天然早苗と、恋人の話(仮)
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あれから秋が来て、冬が来て、春を通り越して。
受験の危機も二人で乗り越えて、俺と早苗は同じクラスの高校生になった。
色々あったけど、俺と早苗はまだ一緒にいる。
最近早苗が見せる寂しそうな表情が気になるから、いや俺が早苗に会いたいだけなんだけど、今日は日曜なので早苗を家に呼ぶことにした。
「あ、もしもし早苗?俺だけど。今日、何か予定」
「○○くん!?大丈夫!?い、今から行くから!すぐ行くから!教室で待っててね!」
「は?ちょ、早苗、
ぶつっ!と唐突に響く電話の遮断音で、俺の言葉はあっさりと遮られた。
・・・今から行く?どうしてあいつは、俺が教室にいると思い込んでいるんだ。今日、日曜なのに・・・。
そこに考えが思い至らないほど慌てているんだろうか。
朝起きた状態のままから何回か電話をかけなおしてみたけど、
お前はあの後すぐ家を飛び出してしまったのか、電話の音すら聞こえていないのか、まあとにかく俺の電話にお前は出なかった。
こういうときに早苗が携帯を持っていないと不便だ。
だからいつも人の話は最後まで聞くように言っているのに。
俺は少し憮然としたけど、何故お前があんなに慌てて俺の元(実際に俺はそこにいないのだが)に向かおうとしていたのかが気になったから、
座り込んでいたソファーから立ち上がって身支度を整える事にした。
学校までは早苗の神社より俺の家のほうが遠いが、自転車で飛ばせば到着するのは同じくらいだろう。
携帯電話をそのままテーブルの上に置いて、洗面所に向かった。
一体どうしたっていうんだ?・・・早苗。
早苗は最近少しおかしい。
どこがおかしいって言えもしないし、わたわたしてるのは元からだけど、そんなんじゃない。
まず、今みたいに話を聞かないで慌てて勘違いすることが多くなった。
いや、話を聞かないというより、何かに急いでいるみたいだ。
そして。
俺をぼうっとしながら見つめている。いつも俺のことを何かしら心配する。・・・何故か俺を見ると、泣きそうな顔になっている。
最後のひとつは自分でも気付いていないだろう。早苗はそんなに、器用な子じゃない。
でも正直止めて欲しい。早苗が俺のことを心配してくれるのは嬉しいけど、それが決して良い理由からではないことは何となく分かる。
そうだ、まるで、
まるで早苗が、俺をおいてどこかにいってしまうような、
「・・・・・」
いや、今そんなことを考えるのはよそう。
仮に早苗がどこかに行こうとも、それが永遠の別れってわけでもない。
そもそも、俺は早苗を離す気なんて最初から持ち合わせてはいないのだから。
家を出て、裏にある車庫に自転車を取りに行く途中、携帯にメールが入っていることに気が付いた。
暗証番号を入力してフォルダを開くと、友達からメールが一通だけ入っていた。珍しい、不良のあいつがこんな時間にメールなんて。
きっと何か面倒くさい問題が発生したに違いない。
あいつは型にはまったお約束な不良野郎だから、よくつるんでる俺のところにも関係ないのに厄介ごとが転がり込んでくる。
そのせいで喧嘩が強くなってしまったのは、不幸か幸運か。
そして用件はなんだろうか、また俺があいつの私怨に巻き込まれることになるのだろうか・・・、
「・・・・ああ、やっぱり」
内容は予想していた通り、最近この辺りで新しい不良が暴れていてカツアゲするだとかリンチされるだとか、そういったものだった。
で、最後に『お前も気をつけとけ』。
・・・、これか、早苗が慌ててた理由。一応訳あったんだな。
骨折した奴もいるみたいだし、生徒の間でも噂にならないはずがない。いや、俺が知らなかったのは不思議としか言いようがないが。
「さて、行くか・・・・・ん?」
ふと。
後ろに何かの視線を感じた、ような気がした。
しかし後ろを振り向いてもそこには壁しかない。
「・・・・・」
俺が後ろを振り向いたことで、気配はぱっと消えた。
まるで幻のように。
「・・・・おいおい、『また』かよ」
数日間の不安が確信に変わる。
誰・・・いや、『何』だ?
高校についたので、自転車を留めて教室に急ぐ。
もう、来てるだろうか、あのこ。
物騒だから、落ち着かせてからさっさと家に帰らせないと。
・・・そして、さっきから俺の後ろをずっと付いてきている、観察している奴を見つけて引っ張り出さないと。
思えば数日前から兆しはあった。
視線を感じたり、後ろからついてくる足音。
でも俺はそういうのに鋭いほうじゃないし、気のせいで済ませてきた。
気のせいじゃなくても、どうせどこかの不良だと。出てくるなら相手をするし、出てこない気ならそれまでだ。
けど、今日確信した。アレは違う。
こんなこと言うのはキャラじゃないけど、いるはずもないけれど。例えるなら実体のない『幽霊』?
ああもう、予定が滅茶苦茶だ。
今日は早苗を家に呼ぼうと思ってたのに。
だからといって、俺を見張っている誰かを見逃すわけにはいかない。
早くそいつを追っ払って、また今度早苗を家に呼んで、この際だからなんで最近悲しそうなのか聞こうじゃないか。
俺をこんなに心配させて、下らない理由だったら承知してやるもんか。
開いていた玄関から階段を上って、教室の扉を開けたら、そのまま落っこちてしまうんじゃないかと思うくらい身を乗り出して裏庭を眺めている早苗がいた。
なにみてんだ。おちちゃうだろ。
「早苗?」
「!!ま、○○くん!だ、大丈夫!?襲われてない?何処も怪我してない!?」
「・・・見てわかんないのか。してない。
それより、お前こそどうしてこんな早く・・・」
「自転車乗ってきたの!ああでも、ほんとによかった・・・」
ほんとに、慌てて来たんだな。髪の毛、ばさばさになってる。
てぐしで整えてやりながら、「心配かけてごめんな」って言ったら、お前は何故かとても悲しそうな顔をした。
お前が今にも泣きそうでびっくりして、俺が思わず固まったら、そのままぎゅうって抱きつかれる。
う、わ。どうしたんだ?
背中に手を回してぽんぽんと叩いたら、早苗が「○○くんが怪我してたらどうしようかと思った」とぽつりと呟いた。
・・・なわけ、ないだろ。本当に怪我してたら、朝っぱらからお前に、俺の家来ないか?なんて誘いの電話なんてかけるはずもない。
それに、俺は喧嘩もある程度強いんだから。それこそ、俺がやられたら校内でちょっとした噂になるくらいには。
少し考えたら分かるのに、なりふり構わず俺の所に走ってきてくれるこのおんなのこをやっぱり愛しく思って、その反面ふつふつと敵に対する怒りが沸いてくる。
折角、早苗とのんびり休日を過ごそうと思ってたのに・・・むかつく。
不良にしろあの幽霊(?)にしろ、さっさといなくなってくれないものだろうか。
「早苗、これから俺、また少し用事があるんだ。帰ろうか」
「あ・・・そ、そうだったの。じゃあこんなことしてる場合じゃないよね、ごごめんなさい○○くん」
「んーん。嬉しかった。早苗が俺のこと心配してくれて」
早苗が俺から離れようとする前に、ちゅうと小さくキスした。
ああ、ほんと嬉しい、かも。
夏休みに行った旅行から帰ってきてから、すぐ学校が始まって、もう一週間ほど経ったけど。
結局あれから早苗が神社の仕事で忙しいとかでずっと時間とれなくて、もしかしたらちゃんと二人っきりになったの、今日が初めてかもしれない。
もっと一緒にここで二人でいたいけど、そういう訳にもいかないし。
あと一回キスしたいっていう気持ち、・・・ほとんど衝動、みたいなのをどうにか押さえ込みながら、早苗から手を離した。すごく名残惜しいけど。
「ついでだし、家まで送るよ。知ってのとおり、物騒だからな。今」
「え!?で、でも○○くん、忙しいんでしょう?私、大丈夫だから!キックとかするし」
「・・・、お前の足が折られたら困るから、やっぱり家まで送ります」
そんな簡単に折れませんー!ってお前はむきになって騒ぐけど、ああもう、この子のおばかっぷりはこういう場面、少し困ってしまうな。
折角気を引き締めたのに、すぐ呆れて緩んでしまう。
こういうの、恋は盲目って言うんだろうか。
わざと後ろを振り向かないで、教室の扉を閉めたら、青ざめたお前が飛び出してくる。
振り返って笑って「早く帰るぞ」って言ったら、お前はちょっとだけむくれた。
ああほらやっぱりこの瞬間にも俺は強く思うわけだ。俺はお前を手放したりなんかしないと。
「早苗、おとうさんおかあさん、家にいるか?鍵、ちゃんと閉めて、出来るだけ外出は控えること。不良は怖いからな、気をつけろ」
「こ、子ども扱いしないでよ!でも怖いね、よく考えてみれば確かにキックじゃ倒せないかも」
「本当に足、折られちゃうぞ?早苗、骨折れたことあるか。痛いよ、アレ」
「う、うそ!!○○くんは骨折れたことあるの?」
「うん、ある。痛かった」
「えええじゃあ気をつけます!今日、お父さんとお母さん、夜まで帰ってこないから、私が東風谷家と神社を守護しないと!」
「ご両親いないのか・・・心配だな。神社を守るのはいいけど、ちゃんと自分のことも守っとけよ」
「勿論!○○くんも気をつけてね。怪我だけはしないようにしてね。足折られないようにしてね」
「・・・俺はキックはほとんどしないから、多分折られないと思うけど・・・」
「足じゃなくても!手も怪我しないように。頭もぶつけないようにしてね。あとえーと、お腹も怪我したら怖いし!」
どんどんと体の部位をあげてくる早苗が可笑しくて、笑いを噛み殺しながら「・・・とにかく気をつけるよ」って言った。
どうしよう、早苗と話してると、緊張感、薄れる。
これで本人は真剣なんだから、本当に困ってしまうよなぁ。
俺が笑ってるのに気が付いた早苗が、不思議そうに俺を見ている。
うん、早苗、かわいいなぁ。お前はほんとうにかわいいよ。
こんなきれいなものがこの世にはあったんだと、毎回俺はびっくりしてしまう。
今まで見てきたのが世界の悪い部分で、お前の側で見てる今が、この世の春の部分なんじゃないかと思う。
・・・ハル、って表現は、ちょっと違うかな。春は別れの季節でもあるわけだし。
悲しみのない、ただ美しいだけの季節。色んなものが萌え出づって、俺たちの周りを照らしてくれる。
「○○くん?本当に気をつけなくちゃ、ダメだよ!」
「そーだな、気をつける」
「うん気をつけて!いくら○○くんが喧嘩強いって言ってもね、それより強い人なんてたくさんいるんだから!」
「はいはい」
俺がわざと適当な声で返事したら、訳知り顔で腕を組んだ早苗が「本当にわかってるのかなー」って言って難しそうに眉を寄せた。
良かった。早苗、悲しそうな顔、してないな。
これでいい。いつまでもこの表情豊かな早苗のままでいてほしい。
そしてずっと俺の隣をこうして歩いていってほしい。
きっとあの予感は悪いユメだ。
今、笑いながら俺と話している早苗が俺の前から突然消えるなんて、あるわけがないじゃないか。
「もー、聞いてる?○○くん」
「きいてるきいてる」
やっぱり、世界には悪意というものも満ち溢れているようだけど。
お前のとなりで見る景色はあまりにも美しいから、そんな事実さえ忘れてしまう。
つまり何が言いたいかっていえば、俺はお前をこんなにも好きだっていうことだよ、早苗?
