勇儀3
新ろだ732
壁にかけた時計の針の動く音がこだまするほど、静かな一日だった。
1週間ほど前から仕事の量が格段に減り、2,3日前からは
とうとう何も無くなってしまうくらいだった。
確かにこんな静かな日に、一人ただ黙々と溜めた古本を読んでいくのも悪くない。
だがそんな時間もそろそろ終わりだろう。
腕時計に目をやる。 自分の予想が正しければ、そろそろ彼女が来るだろう。
外の世界にいたときから持っている、頑丈な電波時計だ。
この時計の精確さは自分自身がよく知っている。
大体、このくらいの時間になると、玄関から声が響いてくるのだが。
「おーい、○○、今日もきたぞー!」
声の主は予想通りのものだった。
「勇儀さん、あの、いきなり大声あげて入ってくるのは…」
「まぁ細かいことは気にするな、私とお前の仲だろう?」
鬼というものは嘘をつかない。 それ故、このような言葉はよく出てくる。
正直なところ、聞く側としては恥ずかしくもある。
○○は読んでいた本にしおりをはさむ。
今日も彼女は何個か右手に瓢箪をぶら下げてきている。
酒に対しては前よりは強くなった、とは実感するものの、まだまだ彼女にはついていけない。
居間のテーブルに瓢箪をドカっと置いた後に
勇儀は置いた瓢箪の下に灰色の紙があることに気づいた。
「あれ、新聞なんて読んでいたのかい?」
「定期購読はしてませんよ。 天狗がたまに配る『号外』。
……最も、いきなり窓から投げ込まれるのはビックリしますけど」
ふぅん、と彼女は答えたあと、瓢箪をどかして
その号外に目を配る。
元々、天狗の作る新聞というのは、ほとんどが個人の製作によるものだ。
記事の偏りはよくあることで、それ自体誰も気に留めてはいなかった。
この号外も彼女に気を惹くような記事はなかったはずなのだが。
「なぁ○○、お前はこの号外、過去に何回かもらったんだろう?」
「ん、うん、まぁ」
「それって読んだことあるかい?」
「いや、全部捨てている」
「どうして?」
「面白そうな記事が無いからね」
「へぇー、じゃあこの記事はお前さんにとっては面白いものだったのかな」
そう言って彼女は見出しの記事を指差して、彼に見せる。
指差した先には大きな文字で
『神無月外界旅行ツアー、今年も開催決定!』と書かれていた。
「……俺、どっちかって言うとインドア派だし…」
「おやおや素直じゃないね」
そういう彼女は冗談の意味も込めて、軽く握った左の拳で○○の鼻を小突く。
彼にとってはその拳は半分冗談にならないものだというのは
何週間か前に自分が泥酔して、彼女にちょっかいをかけてしまったときに
痛感していることだった。
「なかなか面白そうな企画じゃないか。
外の世界なんて、今となってはめっきり変わったんだろう?」
黙りこんでしまう○○を無視して、勇儀は持参してきた瓢箪の蓋を取る。
「黙るのはルール違反だよ、○○。
ここはお互い正直に話そうじゃあないか」
「うーん…確かに旅行には行きたいよ…でもさ…あの…」
「なんだなんだ、はっきりしないな」
「その、つまり…ここが…」
しどろもどろになりながら、号外の記事の文章の最後のほうを指差す。
『恋人との甘い時間をあなたに』と書かれてある箇所だった。
「…私はあんたの恋人じゃない、とでも?」
「そうじゃなくて、確かに仲は良いのは知ってるし、勇儀さんのことも好きだしさ…」
「男じゃないねぇ、男じゃないねぇ、そんなことを言ってたら。
男だったら、『こいつが俺の彼女だぜ』くらい言ってやらないとねぇ。
なんかそういうこと、できないのかい?」
言い返す言葉がなく、更に○○は黙り込んでしまう。
彼の腕時計の秒針が何回か動いたあと、決心した様子で
○○は彼女に顔をぐいっと近づける。
「俺だって、こういうことはできますよ」
初めてのキスだったけれども、自分としては上出来だったと、思う。きっと。
「……馬鹿野郎、誰がこんなことしろって言った」
「こういうことしろって言われてるのかと、思いましたから」
急激な勢いで心拍数が上がっていくのを感じた。
互いの心音が聞こえてしまいそうなくらいに。
「…で、さっきの話の続きですけど、勇儀さん。
俺はこのツアー、勇儀さんと一緒に行きたいです。
こっちへ来てから長い間、両親に連絡をとってなかったので」
「なるほど。 で、○○。
久々に会う親に向かって、なんて言うつもりだい?」
「決まってます。
『こいつが俺の彼女です』って、自慢の彼女を紹介してやるんですよ」
「よーし、それでこそ私の見込んだ男だ! ○○!
