阿求5
新ろだ156
昼過ぎに大通りを歩いていたら見慣れぬ変人がいた。
別段里人全員を覚えているわけではないのだから見慣れない人間がいるのは当然だし、変人というのもよくいる。
とはいえ巨大な注連縄に柱を指して担いでいる女というのは、今までで一二を争う位に変だ。
一緒に大きな目玉のついたシルクハットのような帽子を被った童女が歩いているが、全くこれが普通に思えてくる。
あまり目を合わせたくなかったのですれ違いざま目で追う程度にとどめ、道を急いだ。
どうやらその奇人は自分の来たのと同じ通り、稗田の屋敷に続く道を歩いて行ったらしい。
それがつい一刻前のことである。
そして小用を済ませて屋敷に帰ってみれば、門の屋根に真新しい傷があった。
これはまさかと思いながら戸を開けると、玄関を入ってすぐの所に先ほど見た巨大な注連縄が置いてある。
嗚呼やっぱりかと少し嫌になりながら阿求に帰った旨を告げると、例の二人も同席していた。
軽く挨拶をしてから荷物を置きに部屋へ戻り、類は友を呼ぶというやつだろうかと考えていると阿求からこっちへ来いと声が掛かる。
すわ考え事がばれたのかと戦々恐々としていれば何のことはない、単にもう一人交えて話がしたかっただけということだ。
自己紹介をして座布団に座ると阿求に向こうさんを紹介され、その話によるとどうやら神様ということらしい。
なんでも幻想郷縁起に自分たちも書いてほしいとの由でやってきたそうで、どうにも目立ちたがりのようだ。
とは言えすでに縁起は書き終わったようなのでどうするのだろうか。まあ後ろに紙でも貼り付けて追補するのだろう。
さて件の神様らは話してみると意外とまともな様子だった。見てくれだけで判断してはいけないということか。
両者とも存外に気さくな性格ですぐに打ち解け、直に酒盛りでも始まろうかという勢いだ。
とはいえ実際に宴会が始まるわけではなく、片方がしきりに玄関の方を気にしている。
何か待っているのかを聞くと、もう一人巫女のようなもの遅れてが来るはずだったのに遅いと言う。
ようなとは何だという疑問はさておき、場所が分からないのではないか言うとこんなに大きな屋敷は間違えようが無いと言われた。
まあ確かにその通りなもので、稗田ほど大きな屋敷というのはこの近辺には存在しない。
それでは少し探しに行ってこようかと言い掛けたところで、丁度よく戸の開く音と呼び声がした。
やってきたのはこれまた珍奇な格好をした女子で、男一人では居心地が悪いことこの上ない。
奴さんは促されるままに二柱のうち大きいほうの隣に座り、自己紹介をするとすぐに阿求と打ち解けたようである。
そのまま女四人で姦しくやるものだから、どうにも居た堪れなくなり部屋を出ると自室で今日仕入れてきたものの品定めなどをしていた。
しばらくすると廊下が騒がしくなり、嗚呼これは酒盛りでもするのだろうなと灯火の下で思っていると、程なくしてまた阿求に呼ばれる。
用事はやはり酒盛りの誘いで、阿求は一人で居ないで此方に来て皆と一緒に居て飯を食えと言う。
ついでに神様や巫女のようなものから外の話を聞く横で、判らない事に解説を加えて欲しいとも言われる。
それは構わないのだが、今まで外の事を聞いていなかったのなら二刻以上も何を話していたのか甚だ疑問だ。
しかしそれを問うても阿求はただ笑ってはぐらかすだけであった。
酒と肴が持ってこられると瞬く間に徳利三本が空けられ、更に数本の壜の蓋が呑み比べするように開けられる。
こちらが一口呑む間にもう一杯呑んでいるといった具合なので、向こうの調子に飲まれればこちらが酒に呑まれているという羽目になりかねない。
現代暮らしの長かった所為か無理矢理酒を勧めてくるという事は無いのだが、それでも杯を空けろという無言の圧力が圧し掛かってくる。
その圧をのらりくらりと交わしつつ、ちびちびと酒の味比べなんぞをしていると巫女のようなものが襖を開けて出て行った。
なにやら思いつめたような表情をして悩んでいる様子だったので声をかけてやると、何故に阿求はあんなに酒を飲めるのかと訊かれた。
やはり体質で若い時から多く呑めるのだろうかと溜息なんぞ吐きながら言うが、二人で呑んでいる時は存外直ぐに真赤になるのでそうではないだろう。
いやあれは誤魔化し誤魔化し呑んでいるからで、本当はそう呑めはしないと教えてやると得心したらしく首を縦に振っていた。
実際酒豪と呑むときには、阿求は股の間に盆を隠して、ちょくちょくその中に杯の中の酒を放って呑んだ振りをしている。
盆の中の酒は後で料理に使うとか女中が飲んでいるとか、或いは捨てているとか諸説あるが、真実どうなっているのかは知らない。
しかしなぜにそんなことを聞くのかと尋ねると、自分は下戸なのであんなに小さい子が呑んでいるのが信じられないと言う。
