阿求3
13スレ目>>164 うpろだ953
【幻想郷縁起 第九版:補遺 妖恋譚】
その一行目には、題名としてそのように書かれていた。
◆
それはおよそ半月前のこと。
「ん……」
不意に沸き起こった違和感に、少女は眉を寄せた。続いて、内臓を直接掴まれたような不快感が身体
を支配し、彼女は書き物を中断して右手を腹部に当てざるを得なかった。
「あー……○○さん」
「うん?」
名を呼ばれたことに反応し、部屋の片隅で紙の束に埋もれていた青年が顔を上げる。このところすっ
かり部屋の一部と化していたその青年は、連日の机仕事により随分と眼精疲労がたまっているように見
えた。
少女は青年に不安を与えないよう作り笑いを浮かべ、まったくたいしたことではないのだけれど、と
いう風に言った。
「すいませんが、誰でもいいので……まあ、暇そうな女中さんを一人呼んで来てもらえませんか? あ
と、一刻ほど席を外してくれると。のんびり休んでてください」
「うん……? まあ、わかったよ」
青年にとってそれはよく分からない要求であったに違いないが、それでも素直に腰を上げたのは、休
みという単語の占めるところが大きかったのだろう。細長い体躯を窮屈そうに折り曲げながらも、のそ
のそと出て行く彼を、少女は小さなため息とともに見送った。
「ゆっくり考える時間もありませんか……」
それは少女にとっては当然初めての出来事だったのだが、少女「達」にとっては、もう何度目かの
「初めて」だった。
◆
――人間と妖怪の恋と聞いて、読者が最初に想起するものはなんだろうか。寝物語に聞いた鶴の恩返
しだろうか、それとも雪女だろうか、あるいは……
とにかく、人間と妖怪の恋物語というものは、古来より数多く存在した。しかし、その多くに共通す
るのは、妖怪はその身分を隠し、そして最後にはそれが発覚して二人が別れざるを得なくなることだ。
それにはさまざまな事情があったのだろうが、まず大前提として、それほどまでに人間と妖怪は相容れ
ないものだった、ということがある。たとえどれほどお互いのことを愛していても越えられない壁が、
そこにはあったのだ。
さて、近年の幻想郷における見過ごせない変化として、人間と妖怪の恋人・夫婦の増加が挙げられる。
正確な統計は無いので、どの程度の増加なのかは不明だが、つい先日もある二人が大恋愛の末、盛大に
挙式を執り行ったし、誰もがそれを当然のこととして受け止めた。
もちろん、そこにまったく壁がないというわけではない。人間と妖怪は生活様式が大きく異なるし、
寿命も違う。ただそれでも、互いが互いのことをよく知った上で、周囲もそれを認めて祝福するという
図式は、以前からはとても考えられないことだ。
私の見たところ、その大きな原因は、妖怪の脅威の低下ということもあるが、それ以上に外来人の増
加にあるのではないかと考えられる。事実、恋人同士の多くに、人間側が外来人であるという件が見ら
れる。彼らは妖怪を知らず、人間と妖怪の間にある壁も知らない。そのためよく食料となるが、そうな
らなかった幸運な彼らは何の屈託も無く妖怪たちに接し、そしてどちらかが恋に落ちる。人間と妖怪が
他のどこよりも友好的に共存する幻想郷で、最も妖怪と親しくなるのが外の人間とはなんとも皮肉な話
だ。
時に、先日より我が稗田家にもひとり外来人がやってきた。ひょっとしたら彼もどこぞの妖怪と恋に
落ちるかもしれない。そう考えると中々に
(ここで書き損じたように墨が垂れており、この紙はくしゃくしゃに丸められている)
◆
随分と手間取った仕事に区切りがつき、ようやく眠れるかと思っていた彼のもとへ女中が訪れたのは、
中天に至った月のよく見える、静かな晩のことだった。一応は客人であるところの彼は相部屋ではなく
個室を許されていたが、急遽間に合わせで用意された部屋であるためか、家人の寝起きする場所からは
やや離れている。染み込むような冷気に鳥肌を立てながらも、彼は女中に促されるまま廊下へと出た。
「なんです? こんな夜中に」
「さあ。私は存じませんね。阿求様にうかがってください」
知らないといいながらも、女中の口調には明らかに棘が含まれており、その視線の冷たさは外気にも
