━ おまけ ━







幻想郷の何処か。萃まる妖気は、きっと幻想郷中見回しても比になるものはそう無いだろう。
宵の戯れに萃香によって砕かれた月は、もう慣れたとばかりにじわじわと繋がって行く。まあ、
これまた戯れに紫が繋ぎ直しているだけなのだが。

「さてさて、色々やらかしてくれたわね、紫」
「えぇ、やらかしましたわ」
「そりゃ、私は良いわよ。酒を交わす相手が増えるってモンだからね。ン……でも、
他所から来た子にまた酒飲み相手が取られちゃうじゃない」

瓢箪から溢れる無限にして夢幻の酒を煽ると、萃香は小さくため息をつく。

「で、今回は霊夢が取られたと」
「ぬぬ、そーだよ。○○はからかい甲斐があるけど、下戸だから……うっぷ、物足りない」
「○○は向こうに帰ってますわ」
「今だけでしょ。それに霊夢は○○にお熱だから、話しかけたって上の空だよ」

人間からすれば凄まじいピッチ。瓢箪の中身は尽きぬものの、それでもストッパーが度々作動するほどの
勢いで萃香はガボガボ酒を飲んでいる。強烈な酒だろうに、割りもせずに自棄酒しているこの鬼の
肝臓辺りは一体どうなっているのだろう。

「次はどんな子を連れて来ようかしら」
「やめてよー。せめて里の子とか斡旋したげなさいよー。あ、おつまみ無い?」
「一人でも宴会ね、貴女は……。ちょっとは人間にちょっかい出してみたらどう?」

面白くないわね、と紫はスキマからやたら色々食べ物らしき物を引っ張り出して萃香の前に
積み上げて行く。一瞬萃香の顔が輝いたが、品々が何か気付くと紫を恨めしそうに睨んだ。

「それも良いけど、私は皆で楽しくお酒が飲みたいだけなのよぅ……ぃやー、これ早く片付けてよー」
「それこそ萃夢想ですわ……。まあ、それも良いかもね」

納豆を引っくり返して悲鳴を上げている萃香を他所に、楽しそうに笑う紫。
とは言え、やはりあまり外部から人間を連れ込むのは宜しい事ではない。それに、今回のように
上手く行くとは限らない。人間にも色々居るのだから。

里から引き合わせてみたりもするか……。

「紫様ー、お夜食出来ましたよー」

紫の腰掛けているスキマの向こうから響く藍の声。便利である。

「はぁーい」
「あ、私もご馳走になるわー」

まあ、楽しければ何でも良いんだけど。
とりあえずはこの酔いどれ鬼娘と共に、式の作った夜食に舌鼓を打つ事にする紫であった。









水筒に入れた麦茶はすっかり無くなり、喉は切実な渇きを訴える
心無しか流れる風がせめてもの救いで、箒の上に居る私はその恩恵を十分に与れる。

とは言え、暑いぜ暑いぜ。暑くて死ぬぜ。

「むー、あっつい」

暑いなんて言ったって変わらないのは分かっちゃいるが、暑いんだ。
慣れた動作で箒から飛び降りると、石畳から流れる鬱陶しい熱気が体を包む。

蝉の鳴き声が引っ切り無しに八方から響く神社。
この調子なら、いつものように縁側辺りで茶に塗れた霊夢が死んでいるはずだ。

日差しを避けるように、青々茂る大木の下を悠々通り縁側へ顔を出す。
……が、そこに霊夢の姿は無かった。家具も然程無くて前々から結構寂しげな居間は、
主が居ないだけで更に物悲しさを増す気がする。

ま、宴会の時は嫌でも騒がしく明るげに成るんだが。

「……この暑いのに何処行ってるんだ、アイツは?」

熱を吸収しやすい黒い帽子を縁側へ放り投げ、日陰だらけである意味縁側より過ごしやすいんじゃないか、
と言う裏庭へ回ると、案の定霊夢がそこに居た。ただ、涼しげな格好をしている訳でも氷菓子を口にしている訳でもなかった。