確かに上役が蟒蛇な上にあんな子供までよく呑むのでは、下戸の人間の居場所なんぞ無いだろう。
特にアルハラなどという言葉の存在しそうにないこの幻想郷で、それでどうやって生き抜いていく心算なのかと茶化し半分に言ってみると泣かれてしまった。
このままでは余所聞きが悪いし、どうやって宥めようか思案していると、何事かをうわ言の様に呟いている。
何かと思って耳を澄ませて聞いてみると、やれサイダーが飲みたいだのアイスが食いたいだのと言っていた。
食い物の話かと思うがやはり懐かしいものなのか、その点自分は食事にはまるで興味の沸かない人間だったから特に思い出したりはしなかったが。
しかしまあアイスなんざ氷に塩を入れた寒剤を作ってやればアイスキャンディーくらいなら作れるだろうと言うとその氷が無いという。
そんなもの真冬に凍った池なり湖から切り出して氷室に入れるなりすればいいだろうがと思うが、引っ越して一年ではそこまで頭の回りようが無い。
これは手詰まりかと思ったが、どこにいるのか知らないとはいえ氷精なんぞという御誂え向きの代物がいるのを思い出し教えてやる。
それに米軍は飛行機に改造した増槽を装備させて飛ばしてアイスを作っていたらしいと教えると、少し驚いてから後で作ってみると言ってメモをしていた。
なかなかに逞しいというか、どうにもこれも変人のようであるがとりあえずやるなら暖かくしてやらないと風邪どころではすむまい。
何を目的としているのか皆目見当がつかないが、なにせ腋の辺りが全く露出しているのだから高空が寒くないはず無いだろう。
全体なんだってそんな物理的におかしな服を着ているのかと疑問をぶつけようとした矢先に、阿求が襖を開けてやってきた。
阿求は自分の首根っこを掴むと、こんなところで何をやっているのかと強い語調で問い詰めてきた。
灯火も無く、暗い部屋の中なので良くは判別できないが阿求の顔は大分赤くなっていて、幾分酔っていることが判る。
早く休んでいないで神様らの言っている事を解説しろと、部屋へ引き摺ろうとしながら阿求が言う。
とは言うものの数年離れていた所為ですっかり外の知識には疎くなってしまい、解説しろといわれてもそうできるものではない。
というよりは経済学なんぞこれっぽちもやっていなかった人間に世界経済なんざ訊かれたところで、答えられるはずも無いだろう。
しかしそう言っても逃れられるわけも無いもので、仕方なしにまたもといた部屋へと戻ろうと動く。
戻るときに後ろを振り返ってみると、阿求が動かず、ただじっと向こうの巫女のような者のいる方を豪く剣呑な雰囲気で見ていた。
向こうも向こうでどうにも阿求を睨み付けていた様に見えたが、暗い中の事であるし多分に目の錯覚だろう。
また宴会の輪に戻り卓の前に胡坐をかくと、阿求がどっかりと膝の上に腰を下ろし酒の入った杯を渡してくる。。
正対していた神様らもこれには驚いたようであったが、仏頂面をする阿求を見ると何も言うことが出来ずそのまま置いておくことにした。
それに気を良くしたのか阿求の機嫌も幾分は直ったようで、自分の胸にもたれかかって肴の漬物を食っている。
さてそれを笑って見ていた神様達であったが、一杯酒を呷るとところで早苗は何処に行ったのかと大きい方に尋ねられた。
聞いた覚えの無い名前だったので、はてそれは誰ぞやと訊き返すとさっき出て行った巫女のような者だと言う。
それなら酔っ払ったようで隣の部屋で横になって休んでいると言うと、二柱共立ち上がって様子を見に行った。
まあ随分大切にされているようでと阿求に言うと、二柱は彼女のことを妹のように思っているようだと阿求が言う。
幾らか思うところはあるがそれは心の内にしまっておいたほうがいいのだろう。表へ出せば危険に過ぎる。
阿求が股座の間に座り、足に痺れが出てくる頃に酒の残りが心許なくなった。
神様達が衰え無しに呑み続けるのに加え、阿求もいやに酒を自分の杯に注いだり、それを呑んだりするものだから林立していた壜ももうほとんどが切り倒されている。
とは言えまだお開きという雰囲気では無く、だがちょうど良く女中が居ることも無く、仕方無しに自分が台所まで酒を取りに行くことにした。
出るついでに隣で寝ている奴の様子でも見て行ってやろうと襖を開けると、ちょうど起きたような顔をしてこちらを見ている。
起こしてしまったかと訊くと、少し前から起きていたが体を起こす気になれず、ずっと横になっていたと言う。
何処に行くのかと問うてくるから、台所まで酒を取りに行く途中だと答えてやると付いてくると言ってきた。
運ぶのに人の多い分には構わないが、酒の抜けきっていなさそうな顔をしているものだからどうにも大丈夫なのかと不安になる。
しかし自分が何かを言う前に、彼女はそれじゃあ早く行きましょうと畳に手を付いて立ち上がろうとし、立ちくらみでも起こしたかぐらりと大きく体を傾けた。
