衣玖1



うpろだ1168,1169


「ちょっと、話があるんだから聞きなさい」
「――なんでしょうか、総領娘様」

 天界にて、衣玖は天子に呼び止められた。
 彼女の自儘っぷりはのっけの一言からも伺える。
 またぞろ何か妙なことを考えているのだろう。
 空気を読むまでもない。
 恐らくそれは、○○という一人の男とのことについてだろう。

「相も変わらず○○に手出ししているんでしょう」
「竜宮の使いといえど、女ですので」
「私と○○とのことは口出しする癖にっ」
「恐れながら、貴方は比那名居の総領娘様であらせられるので」

 身分違いであると。
 種族の差はこの際、幻想郷においては些事だろう。
 しかしそれを指摘されると天子は得意げに唇を歪めた。

「ふっふーん。そこでこれよ!」
「どこでどれですか」

 彼女が取り出したるは一枚の紙。
 誓文の一語に始まるその文章に目を通す。
 そこには何やら長々と書かれていたが、要点を掻い摘んで言えば。

「……男、○○を比那名居の婿とし、比那名居天子と夫婦たらんことを……」
「ここに許す! どうよ。族長全員口説き落としてやったわ!」

 大方、緋想の剣を持ち出すなり、要石の件を持ち出すなりして脅したに違いない。
 いやいや、頭の軽い天人のことだ。面白そうだと喜んで判を押したとしても可笑しくはない。

「ともかくっ、これで○○は私のものなんだから。わかったらさっさと――」
「わかりました。諦めます」
「そう、諦め……って……。へ?」

 間の抜けた声を上げる天子。
 彼女の予想だともう少し抗するだろうと思ったのだが、拍子抜けだった。

「形がどうあれ、形を成したのであれば。天界の取り決めに口を出す訳にはいきませんし」
「あ、うん。そう? そうだよね。そうでしょ」
「お祝いの言葉を送らせていただきます。形だけですが」
「うん! ざまあみろ。してやったわ!」

 勝ち誇る天子をよそに、ふわりと衣を翻す。
 向かう先は、下界。

「ちょっと、どこ行くのよ。話はもう終わったんだから、後はあんたが泣いて悔しがる番でしょう」
「○○の所ですが、何か?」

 悪びれもせずに嘯いてみせる衣玖。

「はあっ? 私の話が見えなかったの? 泥棒魚はお呼びじゃないから、猫に食われろって言ってんのよ!」
「流れは読めますよ。だからこうして、○○の所に貴方との仲を許された旨、お知らせに行こうとしてるんです」
「……なんでそこであんたが行くのよ」
「私は衣玖。人間に重大なお知らせを伝えるのが仕事ですから。それに、この場合。私に彼と会って話す権利はあると
思いますが」

 惚れた男に最後の挨拶。
 ふーん、と天子はほくそえんだ。

「それもそうね。お別れの挨拶くらい許してあげるわよ。私ったら寛容な女ですもの」
「ありがとう御座います。では」

 お互いに心無い言葉と心にもない言葉を交わし、別れた。




「と、いうわけで。おめでとう御座います」
「どういうわけだかさっぱりわからない」

 ○○の家。
 開口一番に祝いの言葉をぶつけられればそれは戸惑う。
 呪いの一つも唱えそうな眼で睨まれながらであればなおさらだ。

「つまり。貴方は天界に昇って、毎日毎日呑めや歌えやのドンチャン騒ぎ。釣り糸を垂らしながら総領娘様を皮切りに
天女どもを侍らせて桃源郷の如きハーレムを楽しむことになるのです。死にもせず。死ねば良いですのに」
「最後の一言だけえらく実感篭ってましたね」

 大概にして空気の読めない○○でもその殺気くらいは読めた。
 見えないものは読めないが、色に出てバチリバチリと放電を繰り返す彼女の衣は目に嫌でも入るのだから。
 しかし、それにしても――

「ん~……。参ったなぁ……」

 いきなりは今に始まったことではないし、天子に始まったことでもないのだが。
 婿入りおめでとうと言われても、それは彼の預かり知らぬ所で決まった話だ。
 手放しには喜べない。
 諸手を上げて喜んでみれば、きゅいんきゅいんとドリル状に回転する衣に貫かれることは間違いない。
 降参だ!
 両手を挙げろ!

「嬉しくないのですか。総領娘様も容姿だけなら人並み以上ですのに。性格は人並みより異常ですが」
「いや、天子は嫌いじゃないけどね。見た目とか中身とかはひっくるめて置いておいて」
「っ、なら。問題はありませんね」

 伝えることは伝えたとばかりに彼女は踵を返す。

「問題しかないよ」

 その手を掴んだ。
 びくりと、感電したかのように震える衣玖。
 同時に、振りほどいて逃げ出したい衝動に駆られた。
 同時に、彼の手を引っ張ってどこかに飛び去りたい衝動にも駆られた。
 どこに?
 二人だけの、邪魔の入らない場所に。