この話もひと段落ついたことだし、早速飲むか!」
おうよ! と勢いよく返事して飲み始めたのはいいが
勢いに任せて飲みすぎて、いつもより速く倒れてしまったのは
反省すべき点だったと思う。絶対に。
二人が旅行へ行くと決めてから三日後。
その旅行のための準備、ということで里で買い物をする約束をしていた。
「旅行のための準備、って言うのはわかるけどさ。
どうしてここなんだい?」
「外の世界に関係のあるものはここしか取り扱ってませんからね。
服装とか、里で売ってるようなものだと目立つと思いますし…」
二人が訪れたのは香霖堂だった。
彼の言う通り、幻想郷で外の世界の道具を取り扱っている店はここしかない。
ただこの店の主人の性格のこともあり、取り扱っている、と言っても
商売をしているかどうかすらも疑問だったが。
「おや、珍しいお客さんたちだなぁ」
「霖之助さんも知ってるでしょう? 外界旅行ツアーのこと。
そのために、ですよ」
「もちろん。 数少ない稼ぎ時だし、いつもより商売させてもらってるよ」
普段は商売しているかどうかすらもわからないのに、
と言ったら、商品を不本意な値段で売られそうなので言わないでおくことにした。
「○○、そういえばお前の故郷に行くって言ってたけどさ。
どこなんだい?」
「あー、霖之助さん、日本列島の地図ってあるかな。
それで説明したほうが早いと思うんだ」
霖之助は店の奥に行って、埃の被った筒を何本か持ってきた。
そのうちの一本にいたっては、セピア色どころか、紙が黄色になっているものさえあった。
渡された地図を一つ一つチェックしていき、
全部確認し終えたところで、○○は少し落胆していた。
「あー、勇儀さん、単刀直入に言います、俺の生まれ故郷はここです」
彼は地図に書かれた東北よりも北の部分、地図に描かれていない部分を指差した。
「まさか、北海道?」
「そう、北海道」
「…噂で聞いたけどさ、冬の北海道って、寒くて寒くて
果物を外にほっとくと、そのうちトンカチの代わりになるって聞いたけど」
「確かに寒いけど、その話は真っ赤なウソです!」
「え、そうだったのか!?」
――今まで信じていたのか、そんなこと。
異郷の人に自分の故郷を話すと、大体の場合こういう流れになることは
○○はよく知ってはいたが、彼女にまで言われるとなると唸ってしまう。
「確かに寒いですよ、神無月だったら。 少しあったかい格好をしないと。
霖之助さん、外の世界の洋服ってどこにおいてありますか」
「ああ、それならこっちに…」
主人が稼ぎ時、と言っていたように、品揃えは予想以上に豊富だった。
これなら旅行先で困ることは無いだろう。
「○○、決してだ、決して着替えている最中に覗き見とかするなよ」
「わかってます、わかってますって勇儀さん。
だからその拳を解いてください」
彼女の額の角をどうするか、と気づくのは
彼らが店を出た後だった。
----------------以下 蛇足----------------------------
AMSから光が逆流して水没しそうです。 管制室援護しろよ!
