それはある晴れた昼下がりのこと――





「お待たせ致しました、お嬢様」

 珍しく昼間も起きているレミリアお嬢様の為に、テラスにお茶を
持ってくる。眼前に広がる湖から、眩しいくらいに陽光が反射して
くるような場所だが、特に影響もなくお嬢様はパラソルの日陰の下
で涼しげにくつろいでいた。

「今日は余計なことはしてないでしょうね」
「ええ、ごく普通の人間の血入りの紅茶ですわ。私としたことが」
「そう? 本当かしら……最近、少し味が変わった気がするのだけ
ど」
「……気のせいでしょう。いつでも新しい素材が手に入れるわけで
はありませんもの」
「ふぅん。それならいいけど」

 納得しきれない風なお嬢様は、一口飲んで味を確かめると、砂糖
をたっぷり入れてかき混ぜもう一口。そうして何事もなく時間が過
ぎていくかに思えたが、長くは続かない。お嬢様はただ退屈してい
るだけなのだ。ましてや行動の自由が制限される太陽の下ではなお
のこと。物憂げな表情の中に、時折怪しげな笑みが浮かぶ。ああ、
きましたわね……お嬢様がただ怠惰を貪っているだけで済むはずが
なかった。こういうことの後には、大抵無茶な注文が待っている。

「最近退屈だわ……そこで一つ思いついたんだけど」
「どういったものでしょうか?」
「大がかりじゃなくて、あまり疲れなさそうで、霊夢が来なさそう
なやつ」
「その程度のことでしたら、私も何も言いませんが」
「いい、よく聞きなさい」

 お嬢様は私を見上げると、自信満々に鼻を鳴らす。さあ、今日も
お嬢様の我儘を聞いて差し上げましょうか。

「今度から、この紅魔館に於ける挨拶は全て口づけによって行うこ
とにしたわ」
「……はい?」

 私の聞き間違いだろうか。今お嬢様がとんでもないことを口走っ
たような……。

「さーくーやー、聞いてる?」
「え、ええ。聞いておりますよ」
「退屈凌ぎよ。パーティーもしばらくは中止でいいわ」
「なぜそのようなことを……」
「なんだか面白くなりそうな気がするの……気のせいだけど。あ、
あと妖精メイドは例外。数が多すぎるから。魔理沙が来たらどうし
てくれようかしらね」

 こうなったお嬢様に何を言っても大して意味がないのは、誰もが
経験している通りだ。それにしても口づけとは……お嬢様もませた
考えを持つようになったものだ。

「咲夜、どうしたの? らしくないわね」
「いえ……お嬢様の仰せの通りに」

 お嬢様が言ってやったとばかりにふんぞっている目の前で、私は
平静を装っていたが、実際はあまり心穏やかではなかった。実はお
嬢様にお伝えしていなかったが、最近ちょっとした気まぐれで人間
を一人”飼い始めた”のだ。紅魔館の人事権は全て私にあり、報告
の義務もなかったのでどうにでもなることのはずだったのに……困
ったわね。”彼”のこと、どうしようかしら――


――


 ――食事を載せたトレーを持って外に出ると、思わず陽射しに目
が眩む。この館の主人のおかげで館内は窓が少なく、昼間でも薄暗
いせいだろう。でもこれから会いに行くのは、そんな館の住人には
似つかわしくないほどの明るくて、活発で、親しみのある人……じ
ゃなかった、妖怪だ。僕は庭を突っ切って正門まで行く。

「お疲れ様です、美鈴さん」
「あ、御苦労さまですっ、○○さん!」

 門の外にいる美鈴さんに声を掛けると、笑顔で出迎えてくれる。
僕は門を開けると美鈴さんにトレーを渡した。こんな場所での食事
だから、メニューは自然と食べやすい携行食……つまりパンだ。質
素な食事だが、美鈴さんはいつも喜んで食べる。

「えへへ、もうお腹ぺこぺこですよー」
「お待たせしました。美鈴さん、今日はよく眠れましたか?」
「それはもうぐっすりと……って、えーと、そのう……今のは聞か
なかったことに……。○○さん、意地悪です~」
「あははは、大丈夫ですよ。メイド長には言いません。美鈴さんも
ずっと外で立ちっぱなしは大変だと思いますから」
「す、すみません……」

 美鈴さんは気まずそうにもじもじと僕の顔を伺っていたが、僕が
ああ答えると、安心したのか食事に戻る。彼女はコッペパンとバ
ター、それに紅茶を一杯という食事を手早く済ませ、僕はトレーを
受け取った。

「どうもありがとうございました! そういえば、○○さんはもう
紅魔館でのお仕事には慣れましたか?」
「はい、未熟な身ではありますけど、皆さんのおかげで少しは慣れ
てきたと思います」
「それは良かったです。最初、咲夜さんが迷子を連れてきたって言
ったときには、どうしようかと思いましたけど。いつもおんなじこ
とばかりですから、そういうことがあるとなんだか新鮮で……」

 そもそも僕がここにいるのは、この何でもアリな幻想郷に迷い込
んで、当て所なくさまよっていたところを、丁度買い出しに出かけ
ていたという十六夜咲夜さんに拾われたからだった。もしそうでな
かったら野垂れ死んでいたかもしれない。それ以来咲夜さんに仕事
を教えられながら、なんとかこの紅魔館で生活しているのだ。本当
に、咲夜さんには感謝している。

「でも、この屋敷の主人のこととかまだ全然知らないんですけどね。
メイド長は気にしなくていいって言ってくれていますが」
「ははぁ、それはきっと咲夜さんが人間の○○さんのことを気遣っ
てるんでしょう。お嬢様に会ったら、何に巻き込まれるか分かりま
せんからねー。運命変わっちゃいますよ、ほんとに」
「そう……らしいですね。幻想郷に来てしまった時点で、もう十分
に運命に振り回されてますけどね」
「出会ってしまったらもうどうしようもないのがお嬢様の能力です
から……気を付けてください、とも言えません」

 美鈴さんは涙ながらにしみじみと語った。何かそれにまつわる過
去でもあるんだろうか。しかしもともと冗談めいた話だったのか、
すぐに溌剌とした笑顔に戻る。

「そのお嬢様にも認めてもらえるよう、頑張りますよ」
「はい、その意気ですー」
「ではそろそろ次の仕事がありますので」
「もうそんな時間なんですか? ……残念です。○○さんも、別に
何も用事がなくても、いつでもここに来て下さって結構ですからね。
大体は暇ですので♪ お話相手になって下さるとうれしいです。で
も私がそう言っていたということは、咲夜さんには是非ともご内密
に……」
「ははは、はい、勿論です。それでは失礼しますね」

 軽く手を振る美鈴さんを名残惜しみながら、片付けの為に館内へ
戻った。もし時間ができたら、美鈴さんの気晴らしに付き合ってあ
げたい。しかしそれはつまり、よっぽど有能にならなければならな
いということでもあるけれど……。




 厨房へ向かう途中、和気藹藹とした妖精メイドたちと廊下ですれ
違う。箒やらはたきやら掃除用具を持ってはいるけど、あまりまと
もに掃除をしているようには見えずお喋りに夢中の様子。そんなこ
とだから、きっと咲夜さんの苦労も絶えないんだろう。でもこんな
広い屋敷に数人なんて寂しすぎるから、賑やかしの役目もあるのか
もしれない。それに有事の際には一応多少の戦力にはなるそうだし。
自分には弾幕なんてものを張る能力はないから、羨ましい話だ。今
のところ、僕にはそれ以下の役目しかないのだから。

 そんな妖精たちを尻目に厨房に入ると先客がいた。背を向けてい
たけれど、黒いベストと白いシャツの落ち着いた佇まいと、頭と背
中の小さな羽が目印になっていて、一目で分かる。

「小悪魔さん」
「あ、○○さんですか。どうもお疲れ様です。何か御用件がおあり
ですか?」
「え、ええ……そろそろ図書館にお茶を持っていく時間かと思いま
して。小悪魔さんこそ、どうなさったんですか。図書館を離れて」

 小悪魔という名前のイメージからはあまり想像できない、丁寧な
物腰で応じてくれる小悪魔さん。本名は内緒らしい。なんでも本名
を知られると知られた相手に従わなければいけなくなるからだとか
……最初に名前を聞こうとしたときには、そんなに私のことを好き
にしたいんですか? なんてからかわれたっけ。彼女も美鈴さんと
同じく、紅魔館の中では割とフレンドリーに接してくれる妖怪の一
人だ。図書館に行く機会がそれほどあるわけじゃないけれど、そこ
の主であるパチュリーさんがいつもすげない態度なので、図書館に
用事があるときは、小悪魔さんのおかげでかなり助かっている。

「パチュリー様がお茶をご所望なさったもので。もうちょっとした
ら○○さんが持ってきてくれますよ~って言ったんですけどねぇ。
待ち切れなかったそうです」
「そうだったんですか。でしたら、小悪魔さんは図書館にお戻りに
なっていてください。すぐに僕が用意して持っていきますから」
「うふふ、それじゃあお願いしていいですか?」

 お茶の用意する小悪魔さんの横に立つ。小悪魔さんはすでに、魔
法か何かで火をおこし、お湯を沸かしていたのでその場所を譲って
もらう。

「はい、お任せください」
「もう、○○さんったら、別にそんな他人行儀になさらなくてもい
いんですよ? 私たちって、そんなに立場は違いませんから。でも
そこが、○○さんのいいところなんでしょうね」

 別にそこまで言われることだとは思わないが、小悪魔さんに言わ
れてやっぱりちょっと照れ臭かった。

「そうだ、さっき図書館にメイド長が来られたんですけど」
「はい」
「なんでも新しい規則が出来たそうですよ。またお嬢様の無茶な思
いつきだそうです」
「へぇ、そうなんですか??」

 ここに来て間もない自分には、新しいと言われてもあまりピンと
来ない。そのお嬢様との面識すら、まだないのだ。

「……ご存じないんですか? ○○さんはもうメイド長から話を聞
いると思ったんですけど」
「さく、いえ……メイド長とは昼からお会いしてないですよ」

 咲夜さんと最後に会ったのは、この厨房だった。咲夜さんはお嬢
様にお茶を持っていき、僕は美鈴さんに昼食を持っていった。その
ときここの前で別れたきりだ。

「そうでしたか……よかった」

 僕の答えで、小悪魔さんはほっとしたように胸を撫で下ろした。

「私ってそこまで嫌われてるのかと……」
「え、え? そ、そんなわけないじゃないですか! なんでそんな
ことにっ……」

 小悪魔さんにそんな誤解を与えたくなかったという気持ちが強く
て、気がつけばいつの間にか声が大きくなっている。……話はまっ
たく見えなかったけど。彼女は少しびっくりみたいだったけど、す
ぐに優しく微笑んだ。

「ふふふ、ありがとうございます。でしたら、私が○○さんにお教
えしましょう」
「は、はい? よろしくお願いします」

 その小悪魔さんの表情はただの微笑みではないように見えた。白
い肌にほのかに赤みが差していて、どこか艶のある仕草が僕の視線
を奪う。小悪魔さんは一度髪をかきあげると、見入ってしまって動
けない僕にゆっくりと顔を近づけてきた。

「え、ちょっ、何を、小あっ……!」
「ふ、んんっ……」

 ふわりとした感触が、自分の唇からいっぱいに広がる。瑞々しく、
ほんのりと温かいそれは、まるで自分の唇と少しの間混じり合って
しまったかのよう。なんだか頭に薄靄がかかったかのような。何も
考えられず、ただ黙って小悪魔さんの行為を受け入れる。

「ん、ふ……○○さん、わかりましたか? ……紅魔館での挨拶は、
妖精メイドたちを除いて全部口づけによって行われることになった
そうです」
「どぅうぇ……??」

 突然の出来事でなにがなんだかわからない……。無意識のうちに
口から情けない声が漏れてしまう。今なんて言ったんだ? 挨拶が
全部口づけだって? それはつまり、どういうことだ……??

