今日で、丁度一ヶ月。
ここは幻想郷。そんでもって、この暖かい場所は神社の縁側近くだ。

時間の感覚が薄れると、日々が自堕落に成りがちだ。
夏休みなんかがその典型だな。分かるだろ? こう、宿題に手を出したくても、
何かがそれを止める感覚と言うか、まだ時間あるし明日から、なんて言うさ。

それが、現状の俺を包んでる感覚だ。
何かしなきゃならない。そんな使命感を抱きながらも、何も出来ずに居る。

と言うより、その何かから逃げたい。
逃げられないのは重々承知しちゃ居るんだが、それでもギリギリまで逃げたい気持ち。

まぁ、そんなこんなで、今日もこの和やかな空気に抱擁されていると言う訳だ。





「こら、掃除頼んでおいたでしょ」
「うおわっ!? く、くすぐったいからやめい!」

腋の下をくすぐられ、俺はびっくりして飛び退いた。

縁側から差し込む光と風は、薄ら近づく夏を嫌でも連想させてくれる。
そんな季節感溢れる縁側に振り返れば、太陽を背負い、心地良い風にその黒髪を煌かせる少女、霊夢の姿があった。
冬場は寒々しく見えそうだが、夏場にこの腋出しルックは涼やかに映る。

「いっつも俺がやってるじゃないか。たまにはそこの黒白はっきりしないのにやらせたらどうだ」
「失礼な。意外とはっきりしてるぜ」

わざわざ立ち上がってくるくると回る黒白な魔理沙。典型的魔法使い、とでも言えば、違うと言う者も居ないだろう。
黒と白の色彩が、確かにはっきりと分かれた服装。エプロンドレスは少々暑そうだが、そうでもないらしい。
何でも、女性の服と言うのは大抵は風通しが良く作られているとか。

「そんな事より、暑くて動きたくない」
「何よ、半裸に近い格好してる癖に。淑女の前よ」

確かに、俺は半袖シャツにくたびれたズボンの大分ラフな格好である。
が、問題はそこじゃないぜ。

「霊夢にそんな台詞はにあわnへぶっ」

放り出された。顔面を大分擦った気がする。二点。





さて、ここに何故俺が居るか、か。
良くあるだろう。適当に山道歩いてたら、偶然迷い込む。そんな感じよ。
ただ単に散歩が趣味だったから、それがこの偶然を招いたって訳だ。

説明は要らないだろう。俺の他にも、ここに迷い込む者は時折居るようだから。
そんな連中の一人にも、俺は会った事が無いけどな。

俺自身に、彼等に会いに行く気が無いから。





「今日は……。もう、一ヶ月か。早いな。にしたって、よく持つぜ」

携帯のカレンダーで日付を確認。それだけするとポケットに戻す。勿論、こんな場所じゃ
電波なんてある訳無いし、電気が通ってる訳も無い。ついでに言うと、文明の利器なんて物は
一つもあったもんじゃないぜ。

それにしたっておかしいのは携帯だ。何故かは分からんが、一ヶ月も経つと言うのに電池は目安上
減ってない。入れてた動画や音楽なんかもどういう事か延々垂れ流せるし、理解出来ない。

……便利なのは確かだが。
日記も大分書いたが、メモ帳限界に達した時点で表示がおかしくなり、これまた延々と書けるように成った。

日頃の行いでも良いからかね。うん、そうだそうに違いないぜ!
……虚しい。掃除の続きでも――

「はろう☆」
「うっひょう!!?」

喚声を上げながら飛び退くと、黒い亀裂から顔を出したパツキン美女……、げふん。
もとい、八雲紫が怪しい笑みを浮かべて、浮かんでいた。勿論、直接的な意味でも物理的な意味でも、だ。

「ここの暮らしには慣れたかしら?」
「……そらまぁ、一ヶ月も居りゃ慣れますわな」
「良い事ね。田舎暮らしも、長い人生なのだから経験して良いはずよ」
「はぁ……」

この怪しい女性は、何でも妖怪だとか。
妖怪と言うと、昔の絵巻物なんかに記されてるおどろおどろしい様のモノを連想するが、目の前に居るのは
どう見ても人間と相違無い女性だ。まぁ、普通の人間に「宙に浮かぶ」なんて真似は出来ないが。

「相変わらず萎縮しちゃって。怖いのかしら?」
「……怖い、と言うより、恐いです。いや、恐ろしいと言っても良いかも」
「当然ね。人は理解出来ないモノを恐れるように出来ているもの」

恐い。臆面無く言えるが、俺はこの異郷に棲む諸々の存在が恐い。
俺はただの人間で、霊夢や魔理沙のように飛べる訳でもなく、この妖怪のように瞬間移動じみた真似が出来る
はずもなく、お察しの通り、超能力者な訳でもない。

理解出来ない。自分には出来ない。納得出来ない。そして、恐ろしい。
俺が知り得る全てを超えた力を、彼らは、彼女達は持っているから。だから、恐くて仕方が無い。

畏怖ではなく、純粋な恐怖。
人智なんて超越した、意味不明な存在。それがこいつらだ。

だけど、俺はここで暮らしてる。
逃げたければ逃げれば良い。そう言われていると言うのに、足が動かない。

何故かは分からない。ここに来た時から、様々な事を諦めていたからかもしれない。

「そんな恐ろしい者の近くに居るけれど、貴方は逃げないのね」
「えぇ。逃げた所で、貴女が一撫ですれば、俺なんて塵みたいなモンなんでしょう?」
「ふふ、どうかしらぁ?」

ゾクリと背中に悪寒。ふと気付けば、一面真っ暗で、上下左右四方八方何も無い空間に俺は居た。
あまりに唐突な状況変化に、俺は数秒間考えることを失った。

「……殺す、なら、好きにすれば、良いじゃないですか」

ようやく戻って来た思考を揺り動かし、掠れた声を絞り出す。

喉の奥が急速に乾く。思考は噛み合わない歯車のように成り、足は絶え間なく震えだす。
何処だここは。いや、何処だなんて問題じゃ、違う。どうでも良い。兎に角、恐い。何も考えたくない。
何でも良いから、早く開放してくれ。殺してくれたって構わない。

目が泳ぐ俺の目の前で、何かが嘲り笑った気がした。

「最近ね、人間の典型を見てなかったのよ」
「……てん、けい?」

何処から声が聴こえているのか分からない。
足元か? 頭上? 右か、左? それとも体内から? それとも、恐怖から来る幻聴なのか?

恐い、恐い恐い恐い。

「そう。貴方のような、人間らしい人間。ここの人間は、ロクに妖怪も恐れなく成ったから、退屈してたのよ」
「……ぅ」

思わず力の抜けた膝が足元に着く。
俺は何にくずおれた。何にも見えない。何も居ない。何も聴こえない、いや、聴きたくない。

耳を塞いだ所で、きっと無駄。

「埃は舞ってこその埃。それ以上でも以下でも無いなら、相応の道化を演じて貰うのが趣と言うもの。
私にとって、貴方が塵芥の存在だとしたら、滑稽に映ってる事だろうと自分を哂いなさい。そして己の弱さを
嘆きなさい。無知さを、愚かさを、儚さを。そして何より、自身の存在価値の脆弱さを」

声も出なかった。

「そして、知りなさい。理解しなさい」

生温い、人の体温のような風が全身を包んだ気がした。

「そう、理解出来なければ、貴方は塵芥もゴミより酷い、無価値で無意味な存在」

意識はそこまでで、途切れた。
ただ、紫の言葉の意味を噛み締めるには、少々時間がかかったと言う事だけは確かだったと思う。





何も考えない、と言うのは意外と難しい。
試しにやってみれば分かるが、無心の状態を二、三十分も続けられるヤツが居たら、ソイツは中々すごい。

現に、眠りから目が覚めた時でも、脳と言うのは急激に且つたくさんの情報を動かし始めるものだ。

「……っうあぁ!?」

ガバッと体を起こして見れば、冷涼な風が頬を撫でた。
やたらと火照り、蒸し暑い体は汗だくで気持ちが悪い。

ぼやけた思考の中、考える間も無く誰かが近くに居るのに気が付いた。

「……あ、起きた」
「れい、む、か」

うたた寝でもしてたのだろう、居住まいが少々乱れた霊夢が、不安の色を浮かべて俺を見ていた。

怖い。自分と同じ人間、と言う区分があるせいか、恐い、ではなく、怖い。
怖い、と言うのは漠然とした恐怖を示す。恐い、と表現するほどの身体的危険を感じている訳じゃない。

しかし、霊夢に対してまでそんな感情を抱く自分が、何処か情けなく思えた。

でも、紫は。ただ、ひたすらに恐いんだ。恐くて恐くてたまらない。

「境内で倒れてたのを紫が見つけて運んで来てくれたのよ。熱中症にでも成った? 水、飲む?」
「……」

無言で首を横に振った。

紫。何者なのかどうかなんて知った事じゃないし知りたくも無いが、何を企んでやがる。
自分が見つけただなんて、まるで殺人犯か何かの言い訳にしか聴こえん。

俺みたいなガキをイジメて楽しいのか、性悪なバケモノめ……。

「……大丈夫? ちょっ、ちょっとこき使いすぎたかしら」
「……問題無い。少し、休ませてくれれば良い」
「なら良いけど……。無理しないで、欲しい物があったら言ってよ? あ、着替えは流石に自分でやってよね?」
「あぁ」

霊夢はそれだけ言うと、縁側の方へと消えて行った。日当たりも良いし、昼寝をするには丁度良いスポットだ。
……と言うか、事ある度に昼寝してる気がするぞ、霊夢。

そんな霊夢の様子に毒気を抜かれ、俺はため息一つついて布団に横になる。

何でここに居るんだろう。風は汗ばんだ体を優しく撫で、心に幾分かの平静を取り戻してくれた。

先の出来事を思い起こしてみるが、暗闇の中ただ暴力的な言葉をぶつけられたようにしか思えなかった。
何を考えているんだ、紫は。人間なんて俺の他にもいくらだって居る。俺じゃなくて他に当たってくれよ。

いくら喚こうが、当の紫はここには居ないし、言った所でせせら笑われるだけだろう。多分。

「はぁ」

また漏れたため息は、誰に届く事も無く。
疑心と孤独。自分を理解してくれるヤツは、きっとここには居ない。

……恐い。




               ━ 2 ━



「○○! たまにはお遣いでも行って来なさい!!」

開口一番、彼女はそう言った。
猫の鳴き声を挟み数秒の間を置いて、俺はどう切り返すべきか考えていた。

「……ちょっと待て。何かそれは、母親が子供に言う的台詞だぞ」

妥当なライン。家から出たくないから、とりあえず話題を逸らそうとする。

「何でも良いの! 良いから、たまには出かけてみなさいよ」

まるで引きこもりの息子に渇を入れる母親だな、なんて思ってみたりするが、
今回は結構マジらしいな、何か危ないオーラを感じるぞ。言い回しを失敗したのかもしれん。

「……えー」

それでも、あからさまに拒否オーラを出して競り返す。
外なんか行きたくねぇよ。何が出てくるか分かったもんじゃないし、紫なんかと
顔を合わせたら何をされるか……。

「良・い・か・ら……、霖之助さんの所辺りでも行って来なさい!!」
「うごぁッ!?」

常任理事国以外の拒否権はお断りらしいです。
痛い。また顔面擦った。二点。





あー、生活用品に何やらに……、このくらい自分で買いに行けば良かろうに……。
かと言って俺は居候の身でして、我儘言って行かない訳にもいかないんだよなぁ。それでも、
最近までは家の中にこもりっ放しだったけど。

まあ、たまには散歩でもしないとな。体が鈍っちまうぜ。
そう前向きな考えに切り替えて、目の前に広がる雑木林を見つめる。

一応、外には出る。地理を把握してる訳じゃないが、神社の周りを散歩する程度だ。
けど、ここまで来たのは初めてだ。遠めから見ても、樹齢を重ねているであろう木々は威厳を称えており、
通り過ぎる森の香りは心地良い。やっぱり、ちょっと損してたかも。

霊夢から貰った地図には、このドデカイ森の何処かに香霖堂がある、と記されている。
現在位置がここで、こうなってるから、えーと。

……その内着くさ!



