「外の世界の……とけい?」
「ああ、デジタル時計とも言うらしい。もっとも、何がどうして、でじたる、などというのかは分からないがね」
「ふーん……」
カチコチと音さえ立てず、淡く緑色に光る液晶板の時刻表示。
それを退屈そうに見つめるは、朱に近い紅白の巫女服を身にまとった幻想少女、博麗霊夢。
相対する香霖堂が主、森近霖之助もまた、表情らしいものの見当たらない顔で薀蓄を傾けている。
外界から来たよくわからないもの、あるいは幻想郷に元より在った珍品ガラクタの数々、
その他諸々の品々と、積年の塵芥と埃でこの店は構成されている。
今日のお客のひとりはどうやら、来た場所も由来も分からぬ、非幻想の品々にご執心らしい。
「珍しいよな、霊夢がここのガラクタに興味を持つなんて」
水煙草の壷に腰掛けて、トレードマークの黒白帽子を人差し指でくるくると。
それこそ前述の二人ほどではないが、恋色の魔法使い、霧雨魔理沙が退屈そうな顔をしているのは確かだった。
「我が香霖堂の品々は名と効果が明確に示されている。どれひとつ取っても、ガラクタなんてありはしないよ」
「使わないならガラクタと同じだろうに……」
どうせ場所を取るだけだぜ、と水煙草の壷をつま先で軽く小突く魔理沙。
素振りこそ見せてはいないが、眼鏡の奥で霖之助の眉間に少しばかり皺が寄っていた。
「ね、霖之助さん。これは何て言うの?」
「ん? それはスキャナと言ってね。そこのコンピュータ……以前も説明したが、
コンピューターと言うのは外の世界における式神の一種で……」
「それは良いから、コレについて教えてよ」
一度口上を名乗らせてしまうと長いことを知っている霊夢は、何の遠慮も無くその語り出しを叩き切る。
「……うむ。スキャナと言うのはね、紙などに書いた記録を読み取り、この式神に保存出来るようにする代物らしい」
もっとも、使い方はわからないが。と、付け加えるまでも無い。
「ふーん。何でわざわざこの子に入れる必要があるのかしら、紙に書けば十分じゃない」
「紙は何かしらの理由で燃えてしまったり、放置しすぎると付喪神になったりするだろう?
コレは式神であり、人が命令を下している間は決して命に背く事は無い。
保存するにしても、より確実で安全な方が良いだろう?」
「……何だか納得行かないなぁ」
頬に手を当てて退屈げなのは変わらずに、ぺしぺしとスキャナを叩いてみる。
勿論返事を返す訳は無いし、霊夢自身何か起きると思っている訳でもない。
とは言え、霖之助が眉根を顰めることだけは確かなのだった。
「御入用なら売りますよ」
「冗談」
興味は在れども、欲しい訳じゃない。
霖之助とて、それは承知で言っているのだが。
「何の気紛れなんだ? また巫女の勘か?」
「何言ってんのよ。退屈してるだけよ、退屈」
そう言ってひとつため息をつく霊夢。
「……ま、勘と言えば勘なのかも知れないけど。嗚呼、異変でも起こらないかしら」
「巫女的にどうなんだ、その発言。大歓迎だがね」
「君等も少しは毎日の平穏を満喫したまえよ……」
霖之助は、幻想郷中を引っ掻き回す少女たちを目の前に、語気も弱くただ呟く事しか出来ないのであった。
ここ最近、異変のひとつさえ起こる気配が無くなっていた。
外界から来た身勝手な神様たち、地の底から湧き出た温泉と怨霊、有頂天に住まう緋想の娘、そして。
……そして、なにひとつ起こらない平和。湧き出た温泉を味わうには飽きるくらい何度も入り、
連日繰り返された天界における大宴会、我侭神様の布教活動の抑制、と言った所だろうか。
方々の異変とドンチャン騒ぎは落ち着き、最早巫女の仕事は皆無、絶無とも言えるほどの平穏無事な毎日。
彼女が巫女でなかったとしても、変化の無い毎日ほど飽きが早いものは無いと言えるだろう。
だからこそ、彼女が外界の品物に興味を持つ、なんて珍しい、そんなある種の「異変」が起きているのかもしれない。
「……それじゃあ、私はそろそろ帰ろうかな」
外はまだ明るく、斜陽と言うには早すぎる太陽が、埃っぽい窓辺から顔を覗かせている。
夕方というには早いが、真昼というには微妙な頃合である。
「早いな。晩飯は?」
「紫からまた外の山菜を貰っちゃってね。悪くなる前に食べておこうと思って」
「おぉ、おぉぉ。私も、私も行く」
焼き魚の匂いに釣られる猫のように、フラフラと立ち上がる魔理沙。
それを見て、再三呆れたような面持ちで霖之助は苦笑する。
「君達もたまには僕に土産なり持って来る、なんて選択肢は無いものかね」
「ツケを帳消しにしてくれるなら考えないでもないけどね」
それは残念だ、と笑う霖之助を背に、夏風の吹く、変わらずに爽やかな表へと彼女達は出て行くのだった。
所は変わり、博麗神社。
薫風は構わずに木々を揺らし、それと一緒に心地良くも青々とした森の香を境内に運ぶ。
いつもと変わらないその風を身に受け、いつもと同じように出涸らしの茶を啜る。
それが、博麗霊夢の毎日の幸せというヤツ……だった。
……つい最近までは。
「……お前、毎日それで飽きないもんかねぇ」
膝を机代わりに頬杖をついて、呻くように魔理沙が言う。
「…………正直言うと、ちょっと飽きてる」
「だろうなぁ……」
のほほんとお茶を飲むその日々も、異変や騒動というエッセンスがあるからこそ輝くというもの。
数ヶ月単位で何も起こらない最近となっては、幸福から幸福という色味が抜け切ってしまっていた。
「大体ね、何で私がこんなに退屈しなきゃいけないのよ!
そうよ魔理沙、あんたが何とかしなさい」
「うわあ唐突。平々凡々な事を言うようで悪いがね、趣味でも持ったらどうだ……」
「…………境内の掃除?」
ダメだコイツ、とばかりに頭に手を当てて何度目かのため息。
釣られるように、霊夢もワンテンポ遅れてため息をついた。なんにせよ、退屈なことには変わらないのだ。
「禍福は糾えるなんとやらの如しね。平和も平和、今の私にとっちゃ不幸のどん底と大差無いわ」
「珍しく暗いな……そうだなぁ、お前の為に何か退屈凌ぎでも探してきてやろうか」
「お願いするわ。このままじゃ私、自分から異変でも起こしちゃいそうよ」
それは勘弁だな、と小さく口元をゆがめる魔理沙。
幻想郷の秩序そのものが幻想郷の秩序を乱しに動いたら、それこそ何が起きるかなんて想像も出来ない。
そうなっては敵わない、とばかりに元気良く、魔理沙は腰掛けていた縁側の座板から飛び降りた。
「夕飯の準備くらいは手伝って欲しいところなんだけど」
「二兎を追う者は一途には成れず。ホントだぜ?」
「誰が言ったのよ、誰が」
「私だ。それじゃあ、日が暮れた頃にでもまたお邪魔するぜ」
ん、と霊夢が返事をする間も無く、頬を撫でる風と共に魔理沙は青空へと舞い上がる。
いつもいつも、何だか楽しそうねぇ。霊夢はそんな感想を漏らす事も無く、
飛行機雲を引き連れて一面の青を駆けて行く魔理沙に、ちょっとした嫉妬のような気持ちを抱いていた。
あんな風に、何にでも一途になれたら楽しいでしょうに。
……私が夢中になれること、か。そんなもの、あったかしら。
異変を解決して、妖怪をやっつけて、幽霊をやっつけて、宇宙人をやっつけて、時には神様までやっつけて。
境内を掃除して、お賽銭を欲しがったりして、魔理沙とかに愚痴を零したりして。
それって結局、私が夢中になれることだったかしら。
そりゃあ、渦中にいる間は解決することに躍起だったかもしれないけど、
そんな毎日を積み重ねた私は今、これまでに無いほどの退屈を確かに持て余している。
溜め込んだ気持ちを吐き出すように、溜まった空気を肺から追い出す。
「……はぁ」
掃除でもしようかな、なんて。
いつもより重く感じる腰を上げて、縁側の隅に立てかけっぱなしの古びた竹箒を手に取る。
これも何度と無く繰り返した、毎日の習慣のようなもの。
それでも、何か起こらないかと期待を持たない訳には行かない。
巫女は、異変を解決するのが仕事だから。
境内に出てみると、日が傾きかけた空にやる気のなさげな太陽が張り付いていた。
あんたも毎日毎日飽きないわね、なんて呟いてみても、即座に沈んだり爆発するようなことは無い。
またひとつため息を積み重ねて、掃除を始めるべく改めて霊夢は顔を上げた。
「……ん?」
境内の隅に、何か黒く輝くものが落ちている。
近付いてよくよく見てみれば、香霖堂かどこかで見たような、四角く黒い奇妙な箱が落ちていた。
英語だろうか、何か綺麗な刻印がしてあって、けれども傷だらけのそれは、
金属的に鈍い反射光を霊夢の目に真新しく映しているのだった。
拾い上げてみれば、金属特有の冷たさと、人為的に磨き上げられた心地よい感触が指先から伝わる。
「何だったかしら、コレ……」
確か、音楽を持ち歩くことが出来る、外の世界の道具。
霖之助さんが持っていた品物でも、使い方の分からない物のひとつだっけ。
中央にあるスイッチのようなものを押すと、淡く白い光がボンヤリと画面に宿る。
大抵の場合、これが動くことはほとんど無い。触っても動かないことが多く、仮に動いたとしても、
すぐに電源が落ちてしまうことの方が多かった。
そんな中でも稀有なモノである完全に動く品ではあるのだが、
一応日本語で色々と表示されているとて、霊夢には生憎使い方が分からない。
適当に押したところで、画面が切り替わったりするくらい。
「うーん……」
見慣れない、けれども美しい文字と映像、そしてそれらを自由に出来ないという束縛感。
外の世界に行くことが出来たら、この箱も役目通りに動いてくれるのかしら。
あんたがこっちに居る事は、きっと正しいことじゃないでしょうに。
日の光にも冷たいそれを耳に押し当ててみるも、中から聴こえるのは歯車の動くような音だけ。
稗田の娘が聴いているような幻樂団のメロディなぞ聴こえる訳も無く、
また、耳にしたことも無いような音楽や音声が流れてくる訳でもない。
でも、不思議と胸は高鳴っていた、ような気がする。
知らない何かを、知ってみたいと、心僅かでも霊夢は想った。
――――不意に、足元の感覚が無くなった気がした。
聴き慣れない、心がざわつく嫌な喧騒と、梅雨の真っ只中に居るような生ぬるい空気、
そして目に刺さるくらいに眩しい、弾幕のような光の奔流。
目が、開けられない。いや、見えていないだけだ。
音が、聴き取れない。いや、五月蝿すぎるだけだ。
轟々と五感を劈く音響と閃光の洪水。
人々の喧騒。
何かが高速で周囲を横切り続ける。
不自然なまでに続く明滅。
それらは、ゆっくりと近付いて来る。
近いのに、遥か遠く。
遠いのに、とても近く。
吐き気を催すような嫌な感覚なのに、言い知れない期待のようなものが、霊夢を包んでいた。
……外の、世界――――
全てが止んだ時、寂れたままの境内に、彼女は立ち尽くしていた。
「最悪だ、最低の中でも特に最悪だ」
ジジジ、と返事を返すかのように、蝉が一匹真上の木から飛び立った。
水っぽい何かのオマケ付きで。
「……前言撤回。最悪だ」
最悪より素晴らしい、最上で最低の表現を、彼は知らなかった。
「俺の、俺のip○d……」
儚い嘆きは広大な青空に吸い込まれて、それでも何かが返って来ることは無かった。
彼の名は、○○。名前が無い程度の能力、とでも言えば、恐らく全てが伝わるだろう。
登校途中に失くしたmp3プレイヤーを探して東西南北。気付けば通学路から離れた、
およそ人の寄り付く気配の無い神社にまで辿り着いていた。
乱れたワイシャツを派手に脱ぎ散らかし、シャツ一枚のままに木陰で一休み。
時折吹く涼やかな風も、今の心境では何か馬鹿にされているような気になってしまって
落ち着くことさえ出来なかった。
畜生、アレ三万、いや、四万くらいしたんだぞ。諭吉さんが四人くらい御逝去なさるほどの
お値段以上だったんだぞ、おまけに刻印付きの限定仕様だぞ、どうしてくれるんだ、この夏の大馬鹿野郎、
なんて、誰も聞くことの無い愚痴を彼は撒き散らし続けていた。
ふと、そんな心境である彼の視界に、古ぼけた賽銭箱が見えた。
「あー……賽銭のひとつやふたつ入れれば、神様も願いを聞いてくれるに違いない……」
大事な物を失くしてしまえば、それこそ一時的にとは言え信心深くもなってしまうに違いない。
涼しい木陰を抜け出して、未だ熱の残る境内の石畳を踏みしめる。
夜が近いとは言え、真夏の夕陽の下に出るのはやはり億劫だ。
じわじわと焼き付くその日光を背に、枯葉と砂利しか入っていないであろうオンボロ賽銭箱の前に立つと、
○○は錆ついた五円玉を財布から取り出した。
「どーぞ、御縁があったら俺のip○dを手元に戻してやってくださいな、っとくらー……」
カラン、と木製の板を叩く乾いた音と、金属同士が擦れ合う音さえ聴こえて来ない空白感。
なんだか、奉納してやったのが損になってしまうような気がするくらい、無情な反響音だった。
よっぽど参拝客が居ないんだろうなぁ……なんて考えながら、彼が振り向いたとき。
ざぁ、と風が吹き抜ける。
瞬きひとつの瞬間刹那に、彼女はそこに居た。
紅白の衣を身にまとい、太陽に黒い髪をなびかせる、少女の背。
一瞬、○○はどうして自分がここに居るのか、いや、それよりも自分が場違いなのではないかと思ってしまった。
夏の青空を、少女の形に赤く紅く、それこそ緋く切り抜いたかのような、影絵。
いや、影ではない。見れば分かる。影はあんなに赤くないし、何より鮮明じゃない。
そんな、見た事が無いのに既視感を覚えるような、美しい憧憬。
こんな風に煤けた古神社には不釣合いな光景を、彼はただ見つめるがままに呆然としていた。
やがて、互いに何を言う事も無く、彼女は振り返った。
鈴、と音の聴こえるような気がするほどに、吹き抜けるかのように。
そして互いに見つめ合うまま、暫し、硬直。
「…………えーと。あんた、誰?」
その言葉を口にするまでに、彼女は表情をくるくると変えていた気がする。
言葉にならないくらい、可愛い、としか、感想は無かった。
それくらい、○○は見惚れてしまっていたのだ。
○○は答えられず、しどろもどろに口を開け閉めして呻くばかりであった。
「……そ、そうか。アレね、あんたがこの異変の黒幕ね!?
