藍10
───────
うpろだ0053


 これは多分、夢だということに気がついている。しかし、それを頭の中でどこか現実じゃないかって考えてもいる。
 現実のような夢、夢のような現実。どっちが本当で嘘なのか、その答えはどこにあるのだろうか。
 醒めればそれは夢、醒めなければそれは現実か。じゃあ醒めた先が現実だ、という保証はどこにある?
 ここが現実です。ここが夢です。そんなプラカードでも掲げてくれれば大助かりだろう。
 でも今ある場所が何処かは、誰も教えてはくれなかった。

 だから目の前にいる誰かも、本当か嘘かなんて分からない。
 


 「……………」


 
 何も言わないで、こちらを見続ける彼女。それが誰なのかは全く知らない。けれど、それでも分かることはある。

 ――――美人。一般的な美的センスを持ち合わせているならば、誰しもが首を縦に振るくらいに。
 ポンと目の前に現れたならば、世の男共がきっと黙っていない。彼女を追い求める奴らが出てくるだろう。
 魔性の女。そう例えたほうがいいか。今まで生きてきた中で、間違いなく彼女がトップに躍り出る。
 

 しかし、それは人ではない。中華服で身を纏おうとも、その事実は変わらない。
 背中の向こうから見える、ふさふさとした揺れる尾。扇のように広がっているそれは、一本ではなく九本ある。
 恐らく被り物で隠されている頭も、きっと人ならぬモノがついているはずだろうと予想がつく。 
 そして何より、肩口にまで切り揃えられた髪、それと同じ色をした金色の目。縦長に伸びたその瞳孔は、まるで………いや、正に獣の目だ。

 言うなれば狐。数々のお話にも登場し、未だ人気が衰えることはなく、誰もが知って当たり前なモノ。
 時に崇められ、時に恐れられ、時に人を騙し、時に人を愛した。その種類、内容は様々で、一言で語りきれるような単純なものとは程遠い。
 中でも九本の尾を持つ狐、とくれば思い浮かぶのは、白面金毛九尾の狐。狐の中でも最も強いとされる、妖怪。


 目の前の彼女は、人に非ず。
 
 

 「――――――――」
 

 
 目の前の彼女は何かを言っているようだが、残念ながら何も聞こえない。
 周りには何もない、そんな世界で俺と彼女だけ。逃げ場も無ければ、隠れる場所もない。
 美女と二人きりだと言えば聞こえはいいが、逆に何が起ころうと当人達次第という裏返しでもある。
 どちらが主導権を握るに値するか。そんなことは考えるまでもないことで、俺を生かすも殺すも彼女次第だ。
 
 ただ、じっと見つめるその瞳には、何故か恐怖を感じなかった。
 獣が獲物を捕捉する目つきではなく、不思議なものを見つめるようなその顔は、俺に向けられていた。
 こうして美人とお近づきになる機会が目の前にあるのだ、そして相手はこちらに興味を持っている。そう思うと悪い気はしなかった。
 彼女は声が響かないことに気がついたのか、少し困ったような顔をしていた。

 だから、俺はそんな彼女に向かって、手を上げてみることにした。
 意味があるのかは知らないけれど、声の届かないこの場所で、意思表示できる手段がそれしか思いつかない。
 ずっと見ているのが本当に俺なのか。確かめる意味も込めてだった。


 
 「――――――――――!」


 
 俺の反応に驚いたのか、体を少し強張らせた。何の反応も無かったのに、いきなり反応が来たことをどう思っているのだろうか。
 そんな些細なことでさえも、今の俺には知ることすら出来ないのだ。
 
 しかし、そんな時間にも終わりが来たらしい。
 徐々に彼女の姿が遠くなっていく。周りの景色が急速に色褪せていく。おぼろげな輪郭を残しながら、消えていく。
 

 
 「――――――――――」

 
 
 最後に、また彼女が口を開こうとしている姿を見つめながら。
 意識が溶けていくように無くなっていくのを実感しながら、最後まで彼女を見続けた。




 ――――――――――狐は、いたんだ。じゃあ、やっぱり俺は――――――――――。












 「………………夢か」


 薄暗いとはまた違う、ほぼ一色で統一された黒が目の前にあった。
 だが、それは完全な暗闇ではない。僅かながらでも、そこらに鎮座しているモノの形は分かるくらいだ。
 しかし、いつも見慣れたレイアウトではない。はて、こんな配置だっただろうか。

 そうしてふと見上げたガラスの向こう、そこから見える光、それが輝きながら黒い空に浮かんでいた。
 幾多にも及ぶそれらは、今ここでしか見ることのできないモノたち。人の作った光ではなく、自然が作り出したモノ。
 昔は当たり前のようにあったのに、今では空を見上げても見ることは出来なくなったモノ。
 帰って来たんだ、と寝ぼけ気味の頭で理解し始めた。

 

 「………………んっ」
 
 
 
 ベッドから起き上がり、もう一度よく辺りを凝らして見てみる。
 やけに綺麗すぎる机、その傍に転がったままになったバック、枯れ木みたいに何もない木製の服掛け。
 半開きになったままの押入れ。そこには僅かな物品があるだけだ。

 そんな寂しい部屋から出て、居間に繋がる廊下へと歩いていく。
 途中にある電球のスイッチを押すことなく、明かりもないままで真っ直ぐ前へと進んでいった。
 そうして辿り着いた先、左にあるキッチンに沿っていきながら、目的の場所へと辿り着く。
 久しぶりだったけれど、体は覚えていたようだ。そんなことを思いながら、目の前の生活家電の取っ手に手を付けた。



 「…………マジか、何もない」


 
 開いた先にある棚には、調味料の類はある。しかし、それらはすべて保存の利くものばかりだ。
 ドアポケットを覗いてみても、空になったペットボトルが入っているだけ。
 ここに来る前に減らしに減らした中身と同じだなと、ほとんど空になった冷蔵庫の前で立ち尽くしながら思う。
 その下の野菜室、冷凍庫にも手を付けてみるが、やはり同じようなことになっていた。

 ゴクリと唾を呑みこんでみるが、それでは何の足しにもならない。
 喉が渇いたのに、何で冷蔵庫には何も無いんだ。



 「………はぁ」


 
 仕方ないか。そう思いながら、再び来た道を戻る。今度はスイッチをオンにして、誰もいない廊下を歩いた。

 戻った先、机に置かれたモノを拾う。
 蛇の素材から出来た、二つ折りの財布。その小銭入れの中身を一目見て、すぐにまた閉じた。
 枕元にある、輪で繋がった鍵の束と共にポケットへと突っ込むと、買ったばかりで使い慣れない携帯電話を触る。
 デフォルトの壁紙と共に映る今日の日付、現在の時刻を確認する。

 
 ―――――――――草木も眠る丑三つ時。化物や妖怪が動き出す、今がその時間。

 
 けれど、すぐに画面を消して、財布たちと同じようにポケットへとねじ込んだ。
 俺は喉が渇いたんだ。自分の欲求に思うがまま、部屋から飛び出した。  
 
 
   
 
 
 
 
 
 




 
 三色あるくせに、一色しか点灯を繰り返さない信号機を越えた。
 碌に明かりもない夜の道、覚えている限りの記憶を頼りにして、白線すら引かれていないアスファルトを歩いていく。
 周りには何処を見渡しても田んぼしかなくて、聞こえるのは蛙が泣く音だけしかない。


 世間一般的に言うなら、ここは田舎である。
 山に囲まれた盆地、春夏秋冬が感じられる地域。古くから残る建物やらが残り、豪華絢爛な祭りは、屋台が多く出現する。
 歴史と伝統ある町と謳われてもいる。観光地としてはこれ以上ない魅力を秘めた、そんな場所だ。

 落ち着いて暮らすにはいい場所、でも若者が暮らすにはとても退屈な場所でもある。
 公共交通機関であるバスは一時間に一本。電車なんて主要な駅以外は無人だし、娯楽施設はほとんどない。 
 大型スーパーは車で行くのが当たり前、というか車が無ければ何もできないに等しい所だ。
 無駄に土地は余っているから、私有地で勝手に走り回っているなんてこともあるくらい。それくらい何も無い場所だ。


 だから、今もこうして十分以上かけて自販機まで歩いてきたわけだ。
 


 「―――売り切れ?」


 
 白い光に呼び寄せられて張り付いた蛾、その下にあるボタンは赤いランプを灯している。
 その隣も、その隣も、その隣も同じ。三列あるうちの上段一列はほぼ全滅に近い有様だった。 
 定期的にちゃんと補充しているのか、コレ?―――そんなことを考えつつ、未だ売り切れになっていないボタンを押した。

 

 「ちゃんと入れ替えろよな…………」



 そういえば、ここにはよく来たなぁと、少し昔のことを思い出す。
 別にそんなに遠い昔でもないのに、どこか感傷に浸ってしまうのは、一人で都会に暮らすようになったからだろうか。

 縦に伸びたコンクリートの建物。道行く人たちはスーツを着た人ばかりで、それがわんさかといる。
 部屋から出てすぐにコンビニはあるし、二十四時間の店だって探せば見つかるし、外灯も沢山あって、暗くて困ることもない。
 でも、排気ガスとスモッグに覆われた空気は汚い。水は飲めたものじゃないし、何をするにも何かと金のかかることばかりだ。
 殆どが変わってしまったことばかりで、日々それに適応するのに必死で、気がつけばもうとっくに夏になっていたこともある。
 でも今は、何も思うことなんてない。違いについて一々気にすることもなく、普通に暮らしている。

 きっと、ここに戻ることなく都会で暮らしていくんだろうな。乾いた喉を潤しながら、もう何度考えた分からないことを再び考え始めた。
 ただ、もう少し何か面白いことでも起こってくれないものかね、とそんなことも願っている。






 ――――――――――そうだ、あの夢に出てきた狐のような女性がいたら―――――――――――――。
 






 「―――――――?」


 
 その最中、突然何かが現れた気がした。
 ―――何だこの感じは。何処かで俺はこれを知っているような気がする。何処かで覚えている気がする。
 でも、振り返ったら最後だ。頭の中でそんな危険信号が響く。駄目だ、決して見てはいけないものだと、予感にも似た考えが支配する。
 
 しかし、どこかで見たいと思う自分がいた。理由もないのに、その正体を確かめければいけないと。
 ………見るんだ、俺は振り向くんだ。嫌ってくらい聞こえる鼓動を胸にして、恐れる心に目を瞑って、覚悟を決めた。  




 そして、そこに、いたのは。
 


 
 「――――あ」

 「………ん?」
 
 

 九尾の狐。
 あの夢で見た、その姿そのままで。今、目の前に立っている。


 
 「………あなたは――――」

 「………お前は―――――」



 言葉が出たのは当然のこと。そして、それは向こうも同じこと。
 少しのズレもなく唐突に始まったのは、単なる偶然か。 


 
 「誰です?」

 「誰だ?」


 
 問いかけも同じだったのは、本当に偶然だったのか?
 今はまだ、知ることは出来ない。






 

 


 



 「―――――――――う……ん」


 
 溶けた意識が、映像を巻き戻すように元通りになっていく。バラバラになっていたものが、また再び一つになるかの如く。
 積み重ねるかのように、出来あがったモノ。それをもう一度よく見て、どうやって出来たかを再確認する。
 その集合体の中で、色濃く残ったのは昨日のこと。朝一で出発して、バスに揺られながら実家に帰ってきたという事実。
 疲れて眠ってしまってそのまま―――――――――そのまま?



