二人の馴れ初めは妖怪、八雲紫が人間である○○に恋をし、○○もそれを受け入れたことから始まった。
 その話を耳にしたとき、私は外から来た人間には変わった奴もいるものだなと思ったものだ。
 紫様の外見に騙くらかされたのだとしても、妖怪と恋人になろうなどかなりの変人としか言い様がないからだ。


 紫様が人間の恋人を得たという話を耳にした幻想郷の住人の反応は様々だった。
 ブン屋は置いておくとして。

 博麗の巫女のように、二人の仲を気のない様子で受け流す者もいた。

 黒白の魔法使いのように『突撃一番』と銘打たれたブツを渡してきて冷やかす者もいた。

 酔いどれ鬼のようにこりゃ目出度いと言って宴会を開く者もいた。



 ――兎にも角にも、紫様を知る者は程度の大小はあるものの、皆二人の仲を祝福した。



 だが、祝福する一方で(私を含めて)皆、そう長続きしないだろうとどこかで思っていた。
 僻みでもやっかみでもなく(全くないとは言い切れないが)、常識的に考えればそうなるはず。
 何故ならば二人の間には、妖怪と人間という問題が横たわっているからだ。

 この落差はそんじょそこらの落差とは訳が違う。
 長く付き合うということは、色々なものが見えてくるわけで。
 好きな部分だけでなく嫌な部分まで見せつけ合うことになるのが、人付き合いというものだ。
 同属の人間同士ですらその差異を認める合うことが難しいというのに、ましてや二人は種族からして違う人と妖。
 これを互いが受け容れるというのは、博麗の巫女のような懐の深さでもない限り無茶な話なのである。

 ゆえに、長続きはしないだろうと思っていた。





 ところがどっこい。


 相性がよかったのか(夜のお話も含めて)趣味嗜好が合ったのか、二人の付き合いはなんと三年以上も続いた。
 友人としての付き合いを含めればもっと長くなるかもしれない。
 人間との恋愛関係が年単位で続いたのには、紫様のことを知る幻想郷の者たちは驚きを隠せなかった。

 そしてその日彼が落とした爆弾に、その場に居合わせた者は衝撃を受けずにはいられなかった。


 今回は当時のことを少しだけ振り返ってみたい。



 時期は二人の仲が周囲に認知され、それが当然であると思われるようになった頃。
 場所は博麗神社。春先の花見の宴会の席。
 辺りには夕闇の帳が下り、宴は酣ではないが、皆それなりに酔いが回り始めていた。
 紫様も冬眠から目覚められたばかりで、久方振りに会う友人たちと旧交を温めておられた。
 彼が動いたのはそんな時だった。

 彼が口にした言葉それ自体は、ひどく簡単なものだった。

「結婚しよう。俺の子を生んでくれ」

 うん。後になって思い出しても、聞いているこちらが赤面したくなるような台詞だ。

 彼のプロポーズの言葉を耳にした瞬間、アルコール性の噴水があちこちで上がった。
 ○○の奴め。公衆の面前でなんつーことを口にするか。

 それにしても紫様がはしたなく酒を噴き出すところなんて、初めて見たんじゃなかろうか。
 気管に酒が少し入ったのか、主はしばらくむせていた。
 その間○○は普段とは違って、少し緊張した真剣な面持ちで紫様の返答を待っていた。
 で、漸く発作が治まったところで紫様が顔を上げると、そこに熱っぽく見つめてくる○○を見つけたわけだ。
 そこからの紫様の百面相はかなり見物だった。

 彼の視線に戸惑い、所在無く視線を彷徨わせる。
 さらに先程言われた台詞を思い出し、見る見るうちに顔を林檎のように真っ赤にしていった。
 この時の紫様の様子を知りたければ、『文文。新聞~アナタの心のスキマ特集号~』を読むことをお勧めする。
 ちなみに○○はこの特集号を二部購入したらしい。
 レイドがどうのこうのとよく分からないことを言っていた。


 零した口元のお酒を拭き取り、何とか体裁を整えた紫様はいつもの胡散臭い笑みを浮かべて返答した。

「私のような者を欲しいと言って頂きましてありがとうございます。
 ですが、今ここでの返答は、余計な人目もありますので差し控えさせていただきますわ」

 この場は酒の席ということで○○への返答を保留――というか、はぐらかした。
 確かに酒の勢いに任せて言うべき台詞ではない。
 続いて紫様は艶っぽく微笑まれると、ご自身の隣の席をポンポンと叩いて○○を招き寄せる。

「それよりも今宵は久し振りに一緒に飲みましょう」

 勢い込んでいた○○はそれだけで拍子抜けしたようで、小さく肩を落としたのが分かった。
 が、すぐに満面に笑みを浮かべて主の隣に腰を下ろした。
 この辺りの切り替えの早さも長続きの理由なのだろうな。
 というかこの程度でへこたれているようでは、紫様と年単位で付き合い続けられないのだろうが。
 ○○のプロポーズが空振りに終わったことを理解した観客たちは、興味を失いそれぞれの席に戻った。
 再び酒盛りが始まる。




 主が何故即答を避けたのか――
 私だけは具体的な理由を聞かされていたので、そうする意味を知っていた。


 ――思い出されるのはいつかの夕闇と朧月。

 月影と小魚の干物を肴にした八雲家の酒の席。
 最近の主な話題は幻想郷に関すること以外では○○のこと。
 そして女が男の話題をするとなると、女心を理解しない男への愚痴が出てくるのは当然のことだろう。
 ひとしきり○○の足りないところをあげつらわれる。
 ここで一つ、気をつけねばならないことがあるので言っておこう。
 紫様は実際そこまで○○に対して不満がある訳ではない。
 奴のことを口実にしてストレスを発散しているだけなので、尻馬に乗って悪く言うと酷い目に遭うことになる。
 これは実体験に基く忠告である。

 それはともかく。
 彼の話題となれば、いつ二人は結婚するのかという話題になってくるのは当然のことだろう。
 それほど二人は仲睦まじく、それぞれを想い合っていた。

 私は○○が紫様との結婚を考えていることを知っていた。
 少し前に紫様はプロポーズを受け入れてくれるだろうかと、彼に相談されていたからだ。
 今回のことに限らず、私は主の趣味嗜好の調査から喧嘩の仲裁まで彼の様々なことの相談に乗っていた。
 これはそうした方が二人の絆になると判断したが故だ。
 相談した結果、上手くいったこともあればそうでなかったこともあった。
 どちらにしても二人の大切な思い出となるので、私としては文句はない。
 むしろそういった強烈な思い出があった方が、二人の結びつきも強くなるというものだ。