そうよ、そうに違いないわ。そうと決まれば早速……ッ!!」
「え、な、ちょっ」
彼女は神速が如し速度で懐に手を伸ばし、目にも止まらぬ速さで何かを○○に投げつけ、
かと思えば飛び出したそれは、唐突に吹き抜けた涼やかな風によって遥か空高くへ飛んで行く。
……互いに、その飛んで行った何かの行方を見守ることしか出来なかった。
「……御札?」
既に上空に霞み始めたそれは、遠目には御札か何かのように見えた。
「……なっ、何で飛ばないのよっ」
慌てふためく彼女だったが、それは○○も同じであった。
「え、えーと……と、とりあえず落ち着i」
「退魔針ッ!! アミュレット!! おんみょうだまをくらえええぇぇぇ!!」
投げつける瞬間までは、それこそ神業と呼べるのではないかと言うくらいに速いのだ。
しかし、飛び出す物はやはり投げられた直後に失速して石畳にむなしく墜落するばかり。
散々放った後、手元に何も無いことにようやく気付いた彼女は、肩で息をしながらもうなだれる。
「……なー……なんで……飛ばないのよ……」
なんだか裁縫針のような物に、御札に、陰陽玉、とでも言うのだろうか、
それこそ陰陽師が持っていそうな代物が、石畳の上、四方八方に散らばっていた。
疑問を抱くより何より、先ずは彼女を落ち着かせる方が先決だ、○○の脳はそう判断したらしい。
「え、えーと、お嬢さん? と、とりあえず落ち着いて、ね?」
が、説得も虚しく、顔を上げた彼女の顔はやはり敵意を秘めたものだった。
鋭い双眸に、諦めないという強い意志を覗かせる反面、むしろ○○の心を別の方向に鷲掴みにしていた。
黒く大きな瞳、艶やかに長い、ほのかに赤味がかった長い黒髪、そして、流麗に整いつつも幼さの在る顔立ち。
どれを取っても、クラスには居ないタイプの、むしろ見たことさえ無いような、そんな少女。
……やべえ。可愛いぞ、この子。
「霊力を奪い取る妖怪なんて……でも、私だってまだ本気を出してる訳じゃ……。
こうなったら、無理矢理にでも霊力の込められる物をぶつけて……」
が、聞く耳を持たない事、訳の分からない事をのたまう事に変わりはなかった。
キッ、と睨みをもたげたままに、彼女はまた何かを懐から取り出した。
「待ていっ、少しは人の話を……って、それ俺のiP○ゥ!!」
「あ」
○○の顔面に愛しの愛機がめり込んで二秒後、辺りは再び夏の静寂に包まれるのであった。
日もすっかり傾いて、舞台は夜の虫達の演奏にて彩られる。
まだ騒ぎ足りないとばかりに鳴く蝉達の声も段々と薄れ、ぼやけた昼と夜の境界は、
明確に夜へとその線引きを移していることが分かる。
天道に瞬く一番星も、きっと目立ちたくて仕方ないに違いなかった。
まさしく、薄暗がりの中、僅かな明かりに照らされる二人の横顔は、
まるで恋人同士のものに違いなかったはずなのだ。
……しかし、そんな空気など、そもそも存在さえ出来ず。
古びた賽銭箱の前で展開されるは、まるで互いに互いを牽制し合う、虎と水牛の構図。
賽銭箱への道、上段を制すは○○で、その下段には博麗霊夢。
向き合わぬままに、まるでタイミングなど考えない勢いで、○○はおもむろに口を開いた。
「……で、なんだ。えー、君はつまり、その幻想郷という場所から来た、と」
「そういうこと」
「……で、どうやって来たかも分からないし、どうやって帰るかも分からないと」
「そういうこと」
「……で、どうしろと」
「どうしましょうか」
「どうしましょうね」
……沈黙。
「信じられるかアアァァアァァァ!!」
「私だって信じられないわよぉーぅ!!」
…………沈黙。
「……とりあえず、クールダウンと行こうか」
「ええ。話が進まないんじゃどうしようもないわ」
とりあえず、せめて議論するのだと互いに向かい合う。
「う」
「ん?」
目が合った時、疑問符を投げかけるその仕草、そしてその、微妙な高低差から生ずる上目遣い。
どれを取っても、○○の心へ至高の魔弾を撃ち込むには充分すぎるほどの威力だった。
……やばい。
「……なによぅ、どうしたの?」
「いッ、いや、なんでも……」
……とりあえず、話を進めないと。
さて、気を取り直してと取り出したるは、○○の持ち物であった、mp3プレイヤー。
至る所に擦り傷のような痕が見えるが、幸いにも中のデータに消失や損傷は無く、使用する分には問題無いようだ。
が、やはり高い金を出して買った○○にとっては、その本体同様に傷心モノのダメージらしい。
「キズキズだ……くそー、ちっくしょー……。
……しっかしコレ、何処で拾ったん?」
「コレ? ウチの……んーと、こっちの神社の……。
ええい、まどろっこしいわね。幻想郷の神社の境内に落ちてたわ」
「ふーむ……」
……お前は旅でもしたかったのか? 我が愛機よ……。
ともあれ、電池の表示が瀕死に近い事以外、何も変わった様子は見られない。
もしかしたら、こう言う展開にありがちな動画とか変な音声とかが入ってたり……無いか。
と、いつも使っているように○○が操作していると、言うまでも無い誰かの強い視線。
「…………それ、どうやって聴くの?」
……前言撤回。
この子は、本当に『現実』の存在ではないのかもしれません……。
その瞳に映る確かな好奇心の色に、彼女が嘘をついているようには到底見えなかった。
「ホントに分かんないんだね……えーと」
失礼ね、とプリプリ怒る霊夢を横目にちょっと和みつつ、○○はズボンのポケットからイヤホンを取り出す。
長いことコレも使ってなかった気がする、なんて思いながら○○は片方を右耳に付け、左の方を彼女に差し出した。
「ん」
「……耳に? 付けるの?」
黙って○○が頷くと、彼女はたどたどしい手付きで左耳にイヤホンを付けた。
なんだかアレだなぁ、車を見て鉄の猪だ、とか言って騒ぎ出しそうなレベルだな、なんて思いながら、
どんな曲が良いかと操作盤にて曲目を辿る。
「……お、おぉぉ。何か、綺麗な音が聴こえるわ」
「そらそうだ……。」
聞き惚れる彼女の横顔は、まるで子供のように無邪気に無垢なもので、
気付けば彼女が疑問げな表情を浮かべて○○の顔を見つめていることに、○○自身気付かなかった。
「……なに見てるのよー」
「あっ、いや、いや別に、うん……」
○○はつい顔を逸らし、疑問符を浮かべたままに霊夢も向き直る。
そんな風に静かなまま、風や虫の囁くまま、ただ穏やかな時間が流れて行く。
そして、気付けば歌は終わっていた。
「…………ふぅ」
「良い歌だったろ?」
「ん……うん」
互いに耳に付けたイヤホンを外し、○○はmp3プレイヤーをポケットに仕舞い込む。
彼女はどうしてか憂いを秘めたような表情のままに夜空を見上げ、余韻を吐き出すように
小さなため息をついた。
「……霊夢」
「ん?」
「博麗、霊夢。私の名前よ。お互い、自己紹介してなかったじゃない」
ああそう言えば、と今更のように気付く。
無理も無い、互いに息をつく間もない驚きの連続だったのだろうから。
「俺は、○○。よろしくな、えーと……霊夢、ちゃん?」
「普通に霊夢で良いわよ……うん、よろしくね、えーと……○○、さん?」
「あはは、○○で良いよ」
互いにひとしきり笑い、さてどうするか、と○○は町の光が輝く、鳥居の向こうを見据える。
きっと町々が夜にさえこうして輝いていることも珍しいのだろう、霊夢は不思議そうにその遠景を眺めていた。
こうしていても何も変わるまい、と○○は口を開いた。
「……とりあえず、俺の家にでも来る?」
「……お邪魔して、良いの?」
「う……うーん……。いや、でも行き場も無いだろうし……。
それに、こんな真っ暗闇の中、女の子を置いて行くなんて漢の名が廃るってモンだぜ?」
とは言え、上手く匿えるのか、どうやって過ごすのか、どうやって帰してやれば良いのか、
なんて光明の見えないもやもやとした考えの潮流が、○○の脳内を支配していた。
それでも○○は、こんな可愛い娘を放置出来るほど、情けないつもりではなかった。色々な意味で。
「うー、迷惑はかけたくないけど、私も行く所がある訳じゃないしね……。
申し訳ないけど、少しの間お邪魔させて……えーと、お邪魔させてください」
お願いします、と頭を下げる、幻想的なまでに可憐な少女が一人。
……いかん、送り狼になんて成らなきゃ良いけど、なんて思いを無理矢理かき消して、
今後の先行きを憂う男○○ただ一人なのであった。
「……疲れた。超疲れた。どっと疲れた」
「……ここが○○の家?」
「そうでーす……ふぅ」
立ち尽くす○○の前には、こじんまりとした一軒家がひとつ。
彼の住まう居城にして、立ち並ぶ他の民家と何ら変わり映えのしない、普通の家。
ここまでも問題だったが、ここからも問題である。
運良く人通りも少なく、その上暗かった為に、現実的に考えれば珍妙な格好をした少女は、
その印象強い紅白を闇夜に溶かし、何とかここまで辿り着くことが出来た。
とは言え、今度は室内である。
裕福でもなければ家は狭いもので、廊下なんか普通に歩いたら、
誰かと鉢合わせる、そうでなくても扉越しに人影がひとつ余計にあったりしたら、
違和感どころか誰か居るのなんて丸分かりだ。
まさしく、八方塞がりである。
「……どうしよう。普通に入って行く訳にもいかないし……」
「……んー。こっちでは、そう言うのって駄目なの?」
不安そうな霊夢の顔に、○○自身も少し表情を曇らせた。
「駄目って言うか、色々面倒なんだよな。身元も分からない、住んでる場所も分からない、
ましてや見ず知らずの女の子。親を説得する自信が、あんまり無い……」
正体不明の女の子など、現実には真っ先に公的機関のお世話になるべき存在である。
ううむ、と顔を傾け悩む少年少女がひとりずつ。
虚しい空気を時折切るように、遠くの家から大型犬の遠吠えが響いている。
「……そうだ。あんたの部屋って、どこ?」
「え? えーと、あの窓の所だけども……」
照明は消してあるので今は真っ暗な窓から、少しばかり覗く○○の部屋。
「よーし。見てなさい」
え、と○○が声を上げる間も無かった。
霊夢が、浮いた。
まるで重力なんて最初から無いと言い切るかのように、ふわりと。
風も浮力も無いだろうに、どうやって浮いているのか、どうして浮かんでいられるのか。
ただ、何事にも何者にも縛られず、彼女は確かに飛んでいた。
「あれ」
……窓が開かない。
現実を幻想で切り裂くような出来事は、部屋の窓にかかっていた鍵によって終止符を打った。
まあ、彼女は未だ中空に支えを持つかのように浮かんでいたのだが。
「……鍵、かかってるんだけど」
「あ、ああ、うん、ごめん。部屋行って開けて来るから、ちょっと待ってて」
はためく彼女から目を逸らし、○○は駆け出す。
飛び立つような早足で玄関を開けると、靴なんかも放り出して二階へ向かう。
誰かがお帰りの声をかけてくれたような気もするが、それよりも部屋に霊夢を招き入れねば。
さてはて、ホントにどうなることやら……。
「ふぅ、美味しかった。ご馳走様!」
「ああ、礼なら俺の親にどうぞ。言えないけど(俺の飯……)」
……まあ、良い笑顔が見れたからよしとしよう。
「さて、詳しくお話を聞きましょうかお嬢さん」
「なんか気色悪いわよ」
「そこは気にしない……ふむ」
ひとつ、ため息をつく。
夕飯の半分以上を持って行かれた訳だが、俺にはインスタントなり何なり食べる物はある。
何はともあれ、この状況くらいはどうにかしなきゃならんのだ。
目の前に広がるよく分からない品々の中でも、とりあえずは御札を一枚を拾い上げて観察してみる。
……なにやら、文字とも記号とも取れるような羅列がびっしりと。古代文字なんて読めません。
「……コレ、何が書いてあるん?」
「ん? 私のありがたーいお言葉」
「さいで……」
内容はどうあれ、妖怪やら幽霊やら、そんなものが居るなら確かに効きそうな代物ばかりだ。
針に御札に陰陽球に御幣に……一体何処に入っていたのかと。
とは言っても、流石にここに有る以上の品物は持ってはいない様子だ。
「姿を隠せる、とかそういう便利な術とか使えないの?」
「それじゃ私が妖怪みたいじゃない。無いわよ、そんなの」
そんなご都合主義ではないか。参ったなぁ。
不思議な女の子であることに変わりはないけど、これじゃ出歩くのでさえ一苦労だ。
先ず、この格好だよ……。
可愛いのは確かなんだけど、何のコスプレかと言われかねんし……。
待てよ、そう考えるなら、普通に女の子女の子した服を用意してあげれば……。
「えい」
「うわ」
黙り込んでしまっていた俺の額にピシ、と御札を貼り付ける霊夢。
何でくっついてるのかは分からんけど、これじゃどう見てもどこかの大陸風妖怪。ゾンビだっけ?
いきなり何なんだ、と御札を引っぺがす。なんだかほのかに温かい。
「ダメねぇ。なんだか、上手く霊力が使えないみたい」
「霊力?」
「ええ。空を飛んだりすることの原動力みたいなものかしらね。本当なら、
妖怪の一匹や二匹くらい軽く吹っ飛ばせるくらいの霊力を込めたつもりだったんだけど」
俺を吹っ飛ばすつもりだったのかね君は。
人間に効くかどうかはさておき、結構普通に危険な考えじゃないですかね霊夢さん。
と言う色んな文句を、次々に浮かぶ問題に閉じ込めて、ううむとまたひとつ呻く。
「しっかし困ったなぁ……先ずは食い物だろ? 寝る所も必要だし、便所だって行かない訳にゃいかんし、
風呂なんか女の子には大事だろ? 歯磨きとか、それに服とかだって必要だし……う、うう」
「…………迷惑、よね」
え、と呟く間も無く、窓際に立つ霊夢。
たったそれだけのことなのに、立ち尽くす彼女の横顔にやはり惹き付けられてしまって、
それでも何か口走ることは出来なくて、ただ見つめていた。
鍵をかけていないままだった窓を大きく開け、霊夢はその黒髪を風に揺らしながら小さく笑んだ。
「……無理は流石に、言えないわよ」
「…………」
霊夢は窓枠から身を乗り出すと、そのまま風に乗るように、何の拘束すら感じていないかのように、飛んだ。
「それじゃあ……さよなr」
「待った」
でも、なんだかその顔は寂しげにも儚げにも見えて。
名残を惜しむようなその顔に、俺自身名残を残してしまうだろうことを、したくなくて。
自然と、口は開いていたんだ。
「……それじゃあ、俺の面目丸潰れってヤツだろう?」
驚いた顔も、やっぱり可愛くて。
「……だけど」
「いいんだ。俺が何とかしてやるから、黙って面倒見られなさい」
思えば、一目惚れ、ってヤツだったんだろう。
「…………私は、此処に居るべきじゃないもの」
躊躇い無く、その手を掴んだ。
背を向けた一瞬、はためいた袖から覗く小さく白い手を、少々乱暴に。
無理に振り向かせる形になってしまった彼女の顔は、やはり驚きと、少しの戸惑いに満ちていた。
そんな顔に、小さく口元を緩めてやる。
「……あんた、馬鹿でしょ」
「よく言われるね」
小さく呆れを覗かせる笑みに、皮肉たっぷりに笑顔を返してやった。
「高く付くわよ。それも、間違い無く」
「ええ。構いませんとも、お姫様」
似合わないなぁ、なんて自分で思いながら、
体重さえ感じない、空気に触れているようにさえ思ってしまうような彼女を部屋に引き戻すと、
改めてその手を、壊れないように強く握る。
「ちゃんと帰してやるから、それまで我慢してやってくれ」
「ええ。こっちの事、たくさん知ってから帰らせてもらうわ」
今もこれからも、ずっとこの娘の、霊夢の笑顔を見ていたいなんて、言えなかった。
けれど、この瞬間に彼女の笑顔が見ていられるだけで、俺は少なくとも幸せだったのだと思う。
さぁて、どんな面白いことが待っているやら……?
───────────────────────────────────────────────────────────
轟、とひとつ風が吹く。
今度はしっかりと鍵をかけた窓が、軋むように鳴る。
鳴りはしても、揺らぐことは決して無い。文明の賜物だよね、と思う。
これで轟音さえも防げたなら完璧だろうに。そんな物を作るお金は無いけど。
夜の帳は下りたままに、客用の布団に包まる霊夢の影が小さく揺れた。
一通り話は聞き終わり、あんまりにも眠たそうだったので、無理をするなと先に寝てもらった。
正直、俺も寝たいです。
窓から覗くお月様は、手元のスタンドライト並に明るい光を注いでくれるが、
勿論それだけじゃ事足りないので、慎ましやかな明かりを灯したままに無傷のノートを開いていた。
擦り減ってさえいないシャーペンのコックで顎先を軽く掻くも、良い考えは書き出せず、掻き出せない。
……さてなぁ、どうしたもんかなぁ。
向こうがどう言う世界なのか、霊夢がどんなことをしていたのか、そしてこれからどうすべきなのか。
それらをまとめればまとめるほど、何だコレはという代物に変貌していくメモ帳。
そして覚え書き程度では足りないので、ノートへと媒体を移し、書き始める所だったのだが……。
……俺も人間だ。眠くもなる。大事なことなので二回言った。
先ず、彼女は幻想郷という場所の住人で、しかもそこの管理者だった、ということ。
と言う事は本来、幻想郷を離れられる存在ではないはず。
なのに此処に居る。と言う事は、何か原因があるはずなんだ。
で、彼女が言うには、原因としては八雲紫、という妖怪しか挙げられない、ということ。
と言っても、霊夢から聞いた話では紫がどんな妖怪かまるで想像出来なかった。
要約すると、金髪美人の女性で、ボンキュッボンで胡散臭くて、見た目と同じく底が分からないような胡散臭いヤツ、
とのことだったんだが……うん、分かる訳がない。
彼女の眠る布団の横に畳まれた巫女服(かも疑わしい)を見る限り、
妖怪という者でさえ、ああいう絢爛とした格好をしているのかな、なんて思う。可愛いし。
とりあえず、俺のジャージを貸してやっている。ブカブカって、良いよね……。
そ、そんなことより……だな。
バレないようにしなきゃなぁ、とか、飯とか諸々どうすんだ、とか。後先を考えると重責ばかり。
嗚呼、かあさまとうさま、どうかこの娘を受け入れ私の……げふん、とりあえず、だ。
少なくとも着る物はいくらかある。当面はそれで何とかするにして、
数日程度しか持たせることは出来ないと思う。それじゃあどうするか、なんだが……。
「……困ったなあ」
こんな時は、自分に姉妹でも居たらな、なんて思う。
そもそも『こんな時』ってのが通常有り得ないような状況なんだろうな、とは思うけども。
ひとまず手を休め、一応引いておいた自分の布団に足先だけでも突っ込む。
……腹も減ったなぁ。
ふ、と短くため息をつき、静かに寝息を立てる霊夢の顔をちらりと覗き見る。
歳のくらいは俺と同じか、それを少しばかり下回るかくらい。
けれど寝姿はどこか幼い子供のように見えて、犯されざる神聖な何かを髣髴させるような気がした。
……俺のこと、信用してくれてるからこんなに無防備なのかな、なんて。
会って間も無い彼女に、そんな気持ちを抱くのはおかしなことかもしれないけど。
……不安なのは、きっと俺だけじゃないさ。
滲み出た悪戯したくなる気持ちを蹴りだして、改めてノートに向かった。
まるで某洗剤で根こそぎ洗い尽くしたかのように真っ白なそれは、ぼやけた瞳に
まるで羊の群がめえめえと鳴き喚いている景色にも見える気がした。
……羊が一匹、羊が二匹、羊が、羊が、棺が、棺から目が、目が、犬が、鍋が、神父様が……。
うわあ、羊の群がいつの間にか真っ白なミディアンに……。
戦列を立てて、真っ白に、真っ白に、まっ、し……ろ……。
ゴトン、と鈍い音と痛みを立てて、目の前の白にダイブする。
「……だーめだ駄目だ。仮眠。ちょっとだけ仮眠。頼むから仮眠……」
目を閉じると、その白も真っ黒に塗りつぶされざるを得なかった。
こう言う展開って、間違い無く、気付くと朝にさ、なって……。
「にゃあ」
……にゃあ?
「みゃあ、にゃー」
猫の鳴き声で目が覚めた。
周りは暗い。まだ夜みたいだ……。
うぅ、頭が重い。何か、妙な夢を見ていた気がする。
なんか、変な格好をした女の人にからかわれていたような、何か聞かれたような……。
呻きながらも、白い海から這い上がる。
寝ぼけ眼を揺らして真直ぐにしてみれば、机の上には我が家の猫が、
上品なまでに黒い尻尾をプランプランと揺らし、早く撫でてくれと言わんばかりに
細めた瞳でこちらをじっと見つめていた。
「お前は可愛いのう。よーしィよしよしよしィ」
どこかの王国の主のようなノリでわしわしと撫でてやると、
最初こそ気持ち良さそうにしたものの、もう十分だとばかりに嫌そうに俺の手から頭を引っこ抜く。
が、離れようとはせずに、尻尾を左右に揺らして何かを期待しているような目つきだ。
……あれ? お前、尻尾に怪我でもしたのか?
それこそ、有名な歌に出て来るあの猫のように、尻尾の穂先が鍵のように曲がっていた。
触ってみるが、尻尾をフラフラさせはせども痛がっては居ない様子。
「見ろよ、悪魔の使者だー……まあ、無反応だよね、そうだよね」
「みぃ」
俺の馬鹿みたいな手振りを無視して、くぁ、と欠伸をひとつ。
気まぐれな猫の様相そのままに、机から飛び降りて伸びをする。
お前のように、俺も暢気に成りたいモンだよ……。
なんてポヤッと考えていたら、不意に彼女が振り返った。
我が家の子はメスだ。なのに、とある戦艦の名前が付いていたりするわけだが。
「みゃ~あ?」
「……疑問形? どこの竜王伝説だよ……」
ここは、はいorいいえ、で答えるべきなのだろうか……。
って、何を猫の鳴き声ひとつに真剣になっているのだろう。
とりあえず、今後すべきことをノートにまとめておく程度は今夜中に……って、にゃあ。
気付けば俺の胡坐に入り込み、わざわざ見上げる形で再び彼女は鳴いた。
「みゃ~あ?」
「なんだよー。珍しく甘えてくるかと思えばにゃあにゃあ鳴き喚きおってからに。
はーいはい。俺様は忙しいのです。下々の猫に構ってる暇はにゃーいのでーすー」
「……みーい」
何故か満足げに喉を鳴らすと、撫でてやろうとする手をすり抜け、
なんとまあ霊夢の眠る布団の中に避難して行きやがった。なんてうらやまs……げふん。
霊夢は身じろぎひとつせず、また彼女も鳴き声ひとつ上げず、少々もごもごしたら静かになった。
くそうぅ、やっぱり俺も眠いなぁ……。
どうせ筆が進まないなら、明日早起きして何とかする手立てを考えたって、大丈夫さ……。
「明日、目が覚めたら彼女が我が家の一員とかになってたりしますように……もうダメ」
願い星さえここまでたくさんの光が見える星天じゃ見えないだろうな、なんて思いながら、
夏の星座を横目に布団へと横たわる。
気付く間なんて一瞬も無く、意識は夜のまどろみに飲まれていった気がした。
はた、と目が覚めた。
明るい陽射しが顔に差し掛かっているけど、むしろ顔を洗った後のように気分が良い。
夜中に目を覚ました時よりずっと寝覚めも良く、頭が随分スピーディーに回り始めている気がした。
おぉ、この気分なら、いくらでも解決策が出て来る気がす、す、す……希ガス?
