泉に添いて 茂る菩提樹
したいゆきては うまし夢見つ
幹には彫(え)りぬ ゆかし言葉
うれし悲しに といしその陰
――――――――――――――――――――――――――――――――
イナバの子が二人ほど使いから帰って来ない、という報告を受けたのは、
そろそろ日が低くなり、夕方に差しかかろうかという時刻になっての事だった。
近場の植物を何種か採取する、というだけの簡単な雑用だったのだが、昼前に出たきり、帰って来る気配が無いと言う。
あの花の事変から一月ほどを経て、事態は収束する気配を見せつつはあったが、季節を外れた花々が、未だ所狭しと咲き誇っている。
幼く、今回の事情を知らない彼女たちは、花に浮かれるままにふらふらと遠くに出てしまったのだろう。
……そろそろ、一部の禽鳥や獣が活発になる時間だ。
まして夜になってしまえば、辺りを妖怪の類が跋扈する。さすがに放ってはおけない。
私は師匠に断りを入れ、てゐを伴って彼女たちを探しに出る事にした。
「う~ん、多分こっち」
最初にイナバ達を遣わせた場所に二人の姿が無いのを確認してから、てゐが指し示すままに散策を進める。
何の目印も手掛かりも無いこの竹林での失せ物探しにおいて、彼女の勘と鼻は、とても頼りになる。
「大事にならなければいいんだけど……」
「大丈夫、大丈夫」
てゐは気楽そうに笑うが、先程から、何だか妙に胸の内がざわついている。一体何だろう、これは。
竹林特有の湿った空気が、いつもより不快に感じられる。
夕暮れの赤を通り過ぎ、空はすでに薄暗さを見せ始めていた。……急がないと。
……少女探索中……
しばらく進むと、近くの小動物や虫の波長がざわざわと落ち着きを失ったものに変わってきた。
複数の動物が、こちらに向かって来ているのを感じる。三つ……いや、少し後方にもう一つ、か。
「てゐ」
「うん」
数が合わない事を不審に感じながらも、隣のてゐに一つ声をかけ、気を引き締める。
そして……程なく眼前に現れた予想の範疇を遥かに超える風景に、私とてゐは、揃って声を失った。
一人の人間の青年が、右の脇に一人気を失っているらしいイナバの子を抱え込み、裂帛の形相で走っている。
もう一人のイナバの子がその背に負ぶさり、必死に首元にしがみ付いていた。
その十数メートルほど後方を、猪頭の餓鬼らしきものが、石斧を携え追い縋って来ている。
二人の子を抱えながらも人間とは思えない健脚で、二者の距離はつかず離れず、といったところだろうか。
青年の左腕の肩口から先が、力の入らない様子で真っ赤に濡れているのが見えた。
「……っ」
――その青年の、イナバの子を抱えて走る姿が、何故か瞳に眩しく突き刺さった。
「…………ろっ!! ……逃げろっ!!」
私たちの姿を視止めた青年が、悲愴な面持ちで叫んでいる。
その言葉に我に返り、てゐと二人、彼等の元に駆け出した。
「はあっ、はあっ、に、逃げろって言っただろ!! 何やってんだよ!!」
程なく合流した私たちに開口一番そんな事を叫ぶ彼の姿に、てゐと揃って面食らった。
左腕の肩口から手の甲にかけてぱっくりと切り目が入り、傷口の一部から白い骨膜が覗いている。
「な、何って、助けに……」
「何言ってるんだ馬鹿!! いいからこの子たちを連れて、早く逃げろってば!!」
そう叫んで彼は、抱えていたイナバの子たちを私たちに押し付け、踵を返し、逆に一人で餓鬼の方に駆け出した。
「えっ」
思わず素っ頓狂な声を上げる。
(ええっと、今日初めて会った手負いの人間が、私たちを助けようとして…………何なの?これ)
あまりの展開に、私の頭と体がついて行けなかった。
「ちょっ、ちょっと!」
泡を食って彼の後を追うてゐを、私は……呆然と見送った。
「ダメっ、助けて、あの人を助けてぇっ!!」
「っ!」
背負われていた方の子の悲痛な叫びでようやく我に返り、慌てて後を追いかけた。
――――後になって、私はこの一瞬の空白を、生涯悔やみ続ける事になる。
まさかここに来て、獲物が逆に牙を剥いてくるとは思ってもみなかったのだろう。