 ただ、問題があるとすれば、だ。
 ○○との相談を終えて帰宅すると、紫様が無言でなじるような視線を送ってくることだろう。

 これは私が相談に乗っていることが気に食わないからではない。
 理由は相談に乗っているのが自分の式の八雲藍であること。
 そして自分以外に○○と時を共有する『女』がいるというのが気に食わないのだろう。
 理性では私が相談に乗ることで○○が動き、結果二人の絆が深まっていくということは理解できる。
 理解できるが故に、何も言わない。
 けれども感情は○○の全てを独占できないことが妬ましい。
 故に嫉妬に満ちた視線が私に突き刺さってくるのだ。

 この辺りの感覚は男である○○には理解できない領域であるのだそうな。
 ヤキモチを妬くなら、そういう行動を取っている自分に向けるべきだろうにと言っていた。
 それに対し、私はそれは男の感性だと感想を述べておくに留めた。

 ちなみに○○が持ちかけた相談事を無視してはいけない。
 そんなことをすれば、今度は主より気の利かない式だと躾けられることになるからだ。


 話を戻そう。
 聞いてみると○○が悩んでいるのは時期の問題であって、するしないの問題ではなかった。
 紫様も彼が結婚の二文字について真剣に考えていることに気づいていらっしゃった。
 そこに紫様の苦悩があった。

 月を見上げ、盃を傾けながら紫様はぽつりと漏らされた。

「――彼と共に老いていけない。
 必ず彼が先に逝ってしまう。そのことが何よりつらいの。
 ふふっ。おかしいわね。
 八雲紫ともあろう者が、たった一人の人間にここまで入れ込んでしまうだなんて」

 でも個人的な理由としては躊躇うには十分な理由でしょう、と笑われた。
 何故かそれが私には主が泣いているように見えた。

 私は何も言わなかった。否、言えなかった。
 確かに私は二人の絆を深める為の後押しの手伝いはした。
 いま一つ恋に本気になっていない○○を焚きつける努力もした。
 その為に相談に乗ったり、逢引の演出を考えたといっても過言ではないだろう。
 その結果二人して燃え上がって、夜の『はなれ』が凄いことになっちゃったりしたが。
 ちょっとだけ後悔した。

 ともあれ、所詮は恋の火遊び。
 一過性のものと思っていたが故に、私も応援していたのだ。
 それがよもや添い遂げたいとまで思うようになっていらっしゃったとは。
 これは私も予想だにしなかったことだった。

 しかしである。
 疑問が浮かぶ。
 そんなに別れるのが嫌なのであれば、御自身で動かれればよいはず。
 境界を操る程度の能力を持つ紫様ならば、○○の寿命を延ばすことなど容易いことだろうに。
 例えば妖怪に堕としてみるとか、式にしてしまうとか。
 そのことを訊ねてみると、紫様はクッと口の端を上げて笑った。

「そうね、藍。それが一番楽な方法よね」

 僅かに欠けた月を見上げる。釣られて私も主と同じものを見た。
 紫様は短い言葉で私の提案を拒否した。

「――でも無理。
 ちょっとシリアスな理由で彼は私の境界を操る能力を受け付けないの。
 勿論『私の能力を受け付けない』という意味から弄くればどうにでもなるけど」

 初耳だった。
 ○○は絵が上手いことと言動の怪しさ以外には、何の変哲もないごく普通の人間だとばかり思っていた。

「それにね……」

 私の内心の驚きに気づいていない紫様は続ける。
 少し頬を桜色に染めて。軽く目を閉じて。

「……そんな変なところがある人間の彼が好きなの。
 あのままの彼がいいの。彼じゃなきゃ嫌なの」

 驚きが吹き飛んだといおうか、原点に回帰したといおうか。
 はいはいご馳走様です。
 あー。砂糖吐きそう。


 以上のことを踏まえてとりあえず現状を纏めてみる。
 ○○は紫様と結婚がしたい。
 紫様は○○との結婚を考えていない。
 理由は○○の寿命。そして御自身の不老性。
 ただし恋人としての○○を手放す気はない。
 結局のところ紫様御自身が結婚への決心がつかないというのなら、その辺を何とかすべきなのだろう。
 何をすればよいかは、私にはまだ思いつかなかったが。

 そんなことを考えつつ、私は端の方でお二方が仲良く酌み交わしている姿を眺めていた。
 主たちが仲睦まじくしている光景を眺めるのは、非常に眼福なのだ。
 たとえそのせいで二人に中てられたみなしご共の機嫌が、斜めを通り越して垂直になろうとも。
 あちこちで相手のいない少女たちが自棄酒をかっ食らっていた。
 わずかにいる人生の勝利者たちが紫様たち以上に仲良さげなのも、ダメージの一因だろう。
 というかそこの人形遣いに黒白、嫉妬で人が殺せたらとか呻くんじゃない。

 それらを視界から外して私は二人の会話に耳を傾けた。

「……おや、杯が空いてるじゃないか。ささ、どうぞ」
「あら、ありがとう。でも、○○ったら何だかさっきから注いでばかりで飲んでないんじゃないかしら?」
「ん? 俺も飲んでるぞ。ほれ」
「そうかしら?」
「応ともよ」

 とか何とか言いつつ、○○は自分の盃を傾けずに紫様の盃に酒を注いでばかりいる。
 傍から見ていれば、明らかに○○はほとんど飲んでいないのが分かる。
 紫様はそれ以上何もおっしゃられず、酒が注がれると機械的に盃を傾けておられた。
 そしていつの頃からか酒が注がれている間、紫様はとろんとした眼で○○の顔を眺めるようになっていた。
 しばらくしてやっと見つめられていることに気づいた○○は、うろたえた様子で紫様の顔を見やった。
 視線が合ったのだろう。紫様が蕩けるような表情で微笑んだ。


 ――って……。


 次の瞬間、どぉぉっと唸るような歓声が上がった。

 紫様が○○の首に腕を絡めると、公衆の面前でいきなりキスをし始めたからだ。 
 というか、紫様、あんた一体何やってんですか。
 普段人目がある時は家でもしないような大胆な、というより破廉恥なことをしている主に私はドン引きだ。

「あー、あー、うわ、すっご」

 隣にいた博麗の巫女が頬をアルコール以外の理由で染めながら、興味津々に何やら呻いていた。
 まあ、彼女ぐらいの年頃の娘ならば興味がない方がおかしいので、何も言うつもりはないが。

 とまあ、ここまではいつもの博麗神社の宴会の風景だ。
 イチャついた果てのキス、というのは他のカップルでもやったことがあるし。
 最強の糖度は口と口を使っての酒の回し飲み。
 ……あれは凄かった。
 いやいや、そうじゃなくて。



