最近、○○が他の女と一緒にいる時の事ばかりが頭に浮かんでは消えていく。
「お嬢様はいつも御綺麗ですね」
何故?
「咲夜さん、今日もお疲れ様です」
そんな事を言うの?
「よお中国。 頑張ってるな。 差し入れ持ってきたけど食うか?」
どうして?
「小悪魔も少し休憩したらどうだ? 仕事は俺が代わりにやっとくから」
私以外の女を気にかけるの?
優しくするの?
褒めるの?
小さな嫉妬がやがて、大きな強迫観念となって私に襲い掛かってくる。
○○とほんの少しでも関わった女達が私の頭の中で融合し、1人の女になって私から○○を奪おうとする。
彼の心を私から離れさせようとする。
だから……
私は……
「どうして他の女を褒めたり、他の女に優しくしたりするの?」
パチュリーが無表情、冷たい視線で訊ねてくる。
まるで研ぎ澄ませた刃物のように、鋭い口調で俺の心に切りかかってくる。
「俺は別に……普通にしてるつもりだが」
「○○はいつもそうよね。 今までに私を褒めてくれた事があった? 私に優しくしてくれた事があった?」
当然褒めてもいるし優しくもしている。
でも、今は何を言っても無駄な気がした。
冷静に問い詰めているようでも、パチュリーは正気を失っている。
直感的にそう思った。
「この前魔理沙とアリスが来た時だって……2人と凄く楽しそうに話してた。 私と一緒にいてあんなに楽しそうにしてる事なんて無かったわ」
その言葉に、さすがに我慢できずに反論する。
「そんなこと無――」
だが、反論は言い切る前に遮られた。
「どうして私だけを見てくれないの!?」
パチュリーが珍しく声を荒げる。
「どうしたんだよいったい? 少し落ち着け。 今日のパチュリー変だぞ?」
「変?…そうよ!! ○○のせいで私は変わった!! 全部○○のせいよ!!」
声を荒げているというより、それはもう怒声だった。
喘息持ちで辛いだろうに、かすれた声で休みなく続ける。
「もうここで1人だけで本を読み続けるのは嫌なの!! ○○がいつも傍にいてくれなきゃ駄目なのよ!!」
溜め込んだ感情を吐露するパチュリーに、俺は罪悪感のようなものを感じ始めていた。
自分がもっと彼女を理解できていれば……。
彼女がどう思っているのか考えていれば……。
ズキリと胸が痛んだ。
「私はもう○○の物なのに……どうして○○は私の物になってくれないの……」
怒りは既に無くなり、怒声が嗚咽と懇願に変わっていた。
今、目の前にいるのは膨大な知識を持った魔女なんかじゃなくて、嫉妬と強迫観念に駆られ、ただ泣く事しかできない1人の女の子だった。
俯いて涙を流す彼女に、俺も自分の思いを言葉にする。
「俺は……お前を愛してる。 俺は好きだとか愛してるとか、そういうことはパチュリーにしか言わない。 解るよな?」
彼女は泣きながら俺の言葉に耳を傾けた。
「俺ももうパチュリーの物なんだから、下らない事で嫉妬なんかするなよ。 ずっと傍にいるから」
次の瞬間、突然パチュリーが抱きついてくる。
その体は驚くほど細くて、軽くて、俺は優しく抱き返した。
「もっと強く」
「?」
「もっと、壊れそうなぐらい強く抱いて頂戴」
「でも――」
「良いから、○○になら壊されても良いから。 お願い」
絶対に離さないという意思を示すように、彼女の華奢な体を強く抱きしめる。
パチュリーもそれに答えるように俺を抱き返してきた。
「○○……」
「ごめんなさい」
「へ?」
何を言ってるんだろう?
「やっぱり私、これだけじゃ満足できない。 だから……」
パチュリーが流麗に、俺が今まで聞いた事も無い言語で何かを唱える。
どんな詩よりも叙情的に、どんな歌よりも美しく詠みあげていく。
同時に、俺の体を紋様が走った。
それは苦痛と快楽が綯い交ぜになったようで、酷く嫌な感覚だった。
肉体から自分の意思が、力が抜けていくような……眠りにつく寸前のような心地良い感覚。
それでいて頭だけ起きているような、不気味な感覚に支配されていく。
どれだけ抗おうとしても眠りについた肉体は俺の意思を受け付けない。
腕の中にいるパチュリーの匂いも、感触も、徐々に遠ざかって行く。
「ごめんなさい」
そう聞こえたのを最後に、俺の世界が閉ざされていった。
そこはパチュリーしかいない世界。
でも、姿は見えるし声も聞こえるのに、自分から触れる事は出来ない世界。
2人だけの歪んだ楽園……。
一週間後の魔法図書館。
はて?
あの青年は何処へ行ったのだろう?
「パチュリー様、○○さんはどうしたんですか? 最近見ませんけど」
「○○には別の仕事を任せてあるから当分は帰ってこないと思うわ」
「えっと……そうなんですか」
別の仕事とは何だろう?
ここでの仕事といったら本の整理ぐらいしかない筈だが……。
まあ2人は恋人同士だし色々あるのだろう。
訝りながらも私は主を信じて仕事に戻った。
同日。
魔法図書館、隠し部屋。
「ごめんなさい。 ちょっと読書に夢中になって今日は来るのが遅れちゃったわ」
うなだれて椅子に腰掛けていた青年が顔を上げて微笑みかける。
彼は私の声だけ聞いてくれる。
彼は私だけのために笑ってくれる。
彼は私だけを見てくれる。
そう、私だけ……。
一見するとただの洗脳のようでも、ちゃんと自我は残っている。
心も、体も、私のものになっただけ。
「今日は何をしましょうか?」
訊ねても、微笑むだけで彼は何も答えない。
仕方がないので隣に座り本を開く。
解っている。
○○は壊れていくのだろう。
いずれ自我も崩壊して、本当に壊れてしまうのだろう。
でも、それでも良い。
何故なら、これで○○は私だけのものになったのだから。
そう考えると、彼が壊れていくのも嬉しい。
私はそっと、○○にキスをした。
動きたくても体は自由に動かない。
言いたい事は山ほどあるのに口も開かない。
見ている事しかできない。
パチュリーが俺のせいでどんどん壊れていく。
それがとても悲しかった。
だが、同時にそれが嬉しくもあった。
自分がそれほどまでに彼女に愛されているのだと実感できたから。
そう考えると、彼女が壊れていくのが嬉しかった。
いつか渡そう。
そう思って、肌身離さずシャツの胸ポケットに入れて持ち歩いていた安物の指環の軽い感触も、とっくに消えていた。
間違っているのは解っている。
けれど、もうどうでも良いような気がする。
愛し合っていることに変わりは無いのだから。
○○が
パチュリーが
壊れていく。
それは見ていて、愉快だった。
だけど、楽園の終わりはすぐそこまできていると、この館の主が紅茶を飲み干して笑っていたことを、
俺は
私は
まだ知らない。
────────────
○○の隣で私は本を開き、活字の中で過去を振り返る
奇妙な浅い眠りの中で、俺は過去の夢を見る
2人の始まりを……
記憶のページをめくり始める――
薄暗くてカビと埃の臭いが漂う図書館。
小悪魔は奥に本を取りに行っているから、今は2人きりだった。
その静かな空間に、○○の声はよく響いた。
「今何て言ったの?」
彼の言葉に耳を疑い、聞こえていたのに問い返してしまう。
内心動揺しているせいか、ただでさえ小さな声が余計に小さくなった。
でも、彼は決して聞き逃す事は無いだろう。
今までそうだったから……。
失敗した。
無視すれば良かった。
そう思った瞬間
「私はパチュリーさんが好きだと言ったんです」
○○が告白を繰り返した。
無駄な飾りは無しに、はっきりと想いをぶつけてくる。
そんな○○に私が返した言葉は
「そんな戯言を言われても困るんだけど」
自分でも驚くほど辛辣だった。
彼を傷つけたくない筈なのに、無心で言い続けた。
「今の○○は一時の感情に流されているだけ。 私への好意は恐らく友人としての物、あるいは一種の憧れを勘違いしているだけよ。
そんな勘違いで告白されても困るわ……。
いい? 現実はロマンチシズムに富んだ小説の世界じゃないの。 貴方のちょっとした気の迷いが恋愛に発展するわけないでしょ?