 その、後は、どう、なった?



 覆いかぶさった布団を跳ね除けて、上体を素早く起こして飛び上がる。


 
 「………っ!」


 
 ―――――辺りを見回せば始めて見る景色。知らない天井どころの騒ぎじゃない、何だこの場所は。
 確かに実家には和室もある、だがこんなに立派じゃない。こんなだだっ広い場所になど、招待された覚えはない。
 じゃあ、一体誰がここに俺を呼び寄せたのか。それを探すために、目の前にあった襖を思い切り開いた。

 

 「………朝から騒がしいですね」

 「そう?元気でいいじゃない」
 


 開いた先の向こう。得体の知れない誰かが、座ってこちらを見ていた。
 太極図をあしらった、道士服を身に纏う金髪の女性は笑い。中華風にアレンジされた服を着た、九尾の狐の女性は目を細めている。

 ――――――――その姿を見て、ようやく本当に何があったのかを思い出した。












 『誰です?』

 『誰だ?』

 

 対峙しているのは、あの夢で見た彼女。それは今、目の前にこうして立っている。
 現実か夢か。そんな考えがもう一度頭の中をよぎっていった。



 『………いや、違うな。お前、どこかで私に会ったことはあるか?』

 『………え、いや…………その』



 先ほどの言葉を否定して、再び彼女は俺に問いかけてきた。
 分からないことだらけなのに、当事者なのに取り残された気分。だが、誰もその答えを知らない。教えてはくれない。
 困惑する他はない。あまりにも突然の出来事に、たじろいでしまっている自分がいた。
 


 『………んん?』

 
 
 眉間に少し皺を作り、少し距離を詰めてくる彼女。首を伸ばし、身を乗り出してこちらを見つめ始めた。
 思わず後ずさりしてしまう。会ったのが二度目だとしても、名前さえ知らない相手に接近されるとは思いもしない。
 反射的に出たそれを抑えられないままだったが、彼女は構わずそのまま俺を見続けた。


 
 『………お前は…………いや、そんなはずがあるわけがないか』



 しかし、その後に突然悩み出し始めた。全くもって一連の流れの意味が分からない。
 何を悩んでいるのか。想像もつかないことばかりで、ただただ時間が過ぎていくばかりだった。
 だから、何も進まない出来事を終わらせるために、彼女に向かって俺も問いかける。



 『あの、何の話ですか?』 

 『ああいや、こっちの話だ……………いや!それよりもだ!』


 
 勝手に納得された揚句、今度は俺に向かって声を荒げ始めた。目まぐるしく変化する今についていけない。
 次は何だ、もう何を言われても気にしないほうがいいのか?そんなことを考え始めた。
 
 

 『何故、お前はここにいる!どうやってここに来た!』

 『そう言われても………普通に歩いて』

 『普通に!?』

 
 
 ――――ただ、その考えは虚しく打ち砕かれるなどとは、誰が思いつくのか。


 
 『ただの人間が、この場所に来るはずがないだろう!』

 『いやいや、何を可笑しなことを………』


 
 辺りを見回す。そりゃあずっと見てきた、ずっと育ってきた場所が――――――――――――ない。


 

 『は?……………え?…………ど、どうなって………』



 何処だ、何だ此処は。どうして知らない場所に立っている? 隣にあった自販機はどうなった?
 何もかもが夢みたいに無くなって、始めからそこに無かったみたいに、嘘みたいな現実が目の前にある。
 
 彼女の奥に見えるのは、やけに立派な建物。ただそれは、現代における建築物とは大きく一線を画している。
 史跡として大切に残されてきた場所。俺みたいな一般人が、易々と立ち入ることが許されないような所。
 ずっとそういうモノを見てきたから分かることだ。ここは、唯一存在する陣屋と同じ。文化財と見て違わない。
 そんな場所にどうして、今ここにいるんだ? 例え冗談だとしても、あまりにも性質が悪い。

 

 『気がついてなかったのか?』

 『………えっと…………はい』

 『そうか………』


 
 素直に答えると、彼女は困った顔をしてしまった。なんだ、何が起こったっていうんだ?
 異世界入りか?タイムスリップか?それともまだ夢を見ているだけなのか?それとも、今までのことは全部夢だったのか?
 
 ………いや、落ち着こう。今ある状況を、とりあえず受け入れることから始めよう。
 俺はジュースを買いに来た。そしたら夢に出てきた人………じゃなくて妖怪が振り返ったらいた。
 そして、今は全く知らない場所にいる…………いや、やっぱり意味が分からない。
 同じようにして佇んでいる彼女も、きっと俺の登場に頭を悩ませているのだろう。
 誰だっていきなり"ただの人間が、この場所に来るはずがないだろう"って言うくらいの場所に現れたら――――――。
 
 …………来るはずがない場所?人間が来るべきじゃない。つまり?



 『あの……すみません。此処は、この場所は一体―――――――』


 『―――――――そのことについては、私が説明しましょう』
  
 
 
 目を瞬いたその時、また突然誰かが現れた。もう、何が何なのか分からない。何を信じればいいのか分からない。
 夢なら早く目覚めてくれ、それしか願うことなんてない。



 『………うわ!………な、何ですか』

 『あら……ふふ。久しぶりに人間らしい反応をしてくれたわね、嬉しいわ』


 
 全く脈絡のない登場の仕方に驚くが、逆に彼女はそれを喜んでいた。
 常識が完全にストライキでも起こしたのか?さらに混沌を増すこの場に置いて、まともなのは俺だけだ。

  

 『その反応に免じて答えてあげましょう、此処は―――――――』


 
 故に、その答えが間違っていなかったとは、気がつきたくはなかったが。

 

 『幻想郷よ』

 
 
 常識の向こうにある非常識、その向こうへと辿り着いたなどとは。

 










 「あ………えっと」
 


 勇みながら襖を開いたはずなのに、毒気を抜かれてしまった。おかげで、何を言おうかすらも思いつかない有様だ。
 昨日いきなり世界が変わって、しかもそれは夢じゃなかった。右も左も分からない場所へとやってきてしまった。
 ずっと続いていくものだと信じていたモノが、一瞬にして切り替わる。到底、認める気にはなれそうもない。
 だが、それは確かに目の前にある。今が現実であって、どう足掻いたところで何も変わらないのだと。


 
 「別に取って喰ったりはしないわよ」

 「紫様、そう思うのも無理はないかと」

  
 
 紛れもない答えは、見ている先にある。それこそが何よりの証明。
 現実はいつも残酷だ、認めがたくもある。だが、それが現実というものだ。
 


 「妖怪に対する人間の反応は、これが当たり前です」

 「……そうね、最近そんな人間がいないから麻痺していたわ」



 目の前の女性は妖怪だ。人ではない何か、人の形こそすれど、内に秘めたモノは全く異なっている。
 触れ得ざるモノ。人々が噂し、遠ざけ、恐れた。そんな奴らが、俺を見て喋っている。
 ………正直なことを言えば、いつも通りではいられない。

 

 「どうしたの?立ってないで座りなさいな」

 「あ、はい」


 だが、そうも言っていられない。今は出来ることをするしかない。
 中華服を着た女性の指示に従って、近くにあった座布団の上に座ることにする。 
 どうやって座ろうか迷ったものだが、ここはあえて正座にすることを選んだ。



 「足を崩しても構わないわよ」

 「………そうですか?」

 「ええ、これから話は長くなるかもしれないもの。楽にして頂戴」


 
 そう促されて、その通りに胡坐に足を組み替えた。
 正直な話、正座など現代を生きる人々には滅多にやらないものだ。結構有難いことではある。
 とはいえども、その程度では心が晴れるわけでもないのだが。



 「さて、本題に入りましょう。あなたも知りたいことが山ほどあるでしょう?」

 「………ですね。分からないことだらけで、今もその通りです」

 「正直ね、嫌いじゃないわよ」

 

 今から起こることに比べれば、どんなものだって霞んでいく。
 信じて疑うことはない。ここが正念場だと、心の底から思っているのだから。
 


 「お互いの自己紹介、今ここが何処か。昨日の夜を覚えていれば、説明はいらないわよね?」
 
 「はい――――紫さん」

 「よろしい」

 

 俺の回答に満足そうに答えた紫さん。流石に二度手間になるのは、面倒だからだろう。
 
 俺と喋っているのは、幻想郷の管理者―――――八雲紫。その横でじっと話を聞いたままなのは、式神――――八雲藍。 
 この国の何処かの山奥に存在する、結界で隔絶された場所。人ならざるモノ、幻想となったモノが住まう土地。
 常識と非常識を分け、その非常識の内側にある世界。幻想を否定する力、それを利用して成り立っている。
 ただ、時として人間が迷い込むことはあるらしい。そして、俺もその一人だというのが………昨日までの話だ。
 今日は、その続きについてが始まる。それ以外の全て、これからについて。

 

 「結論から言いましょう。あなたをすぐに外に帰すことは出来ないわ」

 「…………何故、です?」

 「いろいろと問題が発生する――――いえ、しているのよ。いろいろと、ね」

 

 昨日の時点で多少予想はしていた。"帰る手段はある"と聞いて喜んだが、紫さんは"帰しましょう"とは言わなかった。
 その時は頭が一杯で何も考えられなかったことは確かだし、それ以上のことについて何も思いもしなかったんだ。
 だけど、寝ている直前になって気付いた。あえてそこで話を止めたのは――――ひょっとしたら、なんて。
 
 

 「ただ、帰すことは約束しましょう。事が終わり次第、ということになるけれどね」

 「………本当ですか!」

 「ええ。ただ、もう一つ。あなたがどうやってここに辿り着いたのか、それを聞いてからになるわ」 

 「なら話しましょう。それで手を打ってくれるなら、いくらでも喋ります」

 「ご協力、感謝するわ」

 

