藍7
新ろだ2-087
霜月の終わりのとある朝、雪が降った。それは今期の初雪であり、僕がこの幻想郷に来てから初めて見
る雪でもある。
雪が降らない地方に生まれた僕の眼には、地に積もるほどの雪はとても新鮮に映った。
降雪の新鮮さは僕の心に歓喜を生み、同時にお腹の辺りに心地よい疼きを生じさせた。
疼きの正体は童心なのだろう。二十歳を過ぎて数年の僕にも、どうやら残っていてくれたらしい。
疼きに招待され縁側に腰掛けた僕は内心の歓喜のままに口ずさんだ。
「雪やこんこん あられやこんこん――」
――あれ? 続きはなんだったか……。 降っても降っても? 降っては降っては?
歌い始めから躓いてしまった。何せ童謡を口ずさむのなんて数年ぶりだ、すっかり忘却の彼方なのであ
る。
顎に手を当て歌詞の続きを思い出そうとしていると、背後から声をかけられた。
「……それを言うなら、『雪やこんこ、あられやこんこ』だろう?」
振り返るとその声の主――八雲 藍さんが、すぐ傍に立って僕を見下ろしていた。
「あぁ、藍さん。どうもおはようございます」
「うん、おはよう○○。今日は初雪か……。そうか、もう、冬になるのだな」
「道理で寒いと思ったんだ」と言って藍さんは身を抱くように二の腕をさすった。起き抜けなのだろう、
薄い寝巻きのままだ。そのまま藍さんは縮こまるように僕の隣へと腰を下ろした。彼女の頭から生えてい
る狐の耳がぴくぴくと震えている。
今の彼女はとても隙だらけに見える。光栄なことに、無防備な姿を晒してもらえるくらいには彼女と馴染
めているらしい。
「それで○○、その歌の件だ。『こんこん』ではなく『こんこ』。よくある間違いだが……
九尾の狐たる私の前では間違えないでほしいな。鳴き声じゃないんだから」
口元に手を当てくつくつと苦笑する藍さん。一見意地悪に思えるような仕草も、彼女が行うとそれはとて
も可憐に写る。どうやら今朝の彼女の機嫌は良いようだ。背後に見える九本の尻尾が静かにゆらゆらと揺
れている。やはりとても可憐だ。
「あぁいえ、間違っていることは承知で歌っているのですよ」
「あれ、そうなのか。それはまた何でだ?」
「大した理由ではないのですけれど……。これは幼少時の癖でして。
ずーっと『こんこん』と歌っていたものですから、中々直せないのですよね……」
この歌を教わった当初から長い間、僕は当然として周囲の友人すら揃って間違えて歌っていた。
それは間違いを指摘された後でさえ無意識に「こんこん」と歌ってしまう程度には、結構な期間だった。
「だから僕はずーっとこの歌のことを、『雪原で遊ぶ狐の歌』だと思い込んでいたのですよ」
「あぁ……まぁ、その気持ちは分からないでもない」
雪だコンコン、あられだコンコン。そうやって、狐が歓喜の声を上げているとばかり思っていたのである。
妖狐である藍さんと知り合った現在、僕の想像の中では幼く縮んだ藍さんが雪原で無邪気に駆け回って――
いや、やめよう、この想像は危険だ。あまりに……可愛すぎる。
「……どうしたんだ○○? 突然俯いたりして」
「い、いえ、なんでもありません。なんでもないんです。
ちょっと紫様に頼んで――いやいや、やっぱりなんでもありません」
「は、はぁ……、そうなのか……」
駄目だ、実現する手段――紫様の能力――が明確に存在する分、性質が悪い。
僕のたくましい妄想の中では、既に幼い藍さんが雪遊びの後、僕と一緒にお風呂に……いやいやいやいや。
「そ、そういえば狐の鳴き声って聞いたことないんですよね、『コンコン』とよく言われてますけど……」
実際どうなんですか? と顔を上げ、誤魔化しがてら隣の藍さんに問うと――彼女は、とても微妙な表情
をしていた。
「あ、あれ? 何かまずかったですか?」
「いや……、何も問題はない。問題はないんだけど……」
「鳴き声……鳴き声か……」と言って両手で顔を覆うと、今度は藍さんが俯いてしまった。肩が微妙に震
えている。
どう見ても問題ないようには見えない。僅かに覗く彼女の頬が赤く染まっているように見えるのは気のせ
いだろうか?