「ふぅ……やっぱり慣れないことをするのは大変ですね。それでは
○○さん、私は図書館でお待ちしていますから」

 ほんのり頬を上気させた小悪魔さんは、そう言うと襟を正し足早
に厨房を後にした。


 ………………ええと…………ああそうだ、僕が小悪魔さんの代わ
りにお茶を入れると言ったんだった。ポットが蒸気を吹いた音で、
ようやく我に返った――


――


「――はぁ……レミィったら、またなんてことを言い出すのよ…
…」

 先ほどやってきた咲夜の言葉が気になって、あまり本に集中でき
ない。レミィは知っているのかしら、この間から紅魔館に人間の男
が一人交じっていることを。……もし知っていたら、あんなこと言
う筈ないでしょうね。

「こぁはまだかしら。お茶でも飲んで落ち着きたいのに」
「パチュリーさまー、ただいま戻りましたー」

 ちょうどいいときにこぁが戻ってきた。でもそこには頼んだはず
のお茶はなく、まったくの手ぶらだった。さっそくこぁが、新しい
規則に則って口づけしてくる。

「ふ、っ……こぁ、私はお茶をお願いしたはずだけど?」

 別にこぁに口づけされたところで今さらなんとも思わない。契約
のときにとっくに済ませているから。……問題は○○よ。この間咲
夜が拾ってきた、人間の男。咲夜はまだレミィに言ってはいなかっ
たのだ。私が無責任に、別に好きにすればいいと言ったせいでもあ
るが。

「ええ、それが厨房で○○さんにお会いしまして。彼が持ってきて
下さるというのでお任せしました」
「ばっ、あなた……どうして私があなたに頼んだのか、ちゃんと理
解している?」
「ええ、そのつもりですが何か」

 ということは、もうすぐここに○○が来てしまう……つまり時間
がない。○○がここに来る用事なんて、咲夜から任されているお茶
汲みぐらいしかない。だから今日だけでも○○を図書館から遠ざけ
ておけば、その間に何かしら対策を取れるだろうと思ってこぁに頼
んだのに、これでは全部水の泡だ。

「そういえばこぁ、あなた厨房で○○と会ったって言ってたわね…
…ということはもう彼と……」
「そういうことになりますね♪」

 こぁは声を弾ませて言った。その軽薄な態度にちょっと苛立つ。
○○はもうその新しい規則とやらを知ってしまった。それが問題な
のだ。私だって、別に人畜無害な来客は拒みたいとは思わない。で
もその彼の前で規則を履行しないということは、即ち拒んでいると
いうことと同様になるだろう。
 色々と考えていたら、なんだか少し動悸が速くなってきたようだ。
それに体温も上がったように感じて、暑苦しい。今日はあまり身体
の調子がよくないのかも……ああもう、図書館から、消極的に男を
遠ざけるような魔法はないのかしら――。


――


「――はぁ……」

 さっきのことがあってから、どうも体調が優れない。繰り返し溜
息が漏れ、まるでのぼせたみたいに、顔の火照りが消えないのだ。
小悪魔さん……いくら主人の主人の命令だからってあんなにあっさ
りとしてしまってよかったんだろうか……。

 今地下図書館の扉の前にいるが、このままお茶を持って中に入る
とする。そうしたら小悪魔さんにも会ってしまうし、ひょっとした
らパチュリーさんとも……? しかし自分の任務は遂行しなければ
ならない。馬鹿な考えを振り切り、思い切って扉をノックする。

「はーい、ただいまー」

 遠くの方から小悪魔さんの返事する声。図書館に入るのに、わざ
わざノックするのなんて僕ぐらいしかいないから、小悪魔さんもも
うわかってくれている。がちゃりと大きく重いドアが開けられた。

「○○さんですか?」
「お、お待たせ致しました」

 部屋から小悪魔さんの顔が覗かせる。ああもう、まともに彼女の
顔を見ることができない。思わず視線を逸してしまう。

「どうもありがとうございます」
「では自分はこれで……!」
「よろしかったら、○○さんもご一緒にどうですか? パチュリー
様もお待ちですよ?」
「え? う、うわあ!」

 お茶のセットを渡して即踵を返したはずが、小悪魔さんに腕を掴
まれて、僕はそのまま図書館の中に連行されていく。僕の身体は小
悪魔さんに引っ張られて、宙を浮きながら広大な図書館に立ち並ぶ
本棚の間を抜けていった。

「○○さんも、道を覚えていてくださいね。私も常にご案内できる
というわけではありませんので」
「は、はい」

 そしてしばらく行くと、図書館の一角に設けられた、パチュリー
さん専用空間に到着する。そこに置かれた申し訳程度のテーブルに
パチュリーさんはいた。僕らが来ても、本に集中して顔を上げる様
子はない。

「お茶をお持ちいたしました、よ……?」

 あまり大きな声を出せる雰囲気ではなかったので、恐る恐る声を
掛けてみたものの、案の定反応はない。そこで小悪魔さんは前に出
て、遠慮なく大声を叩きこむ。

「パチュリーさまー? パチュリーさまぁぁ! お茶が来ました
よー!」
「……そう、ありがとう」

 相変わらず、パチュリーさんが本から顔を上げる様子はなく、返
事も素っ気ない。そしてその身を隠すのは、小さい身体のせいでや
たら大判で分厚く見える本。
 僕が持ってきたお茶のセットで、小悪魔さんは手際よく紅茶の用
意をする。その前では、僕は手持無沙汰でそれを眺めていることし
かできなかった。

「はい、どうぞパチュリー様」

 準備が終わり、ティーカップをテーブルの上に置くと、パチュ
リーさんはそれにそーっと手を伸ばす。しかし小悪魔さんがひょい
っとその手をかわす。

「……こぁー、意地悪、しないで」
「もうパチュリー様、下品ですよ! いつもはそのようなことはな
さらないのに」
「むきゅー……」

 それきり、パチュリーさんは黙ってしまった。その間に、小悪魔
さん――パチュリーさんにはこぁと呼ばれていたけど――は僕の分
の紅茶まで入れてくれた。

「ゆっくりしていってくださいね」
「はぁ……でもこんなことしてていいのかな」

 笑顔の小悪魔さんとは対照的に、なぜかぶるぶると震えているパ
チュリーさん。それがどうしても気になってしょうがない。すると
痺れを切らしたように、パチュリーさんが本から顔を上げた。

「はぁー……ふぅ……」
「ぱ、パチュリーさん!? 大丈夫ですか??」
「だ、大丈夫……少し考え事をしてただけ……」

 パチュリーさんの顔は熟れた林檎のように赤くて、病的にまで白
い肌との強烈なコントラストになっている。これは……あまり大丈
夫とは言えなさそうな気がする。気になって小悪魔さんにも訊いて
みた。

「パチュリーさん、大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。パチュリー様、よっぽど想像してらしたんですねぇ
……」
「……こぁ、あとで覚えていなさい……」

 小悪魔さんは息の荒いパチュリーさんに手を差し伸べることもな
く、にっこりと微笑み返す。……小悪魔さんって、パチュリーさん
の使い魔なんじゃなかったっけ?

「はぁ……○……○○……」
「はい、なんでしょうパチュリーさん」
「あなた、魔法には詳しい?」
「い、いえ、まったく分かりません……」
「そう……それならいいわ」

 パチュリーさんは納得したように頷いた。こんな状況でする質問
とはとても思えず、ひどく違和感があった。

「……魔法の契約って、色々な方法があるの。ただ宣言するだけで
いいものや、触媒が必要なもの、生贄を捧げたり、署名が必要なも
のもあるわ……」
「はい」
「今私が考えていたのはそのことなのよ。そこにいる小悪魔だって、
契約によって関係を結んでいる使い魔よ」
「ええ、それは聞いていますが」
「私は今となってはあまり気にしていませんけどね♪」

 パチュリーさんは、自分の得意分野のこととなると、急に饒舌に
なった。そういうところが、なんだかパチュリーさんらしくて安心
する。

「……それで、私にも試したことのない方法があるのよ。○○にし
か頼めないことなんだけど」
「で、その方法とは……?」
「接吻」
「へ? あの、もう一度お願いします」
「……異性の接吻が必要なの。何度も言わせないで」

 少し震えながら言った言葉は、最後のほうはもう消え入りそうな
ぐらい小さな声だった。パチュリーさんは息も絶え絶えに、僕の袖
を掴んでいた。

「ど……うぅえ??」
「だから○○……あなた、私の実験台になりなさい」
「い、いや、それってつまり」
「あなたの立場で拒否権なんてないわよ。……少し屈んで、目を瞑
って」

 パチュリーさんは可能な限り語気を強めて言ったが、迫力なんて
ありはしない。が、有無を言わせぬ強制力がある。もしかして、す
でに魔法を使ってるんだろうか? いつの間にか、僕はパチュリー
さんの言われるがままになっていた。

「……それじゃあ、いくわよ」

 視界が閉ざされているところに、吐息が徐々に近づいてくる。入
れたばかりの紅茶の、香ばしい匂いが鼻孔の殆どを満たしていた。
それにはパチュリーさんの纏った、少し涼しい雰囲気のようなもの
もない交ぜになって。