完全に不意をつかれた餓鬼は、無防備に彼のタックルを腹に受け、もつれながら地面を転がった。
――――どずんっっっ。
餓鬼の手を離れた石斧が地面を穿ち、刀身の中程までを土に埋めた。……だけど、
「ぐっ、ああああああっっっ!!!!!」
悲鳴を上げたのは、人間の方だった。
猪頭がその鋭い牙で、彼の左腕を咥え込んでいる。
「このっ!……はなっ、しなっ、さいっっ!!!」
ようやく間に合ったてゐが、顎を無理矢理こじ開けて彼を解放し、餓鬼の体を二兎追で粉々に吹き飛ばした。
「あ……」
私が何かをするでもなく事態は収束してしまい、私はその場で立ち尽くした。
ぐったりと気絶してしまった彼を、二回り以上は小さな体で扱いにくそうに背負いながら、てゐがこちらに歩いて来る。
「あ、あの、てゐ。代わるわ」
「うん、正直私じゃ辛いわ」
てゐと交代して、彼のぐったりした体を背負う。
……左腕の下腕部が、最初の傷が分からなくなるくらい、ぐしゃぐしゃに潰れていた。
「ねえ、何で狂気の瞳を使わなかったの?」
「っ……」
てゐの言葉に責めるような調子は一切含まれていなかったが、私は何も言葉を返す事が出来なかった。
「……まあいいや。急がないと、手遅れになっちゃう」
泣きじゃくる二人のイナバの手を取って、てゐは永遠亭の方へ飛び立った。
……そうだ。せめて、一刻も早く彼を助けてあげないと。
しなびた精神に鞭を打って、出せる限りの速度で家路を急いだ。
…………
「ダメね、これは」
一通りの治療を終えて部屋から出て来るなり、師匠はそんな事を言って、ため息をついた。
「えぇっ? ダ、ダメって」
血の気を引かせた私に、師匠は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに苦笑いを返してきた。
「ああ、違う違う。命に別状は無いわ。
ただ……あの腕じゃこれから先、茶碗を持つ程度の事も出来るかどうか、って事」
「そうですか……」
「最初の創傷だけなら、まだ何とかしようもあったのだけどね。そこをさらに噛み潰されたのが拙かった。
色々な所を誤魔化しながら繋げてはみたけど、どこまで機能が戻るかは分からないわ」
「……」
「さて、流石に疲れたから、今日は眠らせてもらうわ。
ウドンゲ、悪いけど今晩彼についていてあげてちょうだい。何かあったら起こして構わないわ」
「……分かりました」
「そうそう。彼、多分外の人間よ。何だって、こんな所に迷い込んで来たのかしらねえ……」
それだけを言い残して、師匠は欠伸を噛み殺しながら自分の部屋へと戻って行った。
彼の眠りを妨げないようにそっと音無く襖を閉め、布団で死んだように眠っている彼の枕元に腰を落とす。
投げ出された左腕が、添え木と包帯でぐるぐる巻きにされ、倍の太さになっていた。
傍らに用意された桶で湿らせた手拭いで、額に浮かんだ汗をふき取る。
「ごめんなさい……」
あの時動けなかった理由が、今ならよく分かる。
――眩しかったのだ。
面識も無いイナバの子たちを助けようと、必死に走る彼の姿が。
果てには私たちを助けようと、的外れな意気で、一人で死地に赴く彼の姿が。
それは、かつて仲間たちを捨てて月から逃げた私の姿とは、真逆のものだった。
「ごめんなさい……」
そんな彼の姿を尊いものだと感じながら、私は。
『ねえ、何で狂気の瞳を使わなかったの?』
『最初の創傷だけなら、まだ何とかしようもあったのだけどね』
近しい二人の言葉が脳裏に甦り、心臓を締め上げる。
あの時、真っ先に前に出てその場を請け負うべきだった私は、
投影されたかつての自分の罪に足を取られ、その場で立ち竦む事を選んだ。
私が、彼の、左腕を、壊した。
「…………ごめ、……な、さ…………」
視界が歪み、ぼろぼろと涙がこぼれる。
花の事件以来、色々な事を考え学んだつもりだったが、実の所、根本的なところで何一つ成長していない自分に失望を覚える。
せめて、彼が赦してくれるまで謝まり続けようと思った。