何と言うか、茫然自失に立っている……ように見えた。

「……霊夢? 遊びに来てやったぜ? おー……い?」

私が呼び掛けてもまるで返事をしない。紅い服は日陰の闇に薄く染まっていて、
騒ぐ木々のざわめきと服のはためきがやけに不気味に見えた。

「れ……んなッ!?」

もう一度呼び掛けようとした直後、蒼い光が霊夢の目の前から湧き出すように溢れた。
眩い光は瞬間的に収まると、霊夢の目の前に奇妙奇天烈なモノが浮かんでいた。

……スキマ? それとは何か違うけど、ありゃ何だ……?

何だか知らんが、危ないニオイがする。これは止めなきゃマズい気がするぞ……!?
スキマのような、妙な物が向こうに見える空間へ、霊夢はゆっくりと入って行こうとしている。

「霊夢!! 何か知らんが早まるなー!!」
「なっ、魔理s」

ゴシカァン。耳触りの良い効果音と共に、霊夢の腰に、素直に会心と頷ける一撃をお見舞いした。
主に飛び込んだ頭に全体重を込めて。






「流石に夢想封印は無いよなぁ、なぁ!」
「自業自得よ。私だってまだ痛いもん!」

二人して縁側で呻きながら横に成るのも中々良いものだ。
とは言え、全身痛いのは願い下げどころか勘弁して欲しいけどな。

「……ところでアレ、何処へ行こうとしてた?」

スキマのような切れ目の先には、確かにこことは違う何かが見えてた。

「……何処って、何の話?」
「さっきのスキマみたいなアレだよ。幻想郷の外、行こうとしてたんだろ?」
「知らないわよ、涼んでただけだから」

涼むなんて嘘を。いつ来たって、暑い夏だって大抵縁側に居るお前さんが言う事か。
……まあたまに水浴びとかしてるけど。魚捕りに行ってた事もあったな。あれ、実は結構アクティブ?

「……あ、○○だ」
「え?!」

熱に浮かされてふと呟いた瞬間この反応。
ジト目を送りつけてやるも、私にはまるで見向きもせずに辺りを見回している。

……すっかり虜に成ってるな、色々と。
恋色なんてお題目掲げてる私なんかより、ずっとな。

「……○○はまだ向こうだろ。私は帰って来るの何時だか知らんし」

気付いたら帰ってたしな。最後にちょろっと話す機会はあったけど、結局○○は私の事
なんて見てなかった。視線が視覚化出来たとしたら、○○の目は間違い無くあの時も
霊夢を見ていたって、頷ける。

……どいつもこいつも、博麗の巫女かよ。

ようやっと嘘だと気付いたか、気の抜けたような身振りで霊夢は再び縁側に腰掛けた。

「……そうね、まだ帰ってから一ヶ月も経ってなかったわ」
「ここは時間の感覚が希薄だな、○○なんてついさっき帰ったような気がしてならん」
「そう、かな……」

やれやれ、霊夢と私では体感時間が豪く違うようだ。

……私だって○○と逢いたい。けど、アイツは私を見てなんかいない。帰って来た所で、
アイツは結界の向こうに居る。私には絶対に破れない、硬すぎる壁の向こうに。

「ま、その内お前が恋しくなって帰って来るに違いないぜ」
「んなッ……魔理沙!!」
「ははは、邪魔したな」

顔にはそんな気持ち出さずに笑顔を浮かべ、箒を強く握り直して、鬱苦しい夏の青空へ飛び立つ。
明暗のはっきりした入道雲がやたらふんぞり返ってるように見えて、マスタースパークを撃ち込んで
やりたくなったが、やめた。