それを抱きとめてから座らせ、このままここで寝ていろと言ったが、強情に付いて行くと言って聞かない。
根負けして連れて行くことにしたが、ふらふらと廊下の右左を行き来する様を見、これも自分が運ぶ羽目になるのではないかと内心恐々としていた。
早苗は時折障子に体をぶつけたり庭に転げ落ちそうになりながら、やっとのこと台所にたどり着いた。
これでは荷物運びは出来ないだろうなと思いながら、棚から肴になりそうなものを選んで取り出していく。
酒は何処にも置いていなかったので、蔵に酒樽があればそれから、無ければ酒屋まで行って徳利に移してくる必要があるだろう。
蔵も蔵の鍵も近いところにあるので問題はないが、さて酔っ払いを一人で残していいのかと少し考える。
彼女は今床に座ってこっちを見ながら笑っているが、まあ放っておいても変な悪さはするまい。
急いで鍵を取ってきて蔵に行き酒樽にまだ酒があることを確認すると、三升ほどを徳利に移しまたすぐに戻った。
彼女はその間もおとなしくしていた様で、床板に片膝を立てその上に顎を乗せて目を閉じている。
それを軽く肩を叩いて起こし何か飲みたいものは無いかと訊くと、迷い無くサイダーと答えてきた。
嗚呼そう言えばさっきもそんなことを言っていたなと思うが、さてどうしたものか炭酸飲料などここには置いていない。
思案しても無い物は無いので、自分で適当な物をでっち上げてしまえばいいという結論に至った。
サイダーというのは要は砂糖の入った炭酸水なのだし、二酸化炭素が出てきてくれればいいのだろう。
昔は檸檬水に重曹を加えて炭酸を発生させていたそうで、無駄知識がこんなところで役立つとは思いもよらなんだ。
しかし檸檬も甘橙も蜜柑すらない上に、重曹などというものも無い為八方手詰まりの形になる。
いや要は炭酸が出きればいいだけなのだと思い直し、砂糖水に酢と貝殻を混ぜたものを飲ませたら吐かれた。
やはり黒酢五割は暴挙ともいえる沙汰であったようで、全く申し訳ないことをしたと反省すること頻りである。
口を真水で濯がせると多少静まったようであったが、水を口に含むのでもまた幾らかの葛藤はあったように見えた。
どうにもまた酢が入っているのではないかと警戒したようで、トラウマを残さないかと少し心配になる。
数分したら口を押さえてはいるものの落ち着いたようで、涙目でこちらを見上げていて、何か言おうとしているらしい。
促すと、責任とって今度ちゃんとした物を作ってくださいと言われ、それに首肯してから立ち上がりもと居た部屋へと一緒に歩き始めた。
途中ふらふらと危なっかしい足取りをしている早苗を肩に掴まらせ、両手に酒と肴を持って部屋に戻る。
掴まると言うよりはむしろ抱きつくと言ったほうが良い体勢なので、非常に歩き難くあまり早くは歩けない。
暗さも相まって、ともすればこちらが転んでしまいそうになりながら、ゆっくりと進んでいった。
部屋へ後もう半分と言うところで、微かな月明かりに照らされた小さな輪郭が目に入る。
あれは誰だろうと目を凝らしているとその輪郭は早足で近づいて来、やがてそれが阿求だと十二分に判る近さで止まった。
阿求は一つ指をこちらに突きつけ、こんなに遅くまでかけて何をしていたのかと尋ねてきたので、酒が無く汲みに行っていたと返し同意する声が背中から上がる。
声の主は今自分の首にぐるりと大きく両腕を回し、背に伸し掛かるようにして立っていた。
阿求はそれを見咎めるも早苗は何処吹く風と言った体で、けらけら笑いながら依然肩に顎など乗せて遊んだりしている。
それに気を悪くしたのか阿求は首に絡まる腕を解こうと背伸びをするが、そこは阿求も酔っている事も有って一向に解くことが出来ないでいた。
いい加減両腕も肩も重い事も有り、早いところ部屋に行って荷物を降ろしてしまいたかったが阿求に前を塞がれ動くにも動けない。
仕方が無いので一旦両手に持っていた酒を床に降ろし、背中の厄介者を阿求に渡してまた荷物を持ちあげる。
阿求は面食らった様な顔をしていたが、あまり待たせると拙いと急かしたてると彼女を支えながら後に続いて歩き始めた。
障子を肘で開け放ち中に入ると、小さい方の神様が大きい方のかいた胡坐の上に座っている。
これには阿求も少し驚いたようで、肩に担いで居るものも忘れてしばし何かを考え込んでいた。
何故そんなところに座っているのかと問いかけると、真似をしてみたが存外に気分がいいので続けていると答えられた。
まあ背もたれの付いた椅子と思えば存外に座りやすい物ではあるが、立場的に如何なものかと思う。
唖然としていると、ところで抱えている物を置いたらどうかと声がかかり、それでやっとまともに戻った。
自分は持ち物を卓の上に置き、阿求は幾分放り投げるようにしてもう半分寝入っている客人を座布団の上におく。