匹敵するように思われた。はて彼女に嫌われるようなことを何かしただろうかと思いながら、実に寒々
とした廊下を進む。それは実際の寒さ以上に、もはや誰も起きている人がいないという活気のなさがそ
う感じさせるのかもしれない。女中の持つ頼りないランプの明かりだけが、この場に存在する暖気だっ
た。
彼がここ、稗田邸に住むことになった理由にはさしたる深いものは無い。あえて言うならば、短期で
人手が必要だったという阿求の需要と、冬の間だけここにいる彼の住む場所が必要だという需要が合致
したに過ぎない。
彼は外の世界の人間だった。
運よく神社にたどりつけたものの、そこで彼の運が尽きたのだろうか。神社周辺の結界にほつれが見
られ、無事に潜り抜けられるか保証が出来ないという状態と、結界の管理者の冬眠が重なり、彼女の目
覚める春季まで、彼は幻想郷に逗留することを余儀なくされた。そこで人里に掛け合った結果、里の若
者たちよりは書籍に関する造詣が深そうということで、阿求の助手のような形でここに住んでいるわけ
である。
さて女中女中と記憶をめぐらせていると、そういえば半月前に阿求に頼まれて人を呼びに行った際、
見つけたのが彼女なのだった。彼女ら使用人とは特に親密というわけでもないが、かといって嫌われて
いるわけでもないだろうと彼は思っていたので、何かあるとするならばその一件だろうか。だがそれに
しても、実際に何があったのか彼は知らないので、結局なんなのか分からないことには変わりがない。
「○○さん」
ふと、無言で足を進めていた女中が口を開いた。
「なに」
足を止めて、彼に向き直る。
「あなた、阿求様のことは好きですか?」
「ん……ああ、感謝してるよ。ここに置いてくれて」
質問の意図が分からず、あえて少しずれた回答をする。仕事を減らしてくれればもっといいという本
音は、さすがに口にするほど彼は間抜けでなかった。
「……まあいいでしょう」
じろじろと遠慮なく彼をねめまわした後、女中はまた歩き始め、彼も半瞬遅れて続く。やがて視界の
先にほのかな明かりがもれ出てきているのが見えてきた。もちろんそこは、彼を呼びつけた阿求の部屋
であるのに相違なかった。
「一言だけ言っておきますと」
こちらを向かぬまま女中が言う。
「私たち女中は皆阿求様のことが大好きなのです。それはけして忘れないでください」
二言じゃないかと彼は思ったが、その言葉に含まれる真剣な色合いが、彼をして口をつぐませしめた。
なんと言ったものかわからず、唸るように肯定とも否定ともつかないあいづちを返す。女中は返事はど
うでもいいのか、ふすまの前に立つと一言、「お連れしました」と言った。
「ありがとうございました。○○さん、入ってきてくれますか」
身じろぎしたような気配の後、ふすま越しにくぐもった声が届く。彼は女中を見たが、彼女は既に背
を向け、彼に向けて礼の一つもせずに暗闇へ溶けていった。彼はまた少し逡巡したが、もう考えてもし
ょうがないと開き直り、お邪魔しますの一言とともに、音を出さないよう注意しながらそっと縁を滑ら
せた。当然のことながら阿求はそのこぢんまりとした部屋におり、中ほどに座布団をしいて座っていた。
今まで読書をしていたのだろう、前にはちゃぶ台のような小さな机があり、ぼうっとしたろうそくの揺
らめきの向こうに何かの草子が見える。明かりはそれのみで、小さな部屋でもその全容は判然としなか
ったが、ただ阿求の横には大きな火鉢が置かれて居、石炭がじんわりとその身を灰に変えていた。
「ええと……何かな」
後ろ手でふすまを閉めながら、彼が聞く。こんな夜中にわざわざ呼び出すとは尋常のこととも思えな
かった。阿求はそれに対して微笑を浮かべると、軽い口調で言った。
「まあ、とりあえず座ってください。あなた背が高いんですから、見上げていると首が疲れてしょうが
ない」
「……座布団は?」
「ありません」
「ああそう……」
阿求の向かいに腰を下ろす。彼女は袷の寝巻き姿で、やはり少し寒いのか、頬や袖からのぞく指先は
頼りない光の中でも赤らんでいるように思えた。無防備な姿に、彼の血流が多少早まる。そういえば日
々の作業は書斎で行っていたため、彼女の寝室に入るのはこれが初めてだったと思い至る。そう考える