 その時、みなしご共の中でも特に現状に逼迫感を持っている者たちが動いた。
 酒を片手にヒステリックに何やら喚き出す。
 纏めてみると要は『私らの目の前でイチャつくな。それはあてつけか? あぁん?』ということだな。
 酔っ払いのヒステリーほどはた迷惑なものはない。
 それに対し、文句を言われた勝ち組も酒が入っているからか、なかなかの反論をしていた。

 ちょっとだけ実況を中継してみる。
 一斉に発言しているため、少々聞き取りにくくなっているのはご容赦願いたい。


 大丈夫ですわいわい私皆の分まで幸せですからちょっとうどんげがやがやイナバそこに直りなさいわいわい
 もこもこもこもこくんなーがやがやあら咲夜その反抗的な目はなにわいわいうぬぬ可愛さ余って憎さ百倍が
 やがやこうなればお嬢様は私のものだということをわいわい身をもって教えて差し上げますがやがや水炊き
 唐揚鳥皮そぼろ綿飴わいわいちょっ何で私の所はこの面子なのがやがやダメです幽々子様それは私の半霊ー
 あやややお助けーわいわい丁度いいいつかその胸がもいでやろうと思っていたところだぜがやがや私も協力
 してあげるわいわいあらあらそんなものしか愛してくれない男を探すのねがやがやだからいつまで経っても
 相手が見つからないのですわいわいご愁傷様がやがや


 うむ。なかなかに混沌としているな。

 ちなみに私は騒ぎへの不参加組だ。
 何となく先が読めたし。

 口論はどんどんヒートアップしていく。
 周囲の不穏な空気に気づいた男たちは、いつでも戦えるように相方の傍でスペルカードを構える。
 ○○のみが半泣きで逃げ出そうとしていた。
 紫様に首根っこを抑えられていて、逃走は不可能のようだが。
 この間自身で言っていたように、ボス戦闘は逃走不可能なのだ。諦めろ○○。

 そうして――


『持つということの強さを思い知れ、みなしご共!』

『持たざる者の妬みの強さを思い知れ、色ボケ共!』


 こうして、どうしようもない理由で本日の弾幕ごっこが始まったのだった……。


 夜空に盛大に花開く弾幕、そしてスペルカード。
 以上がこの日の顛末である。



 ちなみにこの夜、最後に行なわれた弾幕ごっこは、それはそれは美しいものだったと記しておく。


 

─────────





 ○○が一人で八雲家を訪ねてくることはまずない。
 幾つか理由は幾つかある。
 まずは距離。
 ○○は人里、私たちはマヨヒガに住んでおり、簡単に行き来できるような距離にそれぞれの家がないのだ。

 これは当然だろう。
 理由その二になるが、依然妖怪とは『人を襲う』ものであり、人は『妖怪を退治』するものなのだ。
 いくら幻想郷の妖怪と人間の距離が変化してきたといっても、そこが変わったわけではない。
 勿論、個人同士で友誼を結ぶ等の例外はあるが、種族的なスタンスは変わっていないのが現状だ。

 故に、○○が人の中で生きるのであれば、無用な問題の回避の為にも私たちは離れて住んだ方がよかった。



 そもそも夜行性の紫様に逢うことを主目的にした場合、遅めの時間帯に来るのが最もよい。
 だが、そうすると○○が一人でマヨヒガに来るには――

 暗い夜道を歩いて来る。
 早く来て八雲家で待つ。

 この二択しかないわけだ。

 そしてここ幻想郷では、人間の夜の一人歩きはお勧めできない。
 何故なら夜は妖怪の時間であり、退魔の力を持つ者でなければその行動は容易に死に直結するのだから。


 ○○も幻想郷の夜を甘く見ていた最初の頃に酷い目に遭っており、その辺りは身を以って理解していた。
 木っ端とはいえ複数の妖怪に襲われて永遠亭送り一週間で済むあたり、○○の悪運の強さも大概だと思うが。
 永遠亭送りの原因がアレだし。
 この話はいつか笑い話にでもなったころにでも話そうと思う。


 そういうわけで、○○はマヨヒガに一人で来ることはない。
 というか紫様によって、単独での来訪は禁止されている状態である。



 現在、奴がマヨヒガに来るとなれば、私ないし紫様が直接迎えに行くことになっている。

 ちなみに紫様は当初はスキマを使って引っ張ってきたりしていたが、現在はほとんどその手は使用されていない。
 なんでも、スキマ経由で呼ぶ毎に妙な事態ばかりが起こるからなそうな。

 私が知っている物でも、女湯闖入騒動、成層圏からダイビング、幼児化事件……。

 確かに碌な事が起こっていない。
 今考えれば、これが紫様の言っていた『能力が効きにくい』ということなのだろう。
 当時は○○の変態性を補強する事件という程度にしか考えていなかったが。

 ……私の○○に対する認識が分かろうものだな。


 現在の紫様はよほどのことがない限り、私同様直接家に伺うようにしている。
 といっても紫様はほとんど○○を迎えに行ったりしないが。
 本格的に二人が付き合いだしてからは、私がマヨヒガまで連れて来るのが大半である。
 彼の家ないし待ち合わせ場所まで迎えに行き、道中の道案内と護衛をすることになっている。





 そんなことを考えている内に私はとある一軒家に到着した。
 里の外れという立地条件の悪さを除けば、ごく普通の家だった。
 特に何かで結界しているわけでもなく、みすぼらしいあばら屋という訳でもない。

 これが○○の住んでいる家だ。

 本当にどこにでもある平屋だった。
 まあ、長屋ではなく一軒家に住む程度には裕福ではあるのだろうが。

 家の傍まで来ると、私は玄関の戸を叩かずに裏手に回った。
 ○○の仕事柄、家に里の人間がやってくることがあり、そいつらと出くわすのは拙いからだ。
 ただでさえ私と○○の仲を誤解する者が後を絶たないのだし。

 私と奴の関係は友人同士のそれであって、決して恋愛感情はもっていない。

 そのことを互いに理解していても、周囲が納得していなければそういった話はなくならないのだ。
 私は噂の一人歩きというものの恐ろしさを身をもって体験していた。



 以前、『○○の家には通い妻が二人いる』と妙な噂を立てられて大変だったのだ。
 勿論この『二人の通い妻』の一人は紫様である。
 ではもう一人は?
 あー……もうお分かりだろう? そう、もう一人は私らしいのだ。
 何たること!
 私と○○はそんな甘やかな関係ではないというのに!
 まあ、私が不注意にも奴の家に入るのに、人の目に付く表から出入りしていたというのも悪かったのだが。
 他にも里の人間が○○の家にいるにも関わらず、気にせずに訪ねたのも悪かったのだろう。