森の中は案外整備されているのか、歩く事には困らなかった。
左右を見渡せば、何処かで鳴く鳥の鳴き声、獣の声なんかが聴こえて来る。

よくある、その辺の松林と見た目上の差は無い。差があるのは、妖怪が居るか居ないか、だ。
妖怪なんかに遭遇しない事を祈りたい。

ここに迷い込んだ時は、運良く妖怪に遭わずに神社に辿り着けた。
だからこそ今の俺がある。つまり、俺は強運って事かね?

遭う側から取って食う訳ではないらしいが、そんな事言われたって信用出来るか。
奴等は「妖怪」なんだ。見た目が同じだって、中身は人間とは全然違う。人間が考える事と、妖怪が考える事じゃ
きっと大分違うんだから。

「……」

疲れた。
歩き疲れ始めた頃に、丁度切り株が目に付いた。

何処行ったって何か居るなら、どんな場所で休もうと関係ないだろ。
これは一種の諦めだな、とか思いながら切り株に腰掛ける。紫より恐い妖怪じゃない限り、何とか成る、と思う。
いや、そんなの分かる訳無いか。襲われたら、問答無用でランチだろうし。

この時間だと夕食が近いな……。

……違うッ。違う違う!! な、何故食われる事前提で話を進めてるんだ俺は!!

「考えない考えない考えないッ!!」

……恐い。

さっきまでは良かった。何も考えずにただ道を進んでいただけだから。
ふとしたキッカケで恐怖を覚えると簡単には拭えなくなる。まずい、とっとと香霖堂とやらに辿り着こう。

休憩もそこそこに、俺は立ち上がって地図を一瞥した。

……目印が無い。方向が合ってるかも良く分からなくなって来たぞ……。

ん、アレは……?





「……いらっしゃい。おや? 魔理沙と……、そちらは、どちら様かな?」
「ああ。霊夢んトコに世話に成ってるヤツが居るって前話したろ? 噂の転校生ってヤツだ」
「転校生って……。ところで君、顔色が悪いようだが、大丈夫かい?」
「……えぇ、なんとか……」

ご覧の通り、香霖堂には着いた。
そう、ここに至るまでは様々な紆余曲折が……、あった訳ではない。

神か悪魔の導きか、俺は運良く魔理沙に出会い、ここまで辿り着いた。

なんでも、ここには外の代物がたくさん置いてあるらしい。なもんだから、「外の世界から来たお前なら、
何に使う物があるか分かるだろ?」そう魔理沙に言われ、半ば強制的に拉致られた。結果的には、万事オーライ?

「コイツは何に使う物なんだ!?」
「あ、あー? これは冷蔵庫だが……」
「レイ……。成程、霊を入れるから霊蔵庫か!! 確かに何かヒヤッとしそうだぜ!!」
「ちょっ、違っ!!」
「じゃあこれは何だ!? なんかこれ伸びるぞ! やばい伸びるぞ!!?」
「ただのラジオアンテナだっ!! って、アッー!! 折れたーっ!!」

お粗末。





鴉が鳴いたら帰りましょ~。

「……日が暮れてしまったね?」
「……えぇ」
「……楽しそうだったけど」
「……ごめんなさい」

いくつか商品を壊してしまった。いや、俺ではなく魔理沙が。反省はしている。
そして当の魔理沙は満足したのか早々に帰ってしまった。待て、これで帰れるのか俺は。

「ところで、君は何か買いに来たんじゃないのかな?」
「あ、はい。そうでした」

霊夢から預かったメモをポケットから引っ張り出し、森近さんに手渡す。
……何か、「お代はツケで」って文字が見えた気がするが、気にしない。代金らしい物を霊夢から
預かっていた訳でもなく、払えと言われたらどうしたものやら……。

「……ほら、持って行くと良い」
「え、あの、良いんですか?」
「なに、霊夢の事だ。またツケだよ」
「……あは、は」

苦笑いを返す事しか出来ませんでした。
……そもそも、ひょいと出の俺がこんな風に色々迷惑を掛けて、これだけで済んで良いものなのか……。

「気にしないでくれ。いつもの事だ」
「はぁ……」
「だが、少し君に頼みたいことが出来たよ」
「うえぇ?」

突拍子無く飛び出した言葉に、俺はつい妙な声を上げてしまう。

「なに、大した事じゃない。少し待っててくれないか」
「あ、はい」

それだけ言うと、森近さんは店の奥へ引っ込んでしまった。
やれやれ、何をさせられるのやら……。

暇なので、先程からもう散々弄り倒している店内を見回してみる。いや、違う。俺が荒らしたんじゃない。
魔理沙がやたら色々引っ張って来て、俺がそれにツッコミを入れていただけだ。

商品棚の隅にあったipodに驚いていると、森近さんが妙な石ころを抱えて戻って来た。

「これだ」
「……これは?」

何かの骨だろうか。にしたって随分と硬質な輝きを放っている。

「名無しの化石だ。君ならば、この化石の名を知っているのではないか、と思ってね」
「……」

一応、手に取る。

これは多分、大きさからしても恐竜か何かの化石だとは思う。とは言え、俺は考古学者でも
生物学者でも無いし、こんな物の正体が分かるはずも無い。

「こんな大きい生物が居るはず無いだろう? だからと思って、外の知識を持つ君ならばこの化石の正体が
分かるんじゃないかな、と」
「……すみません、何の骨かは分からないです。ただ、恐竜の化石だとは思うんですが……」
「竜? 外の世界には竜が居るのかい?」

竜、と言う単語が出た途端に、森近さんの声に好奇心の色が浮かぶ。

「いえ、そう言う訳じゃなくて。化石として、古代に生きていた動物の骨が時折出土してですね……」





――結論から言うと、夜が来てしまった。

外の世界の談義と言うか、何と言うべきなのか。
兎角、森近さんのトンデモ理論に俺が度々ツッコミを入れるような形で、ひたすら話していた。

とは言え、この人の発想力は純粋に凄いと思う。
化石が大きく成るって、一体どう推測したら出てくるんだぜ?

……まさか、この人妖怪だから色んな事知ってるんじゃないよな。
見た目は青年、と言ったくらいにしか見えない。眼鏡に阻まれた眼光は、彼が妖怪かもしれない、
と言う輝きをはなっているような気がした。

――とどのつまり、疑心と言うのは抱いてしまうと破裂するまで戻らない、と言う事だ。
そんなものを、いつまでも抱いてる必要は無い。だったら、すぐに解消してやる――

「さて、そろそろ帰らないと霊夢が怒リ始める頃合だな」
「……あの、森近さん」
「霖之助で構わないよ。何だい?」
「……じゃあ、霖之助さん。失礼かもしれませんが、貴方は――」

劈く音して一瞥先には、双眸に憤怒の烈火を宿した少女が立っていた――





鈴の音のような虫達の鳴き声が、香霖堂を出ると同時に暗がりに響き渡る。
この辺には本当に人が住んでいないんだ、と言う事がはっきりと分かる。一寸先は闇、
と言う表現がぴったり合う。

まあ、そんな趣は放っておいて、だな。

「……いだい」

視界が歪んでいる。誰かにぶん殴られた時のように目の焦点が合わず、平衡感覚なんてものは
完全に消失していた。いや、殴られるなんて言うレベルじゃない。鈍角なサマーソルトを喰らったんだから。

「当然よ、痛くしたもの。これに懲りたら、またお遣い頼んだ時は分かってるわね!?」
「も、もちろ……と、と言うか、フラフラして、歩けない」
「仕方ないわね……。ほら」

そう言って霊夢は俺の眼前に手を差し伸べた。
覚束無い手で霊夢の手を握ると、声を上げる間も無く足元の感覚が消えた。

「……っ!?」
「あら、怖いの?」
「こっ、怖くなんか……!!」

ようやく明瞭に成って来た目で下を見れば、既に香霖堂の明かりは小さくなっていた。
……と言う事は、落ちたら間違い無く死ぬ高さ……。

「ごごごごめんむりむりむり怖いでででですですです」
「男でしょ」
「おまっ、お前と違って俺はっ、飛べないんだあぁぁぁ」
「もう、分かった分かった」

ぎゅう。後ろから霊夢の腹辺りにしがみ付く形で飛ぶ事になった。

この体勢。普段の俺ならエロいだの何だの言う余裕があるが、残念な事に俺は高所恐怖症だ。
いや、と言うかこの高さなら誰だって怖がる。
怖がらないってヤツは前に出ろ。この高さから突き落としてやるぜ。

「は、離さないでくれよっ!?」
「あんたが離さない限り大丈夫よ。それに、落ちたら後々面倒じゃない。処理とか」
「……酷くね?」
「冗談よ。落としたりしないから安心しなさい」

ほふぅ、と霊夢の背中でため息をつく。
俺に同調するかのように、彼女もため息をついた。霊夢が呼吸すると同時に腹の動きが直に腕に伝わるので、
何だかこっぱずかしく成って俺は押し黙ってしまった。

――結局、霖之助さんが妖怪なのかどうなのか聞きそびれてしまった。

失礼だって事は重々承知してたけど、やっぱり聞くと成ると何かマズイ自体を招いていたのかもしれない。
人を喰うような感じには見えなかった。でも、それは表面上かも分からない。

くそ、何だってこんな……。頼りたくても、誰にも頼れないぞ……。
黒い思いは獲物を捕らえた蛇のように、俺の心にしがみ付き、喰らいつく瞬間を窺っているようだった。

「……○○?」
「……え? あ、なん、だ?」

唐突に掛けられた声に、俺は一瞬反応が遅れてしまった。

「ほら、空」

え、と顔を上げて見れば――

満天の星空に浮かぶ、ただただ壮大に煌く、満月。

満月、いや、星空ってこんなに綺麗なものだったのか。
向こうに居た頃は気にも留めなかった、夜空。幻想郷の名にふさわしい、幻想的な星月夜。

褒める言葉なんて見つからなかった。ただ、美しいんだ。

「……泣いてる?」
「あぇ!? なっ、泣いてないぞ!!」

いつの間にか、止め処無く涙が零れていた。
強がって反論するも、急に襲って来た涙の応酬は防げるもんじゃなかった。

何だよ、ナンダーヨ。きょ、今日はどんな日なんだっ!!

こんなんじゃ、こんなに綺麗な場所じゃ、人間だろうと妖怪だろうと、疑える訳無い……。
湧き出た蛇は巣穴に帰り、とっくに俺を喰う事を諦めていた。

こんな景色がある所に、人を喰らう妖怪だって? そんな者、居てたまるか。

――こんなくらいでコロッと考えを変えるなんて、俺はきっと、相当な馬鹿なんだろう。

「鼻声っ、声掠れてるっ、顔見せなさいっ!!」
「い゛っ、いや゛だー!!」

必死に成って顔を隠そうとするも、隠す場所は霊夢の背中しかない。そして、下手に暴れたら落ちる。
だとしたら、しがみ付くしか手は無いだろう!