と、阿求の背後に意味ありげに敷かれている布団がいやおう無く目に入り、彼は落ち着きなく視線を迷
わせた。
「もう一月も終わりですね」
彼の様子に気づいているのかいないのか、脈絡無く阿求が口を開く。
「ん、あ、ああ」
「○○さんが来たのが十一月の初めですから、そろそろ丸三ヶ月ですか。早いものです」
「……そうだね、あっという間だったよ」
阿求は目を閉じて、その間の出来事を思い出しているかのように一つ息をついた。
「例年通りですと、あの方が目覚めるのは桜が咲く頃ですから、あと二月ほどでしょうね。そう考える
と、もう半分が過ぎたわけですか」
「……」
「私は……まあそうですね、一人でやるよりは、そこそこ楽しかったですよ」
阿求の意図が読めず、彼は沈黙を返す。思い返すに、この三ヶ月の間は、彼にとってまったく急流下
りのような日々だった。今までの常識がまったく通じない世界で、飛んだり跳ねたり、文字通り飛んだ
り。阿求の調査につき合わされた挙句死にかけたことも一度ではない。
ただ、どうだったかというと……結構楽しかったような気もする。阿求と毒舌の応酬をしながら紙束
に埋もれたり、山林を歩き回ったり……それはやはり、まあ楽しかったのだろうと、彼はそう思った。
「ところで○○さん、私の事好きですか?」
唐突に女中と同じことを聞く阿求に、彼は飲むものもないのにむせかけた。意識して深呼吸をし、無
理やり呼吸を整える。
「……まあ、好きか嫌いかって言われれば、好きだね」
「そうですか、それは好都合です」
何が、と聞き返す前に、ろうそくの炎が吹き消される。暗闇の中に、燃える石炭の赤だけが見えた。
「何のつもりだ」
「大したことじゃ、無いんですけどね」
その声にはわずかに硬いものが含まれているように、彼には思えた。戸惑っていると、闇の中を阿求
が彼のほうに向かってくる気配が伝わって来、やがて彼の頬に軽く指が添えられた。
「冷たいんだけど」
「我慢してください」
その言葉が終わるや否や、ほとんど体当たりのような勢いで阿求が圧し掛かって来た。不意を突かれ
て、大人と子供ほど体格の違う阿求に彼は押し倒される。足が机に当たり、ガタンと大きな音を立てた。
まずい、みんな起きちゃわないかなと、見当はずれの心配が脳裏をよぎる。
「……何のつもりだ」
「まああの、あれですよ。ちょっとした、アレ。楽しかったときの事とか思い出しながら、畳の目の数
でも数えていればすぐ終わりますから」
へへへ、と軽薄な口調で阿求は言う。
「数えられるわけないだろ、こんな暗いのに」
「それはすいません。じゃあ目をつぶって羊でも」
そこからは、先ほど少し感じられた硬さは見られず、これはまったくの阿求の自由意志であるように
思われた。指はあれほどに冷たかったというのに、衣服を通して感じられる阿求の体温がとても熱いと
彼は思った。空気の流れに乗って、ふわりと甘い臭いが感じられ、ぼうっとしかけた彼は慌てて意識を
戻す。
「何のつもりだって聞いてるんだけど」
「……黙って据え膳食ってればいいんですよ」
「……」
三度の問いかけに、沈黙が降りる。体感的にはとても長く感じられたその沈黙の中、互いの呼吸音だ
けがこだました。やがて彼の服の裾が強く握られ、根負けしたように阿求が口を開いた。
「覚えてますか? 半月前に、人を呼んできてくださいって頼んだ日。あの日……始まったんですよ」
「……何が?」
「月経です」
「げっ……」
男の身からすると妙に気恥ずかしいその単語は、一方で確かに納得できるものだった。阿求の年齢を
考えてもそれは十分にありえることだったし、誰か女中を呼んできて、男はどこかに行ってろ、という
のも当然だろう。ただ問題は、それとこれとがどう結びつくのかということなのだが。
その疑問は声に出さずとも向こうも分かっているのか、阿求は彼が言わないうちから語りだした。
「私の……まあなんです、特異体質のことは知っているでしょう」
「そりゃあ、まあ」
「子孫が必要なんです、私『たち』には。記憶を継いでいくために。記録を残していくために」
「だからってこんな」
「時間がありません」
抗議をしかけた彼を、阿求の言がぴしゃりとさえぎる。そこには有無を言わせぬ力があった。
