転機、結実篇


 青年が紅魔館を訪れなくなって十日余りが過ぎた。
 その真実を知る者は少なく、ただ、何かが彼ら二人の間にあったのだろうと推察するだけで。
 青年は、ただ里と神社を往復し、朗らかな笑みを周りに向けるだけで、何も語らず。
 紅魔館側はといえば――頑なに、何も告げようとしなかった。



「ああ、ここにいたのか」

 里で子供達の相手をしていた○○は、やってきた慧音に声をかけられた。

「どうも、慧音さん」
「いやすまん、こちらも手が離せなくてな。助かった。ほらみんな、もう日が暮れる。家に帰りなさい」

 はーい、と声をそろえる子供達を見送って、彼女は○○の方を向いた。

「○○はどうする?」
「神社に戻ります。ちょっと遅くなってしまいましたし」
「……彼女の所には行かないんだな?」
「…………ええ」

 一瞬の間の後微笑んだ彼に、慧音はため息をつく。どうも良くない感じだが、何とも言い難い。

「まあ、私に言えることは無いな」
「すみません」
「言えることはせいぜい、神社と里の往復の際に妖怪に襲われないよう気を付けろ、くらいだ」
「ああ、はい。一応御札も頂いてますが」
「それでもだ。最近、少し気になる話があってな。見慣れぬ妖怪がいたとかで」

 慧音はそこまで話して、まあ、大丈夫だろうがな、と話を打ち切った。無駄に不安にさせるようなことを言う必要も無い。
 ところで、と慧音が話題を変えようとしたとき、空から一陣、風が舞い降りてきた。

「どうもー」
「こんにちは、文さん」
「どうした?」

 射命丸文であった。にこにことしている彼女が記者モードであることは一目瞭然。

「いやいや、少し気にかかることがありまして、取材をと」
「なるほど。どちらに?」
「素で言っているのかそれを」

 慧音が思わず突っ込み、文も笑う。

「あはは、貴方にですよ。少々気になっていることがありまして――ああ、これから神社に帰られるんですね?」
「ええ、そうですが」
「では、送らせていただきましょう。良いですよね、慧音さん?」
「まあ、危険はないだろうが」

 そういう言い方で了承の意を示し、○○も頷いた。

「何か話せることがあるとは思えませんが……」
「いえ、こちらが訊きたいことがあるだけですのでー」

 有無を言わさぬ取材のやり方は真にこの天狗らしく、慧音はやれやれとため息をついた。
 まあともかく、天狗の彼女が居れば凡百の妖怪に襲われることはあるまい。
 慧音がそう断ずる頃には、もうすでに二人の姿はそこに無かった。




 静かに佇む紅魔館。咲夜は、すでに起きていたレミリアの元に向かった。
 いつものティールーム。そこに、館の主は気だるげに座っている。

「お嬢様。天狗にはお引取り願いました」
「ご苦労様。よく引き下がったわね」
「……あてが、もう一つあると言うことでしたので」
「……そう」

 どこに、とも、誰に、とも言わない。もうわかりきっているから。

「……今日も、来てない?」
「……ええ、いらっしゃっておりません」

 軽く、レミリアは頷く。もうほとんど日課になってしまった、同じ問いかけと同じ答え。
 ここ数日、レミリアは日が沈む前に起きてきていた。起きる時間は、彼が来ていた頃よりも早い。
 来ないのがわかっているのに、それでも待ってしまう。そんな自分を、内心だけで嘲りながら。
 真実を言えば、彼が紅魔館にやってきたとして、それを追い返す術を彼女は持ち合わせない。
 最初に会ったときに誓ってしまったから。何時如何なるときでも、紅魔館は彼を拒まない、と。
 だから来ないのは彼の意志なのだ。そう仕向けたのも自分なのだ。
 それなのに、彼に逢いたいと想ってしまう。声を聞きたくて、表情を見たくて――それでも、逢いたくなくて。その二律背反に、レミリアはため息をついた。 

「『来ぬ人を、松穂の浦の――』ね、レミィ」
「パチェ。今のは何?」
「この国の古い文献よ。詩というべきかしら。詩には力があるからね」

 いつしか、パチュリーがティールームの扉を開けてそこに立っていた。

「天狗が来ていたそうだけど」
「もう帰ったわ」
「そう。ああ、咲夜。私にも紅茶を。今日はミルクティーにしてくれるかしら」
「はい」

 咲夜はレミリアの向かいに座ったパチュリーの前にティーカップを置き、丁寧に紅茶を淹れる。

「もうすぐ妹様も来るわよ」
「あら、フランも? 随分早起きね」
「レミィほどじゃないけどね。魔理沙がそろそろ来る頃だから、教えておいたの」
「またなのかあの黒白は……」

 レミリアは呆れたように笑った。親友の笑顔が久し振りだったからか、パチュリーは少しだけほっとした表情を浮かべる。

「お姉様! パチュリー! 咲夜! 魔理沙来てない!?」

 良い音を立ててフランドールが部屋に入ってきたのはそのときだった。

「フラン、はしたないわよ」
「はーい。ねえねえ、パチュリー。魔理沙はまだ?」

 まだよ、と苦笑で返すパチュリーと、パタパタと羽をはためかせるフランドールを眺めて、レミリアの口元に笑みが浮かぶ。
 ここに来て、紡いだ運命は決して誤りではなかったのだ、と。
 紅霧の異変、あれは紅魔館をこの地と縁付けるためのものだった。
 それは引いては確かに、大事な家族達のためになると考えてはいたが、手繰った糸は予想以上の効果だったようだ。
 時としてレミリアが考えている以上の効果を、彼女の手繰る糸は紡ぎだす。
 そう、それは良くも悪くも――そう考えて、レミリアは切なげに目を細めた。

「でも、魔理沙が来るなら○○も来る? 最近、全然お話してもらってないもの」

 誰もが少しだけ身動ぎした。事情を知らないフランドールだけが、首を傾げている。
 そういえば、と、レミリアは思い出す。自分に話をするついでに、一緒にフランにも話をしていたっけ。
 弾幕勝負が出来ないから代わりにと進言して――彼の語る物話は、確かに面白かった。
 ――面白かった。

「フランドール様、○○さんは少々忙しく、しばらくこちらに足を運べないそうですわ」

 咲夜が微笑んでフォローに回る。フランドールは納得したようだが、それと感情は別物のようだった。

「うん、わかった……でも、つまんないな」
「仕方ないわ。この館に住む者とは違った生活があるのだから」
「そうだけどー……お姉様もつまんないよね?」

 無邪気な問いに、しばらく無言だったレミリアは頷いた。

「……ええ、そうね」

 退屈でたまらない。彼が来なくなっただけなのに。ただそれだけの変化なのに。前に戻っただけなのに。
 咲夜の言うとおり、ただ忙しくて来れないだけだったら、どれだけ良かっただろうか。

「……本当に、退屈だわ」

 手元の紅茶に口をつけて、レミリアは大きくため息をついた。




「で、どうなんですか本当の所?」
「あー、うーん、そういう話題でしたか」

 神社に強制送還されていた○○は、文の取材攻勢に困った表情を浮かべていた。
 霊夢に助けを求める視線を送るが、面倒なのか茶を出されただけだった。しかも部屋の方に戻っていった。
 縁側で取材を受けている立場としては早く逃げ出したいのだが。話題が話題なだけに。

「○○さんが紅魔館にも足を運ばず、懸命に働いておられるからには、何やら稼いで大きな贈り物でもしようとしているのでは、と言う憶測も」
「……そういうことになってたりするんですか」
「あくまで一つの憶測です。それとも、喧嘩でもなさったかと」

 喧嘩、か。○○は心の中で呟く。それだったらどんなに良かったことか。それだったら、仲直りの方策も考えられるのに。

「んー、ノーコメントでお願いできませんか」
「いやいや、私が来たからにはそんなの許しませんよー」
「そこを何とか」
「いいえ、紅魔館の主と外の人間、なんて、スクープのネタになるようなの逃がすわけがないじゃないですか」
「そこを何とか、負けてやってくれないかなあ、文」

 乱入したのは第三者の声。聞きなれた声にその方向を見ると、霧が萃まって形になろうとしているところだった。

「あやや、萃香さん」
「こんばんは、どうなさいました?」
「ちょっと用事があってね、よっと」

 縁側に腰掛けて、にっと萃香は笑う。

「文、今はまだ聞くときじゃない。真実を明らかにするときは来るさ」
「しかし、新聞は速さが命なんですよ。いくらなんでもこればかりは」
「紫からの受け売りなんだけどね、『真実は時の娘』らしいよ。何事にも時期がある。酒にも美味しい時季があるように」
「……時には熟成させるのも必要、と?」
「そうそう。まあ、明らかになるときは、○○が全部教えてくれるさ。そうだろう、○○?」

 萃香に話を向けられて、困った表情のまま○○は頷いた。
 助け舟を出してくれた相手の言葉に反した行動を取るほど、愚かではない。

「むむ、仕方ありませんね……では、いい感じに熟成したら、最初に私に教えてくださいよ?」
「もちろんだよ。私が約束しよう。いい酒も付けてね」
「それはそれで楽しみにさせていただきましょう。では、○○さんも約束ですよ?」
「ええ。僕にわかる範囲のことは、全部御教えいたします」

 頷いて、では、私は次の取材があるので、と告げて、文はまさしく風のように去っていった。

「おー、さすが天狗だねえ、速い速い。あ、霊夢ー、酒とつまみ持ってきたから一杯やっていいー?」

 それを見送りながら、萃香は中に居る霊夢に声をかけた。

「駄目って言ってもやるんでしょうあんたはー。いいわよ、私にも分けなさいねー?」
「おっけー」
「それでは、準備などしましょうか」
「あ、よろしく。紫に貰った乾物、軽く焙ってもらっていい? 後、二人ばかし来るから」
「わかりました。準備します」

 ○○は頷いて席を立った。萃香は手元の瓢箪をくいと傾けて、くすくすと微笑う。

「さてさて、今日は楽しくなるよ」



 ささやかな飲み会は、主催者にしては大人しいものだった。
 ただしそれが、洩矢神であったり妖怪の賢者であったりすれば、格としては別の話。

「やあ、○○、元気にしてるかい?」
「ええ、まあ。諏訪子さんもお元気そうで」
「まあねえ」
「ほら、○○、あんたも飲みなよ」

 萃香に薦められて、○○は盃を手に取る。

「どうも。しかしいきなりどうしたんですか?」
「いいじゃないか。たまにはさ」
「あんたはたまにじゃなくていつも飲んでるでしょ」

 霊夢もやってきて、ふう、とため息を漏らす。

「で、本題は何なのかしら?」
「紫ー、ストレートすぎだよ」
「まあまあ、いいんじゃないかい? あんただって、そう長く引っ張るつもりじゃないんだろ?」
「そりゃそうだけど」

 何の話かわからず首を傾げる○○に、萃香はため息をつき、そしてすっと真剣な瞳で尋ねた。

「○○、何故嘘を吐く?」
「……はい?」
「何故に、汝は嘘を吐くか」

 静かな問いかけは鬼のもので、○○は一瞬身を堅くする。先日の恐怖を、彼はまだ忘れていない。
 同時に、あの哀しげな表情も思い出してしまって、○○は振り切るように首を振った。

「嘘、ですか。僕は、何か嘘を吐きましたか」
「そうだね、あんたは吐いてる。そもそも、それはあんたの気質じゃないだろうに」

 楽しそうに笑いながら、諏訪子が茶々を入れた。

「そうね、人間は嘘つきで、貴方みたいな嘘を吐くのも珍しくないわ」
「ああ、そうか、あんたらそのために集まってきたんだ。わざわざうちに」
「まあまあ、土産持ってきたんだから邪険にしないでよー」
「え、あ……?」

 軽快な三人の言葉に対し、続く萃香の言葉はずしりとしたものを、未だわからぬ○○に与えてきた。

「わからない?」
「……申し訳ない」

 深々と、彼女は嘆息した。

「率直さは美点だけど、この場合は減点だね、○○――汝は、何故、自分に嘘を吐く」

 ○○の動きが止まった。盃を取り落とさなかったのだけが見事といえる。

「……自分、に」
「そうさ。あんたの中が軋んでる。諏訪子も言ったように、そもそも○○は嘘の吐ける性質じゃない。それなのに、自分を必死に誤魔化してるから軋みが出る」
「………………」
「私は鬼だからね。嘘が嫌いだから、問うてみたけど……やっぱり気が付いてなかったのか」

 やれやれ、と、萃香は息をついた。

「私達はもうとっくに知ってるからね、レミリアとのこと」
「……そう、ですか」
「パチュリーにも言われたんじゃなかったの? 自分の思うままに動け、って」
「……ええ」

 だが怖いのだ。怖くてたまらないのだ。再び拒絶されたらと、そう思って足が向かない。
 それでも逢いたい。逢いに行きたくて――それでも。

「……私とかは、もう少し正直になっても良いと思うよ。やりたいことをやればいい」
「そうね。このまま膠着状態、っていうのも面白いけど、長いと見ている方も疲れるわ」
「そうそう。○○、怖がらなくて良いんだよ。想いはきちんと想いで返る」

 何もかも見透かしたような言葉に、○○は大きく息をついて、くいと盃を空けた。

「…………すみません、お手数を」
「いいっていいって。で、どうするの?」
「……明日にでも、訪ねようかと思います。僕も、確かに、訊きたいことが、ありますので」
「ん、良い返事だ。まあ、何かあったら助けてあげるよ。約束する」
「萃香、そんな安請け合いして良いの?」

 霊夢の問いに、萃香は笑って返した。

「なに、焚き付けたのもこちらだからね。それくらいはしてやらないと」
「やっぱり焚き付けてるんじゃない」

 呆れた霊夢の声に、○○は笑って、でも、と応えた。

「決めました。明日、紅魔館をお訪ねします。どんな結果になったとしても」




 しかし結局、○○は翌日、紅魔館を訪れることは出来なかったのだった。






 翌日も何の変哲も無い一日になるはずだったのだ。
 多くの者達にとって何事も無く終わり、何事も無かったように夜を迎えるはずだった。
 そう、大抵の者達にとってはそうであった。

