阿求4
うpろだ1285
夏の暑い最中、俺は長い石段を登っていた。
登っても果ての見えない、いつまでも続くかのように思えた石段。
とはいえ本当に終わりのないと言うことはなく、その頂上が見え始めていた。
やがて目の前が灰一色の景色から、青と緑の世界に変わる。
「やっと着いたか……」
誰に言うでも無しに呟いていた。
石段脇に手水場を見つけ、歩み寄る。
柄杓の一つを取り、左手、右手、口とゆすぎ、水を頭に何度かかける。
頭の粗熱が取れる頃合に後ろから声が掛けられた。
「あら珍しい、参拝者? 素敵なお賽銭箱はあっちよ」
振り返ると腋の開いた珍奇な装束を着た巫女がいる。
親指で指し示した先は参道で、その終わりに社殿があった。
とりあえず賽銭箱に手持ちの幾らかを放り込み、鈴を鳴らすと巫女は満足そうに頷いた。
手招きをされ、促されるままに付いていく。行き着く場所は縁側だった。
簾の下で冷えた茶を一杯貰い一服する。
「それで、用件は?」
適当に世間話をした後に切り出される。
「ここから向こうに帰してもらえるんなら帰してもらおうと思って」
「ああ、外からの人なの。それじゃ渡し賃十円五十銭ね」
金を取るとは。しかも存外高価だ。
「それじゃあ1弗あげよ……」
言った端から手を払われた。金に兌換すれば結構いい値になると思うんだが。
「まあ冗談よ。それじゃ準備するからちょっと待ってて頂戴」
巫女はそのまま奥の部屋に引っ込んで行き、縁側には自分一人になった。
茶と一緒に出された漬物を食いながら、幾らか待っていると巫女が戻ってきた。
もう暫くすれば準備が整うので、それまで待っていて欲しいとの由である。
どういった手順で帰るのかと聞いていると、不意に横から声が掛けられた。
「そうですか、やっぱり外に行ってしまうんですか……」
「!」
聞き覚えのある声。振り向くとそこにはやはり見知った顔がいた。
「なッ……阿求!」
「この間神社の場所を聞かれたときから、そんな予感はしていたんですが……」
彼女はゆっくりとした足取りで近づいてきた。
どうしたのかと巫女が尋ねてくるが、自分にも把握できていないのでどうとも言えない。
「何でここに…?」
「今日大荷物を持って出かけるのが見えたので、急いで後をつけてきまして」
大荷物というのは迷い込んだ時に持っていた鞄のことだろうか、確かに教科書などが入っていてそれなりに大きい。
知り合いだったの? と見れば判ることを巫女が訊いて来るが無視する。
「いや、そうじゃなく」
「どうやってかですか? もちろん歩いてです」
これでも結構体は強いんですよ、と続けてくる。体は弱いと聞いていたのだが。
巫女がどういう関係か、と肩を揺すりながら訊いてくるがそれどころではない。
「いや、何でここに来たんです?」
「恋人が旅に出ようって言うのに、引止めに来ちゃいけませんか?」
後ろでほほうと面白い物を見つけたかのような表情で巫女が頷く。
正直鬱陶しいがそんなものに構っている暇はなく、問いかける。
「恋人って……誰と誰がで?」
周りを見回しても人はいない。この場にいるのは三人だけである。
「もちろん、私とあなたです」
俺は眉根を寄せながらまた問いかける。
「いつそんな関係になりましたっけ?」
「酷い! 腕枕だってしてくれたじゃありませんか」
「あれ、そんなことしましたっけ」
「一昨昨日の夕立の日にもやってもらいました。まあ私が潜り込んだんですけど」
「起きた時に左腕が妙に痺れていたのはその所為か……」
阿求は素っ恍けるようなはぐらかすような、そんな調子で受け答えていた。
「あー、痴話喧嘩は余所でやってくれる?」
唐突に後ろから声がかかる。今まではさんざ無視していたが、これは無視できない声量だ。
巫女はそのままこちらに向き、言葉を続ける。
「あんたも、喧嘩したからって一々帰ろうとしないで話し合いなさい」
「そういう理由で帰りたいって訳じゃないんだが……」
しかしその有無を言わさぬ物言いは、こちらの意見など物ともしない。
「阿求ももっとちゃんと繋いでおかないと」
「はあ、すみません」
これには予想外といった面持ちで阿求が謝る。
「ほら、分かったら向こうでやって頂戴。ただでさえ暑いっていうのに」
