阿求6
新ろだ190
「外の世界には、毎年十二月二十四日、二十五日に聖誕祭があります」
「せいたんさい? 誰かの誕生日を祝うのかしら」
流石に頭の回転が速い。
「イエス・キリストなる人物ですね。 彼は人を愛するべきという教えを説いて回りました。
結果、今でも教えは宗教として残っています。 かなりかけ離れてしまっているかもしれませんが。
後は――国によれば唯一神と同じ扱いをされていたりしますね」
そもそも、日本と幻想郷には唯一の神など存在しないからいまいち結び付かないだろうが。
「ただの人間よね?」
「まあ基本的には。 奇跡を起こしたとも言われてますが、確かめる術もないですし」
まあキリスト云々はこのあたりで切り上げておくとして。
「外の世界――幻想郷があるのは日本ですか――は多神教なんですけどね」
「どうしてか、祝っている、と」
確かに不思議なものですね、と阿求は微笑む。
「まあ、基本的にお祭り好きなのでしょう。 呑んで食べて騒ぐ為の口実ですね」
それに、大多数のお楽しみは別のところにあるのだろうし。
「ちなみに子供は二十四日の夜にプレゼントがもらえるので、それを楽しみにしています」
「それも不思議な話ですね。 渡す方じゃないんですか」
それもそうではあるが。 気持ちだけ供えるのが日本式というか。
「プレゼントを渡すのはサンタクロースなる赤服の人物ですから」
トナカイに乗って、子供達にプレゼントを配る老人。
もっとも、最近の子供は夢離れが進んでいるので、こっちに来ていそうだが。
「それも何か謂れのあるもので?」
「ええ、元々このサンタクロース、聖ニコラウスなる実在の人物でして」
前述したキリスト教徒の一人だ。
結婚できない娘達の居る家を不憫に思い、煙突から金貨を投げ入れた。
そのとき、暖炉にかかっていた靴下の中に入り、そこから――
「二十四日の夜、靴下の中にプレゼントが、という話になった訳ですね」
「素敵な話ですね」
その表情を見て、実際には親が子供の欲しいものを買ってきているのだという事は伏せておいた。
ここは幻想郷だ。 夢そのものともいえる場所で夢を壊すのは無粋というもの。
「最も、日本でのクリスマスは名ばかりで――プレゼントこそありますが
キリストの聖誕祭というよりは、主に大切な異性と過ごす一日としての側面が強いです」
「それでも素敵な話じゃないですか」
そう言って微笑むが、しかし、
「相手が居る人はそうでしょうけど、独り身の人は地獄ですよ」
何せ、出かける先で幸せそうなカップルに出会うのだから。
独りでいる自分が惨めに思えてきてしまうのも無理はない。
「それこそ人を愛せ、の精神ですよ」
「それができれば戦争も幻想郷に入ってこれますよ。 個人的には遠慮願いたいですが」
それならば、争いは無くならない方が良い、というのは悪人の考えか。
「外の人間は、見ず知らずの他人の為に幸福を祈れる方が珍しいですから」
もちろん、自分も含めてですが、と付け加えてお茶を啜る。
「祈って、願うだけならタダなのにですか?」
「生憎タダより高い物はない、という言葉もありまして」
またそうやって返す、と苦笑いされてしまった。
でも事実だ。
「つまり、○○は祈れない側だった、と」
「ははは、万年独り寂しくですよ。 こっちに来ても、風習が無いだけで変わ――」
言いかけて、けれど言えなかった。
「○○」
阿求の声に応えてそちらを向けば、唇に温もり。
「違いますよね」
微笑みを浮かべて、確認を取るように問い返されてしまえば、こちらとしてはもう何も言うことなどなく。
「そうでしたねえ」
顔が熱を帯びていることを自覚にしながら、笑って見せて。
今年は幸せを祈れそうだな、などと考えてしまったりして。
「来年の日の出を見れるよう、願でも掛けましょう」
「それならこちらは、貴女が再来年も日の出を見れるように願でも掛けましょうか」
今年のクリスマスは、一風変わった、けれど楽しいものになりそうだと、そう感じた。
必ず別れが訪れようと、その時まではせめて――
互いにとって、幸いな時間が多くあれ、と――
新ろだ195
外の世界では、あまり雪が降らない。
だからなのだろうか、冬の幻想郷は、良く雪が降る。
「いやあ、今日も降ってますね」
昨晩から降り続けて、すっかり分厚く積もっている庭は、朝日を反射して煌く。
まさしく幻想。 現実の中にも、わずかながら幻想は存在する。
夕日と雲が空に描く、美しい風景画を見ていた日々が蘇るようで。
年甲斐も無く気分が昂揚して、新雪に足跡を残しまくる。
「朝から元気ですね」
「外じゃこんなに積もる事も稀ですからねえ。 雪を見ること事態、随分と久しぶりですし」
だから自然に顔が緩んでも仕方の無いこと。
しかし、そんな感じで舞い上がる自分とは対照的で。
「寒くないんですか? そんな薄着で」
火鉢が温まるまで布団から出ないつもりなのだろう。