「離して、下さい」
「話を、聞いてくれ」

 この時ほど彼女は自分自身の能力を悔やんだことはない。
 それは先程、勝ち誇った様子の天子に呼び止められた時よりも。

「好きでもない女と結婚できない」
「嫌いじゃないって、言ったじゃないですか」
「好きと嫌いじゃないは、別だ」
「嫌いじゃなければ好きにもなれますよ」

 無意味だ。この遣り取りは酷く無意味だ。
 彼女には見えている。
 彼が何を言いたいのか、彼が何を言うのか。
 ただそれだけが聞きたかったのに。
 でもそれだけは聞きたくない。

「好きな女は別にいるんだ」
「結婚前から浮気ですか、節操ないですね」
「俺が好きなのは彼女だけなんだ」
「一途に想われるその女性は、幸せですね」

 わかっていた。
 彼女もわかっていた。
 口に出さずとも、彼との間に漂う空気は読めていた。

「気づいていたんだろう、衣玖だって」
「何のことだか、わかりません」

 だから、それに浸って。
 ぬるま湯のような甘い空気に浸かって。
 割って入りたがる他の女性に勝ち誇って。

「俺の好きな人が誰なのか」
「そんなの、口にしなきゃわかりません」

 勝利宣言もないままに、勝った気でいたのだ。
 そしたら、これだ。
 割って降ってきた、空気も読めない相手に、試合終了を宣告されてしまった。
 本当、ざまあみろだ。

「なら言う」
「知りません」
「ずっと見てた。一目見たときからずっと」
「聞こえません」

 そんな、今更、今になって、今このときに、こんなときに限って。

「俺が――」
「いや、」

 お願い。

「好きなのは――」
「聞きたくない、」

 もっと聞かせて。

「衣玖。君なんだ」
「あぁ……!」

 これで最後だから。

「俺と、結婚して欲しい。衣玖と結婚したい。ずっと一緒にいたい」

 私も、私だって、私が一番。
 好き、好きで、好きだけど。

「――ありがとう、御座います。○○」

 そして、

「さようなら、私の愛した人」

 止める間もなく、彼女は飛び去った。
 彼の手に残ったのは羽衣と、僅かな温もり。
 彼の目に映ったのは涙の雫。
 ぽつりぽつりと、外には雨が振り出した。


 その後の○○の行動は早かった。
 その手に残った衣を纏い、愛しい女を追い空を翔る。
 道中の追っ手(天子やらその他少女たち大勢)の手やら足やら弾幕やらから、逃げ切り振り切り振り逃げて。
 ついに○○は山を越え雲を越え、天界まで飛び越えて。
 龍の世界に到着したのだ。
 幻想郷の創造神として崇められる竜神を前に、○○は言った。

「私は○○。幻想郷に住む只の人間です。どうか私の願いを聞いて欲しい」

 いと尊き龍の神、髭を揺らしてさも愉快げに笑った。
 創造神にして破壊をもたらす御身に、只人が物申すなど前代未聞。後世にも現れはしないだろう。
 試みに問うた。人でありながら龍に聞く、貴様の願いとは何ぞやと。

「私の願いは只一つ。竜宮の使いである永江衣玖。彼女との婚姻を龍神の名の下に認められたい」

 龍は一瞬驚き、その後げらげらと鬣をよじり稲光を震わせて笑いうねった。
 この男、御身に仲人をやってくれという!
 こんなにも面白い人間がいたのか、こんなにも愉快な人間が育ったか!
 人でありながら妖怪を娶らんと、人でありながら龍の御前に現れて。
 幻想郷、平和に退屈にやっていたと思ったら、随分と楽しげではないか。
 笑い通した龍は快く願いを聞いてやった。
 こんなにも笑ったのは何千年ぶりだろう、下界では雷鳴が轟いてさぞかし肝を冷やしたに違いない。
 いい気分だった。
 いい気分ついでに一つ条件をつけてみた。
 婚礼の儀を挙げるときは自分を呼べと。
 龍の前で誓いを成せと。
 そのときは美味い酒を用意しておけ。何せ肴は極上だ!

 礼を言って去る○○に、龍のうろこを一枚渡した。
 誓文代わりだ。龍に見合う筆なぞ無いし、判もまた同じなのだから。




 そんなこんなで色々あって。
 ○○の家、彼の前には飛び去った筈の衣玖がぷりぷりと怒っていらっしゃった。

「全く信じられません。冗談じゃありません。正気とは思えません。まさか追いかけてくるどころか龍神様にお目通り
するなんて、まともな人間のすることじゃありません」

 帰ってきて以来、ずっとこの調子である。
 いや、まだ軟化した方か。
 再会した瞬間にグーでパンチされ、浮かされたその後脅威の空中コンボを決められたことに比べれば。
 〆はサタデーナイトフィーバー。

「ちょっと、聞いてるんですか!」
「いや、聞いてない」

 んな、と怒りに言葉を詰まらせる衣玖。
 真っ赤に染まった彼女の顔。
 ここまで感情的になる衣玖は○○も初めて見る。
 それもまたいいなあ、などと思うあたり彼は凶行に走るべくして走るような奴だった。

「これ、衣玖に返さなきゃ」
「え、あ……」

 彼女の残した羽衣。
 これが無いと空を飛んでいくなんて無茶、到底できやしなかった。
 いや、そうなったらそうなったで他の(また恐ろしく無茶な)手段を講じただろうが。
 それをふわりとかけてやる。