巫女が明らかに邪魔そうに、手を追いやるように振った。
渋々といった表情で両者手水場の傍の木陰に移動する、途中で論点がずれているのに気づいた。
「で、向こうに帰るって言うのはどうなったの?」
「え? まだ帰るつもりなの?」
巫女がきょとんとした顔で聞き返してくる。まさか本当に痴話喧嘩とでも思っていたのだろうか。
「仲直りして、里で仲良く暮らしてなさいよ」
どうやらそのまさかだったらしい。巫女は呆れたとでも言いたげな様子である。
「そんな、夫婦だなんて」
阿求は阿求で盛大に真ん中をすっ飛ばしている。
頬を赤く染める阿求を見て巫女が笑い、俺は頭を抱えていた。
どうやらというかやはりというか、巫女は同じ女の味方のようで、これは自分の分が悪い。
「仲直りも何も、端から仲違いなんざしてやいないんだが」
「喧嘩してないんなら、帰って家で遊んでなさいよ」
七面倒臭そうに巫女が言う。俺は続けて言う。
「だから喧嘩したからとかじゃなくって、帰りたいから家に帰せって言ってるんだが」
巫女は溜息をつきながらそれを聞き、溜息をつきながら言う。
「しょうがないわねえ。じゃあ右腕に掴まりなさい。阿求は背中ね」
よくは判らないが、言われたとおりに右腕に掴まる。
こんなに簡単な方法で戻れるのなら準備など要らなかったのではないか。
外に出るにしては阿求もいるのが気にかかるが。
「ところで阿求の家って里のどの辺り?」
「真ん中くらいの一等地を占拠してます」
「待て待て、何で稗田の屋敷に行くんだ」
「何でって、家に帰してあげようとしてるんじゃない」
当然でしょ、とでも言いたげな表情で巫女が言う。
「何よ、あの階段下りたくないでしょう?」
「そりゃあ下りたくは無いが」
「じゃあいいじゃない」
「稗田の屋敷に戻るつもりも無いんだが」
「……あの家は嫌ですか?」
巫女の背中に乗っかっていた阿求が言う。
肩越しにかろうじて見える目元は些か悲しげに見える。
「まあ場違いなんで、肩身が狭いって言うのはありますわな」
右腕から離れ、木陰に移り言う。阿求も背中から下りて近づいてきた。
「場違いってなんで?」
やはり近づいてきた巫女が問うてくる。
「外の者だし、家人でも無いから」
俺は肩をすくめてそれに答えた。
「でも誰も何も言ってはいませんよ。寧ろ男手が増えて喜んでいます」
「男手って言ったって役にゃ立たんでしょう」
「それでも嬉しかったんですよ、私は。雇われたのではない人が来るのは」
すぐ傍までやってきた阿求に見上げられ、俺は思わず目を背けた。
「ねえ、あそこが嫌いだと仰るならどこか他のところに移りますか?」
唐突に阿求が言い、それに巫女が応じて言う。
「なら結婚しちゃったほうがいいでしょ」
それは内の者になってしまえと言う意味なのだろう、実際そういう者も多いと聞く。
つまりはこちらの人間、一部の好き者は妖怪、と恋に落ちてそのまま結婚する人間だ。
そのような例もあるのだし、結婚するのには問題ないのかもしれない。だが自分にその気は無い。
「結婚だのというわけにはいかんでしょう」
盛り上がりかけた彼女らに水をさすような形で割り込む。
「まだ幾らの付き合いというわけでも無いんだし、それに若いんだから」
「付き合いが浅いと言うなら、もうちょっとここに居れば良いじゃないですか」
発言は藪蛇だったかと後悔する。これは要らぬ手札を与えてしまった。
「それが良いわね、それじゃあお茶でも飲んでいきなさい。後で送っていくわ」
巫女が話を〆にかかる。全く自分の首を絞めるとはこの事か。
また簾の下で冷茶を飲んでいる。違うのは左で阿求が寄りかかっているということだ。
巫女は後ろでうんざり半分微笑み半分といった塩梅で眺めている。
やがて茶を入れた椀に水滴も付かなくなるような頃、阿求が完全に肩にもたれかかってきた。
長い間歩いた所為で疲れていたのだろう、どうやら寝入ってしまったらしい。
頭をゆっくり下ろしてやり、膝の上に乗せて頭を撫でてやる。
それを見ていた巫女が声をかけてきた。
「満更でもなさそうじゃないの、阿求のこと」
「好かれるのは構わないさね。そりゃあ」
冷やかすようでも無い、大分真面目な口調であったので相応に応じてやる。
「だからと言ってそれとこれとは話が別さな、結婚とは」