 ただ、一部の者達には、そうでなかっただけで。




 その夕刻、魔理沙が目の前に降りてきた時に、美鈴は不思議に思うべきだったのかもしれない。
 いつもなら、自分を跳ね飛ばさんばかりの勢いで突っ込んでくるのだから。

「またですか。ここは通さないよ?」
「あー、違う。今日はそうじゃない」

 声が固い。問いかけようとして、美鈴は血の匂いに気がついた。
 改めて見返すと、魔理沙の白いエプロンが紅く染まっている。いや、黒くて目立たないが、それ以外にも。

「ちょ、その血……!」
「私のじゃない」
「でも、それ随分な……!?」
「あー。その、どっちが伝えるか迷ったんだがな。霊夢はあいつのもの取りに行かなきゃならなかったし、霊夢も私と同じ状態だし」
「あいつ、って……!」
「妖怪退治に巻き込まれてな。すぐに永遠亭に駆け込んだんだが……状況は察してくれ」
「……っ!」

 合点がいった美鈴に、みなまで告げず魔理沙は箒に乗る。

「伝えるかどうかはあんたに任せるぜ。私は着替えて永遠亭に行く」
「……わかりました。ありがとうございます」
「いいや」

 彗星のように――実際スペルを使ったのかも知れないが――飛んでいった魔理沙を見送るのもそこそこに、美鈴は近くに居た妖精メイドに仮の番を頼むと、館に向かって駆け出した。




 レミリアが廊下の角を曲がろうとしたとき、その先から声が聞こえてきた。

「ですから……で……」
「……かったわ……でも、陽が……まで……伝えず……」

 美鈴と咲夜だ。何だか切迫しているようで、暇を持て余していたレミリアは、ひょいと顔を出した。

「咲夜、美鈴、どうしたの?」
「お嬢様!」
「お嬢様……美鈴、門に戻っていて」
「で、ですけど……」
「私から伝えるわ。後でまたお願いしに行くだろうけど、それまでは門に居て」
「……わかりました」

 二人の会話の内容が掴めず、レミリアは首を傾げる。

「何かあったのかしら?」
「……はい」
 咲夜は大きく息をつくと、凛とした声で主に告げた。



「○○さんが、大怪我を負ったとのことです」



 数瞬、彼女にはその言葉の意味がわからなかった。

「何……ですって。それは本当?」

 ようやく出た声は、絞り出すようなものになっていた。咲夜は頷いて続ける。

「昼間、妖怪退治の最中に巻き込まれたそうです。詳しくはわかりませんが……現在は永遠亭で処置がなされていると」

 その報告を聞き終える前に、レミリアは館を飛び出そうとした。



 ○○、○○!
 心の中で強く彼の名を呼ぶ。
 こんなことのために、私は貴方を手放したわけじゃない。
 邪険にしたかったわけでもなく、離れて欲しかったわけでもない。
 貴方の想いに、素直な想いを返すことが出来なかっただけ。
 此処から足が遠のいてしまったのだとしても、それはただ、あの情景が現実になってほしくなかっただけ。
 それだけ、なのに。



 その彼女を、押し留める手があった。

「咲夜?」
「お嬢様、まだ陽が出ております。どうか、後小半刻もありませんから、お待ちください」

 咲夜の声は凛としたまま、確固とした意志に包まれていた。

「もう陽も落ちる。少々のことは問題ではない」
「いけません。万が一のことがありましたら」
「咲夜」
「どうか、お待ちください」

 一瞬の対峙。静寂。空気の張り詰める音がしたような気がした。
 破ったのは、大きなため息。

「……後、何分?」
「八分三十二秒です」
「わかったわ。貴女の見立てなら間違いないでしょう。陽が落ちたら出る」
「お聞き入れ頂き、ありがとうございます」
「いいえ、貴女の言うことの筋が通っていた。それだけのことよ」

 レミリアは再び大きく息をつく。



 咲夜が止めた理由は二つ。
 一つは、純粋にレミリアを心配してのこと。大丈夫といったものの、まともに陽に当たれば――ただではすまない。
 一つは、レミリアに万が一があったときに、○○に逆に心労をかけるということ。○○の性格からして、レミリアに何かがあり、それが自分が原因としたら気に病むだろう。それはレミリアの本意ではない。
 咲夜はもう全て察している。それであっても、主が飛び出して行きたいことも全て。
 察した上で、レミリアに苦言を呈した。一つ間違えば不興を買いかねないと言うのに。
 全く、何と出来た従者だろうか。



 そして、拷問のような数分を過ごした後、レミリアは近くの窓を開け放った。

「咲夜、今日ばかりは止めないで。形振り構ってられないの」
「はい」

 窓から出るのがはしたないとか、そういうことはわかっている。だが、そんなことはどうでも良いのだ。


 そう、彼の無事がわかるなら、今はどうでもいい。


「貴女は後から来なさい。どうせ追いつけないから」
「承知しました」

 そして、飛び立つは閃光の矢の如く。紅き一条の光となって、吸血鬼は宵の空を駆けた。




 迷いの竹林を突っ切って、射抜くように辿り着いた永遠亭には、もう顔見知りが十人強も揃っていた。
 これは、彼自身の人望を表している様で――少しだけ、胸がざわついた。

「ああ、レミリア。あんたが日暮れまでよく持ったわね」
「良い従者がいるもの。○○は」

 霊夢の言葉に簡潔に返すと、説明のためにだろうか、鈴仙が出てきた。

「今は眠っています。来たときよりはましかも知れませんが、予断のならない状況です。師匠がまだ診ていますが……」
「……そう」

 レミリアは喚かなかった。静かにそれだけ返すと、霊夢の隣に座る。
 同じく横に座っていた魔理沙が声をかけてきた。

「何があったのか訊かないのか?」
「結果だけは大体わかってるわ」
「……視えてたのね」
「……一応ね」

 幾分か時間が経ち、咲夜が遅れて現れる。
 彼女も集まっている面々――里の守護者だの人形遣いだの、蓬莱人だの――を見て、レミリアとほぼ同じ感想を抱いたようだった。

「ご苦労様、咲夜」
「はい。とりあえず、後のことはパチュリー様と美鈴に任せてきました」

 そう、咲夜もレミリアの傍に座る。そして何とはなしに口を開いた。

「また、人が多いですね」
「人間は少ないですけれどね。貴女と霊夢さんと魔理沙さんくらいです」

 射命丸文がそう言って、手元の手帳をパタンと閉じた。

「しかし、こんな大事になろうとは……」

 慧音が大きく息をつき、首を軽く振る。

「何があったのかしら?」

 尋ねたのは咲夜。主は訊かないであろう詳細を、代わって彼女が尋ねることにしたのだった。

「……外の世界の式、のはずだ。私もよくはわからない」
「付喪神の一種みたいだったわ。よくは知らないけれど。外から曰くも持ち込んだのかもね」
「止まった、って思ったんだ。いや確かに奴は止まったんだ。なのに、また動き出して――」
「一応、一連のことは写真に収めてはいます」

 文が口を挟んで、集中した視線に首を振った。

「いくら私と言えど、あの瞬間に動けはしませんでした。上空に居ましたし、まさか彼があんな行動を取るとは」

 再び動き出したその式が里に向かわないようにと、彼はそれに向かって行って――揉み合う様に、土手を転がり落ちた。

「土手とは言え、かなりの高さ、距離を転がったからな。正直もう――」
「慧音」

 妹紅の言葉に、すまない、と返して、慧音は居住まいを正した。

「――いや、しかし本当に間に合ってよかったと思っている」
「まだ安心は出来ないわよ」

 言葉を遮るように襖が開いて、永琳が姿を現す。

「永琳、○○は……」
「まだ予断を許さないわ。外傷も勿論、内臓にもダメージがあります。正直、彼の体力次第」

 声は切迫しては居なかった。ただ静かに事実を告げる様子が逆に、容態が芳しくないことが窺える。

「ウドンゲ、調合を手伝いなさい。後、何人かには手伝ってもらうかもしれないわ。材料が必要だから」
「へえ、それなら、萃めるくらいは手伝ってあげようか?」

 いつからそこにいたのか。萃香が瓢箪を傾けながら永琳の言葉に応えた。

「萃香、居たんだ」
「んー、まあね。○○とは約束もあるからね。何か困ったときは手伝ってあげるって」
「……そんなことしてたのか」
「あはは、怖い声出さないでよレミリア。別に何てないことだから。まあ、こんなことになるとは思ってなかったからねえ。でも約束は約束さ」

 そう鬼は笑う。ねえ、と彼女が虚空に言葉をかけると、すっと空間に亀裂が走った。

「まあねえ。ま、暇潰し程度にはね」
「紫までいつからいたのよ……」
「さあてね」

 紫は口元を扇で隠してくすくす笑うと、さて、とスキマから出てきてそれに腰掛けた。

「萃香がやってくれるなら楽ね」
「紫も手伝いなよー」
「楽観的なところ悪いけど、一刻を争うわ。文字通り」

 一刻、つまり二時間、と咲夜が手元の懐中時計を手にした。二時間が勝負というわけだ。 
 紅い影が立ち上がって、薬師に鋭い声をかけたのはその瞬間だった。誰なのかなど、言うまでも無く。

「何だってやってやる。何であっても用意してやろう。その代わり、必ず○○を助けなさい。さもなくば――」

 その後は、言葉にならなかった。誰もがその先を憶測し、誰もが答えには至れなかった。
 何故なら、言おうとした本人ですら、その先は不明瞭であったに違いないから。

「――任せなさい、吸血鬼。私も薬師だもの、患者に対しては真剣になるわ。
 それに、友としてもなかなか面白い存在を、みすみす殺したりはしないから」

 それは彼女の、最大限のリップサービスであったのかもしれない。

「さて、そうと決まったら材料集めだ。私達は何をすればいいんだ、薬師?」

 不敵な言葉でその場を締めくくったのは、やはり黒白の魔法使いであった。




 時間は無情に過ぎていく。薬師の頼んだ品々は早々に集まり、彼女は鈴仙を伴って調合と治療に入っていた。

「大丈夫なんだろうな?」
「うちの永琳の腕を信じなさい。大丈夫よ」

 いつしか輝夜まで出てきて、そう会話を交わしている。

「まあ、私も手伝ったしね」
「てゐまで珍しいな」
「まあ、貸しといて損はないからねー」
「それにしても、こういうときは待ち長いものだな」

 飄々とする者の言葉も案ずる者の言葉にも乗らず、レミリアはぼうっと、どこかを眺めていた。
 じっと待っていると、どうしても思い出してしまう。
 自分に向けてくれた彼の表情。仕草。ちょっとした癖。そういうことを覚えている自分が不思議だった。
 そして、最後に見た表情を思い出す。寂しそうな優しい、あの表情を。
 最後に見たあの寂しい微笑みを、あの表情を最期の記憶になんかしたくなかった。
 最期に、なんて――

「らしくないわね、レミリア」

 急に上から降って来た霊夢の声に我に返って、レミリアは顔を上げる。

「霊夢……」
「今回のこと。まったくあんたらしくないわ」

 レミリアの隣に、彼女は腰を下ろす。

「……そうかしら」
「そうよ」

 静かな言葉。静かな返事。

「……私は」
「うん」
「…………本当は、こうなって欲しくなかった」
「そう」
「……それだけよ」
「我が侭は、最後まで押し通すものよ」
「……パチェにも、言われた」
「聞いてもらえる程度の我が侭なら、通すのも良いんじゃない?」
「……うん」

 それが、出来るならば。再び、彼に我が侭を言えるなら。
 そうなれば、どれほど良いだろうか。
 人は脆いから。あっという間に壊れてしまうから。だから。
 落ちた沈黙に、霊夢はもう何も言わなかった。
 周りの雑談が嘘のようにその場は静かで、だがそれがせめてもの慰めで。
 それでも、その静けさが不安を煽るようで、レミリアは静かに座っていた。
 その沈黙を破ったのは、やはり静かな霊夢の言葉。

「……一刻、過ぎたわね」

 がた、と勢い良く襖が開いたのはその瞬間だった。

「失礼します、○○さんの容態が――!」

 飛び込んできた鈴仙が言葉を言い終えるより速く、彼女の傍らを紅い風が過ぎ去って行った。





「――え」

 茫然とする鈴仙に、完全に置いていかれた形になった面々を代表して、霊夢が尋ねた。

「容態がどうなったの?」
「あ、ええ。何とか持ち直しました。もうじき目も覚めるとのことで」

 気が削がれたのか、鈴仙は入ってきたときの勢いがどこかに行ってしまったかのようにそう答える。
 それを聞いて、大きな安堵のため息が誰からとも無く零れ落ちた。

「ああ、良かったぜ……あれだけ走っておいて、駄目でしたじゃかっこつかないからな」
「まあ、それなりのものを集めたしね」
「珍しいものも混じっていたけど。まあ、役に立って良かった」

 やいのやいの言いながら、誰となしに立ち上がる。

「じゃ、見舞いに行こうか。面会謝絶じゃないんでしょ?」
「とりあえずは大丈夫なはずよ。まあ、止める前に突っ切って行っちゃったのも居るし」

 鈴仙は一つため息をついて、こっちよ、と先導する。
 しばらく歩いて、あ、と咲夜が足を止めた。真後ろに居た妖夢がぶつかりそうになって声をかける。

「どうしたんです?」
「いけないわ、私としたことが」

 咲夜は額に手を当ててぼやくと、申し訳ないけど、と告げる。

「少し紅魔館に戻ってくるわ」
「どうしたんだ?」
「お嬢様の日傘を忘れてきてしまったの。この分だと夜明けまではいるだろうし」
「やっぱり変なとこ抜けてるわねえ」

 霊夢にくすくすと笑われたが、咲夜は一つ微笑を閃かせただけだった。

「私も動揺していたのかもね。また後で戻ってくると、お嬢様に伝えてもらえるかしら」
「それくらいなら安いさ」
「紅茶を一杯、ってところね。それじゃあ、行ってくるわ」

 それだけを言い残して、咲夜はその場から消える。

「じゃあ、私達だけで○○の無事を拝んでおくことにしようか」
「そうね、一番はレミリアに渡せたわけだし」
「あれは煽ったって言うべきなんだと思うけどね」

 そう言いながら、彼女達もまた、病室へと向かったのだった。





 レミリアが病室に飛び込んだとき、○○はまだ眠っていた。
 薬師の向こうにいる彼の姿は半ば見えなくて、一瞬心が冷えて、彼女は思わず呟いた。

「○○――」
「大丈夫よ、峠は越したわ」

 振り返って告げられた言葉に、レミリアは動揺を隠して頷いた。

「そう」
「もし何か容態が変わったら呼んで。もう大丈夫なはずだけど」
「ええ」

 そう言って席を立つ永琳に、彼女は静かに答えた。気を遣ったのだろうか。あの薬師にそんな気遣いはあっただろうか。
 どうでも良かった。レミリアは彼の枕元に腰を下ろし、その表情を眺めていた。
 静かだった。しばらく静寂が続いた後――彼は、目覚めた。