「ちょっ、ひやぁ!? ど、何処触ってんのよーッ!!」
「だだだっ、だってこうしないと落ちr……アッー!!」
「お、落ちてしまえー!!!!」



こう、何て言うかさ……、やっこかった……。



              ━ 3 ━




損得ってのは、往々にして物事が去った後に気付くもんだ。
あそこでこうしてりゃ良かった。あの時ああしていれば。よくある話だな。

そんな後悔が無いように、たまには散歩する事にした。




……何とも微妙すぎる変化だな。

数日前の香霖堂での一件で、ようやくこの場所、幻想郷が美しい場所だと気付いた。
その引き換えに、命綱無しのバンジーをやらされた。地面まで残り数十センチって距離だったな、アレは。

霊夢がしばらく口を聞いてくれなかったのは言わずもがなです。






空を見上げると、澄み渡った空の彼方に数匹の鳥が早足で駆けて行く。
それを追いかけているのかのように、一瞬太陽を遮って大柄な鳥らしきものが悠々と横切って行った。

……あれ、妖怪かなぁ。
距離がありすぎて、何だか黒い影にしか見えない。ここは幻想郷、何が居てもおかしくない、らしい。
とは言え、矛先がこっちに向いてる訳じゃないし、別に怖くも何とも無いけど。

神社のすぐ近く、丁度日の光が木陰に隠れて涼しくなってる絶好の昼寝ポイント。
ここなら妖怪が襲って来るはずも無く、おまけに大自然も味わえると来たもんだ。気を抜くと、
すぐ蚊に刺されるんだけどな。

「またこんな所に……」
「おぉう、霊夢か。脅かすなよ」
「まったく、散歩なんて言う割にいつもこの辺に居るじゃない。神社から出てみたらどう?」
「だが断る」
「あらそう……」

霊夢は呆れたようにそう言うと、俺のすぐ隣に座って一息ついた。
神社を出たいのは山々だが、やっぱり妖怪が居る所には出て行きたくない。

「たまにはこんな所でお茶も良いわね」

霊夢はいつの間にかお茶を片手に携えていた。
俺の分は無いのか、と言おうとした直前に、また何処からか霊夢はお茶を引っ張り出した。

「ちょっ、それどっかr……、まあいいや、ありがと」
「ん」

霊夢からお茶を受け取り、一口啜る。やたら熱い気がするが、今さっき淹れたのか、コレ?

……平和だ。

世の中、表と裏がある。言うなれば、俺が今ここにのほほんとしている場が表で、妖怪共の跋扈する
場が裏なんだろうなぁ、と。まぁ、妖怪が裏で何をしてるかなんて知った事じゃないが。やっぱり、人を喰ったり
してるんだろうなぁ……。

とは言え、この神社はきっと安全だ。なんてったって、博麗の巫女が居るんだしな。
妖怪が寄って来るはずも……。あれ? そう言えば、紫とか普通に出入りしてた気がするぞ……。
てか、ここ以外に神社って無いのか?

「そうそう」
「ん?」
「今日宴会があるんだけど、準備の為にちょっと留守にするから留守番よろしくね」

……宴会とな? と言うと、誰が来るんだろうか。
魔理沙は、そりゃ来るだろうな。で、他に来そうな人って誰だ? …霖之助さん、とか?

そもそも、宴会って言うからには大人数でやるんだよな……?

「……聞いてる?」
「え、ああ。分かった」
「それじゃ、お茶飲んだら行って来るから」
「お、おう」

何か言う間も無く、やたら熱いであろうお茶を一息に飲み干し、霊夢はパタパタと駆けて行った。
やっぱり気になるんだけど、そのお茶何処にしまってるんだ。

あ、結局誰が来るのか聞きそびれた。






……とは言え、一人になるとやっぱり暇だなぁ。
陽も傾いて来たが、携帯で時間を確認してみればもう七時も成ろうかと言う頃合だ。

こんな感じの時間を、逢魔ヶ刻って言うんかなー……。
ふと、顔にかかる夕焼けの眩しさが何かに遮られた。

「おぅい、霊夢居るかーい? 今日の宴会の話……。およ?」
「……ひょ?」

斜陽を背負い現れた、茶髪の女の子。
けれど、夕焼けに輝く鮮やかな髪より先に目が行ったのは、その頭から生えた、二本の角。

……よう、かい?

「……あんたは……。あぁ、何か外から来たって言う子ね?」
「……そう、だけど」

体が固まる。別に、この女の子から何かされたって訳ではないけど、動けない。

年格好からは、少女にしか見えない。けど、中身はどうなんだろう。
鬼って奴だろうか。俺のイメージの中では、地獄の獄卒的な想像が浮かぶが、これでは随分拍子抜けだ。
いや待て、騙されるな。見た目なんか、どうせハリボテに過ぎやしないんだ。

紫に襲われた時の恐怖を思い出しながら、そんな事を考えていた。

「……あんた」
「な、なんだよ」

女の子はそのままの体勢で腰に手をやると、急に何かを取り出した。
何が来るかと俺は身構えるも、出て来たのは何だか珍妙な瓢箪がひとつ。

「お酒飲める?」
「……へ?」

女の子は瓢箪を俺の目の前に突き出し、ニカリと笑った。







目を開けた途端に襲って来たのは、両のこめかみに走った鈍痛だった。

「……頭痛が、痛い……」
「えらく古典的なボケ方ね。そうでもないかしら?」

揺らぐ視界の端から現れたのは霊夢だった。うえぇ、その袖やたら揺れてないかー。

「え、宴会は……」
「とっくに終わったわよ。まだ幾らか残ってる連中も居るけど」

ゾンビさながらの呻き声を上げながら起き上がると、そのままぶっ倒れそうに成る。何とか堪えながら
周囲を見渡すと、どうやらここは寝所のようだ。

……確か、さっきの鬼っ娘、萃香に酒を飲まされて、んでもって……?
ビビったね。俺よりどう見ても小さい細身の女の子からあんだけガボガボ酒喰らわされた日にゃ……。

「……俺、変な事言ったりしてなかったか?」
「さぁねぇ。私が帰って来た時には、○○完全に落ちてたし」
「あぁ、そう……」

危ない危ない。どうやら、何か言う間も無く落ちていたようだ。
急性アルコール中毒がどうとか言う問題じゃない。酔った俺は何を口走るか分かったもんじゃないんだ。

……萃香、だっけか。
あの子は鬼だそうだが、妖怪とは違うんだろうか。少なくとも、恐怖を感じさせるような素振りは無かった。
見た目幼女だし……。

「う……。いかん、吐きそうだ……」
「滅却してあげましょうか」
「ごめんなさい今すぐお手洗いに行って来ますごめんなさい」

込み上げる吐き気を気合で抑えながら、縁側に沿って手洗いへ向かう。

いつもの事ながら、霊夢には迷惑をかけてばかりな気がする。だけど、それを解消する手立てを見つけられない、
むしろ何かをしようとする勇気の無い自分が情けない。

……恐いんだ。色んな事が。
拒否されたり嫌がられたり、あるいは妖怪共の理不尽な力や存在の大きさが。

自分が元居た所とは、あまりにかけ離れ過ぎているこの場所。
あの世界は、皆に合わせていれば良かった。否定されたりしなければ、恐れる事なんて殆ど無かった。

確かに、ここは楽しい。けど、俺自身の恐れが俺を飲み込んでしまいそうで。

……どうして、こんな所に居ようと決めたんだっけ……。

角を曲がった瞬間、視界が上下反転した。
胃がひっくり返るような感覚に襲われ、俺は無様に地面に叩きつけられた。

「ッ……ゲホ」

咳のたった一つが、胃に連動して嘔吐を催促する。
……地面? 木目の廊下を走ってたのに、地面だって? いや、この感覚は地面じゃない……!!

急に汗ばみ始めた手元を見れば、そこには俺を見返す紅い瞳。
いや、それだけじゃない。見回せば見つめ返す、たくさんの目、眼、目、眼。

「な……っ!?」
「手伝いましょうか?」

背筋が凍る。まるで液体窒素のシャワーでも浴びたかのように体は硬直し、ほんの数秒前まで
暴れていた胃袋が一瞬にして縮み上がった。

予想通り。顔を上げたその先に、あの不気味な笑みが広がっていた。
八雲紫。どうしてこう、狙ったかのようなタイミングで現れる。俺の無様さ加減でも観察しに来た、とでも言うのか。

そんな事を思おうとも、コイツは楽しそうに顔を歪めるばかり。

「……ぅぁ……ぁ」
「あらぁ、私の顔に何かついてるかしら? それとも……」

今度は耳元で響く声。

「貴方のダイキライな妖怪でも居たのかしらぁ……?」

ツイ、と頬を撫でる冷たい感触。
刹那、不意に戻って来る嫌悪感。恐怖に耐え切れず、胃が暴れだした。

「ッげ……」

気持ち悪い。しかし、胃にかかる負担は何故かどんどんと薄れて行く。

「床を汚すのは良くありませんの」
「……貴女が、やったんですか」
「えぇ、困ってる人を助けるのは当然ですわ」

その口で何を言うか……。
何をしたのかは分からんが、確かに胃は軽くなった。吐き気も無い。

出来る事なら、このこびり付くような恐怖も拭って欲しいもんなんだが。

「……それで、今度は何の用、ですか」

言うと、派手な電撃を空間に生じさせながら紫が現れる。わざわざ俺の真正面に。
どう言う原理かなんて分からないし、分かってやりたくもないが、俺をビビらせる為の演出にしか見えない。

「あらあら、敬語じゃなくても良いのに。そうねぇ、これと言って用は無いんだけど……」

フワリフワリ。勿体つけるように俺の目の前で右往左往。
何をしでかすか分かったもんじゃない。俺は身構えたまま後退るが、ふと後ろを見て気付いた。

……ここ、何処だ。
目を凝らしても、狂ったように配置された眼が見返してくるばかりで距離感さえ掴めない。

逃げられない、と。そう言う事かよ。

「……俺をイジメてそんなに楽しいですか?」
「あら、心外ね。確かに貴方はここでは珍しいタイプの人間だけど……。そうねぇ……」

空気に乗っているかのように、音も無く俺の後ろに回る紫。

「イジメるよりなら、食べちゃう方が好きねぇ……」
「……!!」

待てよ。今までの茶番は何だったんだ。

俺は、放し飼いにされた家畜か何かだったって言うのか。
飽きたら即座に壊されるのか。

……妖怪にとっては、俺なんかただの餌でしかないって事か……。

って、誰が黙って喰われてやるものか!!

「嫌だ……ッ!?」
「逃がさないの」

纏わり付くように、紫が俺の体を羽交い絞めにする。後ろから抱き付かれるような形だが、
恐ろしい事に、どんなに力を入れても束縛から逃れる事が出来ない。

化け物め……!!

「おやすみなさい」

まるで幼子に掛ける母の言葉のように優しい響き。一抹さえ、逃げる気力は残されていなかった。
首筋に、蜘蛛の糸にも似た細い指先が絡み付く。

――死ぬ……!!