それに私は妖怪で、○○は人間。 その辺の事をよく考えてから物を言いなさい」
適当な事を言って誤魔化そうとした。
種族の違いなんて、彼はどうでも良いと思っているだろう。
今まで一緒に過ごしてきて、それなりに○○の事は理解できているつもりだ。
だから、本気で好きだと言ってくれているのも解っている……。
妖怪だとか、人間だとか、そんな事は関係なく私が好きだと。
でも、○○の想いを受け入れる事も、拒む事も出来ない。
私も○○が好きなのに……。
自分が何をしているのか解っている。
これは逃避だ。
ここには沢山の本があって、小悪魔がいて。
そして、少し前から○○が……私にはそれだけで充分だった。
彼の想いを受け入れても、拒んでも、その日常が遠くへ行ってしまうような気がした。
だから○○の告白に、はっきりした返事を返したく無かった。
私も好きだったって言えば良いのに。
ただの部下だって、○○の事なんか好きじゃないって言えば良いだけなのに、それで済むのに……。
苦悩する私に、○○が決断を迫る。
「私はちゃんと考えた上で言っています。 だから、誤魔化さないで返事を聞かせて下さい」
○○の声が、黙示の日に吹かれる角笛の音のように、何か怖ろしい物のように心を揺さぶる。
私は何でもない風を装いながら、内心では相当焦った。
いっそのこと返事は先送りにさせてもらおうかとも思った。
だけど、どこまでも真剣な○○を見て、私も自分の想いに正直になっても良いのかな?
と、そう思えた。
だから、最後の悪あがきで彼に幾つかの問い掛けをする。
「私、本ばっかり読んでて○○の相手なんてほとんどしないと思うけど?」
「それは知ってますし、本は私も好きですから大丈夫です。 読書や魔法研究の邪魔はしません」
「体も弱いし喘息持ちよ?」
「それも分かってます。 体調が悪い時は付きっ切りで看病します」
「○○よりもずっと年上だけど……」
「私は年上好きなんです」
「私も一応妖怪だから、ひょっとしたら人間だって食べるかも知れないわよ?」
「それは人が動物を食べるのと同じ事でしょう? そうだったとしても気にしませんし、パチュリーさんに食べられるなら本望です」
私はもう、逃げるのを止めた。
「分かったわ……実を言うと私も○○の事好きになってたの。 私達、付き合ってみましょうか?」
「本当ですか!?」
安堵と喜びの入り混じった笑みを浮かべる○○を見て、私はこれから、もっと○○を好きになれる、そう思った。
「これからは敬語は止めてちょうだい。 恋人なんだから」
あの頃の私は、自分がこんな事をするなんて思ってもいなかった
あれから共に過ごして、俺はパチュリーの事を解ったつもりで何も解っていなかった
大きくなり過ぎた○○への愛情はやがて、その大きさ故に歪み、ねじれ、私の心を蝕み……それは狂気へと形を変えていった――
これは罰だ、彼女が俺の行動をどう思っているかも考えずに、パチュリーを苦しめた俺への、砂糖漬けのように甘い拷問――
紅い悪魔は楽しそうに囁く
「さあ、次の手は? 夜は長いのよ? もっと足掻いて見せて? もっと楽しませて? もっと面白い物を見せて?」
まるでチェスでも指しているように、遊んでいるように繰り返し囁く
だが、自己満足と罪悪感で彩られた2人だけの世界に、その言葉は届かない
悪魔は、全く進展しない退屈なゲームにチェック・メイトをかけようとしていた
私は
俺は
そんな事は知りもしない
狂った2人は間違いだらけの悦びに恍惚としていた――――
あれから更に一週間が過ぎた。
○○さんがいなくなって丁度二週間。
どう考えてもおかしい。
本当にパチュリー様が仕事を任せるとしても、こんなに時間のかかる仕事の筈がない。
パチュリー様は○○さんの事が本当に好きだ。
常に一緒にいたいと思っている筈だ。
それなのに、今日も1人で平然と本を読んでいる。
何度かさり気なく○○さんの事を訊いてみたけれど、返事はいつも
「大丈夫」 「心配ない」 と、適当で奇妙な自信に満ちた物だった。
初めは何とも思わなかったが、私は徐々に違和感を感じていった。
そう、パチュリー様は○○さんの事を全く心配していないのだ。
それが余りにも異様で不気味だった。
二週間もの間、恋人から連絡すら無いというのに……。
どうしてそんなに平気な顔でいられるのだろう?
疑念は日増しに大きくなり、とうとう主への不信に至った。
パチュリー様の目を盗んでこっそり図書館を抜け出し、目的の人物を探す。
こういう事を相談出来るのはパチュリー様と対等の御方。
お嬢様ぐらいしかいない。
しかし、パチュリー様の使い魔に過ぎない私が、直接お嬢様に相談に行くのは気が引けた。
だから……。
「こんな所で何をしてるの?」
広間に差し掛かった時、急に背後から呼び止められた。
鋭い声に振り返ると、そこには目的の人物、十六夜咲夜が立っている。
「メイド長……」
「ど、どうしたのよいったい? そんな捨て犬みたいな顔で」
余程情けない顔をしていたんだろう。
咲夜さんは随分と驚いたようだった。
だが、そんな咲夜さんは関係無しに、私の口は急ぎ動いた。
「こんな事相談出来るのはメイド長しかいないんです。 何とか出来るのはたぶんお嬢様だけなんです。 だから、だから――」
「分かったから少し落ち着きなさい。 何言ってるのか分からないわ」
窘められて我に返り、数回深呼吸を繰り返す。
少し、冷静さが戻ってきた。
様子を見て咲夜さんが口を開く。
「落ち着いた? それで、そろそろ仕事をサボって、図書館を抜け出してまで私に会いに来た理由が知りたいのだけど?」
「実は……」
○○さんが行方不明な事、パチュリー様の様子がおかしい事、
私はこの二週間で積もりに積もった疑念を吐き出していった。
話を聞いて、咲夜さんは少し難しい顔をした後、
「分かった。 お嬢様には私から話しておくから」
そう言って、私を安心させる為か柔和な笑みを浮かべた。
その笑顔に少し救われたような気がした。
「それじゃ、パチュリー様にばれるといけないので私は図書館に戻ります」
「ええ。 その方が良いわね」
咲夜さんに頭を下げてから、私は図書館へ急いだ。
○○とパチュリー様がそんな事になっているなんて気付かなかった。
毎日ティータイムには必ず、パチュリー様にお茶をお持ちしていたというのに……。
確かにこのところ○○の姿を見ていなかったが、蔵書の整理が忙しくてお茶の時間にも仕事をしているのだとばかり思っていた。
パチュリー様の様子にも特に不審な点は見られなかったし、その程度の事を、いちいち気にもとめていなかった。
だが、小悪魔の話を聞いて、○○とパチュリー様が付き合いだしてからの図書館の様子を思い返してみて初めて気付く。
2人が付き合い始めた頃から、○○はあの時間には必ずパチュリー様の傍にいた。
それがこの二週間、○○はティータイムに1度も姿を現していない。
この変化にもっと早く気付くべきだったのに……。
○○とパチュリー様が恋仲になる以前の、
○○が紅魔館に来る以前の日常が余りに長過ぎて、むしろ2人が一緒にいる事の方が、私の中で非日常のようになってしまっていた。
慣れたつもりでも、心の何処かで新たな日常が不自然な物に感じられていた。
だから、こんな事にも気付かなかったんだろう……。
私はちょっとした自責を感じつつ、お嬢様へお持ちするお茶の用意を始める。
何気なく見た時計の針は、不吉にも13を指した。
時を刻んだ瞬間の音が呪いの慟哭の様に聞こえ、私の耳に不気味に残った。
軋んだ針の音はまるで、空想上の髑髏の死神が、大鎌を振り上げた音のように感じられた。
上質な紅茶の味と香りを楽しみながら、咲夜から、小悪魔に受けた相談についての話を聞く。
一通り話を聞いて、最初に口をついて出た言葉は、
「つまらない」
その一言だった。
「申し訳ありません。 小悪魔にはお嬢様に伝えると言ってしまいましたし、一応報告した方が宜しいかと思いましたので」
見当違いな咲夜の謝罪に何ともなしに答える。