「……っ……?」
「○○」

 呼びかけに、彼はレミリアに気が付いて目を見開く。
 そして、周りを見渡し、自分を見て、状況を理解したようだった。

「そうか、僕は……助かったのですね」
「そうよ」
「これは様々な方面にご迷惑を……来て、くださったんですか」
「感謝なさい、私がわざわざ来たのだから」
「はい。ありがとうございます」

 屈託のない笑みに、レミリアは唇を結ぶ。どうして。どうして貴方は。
 そっと○○の両肩に手を当てると、彼女は彼を真上から覗き込んだ。

「何故微笑える」
「……嬉しい、から? レミリアさんがここにいてくれて」
「私は――お前を拒絶した。それでも?」
「それでも。嫌われたとしても――僕は、貴女のことが好きですから」

 その言葉は明瞭で、優しくて、それに泣きそうになって。
 だからレミリアは、わざと傲然とした言葉を、口の端に昇らせていた。

「……でも、お前は私のところに来なくなった」
「嫌われたかなと思って。僕に会うのが不快なら、会わない方がいいかなと」

 その言葉が、彼女の胸をずきりと痛ませた。

「……私が、いつそんなことを」
「……そうですね。僕のためだったのかも。貴女に嫌われたくなくて。それが怖くて、足を遠のけた」
「だから、私がいつそんなことを言った!」

 彼女は叫んだ。叫ばずに居られなかった。
 そんなことを想っていたはずがない。だって、だってこんなにも。

「お前が勝手に解釈したに過ぎないだろう。私は嫌いなどしなかった。ただ、想いに応えられないだけだった」
「そうだったんですか、鈍くてすみません」
「どうしてかと問わないの?」
「言えないほどのことならば」
「……ああ、認めよう。私もただ恐れていたに過ぎない。私が――」

 頬を何かが流れ落ちたのを、視界が歪むのを、レミリアは気が付かないことにした。
 驚いている彼の表情に構わず。驚きながらも、こちらを優しく見つめる彼に構うことなく。

「私が、貴方を好きだといったら、傍に居て欲しいと言ったら、貴方はそれに応えるでしょう? 人間であることを止めてでも」
「ええ、まあ」
「そうなれば、貴方は変質する。貴方という存在が変わってしまう。それが嫌だった」
「…………」
「嫌だった――けど、貴方が来なくなったのも嫌だった。退屈になった。そして何より、今日」

 悔しくて、レミリアはきっと○○を睨みつけた。この言葉を口にしてしまうのが悔しくて、でも口にせずには居られなくて。

「貴方を喪うことを、私は恐れた。この吸血鬼が、紅き月が! ただのちっぽけな、人間の存在に振り回されて」
「レミリアさん」
「何かを恐れるなど、絶対しないと思っていたのに……っ!」

 怒っているのか泣いているのか自分でもわからなくなる中、ふわり、と何かが彼女を包んだ。
 ゆっくりとした、とてもゆっくりとした、それでも温かい、彼の腕であった。

「……僕は変わらない。器は変われど、その中にある僕と言う存在は変わらない、です」
「…………」

 力はない。簡単に振り払えてしまう。身体も軋むような痛みがあるのだろう。本当にゆっくりとした動き。
 それでもレミリアはそうしなかった。この温もりが、彼が確かに生きている証だと、そう想ってしまったら、払うことなど出来るはずも無かった。

「それより、嬉しくてたまらないんです。ここまで想ってもらえたことが。嬉しくて嬉しくて、たまらない」
「……○○」

 声が戸惑った響きを持ってしまったことに気が付いたが、それでも、彼女はそっと頷いた。

「答え、させて。貴方を拒絶した言葉を変えたい。何も想っていないと言ったことを」
「はい」
「感謝しなさい。私も、貴方のことを想っているのだから」
「はい……嬉しいです」

 柔らかく微笑った○○に、レミリアはそっと顔を寄せた。そして、口唇が少しずつ近付いて――


 ――額に、口付けを落とした。

「少し待ってなさい」
「はい……?」

 疑問符が上がると同じ、レミリアは○○の腕を外して身体を起こして、パチンと指を鳴らした。
 途端、襖が全開になり、その向こうから――


「いたたた、押さないでよ!」
「いきなり開いたんだから仕方ないだろ!?」
「良かった、カメラは大丈夫ですねー」


 後から来た面々が、転がりだしてきて、互いに何やかんやと文句をぶつけていた。が。


「――遺言はそれだけかしら?」


 その言葉に、凍りついた。


「あ、いや、これは別に覗き見とかそう言うのじゃなくて」
「そうそう、あんた達のことを心配して」


「――神槍――」


「ちょっと待て、いきなり全力かよ!」
「あ、こら紫、萃香! 自分達だけ逃げるな!」
「レミリア、ちょっと落ち着きなさいよ!」


「――――スピア・ザ・グングニル」









 ほぼ同じ頃。
「……?」
 館に向かっていた瀟洒な従者が、疑問符を浮かべて、竹林から空に上っていく見事な真紅の槍を眺めていた。










 表のデバガメ達を吹き飛ばしたレミリアは、すっきりした表情で○○の傍らに戻ってきた。

「お疲れ様です」
「大した労じゃないわ」

 機嫌良さそうに羽をパタパタとはためかせて、枕元に腰を下ろす。

「楽しそうですね」
「たまには思い切りやるものね。すっきりしたわ」

 このしばらくの間、鬱屈していたものを全てグングニルと共に放ったのだろうか。清々しい表情をするレミリアを眩しそうに見上げて、○○は唇を開いた。

「……レミリアさん」
「何?」
「……記憶戻った、って言ったら驚きます?」
「……いいえ」

 ○○はぎこちなく手を胸の前で組んだ。まだそれすら、彼には辛い。

「よろしければ――本当によろしければですが、聞いていただけませんか」
「いいけど、貴方は話して大丈夫なの?」
「……身体はほとんど動かない上にまだ痛みはするんですが、体調が悪い気はしないんです」
「……まあいいわ。話しなさい」

 あの薬師は一体あの材料からどんな薬を作ったのか。レミリアは一瞬考えたが、とりあえず放っておくことにした。

「では」

 そう言って○○は目を閉じた。胸の上で組んだままの手と相まって死を連想し、レミリアは少しだけ不安げな顔になった。



 話自体は大したものではない。
 ○○は間違いなく、どこにでもいるようなごく一般の青年に過ぎなかった。
 それでも、○○が大事そうに語る全ては、レミリアにとっては大切な話であった。


 彼の転機は、とある大きな事故。
 ありふれたそれは彼のほとんど全てを奪った。その事故で多くを奪われたのは、彼だけではなかったけれども。
 傷心を癒すためか、あるいは自棄か。彼にとっても不明瞭なその旅に出た時には、彼はもう外の世界から足を踏み外しかけていたのかもしれない。
 そして、彼は此処に辿り着いた。



 短くも長くもない話だった。
 時折レミリアの問い掛けに答えながら、○○は己のことを語り終えた。




 そして、レミリアの最後の問い。




「貴方は、これからどうするの?」
「さあ……どうしましょうか。外にはもう帰る場所はありませんし」

 ○○は、ふむ、とゆっくり首を傾げる。

「霊夢さんのところに、ずっと世話になるわけにもいきませんしね。里に家でも構えましょうか」
「それなら」

 レミリアは身を乗り出すと、組んだままの○○の両手を解いて、その右手に自分の左手を重ねた。

「私のところに来なさい」
「レミリアさん……?」
「どこにも行く場所がないなら、紅魔館に来なさい」

 指を絡めるように、○○の胸の上で手を握って、レミリアは続ける。

「外にも此処にも場所がないと言うのならば、私がその場所をあげる。
 この紅い悪魔が、レミリア・スカーレットが、この名と全てに於いて誓う。
 貴方に居場所を。貴方が平穏と安らぎを求められる場所を。その全てを。
 私が、貴方に与えよう」
「……レミリア、さん」
「答えを」

 少しだけ不安げな光が瞳に過ぎったのを見て、○○は大きく息をついた。
 そうでもしなければ、彼はこの瞬間が夢のように過ぎてしまうのではないかと思ったから。

「……貴女の許しが在るなら」
「…………」
「僕は、貴女の傍に、居たいです」
「……赦す」

 凛とした、安堵したような、優しい声色に――ありがとうございます、と笑みを返した○○の目元から、一筋雫が伝った。



 しばらくじっと手を繋いだまま二人は黙っていたが、やがてレミリアが○○に尋ねた。

「……もし、このことがわかっていた、と言ったら、貴方は怒るかしら」
「このこと、って、僕が事故に遭うことですか?」
「……ええ、私に視えていたのは結末だけだったけど」

 黙っておくかどうか悩んだ末に、レミリアは○○に告げた。自分が視えていたことについて。

「……そしてそれが、私と出逢ったから、私に会いに来ていたから、だとしたら?」
「……もし知っていたら、僕はどうしていたか、ってことでしょうか?」
「そうね。それも含めて」
「……それでも、会いに行っていたと思います。理屈とかじゃなくて」
「……私は、嫌だった。貴方がこんな目に遭うのも、死んでしまうのも」

 レミリアの口調で、○○は悟る。彼女に視えていたものが何であったか、どういうものであったか。

「…………自惚れならそう言ってください。あのとき、断ったのは、それもあったからですか」
「……自惚れなんかじゃ、ないわ」

 少しだけ絡めた指の力を強くして、レミリアは頷く。

「私は、貴方に、死んで欲しくなかった」
「……うん、僕は、死ななかった」
「一歩手前まで行ってたらしいけどね」

 うん、ともう一度頷いて、○○は微笑んだ。

「ありがとうございます、そして、ごめんなさい」
「どうして、貴方が謝るの」

 謝るのは自分の方なのに。自分は何も伝えず、彼を突き放したのに。

「心配してもらったことが嬉しくて、そう思ってくれたことが嬉しくて。だから、ありがとう。
 でも、それで貴女に、辛い思いをさせたことに。それに気が付かなかったことに、ごめんなさい、です」
「……貴方は、まったく……」

 こんなときまで、彼は何処か抜けている。ここは怒るところではないのか。何も告げられなかったことに。

「……でも、そんな貴方だからこそ、なのよね」
「……?」

 疑問符を浮かべた○○の瞼が、重そうに瞬いた。

「……ゆっくり休みなさい、○○。私はここにいるから――」

 最後の言葉は彼に届いただろうか。頷きながら眠りの世界の住人になった彼に、レミリアはそっと微笑んだ。










 暫くの後、○○は目を覚ます。確か、レミリアと話をしているうちに眠ってしまったはずだが――

「あら、起こしたかしら。そんなはずはないのだけれど」

 いきなりの声に、驚きつつもゆっくり声のほうを向く。

「永琳さん?」
「だいぶ良いようね。まだ身体は動かせないでしょうけれど」

 頷いて、○○は不思議に思う。永琳の声の出所が、彼女の口からではない錯覚に陥って。
 それに、気配も希薄で、本当にそこに居るのか疑わしくなってしまう。
 同時に、自分の声も変な気がする。まあそれは起き抜けだからかもしれないが。

「そのとおり、錯覚よ。実際にここに居るけどね」
「?」
「ウドンゲに頼んでね。気配の波長を薄くして、声の波長も変えてもらったの。貴方のもね」

 後ろから会釈する鈴仙に会釈を返して、○○は尋ね返した。

「どうして?」
「普通に入ったら、その子起きちゃうでしょう?」

 永琳に言われて、○○は初めて気が付く。レミリアはいつの間にか一緒の布団に潜り込んで、手を繋いだまま眠っていた。

「っ!?」
「あらあら、気が付かないほど自然だったのねえ」

 楽しそうに笑いながら、永琳は○○を診察する。

「ふむ、薬の効きは上々ね」
「ありがとうございます」
「とりあえず、これだけ飲んでまた休みなさい。その前に、何か話すことがあったら聞くわよ」


 永琳の言葉に甘えて、○○は記憶が戻った旨などを話す。
 彼女は静かに彼の言葉を聞き、やがて頷いた。

「そう……そして、これからは?」
「少し経ったら、紅魔館に移ることなりました」

 簡潔に○○は伝えた。永琳は再び頷いて、でも、と釘を刺す。

「しばらくは神社で静養しなさい。他の所だと、まだ傷に響くわ。霊夢は了承済みだから」
「わかりました。すみません、いろいろご迷惑を」
「いいのよ、怪我人病人を診るのも医者の仕事。私は薬師だけどね」

 永琳はそう応えると、ふう、と息をついた。

「そう、貴方も人ではなくなるのね」
「できるならば、と思います」
「いいの? 言うのは何だけど、彼女は大変だと思うわよ?」
「大事な人に我が侭を言ってもらえるのであれば、それは幸せな事と想いませんか?」
「……確かにね」

 その思いは、おそらく永琳にも理解は出来る。忠誠と慕情という形は違えど、親愛の点では変わらないから。
 まだ力の入らないだろう手で、彼は傍らの小さな吸血鬼の髪を撫でていた。
 寝言に近いものを漏らしながら○○に擦り寄る様子は、本当に幼子のようで。

「地味に犯罪よねえ、見た目だけだと」
「……別に下心とかは無いですよ?」
「大丈夫大丈夫、わかってるわ。それに今貴方はろくに動けないしね」
「それ暗に」

 自分が彼女を襲うんじゃないかとかそういうものを含んでませんか、とか何とかを、彼は口の中だけで言っているようだった。




「んぅ…?」

 夢見心地のまま、薄く目を開けたレミリアは隣にある温もりにすり寄った。
 先程まで見ていた夢がやはり夢であったと再確認する。夢であったことが残念なような、でもそうでなければ気恥ずかしいどころではないような、そんな想いを抱いていて。
 それでも、このまま少し眠ったら、またあの幸せな夢を見れるかと考えて――

「ん、起きました?」


 真上からした○○の声に、飛び退かんばかりに驚いた。


「な、○○……っ!?」

 飛び退かなかったのは、他ならぬレミリアの左手の指が、○○の右手の指をしっかりと絡めていたから。
 慌てて解いて起き上がる。そして、此処が永遠亭であることを思い出し、何をしている、と自分に喝を入れた。
 まさか、他所で無防備に寝てしまうなんて。失態もいいところだ。