心配になって僕が藍さんの肩に手を置こうとした瞬間、バッと顔を上げ彼女は慌てたように喋りだした。
「――っま、まぁあれだ! 狐というのは元来、そんなには鳴かない動物だから!」
「あ、そ、そうなんですか。じゃぁ僕が聞いたことがないのも当然ですね……」
焦ると少し言葉が砕けるのは、彼女の癖だ。普段とは違って――失礼な話だが――女の子らしい口調にな
る。
そういった時の藍さんは、平素の凛々しさから反してとても幼く感じられる。
藍さんのそんな可愛い様を見られることは、彼女と一緒に居る時に得られる数多くの役得のうちの一つだ。
「とにかく、僕が『雪』を歌うとき思い浮かべる情景は、雪原で狐がコンコンと鳴いている様なんです。
だから今でも『雪やこんこ』ではなく『雪やコンコン』と歌って……って、あの、藍さん? 本当に大
丈夫ですか?」
「……ええ、大丈夫。本当に大丈夫なのよ、○○」
まだ言葉が砕けている。要因は分からないものの、どうやら藍さんは今相当焦っているらしい。
この話題はこの辺で打ち切っておくべきだろう。……藍さんの精神的平和のために。
「とりあえず歌詞が間違っていることは事実なのですし、修正していく方向で考慮させていただきます」
「う、うん。間違ってることは修正しないとな」
僕は日本人らしく遠まわしな言葉で訂正することを誓った。昔からの癖をそう簡単に直せるとは思わない
のだが。しかし藍さんの挙動も口調も落ち着いてきたので、この話題もこの辺が落ちどころだろう……と
思ったその時。
安心するのはまだ早い、とばかりに響く声が一つ。
「あら、あながち間違いじゃないわよ、その歌詞」
多少の艶と多分の胡散臭さを内包したその声に、僕と藍さんが後ろを振り向くと……
そこには、スキマからニュッと上半身を出して頬杖をついている美女――八雲 紫様が居た。居られた。
ニヤニヤとした笑顔を満面に貼り付け、「さぁ、今からからかうわよ!」と言わんばかりである。
僕と藍さんが二人して呆然としている内に、紫様は続けて話し出した。
「確かに狐は殆ど――一年の内にひと月の間くらいしかきちんと鳴きはしないけど、それはまだ雪の降る
季節なのよ。
だから雪原で鳴いている狐、というのは間違ってないわ」
「あ、本当に雪の時期なんですか。ということは近い時期なんですね」
先に復活した僕がそう返すと、紫様はその胡散臭い笑顔をより一層楽しそうに深めた。
「ふふ……そうね。○○なら近い内に聞けるかもしれないわよ。それはそれは極上の、狐の鳴き声を――」
「ゆ、ゆゆゆゆゆ紫様!?」
何故だか突如焦りだす藍さん。
「だって、狐が鳴くのは年に一度の――」
「紫様! お、お戯れはそこまでにしてください!!」
「イヤン、藍ったらこわぁい」
何かを言おうとした紫様の言葉を、慌て立ち上がった藍さんの声が遮る。今度は先の比じゃない程の慌て
っぷりだ。
藍さんが紫様に口出しするのを見るのはこれで二度目だ。とても珍しい。遮られた言葉の先は余程重要な
内容なんだろう。
興味は尽きないが、マヨヒガの新参者である僕が立ち入っていい話ではないかもしれない。今はただ黙す
るのみである。
「まぁそれは置いといて、それよりも藍、○○」
「はぁ……。なんでしょうか? 紫様」
「はい? 僕もですか?」
「初雪も降ったことだし、私はそろそろ『眠る』から」
そう、冬は雪の季節であると同時に、紫様の『冬眠』の季節なのだ。とは言っても僕は話に聞いていただ
けなのだけど。
冬眠……紫様は冬の三ヵ月間、飲まず食わずで眠り続けるらしい。言うまでも無いが、人間が出来る行為
ではない。
改めて実感する。目の前でたおやかに微笑んでいる絶世とも呼べる美貌を持った女性は、妖怪なのだ。
「かしこまりました。では本日からお眠りになるのですか?」
「そうね、霊夢に挨拶に行ったら眠ろうと思うわ」
慣れたように受け答える藍さんに少し驚く。毎年のことだと聞かされてはいたのだが、やはり違和感は拭
えない。
「はぁ……紫様、本当に冬眠するんですね……」
「あら、○○ったら信じてなかったの?」
「い、いえ……ただ冬眠だなんて馴染みのないことだったので」
冬眠と言われて真っ先に思い浮かぶのは熊、というか獣の類なのだ。まぁそんなことを正直に述べたら殺
されるだろうから言わないが。
「……なんか失礼なことを考えられてる気がするけど、まぁいいわ。じゃぁ私は博麗神社に行ってくるか
ら、後のことはよろしくね」
「あとのことも何も、普段から任せッきりじゃないですか……」
「何か言った? 藍」
「いいえ、何も。では行ってらっしゃいませ、紫様」
ボソリと愚痴を呟く藍さんに言及する紫様。しかし藍さんが平然と切り返す辺りにこの主従関係の実態が透