 ――で。お約束通りそれが紫様の耳に入り、嫉妬に狂った彼女に追われることとなったのだった。
 一晩中○○と一緒に幻想郷中を逃げ回ったことは、今ではすっかり私のトラウマだ。


 ちなみにその騒ぎが終局したのは、やはり○○お蔭だ。


 最終局面――

 あと僅かで日が昇るという頃、ついに紫様の展開する結界に捕捉されてしまう私たち。
 オニのような量の弾幕の豪雨。
 そんな中、私の護りから抜け出し、無謀にもその身を曝す○○。
 ○○は身体のあちこちが削られるのにも構わず、紫様の前に仁王立ちする。


 東の空がかすかに白み始める中――

 ○○は何かを決意した表情で見上げる。
 そして魂の限りを以って叫んだ。

「紫ぃぃっ!」

 その姿を、声を認識した途端に、あれほど猛威を奮っていた弾幕の嵐がひと時止んだ。
 紫様が○○を傷つけまいと、反射的に弾幕を緩めたのだ。
 否、ひょっとしたら彼の勢いに呑まれていたのやもしれない。

「俺は、お前に前から言いたいことがあるんだ。聞いてくれ」
「ふんだ。何よ。浮気男」

 紫様のなじるような視線をものともせずに、○○は言葉を重ねた。

「俺たちの最初の出会いを覚えているか?」
「知らないわよ」
「――そうか。あれは褌一丁で紫がラジオ体操をぐはっ……!」
「ぶふ~~~ッ」


 な に デ マ を 流 し て い る か !!

 ○○のとんでもない発言に息を噴出す紫様。
 思わず私は○○の後頭部を叩いていた。
 あの場に鴉天狗がいなくて本当によかった。いればどんな記事になったことか。

 ともあれ。二人は思い出を重ねあう。

「……3回目のデートは月の綺麗な晩だったわね。地上は雨が降ってたけど」
「首から上だけ高度8千メートルというのは、なかなか得がたい経験だったな」

 そんなことしてたのか、あんたら。

「確か俺たちのキスはこの時が初めてだったっけ?」
「……フンだ。ファーストキスじゃなくて、ごめんあそばせ」
「なに、俺も紫もお互いに対してはファーストキスだ。それでいいだろ」
「うっ。そ、そんなおためごかしで騙されると……」
「ちなみに、それ以降は俺の心はずっと紫のものだ」
「ッ!? ……バカ」

 紫様は顔を羞恥で真っ赤にした。
 ……ああ、紫様の負けだな。
 私は何故かそんなことを思った。
 ○○のペースに巻き込まれた時点で、紫様の負けが確定したわけだが。
 ○○はここで攻撃の手を緩めるような男ではなかった。
 寧ろ畳み掛けるようにして攻めるのが、奴の常套手段だ。


「だから、俺はこんなこと、お前にしか言わない。言いたくない」

 奴は大きく息を吸うと――



「紫。俺は……俺はお前が好きだ! お前が欲しいぃぃぃっ!!」
「○○~~~ッ!」


 こうして二人の痴話喧嘩は周囲に多大な被害を振りまきつつも、日の出と共に無事終焉したのだった。

 後日、何故あんな恥ずかしい告白をしたのか訊いてみた。
 すると、一言。

「一度言ってみたかった」

 だそうな。
 ……アホだ。ここにアホがいる。



 ともあれ。
 以後、私は○○の家には、裏手からこっそりと入ることにしていた。
 そしてこっそりと縁側から中を窺い、里の人間がいないことを確かめてから上がるようにしていた。

 物干し竿に吊るされた洗濯物が、風に煽られバタバタとはためく中を掻き分けて奥へと進む。
 すぐに○○の姿が目に入ってきた。
 幸い今日は人間はいないようだ。




 ○○は机に向かって紙に何かを書いていた。どうやら仕事中だったようだな。
 邪魔をするぞ、と断ってから縁側から家に上がる。
 そこで○○は私の来訪に気づいた。

「や。藍さん」

 鉛筆を置いて○○が人懐っこい笑顔を向けてきた。
 私も笑顔で挨拶を返す。


 ○○の描いていた絵をチラと覗き見る。
 私は少しだけ表情を曇らせた。
 奴が描いていたのは、最近幻想郷で流行り始めた『漫画』なる黄表紙だったからだ。
 というか、奴が幻想郷に『漫画』を持ち込んだのであるが。

 現在奴が描いているのは、「脱衣」の掛け声と同時に変身する英雄譚だ。
 本人はリメイクだと言っているが、私はこんな話をついぞ見聞きしたことはなかった。

 里の少年たちには大人気。
 里のハクタクや親御たちには大顰蹙な作品といえば、どんなものかお分かり頂けるだろう。
 以前私も稲荷寿司ネタで泣いたことがある。

 『新説・永夜事変』という作品で、紫様と博麗の巫女を美しく、かつ格好良く描いたのと同一作者とはとても思えないぞ。







 気を取り直して、私は部屋の片付けをすることにした。
 ○○も掃除をしていないというわけではないのだが、如何せんやっていることが大雑把なのだ。
 角をきちんと揃えて立てるだけでも大違いなのにな。
 というわけで、○○の仕事が一区切りするまで、資料の整理をして暇を潰すことにした。


 霊異記に風土記に神仙伝……一体どこで使用するのやら。
 しかも前来た時より増えてるし。
 節操なく読んでいる○○に少し呆れながら、私は種類ごとに揃えて棚にしまっていく。


 ……む。棚の隙間にエロ本発見。
 紫様というお方がいるのに、他の女に目移りするとは何事、とは思わない。思わないったら思わない。

 まあ、○○も男だということだな。
 よし。これも種類ごとに分けておくとするか。
 分かり易く棚の前に置いておいて、と。

 うむ。こんなものかな。
 いやぁ、ひと仕事をした後の汗はよいものだ。 


 そこへ仕事に区切りをつけたのか、○○がやってきた。

「藍さん? ああ、ここにいた。
 お茶淹れたから、一緒にどう?」

 うん? そうか、ありがとう。今行くよ。

「本の資料の片付けをしてくれたのか。ありがとう。助かったよ」

 親しき仲にも礼儀あり。
 ○○はこのあたりの礼儀はきちんとしているいい奴だ。
 私はそれに対して朗らかに笑って礼を受け取った。

 このくらいどうということはないよ。
 まあ、本来なら自分で整理するのが一番なんだがな。
 後で、○○もどこに何があるのかを確認しておくがいい。

「あいよ」

 ○○は軽く返事をした。
 まったく。返事だけは潔いな。
 ○○は整理したものをざっと確認するために入れ違いに書斎に入ったのを尻目に、私はその場を後にした。



 私は苦笑しつつ○○の脇を通り過ぎて、縁側に向かうことにした。
 ○○が茶を用意したということは、だいたいそこにあるということを私は経験則で知っていた。


 お茶は予想通り縁側に二人分置かれていた。
 ほんのりと湯気の立つ湯飲みとお茶請けが並んでいた。
 お、今日の茶菓子は芋羊羹か。

 私はいそいそと座布団を敷くとそこに腰掛け、早速お茶請けを戴くことにした。
 楊枝で芋羊羹を切り分け、口に放り込む。
 お芋の香りと程よい甘みが口の中に広がるこの幸福。
 お茶をひと啜り。


 …………ふむ。そろそろかな?