プロローグということで、楽しんでいただけたら幸いです。
リアル友人に出身地の話をしたら
「北海道? ロシア領だろwwwwwwwww」って言われました。
期間内に間に合わせられたらいいなぁ…。
------------------------------------------------------
新ろだ767(新ろだ732続き)
この服を最後に着たのは、もう何年も前だったような気さえする。
今、自分が袖を通しているのは
自分がこの世界――幻想郷――へ来た時の服だ。
こちらに「住む」ことになってから、服装もそれに合わせていた。
もっとも、最後に来たのは長く見積もっても半年くらい前なのだが
それ以上にここで過ごしていた日々は長く感じていたんだろうか。
腕時計を見る。 まだ待ち合わせの時間まで余裕がある。
小さくまとめた荷物の中身を再度確認する。
中身のほとんどが、かつて自分が外の世界で暮らしていたときのものばかりだった。
――まさか、もう一度こんな形で使うことになるとは。
かばんのジッパーを閉め、持ち上げる。
中身の多さに反比例してさほど重みは感じなかった。
そろそろ行こう。今日から楽しい旅行だ。
神無月。
幻想郷の外の世界、つまり、自分がかつて住んでいた世界へ
この月だけ、「旅行」と称して、里帰りする。 それが○○の目的だった。
しかしその旅行は一人旅のツアーではなかった。
腕時計を再度確認する。 20分も前に落ち合う場所についたのは流石に早すぎたか。
まだ来ない恋人を待ち、これからのことを考える。
あの時、彼女と一緒に旅行をして、親に紹介する、と言った。
しかし出発の日になって、親がどういう顔をするかとても心配になってきた。
両親にとって今の自分は、ほぼ半年もの間行方不明になっていたドラ息子そのものだ。
それが突然帰ってきたらどうなるか、検討もつかない。
不安だがここまで来たからには、真剣に話すしかないだろう。
一人そんなことを考えていると、向こうから自分の名前を呼ぶ声があった。
「待ったか?」
「いえ、そんなに」
いつもと彼女は違う。
服装も、額の角も。
先日、香霖堂で彼女の服を選ぼうとしていた時だった。
外の世界にあわせた服装、と言っておきながら
どのような服装にすればいいのかわからなかった。
「○○、お前は外の世界に住んでた人間だろ?
こーでぃねいと? そういうのには詳しいんじゃないのか」
「異性の服装に詳しくなるほど、ファッションには敏感な人間じゃなかったので…」
山の四天王の一人、星熊勇儀はふんと鼻を鳴らす。
「誰かこういうのに詳しそうなヤツはいないのかい?」
「うーん、そうですね…。 いや、あの人なら…!」
最近こちらにやってきた、山の神社にいる巫女に頼もう。
我ながら乾坤一擲の策だと思った。
香霖堂に来る途中、里で布教活動をしている姿を見ていた。
○○は店を飛び出して、その巫女を探した。
見つけるのにさほど苦労もしなかった。
こちらの願い事を端的に伝えると、彼女は二つ返事で応えてくれた。
彼女のセンスも悪くなく、勇儀にピッタリなコーディネイトを考え出してくれた。
ただそれが終わったあとは思い出したくない。
信仰のあり方だの、信仰することで得られるありがたさなどについて
一時間ちょっと話をされたことを思い出すと、少しばかり耳が痛くなるが。
「やっぱ似合ってるますね、その格好」
「なんかこの靴、歩きにくいんだけどねぇ」
そういって彼女は足元の靴に視線を向ける。
なるほど、確かに慣れてないと辛そうだ。
「額の角はどうにかなったんですね」
「ああ、別の鬼に頼んだよ」
なんでも、萃香とかいう鬼に、自分の角の密度をすごく薄くしてもらって
人の目には見えなくなるくらいにしたのだとか。
大雑把な説明だったが、理解しようとしても理解できそうもないので
深く考えないことにした。
「もしも角が戻らなかったらどうするんです?」