「はぁ……はぁ……はぁ、ん」

 冷たい唇が、そっと自分の唇に重なった。そこから体温が彼女に
移っていくような感覚。吐息は熱を帯び、二人の顔の間に籠る。ほ
どなくして、ちゅ……と音を立てて離れた。

「……終わりよ」
「パチュリーさん……?」
「ふぅ……はぁ……あぁ……」

 目を開けてみると、パチュリーさんはふらふらになって、テーブ
ルに背中を預けていた。

「終わり。契約は成功」
「え? あ、そ、それでいったいどんな魔法の契約だったんでしょ
う?」

 目の前の事態を把握できない僕は、思わず恍けた質問をしてしま
った。

「……滋養強壮」

 その冗談なのか何なのかわからない答えに何も言葉を返すことが
できなかった。ここでようやく、傍観者だった小悪魔さんがパチュ
リーさんの許へ駆け寄っていった。

「パチュリー様、よく頑張りましたね」
「こぁー……遅いわ。あなたのせいで散々だったわよ……」
「ですがそうでもしないと、パチュリー様はご自分からなさらない
でしょうから」
「いいわ……もう、今日は休む……」

 小悪魔さんはパチュリーさんをおんぶすると、まるで子供をあや
すように、身体を揺すった。

「こ、小悪魔さん、それは自分が」
「いけませんよ、○○さん。もし今○○さんが来られたら、きっと
パチュリー様のお身体に障ってしまいます」
「え、そうなんでしょうか……」

 そう言われてしまうと、こちらも引き下がらざるをえない。僕は
ふらふらのパチュリーさんを、ただ見てることしかできないのか…
…。

「ですから、また明日お越しくださいな。パチュリー様と一緒にお
待ちしています」

 小悪魔さんはそう言い残して、パチュリーさんの寝室に飛んで行
った。……別に僕が、失態を犯したってわけじゃ、ないんだよな?
小悪魔さんの最後のウィンクを見ると、そうじゃないことぐらい僕
にだってわかる。
 あとには、どこか心が晴れない僕と、まだ温かいお茶が残ってい
た――


――


 ――あーどうしようどうしよう! まさか門の外より中を気にし
なくちゃいけなくなるなんて。門柱から身を乗り出して、こっそり
中を覗いてみる。自分の管理する庭の花畑は見通しが良く、いつも
○○さんが出てくるはずの勝手口の方向から、この正門まで遮るも
のは何もない。もし次に姿が見えたら、私はどんな風にしていれば
いいんだろう。こ、このままだと、○○さんと……キス、すること
になってしまいますっ!

 お嬢様の言いつけを破る勇気なんて自分にはないし……それに○
○さんが……ちょっと気になる男性だっていうのは事実だけど、で
も出会って間もないし、いきなりそんなことになってしまうとは思
ってもいなかった。

 それもこれもお嬢様がまた変なことを言い出すからだ。お昼後に
咲夜さんが、お嬢様の考えた新しい規則を伝えに来てからというも
の、ず~っとこんなことばかり考えている。太極拳で気を落ち着か
せようと試みたり、一心不乱に稽古して何も考えないようにしてみ
ても、あんまり意味はなかった。そのときに咲夜さんと”した”と
きには、ちょっぴり新鮮で、なんだか楽しくなったけど、やっぱり
男の人とするのは違うと思う。

「はぁ……でも私はここから動けませんし」

 目の前に広がる湖では、お馴染みの氷精とその仲間たちが元気に
飛び回っていた。普段はただ暇つぶしに眺めていたけど、今ほどそ
れが羨ましいと思ったことはなかった。敷地内の見回りや、花壇の
手入れのときは門の前から離れられるけれど、それだと○○さんと
不意にばったりと会う確率が上がってしまう。……結局ここにいる
のが一番だなんて、ちょっと皮肉めいている。

 でも、ちょっと待って。咲夜さんが言っていたことをよく思い出
してみよう。今の私からすると、少し引っかかる部分があったよう
に思う。

『今日から、私たちの間での挨拶は全部口づけによって行うことに
なったの……お嬢様の言いつけでね』
『なっ、なんなんですか、それ!? いきなりそんなことを始める
なんて、お嬢様も人が悪すぎますよっ。○○さんもいるのに! も
しかしてお嬢様は私たちを試しているんじゃ……』
『ふふっ、それはないわね。それに仕方ないじゃない。私だってそ
うくるとは思っていなかったもの。あと、妖精メイドたちは除外だ
そうよ。そんなことをしていたら陽が暮れてしまうものね』
『そ、そうですよね』
『ちなみに紅魔館の敷地内はどこでも有効だそうだから、頑張って
門を守りなさいね。でないと――』

 ……妖精メイド以外、ということは人間の○○さんも当然含まれ
るんだろう。しかし次の言葉が肝心だ。紅魔館の敷地内なら有効、
という部分。今私が立っているのって、門の外だから、ここは紅魔
館の外だ。つまりこの規則は適用されない……ってことでいいんだ
ろうか。

「あはははは、なーんだ。よく考えればそうでした~!」

 でも、本当にそれでいいの? きっともう○○さんもこのことは
知っているに違いない。外にいるから私は関係ありませんだなんて
態度でいたら、きっと避けてると思われるだろう。○○さんにはそ
ういう風には思われたくないなぁ……。

「ううう……やっぱりどうしよう」

 そういえば、○○さんはもう他の人たちとは挨拶を済ませたんだ
ろうか。咲夜さんやパチュリー様ともキスしたのかな……図書館に
は小悪魔さんもいるし……。そんなことを考えていたら、ちょっと
ドキドキしてきました――


――


 ――結局午後の一連の流れの中で、咲夜さんと会うことはなかっ
た。普段だったら、妖精メイドたちと同様のルーチンワークの合間
に、特命(という名の雑務)を与えられたり、無知な自分への指導
が入ったりするのだけれど、今日に限ってはそんなこともなく時間
が過ぎていった。咲夜さんとのその時間を、僕は秘かな楽しみにし
ていたのだが……。

「またメイド長に叱られちゃった~。ほんと怒りっぽいんだからあ
の人」
「あんまり気にしない方がいいよー。迂闊なことをいうとどこから
刃物が飛んでくるかわからないし」
「そうそう、適当にやってればお茶とお菓子にありつけるんだから、
こんなに楽な仕事はないじゃなーい?」

 妖精メイドたちに混じって掃除やら庭手入れやらをしながら、彼
女たちの会話を盗み聞きしている限りでは、咲夜さんの様子はいつ
も通りらしいのだが、現在僕だけが咲夜さんと接触できないみたい
だ。
 妖精メイドたちのお喋りのおかげで色々と情報を得ることはでき
るので、咲夜さんには特殊な力があることも分かっている。時間を、
ひいては空間をも操るという神業にも等しい力。にわかに信じがた
い話だったが、咲夜さんはそれ使って完璧に仕事をこなすことがで
きるという。もし本当にそんな力があるのなら、妖精メイドたちが
あんなにもかかわらず館の状態が十分に保全されているいることに
も説明がつくし、いくらでも身を隠すことが可能ってことになる…
…。
 要するに今の僕は、咲夜さんに避けられているんだろう。もちろ
んあの規則が最大の理由だ。昼まではまったくいつも通りの咲夜さ
んだったのに、この半日の間に何もかもが変わってしまった。もし
この規則が有効な限り今の状態が続くのだとしたら、正直、辛い。



 夕刻、日没も迫りいつも通りの時間に行くとすでに厨房には食事
の用意がされていた。咲夜さんの姿を見ることはできないのに、そ
の存在だけは確かに感じ取れるのが、ちょっぴり切ない。今頃咲夜
さんは、もう少ししたら起きてくるという主人のための準備をして
いる頃だろう。僕は主人のお嬢様にその存在を知られてはいけない
ため、そこに居合わせることはできない。夜はただ自分の部屋に戻
って眠るしかないのだ。

 冷静に考えると、逆に咲夜さんに会わなくてよかったんじゃない
かと今では思えてくる。……いま咲夜さんに会ってしまったら、と
ても平静ではいられないだろうから。一瞬だけでも、咲夜さんとの
行為を思い浮かべただけでもう舞い上がってしまい、顔はかっかと
火照ってきて、胸の動悸が早まる。……まるで中学生みたいだな、
僕は。行き過ぎた妄想が逆に冷静にしてくれる。さあ自分の仕事に
戻ろう。


 事前に咲夜さんに与えられている一日の最後の日課は、食事の用
意ができたことを伝えに美鈴さんのところにいくことだ。美鈴さん
は夜になると館の中に戻ってくる。何かがあればすぐに出ていくこ
とになるのだが、一日中外にいる美鈴さんもとりあえずはそれでお
休みだ。そのための境界線が、夕食の合図ということになっている。

 ……でも、小悪魔さんやパチュリーさんとのときのことを思うと、
行くのを躊躇してしまう。美鈴さんもあの新しい規則のことはもう
知っている筈だ。それなのに行ったりしたら、まるで下心があるみ
たいじゃないか。でも行かないと美鈴さんは戻ってこれないわけで。
ああもう、僕はどうすればいいんだ……。






 とうに陽は落ちて、紅魔館は月光を浴びてその姿を空際線に浮か
び上がらせている。今日はパーティーもないので、昼にはあれほど
いた妖精メイドたちも今はただの妖精として野に帰っている頃だろ
う。
 人気のない静かな庭を通って門まで行くと、そこには門柱に寄り
かかる一つの影があった。

「美鈴さん……」
「……はっ、○○さん」

 僕が声を掛けると、美鈴さんはまるで咲夜さんに昼寝を咎められ
たときのように、背筋をピンを伸ばして直立不動の姿勢になった。
が、すぐに元に戻った。

「あ、あはははは……○○さん、御苦労さまです。いつもより遅か
ったので、もしかして忘れられちゃったのかと思いましたよー」
「申し訳ありません……。僕個人の理由で遅くなってしまいまし
た」
「いっ、いえ、今日は中でいろいろあったみたいですから、気にし
ていませんよ! 私も今は外で涼んでいたい気分だったんです」

 暗くて顔ははっきり見えないけれど、美鈴さんにはなんだかいつ
もの元気がないし、どこか余所余所しい。……それはきっと自分に
も言えた。

「えーと、もう夕食が出来ていますので、それをお伝えしに来まし
た」
「は、はい、いつもありがとうございます、○○さん!」

 この空気にはそんなに長い時間耐えられそうになかったので、
早々に用事を済ませて退散したかった。ずっと美鈴さんといたら、
変なことを考えてしまいそうで嫌だったから。