「私には時間がないんです。そんなのんびり待ってられません」
それはただどうしようもない事実の重みであり、そうであるだけに彼は何も言うことができなかった。
「それに、待ったとしてそれでどうなるって言うんです。どの道私は早く死にます。残されることが分
かりきっていて、それでも私を貰ってくれる人がいるとでも言うんですか?」
「それは……」
「ほら、何も言えないでしょう? だから黙っていればいいって言ったんです」
そして彼は、同時になぜ今晩呼ばれたのが自分なのかも理解した。もし幻想郷の住人、例えば里の若
者をこの役につかせたなら。その人物には望もうと望むまいと責任が発生するだろう。死別も経験しな
ければならないだろう。そのときまだまだ若いだろう誰かにとって、それはあまりにも重い。その点、
彼は春には幻想郷から消える。周囲が何が起きたのか気づく頃には、責任を負うべき彼はもういないの
だ。お互いにあの人は今どうしているのかと思いつつ、元気でやっている幻想にひたることができるだ
ろう。
「知ったって何もいいこと無いでしょう、こんな事実。あなたが欲望に素直じゃないからこういうこと
になるんです」
「いや欲望に素直になるにはもうちょっと性的魅力が――痛っ、痛い痛いすいませんでした」
「……ふん、メリハリの無い体で悪かったですね」
脇腹を思い切りつねっていた手を離し、阿求は彼に覆いかぶさっていた体勢から身を起こす。何を、
と問う前に衣擦れの音が、次いで、まるで衣服が床に落ちたような音が聞こえてきた。
「安心してください。こう見えて男だったこともありますから、扱いには慣れてますんで」
「何のだよ……くそ」
いつの間にか闇に順応していたのか、目を向けるとぼうっと白い塊のようなものが視界に入る。それ
が何であるのか、意識して彼は脳から閉め出そうとしたが、できるはずもなかった。それはただ冬の霊
峰のような、どこか慄然とさせるような触れてはいけない白であり、同時に最高級の絹糸のような、こ
の手で感触を確かめずにはいられないような白だった。彼は危うくその白に圧倒されかけたが、ただ一
点においての納得のいかなさのみが、彼の意思をつなぎとめていた。
彼は納得がいかなかった。彼は自分のことを適当な性格だと思ってはいたが、それでも無責任な男で
はなかった。阿求がいて、その子がいて、しかし自分はいないというのは、どうしても幸福な結末であ
るようには思えなかった。なので、どうしてもここで流されるわけにはいかないと彼は思った。大体使
命感で抱かれるというのが気に入らない。なので、彼はもそもそと手探りで彼の帯を解こうとする阿求
の手首を掴み、身を起こす。間近に見える阿求の顔、その表情には、特に何も浮かんでいないように思
われた。
「……理由がなければ何もできませんか」
幼い顔つきに怜悧な目をたたえ、挑発するように阿求は言う。その言葉は無視し、彼は考えた。どう
するのが一番いいのだろうか。勝ちと負けという表現を使うのならば、このまま流されるのは容易だが、
間違いなく負けだろう。阿求を振りほどいて自室に戻るのも容易だが、これもやはり負けだろう。だと
すると、勝ちとは何か。
彼は壊れ物を扱うようにそっと、阿求の頬に触れた。阿求はそれに対してわずかに目を細めたが、そ
れだけだった。そして彼は理解した……きっとこの無表情を崩すことができれば、これがきっと、唯一
の勝利なのだ。その後の結果はどうあれ。
そう思いついた瞬間、何か考える前にするりとその言葉は彼の口から出てきた。
「阿求は僕の事好きなの?」
阿求の顔が強張る。見た目上、表情の違いは分からなかったが、しかし頬に添えた指からはその表情
筋の動きが伝わってきた。
「……ど、どうでもいいじゃないですか、この際」
「よくはないな。さっき僕に聞いただろ。じゃあ僕だって聞いてもいいはずだ」
「……だからって」
声色にためらうようなものが混じり、伏せた視線の、長い睫毛越しに見える目には動揺の色がある。
そして、それによって彼の中で一つの結論が導かれつつあった。観測者として代を重ねてきた阿求にと
って、自らの好悪を口に出すことには抵抗があるのかもしれない。しかし今に限っては、どうしてもそ