「うん、やっぱり衣玖が一番似合う。一番綺麗だ」
「~~っ……そ、そんなことで誤魔化されませんからね! 大体……!」
「それでも俺は聞いてない」
「あ、貴方って人は――!」

 しかしやっぱり彼は聞いていないのだ。
 問に対する、その答えを。

「衣玖の答えを、俺は聞いてない」
「、ぁ……」

 礼と別れを一方的に告げられただけで。
 それじゃあ答えになってはいない。
 どうやら彼女も何のことか気づいたらしい。
 頬を桜色に染めるそれは怒りではない。

「ん? 忘れちゃったか。ならもう一回……」
「いいです! 覚えてますから、忘れられるはずないですから、て……っきゃー!」

 本音がポロリ。
 桜を通り越し、衣のように緋色に染まる頬を手で覆い隠す。
 これも○○の見たことのない彼女の姿。
 ああ、でも。
 これから一つ一つ知っていく、新しい彼女の魅力。
 彼だけに見せる彼女の魅力、自分だけの衣玖。
 それが○○には今から楽しみで楽しみで仕方がなかった。

「えーっと、ですね。その、なんというか。アレでソレなお話でしたが……」
「うん。俺が衣玖と結婚したいっていう話」
「言わなくていいんです!」

 漸く落ち着いて、また引っ掻き回されて、もう一回落ち着いて。
 右見て左見て天を見上げて、観念したように溜め息をつく。

「もう、ここまでやられて。この私が、他の答えなんて言える訳がないじゃないですか」

 全ての物事には流れがあって、それを例えば空気と言うのだ。
 そして彼女の能力は「空気を読む程度の能力」
 であるならば、言うまでもない。

「でも、口にしないと伝わらないこともあるらしいから」
「貴方が言いますか、それを」

 言葉は音だ。
 音を響かせるのは空気だ。
 音の葉は空気の流れに乗って、余人にもそれを伝えるだろう。
 だから、響け。高らかに。

「私も、同じです。一目見たときから、貴方を好きになった。愛してしまった。
 だから、こんな私でよければ。貴方の側に置いてください。末永く、いつまでも」
「是非もない。今から君は、俺の妻だ」
「はい、あなた」

 雨は止んだ。
 雷が空気を澄み渡らせた。
 差し込む晴れ間。
 幻想郷に、美しい七色の虹がかかっていた。




 了

───────────────────────────────────────────────────────────

うpろだ1177


昔々、ある所に一人の男が住んでおりました。
男はいい加減、嫁も貰おうかという歳なのですが、いかんせん相手も見つからず寂しい日々を過ごしておりました。
そうした毎日にうんざりするある日、ふと、男は天に向かって呟きました。
「可愛い女の子でも降って来ないものか」
勿論、本気でそんな事が起こるなどと思っている訳ではないのですが、男はもう、藁にもすがる思いだったのです。
果たして、そんな悲壮な胸の内が天に通じたのでしょうか。ちりじりに浮かんでいた雲は俄かに一つ所に集まって大きな雲となり、その中心にぽっかり穴を開けたかと思うと、そこから一人の天女が降りてきました。
男は余りの事に呆気に取られてしまいましたが、天女の美しい仕草や穏やかな風情を目にするや否や、顔を綻ばせ喜びに咽んで言いました。
「嗚呼、なんとしたことか。かように美しい娘を私はついぞ見たことが無い。さては龍神様が先の頼みを聞いてくださったのだな。ありがたい。ありがたい。」
男は、もうすっかり目の前の天女を嫁に貰ったつもりで大喜びです。
しかし天女の方は少し困った様子で、自分が降りてきた理由を話し始めました。
「天上では近頃、我儘な天人様に加え鬼まで棲むようになり、また色んな人間や妖怪がやってきては騒ぎ倒す毎日。とても賑やかで楽しいのですが私は少し疲れてしまいましたので気晴らしに地上に参ったのです」
それを聞くと男はがっかりしてしまいましたが、ここで引き下がるわけにはいきません。一つ知恵を巡らせる事にしました。
男はわざと意地悪く笑って言いました。
「天女様、天女様、貴方は本当に美しい。しかし貴方を(羽衣が)ぱっつんぱっつんだと言う者がいる」
天女は少しムッとして、羽衣を取り払ってしまいました。
その姿は誰もが目を奪われるような魅力に満ちており、胸は豊かに膨らみ、腰は綺麗に括れ、尻は良く熟れた桃を思わせる様でした。
少し恥じらいながらもこちらを窺うような仕草に、男はどうにかなってしまいそうになりましたが、頭を振って正気を保ちます。
「天女様、天女様、貴方は本当に美しい。しかし貴方が空を舞うのは減量の為だと言う者がいる」
これには天女も困ってしまいました。なにしろこればかりはいくら否定した所で言い訳にしか聞こえません。
そんな様子を見て男は内心、しめたっとばかりに喜びましたが、努めて優しく言いました。
「こう見えて私はなかなか力持ち。一つ貴方を抱えてみましょう。きっと真綿のように軽いはず」
始めは天女も遠慮しましたが、男が余りに熱心に言うものだからとうとう折れてしまいました。
すかさず天女の膝と背に腕を添え一息に抱きかかえると、男はいよいよたまらなくなりました。なんだか良い匂いまでしてきます。
男の腕の中で天女は不安そうに問いました。
「如何でしょう」
「まだまだもっと。これだけじゃさっぱり判断つきません」
素知らぬ顔でそう言うと、男はトコトコと歩き出してしまいました。
天女は吃驚して男の顔を見上げます。男は重ねて何でもないという風に装いました。
「立ってるだけじゃつまりません。少しうろうろする位が丁度良いというものです」
これは妙な風向きになってきた、と天女は思いましたが、体勢が体勢なだけに強く出ることもできません。
何度声をかけても、まだまだもっと。と言うばかりで一向、下ろす気配もありませんでした。
そうしたやりとりを繰り返す内に、いよいよ男の家の軒先までやってきてしまい、流石に天女も黙ってはいられなくなりました。
「悪い人。貴方は私を騙したのですね。今すぐ私を下ろしなさい。でないと貴方を雷で打たなければなりません」
これを聞いては流石に男も惚けることはできず、正直に白状しました。
「天女様、申し訳ない事です。私は貴方を騙してこんな所まで連れて来てしまった。しかし、私は貴方を本当に好いています。二度と放したくはないのです」
男の真心からの告白に天女は心を動かされる思いでしたが、首を縦には振らず悲しそうに言いました。
「ならば、貴方を打つ他ありません」
そういうと天女は身体を青白く光らせ、激しい稲妻を身に纏いました。
哀れ男はショックに打たれ死ぬものと思われましたが、不思議な事に男は天女を抱きかかえたまま平気な顔をしています。
驚く天女に男は言いました。
「私は雷に打たれようとも貴方を放さない。どうか、私のお嫁になってくれませんか」
ついに天女は頷いて嫁となり男は大層喜んだのでした。