「そういう意味で言ったんじゃないわよ。 とうとう使い魔に感付かれたか……パチェもツメが甘いわね」
がっかり、という風に呟き、チョコレートを1つ口に放り込む。
とても甘い筈なのに、気分のせいかやけに苦々しく感じる。
口の中に残る泥のように粘ついた感触が嫌になって紅茶で流し込んだ。
「要するに、お嬢様は初めから全てご存知だったと、そういうわけですか?」
「私はここの主なんだから知っていても不思議はないでしょ? パチェが○○に何をしたのか、これからあの2人がどうなるのかも見当は付いてるよ」
そう、バッドエンドだ。
○○は自我の崩壊を起こして肉人形と化し、それもいずれは腐って骨になる。
パチェは狂人にでもなって、それで終わりだ。
何のひねりもない悲劇的な結末。
あの2人は、これからずっと、そんなつまらない道化を演じるつもりなのだろう。
「もっと面白い展開を期待してたんだけどね……」
「いかが致しますか?」
咲夜の問いに少し考え込む。
○○が幻想郷に迷い込んだのも
最初にこの屋敷に辿り着いたのも
その流れ者に過ぎない○○を屋敷に置いたのも
本好きだというだけで図書館で仕事をさせたのも
そこでパチェと○○が出会い恋仲になったのも
全ては偶然と私の気紛れ。
そして、それは運命。
だとしたら、2人が今向かっている結末に行き着くのも……
そうとは思えなかった。
第一、そんな結末は私が望まない。
カップに残った紅茶を飲み干すと、私は立ち上がった。
「お嬢様?」
「こんな事する柄じゃないけど、パチェの所に行ってくるわ」
「行ってらっしゃいませ」
送り出す咲夜を背にして扉を開け、友人のもとへゆっくりと歩を進めた。
重い扉を開けて図書館の中に入ると、蔵書の余りの多さに改めて驚嘆した。
立ち並ぶ無数の本棚はまるで、主を守護する防壁のようだ。
ここは私の屋敷にあって私の物ではない場所。
パチェの、唯一無二の閉ざされたテリトリー……。
「あら、レミィがここにくるなんて珍しいわね。 何か用?」
私に気付いたパチェが声をかけてくる。
その態度には何ら不審な点は見られない。
だが、その目には確かに、魔女の釜の底のような暗く陰鬱な影があった。
「パチェ、単刀直入に言うわ。 ○○を解放しなさい」
「何のことかしら?」
そう言って微笑むパチェを見て、背中をひんやりとしたものが駆け巡る。
不味い。
精神を相当やられている。
「とぼけても無駄よ。 私に気付かれないとでも思ったの?」
「だったらどうだっていうの」
作り笑いが消え、暗く、冷たく私を睨む。
「○○は私の男よ。 レミリアには関係ないわ」
愛称ではなく、名前で私を呼ぶ。
それは明らかな敵意の表れだった。
「邪魔するなら力尽くでそれを解らせてあげるけど?」
スペルカードを出さない。
なのにパチェの殺気はより強く、魔力がより大きくなっていくのが分かる。
彼女は本気だ。
「私に勝てるとでも思ってるの?」
「やってみなきゃ分からないわ」
そのまま暫く睨み合いが続いた。
さながら龍と虎だ。
待っていれば引いてくれるかと思ったが、今のパチェは冷静な思考を完全に失っていた。
実力の差なんて分かっているでしょうに……。
ふと視線を逸らすと、小悪魔が訳も分からずおどおどとしていた。
それを見て、私はすっかり興がそがれてしまった。
少し考えて、試しにこちらから引いてみる。
「止めましょう……馬鹿馬鹿しい」
「えっ?」
パチェが呆気にとられた顔で私を見る。
「私は別に喧嘩しに来たわけじゃない。 少しだけ、私の話を聞く気はない?」
私の提案に彼女が視線で先を促す。
策にかかった。
疑似餌に食らいついた魚は、あとは釣り上げるだけだ。
「貴女が○○にどれだけ強力な魔法を使ったかまでは知らないけど、○○はこのままだと物言わぬ肉人形のまま死んで、腐敗して、骨になるだけ」
「生命維持はできてるわ」
「忘れたの? ○○は人間。 それも数十年で終わりよ」
○○の死を口に出しても、パチェの表情には何の変化も無かった。
まだ気付かないのか……。
「でもね、その前にもっと重要な事が起きるわ。 自我の崩壊よ」
「それは……」
パチェの態度に明らかな変化があった。
傷口を抉る様にその先を続ける。
「今のような状況に置かれて、ただの人間に過ぎない○○の精神はどれだけもつのかしら?」
「それでも……私は……」
揺れるパチェの心を、鋭い言葉の切っ先で更に切りつける。
「心が消えるっていう事は、彼の貴女に対する想いも消えるっていう事よ。 パチェはそれで良いの? ○○が本当の意味で死んでも。
それともパチェは外見だけ残ってればそれで良いの?」
この言葉が決定打となった。
「そんな事……無い……」
自らの過ちに気付いて泣き始めたパチェには、それ以上言葉は必要なかった。
「貴女の創った自分勝手な楽園は、今終わったのよ。 後は自分で考えなさい」
それだけ言ってパチェに背を向ける。
「どうして……?」
背後から投げかけられた問いに、悪魔的な笑みで答えた。
「友人の幸せの為、あとは……そうね。 退屈だったからかな?」
最後にそう言って図書館を後にした。
結局、第三者の私に出来るのはここまでだ。
パチェの言う通り、これは2人の問題なのだ。
こと、恋愛事に関しては。
強過ぎる愛情がその大きさ故に歪み、ねじれた。
それだけのこと。
やれる事はやった。
これから2人が、パチェがどんな道を選ぼうが知った事ではない。
だけど、願わくば
「幸せになって欲しいかな……」
そう呟き、咲夜が待つ自室へ向かう。
今、私が見たいのはハッピーエンドだった。
途中、少ない窓の1つへ目を向けると、赤みのかかった月が昇っていた。
部屋に戻ったらまず咲夜に紅茶を淹れてもらおう。
血を多めに入れてもらって、あの月の様に赤い紅茶を。
なんだか妙に疲れてしまった。
本当に、こういう事する柄じゃない……。
レミィが去った後も、私の心は揺れ続けていた。
○○を独占したい、○○に愛されていたい。
矛盾した2つの感情の狭間を、私の心は狂った時計の針の様に行き来した。
「パチュリー様? パチュリー様?」
心配そうに私を呼ぶ小悪魔の声も、何処か遠い木霊のようだった。
「悪いけど、本の片付けをお願い」
それだけ言って○○のもとへ急いだ。
怖かった。
○○がいなくなってしまいそうで。
今まで長い時を生きてきてこんな感情は初めてだった。
本だけが愛情を注ぐ対称だったから。
本は決していなくなったりしないから。
だから私は、○○を失うのが怖くて堪らなかった。
何も見えない世界で、彼女だけが心の拠り所だった。
何も聞こえない世界で、彼女の声だけが心に訴えかけてきた。
だけど、今はその姿も薄く、蜃気楼のようで
その声も遠く、幻聴のように通り過ぎていった。
ただ、泣いている事だけは分かった。
子供のように、俺を前にして泣きじゃくる。
「どうした?」
俺の声は届かなかった。
「何で泣いてるんだ?」
俺の口は言葉を紡いではくれなかった。
それでも、俺は……パチュリーを愛していた。
愛する人を泣き止ませたかった。
笑顔を見たかった。
だから……諦めずに呼び続けた――
○○の為の部屋、特にお気に入りの本と○○だけの部屋で、
彼を前にしても、涙は止め処なく流れた。
「ねえ○○。 私はどうしたら良いの?」
問いかけても彼は何も答えてはくれず、ただ微笑むだけだった。
「怖いの……○○を失うのが、怖くて堪らないのよ……」
心の中の時計の針は、より激しく、矛盾した感情の間で揺れた。
「○○」
彼に抱きつき、その胸に顔を埋めてただただ泣き続けた。
○○はそんな私に、何も言わず微笑んでくれる。
でも、これは違った。
偽りの笑顔。
今の○○は私が好きな○○じゃなかった。
だから余計に涙が溢れた。
○○をこんな風にしたのは私なのに……。
再び彼の胸に顔を埋めた時、頬に何か硬い物が当たった。
「?」
胸のポケットを弄る。
「指環……」
安物の宝石がついたちゃちな指環。
だけど、私はその指環に目を奪われた。
もしかして?
