依姫1



新ろだ347


「本日の訓練はここまでとする。事後は各個に練成せよ!」
「は、はーい!」

 訓練の終わりを告げると、玉兎たちのほとんどはやっと終わった
と言わんばかりに弱々しく返事をして、地面にへたりこんだ。それ
を見下ろしながら、ようやく一息ついて額を伝う汗を拭おうとする
と、背後から声が掛かる。

「精が出るわね、○○」
「……依姫様?」

 慌てて後ろを振り返ると、依姫様はふと手を差し伸べてくる。依
姫様は一体何をするおつもりなんだろうかと思案していると、その
手に握られた手拭いに気付く。……どうやらそれが自分の為に用意
されたものらしいと理解するまでに少し時間を要した。よもや依姫
様にそのようなことをして頂けるとは思いもしていなかったからだ。
俺は直立不動の姿勢に畏まると、恭しくそれを受け取った。

「ありがとうございます。このような身に余る行為、真に――」
「いいのよ、貴方にはこの子たちに稽古をつけてもらっているんだ
もの、これくらいは当然のことだわ。……だいたい地上の民はもう
そのような話し方はしないのでしょう?」
「ご存知でしたか」

 依姫様は座り込んで息を切らせている玉兎たちを見て、むしろ喜
んでいるようだ。俺は依姫様から受け取った手ぬぐいで汗を拭く。
手ぬぐいは仄かなぬくもりと甘い匂いがした。これが依姫様の匂い
なのかと思うと、正直少し邪な想いを抱きそうになるが、思いとど
まる。

「貴方に比べたら、私のやっていた稽古はまだ生温かったようね」
「でも下地は十分にありましたから、訓練に支障が出るというよう
なこともありません。身体がまだ慣れていないのでしょう」

 依姫様はやれやれといった風に装う。俺はここに来た当初のこと
を思い返す。

 ある日突然迷い込んでしまったこの月の都。ここで俺は侵入者と
して捕まり、捕虜として扱われることになった。そのとき桃園を迷
っていた俺を捕まえたのが、依姫様だったのだ。

 誤解はすぐに解けた。豊姫様と依姫様に説明を受け、自分が現代
版浦島太郎になってしまったことを知った俺は、ほんの少しの間月
の都に滞在することを許された。そのときに、せっかくこんなとこ
ろまでやってきた思い出として、依姫様に色々なところを観光させ
てもらっていた折に見たのが、玉兎たちの訓練風景だったのだ。

 ……それを見たとき、正直愕然としてしまった。その玉兎と呼ば
れる少女たちは銃剣を持ってまるで戦争にでも行くかのような訓練
をしていたが……偶然にも軍隊のような組織に身を置いたことがあ
る自分にとって、それはお遊戯と大差なかった。そのとき、正直ま
だ少し月の都に滞在したかった俺は、玉兎たちに地上の技を授ける
ことと引き換えに、もう少しここにいさせてほしいと願い出た。丁
度玉兎を鍛え直したいと思っていた依姫様の考えと合致し、月の都
に地上の民が滞在することを渋々とだが承諾された。


 ――それがちょっと前のこと。


「以前、地上の民を迎え撃ったとき、勝利を収めたまではよかった
のだけど……それ以来この子たちは増長してしまった。あの子たち
が戦ったのはほんの雑兵に過ぎず、本当に力あるものたちを退けた
のは私だったというのに」
「それはしょうがありません。戦いの勝利はそこにいる皆の物です
から。ですがそれに驕って自己の練成を怠れば、生き残ることはで
きないでしょう。それにその戦いは小規模なものだったと聞いてい
ます。いくら依姫様が強大な力をお持ちだとしても、戦いの規模が
大きくなればお一人で戦線を維持することはできません。そのため
には沢山の兵士が戦線を維持するために必要になります」
「――ええ、この前は数が少なかったからまだどうにかなったの。
それに中には侮れない力を持つ者もいた。そうなったときのために、
この子たちは稽古をしなければならないというのに」