「随分行儀の悪い妖怪が居るようね」

凛と響いた、少女の声。

「無粋ね」

あからさまな不満を感じさせる声が耳元で聴こえた。
急に、嫌な空気が晴れた。首を動かせる範囲で辺りを見れば、元の境内の姿がそこにはあった。

「満月にでも狂わされたのかしら、紫?」
「下弦の月が綺麗ですわ」
「○○から離れなさい。さもないと、容赦しない」

見えない何かを肥大化させ、霊夢はただ瞳に強い感情をちらつかせていた。
さながらそれは紫にも匹敵するであろう、強い、何か。

俺にはそれが何だか皆目見当も付かないが、ただ恐ろしかった。

「巫女がお怒りね。続きはまた今度――」
「逃がさない」

紫が暢気に言うか言わずか、霊夢がほぼ紫の零距離まで接近していた。

「退いてなさい」

ガクン、と視界が暗転し、ふと気付くと俺は縁側に倒れていた。
もはや何が何だか分からないが、霊夢がやった事なのは確かなようだ。

「元気ねぇ」

霊夢の鋭い蹴りが紫の顎を捉える。が、瞬時に飛び出してきた扇子によって軌道は逸れ、
宙を割らんばかりの蹴撃は虚空を突いた。

二の句も告がずに応酬を続ける霊夢。
しかし、紫はまるで水面に漂う木の葉のように当たり所無く、掠めるようにそれらをいなして行く。

拳撃、蹴り、針やらお札、あるいはお払い棒まで器用に使いこなす霊夢に対し、
ただ扇子の一つで受け流して行く紫。
人外の戦い。俺はただ見惚れるように、くずおれたままそのやり取りを眺めていた。

「夢想封印」

何処から取り出したかも分からないカードが輝きを放ったかと思うと、鮮やかな光の奔流が札から産まれ、
紫に殺到して行く。SF映画、いや、新手のバトルアクションでも見てるのか、俺は。

轟音が空気をかき鳴らし、紫の立ち位置であろう場所から土煙を巻き起こす。

「四重結界」

飾り気の無い、重ねられた魔法陣のような障壁を立ち上げて、紫は不気味に微笑んでいた。
恐ろしい事に、紫の立っている地面の周囲が根こそぎ抉られているのに、紫本人はまるで健在だった。

「一つや二つ破れた所で、私には傷一つ付かないわ」
「そう、なら――」

霊夢の姿が、唐突に霧のように消えた。
何処へ――、そう思った直後には、紫に触れんばかりの至近距離に霊夢の姿が見えた。

「――中から崩すまで。八方龍殺陣」

地上で花火を打ち上げたら、どんな風に成るかは知った事じゃない。打ち上げても怪我するだけだろうから。
ただ、恐らくこんな風に成る、そんな凄まじい光の爆発が、二人を中心に巻き起こった。

「……!!」

物が焼け焦げる嫌な臭いと、湿った土の土臭さ。
真っ黒な煙が晴れた先には、霊夢が鬼神の如く闘気を漂わせながら立っていた。

女神なんて言葉は掛けられないし、戦乙女なんて言葉も似合っちゃいない。そんな、生易しくて
輝かしいもんなんかじゃない。
俺はただ、小動物か何かのように、恐怖に震える事しか出来なかった。

言葉を考え出す脳味噌は、既にパンクしてくれているようだったから。

「もう、スペルカードルールを取り決めたのは貴女でなくて?」

地面に切れ目が入り、服の各所が大分焼け焦げた紫が這いずるように現れた。服の切れ間からは、
作り物のように研ぎ澄まされた白さを持つ肌が垣間見える。
紫は口元に笑みを湛えつつも、冷淡な瞳には妖怪のそれ、人間とは違う恐ろしい何かがギラついていた。

「短絡的な行動を取ったあんたへの制裁。それじゃ、通らないかしら」
「そうね、貴女のルールは幻想郷のルール。悪い妖怪は、退散するのが道理ですわね」

からかうような口調の中に、触れれば噛み付いてくるような何かが見える。

「分かってんならさっさと帰れ。次に何かやったら、問答無用で消滅させてあげる」
「まぁ恐い」

クスクスと耳障りな笑い声を上げながら、紫は黒い亀裂の中へと消えて行った。
そして、残された俺と霊夢。漂うのは、土臭さと静寂だけだった。

「……ふぅ」

静寂を打ち払ったのは、霊夢の小さなため息だった。

「まったく、紫が何を考えてるのか分かったもんじゃないわ。○○に目をつけるなんて、
殺されたいのか気でも違ったのか……。っと、怪我とか無かった?」

俯いたまま、霊夢の声をただ聴いていた。

「……大丈夫? 何処か痛む――」
「…………バケ、モノめ」
「……え?」

堰を切ったかのように顔を上げる。困惑した霊夢の、美しい顔が、そこにはあった。
甘い罠を持った食虫植物のような、美麗で抗いがたい、霊夢の全てが、俺の目には見えていた。

……分かってる。知ってたさ、そんなこと。

「何よ、どうし――」

獲物を捕まえに来た触手のような、その穢れ無い清らかな手を、あらん限りの嫌悪を込めて、払った。

「バケモノめ……」
「な……、○○……?」

逃げれば良い。捕まらなければ良い。何処かへ、目の届かない、手の届かない、何処かへ――

「バケモノめええぇぇ!!!」
「ッ!!」

この場から逃げ出したい。一秒だって居たくない。

――お前みたいな、お前らみたいなバケモノ共なんかと、一緒には居たくない……!!










――それから数刻も経たぬマヨヒガにて――

「お帰りなさいまs……って、紫様!? 何ですかその格好!?」

ほぼ下着状態に成って帰路に着いた主を見れば、いくら多彩で多才な式神とて驚きもする。

「えぇ、ちょっとグラマラスな美というものを肉体で以って証明しようと……」
「宴会で何やって来たんですかーッ!!?」

それにしてもこの紫、ノリノリである。

「――計画通り」

紫は何処かで見た事のある誰かの顔真似をしながら、遅い夜食に舌鼓を打ちながら微笑んだ。

「らんさまー。紫様すっごく楽しそうだよー」
「ははは、また何か道楽事でも考えたんだよ……」

暇潰しにしては、ちょっとやり過ぎたかしら?
そんな事を思いながら、式神の尻尾を枕に行儀悪く夜食を食べ続ける紫。

「あ、ちょっと藍。白髪があるわよ、尻尾に。気苦労が絶えないのかしら?」
「その部分は地毛ですよ……」


              ━ 4 ━



客観的事象と主観的事象は勝手が違う。
例えば俺が大好きな、そうだな、弾幕ゲームなんかがあったとしよう。

そいつは確かに共感している者も多く、知り合いに薦めてやりたくなるくらい面白いものだ。

けど、それは「多くの人間」が共感しているだけであって、自分以外の全人類が皆共通に
大好きな訳じゃあないんだ。そして、現状の俺は、それを体現しているような異郷に放り込まれている。

好きとか嫌いとか、そんな範疇じゃないんだけどな。ただ、これはモノの例え。比喩とでも言うのだろうか。

外国語の分からない日本人が海外に放り込まれた、そんな境地と似通ってる。
見た目も違う、背格好も違う、おまけに話は通じない。

――それがどんなに恐ろしい事か、向こうには伝わらないんだ。

理解して貰えない事がどんなに怖くて、恐いか。

――分かるか? 俺は、一人なんだ。






「っは……、はっ、はぁ……」

息を殺して、木の陰に身を潜める。
誰か居る。それも、一人二人じゃない……、気がする。

愚かにも、俺は神社を飛び出した。
霊夢の、いや、化け物共の懐には一寸の間だって居たくない。俺はどうしてあんな所に居たって言うんだ。

とは言え、落ち着いて来てようやく気付いた。
この場に居る事の方が、神社に居るより尚更危険度が高いと言う事に。

そして、軽率にも地図や方向を示す類の物を持ち備え損なっていた、と言う事。
これでは、いずれ化け物共に捕まって食い殺されるか、あるいはのたれ死んで無縁仏に成り果てるだけだろう。

――帰りたい。

闇に目を凝らしても、木々のざわめきが聴こえて来るばかりで何も見えはしない。
何か居る気がして、震えが止まらない。闇に顔を出している今も、何かが見つめ返しているんじゃないか、
そんな止め処無い猜疑心に捕らわれてしまう。

朝まで待つべきか、それとも危険を顧みずこの暗闇に足を踏み入れるか。

知っている場所なんて、香霖堂と無縁塚くらい。
それ以外は、霊夢や魔理沙からほんの少し聞いたくらいか……、にしたって、ロクに覚えちゃいないけど。

ああ、くそ! 何で俺はこんな所に……、え?
……待て。どうして俺は無縁塚なんて知ってる?

「貴方は美味しい人類?」
「ッ!!?」

唐突に、手元さえ見えない暗闇の訪れと、可愛らしい少女の声。
だが、ここは知っての通り幻想郷。見た目や声なんて関係無く、中身は化け物なんだ……!!

逃げろ、脳味噌の叫びにワンテンポ遅れて体が動き出す。
が、次の瞬間「ひゃあ!!」と言う小さな悲鳴と衝撃によって俺はモロにすっ転び、何か柔らかい感触を手に感じた。

「せ、積極的な人類なのかー」
「はぉわっち!?」

一瞬暗闇が晴れ、見返す赤い大きな瞳に驚いて飛び退く。
な、何触った。今俺は何を触った。何か、以前感じた事のある気がする雰囲気だったぞっ。

「うー……、頭打った……」

晴れた暗闇は取り囲むように声の主を再び包み、目が赤いと言う事、そして痛みに不満を漏らす声以外を
残さず覆い隠した。
これは、逃げる、べきなのか。って、馬鹿野郎、逃げるべきに決まってるだろ!!

「あり、何処行った?」
「……?」

相手の挙動は見えないが、疑問符がついた台詞を吐いたのは分かる。
もしかして、暗闇を操作出来る癖に自分にも見通せない、とでも言うんだろうか。

試しに手を振る。盛大に振る。無意味に振る。

……見えてない?

音を立てずにしゃがみ込み、足元にあった手頃な石を掴む。怪物映画のワンシーンを彷彿させるが、
これは架空ではなく現実。とは言え、こう言う気の逸らし方は映画やゲームなんかに良くあるものだ。
そんな諸々に感謝しつつ、俺は自分自身とは真逆の方向に飛んでいくように、石を放り投げた。

軽い音が響き、「およ?」とまた疑問符が飛ぶ。
二個目。どうやらそっちに居るであろう、と判断したらしく、向こうの気配が動いて行く。

ふと気付くと闇は晴れ、ジメジメした森林が再び俺の前に姿を現した。とは言え、時刻は夜半も当に過ぎ、
視界が悪い事に変わり無いんだけど。

「……何だありゃ」

見れば、球状の真っ黒い何かが、俺の居る場と反対方向にフラフラ動いている。
どうやらあの中に、間抜けだが声は可愛い何かが居ると見た。人外であろう事は分かっていても、自然と
頬が緩んで来るのは何故だろうか。

――いかんいかん。これはチャンスだ、今の内に逃げない手は無いだろう。

月光に照らされ通りやすくなっている獣道を選び、音を立てないように俺は駆け出した。








――どれだけ走っただろうか。

夏もそろそろ始まるかと言う頃、強歩程度の速度だったとは言え、走れば玉のように汗も掻く。
見上げれば、冷淡な下弦の月がこちらを見下ろして、さながら高見の見物を決め込む観客のよう。

……特等席の眺めってヤツはどうだい、お月さんよ。

膝に手をついて呼吸を整え、一息つく。
辺りは月明かりに照らされ、神秘的なシチュエーションと空気を漂わせていた。ここいらで、俺を助けに来る
仲間や友達が出て来れば、この話もファンシーな喜劇でオシマイだったろう。

――残念ながら、この物語はそんな茶番で幕引きしてくれるつもりも無いようだが。

「……はぁ」

そこいらの木に寄りかかってため息を一つ。
薄着ではあるが、背中に布地が張り付いて気持ち悪い。

土や草で汚れるだろう事も構わずに、俺は青白くて湿っぽい草っ原に身を投げる。

「……なーんで、こんな所に来たんだったかなぁ……」

誰も聞かない答えない、独り言。

禅問答にもなりゃしない言葉は、口から出て耳に吸い込まれ、無為な情報と成ってまた戻って来る。
……あれ? そう言えば、何故俺はここに来たんだっけ……?