「なぁに、そのときはアイツのを1本もらうさ」
鬼は嘘を言わないらしいが、冗談は言うのだろうか。
「そろそろ時間ですね」
「よーし、じゃあ行くか、○○」
スキマ妖怪も、各々が目指す目的地に最初から移動させるわけではなかった。
開始地点はみんな一緒で、それぞれがそこから行きたいところへ行くということだった。
○○は飛行機で行くことも考えてはいたが、
そこまで急ぐ必要もないだろうと思って、電車でゆっくりと行くことにした。
電車の車内で彼を待っていたのは、彼女の止まらない質問攻めだった。
「なぁなぁ、○○、あの塔と細い糸みたいなのは何だ?」
「電線と電柱、電気を送るのに使っている」
「デンキ? ああ、いろんなものを動かすのに使っているんだったよな」
電車が動き出して、周りの景色も動き始めてから
彼女は窓にかじりつくようにして、外の世界の景色をじーっと見つめていた。
確かに過去に何度か、酒と一緒に外の世界のさまざまな物事を話した。
思い返せば、それは正確でも的確でもなく、ほんの一部の説明だけだったことを痛感する。
息つく暇もなく、彼女は次の質問をしてくる。
まるで子供だな、と心中つぶやく。
突然、外の景色が暗転して、窓の外が灰色一色で塗りつぶされる。
「あれ、どうしたんだこりゃ」
「トンネルに入ったんですよ」
「とんねる?」
「車や電車を通すために、人が山に掘った人工的な洞窟の外来語…かな」
「ふぅん、こんな速く動けるモノを作れるんだったら
穴なんか掘らないで山の上を走ればいいのに」
もっと細かな説明をすると話が反れてしまいそうな気がしたのでやめておくことにした。
トンネルの景色には興味が湧かなかったのか、彼女が窓から離れる。
「そういえば、○○の両親ってどんな人なんだ?」
「えっ…うーん。
父さんは本をよく読んだり、酒をよく呑む人だった。
母さんは俺よりも背が低くて、料理は上手だった。
……なんだか上手く説明できないなぁ」
「つまりはいい親だったんだな?」
「そういうこと」
「…そうか」
彼女はそう小さく言うと、トンネルを抜けるのを今か今かと待つように
窓の外へ視線を向けた。
その表情は決して明るくないように見えた。
「本当はどう思ってる?」
○○が突然尋ねる。
「何のことだい?」
「俺の親と、会うこと」
「怖いよ、そりゃさ。 お前の親と会うの。
何を言うのか、わからないしさ。
でも私はお前を信じるよ」
「…ありがとう」
肌に感じていた空気が一気に冷えたような気がした。
トンネルを抜けて、外の景色が戻っているのに気づいたのは
彼女が先だった。
勇儀は○○の肩を何度か叩き、いつものように笑って彼に語りかける。
「なにシケた顔してるんだよ。 せっかくの旅行だろ?
今から心配したって無駄だよ、無駄。
そのとき考えりゃいいさ、そんなこと」
「…そうだな、うん」
そう力強く言ったものの、彼女の質問攻めは辛かった。
ひとまず電車での長旅を終え、駅に降りる。
日は暮れかかっていて、遠くに見える山の稜線を夕日の色に染めている。
「ここがお前の故郷?」
「あー、まだ北海道にもついてませんよ」
「なんだって!?」
「本当は一日かけて行くっていうこともできたんですけどね。
あまり急いで行くのも、ほら…」
彼女は口を尖らせる。
その様子を見た彼は説明する言葉が詰まっていく。
「…海の中もとんねるで通るって言ってたから
その内、窓から海の中が見えると思ってたのに…」
その言葉を聴いた途端、彼はたまらず笑い出してしまった。
馬鹿にするな、という意味で勇儀は笑う○○の背中やら肩やら頭を軽く叩く。
「なんだよ、なんだよ! 期待させておいて!」
「勝手にそっちが期待してただけじゃないですか!」
電車を降りて、人通りの少ない道を通って、今日の宿へと向かう。
インドア派だったため、あまりそういったことに詳しくなかったが
ある程度の日程や要望などを予め言っておけば、ツアーの主催者側が