……なんだ、これ。
「れいむ。なあ、えーとれいむさん。おきてくださいませんか。ねぇ」
「んー……? ふぁ、おはよう。これ、意外と着心地良いのね……」
「ジャージー牛乳が美味しいのは分かったから、ほら、あの、ごめん起きて」
「え゛あ゛ー…………あ、ぇ?」
霊夢の枕元にうず高く積み上げられていたのは、たくさんの、本当にたくさんの衣類。
見る限りどれも女物で、可愛らしい物ばかりを選りすぐって、その上キチンと丁寧に畳まれていて、
もうとにかく何と言うか、何とも言えない状況だった。
「…………紫ね、間違い無いわ…………」
そう言ったきり、またしても布団にもぐりこむ霊夢。って、ちょっと待てい。
「君が現実から目を逸らしてどうするんだコラ……ほら、起きてよ」
「ん゛ー……」
そんな霊夢の様子に苦笑しながらも、俺の頭の中は結構な事態に混乱していたと思う。
……誰が持って来たんだ、誰が。
なんだかもう、色んな面倒ごとが一挙に押し寄せてきて何がなんだか……。
とりあえず、折角冴えた思考が曇る前に……。
「……あー。うん、よし。朝飯、朝飯取って来るよ」
「はーい……」
毛布から手だけを出してひらひらと。
それだけ見届けてから扉を開けると、夏にしては冷たい空気が頬を撫でる。
階下の窓から差し込む光が、さながら何処か神秘的な森の中みたいだ。
なんだろうか、こんな悩みなんか一切合切全て持って行かれてしまうかのような、
奇妙な爽快感を感じる朝は……。
訝しみながらも階段をひとつひとつ下って行くと、いつもの朝飯の芳香が漂って来た。
「あ、母さんおはよ……う?」
……何故か、朝飯が、いつもより、ひとつ、多かっ、た……。
「そ、それじゃあ、行ってきます……」
「行ってきまーす」
語気も弱く出かけることを告げる俺と、完全に家族の一員と化している霊夢の声。
俺に一歩遅れて踏み出した外、真新しい朝の光に霊夢は眩しそうに目を細めていた。
……何度も言うようだが、彼女は可愛い。可愛すぎる、と言っても申し分無い。
小さな白いリボンがあしらわれた薄い紅の帽子に、流れる黒髪が良く映える。
夏らしい淡い水色のワンピースに、フワフワとした白に柔らかなフリルが飾られたベスト。
敢えて何も履かない素足には、歩きやすそうな桃色のサンダルを装備して。
嗚呼、何処からどう見ても僕の傍に居るようなタイプの女の子じゃないです……。
「ん? どうしたの?」
帽子の鍔をくいと上げ、可愛らしく微笑む霊夢。
元が最早反則業だってのに、これ以上と無い笑顔を喰らわせられたらどうなるだろうか。
男だったら、誰だってこの笑顔に陥落せざるを得まい……
そんな一挙動ごとに、俺の心臓は餌を強請る小鳩のように騒ぎ立てる。
「い、いや、あの。こ、こんな可愛い子が俺の親戚ってどう言う設定だろうな、と……」
「ふふ、兄妹って方が良かったのかしら? おにーいちゃんっ」
「げふゥ」
だ、駄目だ。しぬ。死ぬから。
「……そんなに良い反応されると、お洒落の甲斐もあるってものよね」
ひらひらとベストを揺らし、機嫌も良さそうにくるくるとポーズを決めたりする霊夢。
やっぱり、褒められるのは嬉しいモンなんだろうな、なんて思いながら、心の鼻血を拭った。
「次も期待しておりますです……」
「あはは……でも、良いの? 私のこと思いっきり親戚扱いしてたわよ、あんたの家族」
「……それなんだよなぁ」
町への道を踏み出しながら、またも現れた問題にどう対処すべきかと小首をひねる。
が、隣を歩く霊夢は暢気そのものを体現したかのような足取りで、あっちを見たりこっちを見たり。
幾度と無く車道を駆けて行く車の群れを、興味津々と言った様子で見る霊夢だが、
流石に良くあるSFモノのようなことは口走ったりしないようだ……。
「んー、車のことは一応知ってたけど……あんたの部屋にあった、
式神の別種みたいなものなのかしら」
「……式神? 別に俺は陰陽師でもなんでもないぜ?」
突然飛び出して来た珍妙な単語に、俺は尚更首をかしげた。
「どんだけ首曲げてるのよ。ほら、なんて言うんだっけ。
あの、ぱそこん、だったかしら。幻想郷では式神扱いされてるんだけど、
えーと式神って言うのは、うーんと……説明が面倒臭いーぃぃ」
変に語尾を延ばしながら、説明出来ないもどかしさを呻く霊夢。あと、発音が。
ぱ、を上げたらなんかどこかの漫画の効果音みたいだぞ。
「えーと、確かにパソコンだったら持ってるけど……。向こうじゃ、
パソコンを式神って言うの? あと霊夢、その発音だと効果音みたいだ。パシコンパシコン」
「……ぱしこん? ぱそこんじゃなくて、パソコン?」
「そうそう……これじゃ、帰った後のことも色々と考えておかないといけないな。
風呂とかトイレとか、俺が付きっ切りになってやらなきゃ、なー?」
「……うっさい」
なんて馬鹿みたいな話をしている内にも、道は段々と広くなり始め、駅周りらしく人の多さが顕著になる。
そして、ざわざわ、がやがやと。遠くからでも分かるその雑多に雑多な雑音。
道沿いに歩くと、人ごみもかなり増え始め、ついには人の海と呼べるくらいのレベルになり始める。
行き交う車よりも、行き交う人々の多さの方が霊夢にとっては驚きのようだ。
すれ違う人々から庇うように、俺は霊夢を後ろ手に背中の方へと誘導する。
背後で分かる、その怯えながらも興味が尽きない、そんな子供みたいな霊夢の様子。
例え、俺からして見慣れた風景でも。
「……そ、外の世界って、こんなに人間が居るのね……。
弾幕なら避けやすいのに、どうしてこんなに人がたくさん居るのよ……」
ぶつかるぶつかる、なんて言いながらフラフラリ。
「まるで籠の外を知らない妖精さんのような口振りですな、霊夢さん。
ほら、ぶつかると危ないから、その……手、繋ごうぜ」
「ん……うん」
……さり気無く、手を繋いでみたり。
嫌がられないかな、なんて思いながらも、この温もりは確かな答えを返してくれてる、と思った。
「……ここは?」
大きな駅の看板を見上げ、そして出入りする人達を避けながら、
俺達は構内へと向かっていた。
此処、俺の住む場所は東京に近く、かと言って何か有名である場所でもない、そんな場所。
「駅と呼ばれたるものにござりまする。羽虫が如き人間共が日夜飽く事無く出入りを繰り返し、
いずこかへ消え、いずこかより来たる、おぞましき魔窟への羅生門にござる」
「……んーと、駅っていう場所なのは分かったわ」
「無反応かよっ。結構頑張って考えたのに、突っ込めよっ」
「考えてたのね……」
もう慣れた、とばかりにずいずい俺を引っ張って構内へ進む霊夢だが、
何かに気付いたように立ち止まり、急に振り返る。
「わと。危ないぜ、ぶつかるよ」
この距離で正面衝突したら意外とその、嬉しいけど。
「んーと。何処へ行くの?」
「……そら、まあ、君は分からんわな」
「ん」
笑顔で頷くなよ……。
さて、とりあえず俺が案内出来るような所は、意外と少ない。
なにせ、俺も数年前にこっちに越してきたばかりの上、普段友人とは近所でしか遊ばない。
まあ、行くとしたら池袋とか新宿とか……あとは、まあ、趣味に合わせた場所とか。
「……とりあえず、電車に乗らなきゃ始まらないよ。
行く場所は歩いてる途中にでも教えるから、先ずは切符買わなきゃ」
「面倒ねぇ」
「面倒でも、世は並べてなんとやらとか言うのさ……さてさて、行こう行こう」
切符の買い方、行き先のこと、周りの見知らぬ存在だろう諸々のもの。
色んなことを説明しながら、人の波もお構いナシにゆっくりと歩きながら説明する。
そりゃあ周り中見た事も聞いた事も無い物だらけなら、
あっちを向いたりこっちを向いたり、はたまた触ってもみたくなるだろうに、
それでも俺の話を聴きながら、霊夢はおとなしく付いて来てくれた。
……まあ、知らないものは怖いもんだとは思うし、触ろうにも勇気が出ないこともあるのかも?
でも話に耳を傾けるその様子は、然程怖がっては居なかった、
と言うよりとても楽しそうで、語り部冥利に尽きるな、なんて思ったりもした。
俺は知ってることを並べてるだけなんだけどね。
人の波に乗るように、かいくぐるように、結局最初から最後まで霊夢の手を引いて電車に乗り込んだ。
ようやく一息付けたからか、俺と霊夢は自然に手を離して、
意外と空いていた座席のスペースへと座った。
動き出すのと同時に、霊夢はまたしても驚いた様子で車窓から外を覗く。
うぅむ、なんだか幼児をあやしているようで楽しいな……なんて、口が裂けても言えませんね。
「……中は意外と空いてるのね。あんなに人がたくさん居たのに」
外を見るのもそこそこに、大して客の居ない車内を物珍しげに眺める霊夢。
「まあ、どっちかって言うと、出勤してくる人のが多い時間帯だからかも」
「ふーん。あんたは仕事してないの?」
「俺はまだ学生ですよ……」
座席のマットレスをもふもふしたり、帽子のズレを直したり、見ている限りは普通の女の子、
と言える具合に収まってくれているとは思う。何より可愛いし。
それでも何か視線を感じるのは気のせいだろうか。まあ、気のせいだろう。そう思いたい。
……少なくとも、服装は普通にそれらしい女の子のスタイルではあるはずだし、多分。
「……うわーあ……すごい」
窓辺から過ぎる景色の、薄ら霞むくらいに遥か遠く。
ビルの向こう、そのまたビルの向こうにそびえる、空の青に映える建造物の群れ。
俺だって、改めて見ればその大きさや美しさに驚きくらいはする。
でも、それが当たり前になっている身としては、そこまで驚く、という気持ちはあまり分からない。
けれど、霊夢の素直に感嘆する横顔を見る限り、心底驚いてるんだろうな、ということくらいは理解出来る。
「これから行く所なんか、もっと大きなものがあったりするよ」
「…………人間って、いつから妖怪みたいなことをするようになったのかしら」
「そんなにすごいか、この街並みは」
「うん……」
素直に返事をすると、また車窓に張り付くように景色を眺め始める霊夢。
俺も同じように、何度も眺めてきた太陽光に煌く文明の産物をぼやーっと眺めてはみる。
同じような景色が同じように続き、同じようなビルが同じように流れて行く。
同じような駅に、同じようなアナウンス、同じような諸々は、昨日も一昨日もこれからも
変わらないんだろうことを誇示するように、ただ流れて行く。
振り向いたその先に居る彼女だけが、俺の思う、いつもとは決定的に違う、何かなんだろうな。
そんないつもを切り拓く術を彼女に求めるのは、きっと正しくないかもしれないけど。
「……あのさ、幻想郷のこと、教えてくれよ」
きっと俺の知らない何かをたくさん知っている彼女を、
俺の知っている光景に心奪われている今から引き剥がす。
俺だって、知りたいのさ。
人間、妖怪、幽霊、神様、そんな。
そんな、俺の知らない世界を。俺の知らない、幻を。
「ん? いいけど……そんなに話してる時間あるの?」
「ん。乗り換えも無いしね、東武東上線だから」
「……?」
電車は、目的地へと向かって行く。
俺の知らない彼女を引き連れて、俺の知った街へと向けて。
俺がそれを教えるなら、彼女からもまた、それを教えて欲しいと、そう思った。
この線に乗り換えは、無いから。
───────────────────────────────────────────────────────────
唖然。
まあ、言うとしたらそんなところなんだろうなと。
ぽかんとした表情のまま空に近い何処かを見上げて硬直している彼女の手を引いて、
俺は人の海をただひたすらに突っ切っていた。
「ね、ね、○○アレなに? あのおっきいのは? アレ光ってるわよ? 何か食事処みたいなのもあるわよ?
ちょっ、ちょっと待ってよあんまり引っ張らないでよ、○○ってばー……」
と、頃合の喫茶店を見つけ、たった二人なのに雪崩れ込むように入店、
即座にアイスコーヒーを二人分頼み、店の内部なんて気にもしないままに物凄い勢いで二階席の窓側、
それも極力端の方へと座り込んだ。
ようやく一息付いた所で、溜まっていた息を吐き出すように俺は口を開けた。
「…………イェア。疲れた。さて、ようこそバーボン……じゃなかった」
「なに言ってんのよ……まったくもう、全然眺められなかったじゃない」
ほふう、とひとつため息をついて、夢見る少女の横顔そのままに、霊夢はまた空を見上げた。
正確には空ではなく、そのいくらか下にそびえる、ビルだの建物だの、とにかく建造物。
話を聴いた限りじゃ、金属やガラスで建物が出来てるって自体もうすごいことだと思ってるんじゃないだろうか。
まあ、それを言うなら我が家の周りだってそういう建物だらけか?
さて、これからどうしようかを決めないといけない。
「ま、とにかく落ち着いたところで。さて、どこへ行こうか?」
「そんなの私に分かる訳無いじゃない。楽しければどこでも良いわよー♪」
ま、そうだけど。既に声色からしてとても楽しそうです……。
さて、いきなり喫茶店に引っぱり込んだ訳。
あんまりおのぼりさんなノリが過ぎれば、例え現代少女チックであろうと稀有な目で見られるのは分かりきってる。
そうでなくてもハシャいでるんだから、せめてこれからの行動予定くらいは立てておかないと……。
……しかし、なんだかアレだな。よくよく見ればこの喫茶店、周り中カップルだらけじゃないか、コレ……。
「ごゆっくりどうぞ」
「あ、はい」
空気の割に無愛想な店員が、態度と同じようにキンキンであろうアイスコーヒーをふたつ、テーブルに置いて行く。
とは言え、目の前でこんなに楽しそうにしている少女が一人居れば、
こんな氷くらいものの二秒もあれば溶けてしまいそうだ、なんて密かに思った。
まあ、霊夢とはその、恋仲ってほど親しくもなってないけどさ。
「……周り、カップルばっかりね」
「ッエィ゛ィ!!」
思いっ切り、真に思いっ切り舌と氷を噛んだ。
急激に冷えて行く口の中と、血の気が引くような鋭い痛み。
氷がバラバラなんだから、舌は、舌はどうなってる。痛いのは分かったから。
「……大丈夫?」
「…………し、心底の呆れ顔と、気遣いのお言葉どうも」
いでえ。いっでえー。やばい。
噛み千切ったかと思った。これ、これ思いっ切り鉄の味がする。
舌ぁ切れたかなぁ、なんてもごもごやっていると、
「ホントに大丈夫?」
「んあ゛……ッ!」
ぐい、と。
その小さな指先が、俺の顎先を捕まえた。
……近い。顔が、とてもとても、近い。
黒い瞳は真昼なのに飲み込まれそうに黒くて、でもどこか鳶色がかったその宝石は、
そんな些細なことを意に介す事さえなく、臆する事もなく、俺の口をある意味無理矢理にこじ開けて、
心配そうな色はそのままに口内を覗き込んでいる。
「ん、ちょっと血は出てるけどすぐ止まるでしょ。馬鹿ねぇ……」
何も言えないままの、なのにとても長い一瞬だったけど、霊夢がふっと離れた直後、
霊夢自身の顔も、ふっと含みのある笑顔になった。
「……ん? もしかして、嬉しかった?」
「んな、ば、馬鹿ですね馬鹿言いなさい」
「ふーん、二回言うくらいには動揺してくれるのね」
「うっさ、うっさい!!」
きっとすぐ治るから平気よ、と一言。
そして、またも何処から出したかその御札を俺の額に軽くぺしん。
ふわっと、そんな風に温かい。
「なんてったって、博麗の巫女のお墨付きですわ」
「はは、さーぞご利益があるんでしょーねー……」
以前と違って額には張り付かず、ひらりと手の平に落ちた御札の温もりを感じながら、
コーヒー一杯分のご利益はもらっておくことにした。
「そう言えば、ここの御代は?」
「それくらいは奢る気概くらい見せてやっても良いだろ?」
「あらそう? あるのに」
あるのに、と申したか。
ふと過ぎった言葉が掻き消されるのは、目の前に大きな財布が現れるのと同時だった。
随分と上質な革を使っているんだろう、女の子が持つには大振りなサイズのこげ茶色の財布が、
どこに持っていたのやら霊夢は何のこともなく取り出した。
「ほら」
「……えーと、これは?」
「服と一緒に置いてあったわ。これと言って書き置きも指示もなんにもナーシ。
となればコレは私の物。使ってあげるのがお金の為ってモンじゃない?」
「巫女の台詞かね、それは……」
盗ったりしないから、と前置きひとつで了承を取り、財布の中身を改める。
少しばかり霊夢の視線が、その、痛かった。
「…………なんじゃこら。なーんじゃこら」
底無し。俺は以前、磯に空いた大きな水溜りを見たことがある。
それはもう、快晴のお天道様が真直ぐに陽射しを浴びせてらっしゃるのに、
光を否定するくらいに反射するものも返事を返すものも無い、そんな深遠の真っ暗闇だった。
それとまさしく同じものが、今ここにぽっかりと口を空けている。
ただ少しばかり大きなだけの、この洒落た財布に、そんな穴が。
「手、入れてみなさい」
「え゛。え、あー……おうよ」
入れろとな……少しばかりビビりながら、手を突っ込んだ。
と、よく触ったことのある、けれどもこの量は異常じゃなかろうか、と感じる、
そんな紙の手触りが、沈黙より重い暗闇の中から手招きしている。
さあ、覗いてご覧よ、私に陽を浴びさせて頂戴よ、と。
思わず『それ』を、引っ張り出してしまった。
「…………諭吉さんが、ひとーり」
ふたーり、さんにーん、よにーん、ごにーん、ろくにーん、なな、な、な……。
「な ん じ ゃ こ り ゃ あ あ あ ぁ ぁ ぁ ぁ あ ぁ ぁ ぁ ー !! !!」
「……ここは?」
一抹の叫びによって注目のアイドルとなった俺たちはそそくさとその足で店を抜け出し、
大通りを抜けて、キンキラに目立つ喧騒極まりない店舗の前に立っていた。
出て行く人こそまばらだが、入っていく人の方がむしろ多いんじゃないか、そんな場所。
「ゲームセンターってヤツさ。大人も子供もおねーさんも……じゃなくて、
ちょっとした娯楽施設だよ。いろーんなもので遊べたり、楽しんだり出来る」
「ふーん……うるさいのねぇ」
「まあね」
態度こそ平静を装っているようだが、その身に隠した好奇心が今にも振るえ立たんばかり、
とでも言ったら今の霊夢の様子にピッタリなのかもしれない。
「ね、アレはアレは?」
「はいはい、子供じゃないんだからひとつひとつ見て行こうぜ」
「わかってるわよーぅ……」
プリプリと、出会った時のような表情のままに俺に付いて来る霊夢。
そう言えば、まだ会ってから一日経ったか経たないかくらいなのにな……。
俺の横で楽しげな様子を存分に発揮する彼女は、きっとただの、可愛い女の子の一人にしか、
最早俺の目には映らなくなってしまった気が、少しだけしていた。
感慨に立ち止まっていた俺を、急かすように彼女が振り返る。
「……どしたの?」
「あ、ごめん。行くか」
「ええ」
振り向いたその鳶色には、未だ不思議な気持ちを感じたけど。
ガヤガヤワイワイピコピコガチャガチャと。
色々な音が飛び交う中で、その全ての発生源が楽しむべきものだと俺は知っている。
そして楽しめるだけの力を、俺は今さっき手にした。手に入れてしまった。
ならば、これを使ってやらない手は無い、そうだろう、そうに違いあるまい!!
「さーあ金はある!! 全てのケイヴ筺体に100クレずつしてでも全踏破してや……る、のは、
うんよしまた今度でいいや!! さて霊夢!! なにが気になる!!」
「なにあの、えーと、アレ!!」
「子供かお前は!! よし、いいぞ、お兄さんが何でも買ってやるぞ!!」
「その財布は私のよ!!」
そんな、限り無くそんなノリだった。
「これ、中に手入れられるんだけど」
UFOキャッチャーの中身を根こそぎ引っ張り出して、熊やら兎やらのぬいぐるみを抱え込んで、
いつの間にかもっふもふなことになっている霊夢。
中々絵にはなってるけども、うん、明らかにそれは異常な構図でした。
「ま、待った。そう言う不思議な力はダメ。ナシ。どうやった。見てなかった。返しなさい」
「えー……仕方ないわねぇ」
ぶーぶー言いながらももどうやら戻してはくれるらしい。
なんて目を離した隙には、何事も無く全て元通りのキャッチャーに戻っていた。
とりあえず、ちゃんとしたプレイの仕方を教えてやらねばいかんのは間違いないようだった。
と、目前にあったUFOキャッチャーにコインを投入する。
「えーと、まず100円入れてー……」
「ふむふむ」
ボタンを操作して、とりあえずの一例を見せる。
要領が良いのか理解が早いのか、大体はコインを入れた後に即興で覚えてしまう霊夢。
一回教えたら、もう普通にプレイしてる人と変わらない手付きで、
どうやったら取れるかしら、なんて呟いてたりして、見た目はもう普通の女の子だ。
俺が説明する余地無いなー、なんて思いながら、俺は何をしていようかな、なんてよそ見をしていたら、
「ねぇ○○。これ、どこから出てくるの?」
「ん……はい?」
じゃっくぽっと! それこそそんな勢いで、ガラガラと。
よくある、チョコレートの詰まったお楽しみ箱を連想させるような、あのドーム型のゲーム。
チョコでチョコを押し出して、運良く崩れればその分がそのまま手元に入る、そのアレ。
それを、ホントにノリでやったんじゃないかな。そしたら、こんな有様だよと。
賞品の出口には、山積みとなったチョコが堂々と鎮座していた。
……どうするの、ソレ?