 その言葉を聞いて活力が溢れてくる。希望の光が見えた。元通りの場所に戻れるというのなら、こんなに嬉しいことはない。
 俺がここに辿り着いた理由なんていくらでも話そう。それで済むのなら安い話だ。
  
 














 「というのが、これまでのことです。以上です」

 「なるほど。あなたは藍を夢で見て、そして外に出たら藍に会った。気がつけば、此処にいた―――――そういうことね」

 「はい。簡単に言えば、その通りになりますね」



 順序を立てて、どうやって此処に来たかを出来るだけ分かりやすく話した。
 ………途中、どうやって説明したら良いものか少々迷うことや、どんな言葉を使えばいいか考えることもあった。
 ただ、それを先回りして汲みとってくれた。おかげで、なんとか説明は伝わったようだ。
 流石と言うべきなのか。幻想郷の管理者と言うくらいなのだから、俺のような凡人には遠い領域にいるのだろう。
 そして、その隣にいる彼女―――――藍さんも。
 


 「………」


 
 藍さんは、ずっと何も言わないままだ。目をつぶったまま、不動のままでそこに座り続けている。
 ただ、此処に来た理由を話していた時。藍さんの名前が挙がる度に、少しだけ眉が動いたような気がしたのは、気のせいなのか。
 


 「藍のこと、気になるかしら」

 「ええと、まあ………そうですね」


 
 その言葉に嘘はない。幻想郷に辿り着いた理由の一つ、それに藍さんが関わっているのだ。
 何も無関心でいられるほど鈍感でもない。…………理由はいろいろとある。



 「そう、じゃあ頑張ってね」

 

 何をですか、とそう突っ込みを入れる前に、紫さんは言葉を続けた。
 二度あることは三度ある。そんな諺をまた噛みしめることになるなんて、思いもしなかった。
 


 「藍と一緒に―――――――この屋敷に住むのですから」



 最後に、とんでもない爆弾を落としていくとは。

 







 
 
 

 

 


 
 颯爽と爆弾を落とした張本人は、場を荒らした揚句、意気揚々と去っていった。
 続く先の読めぬ展開。だが、あたふたしていても何も変わらないのだった。
 こうしている間にも時間は過ぎていく。止めた時を再び動かすために、その一歩を踏み出さねばならなかった。



 「………その、凄いことになりましたね」

 「………今に始まったことではないさ。私は、大人しく付き従うだけさ」



 会話の切り口としては、何が正解なのかは分からない。だが、呼びかけに答えてくれた以上、一応正解らしい。
 諦めたかのような、でも仕方ないといったような表情を浮かべている。その言葉から察するに、一度や二度ではないのだろう。
 主従関係というのも楽ではないのだな、と他人事のように物事を見ていた。

 

 「そちらこそ大変じゃないのか?いきなり此処にいろと言われても、中々納得はしないだろう?」

 「………そう、ですね」


 
 しかし、それはほんの僅かな時間だった。ぼーっとしてられないという、自分の状況を再び確認せざるを得ない。
 色々な問題は山積みだ。何が起こるかは、蓋を開けてみてからでしか分からない。
 何も知らない場所へと飛ばされ、目の前の彼女―――八雲藍とこの屋敷で生きていかねばならぬのだ。
 今の序列を示すのならば、間違いなく彼女が上。そして俺は下だ。当たり前だ、俺はただの人間なんだから。
 機嫌を損ねれば、無事では済まないのかもしれない。常に死と隣り合わせ、みたいなものかもしれない。

 

 「でも、他に行くべき場所もないですから。見ず知らずの場所で、匿ってくれるのなら有難いことですよ」

 

 だが、今はあの紫さんの約束を信じる他は無い。右も左も分からない所で、何を当てにすればいいのか。
 例え罠だとしても、安全が少しでも確保されるなら、縋らねば生きていけぬのだ。



 「そうか、なら私は何も言わない………色々とあるだろうが、宜しく頼む」

 「……そうですね、こちらこそお願いします」
 

 
 人と狐が暮らす。まるで御伽話だ。でも、それは目の前にあって、現実だった。
 
 






 


 
 「ぼんやりとして、どうかしたか?」



 俺を呼ぶ声に反応して首を捻ってみれば、予想通りの姿があった。
 何もしないでいる俺を見て、不思議そうにこちらを見ている。その姿は、いつか見た夢と同じのようで。
 でも今は現実なんだって、その声で呼び戻された。



 「いろいろとありましたから………考え事ですよ」

 「そうだな。私もお前と暮らすことになるなんて、考えもしなかったことだったよ」

 「俺もです。此処に来るなんて思いもしませんでした」

 「全くだ」


 
 縁側に座っている今。隣にはあの日、紫さんの気まぐれに巻き込まれた被害者と共にいる。
 思い返すのは、紫さんにあの爆弾を投下された時のこと。そして、そこから始まった今日までのこと。
 実に変な話ではあるけれど、激動の日がパタリとやんだ今、こうして平和なのは確かだ。
 
 

 「これまで幻想郷の結界を越えてきたのは多くいた。しかし、直接ここに辿り着いた人間はお前が始めてだ」

 

 紫さんの話でもあったように、幻想入りする人間はいるらしい。それは、どんな場所に入りこむかはその時次第という。
 幻想郷のどこかにあって、全く不明な場所。それがこの屋敷――――らしいのだが、正直よく分からない。
 どうも普通に行ける場所でもなく、未だ誰も見たことのないとまで書かれた場所に来てしまった……のだ。
 例外中の更に例外。招かれざる訪問者。それが、どうもよくないサインだと、紫さんは感じたらしい。


 
 「でも、褒められるべきことでもないでしょう」

 「そうだな、むしろ問題だ。結界を越えてこちらに入ってくる人間が増えてきている今、さらに浮き彫りになったと言えるな」



 最近、その越えられなかったモノを越えてきてしまっている人が多いようだ。
 博麗神社………という場所に迷い込んだ人が連日押し掛け、そこにいる巫女と紫さんはその帰還作業に追われているらしい。
 彼女らが頑張っている御蔭で、今はまだ問題として挙げられはしない。だが、これ以上進めば非常によろしくないことになる。
 
 幻想郷に人間が多く入ることで、外の世界でその分人が減り、神隠しだと騒ぎ始める。すると、人々が幻想はあるのだと思い始める。
 幻想を否定することで成り立っている結界が、弱まってしまうという悪循環になりかねない………のだ。
 ―――――なんて考えたことは全部、紫さんと、藍さんが教えてくれたことだ。

 

 「結界そのものは、ちゃんと機能しているんでしょう?」

 「ああ、だが何が原因かははっきりしていない。紫様も忙しい今、私が何とかしなければならないな」

 

 その言葉の通りだ。管理者が不在な今、その式神である八雲藍が八雲紫の代わりを果たさなければいけない。
 重い責任だ。俺ならきっとその重さに逃げ出してしまう。世界を管理するなんて、そんな大役は無理だ。
 紫さんのいない間の屋敷で見守ることくらい。所詮、出来ることなんて極僅か。
 


 「………その、俺も多少はお手伝いしますよ。出来ることはないかもしれませんけど」

 「ふふ、そうだな。そう言ってもらえるだけだとしても、有難いな」


 
 でも、今こうして見ず知らずの俺を助けてくれる藍さんには、どうにか助けになりたいと思っている。
 紫さんに言われてから今日まで、藍さんは俺を助けてくれた。右も左も分からない世界で、頼れるのは藍さんだった。
 彼女は妖怪で、九尾の狐で、最強の式神だ。他から見たら恐ろしいのかもしれない、けれど俺はそうは思わない。
 ほんの少しでも返すことが出来たら――――なんて。無謀だけれど、少しだけ願いたくもなるんだ。



 「なら、今から行くところがある。手伝ってくれるか?」

 「はい」


 
 いつになったら返済が完了するのかよりも、どれだけ借金が増えないようにするか。今の俺に出来ることは、それだけだ。
 





















 「今日、人里に辿り着いたのは一人か」

 「そうだ」



 定時連絡のように、淡々と行われる業務。何度繰り返したことだろうか、その所作には一切の無駄はない。
 そういうことが日々当たり前になっているからだろう。染みついた習慣が抜け出せないのは、お互い様なのだ。
 似た者同士。藍さんと――――――慧音さん。二人は、今日やってきた外の人間について話をしている。
 


 「今回は、妖怪の山からだそうだ」

 「ほう、よく天狗達に捕まらなかったな」

 「運がよかったらしい。都合よく匿ってくれた神の元で、しばらく隠れていたと話していたよ」


 
 上に立つ者としての責務。彼女らはその役目を全うするために、今こうして対話している。
 人里の守護者、幻想郷の管理者。その思想は互いに相容れないこともある。
 だが今の状況では、そんな呑気な争いをしている暇はない。災いの種を潰さなくてはいけないのは、どちらも同じなのだから。

 

 「………ふむ。これで十日間連続か?」

 「そうなる。今までは多くても二週間くらいに一人のペースだった………異常とも言えるな」
 
 
 
 運よく人里、もしくは博麗神社に辿り着く可能性は低い。知らない場所で、お陀仏することの方が遥かに多い。
 だが、その少数が多くなった。今もこうして来た人はいる。しかしながら、人里にも受け入れられる数にも限界がある。
 浮かび上がる様々な課題に、慧音さんは頭を抱えるかもしれない。いや、実はもうすぐそこにまで来ているのかもしれない。 
 明日から何か起こる、という可能性は否定できない以上、火が上がる前に手を打たねばならないのだ。
  
 

 「今はまだ問題はないが、このまま増え続けると大変だ。私一人では抱えきれないことになる―――――――頼むぞ」

 「分かっている――――――紫様も博麗の巫女も忙しい今、誰かがやらなければいけないからな」

 
 
 そんなことが出来る奴らは限られている。立候補して当選すれば出来るような、そんな簡単なものではない。
 しかし、表に出すわけにはいかない。動けない者もいる以上、それはほんの一握りに限られる。



 「ああ、では失礼する。そろそろ昼も終わる………何より、そちらの人を待たせるわけにはいかないからな」

 「こちらこそ感謝する、ありがとう」



 一礼して踵を返し、去っていく慧音さん。その言葉から察するに、寺子屋に戻るのだろう。
 道行く人に話しかけられながら、雑踏の中へと消えていく姿を眺めながら、俺は一歩一歩前へと進んでいく。
 俺と同じように眺めていた藍さんの傍へと、ゆっくりと歩み寄っていく。
 

 
 「………すみません、話の途中に」
 
 「いや、別に構わないさ。向こうも分かっていたからな」

 
 