 美鈴さんは、そういうのじゃないんだ。美鈴さんはいつも僕に元
気をくれる。比喩とか気のせいじゃなくて、話しているだけでも本
当に元気になるのだ。
 それは彼女が、東洋医学で言うところの気を使うことができると
いう能力に由来しているのだと思う。人妖動植物を問わず作用する
というその能力は、彼女が世話をしているこの紅魔館の庭に咲き誇
る花々を見れば疑う余地はなさそうだ。

 それに僕がこの紅魔館に来た本当に最初の頃、慣れない場所で緊
張しきっていたところに、美鈴さんが僕の身体に軽く手を触れただ
けで緊張が解れ、身体の奥から力が湧いてきたのだ。そして眩しい
くらいの笑顔で「大丈夫ですか? そんなに緊張していたら、出来
るものもできなくなってしまいますよ」なんて言ってくれた。その
おかげで、今も必要以上に気負わず紅魔館の仕事に従事していられ
るのだと言っても過言じゃない。だから……。

「それだけですから……僕はこれで失礼します」
「あっ……」

 後ろ髪ひかれる思いでこの場を立ち去る。背後から、美鈴さんの
息をのむ音がかすかに聞こえた。すると、なぜか駆けよってくる足
音が。

「○○さん、忘れものです」
「えっ……? めーりん……んあっ」
「んんんっ……ふぅん……んふぅ」

 何が起こったのか理解できなかった。振り向いた次の瞬間、もう
すぐそこに美鈴さんの顔があって……唇が触れていた。先の二人と
は違う、少し厚い唇が僕の呼吸を奪う。不器用なまでに強く押し付
けられたそれは、なかなか離れることを許してはくれなかった。

「ぷあっ……」
「ふぅ……これを忘れてました」
「どぅ……ぅえ!?」
「ご存じでしたか? 今まで私、屋敷の敷地の外にいたんですよ!
 ……ここはもう敷地内ですから、忘れたら規則違反にされてしま
いますからね」
「…………お、ぁ」

 駄目だ、何も気の利いた言葉が浮かんでこない。僕はただただ美
鈴さんの笑顔に圧倒されるばかりだ。

「それじゃあ、私は先に行きますから。早く食べないと片づけられ
なくて困ってしまいますよね」

 彼女は手を振ると、僕を追い越して暗闇の中を駆けて行った。

「……いたっ!」

 ずでっ、と思いきり転ぶ音が聞こえる。がすぐにまた立ちあがっ
て、駆けて行き、次第にその音は聞こえなくなった。
 暗闇の中でも鮮明に映るほど、間近で見えた美鈴さんの照れくさ
そうな笑顔が印象的で、僕は呆然と立ち尽くしたまま、庭に取り残
されていた――


――


 ――その場面を見たとき、どうしてかわからないけれどひどく狼
狽した。お嬢様がお目覚めになるまでの間、昼間と同じテラスから
月を映す湖面を眺めていたとき、ふと美鈴のもとへ向かう○○の姿
が見えたので、身を隠すようにしながらそれを目で追っていた。二
人は少しの間会話を交わした後、美鈴が立ち去ろうとする○○に駆
け寄って、口づけをした。わざわざそんなことをする必要がないに
もかかわらず。美鈴は外にいるのだから、変に生真面目なところが
ある美鈴にとっても、お嬢様に対する言い訳にはなるはず。なのに
どうして……?

 もう○○は小悪魔やパチュリー様の元には行っただろう。それが、
私が与えた仕事だったから。新しい規則ができても、皆適当に○○
をやり過ごすだろうと考えていたが、美鈴があの様子なら、ひょっ
としたらパチュリー様や小悪魔とも口づけをしているのかもしれな
い。そう考えると、何故か胸が痛んだ。

 ○○は、私が気まぐれで紅魔館に住まわせているだけだ。行く宛
てのない外来人を泊めるたりするのは別に珍しいことじゃない。こ
れは、ただその延長なだけ。でも、彼を拾ってから今日までの短い
間、まるで私にも兄弟ができたみたいでなんだかとても新鮮だった。
もしこれからも避け続けたら、私ひとりだけ距離が遠くなっていく
だろう。それと反比例して、○○は皆と親密になっていく。……私
は、どうしたらいいの――


――


 ――やっぱり美鈴さんは手際が違った。あの後僕が食堂に行った
ときにはすでにその姿はなく、片付けはおろか洗いものまで全部済
んでしまったあとだった。結果的にやることがなくなってしまった
ので、そのまま自分の部屋に戻る。まだ慣れない仕事への疲れと共
に固いベッドに横たわってシーツを被ると、自然と今日一日の出来
事が蘇ってきた。

 忘れようったって、忘れられそうにない。小悪魔さんに始まり、
パチュリーさん、そして美鈴さん。まだその感触が唇に残っていて、
その一つ一つがありありと思い出せそうだ。これはもう眠るどころ
じゃない、まるで過ぎ去った思春期の初恋のように興奮冷めやらず、
籠る熱気に思わずシーツを跳ね除ける。

 よく考えてもみろ、今日みたいなことが多分これからも続くんだ。
明日も、明後日も。それはそれは大変なことだ……。

 それでも、考えているうちに自然と眠気を催してくる。瞼がだん
だん重くなってきて、今にも閉じてしまいそうなときにふと咲夜さ
んのことが頭を過ぎる。明日は、会うことができるだろうか――


――


「――ふわぁぁぁ、やっぱり昼間起きてると眠り足りなくていけな
いわ」
「……レミィ、何しに来たの」
「あははは……パチュリー様、お身体に障りますから、抑えてくだ
さい、抑えて……」

 目の前の友人は、私が遠慮なく大あくびをしてみせても、呼んで
いる本から顔を上げる素振りすら見せなかった。こういうときのパ
チェは大抵不機嫌なので、それを察したであろう小悪魔も宥めるの
に精一杯といった風情のようだ。

「何かあったのなら、私にも教えなさい。退屈で退屈で仕方ないん
だから。で、その為の布石を今日打っておいたんだけど」
「いやー、残念ですねぇ、お嬢様。パチュリー様は先ほどまで、体
調を崩されていましたから、それで機嫌を悪くされているんです
よ」
「……そんなの日常茶飯事じゃない。いまさらそれで不機嫌になら
れても困る」

 私がそう言うと、ようやくパチェはその不機嫌な顔を上げて、何
か言いたげな素振りを見せた。

 今日の昼間、私の考えた紅魔館の新しい規則は、皆に伝えるよう
にと咲夜に命令しておいたので、パチェも当然知っているはずだ。
私はそのことについての反応を窺うために、夜になって目覚めて一
番に図書館に来たのだ。咲夜のあの反応からして、何かしらの不確
定要素が絡んでいる可能性がある。だからこれはきっと退屈しのぎ
になるはずだというのが私には分かっていた。

「相変わらず、そんな理由で私の時間の邪魔をされるのは不愉快だ
わ。最近は特にそう」
「今回はそこまで言われるほどの規則を作ったつもりはないんだけ
ど。口づけなんて、昔の私たちも遊びでしたことはあったでしょう
に」
「……あなたは何も知らない子供のままだから、そう思うだけ」
「パチュリー様、たった一回でそんなに強気に出られるなんて…
…」
「うるさい」
「ひえぇぇぇっ……!」

 パチェは短い呪文を唱えると、小悪魔は床から噴き出した強烈な
水飛沫で天井まで飛んで行った。最初のうちは面白くもあったが、
今ではもう飽きた漫才に過ぎない。

「そういえば、まだ”挨拶”をするのを忘れてたわね。たったこれ
だけの行為に、私の知らない何があるというの」
「じゃあしてごらんなさいよ。少なくとも、私はあなたの知らない
ことを知ってるつもり」

 ……小悪魔の弁だが、いったい何がパチェをこんなに強気にして
いるのだろう。ふと興味が湧いた。おもむろに近づいて口づけをす
る。パチェの冷たい唇が、私のそれと触れた。

「……やっぱり違うわね、全然足りてないわ。魔法も一つ要素が欠
ければ何の意味も為さない、それと同じことよ」
「意味がわからない。たったこれだけのことでしょう?」
「自分で作ったルールの意味もわからないあなたには、ずっとわか
らない」

 そう言い捨てると、パチェはまた本に視線を落とす。たった一日
でここまで変わるとは、私が寝ている間に何かあったのか……咲夜
のこととの関連も気になる。ようやく楽しくなりそうな気がしてき
た。明日の昼にでもそれを確かめてみようか。また、寝不足になり
そうね――


――


 ――昨晩の予想通り、今日もまた刺激的な一日になりそうだった。
朝、美鈴さんと会ってお互いぎこちなく口づけを交わし、小悪魔さ
んには弄ばれ、パチュリーさんにまた魔法の実験台にされ……でも、
なんとなくだけど、たとえ規則だとしても、あの行為の一つ一つが
よりみんなとの距離を近づけてくれる気がしていた。

 小悪魔さんに見送られながら図書館から出て、厨房へ向かう。今
日のパチュリーさんは倒れるまではいかなかったけれど、口づけを
交わしたあとに喘息の発作が出てしまったらしく、強制的に退場を
命じられてしまった。昨日のことといい、僕のせいでパチュリーさ
んの調子が悪くなってしまっているようでなんだか気まずかったが、
別れ際に

「あれがパチュリー様流の照れ隠しなんですよ。ですから、あまり
気を悪くされないでください」
「そうなんでしょうか……僕にはあまり、そうは思えないんです
が」
「いえいえ、そんなことはありません。だいたい、パチュリー様が
男の方と関わりを持たれたのなんて、私が知る限りではありません
からね。せっかくですからこの機会に慣れていただこうと私は考え
ています。……このほうが、○○さんに申し訳ないですよね」
「あ、謝らないでください、小悪魔さん。それならそうと言ってく
れれば自分は別に構いません」
「お優しいですね、○○さんは。うふふ……悪魔もですね、一度使
い魔になってしまうと、なかなか男の人と出会う機会がないんです
よ。そう考えると、お嬢様も粋な計らいをしてくれました」

 小悪魔さんはそう言うと、微笑みをたたえたまま僕に顔を近づけ
てきた。そして戸惑う僕を余所に、そっと口づけをしてきた。

「えっ」
「ふぅん……ちゅ、む……んんっ……」
「うっ、あ……は、あぁ……ぁ……小悪魔、さん」
「……私だって、○○さんみたいな男の方と会えて嬉しいんです
よ」
「それって、どういう意味で……」