膝上の阿求が動いた、様な気がした。
「……つまりは遊び、とは違うか」
目元を険しくして巫女が尋ねる。それに首を横に振って答える。
「いや、なんだろうか。仲の良い友達というか、そういう関係かね」
そこで話を区切り、ぐいと一息に茶を流し込む。
「まあ生来適当な性分だもんでその手のことも億劫になってしまっているのさ」
空になった椀を置きながら続けた。巫女は思案顔で茶を飲み、やがて口を開く。
「別に何とかなるでしょ、そのくらい」
その口振りは或いは呆れたといったものあった。
「今までもよくやっていたんでしょう。それなら何とかなるわよ。まあ恋人も居ない私が言っても詮無い事かもしれないけど」
そう言ってまた茶を啜る。どうやら温茶であるらしい。
「かも知れない、し、そうじゃないかもしれない」
俺もまた飲み止しの阿求の茶を奪って飲み、言った。
「それでも結婚は御免なのさ。特に婿入りは」
奪った茶もまた一息に飲み干し、椀を置く。その時阿求がむくりと起き上がった。
「そんなに私と一緒にいるのが嫌ですか?」
阿求は起き上がるや否やそのようなことを口走った。どうやら寝ぼけ眼に会話の端々を聞いていたらしい。
「枕も共にした仲だというのに」
と言って阿求はさめざめと泣くように、目元を着物の袖で隠した。
それを聞いた巫女が音もなく近づいてきて耳元で囁いてくる。
「ちょっと、ちゃんと責任取りなさいよ」
その声色は明らかに怒気を孕んでいて、何もしていないにも関らずとても怖い。
「なんの責任だよ」
俺が言うと、それを聞いてか巫女が更に怒りの表情を帯びていった。
「女の子に恥かかせて、なにもしないっていうの?」
「誰も同衾なんざしちゃおらんがな」
怒っているのは、一緒に寝た、と言う意味合いの言葉だろう。
しかし記憶にある限りそのようなことは一度も無い。
「酔っ払って忘れてるんじゃないの」
「酒なんか滅多に呑まないんだがね」
妙に突っかかってくるのは同じ少女だからだろうか。幾分自分の旗色が悪い気がする。
「大体ブラフの可能性だってあるだろうが」
「はったりでもあんなこと口走ったりしないわよ」
成る程確かにそうかもしれない。だがブラフだからこそともいえよう。
「腕枕みたいに潜り込んだとかじゃないのかね」
自慢じゃないが、俺の夜は遅く朝はとても遅い。
夜中に潜り込んでしまえば、気づかれずに抜け出すのは容易だ。
「既成事実作るだけなら見せないと意味ないじゃない」
巫女の言うことは尤もなことだ。しかしやけに詳しいところが、将来どうなるか気にかかる。
「いいからここまできたらいい加減腹を括りなさい」
握り潰さんばかりの力で肩を引き掴み、巫女が言う。俺はそれに反する。
「えい、無い腹など括れんぞなもし」
掴んだ手を振り解こうとするが、一向に緩む気配すら見えなった。
「霊夢」
その時何処とも無しに声がすると突然青空に亀裂が入り、そこから誰かが飛び出してくる。
それは白い服に前垂れのような物をかけた金髪の女性で、日傘を差していた。
「紫、あんたいつから見てたの?」
巫女はそれが出てくる方向が予め判っていたかのようにそちらに目をやり言った。
阿求も既に泣き止んだか、或いは最初から嘘泣きだったのか、目元を隠すのを止めて新たな闖入者のほうを見ている。
「霊夢、彼を帰しちゃダメよ。彼の思い通りにさせては」
「判ってるわよ、それぐらい」
霊夢、紫と呼び合った彼女らはしかし自分には非常に都合の悪いことを話し合った。
紫と呼ばれた日傘妖怪は巫女の言葉を受けて満足そうに頷いていたが、こちらは到底納得できるものではない。
「ちょっと待て、なんで帰れんのだ」
言うが両者はとても冷ややかな目を向けるだけで、特に何も言っては来なかった。
「女の子を弄んでおいて逃げられると思って?」
溜息を吐きつつ先に口を開いたのは日傘妖怪だった。いつの間にか阿求のすぐ傍まで移動している。
「観念して、里の一員になってしまいなさい」
巫女も巫女でそのような無理難題を吹っかけてくる。阿求は乗り遅れたようにうろたえている。
「何もやってないっての、俺は潔白じゃ、裏を取れ」
「裏ねえ……」
日傘妖怪が目を横に、阿求のほうに向けけ、尋ねた。
「本当に一緒に寝たのかしら?」
「はい」