後日その話を聞いた男の友人はどうして雷が平気だったのかと尋ねると、男は笑って答えました。

「私の腕は彼女を運んでる間にとっくに痺れていたのさ」

───────────────────────────────────────────────────────────

うpろだ1199


畳の上に無雑作に散らばった札と、両人の足元にある数枚の札。百人一首という遊戯。
幻想郷では、外で廃れた何かが行き着く。ともすれば、今彼らが遊んでいるモノも、外ではあまり遊ばれなくなったのかもしれない。


「え――っと、ありあけの……つれなく見え……」

緊迫した室内に響く天子のどこか弛んだ声。当事者ではないから、と気が弛んでいるのだろう。
逆に、勝負がかかっている彼と衣玖からすれば、そんなことは全くもってない。
一語の聞き間違いが、一瞬の遅れを生む。刹那の勝負には、その少しでさえ決死に値する。
彼が持つはずだった余裕は、別の思考を展開していたから阻害された。


そして、心の隙間に入り込む鋭い音。
雑念が消えるには遅い。


見れば、相手の手の下に目標の札がある。目印となるように描かれた、あという平仮名が細い指の間から覗いていた。

「ふふふ……今回はいただきましたよ、○○さん」
「……まだ、負けたわけではありませんよ……」

幽雅に、それでいて秘めた妖しさを振り撒きながら微笑むのは、竜宮の使いである衣玖と呼ばれる女性。
所有権を得た札を、少しだけ自慢げに持ちながら、胸の前で揺らす。幻想的な水墨画で描かれた札が左右に動き、全く別の模様に見えた。
一本取られた彼も、そんな彼女に対し柔らかな微笑を投げ掛ける。いつも凛としている衣玖がまるで少女のようにはしゃぐのは、珍しいことである。
稀有なことと認めがならも、集中を開始させる。
札も少なくなってきた。数が僅かになってきてからこそ、一つの価値は一つを超える。
一度の間違いが勝負に大きな一石を投じるだろう。だから、前のように精神が振り回されてはいけない。

「これで同点……と。じゃあ、ちゃっちゃっと次いくわよ……」

主審から告げられた言葉に、衣玖と彼は崩れていた姿勢を直した。
勝負を裁く役目にあるのは、天人である天子。衣玖は、彼女に敬意を払わなければならない立場にある。
竜宮の意志を伝達する仕事と、天に昇ってただのんびりと日々を過ごす義務。常識的に考えても、どうしようにもならないことが世の中にはある。
衣玖はそんな環境に異を唱えようともしない。在るのは永江衣玖という自分。ならば、永江衣玖がおかれている仕事を全うするだけのこと。


天子は軽く札を選ぶ。次の詩も、簡単にはいかないらしい。


所詮遊戯と思うかもしれないが、予想外に身体全体を使う。
どの札がどこにあったかを覚えておく記憶力、視界に留まった札へ咄嗟に手を伸ばす反射神経、そして単純に物事を支配する運。
いくら記憶と反射を心掛けても、生者には限界という概念が存在する。
偶々頭に残っていた札が相手に近ければ、取られる可能性が増すだろうし、自分の傍にあればすぐに我が物と出来る。
結局は、運を味方につける為という理由で、努力を繰り返すのだろう。
結果は自ずとついてくるモノだ。努力と重ねた者と、怠った者。
どちらがより良い結末を手にするかは明白である。所詮、結果論に過ぎないのかもしれないが。

