を抱きしめた。
椛は驚いているようだったが、すぐに○○を抱きしめ返す。
……おそらくは、文の危惧は取り越し苦労だったのだろう。
コミュニケーションの手段はともかくとして、今の二人の様子から見るに、
○○の「好き」も椛の期待と違わないものだったようだ。
文が内心ほっと胸をなでおろしていると、○○がポケットから何かを取り出そうとしているのが見えた。
椛がそわそわと落ち着かないながらも嬉しそうに尻尾を振っているのを見ると、
どうやら何かプレゼントらしい。
「えーっと、何でしょうか……」
椛を焦らしているのか、○○はなかなかポケットの中身を出さない。
彼の口の動きを何とか読もうとしていた文は、突然頬を引きつらせた。
「く……びわ?」
そう読み取れた―ように思う。
「―ああああああああ、○○さんったら、やっぱり椛を犬扱いして!」
いや、犬扱いならまだしも、もしや何か危ない趣味に椛を巻き込もうとしているのではあるまいか。
これは一言言ってやらねばならないと、文がカメラを離し飛び出そうとした瞬間、
○○が取り出したのは手のひらに収まる程度の小さな箱。
中には……
文は慌ててファインダーを覗いた。
「ゆ……指輪?」
箱の中には、シンプルな指輪が入っていた。
渡された箱を嬉しそうに見つめていた椛は、○○に促されて指輪をはめている。
左手の薬指、ではない。そこまで特別な意味を持つ贈り物では、まだないのだろう。
それでも二人の幸せそうな様子を見ていると、文は自然と笑みがこぼれるのを感じた。
「あ」
感極まったらしく、力いっぱい尻尾を振っていた椛が○○に飛びついた。
そのまま短い草の中に二人で倒れこむ。
「……どうみても、わんこですねぇ」
まあ、もう気にはするまい。
次に山で椛に会ったら、嬉しそうにのろけ話を聞かせてくれることだろう。
文は翼を広げ、飛び立った。
少し離れた草原では、○○と椛が相変わらずもふもふと転がっていた。
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うpろだ1252
「にとり、可愛かったですね」
「彼女、甘え下手みたいに思ってたんだけど……そうでもないみたいだね」
「どうでしょう」
二人そろって首をひねった。
「でもまぁ、二人が上手くいっているみたいでよかったよ」
心配なら心配だって言えばいいだろうに、○○はその仕草さえ見せずに歩き出した。後ろにそっと付き添いながら、椛はその背中を見つめる。
「でも、ちょっとうらやましいかも」
「椛?」
一歩下がって歩く椛が気になったのか、○○が足をとめて振り返った。
ちょうど夕日で逆行になって彼の表情は伺えなかったが、上目遣いでそっと笑ってみせる。
「お姫様抱っこ♪」
「してほしい?」
「……意識すると、なんだかちょっと恥ずかしいです」
「俺も」
自然と笑いながら、椛は彼の隣に進み出た。そっと腕を絡ませる。身長に差があるのでいささか不恰好かもしれなかったが、触れているその体温が安心できた。
「お夕飯食べて、お酒飲んで、酔い覚ましにのんびりして、夜は……」
クスッと笑いを漏らす。触れ合うときは好きだったが、そのあとの別れは、だからこそ余計に寂しかった。
「椛?」
○○の問いには答えず、椛は○○の腕をぎゅっと掴んだ。一緒に過ごしてもまた別れのときはやってくる。明日は二人とも仕事だから帰らなくてはならない。
そうしたら来週までお預けが続く。会う時間だって限りなく減ってしまう。
「……山から出ちゃおうかな」
不意に漏れ出た言葉に、○○が目を丸くした。
「どうしたの? 急に」
「……急じゃないです。○○さんと付き合い始めてから、ずっと前から考えてたんです」
「うん」
ずっと付きまとっていた不安だった。○○は人間で、当然住んでいるのは人里だ。彼のまわりには同じ人間の女性がいて、働く寺子屋にも美しい女性がいる。
自分は妖怪で、住んでいるのは山だ。普段会えない彼の周囲は当たり前に同属である人に優しく、里から出なければ危険もない。
安全で、人同士で交流を育める場所。彼女といえど妖怪の身としては不安でしかなかった。これに関しては○○の信用云々はあまり関係ない。