「おはようございます」
「ええ、おはよう……って時間なのかしら?」
「正確な時間はわかりませんが、陽は高そうですね」

 そう答えて、○○も緩やかに身を起こす。

「起き上がって大丈夫?」
「ええ、昨晩に比べると段違いに」

 そう笑って、○○は無造作にレミリアの髪を撫でた。
 おそらく、自分が寝ている間もそうしていたのだろうと、確信に近くレミリアは思う。

「……レミリアさん?」
「何?」
「何だか少し顔が紅いですけど、どうしました?」
「……本当に、貴方は変なところが鈍いわね……」

 心の底から深々と、レミリアはため息をついた。



「あら、起きたのね」

 部屋に入ってきて、永琳の第一声目はそれだった。

「随分仲良さそうに寝てたから放置してたんだけど」
「するな。○○の容態が急に変わったらどうする気だった?」
「何かあったら貴女が文字通り飛んでくるはずだもの。そうそう、伝え忘れてたけど、貴女の従者が昨晩から待機してるわよ」
「…………わかった」

 しれっと返されて沈黙したレミリアを放って、永琳は○○を診察する。一応それが主目的だったらしい。

「もう大丈夫ね。少し休めばすぐに歩けるようになるでしょう」

 昨晩死にかけた相手に、あっさりと薬師は告げた。

「……僕、何の薬をもらったんでしょうか」
「……○○」
「はい」
「知らぬが花、って素敵な言葉だと思わない?」
「……それは」

 満面の笑みのレミリアに、○○は絶句するしかなかった。




 数日後、退院した彼を神社で待っていたのは、快気祝いと言う名の宴会であった。
 無論、彼は酒を辞退し続けていたのだが――
 むしろ、彼の隣にいた紅魔館の主が、どことなく嬉しそうにしながら、いつもより仄かに酔っていたということの方が、見る者の目を引いたかもしれない。
 ともかく、その仲良さげな様子に、誰もがほっとした想いを抱いていただろう。



「これで一件落着ですかね」
 主に酌をしながら、九尾の狐はそう主に話しかけた。
「あら、そう?」
「え、紫様はそう思われないので?」
 式の問いに、境界の妖怪は胡散臭く微笑んで――



「めでたしめでたし、ですね、師匠」
「あら、ウドンゲはそう思うの?」
「ええ、師匠はそう思われないのですか?」
 弟子の言葉に、薬師は一つため息をついて――





「これで終わるはずが無いでしょう?
 もう一幕二幕は確実に、後に控えているわ――」






 すれ違った想いはようやく実を結ぶ。その果実の味はわからずとも。
 手繰るは運命、手繰らるるも運命。
 手繰られた運命の糸を、逆に手繰ろうとする手は誰のものか。
 ようやく結んだ想いは、また新しい形を望んで――




──────────
決意、叛月篇



 想いが届けば、さらにと望むは人の性。否、人に限らずかも知れないが。
 そして例えそれが、月に叛こうとも――




「何度言えばわかるの」
「何度でも言います。僕は――」
「聞きたくない! もう下がりなさい!」

 勢い良く背を向けた吸血鬼の少女に、青年は大きく息をついた。

「……わかりました」
「………………」

 その言葉に返す声はなく、青年は一礼してやはり背を向けた。
 歩み去っていくその足音が遠ざかって、少女は振り向いて何か言おうとし――口を噤んだ。




 青年が越してきて数日。紅魔館は異様な雰囲気に包まれていた。
 ぎすぎすした、というか、どうにも居心地の悪い空気である。
 妖精メイド達も、ひそひそと噂話をしてはメイド長に叱られ、それでもその話は尽きる事が無かった。
 原因が、彼女達の主と、その想い人にあるとすれば、なおさらのこと。




 話は数日前に遡る。
 ○○が神社から越してきて、紅魔館にようやく落ち着いた頃。

『お願いがあります、レミリアさん』
『何かしら?』

 ○○が常に紅魔館に居る、ということで機嫌の良かったレミリアは、その真剣な願いを真正面から受けることになる。

『僕を、貴女と同じにしてください』
『……それは、どういうこと?』

 声が乾いた。その場に彼ら以外の者が居れば、即刻立ち去りたくなるような空気だったに違いない。

『言葉のままです。レミリアさん、僕を吸血鬼にしてください』
『……嫌よ』
『レミリアさん』
『……下がって、○○』
『…………ですが』
『お願い。そして、そのことを、今私は聞きたく無い』

 完全なる拒絶。○○は少し迷ったようだったが、はい、と一つ頷いた。

『ですが、本気で、お願いしたいと思っています。また、後程』

 そう言って、○○は立ち去った。レミリアはそれを見送って、大きく息をついて、額に手を当てる。
 予想できていたはずのことだったのに、それすら忘れるほど浮かれていた自分に対して呆れているように。


 それから、彼女の○○の言葉を退ける日々が始まった。





 原因はただ単純。
 青年は少女と共に在ることを望む。人間を捨ててでも、彼女の傍にいたいと願う。
 少女は青年が変わってしまう事を望まない。人間を捨てることで変質する事を恐れる。
 青年が最初に宣言したとき、少女は驚いてその宣言を退け、以後、彼からその話について聞こうとしない。
 堂々巡りが続くこと数日。紅魔館は異様な雰囲気に包まれていた。





「……どうしたものかしら」
「……僕が悪い、でしょうか?」

 十六夜咲夜の呟きに、○○が訊き返す。だがその口調は、拗ねた少年そのもの。

「そうとは言ってないけど。でもそう言うということは、そう思ってるのかしら?」
「……それでも、曲げたくないんです」
「強情ね。まあとにかく、妖精メイド達も不安がってるから、早く何とかして欲しいんだけど」
「僕はただ、思うことを告げるだけですよ」

 ○○はそう言って、手元の珈琲を啜った。子供の喧嘩だな、と咲夜は思うが、口には出さない。

「……何か、手伝いしてきます」
「じゃあ、いつものようにパチュリー様の蔵書整理でも手伝ってあげたらどうかしら。」
「わかりました」
「そういえば、今日の宴会には行くのよね?」
「ええ。では、それまでの間、図書館に行ってきます」

 珈琲を飲み干して、彼は席を立った。
 この館の主に面と向かって意見を堂々と言える者は少ない。その一人であるという自覚は彼にあるのだろうか。

(ないんでしょうねえ)

 遠ざかっていく姿を見送って、さて、と彼女は呟いた。
 主の心を慮るのも、従者の大事な勤めなのだ。



「お嬢様、紅茶をお持ちしました」
「ん、ありがとう、咲夜」

 少しばかり心あらずな状態の主に、咲夜は尋ねかける。
 そして敢えて地雷には触れない。こういうときは、少しでも気を晴らさせた方が良いのだ。

「今日の宴会には参加されるのですよね?」
「もちろんよ。そのために早く起きたんだもの」

 パタ、と羽を一つはためかせるのは、少し機嫌が戻った証拠である。
 それには全く触れず、では、と咲夜は話を進める。

「手土産は何に致しましょうか」 
「そうね、いいワインを一本なんてどうかしら。血のように紅い赤で」
「かしこまりました、準備いたします。いつお出かけになりますか?」
「そうね……今日は少し早めに、日が暮れる前から行きましょう」
「はい、かしこまりました」

 ○○をどうするのか、とは訊かない。彼が一緒に行くことは暗黙の了解である。
 それに、彼の性格的に、外でこの話題は出さないだろう。
 ならば、早めに出ようとするレミリアの心情もわからなくはない。

「それでは、準備してまいります」
「ええ、出来たら声をかけて」
「はい」

 レミリアの前から退出しながら、意外に根の深いこの喧嘩をどうするべきか、パチュリーに尋ねようと咲夜は考えていた。




 宴席の片隅。いつものごとく飲まされて眠ってしまった○○に、そっと近付く影があった。
 誰も気に止めない。彼女が彼の傍に居るのはごく自然なことだから。
 起きないかどうか、慎重に様子を窺った後、レミリアは○○の頭を自分の膝に乗せた。
 遠くからにやにやしている少女達の視線に気が付かない訳ではないが、それでも、今彼女はそうしたかったのだ。

「○○――」

 切なそうな瞳をして、彼の髪を撫でる。
 館内の追いかけっこと問答ではずっと逃げてばかりだが、それでも、本来こうしたいことに変わりはない。
 愛しく優しい彼の傍で、ずっとこうしていたいのも本当なのだ。

「あらあら、見せ付けてくれるわねえ」
「本当にねえ」
「何しに来たの」

 近付いてきた紫と幽々子に、鋭い視線を送る。それでも、膝上の○○を起こさないよう動きは最小だ。

「そりゃあ、幸せのおすそ分けに預かろうかと。ねえ、幽々子」
「ええ、紫。とても幸せそうだもの、ねえ」
「…………」

 呆れ果てた方がまだマシなのだろうか、と本気でレミリアが考えかけたとき、紫がすっと扇子を閉じて彼女達を指した。

「ところで、いいかしら」
「何かしら?」
「どうして貴女は、彼を吸血鬼にしないの?」

 立ち上がらなかったのは見事であった。身動ぎすらしなかったのも。
 ただ、視線だけで射殺せそうな気配で、レミリアは紫を睨み付けた。

「何故、そのようなことを言われなければならない」
「別に変なことを聞いたつもりではなかったのですけれど」

 紫の瞳は静かで、レミリアの視線をものともしていない。

「妖と人。其れが共に在り、そして在り続けようとするなら――何も可笑しい話ではないでしょう?」
「そうねえ、不思議ではあるわね。私であれば――」

 ふわり、と幽々子が扇を振って、蝶が舞った。美しいその蝶が○○に辿り着く前に、レミリアが握り潰す。
 本気ではない。戯れだ。わかっている。それでも。

「何が言いたい」
「レミリア。貴女達は一つの形を成そうとしている。それは理解できるでしょう?」
「…………」

 紫はどこか優しげでさえあった。おそらく、レミリアの迷いすら的確に把握しているのだろう。
 それに何かを返すのは悔しくて、レミリアは沈黙で返す。

「旧い噺に幾つか在るわね、妖と人の恋、妖恋譚」

 幽々子が唐突に話題を振る。そうね、と紫が応じた。

「旧い古い噺ね。悲恋も多いけれども」
「そう、ただ一つのことが足りなかったが故に」
「ただ、一つのこと」

 レミリアの呟きに応じるように、ええ、と紫が返す。

「永遠を歩む覚悟が足りなかった、ただそれだけのこと」
「人が永い間を生きるのに耐えられないと、そういうこと?」
「そういう見方もあるわね」

 その返答さえ静かなものだった。

「貴女達は、どうなのかしら、ね?」

 こちらは微笑みを浮かべて、楽しげに幽々子が尋ねた。返答など微塵も期待しない問い。

「さて、幽々子、行きましょう。あまり邪魔しても悪いわ」
「あら、いいの?」
「ええ、いいのよ。またね、レミリア」

 去っていく二人に一瞥だけをくれて、レミリアは○○の頬を撫でた。
 むにゃむにゃと言葉にならぬ寝言を漏らしながら彼女の手に擦り寄る彼が、何となく愛しくて。
 レミリアは少し安堵したような微笑を一瞬だけ浮かべて、彼の頬を撫で続けていた。




 それでも、すぐに何かが変化する言うわけではなく。
 紅魔館は妙な空気を湛えたまま、また翌日を迎えることとなる。
 迎えることは幾人にはとうに予想済みであったから、それに対して全く手を打ってないわけではなかったけれど。




「――どうして私達が呼ばれてるのかしら」
「空気を換えたくてね。貴女達みたいな年中春っぽいのが来たら少しは変わるかなって」
「失礼ね」

 そう言いつつも、霊夢は咲夜に淹れてもらった紅茶を啜ってくつろぐ。魔理沙がカップを手にしながら問うた。

「しかし、どうするんだ?」
「どうしようもないわよ。レミィと○○さんが互いに意地張って譲らないんだから」
「じゃあ私達が来ても何にもならないんじゃない?」
「だから空気を換えたかったのよ」

 紅魔館図書館で、四人がささやかなお茶の時間を過ごしていた。珍しく、能動的に招いてある。
 それでも、議論は自然とここの主達の話題になっていった。

「○○は吸血鬼にしてくれ、って言うが、レミリアはそれを嫌がってる?」
「嫌がると言うより、意地になって聞いてないだけ。怖いのよね、きっと」
「怖い? あんな怖いものなんて何も……ってそっか、○○のことだけか」
「名言よねえ。あのときの。スピア・ザ・グングニルには吃驚したけど」

 いつぞやの永遠亭での話を持ち出して、霊夢が頷く。

「二人とも強情なのよ」

 パチュリーが呆れた声を上げる。

「ここ一週間と少し、ずっと二人で堂々巡りの生産性の無い会話ばかりしてるんだもの」
「あー、何だかわかる気がするわ。要するに子供の喧嘩なわけね」
「話が早いと助かるわ」

 酷いことを言いながら、んー、と霊夢は視線を巡らせる。

「本当に綺麗にぐるぐる回ってるのね」
「ええ。レミィは自由な○○さんのままで居て欲しいけれど、○○さんは多少不自由でもレミィと永久を共にしたい。そもそも相容れないのよね」
「じゃあ打つ手無しじゃないか。この前の喧嘩より性質が悪いんじゃないか?」
「……この前の方がまだましだったとも言えるかもね」

 パチュリーの言葉に、他の三人が不思議そうな顔をする。

「……前回はまだ明快に打つ手があったけれど、今回は単なる痴話喧嘩だもの」
「まあ、人の恋路だものねえ」

 霊夢は適当な感じで頷くが、隣でニヤリと魔理沙が笑った。

「いいや、だからこそ手の出し甲斐があるってもんじゃないか」
「こじらせる気?」
「そんなつもりはないぜ。ただかき回すだけだ」

 楽しげなその言葉に誰もがため息を付いたとき、ひょい、と話の渦中の人物が顔を出した。

「あれ、みなさんお揃いで」
「よう、○○」

 軽く挨拶を交わして、○○も席に着く。

「相変わらず本の整理?」
「何だかどんどん増えてる気がするんですけどね」
「増えてるわよ、私も書いてるし」
「では、また借り甲斐があるな」
「持ってかないでよ、貴女のは盗ってくというの」
「借りてるだけだぜ?」