 俺が役目を終えて合流しようと歩いていると、藍さんと慧音さんが喋っていた。
 ――――出ていくのはよくないか。少し待っていようと考えていた時、たまたま慧音さんと目が合ってしまった。
 見つかった以上は、隠れるわけにもいかないので、会釈で応えた。話を中断させる訳にはいかなかったからだ。
 ともあれ、俺も藍さんも一応情報収集は完了したので、共有を開始する。



 「それよりどうだ、何か面白い話は聞けたか?」
 
 「何とも言えませんね。一言で言うなら、いつも通りとしか」

 「………そうか」


 
 状況が進展したか。ということについて答えるなら、否と返そう。
 迷い込んだ彼らからしたら、自分自身を大きく揺るがす事件だ。しかし、此処においてはそんなことに驚きもしない。
 成果ゼロ、という悲しい結果に終わったのだと、そう伝えるしかなかった。

 

 「もう一度整理しよう。何か見落としている点が―――――――――」



 藍さんがそう言うや否や、低くも長い音が響き渡った。しかし、それは人の声でもなければ、機械が打ち鳴らす音でもない。
 発信源はどこか。それは今聞いていた、今一番近い場所にいた者が知っている。
 俺と彼女、二人以外にいない。

 

 
 「…………すまない」

 「…………いえ」


 
 気まずそうに、顔を赤くする藍さん。
 ある意味これ以上いいタイミングはないだろう。同時にこれ以上悪いタイミングもないだろうが。
 
 空腹時に起こる胃の収縮運動、そこから起こること。
 女性ならば気になるであろうこと、何とかしたいと思っている人は少なくはない。
 体が正常に動いているというサインではあるが、何もこんなときに動いてくれなくても。
 多分そう思っているのかもしれない。この反応を見る限り、それは間違ってはいないはずだ。

 

 「えっと、あの…………」 
 
 

 これ以上藍さんを辱めるわけにはいかない。二度目がある可能性だってある。
 ちょっとでも助けにならないだろうか、そう考えた答えが一つだけ思い浮かぶ。
 次がいつになるか、ということは俺には分からないし、藍さんだって分からない。
 だから急がねばならない、ということだけが俺の頭を支配していた。
 


 「―――――――――そこの蕎麦屋行ったことないので、行ってみていいですか?」


 
 はっきり言えば、混乱していた。我ながら滅茶苦茶で、脈絡のない意味不明な言葉だ。
 ただ、それに藍さんは頷いたということは確かだった。
 
 
 

 
 
 
  
  








 

 「ここ、美味しいですね」

 「気に入ってもらえたか?」



 いくつかある机と椅子が綺麗に整頓されている中、その端にある一角。
 その席、その机の上、その丸い椀。そこからは少しばかりの白い湯気が立っては消えていた。
 目の前にある器の中で、出汁の利いた白い麺が沈んでいた。そしてもう一つ、稲の色にも似た四角形が浮いていた。
 所謂、彼女と同じ"きつね"の名を冠する料理。正に今、それを食べ終えた所だ。

 
 
 「ええ、とても」

 「それはよかった。………私は、これが好きで仕方無いんだ」
   
 「でしょうね。藍さんならそうだと思っていました」



 少し前までの藍さんの状況を言葉にすると、果てしなくつまらない駄洒落が出来る。
 要は共食いである。ただ、藍さんはそれを嬉々として、箸を休めることなく動かし続けていた。
 確かにそうなるのは分からないでもない。お湯を入れて待てば、出来あがるようなモノとは比べ物にならない。
 あんなものばかり食って来たからだろうか、とそんなことを考えた。  
 


 「俺もこれ、好きなんですよ」
 
 「そうか、それは何よりだ」

 
 
 自分の意見に喜ぶ姿、そんな反応に少し頬が緩む。
 いつもは凛とした表情を見せるのに、好物の前では目が暮れる。そんな変化に気を緩めてしまうのだ。
 それが美人であれば………人でなくともだ。


 
 「………さて、店を出よう。話の続きは、帰ってからまとめようか」
 
 「そうですね。長居する根性は持っていませんし」


 
 椅子から立ち上がり、藍さんを先頭にしてその場から退散する。出口付近にいる店主にお代を渡し、店を後にした。
 そうして抜けた先。碁盤の目のようになった街並みを、人が行きかう場所を、並んで歩いていく。
 見回しながらも通り過ぎていくその光景は、何処か見た気がして、でもどこか違っていた。

 
 駅前近くにあった、昔から変わらないように守り続けてきた商家。それが遠くまで並んでいたあの光景。
 目をつぶれば思い返すことが出来る。飽きる位に見てきたから、どこまでも強く、強く残っている。
 でもそれと今を見比べても、やっぱり違う気がした。見れば見るほど、ここは違うのだと思い知る。
 最後まで見終えたけれど、残ったのは違和感だけだった。

 

 「――――――さっきは、ありがとう」

 「………え?」

 「行こうか」

 「え、あ………はい」



 人里を越えたすぐ後、突然聞こえた声。それに俺は反応出来ずに、思わず疑問の声を上げた。
 だがそれに対して藍さんは、何も無かったかのように振る舞っている。

 ただの気のせいだったのかな、とそう結論付ける他なかった。







 
 



 

 



 日も落ちて、暇を持て余した今。何かすることはあったかなと、思いを巡らせた。
 しかしすぐには浮かばない。やれることは、とりあえず済ませたはず―――――だからこうして暇な訳だが。
 とはいえども、何もしないでいるのもな。そうしてふと視線を向けた先で、一つ目についたモノを見つけた。

 

 「……………」


 
 この場にいるのは、俺と藍さんの二人。暇を持て余した男と、読書をする女だけ。
 文字を追いかけては、次を求めてページを捲っていく音が聞こえる。藍さんは、完全に活字の世界に入り浸っていた。
 だが、俺の気になるモノはその本ではない。八雲藍であり、八雲藍でないモノ。

 九本ある、あの尻尾だ。
 



 「―――――」


 
 豊かな毛並みを持ちながらも、決してそれらは雑多にあるわけではない。
 見事なグラデーションを残しつつも、鮮やかな小麦色から白へと変わっている。
 そんな艶のある一本一本が纏まり、かつ整えられたそれは―――――実に、実に美しい。
 
 

 もふもふしたい。ああ、もふもふしたい。

 
 
 単純かつ短絡的な思考。だが、それを見る度に思っていたことでもある。
 一本ならまだしも、複数。九本もあるとなると、どうしても目につくのは仕方ない。というよりも、目に入って当然。
 だってそうだろう?触り心地が良さそうなモノを見せられて、触ってみたいと思うのは不思議じゃない。

 その度に、無意識に伸びてしまいそうな手を止めるのに苦労する。届くのに届かないもどかしさがある。
 だから耐えるしかないんだ。今は、今だけは、堪えろ―――――――――。


 
 「………なあ」

 「……………は、はい!?」



 本に意識がいっていたはずの藍さんは、俺の方を向いて一言呟いた。
 必死の葛藤と戦っていたから、いきなりのことに驚き、声が上ずってしまう。
 こちらには絶対気がついていない、振り向く訳がないと思っていたのに、それを覆されたら堪らない。
 軽くパニックになりかけている所へ、更に俺を畳みかける言葉が続く。



 「先ほどから見ているようだが、私に何か用か?」

 「……………い、いえ。そんなことは……………」
  


 マズイ。非常にマズイ。それは非常にマズイです、藍さん。
 忙しなく揺れる九つの尾、俺を誘惑するそれに目を逸らそうとしても、自然と目が寄ってしまう。
 吸い込まれるような気分に負けそうになりながらも、ギリギリで何とか否定してみせた。
 

 
 「…………?………ああ、なるほど」


 
 不思議そうな顔をした後の数秒後、口元を少し上げていた。何かに気がついたような、そんな笑い方でこちらを見ている。
 代替案を言おうとした矢先、また先手を取られて更に混乱する。一番やってはいけない未来が見える。
 ネガティブな言葉ばかりが頭の中を巡る。そんな何もできない俺に、藍さんはトドメを刺してきた。

 

 「これが、気になるんだな?」

 「…………………はい」



 藍さんが指の差す先にある、揺れる尾。その問いかけに、思わず肯定の意を示してしまう。
 否定すればよかったじゃないか、と後になってから考えが及ぶ辺り、自分の馬鹿さ加減がよく分かる。
 ついにバレたか―――――。


 
 「なんだ、そうだったのか。なら――――――触ってみるか?」
 
 「え?」



 叱責を受けるものだと思って身構えていたのだが、返ってきた言葉に思わず固まる。
 聞き間違いだろうか、都合のいい妄想だろうか。まさか、あるわけがないだろう。
 自分を疑いながら、でもそうであって欲しいと願いながら、妙に渇き始めた口を開く。
 


 「あの、触っていいって―――――本当ですか?」
 
 「………変なことを聞く奴だな。そんなことを気にするのか?」

 「え、いや………でも尻尾ですよ?」
 


 ……………冗談、だろ?
 あり得るわけがないと思っていた事が二度も続く。馬鹿な、そんな馬鹿なことがあるか。
 ―――――いや、そもそも馬鹿を通り越したことは、もう起こっていたか。
 じゃあ、目の前で起こったことは、現実……なのか?



