━ 7 ━
眩暈に似た感覚、戻って来る現実。
雨はまだ降り続いていて、水溜りは下半身を漏れ無くびしょ濡れにしてくれている。
膝小僧にしっかりと刻まれ消えてなんかいない、薄汚れた赤黒い傷。
……白昼夢でも、見てたのか?
頭を軽く振り、冴えない頭を少しでも動かそうと抵抗する。
紫に出遭ったのは確かだと思う。その証拠に俺の脇に、水ですっかり汚くなってる毛布が浮かんでたから。
風邪を引いた時のように筋張った体を伸ばして起き上がる。
体の芯はすっかり冷え切っているようで、気を抜くと倒れてしまいそうだ。足の傷に痛みが無いのは幸いかもな。
……いや、怪我としては良くない方向に進んでるのかも知れんけど……。
「……そうだ、霊夢に……」
謝らねば。許して貰えなくても良い、絶対に神社に辿り着いて。
せめて、伝えるんだ。その後なんか、どうなっても良い。いや、良くはないけど……。
まだ、死ぬ訳には行かない。それだけは確かだ。
木の下から這い出るように身を乗り出すと、森の中を蹂躙するように雨の勢いはむしろ増していた。
もう泥だらけの水浸しだろう携帯は未だ健在で、正確に時を刻んでいた。見れば、眠っていたのは一時間って所か。
……前から思ってたが、何でこの携帯壊れないんだろうか。
思わず水深10cmくらいの水溜りへ投げ込んでみようか等と思ってしまったが、それで呆気無く壊れてしまっては困る。
電池は減らない上、耐水耐衝、おまけにメモ帳なんかは延々使えると来た。
……今はそれよりも、神社へ行く事が一番だ。それ以外は、後で良い。
それに、死にそうに成ったら紫辺りにでもしがみ付いて無理矢理治せと喚き散らしてやろう。
「○○!?」
聴き慣れた、けれど今聴く必要が無いと言えばそうであろう、懐かしい声。
「……魔理沙、か」
振り返ると、随分長い事見てない気がする魔法使いルックの彼女がそこに居た。
この嵐の中、何をしていたんだろうか。雨水で変色するほどに衣服は濡れているようで、その顔には
疲れがまざまざと浮かんでいた。
……けど、今逢いたいのは魔理沙じゃないんだ。
「やっと、見つけたぜ」
「やっと? ……俺を、探してたのか?」
「あぁ。お前、霊夢に酷い事言っただろ。だから、地面に頭擦り付けながら謝らせようと思い立ってな」
……だって? そいつは、むしろ好都合だ。
にしたって、魔理沙のヤツも馬鹿なんじゃないのか。そんな、そんな事の為だけにこの暴風雨の中を
彷徨ってたなんて。
「……悪い」
「……へ、へへ。謝る相手は、私じゃあないだろ。とりあえず……」
驚く間さえ無く、横っ面を強烈な一撃が襲った。
「……霊夢の分と、あと、もう一発頂いとく……」
二撃目。声も上げられず、衝撃によろめきそのままにへたり込んでしまった。
「こんな徒労を喰らった私からの、ささやかなプレゼントだぜ……」
「……は、ははは」
曇天に黒い絵の具をぶちまけたような真っ黒な空から見下ろされたまま、空笑う。
「魔理沙。もう一発殴ってくれても構わないぞ」
「……あー?」
視界の端に、不思議そうに首を傾げる魔理沙が見える。
「……いや、何でもない。それより、連れてってくれるんなら、頼む」
「おう、その為に来たんだ」
容赦無く俺の襟首を掴み、半ば無理矢理に俺を起き上がらせる魔理沙。が、急に
目を見開き、青ざめた顔から更に血の気を引かせながら停止した。
「……な、なんだよ」
「おま、その傷……!!」
微かに震えて見えるその指先は、膝に出来た醜い裂傷を指していた。
「ん、これか? いやぁ、何だか不思議と全然痛くなくてな。ほれこの通り」
固まったままの魔理沙に見せ付けるように、足をブンブン振ってみせる。
こっぴどく汚れていて出血があるかも良く分からんのだが、どうしてかやたらと足は軽い。
「冗談じゃない!! 何よりまず医者に診て貰った方が良い!!」
「そんな悠長な事やってられるか!! 悪いが、とっとと神社に連れてって貰うぞ!」
「お、お前、私は心配してやってるんだぞ……!?」
「押し付けの心配なら要らん! それに、この通り動く!!」
「ッ~……!!」
歯軋りするかのように二の句を告ごうとする魔理沙だが、言葉が出て来ないらしく
唸るように押し黙ってしまう。このくらいで死んでるなら、紫に絡まれてた時点で俺は死んでる、気がする。
「……あぁ、もう、分かったよ!! 私は知らんからな!!? 心配してやってんだぞ?!」
「あぁ、分かってる。その厚意は有難く後で頂く。だから……」
さっきからやたら足の方が軽かったのだが、今度は体から芯が抜けるような感覚が駆けて行った。
眩暈とは違う冷たい感覚によろめくも、なんとか踏みとどまって、帽子のつばに隠れた魔理沙の瞳を強く見つめる。
「……だから、早く神社に連れてってくれ。頼む」
「……分かったよ」
泥まみれの手を、魔理沙の小さな、だが力強い手が掴んだ。
「超特急だ。音速だろうが、超えてやるぜ」
「……頼もしいな」
心なしか濡れた金色の瞳は、夜闇に瞬く稲光のように眩い輝きを持っていた気がした。
……私は雨が好きだ。
掃除をしなくて良いから。それと、虫達のざわめきより遥かに騒がしい気がするから。
現在進行で降っている雨は、まるで誰かが延々と拍手してるみたい。
長々聴いてても飽きない。だから、こんな風にずっとお茶を啜り続けられるのだ。
まあ、話し相手が居るに越した事は無いんだけど。
……誰か、来ないかな。
雨水が屋根を叩く音を、かれこれ何時間と聴いただろうか。
涙は当に収まって、溢れた感情の波が嘘のよう。いつもと変わらないお茶の味は、
心に平穏を取り戻すにはピッタリだった。あ、これ結構出涸らしだったわ。
でも、退屈には変わらない。
どうしてか眠る気もしないから、ずっとボーッとしている。
誰か訪ねて来る事を、魔理沙が帰って来る事を、あるいは○○が帰って来る事でも
期待しているのか――
「……」
何かがあって、何かが欠けた。
お茶葉があってもお湯が無ければ美味しいお茶は頂けない。
逆にお茶葉が無くても熱いお湯だけではお茶は飲めない。
今まであった欠けちゃいけない物が欠けた時、何で埋め合わせたら良いんだろう?