宿や交通手段等の準備もしてくれていた。
駅から徒歩で、主催者側から渡されたメモを片手に宿へと向かう。
指定されていた宿は、決して高級そうではない旅館だった。
――受付にいた人の顔が、妙に主催者の式に顔が似ていたのは気のせいだと思っておく。
案内された部屋は、広すぎず、狭すぎず、そんな部屋だった。
今日一日の彼女の質問攻めの疲れと一緒に、かばんを放り投げて腰を落とす。
窓の外は夜の空の黒でいっぱいだった。
彼女はというと、部屋にあったテレビに興味深深だった。
彼はまた質問が飛んでくるのかと身構えたが、彼女は意外にもそれ以外のことを言ってきた。
「なぁ、この宿って露天風呂があるんだよな」
「ん? うん…」
渡されたメモを再度確認してみる。
3,4行ある旅館の説明書きの最後のほうに「露天風呂有り」と書かれている。
「なんか疲れちゃったからさ、風呂入りたいんだよね」
「じゃあ先に入っちゃいますか」
――なるほど、悪くないな。
脱衣所を通ってその露天風呂へ入った○○は思う。
普段は自宅の狭い風呂で十分間に合ってると思っていたが
たまに広いお風呂でのんびり浸かるのも悪くないだろう。
おまけに他に人がいない。 貸切状態だった。
風呂の縁に立ち、右足、左足とお湯に入れていく。
少々熱めだったが、それくらいがいい。
くぅ、と思わず声が出る。
「なかなかいい風呂だね」
向こう側から声が響いてくる。
その声は彼女のものだった。
「そっちの風呂はどうです?」
「ん? 『そっちの』?」
彼女の声と一緒に、彼の肩に手がまわってくる。
その手もまた、彼女のものだった。
「え、あれ、ちょ、なん、なんで、あの、勇儀さん、なんで」
「ありゃ、あのメモに書いてなかったのかい?
ここって脱衣所だけ別で、混浴なんだってさ」
「……そんなの書いてなかった…」
「受付にいた人が耳打ちしたんだよ」
嗚呼、成程。 スキマ妖怪の式だ。 狐の仕業だ。
振り向いてはいけない。 決して振り向いてはいけない。
恐らく自分の背後には、一糸纏わぬ彼女の姿があるだろう。
「俺、一旦出ます! んで時間おいてからもう1回入りなおします!」
「まぁまぁそう言うな」
そう言って勇儀は○○の肩をギュっとつかむ。
声色からして力をこめているようには聞こえないが
そこは鬼の持つ怪力だ。 身動きが取れなくなっていた。
「背中を流してくれるような人がいるとありがたいんだけどねぇ」
「……はい、やります」
断ることはできない、そう直感していた。
自分の煩悩を抑えるために、自分なりに哲学的なことをひたすら考えながら
湯船に浸かるというのは人生で初めてのことだった。
----------------以下、チラシの裏--------------------
1日目終了。
ネタは思い浮かぶけど、文章にするのに詰まる俺ガイル。
勢いだけで参加する趣旨を書いたはいいけど、これ終わらせられるの…?
このスレのおかげで、燻っていた恋心もとい邪心がよみがえったような気がします。
-------------------------------------------------------
新ろだ776(新ろだ767続き)
その日は珍しく、見ていた夢の内容を覚えていた。
人間の里から少し外れたところ。
他の家に比べてずいぶんくたびれたように見える一軒の家。
何ヶ月か前から行くようになった。
○○の家だ。
何度も行ったからよく覚えている。
玄関の扉の形状から、屋根の色、木目の皺まで。
そして、窓から見える彼の姿も。
彼は家にいるときは決まって、座椅子に座って
ボーっとしていたり、セピア色のよくわからない本を読んでいた。
彼曰く「さいえんす・ふぃくしょん」というジャンルのものらしい。
夢の中でも私は同じように、瓢箪を2個ほど右手にぶら下げていた。
今日の酒はいつもよりキツくはないから、長く彼と話せるだろう。