けて見える。
「……そう? じゃぁ行ってくるわね」
そう言ってスキマが閉じ紫様は消えた。あとに残るのは僕と藍さんの二人だけで、まぁ最初の状態に戻った
だけともいえる。このスキマというのは何度見ても慣れず、本当に不思議なものだ。
中からギョロリと覗く大量の眼がとても不気味で、これからも慣れることは無いだろうな、等と漠然と思う。
「まったく……紫様はいつも唐突なんだから……」
苦笑しつつ、仕方ないなぁとばかりに誰にともなく呟く藍さん。言葉とは裏腹にその表情は何処となく嬉しげ
で。いつも愚痴のような言葉を呟いている藍さんだけれど、その実はやはり紫様のことを心から慕っているの
だろう。あまり彼女たち二人の過去については聞いたことがない僕なのだが、それだけは確信を持って言える
のだ。
「行ってしまわれたか……」
誰にとも無く一言ぽつりと呟き、沈黙する藍さん。
何か考え事をしているのか無言で佇んでいる藍さんを、僕もまた無言で見詰めていた。
無言で続く無音の時。静寂というのは正にこのことと呼べるほどに、どんな音もが耳を訪れない。
鬱蒼とした森の奥地にぽつんと佇む此処――マヨヒガは本当に静かだ。普段から鳥獣の鳴き声すらめったに聞
こえず、更に今は風も吹いてないので尚更に静かだ。
本当に何の音も聞こえないときは逆に聴覚が敏感になるようで、普段聞こえない筈の音でも聞こえるような気
がする。
深々とした世界にしんしんと降る雪の音が聞こえる。ゆらゆらと揺れながら地を目指す綿雪の群れが、世界を
白く染め上げる。
世界を満たす空気が冷える音が聞こえる。凍え震え温もりを求めた世界は、他者から容赦なく熱を奪っていく。
藍さんのふっくらとした唇から漏れる吐息の音が聞こえる。世界に熱を奪われた空気が、藍さんの温もりに触
れ白く染まる。
トクントクンと脈を打つ自分の鼓動が聞こえる。不思議と穏やかな僕の心情を映すかのように、それはとても
緩やかだ。
ふいに藍さんがこちらを振り向き、ばっちりと眼が合った。じろじろと彼女を見ていたのがばれたのだろうか?
いや、藍さんの表情は驚きを顕にしている。彼女も眼が合うとは思っていなかったのだろう。
多少の羞恥からか淡く頬を染め俯き、上目遣いに軽く睨んでくる藍さん。「ずっと顔を見ていたのか? ばか
もの」と責めるように。
僕は苦笑し、視線で「すみません」と謝罪した。すると拗ねるように藍さんはそっぽを向いた。……とても可
愛いらしい。
とはいえ本当に拗ねたわけではないようで、数秒するとゆっくりとこちらを向きなおしてくれた。今度は彼女
の意図で視線が絡む。
妖狐だからという訳ではないだろうが、少し吊り気味な藍さんの瞳。目尻に浮かぶ色気に酩酊しそうになる。
極上の宝石も斯くやという程に深く輝きを湛える彼女の瞳。見つめると意識が吸い込まれそうになる。
微動だにせず僕と視線を絡ませている彼女の瞳。それはまるで彼女の意識に触れるようで……。
今この時、絡んでいるのは視線だけではないのだろう。僕の意識に彼女の意識もまた、同様に絡み合っている
のだと思う。
こんな時が永遠に続けばいい――。
心の底からそう思えるのは、どれだけぶりのことだろうか。
しばらくの間僕と藍さんは二人、飽きることなく無言で見詰め合っていた。
「――さて、そろそろ朝食の準備をしようか」
俄に藍さんは視線を逸らすと、急くように立ち上がった。静寂の世界が一気に霧散する。
正直なところまだまだあの時間が続いてほしかったのだが、そういうわけには行かない。
僕にも藍さんにも、それぞれに仕事があるのだ。余韻に浸り、数秒遅れて「はい」と返事をした。
実に名残惜しかったのだけれど僕も立ち上がり、二人で台所に向かう。
その日から本格的に冬入りをしたのか、いつの間にか年を跨ぎ新年を迎えた今でも降雪は続いている。ここまで
続くと流石に楽しんでばかりも居られないもので、マヨヒガ唯一の男手である僕は毎朝の雪かきに追われること
となった。
紫様も初雪の日に霊夢のところへ挨拶に行き、帰ってきてからはずっと眠り続けている。
本当に一度も目を覚まさないのだ。傍目には美女にしか見えない女性が眠り続けている様は自然と
「眠り姫」という単語を髣髴とさせ、矢張り絵になるものだなと勝手に思っていたのだが、このことを藍さんに
言ってみたら「ハンッ」と鼻で笑われることと相成った。……この主従は本当に不思議な関係で結ばれていると
思う。
ともあれこの数ヶ月ほどは特に異変が起こるでもなく、仕事と言ったら毎朝の雪かき、それと週に一度くらいの
頻度で藍さんが行っている結界の点検に付き合う程度で、こう言っては何だが「師走は何処に行ったのだろう?