 いつもの雰囲気ににこにこしている○○に、咲夜が紅茶を出す。

「あ、ああ、どうも」
「いいのよ、貴方もここの客人なんだから」

 そう応じる咲夜に一つ礼をして、彼はカップを手に取って口を付けた。

「しかし、○○いいのか? 今の時間起きてて」
「え、ああ、夜ですか?」
「そうだ、レミリア追いかけてるんじゃないのか?」

 ぐ、と○○は紅茶をむせる。そして、咲夜とパチュリーを交互に見て、困ったような表情をした。

「話したんですか?」
「別に隠すことでもないでしょう」
「そうかもしれませんけど」

 改めて紅茶を口に運んで、○○は困った表情のまま、最初の問いにだけ答えた。

「とりあえず夕方に少し仮眠を取って、夜中にまた仮眠を取る形にはしてますが。朝を少し遅くしたり」
「それでよく持つわねえ」
「まあ、ちょくちょく休んでますから」

 ○○はそう言って、誤魔化すように笑った。そんな誤魔化しが、彼女達に通ずるわけもないとわかっていながら。

「で、だ。お前、レミリアに逃げられてばっかなんだろ?」
「直球ねえ」

 咲夜が呆れるが、魔理沙は一瞬だけ視線を送ってにっと笑う。

「どうして、無理矢理にでも話してやらないんだ?」
「いや、無理矢理、って……」
「多少強引でも、言いたいことは言うべきだ。そっちの方が後悔しなくて済む。違うか?」

 明朗な言い方に、彼は一瞬呆気に取られていた。

「どうせ、レミリアが嫌だっていったら遠慮してるんだろ?」
「いや、まあ、その通りですが」
「遠慮しなくていいと思うぜ。言うだろう、引いても駄目なら押せってね」
「元々は逆のはずだけど」

 パチュリーがふう、とため息をつくが、それにはどこか同意するような空気があった。

「そうねえ、確かに、○○さんはもう少し押しが強くてもいいかも」
「霊夢さんまで」
「堂々巡りでも良いならそうなんでしょうけど。それは嫌なんでしょう?」
「だったら、話は早いよな?」

 ぐう、と詰まって、紅茶を飲み干して、○○はぽつり、と呟いた。

「…………何に叛いても、でしょうか」
「何に叛いてるのかしら?」

 本当に叛いているの、とでも言いたげな口調で、霊夢が微笑む。

「……あー、僕らしくなかったかもしれないですねえ」
「ある意味では、非常にお前らしかったのかもしれんがな」
「ですか、ね……ああ、咲夜さん」
「何かしら?」

 急に声をかけられて、咲夜が首を傾げる。

「レミリアさん、何時くらいに起きてこられるかわかりますか?」



 ○○が立ち去った後、咲夜はどこか安堵したようなため息を一つついた。

「……さて、お嬢様が起きてからがまた大変そうね」
「それでもいいんじゃないかしら。解決に向かって一歩でしょ?」
「私が意外だったのは、割と魔理沙がまともなことを言ったことかしら。割と、だけど」
「当然だ。停滞してるものはかき混ぜる、自然なことさ」

 パチュリーは瞳を瞬かせて、心底意外そうに魔理沙を見た。

「貴女からそんな言葉を聞くなんてね」
「想いはそういうもんだろう。それに」

 胸を張り、輝くような笑顔で、彼女は宣言した。

「何たって私は、恋の魔法使いだからな」





 日がほぼ落ちて、客人たちも帰った後の図書館。
 扉が開いて、この館で唯一の青年が此処に足を踏み入れた。

「あれ、パチュリーさん、レミリアさんを見かけませんでした?」
「こっちには来てないわよ」
「そうですか……」

 ふう、と少し肩を落とした○○に、パチュリーが尋ねかける。

「改めて、訊いていいかしら? この問いはまだしたことなかったはずだから」
「はい、何でしょう?」
「貴方は、どうしてそこまでレミィに願うのかしら?」
「吸血鬼にしてほしい、と?」
「ええ。不老や不死なら方法はいくらでもある。時間はかかっても捨食や捨虫の法もあるし、蓬莱人に頼む方法もあるわ。それなのに?」
「……それでも」

 ○○は朗らかに微笑む。

「僕がずっと、あの方の傍に居続けるには、吸血鬼になるのが一番良いと思うんです」
「ずっと一緒に居たい、ただそれだけで?」
「ええ、それだけです。子供っぽいし、理由になんてなっていないけど」
「……レミィ以外の手に掛かるのも嫌、というところかしら?」
「ああ、そうなのかもしれないですねえ……」

 目を細めて笑った○○に、パチュリーも軽く面白そうに笑みを浮かべた。

「わかったわ。結局の所、貴方がレミィのことを物凄く好きなんだ、ってことがね」
「え、あ、ええと、その」

 ストレートに言われて焦った彼は誤魔化すように、何かお手伝いできることは、と尋ねた。

「ああ、じゃあ、千五百番台の棚に幾つか外界の本があったからお願いしようかしら」 
「わかりました、行ってきます」
「報告はいいわ。レミィを探すんでしょう? 終わった後部屋を訪ねた方が早いと思うけど」
「え、あ、すみません、ありがとうございます」

 駆け足で去っていったのを見送って、パチュリーはカップを手に取る。

「もういいわよ」
「……ん」

 もぞもぞとテーブルの足元のクロスが動く。
 レミリアがクロスの下から姿を現した。ご丁寧に紅茶のカップまで持っている。

「○○さんの気持ちは聞けたわね」
「…………」

 黙って隣に座り、レミリアはカップをテーブルの上に置いた。

「レミィ、そろそろ仲直りしたら?」
「……別に喧嘩してる訳じゃない」

 子供っぽい言い回しに、パチュリーはやれやれと息をつく。

「いいじゃない、きちんと話くらい聞いてあげたら? 身も心も○○さんに捕らわれてるのに」
「……まだ心だけよ」

 ふい、と顔を逸らしていった言葉に深くは突っ込まず、パチュリーは手元の珈琲を一口飲んだ。

「ならばなおさらね。心ほど、大事なものもないでしょう、レミィ」
「…………でも」
「……話なら、いくらでも聞くわよ。貴女の望む答えが出るかは別として」
「……ん、ありがと、パチェ」

 レミリアはようやく表情をほころばせる。
 パチュリーも応じるように笑んで、カップをソーサーに戻した。
 こういった会話ができるのも親友の特権なのかもしれないと、そう思いながら。
 まあもっとも、訊くのは愚痴の仮面を被った惚気なのだろうけれど。





 こうして土壌は出来上がる。
 周囲の多大なる努力によって、ようやくその時は訪れた。






 部屋をノックする音に、レミリアは顔を上げた。誰かはわかっているが、拒絶はしない。

「……いいわ、入りなさい」

 声に応じるように、扉が開く。現れたのは○○。パチュリーが言ったとおりにしたのだろう。

「……何をしにきたの」
「話を、しに」

 椅子に座るレミリアの傍らまでやってきて、○○はそう答えた。

「話すことなんか何もない、聞きたくない、私はそう言ったはずよ」
「それは偽りです。もしそうなら、そもそも僕をここに入れてはくれなかったでしょう」

 静かな声に、レミリアは顔を背けて立ち上がる。

「……そうね。でも、聞きたくないのは本当。○○、下がって」

 本当は聞いていたい。その声は彼女を安らげる。それでも、その先に続く言葉を聞きたくない。

「嫌です」

「……○○?」

 今までレミリアの言葉に逆らうことなどなかった○○が、初めてその意に逆らった。
 信じられないような表情で、彼女は想い人を見上げる。

「聞こえなかったの? 下がりなさい、○○」
「嫌です」

 もう一度きっぱりと、だが優しい声で答えると、○○は、失礼します、と呟くように言い――


「――――っ!?」




 ――レミリアを、強く抱き締めた。




「なっ――は、離しなさい!」
「いいえ、離しません」

 慌てたようなレミリアの声に、○○は静かに首を振った。

「○○――!」
「僕を離したかったら、僕から逃げたかったら」

 羽をピンと張ったまま、驚きながらも腕の中で僅かに身じろぎするレミリアに、○○は告げた。

「蝙蝠に、霧になって逃げればいい。いやいっそ、僕を引き裂いてしまえばいい。そうすれば、僕は貴女から手を離すでしょう」
「――――!」

 動揺した気配が伝わってくる。○○は構わず続けた。

「貴女なら、簡単なはずです」

 そうだ、そうなのだ。吸血鬼の力とはそういうもの。
 人間なぞ一瞬で引き裂いてしまえるほど。そう、彼の腕から逃れることなど造作もないこと、なのに。
 どれ程の時が経ったか、レミリアが力を抜いた。

「……わけ、ない」
「…………」

 やがて、小さな声が彼女の唇から漏れた。



「……そんなこと、出来るわけないじゃない……!」



 自分の声は悲鳴じみているのはわかっていた。だがそれでも、言わずにはいられない。
 そんなことが出来たら、どれ程楽だったか。
 この腕を振り払えるほど彼を何とも想ってなかったら、どれ程楽になっていただろうか。
 でも、でも駄目なのだ。自分はこんなにも、彼の腕を求めていて。
 今でさえ、心の奥底では情けないほど嬉しいなどと、どうして口に出来ようか。

「ずるい。○○はずるい。私がそんなこと出来ないことはわかっているでしょう、それなのに」
「……ええ、すみません。意地悪なことをするつもりではなかったのですが」
「……ずるいわ、本当に……」

 レミリアは○○の身体を少し押し返し、彼の顔を見上げる。

「レミリアさん、話を聞いていただけますか」
「聞かなければ、離さないんでしょう?」
「脅迫になりますかね、それだと」
「もう諦めたわ……」

 変に強情なんだから、と拗ねたようにレミリアはため息を吐いた。

「……僕は、貴女と共に居たい。貴女と同じ時を歩みたい」
「……それは、人間である貴方を捨てると言うこと。それがわかっていて?」
「それでも。僕は、貴女だけの物だから。貴方の傍にいることを赦されたから。貴方の傍に、ずっと居たい」

 それは理由にもならないような、子供染みた想いの吐露。だが、それでも。

「僕は、貴方のことが好きです。ずっと、ずっと愛しています。愛させてください」
「……吸血鬼になったら」

 レミリアは呟くように告げる。

「太陽の下には決して出られなくなるわ。雨の日も同じ。それに、言うのは何だけど、弱点だって多い」
「それでも」
「貴方の行動は酷く制限されるわよ。もう人里にもろくに出られない。この紅い館に、半ば閉じ込められるように」
「だとしても――」

 そっと抱きしめて、彼はレミリアの耳元で囁く。

「貴女の傍に居られる以上に、大事なことなんて、ない」

 抱き寄せられて、その胸に耳をつけて、少し早く鳴っている鼓動を聞きながら、レミリアは考える。
 この人は、いつからここまでの決意をしていたのだろう。ここまでの覚悟を、いつから持っていたのだろう。
 ああ、そうか、自分は、○○の自由を奪うのも怖かったけど、きっと。
 ○○が本当にずっと自分の元に居てくれるのか、それもまた不安だったのかも、しれない。




 紫の言葉が脳裏に過ぎる。
『永遠を歩む覚悟が足りなかった――』
 ああ、そうか。
 覚悟が決まっていなかったのは、きっと。




「……○○、貴方は本当にそれでいいの? 人を捨て、人の傍を捨て、悪魔になるのに」
「それでも、貴女の傍に居られるなら」

 ○○は優しく笑う。

「僕は変わりません。例え器がどれほど変わっても、僕は僕でしかない。以前言った通りに。
 約束します。僕は、決して変わらないと」
「人間と悪魔の契約で、それを破るのはいつも人間のはずだけど」
「代償は命ですよ。それに、僕の命なんてもうすでに貴女だけのものですから」

 そう言って、○○はレミリアを抱き寄せる。抵抗せず寄り添って、レミリアは微笑した。

「契約は何をもってか、わかってるわね?」
「ええ」

 ○○はレミリアの顎に手を沿えると、そっと口付けた。

「ん、あ……ん」

 角度を変えて、何度も何度も。それを少しずつ深くして。
 途中、レミリアの牙で○○の舌が傷付き、口の中に甘い血の味が広がった。
 だが、頭が痺れるようなその甘さが、久々のその血の味にもたらされたものなのか、それともこの初めての口付けに因るものなのか、レミリアにはわからなかった。



「ん……は、あっ……」

 どれだけ時間が経ったか。口唇が離れ、レミリアは大きく息をつく。
 力なく○○にもたれかかって、荒い呼吸を整えた。

「えと、大丈夫ですか……?」

 優しい声に顔を上げ、放心気味だった自分には気が付かなかった振りをして、レミリアは恨み言のような言葉を口にした。

「人を窒息させる気? 人じゃないけど」
「え、あ、いや、その」
「何?」
「……鼻で息したら良かったんじゃないかな、って」
「…………」

 ただでさえ紅い顔がさらに紅くなり、レミリアは○○を睨みつけながら彼の頬を引っ張った。
 まるで自分だけが夢中になっていたかのようで、それが悔しくて。

「いたた、痛いですよ」
「煩い」

 ふい、と顔を背ける。
 腹が立つのに、それでもこの腕の中から抜け出す気になれない。それがまた少し腹立たしくて、レミリアは不機嫌な声を出した。

「まったく、貴方はいつでも勝手なんだから」
「すみません……怒りました?」

 しょんぼりとした雰囲気が伝わってきて、レミリアはささやかに満足する。

「……まあ、いいわ。○○」
「はい」
「さっきみたいにしなければ、もう一度許して上げる」
「……いいんですか?」
「何度も言わないわよ」

 レミリアは背けていた顔を○○の方に向けて、彼の表情が嬉しそうなのを見て少しだけ後悔した。
 この表情が見れて嬉しく想うなんて、自分は本当にもう手遅れなんだろう、と。
 今度は優しい口付けを受け入れながら、彼女はそう思った。



「次の満月」
「え?」

 ○○にしなだれかかったまま、レミリアは告げる。

「次の満月の夜に、貴方の願いを叶えるわ」
「……はい」

 満月までは、もう幾日も無い。

「それまで、せいぜい陽のある生活を楽しみなさい」
「はい、そうさせていただきます」
「そして……」

 レミリアの瞼が、重そうに一つ瞬いた。

「せめて、今日はここにいなさい……」

 慢性的な寝不足。レミリアは○○の身体を押して彼ごとベッドに倒れこむと、その上で寝息を立て始めた。

「……はい」

 答える彼の声も眠そうな響きを持っていた。柔らかなベッドの感触が彼を眠りに誘う。
 結局、二人とも互いのことが気になって、最近ろくに睡眠を取れていなかったのだった。





 暫くの後に様子を見に来た咲夜が、とてつもなく中途半端な体勢で寝ている二人を目撃して呆れ果てるのだが、それは二人の与り知らぬところの話である。






 昼から宴会を始めると言うのも珍しい。神社で集まった面々はそんなことを思ったかもしれない。

「美味しい肴が手に入ったからよ」

 と、霊夢が納得しているならば、他の者達に言うことは無いのだけれど。

「真昼間からの宴会なんて久々ね」
「あんたは特にね。というより、吸血鬼が本当に昼間に外を出歩いてるってのが変なんだけど」
「そうね、とても不自由だわ」

 レミリアはそう言って、珍しく自分から酒の席に向かっている○○を縁側から眺める。
 そんなに強くないから、勧められるまでは飲まない青年なのに。いや、だからこそ、か。