「外に出るなんて危険を冒さずに、ずっと二人でいられる。それに…皆さん綺麗だから」
「……俺のこと、信じられない?」
「そうじゃないんですけど……」
なんて言えばいいかわからない。
「○○さんへの信頼とは別で……その……駄目、ですか?」
「駄目じゃないよ。うれしいのは確かだけど……」
「けど?」
上目遣いで問いかける。○○はしばし迷ったようだった。だがそれでも、言葉を選びながら、ゆっくりと、かみ締めるように彼は言った。
「本当は、椛は俺に外に出てほしいんじゃないかなって」
「……それは」
図星を差された。本音は自分が山を出たいのではなく、○○に人里を出てほしいのだ。
ただ自分より他の、同属の女性と過ごす時間を多く持って欲しくない。椛が感じていたのは嫉妬以外の何者でもなかった。
「でも……出たくないんじゃないですか?」
だから椛は、恐る恐るそう聞いた。その言葉が、暗に○○の言ったことを肯定していると気づいたのは、声にした後だった。
「うん。でも優先順位があるから」
「順位?」
「大事なモノがなんなのかってことだよ。俺にとって、何よりも大事なのは椛だから。椛をそんな顔させてまで、人里に住み続けたいとは思わない」
椛はそっと、少しだけ身体を離して彼の横顔を見上げた。そこに迷いは見られなかった。その視線に気づいた○○が、微笑みながらこちらを向く。
目の奥に宿っているのは確かな決意と覚悟だった。
「椛を不安にさせるくらいなら、俺は里を出るよ」
本音を言えば、それは正直にうれしかった。涙が出そうなほどうれしかったが、同時に黒いものが椛の胸を締め付ける。
ただの嫉妬で、彼の人生を狂わせるという後ろめたさがあった。
「でも……わたし……」
「嫉妬してくれてるんだろ?」
軽く目を閉じて、○○は笑った。
「だから、結構うれしいんだ。たまに人里に来たときの椛の態度も、表情も言動も全部、実はうれしくてしょうがないんだよ」
○○がおかしげに相好を崩した。
「それに誤解しないで聞いてほしいんだけど、椛が山を出ようっていう話も、結構、いや、かなりうれしかったりするんだ、実は」
「え?」
「俺はよっぽどのことがない限り寺子屋で教師を続けるつもりだったから。みんなに勉強を教えつつ、掃除や簡単な建物の修繕をして。
勉強に限らずみんなの世話をするのは好きだし、それを仕事に出来ているのは、幸せだなって思うから」
知っている。彼がその仕事に誇りを持っていることも、好きだということもわかっている。
だからわがままで、ただの嫉妬で、人里を出てほしいとは言えなかった。
「それで、帰っていくみんなにまた明日って言うんだ」
「はい」
少しだけ胸が痛んだ。自分ばかりで思いを押し付けている。と──
「そうして、自分の帰る家に椛がいてくれたらどんなに幸せだろうなって、最近思うようになった」
「……え?」
どちらともなく、二人は足を止めた。
「人里から少し離れた家に帰って、愛する奥さんと子供たちにお帰りって言うんだ。物凄く贅沢な望みだけどね」
その光景を思い描いているのか、○○は目を細めて朱色に染まる空を見上げた。一方の椛は、○○が何を言ったのか理解できなかった。
確か、愛する、の後に何かを言ったような気がするのだけれど。
「可愛らしい俺の奥さんは、実は白狼天狗っていう妖怪なんだ。尻尾と獣耳が、ふさふさしていてとても魅力的な人なんだよ」
「…………あの」
何かを言おうとするが、言葉にならない。
「子供たちも、結構個性的になるかもしれないね。女の子と男の子、両方ほしいなぁ。でもみんな、奥さん似で可愛くて綺麗なんだ」
二人がたたずむ丘の周囲には誰もいなかった。夕日が照らす世界はどこまでも美しく鮮やかで、遠く湖に反射してキラキラと輝いていた。
雰囲気に呑まれる。彼の視線に飲み込まれる。
「……○○さん」
その人差し指が、そっと椛の唇をふさいだ。何も言わなくていい。だけどちょっとだけ、お願いを聞いてくれないかな。
彼の瞳がそう語る。
○○はゆっくりと身体を折ると、椛の耳元に口を付けて、そっとささやいた。
「結婚しようか。椛」
風が吹いた。
そよ風に乗って声が響く。少しずつ夕闇が広がっていく空。それよりもなお深い色の双眸がじっとこちらを見つめてきていた。