「欠けちゃいけない物って、何だったかしら」
横になり、木目の天井を見つめる。家だったら、大黒柱とか窓とか屋根とか、
台所とかお手洗いとか玄関とか寝所とか……。
どれもあんまり、欠けるべきじゃない。
……それが、人間や妖怪相手だったらどうだろう?
魔理沙は、欠けて嬉しい事なんか無い。退屈しのぎが一つ減る。騒がしさも無くなる。
他の妖怪や幽霊達だってそう。人間は妖怪を退治するものだけど、退治する相手さえ居なかったら
私が居る意味が無い。私の周りに居る、誰一人何一つ欠けたって面白い事は起こらない。
――それじゃあ、○○はどうだろう?
外から来た上に後から来ただけの、気難しいと言うか間の抜けていると言うか、良く分からない彼。
いや、分からないと言うより、触れないと言うべきなのか。触れる事を許してくれずに、いつもいつも
自分の決めた範囲にしか入れさせない。
皆は私の周りに勝手に入って来たも同然なのに、彼は入って来ようとさえしなかった。
何故だろう、どうして入って来てくれないんだろう。
入って来てくれないなら、私から――
そう、思った。
私の前に現れた人は皆似たり寄ったりだったのに。
彼だけは、違っていた……ような気がする。
もっと、知りたい。
自分から動いて、彼を知りたいと思った。
……分からないから、彼だけ分からない。
皆は、人妖達は、私が知ろうとなんてしなくたっていつの間にか私の中に入って来ていたから。
「……あ」
天井の隅に張った蜘蛛の巣を見ながら、改めて再認識した。
○○は、ここには居ない。魔理沙が探しに行ってくれてるけど、ここには居ない。もしかしたら、妖怪に
襲われているかもしれない。そうじゃなくてもこの天気、慣れない足で暗い森の中なんて歩いたら、
どうなるかなんて、私が魔理沙に勝つ事くらい明白……ま、たまに負けるけど。
「自業自得よ……」
……でも、もし二度と会えなかったら?
私が何もしなかったせいで、○○が死んでしまったら?
「……知った事じゃないわ」
起き上がる。胸を締め付ける何かが体を勝手に揺り動かす。
「……」
異変が起きたらどうする? ……当然、解決するのが私の役目だ。
それが、例え私自身の事であっても。
「犯人は、何なのかしらね?」
……この気持ちの原因を突き止めて、退治するんだ。
傍から見れば、その様子はもはや悪質なストーカーさながら。
そんな二人組がスキマを通じて博麗神社を覗いていた。いや、正確には一人の勝手だが。
「初々しいわねぇ、もう。じれったくて」
「いや、あの紫様……」
「なによぅ」
それにしてもこの主、ノリノリである。
「私にもあんな頃があったわぁ~」
「……嘘だ」
「何か言った?」
「いえ何も」
式神は呆れた以外の何者をも感じさせないため息をつくと、自分も主と一緒に成って
スキマから神社を覗く。外は雨だが、傘も差さずにずぶ濡れで出て行く巫女には
同性ながらも多少の艶のようなものを感じざるを得ない。
私もあんな感じに恋を知った事があったかしら……。
三国に渡り妖異を為したこの私が、今更あんなものに憧れるなんてね……。
「新鮮味は大事よ!!」
「はっ、えぇ?」
まさか心を見透かされたか、藍は九尾を綺麗に立てて唐突な言葉に驚く。
「だ、か、ら。新鮮味よ、新鮮味。朝鮮味じゃなくてよ」
「そんな事言ってませんて」
「高麗でも蓬莱でもないわ。そうよ、妖怪だって永く生きようとも、こう言う新鮮な事が無いと
飽きるのよ、色々と」
「……はぁ」
新鮮な人参の話はどうでも良い……。あからさまに話を聴きたくないオーラを
放とうとも、紫は問答無用で会話を進めるのだから敵わない。
まあ、一方的な会話は会話と呼べるか分からないのだが。
「だから、ね。藍、貴女も恋をすると良いわ」
「……はい?」
ホ、ホントに見透かしたのかこの人はっ。
と、密かに思いかけた藍であったが、珍しく邪気の無い主の笑顔から、その言葉は
結構真っ直ぐに出て来ているものなのだろうと感じ取れた。
「そう、恋。私も良い子探そうかしら」
「歳考e……」
「そうよ、幻想郷の少女達には恋が足りないわ。これを機会に色々やってみましょう、そうよ!」
貴女がやると、その辺で転んだ子供の泣き声が血の海で泣き叫ぶ罪人共の阿鼻叫喚に成りかねない
から止めて下さい。切に。ホントに。
キラキラと目を輝かせる紫に、歳なんて言ったら自分も結構アレじゃないか、などと思ってしまう藍。
……確かに、心が若ければ肉体も老いぬと聞く。妖怪ならば、きっとそれは更に顕著だろう。
……してみようかな、恋。いや、相手なんて居ないけど……。
「良い子、見つけてきてあげましょうか」
「結構です」
……まさか本当に読心しているのではあるまいな?