 「触るか、触らないか、どっちだ?」

 「触りたいです」


 
 再び条件反射的に言葉を返してしまう。頭の中で考えていたことなんて、もはや意味などなかった。
 これまで秘めてきたものは全部無駄になった。後に残ったのは、希望だった。
 
 合法的にもふもふ出来るという、事実だけが残った。
 



 「ほら、触ってみるといい」

 

 こちらに尾を向けて、俺が触れるように手助けしてくれている。
 御膳立てされたにもかかわらず、此処まで来て置きながら、今更止めなどということは言わない。
 待っていたモノが目の前にあるなら、手を伸ばすだけのことだ。

 

 「おお………………」



 感嘆の言葉が自然に出る。あふれ出る思いを、隠すことなく漏らした。
 思いのほか柔らかい毛。いくつも重なったそれは、空気を充分に含み、手を押し戻せば返ってくる。
 それをもう一度だけ弱く押しながら、尾の先に向かいながら、毛並みに合わせて横に引く。
 ゆっくりと、手に毛が引っかからないように気をつけた。しかし、それは必要なかったらしい。
 指と指の間に入ってくる毛は、勝手に抜けていく。何とも言えないくすぐったい感触を残しながら、終わった。


 ―――――――――これは、癖になる。もふもふだ、もふもふ中毒になる。
 

 背中から頭に向かって走る衝撃、駆け上がるような感覚に痺れた。
 一度味わってしまうと、二度目も味わいたくなるという衝動。今、それが頭の中で巡り続けている。
 許可も無く二度目を実行、もはや止めることは出来ない。



 「気に入ってくれたか?」

 「はい!」

 「ふふ、そうか。私の自慢の尻尾だからな、それは何よりだ」


 
 尻尾に夢中になっているこちらを見て、藍さんは嬉しそうな顔をしていた。
 自分の誇りであるものを褒められて、鼻高々といった具合か。しかし、分からなくもないことである。
 先ほどよりも揺れ始めた尻尾、それが今の藍さんの思いを示しているのか。忙しなく動き続けていた。
 

 
 「お前なら丁寧に扱ってくれるだろうと思っていたが、その通りだったな」

 「触らせてもらっているのに、掴んだり引っ張ったりなんてしませんよ」

 「偶にいるんだよ。そういう奴がな」

 「でしょうね、尻尾だって痛い時は痛いですもんね」


 
 クッションと何かと思って、粗雑に扱う人はいる。我が物の如く散々いじりまわし、自分の欲を満たそうとするのだ。
 何をしようとするかは個人の勝手ではある。が、触るなら触るなりに常識くらいは弁えておきたいものである。
 引っかかれてからでは遅い………報いを受けるのは自分自身なのだから。もふもふを自らの手で失うなど、馬鹿のすることである。



 「………なあ、一つ頼みを聞いてくれるか?」 
 
 「………何でしょうか?」

 「そこの箪笥の引き出しにあるモノを取ってくれ」

 

 藍さんの尻尾を堪能していると、その本人がお願い事をしてきた。仕方ない、もふもふは一時中断だ。
 でも、そんなわざわざ頼むことでもないだろうに。そう思いながら、軽い気持ちで引き出しを開ける。

 だがその引き出しにあったモノを見て、何故藍さんが頼んだのかを理解した。 
 これを出したということは、これを頼むということは、つまり――――――。
 振り向いて藍さんの顔を見て、その答えが正しかったのだと知った。
 
 
















 「上手いものだな」

 「そうですか?」

 「一人でやると少々手間がかかるんだ。届かない部分も出てきたりもするからな」

 

 確かにその通りだろう。これだけ多いと時間もかかるし、中々骨の折れる作業だ。
 手入れもしっかり行わねばなるまい。自慢だと言うくらいなのだ、それ故に俺も手は抜けない。
 頼まれた以上は、ちゃんと責務を果たさねばなるまい。その相手が藍さんならば、それ以上に。
 


 「手慣れている気がするが、経験があるのか?」

 「家に猫がいましたので」

 「そうか、道理でブラッシングが上手い訳だ」
 
 

 思い出すのは黒いアイツ。飯を食っていると寄って来ては、"ちょうだい"ってねだってきたか。
 誰が一番甘いかをよく分かっていた。でも、それが分かっていながらも、俺は甘やかしてしまうのだ。
 床に転がっては腹を見せたり、自分から寄ってきてくることもあった。猫にしては随分懐いてくれた奴だった。
 ………今となっては、何もかもが懐かしい思い出だ。

 
 
 「私にも"橙"という猫の式神がいるんだ。もし、会ったら可愛がってやってくれ」

 「そうですね。会った時は、是非」
 
 「甘やかさないでくれよ」

 「………何を根拠に?」


 
 心でも読まれたのか、ただの偶然なのか。
 紫さんといい、藍さんといい、毎回ビックリさせられてばかりいる。心休まったとしても、また次が来る。
 人と妖怪なら驚くのは当然。とはいえ分かってはいても、その横を、裏を、隙間を突いてくるのだ。
 

 
 「お前なら、きっとそうするだろうと思っただけさ」

 「そう見えますか?」

 「見えない方が可笑しいくらいだな」
 
   
 
 そんなに甘いかねぇ、とこれまでを振り返ってみる。………まぁ、確かに猫には甘かったけど。
 俺は、俺の出来ることをやろうと思っただけだ。その結果が、そう見られていることに繋がるのかもしれない。
 


 「ここの人間は非常識な奴らが多いからな。お前にとっては普通かもしれないが、私達からは違って見えるのさ」
 
 「そんなに違いますかね?」

 「違うな、全然違う」



 視点が違えば、考えることも、思うことも、その時に何を起こすかも違ってくる。
 俺は八雲藍から見ることは出来ないし、八雲藍は俺からを見ることは出来ない。  
 これまでの過程、種族、価値観。いろんなものをひっくるめても、俺は彼女とイコールではないのだ。

 

 「―――――――――――ふわぁ」


 
 気の抜けるような声が響く。今にも眠ってしまいそうな、そんな声だ。
 思わず欠伸を出してしまった本人は、少し顔を赤らめている。あまり人に見られていいものではないだろう。
 例えそれが妖怪だったとしても、女性であることは確かだから。

 

 「………すまない、いい顔ではなかったな」

 「いえ、見えませんでした」

 「………そうか」

 「眠いのなら、横になりますか?」

 「………そうだな、そうさせて貰う」



 近くあった座布団を渡し、藍さんはそれを二つ折りにして枕にした。
 即席の枕に頭を下ろして横になり、手も足も完全に力を抜いた体制になっている。
 今にも眠ってしまそうなくらいだ。瞼は閉じ開きを繰り返し、既に限界が近いことを指し示している。



 「………少し、休んでもいいか?」

 「いいですよ、後は何とかするので」
 
 「……………任せた」



 そう言った直後、完全に目を閉じ、一言も話すことなく沈黙した。
 少しだけ聞こえる規則正しい呼吸音。僅かな上下運動をしながらも、それ以外に動くことは無かった。
 どこまでも美人な藍さんは、その寝顔も美人なまま。そうあり続けているだけだった。

 

 「――――――――――」



 本当に今更ながら、怖いくらいに美人だ。
 そんな彼女と今こうしている…………とんでもなくラッキーだ。妖怪だという後付けさえなければ、だろうけど。
 一生分の運を使い切ってしまったんじゃないか、そんなことを思いもした。
 今が頂点なら、後は転がり落ちていくだけの人生か。あまり、認めたくない考えではある。
 でもそう思ってしまうくらい、これ以上ない幸運が目の前にある。男冥利に尽きるばかりだ。
 
 

 「おやすみなさい、藍さん」 

 

 今はただ、平和な時間を過ごせるのなら。何も望みはしない。
 続くものなら、いつまでも続いて欲しいと祈るばかりだ。
 
    


 










 

 
  
 「こことここ、そしてこの場所か」

 「はい、聞いた限りではそうなります」



 ある限りの一面、全ての紙達がテーブルの上を埋め尽くしている。そして、その上にはもう一枚が頂点に立っていた。
 目の前にあるのは一つの絵。しかし、それは見て楽しむようなものではない。
 簡略化されたその絵に、容赦なくバツ印を付けていく。人里、妖怪の山、博麗神社、それぞれの場所に打ち込んだ。
 そうして出来あがったモノを見てみたが、よく分からないモノに仕上がってしまった。


 
 「………何とも言えないな」
 
 「規則性、類似性はあまり無いみたいですね」

 「ああ、何より標本が少なすぎるのが厄介だな。母集団がどれだけなのかも把握できていない」



 幻想入りした人間が、最初に何処にいたのか。その情報を元にして、地図に書き込んでみた。
 ただ、知らない場所に来ておきながら、その場所が何処なのかは分かる訳がない。
 そういう人たちの話を元に作り上げたモノであって、これが正しいという保証は無い。
 藍さんの言葉の通り、そもそもどれだけ入ったかが分からない。おまけに無事に辿り着くのは僅かだ。
 頭を悩ませるのも、無理は無い。



 「迷い込んだ人の話を聞くにも、まだまだ時間はかかりそうでした」

 「やはりそうか。中々上手くはいかないものだな」

 「状況によっては、発狂しかねませんから。まともでいられる方が珍しいですね」

 
 
 その僅かな人たちでさえも、何処かやられてしまっていることもある。
 辛うじて人里や博麗神社に来たとしても、口が聞けないくらいに衰弱しきっていた場合もあった。
 一度負った心の傷は、すぐに消えてしまうようなものではない。

 いきなり意味不明な場所に来てしまった。魑魅魍魎が渦巻くこの場所で、次に何が起こるかは分からない。
 死と隣り合わせな状況、少し前まで全く真逆だったのに、こうも変わると狂いもする。
 道行く先で転がるモノが、かつて人だったものなんて―――――そんなこと認めたくないだろうから。

 

 「………埒が明かないな。どうしたものか」

 「そうですね…………」



 とはいえ、のんびりとしていられる時間はない。だがそれを笑うかのように、話は全く進んでいない。
 事態が好転したか、そんな問いかけをしても首を横に振るしかない。その繰り返しだ。
 苦しい展開にイライラが募る。俺も、藍さんも鬱屈した感情を抱えてばかりいる。

 だからだろうか?………少し藍さんの顔色がよくないような気がする。
 一見いつもと同じではある。でも、少し見てみると僅かに陰りが見えるような、そんな気がする。
 ただの気のせいなのかもしれない。ただ、此処までのことを振り返ると、どうもそう見えて仕方なかった。
 いらない気遣いかもしれないけれど、二択に一択を選んだ。
 


 「藍さん、一旦休憩にしませんか?」

 「……………そうだな、休もう」

 「では、お茶等を用意してきます。待っていてください」

 「頼む」


 
 俺の提案に無事乗ってくれた。根を詰め過ぎると毒だろう。誰かが止めなくちゃいけない。
 藍さんは真面目だ、自分の責務を果たそうと頑張る。それが良い部分でもあるが、裏を返せば悪い部分にもなる。
 なんとかいい部分だけを残して、悪い部分を出すことを防がなければ。
 ………それは、俺が今出来ることの一つだ。
 
  










 



 

 「遅かったな」

 「そろそろいい時間ですからね、どうせならと思って作ってきました」

 「何だ―――――――――――おお!流石だな!」


 
 持ってきたお盆には、二人分の湯のみと箸、レコード盤くらいの大きさの皿がある。
 お盆をほぼ占領しているその皿には、それを全て埋め尽くすくらいの一山を作っていた。
 ピラミッドみたいにしてみたが、案外綺麗なものだと思う。まあ、そんなに大袈裟なものでもないが。

 

 「油揚げが余っていましたから。どうせなら、と」

 「気が利くじゃないか。ふふ、よくやった」

 「ありがとうございます」


 
 資料が散らばっていたテーブルは、既に整頓し終わっており、始めから何も無かったようになっている。
 気が利くのはどっちだろうか、と思いながらも大皿をテーブルの中心へと運んだ。