……湖にでも行って、この気持ち悪さごと涼みに行こうかな。











「ったく……何しに来たのよ、もう」

モコモコとした綿飴のような雲に向かって、魔理沙は飛行機雲を伸ばしながら消えて行った。
ああ言うのを冷やかしなんて言うんでしょうけど、別に何処も冷えない、むしろ暑い。賽銭入れろ。

……○○、帰って来ないかしら。

今さっき受けた痛恨な一撃の痛みが残る腰を擦りながら、呻きに似たため息をつく。
暑さは全然和らがないし、この胸のモヤモヤも消える事も無い。

……何で、帰っちゃったんだろう。

理由までは分からなかった。ううん、聞いたけど。
○○には、まだ知るべき事があるんだそうだ。それが、どんなものかは私には分からない。

……だったら、私にだってその「何か」を知る権利くらい、あったって良い。

――だから、私は……。

縁側の風鈴が小さく鳴り、微風に乗って夏の暑さが急にまとわり付いてくる。
立ち上がり、うんと一つ伸びをしてせめて風を受けようとするけど、淀んだ空気が蠢いている気持ち悪さ
しか感じられない。

裏庭に回ると、朝から晩まで陽が当たらないそこは空気が冷たくて、ほんの僅かに漂う湿気が
汗ばんだ体に心地良かった。

――さっきの続きを、向こうの世界への道を……。

「――あらあら、イケナイ子」
「……紫」

背後からかかる声は、今一番聴きたくないそれだった。

……来るとは思ってたけど、こう早速とはね。
服に忍ばせた、いつもじゃ考えられないほどの様々な力が詰まった札から、力を抜き取る。

「せめて私が冬眠する時期辺りを狙えば良かったものを。それも待ち切れないかしら?」
「……」

結局、バレてるみたいね。振り返ると、そこには楽しそうに笑う紫の姿があった。
普段と違うのは、不気味と言うより案外自然体に見える笑顔を浮かべてる事。いや、申し訳ないけど
そっちの方が紫に合ってなくて不気味。

「……分かってるわよ。そんな事しないから」
「分かれば宜しい。心配しなくても、すぐ帰って来るわよ」
「すぐ……ねぇ」

妖怪からしたらすぐかもしれない。でも、私は人間だ。
たった一ヶ月が長く感じる事だってある。逆に短く感じる事もあるけれど、そんな僅かな時間でさえ
惜しくなるくらいに、彼に逢いたい。

……だったら、ちょっと覗くくらい――

「……ねぇ、私――」
「貴女は博麗の巫女。人間でありながら幻想そのもの。向こうに居てはならない存在。
……どんなに願った所で、貴女が向こうへ行く事は叶わないのよ」

紫の無感情な瞳が、哀願めいた私の呟きを押し潰す。

――そう、私は、私個人の意志の前に博麗の巫女だ。幻想郷の預かり役にして、規律そのもの。
勿論、大して役に立ってはいないと思う。でも、ここから消えてはいけない存在だ。

……彼に逢いに行く、そんなちっぽけな願いでさえ、叶わない。

俯いたままに何も言えずにいると、紫は扇子で口元を隠しながらいつもの調子で口を開いた。

「……そうね、代わりと言ったら何だけど、面白い事をお教えしますわ」
「面白い事?」
「ええ」

何処か含みのある笑みを浮かべる紫は、やっぱり気味が悪かった。













いつ来ても晴れない霧は、いつだったかの紅霧事変を思い出させる。
霧の向こうに申し訳程度に見えるあの紅い館は、今は行く気さえ起こらない。

……研究するったって、今は特にやるべき事も無い。
茸のストックは十分だし、家に居ても大抵の本は当に読み終わり、香霖の所へ行ったって毎度の如く
訳の分からん講釈を垂れられるだけだ。

湖面はやたらと透き通ってて、底まで見えるんじゃないかってくらい綺麗だ。
目を凝らすと魚影がやたらと見え、晩飯はどうしようか、なんて考えが水中から浮かんでくるみたいだった。