しかし、これが一度目で次があるなら、小慣れたであろう紫はもっと大変な事をしでかすに違いない。
その対象が私に成るなんて真っ平御免だ。楽しそうにスキマから巫女を眺め続ける主を
他所に、藍はまた一つ盛大にため息をつくのであった。
「あ、やっぱり顔は良い方が良いわよね」
「……そう言う趣向は、お腹に収める人間だけにしましょうよ……」
━ 8 ━
良く日常を見つめてみると良い。
変化が無い、なんて事は無い。そこにはたくさんの新しいものが転がってる。
自分で世界に値段をつけて、見切りを付けたら面白くない。
だったら、あるだけ楽しんでみようじゃないか。
道端の草花の名前を気にした事があるか? それなら、野草辞典でも開くと良い。
知らなかった事がたくさん出て来る。
決まり切った事だらけが嫌なら、自分で変えてみる。
そんな事をちらっとでも思った事があるなら、上々。
その為に、行くんだ。
だけど、必ず戻る。
知りすぎてしまった事ってのは、時々ドツボにはまる事もあるからな。
俺は、知りすぎた。
だから、戻って来るよ、絶対に。
――もっともっと知りたい事が出来たんだからな。
雨脚は強く、まるでノアの洪水が再来するかのような大荒れ。
雷神様は夫婦喧嘩でもしてるのか、引っ切り無しに雲の上で大暴れ。
その上、太陽との喧嘩に負けて自棄に成ってる北風のような勢いの暴風が正面から叩きつけて来る。
「――なぁ、魔理沙ァ!!」
「なんだー!!?」
「これ、神社辿り着けるのかー!?」
「なんなら墜落してやろうかァー!!?」
「いや、そのまま飛んどいてくれー!!」
暴風雨は音さえ遮り、振り回されてはいるものの体には気持ち悪ささえ湧いて来ない。
ついでに、冗談の一つさえ湧いて来ない。
無言でただ只管嵐の中を突き進む魔理沙に、励ましの言葉一つくらいは贈ってやりたい。
けど、浮かぶのは。あの時の、霊夢の驚いたような顔だけで。
魔理沙から聴いただけだが、彼女はあの後泣いていたんだ。
それを思うと、大袈裟だろう、だけど本当に今すぐにでもこの箒から飛び降りてしまいたくなる。
――だけど、それは駄目だ。
彼女に謝るまでは、雷鳴に貫かれようと諦めない。
俺を、俺みたいなヤツを、本気で護ってくれた霊夢に。
「……うわッ!?」
急に魔理沙が減速し、危うく箒から振り落とされそうになった。
おい待て、確かに飛び降りたいとは思ったが、何も親切に突き落とそうなんてしてくれなくても。
「っとと、魔理沙、どうし……あれ?」
暴風雨の轟きが、いつの間にか消えていた。
それどころか、周りの風景も何もかもが完全に黒一色へと変わっていた。
……いや、違う。
目を凝らせば、暗がりに鈍く光る、目。
もう、何度と無く見て来たヤツらが、俺達をじっとりと見返していた。
「……紫、か。悪いが私は超光速で急いでるんだ。ここから出してくれないか」
斜め45度上、くらいか。後光とも言えそうな淡いパープルの光をまとった紫。でも、あの毒々しい光は
そんな風に言えるタイプのものじゃないと思う。
……気のせいか、背中越しに感じる魔理沙の鼓動が少し早くなったような気がした。
「お断りしますわ」
「消し飛ばされたいか」
「出来るものなら」
ギリリ、と歯軋りのような鈍い音が聴こえたかと思うと、目を覆う間も無く
痛烈な閃光が目の前で炸裂する。
「……!!」
魔理沙自身の三、四倍はあろうかと言う、白熱したレーザーとでも言うべきなのか、
それともビームか光線か。軍事衛星なんかに着けられてそうな、衛星砲を地で体現しているかのような
モノが、恐らく紫の居るであろう方向へと発射されていた。
無音の空間に振動と爆音が響き渡る。
ふと見ると大量の目のようなものが目を瞑っているような気がした。アイツら、生きてるんだろうか?
明滅と黒煙が収まると、変わらずに佇む紫の姿が現われる。目前には、以前見た
鮮やかな魔法陣のようなものが展開されており、霊夢の時と違い、
重ねられたそれらには著しい破損の痕が見られた。
「真っ直ぐすぎるのも禁物ね。一途なのは良い事だけど」
「もう一度言う。そこを退け」
「貴女にこの結界を破る事は出来ない」
「ッ!!」
二撃目。反射的に目を覆ってしまうほどの光が、目の前から溢れ出す。
魔理沙自身制御するのが困難らしい、体に伝わって来る振動は、恐らく最大震度の地震と
比べても遜色無いぐらいの勢いだと思う。
俺よりも小さなこの体の何処に、こんな力が隠されているんだろう……?
――けど、妖怪ってのは見た目よりも遥かに途方も無くイカレた存在らしい。
熱を持った空気が晴れると、涼やかな顔をした紫の姿がそこにはあった。
ただ先程と違うのは、何だか複雑怪奇さを増した妖しげな魔法陣。何と言えば良いんだろうか、
目の粗い網から目の細かい網にチェンジした、みたいな。
兎に角、その不気味な結界とやらに、傷らしいものは一つとして見当たらなかった。
「○○」
「は……え?!」
真後ろから聴こえた呼び掛けに反応した頃には、もう天地は逆さまだった。
「散々逃げ回ってくれたけど、ここまでなの」
「なっ、紫ィ!! 何をする気だ!!」
「何って、『妖怪の仕事』ですわ」
魔理沙の驚く顔が逆さに見える。血が上り始めている頭を無理に上げて見れば、
そこには今までに見た事も無いくらいに楽しそうな笑顔を浮かべた紫の顔があった。良く言う、
子供が蟻を無慈悲に潰す時に見せる、そんな無邪気な笑み。
目が合った瞬間、悟った。……あぁ、俺今度こそ死ぬんだろうな。
直感的に、と言うか。蜘蛛の糸に引っ掛かった蝶の気分、ってモノを知った。
掴まれた足は、どんなに動かそうとしてもミリ単位で動かせない、気がする。
まるで釘付けだ。と言うか、もはや体を動かす気分に成れない。
終わりってのはいつも唐突だな、宣告があれば覚悟くらい出来るのに――
……思えば、良くも悪くも奇抜な人生でした……って諦められるかよ!!
今までどんな思いを、どんな想いをして、ここまで来たと思ってんだ!!
考え得る人生においての努力値限界がここ最近でリミットブレイク、オーバードライブしてるんだよ!!
だから、そんな簡単に殺られてたまるか!!
ふざけんなよ、まだ霊夢に逢ってもいねぇんだぞ。事後なら無様に喰われようと構わねぇ、
放しやがれ、博麗神社へ、霊夢の元へ連れて行け、今すぐに!!
「あら、心の声が駄々漏れね」
どうやら思考のほとんどが口に流れ込んでいたらしく、そのまま舌に踊らされて
出て来てしまったようだ。逆さになった視界の中で、唖然とする魔理沙と楽しそうな紫が見える。
――知った事かよ!!