れを出してもらわないといけない、出してもらわなければ困ると彼は思った。だから自分から口を開い
た。
「僕は、好きか嫌いかと聞かれれば好きだ……そして、好きか普通かと聞かれても、やっぱり好きだ」
目を疑ったように大きく見開き、阿求は伏せていた視線を上げた。その意味が十分に浸透するのを待
ってから、彼は続ける。
「……ついでながら、大好きか好きかと聞かれれば、自信を持って大好きだ、と言える」
火鉢の炭、そのひとつの角が燃え尽きて形を失った。この部屋に入ってから実に長い時間が過ぎたよ
うな気がするが、実際は十分と経っていないだろう。依然として周囲からは他に何も無いかのごとく物
音一つせず、凍りついたように動かない阿求から視線をそらさないまま、彼はまるで時間が止まったよ
うだと思った。
「阿求の横で作業をしてたとき……なんてことなしにふと顔を上げたら、どうしてか、そのまま文章を
書いている阿求から目が離せなくなった。よく分からないけど、そのままずっと、その横顔を見ていた
い気分になった。阿求が書き終えて、んーって伸びをするまで、ずっとそのままだった」
「……へたくそです。その口説き文句は。もう少し技巧を凝らしてください」
「うん、ごめん。即興なもんで」
「なんで……なんでそんなこと言うんですか、今……そんなこと言われたら、私……」
大きく顔をゆがめ、搾り出すように阿求は言った。彼は再び頭を下げ、しかしすぐに上げなおして真
っ直ぐに言う。
「ごめん。でも、今言わないといけないと思ったんだ」
「……○○さん、あなたあと二ヶ月したらここからいなくなるんですよ。分かってるんですか?」
「うん」
「よしんばいなくならないとしても、十何年かしたら私がいなくなりますよ。分かってるんですか?」
「うん」
彼の告白に、阿求は虚脱したように肩を落とす。そのまま言葉を探しているようなそぶりを見せ、や
がてぼそぼそと語りだした。
「気づいてたんですよ」
「うん?」
「じっと見られてるって」
「ああ」
「どうしてか、嫌じゃなかったです」
寂しそうに笑う。
それで十分だった。
「○○さん」
阿求はその小さな両の手で、彼の手のひらを包み込み、
「私は」
そのまま、胸にかき抱くようにして持ち上げる。
「恋をしても、いいんでしょうか」
当然のように老いて死んでゆくことのけしてできない少女は、千年の長きに渡って転生を繰り返し、
記憶と記録を続けてきた少女は、しかしそれでいてこのときただの少女だった。彼は阿求の震える肩に
空いている腕を回し、そっと引き寄せる。しばらくして彼の胸に湿り気が感じられたが、彼は何も言わ
ずに、阿求の小さな背を優しくさすった。
「……○○さん」
「ん?」
「……寒いです」
「……着れば、いいんじゃないかな。服」
「離れたくありません」
そんな無茶なと彼は言おうとして、体を密着させた阿求と目が合う。目端に涙をためながら、眉を寄
せて見上げてくる様を見てしまい、彼はもはや何も言えずに頭を撫でた。
「めでたしめでたしになるわけないじゃないですか。それなのに……」
「もう僕は自分の常識は信じないことにしたんだ、この幻想郷では」
「じゃあ、何を信じるんです」
彼は阿求の耳元で何かをささやくと、そのおとがいに手を添えた。
暗中に影が重なる。
◆
結局よく眠れぬまま女中は朝を迎え、ぼんやりと頭にかかっているような気がするもやを振り払って
阿求の寝室へと向かった。どういうことになったにせよ、それはちゃんと確認しておかなければならな
いと思えた。
阿求の初潮に立ち会った彼女は、そのまま今回の唯一の共犯となったのだが、それについてもちろん
思うところがないわけではない。しかし彼女はそれについて何も言うことができなかった。それが彼女
と阿求の間にある壁だった。
しかし、あの男ならどうだっただろうか、と女中は思う。もし彼が自分のような立場だったなら……
きっと、彼は自分の思うところを言っただろう。思えば彼は最初からそうだった。家中の者……いや、
里の者は誰もが阿求を愛していたが、同時に壁を感じていた。自分とは違うという壁だ。しかし彼だけ
はそんなものをまるで感じていないようだった。それは彼が外来人であるからかもしれなかったし、あ
るいは彼個人の特質なのかもしれなかった。どちらなのかは女中には分からなかったが、いずれにせよ、