「はぁ、涼しいのは良いんだがな。もっと爽やかに成れないもんかな」

霧に向かってそんな事を言った所で、晴れてくれる訳じゃないんだが。

浅瀬の冷たい水に足を慣らし、服が濡れるのもお構い無しに水中へ歩を進めて行く。
良いんだ、どうせ誰が見てる訳でもない。こんなに暑けりゃ、太公望な連中も里の甘味屋辺りで
へばってるに違いないだろうからな。

……やっぱり服着たままは何だな。

腰から下はすっかりびしょ濡れで、ちょいと乾かすのに手間が掛かりそうだ。流石に上まで濡らすと
帰る時に厄介だろうし、脱いで泳ぐか。

下着だけに成って、ある程度まで水中に身を沈める。
身動き一つ取らないと体温がどんどん奪われて行く感覚が分かって、このまま眠ってしまっても
良いんじゃないか、なんて思考がチラつく。

潜って目を開けても痛くないくらい、ここの水は澄んでる。
だけど、ここの水ほど簡単に心までは透き通らないようだ。例えが変だが、洗わないで放置した皿に
定着してしまった油汚れに似ているこの感じ。

……洗い落とすには、水じゃ駄目だ。油には、油で対応しなくちゃいけない。
だけど、手元に洗剤は無い。対抗策としては、しばらく水に漬けるかあるいは新しい皿を手に入れる……。

「……ふぅ。何か、無いかな」

湖面に身を浮かべて、嫌みったらしいくらい清々しい青空を睨む。
お前みたいに、何も考えずに澄み渡れたら良いんだけどな……。

……ん?

水中に一度潜り、足を水底に付けて大ジャンプ……と言うか水面から飛び出しただけ。
冷たい水滴の粒が顔を叩くが、構わずに空へ目を凝らすと、確かに何かが見える。逆光が邪魔で
見辛いが……亀裂?

「……わあぁ!?」

破裂音に似た水音が辺りに響き、それは私のすぐ側に落ち、ゆっくりと浮かんで来た。

「……○、○? いや、違う……」

落ちて来たのは、見慣れない服を着た、アイツと似た少年だった。













「さぁ、新しい物語の始まりですわ」

右手には鮮烈なまでにはっきりとした人工的な夜景、左手にはもはや失われつつある
手付かずの大自然が広がっている。
はっきりと境界がある訳ではない。しかし、確かにこの二つは相容れぬものとして
分け隔てられていた。

「……前の物語は終わらせたんですか?」
「現在進行形。折角だし、貴女の物語も始めてみようかしら?」
「……結構です」
「あらあら」

霧雨亭に灯った明かりは何処か明るく、その真反対を体言しているかのように博麗神社に
灯る明かりは何処か弱々しかった。

「……巫女は、大丈夫でしょうか?」
「さぁ、どうかしら。私は○○の方が心配です」
「……むぅ」

この方の思考はやはり読めない。藍はスキマの向こうに見える都会の光に目をしかめながら思う。
向こうがどうなっているかは分からない。ただ、○○が戻ろうとまでするくらい、
何か大事なものでもあるのだろうか。

少なくとも、スキマの向こうに見える無機質な明かりに、幻想郷にあるような
暖かいそれは見当たらなかった。

「……ここに居る限り、○○が何を望んでいるかなんて分からない。私達は妖怪で、
その上向こうに住んでいる訳でもない。○○の事なんて分かる訳無いわ」
「……では」
「ただ、言えるのは。彼は必ず帰って来る、と言うこと。それが早いか遅いか、
私が心配なのはそっち。さぁ、貴女はどちらに賭ける?」
「賭けません……けど」

そんな風に、他人から見ても分かるくらいに、愛されてみたい――

「なんて思っちゃったりしたのねぇ、藍?」
「んなッ!? 違、違います!!」
「良いのよ、嘘つかなくてー。さぁ、次はどんな事をしようかしら」
「いっ、良いから紫様が先に伴侶を見つけて下さいよ~!!」