色んな話をしながら二人で歩いていたら、唐突に早苗が真剣な表情で立ち止まった。
・・・?どうした、んだろう。
何かを思い出したように、その表情が驚愕のまま凍りついて動かない。
かと思えば、どうしようどうしようと呟きながら、頭をぐるぐるさせている。
なんか、すごく慌ててるけど、大丈夫だろうか。この子。
「・・・早苗?」
「あー・・・ど、どうしよう・・・そういえば、忘れてた・・・」
「?何か忘れ物?」
「あっ・・・う、うーん・・・この際、しかたない、ですよね」
「?」
「え、あ、ええー!?お、ああっあれっ!?ど、どーしたのかなー」
「ちょ、早苗大丈夫か?落ち着いて」
「うえっ!?あ、あああれ!ええーー!?」
「・・・、(なに・・・?なんだこのわざとらしいおどろきようは)」
「・・・・・ま、まる、○○、くん・・・・・」
「・・・。どうした?」
「どうしましょう、い、家の鍵、おうちの中に忘れたみたい、です・・・・・・・」
だから家にはいれません、と。
本気か。
・・・というかこれ、演技なの?え?何なんだよ?いきなり、おい・・・、
ふと気付く。
俺の後ろをついてきていた気配は、もう何処かに消え失せていた。
まあ、要するに、だ。
早苗は家の鍵を家の中に忘れてしかも鍵をかけた両親も家にいないんでとにかく家に入れませんよー、な状態らしい。
ちなみに両親は夜帰ってくるとか。つまり夜まで入れない、と。
・・・神社だしなあ、どうにかすれば入れるんじゃないのか?
と提案してみたがめっちゃくちゃ慌てながら却下された。
「えっとその、今日はとにかく夜になるまで家に帰れないんです!もう決めました、東風谷早苗は家に帰れません。
というか今日はあんまり帰っちゃいけないというか あれですよ私の中の何かがそう告げてるというか そうなんです巫女だけに!」
この子は家出でもしたいんだろうか?まあそういうことにしておこう。深く追求するとこっちが疲れそうだ。
東風谷早苗は今日の夜まで家に帰っちゃいけないらしいからな。
それはさておき。
早苗は家に帰れない今、どこに行くつもりなんだろうか?
「すみません○○くんあの私ほんと大丈夫ですから なんならドラム缶の中に隠れて夜まで待ちますから」
「よし分かった。それでは百歩譲ってお前がドラム缶の中にいるのを許すとしよう。
だがな早苗例えばだ、そのドラム缶の中にムカデとかいたらお前どうする?」
「叫び声をあげながら外に飛び出ます○○くん」
「うんそうだなきっとそうするよな。それで外に飛び出たとき今この町を騒がせてる不良集団が通りかかったとしたらお前はどうなるだろうか。さぁ考えてみよう」
「そこはえーと・・・早苗ターックル!で」
「倒せるはずがないよな?それはお前にもわかってるはずだ早苗。
第一早苗ドラム缶って案外狭いだろうし暑いだろうし、その中でこれから五時間以上動かずにいるのは相当辛い作業だと思うよ」
早苗が見るからに確かに!と考えていそうな顔をする。「た、確かに・・・!」ほらやっぱり。
「じゃ、じゃあマクドナルド・・・マックにいます!マックでおとなしくしてます!」
「うん。さっきよりはなかなかいい案だと思うよ早苗。でもお前本当に外に出ないって約束できるか?」
「出来ます!」
「・・・じゃあ聞くけどな、早苗がマックで一人座って夜になるのを待ってるよな?そこで一人の男がお前の前に来る。『道に迷ってしまったんです。交番は何処ですか?』」
「交番?えーと、マックにいるんだよね私。
まず商店街に向かってまっすぐ歩いていって、それからいすの木堂って文房具屋があるからそこを右に曲がって」
「その人が『ちょっと分からないから、交番まで案内してくれませんか?』って言ってきたら?」
「えっと、お任せください!って言って交番までつれて」
早苗が言い終わる前に、ほっぺたを掴んでうにって引っ張ったら早苗が俺に引っ張られたまま「いひゃひゃひゃいーーー!」って叫んだ。
全くこの子はお父さんお母さんに知らない人にはついていってはいけないよって習わなかったのか。
ばか、と呟いたら思いのほか低い声が出て、早苗が段々涙目になってきたので本当に俺がいじめっこみたいになってしまった。
冗談だろ、俺は誰よりこの子のことを心配してるんだぞ。
俺は憮然として早苗のほっぺたを離したけど、その動作も如何にもいじめっこ風味になってしまった。違うのに。
早苗が俺のほうを見て言葉にならない音を口から延々もらしてるのを知らない振りして、柔らかくて温かかったほっぺたが恋しかったから、引っ張ったせいで赤くなったところを何回もさすった。
ああこんなに簡単にお前は痛めつけられてしまうんだな。
熱を持ったほっぺたに指を置きながら、俺はなんだか切なくなって、・・・多分、これは切ないであってるんだと思う。
ちょうど胸の、心臓、かな。その辺りに、心許ない感じが渦巻いて、そのくせ変に苛々もする。
すべすべしてるほっぺたにまたぎゅうって親指を押し付けて痛くしてやりたいような気もするし、
ごめんなやりすぎたって謝って、ほっぺにキスするのも、ちゃんと俺のしたいことだと思う。
だけど黙ってまた早苗に痛い思いさせたら俺は本格的にただのいじめっこになってしまうし、ここでキスするのも違う気がする。
だって早苗、お前は今本当に危ないこと言ってるんだ。
別に、今みたいに不良がうろうろしてるからってだけの話じゃなくてさ。
俺は早苗のほっぺたから離れて、自分の口元を押さえた。
少し考えて、言う。
早苗は自分が危ない目に遭うかもしれないとか、怖い目に遭うかもしれないっていうのに、すごく疎いからいけないな。
自分の好きな女が自分以外の奴にどうにかされるのを歓ぶ男なんてこの世にいないだろうけど、俺はその傾向が通常より更に顕著みたいだから、
お前が何かに、誰かになんて考えただけで沢山のことが嫌になってしまうし、俺がどれだけお前にどうにかなってるか思い知らされて苦しくなってしまうし、大切すぎてかなしくなってしまう。
俺は、お前を傷つけそうな要素は、例え早苗自身の持ち物でも嫌なのかもしれないな。
本当に俺は自分のことばかり考えている。自分のことばかり考えているから、お前のことを考えている。
「もし、だ。そいつが悪い奴で、案内してくれる早苗に乱暴しようとしたらどうする」
「え!?でも交番に行きたいって言ってたんでしょうその人」
「言ってた。でもそれが本当かどうかなんてそいつにしか分からないだろ?
困ってる人を助けようとするのは立派だし、俺は早苗のそういう所好きだけど、それで早苗が危ない目に遭うかもしれないなら、俺は嫌だ」
・・・、なんか恥ずかしいこと言ってる俺?