」と思う程、実に暇な日々が続いている。
何かしら仕事がないと落ち着かない性分の僕には些か辛い月日だったが、それでも暇な時間にじゃれ付いてくる
橙ちゃんが居るので退屈だけはすることは無かった。……まぁその度に藍さんの鋭い眼光に晒され、大いに神経
をすり減らすこととなったのだが。
そんな冬のとある夜に、ことは起こった。
今思えば兆候はあった。その日は藍さんの様子がおかしいことに気付けていたのだから。
早朝起き抜けに出会った藍さんはとてもソワソワと落ち着きが無く、僕がかけた挨拶にも漫ろに返すだけだった。
その時点で「あれ?」とは思っていたものの特に気にはしなかった。下世話なことだし、藍さんには口が裂けて
も言えないことだが、月のモノかと勝手に思い込んでしまったりもしていた。
それから一日中藍さんは挙動不審で、ぼーっと中空を見上げていたかと思うと突如顔を真っ赤にしてぶんぶんと
顔を振りだしたり、仕事の失敗で切ってしまった僕の指先から出た血をえもいわれぬ程艶やかな表情で舐めたり、
暇があれば構っていた筈の橙ちゃんを放置っておいたりもしていた。
そんな藍さんを見て橙ちゃんと二人で心配していたものだが、藍さんは何を聞いても「大丈夫だから……」と答
えるのみであった。
そう、僕は気付けていたのだ。藍さんの異常に、彼女の異変に。
藍さんには全幅の信頼を置いてしまっていることが災いしたのか、何の対処もとることが出来なかった僕はとて
も馬鹿である。
とはいえ何か対処法を取ったとして、この事態を回避できたかと言えばそうではないであろうが。
でも少しばかりは心構えが出来ていたことであろう。その心構えがどれだけ脆いものであったとしても、今現在、
この異変が起こってしまった現在、ここまで焦ることは無かったと思うのだ――。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――コンコン
四人の住人のうち三人が妖怪というこのマヨヒガは、そのイメージに似つかわしくなく家主の一名を除けば早寝
早起きがモットー、と言っても過言ではない程に健康的な生活習慣をいている。しかしその日は藍さんが何も注
意をしてこないことに気を良くした橙ちゃんが中々遊び相手から開放してはくれず、漸く寝かしつけたと思った
らもう結構な遅い時間になってしまっていた。
橙ちゃんの部屋を後にし、自分の部屋を目指して縁側を歩いていた僕。ふと空を見上げると、満月が夜空の頂上
で淡く輝いていた。
満月に気付けた、人間それだけで何となく嬉しくなってしまうものだ。思わず頬が緩み、暫く立ち止まり丸い丸
い夜の象徴を眺めていたそんな時、何処からか獣の鳴き声が聞こえた。
クオン、クオン、クォォォォオン――
短く、短く、そして長く。三度繰り返された不思議とよく通る鳴き声。それは自分の人生で聞いたことも無いよ
うな鳴き声であった。
その時は単に珍しいなと思った。マヨヒガで暮らし始めてから聞こえる獣の鳴き声なんて橙ちゃんが従えている(?)
猫くらいのもので、もしかしたら居るであろう狼や熊などの野生動物の鳴き声はおろか、必ず存在すると言って
いい妖怪の類の声も聞いた覚えが無いのだが。
クオン、クオン、クォォォォオン――
また聞こえた。大きさからするとこの声の主は結構な近くに居るのかもしれない。
しかし聞いているとなんとも、こう、切なくなるような鳴き声だ。哀願にも似た響きを持つその鳴き声は、
何故か誰かを求めているかのような雰囲気が感じられた。
勿論獣の言葉が分かるわけではない。分かるわけではないのだが……
クオン、クオン、クォォォォオン――
何となく後ろ髪を引かれるような後味の悪さを感じつつ、僕は自分の部屋に引っ込んだ。
床に入ってからしばらくして漸く眠気が全身を満たしてきた頃、廊下からヒタヒタと足音が聞こえた。
恐らくは藍さんだろう、食後は姿が見えなかったが、外に用事でもあったのだろうか?