――さぁ、次は貴方が綴る物語。幻想郷は、全てを受け入れるのだから――



                ━ おまけ2 ━




帰って来た。一年と数ヶ月、そのくらいかな。
向こうに、幻想郷の外に居た時の話なんか聞いたって、面白くないだろう。

妖怪携帯の話とか、八雲神社の話なんかがあるんだが、これはいずれ話す時もあるかもしれないな。

……兎に角、帰って来て数日。その日は、クソが付くくらい暑くて熱い日だった。

「……暑い」
「そうね」
「……理由は、言わずもがなだと思うんだけど」
「そうね」
「……離れろ」
「そうね」

暑い夏、炎天下と言う表現以外に言葉を見つけて来るなら、地獄の業火
とでも例えられるんじゃないだろうか。地獄なんて行った事無いが、少なくとも
釜茹での刑なんて言うよりは分かりやすいんじゃなかろうか。

「水浴びでもしに行くか……?」
「いや……」
「とりあえず、暑いから離れてくれえぇ」
「いーやーぁー」

汗ばんだ体同士でくっ付いてると、ベッタベタして気持ち悪いの何の。これが、
霊夢と魔理沙とかだったら、客観的に見て中々魅せられる光景なんだがいや何でもないぞ。

待て、逆に考えろ。この状態は男として最高なシチュエーションではないか!!
……が、しかしながらこの暑さの中で満足に身動き出来るはずがない。だから、
HA☆NA★SEと喚きつつも霊夢とくっ付きっぱなしな訳だ。

……べ、別にやましい理由なんか無いんだからねっ!?

「まあ、別に嫌じゃないから良いけど……。二人して干物になるのは嫌だぞ……」
「それも良いんじゃないかしら……」

それきり、無言。
ジリジリと鳴き続ける蝉は、石畳に揺らぐ陽炎と一緒に成って暑さに踊っている。奴等に暑いと言う感覚は
無いのだろうか、などと思ったが、昆虫は暑さに強いと聞く。ちょっと遺伝子くれ。

霊夢はと言うと、俺の背にピッタリひっ付いたまま、まさにそこらで鳴いてる蝉のように
時々呻いている。暑いのなら離れれば良いものを、もう室温と同じ温度の麦茶を時折傾けながら
やっぱり呻いている。あー、もう可愛いな。

「……あぁ、もうその巫女服脱げば良いじゃないか。何で着てるんだよ」

俺は普通にTシャツ一枚の短パン一丁。正直、夏の基本的な男の通常スタイルだと思うんだが。勿論、
出掛ける時は違うぞ?
それに比べて霊夢はいつもの腋のはだけたあの巫女服。何故こんなデザインなのかはさておき、
コレって結構エロイと思う。しかしこの暑さでその袖は頂けない。

「え、や。嫌よっ、汗だくだし!」
「汗だくだから脱ぐんだろ。ほーれ、脱げ脱げぇー!」
「あーれー……って、やめ、やめなさいよ……あー」

されるがままにスパパーンと脱がして行き、あらすっかり綺麗にシャツとドロワーズの下着姿……。
って、これはイカン。あの、表現するなら簡潔に一言で済ませられるんだが、うんそうしよう。
あの、透けてる。上だけだけど、その。あの、見えてる。

「……○○?」
「……いや、えーと」

バツが悪くなって、霊夢から目を逸らしてしまう。いや、見たい気持ちも当然ありますよ、
あるんですけどね、えーと。そうさ、俺はチキンボーイなのSA!!