間髪入れず阿求が答える。
「いや、他の人に訊くもんだろそれは」
「さて、落とし前はきっちりつけてもらわなきゃね」
俺の発言は無視され、力の政治が始まりかける。
「他の人が知っている訳は無いでしょう」
「俺はやってないって言っているんだが」
「しらばっくれているだけじゃないの?」
全く男と女で酷い扱いの違いだ。出来試合とはこのことか。
「大丈夫よ」
日傘妖怪が突然に口を開く。
「稗田の家はお舅さんもお姑さんも優しいわ、たぶん」
「それは何に対してかかってくるので?」
意図することが全くわからず困惑する。しかも言ってることは憶測だ。
「良かったじゃない、婿と舅の争いは怖いんでしょう?」
こちらも意味不明なことをのたまう。
「いや、なんでまた結婚するって話になってるの?」
「そう共寝して……それでも尚結婚を拒むというの」
虚空から巨大な牛刀が現れる。彼女はそれを持ち大仰に構える。
「なら、私が責任もってあなたを食べて差し上げましょう」
突きつけられた牛刀の切っ先は鋭く尖り、歯もよく研がれているらしく光っている。
「最近はあまり食べてないとはいえ、私とて妖怪。人間くらいは嗜みますわ。まあ……」
じろじろと自分の体を上から下まで嘗め回すように日傘妖怪が見ている。
俺はその視線から逃れるように半身をよじる。
「まあ、あなたは痩せぎすで随分喰い出がなさそうですが」
「あの、紫様……」
阿求が横からおずおずと口を挟んでくる。
「紫様、苛めるのもそのくらいにしておいてもらえませんか」
「あなたがそう言うなら、そうしましょう」
途端に牛刀がしまわれ、代わりにその手には扇子が握られていた。
「有り難い。助かった」
「いえ、どういたしまして」
一息つき礼を言う。喉の渇きを覚え茶碗に手を伸ばすも中身は何も無い。
そういえば先程すべて飲み干したのであった。
話も区切れたからと、巫女が代わりの茶を用意しに台所へ向かっていった。
しかし、一番いなくなって欲しい日傘妖怪はそのまま縁側に居座り続けている。
「大体阿求はどう思っているんだ?」
俺が聞くと、阿求は何が? という表情を返してきた。
「結婚云々の事。特にどうとも言ってなかったけど」
ここまで話して得心がいったのか、阿求は手を叩いて理解の旨を示す。
そしてこちらに向き直り、居住まいを正してこう言ってきた
「不束者ですが、どうぞ宜しくお願いします」
横で日傘妖怪が囃し立て、巫女に早く来いと呼び寄せている。
巫女は急いで、茶碗の三つ乗った盆を運んできた。
日傘妖怪は文句を言っていた。なんで自分の分の茶が無いのかと。
巫女は、あんたが早く来いって言うからでしょ、と一蹴したので仕方なく自分で取りに行ったらしい。
「後はあんたのほうだけね」
巫女が言う。正直、茶飲みすぎだろ俺と考えていた俺は聞き取れずに聞き返す。
「だから、あんたさえ腹を決めてしまえば結婚が決まるのよ」
未だに続くその話。将来仲人小母さんにでもなるつもりなのだろうか。
「結婚はせんよ。なんにしろまだ若すぎる」
苦笑しながら言い返す。巫女がまた言ってくる。
「若すぎるって、別にあんたくらいの歳ならとっくに結婚してるわよ。阿求くらいでもいるわね」
「外だと、三十路超えてから結婚するのが多いのよ」
日傘妖怪が補足する。俺はそれに頷いて肯定する。
「外は随分遅く結婚するんですねえ」
阿求も巫女も驚いたようで目を丸くしていた。
「でもここは幻想郷だし、もっと若いうちに結婚しても良いのよ」
巫女が言う。日傘妖怪もそうねと頷く。
「まあ、重要なのはあなたの気持ちね」
日傘妖怪が言ってくる。その右手には何処から持って来たのか酒瓶が握られていた。
手早く蓋を開けると茶を飲み干した椀に注ぐ日傘妖怪。巫女も自分のにも入れろと茶碗を差し出している。
注ぎ終わり、酒瓶を勢いよく置くと巫女が訊いてきた。、
「どうなの? 阿求のこと好きなの?」
「そりゃあ、まあ嫌いではないが」
「嫌いでは、無い?」
何か詰問するような調子で茶碗と御幣が寄せられる。
「随分歯切れの悪い返答じゃないの」
御幣が額に刺さる。
「何なら好悪の境界をきっちり引いてあげましょうか?」
日傘妖怪が茶碗を頬に押し付けながら言う。
「ほら、はっきりしなさい」