「あ、ここから出て来るのね」
「……何個取った?」
「ん? 数えてはいないけど……わりかし100個くらいはあるんじゃないかしら」
「すごく……幸運です……」
いや、だってそうとしか。
霊夢の持って来たバッグの底は、きっとハロウィンにでも使ったら楽しいだろうな、
なんて状態になっているに違いなかった。
しかも、恐らく彼女はそれをワンコインでやってのけた。それを幸運と言わずして何と呼ぶべきなのかと。
ていうか、持って帰るんだよねソレ……。
「とりあえず、後で食べましょ?」
「あ、ああうん。そうね、そうだね。保存食にでもしようね」
「じゃあ次はこれ、これやってみたい」
そうして指差すのは、ゲーセンといえばよく目にするタイプの、ガンシューティング。
その中でも多分難しいだろう位置付けにある、銃器がマシンガンの形をした筐体。
というか、普通女の子がこんなものやりたがるもんか? 俺自身は好きだけど……。
銃座がずいぶんとグロテスクなデザインになってるんだけども、霊夢はそもそも意に介してない。
それどころか、気付けばマシンガン片手にノリノリな訳です。
とりあえず、俺もマシンガンを拾い上げる。
「……まあ、うん。じゃあ、やってみるか」
「ノリが悪いわねぇ。これ、撃てばいいんでしょう?」
トリガーをくいくいと引き、画面を撃つ身振りをする霊夢。
「そうそう。っと、撃っちゃったから始まるぞ」
「んなっ」
チープな効果音と音響、ありがちなストーリー映像がブツリと途切れ、
腐り切った体を揺らして迫る大量の亡者達。
勿論映像劇だとは分かっているんだけど、間近にヤツらが迫ると手に汗握るものがある。
とは言えやり慣れてる分、このゲームにはそこそこ自信がある。
迫り来るゾンビーズの頭部を正確に狙い、射抜くようにバカスカと撃ち抜いて行く。
滾る、滾るぞ……なんて言ってる場合でもない。
と、直後にダメージを被った時のエフェクトが画面を覆う。
「ははは、霊夢もう喰らった!」
「ちょっ、何よコレ当たらないじゃない! 狙いがズレてるのよ、狙いがーっ!」
「ほら右見ろ右」
「え、ちょっ。待った待ったーっ!!」
……って、あれ。霊夢さん、慣れるの早くないですか?
最初の内こそきゃあきゃあと騒いでいたものの、何度か場数を踏む内、
気付けばその狙いは正確に、真直ぐに、時には奇抜に敵を撃ち倒す、そんな戦乙女がここに。
なんだろう、彼女は、色んなことに才覚がありすぎるような……。
「……あれ?」
「よそ見してると危ないわよー?」
「え、あ、応」
数分前まで喰らうがままだった霊夢サイドの状況だったのに、気付いたらライフが俺より多い。
どうやら的確にアイテムを拾い集めてる上に、狙った所にほぼ確実に敵が現れている。
偶然に偶然が重なったのかもしれないが、ボス到達時には既にスコアが俺を上回っていた。
「……待った。待て待て、おい、このスコア差はなん……」
「あ、喰らっちゃうわよ」
「んなッ。ぬわーっ!!」
俺のライフが零になるのと、叫び声が上がるのは見事に同時だった。
「あー、面白かった。次は何やるの?」
「……ゲーセンでお腹いっぱいになる日がよもや来るとは」
次から次へとゲームを踏破し、その道のプロフェッショナルでさえ羨むのでは、
とでも言えそうなくらいの成長率を見せ付ける霊夢。初回か二回目くらいまでは俺のが上手いのに、
気付けば追いつかれ、その次にはもう追い越されている、というくらいに。
うわあ、男の子の威厳台無しだぜ……。
なんかもうさっきのガンシューとかね、ギャラリー出来てたよね。
そりゃあ、ただの女の子が神技的な二丁拳銃でフリークス共を解体していればそれはもう……。
俺だったら、数ステージも越えた辺りで腕が疲れて……疲れて?
……待て、何かおかしい気がする。
「……ってかさ、腕疲れてないの?」
「ん? まあ、大丈夫かな」
かるーく腕を振ってみせ、誤魔化すように笑う霊夢。
待て、こんな細腕の何処にそんな強靭なパゥワァが隠されているというんだ。
俺でさえ、一回のプレイで結構疲れるって言うのに。
「ちょいと失礼」
「ひやんっ」
むにむに。あ、やわい……。
閃光、奔る。
主に目の前に星が。
「揉むなやめんか馬鹿っ」
「いでっ!! ちょっと本気で叩いたよね今!?」
思いっ切り叩かれた。そして、心なしか霊夢の顔が紅い気がする。
そりゃあ、乙女の柔肌にいきなり触れてしまったのは、まあ、よろしくなかったかもしれんけど。
「い、いきなり触る方が悪いわよっ」
「そいつはすーませんでしたー……ってか、ぷにぷにだよ。
いくらなんでも全然疲れてないとか変だろっ」
「そりゃあ、まあ、その……」
またしても違和感のある笑みを浮かべる霊夢。
と、その腕から何かがひらりと、剥がれるように舞い落ちた。
舞い落ちたそれは、どこか見覚えのある、御札。
「あ」
「……御札? あー、つまりはなんだ、これで力の底上げをしてたってことかい?」
「う」
今の接触で剥がれたんだろうか、拾い上げた札はほのかに紅く光っていて、
読み取れる形状の文字から察するに、やっぱり力に関わりのある何かを腕に施していたらしい。
ぺらぺらと霊夢の前に突き出して、俺は意地悪に笑ってみせた。
「ふっ、普段ならそんなものナシでも霊力を体に巡らせられるのよっ。
でも、こっちだと上手く行かないからそう言う媒介を、その……うー……。
……悪かったわね、どうせズルしてたわよ……」
むくれたままに、でもバツが悪そうに俯く霊夢。
「ま、楽しめたからいいさ。それに、そういうズルしちゃうくらいには、楽しかったってことだろ?」
「……ん。楽しかった」
顔を上げて、少し素直になり切れてないようなそんな顔で、
霊夢は小さく首を縦に振った。
「なら全然おっけーだ。ただし、次回からは反則ナーシ」
「えー」
「えー、じゃない」
なんて、馬鹿みたいに笑い合ったりした。
かえりみち。
斜陽が注ぐ電車の中、隣で首を人形のように前後している霊夢を眺めながら、
今日あった色々なことを思い返してみる。
……何を見ても騒ぐわ驚くわ、でも結果的には全て楽しんでくれた。そんな気がした。
けどまあ、アレだね、俺に『この』財布がなかったら、それこそスッカラカンだったと思う……。
なのに、必要な時以外には出て来てくれないんだ、この財布。霊夢から渡してもらった時は、
まるで見せ付けるかのようにたくさんのお札を吐き出したものを……。
それこそ、ゲーセン潰しからプリクラ撮りまくったり、それこそジャンクフードを買い漁ってみたり、
こっちのお菓子を心行くまで堪能させてあげたり、豪遊も良い所だった。
「……んー。必要な時しか出してくれないのかね」
他の乗客の、まあそんなに居ないけど、他人の視線を気にしつつ、
財布を引っくり返して(取り出す以外が思いつかなかったので)とりあえず逆さまに振ってみる。
予想通りと言うべきか、中で張り付いてるみたいに、お札は一枚たりとも出て来なかった。
まあ、考えても分からないことは、分からないままで良い、って友達も言ってたし……。
って、なんか状況的にそれはまずい気がする。
と、ふと隣の霊夢が窮屈そうに体を動かした。
「んー……まだ、着かないのー……?」
「おぉう起きた。んー、まだ着かないけど、次の次くらいで着くから起きてたら?」
「んー……」
眠そうな目をこすったかと思えば、またかくんと寝入ってしまう霊夢。
……よっぽど楽しかったんだろうなぁ。
そりゃあ、何の心配も無く楽しく遊べて、おまけに知らないことだらけ、
そりゃあ誰だって楽しくて仕方なくもなるだろうな、と思う。
けど、俺には宿題もあるし勉強もあるし、実際夏休みなんて言っても、
やらなきゃいけないことは結構ある。それでも、楽な方なのかもしれないけどさ。
でも、そんな杞憂だってこの娘の笑顔を近くで見ていられるなら、
もしかしたらこの先もずっと未来も、強く居られるかもなぁ、なんて……。
「……あー。馬鹿だなぁ、俺」
……この娘を向こうに、幻想郷とやらに帰してやるって、約束したじゃないか。
流れるこの都会の景色も、無機質に走り続けるこの電車も、彼女がここに居ることさえも、
きっと、いや、彼女にとって間違い無く正しいことじゃないんだから。
……今は、不安になったって仕方ない。
そりゃ、不安はある。
けど、それ以上に彼女だって、どんな笑顔だって、不安が無い訳は無いと思うから。
俺だったら、何の予告も無しに何も知らない場所に放り出されたら、
怖くて恐くて、それこそ逃げる先さえ知らないのに、逃げ出してしまうと思うから。
そうして逃げ出した先に、元の世界に帰れる手立てがあるとも、決して言えないから。
だから。せめて、俺だけでも強く、心だけは強く。
何が起きても何があろうと、その方法を、見つけなきゃいけないんだ。
この娘の笑顔を、向こうに帰っていくその時まで、ずっと見ていたいんだ。
「……必ず帰してやるからな、霊夢」
だから、せめて、と思って、俺は彼女の頭をこっそりと撫でる。
電車の振動を、撫でる手さえもものともしないで眠り続ける彼女に、俺は少しばかり呆れながらも笑った。
俺が君と居られるのは、今だけだから。
───────────────────────────────────────────────────────────
そう、あの時から始まっていた。
気付いていたけれど、知らない振りをした。
胃の底が少しだけ揺らぐような、気味の悪い、居心地の悪い感覚。
そんなもの、私には必要無いのに。必要とされるはず無いのに。
例え何処に居たって、私にそんなものは必要なかった、はずなのに。
違う、必要としてないのは、されてないのは……。
私は――――
むくり、と体を起こした。
お決まりのように欠伸をして、未だ仄暗い辺りを見回す。
自分が布団に収まっている辺り、言うまでも無く、彼の、○○の部屋だ。
小さな窓からは、あと少しで朝焼けが見えるだろう、こちらに来てから久々に見たような、
そんな懐かしい景色が広がっていた。
神社で寝起きしてた時は、こんな風に朝日を眺めたこと、殆ど無かったな。
……あっちの連中は、元気にしてるのかな。
それにしてもこの部屋、私が初めて来た時に比べ、えらく片付いたような気がする。
いや、確かに片付いているんだ。
だってまだ、ここに来てから、ようやく二日目ってところだもの。
どうやら、私が寝ている間に片付けてしまったらしい。
来た時に散らばっていた本や、CD、って言うのかしら、ゲーム? よく分からないけど、
そう言った類の物は全部棚にしまい込まれて、
わざわざ私の寝起きするスペースなんかを作ってくれたんだ。
……まあ、仮にも女の子が、男の子と同じ部屋で寝泊りする、ってどうなのかとは思ったけど。
当の○○は、式神の、えーと、パソコンとやらの鎮座する机に突っ伏して、
薄着のままに小さな寝息を立てている。
……その男の子がこんな様子じゃ、何かされるなんて考えは浮かびもしないわね。
「……風邪引くわよー」
声を掛けるも、体勢の割に熟睡しているようで返事は無かった。
布団から出てみて、朝の冷たい空気を味わってみる。
夏も半ばと言えど、寝巻きの薄着では結構寒い。
まだ自分の体温の残る毛布を引っ張って、そのまま○○の背に被せてあげた。
うぅ、よくよく考えたらこれじゃ自分が寒いんだった。
ふと、○○の腕に下敷きにされた、ノートの端を覗き見る。
中途半端な所しか見えないけど、幻想郷のことについて書かれているのは確かみたいだ。
絵が描けるんだろうか、なんだか愛嬌のある絵が所々に書いてあったり、
そんな小さな絵達が、○○自身の書いたことに対してツッコミを入れていたり、
男の子の割に随分可愛いことをするなぁ、なんて思った。
……書いてあることは、私が帰る手段について一寸でも掠っているようには見えなかったけど。
掛け布団が無くなった自分の布団に膝を立てて丸まりながら、少し考え事にでも興じようと縮こまる。
……ここは、何処なんだろうか。
そう、私にとって、幻想にとっての幻想である、この世界。
見た事も無いような建物に聞いたことも無いような喧騒、妖怪を知らない人々の往来。
そこにアイツらの姿は無くて、代わりに知らないものがたくさんあった。
でも、ここには……。
……うん。幻想郷が近いか遠いかは兎も角、この出来事に紫が関わっているのはほぼ間違い無いはず。
私の勘も、間違い無くそうだと告げている。これだけは鈍っちゃいない。
その癖、アイツが直接何かをしてくる様子は無い。
手元にあるこの財布も、紫の能力が行使されているような感じはするけど、
それでも紫自身が何かをしているような気配はまるで見られない。
……いつものことだけど、ホントに何を考えてるのやら、あのスキマは……。
「っくしゅ」
……さぶい。
寒さが堪えきれず、かと言って○○に掛けてあげた毛布を引き剥がすのは可哀想なので、
仕方なく○○の布団の方に潜ってみた。冷たいけど、すぐ温かくなるし……なんだか、落ち着く。
段々と居心地の良くなってきた布団に包まり、寝転がる。
枕、布団全体かな。○○の匂い、とでも言うのかな、うーん……あれ、やっぱり落ち着いてない?
でも、やっぱり心静まると言うか、えーと……。
そんな安心感と暖かさに守られながら、それでもこの先どうすべきかの行く末を憂いながら、また欠伸。
「……きっと、どうにかなるわよね……」
そう、いつものように。
アイツが幻想郷を霧で包んだ時も、迷惑な冬が延々と続いた時も、夜が終わらなかったあの時も、
永く長々と続いたあの夏の宴会も、咲き乱れる花に惑わされたあの春も、
秋風吹く山の神に戦いを挑んだ時も、迷惑な天人が神社を壊した時も、怨霊付きの温泉が湧いた時も……。
そう、いつだって。
私は、そうやって過ごして来たんだ。
向こうでも、そして、此処でも、そう在るべきなんだ。
だから、きっと大丈夫、だって……そう……信じて……る……。
「何がいけないのかも、何が間違っているのかも、まるで気付いていない。
それじゃ貴方は決して――――」
……不快だ。
物凄く不愉快な夢を見た気がするのを、今思い出した。
こう言うのって、思い出そうとしても思い出せないから嫌だ。
けど、こう言った何でも無い時に断片的に思い出したりするから、尚更嫌だ。
おまけに、夢の中のアイツはどう考えても紫だ。本当に嫌だ。
だけど、そんな機嫌とは対照的に、いつもの帽子から覗くこの空は、とても明るくて清々しかった。
紫も、せめてこんな空の下に出てくればあの薄暗さも和らぐでしょうに。
……出て来ても迷惑なだけね。
「おーい。なに黄昏てるんだー?」
「あ、ごめん」
賽銭箱の向こうから手を振る、○○の姿。
そんな彼を見て、不意にあの酔いどれ鬼娘の姿が浮かんだり、
掃除の邪魔をしに来る黒白の帽子がどうしてか脳裏に過ぎった気がして、
なんだか私はため息をついた。
そう、気付けばもう一週間近く経っていた。経ってしまっていた。
なんだかんだで話し合った結果、私の意見で方々の神社を巡ることになったんだ。
ここは古い町らしく、色んなところに神社があるとか無いとか。
そんな訳で、私が初めて来た神社である、この場所に来てみた。
オンボロ賽銭箱、と言うと何だか賽銭の入らない自分の神社が浮かんでまた虚しくなったけど、
賽銭箱に腰掛ける○○の横にとりあえず座った。
「……うーん、やっぱりというか、誰も居ないな。神主とか巫女さんとか、
普通の神社なら居そうなもんだけど……」
「巫女ならここに居ますわ」
「君じゃない君じゃない。まあ、とりあえず調べてみようか?」
ええ、とひとつ返事に立ち上がると、私は肩の力を抜くように息を吐き、目を閉じた。
こちらでは、どうしてか霊力がとても使いにくい。
この間のゲームセンターの時も、普段なら易々と使えるはずの力が
まるで無いもののように使えなかった。
だから、媒介が在る、あるいはとても集中出来る状態じゃないと力が使えない……のだと思う。
現に神社に居ると言うのに、妖気も霊力さえも、どんな神社にさえ宿るはずの
神霊の気配さえも感じ取ることが出来ないからだ。
明るい陽射しの中、目を閉じた私の耳に、木々のざわめきが心地良く響く。
そう、幻想郷に居た時のような、幻想でさえ変わらない、この音色。
けれどその中からは、幻想郷に忘れてきた色々な声が、聴こえて来ることは無かった。
「…………ダメ、ね。やっぱり」
「向こうの、その、なんだ、気配みたいなのは感じないのか?」
「ええ……」
そうかー、と腕を組んで唸る○○。
分からないのは○○も同じだけれど、言いようの無い不安に、
私は落ち着き無く空を見上げた。
変わらない青空に、向こうでも見たこの空に、私は何処へ行けば良いのだろう。
流れる雲は何も書かれていない紙のように真っ白で、答えなんて載っていたりはしなかった。
……こんな不安な気持ち、幻想郷に居た時は感じたことが無かったかもしれない。
「……大丈夫だって。霊夢は、向こうじゃ一番の巫女さんなんだろ?