「そしてその不自由を選んだのね」
「……そうね」
「やれやれ、里は優秀な人手を失うようだな」

 レミリアの逆の隣に、慧音が腰を下ろす。

「あんたも止めなかったのよね」
「もし、彼を強引に吸血鬼にしようとしてたのだとしたら、何としてでも止めてたさ」
「今回は逆だものね。○○さんが選んだことなら、私達に止める理由なんて無いし」
「そういうことだ」

 幻想郷の調停者と人里の守護者の言葉に、レミリアは大きく息を吐いた。

「……もう誰も止められない、ってことなのね」
「そもそも、彼が止めて止まる奴でもないだろう」

 それは貴女が一番ご存知のはずだが、と慧音はからかうように微笑う。
 ○○は既に、自分がレミリアの眷属になることを幾人かに告げている。慧音はその筆頭だった。

「……大きなお世話よ」
「それにしても、随分と酔ってるわよ。大丈夫かしら?」

 三人で、宴も酣の席を見遣る。中心にいる○○はかなり酔っているようだった。

「止めないのか?」
「いいのよ、好きにさせていれば。もう、こんなことも出来なくなるから」

 その声は心から彼を想う少女のもので、霊夢と慧音は顔を見合わせてそっと頷き合った。
 何だかんだとあったが、二人はどうにかうまくやっていくだろう。

「レミリアさん」

 中心から、ふらふらとやってきた○○に、レミリアは首を傾げる。

「どうしたの、みんなの中にいなくて……って!」

 唐突に腕を伸ばしてきた彼に抱き上げられ、彼女は慌てた。いつの間にやら、両隣の二人はその他大勢に混じっている。
 顔が近い。完全に酔いの回っている○○の手が頬に当てられ、彼と至近距離で向かい合っていた。
 何をされようとしているのか、周りが何を期待しているのか、瞬時に理解したレミリアは――

「っ……! いい加減に目を覚ましなさいっ!」

 見事に絶妙の手加減が入った頭突きを、○○の額に見舞ったのだった。



「まったく」

 沈没した○○を放って、レミリアは日傘を差して宴席の方に出てきた。

「惜しいわねえ、面白い物が見れそうだったのに」
「私達は見世物じゃない」

 紫の声に反発して、レミリアはしかし、彼女の隣に座った。

「あら、どういう了見?」
「別に」

 だが、そう言いながらも一献、紫の盃に注いだ。紫もまた、レミリアのグラスに酒を注ぐ。
 礼と返礼。言葉にする必要など無く、仮にしたとしたら互いに馬鹿にし合うに違いない。
 だから、酒を交わしただけ。

「幻想郷は全てを受け入れる」
「…………」
「貴女達の決意も、決断もね」
「…………そうね」

 その後に交わしたのも、ただその言葉だけだった。





 数日のうちに、彼は必要な所に顔を出していった。
 里を初めとして、彼が世話になった者達のところを、次々に。
 それは或いは神社であり、永遠亭であり――幻想郷中を一巡りしたのではないかと思われるほどで。
 各々から皮肉染みた祝いの文句をもらいつつ、彼は礼を言っていった。
 そして、彼が帰るのは、常に――





 紅魔館の夜。○○の部屋にレミリアが訪ねてきていた。

「挨拶回りは終わったの?」 
「ええ、全員にお会いできたはずです」
「お疲れさま」

 ベッドに腰掛ける○○の隣に座って、レミリアが呟く。

「ついに明日ね」
「ええ、明日ですね」

 そう言葉を交し合って、少しの沈黙の後、不意に彼女が口を開いた。

「少し、喉が渇いたわ」
「あ、ええ、どうぞ」

 身体を自分の方に向けた○○に、レミリアは身体を寄せる。
 反射的に、○○は壁に背をつけた。貧血気味になるのと、やはりどこか畏れを感じているからか。
 しかし、彼の首筋に口を近づけて、彼女はしばらく何事か考えたように止まった。

「……?」

 暫くの後、結局牙は立てず、ただ舌で首筋をぺろりと舐める。

「っ! あ、えと?」
「ん、やっぱりまだ我慢。どうせ、たくさん吸わなきゃいけなくなるから」
「……はい」

 ○○の首筋に顔を埋めたまま、レミリアが呟く。

「どうせなら、心身ともに貴方が欲しくてたまらないくらいにするのが丁度良いわよね」

 瞬間、ゴン、と鈍い音がした。顔を上げると、○○が頭を壁に打ち付けているのが見える。

「どうかした?」
「いえ、ちよっと煩悩を散らそうと」

 他意はないんですよね、とか何とかを口の中で呟いている○○に、不思議そうな視線を向ける。

「よくわからないけど……とりあえず、今はこれだけね」

 ○○の顔を自分の方に向けさせ、レミリアはどこかぎこちない口付けを彼に送った。

「……後少しよ。貴方が人間で居るのも」
「はい」
「……後悔しない?」

 何度もしてきた問い。きっと最期のそのときまで、レミリアはこの言葉を尋ねてしまうのだろう。
 そして、その不安げな問いに返す言葉も、常に同じで。

「はい、決して」

 そう穏やかな表情で言われるから、彼女も安心するのだった。

「○○」
「はい」
「今度は貴方から、して」
「はい」

 優しく口付けられて、彼女は陶然とした想いのまま、彼にそっと抱きついた。
 要はきっと、決意と想い。それさえあるなら、恐れることは無いのだろう。
 彼の温もりを感じながら、レミリアはそう心に呟いた。 






 月に叛いた青年の決意はようやく届く。紅く愛しき幼い月に。
 そしてまた、決意は決意を呼んで、新たな道を切り拓く。
 其の道は、一つの顛末に向かって――




──────────
顛末、伴月篇



 月に沿い、月に添う。
 願いが叶った後には、一体何が待っている?




「破っ!」
「っ!?」

 裂帛の気合。ドン、という力強い音。そして。

「…………あれ?」

 人の形の物が、紅魔館の外周壁に思いっきり叩きつけられた。




「ああああああ! す、すみません、お嬢様!」
「いいわ、思い切りやれと言ったのは私だし」

 呆れたようにため息をついたのは、レミリア・スカーレット。
 平謝りに謝る美鈴に、気にするなとばかりにひらひらと手を振ってみせる。

「まだ安定してなかったのかしらね」
「でも、パチェも確認したでしょう? ○○は、間違いなく」
「ええ、間違いなく――吸血鬼になった、はずよ」

 パチュリーはそう言って、手元の本をはらりとめくった。
 どうやら、この事象――人間から吸血鬼になった人間についてのこと――をまとめようとしている、その資料の一つらしい。
 レミリアはため息をついて、雲が掛かりかけている十八夜の月を見上げた。




 満月から、三日が経つ。レミリアが○○に吸血を施し、吸血鬼にしたあの日から。
 そろそろ安定したのでは、という考えで、彼女は美鈴に手合わせを命じたのだ。
 無論、思い切り、という前提をつけて。吸血鬼の素の力は、並の妖怪など物の数ではない。
 ない、はずだったのだが。




「焦りすぎたのかもね、レミィ。まだ三日よ。貴女が初めてということを考えてみても、もう少し時間はあっていいかもしれない」
「そうね……まさか、ここまで弱いなんて思ってもみなかったし……」

 美鈴の突きを、よけることも受けることもせずに、真正面から喰らって周壁まで弾き飛ばされるとは。

「しかも、受身すら取ってないなんて……」
「お嬢様、よろしいですか?」

 咲夜の声に、レミリアは視線だけで尋ねかける。

「○○さんが気絶したままのようなのですが、回収しなくても?」
「あ」

 言われて、レミリア達が一斉に○○に注意を向けた。
 周壁からずり落ちて気絶しているらしい○○は、それでも大した傷は負っていないようで。

「身体の頑丈さは吸血鬼並み、といったところかしら」
「それだけ、とも言えるかも、ね」

 レミリアはもう一つ、大きなため息をついた。





「○○さんは?」
「寝てるわ。大した怪我はないみたい」

 あれだけ派手に飛ばされておきながらほぼ無傷というのは、やはり人間ではありえなくなったということだろう。

「んー、とりあえず、頑丈にはなったみたいだけど……寝てばかりなのよね」
「退屈なのね、レミィ」
「そうじゃないわよ」

 パチュリーの言葉が少なくとも事実の一端であるということは態度からもわかるが、それだけでもないらしい。

「あれから三日。でも、○○の感覚では実質一日半も経ってないわ」
「丸一日眠って、起きて紅茶を飲んでまた眠ったんだっけ?」
「ええ、血入りのね。知らせてはなかったけれど、普通に味はわかってたみたいだから」
「……さすがに、それは私にはわからないけれど」

 そうね、とパチュリーは頷く。

「彼が吸血鬼になっているのは間違いない事実よ。彼から零れ落ちている魔力も、レミィと同質のもの」
「ん、それも何となくわかる。でも、何となくなのよね……?」
「それはそうだと思うわよ。だって彼、貴女の蝙蝠一匹分の魔力も無いもの」
「……え?」
「レミィが微弱に感じるのも当然ね。元が人間だからかしら」
「……何か、間違えたのかしら……でも、間違えるようなことはなかったはずなんだけど」

 レミリアはそう言って、三日前のことに思いを馳せた。






 満月が差し込む中、レミリアは自室に○○を招いていた。
 どこか気だるそうな、青い顔をした○○を上体だけ起こさせた形でベッドに横たえさせて、少し首を傾げる。

「顔が青白いけれど?」
「あー、えと、さっきちょっと、血を抜いてもらいまして」
「血を抜いた?」
「献血みたいなものですよ。少しは、マシになるでしょう?」

 何がか、などという愚問を発するほど、レミリアは愚かではなかった。だから、代わりに。

「本当に馬鹿ね、貴方は」
「僕の我儘ですから」

 柔らかい表情で、彼は微笑った。レミリアは少しだけ切なくなって、彼を抱きしめる。

「貴方の我儘だけではないわ。私も決めたことだもの」

 そして、○○の頬に軽く口付けて、その首筋に牙を当てた。いつものように○○の鼓動が速くなる。

「後悔、しない?」
「勿論。貴女の傍に居られるのならば」
「……うん。じゃあ、行くわよ」

 宣言して、牙を突きたてる。いつものように甘い味が広がる。
 蕩けそうな甘さも、量が量なれば苦痛になる。それでも、止めない。止めるわけにはいかない。
 辛そうな声が耳元で聞こえた。もうすぐ、もうすぐなのだ。
 互いが互いに無理を強いて、願いを叶えようとしているのだから。
 決意と覚悟。必要なのはただそれだけ。


 やがて、レミリアは血を吸い終えた。恐る恐る身を離すと、彼の口からは、低い唸りが漏れ始めていた。
 身体が震えている。口の端から牙が見え始めている。変化しようとしている。人間を終えて、吸血鬼になろうと。
 だが、安定していない、不安定なのだ。そう気が付いた瞬間、レミリアは彼を抱き寄せた。
「○○!」
 頭を抱えて牙を自分の首筋に当てさせて、彼女は命じた。
「飲みなさい!」
 戸惑うような視線がレミリアに向けられた。
 その戸惑いは、人間から吸血鬼になってすぐの吸血へというよりも、レミリアに牙を立てることに対してのように、見えた。
「命令よ、飲みなさい」
 今や眷属となった以上、その命令には逆らえないはずだった。彼女は主人なのだ。
 一瞬だけ途方に暮れた表情になった後、彼は、レミリアの首筋に牙を突きたてた。


 瞬間、レミリアは自分を襲った感覚に身を竦ませた。


 痛みであれば、苦痛であれば、どれだけでも耐えられたはずだった。
 だが、この痛みと共に訪れた脳髄が痺れるような甘い感覚は、予想の範疇をはるかに超えていて。

「あ……う……っ!」

 声を上げていたかどうか。どこまでも長く感じた、彼の吸血が終わるまで、レミリアは必死にその感覚に耐えていた。

「っ、は……○○……?」

 荒い息を整えている途中、彼が何事か囁いているのが聞こえてきた。
 それは謝罪。ごめんなさい、ごめんなさい、と、何度も繰り返して。

「……いいのよ、○○」
「でも」
「いいの。私が命じたのだから」

 聞こえているのかいないのか、彼は朦朧としているようだった。
 人と魔の境で揺らいでいるように、どこか焦点のあっていない瞳で、彼女を見つめて。

「ごめんなさい、ごめんなさい。でも、それでも、僕は貴女を、愛して」

 そして、彼は意識を失った。その彼を抱きとめながら、レミリアは何となく悟っていた。
 今の言葉が、おそらく、僅かなりとも残っていた彼の、人としての、最期の言葉なのだと。
 疼くような首筋の甘い痛みを感じながら、そう悟っていた。






「……ミィ、レミィ? どうしたの、首筋を押さえて」
「あー……いえ、何でもないわ。何、パチェ?」

 思い出した首筋の感覚に気を取られていたレミリアは、親友の言葉で我に返った。

「……一体何を思い出していたのかしらね?」
「いいじゃない別に。で?」

 その誤魔化し方に微笑ましいものを感じて、パチュリーはくすりと微笑う。

「どのみち、まだゆっくり観察する必要がありそうね。一週間か一月か一年か――十年百年かかるのか」
「パチェは気が長いなあ」
「あらそう? 私としては、レミィが焦っているように見えるけど。何に焦ってるの?」
「焦っているつもりはないんだけど」

 レミリアは咲夜が用意してくれた紅茶を一口飲んで、息をついた。
 焦っているわけではない。ただ。

「早く確かめたいのね、レミィは」
「ん……そうね。そうなのかも」

 そう、きっと確かめたいのだ。彼が本当に自分と同じになったのか。
 彼が目覚めてからある、彼から感じる違和感のような、落ち着かないものが何なのか。
 それを知りたくてたまらないのだ。


 おそらく人はそれを、不安と呼ぶのだろうけれど。


 彼が本当に変わっていないのか。前のままなのか。
 愛しい人だからこそ、まだ掴みきれていなくて。


 その事実がレミリアを、何よりも不安にさせていた。




 紅魔館の廊下。音もなく一つのドアが開いて、一人の青年が顔を出した。
 きょろきょろと周りを見回して、廊下に出る。

「……今、何時だろう」

 昨晩、美鈴と対峙してからの記憶がほとんど無い。吹き飛ばされたような気もするが、よく覚えていない。
 少し小腹が空いた気がして、何かつまむものがないか、と階下に足を向ける。厨房はそちらにあったはずだ。
 勝手知ったる、である。もうすでに、ここを終の住処とすることは決めているのだけれど。

