紅魔館に私が住みつくようになってから、割と長い時間が経つ。
 この図書館の本もそれに比例して、司書の小悪魔がいなければとても整理することができないくらいに増えた。
 大多数は魔導書が占めているが、一部には外の世界から流れてきた本も存在する。
 漫画、ファッション雑誌、教科書、哲学書、恋愛物の小説。
 この他にも多種多様の本がもっとあるのだが、どういうわけか最後に記したやつだけは、あまり他の書物に比べて共感を得ることができなかった。
 この館が女所帯であるし、男との付き合いなど無に等しかったからだろうか。
 人里に下りれば男は居るだろうが、男と付き合う気はないし、第一外に出ること自体が私の性分ではない。
 そんなことをしている暇があるなら、魔導書の作成に力を注ぐほうが遥かに懸命である。
 そう思っていたのだ。


 ところが少し前にそんな私の考えを一部否定せざるをえない事件があった。
 これからその時間軸に戻ったつもりで事件を振り返ってみることにする。


















「あ、そこ違いますよ。その本はもっと向こう……え、ちょ、ちょっときゃあああああ」

 ……またこの音か。
 最近になって本の落下頻度が軒並み上昇傾向にある。
 原因はそう遠くない日にこっちの世界にやってきた、○○とかいう人間。
 行き場を無くして行き倒れになっているところを門番が拾ってきたようだ。
 だからいつまで経ってもザル呼ばわりなのよ。

「あー…すみません」
「もうこれで十一回目ですよ…いい加減丁寧に扱うようにしてくださいね?」
「善処します」
「じゃあ早く終わらせましょう。私はもう向こうに戻りますから……」
「わかりました」

 最初、私は内心この人間を館に招き入れることをなんとなく拒んでいた唯一の存在であった。
 理由は特に無い。誰にだってなんとなくで事を済ませたいときがあるだろう。それと同じことだ。

 しかし、私以外の館に住む皆はこの人間を招き入れることを存外嫌でもないと思っていたのだろうか。
 ここに身を置いてもよいとレミィがあっけなく許可してしまったのだ。
 もっとも私もこの館に住まわせてもらっている存在であるから、とやかく発言できる立場でもない。
 そう思ったので私の「なんとなく」は胸の深部に永遠に隠しておこうと決めた。

「おおっ……っと、危なかった」
「むむ」

 小悪魔が目を細めて○○を見やる。
 どうやら今回も自分が手伝わないと駄目だという事に気づいたらしい。


 ここで○○についての説明を入れておく。
 種族は先ほど言ったとおり人間に属する。性別は男。
 身体的特徴を述べるとするなら、背丈はその歳の平均的な男の身長に比べて少し低い。
 性格ははっきり言って気が弱く、自分の意見をこれと言って主張するようなこともない。
 もっと簡潔に言うなら、薄志弱行。
 顔のほうはまあ、悪いといえば悪いのか、良いといえば良いのかだろうか。
 はっきりとしないから、どこにでも転がっていそうな顔だということにする。


 聞いたところによれば、そこそこ外の世界に関しての知識を持っているというので、仕事にさせるに当たって都合がよいということでこの図書館に配属させたが……
 本を落とす、落下させる、重力に従わせるの美しき見事な三重奏を奏でてみせる。先ほどもその予兆が見られた。
 そして挙句の果てにたった一度ではあるが黒白に本を渡してしまったとくる。
 黒白には気をつけろとあれほど小悪魔に言わせておいたのに。

 次にした音は三重奏とはほど遠いものだった。どうやらいつもの鼠の音だ。
 この音で少しばかり気持ちがほっと楽になったのは私だけだろう。
 音のした方向が○○が担当している区域に近いところであったから、もしかすると本を渡した真相の片鱗を垣間見ることができるかもしれない。
 そんな思いから生まれ出た好奇心が、空気に身を乗せその場所へと急行することを私に命令した。










「よお○○、どうだ? この黴臭い図書館」

 私が二人の死角となる本棚の影にちょうど着いたときに、黒白が飄々とそう言い放った。
 黴臭くて結構。埃っぽくて結構。喘息持ちではあるが、本の傍に我が身があって、我が身の傍に本がある。
 私がそう望んでいるのだから黴臭いだとかはこの際どうでもよい。

「はあ、確かにこの図書館はその……黴臭い…かな?」

 ○○も黒白の意見に同調する。

「そうだろ? まあそれはどうでもいいんだが」
「また本を借りに来たんですか? 駄目ですよ、今回ばかりは絶対」
「お、○○らしくないな。いつもならあんな事しなくても、押せばなんとかいけるんだが」

 やはりいつものごり押しで丸めこんでいたのが明らかとなった。
 だが今回はあまりそれが通じないと見て黒白も手を引く。

「小悪魔さんからも散々忠告を受けましたし、パチュリーさんからも目で物を言われて……」
「まあそう固いこと言わず……な?」

 私は自らの存在を知られてしまうことを防ぐため、できる限り気配を薄く消散させて影からじっと様子を見ていた。
 実の所、私が黒白と○○がこういったやり取りをしているのを見るのはこれが初めてである。
 ○○が黒白に本を渡したという話は小悪魔から聞いただけで、その時はレミィとのティータイムに付き合っていたから目撃は叶わなかった。
 ちなみに○○は私が自分がしでかした失態には気づいていないと思っている。呑気なものだ。