ひょっとしたら?
「○○? 何なのこれは! どういうことなの!?」
疑念と期待に駆られ本棚へ急ぐ。
目的の本を見つけると無我夢中でページをめくった。
お気に入りの本がどうなろうと知った事ではない。
ページが折れ、ぐしゃぐしゃになっても気にも留めなかった。
もっと深く知りたかった。
彼の想いを。
もう一度聞きたかった。
彼の言葉を。
目的のページを開いた私は、そこに記された言葉を急ぎ読み上げた。
あれほど激しく動いていたのに、心の揺れが止まっていた。
壊れた時計の様に、2つの感情を行き来していた針が、正しい時間を刻み始める。
『やっと面白くなった』
そんな声が何処かで聞こえたような気がした――
閉じた楽園に声が響き渡る。
それは、ある種の荘厳な宗教音楽のように聞こえた。
これは愛する人の歌声。
俺を現実へと引き戻す声。
「パチュリー……」
その祝福の賛美歌の中で、2人の歪んだ楽園は終わりを告げた――
「ぐっ……うぅ……」
久しく聞いた○○の声。
その声に、自分でも驚くほど安堵していた。
「どうかしたか?」
寝ぼけ交じりでとぼけて訊ねる彼に、私は泣きながら抱きついた。
それしかできなかった。
深く、強く、抱きつくことしか……。
いきなり抱きつかれて、少し面食らった気分だった。
「おいおい、どうしたんだよ?」
優しく訊ねる俺に、パチュリーが涙混じりに答える。
「ごめっ……なさ……ごめんっ……なさいっ……」
泣きじゃくる彼女の、顔にかかった髪を優しく掻きあげる。
「なんか俺、凄く悪い夢を見てた気がする」
「それは本当にあったこと。 全部私のせい……私……○○に酷い事した……」
「気にしなくて良いから。 悪いのは俺の方だ……ごめん。 もっとパチュリーの事、考えてあげてたら……」
「違う! ○○は悪くない! 私が勝手に――」
全て自分のせいだと言い張る。
痛々しく、かすれた声で謝り続ける。
俺はそんな彼女を見ていられなかった。
だから……。
泣きながら言い続ける彼女に、そんな事はどうでも良いのだと分からせる為に、キスをした。
優しく、深く。
口内に舌を侵入させ、貪欲に愛する人を求める。
「んっ……ふぁ……ぁ……」
「もう良いかな? 今ここに俺がいる、それが答えなんだろ?」
そう問うた俺に、パチュリーが頷き、熱を持った目で問い返してくる。
「あの指環は?」
「パチュリーにいつか渡そうと思って持ち歩いてたんだけど、見付かっちゃったか……」
悪戯を見付かった子供のように言う俺を、パチュリーはじっとりと睨んだ。
「あれが無かったらたぶん、○○はまだ戻ってきてないわよ?」
「そうか……こんな時でなんだけど、結婚しよう。 愛してる。 永遠なんてこの世に存在しないかも知れない、でも、それでも君と、可能な限り一緒にいたい。」
「喜んで」
その答えを合図に、俺達はどちらからともなく、再び深い口付けを交わす。
唇を離した時に余韻を引く銀の糸すら、欲望を増徴させる道具に過ぎなかった。
その長く保たれた唾液は蜘蛛の糸。
そこに巣食う魔物は2人の理性を捕らえ、食らい尽くし、情欲の世界へと誘う。
お互いがお互いを求め、2人の舌が互いの口内を蹂躙していく。
さながらアダムとイヴを楽園の外へ導く蛇のように、舌は暴れ、踊っていた。
「あっ……んちゅ……うむぅ……ふぅ……」
「パチュリー……」
「もっと」
「?」
「まだ……足りないから……もっとして……」
椅子が倒れ、本は軽い音をたてて床に落ちた。
それでもパチュリーの手のひらには、しっかりと婚約指環が握られていた。
結婚式は紅魔館で執り行われる事となった。
この屋敷に教会なんてある訳はないが、俺達にはそんな場所よりも余程お誂え向きな式場だ。
「さすがに緊張するな」
誰にともなく呟く。
窓の外を見ると、日が沈み、丁度月が顔を出す頃合。
式の始まりは月が昇った時、という何ともアバウトなものだった。
神父役と参列者達に少し不安を抱きながら、鏡で最終チェックを済ませて控え室を出た。
純白のドレスは妙に気恥ずかしかったけれど、今日○○と結ばれる。
そう思うだけで私の心は喜びで満たされ、恥ずかしさなんてどうでも良くなった。
「お綺麗ですよ、パチュリー様」
小悪魔が微笑みかけてくる。
「ありがとう」
誤った道を選びそうにもなったけど、こうしてこの日を迎えられた事が嬉しかった。
「この世のあらゆる書物も、おまえに幸福をもたらしはしない、か……」
誰にともなく呟く。
「何ですかそれ?」
不思議そうに訊ねる小悪魔に、皮肉交じりに話す。
「ヘルマン・ヘッセとかいう外の文学者の詩の一文よ。 前に○○がこの人の詩集を読んでたから
気になって私も読んでみたんだけど、その中の書物って題の詩の書き出しがそれだったわ」
「なるほど」
そう言って名前通り小悪魔的な笑みを浮かべる小悪魔に少し腹が立ったが、その反応には納得できた。
昔の私なら……○○と出会う前の私だったらこんな言葉は一笑に伏しただろう。
でも今は、そうなのかも知れないと思えた。
確かに私は、本以外で幸福を見つけたのだから。
「これからも○○さんにいっぱい幸せにしてもらって下さい」
「言われなくてもそのつもりよ」
「あっ!! パチュリー様、そろそろ時間です」
席を立ち、小悪魔と共に部屋を後にして、式場へ向かう。
渋々ながら神父役を引き受けてくれた友人のもとへ。
将来を誓い合う○○のもとへ。
楽しみはその時までとっておこう。
そう思い、パチュリーのドレス姿を事前に見なかった事を少し後悔する。
フラワーガールに任命されたフランドールお嬢様の花をまく可愛らしさも何のその。
小悪魔にエスコートされた新婦の入場と共に、
俺は純白の衣装に身を包まれたパチュリーに目を奪われ、大分惚けた顔をしていた。
「○○? しっかりしなさい!」
「あ?……はっ、はい!」
レミリアお嬢様に小声で窘められ我に返る。
不規則に花びらの並ぶ中央通路を歩き終え、パチュリーが隣に来ると余計に、俺の心臓は早鐘のように鳴った。
当然の如く賛美歌斉唱や聖書の朗読は省略され、主役が揃ったところでお嬢様がいきなり宣誓を尋ね始める。
尤も、それはお嬢様が適当にアレンジを加えた物で、吸血鬼らしさのある神への誓いとはとても呼べないような代物だったが……。
俺とパチュリーは誓い合い。
式はついに、メインイベントを迎えた。
「それでは、誓いのキスを」
緊張し、震える手でパチュリーのヴェールを上げる。
だが、その下のパチュリーの幸せそうな表情を見て、俺の緊張は何処かへ消えてしまった。
「○○……」
「パチュリー」
互いの名を呼び合い、俺達は誓いの口付けを交わす。
それと同時に上がる参列者達の歓声、幽霊楽団の奏でる風変わりな結婚行進曲。
大きな祝福の音の嵐の中で、必要最低限の短過ぎる挙式は幕を下ろし始める。
私と○○の2人きりになった式場で少し休憩。
他の皆は既に外に出て、私達を待ち構えている。
「あとはブーケ・トスだけだな」
そう言ってホッとした様子の○○に釘を刺す。
「だけってなに? それも結婚式の内よ」
そう聞いた途端彼は再び緊張し始め、少し顔が強張ったようだった。
「そんな顔しない。 私たちの結婚式なんだから」
「そう、だな」
緊張しながらの不器用な笑顔と共に差し出された○○の手に、自分の手を乗せる。
「じゃあ行こうか」
「ええ」
私達は参列者達のもとへ歩を進める。
それだけじゃない。
私達はこれからずっと、2人で歩んで行くのだ。
表に出るとそこは、ブーケを狙う参列者達の殺気によってまるで戦場のようだった。
主役の私達なんてお構い無しだ。
それでも、
レミィは
フランは
咲夜は
小悪魔は
美鈴は
紅魔館の皆は私達を見ていた……前言撤回。
フランは私達よりブーケの方に関心があるみたいだ。
興味津津で私の手元を見ている。
でも、それで充分だった。
幸福の絶頂の中で、この挙式の終わりを天へと投げ打つ。
我先にと手を伸ばす人々の上で、紅い月光の下で、ブーケは踊った。
ちなみに……披露宴、というより式後の宴会で……
「○○、パチュリーの事泣かせたりしちゃ駄目だぜ」
「魔理沙には言われたくない。 いつも勝手に本持って行きやがって。 むしろパチュリーを泣かせてるのはお前だ。 というかそこの霊夢!!