 と、その時――

「ギャーッ!? 藍さんのアホ~~~ッ!」

 書斎から○○の悲鳴が聞こえてきた。
 ふぅ。甘露甘露。




─────────




 ――おそらく、私たちの転機はこの日だったのだろう。
 後になって、私はそう感じることがある。




 私は茶をすすりながら、○○との雑談を楽しんでいた。
 私と○○の仲は、親友といっても過言ではないと思う。
 それぞれ『恋人』と『式』という立場の差はあれど、紫様を慕う心は共通している。
 故に、そのことを理解している私たちが、険悪には成りようがなかった。

 いやむしろ、時折紫様が嫉妬してしまうほどに仲が良かったりする。
 ○○が私に色々なことを相談してくるのもそうだし。
 こうして二人で縁側に腰掛けて、ゆったりとした時間を過ごすのだってそうだ。


 なあ、○○。前々から思っていたんだが。

「ん?」

 現在、○○は私の隣で茶をしばいており、その表情はとても緩んでいた。
 先程の書斎で被った精神ダメージは、すでに治ったものと見ていいだろう。
 まあ、あの程度でへこたれているようでは、私の知っている○○ではないが。

 前々から疑問に感じていたことを、美味しいお茶を飲んだ拍子にふと思い出した。
 私は丁度良い機会だと思い、奴に訊ねることにした。

 何を訊ねるのかというと――

 こうしてお茶に誘ってもらえるのは有難いのだが、下心はないのか。

 ということだった。
 だってそうだろう?
 二人は人妖、男女の枠を超えた間柄だとはいっても、彼と共に在る空間が楽しいというのは確かなのだから。

 あまり言わない方がいいかもしれないが、この際言っておこう。
 私だってこう見えても女だ。
 ふと、お前と共にあり続けるだろう紫様が羨ましくなることだってあるんだ。


 そう口にしてから、私はこの発言は些か拙いかもしれないと思った。

 何故ならば、互いにアホなことをやりあっては、大騒ぎすることもしばしばだが、ある点――
 ○○とは本音で語り合えるという点で、得難い友人なのだ。
 そこにそれ以外の感情を持ち込んでしまっては、○○を困惑させるだけではないだろうか。
 そう思ったのだ。
 だが、すでに言葉に出してしまってはどうにもならない。
 少し緊張しながら、私は彼の言葉を待つことにした。


 ○○は少し驚いたように目を見開いて私のことを見ていた。
 それからゆっくりと顔を正面に向け、春の空を見上げた。
 返答の台詞を考えているんだろう。
 一口お茶をズズッと啜ってから○○は口を開いた。

「そりゃあ……まあ、下心は全くないと言ったら嘘になるけど。
 藍さん、可愛いし美人だし。
 陳腐な言い方をするとしたら――
 紫が強烈な放射線振りまく太陽光みたいな奴だとしたら、藍さんは闇夜を照らす月光みたいな人だと思う。
 お近づきになれるんならなっておきたい人だ」

 可愛いし美人、というくだりで私は顔に熱が集まるのを感じた。
 それにしても紫様を表現する時のその譬えは、どうかと思わないでもない。

「でも、それだけで藍さんと仲良くなりたいわけじゃないぞ」

 慌てて取り繕うように言葉を重ねる○○。

「藍さんは紫の式だ。それは疑いようのない事実だ。
 けど、藍さんが紫を支えようと努力して、日々頑張っているその在り方は俺は素直に感動する。
 憧憬していると言ってもいいかもしれない」

 おそらくだが……。
 ○○も紫様をその方面でも支えたいと考えているのだろう。
 しかし自身には能力がないから、私に任せるのだと。


 それは傲慢なのかもしれない。

 人には望むべくもない高望みなのかもしれない。


 だが、それでも。
 私はそんなことを素直に口にできる○○のことが――


 …………大好きだ。





 ○○はいい奴だ。
 色々とアホなことをしでかす男ではあるが、基本的に○○はいい奴なのだ。
 私に対する姿勢もそうだ。
 ちゃらんぽらんにも見えて、こういうところはきちんと応えてくれる。
 真摯、というわけではない。

 だから、いい奴なのだ。


「――とまあ、こんな答えでいい?」

 ああ。充分だ。
 充分にお前の心は私に届いたよ、○○。

 春の柔らかな陽射しの降り注ぐ縁側で、私たちはなんとなく見つめ合った。
 どのくらいそうしていただろうか。
 ふと、そこで私はあることに気づいた。


 じっと見つめあう向こう側――

 吸い込まれそうな色をした○○の瞳――


 そこには私の姿があった。


 ○○の瞳の中の私が私を覗き込んでいる。
 そして○○の瞳の中の私の瞳にも、私の姿が小さく浮かんで見えた。

 あそこにはどれだけの八雲藍がいるんだろうか……?

 実にどうでもいいことなのだが、ふとそんなことが脳裏を過り、なんだか不思議な面白みを感じた。



 いつの間にか私は○○と見つめ合っていたことも忘れて、じっと彼の瞳の中の八雲藍とにらめっこしていた。
 少し丸みを帯びた瞳の中の私とこの現実の私。
 そうしてさらに、まったく信じられないことだが――

 あそこにいる私が、蕩けそうな顔をしてこちらを見ていることに気がついた。

 瞳の中の私は頬をかすかに上気させ、瞳を潤ませつつ微笑していた。
 それが何だか可笑しくて、私も釣られて微笑んでいた。

「えっと……あの、藍さん?」

 ○○の戸惑ったかのような声が遠い。
 私はずい、と身を乗り出した時、手に何かが当たった。
 それがお茶と茶菓子が入れられたお盆だと認識するよりも早く、私は手に当たったそれを横に退けていた。
 カチャンと湯飲みと急須がぶつかる音がしたが、特に気にならなかった。

 後になって考えると何故そんなことをしたのか、自分の行動がよく分からない。
 この時は、これで私たちの間を隔てる物はなくなったという程度の考えしかなかったような気がする。