 だが今日はいかにもその現場に押さえられそうとあって、実に気分がいい。
 何故鼠に本を渡すような真似をしたのか、今にこの目で見届けてやる。
 そして、直接この場で○○を問い詰めてやるのだ。
 図書館の主である私が言ってやったほうが少しは効能があるかもしれない。



 一人そうやって勝手で都合のよい思考を巡らせていると、黒白が思わぬ暴挙に出た。

「なぁ……○○…いいだろ?……」
「駄目…ですってば」

 猫撫で声を出しながら黒白が自分の両手を○○へとそっと伸ばす。
 間もなく左腕が○○の腰に回り、右手が○○の左頬を弄ぶ。
 その身を捩ったり、左腕に力を入れて体と体を密着させたり、押し付けたりしながらどんどん黒白は○○を壁の方向へと追い詰めていく。
 ○○も黒白の挙動に流されて徐々に自分の体を壁の方向へとどんどん追いやっていく。

 あんな事、というのは色仕掛けのことだった。
 なるほど口で理解させられないなら体で理解させようという魂胆のようだ。
 色気はパワーだぜ! と威勢の良い声が聞こえた気がしたが、気のせいか。

「誰も見てやしないぜ……この前はどこまでいったっけな?」
「魔理沙さん……目的変わってませんか。それとそんな如何わしいことはした覚えはありません」
「私のことはさん付けしなくていい。それに目的を変えたつもりはないぜ」

 この黒白、○○を先の戦法で弱らせて本をせしめたとみた。

「う~ん……」
「私のこと……嫌いなのか」
「き、嫌いというわけでは」
「だったらいいじゃないか……減るもんじゃないぜ?」 

 何故か私はこの雰囲気に既視感を覚えたが、どこで見たかは判然としない。
 原因は黒白の痴態と○○の優柔不断、ということがわかったんだからもうそろそろ出てもいいだろう。
 あと黒白という表現はちょっと飽きてきたのでこれからは素直に魔理沙とする。

「やっぱり無理ですってー」
「あー? 前はこんなにしつこくなかったのになー。仕方ない、実力行使だ」
「どっちがですか! …ってそれは」
「待ちなさい」

 魔理沙が懐からミニ八卦炉を出したのを見計らい、私はそう言って二人の前へと飛び出した。
 ○○はとうとうやってしまったか、と、絶望をそのまま色にしたような顔色をしている。
 魔理沙はやっときたか、といういつもの勝気な表情を浮かべ、○○から少し距離をとってミニ八卦炉を私に向ける。
 小悪魔は二人のずっと向こう側の本棚の影で、少し前の私と同じようにそっとこちらの様子を見ている。
 にやにやと気味の悪い顔をしている。少しは手伝ってほしい。

「前から忠告は聞いていたはずなのに……こういうわけだったのね」
「いやその……」
「言い訳は聞かないわ」

 ぴしゃりと○○の優柔不断を一刀両断してやる。
 それを切り口として私は本格的に攻撃の体制へと移る。

「私に無断で、忠告もさせたのに、よりによって魔理沙に本を渡すなんて一体どういう了見なのかしら?」
「し、知ってたんですか……」
「聞いたのよ、小悪魔からね。全部というわけではないけど」
「……申し訳ございません」
「もう遅い」

 隠し通せると思っていたのか、私の攻撃に○○は狼狽した。
 すぐに謝ってくれたのなら少しくらいは評価を上げておいたのに。

「まあまあ許してやれよ。○○のおかげで以前より本が多く借りれそうなんだ」
「あなたは良くても、私は良くないわ」
「私は良いし、○○だって良いぜ?」
「言わないでください……」

 先ほどの情事を思い出しているのか、○○の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
 魔理沙も相変わらず超然とした態度を変えない。変える積もりもないのだろう。

「兎に角、これ以上何かしでかすなら追い出す以外に選択の余地はないわ」
「結局こうなるんだな。別に嫌いじゃあないが」
「いつものくせに」
「いつものことだぜ」

 私は紅魔館に住む以前に幻想郷という世界に住んでいる。
 この世界ではいざこざや争いを解決するシステムとして「いつもの」……所謂、弾幕ごっこという画期的な方法がある。
 詳しく説明すると非常に長くなるのでここでは省略する。
 一言で言うならパターン作りごっこだ、と紅白が言ってたと妹様が仰っていた。
 しかし、魔理沙の様に相当の努力を重ねた人間でないと当然弾幕など張れないので、○○にはこの場から退散してもらう。
 
「○○は危ないから向こうに行ってて」
「え、あ、はい」
「む、パチュリーが他人の事を心配するなんて珍しいな」

 珍しくないわよ、と素っ気無くやり返す。
 もし怪我でもされたら治療が面倒なだし、死なれても後味が悪いだけだ。



「じゃあデキてるのか?」



 その句が魔理沙の口から吐かれた瞬間、急に私の顔の温度が上昇し、懐にしまいこんでいた符を何の策や考えも無しに宣言してしまった。



 こうしていよいよ図書館兼私の書斎は戦場と化した。
 ○○は町を攻撃され必死に逃げ惑う町衆の一人のように、書斎を所狭しと駆け回る。

 ○○が恐らく初めて弾幕を見たとき、美しさのせいなのか恐ろしさのせいなのだろうか。
 その身をまったく動かそうとしないものだから、小悪魔が無理矢理○○を引きずって避難させていたのを今でも覚えている。
 それを考えると一人で逃げれるだけでも幾分かマシになったというものだ。
 小悪魔はさっきの場所にはもう居なかった。仕事の上乗せとして後で戦場の後始末をさせることにする。