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今日も過りぬ 暗き小夜中(さよなか)
真闇に立ちて まなこ閉ずれば
枝はそよぎて 語るごとし
来よいとし友 此処に幸あり
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「……ん…………痛ててて……」
左腕の痛みに目を覚まして上体を起こすと、そこは知らない部屋だった。
襖が閉じられて完全に日光が遮断されてはいるが、障子紙を透かす光の強さから、すでに昼に指しかかっているであろう事が分かる。
痛むばかりでまるで動いてくれない左腕を見てみると、包帯と添え木で固められて、まるでロケットのようになっていた。
「こりゃ酷い……えっと、俺は……」
昨日、町を歩いていて一瞬気が遠くなったかと思ったら、いつの間にか周りの風景が一変していて。
右も左も分からず、竹林をふらふらしていて……そうだ。子供が二人、見た事も無い生き物に襲われていたんだった。
それでその後……
「…………」
馬鹿げた夢を視た、と思いたかったが、あの時斬られ噛まれた左腕は、確かに俺の肩からぼろぼろになってぶら下がっている。
「ん」
左腕に気をとられて気づくのが遅れたが、傍らに一人の女の子が寝転がっていた。
この娘には、見覚えがある。確か、後から居合わせた内の一人だ。
形の整った可愛らしい顔立ちをしていたが、目蓋が赤く腫れ、晴れない表情で寝息を立てていた。
そして何より、頭から生えている、兎らしき大きな耳が目を引いた。
……よく事態が飲み込めないが、この娘が助けてくれたのだろうか。
「……こうしていても、仕方が無い、か」
酷く疲れた様子の彼女を起こすのも可哀そうではあるが、現状が把握できないままで彼女を放ってこの部屋を出る、というのも躊躇われる。
仕方なく、彼女を起こして話を聞く事にした。
「お~い」
身を乗り出して彼女の肩を揺するが、いまいち反応が薄い。
「う……う~ん…………」
何とも可愛らしい呻き声が、彼女の口から漏れた。うん、もう少しだ。
「お~い」
もう少し強めに肩を揺すりながら、何となく視線を横に移してみる。
何とも短いスカートが、太ももの付け根辺りまでずり上がっていた。
「うぬぬっ、もう少しだあああっっ!!!」
「ひゃあっ」
――ずごんっ!
「ぐふっ」
思わず上げてしまった歓声に彼女が跳ね起き、その頭頂部が俺の鼻っ柱を直撃した。
「い、痛てててて」
「あいたたた…………あっ」
頭を涙目になってさすりながら、鼻を押さえて悶絶する俺の姿を認めると、
「起きたんだ……よかった」
ホッとしたように弱々しく微笑んだ。
「凄く心配したんだから……ねえ、どこか痛い所とかは無い?」
「強いて言えば鼻が痛い」
「そ、それはその……ごめんなさい、うっかり寝ちゃって。ねえ、ちょっと診せて」
「えっ、ちょっ、ちょっと」
おたおたと彼女は身を乗り出し、俺の鼻先にその細く白い指を伸ばした。
きめ細やかな髪の毛が肩から一房落ち、甘い香りが鼻から脳を犯す。
「……ああ、こんなに鼻が低くなっちゃって……本当にごめんなさい……」
「それは元からだ……」
結構失礼な娘だった。
その後簡潔に自己紹介を済ませ、ここが幻想郷という所で、俺がいたのとは違う世界だという事を聞いた。
「で、この屋敷は永遠亭、と」
「ええ。私の師匠と姫様に、貴方が起きた事を報告しないと。
込み入った話は、それからにしましょう」
そう言って鈴仙は腰を上げた。俺もそれに続くが、一つやっておかなければならない事がある。
「その前に。……鈴仙、ありがとう。君たちが俺の事、助けてくれたんだろう?」
「……っ……違うの…………ごめんなさい」
礼を言ってぺこりと頭を下げたが、何故か鈴仙は、悲しげに俯いてしまった。
あれ? 何か拙い事でも言ってしまったのだろうか。
――俺は確かに女心の分からない奴だが、そもそもそれ以前に、礼を言って相手を悲しませるようでは生物失格だ。