 僕のその質問は、ちょこんと唇の上に乗せられた人差し指と、彼
女の不敵な笑みによってかき消され、それ以上は言うことができな
かった。小悪魔さんはそっと身体を離すと、また元の柔らかい笑顔
を取り戻す。

「今度からは小悪魔ではなく、親しみを込めて”こぁ”とお呼びく
ださい。○○さんって、放っておいたらいつまでも他人行儀のまま
っぽいですからねー。ね、○○さん?」
「う……わ、わかりました」

 それはパチュリーさんが呼ぶときと同じ愛称だ。小悪魔さんは、
別に僕の使い魔だというわけでもないにも関わらず、その呼び名で
いいという。正直結構恥ずかしいぞ、これは……。

「すみません、お忙しいのに時間を取らせてしまいましたね。それ
では○○さん、お疲れ様でした」
「はいっ、小悪魔さん……じゃなかった、こ、こ、こ、ぁ……くま
……さん……」

 小悪魔さんの顔を直視できず、思わず口ごもってしまう。その僕
の様子を小悪魔さんはおかしそうに笑った。

「うふふ、今日のところはこれくらいにしてあげます。次に会う時
まで保留しておいてあげますから」


 そんなことがあって、僕の心は浮ついていて明らかに隙だらけだ
った。そんなとき、背後から女の子の声で呼び止められたのだ。

「そこのお前、見慣れない顔ね」

 はじめは妖精メイドかと思ったが、おおよそありえない高圧的な
物言いでそうでないことを悟った。背中一杯に感じる悪寒のせいで
なかなか振り向くことができず、ガチガチな硬い動きでようやくそ
の姿を確認できた。
 そのシルエットはまさに、当初咲夜さんから聞いていた通りだっ
た。背丈よりも大きな、悪魔的な羽を持つ異様さとは対照的な、高
貴さすら感じさせる幼い少女。この女の子が、みんながお嬢様と呼
んで恐れるこの紅魔館の主……レミリア・スカーレット本人に違い
ない。

「ただの人間風情がこんなところでなにをしている? まさか魔理
沙のように泥棒稼業に精を出しているというわけではないでしょ
う? 美鈴がそのへんのただの人間に負けるとは思えないし」
「う……おっ、おはようございます……お嬢様」

 恐る恐る挨拶をする。咲夜さんからは、館の主には接触しないよ
うにと釘を刺されていた。生活時間が合わないのでまず会うことも
ないだろうとも言っていたが。しかしこうなってしまってはもうど
うにもならない。咲夜さんがもしものときにと言っていたように、
せめて機嫌を損ねないような対応を心掛けるしかなかった。

「なぜお前にそういう風に呼ばれなければならないの、みずぼらし
い人間」
「それは……お嬢様には当然のことです」

 吸血鬼という、妖怪の中でも屈指の能力を持つというこのレミリ
ア・スカーレットは、僕のことをまるで路傍の石でも見るかのよう
に見下していた。しかし僕の持っていたお茶のセットを見ると不思
議そうに眉を顰めるのだった。

「お前、今パチェのところから来たのね」
「はい、左様ですが……」
「まさか、ね。パチェがこんな人間のことを認めるはずはないと思
うけど」

 疑問があっても自分から喋ることはない。何がこの主の癇に障る
かわからないからだ。こういうときは完全な対応者であるのが賢明
なように思えた。
 レミリアはさらに訝しげに僕のことを睨みつける。正直、その視
線に射抜かれると満足に動くことすらままならない。これが絶対的
な、人間と妖怪の差らしい……。

「……きっと咲夜ね。好きにやらせていたら、いつの間にか人間を
使うようになっていたなんて。躾はそれなりにできているようだけ
ど」

 でもようやく、どうして咲夜さんが僕のことを内緒したのかがわ
かった気がした。この主人相手じゃ、まず存在を許されることはな
かっただろうから。でもここで新しい疑問が湧いた。そこまでして
僕をここに置いておく意味も、ないんじゃないのか……? 咲夜さ
んにとっては大きなリスクのはずだ。

「でも人間を飼うのに私に報告の一つも寄越さないなんて、あとで
少しお仕置きね。最近の咲夜は少し人間に甘い顔をし過ぎる」
「そ、それだけはどうか止めてください……! 咲夜さんは悪くは
ありません!」
「……人間が私に指図をするの? 不愉快よ」

 レミリアは眼を創造上の悪魔のように釣り上げると、一瞬て距離
を詰め、鋭く伸ばした爪を僕の喉元に当てた。それだけで先端が皮
膚をわずかに切り、熱と出血を伴わせる。まずい、殺される……か
も。しかし目の前の幼女は少しの間思案する仕草を見せると、にや
りと笑う。どうやって見ても、悪戯っ子が何か企みを思い浮かべた
ときのそれに戻っていた。

「でも使えそうね。その健気な勇気に免じて食べるのはやめてあげ
るわ」
「くっ……?」
「もしパチェや咲夜の変化がお前によるものなら、屋敷の一員とし
て認めてやってもいい」
「ほ、本当、ですか!?」
「ええ、本当よ。そのかわり咲夜には、私に会ったということは言
わないこと」
「で、ですが……」
「咲夜はこの館で唯一の人間だから、その庇護がなくなって不安に
思うのでしょう? 心配する必要はないわ。その時がくれば自ずと
機会があるはずよ」

 この小さな吸血鬼が一体何を企んでいるというのか、それはさっ
ぱりわからなかった。ただひとつ言えることは、爪を引っ込めたこ
の一瞬間後にも、僕の命の危機は去っていないということぐらいだ。

「そうね……それじゃあ、それを認めるちょうどいい方法がある。
この紅魔館に、新しい規則が出来たことはお前も知っているわね」
「はい……お嬢様。存じております」
「当然ね。私はその中で、紅魔館の敷地内では、妖精メイドたちを
除く全員にこの規則を適用させると言った」

 レミリアは背中の羽を一度だけ羽ばたかせると、僕と同じ目の高
さにまで浮かび上がる。そしてその大きな羽が僕を包んで暗闇の中
に閉じ込めた。

「でもただの人間であれば、私が許可をしない限りはこの館に足を
踏み入れることを許してはいない。これをもって、その証明としよ
う」

目と鼻の先にまで近づいてきたレミリアの表情は、見た目の幼さと
は信じられないほどかけ離れた妖艶なものだった。これも……吸血
鬼の能力の一つなのだろうか?

「光栄に思いなさい、スカーレット家当主の口づけよ」
「うっ……く……」
「ちゅ……ふぅ、ん……はぁ、くすくす、これでもうあなたもこの
屋敷の一員というわけね」
「く……はぁっ……はぁ……な、なにを……したんです?」

 再び周囲が光を取り戻す。熱気に当てられたように頭が惚けてし
まい、不自然な体温の上昇に目がちりちりとして視界がぼやけた。
と同時に、心の奥底からありえない衝動が湧きあがってきた。それ
はまるで、性的興奮にも似た、何か。あってはならない歪みだった。

「近いうちにまた会いましょう」

 レミリアは身体を翻すと、飄然と廊下の奥の暗闇へと消えて行っ
た。ふと我に返り、急に冷静さを取り戻す。とりあえず、この場の
危機は去ったみたいだ。しかしこれで、レミリアが咲夜さんに罰を
与える口実を与えてしまった。急いで咲夜さんにこのことを知らせ
たいが、そうすることもできそうにない。これからどうなってしま
うのだろう――


――


「――咲夜、私に何か言わなければならないことがあるんじゃない
かしら?」

 咲夜がお茶を持ってきたときにふと訊ねてみた。しかし咲夜は薄
っすらと微笑みを湛えたまま、完全で、瀟洒な態度を崩すことはな
い。そうこなくては、この紅魔館のメイド長たる資格はないが、そ
の裏を知った今となってはただ滑稽でしかない。私はその冷静で忠
実な咲夜が慌てふためく姿が見たいのだ。

「いえ、なぜですか? 私はお嬢様に隠し事など致しませんよ」
「……そう、じゃあ昼に廊下で見たあの人間は、私の見間違いだっ
たみたいね」

 テーブルに頬杖をつく私の目の前で、ティーカップを置く手が一
瞬ピタリと止まったのを見逃さない。

「いつの異変の後からだったかしらね……咲夜も、最近は少し丸く
なったと専らの噂よ」
「……よく、言われますわ」
「だからひょっとしたら、路頭に迷った人間に情けをかけただけか
もしれないけど」

 咲夜は手を引っ込めると、目を閉じてまるで他人事のように答え
る。いつまでそうしていられるかしら……。

「客人であれば、もてなしもしましょう。でもあれは客人と呼ぶに
は相応しくなかった。言うなれば、まるで使用人のような振る舞い
だったわね……これはあなたの管轄のはずよ?」
「…………」
「その割に、咲夜とはまだ”挨拶”を済ませていないそうじゃない。
これはどういうことなの? もしあなたが知らないというのなら、
いつからそんな無関係の人間が歩きまわれるほど、この紅魔館の警
備はザルになったのかしら」

 ほらほら、どこまで粘るの? これまでの咲夜の反応を見るに…
…咲夜はきっとその男と口づけをするのが嫌に違いない。理由なん
てなんでもいいわ、その嫌がる咲夜を見て少しでも退屈しのぎがで
きれば、それで。

「……お言葉ですが、私はその使用人と”挨拶”をする理由があり
ません。家畜と同じですわ、今までのお嬢様たちの食糧と同じく」

 あくまで白を切り通すつもりらしい。でも今の咲夜がそこまで残
忍に、冷酷になれないことぐらい、とっくにお見通しなのだ。

「うふふ、だったら私がそいつをどうしようと問題はないのね。ど
うせその人間は外来人でしょうから、契約を破ることにはあたらな
いわね……久しぶりにまともな食事にありつけそうだわ。そして館
の中で汚らわしい人間を野放しにしたあなたにも、罰を与えて躾け
ないといけないわね。
 ……もし他に考えがあるのなら、今のうちよ。咲夜の好きなよう
になさい」
「……それではお嬢様、私はこれで失礼致します」

 私がさも本気を装って言うと、咲夜は恭しく一礼した後、一瞬で
私の目の前から消えた。あー、噴き出すのを我慢するのが大変だっ
た。さて、それじゃあ私も行こうかしら。敢えて僅かな自由意思を
与えて泳がせたんだから、せいぜい面白いことになってくれればい
いのだけれど――


――


 ――私としたことが、迂闊だった。気をつけなければいけないの
は我が身だけじゃなかったのだ。○○から敢えて遠ざかっていたこ
とが、逆に今の結果を招いてしまうとは皮肉という他ない。
 よもや私をこのように追い詰めるためだけに、お嬢様が無理をし
てまで○○のことを見つけていたなんて。一体何がそこまでお嬢様
の気を引いたのだろうと思ったが、考えるまでもない。常に退屈し
ているお嬢様は、どんな些細なことにだって首を突っ込みたがる。
きっと最近の私の変化も見破っていたんでしょう……。

 お嬢様が言うにはこうだ、私がもしこのまま何もしなければ、○
○はお嬢様に処刑され私は罰を受ける。しかし○○のことを認めれ
ば、○○も私も無事に済む。ただしその為には、○○と私が”挨拶
”という名の口づけを交わさなくてはならない。そのことを考える
と、かぁっと顔が熱くなる。これは一体、何なの……?