それを見て、先程の神様が膝の上から降り座布団を折り曲げたのを彼女の頭の下に潜り込ませ、そこらに置いてあった座布団を掛布団代わりに掛けていた。
しかし座布団ではあんまりなのでよその部屋から夜着でも持ってきてやろうと思ったが、放って置かれる酔っ払いというのも宴会の華かと思いやめる。
代わりに乗っていた座布団を一つ取り、自分の居た場所に投げて胡坐をかくと、また阿求はその上に座り酒の注がれた杯を持たせてきた。
自分はそれを受け取ると一息に飲み干し、阿求の腹に腕を回して更に抱き寄せた。
宴会は夜の遅くにようやっとお開きになった。
阿求は遅いのだから泊まっていけばいいと引き止めたが神様達はそれを固辞し、眠りこける巫女を背負って神社へと文字通り飛び去って行く。
飛び立つ間際に背中で寝ていた早苗が起き、約束は守ってくださいねと手招きをして言い、またすぐに眠った。
約束とは何かと阿求やら神様達やらに訊かれるも、自分にも心当たりが無いのでどうにも答えられない。
背中の早苗に訊こうにももうすっかり寝入っているため訊くに訊けず、明日訊くと言って神様は帰っていった。
二柱と一人の帰った後、暫く門前に立って後姿を見送っているとまた阿求に何の約束なのかと訊かれた。
とはいえ誰に秘密にするような話でもなく、真実覚えの無いものだからどうしようもない。
阿求は大分不満そうだったが、問い詰めても意味が無いと悟ったのか、それ以上の追求はせずに屋敷に戻った。
自分もその後を追って中に入り、何も言わずに阿求の後を付いて歩く。
その日は夜も遅く面倒なので、風呂に入らず着替えもせずに阿求と共に布団に入った。
次の日は終日阿求が不機嫌であった。菓子をやっても何をやっても一向に治る気配が無い。
二日酔いにでもなったのか、それともその他に何か嫌な事でもあったのかと思うがさして思い当たる節も無い。
ただ放っておけば何日も臍を曲げたままになるのも目に見えているので機嫌でも取ろうと考えていると客が来た。
呼ばれて誰だろうかと出て見れば、小包を抱えた早苗が所在無さげに立っている。
早足に近づき挨拶してから何の用かと訊いてみると、昨夜のお礼と一つ約束を果たして貰いたいと言ってきた。
やはり約束が判らず、渋面を作って何の約束かと尋ねてみようとした矢先に後ろから来ていた阿求に先に尋ねられた。
阿求の声色は先に増して不機嫌そうで明らかに怒気を孕んでおり、客に対して使う声音ではない。
早苗はそれを受けて尚にっこり笑うと、昨夜酷いことをされた責任を取ってくれると言っていたのでと言う。
自分は嗚呼それかと納得するが、阿求は経緯を知らず理由を知らず、説明を求める問い詰めの矛先はこちらに向く。
しかし仔細を語ろうとする前に、早苗が自分の手を取り早く外に出ろと引っ張ってきた。
片方では阿求が怖い顔をして睨み付け、他方では早苗が笑顔で自分を迫っついてくる
嗚呼両手に花とは言うが、これは面倒な修羅場だと骨身に沁みて思う昼であった。
新ろだ183
幻想郷縁起、という本がある。
この本は、一人の少女によって書き綴られている書物だ。
たった一人で、何千年にも渡って。
少女は妖怪ではない。純粋な人間である。
ではどうして人間がそれほどのもの間、膨大とも呼べる数の書物を書き続けていられるのか。
それは少女の能力と性質のためである。
阿礼乙女――あるいは阿礼男と呼ばれる存在。
求聞持の――つまりは一度見聞きしたことを忘れない程度の能力を持ち、転生によって能力と記憶を受け継ぐ人間。
しかし、それも完全ではない。
その能力のためなのか、それとも転生の術を用いる事の代償なのか、三十まで生きることが無い。
加えて、転生の術を準備するには年単位での時間がかかる。
故に、普通の人間としての生活は殆ど期待できない。
その上、すぐに転生できるものでもない。
生きて、死んで、次の命へと繋ぐ。 人の、人間の摂理。
人の身のままでそれに背くという事は、大きな罪なのだろう。
故に新しい身体を用意してもらう為の対価として、地獄で数百年ほど働くのだという。
果たして、対価として軽いのか、それとも重いのかは判らない。
けれども、真っ当な人間は、次に少女が転生する頃には生きていない。
だから少女は恐怖する。 少女は孤独を感じる。
周囲に居る、近しい存在は全て、居ないのだから。
記憶の中にしか存在しない人を思うのは、どれほどつらい事なのだろうか。
最近は妖怪の知り合いが出来た為に、以前よりも和らいでいるとは聞くが。
やはり、親しい存在が傍に居ない辛さに変わりはなく。
屋敷に住んでいる者にでさえ、一線を引いて接しているのかもしれない。
悲しみが大きくならないように。
そうして思うのは、自分のことだ。
最早答えは出ているようなものなのに。