もうちょっと言い方と表情を変えてみるか。
「……鈴仙、ありがとう。君たちが俺の事、助けてくれたんだろう?(ttp://www.kms.ac.jp/~hsc/henro/FJK /fudo/88F.jpg)」
「ひぃっっ!! こ、声色と表情が全然噛み合ってないわよ!」
……これでもダメか。贅沢な奴め。
「ちくしょう埒が開かん! 主人を呼べ!!」
「だからこれから案内するって言ってるでしょ……」
「そうだっけ?」
「…………はぁ……元気そうで安心したわ……行きましょう」
心底疲れた様子の鈴仙に案内され、この屋敷の主達を訪ねる事にした。
…………
為すがままに鈴仙の後ろをついて歩き、異常に長い廊下に辟易してきた頃に、一際大きな部屋の前で、鈴仙は足を止めた。
「お待たせしたわね。ここが永遠亭の姫様、蓬莱山輝夜様のお部屋」
「へえ……これは凄いな……」
襖がいくつ並んでるんだ、これは。お姫様っていうのは伊達では無いな……
「姫様、失礼します……」
――スッ、ススー―――ッ
鈴仙はかしずき、そっと襖を開いた。
ボリッ
ボリッ
「ごゆるりと……」
―――――ピシャン。
「……さ、次は師匠の所に行きましょうか」
「ちょっと待て!! 何だ今のは!!」
「今日の姫様はいつにも増して痛ましい御容体……私たちもひとまずここを離れるが身のため……」
「ぬふぅ」
蓬莱山輝夜は姫様ではない もっとおぞましい何かだ
幻想郷の奥深さに大いに恐れを抱きつつ、今度は鈴仙の師匠こと八意永琳を訪れる事になった。
「はじめまして、八意永琳です。ウチの兎たちを助けてくれて、本当にありがとう」
部屋に入った俺たちを視止めるなり、永琳は椅子から立ち上がって、深々と頭を下げてきた。
「おいっ、鈴仙!! まともじゃないか、この人!!」
「……あのねぇ」
驚いて肩をバンバン叩く俺を、鈴仙の白い目が迎えてくれた。
そんな俺たちを見る永琳の目が、晩年のジャイアント馬場を見つめるお婆ちゃんみたいになっている。
「あー、そうじゃなかった。こちらこそありがとう、永琳。俺の事診てくれたんだって?」
「代価としてはとても足りないくらいよ。私たちの管理が至らなかったせいで、貴方の腕を一本台無しにしてしまったわ」
「……やっぱりダメかな」
「難しい質問ね。機能がどれだけ戻るかはこれから次第。
上手くいけば日常生活に支障が無い程度までは回復するかもしれないし、下手を打てばそのまま一生動かない」
「……っ……」
隣に立つ鈴仙が、悲愴な面持ちで息を呑む。……何で彼女がこんな顔をしないといけないのだろう。
「そっか……でも正直言って、最初に斬られた時にこの腕の事は諦めてたんだ。だから、ありがとう。
ちゃんと動くようになるかもしれない、ってだけでもありがたいや」
だから、できるだけ明るく礼を言った。
永琳の眉尻が、優しく下がる。
「そう……そう言ってもらえると、私としても手を尽くした甲斐があったわ。
行く宛ても無いでしょうし、貴方の腕に目処が立つまでは、好きなだけここにいてちょうだい」
「……だってさ、鈴せ……ん?」
鈴仙の方を振り返って、ぎょっとした。
いつの間にやら大粒の涙をぼろぼろこぼしながら、鈴仙は泣きじゃくっていた。
「……っ、ごめんなさい……ごめ、ん……わ………わた、し…………私、が……」
ついに両手で顔を覆って、その場にへたり込んでしまった。
「お、おいおい、何で泣くのさ……なあ永琳、俺何かまずい事したっけ?」
何が何やら、どうしてよいのかサッパリ分からず、永琳に助けを求める。
「とりあえず、ズボンのチャックが開いてるわ」
「オゥシット!」
それは確かにまずい。慌ててファスナーを上げ……
「って、そうじゃなくて」
すっかりアホの子になってしまった俺と、嗚咽を漏らす鈴仙に目を遣り、永琳は一つ苦笑を浮かべた。
「ねえウドンゲ、そのままでいいから聞きなさい。
彼が今の状態に慣れるまで、貴方が左腕の代わりを務める事。
彼の世話は、全て貴方に一任します」