居間や玄関から藍さんの部屋へ行くためには僕の部屋の前を通る必要がある。今までも藍さんが僕より
寝るのが遅くなった時などは、よくその足音が聞こえていた。
なんとなくその足音に耳を澄ましていると、突然その音が途切れた。この部屋の前でだ。
何か僕に用事があるのか、それとももしかしたら藍さんも満月に目を奪われて立ち止まっているのかもし
れない。僕が不思議に思っていると今度はスーッと襖が開かれる音がして、月光に照らされた一本の筋が
部屋に照らし出された。どうやらこの部屋の襖が開けられたようだ。
藍さんが、ノックをしなかった。これは驚愕に値する出来事である。誰よりも礼儀作法に煩い藍さんだ、自
らの日頃からの行いにもきちんと気を配っているのは周知の事実である。その藍さんが、深夜他人の部屋を
訪れる際にノックをしないなんてことがありえるであろうか? もしかしてこの人物は藍さんではなく紫様な
のか? そう考えたら辻褄が合う気がするが、その紫様はまだ冬眠中の筈。雪も降っている現在、起きてく
る何てことはありえるのだろうか。藍さんに聞いていた話だとあり得ないようなきがするのだが……。
纏まらない思考に耽っていると、どうやらその人物は僕の寝ている布団に近づいてきているようだ。廊下を
歩くのとは違う、畳の上を歩くペタペタという音がどんどん大きくなっている。
「○○……」
ふと良く透き通った声が聞こえた。非常に聞きなれた――藍さんの声だ。今度こそ間違いない、件の人物は
藍さんだと確定した。しかし普段とは違い彼女の声には多分に艶が含まれているような感じがして、そんな
声で自分の名前を呼ばれると妙な気分になってしまいそうだ。
「ら、藍さんですか。どうしました? こんな夜更けに」
その人物が藍さんだと言うことが分かり安心した僕は、上半身を起こし彼女に声をかけた。そして彼女の姿
を見上げるのだが……ここでまた僕は驚愕することになる。
幽鬼のように佇み僕を見下ろす藍さんは、なんと肌襦袢姿だった。
満月の生み出す淡く青い逆光に照らされた肌襦袢は透けて見え、弥が上にも彼女の流麗な身体のラインをは
っきりと認識させられてしまう。
最近は割りと無防備な姿を眼前に晒されドギマギとさせられていたのではあるが、ここまでの薄着姿を見る
のは流石に初めてである。
トサッ――と軽い音が聞こえた。
僕が思考を思い切り逸らして現実逃避をしている間に、藍さんは僕の上へと倒れこんできた。しな垂れるよ
うにして背を逸らし、僕の体の両横に両手をついて、息が掛かるほどに顔を接近させてくる藍さん。こんな
にも近くで目を見詰め合うのは初めてではなかろうか、いつだったかの初雪の日、縁側で見詰め合ったとき
でさえこんな距離には無かったのだ。あの時ですら羞恥に顔から火を噴きそうだったというのに、今日はも
う睫の本数すら数えられそうな距離である。今度は顔から火砕流でも出せばいいというのか。
顔面に全身の血液が集まったような錯覚すら受ける。おでこで熱を測られたら容赦なく寝かしつけられるの
ではないかと思う程発熱してはいまいか。
「いつだったか」突然藍さんが喋り始めた。
「狐の鳴き声のことを聞かれたわよね?」
初雪の頃だったかしら? と彼女は誰に尋ねるでもなく呟いた。
狐の鳴き声。確かに聞いた覚えはあるが、自分の羞恥を誤魔化すための適当な問いであった。特に本心から
知りたいと思って尋ねた問いではなかった筈なのだが。
「はい、丁度初雪の朝でした。もしかしてずっと覚えていてくれたのですか?」と尋ねる僕。
「……えぇ、ずっと、ずっと心に引っかかっていたわ。貴方が尋ねてくれたこと、私が答えられなかったこ
と」
僕の眼を真っ直ぐ見つめながら吐かれた言葉は熱に浮かされたかのように熱く熱く感じられる。一言一言ご
とに、彼女の息が顔にかかる。その息はとても浅く、まるで風邪でも患っているかのようだ。
風邪、そうかもしれないと僕は思った。改めて藍さんの美しく均整の取れた顔を見てみると――暗がりなの
であまりよくは見えないが――その頬は赤く染まっているように見える。
「藍さん、体調が優れないのですか? 」
急に不安になる。普段マヨヒガの業務をほぼ一人で行っている藍さんだ、知らず疲労が溜まっていたのかも
しれない。
「そうね……胸が裂けてしまいそうだわ……」
その柳眉を軽く寄せて自嘲するように呟く藍さん。それでも瞳は逸らさぬままだ。
今気付いたのだが彼女の口調が砕けている。ということは彼女は焦っているのか? だとしたら一体何に?