 依姫様は俯いた。普段は自信に満ち溢れた少女の貌をしている依
姫様が、このときだけはそんな顔をするのだ。俺はどうにか、その
不安を拭い去ってあげたかった。

「そう思っていた矢先に、貴方が現れた。……でも、貴方がもたら
した戦いの技が、地上の民を傷つけることになるかもしれない。そ
れはわかっているの?」
「当然、そうなることもあるでしょうね。ですが依姫様、自分は彼
女たちが何もできないまま死んでしまうようなことがあっても嫌な
のです。戦うときには戦うだけの力があればいい。……ですが生き
残れるなら、別に逃げ出してしまってもいいとも考えているので
す」
「……そうね、勝ち目のない相手に、無駄に命を散らすよりかはそ
の方が」
「ははは、自分でもおかしいと思ってるんですよ。初めは玉兎たち
のあまりの練度に痺れを切らして、思わずこの役目を買って出ただ
けのはずなのに……教官まがいのことをしていますと、いつの間に
か情が沸いてしまったようです」
「……○○」

 俺は少しでも笑顔を作って、依姫様を安心させたかった。でもそ
の不安を完全に拭い去るにはもっと確固たる証拠が必要なようだっ
た。



レイセン!」
「は、はいっ」
「貴方、○○と手合わせをする余裕はある?」
「はあ……」

 レイセンと呼ばれた玉兎は依姫様に命令されると跳ねるようにし
て立ちあがった。さっきまで地面にへたり込んでいた姿はどこへや
らだ。こいつら、依姫様の言うことはよく聞くんだからな……。

「できるかしら?」
「やりましょう。いいな、レイセン?」
「ど、どうして……?」

 レイセンは不服そうな顔をして訴えてきた。数いる玉兎の中から、
自分が選ばれた理由がわからないようだ。俺には、依姫様の考えが
なんとなくわかった。

「あなたは私とお姉様たちのペットです。だからこそ、貴方にはそ
れに相応しい能力を身につけてもらわなければならない。そう、前
のレイセンのようにね。ここで甘やかすことはできないのよ」
「ううっ……わかりました」
「○○から学んだ、貴方の技を見せてみなさい」

 しかしレイセンが不安なように、俺も少し不安だった。正直、こ
の子はこの部隊に配属になったのが最近ということもあり、それほ
ど練度が高くなく、技術の吸収もあまり良いとはいえない。他に強
いものがいると、それに依存してしまうようなのだ……。それは決
して豊姫様と依姫様に特別な寵愛を賜っているということも無関係
ではないだろう。


 俺とレイセンはお互いに三歩分の距離を取り、小銃を腰だめに構
えた。この小銃、地上のもののデッドコピーらしく、実際に弾薬を
装填して撃発することはできない。ただし玉兎たちは超能力で作っ
た弾丸を飛ばすことができ、この小銃の形は弾を飛ばすのに適して
いるらしい。……しかし俺がそれを教えることはできないので、担
当科目は近接戦闘のみとなっている。

「依姫様、開始の合図をお願いします」
「ええ。では…………始め!」

 緊張して顔を紅潮させ、ガチガチになっていたレイセンは、開始
の合図とともに小銃を前に突き出しながら飛び出してきた。ここは
敢えてレイセンに先手を取らせる。銃剣格闘は本来、懐に飛び込め
ば一撃必殺であるし、そうでなければならない。捨て身の攻撃だか
らだ。故に先手を取った方が圧倒的に有利なのだが、俺が先手を取
ってしまっては仕合いにならない。

「やぁぁぁぁっ! やぁーーっ!」
「ふ、ふ、ふんっ」
「ひっ」

 あまりに単純すぎる攻撃だ。小銃をオールを漕ぐように回しなが
ら、レイセンの突きを払っていなす。がつんと被筒部を打ち鳴らし、
腕には少々だが重い衝撃が伝わった。……玉兎の特性は高いタフネ
スと馬鹿力だ。あまり怪我をしない。何千年もずっと餅搗きをして
いたというだけあって、その辺りは羨ましいくらい高い能力を持っ
ている。しかしその反面、技術は低い。単純作業ばかりしていた弊
害か、人間と比べると思考が少々単純で応用が利かないものが多い。
おまけに臆病だ……そんな連中が本当に戦えるのか。

「レイセン、○○は始まってから一歩も動いていないわ。貴方の力
はその程度なの」

 レイセンは焦りからか、依姫様に見られて緊張しているからか、
闇雲な連続刺突を繰り出し続ける。ただそれだけの攻撃はその場か
ら動く必要すらなく先んじて剣を出すことで簡単に剣線が外れる。
そして怪我をしないせいか、防御が手薄になりがちだ。気負いすぎ
て前のめりになったところをすれ違いざまに銃床で背中を軽く叩く。
レイセンはバランスを崩し、ごろんと地面に転がった。