 さて、次はお茶と箸をと思っていたが、その前に藍さんが二つとも音もなく取っていく。
 俺が先ほどまでいた場所、藍さんの右隣りに―――――さも当然のように置いた。
 となれば、俺が何処に行くかは決まっている。いや、藍さんに勝手に決められたようなものか。



 「さあ、食べようか。いただきます」

 「ええ、いただきます」

 

 軽く手を合わせ、合掌の形で組み合わせた。いろんなものに対する感謝の意を示し、確かなモノにする。
 その後は、置かれた箸を手に取り、皿へと伸ばし、自らの手で作り上げたピラミッドを崩した。
 
 二本で確かに掴んだそれは、地方によっては"きつね"という名前がついてくるお寿司だ。
 甘辛く煮た油揚げを袋のようにし、そこに酢飯を入れる。すると、まるで米俵のように出来あがる。
 広く知れ渡り、かつ庶民的。祝いの席でも必ず見たことはあるだろう―――――――稲荷寿司だ。
 


 「………美味い!」
 
 

 口に運ぶ前に聞こえた声、それに少し笑ってしまう。
 見てみれば本当に嬉しそうな顔をしている、そんな藍さんは子供みたいになっていた。
 狐と言えば油揚げ。稲荷神の使い―――今では巡り巡って神になった、稲荷狐にもお供えられるくらいだ。
 実際は肉食だから、いろいろと違うなんてこともあるが、藍さんは好きだと言っていた。
 そしてその言葉の通りだった、ということだ。目の前にあるその姿が、嘘だとは思えないから。
 
 

 「………お口に合ったようですね」

 「ああ。お前の作る稲荷寿司は最高だ、いつまでも食っていたいと思うよ」

 

 賛辞としてこれ以上は無いだろう。湧き上がる喜びは、止め処なく今も続いている。
 内側から、飛び出ていきそうな思いが満たす。水で満たされて一杯になったグラスが、溢れて零れていくように。
 その言葉だけで救われる。たったそれだけだけど、それだけで充分すぎるくらいなんだ。

 

 「作り手としては何よりですが………毎日は勘弁してください、限度があります」

 「冗談だ…………例えるなら、それくらいということだよ」

 「…………そうですか」


 
 作ってよかったと思う。それでこの顔が見られるなら、安いものだ。
 今もそうだ。物凄い勢いで稲荷寿司のピラミッドが解体され、藍さんの口元へと消えていっている。
 とんでもないペースで平らげていくその様を見ている間に、俺の分が無くなってしまうくらいだ。
 でも、作る間で少しつまんでみたりはしたので、さほど食べなくても大丈夫ではある。



 「…………」
  
 
 
 心ここに非ず、といった具合で箸を往復する藍さん。
 リスみたいに口を膨らませて食べるその姿は、普段とは思えないくらいだ。
 あの八雲藍が、稲荷寿司でこうも変わるのか。藍さんには申し訳ないが、結構面白くて仕方ない。



 「………んっ………むぐ」



 お茶を呑んではまた食う。食う。食う。
 よくもまあそんなに食べられるものだと思うが、女性には別腹があるとも聞いている。
 きっとそんな場所に収まっているから、あれだけ食べられるのだろう。にわかには信じがたいことではあるが、多分。

 そうして本当に数個を残すだけとなった時もペースは変わらない、ノンストップだった。
 そんな競争に勝ち、最後に稲荷寿司を手にしたのは、残念ながら俺ではない。
 最後の稲荷寿司は箸にあえなく捕まった。その箸の持ち手は――――――藍さんだ。

 

 「じゃあ、最後をいただき――――――――――」

 
 
 そう宣言して、皿から持ち上げて口へと……………運ばれなかった。
 手は旋回し、徐々に手のひらが返っていく。あるべき場所を目指すかのように。
 では何処へ行くのか?そんな疑問の正体は、俺の目の前に止まって、見えた。

 

 「いや、最後はお前にやろう。作ってもらったんだ、ここは譲る」

 「…………は?」



 …………今、藍さんは何を言ったのだろう?
 向けられた箸と箸の間には、稲荷寿司。俺の口元に寄せられたそれは、動くことなくそこにあった。
 


 「あの、別に俺は………」

 「そう言うな、私が食べさせてやろう」
 
 
 
 迫り来る刺客に思わず首を引く。だが、その距離は離れもしなければ、縮まりもしなかった。
 苦し紛れに目先を少しずらし、箸の持ち手の顔を覗いてみるが、どうやら俺の願いは届きそうになかった。
 無言でその顔は、その瞳は伝えてきた―――――――――"早くしろ、食え"と。 
 
 
 
 「…………」

 「ほら、あーんだ」



 抵抗は無駄だ、諦めろという囁きに屈した。恥じらいは捨てろ。何、すぐに終わることだと。
 そう全てを諦めて受け入れた。選択肢など存在しない。あったとしても、どれも同じだ。
 口を開いて、大人しくする。動かなかった箸が動く。最後の稲荷寿司が今、俺の元へと届いた。


 
 「………案外いいものだな。今度もやってみるか」

 

 そしてその運び手は、勝手に気分良くなっておられるようでした。
 何勝手に話を進めているんですか、稲荷寿司作るの止めますよ、と脅そうかと思った。



 「…………うん、やっぱり美味いな」



 だが未だ箸にある、欠けた稲荷寿司が消えた瞬間。そんな考えは何処かに吹っ飛んだ。
 それが当たり前だと言わんばかりに、実に自然に、藍さんは稲荷寿司を口に―――入れていた。
 咀嚼して飲み込み、完全にこの場から稲荷寿司は消えた。最後を手にした者が、最後の一口を堪能した。
 そう、それだけのこと…………である。


 
 「………どうした、固まっているようだが」

 「…………」 
 


 言葉が出てこない。
 悪魔としてその役目を果たした感謝すべき――――――いや、憎きアイツを見つめた。
 藍さんの手にあるそれは、今まで誰が使っていた?これまでを何度も見てきた、今更それが違うなんて言わせない。

 

 「……今持っているのは、藍さんが使っていた箸ですよね?」

 「うん?それがどうかしたのか?」



 勇気を持って指摘したが、全くもって意を介さないままで、平然とそう言ってのけた。
 むしろそれが不思議だと、そう言わんばかりの表情を作り、こちらを見たままだった。  
 だがそれは終わらない。まだ続いていたなどとは、ただの序章だったとは、思いもしなかった。



 「細かいことを気にするな、別に何か問題でもあるのか?」

 「……………………」



 二の句なんてある訳がない。 
 完全に自分から、墓穴を掘りに行ったようなものだ。一瞬だけ思考が停止した。
 そして再起動した直後にその言葉がリフレインする。何度も、何度も繰り返しに聞こえた。
 
 決めた。俺は決めた。もう揺らがない、揺らぎなどしない。



 「…………そうですか、じゃあ下げてきます」

 

 見てはいけない。絶対に藍さんを見てはいけない。見たら最後だ。
 お盆に再び大皿を乗せ、空になった湯呑みと箸を受け取る。完了したら、すぐに立ち上がって歩き出す。
 一刻も早くこの場から退却せねばならない。今は、脇目も振らないで部屋を脱出する。
 リセットしなければいけない。全部無しにしよう、何もかもゼロにするんだ。
  


 「そうか。………ああ、それと最後に一つ」

 「何でしょう?」
  
 「照れ――――――」



 その言葉を最後まで聞くことなく、扉を閉めた。
 

 
 








 
 

 

 気持ちの切り替えは早い方だと自負している。これまでにも数々の場面で役立ってきた。
 だから今も助かっている。あのままでは、何もできないままだったから。



 『…………うん、やっぱり美味いな』

 『うん?それがどうかしたのか?―――――――細かいことを気にするな、別に何か問題でもあるのか?』
   


 「――――――っ!」



 止めよう。これ以上考えても悪循環だ。何も始まらないんだ。
 別にそれが恥ずかしいって訳じゃないんだ。ただ、ただ、明日から藍さんの対応が変わるのが―――――――。
 知られたくないんだ。知ってしまったら、音もなく平和が崩れていくかもしれない。そんな未来は見たくないんだ。
 何より今、優先すべき事項がある。それを間違えちゃいけないんだから。今は、今だけは忘れろ。


 
 「――――――――」




 目を瞑る。その暗い中で思い浮かべるのは、一滴の雫が水を打つイメージ。
 雨が上がる。充分に濡れた葉の一つに、軌跡を残しながら流れていった一つ。それが水溜まりに落ちていく。
 落ちた中心から広がっていく輪が大きくなり、そして消えていった。
 一回、二回、三回、四回。次第にその音が聞こえ始めてくる。それだけしか耳に入らなくなっていく。



 「――――――――っし」



 よし、もう大丈夫。忘れなければ、いつも通りはここにあるから。
 目を開いて、自分を覗きこんで、何も問題は無くなった。これで藍さんの前に立てるから、心配はいらない。
 一度は逃げ出した場所へと舞い戻るために、少しの覚悟も胸にしないまま、目の前の戸を開いた。
 


 「戻ったか」

 「はい、では続きを始めましょうか」

 

 先ほどは話も聞かないで去っていったことに、藍さんは追及しなかった。
 俺がどんな顔をしていたかを、その時は見ていた。だが、戻ってきた俺の顔はいつも通りになっていた。
 だから何も言わないでいる。これ以上の問いかけは無駄なのだ、という牽制を挟んだおかげだ。

 もし俺が、さっきと同じ顔をしていたならば………背を向けた時と同じ顔をして、問いかけが来るだろうと予想していた。
 その通りだった。仕切り直しは上手くいったみたいだ。
 


 「そうだな、じゃあもう一度見てみよう」

 「はい」

 

 取り出した一枚の紙。それは、先ほどまで睨みあっていたソイツだった。
 バツのつけられた幻想郷の一面、点々としているそれらは、いくつかに分かれながら存在している。
 やはり規則性も類似性もない。これで何が分かるというのか。何の助けにもならないだろう。



 「当然のことだが、博麗神社、人里が多いな」

 「……………ええ」


 
 出る場所は何処か分からないんだ、じゃあ何処から入ってくるのだろう。結界は機能しているのに、何故?
 一体、何処が入口になっているんだろう――――――?