 とにかく、お嬢様より先に○○を見つけないと。時間が停止した
廊下の、妖精メイドたちの間を駆け抜けると、その先に○○はいた。
私が予め言ってある時間通りに行動していたから、見つけるのは容
易だった。

「本当に、私の言うことは素直によくきくんだから……ばか――」


――


「――え? おわあっ!」

 いつの間にか僕の後ろに立っていた人影に驚いて、僕は思わず箒
を取り落してしまった。一瞬、幻覚でも見たのかと思って目を擦っ
たが、特に効果はなかった。なんせその正体は険しい顔をした咲夜
さんだったからだ。咲夜さんなら、いきなり出てきても不思議じゃ
ない。だって、そういう能力を持っているから。

「い、いきなりどうしたんですか、咲夜さん」
「ええ、○○……大変なことになってしまったのだけれど……」

 何か言いたいことがあったはずなのに、こうもあっさり状況が変
わってしまうと有り触れたことしか言えなくなってしまうものらし
い。

「お嬢様にあなたのことが知られてしまったのよ」

 ……うん、それは当事者だから、知っています。しかしレミリア
に口止めをされているので言うことはできない。ただでさえあの気
紛れで、我儘そうなお嬢様のことだ、下手に逆らって機嫌を損ね、
約束を反故にされてしまっては敵わないし、咲夜さんの立場さえ危
うくしかねない。だから、黙っているしかない。

「もうすぐお嬢様が来るでしょう。だから、私はあなたに……」

 言い淀んで視線を逸らす咲夜さん。どこか、顔が赤いように見え
るが、走ってきたせいだろうか。

「もう少し……早く覚悟ができていたら、こんないきなり言わずに
済んだのでしょうけど……。でも、どうしたらいいのか、私……」
「あら、私が探すまでもなかったみたいね」
「「レミリアお嬢様!」」

 僕と咲夜さんは同時に声を上げていた。背後からいつの間にか現
れたその小さな人影に反応したのだ。……不思議と、僕がレミリア
と面識がありそうな反応をしたことは咲夜さんには気付かれなかっ
たようだ。

「まああなたがその気なら、今しばらく猶予を上げてもいいわ。自
分でしても、しなくてもどっちも結果は変わらないけど。――だっ
てそういう運命だから」

 レミリアが後ろ手を組んでいながらも、ギリギリと不自然に爪を
鋭く伸ばしているのが見えてしまった。首筋に残る感触で身の毛が
よだつ。少し前に、僕の首筋に宛がわれたあの爪だ。その視線は、
背が低いはずなのに、どこまでも高みから見下ろしているように思
えた。さも「わかっているわね?」とでも言いたげな、その表情が。
 僕たちの命運を、こんな幼女が握っているとは、おおよそ考えら
れないことだったが、一瞬にしてこの周囲の気温が寒気のするほど
にまで下がったように感じられることを省みるに、それを肌で感じ
ざるを得ない。
 咲夜さんは意を決したように、再び僕に向き直る。

「いきなりだけど……○○、あなた、紅魔館の新しい規則のことは
知っているわね?」
「え、えーと、はい……」

 昨日今日で、それはもう永遠に消えそうにないほどしっかりと、
頭の中に焼きついている。

「それなら、話が早いわ」
「何がです?」

 僕は分かっていながら聞いてしまった。心のうちに沸き起こる期
待感がそれを促してしまったのだ。自分のことながら、余計なこと
をしてくれると悪態を吐きたくもなる……!

「何ってあなた、もうパチュリー様や美鈴ともしているんでしょう
……?」
「うっ、あ、その……それはですね……」

 咲夜さんの言い方にはどこか棘があって、答えるのに少し躊躇し
てしまう。ひどく罪悪感を感じるのは気のせいだろうか。

「だから、あなたに……その、私も……」
「さ、咲夜さん」

 咲夜さんの最後の言葉は、もう消え入りそうなほど小さかった。
それを見ていると、僕の胸はきりきりと痛む。何が咲夜さんをそう
させているかって……それはきっと僕のせいだからだろう。咲夜さ
んは、僕の存在をレミリアに知らせたくなかった。それが為されな
かったのは、僕の過ちだ。

「”挨拶”を、しようと思って」
「は、はいっ」
「でもどうすればいいのかわからないのよ……。あなたのほうが、
きっと上手でしょう? 何度もしているみたいだし……だから、あ
なたのほうからしてほしいの、それで全部丸く収まるわ」

 一瞬咲夜さんが何を言っているのかわからなかった。思わず声が
上擦ってしまうほどの緊張が全身を走る。
 しかし僕を含め、妖精メイド以外全てにこの規則が適用されると
いうのなら……僕からするのもありだったということになるんだな。
今まで、考えたこともなかった。

「ぼ、僕からっ、ですか!?」
「そうよ……お嬢様が見ているわ。このままだと○○、あなた殺さ
れて食べられてしまうわよ」
「うっ」

 ……それは嫌だ。ふと咲夜さんの肩が少し震えていることに気が
ついた。ここまで咲夜さんを追い詰めたのは、僕のせいじゃないか。
僕が覚悟を決めないでどうする!

「咲夜さん、もしかして緊張しています?」
「ええ……そうよ、だってしょうがないでしょう……こんなこと、
私したことないし……」

 咲夜さんはそう言って俯く。それを聞いて、冷や水をかけられた
みたいな気分になって、僕の頭は急激に冷静さを取り戻していった。
ああ、馬鹿だ、大馬鹿だ僕は。僕はてっきり咲夜さんのことを決し
て立ち入ることの許されない、完全な存在だと今でもどこかで思っ
ていたのだ。でも、違った。僕の目の前で震える咲夜さんは、一人
の人間の女の子に過ぎなかった。

「じゃあ僕も言いますけど」

 大きく息を吸う。もう迷いはない。

「……僕は、咲夜さんに拾われなければ、この幻想郷で生きていく
ことはできなかったでしょう。だから、咲夜さんが僕をどうしよう
とも文句はありません。……これからすることも、嫌だったら拒絶
してください。僕はその結果を受け入れます。でも……それでも…
…できたら、これからも咲夜さんの下で働かせてくれませんか?」

 咲夜さんは伏せていた顔を上げると、今日会って初めて笑顔を見
せてくれた。

「……不思議ね、私があなたの面倒を見ていたつもりだったのに…
…今はこんなにも頼もしく感じるなんてね」
「目を、瞑ってもらえますか。そのほうが、しやすいので」
「ええ、全部○○に任せるわ」

 咲夜さんはそのまま僕に体重を預けてくる。両肩を掴んでそれを
受け止めると、そのまま顔を寄せて――僕たちの傍では、いつの間
にか何も言わなくなってしまったお嬢様が、食い入るようにその行
為を見ていた。なんだかすごくやりづらいぞ――

「んっ……」
「ふ、あぁ」

 咲夜さんと唇を重ねる。多分冷たいだろうなと思っていたが、全
然そんなことはなく温かい感触が広がっていく。きっとイメージの
問題なんだろう……。すぐに唇を離すと、それを理解したのか、さ
っと咲夜さんの顔が朱に染まる。きっと僕の顔もそうなっていただ
ろう。急激な体温の上昇に身体がついていきそうになかった。

「あっ……」
「はい、これで終わりですよ……。お嬢様、これで満足していただ
けましたか?」
「えっ? ええ……」

 目を丸くして、少し放心していた様子のレミリアに声を掛ける。
先ほどの凶悪なまでの殺意を放っていた姿はどこへやら、今ではち
ょっと背伸びをしようとしただけの幼い子供にしか見えなかった。

「それで、いいんじゃないかしら……新入りの歓迎会にしては、少
し手が、込み過ぎていたかしらね……」

 レミリアはよそよそしく身体をもじもじとすり合わせると、元の
威厳を取り戻そうと、咳払いを一つした。

「……では今日から咲夜と共に、私の為に働きなさい。いいわ
ね?」

 言いたいことだけ言ってレミリアは立ち去っていく。そしてその
場には僕と咲夜さんが取り残された。気まずいな、と思っていたと
ころに、先に咲夜さんが口を開いた。

「……お嬢様、どうされたのかしら?」
「さあ……? 僕にはまだお嬢様のことはよくわかりません」
「私だって、そんなに知っているわけじゃないのよ。私もよく振り
回されてるから」

 お互いに笑みがこぼれる。重荷が取り払われて、心が軽くなった
感じがする。きっと、咲夜さんも同じような気持ちでいるんじゃな
いかと、都合よく思った。

「うふふ、思ったほど悪くなかったわ」

 咲夜さんが感触を確かめるかのように、唇に指を当てた。

「そうですか、それはよかったです……僕も不安でしたから」
「本当は、恥ずかしくてしょうがなかったのにね」
「それにしても歓迎会って……そうだったんですか?」
「またお嬢様の”能力”かしらね。いかにも、お嬢様らしい言い方
だったわ」

 くすくすと咲夜さんが笑う。それが何よりも安堵感をもたらして
くれる。

「○○……これからも、よろしくお願いね!」

 今までの、半端で、不安定な状態じゃない、ここからが、僕の紅
魔館生活の本当の始まりなんだ、と咲夜さんの顔を見て、心からそ
う思えた。










「あなたが以前の咲夜を知ったら、きっと驚くでしょうね」

 こぁさんの代わりにお茶を入れに来た僕に、パチュリーさんは本
から少し視線を上げた。……こぁさんは、今日は席を外している。
余計なことばかりするから邪魔だからだと、パチュリーさんに言わ
れたと、こぁさんが言っていた。どうも今日は特別な事情があるら
しいのだ。