「あうっ!」
「どうした、もう終わりか!」

 思わず語気を強めてレイセンを叱責する。依姫様を横目で見ると、
今にも何か言いたそうにうずうずしている。……こっちもあまり本
気にはなれない。

「これくらい大したことはないだろう、自分の力で立つんだ」
「う、ううぅ……はい……」
「……今度は全力で打ち込んでこい。レイセン、お前にはまだ能力
があるだろう?」
「えっ、は、ハイッ!」

 レイセンは銃を拾って立ち上がり、もう一度構えると再び馬鹿正
直に突進してくる。そしてまさに剣先が触れんとするそのとき――
目の前から姿がかき消える。

 これは……レイセン得意の瞬間移動! 刹那、背後に気配が現れ
る。背後は完全に無防備だった。しかし焦りはない。俺は冷静に息
を吐くと、銃床尾を後ろに突き出した。

「あ痛ぁっ……」

 ごつんっ、という硬い手応えの後、振り返ると銃を取り落し額を
押さえて蹲るレイセンの姿があった。

「……終わりね」

 依姫様がぼそっと呟くと、緊張した空気が一気に弛緩した。今の
仕合いの結果に固唾を飲んで見守っていた玉兎たちから黄色い声が
上がる。

「レイセン」
「はぃ~~……」
「最後の攻撃は悪くはなかったが、あんなのは一度しか通用しない
ぞ。旺盛な企図心を持って絶えず創意工夫せよ、だ。せっかく便利
な能力を持っているんだから、今のままでは勿体ない。依姫様も、
お前が強くなることを願っておいでだ」
「……地上の民の兵隊は、きっと○○と同じくらいか、それよりも
強い。もしまた戦争があっても、私には貴方たち全員を守りきるこ
とはできないわ。だからせめて、自分の身は自分で守れるくらいに
強くなりなさい。何のために○○が地上の技を授けてくれているの
か、よく考えるのよ」
「はぁい……」

 レイセンはとぼとぼと仲間の元に戻っていくとあっという間に囲
まれた。玉兎たちは今の結果についてやんややんやと姦しい。あれ
でも、当初よりは多少改善されてはいるのだ。だからこれからも続
けていけば、マシになるかもしれないし、ならないかもしれない。
俺には、ただ見守っていくことしかできないのだ。


「ねえ○○……貴方、あとどれくらい月の都にいられるの……?」
「え? ああ、えーと、どうしましょう。具体的には特に考えてい
ませんでした」
「もしよかったら、もっと長く滞在してもいいのよ? ……それこ
そ、地上の民の命が果てるまで」
「……自分は果報者ですね。依姫様にそこまで言って頂けるとは。
しかし上達の早いあの子たちに教えられることなんて、すぐになく
なってしまいます。そうなったら、何もできることはありません。
穢れは早いうちに持って帰らないと」
「あなたの存在が良い手本になるのよ。あの子たちがさぼることも
なくなったし、ね。お姉様はあまりいい顔をしないでしょうけど…
…」
「でしょうね。豊姫様は自分には辛辣ですから」

 依姫様は苦笑した。桃を食べて、ニコニコと微笑みながら早く帰
れということを遠まわしに言ってくる豊姫様の姿を想像したのだろ
うか。俺も同じ想像をし、思わず顔が引きつる。

「……人間の進歩は目ざましいものがあります。月でまた戦争が起
こる日も、そう遠い未来ではないでしょう。もし自分が月の都にい
られるのなら……自分は依姫様をお守りしたい。自分の力は依姫様
に遠く及ばないでしょう。それでも、依姫様の側に置いていただけ
ますか?」
「嬉しい……私にも、貴方の穢れが伝染ってしまったみたい……穢
れもそんなに悪くはないものね」

 俺と、依姫様は何も言わずにただ見つめ合う。少しだけ頬を紅潮
させた依姫様は誰よりも可愛らしく、俺の心を揺さぶった。

 すると途端に玉兎たちの冷やかしの歓声が上がる。そういえばこ
いつらがいるのすっかり忘れてたっ! 真っ赤になって俯く依姫様
を庇うように、俺は銃剣を振り回して牽制する。

「お前らっ、散れっ、散れっ! とっとと別れろっ!」

 玉兎たちは面白おかしく悲鳴を上げながら桃園に散っていく。

「あの子たち……」
「まったく、稽古が終った途端に元気になりやがって!」
「……ふふふ。○○、これからもよろしくね」
「はい、自分でよければ、喜んで」





おしまい


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最終更新:2010年06月04日 01:33