 しばらくすると私は流れ来る星弾や、時たまに放たれる極大の光線を避けるのに精一杯になっていた。
 精一杯ではあったが無数の弾と光線を避ける合間に、私の頭を何かが掠めているのを自覚した。弾ではない。



 戦闘が始まる前に魔理沙が言った言葉――



 どうにも落ち着かない。
 私の頭は避けるということの他にあの言葉の方にも神経を向けるのを不思議とやめないのだ。
 それが仇になったという言い訳はしたくないのだが、いつもよりも早く当たってしまった。

 図書館の床にその身が落ちていくのを感じる。
 生死をかけた死闘とかそんな大それた戦いではないから、別段重傷を負ったとかそういうことはない。

 魔法を使って、ゆっくりと自分の体を埃の少ない床に移動させる。
 ――そういえば、○○は掃除だけはできるのだった。流石に咲夜には及ばないが……


 そんなことはさておいて、もう暫く休憩したい気分だった。










 あれから私は意識的に○○を避けていた。
 何故避けてしまうのかと、自問自答の日々が続いた。
 しかしながら自問自答して答が容易に出るようなら、人も妖も苦労はしない。
 理性と思考をあわせ持つ存在は必ず命の紅炎が燃え盛る合間に、幾度と無く何事かに悩みぬくことになる。
 そこらに這い蹲る動物にはそんな苦労もないし、理解もできないし、する必要もない。

 そんなそこらの動物のことを羨ましいと思う知的生命体はいるのだろうか? 少なくとも私が羨むことはない。
 私の職業である知識人という職からしてみれば、悩むというのはなくてはならない絶対要素だからである。
 普通の人間や普通の妖怪にもその要素は必要であるが、比重と質が普通の奴らと私とでは全く違う。

 とはいえ、やはり悩み続けるというのは職でも辛い。
 歌うことを職とする者といえど、四六時中歌いたいとは思っていないはずだ。誰だってたまには休みたい。

 よって私もしばしの休息を取るべく、前々から溜め込んでおいた外の本を読み漁ることにする。
 こんな時は魔道書を作成したり、まだ手をつけていない魔道書を読んだりするよりも、まずは息抜きをするに限る。
 幻想郷に住む者の価値観を覆すような事が大抵の内容である外の本ときたなら、その効果は何乗にもなるのだ。

 まったく、こういう時の○○だというのに……私もそうだが、○○もまた私の事を避けているように感じる。

 この前は言い過ぎただろうか? いや、そこまできつく言ったつもりは無い。
 仮にも図書館の司書……まあ、半分雑用扱いではあるが、それでも私の許可なしに、ましてあの魔理沙に本を渡した?
 まったくもって迷惑千万の一言に尽きる。
 今後また繰り返すようなら、本当に配属を別の場所へと移してもらうつもり。

 誰一人聞いてくれない愚痴を心の中で呟いた後、傍にあった比較的古めの外の本に手に取って開いてみる。



 暫く何となしにページをペラペラめくっていくうちにある事に気がついた。
 これは……あの共感が得られないとかで他の本に比べて、ところどころ適当に飛ばしながら読んでいたあの恋愛物の小説ではないか。
 胸の鼓動に不可思議な加速がかかる。
 ――最初から、読んでみようか。




 読み終わったその時、私の中にあったあの既視感が手に取るようにわかった。
 魔理沙が○○に迫ったあの時……
 この小説の中盤部分に非常に酷似した場面が書かれてあったのだ。もっとも小説の場合、男と女の立場が逆であったが。
 それと、魔理沙が私と戦う直前に言った言葉……これも同じページにその男と女の情事を男の友人が見てしまい、その友人が放ったある一言にもまた似ている。


 デキて――


 いやいやいやいや、いや。
 そんなわけがない。
 ○○は出来損ないで、鼠にちょっと言い寄られただけで本を渡してしまう馬鹿で駄目な司書。
 ただ、それだけである。

「……さん」

 元々司書というものは力と知識を持っていることが基本中の基本であって、知識だけあっても力が無ければ本の整理ができない。
 注意でどうにかなると思っていたが、ちょっと冷静になって考えれば○○は男のくせにまるで力というものが無かったの思い出した。
 この前も咲夜に頼まれて少し重たそうな荷物を運ぶのにいっぱいいっぱいの様子だったことは、私の記憶に新しい。
 だから本だってああもばさばさと落とすのだ。
 不本意ではあるが門番の所に通わせて少しは体を鍛えさせる必要がある。

「ぱちゅ……さ…」

 ああ、今日でもう十三回目か……といつものように嘆いてみるが、少し頻度が下がっていることに気づく。だが落としているという事実に変わりない。
 しかしあれでも掃除の方は割と丁寧にやってくれるのだ。この前汚れていない床に着地できたのも、きっと○○が掃除していたおかげだろう。
 それとこれとで、プラスマイナス0ということだろうか?