彼女は顔だけを出して布団に包まっている。
「いやあ寒いですよ。 寒いですけど、嬉しいんですよ」
震えながら吐き出す息は白い。
しかしまあ、いくら嬉しいとは言え限度はあるもので。
「あ、そろそろ無理だ」
さくさくと雪の音を残して、そそくさと部屋へ駆け込む。
そうしてすっかり冷めた布団に潜り込んで縮こまり、思い出すのは、
「そういえば私が来たときに着用していた防寒具は何処へ?」
愛用していた黒いコートのことだ。
「そういえば何処かに仕舞ってあった筈ですけど。 でも洗い方わかりませんから、においが……」
確かにそれは不安ではあるけれども。
「まあでも、その分暖かいですし。 少し重ね着した上から羽織るだけで割と行動できるかと」
こちらの防寒具もなかなか暖かいけれども。
というか、冬の厳しさはこちらの方が上なのだろうが。
「じゃあ探してくださいよ。 私は動きませんから」
「本当に寒いの嫌なんですね貴女。 折角差し上げようかと思っていたのに」
そういう事ならば話は別です、と。
火鉢が温まった頃合を見計らって布団から抜け出た。
自分もその後に続いて抜け出して、手伝い始める。
コートはほどなくして見つかった。 気になっていたにおいもさほど問題はない。
むしろ甘くかぐわしい果実臭が漂っている。
「何かしましたか」
「まあ、ちょっと知り合いの妖怪から聞いた保存方法を」
どんな保存方法なのだろうか。 気になるがちょっと怖い気がしたので聞かないでおく。
「ともあれこれで阿求も外を駆け回れますね」
「駆け回ること前提で話を進めないで下さい」
部屋が暖まってきたことで、彼女も本来の調子に戻ったようだ。
こうでなくては面白くない、というもの。
「そもそもどうしてそんなに雪が好きなんです」
「冬の生まれでして。 だから無意識にテンションがアチョー入るのかもしれませんねえ」
もうギアが三段くらい一気に入ってる今の自分。 ステイ私ステイ。
ほら現に阿求が不思議そうな顔で小首をかしげて――たまらなく可愛いですねああもう!
「ごめん○○、言っている事が少しわからない」
「いやあすみません、自分テンション高くなると一部にしか通じない俗称とかだだ漏れでして」
簡単に言うと、嬉しくて楽しくてたまらないということです。
そう伝えると、納得した表情を浮かべて、
「なるほどそういう意味でしたか」
などと笑ってくれるのだからもう。 もう……。
「ああ、今すごく可愛いですよ阿求。 自分には勿体無いくらいに素敵だと、心からそう思いますよ」
柄にもなく本音を冬の空気にさらしてみれば、顔と身体は余計に熱く。
「さらっとそういう事を言わないでください。 その、嬉しいのと恥ずかしいのがいっぺんに来てしまって」
――勢いに任せたくなってしまいますから。
消え入りそうな、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどか細い声。
見れば顔は耳まで紅い。
「あ、熱いですよねこの部屋。 ちょっと外の風に当たりましょうか」
恥ずかしさをごまかすためか、そう言って彼女は庭へと出て行く。
朝日は姿を潜め、再び雪が降り始めていた。
「どこかの雪女がはしゃいでるのかもしれませんね」
阿求の表情は苦く、どこか暗い。
不思議に思っていれば、
「私、雪は嫌いなんですよ」
唐突に呟きが。
「触れればすぐに溶けて消えてしまうでしょう? なんだか、自分を見ているようで――」
温もりに触れれば水となって消える雪。
ああ、確かにそうかもしれない。
温もりに触れれば、その分涙が増えるから。
悲しくないように、辛くないように、寂しくないようにと。
触れるか触れないか、そのぎりぎりの線を手探りで探しながら。
薄氷の壁で己を律して。
「私は好きですよ。 自分よりも暖かい存在に触れればすぐ溶けてしまう、その儚さも」
それに、と言葉を続ける。
「消えはしませんよ。 土なら土に、人肌なら人肌に。 水として溶け合うのですから」
「それでも、風が吹けば乾きます」
「それでも、少しくらいは吸われます」
付け加えるならば、
「こうして固めてしまえば、そう易々と溶けて消えるものではありませんし。
日陰に積もったならば、尚更長く残りますよ」
そう言うと、
「敵いませんね、どうも」
力を抜いた笑みが咲く。
「私だって敵いませんとも」
同じように咲かせて。
「後悔しても知りませんよ? たくさん降らせて大雪にしてしまいますから」
「望むところですとも。 風や太陽では太刀打ちできないくらいに固めますから」
この雪と同じように――
ふれふれ、つもれ、おもいゆき――
新ろだ248
大晦日に自室の火燵に入りながら元日になるのを待っていると、どこからか鐘のなる音が聞こえてきた。
はてこのあたりに寺なんぞあったかいなと思いながら酒を呑んでいると、阿求が目をこすりながら火燵の中に入ってくる。