……ん?

記憶の底を掘り返すが、靄が掛かったかのように答えは顔を出さない。
待てよ、ここに来て一ヶ月かそこらだぞ。脳味噌がコンニャクみたいに成った老人じゃあるまい、
そんなに簡単に記憶が風化するはずはない。

ガバッと身を起こし、頭を軽く振る。そんな挙動に意味は無いんだが、感覚的にやってしまった。

思い出せ。いや、何故思い出そうとしなかった?
缶詰があるのに缶切りが無い、微妙な例えだが、まるっきりそんな感覚なんだ。

――思い、出せない。いや、違う。思い……出したく、ない?









***

……缶切りは見つからない。

追憶、とか言うと中々格好がつく気がする。でも、それはただ使うヤツが居ないからであって、
変に気取ると馬鹿にされたり、大人ぶって外した子供扱いされたりするな。

兎角、これは追憶と言うヤツなんだろう。深く思い出す、とか言う特技を覚えたい、とは別の話。
要するに、漫画やなんかで言う回想シーンってヤツだよ。

***







浮かび上がる、無縁塚の霞んだ遠景。
初めはビル群か何かかと思った。でも、蜃気楼や陽炎にしちゃ明瞭過ぎた。

いや、むしろそっちの方がはっきり見えているのかも分からん。

俺はそんなヒートアイランド的な都会で起こるらしい自然現象を目にした事が無いし、
今目の前にしているこの珍妙な出来事の方が、現時点では身近に映っているからだ。

俺は身動き一つしてないのに、それらはどんどん近づいてくる。
輪郭がはっきりして来ている、と言った方が正しいか。不可思議な出来事に俺は周囲を見渡すが、
眼下に広がっていたはずの巨大な駐車場さえ消え失せていた。

「何故、貴方がここに居るのか分かりますか?」

しっかりとした地面が形成された直後、背後から響く、強い声。
驚きに身を縮ませながらも、俺は振り返った。

そこには、貯水槽らしい巨大なタンクと、非常階段への扉があるはずだった。
見えたのは紫一色の物悲しげな桜の群れと、俺の目線の下にはみ出してる、仰々しい帽子。

目線を下に移して見れば、帽子の下から強い輝きを放つ、少女の眼光があった。

「……貴女は、誰、ですか?」
「む……、申し遅れました。私はここ……、そうね、幻想郷担当の、閻魔。四季映姫です」

えん、ま? 風に揺れるたくさんの菫色の桜達と、共になびく緑髪の輝き。
現実離れし過ぎたその光景に、俺はただ呆然と魅入っていた。

「……あ、えと。俺は○○、○○です」

名乗られたのだから、名乗り返すのはとりあえず道理だろう。

「えぇ、知っています。そして、今この時、貴方は死のうとしていた。違いますか?」
「……!!」

何故、それを。
いきなり出て来て、非現実的な事を口走ったかと思えば、おまけに、何故……!?

「そうね、貴方の死にたいと言う願望は理解出来なくもない。それに、貴方はこちらの世に名残惜しいと
感じるモノも少ない。そして、その結論に至れば、死を導き出すのもそう考え難い事でも、ない。」

――そう、俺は死のうとしていた。

「けれど、このまま死ねば、貴方は地獄に堕ちる事と成る。己の罪の重さによって」
「……罪?」

そして、このド田舎の、やたら高い病院の屋上に辿り着いた。
自殺者なぞ迷惑以外の何者でもないが、それが地獄の切符を貰うほどの罪だと言うのか。
地獄と言うのは、罪人に豪く厳しいもんなんだな。

……俺よりイカレた事をやってる連中だって居るだろうに。

「えぇ、罪。それは、他者へかける一時の迷惑ではありません。勿論、罪の一つには数えられますが」
「……と言うと?」
「……それは、溢れる残りの生で理解すると良い。私から言える事は、貴方はまだ死ぬべきではない、
と言う事だけです。勿論、理解出来なければ、今死のうが後々死のうが、地獄逝きは間違いありませんが」

閻魔、映姫さんはそれだけ言うと、菫色に満ちた桜に振り返る。
切り取ればそのまま絵画に出来るような気がするくらいに、その儚げな光景は美しすぎた。

「この場は不安定。貴方の元居た世界をイメージすれば、すぐにでも向こうへ帰れる事でしょう。次に貴方と会う時は、
もっと明るい顔であろうことを期待していますよ」

何も言えずに見つめていると、一陣の風が視界を覆うように横切った。
目の渇きに瞬きした直後には、その威厳に溢れた後姿は消え去っていた。

「……」

乾いた風が頬を撫で、それと共に一面へ桜が舞うと、もはやそこに音は無くなっていた。









『……では、貴方に理解する事は、きっと出来――』








***

――思い出した。これが、俺の無縁塚を知ってる理由。

閻魔に、映姫さんに会って、そして――

駄目だ、そこから先がどうしても出て来ない。おかしい、記憶に鍵を掛けるなんて、よっぽどの出来事が
あったのか。記憶障害か、はたまたPTSDか何かなのか。ふざけろ、俺はボケちゃなんかいねぇぞ……?

……しかも、俺は散歩していた時に幻想郷へ迷い込んだ、はずだ。
確かにここへ来た記憶はある。けれど、出て来る記憶に厚みのようなものを感じない。どうしてか、安っぽい
捏造された情報みたいに成っている気がする。

俺は、どうやって、何を思ってここへ来た……!?

「っくそ!!」

拳を、年老いた木の幹へ叩きつける。
老木は答えを出してくれる相手には成ってくれないし、嫌がるように俺の手に痛みを返すだけだった。

まるで封じ込められているかのように、何かが邪魔をしている。

朝の出掛けに霞んでしまった夢を無理矢理思い出すのと似ている気がした。
何か、あと一歩のキーワード。それさえあれば、この単純な錠前は開いてくれる。そんな気がする。

――だが、現状その鍵とやらは何処にも落ちてない。

拾い出す手段が俺の頭には入ってないのか、それとも何処かで失くしてそれきりなのか。
いずれにせよ、この場で思い出せる事ではない気がしてきた。

そして、この場を凌げるかどうかも、分かった事ではなかった。

……じゃあ、どうする?

「……知らん、知った事か。くっそ、どうすりゃ良いってんだよ……」

もう、身動きもしたくない。けど、足を進めなきゃどうなるかは、言わずもがなのはずだ。
無言で立ち上がり、物言わぬ月を見上げる。見てろよ、妖怪共から逃げ遂せて、必ず記憶を取り戻してやる。

……って、まさかこの記憶の欠如も、妖怪の仕業じゃあるまいか……。










……何で、こんな所に居るんだ……。

チラリと横を向けば、騒がしく楽しそうに談笑する、妖怪の群れ。
そして、彼女等が収まっている小じんまりとした屋台が二つ。俺はそんな屋台の隅で、
初めて口にする八目鰻とやらを突付いている。中々美味い。

闇雲に歩き回っていたら、以前見かけた屋台に出会ってしまった。
香霖堂への遣いの時、目にした屋台だった。魔理沙と出会う直前に目にしたのだが、結局どんな
事をしていたかまでは分からなかった。

んでもって、ここが鰻の美味い屋台だと言う事も分かった。

見てみれば、恐らく俺が襲われたであろう妖怪らしい子も混じっていた。まあ、声と目しか覚えてないから
本当に先程の妖怪なのかは分からんが。
蟲か何かっぽい子も居れば、妖精のような感じの子、化け猫っぽい子、さっきの子、そして一方の店主は
鳥なのか蛾なのか、さもなくば何の妖怪なのか。
いずれにせよ、店主の男性以外は人外と取れる容姿の者ばかりだった。

と言うか、九尾の狐っぽいのも居るぞ。何か凄い所に迷い込んでるんじゃないのか、俺は。

「いやぁ、すまんな。今日はやたら客が入ってて、個人個人の接客も出来なくてな」
「あ、いやあの、お気になさらずっ」

一方の屋台を担当している男性が、申し訳無さそうに言う。見た限りでは普通の人間なんだが、
何故こうも妖怪共と仲睦まじそうにやってらっしゃるのかしら、と思う。

絵的に表現するなら、黒いモヤモヤしたものが俺の頭の上で渦巻いてる。そうに違いない。
とか何とか思いながら、わざわざ奢って貰った熱燗を煽る。うぐ、俺にはちとキツイ度数かもしれん。

「はて、君には見覚えがあるような気がするんだけど……」

九尾の妖怪が急に声を掛けて来たので、俺は思いっ切り吃驚してコップの酒を全部飲んでしまった。

「……ッ~!!!」
「だ、大丈夫か?」
「だい、だいじょう……、こふっ……」

テーブルにうずくまる俺に苦笑する九尾の声。
これが人間相手ならただからかわれた程度に感じるんだろうが、妖怪相手だと何故かすごく据わりが悪い。

「うぅ」
「無理は良くないぞ……。しかし、見覚えはあるけど、この辺では見ない顔ね」

顔を上げると、結構近くに九尾の顔があって小さく声を漏らしてしまう。
何故だろう、妖怪って言うのは皆一様に惚れ惚れするような美人ばかりな気がする。人を超えてる人間も含め、
越えられないはずの垣根を忘れて見惚れてしまいそうに成るばかり。

「……ん? 私の顔に、何か付いてるかな?」
「あぇ、いえっ、べべべつに」

……失礼、見惚れていたようです。
慌てて酒を煽るが、また飲み過ぎて咽た幼児のように咳き込んでしまう。

……九尾が小首を傾げる動作だけで、何か、あの、すごい込み上げるものが。
ま、魔性とでも言うのか、闇に生きる妖のっ。

「……面白い子だな、君は」

くすくすと笑う九尾に、俺は恥ずかしくなって俯いてしまう。
……何だ、これは。人間と、普通の人と話してるのと大差無いじゃあないか……。

「あ、思い出した。君は……、と。いや、今はまだ、だな」
「……え?」
「気にしなくて良い。それより折角の縁だ、奢ろう。店主、稲荷寿司がまだあったら追加を」
「はいよー!」

威勢の良い掛け声に遅れ、早速稲荷寿司が出て来た。舐めるような火の光でテラテラと輝き、
食欲をそそる色合いを醸している。

「え、あ、悪いですよ」
「生憎と持ち合わせは多い方だから、気にしなくても良い。遠慮しないで」

そんな笑顔を向けられたら、断れないじゃないか。
妖怪って、こんなに暖かく感じられるものなのか。その艶やかな尻尾にしがみ付きたくなって来る。

「それじゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます」

……疑えないなら、信じてみるのも良いのかもしれない。










今は何時だろう。奢って貰った稲荷寿司を頬張りながらふと携帯の時計に目を向けると、丑三つ時、
とか言う時間くらいに成っていた。
意外な事に、チビッ子的な妖怪達は寝る時間が早いらしく、幼稚園の園児よろしくさっさと帰って行った。
店主が「またツケかコンニャロー共め」と嘆いていたのがちょっと悲しかった。