例えこっちから何も出来なくても、向こうから助けが来たりもするかもしれないぜ。
そんな心配そうな顔、この空には勿体無い」
見てる俺が損するからな、とキザったらしい笑顔を浮かべる○○に、私も釣られて笑顔になった。
「……博麗の笑顔も、お高いわよ?」
「応。いくら払っても良い気分にはなるね!!」
「それじゃ、そのお財布ちょーうだい?」
「だーめー」
元々私のよー、とか、無駄使いはいけませんー、なんてじゃれ合ったりして。
向こうに居た時の気持ちが蘇るようで、懐かしい気持ちになって、やっぱり少し寂しかった。
お昼時も過ぎた空に、二匹の鳥が駆けて行く。
それを追うように、大きな鳶が滑るように飛んでいった。
神社の隅々まで調べた結果、結局何も起こらず何も見つからず、
やっぱり賽銭箱に座りながら、私達は空を眺めていた。
「そういやさ」
「ん」
「結局、幻想郷の話あんまり聞いてなかったよね」
そういえばそうね、と私は相槌を打つ。
この一週間、あまりにこちらの生活に慣れてしまったように思う。
そのせいか、幻想郷のことを思い浮かべて、私の顔は少しばかり緩んでいた気がした。
「聞かせて欲しいな、君の住んでた所の事とか、向こうに住んでる連中のこととか」
「ん……そうだなぁ、何から話そうかな……」
……まるで、自分が夢物語の登場人物だったんじゃないかって、今更のように思った。
そんな夢物語に恋焦がれて、巡りめぐった神社の数は幾つを数えただろうか。
暗がりに輝くあの星たちのようにたくさんの神社を回った気がするけど、実際十を数える程度だったとは思う。
二人でここに辿り着く頃には、もう夕陽は鉄塔の向こうに沈んでいたはずだ。
「……もう暗くなってきたなぁ」
「そう、ねぇ……」
石段の下に、座り込んだりなんかして。
空に瞬く星々は、向こうより幾分その輝きに元気が無いように見えた。
それよりもその直下に煌く街の明かりが眩しくて、夜だと言うのに昼間のように明るくて、
そんな活気の前なのに、私の心は何処か寂しさを抱いていた気がする。
山奥とも呼べるような古びた神社に辿り着き、疲れた疲れたと雑談なんかしてたら、もうこんな時間になっていた。
気付けば道は明かりさえなく、あの遠景さえ真っ暗でなければ、幻想郷の夜景と見紛うていたに違いない。
けど、隣には彼が、○○が居る。
ここは、幻想郷じゃない。
「……帰ろうか?」
「ん……待って、もう少しだけ……」
もう少しだけ、幻想郷のような、この場所の、この場所で抱いている気持ちを忘れないで居たい。
私は、私はどうしてか、そんな所で彼と一緒に居られることが嬉しくて。
どうしてだろう、この場所を離れたくなかったんだ。
再び見上げた星空は、幻想郷のようにどこまでも澄み渡っていたりはしなかったけれど。
「幻想郷の星空って、綺麗?」
彼の声と共に、あの空がよぎる。
「ええ、とっても」
「月が砕かれたことがあったとか、まるで想像出来ないな。行ってみたいよ」
「ふふ、機会があったらね」
砕けた月、永劫に続くかと思われた宴会、永い夏の夢。
そんな機会は、きっと無いのだろうけど。
「ね、○○」
「ん?」
「ちょっと、手握ってくれる?」
訝しげに驚きながら、だけど少し恥ずかしそうな彼の顔を見て、
私は少し口元から喜びが漏れてしまっているような、そんな気がした。
すると、彼も釣られたように笑ってみせてくれた。
「……振り落とされないでね?」
「え」
ここに来てから、一番飛びやすかったと思う。
驚く彼の顔を想像しながら、案の定そんな顔をしている○○の顔を見て、
私は躊躇う事無く一気に高度を上げ、○○の悲鳴を楽しむ。
握る手はしっかりと、けれど振り落としてしまいそうなくらい儚い繋がり。
それでも、この手に感じる温もりはきっとホンモノだった。
ぐい、と強く、神社の屋根が目下に小さく見えるくらいの高さまで駆け上がる。
尚更に強く、握る手の力は強くなった。そりゃそうかしら。
「……うわ、うわあ。たけ、たけえ……」
「っと、ほらしがみ付いてもいいから、危ないわよ」
「あ、あうあー」
一面に輝く夜景と、一面に輝く星空と。
ふたつの海の狭間に見える煌きを独り占めにして、いや、二人占め、かしら?
幻想郷には無いそんな景色を、胸一杯に吸い込んだ景色と共に味わう。
お腹の辺りにしがみ付いた彼に、そんな余裕はなさそうだったけれど……。
「……下りましょうか」
コクコクと涙目のまま無言で頷く彼に、苦笑したままゆっくりと高度を下げる。
脆くなって抜けてしまうんじゃないか、そんな神社のボロ屋根に降り立つと、
○○はようやく安心したのか心底のため息と共にくずおれた。情けないわねぇ……。
「……たかい、たかいこわい」
「幼児退行してるし……それでも、このくらいの高さなら景色も良いんじゃないかしら?」
「……ん。そう思う」
まるで親から叱られてふてくされるように座り込んで、ムスッとひとこと答える○○。
ちょっと可愛いな、なんて思う。仕方ないので、フォローするように私は言う。
「ごめんごめん、予告も無しに飛んだことは謝るわよ」
「……まあ、今までに無いような珍妙体験をさせてもらえたから、感謝してる……というか……」
顔を上げると、気の抜けたような笑顔で○○は言った。
「……腰が抜けた」
「……あらそう」
情けないけど、いつものことかもしれないな、なんて私は思ってしまった。
高い屋根の上はまるで音も無く、どこからか流れてくる虫や木々のざわめきくらい。
薄っすらと輝く街の光も、変わらずその姿を横たえている。
綺麗、なんて言うのも無粋なのかもしれない。
「しかし、風が冷たいな」
「ん、まあそうね。夜だし、高いところだし」
「んー……」
風が吹き抜ける。
木々の合間を縫って、統一性の無い音の群れを引き連れて、吹き抜ける。
酔い覚ましに丁度良さそうだな、なんて思う辺り、未だ私は幻想の少女で居るのかもしれない。
こっちじゃ、元服……いや、成年するまで飲めないらしいし……。
くぅ、萃香の瓢箪でさえ懐かしい……。
「……お酒が飲みたいなぁ」
「ん?」
「あ、うん、なんでもない」
首を傾げる彼に、誤魔化すように笑って言った。
それこそ、○○に泥酔した私なんて見せられないわよ……。
と言うか、なんでそんな風に思うようになってるのかしら……。
「……霊夢はさ、帰りたいって思う?」
「そりゃあ……」
眺めた暗闇に、足りないものはたくさん、それこそ、たくさぁーんあった。
それが、急に夜空に瞬いた気がして。
呼応するように、答えを返してくれるように、一挙に光り始めた気がして。
「――――帰り、たいわよ」
急に、心が冷えてきた気がして。
「……わたしの、だいじなもの、とか、おせんべとか……ぁ……あ」
目頭が熱くなってきて、熱はそのまま頬を伝って落ちて行って。
夢想に封印されていた瞬きは、寂しさに散華して、儚く侘しく、消えて行く。
形に成らない代わりに、声は絞り出されて行く。
「ふ、ぅあ、おちゃとかもね……のまないでっ、おくと、ゆかりがっ、ゆかりがかってにのんだり……して、ね……。
おこるんだけど……あいつはわらうし、おちゃはなくなるわで……まりさもね、かってにあがってくるしごはんたべてくし……。
でも、でもいまはね、っあ、あぁぁぁぁ、いまは、あぁ……」
しゃくり上げる、込み上げる気持ちはどうしても抑えられなくて。
「……かえり、たいよ、う……」
――――気付いたら、○○が、抱き寄せていてくれた。
その温もりは温かくて、けど落ちていった涙みたいに熱くて、今は夏だけれどそれでも温かくて、
もう涙はどうしようもないくらいに、溢れ溢れて、流れて行く。
会いたい、あいつらに会いたい。
魔理沙のあの馬鹿にしたような笑顔も、咲夜の皮肉めいた笑いも、レミリアの高慢な態度も、
妖夢や幽々子たち、紫や萃香だってそう、全部全部、私が置いてきたもの。
それも、勝手に。私が、幻想の癖に私が現実を夢見てしまったから。幻想の幻想を、夢想してしまった。
失くしたものは、とても大きかった。
私が手に入れようもしなかったものは、手元に置いておこうとしなかったせいで手放してしまったのか。
それとも、私があいつらに執着しようとしなかったから失くしてしまったのか。
こうなることが、どうしても必然だったとでも、言うのか。
言葉は紡がれず、ただ涙と慟哭の声になって、溢れていた。
「……ぅ、あああぁぁあぁぁあぁぁぁぁぁ――――」
……私は、そう、此処では。
ただの幻想にしか、過ぎない。
そんな幻想を、彼は現実だと受け止めてくれて。
私を、私を現実に連れて来てくれた。現実と言う名の、私の抱く幻想に。
こうして今も、流れ出した見えない幻想を受け止めてくれるように、
優しく、けれども強く、抱きしめてくれていた。
「……必ず、帰してやるって、約束した」
その言葉は、幻想じゃない。
「だから、そんなに心配するなよ」
身に受ける温もりは、決して幻想じゃない。
「恐がらなくて、良いからさ」
声にならない声を上げ続けるままに、私は何度も、何度も何度も、頷いていた。
この気持ちも暖かさも、何もかも、確かなものだから。
そうして、彼は幻想を信じてくれたから。
「……スッキリしたみたいだね」
「ん……すん、ありがとう」
鼻を啜り、みっともなく歪んだ目元やらを拭って、けれどやっぱり○○の胸に顔を埋めてみる。
恥ずかしそうに、けれどどこか嬉しそうに、○○は身じろぎしていたように思う。
お世辞にも厚いとは言えない彼の胸で、私は小さく呟く。
「……恋人みたいね、って言ったの、覚えてる?」
「そ、そりゃあまあ」
「……そんなに初心じゃ、まだまだ私と付き合うには」
ふ、と○○から離れて立ち上がり、出来る限りの笑顔を浮かべて見せた。
「足りないわよ」
「……善処する」
「ええ」
それに、と付け加えるように夜空を見上げ、もったいぶるように一呼吸置いて続けた。
「――――それに、王子様はお姫様をキチンとお城まで連れて行くのが、役目でしょう?」
「……ああ。エスコートさせてもらうよ、最後まで」
……最後まで。
その時が来る事を、今はどうしてか否定したくて、けれど肯定もしたくて。
私は、どうしたいのかやっぱり分からない、そんな気がした。
でも、その最後がまだ来ないってことくらいは、私も知っている。
「……ねぇ、○○。飛ぼう?」
「ん……今度は、しっかり支えてやってくれよ?」
「ふふ、支えるのは男の役目ってものじゃないのかしら?」
「それもそうだけどね……」
彼をからかうように、屋根から軽く足を踏み出した。
そう、踏み出した。
そう、当たり前のように。
飛んだ。
――――私は、無重力の巫女。
何者にも縛られず、何事にも労さず、また何事にも惹かれる事は無い。
……だからなのかしら。
私はもう、博麗の巫女ではないのだろうか。
私はもう、楽園の素敵な巫女ではいられないのだろうか。
私はもう、幻想郷の管理人ではいられないのだろうか。
幻想が幻想に焦がれても、幻想に手は――――
「――――霊夢ッ!!」
「……あ」
――――届いた。
屋根の端から端まで、よくぞまあ彼は駆けてくれたと思う。
私の手はしっかりと、○○の手に強く握られていた。
真下には、ささくれのように突き出た木材だらけの賽銭箱が、手招きするように口を開けていた。
賽銭箱に食べられる巫女なんて、洒落にならない。ましてや、あんなオンボロに。
ふ、と顔を上げる。
……手は、確かに、届いた。
必死になって私の手を掴んでくれている、○○のその両の手に。
こんな時でも彼の手は暖かく、強く、決して離すまいと、誓ってくれているかのように。
けれど宙吊りになった私は、私が、絶対に知るはずのなかったそれを、知ってしまった。
重力に、囚われた。捕まってしまった。縫い付けられてしまった。
それは、それは無情にも正しく私が私であることの……否定。
私の手は、確かに彼の手に繋がっていたけど。
「……私、は」
……どうしたら、いいんだろう。
そのときの私は、どんな顔をしていたのだろう。
地に足は、着いていた。
それでも彼は、本当に支えてくれていたんだ。
───────────────────────────────────────────────────────────
「はい、これ」
「…………わあい」
見るからに、真っ赤な包装紙と、それほど紅くもない彼女の顔。
そろそろ暖かくもなる頃合、彼女が来てどれくらい経ったか、それくらい経ってしまったか。
気付けば13日の金曜日は過ぎて、いつの間にかヴァレンタインという話。
不意に飛び出したチョコレートは、今まで気にかけたことも無いようなものだったんだ。
「……わあい。って……他に何か言うことないの?」
「あ、ごめん。あの、ほらこう言うの貰ったこと無くてさ……ありがとう」
それこそ、そこら辺で売っていそうな、平均的な装飾のチョコレートを受け取ると、
いきなり開けたものか、あるいはもったいぶって嬉しそうにすべきか、それさえも分からなくなって。
なんだか情けなくなって押し黙ってしまった。
「……食べないの?」
「ん、ああ、えと。うん、食べるよ、食べますとも」
……もう、そんなに経ったんだっけ? えーと、霊夢がここに来たのは夏の始めくらいだったから……ん?
何か、おかしいような。
それでも、確かに貰えたこれは、あまりこう言う事を経験したことのない自分にとっては、
嬉し恥ずかしサプライズ以外の何物でもない。
意図の読めない目で見つめてくる彼女を横目に、包装紙を見事に汚く破って中身を取り出した。
「汚い開け方ねぇ……」
「悪いけど、俺は不器用な方でね……って。
そういや、幻想郷って、バレンタインの習慣なんてあるの?」
「ん? んー……それより、なんだかこっちでは全国的な行事みたいだったし、
近くのコンビニで売ってたし、お世話になってるし、その、うん。食べて頂戴」
……ま、付かず離れず、義理が関の山ってところなんだろな。
なんて貰った側の癖に割と失礼なことを考えながら、少しばかり高そうなチョコレートの包みを開ける。
甘い物は結構好きだけど、そうじゃない人でも好きになれそうな、程好く甘い香りが漂う。
そんなに大袈裟でもない、清楚な感じに落ち着いたデザインの、美味しそうなチョコレートの群れ。
口に入れて噛み下ろし、快く上品な甘みに思わず頬が緩む。
「美味い」
「そりゃそうよ、私が選んだんだから。
……あ、そうそう。本命じゃ、ないわよ?」
「はは、そいつは残念」
「んむ……それより、私も食べたい」
俺が貰った物なんだから俺だけが食べる……なんて言う間も無く、ヒョイと一粒奪い取られた。
むぐむぐと栗鼠のように咀嚼すると、やはり俺と同じような顔をして彼女は笑みを零した。
思わず、自分にもまたその笑顔が伝染る。
「……いつも思うけど、こっちのお菓子って美味しいわよね」
「それほどでもない……じゃなくて。
まあ、そう言う行事用のチョコだし、美味しくても当然なんじゃあないかな。」
「高いだけあったわね」
「やっぱりお高いのか……」
まあ、あの財布がある限り金銭の心配は必要ないけれど。
にしたって、一人でコンビニに行けるようになるなんて、何だか霊夢も随分こっちの生活に慣れたんだなぁ。
……うーん、なんだか誰かが時をすっ飛ばしたような、陰謀めいた臭いを感じないでもない……。
そして、二個目のチョコレートを口に入れ。
「……ね」
「ん?」
口の中でチョコが溶解し始めた時、霊夢が口を開いた。
「ちゃんと帰してくれるって約束、忘れてないわよね」
「応、もちろんだとも」
「……じゃあ、もちろんこれも『返してくれる』のよね」
「……ああ。コレも返すよ。約束する」
幻想郷に、彼女を帰してやる。夏のあの夜に約束したこと。
気付けばもうこんなに時が過ぎて、何も起きないままにこの日まで辿り着いてしまったけれど。
いつの真に過ぎてしまったかも覚えていないほどに。
そして、これも、この甘い一瞬の喜びも、必ず返してあげなければいけない。
でもね、と霊夢が少し憂いを含む表情で笑った。
「やっぱり、少し不安なのよね」
「……そう、だな」
そう。未だに、何も変えられていない自分が居る。
「……でも、俺は――――」
すると、彼女は遮るように。
「だから――――」
開きかけていた俺の唇を、自分の唇で塞いだ。
驚きも何も、きっと彼女には伝わらなかっただろう。
俺の口の中に残っていた甘いそれを、楽しむように、名残惜しむように、
舌で何度も躍らせて、奪われる。
俺に残されたのは、口内と唇に残された、柔らかで少し淫らな、その感覚だけ。
目の前には、優しげに笑む彼女だけが見えた。
「――――なッ」
「……だから、ね。今の内に、返してもらっておくわ」
「な、なななな、なんっ」
「嫌だった?」
「断じてそれはない」
キョトン、とした顔を見せた後、彼女は気が緩んだように笑い出した。
一瞬取り乱したが、返答で言えば俺が冷静なのは確定的に明らか。
おいィ? このままでは俺の羞恥心がキスひとつでマッハなんだが……。
「あは、あはは! そういうトコだけはいつも通りなのね。」
「ば、ばかやろう。嫌なわけ無いだろうばかやろう」
「あ、やっぱり恥ずかしかったのね。ホントに初心なのね、あんたは」
「う、うるせーやい……」
口の中に残る感覚に、堪え切れずに俯いてせめて言葉を吐く。
霊夢はからかうように笑っていて、それこそ自分が子供のようで、
尚更決まり悪くなって霊夢から真逆の方向に向き直った。
べ、別にニヤニヤなんかしていない。せめて恥ずかしいのを誤魔化す為だけだってば。
「ね」
「……ん」
後ろを向いたままの俺に、その小さな背を預けてくる霊夢。
ほのかに香る彼女の色香に、心音が少しばかり速くなるのを肋骨越しに感じた。
「今のは本命じゃないけど、お返しをすぐにくれたあんたのそれ、
時期的に見て本命って言っても良いんじゃない?」
「…………ん」
「ふふ、渡したらすぐに返してくれるんだもの。これは本命と見て間違いないじゃない?」
「……素直じゃないね、霊夢」
「本命じゃないもの、私のは……ね?」
彼女は、そうだ、いつか帰ってしまう。
こちらに心残りなんて、そりゃあ作りたくはないのだろう。
けれど、俺は、言うまでもなく彼女を好いてしまっていて。
そして、もうはっきりと分かってしまう、それくらいに彼女も俺のことを好いていてくれて。
だけど。
俺は、俺はここが居場所だ。
向こうに行くことは出来ないし、ずっと霊夢にここに居てもらう事だって、出来はしない。
だからこその、彼女なりの、意地っ張り。その言葉。
だから、俺は口を開いた。開かなくちゃいけなかった。
「…………ああ、本命だよ。そう、我慢出来なくなってすぐ返したんだ。
これで良いかい? 満足かい? 分かったら聞いてくれ。大好きだ、霊夢」
「…………ありがと」
「……うん」
返事は、もう貰っていた。
それだけで、良かったから。
彼女が少し、その小さな肩を揺らしていた気がした。
俺の情けない手でももその震えを止めてやる事が出来るなら。
躊躇い無く、彼女を抱きとめて上げられるから。
冬は、そろそろ終わる。
だけど、この夢は未だしばらく終わらないらしい。
───────────────────────────────────────────────────────────
――――霊夢が、飛べなくなった。
俺の目の前で、彼女は、落ちた。
飛ぶ、という感覚は、俺にはきっと分からない。分かるはずもない。
ただ、歩くことを奪われるような、ただ、両手を掲げることを奪われるような、
そんな「当たり前」を奪い取られるような、そんな感覚なんだろうとは、思う。
俺の好きだったあの猫が、目の前で死んだ時のような、そんな風に、
きっと彼女は苦しんでいるのだと思う。
だけど、せめて俺の手は、届いたんだ。
今ここに、彼女が居る「当たり前」を、俺は手放さなかったから。
まだ、彼女は帰してやれる。
きっと、此処に居るからダメなだけだ。
まだ、諦めない。
そう、きっと霊夢だって、そう信じてくれているから。
帰り道。
切れかけた街灯が照らす道を、二人で歩いていた。
時々横切る蛾が、なんだか俺達を見下ろして哂っているようで、少し不快だった。
けれど、カツン、と小さな音と共に、飛び回っていた蛾はあっさり落ちた。
……待った。俺の頭に軟着陸するのは止して欲しい。
手を繋いだままに声も出さない霊夢が、気になった。
「……霊夢」
返事は、無い。
俯いたままだ。
「なぁ、霊夢」
少し語気を強めてみるが、彼女が握る手の力と同じように、何も変わらない。
「霊夢っ」
振り返って、その小さな肩を無理矢理にこちらに向かせるように、引き寄せた。
暗い眼が、何も見えてないかのように、だけど俺の目をしっかりと見つめていた。
少したじろぎそうになった、けど。
「…………なによ」
……けど。暗い眼、だったけど。
「……なんだ、いつもの霊夢じゃないか」
安心したように、少し笑ってみせてあげた。
驚いたように、影の掛かった顔に彼女がいつもの驚きを見せてくれたけど、
そんな間は持たず、何処かを見るような何処も見ていないような、そんな顔に戻って、
強く見つめ返すその目は俺の顔から逸れてしまった。
「……別に、心配しなくても平気よ。少し、驚いただけ」
そうかそうか、一言返して、帰路へと振り返る。彼女が握った手に掛かる力は儚げに変わらない。
「そうそう。そう言う、少し突っぱねるような態度。いつもの霊夢だ」
なんて、言ってみたりして。
「んなっ……な、何よ! 人が落ち込んでるっていうのにっ」
「落ち込んでるの?」
そして、振り返る。
うん、いつも通りの霊夢に戻ってくれたようだ。
霊夢自身も上手く誘導されたことに気付いてか、ムスッとした顔で睨みを利かせている。
心なしか、握られた手に掛かる力が少し増した気がした。
「う……落ち込んでなんか……いるわよ、ええ。すっごく落ち込んでるわよ、ばか!」
「素直でよろしい」
俺より目線ひとつ、小さな彼女の頭を、やんわりと撫でてあげる。
居眠りを邪魔された猫みたいな顔だけど、嫌がったり逃げようとする様子は無い。ホントに猫みたいだ。
しっかし、こんな短い間に仲良くなっちゃったなぁ、俺……。
すると霊夢は、その手を急に掴んで押し返す。
「卑怯よ、○○」
「おぉ? な、なにが?」
「あ、甘えたくなるじゃない、のよ」
ばか、言葉尻にひとつ付け加えて、俺の腕を引き寄せるようにしがみ付く霊夢。
そんな君が可愛くて。
「……ちょっと甘やかしすぎたかね?」
なんて言ってみたくもなる。
「嫌なら別にいいわよ。早く帰りましょう?」
「……まあ、膝に猫を乗せておきたい時もあるさ」
私を猫扱いするな、と小突かれた。
それでも、腕に掛かる力はむしろ心地良いくらいに強くなっている気がした。
俺も少しだけ彼女に寄り掛かるように近付いて、並んで歩く。
……本当に、困った猫だなぁ、なんて思った。
……んで。
家に着いた後、食事を済ませて、風呂を済ませて、
何もかもが済んで、二人で部屋に居て。
ただ、何も変えられることも無く、並んで二人。
「……悩んでても仕方ない、よなぁ」
「……そう、ねぇ」
なんて言ってみても、何も答えが出ないことは、お互い分かってる。
「んー……寝る?」
「……寝付けそうにもないわ」
そう言って俺に寄りかかるままの霊夢。
ベッドに腰掛けて、二人で寄りかかり合って黙然としていた。
人口的な明かりの灯った部屋には、付けっぱなしのテレビの音と、小さく単調な音が響いている。
天気予報。無機質に喋るキャスターが、明日の天気は曇りのち晴れだと告げている。
家に着く間近で降り出した雨は、どうやら雨脚も強く屋根を叩いていた。
……どうせ、明日も夏休みの一日でしかない。
霊夢と居られる、大切な一日ではあるのだけれど。
いつものように、宿題なんかは手を付けてない。
俺にとって変わり映えのすることは、霊夢が居る、という唯一点だけだから。
俺は何を言ってやることも出来ず、呆けたままにテレビを眺めていた。
「……○○」
力無い瞳をこちらに僅かばかり向けて、霊夢は口の端を少し開いた。
「ん?」
「……ん。なんでも、ない」
「…………そか」
霊夢はまたテレビへと、定まらない視線を戻す。
そろそろ、妙ちくりんな通販番組が始まったり時間なんじゃなかろうか。
……俺に言えること、出来ることって、無いのだろうか。
だから、定例句のように、分かっていても、せめて言ってあげたくなるんだ。
「……これくらいしか言えないけどさ。大丈夫だって。
そりゃあ、その、なんだ。まだ帰る手段は見つからないけどさ。それでも……」
「…………のよ」
震えた、声が聴こえた。
「え?」
「……あんたに、何が分かる、ってのよ」
小さく唸るような、声。
「…………霊夢?」
「――――いい加減に、して」
身体に軽い衝撃を感じて自分が倒れたと気付いた直後には、もう目の前には彼女の顔があって。
取り返しのつかないことを言った、と。
今更、冷め切った頭の中で気付いていた。
それは、安心を与えて上げられるような言葉じゃ、なかったんだ。
「――――私の……っ!!」
目に涙を溜めた霊夢が、俺の胸倉を精一杯にだろう掴んで、きっと必死に泣くまいと唇を真一文字に結び、
苦しそうなつらそうな、そんな堪えるような表情で、睨んでいた。
俺の向こうにある、いや何か別のものを見ているんじゃないか、なんて思うような、そんな弱々しい顔だった。
「――――私の、何が分かるのよ、あんたに……っ」
「…………れい、む」
答え、られなかった。
「……どうやって帰るの? 何をすれば良いのよ? 霊力も使えない、空も飛べない。
何度目よ、私は何度聞いたのよ、同じような台詞。何も変えられてない、変わらない毎日……!!