早苗がまだうるうるしたまんまの目で俺をじっと見る。ああもう、あんまり見るなよ恥ずかしいから。
顔の右側だけがじりじりと熱い。お前がいるから。
「あのさ」
「は、はい!」
「早苗、俺の家で待ってれば?それなら外に出ることもないだろ。誰も話しかけてこないし。帰りは俺が送るから」
手繋いでなくてよかった。どうして俺はこんなに汗かいてるんだ、別にやましいことがあるわけじゃないのに。
俺はただ鍵を忘れて(たぶん)家に入れない困った馬鹿な早苗がね、ドラム缶の中だのファーストフード店だの訳わかんない所に、一人ぼっちでいて、現れた変な奴らに、変な奴らに、だね、
・・・ああもういい。
早苗が黙ってるから、「どうだ」と尋ねたらまた思いのほか低い声が出た。
怖い顔にもなってたかもしれない。いやだけどここで笑ったりしたら俺何かやましいこと考えてたみたいじゃないか?
今回は考えてない。他ははっきりと言えないけど今回ばかりは本当に悪いこと企んでないから。
そもそも悪いことってなんだよ。別に悪いことなんか何もないだろう。俺は早苗に対して痛いことはしたことあっても悪いことしたことは一度もないぞ。
と自分では思っているのだけれど。
ああもうなんでこいつ黙ってるんだ?聞こえなかったんだろうか。聞こえづらかった?
しばらく黙々と二人並んで歩いていたのだけど早苗が一向に返事しないから俺は意を決して早苗のほうに向き直る。
「なぁ早苗俺の話聞いて、」・・・。ああ、全く。
なんでお前はこんなに泣き虫なのか。
「・・・なんで泣く」
「ううん、○○くん、やさしいなあって」
「早苗、お前少し涙腺が緩すぎるんじゃないか。締めろ」
「しめろ!?え、ど、どうやったら涙腺ってしまるの」
「さぁ。病院に行くしかないかもな」
「でも○○くんが優しくしなかったら私きっと泣かないよ」
「嘘だ。俺に虐められてもお前は泣くと思うよ」
早苗が俺の背中側のシャツをぎゅうと掴む。
お前は本当に恥ずかしい子だ。なんで泣くんだよこれぐらいで俺が早苗のこと心配してやまなくてもういっそ病んでるんじゃないかってことお前もう知ってたろ。
俺たちどれだけ一緒にいたと思ってるんだよ。
お前は俺がお前を心配して心配して大暴れしてきたの何回だって目撃してきただろう。
それなのに今更こんなことでめそめそするなんて本当に恥ずかしい。
周知の事実だろうと思う。ばかめ。
ああごめん早苗またお前のせいにしてしまった。わかってるよあれだろつまり?
やっぱり恥ずかしいのは俺だ。顔が熱い。右側だけなんて悠長なこと言ってられない。全部がぐつぐつしている。
俺は早足で歩いてお前が俺の背中を掴んだままふらふら着いてきて俺は一刻も早くお前を俺の家に放り込んでしまいたいと思う。
だって俺はあれだ、なんか知らんが数日前から俺を見張ってる『何か』を見つけて訳を聞かなきゃいけないんだからな、これから。
それは幽霊かもしれないからそんな現場にお前を居合わせさせるわけにはいかないし、俺の休日はまだ終わってはいないのだ。
そいつを倒せれば、その後、俺は家で待ってる早苗に何かしてもいいわけだ。
いっぱいお前に優しくして泣かす事だって可能なわけだ。抱きしめてもキスしても早苗が嫌がらない限り誰も文句なんか言えないんだ。
家に帰って早苗が俺を待っている、って大分すてきだと思う。
俺って馬鹿だ。早苗並みに馬鹿だ。早苗より馬鹿だ。・・・、早苗ばか、だ。
「○○くんの家って、ええとどのへんなんだっけ?」
「あっちの方」
「・・・うーんあっちだけじゃ分かりづらいなぁ」
「分かんなくていい。俺が連れてくんだから」
早苗が俺をまん丸の目で見上げて、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい嬉しそうに笑うんだ。
・・・はいごめん。またお前のせいにした。
俺は何だかさっきから、お前がいちいち俺の『当然』に喜んでくれるから照れてしまうんだ。
俺がお前を心配するのは当たり前だろ。俺がお前を助けたいって思うのなんてもう日常茶飯事だろ。
お前が分からなくて俺が分かる場所になら、俺が連れていくのが当然だろ。
なのに、それなのに、・・・こんな風に喜んでくれるお前だから、俺は幾らでもお前にしてあげたいと思うんだろうか。
・・・あ、これも恥ずかしい。
俺は意味もなく自分の口元を手の甲で拭って、上手く優しい顔が作れないまま。
「・・・なに笑ってるんだよ?」
尋ねたら、嬉しいからだよ!とお前がびっくりしたみたいに大きな声で言うので、俺の恥ずかしさは泥沼だ。ああ、ああもう。
ばかやろう、キスしてやるぞと口の中で呟く。
俺の住んでいる家というのは、どちらかというと町の外れだ。
高校がちょうど街の中心辺りで、駅もすぐ近くだから、言ってみれば高校周辺が繁華街ということになる。
そこそこの大きさのショッピングモールもあるし、少し行けばお馴染みの商店街もある。
市役所も警察署も消防署もビルも、小学校や中学校まで、大体そこに密集している。
で、その中心から逸れて、西側の方に早苗の神社がある。
西の方は三十年ほど前に、大規模な開発を経て作られた住宅地が多くあって(それ以前そこは雑木林だったらしい)町の約六割の人間がそこに住んでいると言っても過言ではないくらいに住居が密集している。
といっても窮屈そうな感じは全然なくて、なかなか閑静で素敵なところだ。
ちなみに早苗の神社はこのさらに外れのほうにあるから、周囲はかなり田舎の風景に変わってしまうのだが。
大体の家に庭があって、車が一台とまっていて、屋根がつやつやしたトタンで、犬を飼っている家が非常に多い。
5ブロックにひとつくらいの間隔でこじんまりとした公園がある。
歩道がきっちり整備されていて、その脇には街路樹がこれでもかというほど整然と並んでる。
当然前の道は広くて真新しいコンクリートで、時々挟まれる横断歩道にはきっちりと白い線が引かれる。交通事故の回数は過去三年間でたったの四回。
繁華街に属さない、個人経営の商店が何件かある。
電気屋、小さな居酒屋、喫茶店、ピアノ教室、習字教室、そろばん教室、絵画教室。教室が多いな。
あまりお洒落とは言いがたい美容室、男性用の理髪店。小奇麗なケーキ屋に、ペットショップ。
ペットショップは早苗と一度行ったことあるな。あの子によく似た子犬がいた。
早苗は俺に似てる猫がいる、と騒いでいた。すらりとした体つきで、愛玩動物のくせにやけに獣っぽい鋭い目をした、黒い猫。
愛想がなくて、全然可愛げのない奴だったのを覚えてる。・・・早苗にだけ嬉しそうに甘えてたのが気に食わなかっただけだけど。
つまり話が逸れてしまったけど、早苗の住んでる西側は徹底的に「閑静な住宅地」だ。
多くの父親がその幸福そうな一角から出て、遠くのビル街へ仕事に向かう。母親は駅の近くのスーパーでレジ打ちのパートに勤しむか、仲のいい奥さん同士でお茶でも飲む。
子供たちはおのおの中心に密集する学校へと向かって、勉強や勉強以外に励んで帰るのだ。
そういう地域。何処にでもある。
そして俺の住んでいる方向、東側。
こっちは西側や駅周辺と打って変わって、家の数が極端に少ない。
殆どが雑木林か、そうでなければ古い寺、小学校の生活科の時間に大活躍しそうな歴史的建造物、というほど立派なものでもないけど、そういうのばっかりの地域。
早苗の神社がこっち側にないのが不思議なくらいだ。
そんな感じで、同じ町の中とは思えないぐらい静か。閑静どころの話じゃない。閑散と言ったほうが近いかもしれない。
何でもさっき言った「三十年前の大規模な開発」のときに、この東側周辺の開発をそこに住んでいた地主が渋ったらしいのだ。
自分が住んでいない西側はどうしたって構わないが、私の住んでいる東側は弄くり回さないでくれ、まぁそんなとこだろう。
そのせいで今も東側は三十年前、いやもっともっと昔から景色も殆ど変わらず、小さく土地を借りて家が建っては朽ちて消えていく。
そんな全然活気のない地域になってしまったのだ。
その地主と、その一族の宅、そして何組かの有力者たちだけが、馬鹿でかい家を建て広大な庭を保持し、我が物顔で東を陣取っている。
通常ではあまりあり得ない状態だ。
俺の家を目指して、二人並んで歩いていたら、早苗が急に「ああ!」って顔して、実際「ああ!」って言った。なんだ?
「わかるよ○○くんここ!今思い出した!私この近くの保育園通ってたの!」
「ほんと?へえ、なんていうとこなんだ」
「さくら保育園!今駅の近くにあるでしょう?私が小さいときはね、あのー駄菓子屋?あそこの近くだったよ」
「ああ、そこなら知ってる。青い屋根の建物だったよな?車で通りかかったことある」
「ほんと!?じゃあもしかしたら、私と○○くん保育園くらいの頃既にちらっと顔見たりしてたかもしれないんだね!ふふーどきどきー」
早苗が胸の辺りに手をやって、にこにこ笑って俺を見上げる。
保育園生の、早苗、ねぇ。
想像したらなんだか、俺まで胸がどきどきしてしまった。阿呆か俺は。
でも、だって、可愛いじゃないか。保育園生の早苗なんて。
しかし好きな女の子の小さい頃を想像してこんなにどきどきしてしまうのってどうなんだろう。
俺はこの子が絡むと多少異常性癖者のケがあるような、・・・いや気のせいか。
今より小さくて、今より泣き虫だったりする早苗が可愛くないわけがない。
もちろん今のお前が一番俺はいいと思うけれども・・・・・・どうしようほんとに俺恥ずかしい?みっともない?かっこ悪い?