どちらとも無しに言ってくる。もう半ば脅されているといっても良いのかもしれない。
そんな二人の方を見たくなく、自然に顔は阿求を見るように動く。
「阿求のことどう思ってるの?」
阿求は頬を赤く染め俯き加減になって、それでもこちらをしかと見つめていた。
それを見て自分も小っ恥ずかしくなってしまう。
「ちゃっちゃと吐いて故郷のお母さんを安心させてあげなさい」
阿求は目があった所為か、更に頬を赤くして不安げな顔を横に背けてしまった。
その時自分は、そんなに不安そうにしないでもいいのに、と考えていた。
嫌いでは無いといって言ること、何より態度から好意を持っている事は判るだろうに。
「ほら、どうなの」
巫女が尚も詰問する。阿求とは対照的にこの二人は期待で顔が満ち溢れていた。
俺は一つ嘆息してから言った。
「言えるわけ無いでしょう、こんな雰囲気で」
それで場は一気に崩れた。
それもそうだ、や意気地無しめといった諸々の雰囲気の残滓が表出し、そしてすぐに消えていく。
巫女は呆れたような素振りを見せると、酒の肴を作りに台所に引っ込んでいった。
日傘妖怪は別の酒をもってくると言って、目を放した隙に何処かへと去っていった。
阿求も気の抜けたように畳の上に座っている。それを手招きして呼びつける。。
なんでしょうという風に、嬉しそうに近寄ってくる阿求を抱き寄せ、耳元で只一言好きだと言う。
そうして阿求を開放すると、阿求も自分の耳に顔を近付け、私もですと囁いた。
そのまま彼女は自分の胸に傾いてきたので、それをゆっくり抱きとめた。
/*
巫女が戻ってきた時に見たものは大分予想外なものだったかもしれない。
なにせ先程まで離れていた阿求が膝の上に乗って体を揺すって遊んでいるのだ、まあ魂消よう。
ただ巫女の反応もそれだけで、結局痴話喧嘩だったんじゃない、と言うと椀に注がれた酒を呑みそれぎり黙ってしまった。
もう少しすると日傘妖怪が戻ってきた、こちらは酒瓶を幾らも抱えて持って来ている。
自分にもたれかかる阿求を見ると大層驚いたような好々爺然とした顔をしていた。
「それで、なんて求婚したのかしら?」
数杯酒を呑んだ後、日傘妖怪が訊いてくる。
「まだそこまでは言ってないが」
適当に肴を摘みながら答える。これから屋敷に戻らないといけないので茶椀の中身は茶のままだ。
「結局帰るのは辞めたのね」
巫女が言ってくる。
「ああ、世話かけてすまないが、今は帰るのを辞めとくよ」
「別にいいわよ、おかげでいいお酒が呑めるんだもの」
「あら、今はって? まだ帰るつもりなのかしら?」
言うと酒を呷る巫女と茶々を入れてくる日傘妖怪。
「おや、実家に帰ることもできんので?」
それに軽口で返してやると言い返された。
「今からそんなことじゃ先が心配ね。尻に轢かれるんじゃないかしら」
「大丈夫ですよ」
膝上に座っていた阿求が言う。
「あの家にはいろいろな物や部屋がありますから、きっと帰せなくするでしょう」
なにやら含みのある物言いとその表情は、随分と歳不相応なものに見えた。
「まあ帰る帰らないはそこまでにして、一つ固めの盃といこうじゃないか」
「それは親御さんに挨拶してからでしょう」
割り込んできた軽い声に応答し、茶を喉に流し込む。
声の主はいつの間にか隣にいた角の生えた童女だった。
「……なんだこれ?」
「鬼でしょう」
巫女は事も無げに言ってくれる。
「……この神社に普通の人はいないのか」
「いないわ」
それを即答してくれるな、巫女よ。
「ほら、辛気臭い顔してないで呑め、今夜は無礼講だ」
そう言って酒を茶碗に注ぐ鬼と、あんたはいつもそうでしょうと突っ込む巫女。
どうやら今日中に屋敷に帰るのは諦めたほうが良さそうだ。
新ろだ92
今日も今日とて阿求を膝の上に乗せて縁側に座っていた。
阿求は幻想郷縁起を書き終えて時間があるようで、日がな一日のんびりと何かをしている。
今は黄色に熟した富有を手に、どうすれば口の周りが気持ち悪くならずに食べられるかを悩んでいた。
四つか八つに切ってしまえば楽なのにそれは嫌いらしく、蔕を持って回しながらどこに齧り付こうか逡巡している。
その可愛らしい様を眺めていると玄関の開く音がして、程なくして女中が阿求を呼びに来た。