こうなるとするならば彼が一番適任だったのだろうと思えた。
ただそれはそれとして、もし阿求様に恥をかかせているようなことがあったなら刺し殺してくれよう
とも思っていたが。
部屋の前で呼びかけたが返事はなく、やむを得ず失礼しますとふすまを開ける。そこにあったのは、
なんとも判断のつきかねる光景だった。まず阿求の衣服が散らばって居、布団の端から肩をのぞかせて
いることから、おそらく一糸もまとっていないと思われるのに、男のほうの衣服は乱れていない。掛け
布団をまるで寝袋のようにしてくるまっており、敷布団のほうは使われた様子がない。
そして二人ともがしっかりと抱き合っていた。
一体どういうやり取りがあったのか女中は想像しようとしたが、それは彼女には少々荷が重かった。
ただ二人の様子を見るに、おそらくうまくいったのだろうことは容易に分かることだった。彼女はひと
まずそれで良しとし、安心しきったような顔で眠る主人に一礼すると、音を立てないよう注意しながら
ふすまを閉めた。ひょっとすると近いうち、阿求の寝室をもっと広い部屋にする必要があるかもしれな
いと思いながら。
部屋の火鉢が、最後の灰を落とした。
◆
――人間と妖怪が他のどこよりも友好的に共存する幻想郷で、最も妖怪と親しくなるのが外の人間と
はなんとも皮肉な話だ。
かくいう我が稗田家にも、先日ひとり外来人がやってきた。彼もまた、ある人物に極めて大きな影響
を与え、幻想郷に新たな風をもたらすこととなった。このような流れを、秩序が乱れると批判する向き
もある。だが、本来は大きく異なるはずの存在でも、真摯に向き合えばきっと分かり合えるということ
を示す好例として捉えれば、人間と妖怪の関係もまた新たな段階に入ったと言えるのではないだろうか。
我々が感じてきた壁は、もはやそれほど高いものではないのかもしれない。
以下に、当人たちの了解が取れた事例について、そのなれ初めと結末を書き示す。歴史に残るお惚気
と言うことで、何かの参考になれば幸いである。
◆
「僕たちのことは書かないの?」
「か、書くわけ無いでしょう!」
「まあ、全裸で迫ったとかは書けないよね……」
「~~っ!」
新ろだ01
「秋ですねえ阿求さん」
「そうですねえ」
傍らに阿求を置いて縁側で茶を飲んでいると、
「秋と聞いて!」
「歩いて来ました!」
なんか来た。
「誰だお前ら」
「申し遅れました、豊穣の神の秋穣子です」
「ちょっとなんでお姉ちゃんより先に名乗るのよ」
「いいじゃない、早い者勝ちでしょ」
こいつらテンション高いな、と思う。横の阿求も若干戸惑い気味だ。
どうやら神様姉妹らしい連中はいきなり家の庭先で喧嘩を始めやがった。
「阿求どうする? 対処法知ってる?」
喧嘩が収まらないので、とりあえず阿求に何か知らないかと尋ねてみるが返事が無い。
「阿求?」
腕に何か当たるのを感じながら横を向くと、阿求はうつらうつらしていた。
「眠いんなら無理しないで、部屋で横になっておきな」
言ってやると阿求は気の抜けた返事をして、自分の膝上に頭を乗せた。
そのまま寝息を立てようとする阿求を揺さぶり起こし、声をかけてやる。
「ここじゃ寒いでしょ。布団で寝なさい」
すると阿求は一瞬こちらを見、股座の間に顔を埋めた。
仕方が無いので抱えあげようとすると、庭にいた神様が奇怪な行動をしている。
「ヤムヤムヤムヤム」
彼女らは妙なことを口走りながら、手をかざしていた。
なにをしているのかと問いかけると厚着の方が答える。
「子沢山になる呪いをかけてるの」
胸を張って答えているが、全く疑わしいことだ。
「そんなことできるのか」
「あら私にかかれば双子も三つ子も思いのままよ」
なにせ豊穣の神ですから、と続ける帽子を被っている方の神。
確かに作物の豊作と子孫繁栄は通じるものがあるだろう、しかしいらない呪いだ。
「一時に生むより一人を確実に欲しいんだけどね」
「何でまた」
と今度は薄着の方が口を開く。
「いや、細いからどうにも二人三人も抱えきれないでしょう」
「小さいしねえ」
そう言って寝る阿求を見やる二柱。
そう背の高くない自分の肩口程度の背丈しかないのだから、阿求は大分小さい部類に入る。