――そしたら、今日はどんな話をしようか。
彼と話をするのは本当に楽しかった。
ロクでもない、くだらない話なのに、いつの間にかクスっとくる。
いつものように、玄関の戸を開ける。
夢の中で現実と違っていたことは、
そこで座っていた彼が、私の目の前で霧のように消えていくシーンだった。
そのシーンで、私は目が覚めた。
あまりにリアルな夢だったから、よく覚えている。
カーテンを閉めた窓から漏れる外の光はさほど明るくはない。
まだ起きるには早い時間なんだろう。
夢の中のワンシーンを思い出し、隣の布団を見る。
そこにはいびきどころか、寝息一つ立てず眠る○○の姿があった。
――よかった。
霧のように消えていったのが夢の中だとしても、彼の姿を見て安堵する。
――しかし、死んだように眠るな、こいつは…。
確かに彼は寝ている。 それは本当だ。
しかし寝息の一つも立てないのでは死んでいるようにも見える。
彼の寝ている姿を観察していると、右腕に目が向いた。
投げ出された腕と布団の空いたスペースを見るに、腕枕をするには十二分だ。
彼女は周囲の静寂を破らないように、そっと彼の布団にもぐりこむ。
足元が温い。 あったかい。
右腕を頭へすっと寄せて枕にする。
彼の寝顔がさっきよりも近づいている。
さっきは怖い夢を見たけど、今度はよく眠れそうだ。
……数時間後、○○がよく起きれたのは言うまでもない。
今日も昨日と同じようにまた電車での移動になる。
朝から前みたいな質問攻めが飛んでくるかと思うとやや憂鬱な気にもなった。
そう思っていたが、意外にも彼女はそれをしなかった。
「昨日みたいに外の景色は見ないんですか?」
「まぁ、大体おんなじものしか見えないしねぇ」
確かに、と彼は頷く。
「今日こそお前さんの両親ンとこ、行くんだろ?」
「ええ、昼のちょっとすぎにはつくと…」
「だったらさ」
そういって、勇儀は○○に顔をグイっと近づける。
「いい加減そういうしゃべり方、やめたら?
なんか他人行儀みたいだしさ、呼び捨てでかまわないから、ほら」
「…わ、わか、わかったよ、勇儀」
よりにもよって2回も噛んだ。恥ずかしい。
こうやって他人を呼び捨てで呼ぶのはどうにも抵抗があったが。
「よっしゃ、それでいい、それで。
さーてと、○○の親はどんな顔かなぁー」
鼻歌でも歌いそうなくらい上機嫌に、彼女は彼の顔を見る。
○○は彼女の顔を見るたび、朝での珍事を思い出してしまう。
悲しい漢の性の故か、あの時に視線は彼女の顔から、胸の二つの膨らみへと向かっていた。
今の彼女も手を後ろで組んで伸びをしているためか、胸部へとどうにも意識が移る。
風呂場での一見もある。
忘れようとしても忘れられない。
そんなわけで、彼はすっと目線を窓の外のつまらない景色へ移動させた。
昨日よりは短い電車の旅だった。
駅から出て見える街路樹が中途半端に赤くなっているのを見て
日々、季節が秋めいていることを実感する。
「うひゃー、でけぇ建物だなぁー」
駅の近くは大きなビルが立ち並んでいる。
その一つ一つを仰ぐようにして彼女は見る。
その横で○○は実感した。
帰ってきた、と。
忘れもしない、自分が生まれ育った故郷の一部だと。
駅前の人通りは前よりも少なくなって、シャッターがおろされた店が目立つ。
それでも、ここはかつて自分が育った街だと。
「…聞いてる? おーい」
「ん、ああ、ごめん」
「感傷にでも浸ってたのか?」
「そんなところかな。
さ、ここからは歩きだ。 行こっか」
懐かしい景色についぼっとしてしまった。
幻想郷にはなかったコンクリートで固められた地面を蹴り、
自分の育った我が家へと行く。
10月となれば、それなり以上に寒い。
昼間の日差しは暖かいが、時折吹いてくる風と
冷たい空気は、その暖かい日差しのありがたみを消し去っていった。
「寒い?」
「ああ、手がちょっと、な…」
○○は何も言わずに、勇儀の手を握り締めた。