「あら、○○さん」
「あ、咲夜さん……えーと……今何時でしょうか」

 階段に近付いた所で咲夜に会って、こんにちはと言うべきかこんばんはと言うべきか迷い、とりあえず時間を尋ねた。

「もう陽は落ちてるわね」
「では、こんばんは、ですね」

 微笑って言って、ふと気が付く。

「と言うことは、僕半日以上寝てましたか」
「まあ、まだ仕方がないんじゃないかしら。昨日も昨日だったし」
「んー、あの後どうなったんですか? 手合わせしろ、からよく覚えてなくて」
「そこから抜けてるのね……」

 咲夜は少し呆れたように息をついたが、まあいいわ、と来た方向に踵を返す。

「丁度食事だから起こしに来たのよ。お嬢様方が待ってるわよ」
「あ、すみません。少し小腹が空いてしまって」

 何かつまもうと思ったのですが、という彼に、咲夜は首を傾げた。

「……他のものを食べて、空腹は収まるのかしら?」
「え? あ、あー」
「……まだ慣れてないのかしら」
「……はい。それはそうですよねえ」

 吸血鬼になったのだから、主食は血なのだ。うっかりまだ忘れてしまう。
 一人納得して頷く彼の方を向いて、咲夜が再び呆れたように感想を述べた。

「……本当に、全く変わらないのねえ」




 それでも、自分は吸血鬼になったのだ、という確信が、彼にはある。
 言葉にはし難い、でも確かな感覚で、自分がレミリアと同じものに成ったと感じるのだ。


 それを口にしなかったことが、彼の鈍さだったのかもしれない。




「○○、身体の具合はどう?」

 食事を終えた後、○○はそう問いかけられた。

「んー、少し眠気が残ってるようですが、概ね何ともないですね」

 食後の紅茶を啜りながら、うん、と自分の中で頷く。
 何も変わらなかった。別に突然空も飛べなかったし、魔法が使えるようになったわけでもない。
 まあ、空を飛ぶのだけは、どうやら練習すればできるようにはなりそうだけど。

「いえ、そういうことじゃなくて……いや、そういうことなのか」

 レミリアも納得したように頷く。

「まだあまり動けてないですしねー。眠るときには日が昇ってないですし起きたら沈んでますし」
「早寝遅起きね」
「まあそうなんですが。何だかまだ違和感が」

 曖昧に微笑ったとき、口元から牙が覗いた。下唇に当たり、反射的に口を閉じる。

「ああ、まだこれにも慣れないですね」
「牙だけは立派なのにねえ」
「あー、すみません、昨日のことは」

 とりあえず、食事のときに昨日のあらましを聞き、謝ることしか出来なかった。

「まあいいわ。私も焦りすぎてたみたいだし。ゆっくり調べていきましょ」
「よろしくお願いします。まあ、時間はありますし」
「……そうね」

 少しだけ開いた間が気になったが、何と訊けばいいものかわからず、再び紅茶に口をつける。

「後で、ちょっとパチェのところに行くわよ。いろいろ調べたいし」
「はい」

 答えながら、とりあえずこの頃眠ってばかりなのをどうにかしないとなあ、と暢気なことを考えていた。




 ちなみに、パチュリーのところに行ったらいきなり飛行訓練などをさせられる破目になっていた。
 でも、高いところから突き落とすのは訓練ではないと思います、とは小悪魔の談である。




「……死ぬかと思いました」
「死なないわよ、怪我も多分しないでしょうし」

 レミリアと○○はそう話しながら、廊下を歩いていた。

「羽とかあったら、もっときちんと飛べるんですかね?」
「それはわからないけど。そういえば、羽は生えないものなのかしら……」
「……それはさすがに僕にも何とも」

 軽いお手上げのポーズを○○は取る。
 そう、彼には、レミリアやフランドールのような羽は生えていない。
 そのためか、彼が吸血鬼であると外見から判断するのは、中々に難しいものになっている。

「まあ、少しは浮ける様になったからいいんじゃないかしら?」
「そうですねえ。床に激突しそうになったときはどうなるかと思いましたが」
「ちゃんと助けたじゃない。私もパチェも」

 レミリアは不満そうに言った後、ふと表情を切なげなものにした。

「……それにもう、貴方はそんなことでは死なないわ」
「どれほど痛くとも、ですか」

 茶化すように微笑う彼に、レミリアは首を振る。

「そもそも痛くすらないかもね。低い段差から飛び降りた程度。その程度の感覚しかないかも」
「ああ、うん、まあ、頑丈にはなりましたし」
「そういうことじゃなくて」

 どこか愁いを帯びたような表情で、レミリアは立ち止まって○○を見上げる。

「貴方には、まだ、人としての恐怖が在るのね」
「……ですねえ。自力で飛ぶのは体験してないですし。高過ぎるところは怖いです」
「……誰かと飛んだことはあるの?」
「二度ほど。一度目は、此処に来た当日、香霖堂で買い物するのに霊夢さんと魔理沙さんに。
 もう一度は、僕は覚えてません」

 運んでくれたのは同じ二人ですが、と微笑する。

「初めのときもまだ幻想郷に居るという感覚もなかったですから、よく覚えてないですね」
「夢の中にいるかのように?」
「ええ、まさに――いや、怖かった気がしますが、その程度で」

 それでも、それでもだ。高いところを恐怖する吸血鬼などいるものだろうか。
 人か吸血鬼か。彼はどちらの側に振れているのだろう。


 人間であった頃の彼で居て欲しい、と願った。


 ずっと傍に居てくれるという彼で居て欲しい、と願った。


 ならば、今の彼は一体どちらなのだろう。


「ねえ、○○。人と吸血鬼、貴方は――どちらなのかしら」
「僕は――吸血鬼ですよ。そして、貴方のしもべです」

 当然の事を述べるかのように、彼はレミリアに応えた。
 それでもなお、レミリアの不安は消えることなく。

「……そうね」

 だからただ、そう応じることしかできなくて。

「もう、休むのかしら?」
「そうですね、眠気が取れる程度にまでは休もうかと」
「ゆっくり休みなさい。規則正しい生活が送れるくらいになるように」
「はい」

 微笑った彼が愛しくて、でも、言葉は何も出てこなかった。




 一つ一つの事実は積み重なっていく。紅き月が愛した青年は、確実に彼女の眷属となっていた。
 それでも、違和感だけが残る。何かが、おかしい。
 彼が弱すぎるからだろうか。あまりに、外見が人間と等しいからだろうか。
 人間だった頃と、何一つ変わらないからだろうか。


 それは喜ばしいことのはずなのに。それを望んでいたはずなのに。
 なのに、何故自分はこんなにも。


 疑問は解消されず、ただただ積もっていく。



 そして、その朝が訪れる。





 何となく寝付けず、レミリアは朝方の館内を歩いていた。
 もうとうに朝日は昇っているらしく、館の窓は堅く閉ざされている。

「神社にでも顔を出してみようかしら」

 誰ともなく呟く。○○も連れて行きたいが、この時間は眠っているかもしれない。
 のんびり歩いていると、妖精メイド達が何かさざめいているのが見えた。
 レミリアの方を見て、明らかに動揺する者もいる。そんなにこの時間に起きているのが珍しかっただろうか。
 そういえば、咲夜も出てこない。まあ、こんな有様だから忙しいのかもしれないが――

「それ……当?」
「らし……よ。だっ……門番長……血相変え……」

 曲がり角の向こうで、お喋りしている妖精メイドの声が微かに聞こえてきた。
 立ち話をしていると咲夜に怒られると言うのに、全く懲りないものだ、と思ったのも一瞬。



「本当なの……? ……さんが、陽を浴びた、って?」



 聞き取れた瞬間、レミリアは駆け出した。気が付いた妖精メイド達が怯えるが、気にしてもいられない。

「咲夜!」

 最も信頼する従者の名を呼びながら、レミリアは館内を飛翔する。
 心の中では、口には上らせなかった彼の名を叫びながら。
 吸血鬼が陽光を浴びるなど、正気の沙汰ではない。
 だが彼はあまりにも人間に近すぎる。意識も存在も。でも彼は吸血鬼なのだ。
 自分が望んだ、大事な眷族なのだ……!

「咲夜! いないの!」

 なのに、そのために喪っては、何の意味もないではないか!

「ここに。お呼びですか?」

 ふっ、といきなり併走して現れた咲夜に、レミリアは急停止しつつ飛びつかんばかりの勢いで尋ねかけた。

「○○は! ○○はどこ!?」
「お嬢様?」
「どこにいるの、咲夜!」

 否定して欲しかった。何をそんなに慌てているのかと。慌てることなど何もないといって欲しかった。だが。

「お嬢様、もしやもうご存知で……?」

 足元が崩れるような感覚が襲う。では、それが事実とするなら、○○は、もう。

「咲夜、○○は……」
「今部屋に……お嬢様!」

 聞くが早いか、再び駆け出す。灰しか残っていないかもしれない。もう何もないかもしれない。
 でも、でも。この目で見るまでは信じたくなくて――
 大きな、壊れかねない勢いで、レミリアは彼の部屋の扉を開け放った。







「!? ……ああ、レミリアさんですか。おはようございます」
「な――――!?」
「…………? どうしました?」

 何事もなく普通に声をかけられて、今までの不安とか恐怖とか安堵とか怒りとかが綯い交ぜになって――

「――――っ!!」

 ――気が付いたときには、渾身のスピア・ザ・グングニルを彼に向かって放っていた。







「……で、どういうことか、状況把握と説明から入りましょうか」

 場所は図書館。部屋は先ほどの騒動で見ていられないことになったので場所を移した。
 レミリアがそっぽを向いたままなので、必然的に尋ねるのはパチュリーの役目になっている。

「はあ、まあ、聞いてのとおりなのですが……」

 咲夜が入れた紅茶を、どうも、と受け取りながら、彼は話し出した。



 少し寝ただけで、目が覚めてしまった。

「ん、天気は良さそう、かな」

 ふらりと部屋の外に出て、外がもう朝だと確認して、ぼんやり歩きながら、館の正面玄関を押し開けた。
 自分が吸血鬼になったことを、忘れていたつもりではなかったけれど。
 何かに突き動かされるように外に出て、陽が、自分を照らすのを見て。
 何も起こらなかったから、ついそのまま表に出て、陽を浴びてしまったのだった。



「何も起こらなかった?」
「はい。陽を浴びても、僕には何の変化もありませんでした」



 ともかく、不思議に思いながら朝日を浴びていた所を、もうすでに仕事についていた美鈴に見つかってしまい。
 何故なのか、という問いもそこそこに、慌てた彼女から咲夜に連絡が行って、部屋で待機を命じられた。
 手持ち無沙汰にぼーっとしていると、レミリアが飛び込んできた、というわけであった。



「……陽の光が、問題ではない? そんな吸血鬼なんて……」
「変ですよねえ」

 首を傾げるパチュリーに、○○もうんうんと頷く。

「でも、今から行ってもいいくらい、です。証明、出来ます」
「……そうね。いいかしら、レミィ」
「…………ええ」

 きゅっとレミリアが膝の辺りで手を強く握り締めたのを、パチュリーは見て見ぬ振りをした。



 結果は全くの同じであった。
 彼は陽光をものともしていなかったし、全身に浴びても無傷であった。
 むしろそれを見るレミリアの方が、とても不安そうに見えたのは、きっと見間違いではない。



 図書館に戻ってきて、パチュリーが口を開いた。

「確かね。まあ、全く無反応、というわけにはいかなかったみたいだけど」
「ですか?」
「ええ。少しは消耗しているはずよ。それでも、人間より少し多いくらい、だろうけど……」

 少し考えて、パチュリーは小悪魔に何かを言いつけた。

「いろいろ確かめてみましょう」
「はい?」
「まずはこれね」

 小悪魔が持ってきたのは一つの枡。その中に入っている物をみて、レミリアが一歩下がった。

「大豆?」
「掴んでみて」
「あ、はい」
「あ、ちょっと……!」

 レミリアの制止は少し遅く、いきなり大豆を鷲掴みにした彼の手から、しゅうしゅうと蒸気が昇っていた。


 彼の口から漏れたのが絶叫でなかったのは、よく耐えたとしか言いようが無い。


 その後も、幾つか苦手なものに対しての耐性があるかどうか、確かめる作業もとい実験が行われた。

「ふむ、どうも陽光だけみたいね、強い耐性があるのは」
「……雨が本当に苦手なんだと身を持って感じることになるとは思いませんでした」
「それでも、レミィ達ほどではないのねえ。面白いわね」

 すっかり知識人モードに入ってしまったパチュリーに、○○は深々とため息をついた。
 手には包帯。炒った大豆を思い切り握り締めた結果である。その手を取って、レミリアが尋ねた。

「手は大丈夫?」
「ええ、はい。治りが遅いですけど」
「私も大豆の火傷は少し治りが遅かった記憶があるからそれはわかるんだけど。少し遅すぎないかと聞いてるの」
「どうなんでしょう……あまり意識してないもので」

 手を取って心配している図は微笑ましいものがあるが、とりあえずここは図書館である。
 こほん、とパチュリーの咳払いに、レミリアは気がついて手を離す。
 どうやら無意識だったらしい、と見て、パチュリーはからかうように微笑んだ。

「そういうことは後で二人のときにやってもらえるかしら?」
「ほっといてよ。で、パチェとしての見方はどうなの? ○○に何が起こってる?」
「まあ、たぶんデイウォーカーになったのだと思うわ。陽光を克服した吸血鬼」
「随分あっさりととんでもないこと言うのね」
「それ以外に言いようが無いもの。推測だけど、力がほとんどないのはその所為だと考えられるわね。

 陽光を克服できている代償。だから○○さんは、それこそ並の妖怪以下の力しかない」
 淡々と述べるパチュリーに、レミリアは思わずと言う様子で呟いた。

「何それ。それじゃあ、人間だった頃とほとんど変わらないじゃない」
「そうね。まだいろいろ調べないとわからないけど……」
「…………パチェ」

 何かに気がついたレミリアの様子に、パチュリーは頷いてやった。

「レミリアさん?」
「………………私が望んだからなの、パチェ」

 静かな確認の言葉に、パチュリーもまた静かに返す。

「可能性の一つよ、レミィ」

 レミリアが、○○を強く想うがあまりに、彼の運命を操作したと言う可能性。
 人間であったときのように、日中の行動を制限されないで欲しいと。
 吸血鬼となって、自分の傍でずっと一緒に居て欲しいと。
 双方の想いを、レミリア自身が叶えた形になったという、あくまでも可能性。