して、残ったのは藍さん(話している内にお互い自己紹介した)だけ。しかし、藍さんもそろそろ帰ると言う事で、
最後に鰻を少しばかり土産に持って行く、とのこと。

……妖怪って、そんなに悪い存在じゃないのか?
藍さんから聞いた話によると、妖怪が人を襲う事は滅多に無いらしい。あるにしても、大抵の人間が各々の
妖怪に対しての対抗策なんかを知ってるらしく、その上人里に居れば襲われる事もまず無いとか。

――確かにそう言う時代もあった。けれど、今はそんな物騒な時代じゃないんだよ。
……藍さんの言葉が、妖怪に対する恐怖感をほんの少し解きほぐしてくれたような気がする。

「……君の目には、恐れがあるみたいね」

八目鰻をミスティアさんに幾らか包んで貰いながら、藍さんはこちらを向かずにそう言った。

「……分かる、モンなんですか?」
「ははは、多分、私じゃなくてもちょっとした人間くらいでも分かると思うよ。君は、話す時に少々目が泳ぐ癖が
あるようだ。頻繁にって訳じゃないけど、ちょっと話せば分かってくる特徴」
「……」

何も言わぬまま俯いていると、俺の頭に暖かな感触が伝わった。
顔を上げると、藍さんが微笑みながら俺の頭を撫でていた。不思議と落ち着く感じが心地良くて、目尻に何となく
涙が浮かんだ気がした。

「君は妖怪を恐れているようだけど、その理由を考えたことがあるかな?」
「……いえ、無いです」
「そう。……それじゃあ、私はこの辺で帰る事にするよ」

藍さんは、何か染みでも付いたら手入れするのが大変そうな鮮やかな尻尾を翻し、そのまま飛び立とうとする。
が、俺は慌ててその後姿を引き止めた。

「あ、あのっ」
「ん、何かしら?」
「……八雲紫って、ご存知ですか?」

妖怪、イコール俺の中での恐れそのもの、そんな存在の名。

「…………あぁ、とても強大な妖怪だ。けど、それ以外は詳しく知らないな」
「そう、ですか」
「……それじゃあ、また、会えたら良いわね」

魅了されんばかりの笑顔を俺に向けると、藍さんは改めて夜闇へと消えて行った。

「……ふぅ」

コップに微量残った酒を飲み干し、ため息をつく。

理由、か。何故俺はここまで妖怪を恐れているのだろう。
理解出来ないから、力及ばぬ存在だから、科学で証明出来ない理不尽な存在だから……。

挙げれば、いくらでもある。
理解出来ない存在とは相容れられない。どこぞの映画でも言ってたな。

恐いはずが無い。目の前であんなとんでもない事されて、ビビらない人間が居たら俺の代わりに
ドラゴン殺しか何かを持って突撃して頂きたいものだ。

……理由?

「さて、客ももう来ないだろうし、そろそろ店仕舞と行きたいんだが……」
「あ、はいっ、すみまゼッッッ!?」

店主の声を聴いて飛び上がり、屋台の天井部に強かに頭頂部を強打してしまった。
あ゛あ゛ぁぁ、目の前で、目の前で魔理沙的な何かが踊って、うごあ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁ。

声にならない呻き声を上げながらテーブルに伏せってしまい、直後に店主の笑い声が聴こえる。
い、痛いんですよこれっ。あ、くそ、でも俺が間抜けだっただけかっ!

「あはははは、ははは!! いや、悪ィ。折角だし、もう一本ツケとこうか?」
「い、ぃえ、結構でs……、ッ~……」

かなり間抜け臭い。お情けで貰う鰻なんて、金魚すくいにミスって貰うサービス金魚みたいなもんじゃないか!

「これ、洗っておきますよー?」
「おーう、頼む」

ミスティアさんの美しく通る声が響き、食器を片付ける無機質な音ががなり立てる。
そう言えば、店主さんは人間のよう。それなのに、何故妖怪であろうミスティアさんと一緒に居るのだろうか……?

――唐突に、耳を劈く鋭い音が響いた。
驚いて飛び上がると、ミスティアさんがまとめていた数枚の食器を割ってしまっていた。

「うあぁ、やっちゃった……」
「何やってんだ。ほら、危ないから退いてろ」

慌てて店主が駆け寄り、割れた食器の欠片を手早く集め始める。

「あ、でも私が……」
「指でも切ったらいかんだろ。ほら、退いてろって」
「は、はい」

……普通の女の子っぽいなぁ。ほのかに嬉しそうにするミスティアさんの横顔が随分と眩しく
見えた気がして、何故か少し寂しくなった。

「……あの、失礼な事聞くかもしれないですけど」

片付けをしてる最中、と言う時に聞く事からしてまず失礼、そうは思ったが、ここまで来て
聞かないで何処かへ行く訳にはいかない。
店主が割れた皿を集める横で、俺は慎重に言葉を続けた。

「ん、何だ?」
「……あの、貴方は人間ですよね。なのに、何故ミスティアさん……。妖怪と居るんですか?」

キョトン。そんな表現が良く似合う顔で、店主は目を瞬いていた。

「……そらお前、気が合うからに決まってるじゃないか。お前は人間だとか妖怪だとか、
そんな事を気にして人様と付き合ってんのか?」

至極当たり前の事を言うように、店主は言葉を続ける。

「そりゃ、ここに迷い込んだ当初は右も左も分からなかったし、恐れる気持ちもあったさ。んでも、
気の合う相棒は出来たし、面白おかしく屋台をやれるようになったからな。妖怪っても、
人間と大して変わりゃしない。さっきお前さんが話し込んでた藍だって、恐がる要素なんざ何一つ無かったろ?」
「……まあ、そうですけど……」
「納得行かない、ってか。……そうだな、俺から言える事はあんまり無いと思うんだが、これだけは言っとく」

店主は残った鰻をまとめると、冷え切って味も落ちてるだろうに、全部自分の口に放り込み、
飲み込む間を置いてから言った。

「……食わず嫌いはするな」
「……え?」
「そのまんまの意味さ。嫌いのつもりが、食ってみたら意外と美味かった。そう言う経験無いか?」
「無い事も無いですけど……」
「だろ? んじゃ、後は自分で考えると良い」

どう言う意味なのかまるで飲み込めず、俺はただ片付けを進める店主とミスティアさんを眺めるばかりだった。







「あ、ちなみに俺はもう妖怪だぞ」
「え、マジスか!?」

今更カミングアウトされても人間にしか見えなかったのだから仕方ない。



              ━ 5 ━




思えば、初めてのヤツだったと思う。
この言い方だとすごく勘違いをさせそうだけど、思い直せばやっぱり
これじゃ端的過ぎるわね。

私は、物心ついた頃から巫女だった。
巫女としての仕事に疑問を抱いた事も無いし、別に困った事も無い。

ここに来るのは大抵が珍妙な人間か妖怪ばかりだから、そんな環境に
あっても退屈する事は無いし、楽しくやってるつもり。
たまに向こう、幻想郷の外から来た人を元の世界へ帰したり、
些細ながらいつもと違う事があったりするけど、気になるくらいじゃなかった。

何故なら、それは私が巫女で、巫女として当然の事をしていると思っていたから。

……私以外の巫女の仕事なんて知った事じゃないけど。

兎角、アイツは私に葛藤って言うモノをさせた、初めてのヤツだった。








「こんにちは、暇かしら」
「あら、紫じゃない。前にも言ったけど、毎日飲茶だわ」

言いつつ、私は出涸らしのお茶を啜る。そろそろ淹れ直した方が良い気がする。うっすい。

「それは結構な事ね。それじゃあ、退屈しのぎが欲しくないかしら?」
「異変以外なら何でもどうぞー……」

毎日が飲茶なのは確かだし、ここ最近宴会や異変も無いわで退屈していたのは確か。
だったら、歩く異変発生装置のコイツに、自分から何か起こしてもらうのも悪くない、かもしれない。

「確かに聴きましたわよ、その言葉」
「……えぇ、言いましたとも?」

コイツが変に敬語を使う時はロクな事が起こりゃしない。それでも、私は何かしらの小さな変化でもあれば良い、
そんな具合に新しい物事に貪欲だった。
紫はクスクスと微笑むと、黒いスキマに引っ込んで見えなくなった。

以前から思ってたんだけど、アレって私にも使えないかしら。すごい便利そう。似たような事なら出来るけど。

試しにお茶缶を呼び出そうと目を閉じ、お茶缶があるであろう場をイメージして念を込める。
すると、音も無くスルンと手元にお茶缶が落ちて来た。

「……簡単に出来ちゃうのも退屈ね」

やっぱりつまらない。お茶缶があったであろう場所を再度イメージして、お茶缶へ念を込める。途端、
手元から硬い感触が失せ、お茶缶はもう無くなっていた。

……たまに失敗すると、飛ばしたものが何処かに行っちゃって泣けるんだけどね。
便利さ加減で言えば、想像が要らない分紫のアレの方が楽そうだわ。どう言う原理かなんて知らないから、
実際は違うのかもしれないけど。

「退屈しのぎカモーン」
「えぇえ?」

紫の間の抜けた声が響いたかと思うと、境内の方でドスンと低い響きが。
……紫め、今度は何やらかしたのよ。

自分で暇潰しが欲しいと言っておきながら、憤りつつ神社の表へと回る。

「……これは何」
「暇潰し」
「いや、そうじゃなくて。どっから連れて来たのよ!!」

賽銭箱にもたれ掛かる形で、私と同い年くらいの少年が眠っていた。いや、顔色から考えてもこれは
眠ってると言うより気絶してる。げんなり蒼ざめてるし。
また調子に乗って紫が連れて来たに、神隠しに遭わせたに違いない。

「良い質問ね。この子は見ての通り外の人間。けど、私の意志は関係無い。彼が望んだから、ここへ連れて来た」
「いや、帰しときなさいよそこは」
「無粋ねぇ。良いじゃない、暇潰しなんだから」
「うぅ」

自分で暇潰しが欲しいと言った手前、どう文句を言ったものか考え付かない。

「さて、しばらくこの子をここに置いてあげて頂戴」
「ハァ!?」

いきなり何を言い出すんだこのスキマは!!
これでも一応年頃の女の子の家に、男を置くとか誰が普通言い出すのよ!