「パチュリーさん!」



 聞き覚えのある大きな声をもってして私が我に返ると、いつの間にか本を抱えた○○が真横につっ立っていた。
 どうやら自分でも気づかない内に思考の海にその身を投げ出し、盛大に溺れていたようだ。

「パチュリーさん……?」

 言葉を返そうとするが、変に意識してしまって上唇と下唇が鉛のように重くなって動かない。
 今思うにこれは動かなかったのではなく、動かせなかったという方が正しい。

「聞こえていますか」
「……」

 まだ動かせない。

「あの」
「な、なに」

 ようやく一言返せた。

「あ、いや、この本の元の置き場所なんですが……今、小悪魔さんが居なくてわからないんですよ」
「見せて」
「どうぞ」

 本を手渡された拍子に私の指先と○○の指先が触れ合う。
 ○○にとってはそれだけだったようだが、私は意外にも大きい○○の指に驚いてしまい、うっかり本を○○と同じように重力に従わせて落としてしまった。

「っ……」
「す、すみません、大丈夫ですか?」
「……別になんともないわ」

 落ちた時に付着した埃を払いのけて再び本を手に取る。
 ○○がこちらを心配そうに見ていて、一向に落ち着かない。
 なんだか今は見ないでほしい、このままでは自分の中の何かがおかしくなってしまう。
 懇願が○○に届くことはない、しかし届いたら届いたで少し恥ずかしい。
 となると、おかしくなる前に○○の目から発せられるこの理解不能な圧力から逃げるより他ない。

 その場をなんとか凌ごうとこの意味不明の圧力の防御も含め、本来の目的を果たすことに集中すべく顔を本のほうに向けた。
 ○○の目にはただ俯いている私が映っているのだろう。
 こっちは映されているせいで大分迷惑をしているというのに。

 タイトルが目に入ったとき運がよいと言えばいいのか、それは前々から探していた本であることに気づいた。
 同時にこの場から逃げ出す方法も思いついたから早速実行に移す。

「この本は……そうね、かなり奥の方だから私が置いてくる」
「置くぐらいでしたら場所を教えてくれれば僕が……」
「いい。どうせまた落とされても困るだけだし」
「はあ」

 適当に弱点を突き、○○を弱らせて隙を作る。
 追い討ちとしてまだ整理できてないところを引き続きやって、と言って退散させる。
 わかりました、と○○もその追い討ちに従って私を探すために通ってきたであろう道を戻っていった。

 どうにかこうにか私はなんとか戦線離脱を果たした。
 しかしどうして○○が私の目的物を持ってきたのだろうか。
 それは偶然としておくにしても、その時の私は逃げることしか頭になかった。
 普通なら礼を言うべき立場なのに……それも言えずに飛び去ってきてしまったのだ。
 もしかしてレミィの仕業? だとしたら随分と粋な真似をするようになったものだ、今度とっておきのネタを吹き込んでやろう。

 そうやってくだらないことを考えていないと、自分の頭が冷静さを失ってすぐに破裂してしまいそうだった。




 本の背表紙を指でなぞりながら、図書館の中空を一人行く。
 もう何年も触っていない本をなぞると、薄く積もっている埃が丁度真下に居た小悪魔の頭に落下した。
 小悪魔がそれに気づいてどのような反応を示したのか、私には今もってわからない。
 そのくらい、頭には何の事もなかった。
 他の本より少し背が出っ張った本に指がぶつかった時にふと、こんなことが頭に浮かんだ。


 何故さっきから私は○○の事ばかり気にしていたのだろうか?


 力の無い○○を鍛えさせるには門番の所に行かせるのが都合がいいはずなのに、どうして不本意などと思ったのだろうか?
 ずっと○○に呼びかけられていたのに、どうして呑気にあの海で溺れていたのだろうか?
 その上私は咄嗟に○○に返答することさえできず、さらに指が触れ合っただけなのに○○と同じように――

 極め付けに、○○の視線から大気圧や水圧や電圧の類とは全く異なる奇怪な圧力を感じて、逃げたくなったのだ。



 それからはずっとそのことばかりを頭の中でぐるぐると回転させてみたが、解決には向かわなかった。
 漸く結論が出たのは、それから三日くらい経ってからである。
 私が私自身の気持ちに気づいた時、結論に至るまでの三日間が急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。


 その馬鹿馬鹿しい三日間でようやく理解を果たした事は認めよう。
 しかし、こんなものを一体どうしろというのだ。
 誰に聞くともできず悩み続けることしか、私にはできなかった。




───────


 やはり○○にも思う節があったのだろうか。
 私がその三日間に頭の中で気持ちの揺らぎを回転させている間に、○○は門番の所に通い始めて体力の強化に励んでいた。

 加えて最近は要領良く魔理沙を追い返せているらしい。
 どのようにして追い返しているのかは私の知るところではないが、兎に角前の様に押し負けることは無くなったようだ。
 無くなったとは言ってもやはり先の事件に対して一抹の不安も有ったので、○○に本を渡したかどうか聞いてみた。
 ○○からは後ろめたい様子を一切認められず「信頼されるように頑張ります」と一言だけ返された。
 しつこいと思いつつ後に持ってかれた本がないか確認したが、何一つそのような形跡は無かった。