どうして、どうしてこの気持ちを諦めきれないのだろうか。
見込みなど無いに等しいのに。
こんなにも彼女に焦がれている。
――湖面の月は掴めない。 そんな当たり前の事すら忘れる程に。
「失礼します」
「どうしたんですか、○○」
「もうお昼だと言うのに、一向に姿を見せないので」
もしやと思って足を運べば案の定。
彼女――阿求は幻想郷縁起の執筆作業に没頭していた。
時間が限られているから仕方の無いことだとはいえ、食事を抜くのは身体に悪い。
だから、という訳ではないけれども、運んできたのだ。
「ああ、もうそんな時間ですか」
「調子が良いのは喜ばしい事ですが、身体を疎かにしては元も子もないですよ?」
苦笑しながら紡いだ言葉に、阿求は拗ねたような顔を見せる。
「わかってますよう。 ただちょっと、ちょーっとばかり忘れてしまっただけじゃないですか」
「通算八回はちょっと、とは言えない気もしますがねえ」
また○○が意地悪をー、と言って目元を袖で隠す阿求。
その行動を見ても、特に悪いことをしたとは思えない。
むしろ可愛らしく、微笑ましいとすら思える。
「何度目ですかねえその泣き真似。 しかし、すごく可愛いですよ、うん」
「ああ、酷く狼狽していた頃の純粋な○○は何処へ行ったのかしら」
「今にも消えてしまいそうなくらいに儚い、雪のような印象の阿求は何処へ溶けたのでしょうねえ」
言葉を言葉で返せば、今度は座布団が返ってきた。
寸分違わず顔に直撃するが、流石は座布団、何とも無い。
「こらこら、近くに御飯があるというのに」
「余計な事を言う貴方が――ああ、止めましょうかこんな不毛な話」
「口では私に勝てたことがありませんからねえ」
「悔しいけれども事実だから、聞かなかったことにしてあげる」
言いながら、阿求はてきぱきと卓上の墨やら筆やらを片付けている。
意識したら、お腹が酷く訴えてきちゃって――
顔には、はにかんだような笑み。
何気ない仕草の一つ一つが、どうしてか心を強くとらえて。
焦がれれば焦がれるほどに衝動ばかりが強くなる。
いっそ、今この場で押し倒してしまいたいとも思えるほどに。
「どうしたの」
「……まあ、少しばかり物思いを。 では、失礼致しました」
だが、本能的な衝動には従えない。
外来人である自分の面倒を見てくれた恩というのも、多分にある。
しかしそれ以上に、見知った屋敷の者ではなく、どこの者とも知れぬ自分に用事をよく頼んでくれている。
信頼を裏切る訳にはいかない。
最も、最近自分のことをよく使うのは、見知らぬ存在だからだというのも関係しているのかもしれないが。
屋敷に来てから半月が経つが、逆に言ってしまえば半月なのだ。
情も移りにくいだろう。 つまりは、そういうことだ。
加えて、外来人であるという事も大きい。 外の世界の話を何度かせがまれた事だってある。
今でも時間があれば、外の話をねだってはくるけれども。
(結局、それまでなのでしょうかね……。 確かに私のような存在であるならば、用いやすいでしょうし)
見聞きしたことを覚える程度の能力とはいえ、そうして知りえたことに意味を見出すかどうかはまた別の話。
少しばかり胸が痛むが、思い上がりも甚だしい。
そんな風に強がって、無理矢理にでも自分を騙すしかなかった。
それから一時間ほど経過して。
流石にもう食べ終えているだろうから、再び阿求の部屋へと足を運ぶ。
が、その途中でありえないものを見た。
屋敷の庭には、それは立派な桜が植えてある。
今は季節も外れている為、葉が生い茂るばかりではあるが。
重要なのはそこではない。 その桜の、最も太くて丈夫そうな枝の上。
そこに何故か、食事を行っていたはずの人物がいる。
錯覚や幻覚、といった思い違いで処理して、流そうかとも思った。
思ったが、しかし。
目の前の出来事が事実だったとして、スルーした後に何かが起こらないとも限りません――
その場合、責任は誰持ちなのかと問われれば、見過ごした自分だろう。
何事も無かったかのように流したくもなるが、やはり双方にとってよろしくない。
「仕方ありません、か」
軽く溜息を吐いて、桜の樹へと歩いていく。
「ああ、○○」
「ああ、○○。 じゃあないでしょう、一体何をしているのですか」
「木登り」
見れば判る。 いや、そうではなくて。
「聞き方が悪かったですね。 どういった経緯で木を登ったのか、という事です」
「高いところからの景色を見たかったんですよ。 そのついでに食後の運動をと思いまして」
聞く分には随分とアグレッシブな運動だ。
しかし、無茶をしないで欲しい。
最も、仕方の無いことなのかもしれないが。
あまりにも短いから。
その分、精一杯輝こうとする。
桜の枝に腰掛け、心地よさそうに風と日光を浴びる姿に、思わず眼を細める。
……ああ、眩しいな。