「……狐の鳴き声、聴かせてあげる――」
そう言い藍さんは僕に圧し掛かったまま背をググッと逸らし顔を上げ、まるで狼が遠吠えをするかのような
体勢となった。
そうして聞こえた彼女(狐)の鳴き声は――
――クォン
一度。
――クォン
二度。
――クォォォォオン……
三度。
短く、短く、そして長く。三度繰り返された不思議とよく通るその鳴き声。
部屋一杯に反響し、世界を一瞬静止させる、どこか切ないその鳴き声。
それは紛れも無く先程縁側で聞こえた、見知らぬ筈の獣の鳴き声だった。
――さっきのは藍さんの鳴き声だったんですね。
ふと、頬に冷たい感触がした。視界の端から伸びている藍さんの腕が見える。いつの間にか顔を下ろしていた
藍さんは、再びその顔を接近させ、何故か僕の頬を撫でるのだった。
熱い吐息とは対照的に冷たい手で、壊れ物を扱うかのように優しく僕の頬を撫でる藍さん。手が冷たい人は心
が優しいという俗説が頭をよぎるが、今ならばその説を強く肯定できるなと思う。
――クォォォォン……
今度は僕の瞳を見つめたまま、長めに一度だけ鳴いた。いつもはパチリと開けられている彼女の大きな瞳も今
は細められており、そして潤んでいる。その表情はとても切なげで、僕に何かを訴えているかのようだ。彼女
は僕に何を伝えたいというのだろうか? 鈍くなる思考で考えてみるが、何も浮かびはしない。
そんな僕の様子に焦れたのか、藍さんは不満げに眉を顰め、僕の胸に擦り寄るように抱きついてきた。勿論僕
は焦った。体重をかけていた腕から力が抜け、藍さんを上に乗せたまま仰向けに倒れこんでしまった。しかし
藍さんには全く焦った様子は無く、むしろ嬉しそうに目を閉じて僕の胸板に頬を擦り付けてきた。思考が停止
し、身体が硬直する。
「――今のが狐の鳴き声……○○は初めて聞くのよね?」
「え、えぇ、確かに初めてです。……とても綺麗な声でした」
「ふふふ……ありがとう。そう、初めて、本当に初めてなのね、嬉しいわ。……というよりは、そうでなくち
ゃ嫌だったのだけれど」
僕が初めて鳴き声を聞くのが嬉しい? 藍さんが不思議なことを言った。
鳴き声なんてそれこそ偶然聞くしかないと思うのだが、何か僕に聞かれてはまずいことでもあるのだろうか。
「あの、良く分からないのですが、何か僕が狐の鳴き声を聞いていたらまずいことでもあったのでしょうか?」
「そうね……聞いていたとしたら、大問題だわ」
藍さんに大問題とまで言わせる何かがそこにはあるらしい。少し驚いている僕を無視する形で藍さんは言葉を
続ける。
「紫様も言っていたけれど、狐がちゃんと鳴くのは年に一度なの。それが今……発情期よ」
「はつっ!?」
「……何度も言わせないでほしいな」
恥ずかしそうに顔と狐耳を伏せながら言う藍さん。ぴくぴくと時々耳が震えているのは、羞恥に耐えているから
なのだろうか。……すごく、かわいい。
「とにかく、狐がこの声で鳴くのは年に一度のこの時期だけ。――狐の鳴き声は、求愛の声なの」
「求愛……」
なるほど、と納得する僕。狐が求愛のときにしか鳴かないというのであれば、僕がその鳴き声を聞いたことが無
いというのも頷ける話だ。……聞いたことが、ない?