人間に相手の心を読む機能が備わってなくてほんとよかったな。
こんな事考えてるのが知られたら俺もう真面目な顔して立ってられないよ。
・・・そう考えると、普段の俺って早苗の前でだいぶかっこつけてるよな。・・・・・好きな女の子にかっこよく思われたがって何が悪い。
「早苗ってさ、保育園のときどんな遊びしてたんだ」
「あーそうだねー、えっと新婚さんごっことか、おいしゃさんごっことか」
なんとなく卑猥だ。
「○○くんはどこの保育園行ってたの?」
「俺保育園行かなかった。世話してくれる人が家まで来てたんだ」
「へぇーそれすごい!○○くんってなんとなく三歳の頃既に読み書きそろばんできましたって感じだよね!」
「なんだそれ。出来ないよ。文字くらいは読めただろうけど」
「えええすごい!私まだ三歳っていったらたぶんおしゃべりもままならなかった頃だと思うんだけど」
「・・・ぱぱまままんま?」
「うん、ぱぱまままんま!みたいなー」
・・・ああ、絶対可愛い、だろう、な。
小さい早苗。
もしいつか、早苗が子供産んだら、その子はやっぱり小さい早苗に似てるのかな。欲しいなそれ
「ああっ!この辺りも来たことあるよ○○くん!お母さんが生協に寄るとき通った道!なんかすごく大きい家あるよね」
「ああ・・・、うん、あるかも」
「お庭とか大きくて、ほら前行った旅館をちょっと古くした感じのところ!お金持ちそうなお家、なんか偉い地主さんのお家なんだってね」
「・・・」
「あっこれ!わああすごい私まだ覚えてます!印象強かったんだね大きいから!今見ても大きいね」
「早苗、・・・うん」
「そうそう、この近くにあのーお洒落な外国っぽいお家ない?洋館というのかな、大きな木が庭に生えてるお家!
あ、あれですあのちらっとあっちに見えてるやつ」
「ああ、うん、知ってる」
「わああー懐かしい!全然変わってない・・・○○くんこのお家の人知ってる人だったりしない?私小さい頃ここに住んでたお兄さんと仲良しだったってお母さんが」
「早苗ここ俺の家なんだ」
早苗は見るからに「ええええ!?」って顔して、うん、まぁ、実際に「ええええ!?」って言ったわけだ。
・・・ああ俺と早苗って本当に、何か運命的なもので結ばれちゃったりしてるのかもな。
非常に馬鹿らしい話だが。だって、実際。
「さっき通ってきた古い家が俺の実家」
「なっ!?」
「早苗が仲良しだったっていうのは多分俺の叔父」
「え、・・・なななな」
「叔父が、二年前に死んでから俺が譲り受けたんだ。今はひとりで住んでる」
ただびっくりした!ってだけの顔だった早苗が、急に真剣な表情になる。
その瞳が痛いくらいに俺を凝視して、俺の表情を一つでも逃すまいと、頑張ってくれているようだけど。
早苗、俺はお前の前で格好つけるのがとても上手い。
・・・お前の前でなくとも、格好つけるのだけは自分でも熱心に訓練して生きてきたんだ。
だから、俺は表情に特に変化を見せないで、早苗の方を見て、暫くしてからほんの少しだけ笑った。
「俺が帰ってくるまで、ちゃんとここで待っていられるか?早苗」
帰ってきたら、お前に聞いて欲しい話がある。
呟いたら、声だけかっこよくはなくなった。弱った声だった。俺にしては。
早苗が、きゅうっと唇を結んで、こくんと頷く。
「私、いくらでも待てます、○○くん」
あなたが帰ってくるまで、いつまでも。
早苗は俺のようには生きてきていないので不安なときは不安そうな顔をするし俺を心配してるときは俺を心配している顔をする。
だから、だから俺は、そういう風に、俺のように生きてきていない早苗を、俺が出来ないことを出来る早苗を、すきですきでたまらないのかもしれないな。
俺は笑って「汚いところだけど」と続けるけど悲しいことに、俺は冗談を上手に言う練習はしてきていないのだ。
あと四話くらいで終わる予定です。
『早苗、今日は夜まで帰ってきてはいけないよ』
神奈子様と諏訪子様にそう言われたのが、今日の朝のこと。
理由は聞かせてもらえなかった。聞く余裕もなかった。
何故ならはっきり言ってそれはかなり突然のことで、○○くんのことで大騒ぎして学校に向かっている間にそんなことはすっかり忘れてしまっていたからだ。
ああ、けれど。なんとなく。
本当になんとなく、私はその意味を察していた。
『ああ、あの男の所に行くのかしら?早苗』と神奈子様。『はい。近頃物騒だという話を聞いたので』と私。『そう。気をつけて、行っておいで』と諏訪子様。
いつも通りの会話だけど、何か違う。
思えばここ数日間、兆候はあったのだと思う。なんだか社の空気がぴりぴりしていたとか。
お二方のご様子がいつもと違う、とか。
でも私には何も知らされない。私は時が来たらただ、お二方についていくだけ。
その事に少し寂しさを覚えながらも、私にはどうしようもない。
それより、これから起こることが私にとって重要でそしてあんまり良くないことなのだな、と漠然と感じた。
だから、だから、私は○○くんとたくさんお喋りしておかなきゃいけないな、と思った。
○○くんのことたくさん心配しよう。たくさん傍にいてあげよう。
その先にある真意は考えない。考えてもいいことなんてひとつもない。
だって私は最初から○○くんのことしか考えてなくて、○○くんと話してたら傍にいたら幸せな気持ちになれるのは唯一のいいことなのだから。
そんなこんなで色々と成り行きがあり○○くんのお家にお邪魔してはみたものの。
お家の主さまの○○くん、・・・いやなんかこの言い方だと沼とかに住んでる妖怪みたいですね。
「ネス湖の主・古代恐竜ネッシー」みたいで嫌だなぁ・・・
○○くんは全然そんなんじゃない!どちらかというと「失われた大陸の美しき生き残り・人間世界遺産○○」みたいな・・・あれこれもなんか違う気がしますどうしよう!?
ボキャブラリーが貧困でどうしましょう!?声に出して読みたい日本語が殆ど読めないどうしましょう!?
と考えることが激しく脱線し続けている東風谷早苗一応女子高生なのですが、うーむ、本当に、どうしよう・・・?
○○くんは、俺が家に帰ってくるまで適当にくつろいでていいよ、なんて言ってたけど、なにか、お家に住んでいる人がいらっしゃらないのに、くつろいでいるのって難しい・・・。
何していいか分からないし、勝手が分からないから困ってしまう。
すごくお金持ちっぽいお家だし、テレビがハイビジョンでアクオス!?これが噂のアクオス!?って感じだし、
ソファーがうちの10倍くらいふかふかで焼きたてのパンみたいだし、
ま、○○くんのいい匂いが家中にふわーんふわーん漂ってて勝手に心臓がどきどき言っちゃう、し、
本棚の本が学校の図書館と比べ物にならないほど難しそうなのばっかりだし、(も、森はとがい?はとがいさんってだれ・・・!?)
変に動き回って物壊しちゃったり○○くんのプライバシーを侵害してしまったり
「早苗、お前みたいにしつけのなってない子は見たことないね!もう二度と俺の家には入らないでくれたまえ」みたいになっちゃったりしちゃったり、
そんなことを考えると私は自然と○○くんが通してくれたリビングのソファーの上に縮こまって時々飴玉を舐めたりお茶をすすったりしながらテレビを見ているしか出来なくなってしまう。
うーん、役立たずだなぁ・・・。
○○くんは今、自分の用事に一生懸命だというのに、私、ほんと何も出来てない。
今日私がやったことといえば、不良が徘徊してるって聞いて狼狽して、○○くんが怪我したかも!って先走って、○○くんに一方的に電話して教室まで走って、
○○くん教室にいなくてわざわざ迎えにまで来てもらって、さらに家に帰れないから鍵忘れたなんて嘘ついて、○○くんにさらなるご心配とご迷惑をおかけしたうえ、
なんと家にまで連れてきてもらってかくまってもらって、そして今何しているのかというと・・・
「うーんこのいい匂いって一体何なのかな・・・?○○くんフェロモン!?フェロモンなのか!」とか考えて飴玉を舐めているって早苗・・・!
早苗それはだめでしょう!私って基本だめ人間ということが世間様に知れ渡っている気がしないでもない人間だけどこれはまずいでしょう!
や、やっぱり、ご飯くらいは、作って・・・○○くん、きっとお腹空かせて帰ってくるよね。
そのお腹空かせて帰ってきたとき、私がご飯も作らず掃除もせずぼーっと「ちびまるこちゃん」を見たり居眠りとかしていたりするのを見たら、こいつはダメだ・・・ダメだこいつは・・・と思われてしまう!
ああああそれは、いや・・・!