卓の上に置いた腕時計を見ると年が変わるまであと幾らも無いと言う時間になっていた。
阿求は自分の対面に陣取ると卓の上に出していた肴を奪い、眠気覚まし代わりにと噛み始める。
「こんな時間にどした。眠ったんじゃなかったんか」
酒の入った杯を隠しながら尋ねる。別段酒に弱いというわけでは無さそうだが、子供に飲ませるのは気が引ける為だ。
「ええ、ちょっと新年を一緒に迎えたかったもので」
半纏の袖で頬を隠しながら、嬉しい事を阿求が言ってくる。自分は笑いそうになるのを留めながら、杯の中の酒を呷った。
「それともう一つ用事がありまして」
「ほう、なんね?」
阿求が身を乗り出して来、それに釣られて一緒に火燵の上に身を乗り出す。
二人の額が引っ付きそうになる距離まで近づくと、阿求は言った。
「お年玉下さい」
「無いよ」
即座に返事をすると抗議の声を阿求が上げる。
「まだ早いし、そもそも食客に強請らんでおくれ」
「食客ならお酒なんて呑まないで下さい」
阿求はなおも抗議して来るが自分はそれを無視し、徳利から酒を杯に注ぐ。
その様を阿求は睨むような視線で見ているが気付いていない振りをし、杯を少し上に掲げて言う。
「何、こいつらは自分の稼ぎで買ったもんだよ」
阿求はまだ不満そうだったが、一瞬何かを思いついたような顔をすると、笑みを浮かべながら火燵を出、此方に近寄って来た。
その不可解な様に多少警戒を強めていると、阿求が自分のすぐ横に座りながら言う。
「無いなら別の玉でもいいんですよ」
「うん? ギョクの類なんざ持っちゃおらんぞ」
「いえいえ、そんなものじゃありません」
阿求はそう言うと自分に横から抱きつき、肩の上に顎を乗せながら言った。
「子供が欲しいですね。玉のような」
危うく咽そうになるのを押さえて阿求の顔を見るが、冗談を言っているような顔には見えない。
「そいつは十月十日待たにゃならんからお年玉にはならんだろう」
苦笑しながら言うと、阿求は少し怒ったような顔をして自分と火燵の間に滑り込み胡坐の上に陣取った。
空いた腕を腰に回してずり落ちないようにしてやると、阿求は自分に凭れかかり、肩に後ろ頭を乗せる。
幾らかの時間そのままの姿勢で過ごすと、不意に阿求がもうすぐと言う。
何がかと思って阿求の方を見ると、何時の間にやら頭を起こし、卓上の時計を見ていた。
「もうすぐ年が変わりますよ」
「そうやね。あと数分か」
言いながら酒を呑む。阿求は黙り込んでどうやら何かを考え込んでいるらしい。
頭でも撫でてみようかと腰に回した腕を解くと、股座の上に座った阿求はもぞもぞと動いて対面に座りなおした。
「あと二分です」
耳元で阿求が言う。どこで時間を見ているのかと思ったが、向き直る際に腕時計を奪っていたらしい。
杯を一旦卓に置きその手で阿求の頭を撫で付けると、阿求は此方の頬に擦り寄ってきた。
首筋に掛かる鼻息の多少のくすぐったさを堪えていると、後ろ向きに加重が掛かり阿求に押し倒される形になる。
阿求は始めはしてやったりといった表情で自分を見下ろしていたが、居場所を腹の上に伸し掛かるようなものにし、また顔を近づけてきた。
鼻先が触れ合うくらいの距離まで阿求は顔を近づけるとそこで止まり、またちらりと時計を見る。
横目に見たそれはあと凡そ三十秒ほどで針が一並びになるような時刻だった。
しばし、と言っても十秒程度のものだが、の間二人見詰め合った姿勢で固まる。
始めに動いたのは自分であった。このままで居ても意味が無いと思い、体を起こそうとしたのだ。
しかし阿求はそれを遮るように体重を掛けて、なおも寝かせたままにする。
体を起こす事を諦めると阿求は三度顔を近づけて来、二人の唇が触れ合った。
どの程度の時間経ったか、短くもないが長いとも言えない時間の後、阿求がゆっくりと顔を遠ざけて行く。
「二年越しですね」
その言で先程のは時間を計っていたものと悟る。
よくやるものだと思いながら後頭をぽんぽんと叩いてやると、それを合図にしたように阿求は体を横に移し、一緒に自分も体を起こす。
阿求は自分が体を起こしきったのを確認すると、またまたの間に座り込み胸に凭れ掛った。
「明けまして、今年もよろしくお願いするよ」
頭を撫でながら阿求に言うと、阿求も自分の頬に手をやりながら応えた。
「はい。それではお世話しますので、よろしくお願いします」
言って二人顔を近づけ、また口付けをした。
新ろだ251
「はぁ……」
茶を啜り吐息を一つ。
阿求は、掘り炬燵でまったりしていた。とにかくまったりしていた。目の前には玉露と温州。これ以上の贅沢はない。
対面に座る青年はさっきからもくもくと蜜柑を胃に収めている。元来無口無表情な彼であるが、よく見るといつもより眉根が緩んでいる。
「ん~」
まるで時間がゆっくり流れているかのよう。この上なく幸福だと、阿求は思う。