それに応じて阿求が柿を皿に置き、ゆっくり立ち上がると玄関に歩いていく。
さて折角の寛いだ時間を邪魔したのはどういう輩なのかしらんと思っていると、阿求と朱色の誰かがやって来た。
大きな籠と小さな箱を持ってやってきた彼女らは、手を上げて挨拶をすると自分の横に荷物を置いた。
自分もそれに手を上げて応じると、近くの部屋から座布団を持ってきて手渡した。
「いつぞやの神様。どれくらいぶりですかね」
座布団を荷物の横に置いて、上掛けを取ろうとしている二柱に話しかける。
彼女らは脱げば寒いと思ったのか、袖まで外したところでまた着込んでボタンを留めながら言う。
「大体一月ぶりくらいかしら。あの柿どうだった?」
目線で庭に植わっている一本の柿の木を示す。
それは前回やってきた時に、甘くなると言われたものだった。
「残念ながら甘いのと渋いのが半々でしたよ」
それを聞くと、さもありなんといった表情で帽子を取りながら穣子が言った。
「でしょうね。もう生っていたらあんまり良くはならないもの」
そしてけらけらと笑う。
しかし甘いのと渋いのが入り混じったものを食わされる方としては余り面白くはない。
甘柿は干し柿にするのには適さないし、甘柿と思って食ったら渋かったなど落胆と言ったものではない。。
「まあそんな顔しないの。お詫びにこれを持ってきたわ」
自分の渋面を見たのか、脇の箱を差し出しながら言ってくる。
それを阿求が受け取ると蓋を空け、中身を取り出す。中に入っていたのは鍋であった。
「アルマイトの鍋? こっちでは珍しいっちゃ珍しい」
アルマイトはアルミ表面に酸化皮膜を作ったものだ。
基本的にボーキサイトも電気もない幻想郷では供給は外から流れてくるのを待つことになる。
「違う、その中」
苦笑しながら言われる。蓋を取ると中には茶色の塊が入っていた。
一つ手に取ると汁が指についてべとつく。
半欠け口に入れた感触は柔らかく、甘く、齧った断面は薄い茶色だった。
「渋皮煮か」
言いながら残りを口に放り込む。
阿求に行儀が悪いと窘められるが、気にすることでもないだろう。
「これだけ作るのは大変だったでしょう」
二個目をまた文句をつけてきた阿求の口に放り込んで言う。
渋皮煮を作るのは時間と手間が大分掛かる、面倒な作業だ。
鍋一杯にあるが、自分の分なども含めれば相当数作っているだろうし、相当の時間が掛かっているだろう。
「収穫祭が終われば時間があるからいいのよ。煮ている最中は暇だし」
そう言いながらまた脇に置いてある籠を差し出してくる。
またそれの中を見てみると、米や栗の他に南瓜やら胡麻やらが入っていた。
阿求が怪訝な表情で見つめると、また穣子が言う。
「そっちはもう一つのお土産。みんなで食べて」
それを聞くと、阿求はびっくりした様な声で言った。
「こんなに沢山頂けませんよ」
それに穣子は手を振って構わないという表現をして答える。
「この間のお礼だし、いいのよ」
「でも……」
言い淀む阿求を静葉は手招きして、籠の近くに寄させる。
上げてみてと籠を持たせて力を入れさせるが、籠は端が少し浮くばかりでちっとも持ち上がらない。
やがて観念したのか阿求は籠を下ろし、痛そうに手を振っている。
それを仁王立ちして見ながら、二柱は言う。
「重くて持って帰りたくないし、受け取ってちょうだい」
阿求はゆっくりと首を縦に振った。
女中が茶と茶菓子を持ってくる頃合には、銘々適当に座布団を敷いて座っていた。
例えば自分は縁側から足を放り出し、阿求はその膝の上に座り、神様達は柱にもたれたり肩にもたれている。
彼女らはその姿勢のまま、好き勝手姦しく喋り、自分はそれを熱い緑茶を胃に流し込みながら黙ってみていた。
「それにしたって、何でまたこんなに持ってきたんです?」
縁側で話す話題が途切れた瞬間を見計らって切り出す。
二柱は何がと言う顔をしている。それは阿求も同様だ。
「いや、この間の礼にしては随分多いから」
補うように言うと、静葉も同調した。
「確かにちょっと多すぎる気もするわねえ」
籠の中を覗き込みながら言う。
中身は女中らが手分けして持っていったが、それでも依然として四半分程度は残っている。
「いいじゃない余ってたんだし。腐らせるよりは良いでしょ」