「うるせぇ!! 放しやがれこの化け物!! 怪物!! 狸女!! この――――年増ァ!!!!」
「――年m……」
じたばたと暴れていたつもりの足に、ミシリと響く嫌な音。
紫の笑みに引きつった何かが見える。どうやら、堪忍袋の緒を盛大に切ってしまったようだ。
……ごめん、霊夢。化けて出てでも謝りに行くかr――
「博麗幻影」
目の前を、白銀に輝く黒髪が横切った。
いや、表現としては間違ってるかもしれない。でも、そうとしか言えない、彼女の艶やかな黒髪。
「ッ……四重結界!!」
食器棚をシェイクしたような音がし、ロケットみたいに飛び出した俺は真っ暗な空間に放り出された。
――かと思えば、もう目の前は水溜りだった。
「いぎゃっ!?」
もう何度目かも数えたくない水中ダイブ。いや、二度目くらいか。
にしたって、口の中に泥が入って来るのだけは勘弁して欲しい。って、そんな事より――
振り返ったその先に居たのは、誰と見紛う事か、霊夢。
身にまとった紅白を、水分に普段より暗く染め、変わらぬ暴風雨に凛と髪をなびかせて。
顔色も、表情も窺えない。けれど分かるのは、あの時と同じ、護ってくれた時と同じ、強い意志を
感じるその小さな、けれど輝かしく見えるその背。
――早く、言うんだ。
「れ……!!」
「すぐ終わらせるから」
彼女の名は舌先で躍り、それは目指した霊夢へ届かずに飲み込まれる。
疾駆。最早人間とは思えない速度で霊夢は飛び出すと、加速の勢いを込めた札を、張り巡らされた
多重に重ねられた魔法陣へと投げ付ける。いや、と言うかアレは直で殴ってると言った方が正しいかもしれない。
紫の不敵な笑みに焦りのようなものが一瞬見えたかと思うと、その表情は巻き起こった虹色の光に
飲まれて消え去ってしまった。
何が起きているのか分からずにへたり込んでいると、側に魔理沙が降りて来て、
帽子で顔を隠したままに笑って言った。
「ああなったら止まらんな、色々と落ち着くまで」
「色々と……」
「黙って見てると良い、綺麗だぜ。まあ私の弾幕の鮮やかさには及ばないけどな」
確かに、綺麗だった。
オーロラを間近で見ているような、天の川が目の前で流れているような、インスタントに超新星爆発が
起こっているような、あぁもう、分からない。限り無く抽象的にしか表現出来ないんだが、兎に角美しいんだ。
そこには、恐怖とは違う何かを感じるモノが確かにあった。
見惚れるほどの、鳥肌が立ち続けるほどの映像劇。言葉の枠で収められるんなら、この辺が妥当かもしれない。
「本気ね」
「本気よ」
「修行不足」
「どうかしら」
そんな人間と言う範囲の極限を超えたドッグファイトの最中にも関わらず、
紫は楽しそうに、霊夢は無表情に、会話なんかしている。
震えは、恐怖はまだある。訳が分からんし、あんな風に動ける人間ってのをオリンピックでも見た事は無い。
いや、と言うよりもこの恐怖が消え去ってくれる事は、俺が人と言う範疇に収まってる限り永劫無いだろう。
霊夢も、確かに人なんだろう。
だけど、彼女は人でありながら人を凌駕した存在なんだと思う。
……でも、あの矛先が俺に向く事は絶対に無い。言い切れるかは分からない。けど、そうだと思う。信じたい。
「……今の貴女は、幻想郷に要らないわ」
「あらあら、だったらどうするの?」
「――夢想天生」
霊夢を中心に、数え切れないくらい大量の札が現われる。
さながらナイアガラの滝のように噴き出した札と光と陰陽弾の洪水は、未だに笑みを崩さない
紫へと容赦無く殺到して行く。
あの場に、紫の位置に俺が居たら、と想像する。俺だったら、きっと何一つ考える事すら
出来ぬままに封殺されるに違いない。
360度四方八方から迫る異様な物体の数々は、笑いが零れるほどにシュールなんだろう。
――けど、あの笑いは、アイツのそれは、きっとそう言う種類の笑顔じゃないと思う。
「そうそう、殺るならこのくらi――」
紫の不愉快なソプラノボイスは、爆音と轟音に掻き消されてそこで途切れた。
地面が蚯蚓腫れみたいに膨れ上がったり、抉れたり、凹んだり、吹っ飛んだり、弾け飛んだり。
どこぞの星間戦争だって、ここまで恐ろしい真似はしないだろう。
空気が泣いている、って言うのはこう言う感じなのか。触れてもいないのに、空気から恐ろしい
何かが伝播して、皮膚や腹の中を駆け抜けて行く。
座り込んだまま腰が抜けるってのも、初めて感じた。
体感にして一時間くらいな気がする。実質数分だろうに、とても永く感じていたような曖昧な時間。
倒壊した廃屋でもこんな事には成るまい、煙が晴れた先には、霊夢の立つ神々しいその姿しか
ありはしなかった。
――紫は、消えてしまった。
「……流石に、やり過ぎ、だぜ。これがアイツの本気、なのか……?」
いつの間にかずり落ちた帽子の下では、ただ純粋に驚愕に目を見開く魔理沙の顔があった。
俺の顔は、どうなっているだろうか。恐怖の色か、驚きに間の抜けた顔か、はたまた笑いしか
出て来なくなっているんだろうか。
「……あ!?」
「な……!!」
駆け出した。まだ、終わってなかった。やっぱり化け物は化け物だったんだ。
近くで見れば、何の事は無いただの女の子の、小さな背中。それを躊躇い無く突き飛ばし、
越えた先に見えたのは、妖艶で満面に美しい笑み。
「……え?」
――良く出来ました。
衝撃。
━ 9 ━
―あなたは しにました―
でれでれでれでれでん でれでん
ぼうけん の しょ 1は きえて しまい ました
「ほわあぁぁぁぁぁぁ!?」
幼少時にトラウマと化した恐ろしげなメロディーが脳内を跳ね回ったショックで
飛び上がるように起きると、そこは捻った表現をする必要も無いくらいに真っ暗な空間だった。
「ほわ、ほ……ほぇ?」
右向け、右!! 誰に話しかけているのだ。
左向け、左!! そこには誰も居ない。
人も妖も全て、目の前から消えていた。
「……?」
足元には確かに硬い感触がある。暗くて見えないが、触ってみた感じ湿っぽくて、
雨上がりの地面だと言うことが何となく伝わって来る。
あれ、ここは何処だ? もしかして俺失明したとか。いや、展開的にそれは無いだろ。
……確か、霊夢と紫のイカレた戦いを見ていて、霊夢が本気モード、っぽい
状態に成って紫を消し飛ばしたと思ったら、倒せてなくて――
――それで、霊夢の背後に現われた紫から、霊夢を護る為に俺が突き飛ばして……。
最後にに見えたのは、確かやたらと眩しい蒼い光だった気がする。
……まさか最後じゃなくて、最期に見たもの、なんてこた無いよな……?