というかお腹空かせてる○○くんをお腹いっぱいにさせてあげられないなんてのは、い、いや!それはもっとだめ!
私は思い切って立ち上がって、なんだか大きくて広くて塵一つない○○くんの家を2分くらいさまよって、どうにかお台所を発見した!
よしっ!今日の私今日初めてちょっといい働きしました!私が私にとってやっといい働きをしました!
なんだか芸能人お宅訪問みたいに立派な台所の隅っこに、ちょこんと小さな冷蔵庫が置かれている。
台所が大きいからますますそれが小さく見えて、○○くんは本当にここに一人で住んでるんだなぁ、と思った。なんだろう、ちょっと寂しくなる。
○○くんは、私と違うから、もしかしたらこれでも寂しくないのかもしれないけれど。
私が今、ひとりぼっちで暮らせ!と言われたら絶対に困るし、寂しいと思う。
お父さんも、お母さんも、神奈子様も、諏訪子様もいないで。朝も一人で起きて、夜も一人で眠って。朝も昼も夜も一人でご飯を食べる。
○○くんのいい匂いがいっぱいする綺麗で広くて大きなこの家の中で、そんな風にしている○○くんを考えると、口の中に苦いもの突っ込まれて無理矢理食べろ!って怒られてるような気分になる。
口の中がとても苦くなって、悲しく寂しくなって私は自分の腕をぎゅうって掴む。
私の作ったお弁当食べて頷いてる○○くんとか、そういうの思い出して、おせっかいで誤解で余計な心配かもしれないのに、私は苦くて苦しい。
最初は何故か分からなくて、口が苦い!苦い!と思っていたけれど、私はしばらく苦い!苦い!を繰り返してようやく気付く。
○○くんが、心配なんだ。
○○くんが寂しくないかとか、ご飯一人で美味しく食べられてるかとか。
夜、寒くて眠れなくなったりしないかな。怖い夢とか見たらどうするんだろう。
そういう時、お父さんもお母さんもいなくて、家の中に自分以外いなくて、そういう時、○○くんはどうするんだろう何を考える?
私は、小さい冷蔵庫を開ける。
この家自体は白いものや淡い色が多いのに、冷蔵庫だけきれいに真っ黒だった。
私は、この冷蔵庫は○○くんが買ったのかもしれないなぁと思った。とっても小さい、一人だけのご飯しか入らないような。
本当に私の勝手な思い込みかもしれない。取り越し苦労で妄想の可能性がとても高い。
○○くん、案外一人暮らしをエンジョイ!カモンエンジョイ!って思ってるかもしれない。
それでも、だ。
私は○○くんの冷蔵庫をざっと見渡して、絶対に美味しいご飯を作ると心に決める。
○○くんがお腹空かせて帰ってきてもいいように。私が何もしないでぼーっとしているだめ人間になるのを防ぐために。
そして、○○くんと一緒に私はご飯を食べたいんだ。学校でのお昼休みみたいに、○○くんと一緒に、○○くんのお家で、ふたりで。
それって結構楽しいと、思うんですよ。○○くん。
「よーし!!」
気合の掛け声を入れて、腕まくりまでしちゃった私に、問題がひとつ!!
お米がない。
ど、どうし・・・どうし・・・動詞・・・同士?導師!・・・じゃなくてどうしよう!?
パンが無ければケーキを食べればいいじゃない、ってパンが無い場合のアドバイスは聞いたことあるけど、お米が無い場合のアドバイスは聞いたことないよー!
あ、そうだ、パンが無ければケーキ、ということはケーキが無ければお米、お米が無ければパンを食べれば、みたいになるのでは・・・!?
なるかもしれません!
よしっじゃあパンは無いかな!?○○くんのお家パンはないかな!?
冷蔵庫、電子レンジの中、オーブンの中、引き出しの戸、戸袋の中、ついでにバス・トイレまで確認してみましたがパンも・・・ない・・・!
としたら残るはケーキだけど・・・ケーキも・・・ない・・・!!
私は目の前が真っ暗になって真っ白になって膝がガクガクして顎ががくがくして個人的に地震、ひとりだけ地震、みたいな状態に陥る。
とまではいかないけどとても困ってしまったああどうしよう!?
素麺とか、お蕎麦とかあったらいいんだけど、そういうのも、無さそうだし・・・。
お芋でも、どうにかなりそうなんだけど、お芋も無い。
炭水化物が全く無い。まずい!
冷蔵庫をもう一度開けて確認してみる。
牛肉、鳥のモモ肉、シャケの切り身、白ねぎ、ナス、ブロッコリー、ほうれん草、玉ねぎ、卵、にんじん、生クリーム、各種調味料。
ううむ、食材自体はかなり充実してるんですよ、ね・・・。
特に鳥モモ肉、シャケの切り身、ブロッコリーほうれん草玉ねぎにんじん生クリームあたりはすごくいい。
これでホワイトソース買ってきてシチュー風のソース作って、バターとにんにくで炒めたご飯を半熟卵で包んでそのうえにシチュー風のやつをかければ、結構豪華なオムライスが作れる、かもしれない!
私が失敗とかしたら元も子もないのだけれど!
う、うまくいったら、まぁまぁいいものが作れるんじゃないでしょうか・・・!?
○○くんも美味しく食べれるような代物が・・・!
だけどもし煮込みものを作るとしたら、出来るだけ早いうちから火にかけて煮込んだほうがいい。
シチューも間違いなくいっぱい煮込んだほうが美味しくなるし。
オムライス部分は炒めるだけだからすぐだとしてやっぱり問題はシチューのほうだ。
材料急いで買ってきて今から煮込めばとりあえずまともな形は作れる・・・ああでも○○くんに絶対家出ません!って約束してしまったし!!
あああどうしよう、外出たら、怒られるだろうか。怒られるだろうな・・・!
ばれなければいいんだけど・・・ばれないかな?こっそり出てこっそり帰ってくればばれないかな!?
確か、近くにひとつスーパーあったよね。この辺。
あそこまですぐ行って、すぐ帰ってくれば、きっと大丈夫。
うん、すぐ行ってすぐ買い物してすぐ帰ってきてすぐ煮込もう!そして○○くんと一緒にお夕飯を食べるのです!
幸い財布はちゃんと持ってきている。しかも、今日は珍しく三千円も入ってる!買い物もばっちり、神様が応援してくれてるんですね恐らく!
有難うございます神奈子様諏訪子様!
私は、○○くんの家をなんとなく抜き足差し足で通り抜けて、こっそり外に出た。
戸締りもちゃんとしたし、一応今この辺りを徘徊している怖い人たちに遭遇した場合のために傘も持ったし、急いで帰ってくれば大丈夫。
傘で叩いたら、そのなんか怖い人たちもびびって逃げるに違いない!勝利!みたいな。
私は傘を握り締めて気合を入れる。よ、よし、○○くん、美味しいお夕飯作れるように頑張るから、覚悟してください・・・!!
○○くんの家の前に出るけど、人もいないし、車も通らない。
大きくて立派な家が沢山あるのに、人が住んでいる匂いがしなかった。
・・・こんなところ、だったかな?
私は、保育園のとき見たこの辺りの景色の記憶と今見える景色を頭の中で比べてみるけど、よく分からなかった。
はっきりとしていない。ぼやけてて、もやもやしてて、頭の中でつっかえる。
保育園、三歳とか四歳頃の記憶って、こんな簡単に薄れちゃうものなのかな。
○○くんのおじさん、私と仲良しだったお兄さん。
思い出そうと頑張ってみるけれど、お母さんの話してくれた話と、私の想像と、本当にあったことが混ぜこぜになってよく分からなくなる。
名前は知らない。苗字も聞いたこともなかった。
二年前に死んでしまった、大きな声で笑うお兄さん。
私が保育園に行く途中で、お母さんとはぐれて迷子になったとき、お兄さんが交番まで連れて行ってくれて、それで、それからだ。
それからお母さんがケーキとか持ってお礼に行って、それで、なんでだったかな。
なんで、仲良くなったんだろう?でも、私は本当にお兄さんと仲良かった気がする。
なんで忘れちゃってたんだろう?
本当に私お兄さんと仲良くしてたのに。お母さんに言われないと思い出せなくなって、思い出さなくなった。
人間の記憶ってそんなものなんだろう。
長い間関わりがないと、すぐに頭の中から消え去って、風化してしまう。
・・・○○くんも、お兄さんと仲良かったのかな。
もしかしたら、お兄さんは○○くんに似てたのかもしれない。
お兄さん家を覗くとき通るあの大きな和風のお家の中に、小さい○○くんがいたのかもしれない。
そのときは、○○くんひとりでご飯食べてなかったかな?お父さんとお母さんと眠って、みんなでご飯食べてたかな?
お兄さんと遊んで、楽しくしてたかな。
○○くんが一生幸せで、生きてきていて、これからも生きていけたら、私本当に嬉しいんだけどな。
そのためには今とりあえず、私が「何コレ!?特エプ!?」くらいの美味しいご飯を作って、○○くんをびっくりどっきりさせないといけませんよね!
よーし張り切ってシチュー煮込むぞー!奮発して高級素材買っちゃうぞー!頑張るぞ私!
張り切って買い物しすぎて残りのお金が23円になりました。
これは、これはむしろ、足りてよかったと思ったほうがいい部類なのでは・・・?
普通残金23円ってないよ!買い物下手なようで結構買い物うまくいきましたよ私!