お前さっきから遠慮無しに飲み食いしてるがあのご祝儀は何だよ!? 綺麗な石って……貝殻って……」
「ここにくる途中、湖に落ちてたから拾ったの。 あんたに払うお金なんかないわよ!
結婚式は普通に考えれば家の神社でやるべきものなのにそれを……
出席しただけありがたく思いなさい。 だいたいご祝儀持ってきたのなんて数えるぐらいしかいないじゃない」
「あんなのなら持って来ない方がましだ!! だいたいお前の神社で結婚式なんてやったらとんでもない額請求するだろ?」
「花婿さぁーん。 ちゃんと飲んでる?」
「ちょっ!? す、萃香ちゃん!? いきなり抱きつかないでよ! 痛いって! 角当たってるから!!」
「良いのがあるから一緒に飲もうよ」
「テキーラの有名銘柄? 何でこんな物が……」
「私が持ってきたのよ」
「紫さん!! 何てことしてくれるんですか!!」
「あら、お気に召さなかった? ○○は外から来た人間だから外のお酒のが好きだと思ったんだけど……やっぱりスピリタスの方が良かったかしら」
「それを持って来なかった事には感謝します……」
「さあ飲もー!」
「や、止めて萃香ちゃん。 お願いだからさ。 ラッパ飲みは無理だよ」
「大丈夫だって」
「駄目だこの人たち……パ、パチュリ~助けて」
「……知らない」
という感じに、○○は皆と随分楽しそうにしていたから放っておいた。
新婚旅行は無かった。
私達にそれは、必要なかったから。
特に旅行に向いている場所があるわけでもなかったし、行きたい所も無かった。
この図書館が2人の居場所で、本の傍こそが最も居心地の良い場所なのだ。
のんびりと本を読んで過ごすのが1番良い。
一緒にいられるだけで、他には何も要らない。
「私は○○のものよ。 ねえ、○○は?」
悲劇の前と同じ問いかけに、彼もあの時と変わらず、同じ答えをくれる。
その返事に嬉しくなって、私は隣に座る○○の肩に、頭を預けた。
彼に出会うまで、独りが寂しいなんて思わなかった。
でも、今は……
○○がいつも傍にいてくれる。
○○がずっと一緒でいてくれる。
自己満足のための、偽りの人形なんかじゃなくて、本当の○○が。
私の好きな、私を好きでいてくれる○○が。
私は1人じゃない。
それはとても……幸せだった。
だから私は、彼を失わない為に、考えていた計画を実行に移す事にした。
パチュリーの問いは、あの時のように涙に濡れたものではなく、問いというよりは確認に近いものだった。
その言葉はまるで、質の良い柔らかなベルベットのように俺の耳を撫でた。
彼女への気持ちは変わらない。
むしろ、その想いは以前よりも強かった。
だから、
「俺もパチュリーの物だ」
迷う事無くそう答えた。
俺の答えを聞いて、嬉しそうに頭を預けてきたパチュリーの髪を優しく撫でる。
それを彼女はくすぐったそうにしていた。
まさかあの時、パチュリーがあんな事を考えていたなんて、夢にも思わなかった……。
結婚式からもう一ヶ月か。
新婚生活は順風満帆その物だ。
今日はパチュリーと小悪魔は何か重要な魔導書を取りに行くとかで図書館の奥に消えてしまった。
俺は手伝いを断固拒否された事を不審に思いつつも、仕方ないので
適当な本を読みながら、2人が戻ってくるのを待っている。
「なんだ、○○だけか? 奥さんはどうしたんだ?」
唐突な声に顔を上げると、目の前に白黒の少女が立っていた。
「魔理沙……またうちの本を盗みに来たのか?」
「盗むなんて人聞きの悪い事を言うな!! 借りるだけだ!!」
屁理屈で弁解する魔理沙に、事前に作っておいた物を差し出す。
「何だこれ?」
「お前専用の貸し出しカードだ。 俺もパチュリーも寛容だから期限は一年にしてやる」
カードを受け取りながら、魔理沙は酷く気まずそうに苦笑した。
「わざわざ作ってもらって悪いんだが……たぶん意味無いぜ? 期限なんて守る気ないし」
「折角作ったのにそんな正直に言うなよ……」
そんなやりとりをしていると、奥から重なる足音と話し声が聞こえてきた。
「さすがにこれだけあると重いわね」
「パチュリー様大丈夫ですか? やっぱり旦那様にも手伝ってもらった方が……」
「これぐらい平気よ。 ○○に頼んでもし感付かれて逃げられでもしたらどうするつもり?」
「それはそうですけど」
感付かれるとか逃げられるとか……どういう意味だ?
「ふう、ただいま○○。 あら魔理沙、来てたの?」
思索に耽る俺を余所に、大量の本を抱えて戻ってきたパチュリーは魔理沙と話し始めた。
「どうしたんだパチュリー? そんなに本抱えて」
「初歩的な魔導書をあるだけ持ってきたの。 使う事なんて滅多になくて奥に押し込めてたから探すのに苦労したわ」
そんな物何に使うんだ?