霊夢が何も言って来ないので、ふと視線を霊夢に戻すと、物凄い至近距離に霊夢の大きな瞳が迫っていた。
上手い事その目は上目遣いに成っており、汗の反射か涙の光か、霊夢の目がやたらと
日の光に煌いていて、矮小なマイハートをガッチリ掴んで逃がさない気満々だった。

「……近いぞ」
「いや?」

霊夢が疑問符と共に小首を傾げると、霊夢の頬を伝って汗が俺の膝にはたと落ちた。

「うあ、いや、嫌じゃないけ、ど」
「○○……」

声に、婀娜がある。普段からは想像出来ないような、酔っ払い状態の宴会時さえも聴けないような、
艶やかな声が、霊夢の唇から紡ぎ出されていた。

「……どうせ水浴びに行くなら、思いっきり汗かいた後の方が、良くないかしら?」
「そう……だ、な……」

逃げられない。いや、俺の思考に逃げるなんて文字は出て来なかった。
ただ、心臓の音が早鐘のように鳴り響いていて、霊夢にこの鼓動が伝わっているのかもしれないと思うと、
顔に気温以上の熱が集まるのが分かるようだった。

何も言えぬままに、魅了されるままに霊夢の瞳に見入っていると、更に彼女は身を乗り出した。

「……○○」
「ん――」

返事をする間も無く、俺の声は霊夢の唇によって塞がれていた――














「陽、落ちちゃったな」
「……えぇ。この時間だと、水浴びよりもお風呂が良いわ……」

ひぐらしがなく頃に、二人で一緒になって俺達は縁側に伏せっていた。
何があったか一目で分かるようなものは、大体排除したつもりだ。そろそろ寝巻きにでも着替えないと、
普段は刺されないような所まで蚊に食われちまう。

向こうに陽が沈むのが見え、飛んで行く鴉達がやたら大きく見える。まさかとは思うが、
アレ全部天狗だったりしないよな。有り得るのが幻想郷クオリティなもんだから泣けて来る。

横を向けば、気温も下がり涼やかに成った風に、目を細める霊夢の横顔があった。

「……あのさ、霊夢?」
「ん?」

ふっ、と靡く霊夢の髪が夕陽に映えて、先ほどまでの情事を反芻してしまう。
変に歪んじまいそうに成る嫌味な顔を隠す為、俺は呻きながら顔を伏せてしまった。まあ、
結局の所ニヤケてるだけなんだけど。

「……何よ?」
「い、いや何でもない。あの、さ……。さっきの、その、何て言うか、上手かったんだが、えーと……」
「……え?」
「何でもない!! 風呂、沸かして来る!!」

ガバッと立ち上がり、もう汗も乾いたであろうシャツを着直し、風呂場の方へ駆け出した。
日も沈む頃と成れば神社は大抵何処でも暗く、離れの風呂場もその例に違わなかった……って、あれ?

何故か風呂場には明かりが灯っており、漂う暖かな湿気から風呂が沸いている事が見て取れた。

「……あれ!? 沸かしたっけ!? 誰やったん!?」

右顧左眄に辺りを見回すが、帰って来る答えが闇の中にあるはずも無く、ただひぐらしの鳴き声だけが
暗い中で響いていた。

「……まあ、良いか」

何にせよ。湧いてんだからさっさと入ってしまうが吉。霊夢には悪いが、一番風呂は頂かせて貰うぜ!!






――数分後、そこにはビバノンノンと湯浴みを楽しむ○○の姿が……!!

じゃなかった。いや、まあ今のは大袈裟だが実際そうだ。窓の外で、やたらデカい蛾がコンコンと
体当たりしているのが見える。蟲はすべからく嫌いだ、窓があって良かった。昔、車に蛾が
轢き潰されるのを見て以来トラウマに……関係無いな。

湯に顔を浅く沈めながら、ブクブクと口で泡を立てる。
ひぐらしの鳴く声もそろそろ止み始め、逢魔ヶ時も過ぎて夜が降りて来る。

……疲れた、色々と。
向こうから幻想郷に来る時なんかも色々あったが、今日がある意味一番疲れたかも分からん。

……可愛いな、霊夢。

「○○」
「ぎゃあ!?」

妄想の中で色々けしからん事になっていた霊夢が掻き消え、当の本人の声が真後ろから響く。

「い、居たのかよ!」
「えぇ。酷いじゃない、先に入るなんて」
「ご、ごめん。何か沸いてたもんでつい」

普通怪しがって入らないだろう、常識的に。なんて考える所だが、一年間の成長は伊達じゃない。
そりゃもう、宴会中に平気で萃香と飲み比べしてコテンパンにされる程度の能力を取得するくらいには
心の臓も強くなった……って、大した事ないけどな。