お小遣いなくなったのはショックだけどこれで○○くんに美味しいお夕飯が作れますね。おかわりとかしてくれちゃったりしないかなーしてくれたら嬉しいんだけど!
私が良い食材を買えた喜びでほぼスキップしているみたいな感じで歩いていたら、なんだか妙に密集して歩いている三人の男の人が見えた。
うわーあんなに近づいて仲良しな三人組だなー兄弟かな?
「よーおにーちゃーん、オレら今超金困ってんのー。ちょっとでいいから貸してくんない?」
「や、やめてください、ああ、乱暴はよして・・・」
「『よしてー』!?こいつ、しゃべり方マジキモくねー?乙女系?」
「いえてるいえてる!兄ちゃんさー、顔キレーじゃん?ちょっとその辺のオッサンに可愛がってもらえば金貰えんじゃん?じゃあ今持ってる金いらないじゃん?」
「うっわーこいつ5万も持ってっぜー?もしかしてもうオッサンに可愛がられたあと?まじすげーオレホモはじめて見たー」
「ち、ちがう・・・」
・・・
「もしかしてまだ金持ってんじゃん?隠してるとイイコトないよ~、ボク~」
「そーそっ!後ろでもっとこわ~い事しちゃうよ~?皆金持ちのオッサンみたいに優しくないんだからね、おにいちゃん」
「お金、もう、ないです。だから、もう・・・」
・・・、・・・
「だ~か~ら~?おい、今日はこの兄ちゃんで遊ぼうぜ。はいごあんなーい」
「やだ、やめて、お願いします」
「あっはっはかわいー!こいつマジ男?ちょーきもち悪ぃキショ
「くたばれ悪人!早苗ターックル!!!」
食材の入ったビニール袋を丁寧に歩道の端に置いて地面を横っ飛びに飛び上がって、
私と同い年くらいの男の子に絡んでいた二人組に得意の早苗タックル・属性捨て身を繰り出したら、お兄さん二人を一気に倒せた。が、しかし私が体の右側を地面に殴打してしまった。
うぎゃーこれまた痛い!人生三度目の使用なのにまた痛いです・・・!
というか折角武器に傘持ってきたのに結局肉弾戦に持ち込んじゃいました!
そのうえもっと悪いことにお兄さん二人のダメージが明らかに私より少ないです!
絡まれてた男の子と悪いお兄さん二人が元気そうで私だけ戦闘当初からぼろぼろで さ い あ くだ・・・!
しかしここで弱そうに見せたら悪い奴らの思うつぼ。
私のお金(23円)とかもっと悪かったら食材が奪われて、それに男の子が酷い目に遭うかもしれない・・・!
私は歯を食いしばって立ち上がって、全然痛くありませんからむしろこれハンデですから!ハンデ!みたいな顔をした。
ううう膝が痛いです絶対なんかコレ打撲したようなジーンってしびれてるもん・・・!
「う、うぐ、な、なにしてるんですか、貴方たち・・・!」
「お前こそなにしてんの?チョー痛いんだけど」
「ありえねー。お前がくたばれ」
くたばれとか言われた!
え、え、どうしよう。武器!傘!どこ置いた?あっどうしよう食材と一緒に置いてきちゃったよ!やばい!
うわ、私なんか手つかまれちゃいましたよ!?あれーどうしようこれさり気に今までで一番ピンチなのでは・・・!?
どうしよう○○くんに怒られる!「早苗くたばれ」って言われるこれまずいよまずいよ!
「い、いやいやちょっと落ち着きましょう皆さん」
「えーなに?今更しおらしくされてもかえさねーし」
「つかオレら怪我したから?慰謝料貰わないとなー」
「お前金持ってる?持ってなくても別にいーけどー、やっぱオレ男よか女がいいわ~」
「言えてる。じゃあホテル行くかホテ
「女性の前でそのような会話は関心しませんね?少し黙ってていただけますか、下種」
どこっ!と、大きなスイカを思いっきり叩いたみたいな音がして、私の両腕を掴んでいた悪いお兄さん二人が、同じタイミングで同じポーズで倒れる。
私もその道連れで一緒に地面に転がりそうになって・・・、って、さっきまで絡まれてた男の子?・・・え?
あれ、れ?もっと、さっきまでおどおどしたしゃべり方のおどおどした子だった気がするんだけど・・・?
ええと、とにかくその子が、私のお腹の辺りを後ろから支えて、転ばないようにキャッチしてくれた。
な、なに!?すごいです、この人ただものじゃありません!!
私がびっくりして飛びのいて、慌てて振り返ったら、男の子がにっこり笑った。
青みがかかった色の髪をしていて、すごく綺麗な、男なのに知性派美人女優!みたいな顔をしている。
げ、芸能人・・・?ま、まさかさっきの、撮影!?
じゃ、ない、ですよ!だって、あれ、今、この人が、倒しましたよね!?
あれ、私、助けようとしてたのに、助けられちゃった、みたいな、と、というか、最初からそんなに危なくなかった・・・?
で、でも、さっき、あんなに困ってて、本当に連れて行かれちゃいそうだったのに、い、一体これはどういう・・・。
私が困惑していたら、芸能人疑惑?が出るほどに綺麗な男の子は、突然私の手をぎゅっと握った。ええええ!?
「助けてくれてありがとうございます!僕、隣町の者なんですけど、貴女は?」
「えっ!?あっはいこの町の者です」
「そうでしたか。素晴らしいですね、僕はこの町が大好きですよ。今はお買い物の帰りで?」
「あ、はい、そうなんですけれど」
あ、あれ?やっぱり、私ちゃんとこの人助けてあげられたのかな?
ありがとうございます!って言ってくれてるから助けてあげられたってことなのかな・・・?
しかしこの人美人だなぁ。○○くんといい、美人って日本にいっぱいいるんですね・・・。すごい日本!
日本がすごいと再確認したところでできたら帰りたい。
あー、そろそろ準備しないと、煮込みが、煮込みが足りなく・・・
「じゃああれは貴女の荷物なのかな?」
「あ、はいそうです。じゃあ私ちょっと急ぎま」
「随分とたくさんですね。ご家族の皆さんの分ですか?」
「え!?あ、はいまぁ」
「こんなに一人で持つのは大変でしょう。お宅まで僕がお手伝い致しますよ」
何故に!?
「い、いえ、いいです大丈夫です」
「そんな・・・遠慮なさらないでください。僕は貴女に命を救われたようなものです、これくらい恩返しをさせてください」
「ええ!?いえいえそんな、私さっきあなたがぶん殴ってくれたから助かったんですよ」
「ぶん殴る?僕、そんなことしてませんよ。あの二人がいきなり倒れただけじゃないですか?」
え!?そうなの!?この人の仕業じゃなかったの!?
じゃああのスイカを叩いたような鈍い音は!?
「そ、そうなんですか・・・?あれ、でもさっき『少し黙ってていただけますか』とか言ってなかったですか」
「?僕、そんなの知りません。空耳じゃないですか?」
空耳・・・?あれ空耳だったの!?どれだけ病んでるの私の耳!大丈夫かな私の耳?
「貴女のお名前は?」
「は、あ、ええっと早苗と申します」
「東風谷早苗。素敵なお名前だ。僕が今まで聞いてきた名前の中で一番優しくて美しい響きです。貴女にぴったりだ」
へ、へんなひと!?
・・・あれ?今私、苗字言いましたっけ?
「あ、あの本当に一人で帰れますので」
「ですが・・・」
「とにかくお兄さんが無事でよかったですよ!最近この町も危険らしいので、気をつけて帰ってくださいね!」
私も早く帰りたいし!!
私が「それでは」と挨拶もそこそこにさっさと立ち去ろうとしたら、お兄さん(?)が「ああっ!」って急に大声をあげてびっくりした。
なに!?なんなの!?
「早苗、君は怪我をしているじゃないですか!やっぱり僕のせいですね。せめて荷物を運ばせてください」
何故そこまで荷物に固執する?・・・荷物フェチ!?
「あ、あのう・・・ここ、なんで、ええと、もう大丈夫です」
「わぁ!立派なお屋敷だ!ここが早苗の家なんですか?」
「い、いえ・・・ええと、ここは私の家ではなくて・・・」
「親戚の方の?」
「そ、それもちょっと違うような・・・」
「恋人?」
何で分かったのこの人!
私がびっくりして終始ニコニコ笑っている、おに・・・なのかな背も高いし。まさか、年下・・・?同い年・・・?名前聞いてないから呼びづらいな。
とにかく、お兄さん(仮)を見上げたら、お兄さんはもっとニッコリ華やかに笑って、「恋人なんですね!」と言った。
ああああもう早くお夕飯作らないといけないのにこんな家の前なんかで立ち話してるの○○くんに見られたらどんなに怒られるんでしょうか!
お兄さん荷物持ってくれたのは有難いですけど今日の私ちょっと忙しいんです!普段暇だけど今日は特別忙しいんです!
「え、ええとあの・・・私そろそろ・・・」
「彼氏のお名前は?」
どうしよう変な人についてこられちゃったー!!