そう言って穣子が口を尖らせ、阿求も同意する様に頷いている。
「去年も畑に撒いたり鳥にやったり、潰したりして処分したじゃない」
「そういえば、豊作だったものねえ」
豊穣の神がいるのに豊作じゃない年があるのかという疑念は置いておくにしても、その処理方法はあんまりだろう。
神社にもって言ってやるなり、氏子にやるなりすればいいものを、何故捨ててしまうのか。
「それ酒にすればよかったんじゃ」
大体ほとんどのものは備蓄なり酒に加工できるんだから、野菜みたいに捨ててしまわなくても良いだろう。
そう言ってやると二柱は驚いた表情をした後、多少の間慌てふためき協議のようなことをすると、露骨に沈んだような顔をして言った。
「その手があったか……」
どうにも加工すると言うのを全く念頭においていなかったようである。
それを静葉が突っつくと穣子は泣きそうな顔になった。
これは拙いと思っているうちにも、どんどん目の端には涙がたまっていく。
「だって私豊穣の神だもん。お酒の神じゃないんだもん」
果ては子供のように癇癪を起こしてしまった。これには他のふたりも困っている。
こんなものどうやって収めればいいのか、皆目見当も付きやしない。
宥め賺して泣かせ止ませると辺りはもうすっかり薄暗くなっていた。
「だんだん冷えてきましたね」
阿求が身を震わせながら言う。
暦の上では未だ秋とはいえ冬も近づいており、日も沈みかければ気温は大分下がっていた。
部屋から火鉢を持ってきてはいるが、それだけではもう暖まりきれない程度の温度になっている。
「そうね、そろそろお暇しましょうか」
どちらともなしにそう言うと、それを阿求が引き止めた。
「なら中で温かいものでも飲んで暖まっていって下さいな」
「いや、そこまで甘えるわけには」
そう言いながら穣子は引張られる袖を振り解こうとするが、その実あまり力は入れていない。
単にお約束として遠慮する振りをしているだけで、最終的には折れて中に入る予定である。
「いやいや」
「いやいやいや」
「いやいやい「長い」」
とはいえ何処で区切るかのタイミングはつかめず、突っ込まれるまでは続いてしまうのだが。
冬の代名詞である炬燵というものは幻想郷にもある。当然電気炬燵ではないのだが。
掘り炬燵なら熱源は囲炉裏であり、置き炬燵なら火鉢を布団で覆った櫓の中に入れることになる。
部屋にあるのは大抵は簡便な置き炬燵であり、その性質上足は伸ばしづらい。
だのでこういうことも発生する。
「穣子ちゃん、足乗ってるんだけど」
「乗ってるんじゃないの。乗せてるのよ」
コンフリクトが発生した時、それが致命的でない場合に無視するのは精神衛生上の最善手の一つである。
今の場合炬燵を放り捨てるのは悪手であり、神様を放り捨てても帰ってくるだけなのでやはり無視は善手であった。
茶を啜りながら遣り取りを眺めていると、阿求が制止するように声を上げた。
「穣子様」
二柱は喧嘩をやめて阿求の方を見る。
「ちょっと話したいことがありますのでこっちに」
言って阿求は立ち上がり手招きをする。穣子は促されるままに付いていく。
自分はこれこの間も見たなあと思いながら、それを見送った。
「あの二人はなにを話しているんでしょうね」
「さあ? 家に帰っても何も話してくれなかったし」
言って静葉は茶を啜る。
少し考え込む。前の時も阿求は何を話していたのかを教えてくれなかった。
別段秘密の一つ二つあったところで構わないだろう、自分にもあるのだから。
ただ、これはそういうのとは少し性質の違うものではないかと言う考えもある。
それで無性に気になった。だから動いた。
慎重に、聞き耳を立てながら摺足で廊下を進む。
稗田の屋敷は古く、廊下は鴬張りというわけでもないのにギシギシと音が鳴る。
普段なら一分と掛からない道程をたっぷり五分は掛け、それでもあまり近づくことは出来ない。
部屋から出ようという気配になったとき、速やかに逃げられる距離より数歩引いたところが精々だ。
その所為で話す内容のうちで聞こえる事は断片的なものになってしまう。
集音器があれば聞きやすいだろうにと思いながら聞き耳を立てると、気に掛かる単語が聞こえてきた。
(…一月……山の上の…)
(…精……貰って…)