彼女の冷えた手の感触がじんわりと伝わってくる。
「これで少しは暖かくなると思うから」
「……ありがとう」
手をつないだまま、実家へと向かう。
全てが懐かしかった。
信号機も、横断歩道も、ガラス張りのショールーム。
電柱に電線、行き交う自動車の音。
確かにここは、俺が生まれ、俺が育った街だ。
昔よりは賑わいが減ったかな、でもそんなに変わっちゃいない。
「おい、○○ってば!」
突然彼女が声をあげる。
それと同時に自分の目の前を1台の自動車が通っていく。
見上げてみるとまだ赤信号だった。
「気をつけろよな、ぶつかっちまうぞ?」
「ごめん、ちょっと考え事してたから…。
さて、そろそろつくかな」
さっきまで道路をやかましく行き交っていた自動車の数が少なくなっていく。
そういった賑やかな通りから外れた場所に、彼の実家はあった。
元々人通りの少ない場所ではあったが、
久しぶりに来てみると前よりももっと寂しいような感じがした。
「いきなり会ったら驚かれないか?」
「大丈夫、ちょっと前に公衆電話で連絡は入れてあるから」
「んん…ああ、あの透明な箱に入っていた緑色の」
「そうそう。
じゃ、ここで少し待ってて。
先に俺だけで話に行くから」
○○は勇儀の手を離して、一人玄関へ向かう。
そこから少し離れたところで、
勇儀は怒鳴り声と、何かがぶつかる音を聞いた。
それからしばらくして、彼が右手で額を押さえて戻ってきた。
「……何発、もらった?」
「額と、左の頬に一つずつ」
「いい親を持ったなぁ」
わざとらしく、うんうんと頷きながら彼女は言う。
「父さんと母さんには『会わせたい人がいる』って言ってきた。
…じゃ、行こう」
彼は額を押さえていた右手で再び彼女の手を取る。
玄関までのごく僅かな道を一歩一歩進むたびにドキドキする感覚が強くなっていた。
彼の両親にとっては強烈なカウンターパンチだった。
勇儀を見た二人は文字通り、腰を抜かしてしまった。
そこからはいろんなことを両親に二人で説明した。
ただ「神隠しにあった先で鬼と一緒に生活してました」などと言おうものならば
すぐさま救急車を呼ばれかねなかったので
嘘ではなく、本当のことでもないことを言って、うまくごまかした。
今は遠くで暮らしていて、なかなか連絡が取れないこと。
生活には不便もなく、元気に暮らしているということ。
説明にまごつく場面も多々あったが、こちらが無病息災、順風満帆に生活していると
納得したとき、やっと両親の顔から安堵が見て取れた。
夕飯時、台所に立つ姿が二つあった。
一つは○○の母だが、もう一つは意外なものだった。
「勇儀、どしたの? エプロンなんかつけて」
「あーあー、それはね。
勇儀ちゃんが料理教えてほしいって言うからねぇ」
彼女自身が答えようとしたときに、それを遮るようにして母が答えた。
――確か、母さんの料理は美味しい、ってここに着く前に言ったような気がする。
それの影響だろうか。
得意げな表情で勇儀は包丁を持っている。
が、まな板の上の野菜を押さえる手の形を見る限り、危なっかしい。
あわてて母が止めに入って、正しい形を教える。
昔みたいに「後は私がやっておくから」と言えない辺り、どうも落ち着かない様子だった。
今日の晩御飯を食べるときは、切り分けられた野菜の大きさに注目してみよう、と思った。
「○○、水割り作ってくれ」
夕食を終えてしばらくして、父が彼に頼んだ。
「いつも通りでいい?」
「ああ。
ただ、二人分作れよ」
「誰が飲むのさ」
「お前だって、俺が見ないうちに少しは飲めるようになったんだろ?」
お見通しだった。
まだ得意なほうじゃないけど、と彼は一言、父に付け加えておいた。
作り方はいたって簡単なものだった。
亀甲グラスにたくさん氷を入れて、ウィスキーを少し注ぎ、水道水で割る。
子供の頃からたまにお手伝いで作っていたからよく覚えている。