 ○○が館にやって来てからそろそろ二ヶ月は経とうかという頃だったと思う。
 やはり変わりなくその日も本に喰らいついていた私は突如として「一休みしませんかパチュリー様」と咲夜からの誘いを受けた。
 少し休むのに丁度良いだろうと思いその意向を伝えた矢先、○○もどう? という声がした。私はこの意向を撤回するかどうか迷った。
 僕も行っていいのですか、と○○が返したとき、更に迷いが強くなって私の気持ちを足踏みさせた。
 しかし行くといった手前○○が承諾してから私が断るというのは、何だか私が○○を嫌っているように思われはしないかと考えた。

 結局、図書館に居た私達は咲夜に引っ張られるような形で二階のテラスで向かうことと相成った。
 三つの影が一緒にテラスに出ると既にレミィが湖の先の先をじっと眺めていた。
 暫く外に出ていなかったせいで天頂からの日の光が私には少々痛かった。

「あら、○○も来たの」

 心底以外そうに○○に口をきいたこの「レミィ」という者を詳しく説明していなかったので、この場を借りて簡単に説明する。
 本名は『レミリア・スカーレット」と言って、その愛称を「レミィ」と言う。
 この紅魔館の主でありながら、日の下を歩けない、流水を渡れない等数々の弱点を保有する吸血鬼という種族に属する。

 よって今レミィが日光を遮るパラソルの下にその身を置いているということは私や咲夜、○○にとってさえ当たり前の事だった。
 ○○は少し緊張した面持ちで「咲夜さんにどうですかと誘われたので」と答えていた。

「そう、まあいいわ、賑やかな茶会というのも。そんで咲夜、今日はまた珍しいものが入っているのよねぇ」
「ええ、貴重なものですわ」
「何を入れてるのか知らないけど……あんまり苦いのはよしなさいよ。この前紅茶にどれだけ砂糖を入れたと思ってるの」

 私が不満を訴え出てすぐに、この前の紅茶って何ですか、と○○が不意に私に聞いてきた。
 何もこんなときに口をきかなくったって良いのにと大いに焦ったが、今度はレミィが前の紅茶に対する不満を訴えでて私はそれを答えずに済んだ。

「確かにアレは酷かったねぇ。一体何を入れたのよ」
「魔法の森に生えていたキノコですわ」
「ちゃんと味を確かめてからいれてよね。それと、今度からはそういうのは少しは控えめになさい、咲夜」
「そうですか、ではまた福寿草でも……」
「それだってもういいから!」

 福寿草の茶というのは飲んだことが無いのでその味について明言はできないが、レミィの様子からして避けて通りたい味のようだった。
 それから咲夜の言葉に今日の茶は福寿草の茶ではない意を汲み取り、安堵した。
 そんなものが入れられた日には本の数がいつもよりやたら減っていた時と同じ心持でその日を過ごす羽目になるに違いないのだ。

 話が別所に飛ぶのだが、レミィを媒介にして咲夜を困らせているのは、時たまに私だ。
 主の命令に方々を駆け回る忠実なメイド長は犬と評しても差し支えなく、その様は真に愉快である。
 ただし以前猫度を測定したところ、非常に残念な程度のものであったのでそこは改善の余地が有ると信じ今後に期待する。

 冷めないうちにと、カップの中の液体を口にそっと注ぎ舌の上から鼻腔全体に香りが充満した時、思ったとおりというか、瞬時に上に表した心持になった。
 私は、これは私とレミィと○○への当て付けなのかという非難の意を込めて、なるべく鋭利な視線を咲夜に送りつけた。
 レミィもカップを受け皿に置いたなり、じとりとした目で咲夜を睨んでいる。
 当の従者は平生通り澄ました顔で佇んでいる。
 ○○は美味しいです、と呑気なことを言っている。
 すぐ私は○○の味覚を疑ったが、これは後から咲夜が○○の分だけ別に普通の紅茶を入れていたからであった。
 どんな仕返しをしてやろうかと思い、それは次の猫度測定はずっと厳しくするということで収まった。





「ところでパチェ」

 一段落落ち着いたところで不意にレミィが問いかけてきたので何と返してやった。

「何?」
「○○はどうかしら。ちゃんと司書の仕事をやってるの?」

 レミィにしては自分がここに住んでもよいと許可した人間が今どんな様子だろうかと、一番○○に近い存在に何となく聞いただけだろう。
 私にとってはそれは口に含んだ紅茶を弾幕の如く、それも高密度のものをテーブルを挟んで向かい側に居たレミィの顔面と胸あたりにぶちまけるくらいの不意打ちでしかなかった。
 と言うか、そういうことは直接○○に聞いてほしいのだが。

「ちょっとパチェ!」
「……げほ」

 お嬢様、すぐにお着替えを…、と言いながら咲夜がレミィの顔についた紅茶を丁寧に優しく拭きとる。
 一人で着替えるから咲夜は紅茶を片付けて掃除でもしてなさい、とレミィも言い返す。
 その言葉を聞いた咲夜はちょっと驚いて見せたが、またすぐ元の調子に戻ってしまった。