「気が付きましたか?」
「は……」
風圧の強い、しかし暖かな風に包まれたかと思えば、瞬きした次の瞬間には
見覚えのある風景が色彩豊かに広がっていた。
悲しげな桜吹雪舞う、無縁塚。俺が初めて目にした幻想郷の景色。
ここで俺は映姫さんと会い、その後、紫と出会った。
――そうだ、思い出した。
紫と初めて出会ったのは、ここだ。映姫さんが去った後、立ち尽くしていた俺の前に
前触れも無く現われた不気味な笑顔。
そして、紫は言ったんだ。
『――今の貴方では、向こうで理解する事はきっと、出来ない。閻魔様の言葉がどう言う意味か、
今の貴方に理解出来たかしら? それが分からないなら、そうね。この場所、幻想郷を見て行くと良い。
向こうに帰るのは、それからでも遅くないわ――』
確かそんな台詞を、心底楽しそうな顔で話していたと思う。
そして……えーと、どうやって博麗神社に連れて行かれたのかは思い出せない。いや、
でも何されたか分かんないし怖いから思い出さなくて良いや。
ぼやけた景色が次第にピントの合ったレンズのように、どんどんとはっきりして行く。
声の主、映姫さんだけは、その淡い世界の中で最初から輪郭を強く持っていた。
「此処は無縁塚……まあ、言われなくても分かっていますね?」
「え、えぇ……何だか、やたらと頭が冴えてる気がします」
意識が明瞭と言うか何と言うか、紫に幻想郷の外へ拉致された時の感覚と似ている。
気になって見てみれば、やっぱりそうだ。怪我らしい怪我、汚れなんかは見る影も無く、
小奇麗に整ってるんじゃないか、なんて思えるくらいにそれらは消えていた。
「それはあの妖怪が少々……。まあ、それは良いでしょう。どうですか、貴方に足りていない
ものは手に入れましたか? それとも、手に入りそうですか?」
俺に足りないモノ、足りなかったであろうモノ。今なら言える、人との繋がり。
「……これから、絶対に手に入れて見せます」
「そうですか。……ならば、お帰りなさい。貴方はまだ、学ぶ事が出来る」
以前に見たあの厳しい表情は面影も無く、母性を感じる暖かな笑顔で、映姫さんはそう言った。
「知らない事は罪。無知は罪な事。物事を理解し、他人を知ろうとする努力さえしなければ、
それはその時点で余りにも深い大罪。その事に気付いた貴方なら、もう二度と自ら命を断とうなどと
考える事はないでしょう」
「……はい」
絶対に死ぬものか。そう思えたのは、誰のお陰だ?
「少しずつでも良い、自分を隠したりしないで」
聞く必要なんてありはしない。霊夢が居たからこそ、だ。
「他人と自分と、互いを少しずつ理解して行きなさい」
……そうだ。そして、今やるべき事は何だ?
「――それこそが、今の貴方に積める善行よ」
「……全く、貴方も手加減を知らないのだから」
「ふふ、そうね。するつもりだったんだけど、つい手が滑らせちゃうのよ」
「滑らせちゃうって、やっぱり意図的だったんですか……?」
幻想模様をこれ以上に無いくらい表した桜を目の前に佇むのは、身の丈小さく
威厳は大きな閻魔様と、何処か怪しげで妖しげな妖怪の姿。
「頭が思いっ切り割れてたんですよ。私が出張らなければ、彼はとっくに地獄逝きでした」
紫は霊夢を襲うつもりなど無かった。彼を、○○を試していた。
あの場で○○が動けなければ、躊躇わず彼を引き裂いてブランチにでもしていたであろう。それでも、
彼が霊夢を突き飛ばした直後に超光速飛行物体を真っ直ぐに発射した訳だが。
面白いほどに容易く蒼い閃光に飲まれ、一秒も後には○○は木の又に激突して意識を失っていた。
後の永琳曰く、あと数分永遠亭への到着が遅れていたら脳に後遺症が残っていた、
と言わしめるほどの重傷だったとか実はそうでもなかったとか。
「あらあらうふふ。そのくらいで死ぬようじゃ、霊夢に逢う事だって出来なかったんじゃないかしら」
「だから私が彼の……。あぁ、もう良いです」
「演出ですわ」
困った妖怪に首を捻らせるのは、人妖閻魔問わず同じなようだ。
含み笑いに近いモノを浮かべていた紫であったが、急に映姫を真面目に見つめ始めた。
この妖怪が真面目な顔をしている時ほど何かを企んでいそうな事は無い。
「じとー」
「な、何ですか。説教でもして欲しいんですか?」
真面目な色をしていた紫の瞳が急に一転し、心底楽しそうな色へと変わる。
「いいえ、貴女も恋なんかしてみたらどうかなぁ、なんてね」
「んなッ?!」
「あらぁ、霊夢と反応が一緒ねぇ」
「ふ、ふざけな――」
「いいえ、私は真面目よ。ね、閻・魔・様?」
またもやコロリと表情を一転させ、その真摯な瞳に見つめられて映姫は頬を染めて
「あぅあぅ」と呻く事しか出来なかった。閻魔までもを手篭めにしてしまうこの妖怪は、一体何を
恐れるのだろう。そして、何を楽しいと思うのだろう。
少なくとも、表情豊かなのはきっと生を楽しんでいるからなのだろう。
「……もう、良いです! 小町がサボってないか見て来ます!!」
「あらあら、部下に先を越されないようにねぇー」
「ッ~!!」
紫の額目掛けて卒塔婆が音速を超えて飛んで来るも、挙動無しで開かれた黒いスキマに
卒塔婆は放り込まれ、音沙汰も無く消えてしまった。
「それじゃあ、また何かあったらお願いしますわね」
「もうこう言う回りくどいのは止めて下さい!」
「良いじゃないの、楽しくて。今度はどんな事をしようかしら」
永く生きる妖怪はそれだけ色々なものを楽しもうとする。わざわざ自ら異変を起こす者が
居るくらいなのだし、と言うか紫などはその最たる者なのであろうが。
恋もまた生を楽しむ要素の一つだ。そして、そこに人妖の境界はきっと無い。
……あったとしても、それをどうにかするくらいの力を持っている妖怪とて居る。
そしてその代表が、この八雲紫なのだろう。
映姫の深いため息を背に、紫はクスクスと笑いながら無縁塚を後にするのであった。
決まって目が覚めた時には、何処か知らない天井を見ているのが
こう言うお話でのセオリーだとは思う。ぼやけた視界に初めて映ったのは、
見覚えの無い、新しい感じの木目が見える綺麗な天井だった。
そして次に見えたのは、鮮烈なまでに赤くて紅い、紅白の巫女服。
「……ッ」
……声が出ない。どんだけ寝てたんだ、俺は。
起き上がろうとするが、今度は足に鈍痛だ。声にならない呻きをあげ、頭の下にあるであろう
柔らかな枕へ頭を戻す。
……あれ。少しばかりだるいが動く右腕を頭へやると、いつもとは違った感触がそこにあった。
包帯……? 頭頂部の方へ手をやると、ズキリと浅い痛みが走る。
俺、何かやらかしたっけ? 兎角、地味に痛い。
ふ、と目線を頭上から霊夢の方へ戻すと――
いつの間にか開かれていた、その大きく深い漆黒の瞳と目が合った。
「れ、あ、れい……む」
驚いたように見開かれた目は、待ち望んでいたはずの彼女のもの。
だが、口を開こうとしても頭が回らなくて何も言葉が出て来ない。
せめてもの一言、ごめんとだけでも言いたくて、口を開こうとした瞬間に
霊夢の目尻に涙が浮かぶのが見えた。
「れ……」
「……良かった。本当に良かった」
体に軽い何かが覆い被さるような感覚。いや、確かに霊夢が俺にしがみつくような形で
抱きついていた。
口が上手く回らないのと急な出来事に驚いて、俺はあぅあぅと呻き声を上げる事しか
出来なかった。
「あ、ご、ごめん」
苦しかったのかと勘違いしたか、霊夢は慌てて俺の上から離れて涙を拭った。
いや、出来ればずっとそのままで居て欲しかったなぁ……なんて。
「出来ればそのままで……」
「え?」
「ぃ、いやなんでも」
ようやく出るように成って来た声を捻り出したと言うのに、第一声がこれは無いだろう。
自分でも後悔しつつ、霊夢の耳に最後まで届かなかった事に胸を撫で下ろした。
……畜生、今まで神社に居て何故気付かなかった。
涙目の霊夢は、これは比喩だが、吐き気がするほどに可愛い。比喩だぞ、そんだけ
ヤバイって事だぞ、色々と。こんな時にマトモに動かない体はどうかしてる!!