「そんなの、なんでもいいですよ、エヘヘ別に面白くないですよ知っても」
「そんな!早苗のように心優しくて愛らしい女性と付き合っている男性がどのような名前なのか是非僕は知りたいですよ。
きっと君のように正義感が強くて立派な男性なのでしょうね?」
「あ、いやーそんな、私は全然ですけど、ええとはい、その人はとっても立派です」
「やっぱり喧嘩もお強くて?」
「そ、そうですねー、つ、強いんじゃないかなーと思いますけど」
「▲▲○○?」
お兄さんが、そうなんですか?と聞き返すみたいに、気軽に○○くんの名前をあげてくる。
ので、びっくりして私は「どぅえ!?」と言ってしまった。どぅえってなに私!!
私が「どぅえ!?」って言ってしまったことと何故か○○くんの名前が言う前に発覚してしまったことに驚いていたら、別に肯定していないのにお兄さんが楽しげに頷いた。
え、えええ・・・なんで知ってる、んですか・・・?
「▲▲○○、なんですねぇ」
「え、あ、あはは、な・・・なんで分かったんですか・・・?」
「だって、▲▲って苗字、あまりいらっしゃらないじゃないですか?それに彼のことは知り合いからよく聞いていますしね」
あ、そっか、知り合いに聞いてたのか。
私が納得していたら、お兄さんが私の食材を持ったままさっさと門を開けて家の中に入ってしまった。
え!?いやここ○○くんのお家ですから、私の所の神社なら大歓迎ですけど○○くんのお家ですからあんまり勝手に入り込んじゃだめなんじゃないかな・・・!?
お兄さんだめなんじゃないかな!?
私が慌ててお兄さんのこと追いかけたら、お兄さんがくるり、とフィギュアスケートの選手みたいに綺麗にこちらに振り返った。
光の加減で?分からないけれど、お兄さんの右側の目が、一瞬真っ赤に見えた気がする。
・・・なんだろう。怖い色なのに、私の知っている色のような。
私は急に寒気がして、お兄さんが私のほうを見て笑っている間、動けなくなってしまった。
○○くんのお家の側の道、誰も通らないし車だって通らない。誰も来ない。
まだ九月の初めだというのに、そのときはとても寒くて、動けないまま、鳥肌だけがたった。
「早苗、僕は君のような女の子が嫌いじゃありません。身の程知らずというか、無鉄砲というか。
君はあまり危ない目に遭って生きてきていないのでしょうね。でなければ、世間を知らない、自分を過信している、頭が酷く悪い。そのいずれか。
或いは、全てに該当、ですか?」
お兄さんが一歩前に出て、私の足にお兄さんの足がぶつかるくらい近くに寄られる。
肩をゆっくり掴まれて、首の辺りを撫でられた。もっと、鳥肌がたった。
目が開けっ放しだから、乾いていて痛いのに、目が閉じられない。声も出ない。
どうしようやっぱり外なんか出ちゃいけなかったんですね○○くんのいうこと聞かないからこんな色々怖い目に、ああでも今が一番怖いかもしれないどうしよう。
お兄さんの目玉がずっと赤く見えて血が中で流れて脈打っているのが見えるような気がした。
それはこの人の血であるかもしれないしこの人以外の血であるかもしれない。
絵の具ともインクとも違うその色は私の知らない何か取り返しのつかないものが流し込まれている。
ああ何かに似てると思えば神奈子様だ。神奈子様。神奈子様。いまごろなにしていらっしゃるんだろう?
ふと思う。似てるんじゃない。吸い込まれそうなこの色は、紛れもなく彼女のもの。もう、何回も見てきた神奈子様の、
このひとは、こわいひとだ。
「助けて頂けて嬉しかったですよ。とんだ馬鹿もいたものだと思って、ね。
早苗が警戒心もなく私についてきてくれたのは計画通りだったけれど。だって昔からそういう子だったでしょう?早苗は」
ゆっくりかんで含めるように言われて、朦朧してても褒められていないことだけはわかる。・・・神奈子様やめてくださいこれはなんのじょうだんですか
「男というのは大体において自分より劣っていて愚かな女を可愛いと思うものよ。
早苗はそういうところであの男を落としたのかしら?」
お兄さんが立っていた場所には、いつの間にか鮮やかな一人の神様がおられた。
「早苗、私は貴方たちのことを応援していたのだけれどね。ちょっとそういうわけにはいかなくなった。
時が来た、ということよ。分かる?東風谷早苗。
あの男はこれから邪魔になるでしょうね。貴女が幻想郷に行くとして、アレがそう簡単に承諾するとも思えないし。
このままにしておいたら、少し面倒なことになるのよ。
私は面倒が大嫌いでね、装飾的なものと遊び心にあふれた行いは愛しているけれど、余計なものに手を煩わされるのはとても嫌。
だから、どうか解って。少し貴女には眠っていてもらうことになる。
大丈夫、目覚める頃には全てを理解できていると思うわ」
ダメだ頭痛い、立っていられない、気持ち悪い死ぬかもしれない○○くんごめんなさい私○○くんに美味しいお夕飯作りたかったんです。
神奈子様の目以外のものも真っ赤に見える。
「ああ、色んなことがこれからすごく不幸になるわ。
運が悪い、と言ったほうが正しいかしら?あの男は運がなかった、何故なら早苗に関わったから。
早苗は少しよくない人間に好まれる傾向があるようね。○○のような」
なにいってるんですかかなこさま○○くんがよくないってどういうことですか。
私は歪む視界で神奈子様を睨みつける。
「○○くん、は」
「ん?」
「よくない人間なんかじゃ、ない」
「ふふっ」
思えば私が神奈子様に反抗したのはこれが初めてのことで笑い声が聞こえたけどもう睨んでいられない。
「何も出来ない役立たずの癖になんて可愛いんでしょう」
当たりが出ない。
幽霊だから日中は活動しないことにしたのか?
・・・いやそれはないだろう。何故なら朝、俺は確かにあの視線を感じた。
このままフェードアウトしてくれるのならまだ可愛げがあっていいけれど、アレがそんなに生易しいものであるとも思えない。
舐めるような視線。日ごとに増していく気配。しかし確信できたのは今日という不思議。掴もうとすればその気配も消える。
さっき早苗といたときや今はそれが感じられないし、気まぐれというか、この行為を楽しんでやっている感がある。
愉快犯。そんな奴、もしくは奴らが、陳腐な理由で自らの行動を制限したりするだろうか?
まだ解らないけれど、あちらには何か考えがあると読んでいた方がいいだろう。
そもそも、あっちの方から出てきてくれれば全てが解決するんだが。
何か俺に話があるんだろう?幽霊でも人間でも構わない、出てくればそれなりに相手をしてやる。
そこでやっと思い至る。
幽霊を追う、なんて今時の小学生でもやらないようなことを必死でしている自分に。
まだ幽霊かも分からないというのに?これで正体が人間だったら笑いものだ。
ああでもこっちだっていい加減腹に来てるんだよ。五分前にちらっと俺の後ろをかすめた気配から何の音沙汰もない。
・・・幽霊、ならまだいいかもしれない。
アレは、実体を持たないが故の俊敏さを持ち、そのくせ俺を見張るという意思はあるように感じるから手に負えない。
見張る、というより観察、か。どうにも遊ばれているのが気に食わない。
やはり幽霊にしては、人間味がありすぎるというか・・・しかしあんな濃い気配を持つ奴が幽霊なんてもっとナンセンスな話であるし。
・・・仕方ない、今日のところは諦めるか。
あんなに意気揚々と出てきたのに何の成果もあげられず帰るのは俺らしくないけど、あっちはもう今日は接触する気がないようだ。
とりあえず一晩アレを気にせずに過ごしてみて、それで相手がどう動くか見てみよう。
俺から興味を無くしもう現れないか、それでもまだ俺につきまとうか。
それで、相手に俺と話す意思があるのかどうか、確認できる・・・試してみても損はないだろう。
そう決めたからには、早苗に連絡をしなければ。今から帰ると。
が、携帯をポケットから取り出した途端、あっちの方からいきなり鳴り響いて驚いた。
見た事のない番号の着信。
真っ黒の沈んだ色合いのディスプレイに、白抜きで味気ない数字の羅列が光っている。
出るべきか?だけど、こんな番号、俺は知らない。
着信の間中、携帯電話が朗々と単音のメロディを歌い上げている。
手のひらの中でだらしなく震え続けていて、早く出ろ、と追い立てられるようだった。
一拍ほど間を置いてから、その小さな機械を耳に押し当てる。
震えは止まり、メロディは止み、代わりに俺の耳に、耳鳴りのような嫌な音が届いた。
「・・・もしもし?」
返事は無い。ただ、電話越しに、相手のいる場所の空気が伝わってくる。
不思議だった。そんなものに気が付いたことは今まで一度だってなかった。
これまでは気付かなかっただけで、電話というものは、相手のいる場所や息遣い、空気を伝えるものだったのだろうか?
暗い。冷たいようだ。埃に塗れたような古い、朽ちかけた建物の匂いが、しないはずなのに、今の俺には、少なくとも、絶対にしないはず。
なのに、匂いがする。今。今その香りは俺の鼻をつき、頭を痺れさせている。
俺がおかしくなっているのか、と最初は思った。
だが違う。俺はおかしくない。
電話だって、いる場所息遣いまたは空気なんて大それたものを伝えられるほど、立派な機械ではないはずだ。
ということは、答えはそんなに難しくは無い。
相手がおかしい。普通じゃない。この電話の向こうの、何か。
「誰だ」
空気が揺れる。恐らく向こうで、俺の電話を鳴らした相手は動いたのだ。
唇が乾いているのが急に気になりだして、俺は何度も自分の唇を舐める。
何の味もしない。舌が、少し荒れて、まったいらではない自分の皮膚をすべるだけだ。ああ、唇は、皮膚じゃないんだっけか。粘膜?