視界が緩やかに歪んでいく。泣いているのだと気づいたのは、滴り落ちたしずくが頬をぬらしたからだった。
驚いたのは○○のほうだった。椛が無反応だったことに居たたまれなくなったのか、少なからず慌てながら、かがみ込んで目線を合わせる。
不安そうに眉をひそめる○○に、椛は笑って見せた。彼の腕をしっかりと掴んで、逃げないように。決して、離れないように。
笑顔でいられた自信はなかった。でも笑いたかった。涙で視界が歪んでしまってもうまっすぐ彼の顔を見ることが出来なくなっている。それでも椛は、精一杯、彼に笑顔を向けて
「はい!」
きっと、生まれてから一番幸せな笑顔を椛は浮かべた
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うpろだ1267
「……ん」
窓から入る朝日がまぶたのうえらかでもいやというほどわかる。
寝返りをうち顔に当たってる日差しを避けようとして一緒に寝ているはずの人がいないこ
とに気づく。
ぼんやりする頭のまま目を開け周りを確認。
ちょっと古ぼけた台所には釜がうっすらとあげているということは朝ごはんでも作ってい
る途中なのだろう。
しかし、それを作っている当の人物は見当たらない。
白狼天狗ゆえのよく聞こえる耳に水音がするということは水汲みでもしているのだろうか。
(そばにいてほしかったな……)
身体的には空腹と眠気があるが心情的には起きるときもそばにいてほしかった。
そんな気持ちにちょっとさびしくなっていると部屋に入ってくる気配。
台所でカチャカチャとやっているってことはご飯の様子でも見ているのだろう。
だが不意にそれが止まりこちらに近づいてくる。
今の気持ちに気づいてくれたのかなと思い、期待が膨らむ。
布団の中で自らの尻尾が揺れているのがわかるが押さえがきかない。
彼が自分の枕元に来ると頭にちょっとゴツゴツとした感触が来る。
『ゴツゴツした手ですまんな』とすまなそうに彼は言うが私はこの感触が一番好きだ。
『そんなことない』と否定すると苦笑いを浮かべなでてくれる。
これは本心だ。
たとえ気のせいでも彼の気持ちが伝わってくるようで何度もねだってしまう。
もっとなでてもらいたいがちょっとした悪戯心が芽生えてしまった。
体を丸め布団のなかにすっぽり入ってしまうと彼の手の感触の変わりに布団の感触がとって
変わった。
かけ布団の中には彼の匂いが残っているように感じる。
「~~っ」
赤くなるのを自覚し、それを隠すかのように一緒に引きずり込んだ枕を抱きしめる。
今、布団をめくり上げられたら赤くなった顔を見られてしまう。
それを防ぐため布団を握る。
するとため息が聞こえると彼が立つ気配がする。
「っ!」
そのときの行動は自分でも賞賛したくなるほどの早さだった。
刹那の瞬間には彼の腰に手を回して抱きついていたのだから。
「椛……」
「っ!!」
もう穴があったら入りたかった。
きっと今なら顔でお湯が沸かせるだろう。
(呆れられたかな?こんな風にしたのは○○なんだよってって気づいてほしいな。でも、鈍いか
ら無理だろうな。でもでもやっぱりこの気持ちには気づいてほしいな……)
何を思っているのか自分でも半ば混乱しているのがわかる。
意を決して表情を伺う。
彼も赤くなりあさっての方向を見ている。
でも、チラチラと私に目を向けている。
私の顔を見ているわけではない。
なんだろと思いつつ、彼を見上げる。
「そ、その椛。服をもう少し正してくれないか?」
「ぇ?」
さらに赤くなる彼に指摘され現状を確認する。
服は起きたばかりでまだ寝巻きである浴衣のまま。
そして、先ほどのすばやい行動。
結論、浴衣が乱れに乱れて上半身の半分ぐらいが露出し、半分布団に隠れてはいるが裾からは
太ももから足が見えていた。
「っ!!!??」
いくら、彼に身も心も捧げたとはいえ恥ずかしいものは恥ずかしい。
慌てて布団の中に逆戻り。
顔だけ出して唸ってしまう。
彼にとっては理不尽だろうがこう言わずにはいられなかった。
もっとも赤い顔に涙目っていうのに迫力があったかどうかは不明だけど。
「そ、そのご飯作ってくるから!」