はふぅ、と息を吐いて、炬燵の上に頭を寝かせる。そのまま首を回し、最近一緒に住むようになった青年をもう一度見た。
すると、視線に気づいてちらりと阿求を見たものの、すぐにまた蜜柑を食べ始める。
む、と短く唸る。その反応は気に入らない。
そう思ったので、阿求は炬燵から身体を引く抜くと、いそいそと彼の側に回りこんで、
「よっこいせ」
「────」
強引に、彼の脚の間を空けさせ、そこにちょこんと収まった。
青年は何も言わなかったが、蜜柑を食べる手は止まっていた。
それをいいことに、阿求は青年の手を取り、自分の腹を抱くように持ってくる。
青年の胸に体重を預け、眠たい猫のように、彼の肩に頬を擦り付ける。そのまましばらく、背中から伝わってくる熱を感じていた。
「ん……」
ぐ、と不意に青年の腕に力が篭もる。肉の薄い腹にかかる圧迫を、心地よいと阿求は感じた。
腕は腹だけでなく、阿求を囲うように、閉じ込めるように、強く抱き締めてくる。
両腕の上から抱かれているので、もう阿求は自分の意思では身動き一つとることはできない。
逃げられない。
押し付けられた青年の鼻先が、阿求の髪を掻き分けて赤い柔肉を見つける。既に、阿求の身体は熱に浮かされたように震え、耳は真赤に染まっていた。
青年の乾いた唇が、それを食んだ。
「は、ん……」
がっつくような真似はせず、じわじわと、湿り気が耳を浸食していく。
つ、と舌先が耳の外縁をなぞっていく。常人より少し高い温度の水が触れるたびに、阿求は熱い吐息を洩らした。
水の音が、皮膚を通して直接鼓膜を震えさせる。
「あ、ん、ふぁ……」
自由を奪われた阿求は、つたない声でしかその感覚の表現を赦されない。
抱き締める腕の力はますます強まり、痛みさえ伴うのに、しかしその全てが阿求の中で熱に変換されていく。
密着した全身から伝わってくる鼓動は、青年もまたこの行いに昂ぶっていることを教えてくれる。
固い感触。青年の歯が、何度も何度も確かめるように、耳の肉を噛む。電信のようにリズム良く跳ねる柔らかな痛みに、阿求の喉から細い声が洩れた。
愛撫は止まらない。彼の口は阿求の右耳のほとんどをその内に収め、甘噛みを繰り返しながら、舌で容赦なく、執拗にねぶっていく。
耳朶をなぞる舌先は、とうとう敏感な内側にまで辿り着き、ぐりぐりと無理にその充血した先端を捻じ込もうとする。
その度に圧縮された空気と唾液の触れ合いが淫靡に歌い、阿求の幼い肢体から、力を奪い去っていく。
「ひゃ、ぁ、やぁ……!」
直接、脳を陵辱されているかのよう。漏れ出る喘ぎは悲鳴じみていて、けれど目尻に浮かぶ涙は、悲哀からでは決してない。
抱き締められ、耳を弄ばれているという、それだけの行為なのに、何か途轍もなく悪いことをしているような背徳感に身を焦がし。
そしてそれから逃れられない、逃れようともしない自分を受け入れる。
されるがままに身を預けるという快楽に、彼女は浸っていた。
だから、彼の唇が耳から離れたとき、喉から切なげな呻きが漏れた。
「は……」
彼の腕の拘束が緩み、茫とした頭のまま振り返ると、彼と視線がかち合った。
どちらからともなく顔を寄せ合う。青年の唇が阿求のそれと触れ合った。
横抱きにするように位置を変え、右手は阿求の身体を、左手は頭を支える。唇の啄ばみは、細かくお互いの頭の位置を動かしながら、余すところなく行われた。
けれども決してそれ以上は、青年は踏み込もうとしなかった。阿求の呼気を奪い、言葉を封じ、唾液の混交を赦さなかった。
それが阿求にはじれったい。まるで襦袢の上から受ける愛撫のようなもどかしさに、我知らず、瞳が潤みを帯びていく。
もっと、と、堪らず視線で催促しようとして、──それより一瞬早く、彼の舌が唇の裏側に滑り込んだ。
「ふむ、ぅん……!」
不意打ち。
ぬち、という音。青年の舌が、歯と歯茎の段差をぞろりとなぞった。
舌先で歯をこじ開けると、容赦なく青年は阿求の口腔に侵入する。反射的に反らした首は、けれど大きな手に押さえ込まれ、逆により強く接合した。
一瞬、息が詰まる。だがそれだけに青年の動きを感じられた。
「んんっ、ちゅ、はぷっ、ちゅ……」
唇の端から、言葉にならない息がこぼれる。
口の中にじわじわと唾液が滲み出てくる。異物感に反応してか、それとも、極上の味を思い出したからか。
青年はそれすら味わおうとするように、遠慮なく、阿求の唇を、歯を、舌を犯していく。
代わりに流れ込んでくる彼の味に、阿求の意識が蒸発していく。もう何度繰り返したか分からないこの行いは、その度に、劣化しえぬ焦熱をもたらし続ける。
「ぷ、は、んん……ちゅ、ちゅる、んん……」
ともすれば力が抜けてしまいそうな身体を、彼の服を握り締めて必死に支えようとし、けどそれも、結局長くは続かない。
「はちゅっ、じゅっ、ぁっ、んちゅ、ん──!」
じゅるるるるるるるるぅ……!