「ええと……音に聞く……高師の浜の……」

この緊張感。
弾幕勝負にも似た、高揚が身体を駆け巡る。

「……?」
「……」

視線を相手に移す。当然だが、俯いたまま札を物色していた。
札があるのは下、そして視線は畳と平行。これでは、見つかるはずもない。弛んでいた気を引き締め、もう一度札を見た。
他から見たら、相手の様子が気になって仕方がなかったと取られても仕方がないだろう。現に、札を注視し、瞳を微かに細める衣玖の姿は美しさすら感じた。
他人事のように頭に浮かぶ思考。勝負事に眼を奪われたなど、笑い話にしかならない。
同時に響く珠のような声。予想外という形を伴い、二人に降りかかった。

「……あ――っ、もう疲れた。お茶持ってくるわよ!」

主審兼詠み手が役目を放棄するという暴挙に出ても、勝負には何も影響しない。
詠まれた言葉さえ覚えていれば続行される。相手が忘れてしまったのならば好都合だ。
片方に与えられた状況は有利でしかない。勝利に結び付けてこそ、有利の価値がある。
襖が乱暴に閉められ、普段よりも大きな足音が耳を通り過ぎた。我侭だが、礼儀正しく躾けられた天子にしては珍しい。
もしかしたら、気に食わない出来事でもあったのかもしれない。
それが何なのか、考えるのは止めることにする。別に後でも問題はないだろう。

「……」
「……」

互いの視線が注意深く畳を行き来する。
いつの間にか、吐息のようなか細い声が両者から出ていた。

「お……お……」
「……お……」

生に執着する亡者の如く、ただ一つの文字を呟く。


「……見つけたっ!」

叫ぶと同時に動く。
獲物を狙う動物の瞬発力と、迷いを断ち成仏する亡霊の清々しさ。
お手付きの危険性は無視する。怖がっていては、栄光ある未来など平坦な結果にしかならないのだから。
発見と所有を声にしては決着がつかない。手に収めてこそ、初めて認められる。
彼は少し離れた場所にある札を体ごと狙う。一直線に開かれた道に、邪魔物は無い。

「まさかっ!」

少々遅れて、衣玖も動いた。彼女も位置を把握したのだろう。服が、ふわりと宙に舞う。
反応から札が無いと検討をつけていた場所であると分かる。似ている文字が続いていると、簡単な文字も見分けがつかないものだ。尚且つ、水墨画という流水のような筆跡ならば更にかく乱される。

「っ……!」
「……っ!」

位置的には衣玖に分がある。しかし、最初に目星を付け、行動に移したのは彼の方だった。
最後の抵抗に、衣玖は女性ながら身体で彼を防ぐ。別に勝負に負けると罰則が与えられるという訳ではない。
単純に、勝てる試合は勝ちたいだけだった。



「きゃっ!」
「うわっ!」



仲良く発生した声は混じり合い、一色になる。
無我夢中で札に手を伸ばした彼は、途中で動きを止められなかった。彼は衣玖とぶつかり、揉みくちゃになる。
次か、その後かに読み上げられ、出番が回ってくるはずの札が畳の上を滑る。
過去に遺された詩。何度も口ずさまれたであろうその詩は、今日限りは出番がなさそうだった。

そして、これはどんな因果か。
彼は竜宮の使いと天人と知り合いなだけ。



それ以上でも、それ以下でもなかった。



「……あ……」
「○、○……さん……」

彼の下には衣玖の顔。両手は彼女の顔の横にあり、崩壊をぎりぎりのところで防いでいる。
綺麗に整った目元は、下界のどんな女性が束になっても叶わないだろう。そんな瞳が、驚きで大きく見開かれている。
吸い込まれそうな中心に、視線が向けられた彼がいた気がした。
腕が崩れれば、彼は衣玖の折り重なってしまう。精神衛生的にも、他にも色々と宜しくない結果になるのははっきりとしていた。

「……ごめんなさい。ちょっと、熱くなってしまったわ」
「あ、そ、の……。こっちも本気になりすぎたというか、なんというか……」

一番いいのは離れることだ。頭は答えを出しているにもかかわらず、身体は動こうとはしない。
頭脳の命令を遮断しているかのような、冷たい感覚。
衣玖の萎れた声の返答にと、搾り出した彼の声は微かに震えていた。
このような状況になったのは、初めてではない。覚えている限りでは数度ある。
何度も気恥ずかしさから離れたのだが。
だから、直接感じる熱に対する耐性はついていない。


「お……でしたが、押し倒せ……とは、言ってませんでした……よ……?」
「す、すいません……」
「でも。……○○さん。今は……今だけは……」


衣玖の唇が、僅かに動いたのだけは覚えている。その後に、頭の裏を包まれた感覚が彼を支配した。
彼女が動く。彼は動けなかった。

「私達……だけで……っ……」

熱に浮かされた衣玖の表情。ほんのりと紅に染まった頬は、普段の雰囲気とは一線を博していた。
彼の頭の裏に回された衣玖の腕に力が込められ、彼の頭があっさりと落ちる。
視界が一瞬だけ闇に包まれる。闇が晴れると、言葉では表現出来ない何かが唇に張り付いていた。
それが衣玖の唇だと把握したのは、衣玖の身体の柔らかさが伝わってからのことだった。