ハッとして藍さんの方へ視線を向けると、顔を伏せていた筈の彼女と眼があった。いつの間にか顔を上げ、僕の
顔を見つめていたようだ。
そうして藍さんは僕の瞳を真っ直ぐ見据えたまま――
――クォン
一度。
――クォン
二度。
――クォォォォオン……
三度。
――三度、鳴いた。
それは紛れも無い、どんな言葉よりも雄弁な――
「藍……さん……」
呆然と彼女の名を呟いてしまう。これは夢なのではないだろうか? 毎夜のように始終都合の良い展開が繰り広げら
れる夢――その中では僕と藍さんは恋人同士なのだ。
朝起きて目に入る藍さんの寝顔に黙ってキスをすると、彼女は静かに眼を覚ます。寝ぼけ眼の藍さんはうとうとし
ながらも僕に抱きついて再度のキスを強請ってきてくれる。そんな彼女に勿論僕は喜んでその日二度目のキスをす
るのだ。
台所に並んで彼女と朝食を作る。割烹着を着込んだ藍さんはその見た目通りに家庭的で、家事が大得意だ。微笑を
浮かべ鼻歌を歌いながら、機嫌よく料理する手を動かしている藍さん。味見と言いながら摘み食いをしようとする
僕の手を軽く咎めるようにはたき、頬を小さく膨らまして可愛く睨んでくるのだ。
昼になり藍さんと二人人里へ出かける。夕食の買出しを済ませると、そこから軽くウィンドウショッピングをする。
流行の洋服を体の前にあわせ感想を聞いてくる藍さん。どんな美しい装飾が施された衣装であろうと、彼女に着て
もらうためだけに誂えたかのようにぴたりと似合う。「とてもよく似合いますよ」と決まり文句の、しかし心から
の感想を述べると、藍さんは「いつもそればかりだな」と困ったように、それでも少し嬉しそうにはにかむ。
夕食を終え、風呂に入り、縁側で二人きりで月を見上げる。寄せ合う肩から藍さんの体温が伝わってきて深い安心
感が得られる。僕が横に顔を向けると、不思議と彼女もこちらを見つめてくれる。そんな時言葉は要らず、静かに
彼女と唇を交わす。
そして深夜、二人で寝床に入り――
そんな夢が、僕の夢が具現化したかのような今の状況。現実感が欠片も感じられない現状は、なんと紛れも無い現
実なのである。
僕に圧し掛かる藍さん。近づく顔。切なそうな表情。その全てがある事実を如実に物語っている。
嗚呼、僕はなんと馬鹿なのであろうか。彼女はこんなにも雄弁にその感情を語ってきてくれているではないか。だ
としたら今、僕の目の前で不安そうに沈黙している彼女は、その返事を待ってくれているのではないか? 僕の応え
を待ち望んでいてくれるのではないか? だとしたら、僕が今から取れる行動は、今から吐ける言葉は、たった一つ
ではないか。
「――藍さん」
僕は決意を込めて再度彼女の名前を呼んだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――貴女を、愛しています。
その後藍さんがどのような反応を返してくれたのか、そして何があったのか、それは僕と藍さんだけの――紫様あた
りは知っていてもおかしくはないが――秘密だ。
しかしこれだけは言える。あの晩にあった出来事は、僕の未だ短いと言える今までの人生の中でも、いや、これから
の人生の中でもきっと、最良の、最高の出来事であったのだ。
――好きです コンコン。
――あなたを コンコン。
それは繰り返し繰り返し積み重ねられる、懇々(こんこん)とした愛の言葉。
(了)
本スレで「発情期」とか見掛けたのでジェバンニってみました。なので文章が色々とおかしいかもですがその辺は
多めに見ていただきたいなー、なんて。
さて、皆様狐の鳴き声を聞いたことはありますか?
私は生では聞いたことがありません。ネットの動画オンリーです。可愛いですよ、コンコン。
実際「コンコン」って感じではないのですが、それにしたって可愛いですので、皆様も探して聞いてみるといいの
ですよ。
作中で描写した「狐は発情期しか鳴かない」とか言うのは、お察しのとおり出鱈目ですので信じちゃ駄目です。話
を盛り上げるための改変です。
ああそれにしても藍様に色っぽく迫られたらどれだけ幸せなことでしょうか。
ら、らんしゃまあああああああああああ!!!コンコン!!!
……げふんげふん。落ち着きましょう。
さてさて結構無理してジェバンニってみたので正直そろそろ体力の限界です。
読んで下さったイチャスレの兄弟達に最大の感謝を!
それじゃあ私は昏々(こんこん)と眠らせていただきます。なんつって。どっとはらい。
新ろだ2-091
気がついた時にはびっくりした…俺はそれほどまでにあの人を愛してしまったんだ…
訳もわからぬ場所で襲われた俺を助けてくれたときの顔
ここがどこか至極丁寧に教えてくれたときの顔
人里まで送り届けてくれたときの顔
俺の見つけた職場に足を運んできてくれたときの顔
ちょっとサービスしたら嬉しそうにありがとうといった顔
透きとおってとして、堅実そうな声
他の者を心配するときの温かみのある声
俺のことをわがことのように喜んでくれる声
心底うれしそうに弾む少女の声