「……はぃ…………っ、はい……」
面(おもて)を覆い、肩を震わせながら、鈴仙はこくこくと何度も頷いた。
「おいおい。いいよ、そこまでしてくれなくても……」
「それと」
少し強い調子で俺の言葉を遮ると、永琳は険しい眼差しを俺の方に向けた。
「聞いたわよ。貴方、最後は一人で突っ込んで行ったんですって?」
「……ああ」
あの時は無我夢中だったが、今思い返して、ようやく背中を冷たいものが走る。
「確かに貴方の腕と引き換えに、あの二人の命は助かった。
……でもね、それはたまたま賽の目が比較的良い方向に出た、というだけの話。
私は、貴方の選択は大きな間違いだったと断言するわ。
このままだと、いつか貴方は同じ過ちを繰り返して、取り返しのつかない事態を招く事になる」
「それは……!」
違う、俺は間違ってなんてない……と反論しようとしたが、自分の左腕と、隣で泣いている鈴仙を省みて、何も言えなくなった。
「…………そうだな……多分、何かを間違えた」
何をどう間違えたのかは、まるで分からないけど。
頭を垂れた俺に、永琳は満足げな優しい笑みを返してくれた。
「うん、今はそれでいいわ。貴方はウドンゲと違って、少しは柔らかい頭を持っているようね。
ここにいる間、腕のついででいいから、その事についても考えてちょうだい」
「ああ、脳味噌の柔らかさには自信がある。周りから『お前の脳はメレンゲ状になっているに違いない』と言われた事もあるぞ」
「褒められてないわよ、それ。
……まあいいわ。ほらウドンゲ、いつまでそうしてるの。彼も困ってるわよ」
苦笑いを漏らすと永琳は椅子から腰を上げ、鈴仙の前にしゃがんで、頭をごしごしと、少し乱暴に撫でた。
「……はい……っく、ごめんなさい……」
「ふふ、まったく。絶妙な時期に絶妙な組み合わせね。
あのスキマ妖怪も、たまには粋な事をするものだわ」
永琳の言っている事はいまいち分からなかったが、
鈴仙を優しくあやす姿を見て、師弟というより、年の離れた姉妹みたいだな、と思った。
「ほら、二人ともお腹が空いてるでしょう? 私もまだだから、一緒にお昼にしましょう」
「……はい」
「ああ」
ここで俺が腹時計でも鳴らせば綺麗にオチると思ったが、生憎そんな気配も無かったので、
……ぶー――――っっ。
屁で代用する事にした。
『…………』
――ズドガッシャー――――ンッッッ!!!!!
無言で、師弟の見事に息のあったツープラトンドロップキックが俺に炸裂した。
さて、部屋を移して三人で少し遅めの昼ご飯をいただいている訳だが。
「よっ、と、とと……」
右腕一本だけで食事をするというのが、こんなに難儀なものだとは思わなかった。
特に、魚や汁物の扱いづらさは相当なものだ。
「くそ、かくなる上は……」
箸で焼魚の頭をガッシリとホールドし、エラの根元、身のしっかりと付いたところにがぶり付く。
そして、そのまま顎を使って、咥えた身を引っ張り上げる。
するすると、身が綺麗に骨から剥がれた。……うん、美味しい。
「わ、凄い……」
「なかなか器用な真似をするわね……って、そうじゃなくて、ウドンゲ」
「はい」
「彼が困ってるわよ? ちゃんと食べさせてあげないと」
「えっ」
「ぐ、やはりそう来ましたか……わ、分かりました。やってやりますよ!」
驚く俺を尻目に、鈴仙の方はすでにこうなる事を想定していたようで、気合を入れて俺の隣に寄って来た。
「あ、あの……鈴仙さん?」
「う……わ、私だって恥ずかしいんだから、覚悟を決めてよね」
「わ、分かった……じゃあ、そこの煮豆から……」
「うん、それじゃ……………………は、はい、あーん……」
鈴仙が顔を赤らめて、箸を差し出してくる……そこまでは、嬉し恥ずかしの青春フルスロットル状態なのだが。
「う、う~~~~~~」
その瞳は硬く閉じられ、手元がガタガタと震えていた。
これで豆を落っことさないというのも、ある意味立派な芸当ではあるが。
「ダッ、ダメッ!! やっぱり恥ずかしい!」
ずぼっっっ!