「君に三つ選択肢をあげる」
なんで俺がこいつに選択肢を『頂かなくては』ならないんだ?
向こうの誰かを、向こうの異様な誰かのことを、俺は一瞬にして嫌いになる。
幼い声。まだ少女だ。ただ、そんなに無邪気でもない。
意識して作ったような、不自然なほど穏やかで柔らかい声音、たった一言聞いただけなのに、反吐が出そうになる。
俺はこいつと間違いなく親しくなれないだろう。
俺は元々親しい人間を多く作れる性質でないけれど、どんなに人懐っこい、汝隣人を愛せが信条の博愛主義者でも、声を聞くたび吐き気を催す人間とは友達にはなれないはずだ。
そして俺は、決して人懐こくはなく、隣人を愛すつもりもないうえに、博愛主義者とは程遠い。
二言目は聞きたくなかった。
胃の中が大しけに見舞われた船のようにのたくっていて、今すぐに電話が切りたかった。
何故こんなに腹が立っているのか、自分でも理解しかねるほど腹が立っている。
「ひとつ、『▲▲○○であることを捨てる』。
別に名前を変えろと言ってるわけじゃないよ。あの子から離れろと言っているの。
それをするだけで君は大分、ただの高校生に近づける。私が保証するよ。
そして、取り返しのつかないことに足を突っ込むのを防げる。君は今殆ど入り込みかけているからね」
あの子とは誰だ?まさかこいつが俺につきまとっていたあの幽霊もどきなのだろうか?
と、ゆっくりと、言い聞かせるように喋る、少女の声を聞きながら思う。
「お前は、」
俺が話す前に、くすりという、微かなくせに大きく響く笑い声に遮られた。
自分のものであるはずの携帯電話が、酷く気味の悪いものに思えてくる。
伝わってくるものが重く暗く、俺にとってひたすら不快だ。
「君にこんな忠告をしてあげる義理はないけど、これは君の大切な女の子のためでもあるんだよ」
『きみのたいせつなおんなのこ』。
俺の傍を何台もの車が通り過ぎていく。
少し先の信号で緑色のような青が、大勢の人々に進んでいくよう指示を出していた。
俺の周りに冷たいのも暗いのも、感じさせるものは何もないはずなのに、相変わらず俺は埃の匂いに囚われ首の後ろが冷えて、ブラインドを下ろしたように視界が暗い。
受話器の向こうで笑っているらしい少女の口元がちらついた気がした。
たぶん気のせいだ。だって実際俺がいる場所というのは、人も車も大量に犇めき合う大通りの歩道のそれも真ん中で、誰も彼も笑っていやしない。
前ばかり見てどいつもこいつもひたすら歩いてる。
俺は自分の着ているシャツが汗で嫌に湿っているのに今気付いた。
それが暑さや一日中延々歩き続けたせいで発生した熱をただ逃がすために、体温を調節するために、かかれたものではないということにも。
声がかすれる。
「あいつに何かしたのか?」
「何かしようとしているのは君の方でしょう?」
理解できなかった苛立ちの理由を今理解する。
これのために俺は煮えくり返るほど苛立っていたんだ。ここで発せられる予定だったこの少女の発言のために。
俺は信じられないほどの憎悪のためにこんなにも汗をかいている。
「お前は誰だ」
「同じ質問を繰り返すのはあまりお利口じゃないよ」
「黙れ」
「ふたつ。『東風谷早苗を捨てる』。
これが一番簡単で穏便でお利口だね。まあ結局はさっきのと同じことなんだけど。
君はお話によると容姿もなかなか整っているみたいだし、別に彼女に固執しなくてもいいでしょう?何ならもっと君に見合う女性を用意してあげてもいいよ。
早苗は君を手助けするどころか、自分の身すら満足に守れない。
このままいけば、早苗は君の蒔いた種で、この世の理不尽な暴力を受け傷つくか、早苗自身が変化して、君に同化して暴力を良しとするようになるか、だよ。
それは君の望むところなの?彼女が何かで傷ついたり、または何かを傷つけるようになる事が?」
何が判る?お前に何が判るんだ、と俺は思う。
「君だってただの馬鹿じゃないはずだよね。
少し考えれば分かるでしょ?彼女の何処に、君の役に立つ要素があるっていうの?
君の何処に、彼女をまともに幸せに出来る要素があるっていうの?
君たちは住んでる場所が同じで異なっているんだよ。君の傍にいようと傷つく彼女を君は見ていたい?君によって不幸になっていく、東風谷早苗を」
だけど俺にも何が判るんだろう、とも、俺は思っている。
「・・・少しおしゃべりが過ぎたかな?最後の選択肢、いこうか。みっつ、
『東風谷早苗を私に寄越す』」
俺は何も分からないかもしれない。何も分かっていないとしよう。だが自分が歓迎できることと何が何でも拒みたいことぐらいの区別はつく。
「お前を殺す」
「私はね、早苗の事気に入っているんだよ。あの子は本当に可哀想で、とてもとても可愛い。ほんとうに世界が美しいと信じてるみたい」
「お前を殺す」
「ねぇ、○○。私に頂戴。
私のところなら、あの子も君の傍ほど不幸にならないと思うな。もともとあの子はこっち側の人間だし。
少なくとも今みたいに君のために何かしたいと頑張って酷い目に遭うこともなくなるだろうし、自分のあまりの役立たずっぷりに自己嫌悪に陥ることも無い」
「早苗は役立たずじゃない」
「君たちはお互いがお互いを庇い合うように決められてたりでもするの?
○○くんはよくない人間なんかじゃない、早苗は役立たずじゃない。
私は現実を見ないおばかさんが嫌いだよ」
「お前を殺す」
わざとらしく盛大に吐かれた溜息が、ざらざらとしたノイズになって俺の鼓膜を嬲る。
握り締めた携帯電話が汗でぬめって、力を入れすぎてそのまま砕けてしまいそうだ。
砕ければいいのに。そうしたら、俺はもうこいつの声なんて聞かなくて済むのだ。
「判らないなら私が教えてあげる。君はよくない人間。早苗は無類の役立たず」
俺はもう走り出している。
お前を殺すと繰り返していた気もするし早苗は役立たずじゃないと繰り返したのかもしれないし、全然他の事を口走っていたのかもしれない。
あるいは黙りこくっていたのかもしれない。向こうにいる奴のように。
音はしない。けれど、何度も何度も目の前に笑っている少女の、口元がちらつく。
端正なのがむかつく。裂けていて、異形で、妖怪みたいなら、俺はもう少し、ただ怒っているだけで済んだ。
もしかしたら、こいつの言うことはそう間違っていないかもしれない、なんて、考えたりせずに済んだ。
「早苗に何した」
「君は同じ事を繰り返してばかりだね」
「あの子に何かあったらお前を殺す」
「そんなに大事なら自分の目の届くところに置いてればいいでしょう。どうして守ってあげないの。
やっぱり君に早苗の傍にいる資格は無いよ」
「俺は、」
どうして守ってあげないんだろう?
「選択肢をもう一度復唱しようか」
「うるさい」
「『▲▲○○であることを捨てる』。私と君は一度たりとも会わずに済むね。早苗は自分から離れていく」
「電話切れよ」
「『東風谷早苗を捨てる』。捨てるなら早目がいいよ。君と早苗がどんな付き合いをしてきたかあまり知らないけど、早目がいい。
どうせあの子は違うところに行くし、もう会えないんだから」
「お前に何が判るんだよ」
「お言葉だけど君にも何が判るの?自分の何が?彼女の何が?
私はただ善良な第三者として客観的に君たちの行く末を警告してるだけじゃない。さっきから言ってるけど、もう二度と会うことはないんだよ?」
早く早く家に、早く早く早苗のところに
「最後の選択肢。『私に東風谷早苗を渡す』」
「誰が」
「君が」
「早苗はモノじゃない」
「その通り。君の早苗はモノじゃない。だから己が精神の安定のために彼女を利用するのは如何なものかと私は思うんだよね」
「利用してない」
「どうだか」
ただ俺たち好きあっているだけなのに何かと邪魔が多すぎる。
どうして俺がお前を好きでお前が俺を好きじゃいけないんだ。
俺がお前を守ってお前がただ笑っているだけのことが何故こんなにも成し難いのか。俺の家のドアの前で倒れている早苗が見える
「お前を殺す」
「君のそういう言動が彼女に要らない災難を齎すんじゃないのかな」
俺が呻いて奴が笑っている。
俺は奴が憎くて憎くて仕様が無い。
殺したいと真剣に願って目の前に突き出されたら殺す気でいる。たぶん殺す。
俺は『▲▲○○であることを捨てる』事は出来ない。
俺は携帯をポケットに突っ込んで更に走って、殺す殺すと何度も口走るけれど、俺が一番に殺さなくてはいけないのはもしかして俺かもしれないのだ。
どうしていつも守ってあげられないんだろう?俺は自分が怒っているのか悔やんでいるのか泣きたいのかすら判別がつかない。
「早苗、」
どうしていつもまもってあげられないんだろう?
★もうそろそろ終わりです。
言っておきますが神奈子様と諏訪子は早苗さん大好きですよ!俺も!
(未完)
11スレ目>>69 >>857
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最終更新:2010年05月10日 22:25