正気を喪わせるような、卑猥な音色をわざとらしく立てながら、青年が阿求の口を吸い上げる。
たっぷり十秒間は続く音の中、阿求の身体はびくびくと痙攣し続けていた。
「は、ぁ……」
泡立ち、白濁した唾液の橋が引かれ、そして自身の重みで落ちた。
服が乱れ、露になった阿求の鎖骨を唾液が汚す。口の端からは溢れた液体が零れ、頬に線を引き、首筋にまで伝っていた。
瞳はどこか茫っとしていて焦点を結びきれておらず、浅く長い息が半開きの口から漏れ出している。
それでも、青年の腕は阿求を解放していない。
「……、ぁ……」
差し出される赤い肉。彼が何を求めているか分かったので、阿求は何も考えることなくそれに応える。
瞼を閉じ、小さな口を大きく開き、ぬらぬらと光る舌を精一杯に差し伸べた。
「ン……」
先端が触れ合い、そして徐々に貼り合わされていく感覚。
かと思えばずるりと彼の舌が蠢き、刺激に慣れていない裏側の柔らかな肉をつついてくる。
「ァ、んぷちゅ……」
躊躇いなく、再び侵入する舌。先程と違うのは阿求のそれも、彼を求めて蠢いていることだ。
まるで潤滑液のように唾液はとめどなく溢れ、顎を伝い二人の間に落ちていく。混ざり合って、どちらのものかなど分かりはしない。
阿求はやや顎を上に持ち上げ、懸命に舌先の彼を感じようとし、彼もまたそれに応え、より苛烈に、直接的に絡んでいく。
舌尖が味蕾をなぞるたび、電気の味が阿求の脳裏に弾ける。口だけの触れ合いだというのに、指先まで痺れが伝播して、身体から力が抜けていく。
「ンンッ、っふ、あ、んじゅうぅ……!」
双方の舌は別の生き物のように、まだ足りぬと蠢動しつづける。
口の端から泡立った粘液が吐き出されてなお、自分を満たしてくれる何かを求めて這いまわる。
「お、ぼォ……!」
ずぶりと、これまでより一際深く青年の舌が阿求の口腔に突っ込まれた。
反射運動として喉がえずき、胃の腑から苦い物が込み上げてくるが、その味すら楽しむが如く、彼は存分に少女の口を犯していく。
奥歯の歯茎や、舌の付け根、上顎に至るまで満遍なく彼の長い舌にねぶられていく。
通常ならありえない場所への接触に、満足に呼吸することすら許されず、胃から肺からじわじわと吐き気が込み上げてくる。
(ああ、ああ……!)
だがそれすらも、今の阿求にとっては快感を助長するものでしかない。
食べるための器官が、逆に内側から貪られている――その異常な悦楽に酔い痴れている。
(わたし、この人に、食べられてる――)
いっそのこと、と思う。唇と舌だけでなく、全てを。
指先から爪先から、自分のおとめの全てに至るまで、この人に食べてもらえたら、それはどれほどの幸せなことだろう。
阿求はそれをいつも渇望しているし、恐らくは青年も同じ心であっただろうが――それでも、今は駄目なのだ。
「あ……ン、っは、だ、めぇ……!」
だから、必死に身をよじって快楽の束縛から逃れ、声を上げた。
着物の襟から滑り込もうとしていた彼の手を、そっと押し留める。
「それ以上は、まだ、駄目ですよ……?」
告げる声は、けれど阿求自身辛そうだ。本当ならこんなことしたくはないと。全てを為すがままに任せてしまいたいのだ――と。
しかしそうはできない事情が、阿求にはあった。
仮にも、屋敷持ちの旧家の娘である。御阿礼の子としての役目は幻想郷縁起の完成を以て終わってるとはいえ、まだ嫁入り前の少女であることに変わりはない。
後々、この青年と一緒になることは既に認められているとはいえ、守らなければならない節度というものは存在した。
「…………」
潤み、熱を孕んだ瞳で阿求は青年を見上げる。そこにどのような意志が含まれるのか、阿求自身にも分からない。
これまでと同じように堪えて欲しいのか、しきたりなど無視して犯して欲しいのか。
だがそのどちらであるにしろ、阿求が答えを見出す前に――彼は阿求を押し倒していた。
あ、という声を上げる暇もあらばこそ、彼は三度唇を重ね合わせる。
「ァ、んん、っぶ、は」
そのまま赤い穂先を強引に捻じ込み、乱暴な抽送を繰り返した。
性交の代わりとするように、その動きは乱暴で執拗で、ただ強く阿求を求めていた。
「おッ、ぼ、ぉ、じゅ、んんっ!」
じゅぷじゅぷと、水と空気が混ざり弾ける音が、狭い室内に響いている。
二人の身体は既に炬燵から出てしまっていた。転がり落ちた食べかけの蜜柑の行方を気にするものは誰もいな。
彼は右腕を阿求の腋下をくぐらせて頭を抱き、左手は阿求の右手に絡めた。
「はっ、ばぁ、ぷぢゅ、ん、んぶぅ……!」
阿求もまた、空いた手で彼の服をしっかと握り、着物の裾からはしたなく伸びた脚で彼の身体にしがみついている。
傍目から見れば少女が男に犯されているようにしか見えない。だが二人の行為は、あくまで首から上だけに限定されていた。
小さな身体は押し潰されるように抱かれながら、それでも、間に存在する布地の数だけもどかしさと情欲を募らせた。
(ああ、好き、好きです、好きぃ……!!)