パチュリーには必要ないんじゃ――。
俺の頭に疑問が浮かんだのと同時、
「何に使うんだ?」
と、魔理沙が尋ねた。
「○○に魔法を教えようと思って」
「ええ!?」
「……」
パチュリーの言葉に魔理沙が驚きの声を上げ、余りの衝撃に思考が停止した俺は言葉を失う。
我に返ると、俺は訳も分からずに抗議した。
「ちょっと待て!! いきなり何言い出すんだよ!? 無茶だって!!」
「私はたかだか数十年で○○に死んでほしくないの! 私のために魔法使いになってちょうだい!」
それっきり黙り込む俺たち。
夫婦喧嘩は犬も食わないと言うが、本来の意味ではなく言葉通りに
「邪魔なようだから私はこの辺で失礼するぜ。 じ、じゃあな」
などと言って、魔理沙は盗る物はしっかり盗ってそそくさと帰ってしまった。
途端にパチュリーが沈黙を破る。
「ねえ、○○は私を置いて先に逝くつもりなの? 一緒にいてくれるって……傍にいてくれるって言ったじゃない! あれは嘘なの!?」
問い質すパチュリーに、俺は何も言い返せなくなってしまった。
その言葉と気持ちに、嘘偽りは無いのだから。
仕方ない、無謀な挑戦だが頑張ってみるか。
これも愛する妻の為……そう心の中で自分に言い聞かせ、覚悟を決める。
「嘘じゃない。 分かったよ……で、何から始めればいいんだ?」
俺がそう言うと、パチュリーが笑顔で本の山から一冊を取り出す。
「まずはこれから始めましょう。 いずれは得意なのを重点的に鍛えていきたいんだけど、どうせならあんまり見た事の無い類いの物が良いわね。
召喚魔法とか身体能力強化とか――」
パチュリーは熱心に語りながら、新しいオモチャを買ってもらった子供のように、嬉しそうに本の山をごそごそと漁りだした。
何か不安だ。
「落ち着いて下さいパチュリー様! 旦那様は逃げないみたいですから!」
とりあえず今日のパチュリーの体調は絶好調のようだった。
徐々に熱を上げていくパチュリーは手近な本棚からも本を取り出し始める。
「最終的にはこの辺りが良いかしら」
そういって差し出された古めかしい本に、俺は首を傾げた。
「何だこれ?」
「レメゲトンだけど」
題を聞いた瞬間、勝てる見込みの無いゲームに全財産をBETしたような気分になった。
パチュリーは今、俺が1から始めるド素人だという事を忘れてるんじゃないだろうか?
「いきなりそんな有名所を出されても困るんだが……。 最終目標はいいから基礎的な事から教えてくれ」
「ごめんなさい、熱くなり過ぎたわ。 それじゃあさっきも言ったように最初はこれから始めましょう。 割と簡単だから安心して。 まず――」
パチュリーは魔導書の内容だとか、どういった言語で書いてあるとか、鍵がどうのなど説明してくれているが、
それで俺に解った事は、読めるようになるまで相当苦労するという事だけだった。
とりあえず外の魔導書を選択してくれた事にだけ感謝する。
元々は外の世界にあった物だと思うと、少しはなんとかなりそうな気がした。
あくまで少しだし、鍵やら何やらで大変そうだが……。
しかし、本当に前途多難で、先行き不安だ……。
「ちょっと○○聞いてるの? ○○?」
~エピローグ~
過去の物語は○○の目覚めの兆候と共に薄れて行く。
「あれからも色んな事があったね」
そう呟くと、彼が小さな呻き声を上げた。
聞こえたのだろうか?
私は本を閉じ、もうすぐ居眠りから起きるであろう○○の寝顔を眺めた――
まどろみの中の追憶から、覚醒と共に、意識は現在へと引き戻される。
どうやら座ったまま寝ていたようだ。
目が覚めるのと同時に、図書館に充満する独特な匂いが鼻を突いた。
でも、この匂いは嫌いじゃない。
これは、この図書館と本たちが歩んできた年月の香り。
それは、俺達が歩んできた年月でもあった。
「○○? 起きたの?」
「ああ……」
顔を横に向けると、椅子に座ったパチュリーが本を膝に置いてこっちを見ている。
優しい表情だった。
「昔の夢を見てたよ」
「奇遇ね。 私も○○が寝てる間、昔の事を思い出してたの。 告白された時から今までの事」
「不思議だな……2人共、同じ時に昔を振り返るなんて、やっぱり夫婦だから気が合うのかな?」
俺がそう言うとパチュリーは可笑しそうに笑った。
「そうかもね」
「何だよ。 笑う事無いだろ?」
文句を言いつつ、俺も自然と笑みが浮かんだ。
2人で、過去と現在を思い、笑い合う。
「愛してるよ、パチュリー」
「私も」
どちらからともなく、唇が触れるだけの軽いキスをする。
「はぁ……。 御2人とも、いったいいつまで新婚気分でいるおつもりですか?」
唇が離れるのとほぼ同時、溜息交じりの小悪魔の声が聞こえてきた。
「たぶん死ぬまで」
俺の返答に、小悪魔はうんざりした顔で抗議する。
「勘弁して下さい……少しは見せつけられる方の身にもなって下さいよ!! 毎日毎日イチャイチャし過ぎです!!」
「実害は無いんだから良いでしょ? それとも貴女は私達に夫婦喧嘩でもして図書館に不穏な空気を流せって言うのかしら」
「そこまでは言いませんが私の心に実害はありまくりです」
「それぐらい我慢してちょうだい」
言い合うパチュリーと小悪魔に、俺は苦笑を浮かべた。
そこにあるのはいつも通りの日常だ。
パチュリーと小悪魔と3人で過ごす、掛け値なしに幸福で、当たり前の日常。
今日は少し、この2人は虫の居所が悪いみたいだが。
それでも、幸せな事に変わりは無い。
「○○?」
1人感慨に浸っている俺に、棘のある感じでパチュリーが呼びかける。
「何だ? 結婚記念日のプレゼントに欲しい物でもあるのか? 分かってると思うが高いのは買ってやれないぞ」
冗談交じりで言った俺に、パチュリーはちょっと怖い顔をした。
「違うわよ。 ○○も小悪魔に何か言ってやってちょうだい!
でもそうね……記念日は3人でのんびり過ごしたいかな。 ワインなんか開けて、本を読みながら」
「パチュリー様……」
「当然でしょ?」
「あの、その……先程はすみません」
小悪魔は申し訳なさそうに、ちょっと照れながら謝罪した。
微笑ましい光景を見て、物の入手を心配しつつ俺も口を開く。
「じゃあそれで決まりだな。 ワインが問題だが」
「レミィに言えば何本か用意してくれると思うわ」
とりあえずワインはなんとかなりそうだが、同時に別の心配事が浮上した。
あの享楽的なお嬢様の事だ……。
「本当に大丈夫かな……お嬢様の事だから、記念日を理由にパーティーとか開いたりしないか?」
「それは心配しなくて良いんじゃない? もしパーティーを開いたとしても、私達がいなくたって向こうは向こうで勝手に盛り上がるだろうし」
「それもそうか」
「記念日、楽しみですねー」
3人で談笑しながら、俺は居眠りする前に読み終えた、テーブルの上の本を閉じる。
それは同時に、物語の終わりを意味していた。
「○○。 これから先もずっと……一緒に記念日を祝おうね」
先に死なないで欲しい、という意味が込められているであろうパチュリーの言葉に
「時の許す限り」
そう答えた。
時の流れは止められない。
いつ死ぬかなんて……分からない。
俺の返答に、パチュリーは複雑な表情をした後、
「私達は例え死んだとしても一緒なんだから」
そう言って背筋の凍るような微笑みを浮かべた。
どうやら俺は、先に死んでもあの手この手でパチュリーに三途の川を渡らせてもらえなさそうだ。
そう思った瞬間、蜜のように甘い誘惑が俺の心を弄る。
そこまで想われてるなら、もう世の理なんてどうでもいいや。
どんな手を使ってでも、死んでも一緒にいよう。
どんなものにもいずれ終わりは訪れる。
でも、彼女はそんな前触れなんか消してくれる。
「まあ、それもありかな」
苦笑混じりに呟いた俺に、パチュリーが抱きついてくる。
「大好き」
小悪魔は抱き合う俺達を見て、微笑んでいた。
こうして追憶の物語が終わり、読み終えられた本は長い眠りにつく。
いつかまた、俺が
いつかまた、私が
過去を思い返すその日まで……。
「乾杯」
「乾杯」
「乾杯」
全ては三つのグラスの赤に吸い込まれていった――――
The End
10スレ目>>96、>>286
───────────────────────────────────────────────────────────
~Day Of The Scarlet Halloween~
図書館へ戻る為に廊下を歩いていると、聞き慣れない三つの声に呼び止められた。
「お菓子くれなきゃいたずらするぞーー!」
振り向いた視線の先には、両手をつきだしてお菓子を催促する3人の女の子がいる。
どうやら妖精の様だが、この屋敷では見ない顔だ。
ストレートのロング、縦ロール、セミロング……いや、これはセミショートというやつか?