いや、確かに頭とか足とかどうにかなってるみたいだけど。
「あの、霊夢」
「ん?」
ほのかに残る涙を頬に輝かせたまま、霊夢は小首を傾げた。
あぁ、霊夢のこんな顔は見ていられない。もう、不純な考えばかりが頭に浮かぶ。
……今は、そんな事を言うべきじゃ、考えるべきじゃないっての。
「……色々と、まとめられないけど……ごめん。俺は、霊夢の気持ちも考えないで、
酷い事言った。だから、許してくれなくても構わないから、その……ごめん、本当にごめん」
霊夢を、化け物なんて言ってしまった。
傷付けた。彼女の事も知らずに、俺は平気でそんな事を言った。
こんな事言ったって償えないかもしれない、けど言わなきゃならなかったんだ。
「……別に、良いわよ。実際、○○が言った通りなんだから」
そう言って笑う彼女の顔が、何処か辛そうに見えたのは気のせいじゃないと思う。
「そう言う風な事、言われた事無かったから。あの、ほら、考え込んじゃっただけ。魔理沙が何か
言ってたかもしれないけど、気にしなくて良いから。別に○○は悪くないわよ」
「……」
誤魔化すように笑う霊夢が悲しくて、俺は体中の倦怠感も知らぬように無理に起き上がった。
「ちょっ、まだ寝てなさ――」
何処か弱々しく聴こえるその声を遮るように、躊躇う事無く霊夢を抱き締めた。
「あ……」
「本当にごめん。辛いなら、俺を張り倒しても良い。ぶん殴ってくれたって良い。
殺すって言うならそれでも良い。だから、そんな顔しないでくれ」
抱き締めておいて何を、なんて自分でツッコミたくなる。
どう言うべきか分からない。今、彼女に支えが無ければ、今にも壊れてしまいそうに
見えたから。
「……い」
「え?」
「そんな事しない……。だから、もう少しこのままで……」
「……あぁ」
やっぱり、小さな体だった。細身な俺よりもずっと小さくて、大袈裟かもしれないが、
ガラス細工のようだった。こんな体から、あんな美しくも恐ろしい力が行使されてたのかと思うと、
神様ってヤツに心底こんな力を作った理由を問い質したくなる。それも、こんな少女には身に余るであろう力を。
どうせなら俺にくれよ。護られてばかりも、結構癪なモンなんだぞ。
……それに元よりそう言う力があれば、こんな少女を恐れる事も無かっただろうに。
いや、無いものねだりだな。
少なくとも、今だけでも、彼女の辛さの受け皿に成れるなら、それだけで良い。
「熱いわね、ふぅ」
上品な動作で茶を啜り、可愛らしくため息をつく黒髪の姫君。
蓬莱山輝夜は何処か楽しそうだった。
「あら、ちょっと熱くしすぎたかしら?」
姫の傍らで読書に耽っていたのは、同じく蓬莱の力をその身に窶した、八意永琳。
自分が淹れた茶が熱すぎたかと思い、湯飲みに入った、もう温くなっているであろう茶に
口をつけて首を傾げる。
「お茶の事じゃないわ。コレよ、コレ」
「コレってな……何コレ」
輝夜の目の前には、丁度監視カメラから覗いた風景をそのまま持って来たような
光景が展開されていた。赤い小さなリボンがその亀裂に結われており、この妙なモノを
作ったのが誰なのか嫌でもはっきりさせていた。
「八雲印のSU☆KI★MAウォッチャー無人君だって」
「……怪しすぎる」
「無人君って良いネーミングよね。外の機械から取った名前らしいわ」
「……時々貴女に仕えて良かったものなのかと思うわ。で、何を見てるの?」
こっちゃ来い、と楽しそうに手をブンブン振る輝夜。年相応ではない、なんて言ったらキリが無い。
なにせ、幻想郷に住む女は皆少女なのだから……そう思いたい。信じたい。
永琳がその無人君とやらに近付くと、案の定な光景がそれには映し出されていた。
「……まあ、そんなモンだろうと思ってましたわ」
「良いじゃない、新鮮で。それに、こう言うシチュエーションがあるだろう事を狙って
わざと怪我の回復を遅らせたのは貴女でしょう、永琳?」
「……えぇ、そうですよ」
空間の亀裂の向こうには、今まさに抱き合っている彼等の姿。
当人等も見られているとは思うまい、霊夢は○○に抱き寄せられるまま、撫でられるままに
身を任せ、いつもの暴れ馬ぶりはまるで嘘のようだ。
無限の時の中で彷徨う蓬莱の人の形にとっては、そんな風景の中に居たのも果て無く
遠く昔の事である。
「えぇ、まぁここ数百年来、いや数千年かしら。そのくらいは体験してないことだものね」
「でしょう!? あぁん、私も恋人作ろうかしら」
「……本気?」
「えぇ♪ それに、蓬莱の薬もある事だし。勿論、私の夫となる者なのだから、難題はきちんと
制覇して貰うけれど」
クスクスと笑う永遠の姫君。彼女にとっては一瞬も永遠も等しいもの。ならば、己が楽しめるように
周りを形作っていくだけの事。まぁ、巻き込まれた者には御愁傷様、とでも言ってやるしかない。
きっと、彼女自身の為なら、輝夜は自らが愛した者さえ永遠の存在へと変えてしまうだろう。
「ま、相手なんか居ませんけど」
カラカラと笑う輝夜に苦笑いを返しながら、永琳はもう一度亀裂の向こうの甘い情景を眺める。
……どうせ時間なんて掃いて捨てるほど、いや、限り無いのだ。
酒の肴に宵の戯れ、物は試し、そんな情事に手を染めてみるのも悪くは無いのかもしれない。
「……ねぇ永琳?」
「なに?」
「――あの子に蓬莱の薬、与えてみたらどうかしら?」
霊夢のそれよりも更に深い漆黒の瞳が、袖の向こうで妖しく輝く。