私は、私は何も出来ないって言うの? 私は、私はじゃあ、何のために居るの?
私は、私なのに!! 何も、私は何もしてない。どうしてなのよ、どうしてこんな……。
……何も出来ないのよ。どうしたらいいのよ。教えてよ、○○……ッ!!」
折れてしまいそうな言葉の嵐に呼応するように、俺の頬に雨粒のような涙がはたはたと落ちる。
彼女は、泣いていた。
何も出来ない自分に、何も変わらない毎日に、何も出来ていない俺に、
そして取り戻したい日々を想って、きっと泣いていた。
何て言えば良いのだろう。
どうしてあげれば良いのだろう。
…………俺には、何も出来ないのか。
強い雨は、一向に降り続いていた。
「っく……ひっく……」
支えてあげなければ、今にも壊れてしまいそうな。
「……霊夢」
そんな、顔だった。
「……俺に――」
――――俺に、言えることはあるのだろうか。
そこから先の言葉をすっかり飲み込んで、自分の無力さに腹が立ってきて、
だけどそれでも目の前の少女が、あまりにも…………愛おしくて。
何も出来ないけれど、それでも出来る事を探したくて、拳を強く壊れるくらい握って。
護ってあげるだけでも、それでも今は、ダメなんだろうか。
変えられないけど、せめて、せめて俺に出来ることってそれくらいなんじゃないかって、思う。
…………それでも、良いのなら。
こうして、口を開く。
「……俺に、俺にさ。何か出来るってのは、ホントに殆ど無いと思うんだ。
そりゃあ俺は、空も飛べないただの人間だし、幻想郷のことなんて霊夢から口伝に聞いた知識しか無い。
それでも君を、霊夢を此処で生きることの出来るように護ってあげることは、
少なくとも……今まで一緒に過ごしてきた以上、出来てるとは思うんだ」
彼女の頬から涙がまた一粒、落ちた。
「俺は多分、幻想郷基準で言ったら弱いんだろうし、
そこらの子供と大して変わらないくらい、普通のヤツだとも思う。
だけどそれでも、俺は君を護りたいと思うし、居られるんだったらずっと君と居たい。
でも、それは君がホントに望むことじゃ、ないと思うんだよね……。
俺だって、大切な友達が居る。家族だって猫だって大事なものは在る、やりたいことも沢山ある。
それを、全部取り上げられたら、俺だって君みたいに、何も分からなくなって、どうしようもなくて……。
だから君は何があろうと、絶対に帰って、君の大切な場所に、笑顔で戻って欲しいんだ」
そうだ、彼女には、いつか帰るべきところがある。
例え、俺がどんなに強く希おうとも、それは、俺の勝手でしか、ないから。
それは、誰かとの死や別れを悼まないのと、近いことだとも思う。
「――――だから、今の間だけで良いからさ。せめて、笑顔で居て欲しいんだ。
……俺が君の笑顔を見てられるのって、今だけなんだ。それこそ、夏休みの間だけかもしれないし、
もうちょっと先かもしれないし……悪く言えば、もう少し先までかもしれないけど」
……霊夢は、必ず帰るんだ。
胃の奥が、揺らぐように戦慄く。
強く強張った両の手には、なにひとつ入ってない。
それでも俺は、言葉を続ける。
「そしたら、そしたら……いつか、君が帰る日に、俺だって笑って送ってあげられる、なんて思うからさ。
だから、その……涙拭いて笑って見せて、くれない……かな? それまで絶対に、支え続けてあげるから。
……その、まあ、君の気持ちも知らないで、勝手かもしれないけど……でも」
無理矢理作った笑顔が、どんなに歪んでるかなんて分かりたくもなかった。
震えて掠れた声で、話の半分も伝えられたかも分からないくらい、涙を零したくなかった。
ただ、今だけは、彼女に笑っていて欲しい。
それだけで良かったから、俺は不細工な笑顔を取り繕って、笑った。
嗚咽が漏れそうで、啼き出しそうな胃袋に無理矢理空気を送り込んで黙らせていた。
今にも目が見えなくなってしまいそうで、笑顔の裏に奥歯を強く噛みしめていた。
それでも俺は、笑顔って言える顔になっていたんだろうか。
いつか来る別れが急に近付いて来た気がして、彼女が愛しくて、
自由に動く両手は空を掴もうと、血が滲むほどに強く、必死に握っていたはずだ。
俺の手なんかには、ベッドのシーツしか掴めなかったけれど。
赤く腫れ上がった彼女の眼窩からは、代弁してくれるような涙が雨粒みたいに降り続いていた。
悔しいような、だけど近くに居る彼女に、俺は少し心和らいだ気がする。
せめて、君の笑顔をもっと、見ていたい。
「――――帰れるか、分からないのに? それでも、私を、支えてくれるの……?」
「……惚れた弱み、なんて言ったらダメかな?
昔から、男は女を護るモンだって言われてるもんだと俺は思ってたけど、さ。
一人できっと、辛い思いをしてるのは、分かってあげられてるつもりなんだ。
霊夢がどんな風に幻想郷で過ごしてきたのかは殆ど分からないけど、
たまには、俺みたいなのにで良かったら、いくらでも頼って欲しい。
じゃないと……うん、言ってもらえなきゃさ、俺だって支えてあげられないから」
少しだけ無理をして、小さく笑った。
多分、彼女は何でも出来たんだろう。
俺なんかと違って、きっと何もかも出来たからこそ強かったんだろう。
大切なものを失ったり、大事なものを見失ったり、そんな事今まで無かったんだと思う。
俺はもう、後悔したくなかったから。後悔させたくなかったから。
だから必ず、帰してあげるんだ。
いつかになって本当に後悔する、その前に。
「……ばか、ね。ホントに」
――――くすりとひとつ、やっと。笑ってくれた。
「前も言ったろ? よく言われるって」
俺もきっと、少しはマシな笑顔になれたと思う。
「…………少しだけ、頼らせて、くれる?」
「……言うまでも無く、大歓迎だよ」
霊夢は俺の頭上で綺麗な笑顔を見せて、そのまま倒れこんだ。
支えてあげられるほど、俺の胸は広くはないかもしれないけど、それでも良かったなら。
彼女の綺麗な髪を、少しだけ撫でて。
壊さないように、静かに抱きしめていた。
別れはしばらく、いや、まだ来ないけれど。
いつか来るそれへの恐れに、俺は彼女を抱きしめる力を、ほんの少しだけ強くした。
「……だけどホントに、どうしたら良いやら……」
泣き疲れた霊夢に毛布を掛けてあげて、俺はやっぱりテレビを眺めていた。
気付けば雨音も小さくなっている。きっと明日の天気は予報通りなんだろうな。
明日は、何処に行こうかな……。
俺だって支えてあげるつもりはあるけど、どうしたら良いのか分からないのは同じなんだよな……。
「にゃー」
コンコンコン、ガリガリガリ。
ぶつかったり引っ掻いたり、そんな音が扉の方から聴こえた。
まあ、言うまでも無く我が家の猫だろう。
……我が家の猫?
「お前も扉を開ける知恵くらいありゃあな……ほら、入れはいれ」
「にゃー」
感謝を告げているのかただの嘶きなのか、黒い猫は尻尾を振り振り部屋に入って来た。
ベッドの上、霊夢の横にひょいと飛び乗ると、何の遠慮も無くふわとひとつ欠伸をして、寝転がった。
…………何だろう。何かが、引っかかる、気がする。
「なあ、お前…………!?」
何かが、見ていた。
寝転がった退屈そうな瞳の奥から、何か、底の知れないものが見返していた。
あの財布のような、けれどそれよりもっと深い、触れられないくらい遠い、恐ろしいものが。
ただ、見つめられているだけ、なのに。
気持ちの悪い冷や汗が、頬を伝って、落ちた。
くぁ。
返事の代わりに、欠伸をひとつ寄越してくれた。
瞬きしたその向こうには、そんな何かしらはもう見えなかった。
……勘違い、か。
どうにも、疲れてるのかな、なんて思いながら霊夢の隣に横になる。
聴こえないくらい小さな寝息が、耳に心地良い。
少しだけ顔を傾けて彼女の寝顔を一瞥して、恥ずかしくなって目を逸らした。
綺麗すぎて、やっぱり触れられないなぁ、なんて思う。
それでも、今この時が大切で、さっきみたいにずっと抱きしめていたい。
だけど、ずっとは出来ないよな、なんてまたその流水のような髪に指を通してみたりする。
くすぐったそうに、それでも今までのように幸せそうな顔で、彼女は眠りこけていた。
「…………帰る、かぁ」
シーツ越しに爪で穴の開いた、手。
後でシーツをこっそり洗濯しておかないと、両親に何を言われるか分かったモンじゃない。
穴くらいならまだしも、血は、その、色々と……まずい。
手は自分の爪で傷付けられて、傷だらけになっていた。
幸い、手から零れ落ちるほど血が流れ出したりはしなかったけど。
この傷も、いつか癒える。
傷が治るように、元々そうだったものは元々そうなるように戻っていく、のかな。
……霊夢と、一緒に居たい。
でも、それはどうあろうと、きっと叶わないことだ。
俺は俺の生き方があって、生活があって、大切なものが在る。
それを、それを全部投げ出せる覚悟は、この俺には無い。
そう。例え格好良い事を言ったつもりでも、これは単なる自分への体の良い言い訳なんだ。
悔しさは、痛みに阻まれて手だけでは足りなくなってきている気がした。
「…………どうすりゃ良いんだろう、なぁ」
叫び出したくなる気持ちを押し殺して、一層拳を強く握って、天井を見上げた。
後悔は、したくない。
そして、させたくもない。
二兎を追う者は一兎をも得ず、なんて言葉が過ぎった。
誰かと一緒に居たいって小さな願いは、見た目より遥かに大きかったんだろうか。
俺はこのまま、自分の気持ちに一途に、成れるのだろうか……?
それでも、彼女が帰る見込みはまだ無い。
例え、それがいつになるか分からなくても。
そんな幸せにいつまでも流されてちゃ、いけないから――――
───────────────────────────────────────────────────────────
……これが幸せだと言うなら、今すぐあの太陽を海に沈めてやりたい。
とある夏の一日、なんて言い出すとキリが無くなる。
大体、長ったらしい休みにゃ毎日の有難味なんかは薄れがちだ。
嗚呼、こないだの最悪な一日が嘘のよう。
それに加えてこの暑さ。そりゃあ有難いどころか拷問って話だよ。
なんて管を巻いたところで、この暑さをやっつけられる訳じゃないんだけど……。
ともあれ涼を求めて三千里、この糞暑い中アイスなんかを買いに行った訳だが、
歩いた分尚更暑くなってしまって、結局のところ差し引き何も変わってないんじゃないかと思う。
……アイス、溶けてないよな?
嗚呼、お日様が丁度お空の天辺だ……。
家に入り、親が根こそぎ出かけてるのを横目に呻きながら二階へ上っていく。
くそう、二階は熱がこもる上に風通しが悪い。おまけに扇風機しか無いんだよ……。
エアコン欲しいな、なんて思いながら部屋の扉を開けたら。
「あ゛あ゛ああ゛ぁぁ゛あ~ぁぁぁ……ぁ…………あっ!!」
「……………」
……止まった。
霊夢が扇風機の前で、あ゛ー、ってやってた。
束ねられた髪が、そよそよ。
「…………意外と可愛いことするんだね」
「うわっ、わああああっ。いっ、いいじゃないのよ、暑いのよ!! 全て暑いのが悪いのよ!!
ええそうこれは異変よ!! だからこうなんかついやってしまったのよ!!」
ぱたぱたと無い袖を上下させるようにはためく腕と、それに合わせて赤らむ顔。
必死の言い訳に、つい頬が緩んでしまうのはこの際致し方ないと思う。
……何て言ってあげたら良いやら、とりあえず爽やかな笑顔と共にビシッと親指を立てて。
「暑い時は誰でもやるって!!」
「うう……って、意外とって何よ! 失礼ね!!」
「じゃあ可愛い。普通に可愛い」
「今更言っても遅いわよ、馬鹿……あ゛ー」
空気でうがいしているような霊夢の声と、蝉の鳴き声だけがジリジリ響く。
気だるげな霊夢の汗が伝う色っぽい横顔に、少しだけ見惚れていた。
……おっと、気を取られてる場合じゃない。気を取られていても良かったけど。
「ほら、アイス買って来たよ」
「ん。ありがと」
ビニール袋をリスのように漁ると、目ざとく高そうなカップアイスを引きずり出してニッコリと。
良い笑顔が見られるのは結構だけど、それがそのアイス代500円だと思うと財布の辺りが切なくなる。
まあ、元々霊夢に貢ごうと思ってたんだけど。サイズが大きめだから、きっと少しくらい残る……なんてこたないか。
放り出されたビニール袋を自分も拾い上げて、安物にして夏定番のアイスバーを一本引き抜き、口に入れる。
「はいふははふへへふう」
「口に突っ込んだまま喋らないでよ……」
「ぐむ。アイス冷蔵庫に片付けてくるよ」
「いってらっしゃーい……おいしい……」
幸せそうな顔の霊夢を背に、扉を開けて階段を下りる。
いやあ、あんなに嬉しそうにされるとこっちも買ってきた甲斐があったってもの、疲れも吹き飛ぶ。
どうせならそれと一緒にこの暑さも片付いて欲しいんだけどな。
アイスを咥えたまま階段を下りようとすると、黒い影とすれ違った。
おっと、我が家の宅急便は何をあんなに急いで駆け回っているのだ。
黒猫なんとかは俺の横をかっ飛んで行くと、ドタバタと扉の隙間を抜けて部屋に入っていった。
アイツめ、最近霊夢にベッタリなんだ……女の子なのに。
アイスを冷蔵庫に……いや、冷凍庫か。ともあれ片付けて、
手に残る冷たさを惜しみながら取って返す。
そういや今日はどうするのかな、なんて考えながら階段を上がり、扉を開けた。
「……ん?」
小首をかしげる霊夢。
リボンから解き放たれた長い髪が、扇風機の風を受けて気持ち良さそうに踊っていた。
「……なに固まってるのよ?」
「いや、髪を下ろした霊夢もまた可愛いなと」
「そう? ありがと。
……まったく、最初からそう言えばいいのよ」
そう言って、照れたように視線を逸らす霊夢。
「霊夢って、結構髪長いよね」
「……ん。今は、伸ばしてる」
緩やかに流れる髪は、腰くらいまでの長さだ。
少しウェーブがかったその髪は、日に当たると若干赤味がかっているのが明確に分かる。
髪を伸ばしたりするのは願掛けの意図があるとか言うけれど、女の子だから別に関係ないのかな……?
長いのも良いけど、束ねてるのはこう、うなじが……。
「ちょっとした願掛けよ……って、何よその目」
「あ、う、ごめんごめん……そっか。帰れるように?」
「今ならそうなるかもね。まだこっちに来て一ヶ月くらいじゃない?」
「ん、それもそっか」
もう、一ヶ月か……。
気付けば、そんなに経ったんだなぁと思う。
ジジジとおかしなテンポで鳴く蝉が、鳴き止んだと思ったらまた鳴き出した。
に゛ゃあ゛あぁぁあ゛ぁぁ~。
「この子までやり始めたわよ……」
「んー? 扇風機点けると毎回逃げ出してたもんなんだけどね」
「暑いものねぇ……」
猫を自分の足元に、気持ち良さそうに目を細めながら人工的な風を受け続ける霊夢。
ついでに言うなら、足元の彼女さえも一緒になって鳴きながら、気持ち良さそうな顔をしている。
なんだか、猫が二匹居るみたいだ。言ったら怒られるから言わないけどな!!