「それで、気分はどうですか」
聞くまでもないだろうな、と思いながらも尋ねられずにはいられない。
「とても良い気分よ。 風も、お日様も、今までに無いくらいに心地よいの」
例えるならば、些か安直ではあるが――ひまわりだろうか。
日の光に、よく映える花だ。
今の彼女と、同じように。
けれども、和やかな雰囲気はそこまでだった。
「心地よさに浸っている所を申し訳ないのですが、そろそろ降りてきてもらませんか」
「もう少し居ては駄目?」
「駄目です。 誰も居ないときに足を滑らせでもしたら、大変ですからね」
いくらなんでもそんなヘマは――そう言って、降りる為に立ち上がった瞬間、
「ぁ?」
足を、滑らせた。
「阿求っ!」
身体を枝に打ちつけはしなかったものの、危険であることに変わりは無い。
阿求の近くで話していたのが幸いした。
距離的には充分間に合う。 だが、問題は上手く受け止められるかどうか。
けれども迷っている時間など無い。 落下してくる地点を予測し、あらかじめ先回り。
そうして腕を大きく広げ、胸や体全体で受け止めるように体勢を整える。
直後に衝撃がきた。 それなりに高さのある桜から落ちただけあって、中々に堪える。
堪えるが、絶対に落とす訳にはいかない。
だから、阿求が腕に落ちてきた勢いに逆らわず。
勢いに任せて、自分から体勢を崩し、背中から落ちる――!
勿論腕の中の阿求はしっかりと抱きとめたまま。
(怪我はさせない)
背中に強い衝撃。 同時に胸にも衝撃。
庭には玉石を敷き詰めてあるのだが、今回ばかりはそれを恨む。
(息が……)
強い衝撃を背と胸に、それもほぼ同時に受けたことで息が詰まる。
だが、それだけ。 それだけだ。
しかし、予想以上にダメージが大きい。
阿求単体ならば問題は無かったかもしれない。 重力を甘く見ていたのが敗因か。
腕の中の阿求を確認すれば、どこにも怪我は無い様子。
勝った――第三部完、と続けたいところだが、そうもいくまい。
「大丈夫、ですか?」
何とか声を絞り出せば、阿求は最初こそ一体何がどうなったのか理解できなかった様子で。
呆けたような視線でこちらを見つめていたが、
「○○!?」
がばっ、と擬音が付きそうな勢いで胸から飛び起き、現状を理解する。
「いた、イタタタた……。 すみませんが中々に痛いので、もう少しこう、ゆっくりと」
軽口ではなく、実際に響く。 本音としては乗られているだけでもじわじわ痛いのだが、ここは痩せ我慢。
「ご、ごめんなさい……じゃなくて! 誰か、誰か医者を――!」
耳に阿求の叫びが届き、それを切欠として意識が遠のく。
それでも、それでも彼女が怪我一つなく、無事で居ることに安堵しながら。
視界が徐々に墨で染められていった。
次に眼を覚ましてみた物は、三途の川。
ではなく、見慣れた天井。
そのことに安心しながらも、あれから自分は一体どうなったのかと考えを巡らせる。
覚えているのは阿求が叫んだところまでだが、果たしてどれだけの時間が経過しているのか。
思考の海に沈みかけた矢先に、襖の開く音。
首だけを動かしてそちらを見やれば、赤青二色の特徴的な服をまとった人物――
八意 永琳が。
「全治二週間って所かしらね。 まあ死ぬとまではいかない怪我でよかったけれども」
無茶をしすぎだと叱られた。
そもそも体格的に云々だとか、長かったのでよく覚えてはいないが。
兎も角、一段落してから話を聞けば、あれから四時間ほど経過していたらしい。
念の為に阿求も観たが、特に問題はないこと等を伝え、薬を置いて永琳は去っていった。
最後に、
「あまり無理をしては駄目よ。 貴方を心配する人も、いるのだから」
という言葉を残して。
それから少し眠ったような気がする。
まだ痛む身体を起こしてみれば、視界に飛び込んできたのは小さな背中。
「阿求?」
「やっと起きてきたんですね。 もうすっかり日も暮れてしまいましたけど」
どうして阿求が自分の部屋に、しかも日が暮れてからも居るのか。
蝋燭の灯に照らされた室内を軽く見回して、そこで初めて違和感に気付く。
「ここ、私の部屋ではないですよね」
「今更気付きましたか。 まあ、私の部屋が近かったので、運んでもらったのですよ」
「……男と女ですよ?」
「今は介護される男と介護する女です」
そういうわけですので、と前置きして、
「こうなってしまったのも私が原因ですから、回復するまでしっかり面倒見させて頂きます」
真っ直ぐな視線に射貫かれるような気がした。
何を言っても無駄だろう。 彼女の意思は梃子でも動きそうにない。
「せめて自分の部屋に戻してくれませんかねえ」
けれども、流石に阿求の部屋で世話になる訳にもいかない。
それだけは譲れない一線なのだが、しかし。
「個人的に嫌です。 何かあった時に誰かが傍に居ないと」