自分の表情になにかをこらえる様子で台所に向かっていった。
それを目で追いつつ先ほどのことを思い出し布団にもぐりなおした。
朝ごはんはまだまだ先になりそうだった。
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新ろだ52
山の上にある神社での宴会。
天狗、河童、神様等人外の方々がドンチャン騒ぎで平凡な人間にゃ居場所がないのである。
平凡じゃないけど下戸な人間も大変か。
「あー、まったく……」
宴会場から見えないところへと移動して一息つく。
このままほとぼりが冷めるまで待機してようかな。
「なにしてるの、こんなところで」
「む、椛か」
なんて思ったからか早速見つかってしまった。
まあ相手が相手だけに分が悪いか。
「たまには秋の夜長に星を見ようかなって思ってな、うん」
「嘘でしょ」
ええ、嘘ですとも。
一瞬で見破られてしまった。
「まぁ、気持ちはわからないでもないけどね」
「嘘だろ」
こっちも即答。
椛はもちろん、とうなずいた。
「えーっと……、○○」
「どした」
「その、迷惑だった?」
迷惑、というのはこの宴会に呼んだことだろう。
強制的に呼んどいて気にするところは気にしているのな。
「迷惑ではないけど大変かなぁ」
「大変?」
「人間というだけで色々と反応してくる輩がいるからな」
山の上の巫女とか人間を盟友とか言ってくる河童とか。
特に新聞記者が面倒だった。
よくわからないこと聞いてきて反応に困ったもんだ。
「それでも、交流も広がっただろうし結果的にはプラスじゃないかな」
巫女は今どうなってるだろうか。
酔いつぶれているのが一番可能性として高いか。
「……素直に喜べないわね」
「ん? どうしてだ?」
「…………」
いや、黙って睨まれても何もわからんのですが。
テレパシーとか持ってないし。
「そんな反応するんだからとりあえずは大丈夫なんだろうけどさ」
「何が」
「なんでも。どーーせ言ったところでわからないだろうし」
ムスッとしながらやはり睨んでくる椛。
……?
何か怒らせることでもしただろうか。
「いいですよーだ。アドバンテージはこちらにあるんだから」
「油断してると痛い目見るぞ」
ビックリしたようにこちらを見る。
……なんなんだ。
「……あなたに言われるとは思わなかったわ」
「酷い言われようだな」
「あなたほどじゃないわよ」
はて、そんなこといっただろうか。
てんで記憶に無い。
そんなことが顔に出たのだろうか、椛は大きなため息をついた。
「……まぁいいわ。それよりも、お酒、飲まない?」
そう言って徳利とお猪口を出す椛。
どっから出したんだこいつ。
「いつも飲んでるだろ。ほぼ毎日」
「そうなんだけどね、ほら、雰囲気とかあるじゃない」
「そう言って毎度毎度、誘っている気がするんだけど?」
「う、ま、まぁいいじゃない!」
「いいけどさ、別に。でも」
そこで一旦切って宴会場の方向を指す。
「戻らなくていいのか?」
「あんまりよくないけど、こっちで飲みたいのよ。明確には貴方と二人でね」
それを言われちゃどうにも言い返せない。
無碍にするわけにもいかんし、誘いに乗ることにしよう。
「まったく、人工的に淘汰されて仕事を失っても知らんぞ」
「もし切られたら養ってくれるのかしら」
「誰が」
「貴方が」
「……どうかな」
「あ、今ちょっと考えたでしょ」
「反応に困っただけだ。特に意味は無いさ」
そう言い合いながら椛からお酒をもらう。
水面に写った歪んだ月がユラユラと揺れていた。
「しかし、人間と居ることを優先するなんて変わった天狗もいたもんだ」
「それに応える貴方も貴方で変だけどね」
「自覚ありかよ」
「無いほうが問題じゃない?」
「いや、逃げられないから諦めただけだって」
「うそばっかり。……ま、変人な二人を祝って」
「お前さんは人じゃあないけどな」
ドンチャン騒ぎの一次会の最中、少し外れた静かな場所で。
乾杯。と杯を合わせるのだった。
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最終更新:2010年05月09日 23:08