と、部屋の隅に畳まれたまま放置されていた霊夢の巫女服に目が行った。
「霊夢って、派手な格好が好きなのか?」
「……いきなり何よ。私が派手好きな女の子に見える?」
「う。違う、違うぜ。ただ、アレ。巫女服というにはちょいと派手じゃないかなー、って」
そう? と首をひとつかしげて、懐かしそうに自分の巫女服を拾い上げる霊夢。
今着ている服に比べると、中々意匠が凝っていると言うか何と言うか。
実際、夏場着てても全然良さそうな……風通しの良さそうなデザインというか、なんというか。
「……派手かしら? ウチの正装よ、正装」
「正装、ねぇ。久々に着てみたら?」
個人的に見たいです!!
「や。動きたくない。それに周りの人だってそんな格好してないじゃない。
幻想郷だって巫女が五人も六人も人里歩いてたりしないわよ」
「そ、それは確かに。」
……着てもらうのは、中々難しいご様子。
ならば、とばかりに大きな紅白リボンを拾い上げて、霊夢に手渡す。
あによぅ、とでも言いたげな視線だけ突き返された。
「……なー。リボンくらいなら良いだろー?」
「……んー。仕方ないなぁ。」
と、リボンの一端を口に咥えて早速髪を束ね上げ始める霊夢。
こういう構図って、なんだかドキドキする。普段、霊夢が髪を束ねる様子をキチンと見たこと無かった気がする。
「ん? ……んふふー」
その視線に気付いたのか、リボンを咥えたままに妖しげに笑む霊夢。バレてるぜ……。
「よっと」
少し楽しそうな様子になったままに、霊夢はリボンを結い始めた。
霊夢が今まで髪を結わえていたリボンは、いやゴム留めだったな。巫女服のリボンと比べれば当然地味で、
そもそもこんな風にフリルなんかは付いてすらいない。霊夢自身、周りに合わせてる所もあるみたいだったし。
確かに、こっちじゃそんなにそんなリボン着けてる子なんか見ないしなぁ。
なんて思ってる間に。
「ん」
「おぉー。なんだか懐かしい」
と、その長い黒髪は紅白の大きなリボンによって束ね上げられていた。
初めて逢った時を髣髴とさせるそのシルエットは、今着ている服に照らして見れば、
確かに何処か現実離れしたモノを感じてしまう。
霊夢はリボンの具合を見ているのか、ちょこちょこ触ったりして上下させたり、角度をずらしてみたり。
「……折角だし、着替えてみようかしら」
――――その言葉を待っていた!!
「よ――っしゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁ――――!!」
「いや、あんた喜びすぎでしょ……。
ほら、着替えてあげるんだから、ありがたーく出て行きなさいっ」
「はーい!!」
……いやはや、言ってみるものだ!!
部屋の外に出ると、何故か猫まで付いて来る。
着替えを察したのか……わざわざ出てきたのか?
「お前もその辺わきまえてるんだな……随分良い猫に育ったな?」
「にゃーん」
撫でてやると、気持ち良さそうに喉を鳴らしてくれた。
珍しい、久々にデレてやがるぜ!! まったく、扱いの難しい猫さんたちだ。
「お? なんだ、この眼みたいなの……」
首輪の鈴に、何か眼のようなモノが……。
「入って良いわよ」
「おっと。はーい」
撫でるのをとりあえず後回しにして、部屋に入る。
「おぉ……」
久々に見た、という感慨より前に、純粋に似合うなぁ、なんて思った。
「……どうかしら。何だか緊張するわね……」
「普段から着てたんだろうに……うん、似合ってるし、可愛いよ」
「そ、そう……? この格好で可愛いなんて、言われた事無かったわね……」
くるくる、とその巫女服を身にまとって蝶のように舞う霊夢。
これだけ可愛けりゃあ、そりゃ少しくらい自分の容姿に自信はあるんだろうなぁ。
それでも、えへへ、なんて言って笑う様子からは、それほど意識した事は無かったのだろう様子が伺える。
……可愛いなぁ、その上綺麗ときたもんだ……。
「神楽とかってやったりするの?」
「ん……まあ、一応出来るけど……今は嫌よ? 暑いし、依代も無いもの」
「仰るとおりで……チッ」
暑くなければ見せてくれたと言うことなんですね分かります……依代って何だ?
聴こえない程度に舌打ちしつつ、改めて霊夢を眺め見てみる。
その黒髪は紅白の服に良く映える。やっぱりと言うべきか、白い袖は良い具合に肩を、腋を露出させていて、
巫女服だというのに若干扇情的に見える。要するに……えろい。
と、その視線を見抜いたのか、霊夢は不機嫌そうな顔をすると肩の辺りを両手で抱いた。
「……変な目で見ないでよ、馬鹿」
「ハッ!! 何故バレた!?」
「言い訳さえしない辺りいっそ清々しいわね……もう。
しかし、久々に着た気がするわー。やっぱり、こっちの方が性に合うわね」
ぱたぱたと、機能性の良く分からない袖が上下する。風に乗るように、その白は目に鮮やかだ。
なるほど、涼を得る程度の能力がその袖には……って。バンザイ、して……。
…………付けて、いない……だと……。
「……何、ニヤニヤしてるのよ?」
「……見えた」
「見えたって……何が? …………ん?
……あっ、ばか!! 変態!! どこ見てるのよ!!」
空いた腋から、その……いやあ、やっぱり幻想郷の巫女さんはえrほぐわッ!!
ぐしぐしと鼻を啜る。血の味がする。
顎を削り取られるようなサマーソルトを女の子から喰らう。これほどの体験をした漢は俺以外に居はしまい。
そのお陰で更にもうひとつ役得なオマケを貰ったけど……(現代入りしているので霊夢の下着も現代仕様です。はあと)。
明らかに不機嫌オーラ全開で窓辺に座っている霊夢だったが、先の出来事の直前よりかは落ち着いてきた様子。
まったく、そうやって黄昏てる限りは絵になるくらいに可愛い女の子なのに!!
……打開策を。と、思いつきがてらに俺は手を叩く。
「そうだ。飛べるか試してみたら?」
「……んー。それもそうね」
もしこれで万一飛ぶことが出来るようになったりしたら、
あれだけ悩んだり苦しんだり、兎にも角にも色々と騒動を呼んだあの時は完全に無駄に……。
――――ナチュラルに浮かんでいた。
「……飛べた」
「おいイイィィィイィ!?」
……何この展開。今までの葛藤と言うか騒ぎは、何だったのだろう……。
「っとと……天井に頭ぶつけちゃうわね。
でも、あんまり上手く飛べない気がする……」
「…………今までのアレは何だったんだぜ」
「ま、まあそう気を落とさないでよ……」
くずおれたままの俺の頭を、飛んだまま撫でてくれる霊夢。
呻きながら見上げれば、またしても。
「……これ着てると、飛べるのかしら。どういうこと?」
「それは俺が言いたい……っていうか見えてrぐわっ」
「見んな。次は刺すわよ」
部屋の中で、巫女服を着た女の子が垂直に浮かんでいる。
冷静に考えれば、中々おかしな光景だとは思う。
それでも彼女が再び飛んでいるのは事実で、どこか安堵のようなものを覚えたのは確かだった。
「……とりあえず、飛べるようになって良かったなぁ。」
「……ええ」
ふ、と穏やかに浮かぶ彼女の笑顔に、俺も釣られて笑顔になる。
「……さて、今日はどうしようか?」
「んー……お祝い?」
軟着陸と同時、笑顔のままに言う霊夢。
「……お祝いって。まあ、それも良い……かなぁ?」
夏休みはまだ続くし、それこそ時間があると言えばあるんだが……。
「たまには息抜きも必要でしょう? それに、
あんたが毎日夜遅くまで起きて勉強してたりするの、知ってるわよ?
もうちょっと体を労わりなさいな」
「げ、バレてた」
「そのくせ朝起きるのが辛いって……自業自得。もう少し余裕を持ちなさいよ」
「う、うう」
そう言われてしまうと、確かに反論する余地は無かった。
毎晩、霊夢から聞いた話と自分で色々調べた情報を元に幻想郷についてまとめてみたり、
あるいは学生らしくキチンと宿題を片付けたりもしているんだ。
とは言っても宿題の方が後手後手になってる気がせんでもないけど……長くて終わらないんだよなぁ。
夜遅くまで起きてると朝は布団から出られないし……。
ホントに、変に長い。そりゃあ疲れる。
「だからね、ほら。お金はあるんだし、また遊びに行きましょ?」
「む、うむぅ……仕方ないなぁ」
その笑顔には……どうしても勝てないみたいだし。
――――そう、一面、真っ白だった。
鈴、と音がする。
春の名残を感じるように穏やかな風が、頬を撫でている。
遠くで、吹奏楽器のように響く鳥達の声。
今さっきまで真夜中だったろうに、突然のようなその暖かくも眩しい光。
面倒ながらにも目を開けてみれば、どうしてか懐かしい景色の一端を見た気がする。
……いや、気がした訳ではなかった。
「…………!?」
天狗も驚くほどの速さで起き上がり、幻想を風靡するように左右を勢いよく見渡した。
見慣れた木立が乱立している。
軒先では、猫が踊るように戯れている。
鈴、とまたひとつ、風鈴が鳴った。
何度目だろうか、今感じているあの薫風が、私を包み込むように再び吹いている。
「…………幻想、郷?」
そうだ、幻想郷だ。
この景色、この風、この情景、全て。
あまりにも唐突に、私は帰って来た、んだろうか。
それとも、これが夢なのだろうか。
いつものように袖を通している服は、私が私であることを示すように紅白めいていて。
めでたい訳でもないのにおめでたくて、何だか私自身が馬鹿なことをしているような、そんな気になってしまった。
それでも、何処か落ち着くのは、きっと此処が幻想郷だから。
だけど何か名残のようなものを心に感じて、酷く懐かしい気がしたその縁側を離れ、立ち上がる。
「……夢、だったのかしら」
問いに答える者は居ない。
いつもなら、すぐにでもスキマを開いてアイツがやって来たり、
それともはた迷惑なくらいに騒々しいアイツがやって来て土産話を聞かせろと騒いだり、
もしかすると我侭なアイツがまた一騒動を引っ張り込んで来たり。
……そんな事が無いだろうかと、私は期待しているんだろうか。
それとも、後ろ髪を引くようなこの気持ちを、まだ私は何処かに、置いて来てしまったのだろうか。
「黒い風が吹いている」
ざぁ、と風に呼ばれるように、振り返った。
「…………燐、だったかしら?」
「お燐で良いよ、お姉さん」
尾が二股に分かれた不吉な黒猫が、たなびく風に哂っていた。
猫のままで喋られると、どこか不穏な気持ちになる。
ただでさえ黒猫と言うのは縁起が悪い代物なのだから。
「一度言ってみたかったのよねぇ、この台詞。知ってる?」
「知らん。そのままの姿で哂うな、気色悪い」
「酷いなぁお姉さんは。ずーっと一緒に居たっていうのに」
……ずっと? どういうこと?
流れる風に揺り起こされるように、気付いた。
確かに、居た。妖気も気配も何も感じなかったけど、確かに、目の前のコイツは
あの時に、幻想の向こう側に、あそこに居た。
……コイツは、○○の飼い猫になりすましていたんだ。
「……訳分かんないんだけど。あんた、○○の所に居たわよね。
一緒に居たって、そういうことでしょ?」
「そうだねぇ、お姉さん。今にも死にそうな顔をしてたお姉さんは、
とても魅力的な匂いがしたんだけど。一緒に居てすごく楽しかったよ、
いつ死ぬか、いつ運んであげられるかって思うと、とーってもねぇ」
ニタァ、なんて表現が良く似合うだろう、嫌な笑顔だった。
本来人間からすれば表情の察しづらい猫が、人間のように哂う。
それはまるで正しくないものを無理矢理肯定しているようで、見ていて心地が悪かった。
そんな笑顔を否定してやるように、私は語気強く言い放つ。
「……私は死んでない。何より、私は確かに幻想郷に帰って来てるじゃない」
「おやおや、夢と現実の区別も付かなくなったのかしら。
そりゃあ好都合だね、お姉さん。苦しまずに逝けるんじゃないかな?」
「はぐらかすな化猫ッ!!」
今度は、飛ぶ。
満身の霊力を込めた退魔針は、向こうとは違ってよく飛んだ。
地面を抉るほどの威力のそれを、お燐は猫らしく捉え所も無く寝転ぶようにかわした。
崩壊した石畳を難なく飛び越えて、黒猫はまたヘラヘラと哂った。
……大丈夫、ちょっとブランクがあるから外しただけよ。そう自分に言い聞かせる。
「恐いなぁ。あたいを撫でていた時のように笑ってよ」
「……そうね。少なくともあんたがそれを知ってるってことは、向こうは夢じゃ無かったってこと。
それが分かってるなら話は早い。この異変の犯人は、誰?」
「異変? 私しか知らない、お姉さんしか知らない。
幻想でさえ夢みたいな出来事を、異変と言って誰が信じたりするかね?
誰も知らなきゃ、それは異変なんて言わないねぇ」
……確かに、そうかもしれない。
そうかもしれないけど、向こうで過ごした時間は、確かなものだ。
彼が、○○が教えてくれた「向こう」はきっと真実で、○○が支えてくれた私は、
確かに今此処に在るんだ。
……私自身が答えだって、私自身が信じてる。
「……私が異変って言うからには、異変なのよ。それがルール。
それくらい、閉じられた地底の住人と言えど、知ってるでしょう」
「へぇ、エライ自信だねぇ。あたい感心しちゃうよ。
それじゃあ今代の博麗の巫女は、夢を現実だと思い込んで異変だと言い張る、
博麗らしからぬ悪い巫女さんだって、そう言う訳だ」
煽るように、投擲する札や針から逃げ回り鳥居の上へとお燐は逃げ込んだ。
穏やかすぎるくらいに優しげな逆光が、不吉に輪をかけるような猫又の尾に不気味に映える。
ケタケタと、人形のように猫は哂うばかり。
「……何が言いたいのよ」
「さぁてね。黒い風が吹くよ、ざぁざぁざわざわ。連れて行っちゃおうかねぇ。
焼けた地底の下の下。奈落の底の、奥深く。
もうすぐ死ぬよ、誰かが死ぬ。業火の車は重くなる。嗚呼、死体運びは楽し――」
「……話にもならな……っい!!」
――幻想空想穴。
話が通じないなら、コイツをとっ捕まえて叩きのめして、後は真犯人に聞くだけだ。
瞬間的に目の前に現れた黒猫に目掛け、渾身の力で踵の一撃をお見舞いする。
しかし、私の一撃は虚空を割るに終わった。
「いなぁ……っと!! あったるもんかいっ!!」
軽い音と共に、現れたのはあの生意気な顔の妖怪変化。
「的を大きくしたわね、好都合」
「んにャッ!?」
頭上、目下、左右、全方位。
人間の形を取ったお燐の周囲全てに結界を張る。
コイツがスキマ妖怪でもない限り、私の捕縛から逃れることは決して出来ない。
瞬きする間さえ無く、甲高い音を立てて結界はお燐を飲み込むように捉えた。
「にゃにゃにゃにゃー!?!?」
「うるさ……いッ!!」
「にゃギッ!!」
空を蹴るように疾駆。
二度目の踵は、今度こそ生意気な天辺を的確に貫いた。
「――――さぁて、話してもらいましょうか。
誰の差し金? 紫? さとり? それとも、あんたの独断?」
「話せと言われて話すもんかい……あだッ!!」
「あんたに拒否権は無いのよ」
御札を投げ付けてやった。嗚呼、なんかスッとする。
霊力は万全に、ストレスは漫然に、怒りは当然、溜まっている。
いっそのことコイツを今すぐ殺して真犯人を引きずり出してやろうか。
「お、お姉さん……? 顔、恐いよ? ほ、ほら笑っ――――」
鈍い炸裂音。
無言で陰陽玉を投げ付けてやった。
高速回転しているそれは、お燐の鼻先を掠めて目前の石畳を抉り続けていた。
流石に、笑顔も凍り付いていた。
「で、誰」
「…………言う、もんか」
「……へぇ。ホントに死にたいみたいね」
渾身の霊力を込めた札を、出来うる限りの何重にも重ねる。
普段は込めもしない力を練り込まれているせいか、札はビリビリと空気を鳴らすように振動している。
そんな、立場が逆だったら怯えているだろう光景なのに、唇を噛み締めたままに、泣き出しそうなままにお燐は私を睨んでいた。
……なんだか、急にやる気が削がれた。
「…………はぁ。あんたねぇ、そんなの答えを言ってるようなもんじゃない」
「え、えぇ? な、何さっ。こ、殺せば良いじゃないかっ!」
その震えた声色に、尚更毒気を抜かれて私はため息をついた。
「あのねぇ……。
仮にあんたが犯人だったら、殺されたくは無いだろうしすぐ口を割ってたでしょう?
かと言って紫の差し金で動いてたとしても、紫なんかの為に命を張るのはあいつの式神くらい。
だったら、犯人の目星なんか考えなくても分かるでしょうに……」
「う、う……」
声も出ないらしく、喉の底を絞るような声で呻くお燐。
だとしたら、こいつを捕まえておく理由も無い。
あとは直接主を叩きのめして、こんな事をしでかした理由を吐かせるだけだ。
「ほら、何処へなり行きなさい」
「あにゃッ」
小さな雷鳴のような音、それと同時に私の敷いた陣が解かれ、弾き出されるようにお燐は束縛から解放される。
「…………解放されたところ悪いんだけどね、お姉さん。
何でこんな事になったか、何であんな所に行ってしまったか、お姉さん、分かってる?」
疲弊しきった顔、だけどそれでも小憎たらしい目付きのまま、お燐がせせら笑った。
少しだけイラついて、指先に走った霊力の奔りを握り締めて押し潰す。
コイツ、私を怒らせてどうしたいっていうのよ。
「……知らないわよ。知りたくもない。それともそんなに死にたいのかしら。
あんたがそうなるまでに積み上げた涙ぐましい努力とやら、今ここで突き崩してやっても良いのよ?」
「地獄の獄卒みたいな巫女さんだね、ホントに……じゃあ、教えてあげようか」
今の今まで縛り上げられてたってのに、何なんだコイツは。
満身創痍な笑顔のままに、お燐は立ち上がった。
「お姉さん。分かっているかい? あそこに、あんたが行った理由。
そうだね、これは異変だよ。幻想郷のルールたる、博麗の巫女が解決すべき、異変さ。
けれど、それがどうだい? お姉さん、自分で何かやってみたかい?」
「…………それは」
「お姉さんは甘んじてるのさ、今に、幻想郷の当たり前に。
異変がやって来て、それらしいものを退治して、自分からは何かやってもみやしない。
行動しているんじゃなくて、傍観してるだけさ」
「…………ちがう、私は」
お姉さんは、きっと心の何処かで自分を特別な者だと信じ込んでるんだ。
幻想郷の管理人、幻想郷のルール、幻想郷一の巫女。
そりゃ、此処ではそうかもしれないよ。だけどね、お姉さん――――」
「――――黙れ!!」
――――闇雲に投げ付けた力が、当たるはずも無く。
お燐が居たその場所を、激しく吹き飛ばす。
けれど、そこにお燐の姿は、さも当たり前のように、存在しなかった。
「ね、お姉さん。分かったでしょ?」
白煙に包まれ、黒猫の姿に戻ったお燐が、小さく哂う。
「……あんたは特別なんかじゃないのさ。ましてや、こんなに神社を空けたのに、
誰も連れ戻しに来ない、誰も気にしちゃあくれない。
それがどういうことかくらい、暢気なお姉さんでも分かるでしょう?」
「…………ちが、う。わたし、私はっ…………」
否定する言葉が、現れなかった。
「……代えは、いくらでも利くよ。例えそれが、博麗の巫女だとしても。
それこそ、錆び付いた地獄に縛られ続ける怨霊達のように。
運ぶ死体は増えずとも、怨霊の代えはいくらでも居る。
さあ、お帰りよ。あんたの帰りを待っててくれる人が居る。
お姉さんを必要だと、そう言ってくれる人が居る。
…………もう、そう言うのは、そう言うあんたは、要らないからさ」
「――――嫌、いや、そんな……ッ!!」
「……彼、○○のこと、嫌いなの?」
ふっ、と邪気の無い笑みを見せたお燐の姿に、返事は出来なかった。
もう、何もかも見えなくなっていたから。
何も無い暗闇に、誰に言う訳でもなく、私はぽつり、呟いた。
「――――そんなこと、無い……」
その言葉は、何に向けたものだったんだろうか。
暴風が過ぎ去った、博麗神社の境内。
「やばい。まじで恐かった。博麗の巫女やばい。恐い。恐いってレベルじゃないいぃ」
「……まあ。トラウマにもなるわね、これじゃ……」
「さとりさまぁー……」
ぐすんぐすんと擬音が聴こえて来るような、そんな有様でさとりにしがみ付くお燐。
「けれど、これで新しいお仕置きの備蓄が出来たわね」
「んにゃッ!? か、勘弁してくださいィ~」
「ふふ、冗談よ……けれど、本当に良い風が通るのね、この場所は……」
主の居ない神社、縁側に居座るは、さとり妖怪の古明地さとり。
「ええ、本当に」
「……あら」
随分前からそこに居たかのように、縁側に座っていたのはスキマ妖怪の八雲紫。
「……全部思い通り? あの娘がお燐には手を出さないとわかっていた?