 ○○は私が吹いて以来咳が止まらないのを心配して、大丈夫ですかと懸命に背中を摩ってくれた。
 私が喘息持ちで呼吸器が少し弱いということは○○も前から知っていたので尚更心配してくれたのだろう。
 少し楽になったところで口が軽くなっていることに気づいた私は○○に感謝の意を伝えようとしたのだが、何を思ったか○○は咲夜に習って私の口を拭こうとしだした。
 私の抵抗感からかそれぐらい自分でやれるという意を込めて、手で○○を制しておいた。
 本当はその、してもらっても悪い気はしまいと思ったのだが、状況が状況であるからもしかしたら精神が振り切れてもおかしくはなかった。
 しかし今にしてみればちょっと勿体無いことをしたと思う。

「かしこまりました。すぐに着替えてくださいよ? ほっとくと中々洗い流せないんですから」
「ああもう早くいったいった……ほら、ぼーっとしてないで○○も早く仕事に戻れ」
「僕もですか」

 お邪魔虫のように咲夜と○○を追い払ったレミィを見て私は嫌な気分になった。
 嫌な気分というのは主が従者の心配を余所に置いて、一方的に追い払ったことが原因として生まれたものではない。
 私にはレミィの発した言葉の片々から、席を外せと咲夜や○○に伝えようとする意を感じたのだ。
 何となくではあるがどうせ○○のことだろう。触れたいことであると同時に触れたくないことでもある。
 こんな失態を犯してしまったことに私は後悔した。

「さてと、パチェ。覚悟はいいかしら」

 従者と紅茶と○○が去ったテラスにはもう二人しか居なかった。
 パラソルやテーブルや二つの椅子は在って無いような背景と化していたと言っても差し支えない。

「……何の、覚悟かしら」
「ふふ、とぼけても無駄よパチェ」

 何もかもを知ったような顔でにやりと笑うレミィの顔にはカリスマと呼ばれる由縁が確かに存在した。
 しかしそれはあくまで今まで会ったことのない存在に対してだけ効力が発揮されるのであり、レミィとある程度の気心が知れている者にとって何でもないこともまた確かであった。
 いつも隣に居る咲夜などは尚更だろう。

「もう隠すのは無理みたいね。いいわ」
「そうそう最初からそうやって素直に話せばいいのよ」
「別に話すつもりではなかったのだけれど……」
「ぶふぅ」
「こらっ」

 私の失態を真似するおどけた友人を見て、僅かながら気持ちが楽になった。





 私はその時包み隠さず一切を話してしまう心持でいた。
 だが本人に想いを直接伝えるわけでもないのに、あの重さがまた私の口を鈍らせるのだ。
 レミィはゆっくり、落ち着いてからでよいと私の心に鎮静を施してくれた。
 しかし喘息とは違う類の苦しさは、顔についた紅茶と同じようには拭いきれなかった。
 なんとか平生の気持ちを取り戻せた頃には日は少し西へと傾いていた。


「――とりあえず単刀直入にまとめると『○○が好き』、と」
「……う、ん」
「パチェ」
「どうしたら、どうしたらいいのかしら」

 友という存在に言った手前、もう後戻りはできなかった。
 近いうちに私に決着がつくというのは薄々ながらこの日に感じていた。
 レミィからは「あんたには押しが足りない」と言われた。また「積極性がない」とも言われた。
 途中レミィがばんとテーブルを叩きながら叱るような調子で私に物を言っていたのも覚えている。

 私は十分消極的よ、と言われっぱなしでは腹が立つから少し強がりを見せたが、その強がりはさらに自身を追い詰める羽目になった。
「それが駄目、と言ってるのがまだわからないのかしら?」と言われたとき、私はついにレミィに白旗をあげてしまった。

 それは、その言葉に対抗できうるものを自分の内に持ち合わせていなかったためである。
 外側は取り繕って見せても内側では自分に十分な積極性がないということを深く認知していたからである。
 徐々に自分が情けなくなっていく様は、レミィには私の体が段々と縮こまっていくように見えたかもしれない。

「レミィ……私」
「言いなさいな」

 私は心の薄膜を突き破ろうとする何かを外側から必死に抑えつけていたのだが、とうとう薄膜を突き破って私の口からあふれ出てしまった。
 ついに私は私以外の存在にその何かをぶつけた。

 この想いを自覚してから、四六時中○○のことばかり考えてしまい、読んでいる本の内容が何一つ頭に入らないこと。
 ○○に声をかけられた時、胸がぐっと握り潰されそうな圧迫感に襲われ、それに影響されて口が動かず返事一つ返せないこと。
 最近では○○の姿を見ただけでも、体の芯から言い知れぬ熱が湧き出し、瞬く間に全身、特に顔の方に回って自らの自由を奪うということ。

 レミィはその不安を遮ろうともせず、ただ黙って受け止めていた。
 そのとき私は確かに目が著しく濡れていたことを記憶している。
 しかしとうとう自分以外の誰かにこのことを話してしまったのは、非常に気が楽になってしまって、私にとって良い方面に向かっているらしかった。

「重傷ね」

 レミィは呆れたよという調子でそっけなく言ってのけた。

「想っているだけでは、その気持ちが伝わらないのは、わかりきったことね」
「……そう」
「それに○○の想い、というものあるだろうからねぇ」

 そう言ってにやにやしながらレミィは私の顔を見た。
 そのにやにやが何を意味をしているのか、私にはちょっと理解できなかった。
 実際○○が誰を想っているのか、はたして誰を何とも想っていないのか判然としなかった。
 ○○はそういう素振りは見せもしなかったし、また思わせもしない人間だったのである。