 「……藍さん、全く関係ない話で申し訳ないんですが」

 「何だ?」

 「そもそも、幻想郷って日本の何処にあるんですか?」



 そうだ。日本の山奥、海に面していない内陸地というのは知っている。
 しかし、それが一体何処にあるのか。書物を調べても、具体的な地名は何一つ書かれてはいなかった。
 辺鄙な場所というのは理解しているから、少なくとも都会に隣接している所ではないはずだ。
  
 

 「………そうだな。そっちについて説明していなかったな。どうせだから、今説明することにしようか」
 
 「すみません」

 「何、ついでだからいいさ」



 テーブル近くの高く積み上がった塔。そのうちの一つ―――ちょっと古い本を抜き取って、次々に開き始めてくれた。
 高速でページを展開していくが、途中でピタリと開き終わる。そこで手を止めて、充分なくらいに折り目をつけていた。
 大雑把な幻想郷の地図とは違う、やけに詳細に作られた本。かつて、俺が見てきたものとそっくりだった。
 恐らくは、外の世界から流れてきたものなのかもしれない。

 
 
 「ここだ」

 「―――――――え?」



 藍さんが指差した先、その指差す先を見て――――――驚いた。
 いやいや、それは本当か?確かにそこは何も無い山奥だし、周りを見ても海なんて無い。
 条件として該当するのは間違いない。ただ、ただ、そんな場所にあったなんて――――――思わないだろう?


 
 「………」

 「どうした?」
 
 「あの、外の世界にいた時――――――ここにいたんです」



 細く、長く、美しく。という三つを兼ね備えたその指の近くに、俺の指を置いた。
 その距離はほぼゼロに近い。だが全く同じというわけではない。重なることなく、確かにその横にある。
 小さい頃からそこに住んで、大きくなるまで育って来たんだ。自分の居場所が分からないわけがない。

 

 「何!?」

 「でもこの地図古いですね、今だといろいろと変わっています」

 「…………どういう、ことだ?」


 
 今の事実に驚きを隠せていない。確かに無理もないかもしれないと思う。
 俺も聞いた時は驚いたものだ。まさか、"日本で一番広い市町村になる"なんて聞いたことがなかったから。
 市町村合併。当時はその問題について、連日ニュースになったり議論になったものだ。
 


 「例えば………ここからここまで、一つの市になりました」

 「………他には?」

 「ここにも、ここにも既に道が通ってます」

 「……………」

    
 
 今度は完全に沈黙してしまった。それもそうか。
 何ていっても二十一世紀になってからの話だ。妖怪にとっては十年程度など一時なのだろう。
 だがその一時で変わってしまった。特に俺が大人になるまでの年月の間、急速に変化していった。


 
 「何故だ?何故そんなことが起こった?何があったんだ?」

 「その、藍さんが指している両隣は、観光地で有名になっているんです」


 
 左は、合掌造りの集落。世界遺産に登録され、日本の教科書なら必ず載っているほどの場所。
 今もなお人が住み続け、一目見れば、過去にタイムスリップしたんじゃないか。そんな錯覚をしてしまうくらいだ。

 右は、日本で一番広い市。そして俺が住んでいた場所。
 歴史と伝統がずっと続いてきた町がある。例え海の向こうからだろうと、人がやってくることも珍しくは無い。

 かつて辺鄙な場所だった山奥は、今では人が訪れるような場所になっているのだ。

 

 「………山に穴をあけて、木を切り開いて、どんどん変わっていきました」

 

 俺が小さい頃なんて、高速道路などテレビの向こう側の世界だった。
 だがどうだ。今はもう、そんな夢物語なんてない。ほぼ直通のような状態で、右も左も行くのが容易になったんだ。
 うねりにうねった道を曲がっていく必要もない。山を越えるために、峠を車で飛ばさなくてもいいのだ。



 「ここも、今ではトンネル……真っ直ぐ突き抜けた道が通っています」


 
 でも不便だ、はっきり言って田舎だ。でも、誰も来ない訳じゃない。
 ちょっとずつではあるけれど、それが解消されてきているんだ。当然だ―――――観光地なのだから。

 
 
 「…………………」


 
 それを聞いた藍さんは、再び沈黙してしまった。
 次々に明らかになっていく事実に、頭の整理が追いつかないのかもしれない。
 俺もそうだった。此処に辿り着いてしまってから起こる出来事に、混乱したどころの騒ぎではない。
 何日もかけて考えて、ようやく受け入れたくらいだ。価値観を全部ひっくり返されたのだから。

 恐らく藍さんも、今と昔の入れ替えに忙しいのだろう――――――と、思っていた。


 
 「………観光地………切り開いた……その分だけ近くなる……」
 
 

 突然、単語だけをブツブツと呟き始めた。
 何かを考えるような仕草をして、あれでもない、これでもないというような顔をしていた。
 不思議に思う。そんなに気になるような点があったのだろうか?
 
 とはいえ、まさか幻想郷がすぐ隣にあったという事実。それだけでも驚愕だ。
 なら何故、迷い込んだのだろうか。どうして、この屋敷に辿り着いたのだろうか。
 俺も幻想郷の地図の中にいるはずだったんだ。それは、やっぱり―――――。

 

 「―――――――――――そうか!分かったぞ!内側じゃなくて、外側にあったんだ!」
 
 「え?」


 
 目を見開いて、いきなり大声を上げた。一連の流れがよく分からない。完全に置いてけぼりである。
 俺だけが勝手に取り残された。またこの展開か。常識もいい加減仕事しろよと思う。
 そんなことを思いながら藍さんを見つめていると――――――。



 「え?え?」



 抱きつかれた。

 誰に?――――――少し前まで隣にいた彼女、八雲藍に。
 今度は俺が考える番だった。でも考えても分からなかった。何だ、また何か起こるのか?
 ストライキは依然続いたまま、そして、藍さんも俺に抱きついたままだ。

 両手で俺の肩を抱き、輪を作るかのように捕縛された。
 それだけじゃない、藍さんの体が密着して、離れていたはずの距離が、限りなくゼロになっている。
 一片の隙もなくなっている部分では、藍さんの体温が感じ取れるくらい。それくらいにまで迫られている。



 「よくやった!流石、流石お前だ!」

 「え…………あの……はい」



 そして褒められた。何だろう、何なのだろう。
 いろいろと嬉しいことではあるけれど、理由もなく起こると本当に困る。喜んでいいのか分からない。
 適当な言葉しか出せない。あまりにも意味不明で、支離滅裂。前後の流れを組み合わせても、上手く繋がらない。
 故に、次も予想外だった。



 「こうしてはいられないな―――――行くぞ、博麗神社に!」

 「は?ちょ、ちょっと――――!?」 


 
 手を引かれ、また何処かに行くことになるとは。















 「つまり、内側ではなく外側の問題だったようです」


 
 夜も更け、月が昇り始めたその下。対峙するのはその主人である、八雲紫。
 だが喋っているのは俺ではない。その式神である、八雲藍だ。
 それを少し離れた場所、博麗神社の賽銭箱の近くで座って見ている。
 

 
 「周辺の開発で地形が変わり、人が来るようになり、結界に触れる機会が増えたと」

 「概ねはその通りになります。幻想を否定したが故に、幻想に近づいたのでしょう」

 

 大体の説明は今行われている。話を紐解いていくと、藍さんの言葉の通りになる。
 幻想郷の結界は、何者をも寄せ付けないわけではない。時折外から入ってしまうこともあれば、中から出ていくこともある。
 人の目のつかぬ場所にあったからこそ、今までは隠れたままでいた。だが、人が入りこむようになれば、話は変わる。
 
 強力だったとしても、抜けられる可能性があるなら。そして、その触れる回数が増えてしまえば。
 "思い"の強さで変わる結界は、今の現代人にとって可能性が高まる。
 辛い今に絶望し、昔はよかったと思い、そんな気持ちでいれば…………ということなのだろう。

 知らず知らずのうちに、異空間へと足を踏み入れてしまっていたのだ。
 
 

 「よく気がついたわね――――でも、どうして外だと考えたの?」

 「それは…………」



 紫さんから視線を逸らし、藍さんは俺を見ていた。でも、それ以上言葉は無かった。
 けれど、その反応で紫さんは理解したらしい。口元が少し上がっていて、ちょっとだけ笑っているように見えた。
  


 「私の勘も、霊夢ほどじゃないけど当たるものね」

 「え?」


 
 やけに意味深なことをサラリと言ってのけて、その後はクスクスと笑い始めていた。
 それが実に紫さんらしいというか、様になっているというか。なんとも、妖怪らしい。
 


 「私も恐らくそれで正解だと思うわ。じゃあ、今から結界を修正してくるわね」

 「はい」

 

 紫さんの近くの空間が音もなく裂ける。管理者として、使命を果たしに向かうのだろう。
 ここからは紫さんの仕事。藍さんの仕事はここで終わりだ。引き継ぎは完了した。
 向こうへと消えていく紫さん。しかし、最後に一言だけ残していった。



 「あ、そうそう―――――――――式神としてよく頑張ったわね、藍」
 

 
 そんな言葉だけが聞こえて、紫さんは何処とも知れぬ場所へと消えていった。
 一瞬の静寂が戻る。確かに、一瞬だけだった。



 「――――――――――――!」 



 次に聞こえたのは、歓喜の声。その声を聞きながら、少しずつ頬が緩んでいくのを止められなかった。
 これまでの全て、何もかもが報われる時が来た。救われる時間が来たんだから。



 「夜に騒がしいわねぇ………」


 
 最後に聞こえた博麗の巫女の声も、今は藍さんの耳には届かない。
 どうか今だけは勘弁してくださいと、機嫌の悪そうな顔をしている巫女に、頭を下げておいた。
 それが最後に出来る、俺の役割だ。
 

 








 

 

 



 
 
 
 
 
 
 本日は晴天なり。

 ………というのは少々間違いかもしれない。つまり嘘である。
 確かに光こそ差してはいる。分厚い雲は消え、今は青空を覗かせていた。
 ただ、それでも消える前に雨粒は残っていたのだ。その行先は、今ある場所だということらしい。
 山間部では、山を越える間に雲が消えてしまうことがある。風に乗って、余った物だけはやってくるということだ。

 晴れているのに、雨が降っているという状態。所謂、天気雨と呼ばれる現象が、目の前で起こっていた。



 「なんだ、探したぞ」

 「どうかしました?」


 
 曲がり角の向こうからやってきたのだろうか。藍さんは目の前に立っていた。
 偶然かどうかは知らないが、天気雨のことを考えていた時に出会うとは。また何とも言えないことである。
 


 「何、饅頭を貰ったんだ。お前にも分けてやろうと思ってな」

 「そうですか、それでは有難く頂きます」



 饅頭を受け取ると、藍さんも同じように座り込んだ。どうやら居座る腹積もりだったらしい。
 縁側で座り込むお互いの距離は、少し離れている。当然といえば当然のことだ。
 だがそれでも、出会った時よりは遠くは無い。僅かながらも寄ってきているのは確かだった。
 