じゃあ、このタンコブはなんなのかしらね、お燐」
「痛いです、さとりさま~……」
「……わかりましたわ。申し訳なかったですわ。謝りますわ」
「平謝りもここまで来ると腹も立ちませんね……」
ふぅ、とひとつ。風のようなため息をつくさとり。
さて、このスキマ妖怪。心が読めるとは言えど心のスキマに凄まじい量の思考や情報が詰め込んであるようだ。
読み取れはせども、どれが本音かなんてまるで分かりはしなかった。
それでも、いくつかが本音なのだろうと当て推量で口にすることは出来るのだけど。
「ええ、上々です。霊夢は、博麗の巫女は、ようやく色々と考えてくれるでしょう」
「……ようやく、ですか。まったく、貴方は本当に回りくどい」
「なんでもストレートに言ってくださる貴方ほどではありませんわ」
人間とは、脆いものだ。
肉体が壊れてしまえば、精神はそれを支える事が出来ずにいずれ滅ぶ。
精神が壊れてしまえば、肉体が無傷でも精神に釣られいずれ滅ぶ。
案外、さとり妖怪のような忌み嫌われるような存在が、心的にも強い者なのかもしれない。
「それでも、回りくどくても。自分で気付かねばならない事とて、ありますもの」
「妖怪にそんな事を説かれずとも、私だって知っています」
「……さとりさま?」
自分を見上げるお燐の痛々しいコブを撫でる、さとり。
やはり痛むのか、呻き声を上げながら沈み込むように尚更さとりにしがみ付くお燐。
成長しなければならないのはこの子かもしれませんね、なんてさとりは小さく笑った。
……台本通りにやれた辺り、少しは成長したのかしら?
「……あのお姉さん、巫女は、ちゃんと帰って来るんですか?」
「ええ。きっとね」
少なくとも、お燐が道を指し示してやれたはずだから。
私のペットは優秀ですもの、そう言ってさとりはお燐を撫でた。
「博麗の巫女は、気付いてくれるでしょうか」
「さて。そうでなければ本当に代えを連れて来るだけですわ」
「……本当に、回りくどい」
小さなものに囚われて見えないものがある。
独りでは分からないこともある。
それでも、いつかは自分で見つけなければならないのだ。
――――彼女とて、霊夢とて。博麗の巫女である前に、一人の少女なのだから。
───────────────────────────────────────────────────────────
叩きつけるような雨が降っている。
暴風雨の向こうに見えるのは、無機質で冷え切ったビル群。
ぽつりとひとつだけ立った街灯の下、何を考える事も無く立ち尽くしていた。
足元は、水溜りで見えない。
さて、何処へ行けば良いのやら……。
「……え?」
……俺、なんでこんな所に居るんだ?
見上げると、雨粒が顔中を叩いて気持ち悪い。
言い知れぬ不安と寒さに、思わず肩を抱いて水気を払った。
しかし、次から次と落ちて来る雨粒は、俺が濡れていないのを良しとはしてくれないらしい。
まるで、周り全てが敵になったみたいな有様だ。
「……あー、夢か」
夢、そうだろう。きっと夢。
だって俺は今さっきまで、霊夢と二人で大騒ぎした後片付けをしてた。
誰も居ないのを良いことに酒なんか飲んだりして、店屋物を頼んだりして、
最終的には二人して話す事も無くなって、どちらが何を言うことも無く眠りに就いた……と、思う。
記憶が曖昧だ。夢の中だから、だろうか。
……夢なら、俺だって何でも出来るんじゃ――――
……しょ、衝撃のファースト――――
「――――此処は」
小さな、けれど迷い無い声が、雨を断ち切るように聴こえた。
「此処は、貴方が感じる心象世界」
振り返った先に居たのは、暗い眼をした、けれど何処か全て見透かされているような、
そんな澄んだ目を持つ桃色の髪の少女が、雨に濡れることも辞さぬままに俺を見つめていた。
不思議な、なんとも、不思議な格好だった。
見返す瞳は気付けば三つで、不思議な服に不思議な、その第三の目、っぽいもの。
何が不思議かって、全部不思議だとしか言えなかった。
……この服、幼稚園児っぽい?
「…………えと、どちら様?」
そんな彼女に対して先ず言うことが生まれて来なくて、それだけ漏らす。
続く雨に揺るぎもせず、眉根をひそめるようにゆるりと彼女は口を開いた。
「初めまして。古明地さとりと申します」
「あ、えー、と……」
反芻するように口を開きかける。
「ええ、知っていますよ。○○さん」
「……どうして俺の名前を?」
「…………さぁ、どうしてでしょうか。」
さも全て知っているかのように微笑む彼女に、少しの不安と、だけど静かな温もりを感じた。
「まあ、私が誰だとか、貴方の名前だとか、そんな事は今現在どうでも良いのです」
「は、はぁ……。」
まるで訳が分からない。
「訳が分からない、こいつ誰だ、ここ何処、雨うぜえ……。
中々煩雑な思考をお持ちね。
あら、可愛いだなんて。ありがとうございます。
しかし、幼稚園児っぽいとは中々失礼な事を考えてくださいますこと」
……え?
「……なっ、なな、なッ!!」
「貴方は次に『何故それを』と言う」
「何故それを……ハッ!?」
「教科書通りの反応、お見事です」
考えてることが、まるっきり読まれている……!?
それすらも見通されているかのように、くすりくすりと咳き込むように笑う彼女、いや、さとり。
……さとり? さとり、さとりか。つまり、そういう、ことなのか?
「ええ、ご理解の程頂けたようね。そう、私はさとり。
薄暗い地底に閉じ込められた、誰からも忌み嫌われる存在。
それが私、古明地さとり。
貴方の考えること、心に秘めていること。そう、覗こうと思えばいくらでも……」
「や、やめて……くだ、くださいよ!」
「ふふ、わざわざ口外したりはしませんよ。
何より、今此処には貴方と私、そして彼女しか居ないのだから」
「……彼女?」
周りを見渡すも、そもそも遠景にぼやけたビルの群れと、
相変わらずに降り続く豪雨が視界を遮り、目の前のさとりくらいしか誰かを見つけたりは出来なかった。
と言うより、いきなりこんな夢で何がなんだか……。
「……貴方は正常ですよ。疲れている訳でもないわ。
確かに此処は夢の中。けれど、限り無く彼女の、博麗霊夢の心に近い、
彼女の抱く幻想と貴方との架け橋。
……言っている意味が分からないって、言わなくても顔から漏れ出してるわ」
「心でも言葉でも言わせてもら、もらいますよ。意味が分からない」
「……無理に敬語を使わなくても結構ですよ」
なんだか少しだけ肩の荷が下りたような気分になって、肺から空気を少しだけ漏らした。
……待て、今、霊夢がどうたらって。
「次に、貴方が目を覚ます時。きっと貴方はこの夢を忘れてしまうのでしょう。
それでも、彼女は鮮明に覚えている。
貴方は『此処』の住人ではなくて、『そちら』の住人だから。
だけど、無意識にでも、記憶の僅か片隅にでも、今この時を忘れないでいてあげて」
轟、とまたひとつ風が吹いた気がした。
「…………霊夢が、霊夢に何か、あったってこと?」
「ええ。目を覚ませば、否が応にでも知ることになるでしょう。
此処は彼女の心象に最も近く、それでも遠く霞むほどに遠い場所。
彼女が今どんな気持ちで居るか、例え忘れても、それでも忘れてはいけない」
「……訳が分からん」
がしがしと頭を掻くも、さとりは意図の読めない小さな笑いを浮かべるばかり。
「分からなくても、いずれ分かりますよ……。
ああ、そうそう。貴方に、一つだけ教えておきたいことがありました」
「え、何々……?」
変わらない強さで、雨は、降り続く。
ぱちん、と目を開けた。
誰かに呼び止められた気がしたんだ。
したんだと思ったけど、誰も居ない。そりゃ、天井に誰か居るという状況が分からんよな。
ふぅむ、ひとつ唸ってみても返事は無いので、とりあえず起き上がる。
まだ、夜の帳は下りたままだった。
「……なんだか落ち着かないなー」
がしがしと頭を掻いて、またひとつ違和感を感じて、ううん、ともうひとつ唸る。
何か、忘れている気がする。
あー、夢見は良い方だと思ってたんだけどな。
……って、あれ?
「……霊夢?」
傍らで寝入っていたはずの霊夢が、居ない。
どうしてか胃の辺りがざわついて、落ち着き無く俺は立ち上がった。
両拳が妙に熱い。どうしようもなくなって、暗がりのままに部屋の戸を殴るように開けた。
やっぱり、階下まで真直ぐに真っ暗だ。
「……今、何時だっけ」
携帯を開く。
寝入ってから、恐らく一時間と経っていない。
早すぎる。霊夢が起きるのも、霊夢が居なくなるのも。
まだ寝てたって変じゃないのに。
……霊夢、何処行ったんだ。
宴会して騒いで喋ってお互いに話し疲れて。
そして起きたら霊夢が居ないなんて、きっと、いや、おかしい。
明日どうしようかなんて、笑い合ったのに。
何処なんだよ、霊夢……?
誰も居ないのは一ヶ月前なら普通だったのに、今は霊夢が居る。
居る、はずなのに。
どうしてだろう、早く、霊夢に、いや、霊夢と話さないと。
不安が心臓を追い立てるようにせり上がって来る。
何か、まずい。
「霊夢!!」
駆け下りた先から見える玄関まで、真っ暗だ。
「っくそ……」
無意識に言葉が漏れた。
「いつも」通りに、戻っただけじゃないか。
でも、ダメだ。何でか、何で不安か分からないけど、ダメだ。
今の「いつも」は、これじゃない。
「霊夢ッ!!」
玄関の扉を開け放った。
「な…………なん、だ、これ」
鬱蒼と生い茂る、密林。
としか言いようが無い、目の前に広がる青々とした森の、入り口だと思われる空間。
入り口、と言って正しいのかさえ分からなかった。
だって今は深夜で、それこそ数m先でさえ見通せない真っ暗闇しか無かったから。
ただ、開けた森の広場みたいなものが、そこに在った。
……なんだよ。何なんだよ、これ。
「れい…………っ」
叫んでも、大丈夫なんだろうか。
こんな真っ暗闇に、こんな見た事すら無いような森林に。
全貌を見た訳じゃない。それでも、どうしてか叫ぶのは危険だなんて、
柄にも無く心の何処かで警鐘が鳴っている気がした。
「訳が、訳が分からない……」
誰に言う訳でもなく、小さく呟いた。
「訳、わかんねぇよう……」
闇からは、虫の鳴き声しかしない。
いや、時折怪しげな鳴き声も混じる。それが蛙か獣か、はたまた他の何かかどうかなんて、
分かるはずも無い。分かる訳が無かった。
足が、微かに震えている。
周りには、自然の放つ音以外何も無い。
振り返っても、家の中には誰も居ない。
車の通る音さえ、息を殺しても聴こえて来たりはしなかった。
それじゃあ、此処は何処なんだ。
霊夢は、何処へ行ったんだよ。
俺は今、何処に居るってんだよ……。
「……こう言う時って、何か大事な物とか、手がかりがあったりする、よな……?」
同意を求めるように、誰も居ないのに、そんな風に言ってみる。
少なくとも、ゲームとか、お決まりの展開で言うなら、間違い無くそうだ。
周りを見渡す。
家の中に居ないなら、霊夢はきっと此処を進んで行ったに違いない。
恐る恐る大自然の中に足を踏み入れ、心許無く差し込む月明かりの下、
何か無いものかと調べるだけ調べてみる。
がさりがさりと音がする度に体が硬直する。
その度に手を休めて流れる汗に吐き気を催しそうになりながら、手を動かし足を動かし、探る。
だけど。
……何も、無い。
リボンとか帽子とかお菓子とか、そう言う目印らしい物は、何一つ見当たらない。
それでも、獣道というよりかはいくらか歩きやすそうな道が、
目の前に筋を通すように一本だけ伸びている。
勿論、この先が獣道ではないと言う保障なんて何処にもありはしないのだけど。
じゃあ、どうしようか。
なんて、選択肢の無い迷いだけが心に浮かぶ。
お決まりの展開ですら、無いらしかった。
「…………絶対、なんか居る、よな」
誰も答えてはくれない。
「霊夢、なあ霊夢。居るんだろ? おーい。
隠れて、俺を驚かそうとしてるとか、そういうのだよな?
そういうの、だよ、ね……なぁ……?」
返事は無い。
「っ!! れい…………っ!!」
叫ぼうとした。でも。
――――急に、恐くなった。
もしかしたら、此処は、その、彼女の言っていた、幻想郷。
信じてた。いや、信じていない、訳じゃなかった。
確かに、彼女は空を飛んだ。現実から剥離した幻想を、俺の前で、体現した。
それでも、それでも。
そこへ、俺が入って行って、それで、どうする?
例えば、此処が本当に彼女の話す通りの世界だと言うんなら。
問答無用で殺されるだけかもしれない。
俺の言葉になんか、耳を貸してくれないかもしれない。
そうだ、それより、何より。
――――霊夢に逢う事さえ、叶わないかもしれない。
ただ、無碍に無残に引き裂かれて、死ぬ。
「じゃあ、どうするんだよ」
自分に問いかけるように、呻いた。
「分かる訳、無いじゃん」
分からないまま、どうしようも、ないんだ。
先行きを示し護ってくれる親も、無償の信頼を寄せられる友達も、
安らぎをくれるペットも、そして、支えてあげていたはずの霊夢さえ、居ない。
…………なんだ。馬鹿だなぁ、俺。
「――――俺、こんなに弱っちかったんだ」
奥歯が、鳴っている。
恐くて、仕方なかった。
握る拳にさえ、力が入らない。
俺だって、やっぱり死にたくないんだよ。
だけど、何が恐いんだろう。
このまま、霊夢が居なくなってしまうこと?
先に進んで、俺が、俺自身が訳の分からない何かに襲われること?
そしてその結果、何も出来ないままに、死んでしまうこと?
認めたくないのに、そうだと認めてしまってるようなもんだった。
……恐かった。
霊夢が居なくなることより、自分が死んでしまうということが。
そりゃそうだ。そうなんだ。当たり前のことなんだ。
彼女が誰かも分からない、嘘を吐いているかもしれない。
なのに、どうして俺が命を張らなきゃいけないんだ。
世話だって、してあげる必要、無かったのに。
あのまま、彼女の寂しそうな顔を見送って、窓を閉めれば良かったのに。
気の遠くなりそうな現実なんて、その瞬間にオサラバ出来たのに。
だけど。
あの生意気な笑顔が。
心に焼き付いて。
離れなかった。
離れないんだ。
そう、今も。
あの笑顔は、俺の心に高く、本当に高く付いてしまった。
「……ごめん、ごめん霊夢……」
――――あんたに、何が分かる、ってのよ。
蘇った彼女の言葉が、突き刺さる。
何も、分かっちゃいなかった。
贖罪を乞う声は、もう霊夢には届かない。
あまりにも悲痛な瞳を、助けて欲しいという想いを、確かに俺に向けていた、霊夢。
彼女に、笑っていて欲しかった。
そう、あの時は、確かにそう想ってた。
だから、助けてあげようと思った。
本当に、思っていただけだったんだ。
俺は結局、何も出来やしなかった。
支えてなんか、居ない。
嘘を吐いてた。
……違う。
嘘なんかじゃ、ない。
だったら、だったらどうして。
――――どうして今は、助けたいと、そう想えないんだよ……?
「後悔、したくない……」
ズキリ、と。
その言葉を、思い出した。
握り締めすぎた拳に、小さな痛みが走った。
強く握った拳を開いて見れば、見覚えのある傷が開いて、赤黒い血を垂れ流していた。
……流れ出した血の代わりに、心が揺らめく。
「…………ちく、しょう」
……悔しいって、あの時、確かに想ったんだ。
涙を流すに任せ、寄り縋るような霊夢のその顔を見て。
何も出来ない無知な自分に歯噛みして苦しんで。
どうしようもなくって、あの時も拳を握っていた。
今は、彼女を抱きしめてやることさえ、出来ない。
何度だって抱きしめてあげたいと心の底から想ったのに。
いつまでだって支えてあげたいとそう想ってたはずなのに。
この気持ちに嘘なんて、吐いてない。
奥歯を噛み締める。
手を、強く強く握る。
痛い。
握った拳から血が滴り落ちる。
はたはたと。
涙が落ちる音に似ていた、気がした。
それは彼女の涙のようで、悔しいと、また想った。
涙なんか、もう見られないのに。
血は流れ出すばかりなのに、手の中はとても温かかった。
これは決して霊夢の温もりじゃないって、知ってるのに。
霊夢は、ここに居ない。
……悔しいんだ。
いつかは元に戻ると、思ってた。
彼女と居られる時間さえ、きっといつかは去って行くんだろうって、諦めてた。
この傷だって、いつかは治るんだって信じてた。
でも、悔しくて。
何もせずに、何も出来ずに勝手に終わるなんて。
彼女と居た事を、本当に夢現に有耶無耶に終わらせてしまいそうで。
だけど、それが嫌だって心が叫んでいて。
その悔しさが、またこの傷を開いた。
そんな気持ちだけで、こんなにも簡単に、傷は開いてしまった。
支えてあげるなんて言うだけで、何をすべきか分からなかったなんて、悔しいんだ。
悔しくて、悔しくて悔しくて仕方ない。
この傷を広げる前にやる事なら、目の前に在る。
俺が何もしないから、勝手に手招きしてくれたんだ。
――――誰かが愛しくて。
君が愛おしくて。
いや、霊夢が愛おしくて。
そう、好きだった。
その気持ちさえ伝えられなかった。
大好きだと伝えられる言葉さえ。
今は届かない。
届けられない――――
そんな気持ちだけで、それだけで。
この手のひらさえ、血まみれなのに。
このまま、諦めてしまったら。
「…………後悔」
――――したく、ない。
これは、俺の気持ちだから。
例えばこのまま何もかも終わってしまうんだとしても、それでも伝えたいことがある。
このまま自分に嘘吐いて、一晩寝て起きたら全てが終わっていて、それってどんなに幸せだろうと思う。
どうしてかそうなるだろうって、何と無く分かった。
だけど、それを認めたくないって。
目の前の恐怖を精一杯打ち払おうとする気持ちが、血と一緒に溢れてた。
恐がってた。
霊夢がいつか消えてしまうことよりも、自分の気持ちを伝えられないままに終えてしまうことを。
そしてそれは目の前に、きっと今目の前に現れているから。
だからこそ、せめて前に進んでみよう。
恐いよ。恐いさ。恐いけど。
嘘を吐くのは、もう止めにしよう。
そしたら今よりほんの少し、恐くない未来が待ってるかもしれない。
だから。
「…………君が好きだって、それだけ言いたいんだ、霊夢」
届かない、鼓舞。
届けたい、声。
――――最低限、此処で死ねば遺言くらいは残せるかな、なんて。
……くだらない。
……本当に、くだらないことを想ったりした。
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最終更新:2010年07月02日 22:21