「それに安産型って言うわけじゃないからね」
言いながら尻を軽く叩くと、阿求は不満そうに頭を揺らした。
どうやらまだ起きているらしい。
「ほら阿求立てる? 部屋に行くよ」
言うと阿求はまた顔を足に埋めて顔を振った。
「嫌がってる」
「抱っこして運んであげれば」
庭先から茶々が飛んでくるが、元よりそのつもりだ。
阿求の股の間に膝を着き、背と尻の後ろに腕を回して力をいれる。
持ち上げたら抱えなおして顎を肩に乗せてやり、酔わないように安定させておく。
「お姫様抱っこしてあげれば良いのに」
脇からどちらかが言い、他方が頷いている。
確かにあれは抱き易いし見た目も良いかもしれないが、首がぐらついて余り頭には宜しくない。
だから余りやりたくはないのだ。少なくとも眠がっているときは。
なのでその言を無視して、阿求を少し離れた部屋に運んだ。
適当に阿求を転がして布団を敷く。
枕を取り出して布団に置いたら阿求を据えてやり、上から毛布をかける。
寒いので念のために二枚掛けてやり、部屋を出て行こうとすると後ろから声が掛けられた。
「私……子供産むの苦労するんでしょうか?」
その心配は、自分の体の大きさではなく器質に因るものだろう。
阿求は生まれつき体が弱い。阿礼乙女の宿命のようなものだ。
「そりゃ苦労するだろうさ。みんなそうだよ」
「なんか随分知ったような言い方ですね」
返してやると、少し妬いたような表情で阿求が言ってきた。
阿求は布団から身を起こすと、頬を膨らませている。
「いや、産んだ事も産ませた事もないよ。けどみんな大変だったって言うし」
振り返りながら答えると、阿求は笑いながら言った。
「あなたが産んでいたら、大変でしょう」
全くだと言って、両手を挙げて同意した。
「赤ちゃん産めるんでしょうか?」
阿求が不意に心細げにポツリと言う。
近寄って頭を撫でてやると多少落ち着いたようだが、それでも顔色は晴れない。
「産めるだろうよ、来ていれば」
口調を改め、安心させるように言う。
阿求は始め意味が判らないという顔をし、少しして意味合いに気付くとまた少し膨れっ面に変わった。
しかしその表情の中にまだ不安そうな顔も見え隠れしている。
「本当に?」
阿求が問うてくる。
「出産の最年少記録は5歳だよ。それに比べればよっぽど体は出来てるさね」
答えるとようやく阿求は安心したような表情をして枕に顔を埋めた。
「外の神様帰してくる」
そう言って障子を開け出て行く。また後ろからいってらっしゃいと声が掛けられた。
さて、阿求の様子がいささか妙だ。
まさか子供の出来ないのを気に病んでいると言う事はないだろう。
なにせまだ結婚して半年程度も経っていないのだ、これでもう出来ているという方が間違っている。
大体そんなすぐに出来るものでもない。こればっかりは天からの授かりものだ。
ならば何であんな調子になったというのだろう。秋だからか?
成る程、秋なら感傷的にもなるかもしれない。しかし感傷的になったからといって子供云々が出るだろうか。
まあ女心は男には一生掛かっても判り得ぬもの、そういうものなのだろう。
適当に納得して、庭先へと妙な神様を追い遣りに向かった。
「ああ、まだいた」
顔を合わせるなり言ってやると、不平の声が飛んできた。
「それでちゃんと寝かせてきたの?」
「うん? そりゃあそのために行ったんだから寝かせるだろうよ」
一頻りブーイングを受けるとそのようなことを言われた。
「ところでなにをしに来たんだ?」
それ以上何かを言われないためにも、早々に話題を転換することにする。
すると二柱は顔を見合わせ、何かを話し合った。
それを怪訝な顔で見ていると、薄着の方が極短く説明する。
「なんとなく」
全く端的で判りやすく、だからこそどうしようもない答えだ。
なのでこちらも一言で言ってやる。
「帰れ」
二柱は特に何を言うでもなく、ただ親指を下に向けた。
「すいません、晩御飯ご馳走になっちゃって」
夕飯の乗った卓の周りには自分と阿求の他になぜだかあの姉妹がいる。
黄昏時に阿求は起きだしたが、その時分までいたのでついでに誘ったのだ。
豊穣の神で収穫祭にも呼ばれているいい神様だから、という理由だがどうにも妙な感がある。
とはいえどうでもいい程度なので無視するのだが。