「恐らくさ、パチェは私にこの事を言ってくれた時、すごく、楽になったと思うのよ。違う?」
「違、わない」
「……○○に言えるようになれば、もっと楽になれると思うのだけれど」

 それが出来ればここまで言うことはないのだ、と言い返そうと思ったができなかった。
 レミィだって恐らくは本気で私のことを自分なりに気遣っているに相違なかった。

 あの下品な振る舞いだってきっとその目的を達しているに相違なかった。現に私の気持ちの凝りはきっと解れたのだから。
 そしてそういうことはレミィと友人になって以来、互いに大なり小なり覚えているものや忘れているものも含めて多々あったことなのだ。
 その友人の気持ちを無下に扱うことは、私は絶対に避けたかった。
 レミィはまたこう続けた。

「それに今のパチェは一人ではないわ、パチェが私に伝えてくれたから、私もパチェの背中を押してあげられるのよ。
 加えて私達は一つ屋根の下で暮らす家族だと、踏み込んで言っても言い過ぎではないと思うの。
 パチェが困っている時は私が助ける。だから私が困った時は、パチェが助けて」

 目の前の友が、とても悪魔には見えなかった。そうして私ははっとさせられてしまった。
 もう随分この友と付き合ってきたはずなのだが、家族という言葉を聞いたのはこの時が初めてだったからである。
 私はレミィが単なる知識人として私をこの館に置いているのではなく、一人の家族として置いてるのだとその言葉で強く実感を得た。
 私の心に以前とは全く正反対の性質が帯びていくのを感じた。

「ありがとう、レミィ」

 私は礼を言った。言わなければどうしても私の気が済まなかった。
 礼を受け取ったレミィはちょっと頬を朱に染めて照れくさそうにそっぽを向いた。

「もう、今更いいわよ、どんだけ付き合ってると思ってるの」
「でも……」
「あーはいはい湿っぽいのはこれで終わりよ、こういうのってあんまり好きじゃないのよね」

 レミィはそう言って椅子から降りた。
 まあ近いうちにそういう機会が回ってくるよと、よく要領が掴めない言葉を残した後、パラソルで日光を遮りながらそそくさと館の中へ戻ってしまった。





 しばらくしてまた宴会が行われる旨を魔理沙が伝えにやってきた。
 その後○○を前と同じように同じ理由で誘っていたようだったが、失敗に終わったらしく「やはり守備が硬くなっているな」と一言漏らして帰っていった。
 身体を鍛えることは精神を鍛えることにも通ずると言うから、体力強化の成果は少なからず出ていたらしい。
 しかしいつも間にかごっそり開いた本と本との間隔を見たとき、私はため息すらでなかった。

 宴会という場は正しく幻想郷において人と妖とが等しくなる場に相違なかった。
 酒を飲むという共通の事項を通して分け隔てることなく、散々どんちゃん騒ぎを起こすのだ。
 そうして誰も後片付けはしない。無論私も。
 そんなことは紅白が担うという事が常識として私達妖怪の精神に染み付いているからである。
 準備に関しては咲夜が度々手伝っているようであったが、それ以外は知らなかった。

 宴会場は大体博麗の神社と決まっている。
 紅魔館からはレミィ、咲夜、私、そして今回は○○も付属してきた。
 図書館に居てばかりで、まだ幻想郷そのものに慣れていないんじゃない? というレミィの言が連れてきた理由だった。
 実際○○はここに来てから宴会というものにまるで参加しなかった。
 不参加の理由は咲夜の言によると、○○は相当の下戸であるということらしかった。
 ある日の夕食の料理に多少の酒が残っていたらしく、それを食べて暫くした後○○が咲夜に休みたい旨を伝えたそうだ。
 その料理は酒を残すことが普通で、これは咲夜の間違いではないことを付け加えておく。
 宴会が○○にとってあまり良いものでないことは、恐らく咲夜が一番わかっていたのだろう。
 




 妖気と酒気が入り混じる混沌の空間が間もなく境内に生まれた。
 天狗が酒を浴びるように飲み、それに負けじと鬼も両手に酒瓶を持って口にどばどば流し込む様を見て、よくもまあやるものだと私は感心しなかった。
 その二つの酒豪のみならず、ここに集う者殆どが決まって酒豪だった。
 当の○○は飲めや飲めやと酒瓶を押し付けられたり、お前この中の誰とだったら付き合う、などと幾多の妖怪に散々からかわれていた。
 もっと積極的な妖怪からは大胆にも甘い言葉と共に背中から抱きつかれたりしていた。
 ○○は顔を真っ赤にしてどうにも動けなさそうで、また満更でも無さそうな表情も浮かべていた。
 その時私は少々の妬みと羨みが心から染み出たことを告白する。

 宴会をしていると時間に対する感覚が麻痺してしまうので何時の事だったかは覚えていない。
 だが少し疲れた様子とふらふらの千鳥足で○○が私の元へとやってきたのは確かなこととして覚えている。
 暫く歩いて私の座っている椅子から丁度九十度の位置にあった椅子に座り、そのままぐったりと用意されたテーブルに突っ伏してしまった。