「は……ぁ……○○さん……」

微かに洩れる吐息と、恋しさ秘める声。
押し付けられる唇を回避する方法など、彼は持ち合わせていない。嫌とも思っていない。
ただ、突然のコトに思考が追いついていかないだけ。
衣玖の求めにされるがままの彼は、呆然と衣玖の熱を感じていた。

「……ッ……」
「ん……っ。……あ……」

簡単に彼の唇を割り、衣玖の舌が口内に侵入する。彼の舌を捉えた衣玖は、淫らな交わりを開始した。
ぴちゃり、と水音が隙間から洩れる。
二人の唾液が混じった液体も洩れ、互いを求める潤滑油になった。






しばらく続いた交わりは、一端の終了を迎える。
どちらともなく離れた二人の唇にかかる銀の橋は、名残惜しそうに伸びる。


そして、離れなければならない状況を、彼らは心底名残惜しそうに思った。


ぷつん、と二人を繋ぐ糸が途切れる。
しかし、二人を包む熱が途切れることはなかった。

「あ……終わり、ですか……」

彼女は残念そうに呟く。途中で切れた、銀の糸は既に消えていた。

「……別に、貴方がよければ、私は……」

目を伏せ、頬を赤く染め。
か細い言葉を言われた日には、超える障害など二百由旬の果てに。
熱情に任せて衣玖を抱き締める。
雷を操り静電気を纏うからか、彼女の趣味か。身体にピタリと張り付いた衣玖の服装は、身体のライン十分に伝える。
柔らかい女性らしさの感触だけでも彼の頭が吹っ飛びそうになるのに、胸板に押し付けられる双壁は現実を溶かす。
これまで何度も中断してきた中で、一番滑らかに事が進みそうだった。もちろん、今更気後れなどしない。

「○○……さん……」

泣きそうで、どこなく嬉しそうな衣玖の呟き。
それは、完全に彼の枷を外す。

「だい……す、んっ……」

彼女の言葉を、唇を重ねることにより中断させる。
今度は彼から衣玖を求める。右腕を彼女の頭の裏に回す。これで二人、同じように互いに縛られた。
積極的に舌を絡め、互いを求める。
男女の関係に発展しようとしている現在、戸惑いは無粋というもの。
彼は衣玖の服の内部へと手を進め、小振りながらも形の良い胸を―――――









「あ――――っ!」









大地震が発生し、戸棚の物がたてた音でも、この悲鳴には負けるだろう。
視線だけを発信源へ向ける。
開いた襖の傍には、お盆を持った天子がいた。情事の現場を目撃したからだろうか、顔を真っ赤にしている。
その姿だけ見ても、このようなコトには不慣れなのだろう。教育上も見せ続けるのは宜しくない。

「……!」
「いっ……ぐっ……?」

咄嗟に離れようとした彼を押さえつける衣玖。あろうことか、彼の頭を包む腕に更なる力を込めた。
当然、口付けは深くなる。

「ちょっと! 衣玖、○○に何してんのよ!」

お盆を部屋の隅に片付けておいたテーブルの上に置いてから、天子は折り重なる二人に詰め寄る。
言葉を考えるに、目標は衣玖なのだろう。何故彼女を責めようと思ったのだろうか。
十分彼にも責任がある格好に違いない。彼が上にいる時点で、押し倒した結果なのは明白だ。
衣玖の上にいる彼を揺する天子。さすがにこうでは、途中で止めなければならなかった。

「……っあ……」

離れる彼と衣玖。
繋がりの深さを表すように、今度は舌と舌が糸で結ばれていた。その糸を、衣玖は迷い無く吸い取る。
邪魔が入ったというのに、浮いた感覚が地につくことはない。
その光景を目にした天子は更に赤くなる。わからない動作をしながら、目の前を否定しようとする。

「不潔! フケツよ、不潔! ふ――け――つ――! 唾液が、あんなに……うぅ……」

自ら情景描写をしていて、更に恥ずかしくなったのか。乙女のように縮こまる少女。
そんな天子を前にして、潤んだ瞳を向ける衣玖は、勝利者の面持ちで言い放つ。
言葉を発する前に慣らす為だろうか、舌で唇を撫でる様は淫靡の他にない。

「あらあら。総領娘様も、大人のキスはまだお早いみたいですね……」
「なっ! 竜宮の使いの分際で、な、な……何を言うの!」
「女に従者も天人もありませんよ。ただ確かなのは……」

くすり、と魔女のように笑い、そう言って。
衣玖は、未だに折り重なる彼の背に手を移動する。
まさしく、抱き締めている形となった。

「……好きな人に、種族も年齢も関係はありません。ああ……申し訳ございません……。総領娘様には、少しお早いコトでしたね」

言い切る衣玖が纏うは、恋する女性としての空気。
一直線に行為を彼に向ける姿勢に、何人たりとも介入は出来ない。
我侭で傍若無人な天人でさえも、理から外れはしなかった。