 「狐の嫁入りか」

 「知っていましたか」

 「……外でもそう呼ぶのか?」

 「一応は」


 
 見上げた空は未だに変わらない。雨粒が瓦を叩く音が響いている。
 ずっと遠い向こう側には虹がかかっているのに、本当におかしなことだ。
 だからだろうか。狐と結び付けて、あれこれと話が広がっていって、単純に一つでは収まらなくなったのは。
 


 「俗信で吉兆の証、怪異、伝説やらと色々ではありますが」

 「何かと結び付けたがるからな」

 「それだけ、狐が人気だということでしょう」
 
 
 
 狐を善と捉えたか、逆に悪と捉えたかという差異はある。ただ、今日に至るまで語り継がれてきた。
 昔の人が見てきた狐の生態、中国における狐の影響。それらが絡み合い、"狐"という型を成したのだ。
 今もこうして人間と九尾の狐―――――――藍さんといるのも、恐らくその所為だろう。

 
 
 「例えば一つ。俺のいた場所に、言い伝えのようなものがあるんです」



 各地に伝わる伝承。その中に必ずと言っていいほど現れる。
 それは、俺がいた場所とて例外ではなかった。年に一度の火祭りも、狐の婚礼を祝う儀式としてある。
 狐の嫁入りを見た者は、幸福が訪れるとそう言われてきた。だが、決してそれだけで終わりはしなかった。


 
 「九尾の狐が化けた石。それを砕いたモノが流れ、辿りついたモノが―――――――人に取り憑くという」

 「……憑き物か」

 「はい」

 

 伝承にもある九尾の狐。最後は殺生石になり、数々の人々を殺したという。
 だが、それは一人の僧により砕かれた。欠片は全国に散らばり、時に犬神、時にオサキという憑き物になったりもした。
 幸福をもたらすか、不幸をもたらすか。違いはあっても、結局は憑かれることに変わりは無かった。



 「俺はその家筋にいる。そう聞きました」


 
 狐に憑かれた家計は栄える。しかし、憎き相手を呪うことも出来るという力を持っていた。
 名前こそ違えど、その能力は民間信仰における"狐憑き"と同じだった。
 


 「ただ、誰も信じはしませんでした。所詮噂だけでしたし、普通の人間と同じでしたから」


 
 昔こそそんな力を有していたようなのだが、代が変わるごとに薄れていったらしい。"狐"も憑くのをやめたのだ。
 俺の時にはもう、そんな力は一片たりとも無かった。そんなオカルト話を信じる者は、誰もいなかったから。
 皆が無いものだと幻想を否定した。だから、俺はそんなのは嘘だと思っていた。ずっと思いこんでいた。



 「それでも、何か起こるんじゃないか。"九尾の狐"はいるんじゃないか。頭の片隅からは無くなりませんでした」



 でも"ひょっとしたら"なんていう、僅かな思いは消えなかった。その思いが嘘を現実だと認識させてしまったのか。
 此処にやってきた奴らと同じように、知らず知らずのうちに結界に触れてしまったのか。
 今となっては、それがどちらも引き金になった気がしてならない。
 
  
 
 「そうしたら突然、夢の中に藍さんが出てきたんです。俺は、憑き物――"狐憑き"は存在するんじゃないかって認めてしまった」

 「そう思っていたら、此処に来たと?」

 「はい」

 

 藍さんの問いかけに、首を縦に振る。もし何も知らなければ、"あれは夢だった"で終わることだったのだろう。
 一瞬にして全てが裏返った。何もかも、表から裏へとひっくり返されてしまった。大どんでん返しだ。
 疑うことなく、嘘だと思わなかった。だって、あの時に信じてしまったのは、俺なのだから。


 
 「………実は、私も同じ夢を見ていたんだ」

 「え?」

 「何も無い場所、声も響かない場所で――――――手を振っていただろう?」
 
 「…………」

 「お前だけじゃない、ということだろうさ」


 
 そう笑って答える藍さんは、ずっとこっちを見ていた。
 意味ありげな仕草。だが、それだけでなんとなく分かりそうだった。
 


 「一目見て分かったよ。きっといい奴だ、そしてまた会うだろう…………そんな気がしたんだ」

 「…………そうですか」

 「まさか突然現れるなんて思わなかったから、あの時は信じてはいなかったがな」

 

 藍さんは、あの日俺の顔を覗きこんだのも、問いかけたのも、何も言わないで手助けをしてくれたのも、全部。
 あの夢から、俺はもう藍さんに憑かれていたのかもしれない。望んだが最後、それが後押しをして。
 お互いが、お互いを引き寄せたのかもしれない。まるで磁石みたいに、距離を詰めていって。
 幻想という壁も乗り越えて、今こうしてここにいる。それが、一番目に見える証明――――なのだろうか。

 
 でも、それが本当かどうかという確証は何処にもない。ただの偶然なのか。呼ばれるべくして呼ばれたのか。
 その答えは誰が知っているのか。教えてくれるなら教えて欲しいものだが、誰も分からないだろう。



 「まあなんだ、その。お前といると不思議と心を許してしまうんだ」
  

 
 でもそれらが土台になっていたとしても、過ごしてきた日々は自分たちの手で作り上げたものだ。
 その日、その時、その場で色々なモノを積み重ねてきた。藍さんと共に、頑張ってきたんだ。
 どうしようと、それだけは嘘だとは言わせない。言わせてなるものか。
 


 「そうだ、なんというか………そこにいて安心するんだ。私の居場所は、此処………だと、な」



 今こうして話していることも、幻想に過ぎぬなんて認めない。
 目の前にいる彼女は、美人で、式神で、狐だ。失われた幻想の中で生きる、妖怪の一つだ。
 例えそうだとしても、此処にいることは本当なのだから。
 そんな秘めてきたいろいろな思いを、いい加減認めないといけないのだろう。


 
 「…………藍さん」

 「…………何だ?」



 「俺、此処に来て――――――藍さんといて、良かったと思っていますよ」
 


 俺の答えに満足そうに笑う藍さんは、今までにないくらい――――――――――。













 

 「意外でしたよ、そんなにあっさり認めてくれるなんて思いませんでした」

 「そうかしら?」


 
 横になって歩いているのは、藍さんではない。その主である紫さんだ。
 全て終わって、何もかもが解決して、ついに俺が帰れる時が来た。
 だから俺は帰ってきた。幻想郷を抜け、外の世界へと再び舞い戻ってきた。

 
 
 「珍しく藍が私に意見したのよ。あなたと一緒にいたいとね」

 「…………それは、また」

 「よかったわね、私が言うのもなんだけれど、藍以上は中々いないわよ」

 「知っていますよ」

 
 
 あの日消えた時から、かなりの日数が経っている。一夏が終わるくらいの長い時間、それくらいを過ごしたことになる。
 思い返せばいろいろあったけれど、でも、一番密度の濃い日々だったと思っている。
 あれ以上はもう無いだろうと思うし、もう来てほしくは無い。一生に一度がそう何度も来られては、どうしようもないのだ。
 


 「藍には期待しているの。いつか式神以上になって欲しいと思っていたから、一歩進んだことになるわ」

 「………だから、ですか?」

 「ええ。自分で考えるようになった今、少しの我儘は聞き入れてあげようとね」

 
 
 ただ、藍さんが望むのであれば、俺は首を縦に振るしかない。
 幻想郷に残ることを決めなくてはいけない。予想以上に、自分の中で藍さんのお願いの比重は大きいのだ。
 恐らくは、狐に憑かれたからなのかもしれない。あの九尾の狐に憑かれたのだ、もう逃げることも出来まい。
 "狐憑き"としての宿命。自分が死ぬまで、狐は憑き続けるのだ。
 
 ―――――なんて、落とし所はつけてみたけれど。本当は違うんだってことは、もう気が付いている。
 違うか、あの日に気付かされたんだ。憑かれたのはどっちかなのか。全く、分かったものではない。
 
 

 「これから色々あると思うけれど、頑張りなさいな」

 「色々、とは?」

 「分かっているでしょう?」


 
 人と妖怪の違い。男と女の問題。他にもたくさんの課題は山積みで、見上げても頂上が見えないくらいだ。
 一生をかけても終わらないかもしれない。藍さんだけに背負わせることになるかもしれない。
 その道は長く険しい。地獄にも似た道を、延々と出口まで歩き続けろということだ。

 

 「そうですね、それでも………なんとかなるでしょう」

 「大きく構えてるわね、いいわよ」



 でも、その向こうに希望があると信じている。そうでなければ、明日に価値を見出せない。
 幸せになることを願って生きているのだ。だから、それを目指していくだけの話。
 どんなに苦しくても、辛くても、その壁を乗り越えていく。

 その覚悟を胸に、最後にもう一度だけ、外の世界を見ておきたかったから。
 サヨナラするんだ、外の世界の俺は死んで、幻想郷の俺として生まれ変わるために。



 「行きましょう、あなたを待っている子の元へ…………お入りなさい」

 

 偶然か、あの自販機の近くで、紫さんは幻想への入口を開いた。
 まあ、今となっては何もかもどうでもいい。確かめたとしても、何の価値も持たないのだから。
 待ち望んだモノがあるのならば、これ以上は必要ない。


 一歩一歩進む度に、蘇る今までのこと。でも、それは本当に思い出になる。
 次にあるのは、これからのこと。


 ――――――さようなら、俺―――――はじめまして、俺。

 
 紫さんに導かれて、入った先にいるのは―――――。


 
 「なんだ、遅かったな」

 「いろいろと手続きやらがあるんですよ。人一人消すってのは、面倒なんです」



 玄関前で待ち迎えていたのは、やっぱり藍さんだった。
 感傷に浸る暇もない。あったとしても、そんな時間は無いのだ。
 自分で選んだことだ、うだうだ言っている暇があるのなら、少しでもマシになるようにしなければならない。
 


 「それに、いろいろ持ってきているようだな」

 「いいでしょう、今日から此処が俺の家になるんですから」

 「………ふふ、そうだったな」



 馬鹿な選択だと人は笑うかもしれない、狂っているとしか思えない所業だと、そう呼ぶのかもしれない。
 正しいかどうかはどうでもいいのだ。要は、自分が良いと思ったモノを選べばいい。
 その価値があると思ったから、俺は此処まで来たんだ。

 

 「おかえり」

 「ただいま――――藍さん」


  
 目の前にある笑顔、それを求めて。
 
 
 

────────────────────────────────────────────────────────────────

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2013年11月23日 01:17