「あなたは、藍に強く影響を与えすぎたわ」
幾度となく雑談を交えた
そのたびに、俺の話に一喜一憂する
その姿が愛おしい
幾度となく顔を合わせた
そのたびにおれに挨拶をしてきて、俺も挨拶を返す
その時間が愛おしい
幾度となくその尻尾に触れた
俺から触っていいかといったこともあって、向こうから寄せてきたこともある
その時間が愛おしい
「貴方に二つの選択肢を上げるわ」
気づいたんだ、俺がその人をとんでもなく愛していることに
あの人の為なら俺は死ねる
あの人を傷つける奴がいたらそいつを俺がぶっ殺してやる
あの人がなく姿は見たくない
あの人のすべてを知りたい
藍さんを俺は愛していた
「自分を捨てて藍への愛を伝えたら、その結果がどうあれここに残っていい
伝えるのが怖いなら、外に返すわ」
それはまさに俺の人生を決める選択
愛を伝えて答えてくれればそれはとてつもないハッピーエンド
それを彼女がこたえなければそれはとてつもないバッドエンンド
愛を伝えなければおれは一生後悔する…
それはまさに俺の人生を決める選択
黒か白か
右か左か
上か下か
灰色も斜めもありはしない
あの人のことが愛おしくて、好きで好きでたまらなくて、でも怖い
これじゃあ恋におびえた乙女のようだ…そんな柄じゃないけど
藍さんは美しい
女性にしては短くそろえた柔らかな金色の髪
少女のような純粋さと、大人の色気を含んだ端正な顔
やわらかな尻尾
そして…何よりもあの人の心が美しかった
「答えは決めたかしら?」
「はい…紫さん、藍さんは今、どこにいますか?」
「藍は今、私の命で人里のちょっと外れ、なかなか誰も来ないところにいるわ」
「…紫さん、今度とびっきりの特上の酒をおごりますよ」
「じゃあその時は、藍と橙も交えて一緒に飲みましょうね」
紫さんも存外いい女だった
「む、○○…どうしたんだ?こんなところに…」
「紫さんが教えてくださいました、ここにいると…」
「そうか…私に何か、用事か?」
「ええ、すごく大事な用事があるんです」
風邪が俺のほおをなでた
心臓が信じられないほど早く脈打つ
ポケットに手を入れた
「藍さん…まずは、これ受け取ってほしいんです」
「ん?ああ…」
そう言って藍さんは、木彫りの箱を受け取ってくれた
「中を、見てください」
「ああ…失礼…これは…!!」
俺が渡したものは黄金色のネックレスだった
受け取った藍さんは、うれしそうにほほ笑んでくれた
「高価な物のようだが…受け取って、いいのか?」
「ええ、藍さんに、受け取ってほしいんです」
「あやややや、これは記事にしない手は…」
「出刃亀根性もほどほどになさいな」
「あややや!!あーーーーれーーーーーー……」
「私に、受け取ってほしぃ…?」
「はい…藍さん、次に、聞いてほしいことがあるんです…」
藍さんの顔が少し赤に染まった・…ここまできたら覚悟を決めろ…ああ、心臓が爆発しそうだ
「藍さん…おれは…」
「…」
「貴方のことを愛しています、初めて見たときから、あなたのことが…大好きでした」
言った、確かにおれは言い切った…
「…○○…」
藍さんの顔が一気に真っ赤に染まった
そして、その尻尾をフルフルと振りながらこっちにゆっくり歩み寄ってきた
「おー、これは珍しい光景だなー…」
「貴方に盗める光景ではないわ、見せるのも惜しいもの」
「そりゃないぜ―…」
「○○、その…私も…お前のことが…」
藍さんは俺に抱きついてきて…
「好きだ…」
耳元でぼそっとその声が聞こえた
気がついた時にはびっくりした…あの人ははこれほどまでに俺を愛してしまったんだ…
新ろだ2-147
○○「ねぇ藍様」
マヨヒガの台所に立ち、横の八雲藍に声をかける。
藍「どうした?○○。何か足りない食材でもあったか?」
○○「いや、それは大丈夫です」
○○も藍もお互いに顔をお互いの方には向けず黙々と今夜の夕食の準備をしている。
台所には包丁が野菜を切る音と煮物を煮込む音がこだまする。
そんな中、居候の○○はこう切り出したのだった。
○○「俺と結婚してくれませんか?」
藍「あぁ、私もちょうどそう思っていたとこだ」
○○「なんだ。お互いにお互いのこと思ってたんですね」
藍「ふふ、不思議なものだな」
そういって○○の首に手をまわした藍はゆっくりと○○の唇を塞ごうとすると・・・
橙「藍さまー。○○ー何やってるんですか?」
台所に橙がやってきて首をかしげながら二人を見つめる。
○○と藍は慌てて離れるが橙は何か勘違いしたらしくうれしそうに○○と藍に抱きつく。
藍は料理中だから危ないを言っても聞かずに抱きついたままだった。
○○「やれやれ。結婚する前から子供いて大変だな」
藍「○○は嫌か?」
○○は首を横に振ると軽くキスをする。
藍は驚くような顔を浮かべたが微笑んで橙の頭をなでる。
○○もそれにつられて頬笑みを浮かべた。
今日もマヨイガは平和であった。
紫「ねぇ~ご飯マダー」
○○、藍「あ」
紫「橙が子供なら私はどうなるのかしら?」
もちろん藍のお母さ(作者はスキマ送りに(ry
最終更新:2010年10月15日 22:40