届く距離にあるのに、輪が気に食わない。
ならば、壊してしまえばいい。
けれど、壊すのは難しい。
じゃあ、輪の内部に入って一員になってしまえばいい。





「衣玖のバカ――! 私だって、お、おおお、大人のキスぐらい、出来るんだからっ!」

彼と衣玖の唇が触れるか触れないかの距離まで二人は近づいていた。
そんな彼の頬を、天子は両手で掴み、方向を変える。


天子の顔の前に。


良く見知った顔。惚けた表情は、抵抗の意志を見せない。
今は、情事の影響だろうか朱に染まっていた。
きっと、天子もだろう。自らの顔は鏡を見ないと分からない。だが、確信するだけの要素は揃っている。
一度深呼吸する。肺に入る空気は、何故か甘く感じた。

他人の甘さなど無視。個人が好む甘さは、他人とは交じり合わない。

「んっ!」

一思いに天子は彼に口付けた。
ただただ惚ける彼は、咄嗟に突き飛ばすことも出来ない。
それどころか、天子が彼をぎこちない動作で抱き締める。異性を抱き締めるのも、初めてだったのだろう。
もちろん、口付けも。

衣玖がしたように、舌を絡ませることはしない。天子は、唇を重ねるだけで精一杯だった。
彼の温かさを唇から認識するだけで、頭がぼんやりとして上手く考えられない。酒に酔ってしまった感じといえば、わかりやすいだろうか。
どこまでも、ぎこちなさを残した重なり。
彼は動かない。だから、主導は天子が握っていた。
その彼女から離れる。顔は熱湯を被ったかのように紅。潤む瞳は、口付けに費やした感情を露わにした。



衣玖が止めようとしなかった短い間。彼女が呆気に取られたのもあるのだろうか。



「はぁ……あ……。どうよ、私のファーストキスの味は!」
「え……?」
「畏れながら。……総領娘様、彼と最初にキスしたのは私です。初めてだから、と特別に価値を求めるのはどうかと存じますが……」
「なによ、煩いわね。乙女のキスは何事にも変えられないものなのよ!」

展開に取り残された彼。一番の幸せ者で、一番の被害者というべきだろうか、嫌がる素振りぐらいみせろというべきだろうか。
その横では、恋する女性と少女が、目標の男性を得る為に戦いを始めた。
天子も一杯一杯なのである。女性として数段上の衣玖が、目に見えるリードを得る。

「それは残念でしたね。私もファーストキスでした。これで同等ですね」
「ぐぐぐ……!」
「あの、総領娘様……いえ、天子様。人の恋路にズカズカと土足で踏み入れるのは無粋ではありませんか?」
「うわ――ん! 衣玖に○○取られたぁ! ○○取られたよぉ……」

影がある笑みを駆使し、天子を泣かした衣玖。その笑みは、全くもって天子を虐めることを目的としていた。
予想外に早く相手が折れたからか、少しだけ物足りなそうな衣玖。
そんな彼女が、彼と視線を合わせる。
やっと思考が展開に追いついてきた彼の目の前で。





「私の初めて、差し上げましたから。天子様なんかに、奪われないでくださいよ……?」
「むき――! 負けないもんっ! 衣玖なんかに負けないもんっ!」





確かに距離が縮まった彼ら。
もう、止まらない――――――

───────────────────────────────────────────────────────────

うpろだ22


文月の十九の日(晴れ)


○○「衣玖ってさ、泳げるの?」

全てはこの一言から始まった


衣玖「ええ、竜宮の使いですから。一応」
○○「そっか、どっかに泳ぎにいかない?」
衣玖「わかりました。それでは準備しましょう」


幻想郷に海はないので、霧の湖で泳ぐことにした


衣玖「着きましたね」
○○「おっし、早速着替えるか」

さすがに衣玖の生着替えを見るわけにはいかないので
俺はその辺の草陰で着替えることにした


○○(いや、正直見たいとは少し思ってるけど、そんなことしたら……後が怖いからなぁ)

○○「あ、そういや、衣玖に水着渡してなかったか」

荷物は俺が運ぶことになっていたので衣玖の水着もこのバッグの中に入っていた

ちゃちゃっと着替え終わったので衣玖に水着を渡しに行こうとした所

衣玖「私の水着持ってませんか?」



うむ、あまりにも衝撃的だった





「衣玖は、服(下着を取った状態)だった」
つまりスッパ



衣玖「?○○さん?」
○○「い、衣玖……!?え、あ、み、水着ねっ!?は、はははは、はいこれっ!」

すかさず水着を差し出したのだが、衣玖は水着ではなく俺の手を取って

衣玖「いけないです!鼻血が出てます、手当てしないと」
○○「い、いや手当てじゃなくて、水着着て……」
衣玖「ほら○○さん、こっち向いてください」
○○「いやいや!そっち向いたら……下が」







そこまでよ!!