もちろん、「お酒は子供が飲んではいけない」という言いつけをしっかり守っていたので
隠れて飲んだことなど一度もなかった。
今になって初めてなのは、二人分の水割りを作ることと
父と一緒に同じ酒を飲むことだけだった。
二人分の水割りを作って、居間のテーブルに運ぶ。
○○と、その父は黙ってカウンターに座るように並んで椅子についた。
暫時、沈黙が続いたあと、それを先に破ったのは父だった。
「かわいい子だな」
「…うん」
父はちびちびとグラスに注がれた水割りを飲む。
「…お父さんはな、安心したよ。
○○は中学校ぐらいのとき、同じクラスの女子に怪我させたこと、あったろ」
結構昔の話だった。
まだ自分がもっと背が低く、幼いときのころだった。
冗談半分でクラスの女子にからかわれていたとき、咄嗟に勢いよく振り払った手が
その子の鼻に当たり、鼻血を出させてしまったことがあった。
もちろん彼にそんなつもりは無かったが、そういう風に取られてしまったことが過去にあった。
「なんか、女の子とか、そういうことに興味の無いように見えたからなぁ」
「…俺はホモじゃないよ」
「ハハ、まあいいさ。
だけどな、○○。 これだけは言っとくぞ。
絶対に女に手をあげるなよ? 男の拳は、守るためのものなんだからな」
「わかっているよ」
そこからずっとまた長い沈黙が続いた。
同じようにその沈黙を破るのも父だった。
いろんな話をしたような覚えがある。
昔のこと。 父さんの好きなSFの話。
後は父さんが母さんから学んだ生活のコツとか。
細かな内容は覚えていないけど、とにかくたくさんの話をした。
そして、父さんが誰も見てないところで、一人で泣いていたことは覚えていた。
その後、気づくと○○は布団で横になっていて
深夜の時間帯に目を覚ました。
毛布をかぶってぼんやりしながら、尿意を感じた彼はトイレへ行った。
用を足した後、ベランダに一人、誰かいることに気づいた。
「勇儀、こんなところで何してるの」
その人影は彼女のものだった。
彼女は彼の姿を見るなり、彼に抱きついてきた。
「ちょ、どうしたのいきなり」
「……お前は、○○は、どこかへ行ったりしないよな?」
その声は普段の彼女からは考えられないほど
弱弱しい声だった。
彼の服の袖をつかむ彼女の手は小さく震えている。
――怯えている。
彼は直感した。
「大丈夫、俺はどこにも行ったりしないから、大丈夫だよ。
うん、だからどうして俺にそんなこと聞くのか、教えてくれるかな」
「怖かったんだ」
彼女は口から小さく、つぶやくように言った。
そこから堰を切ったように、どっと大きな声で続けた。
「怖かったんだ! ここへ来るのが!
お前が、○○が帰りたくなるんじゃないかって、ずっとそれが怖かった!!
○○がどっか行っちゃいそうな気がして、不安で、それで……」
そこからは彼女がただ延々と泣き続けた。
号泣。
彼は何も言わずに、彼女が泣き止むまでずっと抱き続けていた。
「落ち着いた?」
「……うん」
「もう一度言うよ。 俺はどこへも行ったりしない。
ごめんね。 俺にとって、ここは確かに懐かしかった。
でも帰りたいなんて思ってないよ。
第一、帰ろうと思えば、神社へ行ってすぐにでもこっちに戻ってこられた。
だけどそうしなかった。 そうするつもりはなかった」
「でさ、勇儀。
来年もこのツアーがあったらさ、またやろうよ」
「え?」
会話の流れをぶった切るようにして彼は言う。
「ほら、アレだよ。
来年のことを言うと鬼って笑うんだろ?
笑ってよ。
俺にとっては好きな人が目の前で泣いてるなんて、耐えられないからさ」
「……馬鹿野郎」
彼女は涙でくしゃくしゃになった顔で、精一杯笑顔になってみせた。
次の日の朝、母から勇儀と一緒に風呂に入ったということと、
父から深夜にベランダで抱き合っていたことでからかわれたのは、忘れてしまいたかった。
最終更新:2010年07月30日 23:41