別に阿求でなくても良いのではないだろうか。
手伝いの方なら他にも居るのだし。
そう言いかけて、結局止めた。
多分、彼女なりの感謝と謝罪なのだ、これは。
自分が木に登って、落っこちてしまって。 それで結果として怪我をした人がいる。
それが誰であっても、きっと阿求は自分で世話をすると言うだろう。
怪我をさせてしまって申し訳ない気持ちと、助けてくれてありがとう、という気持ち。
その気持ちを彼女なりに形にすれば、こういった行動になるのかもしれない。
それならば、細かいことを気にするのは失礼であり無粋というもの。
「わかりました。 阿求の言う事は最もですし」
「そうですそうです。 ○○は大人しく私の世話になっていればいいのです」
言い終わるか終わらないかのうちに、阿求は行動に移る。
具体的には、私の為に用意してあったであろう食事――食べやすいように粥だ――を掬って、
「さ、口を開けてください」
私の口元へと持っていく。
「いや、食べることくらいは自分でできますよ?」
というより、体が痛むだけで普段の行動に支障は無いのだけれども。
「駄目です。 少しでも早く治って貰わないといけませんので」
頑として聞かない。 言い分は最もだが。
外の世界に居た頃は、こんな事とは無縁だと思っていた。
それだけに余計恥ずかしい。 恥ずかしいが、悪い気分ではない。
それどころか、嬉しいとさえ思う。
雛鳥が餌をねだるように、差し出されるままに口を開けて粥を食べる。
果たして、自分は今現在どんな顔なのだろうか。
頬にじんわりと熱を感じながら、そんなことを考えた。
それ以降、阿求との仲が深まったような気がしていた。
私の思い違いなのかもしれないのだが。
それでも、よく一緒に行動するようになっていた。
一歩踏み込んだ話を聞きたいと言われることもあった。
自分の中の想いが、どんどん募って大きくなっていく事も、自覚していた。
けれど、それは表に出してはいけない感情だから。
ぐっと押し殺して、彼女の傍に経ち続けた。
もしかすると、彼女は私の気持ちを察していたのかもしれないけど。
そうして進展もなく時間は過ぎて。
とうとう、その日が訪れたのだ。
このところ暫く、阿求は伏せっていた。
見るからに体調が悪そうで、起き上がるのも億劫。
それでも、私と一緒に居たがった。
だからなのか、周囲の手伝いさん達は私が行うべき仕事も引き受けて行ってくれた。
まるで、阿求の傍に居るのが仕事だとでも言うかのように。
そのお陰で時間だけはあったので、望みの通りに居ることは出来た。
「○○、今までありがとう」
突然にそんなことを呟かれて、
「どうしたのですか、今にも死んでしまいそうですよ?」
内心では動揺しつつ、いつも通りに返してみれば、
「だって……そろそろ、死ぬもの」
心を直接殴られたような気がした。
何もいえない、言うことができない。
私だって薄々とは感付いていた。 いたけれども、それだけ。
認めることができなかった。
認めたくは、なかった。
「ねえ○○、どうして私が死にそうなのに、父も母も姿を見せないと思う?」
ずっと疑問に思っていたこと。
そうだ、この屋敷に来てから長い時間を過ごしたが、一度も阿求の両親を見たことが無い。
けれども、考えないようにしていた。
己の推測が正しければ、それはあまりにも残酷なのだから。
けれども今、目の前で伏せる阿求は。
その事を告げようとしている。
「子供だと、思われていないのよ。 私達は」
阿礼乙女、ないし阿礼男は――短命だ。
加えて以前の記憶を引き継いで生まれてくる。
それを親は知っているから。
初めから死ぬと判っている子に、愛情など注げるのか。
判っているからこそ、注ぐものなのかもしれないが。
阿求の、いや、阿礼の子の親となった者は。
それをしていない。 自らの子ではなく、阿礼の子としか見ていない。
だから、この屋敷も。
稗田家の家であると同時に、阿礼の子の家でもある。
つまりは、そういうこと。
大きな屋敷だとは思っていたけれども、それがわかってしまうと逆に薄ら寒い。
「だからね、私はここで生きているの。 稗田家でありながら、稗田家ではない所で」
この屋敷の一角は、文字通り阿求に、阿礼の子達に与えられたものなのだ。
阿礼の子という存在を、切り離して置く為に。
「手伝いの人たちは、私の事を慕ってくれている。 けれど、それが辛いの」
別れる時に、とてもね――
「だから、少しだけ距離を置いて接してた」
もちろん、貴方にも――
「けれどね、どうしてなのかな。 何時の間にか、距離感が狂っちゃったみたい」
微笑んで、こちらを見た。
「本当はお墓にまで持っていこうと思ってたの。 でも、駄目」
それが貴方を苦しめるとわかっているのだけれども、と前置きして告げられる。
「私は、貴方が大好き」