 私は○○の方へにじり寄った。
 あと少しで互いの息が届く距離というところでにじり寄るのを止める。

 ……キスしたい。

 私はごく自然にそんなことを感じた。
 ○○がまだ遠い。
 私は○○に対して身を乗り出すと、左手を伸ばして彼の襟元を掴み、こちらに引っ張った。
 ごつんと額と額がぶつかった。
 これで互いの息が届く距離だ。

「いやいやいや、ちょっと待て藍さん」

 酷く慌てている○○。
 視線があちこちに飛んでいる。

 そうなると私の姿がその瞳の中にいなくなるわけだ。
 そのことが何だか悔しくて。
 私は○○の左頬に右手を添えて、視線でこちらを見ろと要求することにした。

 ○○は更に動揺し、顔をみるみる赤くした。
 それがいつもの彼と違い何だか可愛く思えて、私は自然と笑みを浮かべた。

 ごくりと○○が唾を飲んだ。


 私を見つめたまま互いの額が離れる。
 私の顎に彼の手がそっと当てられた。
 少し顔を上に向けさせられる。
 ぎらぎらとした目で私のことを見つめてくる○○を見て、仕方ないなぁと苦笑する。
 私は○○の頬に当てていた手を奥に滑らせ、彼の後頭部に。

 襟元を掴んでいた左手に○○の手が添えられる。
 ちょっとかさかさしていたけれど、温かくて。
 その体温が私の心を蕩かしてた。



 あー。何か忘れているような気もするけど…………まあ、いいか。

 
 私たちが見つめあっていたのは、時間にしたらほんの数秒程度だっただろう。
 胸の鼓動がトクトクトクとものすごい勢いで早鐘を打っている。
 心臓から送られてくる血液は脳髄を痺れさせ、私から思考を奪う。
 けれどもこの感覚は不快ではなかった。

 もう……。
 もう。○○しか見えない。

 離れていた距離が今度は○○の方から縮まってきた。

 五センチ――
 四センチ――
 三センチ――

 目をとじた。

 ……グラウンド・ゼロ――


「そこまでよッ!」

 どげしっ。
 突如現れた何者かの制止の声と共に、脳を揺らす衝撃が私を横から貫いた。

 何事~~!?

 空が見えて、地面が見えて、逆立ちで螺旋回転しながら空を飛んでいる○○が見えて。
 最後に縁側と部屋のスキマからにょっきり足が生えているのが見えたところで、私は己を取り戻した。
 自身の中の妖力を操り、空中でくるりと一回転。
 危なげなく足から着地した。
 わずかに遅れて○○がすぐ隣にべしゃりと落ちてきた。

「い、痛ひぎゃ」

 苦痛の悲鳴を上げる前に、その直上にスキマが開くと足が生えてきて、○○の頭を踏み潰した。
 ハイヒールの踵がぐりぐりと○○の頭に捩じ込まれる。

「ちょッ、タンマ。痛い痛いマジ痛い!」
「ふふっ。当然よ。痛くしてるもの」

 そりゃそうだ。他人に踏まれて悦んでいたら真性である。

 ああ、先程から私たちを蹴ったり踏んだりしているあの下半身の正体は――もうお分かりだろうが――、紫様のおみ足である。
 で、上半身はどうしているかといえば――

「うふふふ」

 あ、あはあは……。

 笑顔で、私を背後から抱きしめるようにして、もたれかかってきていた。
 その笑顔に釣られて私も愛想笑い。

 存在するもの全てを腐らせそうな殺気と、亀裂のような笑みがとても素敵です。
 無事に着地したにも関わらず私がこの場から逃げていない理由は、このせいであったりする。

 うん。はっきりいって怖いです。許してください紫様。

「許さないわ。この――泥棒猫!」

 ぎひぃぃっ!? 痛い痛い。耳がちぎれちゃいます、紫様!
 ちょっといい雰囲気に流されただけじゃないですか!

「はい、有罪」

 あ。やっぱり?

「いいこと、藍?」

 は、はひ。

「○○は――」 

 どばっと私の辺りに弾幕が現れる。
 どばっと私の額から脂汗が流れる。

「――誰にも渡さないわ!」



 その日、幻想郷の人里の外れで局地的な弾幕の嵐が吹き荒れ、人々を驚かせたという。



────────




 ところで口に出しては絶対に言えないが、私の○○を護りたい思う心の根底には、ある感情が流れていた。

 いつ頃からこんな風になったのかは覚えていない。
 が、何故こういうことになっているのかは理解していた。
 この想いを表す言葉として、最も近しいものを私は知っている。


 それは『好き』ということ。


 そう――
 私は○○が好きだ。

 ちゃらんぽらんで、すっとこどっこい。
 子供っぽくて、自分勝手。
 お世辞にも颯爽とか凛々しいとはいえない。
 むしろそういう言葉が奴ほど似合わない男はいないだろう。
 けれども、私から見てそれを補って余りあるほどの魅力を○○は持っていた。

 例えば○○は懐がとても深い。

 それこそ紫様の全てを受け入れるほどに。

 例えば○○はとても優しい。

 それこそ紫様の全てを愛することができるほどに。

 どうだ? 素晴らしい魅力ではないか。
 幾らなんでも紫様を中心に考え過ぎだと思われるだろうか。
 だが、それが――それこそが私が○○に好意を持つ理由の根幹をなす部分なのだ。




 八雲藍という式は八雲紫という妖怪の想いを受けて作られた存在である。

 主人の想いが、術を通して式を形作る。
 そして式は主人の思考に自身を重ね合わせる。
 この両者があってこそ、式は式足りえるのだ。

 で、だ。
 これがどういうことかといえば――
 趣味嗜好が似通ってくるということであった。

 勿論、八雲藍というフィルタを通しているのだから、全く同じ嗜好ということはありえない。
 私は狐で紫様は妖怪。
 これだけでも発現する差異は大きくなるものだ。
 だが、よく確かめてみると紫様が好きなものは、私も好きであるということが案外あったりする。


 私が○○のことが好きだという感情もそうだ。
 元はといえば、この感情は紫様が彼のことを想う気持ちに感化されたことで発生したものだ。
 主が気に入った人物だから、私も気に入った。
 奴に対する最初の気持ちは、確かにその程度だった。

 ただし、間違ってもらっては困る。

 最初の想いが私の裡より沸き出でたものでないからといって、今の私の○○への想いが偽物と否定されるものではない。
 何故ならば紫様と同じように、私もこの数年、奴の好きなところも嫌いなところも見てきた。
 その結果がこの想いなのだから、誰にも否定されるいわれなどないのである。