「いえ、折角来て頂いたのですし、少しくらいはお持て成ししないと」
阿求が言う。
「そうですか、それでは遠慮なく」
こうして慎ましやかな酒宴は始まった。
始まって一時間ほど経った頃合だろうか、不意に阿求が口を開いた。
それまではもっぱら自分と姉妹が話していたので、皆が不自然に静まり返る。
その様子を妙に思ったのか、阿求までも口を閉じてしまう。
仕様がないので阿求を促して先を言わせた。
「穣子様」
「様は付けないでいいよ」
姉の方がいらない茶々を入れる。阿求はそれを無視して続けた。
「後で少し聞きたいことがありますので、私の部屋に来てもらえますか」
彼女はそれを了承し、程なくして食事は終わった。
阿求は茶を飲んで一服すると席を立った。どうやら自室に向かったらしい。
それに穣子と呼ばれた方も付いていき、後には静寂だけが残される。
特別何を話すことも無く、適当に過していると十分ほどで阿求らは帰ってきた。
阿求に何を話していたのかと聞いても、はぐらかされて何も返ってこない。
それは向こうも同じのようで、終いには随分腹を立てていた。
幾らかして二柱は歩いて帰っていった。
そこの柿は今年は甘いよと言い残していたが、渋柿を勝手に甘柿に変えないで欲しい。
背の見えなくなるまで阿求は見送ろうとしたようだが、寒そうだったので強引に家に連れ込んだ。
居なくなったところで、また何を話していたのかを聞き出そうとしたがやはり何も話してはくれなかった。
それは風呂に入ってからも同じ事で、どうにも口を割る気はないらしい。
夜も更けて眠ろうかというときに、阿求は抱いてくれと言い出した。
望みどおり抱き上げて布団まで運んでやる。
起きていたのでお姫様抱っこをしてやれば、落胆したような嬉しそうな複雑な表情をしていた。
運ぶ最中じゃれて首やら頬やらに噛み付こうとしてくるので、全く危ないたらありゃしない。
掛布団を剥ぎ布団に入れようという時でも、まだ阿求は首筋にしがみついていた。
甘えたいこともあるのだろう、よくあることだと思い、頭を撫でてそのまま置いておく。
「ねえ」
阿求が話しかけてくる。
彼女は胸元に頬を擦りつかせていたのを、肩に手をかけて体を起こすと、鼻頭が触れ合うくらいまで顔を近づけてきた。
「阿求、どうした」
言いながら背中に回していた左腕を畳に付き、重心を心持後ろにずらす。
すると阿求は更に胸先を寄せて顔を近づけ、また足を外に放り出すような体勢に変える。
そのまま彼女は圧し掛かるように迫って来、か細い左腕はあっけなく崩壊して阿求ごと畳の上に転げた。
まず最初に思ったのは、寒いということだった。
十月始めとはいえすでに冬のようで、押し倒した阿求は自分が下敷きになっているから寒くはないだろうが、夜に畳の上に直に寝るのは堪える。
次に思ったのは苦しいということだった。
なにせ薄い胸板に阿求の体重そのままが乗っかっているのだから、息が非常にし辛い。
だので少しでも息をしやすいようにと体を起こそうと砕けた左腕をまた畳に着き、力を込める。
「ねえ」
阿求が話しかけてくる。耳元だったため、左腕に込めた力がまた砕けそうになる。
「私、赤ちゃん産めるんでしょうか」
昼とおよそ同じ質問。
「産めるでしょう、来ているんだから」
昼とおよそ同じ返し。
なんとか上体だけ捻り、気道と肺の動く場所を確保してやってから答える。
次いで右腕も足して体を立て直すと、阿求は自分の胸にもたれる体勢になっていた。
阿求はその姿勢のまま上目遣いに自分を見ると、そうですかと言う。
そしてにっこり笑うと、なら産まさせてくださいなと言って自分を押し倒し、唇を近づけてきた。
…
……
………
朝方起きると隣に阿求はいなかった。いつものことだ。
枕元においてある眼鏡を掛け、ひどく乱れた布団を更に乱して起きる。
寒い寒いと身を震わせながら炉辺に向かうと、そこには一足先に火に当たっている阿求がいた。
そこに肩をくっ付ける様に座り、一緒に火に当たるが何か違和感がある。
何だと思ってよく見てみると、昨日に比べて大分腹がでかい。
「阿求」
「はい」
頭を抱えながら言う。
「早い」
阿求はああやっぱりと言いながら、腹から枕を取り出した。
最終更新:2010年06月04日 01:07