幻想郷じゃ何があったっておかしくないんだよ!! な、なんだってー。

「一緒に入っても良い?」

バッシャー。あまりにも古典的な反応をしてしまったせいで、風呂の水量がほんの少し減った気がした。
ほ、本当に何があってもおかしくないだなんて聞いちゃいないぜ?!

「な、何よ。そんなに驚かなくても良いじゃない」
「いい、い、いや、えーと。悪い」
「……入って良いでしょ?」
「あ、えぅ、うん」

そう言ったか言うまいか、瞬間目の前に切れ目が入ってバスタオルを巻いた霊夢が現われた。
今度はさっきよりも盛大にドリフ的な反応を示してしまったので、水面下で魚雷が炸裂したかのような
水柱が俺を起点に発生した、気がする。

「ちょっ、待て、どうやったんだ!!」
「幻想空想穴」

不敵な笑みを浮かべ、スッ、と霊夢が空をなぞると、そこから陰陽玉がコロンと顔を出して、
フローラルな香りを撒き散らしながら切れ目に戻っていった。

「またそんな何処かの紫か紫みたいな事を……」
「一緒じゃない。ほら、私の入るスペース頂戴」
「あ、あぁ」

流石に浴槽は狭い。元々一人用だったのだろう、そこに二人で入るのだから狭くて当然だ。

「狭いわね……。○○、大工仕事とか出来ないの?」
「悪かったな、不器用で。五右衛門風呂はおろか、犬小屋だって作れるもんか」
「あら、残念。……そうねぇ、不器用かもね。色々と」

さっきの事を言ってるのか、つい数時間前の事を思い出してしまいそうになるような艶かしい
笑みをわざとらしく浮かべる霊夢。えぇ、どうせそう言う経験は殆ど無いですよ!!

「……さっき、聞きそびれたんだけど」
「ん?」
「その、何て言うかさ……上手かった、んだよな、あの」
「……何が?」
「ほら、えーと……あはは」

狭いので向かい合う事は出来ないが、何となく挙動は読める。
霊夢は訳が分からない、と言った風だったが、その内容を悟ったか、急にしおらしくなって、
と言うか俺からほんの少し離れて、恥ずかしそうにしているようだった。

「だ、だって……その、喜んで、貰いたかったから」
「……まさか、その、聞きたくないが、俺の他に経験がおありで?」
「無いわよぅ!! ち、違うわ、紫に教えて貰ったのよ!!」
「成る程納得……納得? して良い内容でもない気がするんだが……」

脳裏に紫の不快な笑みが浮かぶ。俺が向こうに帰った時も度々世話にはなってるが、あの
胡散臭さと不気味さは何度見ても慣れるもんじゃない。藍さんの、純粋に魅き寄せられるような
美しさとは豪い違いだ。

……いや、だからこそ惹かれる者も居るかもしれないな、なんて……。

ともあれ、霊夢の妙技は紫直伝だと言うことが判明した。いや、どんな風に教わったかなんて
聞きたくもな、いや聞いてみたいかもしれないけど……。とにかく、聞かないでおこう。

それと、そう言う、俺以外に触れられていなくて安心したって言うか、えーと……。当然だよな、
博麗の巫女なんだし。むしろ、俺が大変な事を仕出かしている気がしてならん……。

「……嫌だった?」
「まさか。大歓迎にも程があるくらいに良かった」
「そ、そう……。なら、良かった」

そう言うと、俺の背に霊夢はもたれかかって来た。相変わらず折れてしまいそうな指先が、
いつもの頼れる、自由奔放な姿からは連想出来なくて、ついその手を後ろ手に握り返す。