……どうやら俺は気絶してたらしい
気がつくと、服を着ていた衣玖に膝枕をされていた
とても暖かい膝枕だった

衣玖「……起きたんですか○○さん」
○○「あーそのーごめん」
衣玖「私のほうこそ、ごめんなさい」

○○「……」
衣玖「……」

○○「と、とりあえずお互い悪かったと言うことでこのことは終わりにしないか?」
衣玖「そうですね。それがいいです」
○○「それと……もう少し膝枕しててもらってもいいかな?」
衣玖「ええ、私も○○さんにもう少し膝枕をしてあげたかったところです」

その後、夕日が沈むまでずっと膝枕をしていてもらった





衣玖「それより、私に渡そうとした水着、不思議な形をしてましたが。あれは何なんでしょう?」
○○「え、あ、そ、ま、前に、衣玖に似合うだろうなぁ~って思って買ったんだよっ!?」
衣玖「そうでしたか、ありがとうございます○○さん」


まさか、スクール水着だなんて、このときの俺には言えなかった…

───────────────────────────────────────────────────────────

うpろだ1203


 人里の通り。
 頬を晴らした男が、肩を怒らせ歩く女性に引っ張られていた。

「何もそこまで怒らなくてもいいと思う」
「いいえ、どこまでも怒ります」



 事の起こりはつい先程。
 男○○とその妻である永江衣玖はデートの最中だった。
 常日頃からやれ鈍感だ、朴念仁だと口煩く言われていた○○。
 ならばたまには自分も彼女のように空気を読んでやろうと思い至った。
 そこで、なんとなくいい雰囲気になったところで。
 彼から接吻をしてみたのである。

 衆人環視の中で。

 結果、縦横無尽に殴られた。



「あそこはキスする空気だと思ったんだけどなあ」
「人目のある処でする人がありますか」

 しかと見られた。
 視線が痛かった。
 周りにもそれなりの仲睦まじい恋人たちがいたのだが、彼らにできないことをやってのけてしまった。
 そこにシビれるわけもなし、憧れるわけもなし。
 多くの人目の中、堂々と口付けを交わす二人を見て彼らが思うことは只一つ。
 ああはなるまい、と。

「途中からは衣玖だってあんなに積極的に……ぐぇ」
「黙りなさい黙りなさい」

 首に巻かれた羽衣をぐいと引っ張られ、蛙の潰れたような声を上げる○○。

「ふむ、そうか。人前でキスさえしなきゃよいと。それでいて空気を読む。と、なると……」 
「ちょっと、何を考えてるんですか──」

 何やら不穏な空気を○○に感じ、振り向く衣玖。
 次の瞬間、いきなり抱きしめられた。

「ぇ、あ。きゃっ」

 すぐ目の前にお互いの顔。
 吐息がかかる距離。
 そしてまたしても往来。

「ちょ──! あれほど言って殴ったのにまだ……!」
「キスはしてない」

 確かに口付けには至らないものの、抱き合う姿勢はまさにそれそのもの。
 今にも唇が重なりそうで重ならない。

「そういう、問題ではなく……」

 至近距離で見詰め合う恥ずかしさに目を逸らす衣玖。
 人通りもある道のど真ん中。
 いきなり抱き合った二人は当然のごとく注目の的だ。
 降り注ぐ好奇と、そして期待の視線はまるで弾幕のようだ。

 ここだけの話だが、いや周知の話だが。
 竜宮の使いたる永江衣玖と只の人間○○の仲の良さは割りと有名であった。
 馴れ初めから現在に至るまで、やたらに周囲丸ごと引っ掻き回したもんだから当然といえば当然である。
 そんな二人がまたぞろ何かやらかすのかと、居合わせたものは判じた。
 要はいい見世物だ。

「ちょっと、離してくださいったら。ねえ──」

 腕の中で身じろぎする衣玖。
 彼女がその気になれば彼の腕などいとも容易く振り解ける。
 そうしない、いや出来ないあたり、彼女もなかなかのものだった。

「衣玖」
「ぅ、あ……」

 ギャラリーとなった周囲からどよめきが生じる。
 ○○が彼女の細い腰に回した腕、その力が強められた。
 より一層密着度を増して抱き合う姿はまさに。

「衣玖が嫌なら、しない」
「……ずるい、です」

 真正面に据える彼の顔はまさに真剣で真摯そのもの。
 こんなときに限って、こんなときにまでも。
 あのときのような真っ直ぐな目をする。

 おまけに周囲の空気。
 これからの展開を期待して待ち望んでいるよう。
 これではまるで彼女が拒んでいるのが悪いようではないか。

「、ん──」

 仕方なく、あくまで仕方なくといった風に。
 彼女は目を瞑り顔を持ち上げ、彼の胸に体重を預ける。
 音もなく重なる二人の唇。
 見物客は溜め息を漏らし、あるいは冷やかしの口笛を鳴らし、あるいは黄色い悲鳴を上げた。



 焦らした時間と同程度の間、口付けを交わしていた二人。
 ギャラリーも飽きて呆れて各々の道に戻っていた。
 漸く彼女を解放して、○○はさも自慢げに言ってのけた。

「どうだ衣玖。俺だって空気ぐらい読めるだろう」



 結果、古今無双に殴られた。

───────────────────────────────────────────────────────────

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2010年05月11日 21:49