「……そんな事させる気無いでしょう」
「いいえー、○○可愛いじゃない。手に入れたくもなるわ」
「嘘でしょう」
「ええ♪」
どんな些細な事さえも、彼女達にとっては戯れだ。
永久に無限の存在が、等しく有限の存在である矮小な彼等に手を上げる必要など無い。
それに、有限を永遠に変えてしまいたくなるほど手に入れたい訳でもない。
「……こんな変化もたまには良いものね」
「たまにはね」
「手元に残しておきたくも成るわ」
「でもそれも永遠に変えてしまったら、私達と変わらないわよ。いずれ飽きるわ」
「そうね……。あ、可愛いと思ったのはホントよ。ああ言う子ってイジメたくならない?」
「はいはい……そう言うのは、鈴仙だけにしておきなさいな」
哀れ不憫な月兎かな。
怪我が治って、色々と話を聞いて回って、全てが済んで、そして。
「……はぁ?」
「だーかーらー、釣りでした」
「はぁ?」
「釣りよ、釣り。ぜーんぶ、最初からこれは私が仕組んだ御伽噺でした」
神社の裏に呼び出されて、いきなり言われた釣り宣言。
良いか、ちょっとあの、ほら、分かるか? うpスレで釣られた時の感覚とか、妹スレとか腹筋スレとかさ、
そう言うクオリティ高い、いや低い? 違う、もう、どう言えば良いんだ。
……つまり、どう言うこと?
「俺が貴女と会ったのも逃げ回ったのも殺されそうに成ったのも……全部ネタでした、って事?」
「ご名答♪」
ペタンと雨の名残残る湿っぽい地面に膝を突いて、力無く俺は笑った。そりゃもう、周囲にどんよりとか
メメタァとか効果音がついちまうくらいに笑ったさ、うふふふふってな。別に膝で蛙を潰した訳じゃない。
「だけど、命懸けの御伽噺だった」
「……命懸け?」
「えぇ、そう。コンティニュー無しの一回切り」
この人は、いや妖怪は、本当にコロコロと表情を変える。楽しそうに話していたと思えば急に深刻そうな
顔に成ってるし、どう反応して良いものか分からなくなって来る。
「貴方は私の予定通りに動いてくれた。まあ、ちょっと足りなかった部分もあったけど……。前に言った通り、
及第点。この先貴方がどう動くか、楽しみで仕方ないわ」
「この上まだ何か……あるんですか?」
「ふふ、さあ何かしらね。兎に角、今までの事、全部教えてあげますわ」
……全部、仕組まれていた事だったと言うのは確か。
俺があの場で、何処ぞの病院の屋上で見つかった所までは偶然らしい。
幻想郷に連れて来られる人間は、自殺を考える愚か者や世を儚む世捨て人が大抵なそうだ。
そしてその偶然が俺に行き当たったと言う訳。救いようの無い愚か者なら食うかそのまま飛ばせるかさせる
つもりだったらしいが……。
「中々絵面が良かったから♪」
……とかで、生きるチャンスをくれたんだそうだ。
自殺しようとしていた時の自分の顔なんて思い出せないが、どんな面かだったなんて想像もしたくない。
で、丁度年頃の女の子達に刺激を与えようと、俺を放り込んでやったとか言う寸法なんだと。
「貴方自身が成長するだろうと見込んでね、色んな妖怪にも協力を頼んでおいたりしたのよ」
何だか知らないが、俺は紫の命令下で絶対に襲われない事に成っていたらしい。
大変だったろう、今更判明した紫の式神、藍さんはずっと俺の事を見てたとか。誰にも襲われぬように、あるいは
自殺など図らぬように遠回しに諭したり。
あとは、出会った妖怪達。俺を恐れさせないよう、色々な物で釣られてたらしい。
店主とミスティアさんは元より協力を快諾していたそうだ。何だか、同じような感じがして見過ごせないとか何とか。
……紫の奴、一体何を言ったのやら。
――まあ、俺的に至った結論は、皆暇なんだろうか、と言う失礼なものだったが。
「貴方より霊夢をあしらう方がずっと大変だったわ。あの子思った事はすぐ行動に出すから、
怒らせちゃうと歯止めが利かなくてね」
テヘヘと笑う紫に、ついこの間言ってしまったあの台詞を言いたくなる。
どれだけ生きているのかは知らないが、少なくともあの台詞の有効範囲外に飛び出す勢いの年齢だとは思うんだ。
「見せたかったわよ、貴方にしがみ付いて泣いてた霊夢。可愛かったわぁ」
「……あの、霊夢にゃちゃんとそう言う、事情説明しましたよね……?」
「えぇ。勿論」
にこやかに微笑む紫。……怪しいものだ。
……ふと、あの人間を超越した霊夢の強さを思い出す。
裏打ちされた理由としては、博麗の巫女として、そう在るべきとされているから。
それがどんなに大事なものかなんて、外から来た俺に分かるものじゃない。
だったら、それ以外の存在理由は?
しっかりとしたそれが無いんなら……。俺がその理由って奴に成ってやりたいと、図々しいだろうけど、
そんな風に思った。
……俺なんかの、ちっぽけで情けない俺を、精一杯護ってくれた彼女。
感謝を示すには、きっと色々なものが足りない。償いも繋がりも、何もかもが。
――何より、もっと一緒に居たいと思ったんだ。
「……以上、この辺で御伽噺を締め括る事にしましょう。貴方は私の思う通りに動き、そして予想通りに
成長してくれた。……後は、貴方の物語になるかしら」
「……俺の物語?」
俺の物語、とか。中学生が妄想するような単語がひょいと飛び出し、俺は何だか妙な気分に
成りながら異口同音に繰り返す。
しかし、この言い振りでは所詮俺はチェスか何かの駒でしかなかったって事なんだろうか……?