 私はこの想いが叶う――叶えるつもりは全くない。
 私の心は奴に向いている。それは確かだ。
 だが、○○の想いは絶対に私の方を向くことはないことも、私は知っていた。
 何故なら、奴の心はまっすぐに紫様の方を向いており、紫様の心も○○の方を向いているからだ。
 そこに私が入り込めるような余地はない。
 悔しくはあるが、それと同時に、あの二人の間柄ほども私は○○に心が向いていないのを当然のことと納得し、受け入れていた。


 私が○○に面と向かって好きだと言わないのは、そのせいである。
 また、自身には『これは恋愛感情ではない』と言い聞かせてきていた。
 そうすることによって、この感情に枷をしているのだ。
 紫様はこの辺のことを知っておられるようである。
 ある一線を越えると、とんでもない牽制が飛んでくるのだから確実だ。

 私の感情が紫様に捨て置かれているのは、私ごときに○○が奪われるわけがないという自信か。
 はたまた別の思惑がそこにはあるのか。
 まあ、○○に知られていないだけマシであると思っておこう。
 というか彼に私の心の襞を知られた日には、一体どういう表情で顔を合わせればよいか分からなくなってしまうじゃないか。








 ところで、二人の仲が良く愛し合っているとはいえ、そこはそれ、合わない部分もあるわけで……。
 現在、『はなれ』で久方振りに紫様と○○の喧嘩が行なわれている真っ最中である。


「――私はそんなことをしてだなんて、一度だって言ったことないわ!」
「ああ、全く口に出して言ったり、俺の方から訊いたことはないさ! けどな……!」
「だったら、黙って勝手なことしようとしないでよ!」

 原因はよく分からないが、とにかく二人とも凄い剣幕で怒鳴りあっている。
 それが母屋の方まで聞こえてくるもんだから堪らない。
 橙など半泣きでオロオロとしていた。
 うむ、不謹慎だがなんとも可愛らしい。
 そして一方の私は茶を啜り、表面上平静でいるように努めている。
 というか私までオロオロしていたら色々駄目だろう?


 現在のところ、一応紫様は冷静だ――と思われる。
 これでテンションが上がってくると、紫様は泣き喚きながら手当たり次第に物を投げつけ始めるのだ。
 投げる物は置物、座布団、枕、弾幕と節操がない。
 ○○には直撃させないように投げているようではあるので、我を見失っているという訳ではないだろうが。
 が、そのせいで『はなれ』は幾度も、倒壊の危機の憂き目に遭っていたりする。

 その度に私が補修をし、時折紫様がそこに手を加えられるのだった。
 この間『はなれ』に行った時には、部屋の天井に夜空を投影する式が組み込まれていた。

 ……まあ、二人がどういった趣向の愛を営もうが、私がとやかく言う筋合いはないけれど。

 というか想像なんてしたら、しばらく悶々としてしまいかねないので、私としては極力考えないようにしている。




 ――と、

「もう○○なんて知らない!!」
「ハッ! そうかい。だったらもう二度と来るか!」
「なによその言い方ッ――!!」

 売り言葉に買い言葉。
 捨て台詞のような大声と共に、ドシドシと廊下を渡ってこちらにやってくる足音。
 僅かに遅れてガシャンと何かが割れる音が『はなれ』の方から聞こえてきた。
 恐々と耳を澄ませていた橙がその音に驚いて、尻尾をびくっと奮わせる。
 音から判断するに、紫様が壁か柱に向かって茶碗あたりを投げつけたのだろう。

 まあ、今日の荒れ模様はまだマシだな。
 紫様が本気になって物を投げれば、投げた物が壊れるどころか壁が壊れる。
 ボコボコ穴が開いて風通しが良くなりすぎたせいで、この間補強工事をやったばかりなのだ。
 それをいきなり壊されては、直した方としては堪ったものではない。


 私は小さく嘆息した。

 紫様があんな風に感情を表に出されて大騒ぎするようになったのは、明らかに○○の影響だ。
 全般的に喜怒哀楽が顔に出るようになったといえばよいか。
 いや、以前からも意外と喜怒哀楽の感情ははっきり示されていた方なので、この表現は違うか。

 なんといえばよいか。
 そう、悠久の年月を経た老獪な妖怪ではなく、一人の女性――というか女の子の表情を見せるようになったのだ。
 つまり、どういうことかというと――


 甘えて。

 拗ねて。

 ヤキモチを焼いて。

 恋をするわけだ。


 うんまあ、○○と出会う前までの紫様を知る者ならば、驚愕のあまり卒倒しそうな変わり様ではある。
 しかも○○が関わらなければ、いつもの笑顔が怪しいスキマ妖怪なのだから、その落差は顕著だ。
 この変化の良し悪しは意見の分かれるところであるが、少なくとも紫様御自身はこの変化を是としていらっしゃる。
 勿論、私もこの変化を良いものとして受け止めていた。

 ともあれ、ああして痴話喧嘩をしていても、その内また仲直りするはず……。
 私は二人の仲が決裂するなどとは、露ほども考えていなかった。



 しばらくしてやってきた足音の主は、やはり○○だった。
 あれほど紫様とやりあったのだから、憤懣やるかたない顔をしているかと思いきや、意外にも弱った様子だった。

 私たちの顔を見るや、○○はいつになく力ない声を発した。

「すまんけど、今日はこれで帰るわ」
「えー!? ○○、帰っちゃうの?」

 橙が不服そうな顔で不満の声を上げ、○○の服の袖を引っ張った。
 ○○はすまなさそうに橙の頭を丁寧に撫でた。

「あー、紫を怒らせちゃってな。ほとぼりが冷めるまでちと退避だ。
 だから遊ぶのはまた今度、な?」
「ぶーぶー!」

 流石の○○もあんな風な喧嘩をした後に、のうのうと八雲家に居座るというのは気まずいのだろう。
 ……ああ、先程『二度と来るか』と啖呵を切ってしまったのも、帰ろうとする理由の一つかもしれない。

 奴の様子を見るに、すでに喧嘩してしまったことを奴なりに後悔しているようではある。
 それでもすぐに紫様と仲直りしに行かないのは、○○の頑迷さ故か。
 奴のそういう当初の考えを貫き通すしぶとい精神性は、気分屋の紫様と付き合う上で必須項目だ。
 が、今回はその頑固さが悪い方に出てしまったようだ。



 ○○はグイグイと服の裾を引っ張って不満を表す橙の頭を、今度はワシワシと手荒く撫でた。
 一瞬、気持ちよさげに目を細める橙。
 が、すぐに橙はぎにゃ~とあまり可愛くない悲鳴を上げて、その手を振り払った。
 その時にはすでに手遅れだったようで、案の定彼女の髪はボサボサに逆立ってしまっていた。
 慌てて橙は手櫛で髪を撫でつけているが、なかなか直らない。
 というか、鏡のない所で髪を整えようとしているものだがら、微妙に髪の形が歪んでいるな。
 必死になって整えようとするその姿が微笑ましい。
 楽しそうにカンラカンラと笑う○○。