「……○○。私、寂しかった」
「……ごめん。もう、何処かへ行ったりしないさ、約束する」
「……ありがとう」

握り返してくるその小さな手にかける力を、ほんの少し強くする。

向こうに帰りたい気持ちは、一年間向こうに帰って見切りを付けて来たとしても、
そう簡単に消えるもんじゃない。と言うより、消えるはずが無い。俺が育ったのは向こうで、
どう足掻いた所で俺は幻想郷産まれには成れないのだ。

外国産牛肉が加工場通されて国産扱いに成った、例えが珍妙にも程があるが、俺はそう言う存在。

だけど、彼女を支えると決めたから。弱い俺を、護ってくれた霊夢を。
今だって弱い俺だ。一年間、肉体的に変わる事なんて殆ど無く、男として見るなら
情けないにも程があるくらいに。

霊夢を護る事は出来ないかもしれない。けど、支えてやる事は出来る。
恩返しとか、そんな小さな願いじゃなく、強固とした決意。

彼女は、弱い。どれほど妖怪を打ち倒そうと、神をも下しながらも、人間とは呼べぬ力が在ろうとも。
孤独が傍に無かったから、分からなかっただけ。偶然にも、彼女が俺を好きに成ってくれたから、
それが分かったんだ。

だから、どんなに弱くても、俺は彼女の支えに成ってやると誓った。
――向こうには、もう帰らない。俺の居場所は、幻想郷、それも博麗神社だって決まってるんだからな。

……妖怪はまだ恐いけどな!!

「なぁ、霊夢?」
「ん?」
「明日、暇なら水浴びでも行こう」
「毎日が暇ね、飲茶。けど、最近飲んでるお茶は高級品よ」
「はは、健康に良さそうだな」

――大団円、なんて言葉とは縁遠いかもしれない。
だけど、確かに俺の物語はここに完結して、始まった。強くてニューゲームってヤツさ。
例え紫の手の上だったとしても、構うもんか。

最高の笑顔で言ってやるさ、あの最高に薄気味悪い笑顔に、最高の御伽噺をありがとう、ってな――














「これにてこのお話はおしまい、お疲れ様。なんて言えば、大抵の物語は終わるのかしらね?」
「私は知りません!」

博麗神社に灯る明かりは、今はもう楽しげに暖かい。
霧雨亭に灯る明かりもまた孤独の色は無く、何処か包み込むような温もりがあった。

――反して、それらを覗くこのスキマ空間は無機質に寂しげである。
藍に熱っぽい視線を送っている、目が一つ二つ在る事を除けば、だが。

「あらぁ、冷たいじゃない藍。見てるばかりでストレスが溜まったかしら?」
「そう言う訳じゃありません!! あぁ、もう。お夜食の準備しますから、私はこれで!!」

手を乱暴に振りながら、凝視する目を追い払いつつ藍はスキマをくぐって消えて行った。
残るのは、この空間の主である八雲紫のみである。

「……さて、楽しんで貰えたかしら?」

ふい、と辺りを見回す紫。たくさんの目は、言の葉に応ずるかのように瞬きで呼応する。
正直、誰が見てもこの目玉共など気色悪いとしか思うまい。だが、紫の浮かべる笑みは何処か
母親のように美しく、暖かさが秘められていた。

「あの子達が生き続ける限り、このお話は終わらない。けれど、一旦の幕とする事に致しましょう。
夢幻の物語は、それこそ無限にあるのだから、別の物語に手を出したって悪くないわ」

――ね、そうでしょう?

「さぁ、次は何をしようかしらねぇ……」

それきり、在ったはずの空間は無くなり、真っ暗に成った。








――ふふ、まだ、終わらないのよ? もうちょっとだけ、続きますわ。
最終更新:2010年05月14日 01:27