「願わくば、このまま」
スッ、と紫が持つ扇子の動きに従って黒い直線が引かれ、滑らかに空間に亀裂が生じて行く。
「私の望むグランギニョルを演じ切ってくれたら、幸いですわ」
「……?」
聞き慣れない単語に首を傾げた頃には、紫の姿は霞さえ無くなっていた。
「……霊夢?」
「ん?」
曇り空に霞んだ朧月に、その紅白は良く映えていた。
今はもう、この色を恐れる事は無い。ただ、綺麗だと思った。
「……何?」
「綺麗だよな、お前」
「何よ、急に」
「いや、そう思ったから言っただけ」
「そう」
あれからまた数日が経った。前と変わらぬ距離で、立ち位置で霊夢と
言葉を交えるようになった。いや、ほんの少し近くなれたのかもしれない。
もう、霊夢を恐れたりはしないから。
いや、恐れが無い、と言うのは間違いかもしれない。
彼女を個人として、霊夢として見た時、そこに恐れが入り込む要素は無い。
ここの事を、幻想郷や妖怪の事、色んな事を理解したから。
宴会だってした、一緒に騒いだ、冗談を言い合ったり、妖怪相手に力比べして
簡単に負かされたりとかもしてみた。ま、ここ数週間の話だけど。
――でも、彼女達が俺を襲う、なんて事はきっと無いだろう。信じてる。
「○○」
「ん?」
ちょいちょい、と後ろ手に手招きする霊夢。畳のほの青い香りに別れを告げ立ち上がり、
雲の隙間に見え隠れしてばかりいるお月様を見ながら、俺は霊夢の隣に座った。
座ると同時に、霊夢は俺の肩に何も言わずに寄り掛かって来た。
「……宴会の時、ちっとも話せなかったわ」
「え、あぁ。アレはその……」
「別に怒ってないから、こうしてるだけで良いから……側に居て」
「……あぁ」
静かに響く虫の鳴き声、夜の湿った空気、そして彼女の僅かな重みとが心地良かった。
今日は、ここに来て二度目か三度目くらいの宴会に邪魔させて貰った。勿論、俺が来た当初の頃にも
宴会はあったのだが、その頃の俺はお察しの通りチキンボーイで、顔を出す事なんか殆どしなかった。
だからそれを取り返す為と言うか何と言うか、積極的に色んな人と話すように心掛けた。
奇々怪々、と言っちゃ失礼かもしれないが、色んな人が居る分色んな事が聞けた。面白くて面白くて、
ふと気付けば宴会の時に霊夢と話せなかった事に気付いた。
……いつも一緒に居たとしても、やっぱり話したくなる。側に居たくなる。
これはやっぱり、好きって事なんだろう。
……でも、霊夢は俺の事を好きなのだろうか。愛してくれるのだろうか?
「……あのさ、霊夢」
「なに?」
「いや、いいや」
空笑いで誤魔化して、俺はまた月を見上げた。
彼女を知りたい、そしてこの幻想郷の事をもっと知りたいのは確かだ。霊夢の気持ちを知る、
と言う事も勿論含めて。いや、知りたくない訳が無いだろ。
……けど、俺にはまだ知らなきゃいけない事がある。
「なによ、言いたい事があるなら言いなさい」
「んー……何でもない、訳じゃないけど……」
「何よ、男らしくないわね」
プリプリと怒る霊夢。その様子がいじらしくて、つい俺は悪戯したくなった。
「霊夢さん!」
「……な、何よ改まっt……きゃ?!」
抱き寄せて、その壊れそうな体を優しく抱きしめる。
一回抱き締めた事があると恥ずかしげも無く平気でこんな事出来るようになっちまうのかな、
とか何とも達観じみた考え事をしながら、その柔らかな感触を味わう。
「きゅ、急に何……」
「嫌か?」
「え、ぁ、そんな訳じゃ……ないけど」
「……そうか」
淡く桃色に頬を染めて俺の胸に顔を埋める霊夢。可愛い、なんて言葉で収まるモノじゃない。
けど、そうとしか言えない。
……全部言っちまえ。楽になるぜ?
霊夢の髪から漂う良い香りが、鼻腔と脳をくすぐって全く別の事を言いそうで、そして
行動にまで移してしまいそうで、自制を利かせるのが難しかった。
いや、もう耐えられてなんかいなかったのかもしれない。
「なぁ、霊夢?」
「……なに?」
真っ直ぐに俺を見つめる黒い瞳に、月の光が反射して煌いていた。
どちらとも言わずに、近付いていた気がする。
静かに唇を交えていた。漫画やドラマ、なんて言っちゃ聞こえが良くないかもしれないが、
ホントにそんなモノでしか見た事が無いそれを自らで、俺達で体現している。
いつの間にか深度を増したそれは、溶け合うように甘美で抗い難くて、
いつまでもこのまま、お互いを感じ合いたいと思ってしまうほどに、抜け出す事が叶わなかった。
湿った舌先同士は体温を伝え合い、ほんの細かな息遣いさえも、どんどんと近くなる
互いの距離さえもはっきりと露にして、時間の感覚さえも麻痺していた気がする。
――そして、長いようで短いような、甘い邂逅は終わった。
「……あ、あの、これはなそのえと、すまんついと言うか何と言うk」
「良いわよ」
え、と制されると、俺の目の前では霊夢が極上の笑顔を魅せてくれていた。
「私もしたかったから」
「……あぁ」
……言葉だけじゃ伝わらない事は、たくさんあるな。
だけど、言葉で明確にしなくちゃ、伝わらない事もある。
寄り添い合ったまま見上げる星月夜は、二人で満月の夜に飛んだ
空とをまるっきり再現しているかのように、何処までも澄み渡っていた。
「○○」
「ん?」
「私、○○の事がもっと知りたい。○○の事が良く分からない。だから、知りたい」
「……俺もだ。霊夢の事を、もっと知りたい」
これは、告白なんだろう。鈍いであろういくら俺だって、ここまで明確に想いを伝えられれば、
脳味噌がしっかりと言葉を反芻して理解してくれる。
……それが分かったなら、もう躊躇う事は無い。
ほんの一瞬の出来事でも、学び取れる事は、知れる事はたくさんあるはずだ。
逆に、長々と続く怠惰な日々の中でも、伝わってくる事はある。
だから、この俺の意志を、彼女に伝えなきゃいけない。
「……あのさ」
「ん?」
「…………俺、向こうに帰ろうと思う」
最終更新:2010年05月14日 01:26