幻想郷の女性の法則なのか、この子達も他の例に漏れず、揃いも揃って可愛らしい。
ただ、小さ過ぎるのが難点か。
人間で、尚且つもう少し年齢を重ねれば、良い女に成長するだろう。
他の妖怪でも成長はするのだろうか?
好みを言うなら、ロングの子。
だが、この子がどれだけ良い女になっても、パチュリーを超える事は……
「無いな」
考えた事の最後だけ、無意識に口を衝いて出た。
前述した通りの意味なのだが、そんな意を彼女達が汲み取れる筈も無く、
「え~っ、無いの?」
「今日はハロウィンとか言う日なんでしょ?」
等、先の発言に対する返答だと勘違いした非難が飛んでくる。
あながち間違っていないせいもあり、苦笑しか出てこない。
「悪いな。 俺はお菓子を持ってないけど、厨房に行けばもらえるかもしれない」
どうやって美鈴がいる門を抜けてきたのか等、幾つかの疑問はあったが、それは口にはしない。
失礼な事を思ってしまった侘びでもあったが、何より、特に興味も無かったからだ。
最大の疑問は、パチュリーに訊けば解決するだろう。
道順を教えてやると、三妖精は軽く礼を言って駆け出し、廊下の奥へと消えた。
咲夜さんに、お菓子ではなくナイフをもらう可能性は、一応侵入者だという事もあって、あえて伏せておく。
良心の呵責を感じはしたが、彼女達の無事を祈りつつ、俺も再び図書館に向かって歩き出そうと、進行方向へ向き直すと
「見ましたよ~」
怪しい笑みを浮かべた小悪魔の顔が目の前にあった。
「何をだ?」
「ふふふ。 全部です」
真剣な問いに返ってくる、はぐらかした答え。
明らかに楽しんでるな……。
嫌な予感を感じつつ、問答を続ける。
「具体的には?」
「あの子達を見ながら、何か考え事をしてましたね?」
「……」
勘というのは、どうして悪い方ばかり当たる物なんだろう。
確信に満ちた物言いに、しらを切り通すのは無理だと判断して言い訳を始める。
「ただ、成長すれば良い女になるだろうなと思っただけだ」
「思ったんですね?」
「男っていうのは、そういう事を少なからず考えちまうものなんだ。 だから……頼むから黙っててくれ!! 後生だ!!」
小悪魔は、余計に口をにんまりさせた。
「髪の長い子を特に見てましたね」
「ああ。 まあな……」
「パチュリー様も綺麗なロングヘアーですよね。 ひょっとして旦那様は、ロングの女性なら誰でも良いのでは?」
突拍子もない事を言う。
髪の長さだけで女性を好きになるような事はない。
そういった輩はいるだろうが、少なくとも俺は違う。
声色から察するに、小悪魔自身もその事は良く解っている様子だった。
「馬鹿言うなよ。 短いよりは長い方が好きなだけだ。 さっきのは本当に子供だし、お前もロングだろ」
「じゃあ、私も守備範囲に入ったり?」
「当然髪の事は抜きにして言うが、それは無い――」
続きの、『とは言い切れない』という言葉は、
「冗談ですよ。 からかったりしてすみませんでした」
小悪魔によって、事前に用意されていた答えに掻き消された。
確かに、この女性は良い女だと思う。
だが、あの妖精達の事もそうだが、そう思うだけだ。
言い訳の続きに聞こえるかもしれないが、当然、抱く感情は恋慕や愛情とはかけ離れている。
理解され難いのかも知れないが。
「行動も口も災いの元です。 解っていると思いますが、もう少し気をつけて下さい。 パチュリー様も今なら、旦那様にとって自分が唯一無二だと解っているでしょうけど」
「悪かった。 気をつけるよ」
宥める様な小悪魔に素直に謝り、2人で図書館に向かいながら、問答は続いていた。
今度は、不安を内包しない世間話程度のもの。
「そういえば、小悪魔が図書館を出るなんて珍しいな」
「帰りが遅いから早く連れ戻して来いと、パチュリー様に言われたんですよ。 寂しいんじゃないですか?」
「それは嬉しい限りだが、同じ屋敷の中なのに堪え性無さ過ぎだな。 ところで、さっきのは何処から見てたんだ? 廊下にはいなかったと思うが」
「ちゃんといましたよ。 上空に」
そう言って小悪魔はぱたぱたと羽ばたいた。
薄暗い廊下の壁に映った影は大きく、ぞっとするような翼を広げていた。
気がつくと、もう図書館は目と鼻の先。
彼女は扉に手をかけると、最後に、
「今日はハロウィンですね」
呪文の様にそう唱え、大きな菓子箱の蓋を開けた――
詰まらない内容の本を半分ほど読み終えた時、区切りの悪いところで扉が開いた。
その音を合図に、栞を挟んで本を閉じ、顔を上げた。
これを読み続けるよりも、大事な事がある。
○○との会話だ。
「連れて来ましたよ」
「ご苦労様。 ○○、少し遅かったわね」
「そうでもないと思うが」
「質問だけにしては、時間がかかり過ぎだと思うけど?」
「ちょっと話し込んじゃったし、思わぬ珍客に出くわしたんだ」
数日前、レミィがハロウィンの夜はパーティーを開くと言い出した。
待っていればいつも通り、咲夜が呼びに来るのだから必要は無いのだけれど
○○はわざわざ咲夜に、本当に今夜開くのか、何時から始めるのか等を訊きに行ったのだ。
「珍客?」
「妖精だよ。 お菓子をくれとね」
○○が新しい記憶を思い起こし、薄い笑みを浮かべる。
それの何処が面白いのだろう?
「確かにメイド以外の妖精は珍客かも知れないけど、ハロウィンなんだからおかしい事じゃないでしょ」
「いや、何でハロウィンの事を知ってるのかなあ、と」
「なるほど……」
彼の言いたい事は、大体の予想がついた。
『何故、この屋敷の住人でもないのに外界の文化を知っているのか』
十中八九これだろう。
幻想郷に住まう者達には、ハロウィンは決して身近なものでは無い。
実際に、今まで紅魔館にお菓子をもらいに来る者などいなかった。
私は、○○に答えに近いヒントを与える。
「いつだったか、私達に外の世界のハロウィンの事を話したでしょ」
「ああ」
「その時、入り込んだネズミが盗み聞きしていた可能性は?」
言葉の意味に気付いた○○は、微笑を苦笑に変えた。
してやられた、といった顔だ。
「そういう事か。 すっかり失念していた」
「魔理沙は来る度にわざわざ挨拶する訳じゃない。 むしろ、顔を見せる方が少ないわよ。
彼女がその話を持ち帰って、誰かに話したのを妖精が聞いていた可能性が大きい。 レミィか咲夜が漏らした可能性も無い訳じゃ無いけど」
「その可能性は低いだろうな……。 ところで――」
疑問が解けると、○○はそれきりこの話題への関心は無くした様だ。
一応の本題、とでも言えるだろうか?
早々に、今夜の事に話の内容を転換させる。
「咲夜さんの話だと、予定通りだそうだ。 お嬢様が起きたら呼びに来るとさ」
「当然ね。 中止する理由が無いもの」
「しかし、一応魔物から身を守る日でもあるのに、この屋敷でパーティーとはな」
「何事も楽しんだ者勝ち、と言ったところかしらね。 レミィは口実になれば何でも良いのよ。 ○○も解ってるでしょ?」
「まあな」
「私達なら仮装する必要も無いですね」
「一応俺と咲夜さんは人間なんだが」
「2人ともこの館の住人なんだから、同類の様な気もするけど。 特に咲夜は」
「旦那様も。 魔女の夫なんて、それだけで十分に人間離れしてますよ」
邪魔をしない為か、黙り込んでいた小悪魔も、タイミングを見計らって会話に参加した。
2人とも、戻ってきてから立ったままだったのだが、一段楽して椅子に座る。
本棚の整理も先日済ませたばかりで、今のところ仕事は無い。
並びはいつも通り、私を間に挟み、○○がすぐ横に、寄り添う様に。
小悪魔は少し間隔を空けて、見守る様に。
タイミングはほぼ同時で、三者三様の本を開いた。
それを合図に会話が止み、静寂が訪れる。
嵐の前の静けさ、とでも言うのだろうか?