「良いじゃない。ひ・ま・つ・ぶ・し・よ」
「そっ、そんな事言われても! 大体、私に決定権くらいよこしなさいよ!!?」
「無いわ。暇潰しが欲しいと言ったのは貴女」
「想定外すぎるわよ!!」

もはやツッコミ切れない。こうなったら夢想封印か何かで……。

「それに」

ふ、と紫が滅多に見せないような優しい目つきに成ったので、毒気を抜かれて懐に
差し込みかけていた手を止めてしまった。

「もうそう言う歳なんだから、恋の味でも知るのは悪くないわ」
「んな……ッ!!」

あまりに意識した事の無い言葉が飛び出し、思わず奇声を発してしまった。
ちょっ、それってどう言う――

「事情は説明しておきました。後は、お好きに『暇潰し』なさって下さいな」
「ま、待ちなさ――」
「ふふ、誰かに取られないようにね」

伸ばした手はスルリと空を掴み、紫の姿は日没の陽に消えて行った。

……どうしろって言うのよ。
紫の置いて行った『暇潰し』に振り返り、私はため息をついた。










うん、それがアイツが、○○が来た経緯だったか。

思い返すと、初めて話した時から違和感はあった。そりゃ、外の人と話した事くらいはあるけど、
その中でも何かが違う類だった。
何処か、何も見てないって言うか、何と言えば良いんだろう。

神社に来る連中とは、大きくどころか全然違ってた。

私が呼ばなくても、魔理沙とかレミリアとか紫とか、挙げればキリが無いくらいだけど、言っちゃ悪いかもしれない
けど皆勝手に来てた。そりゃまぁ、大して迷惑でもなかったし、楽しいくらいだけどね。

でも、○○は違った。

こっちから何か言っても何処か宙を見てて、掴み所が無くて。
でもその理由が分からなくて、話してても私を見てくれない、そんな感じだった。

皆は、○○以外は黙ってても私を見てくれてた。
私は普通で居ただけなんだけど。気がつけば、周りに誰か居た気がするのは確か。

まるで自分自身を相手にしてるように、鏡に話しかけてる気分、とでも言えば合ってるのかもしれない。

まあ、ここ最近はほんの少し心を開いてくれてた気がするけど……。

一緒に空を飛んだ時、幻想郷の満月を見せてあげた時、初めて私を真直ぐに見てくれたような気がした。

……でも、やっぱりそれは一時の事だったのかもしれない。
だって、○○が私を見てくれない理由を、まだ私は理解して無かったから――








昂った妖気は当に消え去り、歌うように鳴く鈴虫の鳴き声だけが耳に届く。
それでも、残響のようにしつこく劈く、声。

「――バケモノめ――」

彼はそう言った。

とても怯えた目で、暗い何かが込められた瞳で、○○は私にそう言った。
そこから汲み取れる感情は少なかったけど、確かなのは、恐怖以外に見えるものが無かったこと。

――私は、バケモノなんだろうか。

手を見、足を見、顔を触る。
何が違うんだろう。見た目だけなら、私は○○と変わらない、人間だと、思う……。

でも、やっぱり違うんだろうか。

妖怪とまともに渡り合える人間が、果たして人間と言えるのか。
妖怪と臆面無く笑い合う私が、ただの人間とどうして言えるんだろうか。

それじゃあ、私は何? 博麗の巫女で、それで何?
違う、確かに私は人間で、私は巫女で、妖怪を退治する――

「うえぇ、気持ち悪いぃぃぃ」

鈴虫の鳴き声を掻き分けて聴こえた、魔理沙の声。
余程飲んでいたのだろう、目覚めが悪いのも当然だと思う。

私の中からは、酒気なんて飲んだ事さえ覚えてないかのように消え失せていた。

「うおぉあぁ、空が落ちて来るうぅあぁぁぁ」
「……」
「あぁぁ……。って、何かツッコミくれよ。悲しくなって来るじゃないかー」

平気で起き上がり、庭に立ち尽くす私にぷりぷり文句を言う魔理沙。
そうね、いつもの私なら切り返す言葉もスラスラ浮かぶでしょうけど、生憎とそんな気分じゃない。

「……どうした? えらくあんにゅいな顔じゃないか。いや、あんにゅいってーのはこう言う時に使う
言葉じゃなかったっけ? せ、せんちめんたる?」
「……まり、さ」
「へうぇ?」

――今、そんな気分じゃないから。
そう言う風に言いたかったのに、言葉が出なくて、足に力が入らなくて。

力無く、私は地面に両膝をついてしまった。

「れっ、霊夢ぅ? なっ、どうしたんだよ!?」
「……まり、さぁ……」

どうしたら、良いんだろう……?

「わ、わわわ、お茶飲むか?! いや、こう言う時は迎え酒……。わー、違う違う!!」
「ぅ……ぅぁぁ……」

お産に立ち会う父親のように慌てる魔理沙を横目に、私は膝立ちのまま泣き続けた。
今まで私を私として形作ってたものが壊れてしまった。良く分からないけど、確かに私としてあった
何か、大黒柱みたいな支えが、急に抜けたみたいに無くなってしまった。

「ほっ、ほら。泣いてちゃ分からないぞ! 何があったかこの私に話してみようぜ!?」
「う、ぅぅ……あぁあ……」
「うわぁい?! きゅ、急にしがみつくなぁ!」

当たり前の何かが消えてなくなってしまったようで、怖くて仕方なかった。
急に抱きつかれた魔理沙はオロオロとするばかりだったけど、幾らか安心感をくれる温もりがあった。

「……まり、さぁ……。私って、私って何なの……?」
「えぇ!? そら、霊夢だろう! 博麗神社の貧乏巫女、幻想郷の預かり役だぜ!!」

貧乏は余計だ……。それに、言われるほど生活に貧困したりしてません……。

「何があったんだよ! 辛いかも知れんが、ちゃんと話してみろ!!」
「ぐずん……。うん……」






話し終えた頃には、幾分か気が楽に成っていた。
けど、引っ切り無しにしゃくり上げてる状況そのものは変わってなかった。

始めの内は魔理沙も慌てるばかりだったけど、聴いている内に落ち着いて、頷いたり
相槌を打ったりしてくれていた。
まぁ、場所を移してからはお茶を啜ってばかりだったようだけど……。

「良し、○○を滅却すれば良いと、そう言う事だな」
「ちょっ……。違う、違うわよ」
「んにゃ、霊夢を泣かしといて許す訳には……」

無い裾をまくる動作をして、八卦炉を片手に立ち上がる魔理沙。

「話ちゃんと聴いてた……?」
「……冗談だ。聴いてた聴いてた」言うと、ストンと綺麗に正座の隊形に戻る魔理沙。

「……とりあえず、お前にキチンと言える事はある。お前は確かに人間で、巫女で、んでもって
○○とも変わらない。ちょっと違うのは、お前が少々ジャジャ馬な女の子ってだけでいや嘘だすまん」

涙目プラス睨みと言うのは異性同性問わず効果は抜群、っていつだか紫が言ってた気がする。

「……確かにな、外から来た人間に取っちゃ、私達の力は意味不明だろうし、恐いもんだろう」
「……えぇ」
「でも、だ。お前は、○○を護る為に霊力を使ったんだろう? それを、何でビビられなきゃいけない?
むしろ土下座しながら感謝の雨嵐を浴びせて貰う位の対価を求めたって良いはずだ。紫が何を
考えてるのかは知らんが、○○を恐がらせて何か企んでるとしか思えん」
「……」

考えてみれば、紫が私の目の前で人間を襲った事は無い。
あくまでスペルカードルールに則り行動していたし、あいつ自身が何か幻想郷にとって良くない事を
した事も無い。まぁ、私達には少々迷惑な事をした記憶はあるけど。

……だとしたら、またいつものように、この茶番にも何か仕掛けがあるんだろう。

「……とりあえず、○○を探そう。下手にそこら辺の妖怪に絡まれてたら危険だ」
「……そうね。でも……」

……また、否定されたら。
私自身が人間であるつもりでも、○○はそう思ってくれなかったら。

……恐くないなんて言えない。そう言われる事が、とても恐い。

「恐い……」
「……そうか。なら、無理しなくて良い。黙ってのんびりしてた方がお前にゃ向いてる」
「……ごめんね」
「いいや、気にするな。私を誰だと思ってる」

え、と顔を上げた時には、魔理沙は既に庭先から飛び立とうとしていた。

「――黒白で恋色、普通の魔法使い様だぜ?」



            ━ 6 ━



雨が降り続いている。
無機質に一定のリズムを激しく刻み続け、さながら駆動する機械の中に居るようだ。

そんな中、すっ転んだ。手は土くれでドロドロだし、薄着のシャツは小汚く汚れ、おまけに膝は
傷だらけの血まみれだ。こんな衛生環境じゃ、破傷風なんか患ったって治せやしないだろう。

運命、と言う言葉を使うのは好きじゃない。けど、運命ってのは面白いくらいに気まぐれなもんで、
腹の底から笑えるような、幸福で暖かい出来事を起こしてくれる時もあるし、
逆に誰も見向きもしないような、ちっぽけだけど辛い出来事を起こす事もある。それだけは確かだ。

そして、俺独りが苦しみ悲しみ、どれだけ辛苦に喚こうと、運命とやらが俺に
興味を持ってくれなけりゃ笑いかけてさえくれない。

……要するに、悪足掻きは無意味だったって事なんだろう。



前振り一つ無く降って来た雨を避けて、まるで屋久杉のような木の下に潜り込んだは良いものの、
雨足は強くなる一方、膝の痛みは消えないし、体中にまとわり付く違和感は拭えない。

丁度水が全てこの木の下に流れて来ているらしく、じわりじわりと足元の水嵩が上がり始めている。
水没するって事は無いだろうが、いささか居心地は悪い。

「はぁ」

無感情に、淀んだ空気を肺から押し出す。
このまま死ぬつもりは無いが、状況が悪化する一方ならそれも有り得る。

……独りで歩くにゃ、幻想郷は広すぎるらしい。

『――君は妖怪を恐れているようだけど、その理由を考えた事があるかな?』

暗闇に目を細めていると、藍さんの言葉がふと脳裏に浮かんだ。
浅く眠りに近づいた時の様に、周りから入って来る情報が分断され、思考だけが鮮明に成り始めた。

……そりゃ、人外に恐れを抱くな、なんて言われて抱かないヤツなんて居るのか、と逆に問いたくなる
質問だ。質問に質問で返すとテストで零点取っちまうけどな。

また、一段思考を深くする。
雨音はむしろ心地良く、単調な響きはひたすらに続く。

目の前で、今この場で起きている事のように瞳の裏で再生される人外共の戦い。
閃光のように激しく疾駆する紅白と、動じずにして留まらぬ、紫の揺らめき。

鮮やかな色も、幾千混ぜれば黒く成る。

まぁ、目にも毒なくらいのバケモノ同士の戦いとかよりならずっとマシだろうさ。
けど、そんなぶっ飛んだ事を知り合いが目の前で実行して見せたらどうなる?

そん時、俺はそいつらに何も抱かずに、普通通りに接する事が出来るのか。
理解を示す、と言うのは、そいつとどれだけ近い位置に居れるか、と言う事だと思う。
だとしたら、そもそも俺とあいつらは、霊夢とは、同じ立ち位置になんか居やしないんじゃないか。

ひ弱で、自分を護る力も無くて、おまけにヘタレで。
……俺って、一体何なんだろうな。










幸か不幸か、運命が表情を変えたらしい。
純粋な笑顔か苦笑いか、はたまた空笑いか馬鹿笑いか、それは分からんけども。

「御機嫌よう」

それは余りにも唐突過ぎた。
唐突過ぎて、無言のまま泥水へダイブしちまうくらいにな。

「あら、水溜りは泳ぐのには向いてませんわよ?」
「……」

ガバッ、と起き上がるも、ツッコミを入れる気力なんて当に無かったし、殺されるなら殺されるで
もはや別にどうでも良かった。こいつ、八雲紫。ちっぽけな人間一人ストーキングしてるなんて余程暇らしい。

「風邪を引きますわ」
「……どうでも、良い」
「人の厚意は謹んで受けるべきですの」

軽い音がして、分厚い毛布みたいなものが頭上から出て来る。

「寝床にするには、ここは少し冷たすぎるわ」
「な、一体何のつもr――」

ガクンと足元の感覚が消失し、その直後に柔らかい何かに包まれるように尻餅をついた。

「っわあ!?」
「さて、ここは何処かしら」

体がバウンドしたような感覚、いや、していた。
ふと自分の尻の下を見れば、ここ最近全く目にしてなかった、いや、向こうでも時折しか
目にする事の無いような、やたらリッチなベットが鎮座していた。