「んぁっ、ァ、っぷぁ、はぢゅ、ぅぅンっ!」
言葉として発することのできない想いを、行為に全て込めるように、二人は首から上だけの交わりに没頭した。
衣服の下で蠢いている熱も淫欲も、今許されていることだけで、全て伝えてしまいたいと。
「ぢゅ、は、んじゅぅ、ぅぁ、っああ、はぶッ、ン、ちゅく、んん、っぱぁ、んん――――ッ!!」
二人の行為は、これより十分後、訪れた上白沢慧音が黄色い悲鳴を上げながら青年の尻を全力で蹴り上げるまで続いた。
新ろだ295
その日はとても寒い朝だった。
不用意に彼女が布団から出した手先はすぐに凝り、瞼を開ければ涙も凍るのではないかというほどだ。
部屋には火鉢があったが火は無く、隣に敷かれた布団には誰も居らずで、つまりは暖を取れるものは布団しかない。
彼は、隣の布団を使っていた人間は起きたかを見に来るかしらん、と阿求は期待するが一向に来る気配は無く、仕方無しに彼女は枕元の半纏を布団の中に引き摺りこんだ。
火鉢に火ぐらい入れて行ってくれてもいいのに、と八つ当たり気味に考えながら阿求は暖めた半纏に袖を通すと、障子を顔一つ分開けて庭の様子を窺い、寒い訳を思い知った。
なにせ眼前の庭には雪が高く積もり、誰が造ったのかは知らないが二三人は入れそうなかまくらまであったのだ。
寝る前には降っていなかったし、深夜から明け方辺りまで降っていたのか、しかし見逃したのは残念だ、と阿求は思う。
阿求も大量の記憶を抱え、本の編集まで出来るとは言え、流石にまだまだ子供な性質もあり、雪ともなれば喜色満面であるのだ。
この分なら池にも川にも氷が張っているでしょうと、阿求は半纏に続き着物も布団の中で暖め、着替えると朝食を食べに居間に向かった。
居間には座布団が二つと火鉢が一つ、それと男が一人いた。
男は阿求が障子を開けた音に気付いたのか、そちらに顔を向けると挨拶をし、少し火鉢の前から移動する。
阿求もそれに返事をすると、背中からその男に抱きつき一緒に火鉢に当たった。
こんなところに居るのなら布団の中に居ればいいのに、と阿求は男の肩に顎を乗せながら思うが、そうもいかないかと内心溜息を吐く。
何せ彼はただの居候なのだから、いつまでも眠りこけていると言う訳にはいくるまい。
まあ寝ているのと火鉢に当っているだけなのとでは大した違いが無いとも言えるのだが、それは体面の問題だ。
やがて食事が運ばれてきたので阿求は背中から離れ、一人で膳の前に正座した。
朝食を食べ終え、熱い茶を飲みながら阿求は新聞を読んでいる。
その内新聞も読み終えると、阿求は男に今日は何か予定はあるかと訊いた。
男は何も無いと首を横に振ると、それはいいと阿求は手を叩き、なら後で一緒に善哉を食べに行こうと男を誘った。
美味しいお店が通りに出来たらしいですよと阿求は言う。男はそういう情報は何処で仕入れるのかと苦笑しながら承諾した。
ざぐりざぐりと里の大通りを転ばないように二人は小股で歩いて行く。
男は外から流れてきた登山靴を、阿求は革の靴を履き、両者とも黒色の外套を羽織っている。
懐には鷹の爪数個と火鉢で温めた小石を懐炉代わりに入れ、暖を取っていた。
昼も過ぎて大分雪も緩んでいるとは言え、日陰では踏み固められた部分が氷になっていて滑らないとは言えない。
阿求は転ばないようにと男の腕に掴まり、男はその所為でよろけそうになりながら、しかし阿求を突き放すことなく慎重に動く。
腕を離して歩いた方が安全じゃなかろうかと男は思っていたが、必死の形相でしがみつく阿求にそのようなことを言えるわけも無く、言う気に成る訳も無い。
結局二人して二度三度と転びながら目的の甘味屋に着いたのだった。
甘味屋はお八つには少し早い時間にも関わらず存外に盛況で、店の椅子は八割方埋まっていた。
そのうちに奥まった所の二人掛けの卓に案内されると、阿求は善哉を、男は阿求の勧めで大汁粉を頼む。
届くまで少し時間が掛かりそうだったので、熱いほうじ茶で手先を温めつつ、無駄話に花を咲かせた。
曰く、少し背が伸びただの庭の冬牡丹に花がついただの、或いは寺小屋の試験問題を難しく作ったら怒られただのだ。
もっぱら阿求が話し、男はそれを笑いながら聞いていたが、時折、例えば、全体何故こんな天気の日に外出なんざしたのか、というような問いをした。
その随分適当な問いに、阿求はこんな天気だからしたんですと言うような、やはり適当そうな意味の深そうな返事をする。
男はその答えに多少考え込むような表情を作るが、やがてどうでもいいかと言うように阿求に向き直り、阿求とのお喋りを再開した。
さて品物が来ると男は顔に疑問符を浮かべ、それを疑問に思った阿求が何故渋面を作るのかと問い質した。