「皆さん、お酒に強いですね……」

 独り言のように漏れたその言葉から何となく私から何か返して欲しいという気を感じ取った。
 私はその時例に漏れず酒を飲んで少々高揚した気分であった。
 その時だけは○○に対してだけ発生する口の重みはまったく感じられなかったように思う。

「ええ、そうね」
「パチュリーさんももう随分飲んだのですか」
「こういう時くらい、私だって本を読まず酒を飲むわ」
「そうですか」
「貴方、相当の下戸のようね、咲夜から聞いたわ」
「情けないです。お嬢様から強く言われなければまたずっと館に居残るつもりでした」
「たまには悪くないわよ? 別にあの天狗や鬼みたいにがぶがぶ飲まなければいけないということはないの。
 自分の調子で飲めれば、宴会も楽しいものになるわ。まあ簡単に妖怪からからかわれるような貴方では無理でしょうけど」
「パチュリーさん、一緒に飲みませんか」
「どうして貴方と」

 私と○○がこんな軽い調子で話ができたのは想いを意識しだして以来初めてのことだった。
 自分の力ではなく大方酒の力によるものだろうが、私は嬉しかった。
 私は、急に私と飲みたいという意見を突き出され、それを反射的に断りかけてまた悩んだ。
 悩んだ裏側に杯を共にしたいという気持ちががあったのは楽に知れることだろう。

「私と飲んだって何も面白くないわよ。向こうで飲んできたらどうなの」
「構いません。私はパチュリーさんと飲みたいです」
「勝手にしなさい」
「……」
「何ぼーっとしてるの。飲むんでしょう? 早く注いで」
「はい、パチュリーさん」

 かくして境内の隅っこで私と○○は酒杯を交わすことになった。
 細かなことまでは覚えていないが、色々と話し込んだ気がする。
 ○○が幻想郷に来る前に向こうの世界で何をしていただとか、図書館の本が多すぎるという愚痴や、
 小悪魔が度々仕事をサボっているという告げ口や、自分には好きな者がいるということも聞いた。私も○○に同じ旨を言ってやった。
 その時誰が好きであるかという事は互いに話さなかった。
 今までよくわからなかった○○という存在が、一層近くに感じれるきっかけであったと私はこの日の宴会に感謝している。


 限界が来たのか、もう私が話しかけても○○は返事を返さなくなった。
 安らかな面持ちで何の夢を見ているのかもわからない想い人の顔を見つめていると、突然火照った○○の頬を触ってみたい衝動に駆られた。
 いつもの宴会以上に酒をかっ喰らっていた私はやはり気がおかしくなっていたのだ。

 私は自分が座っていた椅子から降りて○○の体にぶつけない程度にその椅子を押しやった。
 そうしてまた椅子に座って、○○の顔を覗き込んだ。
 これほど近くに顔を見るのは初めてのことで、普段の私なら即時その場を逃れるように離れただろう。
 暫くじっと見つめていたが寝息以外の変化を見せる様子がなかったのでついに頬を触ってみることにした。

 最初は軽く触れる程度であったが、徐々に私の中の私が抓れだとか指で押せだとかいらぬ言葉を吐いてきた。
 仕方ない、とそれに従って抓ったり押したりしていると、意外にも餅肌であることが発覚した。気持ちがよい。
 調子の乗り出したもう一人の私が小さく「接吻」と呟いた時、私は吃驚して椅子から盛大に転げ落ちてしまった。
 その音に気づいた○○がうぇええと奇怪な声を上げてすぐに転げた私を見、慌てて私を抱き起こした。
 別の私の呟きと抱き起こされた事とで頭が回転せず、○○の呼びかけがすっかり左耳から右耳へと抜け出ていた。

 近くから一部始終を見ていた妖怪からはやっぱり出来上がっていたかだとか、けしからん向こうでやっとけなど滅茶苦茶なことを言われてしまった。
 ○○は終始戸惑った様子と苦笑いでそれに答えていた。
 私は何も言えなかった。





 気がつけばもう空は明るさを取り戻しかけていた。 
 あたり一面は宴会の遺物が散乱しており、紅白がうんざりした顔で隅の方から片づけを始めていた。
 レミィがもう帰ると言い出したので○○と咲夜は片付けの手伝いを切り上げて、私とレミィの元に駆け寄った。 

 その時突然レミィが「じゃあがんばって」と意味不明な応援句を私に向かって言い放ち、咲夜と共に超速度で館の方へ向かってしまった。
 ○○は唖然としてもう点になってしまった従者とその主を目で追っていた。

 ようやく私はそういう機会、ということを今に自覚した。
 隣に居る人間に私達も帰りませんか、と言われたとき、友の言葉を思い出し私は強くその人間の目を覗き込んだ。
 少しだけ待ってと言って、私は俯いて高ぶる気持ちを必死に押さえつけた。

 朝の涼しく静かな風が私を優しく撫ぜていく。
 その風はどうだ、と私の心に問いかけてから何処かへと流れていった。
 その風に行く着く当ては無いだろうが、私には有る。
 やるべきことは、もうとっくに決まっていた。


うpろだ1344、1383
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最終更新:2011年02月27日 00:39