「……え?!」

驚いたままに辺りを見回してみれば、まるで子供が夢描くかのような豪華な調度品がやたらと
置かれた、言うなればホテルのVIPルームみたいな場所だった。
まずは言うまでもなく巨大な間取り、電気店でも目に出来ないような大スクリーンのテレビに、
宝石箱より夢が詰まってそうな無駄にデカイ冷蔵庫、恐らくバスルームか何かに繋がっているだろう
仰々しい扉と、清潔感と物量に満ちた洗面所。

例えばかりだが、そうとしか言えん。普段からこんな物を目にする機会は無いんだから。

「……何ですか、これ」
「あら、もっと盛大に驚いてくれるかと期待していたのですけど」
「いや、それを通り越してる、と言うか何と言うか……」

声も出ない、と言うのはまさにこう言う状況向けの表現だ。

「……あれ?!」

体に掛かる違和感が、今思えば消失している……。
さっきまで水だらけの擦り傷だらけだったはずの手はすっかり綺麗に成っており、着ていた服なんかにゃ
染み一つ無い。更には、痛みさえ感じなくなっていた膝の傷は、元々そこに無かったかのように消えていた。

「さて、貴方に一つチャンスを与えましょう」
「…………チャンス?」
「そう、チャンス」

急激過ぎる情報変化量に惑っている俺に、質問をさせてくれる暇も与えずにいきなり紫は言った。

「そう、これ以上無いくらいの、そして最後のチャンス。選択権は貴方には無いし、断ろうものなら
どう成るかは、分かってるわね?」
「……ええ、何となくは。結局喰われるんでしょうし」
「さぁて、どうかしら。少なくとも――」

紫は音も無くカーペットの上に着地すると、室内だと言うのに傘を開いて言葉を続けた。

「――少なくとも、正答範囲なら及第点は差し上げますわ」
「……はぁ」
「では、質問です。今の貴方には、一体何が足りていないのでしょうか?」
「……はい?」
「言葉の通りよ。どう解釈するかは貴方の自由ですわ」

あまり頻繁には見たくない、特有過ぎる笑みを浮かべると、紫は空間に切れ目を作り、
そこへ滑り込むように消えて行った。

「あぁ、それと」

一息つく間も無くスルリと紫が戻って来て、俺は深く溜めたため息を思い切り飲み込んでしまった。

「ここから出る事は出来ないけど、置いてある物は何でも自由に使いなさい。それと、先の質問に対する
返答の期限は一日。それ以上は待ちません」

だから、その笑顔は止めろ。そう言う間さえ無く、紫は再び切れ目へと隠れ――

――独りには大き過ぎるその部屋に、静寂が訪れた。








……さて、ここは何処だろう?

とりあえず、控えめな花柄の壁越しに耳を済ませてみるが無音だ。
窓はあるが、曇りガラスに成っていて外は見通せず、また壁と同じく聴こえて来る喧騒は一つも無い。

ここが都会なら、外から車の音の一つ聴こえてもおかしくはないんだが……。
何だか如何わしいホテルなのかも知れんぞ、なんてチラリと思ったが、
外に出る唯一の扉すら開かない以上、これ以上何か出来る術がある訳でもない。

今出来る事は、そう、紫の質問の答えを――

そう思った瞬間、すっかり引っ込んでいた空きっ腹が今更になって悲鳴を上げた。
……まずは、腹ごしらえと行きますか。

嬉々として冷蔵庫にしがみ付いていた魔理沙を思い出しながら冷蔵庫を開け、
中の色々を漁ってとりあえずの夕食としつつ、行儀悪くベットに横になりながら俺は考え事に興じてみた。

こっちを偉そうに見返しているシャンデリアにジト目を送りながら、いかにも高級品的なアイスを頬張る。
エアコンが利いてるようなので暑い訳でもないんだが、夏場にアイスは基本だと思う。

ふと思い立ちテレビを点けてみると、懐かしい番組がやっていた。
何だか、世界の不思議な事や驚くべき事を報じる番組だ。アレだな、番組の内容もそれなりに好きだが
ナレーションやってる人の煽り方も好きだな。

……懐かしいと感じるのは、偉く非現実的な場に居たからだろうか。

この番組を見ていても、大して驚きもしない。そりゃ、不思議をそのまま体現したような環境に居れば、
驚くべき事象も相対的に減ってくると言うもの。
だからか、こんな現実離れした環境に居ても、幻想よりは現実に近い場に居るからか、
懐かしむと言う感慨も生まれてくるのだと思う。

……現実、か。向こうも、体感的には現実だろうけどさ。

今まで居た所を思い出してみると、浮世離れしていたのは確かだったな。
いや、そんな簡単に片付くもんじゃなかった。だけど、いざこうして離れてみると、嘘だったんじゃないかと疑って
しまいたいくらいの有り得ない所だった。

……しかし、あいつらどうしてるだろうか。

霊夢は、どうしただろうか。俺の言葉を真に受けるようなタイプじゃないとは思うし、
あのくらいの言葉で傷付くもんじゃないと思う。探しに来てくれるなんて、そんな都合の良い事、きっと無いさ。
……でも、言い過ぎた、だろうか……?

って言うか、ここ何処なんだよ。







携帯に映る、丑三つ時。

テレビに映る映像は既にカラーバーに変貌しており、嫌でもここが幻想郷の外だと痛感出来た。
けど、妄想に出て来るのは幻想郷に居た時の事ばかり。何故って、こっちじゃ思い出らしい思い出なんて
ありはしなかったから。

……別に、イジメられてたからとか、そんな事があったからじゃない。
友達だって居たし、笑い合った時も喧嘩した事も、恋をした事だってあった。だけど、そんなものは思い出の彼方。

――今は、何も無い。

人との繋がりを断って、誰とも関わらなくなって、その内俺から他人は離れて行った。
死にたい、と思ったのはいつだったか? 誰もちゃんと俺を見てくれなかったからさ。

来る日も来る日も重ねて行くのは本の上の知識ばかり。学業上の友人なんて、長続きはしなかったね。
だったら、もう誰も俺を見てくれないなら、偏屈した目線でしか見てくれないなら――

――死んだって構わないんじゃないか。そう、思った。そして、閻魔様に出会った。

「……こっちに居るよりは楽しかった、かな……」

急に霊夢の顔が浮かんだ。お節介なくらい、やたら俺に突っかかって来た気がする。
けど、俺はのらりくらりと彼女の言葉をかわしてばかり。マトモに目を向けたのなんて、そうか、あの満月の時
くらいしか無かった気がする。

……俺に「バケモノ」なんて言われた時、霊夢はどう思ったんだろうか。

急に、胸に締め付けるような感覚。久しく味わってなかった、良心の呵責ってヤツだろうか。
でも、違う。そんなものよりもっと苦しい気が、そんな気がした。

――俺と違う所って、何処だ?

確かに彼女は俺とは違い、空なんか楽々飛べるし、妖怪相手でも平気で立ち向かえる力がある。
けど、それ以外はどうだ? その力が俺に向けられる事なんてあったか? 何より、俺はどうして貰ってた?

「…あ、はは」

乾いた笑いが漏れた。
護って貰っていた。紫から、助けてくれた。紫が本気でなかったにしろ、霊夢は俺を――

本気で、護ろうとしていた。

あの時見た霊夢の瞳に隠れてたのは、恐ろしいものなんかじゃなかった。
こんな、情けない俺を護ろうとしてくれた、強い意志がそこにあったんじゃないのか……?

それを、俺はむざむざ打ち払った。あろう事か、限り無いくらいの渾身の嫌悪を込めて。

何で、どうして気付かなかった……?

「……うぁ……あぁあぁぁぁ」

背筋が薄ら寒くなって、目の前が真っ暗に成った。気がしたんじゃなく、まるで現実に起きているように。
どうして、どうして俺はそんな事を……?

喉の奥が、ベリベリと音を立てて乾いているようだった。

目に浮かぶ涙は大抵熱いものと聴くが、こんなに冷え切ったものは無いだろう。
ドライアイスから無理矢理搾り出したような涙が、手の甲にはたはたと落ちる。そこから伝わる温度は、
物理的には温かくとも、どうしてか氷のような冷たさがあった。

俺は、霊夢に、謝らなきゃならない……!!
例え許して貰えなくても、どんな事をされようとも、絶対に神社に戻って、辿り着いて――

俺は、彼女を否定してしまった……。

今更肯定しようったって、謝ろうったって間に合わないかもしれない。けど、けど――

――絶対に、霊夢に逢って――










「答えは出たかしら?」

一巡した時間は目には見えずとも、携帯に刻まれた時刻ははっきりと一日の経過を示している。
ベットの上で黙然としていた俺の目の前に、意図せずいきなり紫は現われた。

「……! え、えぇ。一応、出ました」
「ふふ、じゃあ早速――」
「ま、待って下さい」

目の前でお預けを喰らった犬のような目の紫を制し、俺は躊躇わずに言葉を続けた。

「もし、もし答えが間違っていたとしても、最期に、霊夢にだけは逢わせてくれませんか」
「……答え次第ね」

暗がりに潜む猫のような紫の眼光に、少しだけ陽光に似た何かが見えた気がした。

「それじゃあ、答えを聴きましょうか」
「――はい」

たった一日、されど一日。俺は考えられるだけ考えてみた。
何故幻想郷に来たか、どうして幻想郷に居るか。それは結局分からなかった。

けど、確かな事はあった。
少ないながらも、人妖様々な存在と出会い、多様な事を知った。
俺が考えなかった事、考えていなかった事、知らなかった事、分からなかった事、たくさん。

そして、俺が霊夢を傷付けてしまったであろう事。
そこから至った、あの時閻魔様が言ってくれた重い言葉へ対する俺の、ちっぽけな結論。

――当たり外れかなんて、出たトコ勝負。って、魔理沙がいつだか言ってた。

「俺は、人との繋がりが足りなかった。色んな人と出会って、色んな事を知って。俺は、きっと他人と関わろうと
しなかっただけだった。他人を知ろうとしなかった……」

吟味して、良く分からなくなって行き詰って、それでも諦めずに言葉を探して。
辿り着いたのは、他人との関わり。

どんなに悪い事よりも良くないのは、他人と関わりにならない事なんじゃないだろうか。
あの屋台の店主も言っていた、「好き嫌いはするな」と言う言葉の意味が、今なら分かる気がする。

俺は他人との繋がりを恐れていただけだったんだと思う。
否定される事や、裏切られることが怖くて、恐くて。そんな想いを固定したまま日々を過ごしていた。

だから、他人と触れ合わないようにすれば良い。
孤独だなんて一人で嘯いて、ただ逃げていた。

幻想郷じゃなくても、霊夢から、他人から、全てから――

……それじゃあ、霊夢だって俺に笑ってはくれないし、俺だって霊夢に笑いかけられないから。

「……俺に足りないのは、『人との関わり』……違いますか?」



――沈黙。死に際であろうに、何処ぞのテレビ番組が浮かんでしまうくらいの、永い沈黙――



「……及第点ね。ただし、判定はノーマル水準ってトコですわ」
「……え?」
「合格と言う事ですわ。……おめでとうございます」

こんな顔が出来たのか、と言うくらいの鮮やかに明るい笑顔を浮かべながら、紫はそう言った。

「……ぃいやったああぁぁぁぁぁ!!」

天高く貫くほどに、俺は力強く勝ち鬨の咆哮を上げた。

「……最高難易度は、まだ難しいかしら?」

――隣で小さく、紫が苦笑していたのは覚えている。
最終更新:2010年05月14日 01:25