 橙は結局手櫛を使うことを諦めたようで、物言いたげに○○を睨んでから鏡台のある部屋に引っ込んでいった。


 私は○○の手荷物の入った鞄を取りに行くと、奴と一緒に玄関に移動した。
 この中には○○の仕事である戯本の肝とでもいうべき『ネタ帳』というものが入っている。
 ○○はこの帳面をそれこそ宝物のように大切に持ち歩いていた。
 何もマヨヒガに来てる時まで、持ってこなくてもいいと思うのだが。

「言霊様のご光臨あそばされた記録がこの中には詰まってるんだ。
 ある意味、命より大切なものだぞ」

 とは、○○の言だ。
 真顔でそういうことを口にするから、他人からアホな子とか変人に見られるのだ。



 いつも通りついて行こうとしている私を見て、○○は何ともいえない渋い顔をした。

 そんな嫌そうな顔をするな。
 そりゃあまあ、時には一人になりたい時もあるだろう。
 今日みたいな日は特にそうだろう。
 だが、紫様の新たな命でもない限り、私に課された使命はお前を守ることだ。
 それは否も応もない。
 お前が泣いても喚いても守るのが私の仕事だ。

 そう言ってやると、○○はかなわないなと照れ臭そうに首筋を掻いた。
 ○○が履物を履き替えたところで、鞄を手渡す。
 ありがとうと礼を言う○○に、どういたしましてと返した。

 そして、いつも通りにその後に続こうとしたところで私は足を止めた。
 止めざるを得なかった。
 何故ならば――

「らぁん~~」

 紫様が私を呼ぶ声が聞こえてきたからだ。

 用があればスキマを使って直接現れればよいものを。
 それをしないのは、やはり○○が近くにいるせいか。
 さっきの今では、まだ○○と顔を合わせたくないという意思表示なのだと私は理解した。
 こういうところ、紫様は存外子供っぽい。

 それにしても――
 あまりにも妙な声を出す紫様に、思わず私たちは顔を見合わせた。

「……こりゃあ相当拗ねてるな」

 驚きとも苦笑ともつかない顔でつぶやく○○。
 こんなちょっとしたことで、紫様の様子が分かってしまう○○は、やはりあの方のことをよく考えているからだろう。
 私は感心すると同時に、まだ○○の心が紫様に向いていることを知って嬉しくあった。



 私は○○に少し待つよう言った。
 紫様の相手をしてから、すぐに○○の護衛をしに戻ってくる為だ。
 彼の護衛をするのには理由がある。
 まだ日が高いので最も危険な妖怪は出て来はしないだろうが、それ以外の危険からも守る必要があるからだ。
 私の本音がどこにあるかは紫様にはバレバレだが、○○はこれで納得していた。

「藍さんも心配性だな。
 最近じゃ、博麗の旦那に貰った護符もあるんだから、夜ならまだしも昼間に危険なんてほとんどないさ」

 奴が私の危惧を杞憂だと言うのには理由があった。
 それは最近博麗の巫女から貰った厄除け符のお蔭である。
 博麗の巫女はかなり気合を入れて符を刻んだようで、その効能はかなり強力に作用していた。
 よほど意図的に危険に近づかないかぎり、災厄に遭遇しないというのだから、巫女の気合の入れようが分かろうものだ。
 まあ、○○を失うと大口の賽銭が減ってしまうという危惧が、その根底には流れているのだろうが。


 ○○が賽銭を入れ始めたのは、紫様と付き合うよりも前――戯本の挿絵を描いた収入が得られるようになってすぐだった。
 現在もそれはやっているのだから、もうかれこれ4年以上も続いているわけだ。

 毎月のように博麗神社を訪れては、賽銭を入れていく○○。
 定期的に賽銭が入ってくることを不気味に思い、博麗の巫女がその理由を尋ねたことがある。
 賽銭が入るということが不気味に感じる時点で何かが間違っている気がするが、気にしない方向で。
 それに対して、○○の返した言葉は、

「幻想郷にいるということは、俺は博麗神社の氏子ってことだろう?
 なら、ここに博麗神社が在るということに対して、感謝の賽銭を入れても何の不思議もないんじゃないか?」

 何でもないことのように言ってのけた。
 神社の賽銭状況を知る者は(博麗の巫女を含めて)、恐ろしいものを見る目で彼を見たという……。
 そんな感じで、奴が賽銭を入れる理由は、およそ外来人らしくないものだった。






 話を戻そう。
 確かに、実のところ私が奴を護衛しているのは、万一の為という部分が大きい。
 妖怪の襲撃に備えるより、箪笥の角に足の小指をぶつけないよう気をつける方がいいくらいだ。
 そのくらい○○の厄回りは良い。
 うん、確かにそれはその通りだろう。
 けれども――
 けれどもだ。

 ――好きな奴のことを心配するのに、今が安全か否かを論ずることは必要だろうか。

 つまりはそういう訳である。
 であるのに、こいつときたら……。

「分かった分かった。
 そんなに心配なら、藍さんは紫の面倒を見てやった後に追いついてきてくれればいいよ」

 私のジト目に対して○○は肩を竦めることで応えた。
 ひょうひょうとした面持ちがちょっとムカっとくる。
 ああもう。全然理解してないな、こいつ。

「紫が俺のことを心配して藍さんを付けてくれてるんだろう? そのぐらいは理解しているさ」

 うぬぬ。確かにそれは間違っていないんだが……。いや、これ以上は言うまい。
 これ以上言えば、場合によってはスキマ落としの刑に処せられるかもしれないし。
 お口にチャックだ。

 私は玄関の内側で○○を見送ると、胸の裡に溜まった何かを溜息と共にそっと吐き出したのだった。






 さて、私は○○の後姿が見えなくなるより前に、さっさと紫様の待つ『はなれ』へ行くことにした。
 いつまでも主を放っておくと、何をされるか分かったものではない。
 とりあえず、橙を呼びつけて、簡単な肴の用意をさせる。
 その間に私は紫様の憂さを晴らす酒を準備することにした。

 まったく困った主だと思いながら、私たちは○○のことはひとまず頭の片隅に追いやった。






 後になって考えると、私も紫様も○○も現状の平穏に慣れた、というより気が抜けていたというしかなかった。
 あの時ああしていれば、と思い起こすことが未だにある。
 紫様も気にしていないように見えて、裏に回ればとても後悔していることを私は知っている。


 だが、これが……○○の元気な姿を見た最後であった。


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最終更新:2010年05月22日 10:43