なにを話し合っているのだろうか、山の上という単語で思い当たるのは神社二つだけだ。
後は天狗やら河童の住処という話だが、こいつらはどう考えても絡んでは来ないだろう。
帰る帰らないで博麗神社には数度行ったことがあるが、あの巫女が何もないのに動くとは考えづらい。
ならば守矢神社の誰かなのだろうが、祭神がどういった神なのかも碌に判っていないので、やはり何をしたいのか判らない。
(…夜……)
やはり何なのか判らない。
幸魂だろうし、害になることは無いだろうから良いのだが判別付かないのは気持ちが悪い。
とはいえもう盗聴も潮時だろう、話はだんだん少なくなってきている。
もうじき部屋から出てくるだろうから、早々に退散しなければ見つかりかねない。
足音を立てない程度に急いでその場から撤退した。
「何話してた?」
盗聴から戻るなり聞かれた。こちらも妹が何も話さないものだから、存外詰まらなかったのかもしれない。
「いや、遠くからでさっぱり要領がつかめなくて」
正直に満足に情報を得られなかった事を話すと、静葉は明らかに落胆したような表情を見せた。
「山の上の神様がどうのといってましたが、どんな神様だったか」
「守屋神社の神様は農業の神様でしょう。あとは山とか軍事ね」
多少は知り得たことを話すと、静葉もそれに応えた。
「どれもうちとは余り関連のないご神徳ですな」
「そうね。もう片方はなんだったか、いまいち判らないのよね」
「あれ、守屋神社は神様は二柱いるんですか」
そこまで話していると、別部屋に行っていた二人が戻ってきた。
「守屋神社がどうしました?」
「いや、阿求あの神社神様二柱いるんね」
「結構ありますよ、そういう神社」
「うん、大抵の神社が一杯いる。減るものでもないし」
特別なんでもないという風に返されるとどうにも困る。
確かに減りはしないが、それで良いものなのかどうか。
「所でこれからどうなさいます? お酒の用意も出来ますけど」
そういう間にも、廊下から隣室に女中らが料理を運ぶ音が聞こえている。
「それならご馳走になって行こうかしら」
その音を聞いて苦笑しながら穣子は言った。
結局夕食は酒宴になり、二柱が酔い潰れた所で上がりとなった。
帰るには遅くまた酔っており危ないため、一晩泊まっていく。
部屋は客間の中でも存外広い物が宛がわれ、風呂にも入らずに寝入っているらしい。
「阿求、夕方はなにを話していたんだ?」
行灯の火を消しながら尋ねる。
「気になりますか?」
「そりゃあね。気にならないなら聞かないよ」
行灯の火を吹き消し、部屋は月の光もない暗闇に変わる。
阿求が枕を叩き、それを目当てに布団に戻った。
「まあ、気にしないでもいい内容ですよ」
「それなら話してもいい内容じゃないのかね」
相対しているのだろう、阿求が言いそれに返す。
「そうかもしれませんねえ」
阿求は言いながら、膝に尻を乗せ、肩に顎を乗せてきた。
「でも言わなくて問題ないことでもあるんですよ」
「なら俺にも関係のないことかい」
そう言うと阿求は埋めていた顔を上げ、こちらに向き直る。
息の掛かるような近い距離でお互いじつと見詰め合う。
「いえ、大いに関係ありますが……」
阿求は一つ小さなため息を漏らすとそう言って、ゆっくりと唇を重ねてきた。
幾らかの間そうしていると、阿求から離れてまた言う。
「話さないでも伝わることってあるでしょう」
言われて今度はこちらから阿求の唇に近づいた。
…
……
………
障子の外から太陽の光がさしてくる。どうやらもう朝らしい。
隣に阿求はおらず、ただ放られた夜着と脱ぎ捨てられた寝巻きだけが残っていた。
痛む腰を擦りながら起き上がり、自分も着物を着替える。
「結局教えてくれんのやもんなあ、阿求も」
帯を結びながらぼやくが、誰も聞く者はいない。
井戸水で顔を二三度濯ぐと早々に炉辺に避難する。
すでに炉辺には阿求も神様達もいて、どうやら自分が最後だったらしい。
朝の寒さで皆黙って火に当たっているのかと思ったが、どうにも阿求の胸元を覗き込んでいる。
なんだろうと思って自分も覗き込もうとすると言われた。
「ほら、お父さんですよ」
「だから阿求早い、って言うか誰の子ぉ?」
よく出来た人形でした。
最終更新:2010年06月04日 01:15