すると汁粉なのに何故に漉し餡なのだろうか、と割と切実そうな声で男は言う。
阿求は漉し餡は嫌いですか、と問いかけると、男はそんな事は無いと答えた。
ならいいじゃないですかと阿求はそこで切り上げようとするが、しかし男は渋面を崩さない。
このときの渋面の意味は未知との遭遇のそれであったが、当然だろう、丼一杯の汁粉など普通ありはしないのだから。
蓮華と箸を両手に持ち、男は意を決して食べ始める。阿求はそれを笑いながら見ていた。
六割程度を食べた所で男は嫌になって汁粉を食べるのを止め、大分先に普通の大きさの善哉を食べ切っていた阿求は、その残りを貰うと嬉々として食べ始めた。
男は些か謀られた感もしたが、阿求は善哉とお汁粉の両方が食べられると喜んでいたのでとりあえずは良しとする。
だけれどもまあ、頼むなら善哉ではなく豆かんなり葛きりなりの汁粉とは似ていないものにすれば良かったのに、と男は溜息を吐く。
しかしまあどうでもいいことか、と餡蜜を追加注文する阿求に茶を喉に詰まらせながら男は思った。
余談だが、大汁粉はその店の人気商品らしい。
なんでも一つの杯を恋人同士で分け合うのが流行っているとか言う話だ。
新ろだ308
目の前で繰り広げられるどんちゃん騒ぎ。
そこには人妖の区別はこれといってなく、皆思い思いに楽しんでいる。
「ほんと、あいつらはいつも元気だなー」
「○○さんだっていつもならあの中に飛び込んでるじゃないですか」
そう言ってくすくすと笑う阿求。
確かに普段ならあの輪に入って腹踊りやら一気やらをやったりしている。
祭り好きの人間として、どんちゃん騒ぎが嫌いなんてことは
まったくもってないのである。
「いいんですか?行かなくて」
「いいよ。たまにはこうしてのんびりと酒を飲むのも」
杯をくいっと一杯。
「……オツなもんだ」
置いた杯に、とくとくと澄んだ液体が注がれる。
徳利を持つ細い手の先には、愛しい妻の姿があった。
「そういうものですか」
「そういうもんだよ」
僅かばかりの間の後、ほぼ同時に相好を崩す。
「それに」
注がれた一杯をぐいと飲み干し、ごろんと横になる。
頭は彼女の膝の上。ここ最近の定位置である。
「こうしてお前と二人で過ごせる時間もまた、いいもんだ」
まあ、と少し驚いている阿求の顔ごしに天井を眺める。
「あらあら……嬉しい事をいってくれるじゃありませんか」
そろりと手が伸び、俺の顔を優しく抱く。
針金のようだ、と揶揄された髪に、細い指が絡みつく。
一向に静まる気配のない外の騒ぎを見ていると、
不意に彼女が口を開いた。
「ねぇ、あなた」
「なんだ」
「そろそろ子供が欲しいとは思いません?」
「っ……ごほっ、ごほごほっ!」
あまりにもな内容に、飲み込みかけた唾が気管へと入ってしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
膝枕の状態から起き上がり、地面を見つめながらしばし咳き込む。
いつか母親にされたように背中をさすられ、落ち着くまで数分。
再び先の膝枕体勢に落ち着き、話を再開する。
「"子供が欲しい"とかお前な……そういう事はもっとこう」
「?」
「……いや、何でもない。気にしないでくれ」
「はい」
終始ニコニコとしてはいるものの、どこか真剣味を帯びた目。
茶化して流そうと思ったが、そうもいかないらしい。
真面目な話なのだから起き上がって話を、と思ったのだが、
"どうかそのままで"とやんわりと押さえられてしまった。
後頭部に感じる、枕とはまた違った柔らかさを堪能しつつ、話をすることにした。
「で、子供の話だったか」
「はい」
ニコニコしていた顔からはいつの間にか笑みが抜け、真剣さだけが残っていた。
「どうしてまた突然……まだ俺たちには先があるじゃないか」
形式上俺こと○○と阿求は夫婦である。これには間違いも相違も何一つないのだが、
いかんせん二人してまだ成人には遠かったりする。
というのも、親同士が勝手に、宴会の席で取り決めてしまいやがった縁談だからなのだが、
俺たち二人はというと割とすんなりと受け入れていた。
小さい頃からちょこちょこと交友があったからというのもあるのだが、
実のところはとてもシンプル、俺は阿求に、阿求は俺に惚れていただけのことであった。
ただ一つ不満があるとすれば、告白しようと思ったその日に縁談を決めてしまったおかげで、
やり場のない決意と勇気と恥ずかしさの塊を発散するのに、少々日数を要しただけである。
失礼、話が逸れた。
夫婦である以上はいつかは子を為すのが自然、いや、必然。
かといって若いのだから、まだまだ楽しみたいお年頃なのである。
"阿求は違うのか?"という意味合いの視線を送ってみると、