「私も、貴女が大好きでしたよ。 阿求」
その言葉が、彼女を苦しめると判っていながら。
どうしても、告げずには居られなかった。
「なんだ、両想いだったのね」
くすくすと笑うが、その笑顔にも蔭りがあるように感じる。
「もっと早く告げていれば、色々でたかもしれないのに。 勿体無い事しちゃった」
「でも、これでいいのだと思いますよ、私は」
結果として、軽く済んだのだと思う。
「良くありません。 未練ばかりが残ります」
「それでも――」
次の言葉は継げなかった。
「せめてもっと早く言ってくれたなら、良い思い出だけを胸に抱いて逝けたのに」
「――――」
「貴方は私の事を想ってくれていた」
だから私が次に生まれる時、孤独感に苛まれないように案じてくれていた。
けれども、
「思い出全てが、悲しく残る訳じゃないわ」
暖かい記憶だって、思い出せるのだから。
孤独を感じたときに、それを思い出して。
いない人を想うことも、できるのだから。
そこから更に孤独を感じるのか、一人ではないと感じるのかは、自分次第。
「まあ、過ぎてしまったことは悔やんでも遅いから――」
もう少し、近づいて欲しい。
「最後にお願い、聞いてくれる?」
「喜んで」
――抱きしめて。
彼女の望み通りに、その細い身体を抱きしめる。
今にも何処かへ消えてしまいそうで、怖くて。
「暖かいね。 不思議と気持ちが落ち着いて、すごく安心できるよ」
自分の腕に収まる彼女の声は、少しだけ震えていた。
「もう少し早く、こうできればよかったのでしょうね」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
なんとも曖昧な言葉だ。
その曖昧な言葉の後に、でも、と続けて、
「今、幸せだよ。 こんなに満ち足りた気分なんて、初めてかもしれない位に」
あの頃と同じ笑顔を見せてくれた。
「ああ、やはり貴女の笑顔は素敵だ。 私はその笑顔に惹かれたんですよ」
「変なものよね、命が尽きる間際になって気持ちが通うというのも」
でも、悪くはないかな――
そんな呟きが聞こえて。
「阿求。 私が人でなくなっても、変わらず好きでいてくれますか?」
思わず、ずっと考えていた事を打ち明けた。
「どういう意味?」
「言葉のとおりですよ。 具体的には、妖怪ですかね」
ずっと考えていたことだ。 時の流れが違う彼女と共に歩む為には、どうすればいいのかと。
もっとも、自分の想いが成就するとは想像も出来なかったが。
「いいの?」
「何がですか」
「私よりも素敵な人、沢山いると思うのだけど」
「忘れることなんて出来ない性分でして」
きっと妖怪になるなら蛇ですね、と笑ってみせる。
「ずっと女で生まれてくるとは限りませんよ」
「些細なことです。 男だろうが女だろうが、貴女は貴女でしょう?」
「男の私にその気がなかったら?」
その時は良い友人で居ましょう――
「ばか」
「ええ、馬鹿も馬鹿、大馬鹿ですとも」
何せ寿命の違う人を好きになったのですからね、といつも通りに返せば、
「それじゃあ私も馬鹿ですね。 寿命の違う人を好きになったのですから」
そう返されて、二人で笑った。
「転生には数百年かかりますよ?」
「それでも待てます。 待ってみせますとも」
焦がれるのが恋ならば。
「それじゃあ待ちます。 待たせてもらいます」
焦がれられるのが恋ならば。
「だから、約束して下さい。 必ず私の傍に居てくれると」
悪い女ですよね、と笑みを見せて。
「約束しましょう。 必ず貴女の傍に居ると」
愚かな男ですよ、と笑みを見せて。
それから間も無く、腕の中で阿求は逝った。
とても満ち足りた、安らかな顔で。
葬儀が終わって暫くしてから、長い暇を貰う事、何時になるか判らないが、必ず戻ることを告げた。
そうして屋敷を出て、護衛を雇って紅魔館へと足を運んだ。
館の主は私がここに来ることと、その目的をあらかじめ理解していたようで、すんなりと図書館へ入れた。
そうして人が妖怪へと転じる方法を読み漁り、幾つかを頭に叩き込む。
その後で主に礼を述べ、私は人里を離ることにした。
――あれから数百年が経過し、私は再び稗田の屋敷へ戻ってきていた。
阿礼の子が誕生したとの話を聞いたからだ。
見知った顔は殆どいなかったが、私をいぶかしむ者はいなかった。
どうやら手紙が残されていたらしい。
補修などはされているが、間取りは昔のまま。
阿求の部屋は、今でも阿礼の子の部屋として使われているらしい。
「失礼します」
部屋に入れば、彼女はこちらを待っていたようで、
「女性を待たせるのは感心しませんね」
太陽の似合う笑顔で、出迎えてくれた。
変わらない。 けれど、二人の関係は変えていこう。
そう思いながら、謝罪の言葉を述べる。
最終更新:2010年06月04日 01:18