「まだわからないわ。でも、それはそれでとても幻想郷的よね」
「確かに、そうかもしれませんね」
「○○まで……」
「レミリアさんがそうであれと望んでくれたなら、僕にとっては何よりも嬉しいです」

 柔らかく笑んで、彼はそう告げた。少し照れたように戸惑った後、レミリアも微笑みを返す。

「……だから、そういうことは二人のときにやってと言ってるでしょう」

 やれやれと苦笑して、パチュリーは本を閉じた。

「とりあえず、一つの疑問は解決したし、今日はもう二人とも休んだ方が良いわね」
「そうね。私はともかく、○○がね」
「お手数かけます」

 頷いた二人に、パチュリーもまた頷き返して、図書館から出て行くのを見送る。
 とにかく、時間は十分にあるのだ。ゆっくり調べていけばいいし、レミリアももう焦ることは無いだろう。
 とりあえず今は。

「ああ、小悪魔。珈琲を一杯もらえるかしら」
「あ、はい。砂糖とミルクはどういたします?」
「今日はブラックで良いわ。甘いのは今は十分だから」




 簡単に湯を浴み――流水でなければ大丈夫らしいことも知った後。
 寝る前に紅茶を一杯、ということで、○○はレミリアと一緒に、彼女の部屋で紅茶を啜っていた。

「デイウォーカー、ですか。不思議なものですね」
「不思議なことは不思議よね」

 レミリアは椅子に座って、真正面の彼に頷いて見せた。

「まあでも、これで幾らかはっきりしたわね」
「ですねえ。まあ、力がないのは本当に申し訳なく思いますが」
「それはいくらでも鍛えようがあるじゃない」

 他愛ない話をする中、ふとレミリアが立ち上がり、○○の傍に来てその頬に手を触れた。

「……貴方は、ここにいるわよね」
「? はい」
「確かよね。私は、夢を見ているのではないのよね」

 不安そうな瞳で、レミリアは○○に抱きついた。

「貴方が灰になってしまったのを見て、そのまま逃げるように眠りについているのではないわよね」
「ええ、大丈夫です。僕はここにいますよ」

 きゅ、と強く彼の服を握る手に、そっと手を重ねる。

「……うん、貴方の鼓動が聞こえる。貴方はここにいる」
「ええ。ほら、こうすることも出来る」

 抱きしめ返すと、少し安心したように身体のこわばりが解ける。
 そのまま、擦り寄るように身を寄せて、彼女が呟いた。

「…………もう、あんなことはしないで」
「……はい」
「……わかっているでしょう。かつて私が何を恐れたか」

 彼は頷いた。そうだ、そうだった。
 自分が死に掛けたとき、彼女は陽が落ちてないにも関わらず、紅魔館を飛び出そうとしたと、聞いた。
 今更ながらに、阿呆なことをしたとは思う。けれど、話していない部分に、確信はあったのだ。


 本当は、話の中で一つだけ省いたことがあるのだ。
 廊下を歩いていたとき、ふとカーテンが揺れているのを見て、それに近付いて――右手に陽を浴びたことを。
 そして、とっさに引っ込めた手に何も異常がないことを、すでに確かめてあったことを。
 少し、その窓のところで自分の身が、太陽に対して大丈夫であることを確かめ、その上で外に出たことを――

 無論、見つかってしまったのは予想外だったけど。
 いつか話すときは来るだろうけれど、今の彼女に話すことは出来なかった。
 自分の腕の中で、微かに震えている彼女に、そんなことは伝えられなかった。








 不安だったとどうして言えようか。
 互いに、想いが変わってしまっていたらどうしようかと、そう思っていたことなど。
 自分が愛されているかどうかが不安になっていたと、どうして言えるだろうか。

 だから彼女は、彼の存在と想いが変わらないかどうか、確かめたいと焦った。
 だから彼は、自身を危険に晒して彼女の想いを確かめるような行為をしてしまった。

 互いを想い合うが故に、少し臆病になっていた恋心は、ようやく彼女達の中で本来の形を取り戻していた。









 結局、部屋は一、二刻でどうなるものでもなく、仕方なしに別の部屋に入って寝る、はずだった。

「……あの、僕はここにいていいんでしょうか」
「……いいのよ。私がいいって言ったんだから」

 だが、彼がいるのはまだレミリアの部屋だった。
 それは、レミリアに命じられてのことだったから、そこには問題は無いのだけれど。

「まあ、うん、そうなんですけど」

 彼にとっての問題はそこではなく、ベッドに腰掛けている自分とベッドの上に座っている恋人の距離、だった。
 この部屋で休む、ということはわかっているのだが、この微妙な距離がどうしても気になる。

「……僕がここで寝るのが気になるなら、ソファを貸してもらいますけど」
「……駄目」

 立ち上がろうとすると、服の端を引っ張られる。どうしたものか。
 何となく落ち着かない気分のままで、○○はレミリアに尋ねかける。

「……僕はどうしたらいいでしょうか?」
「……好きに、していいわよ」
「いえ、そうでなくて」

 少し考えて、レミリアの方に向き直る。

「えと、このままだと全く状況が動かないので。寝るにしてもどうしたものかなあ、と思いまして」
「……○○の好きにしていい」

 ぼそ、と呟く声に、逆に困惑して――気が付いた。

「レミリアさん?」

 頬に手を当てて自分の方を向かせる。顔が紅い。そして目を逸らしてこちらに合わせてくれない。

「……顔が紅いですが」
「煩い」

 間抜けなことを言ったなと思いつつ、レミリアの顔を真正面から覗きこむ。

「流石に、言われないとわからないです。朴念仁なのはわかっているのですが」
「……自分で言ってれば世話は無いわね」

 ため息をついて、紅い顔のまま、レミリアは囁くように呟いた。

「だって……そう、なんでしょ?」
「何が?」
「その、恋人同士が、一緒に寝る、ってこと、は」

 珍しく歯切れの悪い言葉に何が言いたいのか一瞬わからず、わかった瞬間、○○は脱力した。

「……誰に聞きましたかというか何からそういう情報を」
「あ、えと、本とか、から」

 一体何の本を置いてるんだ、と思うが、まあ仕方が無いのかもしれない。
 凄まじく生物学的に男女の仲を書いて居てもおかしくない本もある気がする。

「だから、その。○○の、好きにして良いのよ?」
「ちょっと、ちょっと待った、待ってください。どうしてそうなるんですか」
「だって、私の我儘だったもの」

 ○○の手に自分の手を重ねて、レミリアは言う。
                                
「私の我儘で、貴方は中途半端な吸血鬼になった。貴方の全てを、私が運命(さだ)めた」
「……それはむしろ、光栄なことですが」
「私だって、貴方の全てが私のものであるのは嬉しいわよ。でもね」

 こつり、と額に額を当ててくる。

「それでも、貴方とは対等で居たい部分もあるの。貴方は私の僕。貴方の全ては私のもの。だからこそ」

 レミリアは、○○が思わず見惚れるような微笑で、告げた。

「貴方の我儘を、貴方が望むものを、聞かせて頂戴。貴方の望むことを、私は何だって叶えてあげる」

「……それでは」

 ○○は手を伸ばして、レミリアを抱き寄せた。一瞬びくりとなったことに、少しだけ苦笑して。

「警戒しないで下さい」
「してないわよ」
「では……僕の願いは、唯一つ。貴女の傍に。貴女に、どこまでも伴わせてください。この存在の全てを」

 抱きすくめられたまま、レミリアは瞳を瞬かせていた。

「……そんなの、当たり前じゃないの」
「それでも。僕は本来届かぬ紅い月に手を伸ばした愚かな男です。その男の願いを叶えてくれると言うのなら」
「貴方が届かないと言うのなら、私がいくらでも引き上げるわよ。でもいいの? 絶対手は離されないわよ?」
「それを赦してくれるのならば、いや、それを赦してほしいと言うのが、僕の願いであり、我儘です」

 ○○の背中に小さな手が回る。抱きしめ返して、レミリアが応えた。

「赦す、赦すわ。だから、貴方は私の傍に居なさい。ずっと、ずっと。約束よ」
「ええ、約束です」

 少し身を離して二人で微笑い合って、ふと、柔らかな表情を○○は浮かべた。

「では、休みましょうか。もう陽が高いです」
「あ、ええ、その、えっと」
「別に、恋人同士だからって、絶対そうしなきゃいけないって決まりはないですよ」

 レミリアに腕枕をするような形で横になる。少し紅くなって、戸惑っている彼女の髪を軽く梳いた。

「いきなり、変なことしたりしませんから。安心して」
「……うん。でも」
「こうしているだけで幸せなんですから」

 そっと抱き寄せると、レミリアの身体の強張りも解けた。

「うん……○○の鼓動が聞こえる。いいわね、こういうのも」
「ええ」

 すっかり安心して目を閉じたレミリアに、少し安堵の息をついて、○○も瞼を閉じた。






 月に伴い、月と歩む。
 紅き月に焦がれた人間。人間に恋した紅き月。
 二人の出逢いはここで終わり、二人の物語はここから始まる。
 それはまた、別の話となるのだろうが――










 それはしばらくの後の話。
 館の主とデイウォーカーの青年が下がった後の、テラスでのお茶会の話。

「ふむふむ、良い記事に出来そうですねえ」

 満足気に、一人の鴉天狗が魔女の話をまとめていた。
 隣では礼儀正しく、メイド長が二人のカップに紅茶のお代わりを注いでいる。

「まあ、これで記事にできるような内容は全部ですかね」
「あら、これで終わりと本当に思うのかしら?」
「おや、まだあるのですか?」
「今はここまで。でも、彼女達にはまだ『これから』があるのよ?」
「それこそ『永遠に』ですか」

 咲夜の言葉に、パチュリーは、そうね、と頷いた。

「それではさしずめ、これは『始まりの終わり』というところですか」
「あら、貴女もたまには奇を衒うのね」
「表現力も新聞の魅力ですよ。それではまた。これからも『文々。新聞』をご贔屓に!」

 文が疾風と共に空に舞い上がっていったのを見送って、さて、とパチュリーも席を立った。

「私は図書館に戻るわ。後で紅茶をまたお願いね」
「はい、わかりました」

 館の中に戻りながら、パチュリーは親友達のことをもう一度考え、くすりと微笑った。

「本当に、退屈しない日々になりそうよね」

 レミィ、幸せになりなさい。無意識にずっと館の主として気を張っていた貴女にも、そういう存在が居ても良いと思うわ。

 親友の幸せを心の中で言祝ぎながら、知識の魔女は自らの図書館へと戻っていった。







──────────
後日談


 それはちょっとした後日談。後日談ともいえない後日談。



 あの後、結局一週間に半分程度、○○は自室で休むようになっていた。
 あれからすぐに、再び自分の部屋を用立ててもらっていたのだ。
 それに関しての、ちょっとした話。




「レミィ、随分と不機嫌そうだけど、また○○さんと何かあったの?」
「また、って何よ。別にないわよ」
「じゃあ質問を変えるわ。何が不満なの?」

 パチュリーの問いに、むー、とレミリアはテーブルに腕を伸ばす。

「○○、昼間も動けるってわかったから、二日に一度は里に出るのよ」
「ああ、前みたいに手伝いしてるのね」
「うん。稼いだ分は家賃みたいなものだ、って。別に良いのに」
「……で? 問題はそこじゃないのよね?」
「ん……だから、そのときは自分の部屋で寝ちゃうのよ」

 ああ、とパチュリーも納得する。同時に、言いたいことにも気が付いて呆れたように親友を眺めた。

「……それはつまり、一緒に寝てくれないから嫌、ってこと?」
「……だって、一緒に居たいもの」

 素直なのが良いことなのかどうかは判断が付きにくくなってきた気がする。最近特に。

「……本人に訊いたら?」
「訊いたわよ。『僕が起きたら起きちゃうでしょう?』って。それはそうだけど」
「まあ、道理よね」
「むー……でも……」
「はいはい、訊いておけばいいのね」

 唸るレミリアに一つため息をついて、パチュリーは当人が帰って来た後にとりあえず尋ねておくことにした。




「……って聞いたんだけど」
「あー、はい。そうですよ。起こしては悪いでしょう」

 微笑する彼に、パチュリーはなおも尋ねる。

「それはいいんだけど。何でも、少し切羽詰った様子で咲夜に部屋を頼んだらしいわね?」
「あ、えーと」
「レミィには口止めしたみたいだけど。訊いてみてもいいかしら?」
「う……それ答えなきゃいけないですか?」
「出来れば、ね」

 唸って、テーブルに突っ伏した彼の言葉を、パチュリーは何となしに待つ。

「……だって、持たないんですよ」
「?」
「あんなに無防備に寝られてたら、理性とか何とか、持たないです……」

 突っ伏したまま、ぼそぼそと呟く彼の言葉を聞き取って、パチュリーは素直に呆れた。

「レミリアさんには内緒ですよ?」
「念押されなくても言わないわよ」

 全く、とため息をつく。
 本当に退屈はしなくなったが、この甘ったるいのだけはどうにかならないものか。
 ならないわね、と心の中でもう一度息をつく。

「……レミリアさん、何か言ってたんですか?」
「それを正直に言うつもりが無いなら、訊かないことね」
「……そうします。うーん、しかし不満に思われてるのか……」
「………………もう勝手にやってて頂戴。私は関知しないから」

 彼の言葉を聞き流して、パチュリーは珈琲を口に運んだ。

 どうやら、砂糖の消費量はこれまでよりも確実に少なくなりそうね。

 それは言葉にせず、さてどうやって親友に報告したものかと、パチュリーは考え始めることにした。







 結局、○○は前と変わらず、二日に一度レミリアの部屋で休んでいるらしい。

「納得したの、レミィ?」
「納得はしてるわ。だからね、パチェ」
「?」
「私の部屋で寝てるから、○○は気にしてると思うのよ」
「まあ、そうでしょうね」
「だから、○○が自分の部屋で寝るときは、私がその部屋に行けば気にしなくて良いと思わない?」
「…………まあ、私はもう何も言わないわ」

 軽くため息をつき、パチュリーは静かに本を閉じた。
 彼の努力が近い将来、徒労になることを予見しながら――




うpろだ1200、1224、1244、1250

───────────────────────────────────────────────────────────
最終更新:2010年05月23日 08:53