「今とそんなに違うんですか? あの、とても優しくて、落ち着い
てて、気が利いてて、綺麗な……」
「そこまでよ。それ以上は別に以前とは関係がない」
「……っとと、そうですね」

 パチュリーさんに制止され、僕はそれ以上言うのを止めた。咲夜
さんのこととなると、まだまだ出てきそうだったが、確かに今と昔
で容姿がそんなに変わるわけはなかった。

「……人相は相当変わったけどね。あなたが知らないのなら、きっ
と咲夜からも聞いていないんでしょう。まぁ咲夜からは話しづらい
ことだとは思うけど」
「それは、誰にでも知られたくない秘密の一つや二つ、あるでしょ
うから」

 秘密があろうとなかろうと、僕にとっては今の咲夜さん以外の咲
夜さんは知らない。今の咲夜さんが全てだ。それに、当然僕にだっ
て知られたくない秘密の一つや二つはある。

「そうね……。でも、これはこの館ではあなた以外のみんなが知っ
ていることなのよ。あなたが知る機会を得られなかっただけの話。
それくらい、咲夜にとってあなたは特別なんでしょうね」
「そんな……別にそんなことはないと思いますが」
「あら、私の見込み違いだったのかしら? もう少し自信を持ちな
さい」

 珍しくパチュリーさんに叱責される。いつも素っ気ないパチュ
リーさんに、そんなことを言われるとは予想外だった。この前、咲
夜さんと初めて”挨拶”を交わしてから、なんとなく雰囲気が変わ
った気はしていたけれど……やはり人間同士仲良くしろということ
なのだろうか。一応レミリアには認められたから、いなくなる心配
がなくなったからだろうか?

「……見込んで話すんだから、そのつもりで聞きなさい。いいわね
○○」
「はい、そこまで言われたら僕も、そうしないわけにはいきませ
ん」

 パチュリーさんは再び視線を本に落とすと、滔々と語り始めた。

「……信じられないでしょうけど、以前の咲夜は今よりもっと余裕
がなくて、ずっと冷酷非情だったわ。目的のためならば、相手を殺
すことも辞さない……言うなれば、漆黒の心を宿していたの」
「え、いくらなんでもそんなこと……」
「もう少し黙っていなさい」
「う……」

 まるで沈黙の魔法でも掛けられたみたいに、僕は言葉を飲み込む
しかなかった。パチュリーさんの話すことは、とても信じられない。
しかしそれをパチュリーさんが語るのなら十分に説得力がある。

「そういう生き方をしていたのね、きっと。この館に来る以前のこ
とは、さすがに私にもわからないわ。気にもしていないけどね」

 パチュリーさんは口では気にしていないと言っているけれど、咲
夜さんに対する扱いというのは、僕のそれと大きな違いはないので
はないかとこのとき思った。確信はないけど、そんな気がした。で
なければ、こんな話をするだろうか……?

「……でもあるときを境に、張りつめた空気もなくなって、仕事に
もだいぶ余裕が出てきたみたいだった。そのきっかけは、多分……
人間と再び関わるようになったこと」
「え、待ってください、再びって、それ以前のことは……」
「あなたももう、咲夜の能力は知っているわね? それならどうし
て咲夜が人間と関わらなくなったのか、想像くらいははできるんじ
ゃないかしら?」

 鋭い視線が僕を射抜く。僕は自分の想像力の無さを恥じた。そん
なことは、パチュリーさんに問いただされるまでもないことだった。

「そう、ですね……分かります」
「でもこの幻想郷なら、相手もただの人間じゃないわ。だから、能
力を隠した付き合いなんて、する必要はない。咲夜が変わっていっ
たのは、そうやって人間との付き合いが蘇ったから……というのが
私の見解」
「そうだったんですか……でもどうしてそこで、僕なんです?」
「何もない、ただの人間だからじゃない? でもきっと、ただの人
間だから、外来人だから、咲夜ががあなたを拾ってこの館に迎え入
れたんだと思うわ」
「…………」
「冷たい言い方をするようだけど、それに当てはまるならきっと誰
でもよかったのよ。……でもね、○○。偶然でも……それがあなた
でよかったと思うわ。私も、…………」

 最後にぼそぼそと付け加えたが聞き取れなかった。僕は言われた
ことを整理するだけで精いっぱいだった。新たな事実の洪水に、な
んとか押し流されないように。

「ある日、行くあてもなく紅魔館の門を叩いた咲夜をお嬢様が採用
して、そして咲夜が行き倒れていたあなたを拾ってきた」

 パチュリーさんは大きく息を吐いた。一気に喋って疲れてしまっ
たみたいだった。目の前の紅茶を一口啜る。

「まるで新しいサイクルが出来あがっているみたい。○○、あなた
は咲夜が変わってきていることの、証明みたいなものなのよ。その
証拠に、咲夜はあなたの前では普通の人間と変わりなく振る舞うで
しょう?」
「十分超人的ですけど……能力的な意味では確かに、そうかもしれ
ません」
「○○が来る前はまったくそんなことなかったもの。常に遠慮なし
よ」

 ……僕は前から咲夜さんの持っている能力を知っていた。とんで
もない能力だと思うが、その兆しがあれば咲夜さんが能力を使った
ことにも気付けたと思う。まず”認識”できなければ咲夜さんの世
界に入門することすらかなわない。しかしそんなことは一度もなか
った。僕の前では一度もそれらしいことはなかった……。

「……”ここ”も、変わってきているのね。改めて、そう思うわ。
咲夜だけじゃなくて、私も変わってきたのかしら……? 妹様は最
近見ないようだけど……」
「妹様……?」
「あなたはこのこともまだ知らないのね。妹様というのは……お嬢
様の妹の、フランドール・スカーレットのこと。お嬢様よりよっぽ
ど性質が悪いから、気をつけなさい。しようと思っても、できない
でしょうけど……」

 あのレミリアより性質が悪いって、いったいどんな感じなんだろ
うか。想像もできない。まさかサーチアンドデストロイなんてこと
はないだろうな。

「そういえば、確か僕が拾われてきて、咲夜さんが意見を伺いに行
ったのは、パチュリーさんでしたよね。だから、僕がここにいられ
るのは、パチュリーさんの力添えによるところが大きいのでは」
「……別に、私は何もしていないわよ。確かに、咲夜が人を拾って
きて……お嬢様じゃなくて私のところに伺いを立てにきたときは、
少し驚いたけど、私は何もしていないわ。ただ、好きにしなさいと
言っただけ……私はずっとここで本を読んでいるだけよ」
「それだけでも、僕には良かったんです。今でもこうして僕に、こ
んな大事な話をしてくれました」

 パチュリーさんは、今はもう本に視線を落としてなんかいなかっ
た。本を抱き抱え、白い肌には少し赤みが差し、その語りには熱が
こもっていた。

「紅魔館のみんなに、僕は大変良くしてもらいました……だから今
度はきっと僕の番なのでしょう。認めてくれたみんなのために、僕
は力を尽くします。
 ……パチュリーさん、あの日、パチュリーさんにまじないを掛け
られてから、ずっと調子がいいんですよ。滋養強壮に無病息災、安
居楽業に欣求浄土、落花流水……」
「そんなことに何も感じる必要なんてないのよ。だって別に何の意
味もな……」

 はっとした表情のパチュリーさん。自分のことはひた隠しにする
パチュリーさんなら、きっとそう言うと思っていた。思った通りだ。

「だからですよ」
「……?」
「だからです。意味がなくても、別に構いませんでした。その気持
ちが、嬉しかったんです」

 幸い、紅魔館では今の気持ちを表すのに丁度いい方法を実行する
ことに、限りなく抵抗が薄い状態にある。僕は椅子から立ち上がり、
パチュリーさんのそばへ。

「な、何?」
「そういえば、今日はパチュリーさんの調子はいいみたいですね。
喘息の兆候もないし、熱も無さそうだ」

 僕を見上げるパチュリーさんの手を引いて、立ち上がらせる。す
ると彼女はそのまま前につんのめってバランスを崩し……僕の胸に
飛び込んでくる形になった。ややゆったりとした服の上からではわ
からない、折れてしまいそうなくらい細い身体をこの手に抱き締め
る。

「……っ!? な、何をするの……?」
「すみません、僕にはこれくらいしか思いつかなくて」
「駄目よ……あなたには、咲夜が……」

 顔を背けようとするパチュリーさんの顎に手を添えて、軽く胸に
抱いたままそっと、唇を重ねる。

「ん……っあ、あっ、ふあっ……ダメっ、ダメよ……!」

 何度も、啄ばむように唇を味わうと、その合間を縫って、息苦し
げに言葉を紡ぎだすパチュリーさん。いつのまにか、パチュリーさ
んが胸に抱えていた本は、どさりと横に落ち、行き場を失った手が
僕の背中に回ってきた。

「ふぅうん、ちゅ……ちゅる……んはぁ……はぁ」

 この期に及んでまだ何か言おうとするパチュリーさんの口を僕の
口で封じ込めた。舌を差し込み、奥で小さく縮こまっているパチュ
リーさんの舌をちょっと刺激すると、彼女も恐る恐る、その戒めを
解く。

「ふぅ……パチュリーさん、可愛いです……」
「んんぁ、○○、こんな……こんなことって……んぷ、んっ……」

 既に体重の大部分を僕の腕で支えていたが、大した負担にはなっ
ていない。パチュリーさんが軽すぎるのだ。ぬめる舌で口内を蹂躙
すると、もう抵抗する意志もなくなってしまったようだ。

「ん、はぁっ、はぁはぁはぁ……」

 息も絶え絶えなパチュリーさんは、瞳を潤ませながら呼吸を整え
ると、僕に言った。

「いき、できないから……あんまり激しいのはやめて……」
「すみません、つい、夢中になってしまって」
「む、むちゅー……?」

 意識が朦朧としているのか、口癖が少し間抜けな感じになってし
まい、僕は思わず笑ってしまった。パチュリーさんは可愛らしくむ
くれて、ぷいっと顔を背ける。

 それから少しの間、静謐な図書館の空気の中に、緩やかな水音が
絶えなかった。










「御苦労さまです○○さん、休憩ですか?」

 よく晴れた日の午後。僕は咲夜さんに許可を得ると、気分転換の
ため陽の光を浴びに庭に出た。ほとんど窓もない陰気な館内では、
ときどきそういう気分になってしまうことがある。同じ人間である
咲夜さんは、それ察してくれているのか快く承諾してくれた。