無事に通じたようで、彼女は真面目な顔をしたまま、それでいて僅かに頬を朱に染めつつ、口を開いた。
「その、あなたの仰りたいことも重々承知で――私も思わないでも――こほん、分かっているつもりです。
ただ、私たちの一族、とりわけ御阿礼の子として生まれた者は、一般的に短命と言われています」
そういえば婚姻の儀をする際に、色々言われた事を思い出した。
それが何だ、と阿求の親族相手に啖呵を切ったのは、ついぞ先月のこと。
先程のびっくり発言も、背景を鑑みればすぐに分かりそうなことだった。
「だからこそ、か」
「ええ」
「でもなー……お前、それでいいのか?」
頭の上に「?」が見えんばかりの顔をする阿求。
「子供が二人に増えてしまうぞー?」
膝に頭を置いたまま体を反転――うつ伏せに――させ、彼女の細い体を抱き締めた。
「ちょ、ちょっとあなた!?」
「うはは、よいではないか」
もぞもぞ、となんとか引き剥がそうと服の裾を捕まれたり、頭をぽかぽかと叩かれたりしたが、
ここは男と女である。しばらくして彼女も諦めたのか、同じように横になる。
「もう一度聞く。お前は本当にそれで"良い"のか?」
しばらく間が空く。ほんの十数m先で繰り広げられる宴会の音が、えらく遠くに感じた。
「……さっきの短命云々、というのは実は、本音半分の建前で、その……」
ごにょごにょ、と肝心の部分が小さくて聞き取れない。
「聞こえないぞー」
「……との……を、……しょに……」
「もう一度頼む」
ずるずる、と床を僅かに這い、阿求の口元まで頭を寄せる。
「貴方との子を、一緒に育ててみたくて」
阿求の顔は、炬燵で燃え上がる炭火よりも赤くなっていた。
胸にこみ上げてきた愛おしさそのままに、妻を抱き寄せる。
「なあ、阿求」
「……はい」
「俺は幸せもんだよ」
「はい。でも、私も負けないくらい幸せですよ」
ふふ、と僅かに笑う声。吐息が前髪にかかる。
「それじゃあ、俺達の子供はもっと幸せにしてやらないとな」
「そうですね」
二人して、くすくすと笑いあった。
後日、いつのまにか撮られていた写真を新聞にされ、
酒の肴として色々囃されることになるのだが、それはまた別の話。
新ろだ432
自分が彼女の私室に入ったとき、彼女はこちらに背を向けて書き物をしていた。
「阿求」
呼びかけると、阿求は筆を止めてこちらを向きなおる。
何の用かと小首を傾げる彼女の横に座ると、懐から小さな箱を取り出し言った。
「結婚しよう」
箱の中には前から、本当に前から用意していた小さな指輪がひとつ。
阿求はそれを見ると数瞬固まり、そして首を振って言った。
「だめですよ……」
自分の言に、悲しげに阿求は顔を俯かせる。
「前に言ったじゃないですか。私は先が短いって」
泣いているのかもしれない、阿求は肩を震わせながら言った。
「それでも……!」
しかし自分の話す前に、阿求はそれを遮る様にして顔を上げ言った。
「エイプリルフールと言う奴でしょう。あなただって納得してくれたじゃありませんか」
真っ赤な目で精一杯に睨み付け、阿求はこちらを威嚇している。
自分は、膝の上で血の出そうなくらいに強く握り締められた彼女の手を取り上げ、自分の膝に置いた。
「それでも構いやしないだろう。俺がお前を欲しいだけなんだ」
両の手で尚震える阿求の手を包みながら言う。
「それともお前は俺と一緒になるのは嫌なのかい」
また俯いてしまった阿求の頭を見ながらそう尋ねると、阿求の動きは全く固まってしまった。
どうしたことかと思っていると、少しして段々と阿求の体が自分に向かって落ちてくる。
それを抱きとめると、阿求は自分の胸の内で肩を震わせ、声を殺して泣き始めた。
そのまま抱き締めていると、泣き声に混じって何事かを小さな声で呟いているのに気づく。
しかし耳を澄ませて聞き取ろうとしても聞き取れず、やがて多少は落ち着いたのか、阿求は顔を上げると泣き声交じりに言ってきた。
「そん…なことを言われっ……たら、私だって我慢が……」
ぐずぐず泣く阿求の頭を撫で擦りながら、ただ落ち着くのを待つ。
返事を貰うのはまた後ででもいいだろう。机に置かれた箱を見てそう思った。
「そういえば、ひとつ話しておくことがあるんでした」
阿求は自分の膝の上に頭を置くと、頬をぺちぺちと叩きながら言ってくる。
自分がなんだ、と促すと、阿求は咳払いをひとつして続けた。
「私、赤ちゃんが出来たみたいです」
満面の笑みで腹を擦りながら阿求は言う。
それを信じられない、といったような面持ちで自分は見ていた。
「嘘…だろ…」
ついつい口を出てしまった言葉に阿求は笑いながら返した。
「エイプリルフールって言うのは、悪い嘘は吐いちゃいけないんですよ」
最終更新:2010年06月04日 01:27