パーティーが始まる前の時間を、のんびりと過ごす。
再び読み始めた本の内容は、相も変わらず退屈なままだ。
だけど、今はむしろ、それが良い。
この屋敷では、楽しむのは夜だと相場が決まっている。
黄昏時、愛する者と共に、退屈と静寂に抱かれ、饗宴を待つ。
○○に肩を預けると、彼は僅かに身を震わせ、一瞬の微笑を浮かべた。
その横顔に、私の瞳は微かな欲望を宿す。
疑問が浮かんだ。
私は本当に、夜まで待てるだろうか?
「さてと」
変化を感じ取ったのか。
小悪魔が突然本を閉じ、背伸びをして立ち上がった。
「どうした?」
解っているのかいないのか。
とぼけた風で尋ねた○○に、彼女は笑顔で続ける。
「飽きたので少し散歩してきます。 ひょっとしたら、そのままメイド長の御手伝いに行くかもしれません。
パーティーが終わるまで、ここには戻ってこないかもしれませんね」
悪戯っぽい声音でそう言い、小悪魔は私に視線で許可を求めた。
前述した通り、今日は仕事が無いのだ。
断る通りも無い。
「分かった。 好きにすると良いわ」
「良かったな、小悪魔」
「はい。 ありがとうございます」
図書館を出て行く前、彼女は私と○○に向かい、
「ごゆっくり」
そう言い、随分と楽しそうに笑った。
言葉だけが余韻となってここに残る。
「行っちゃったな」
「そうね」
2人きりになっても、○○の態度には特に変化は無い。
私の体重を支えながら、急がずにページを駆る。
彼には今、そういう気は全く無いのだろうか?
私がめくるページには、徐々に大きくなる欲求と、苛立ちが乗せられる。
折角、小悪魔が作ってくれた甘い筈の時間に繰り広げられるのは、奇妙なポーカー。
賭けるチップも、ディーラーすらも存在しない。
無言で互いの出方を伺う。
そんな拮抗状態が延々と続いた果てに、○○が僅かに目を細めた。
ここぞとばかりに私は沈黙を破り、ハンドを公開する。
恐らく、勝負所はここしかない。
「○○。 今夜はハロウィンよね?」
こんな行為に及ぶのは、きっとハロウィンのせいだ。
たぶん、恋愛に飢えた悪霊にでも憑依されてしまったのだろう。
そう思いたくなるくらい、今は○○が欲しくて堪らない。
甘い夜の幕を、少し強引にこじ開ける。
本当に、全くその気が無かった訳じゃない。
ただ、明らかに作為的な状況に、完全にタイミングを見失っていただけだ。
「○○。 今夜はハロウィンよね?」
唐突なパチュリーの問いが、薪としてこの空間にくべられる。
抑圧された激情は、ゆっくりと、確実に燃え始めていた。
どうやら、俺のものよりも、彼女のものの方が強大な様だが。
「そうだけど、それがどうかしたか?」
俺のとぼけた問いに、パチュリーは妖艶に笑う。
既にお互いの本は読み進められる事が無く、開かれた意味を失っていた。
影から影へと、魔女が飛び移る。
2つの影が重なり、濃度を上げる。
先ほどまでは肩を預けていただけのパチュリーは、既に腕の中に居り、とろんとした瞳で先を紡いだ。
「Trick or Treat」
小さくそう告げ、彼女は俺の顔を見据える。
そんなパチュリーが余りにも可愛らしく、俺は自然と笑みを浮かべてしまった。
しかし、その要求には、言葉通りの意味では答えられない。
比喩的な意味でも、今は自分から答えるつもりは無いのだが。
たまには少し意地悪もしたくなるし、受け手に回るのも良いかと思えた。
「分かってるだろ? 持ってない」
「ここにあるでしょ? とびっきり……甘いのが」
もう我慢は出来ないとばかりに、パチュリーは少し強引に唇を重ねてくる。
静かな図書館の中に、欲望に塗れた水音が、やけに大きく聞こえた。
どれだけそうしていたのか、彼女は最後、名残惜しげにやわらかく俺の唇をかむと、ゆっくりと自分の唇を離した。
小さな痛みが、微熱としてとどまった。
長い長いキスが終わっても、互いに、熱に浮かされて頭はボーっとしている。
頬を薄紅に染めたパチュリーの視線は、何かを期待する様に、俺の瞳から逸れる事が無い。
恋愛に関しては、男よりも女の方が貪欲だ。
「これは確かに甘いけど、お菓子じゃないだろ?」
ここまでくると、どちらがお菓子をねだっているのか。
どちらが与える側なのか、そんな事はどうでも良くなっていた。
俺の言葉に満足した様子のパチュリーは、表情に恥じらいを浮かべて、甘く気だるげな声で囁く。
「じゃあ……悪戯、しちゃうね」
ほんの少しだけ、迷いを内包した指先が伸びる。
パチュリーの綺麗な指が、俺のシャツのボタンにかかった次の瞬間――
「ぎゃおー! おかしくれなきゃたーべちゃうぞー!」
「は?」
「ほえ?」
何の前触れも無く扉が開き、唐突に現れた闖入者に、俺達は随分と素っ頓狂な声を上げてしまった。
頭の中が真っ白になるというのは、まさにこの事だ。
それは、レミリアお嬢様も同じだったようだ。
俺とパチュリーの姿を確認するなり、数秒間動きを停止させると……
「ええと……じ、邪魔だった?」
物凄く気まずそうにそう言った。
だが、俺達にその言葉は届かない。
軽いパニック症状を起こしていたせいもあったが、何より……
「あ~あ。 お姉さまのせいでムード台無し。 ホント駄目だなー」
直後、上空から聞こえてきた声に気を取られた。
「フラン!? こんなところで何してるのよ!?」
「何って、暇潰し」
いつからいたのか、どの辺りから見ていたのか。
隠れて俺とパチュリーの行為を楽しんでいたらしいフランドールお嬢様が姿を現した。
お嬢様達の会話を呆然と見ていると……
「パチュリー様。 こちらにお嬢様は……あら」
今度は咲夜さんがやって来た。
案の定、俺達を見て目を丸くする。
「メ、メイド長!! 駄目です!! 今はまだ駄目です!! あ……」
それに続いて小悪魔も。
全員の動きが止まり、何とも形容し難い空気が流れる。
もう、こうなると笑うしかない。
俺は抑えようともせずに、苦笑を音にした。
冷静に考えてみよう。
ここには美鈴以外の紅魔館の主要メンバーが揃っていて、そんな中、1つの椅子の上で俺とパチュリーは抱き合っているんだ。
本当に、笑うしかないじゃないか。
「あ、貴女達」
先ほどまで微動だにしなかったパチュリーが、小刻みに震えながら、俺から身体を離す。
焦点の定まらない瞳が、未だに混乱が収まっていない事を意味していた。
「私達の邪魔は……」
そこで一泊置いて、大きく息を吸い込む。
真っ赤な顔をした彼女は――
「そこまでよ!!」
上擦った声で力いっぱい叫んだ。
俺の苦笑は伝染し、大きな笑い声が図書館内に満ちた。
Happy Halloween
Trick or Treat
今夜のパーティーは、思った以上に楽しかった。
食って、呑んで、笑って。
やっている事は毎度同じだが、それでも楽しいものは楽しい。
予想通り、招待もしていない客人が多く詰め掛け、予想以上の盛り上がりを見せる。
ただ、パチュリーだけはむくれているが。
埋め合わせは後で、しっかりとしてやるつもりだ。
「○○。 甘味が足りない」
「はいはい」
製造禁止前のアブサンに、角砂糖を1つ落とす。
パチュリーが緑の魔女を呑む様を、うっとりと眺める。
夜は、まだまだ終わらない。
むしろこれからだ。
ジャックランタンの怪しい灯りに照らされて、この後の相談といこう。
角砂糖1つでは、まだまだ足りないな?
新ろだ86
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最終更新:2010年05月16日 23:42