「はい、美鈴さんに元気を貰いに来ました」
「あははは、またまた、○○さん。でも、冗談でもそう言ってもら
えると嬉しいです」

 館の前に広がる庭園では、ちょうど美鈴さんが庭の手入れに精を
出している真っ最中だった。眠ってさえいなければ、ここからでも
正門の対応は可能だそうなので、これでもいいらしい。割と暢気な
ものだ。
 パチュリーさんの話から、気になることがあった僕は、この機会
にと美鈴さんにも聞いてみるつもりで話しかけた。

「冗談のつもりはないですよ。だってほら見てください」

 美鈴さんが持つじょうろの先には花壇があり、色とりどりの花が
水を受け、太陽の日差しを浴びて煌めいていた。その中にいる美鈴
さんもまた光の中にいて、思わず息をのむほど綺麗に見えた。美鈴
さんの育てたこの植物たちがその証拠ですよ、と言うつもりだった
けれど、その姿を見ているだけで十分に元気は貰えそうだ。

「一応、自慢なんですよ、この庭園は。私もいっぱい力を注いでい
ますから」
「そうですよね、見てるだけでも気持ちがいいです」

 美鈴さんは、ありがとうございますというとまた花壇に目を向け
た。僕は彼女の横に並んで、その様子を見守る。すると美鈴さんは、
ちらりと横目で僕の方を見ながら口を開いた。

「……咲夜さんとのこと、良かったですね。お嬢様にも紅魔館で働
くことを許されて、何の心配もなくなったんですから」
「ええ、それも美鈴さんのおかげです。美鈴さんがいなかったら、
僕がそれまで持ったかどうかわかりませんでしたから」
「そんなことはありませんよー、結局私は何もできませんでしたし。
○○さんはお嬢様相手に大立ち回りを演じたと聞いていますから、
そのほうがすごいですよ!」
「それは話に尾ひれが付きまくっているような……。あそこでお嬢
様の威圧感に負けたら終わりだなとは思いましたけど」
「それだけでも十分すごいです! 私だったら、お嬢様の殺気には
尻込みしてしまいます」

 美鈴さんがやたらと持ち上げるので、なんだかむずかゆいような、
そんな気分にさせられた。楽しそうにニコニコと言われると、すご
く照れくさい。僕はちょっと顔が熱くなった。

「以前は」

 花々に向けられた遠い眼差しと湛えられた微笑みは愛情をこめた
証明として十分過ぎるほどの説得力を秘めている。その姿に思わず
僕は魅入られる。

「私はよく咲夜さんに怒られていました。ときどき居眠りしちゃっ
たりして……そうすると、おもむろにナイフが飛んでくるんですよ。
そういうときは、私の方が先に紅魔館に来たのに~って、よく思い
ました」

 まさか、咲夜さんにそんな特技があったとは。確かに、包丁など
の刃物の扱いは、素人目に見ても並みじゃないとは思っていたけど
……納得。

「それで、お嬢様が二度めの異変を起こしたときに、紅白や白黒が
紅魔館に殴りこみにきて……って、○○さんが来るもっと前の話で
したから、よくわかりませんよね。今度時間があるときにでもお話
しましょうか?」
「ええ……それは是非お願いします」

 僕はそういう話を聞けるのが楽しみだった。僕がいなかった頃の
話は、そうやってでしか知りえないことだからだ。僕はもっとそう
いうことが知りたかった。それくらい、この館に、そこに棲む人妖
たちに愛着を持ち始めていた。そしてそれを話してくれるというこ
とは、パチュリーさんのときと同じように、心を許してくれている
ということでもあるだろうから。

「そのあとぐらいからなんですよね、咲夜さんが変わり始めたのっ
て」
「そのことは、パチュリーさんからも聞きました。人間と関わるよ
うになったからだと」
「それ以来、度々人間が訪れるようになりましたからねー、この館
にも」

 それまではいつもと変わりないように思っていたが、咲夜さんの
名前が出るたびに、心なしか、美鈴さんの笑顔にかげりが見える気
がする。

「だから、今の咲夜さんはきっと人間といっしょにいるのが一番い
いんでしょうね。それで○○さんが来て……今の咲夜さんはとても
楽しそうです」
「でも、この幻想郷には人間の住む里があると聞いています。そこ
には、咲夜さんみたいなすごい人だけじゃなくて、普通の人たちも
暮らしているはずですよね。そこにいる人間では、駄目だったんで
しょうか?」

 ……こんなことを言ってしまうのも、僕の自信の無さの表れだっ
たのかもしれない。そんな僕に美鈴さんは笑いかけた。

「きっと駄目だったでしょうね。里の人たちは、あまり紅魔館に良
い感情を抱いていませんから。ときどき門のところまで来る人たち
と話していると、わかるんです。私たちも色々悪いことはしてきま
したから、それでも全然構わないと思っています。私は妖怪ですか
ら、むしろ人間には恐れられてナンボです! ……でも咲夜さんは
違います。咲夜さんは、人里にも度々出かけますから、そういう先
入観を持つ人たちでは……」

 美鈴さんは真剣な面持ちで語った。弱気になった僕に、強く言い
聞かせるかのように。

「だから、それがない外の人じゃないと駄目だったんでしょう。で
もすごい偶然ですよ、○○さんがここに来たのって。いくらお嬢様
でも、全く知らない人間の運命までは操れないんですから」
「美鈴さん?」
「だから○○さんは、もっと咲夜さんと仲良くしてください。私の
ことは、もっと怖がってください。それが一番自然なんですよ」
「それは……できませんよ」

 いまさらそんなことができるわけがなかった。美鈴さんほどでき
た性格は、人間にだってなかなかいるもんじゃない。パチュリーさ
んも、美鈴さんも、咲夜さんのことをちゃんと考えているんだとい
うのはわかる……それこそ、僕なんかがしゃしゃり出るのがおこが
ましいくらいに。だけど、気を遣い過ぎじゃないだろうか。

「いけません! ○○さんがそう仰るなら、私にだって考えがあり
ます!」
「え? 美鈴さん――うあっ!」

 美鈴さんがじょうろを放り、僕に向き直ったその刹那。――天地
が逆転したかと思うと、軽い衝撃が背中に走り、僕は花の中に倒さ
れていた。瞬く間に花の芳香の中に落ち込んだ僕の上には、美鈴さ
んが馬乗りになり、強い日差しを濃い影で覆い隠している。……僕
は呆気に取られてしまった。

「あんまり聞き分けがないと、私は○○さんを食べてしまいますよ
っ!」
「……でも美鈴さん、それは人間がこの館を訪れたときに言う、脅
し文句みたいなものだって、前に言ってましたよ」

 そう、それでできるだけ無用な戦いは避けたいということらしい
のだ。それでも戦いを望む相手には容赦はしないとも。

「ううっ……それでもっ、ときどきあなたを食べてしまいたいと思
ってしまうこともあるんです! 私だって妖怪なんですよ!? 妖
怪が人間を食べるのは当たり前なんですっ! だから……だから…
…」

 垂れ下がる美鈴さんの両のおさげが揺れ動き、僕の頬をくすぐる。
美鈴さんは切なげにくしゃっと顔を歪ませ、彼女の瞳からは今にも
涙が溢れそうなほど潤んでいる。

「……そんなに、悪いことだとは思わないですよ」
「えっ!?」
「でも僕の所有権は咲夜さんが持ってるから、咲夜さんは怒るかも
しれないですけどね」

 なぜだろう、こんなときなのにちょっと笑えてきた。自分でも不
思議だった。美鈴さんは驚いた顔で僕を見下ろす。

「う、う……うぇぇぇぇん」

 何も言えなくなった彼女はついに泣き出してしまった。それを見
て僕はひどく胸が痛んだ。こんなはずじゃなかった……美鈴さんに
は、いつも元気で、笑顔でいてほしいのに。

「○○さぁん……」

 不意に、ぎゅう、と美鈴さんの唇が力強く押し付けられた。

「ぐ、むぅ……」
「ん、ん、んんんんっ……!」

 美鈴さんはきつく目をつぶって、ただひたすらに唇を押しつけて
くる。僕はそれに何一つ反応を返すことができなかった。いかんせ
ん、美鈴さんの力が強すぎるからだ。身動き一つできず、まともに
呼吸をすることも困難なくらいだった。

「う、ぐ、うぐぐぐぐっ」

 あまりの苦しさに、僕は思わず顔をずらして美鈴さんを避けてし
まった。……それに気づいた美鈴さんは自ら身を引いて、再び僕の
ことを見下ろす。その表情はとても痛々しく、いつまた泣き出して
もおかしくなかった。きっと、拒絶されたと思われたに違いない。

「う、ううっ……や、やっぱり……」
「違うよ……美鈴さん、力、抜いて……そうじゃないと、ちゃんと
できないよ」
「へ……あ、はいっ……」

 僕が美鈴さんの背中に手を回すと、再び美鈴さんがゆっくりと顔
を近づけてくる。もう一度、行為をやり直すために。

「はぁぁぁ……○○さぁん……」

 今度はゆったりとした力で、僕の胸の上に手が置かれた。しかし
相変わらず唇は固く閉ざされたままだ。

「んっ……あ、んんっ……!」

 僕は顔の角度を変えて、みんなより少し美鈴さんの厚い唇をはむ
と、彼女はびっくりしてそこに隙間を作る。より深く繋がろうと、
僕は舌を差し込んだ。

「ん……は、ちゅ、む……ぅうん」

 美鈴さんは一瞬驚いて目を見開いた。けれどすぐにまた目を閉じ
て、僕の動きに合わせてくれる。より身体を密着させようとしてく
る美鈴さんのおかげで、僕と、彼女の間でふくよかな胸が窮屈そう
に潰れた。どくん、どくんと美鈴さんの胸の鼓動が伝わってくるよ
うだった。早鐘を打つ彼女の鼓動に合わせて、僕のそれもまた同じ
ように高まっていく。

「ちゅう……ん、はぁ……ちゅるっ、ちゅ……ふ、ぁぁぁ……」

 唇が離れても、可愛らしい顔はすぐ近くにある。熱を帯びた美鈴
さんの眼差しが僕を射抜き、その距離を煌めく糸が繋いでいた。そ
れがぷっつりと切れると、ようやく時間が動き出したような感覚に
襲われた。

「○○さん……」
「美鈴さん」
「ときどきでいいですから、私のところにも来てくださいね……私、
待ってますから」
「……もちろんです」

 視線が絡み合うと、お互い示し合わせように、僕らはもう一度、
口づけをした。



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最終更新:2010年06月05日 08:42