「ふごっ」
羞恥のあまり思わず突き出された煮豆が、俺の鼻の穴に捻じ込まれた。
「な、何をしやがるこの野郎!! ふんっっ!!!」
すこー――んっ。
俺の鼻から撃ち出された煮豆が、メジャー級のジャイロ回転で鈴仙の額をヒットした。
「あいたっ! ご、ごめんなさい……」
「……貴方たち、予想の斜め上を行ってくれたわね……ほらウドンゲ、やり直し」
「はい……そ、それじゃもう一回…………あ、あ~ん」
呆れ顔の永琳に促され、今度は、焼いた筍を摘まんで差し出してくる。
先程と違って手元は割としっかりしているし、瞳もちゃんと開かれてはいたが、相変わらず顔は真っ赤だった。
「…………」
「ど、どうしたの? 早く食べてよ……」
「もっと恥ずかしそうにしてくれ」
「う……な、何言ってるのよぉ……」
鈴仙の目元が羞恥でじんわりと潤んだ事に嗜虐心を満たされた俺は、筍にかぶり付いた。
「んん、もぐもぐ…………うん、美味しい」
「そ、そう。よかった……」
――不思議だ。自分で食べるより、ずっと美味しいや。
見ていた永琳が、くすくすと堪え切れずに笑っている。
誰かと楽しく食べるご飯は、こんなに美味しいものだったのだと、永らく忘れていた。
「あ~~、婆さんや、メシはまだかのう……」
「……今食べてるでしょ……」
すっかり脳味噌が緩みきった俺に、鈴仙が呆れた顔をしながら箸を差し出してくれる。
昨晩の麻酔が切れて痛み出した左腕も、今はまったく気にならなかった。
そんな感じで、俺の永遠亭での生活が始まった。
日中は永琳による左腕の治療、鈴仙についてもらってのリハビリに主に費やし、
空いた時間はイナバの子たちと遊んだり、雑用を手伝ったり。
一月ほど経って、握るとまではいかないが、指に力を入れる程度の事が出来るくらいには左腕も回復した。
「お、何だこりゃ」
永琳と鈴仙と三人で屋敷の骨董品の手入れを行っていると、一本の日本刀が目についた。
特に豪奢な装飾が施されている訳でもなく、業物という感じはしなかったが、使用するのに問題は無さそうだった。
「なあ永琳、これ、使わせてもらってもいいかな?」
「えっ……ちょっと、何に使うのよ、そんな物……」
鈴仙が露骨に顔を顰めるが、俺とてまったく考え無くそんな事を言っている訳ではない。
「ずっと考えてたんだよ。今のままじゃ、誰かに護られながらでしか、俺はこの幻想郷で生きていけない。
そんな情けない生き方は、俺は嫌だ。まずは自分の身くらいはちゃんと守れるようになりたい」
「……あらあら、ずいぶん言うわね。使うのは別に構わないけど、右腕しか使えない貧弱な坊やに、ちゃんと扱えるのかしら?」
「ふん、戯言を。これから扱えるようになるんだよ」
――ふにふに。
永琳が俺の事を弄って遊んできたので、負けじと鈴仙の胸を弄くりまわした。
「ななな何するのよこの辻斬りエッチ!!!」
――ガシャーンッッッ!!!!!
「ぶごっ」
高そうな花瓶を、思いっ切り脳天に叩き落された。
「無念……」
薄れゆく意識の中、いつか、編み出した秘剣でこの暴力兎の衣服を靴下だけ残して全て斬り刻んでやろうと思った。
そんな感じで、永遠亭の生活にもずいぶん慣れてきた。
日中は永琳による治療、鈴仙にリハビリのついでにセクハラしたりするのに主に費やし、
空いた時間はイナバの子たちと遊んだり、てゐに騙されて刀を振り回して追いかけたり。
半年ほど経って、何とか茶碗を持ったり、物を掴む程度の事が出来るくらいには左腕も回復した。
その日は、永遠亭のだだっ広い庭で、イナバの子たちと竹馬で遊んでいた。
やはり元が兎と言うだけあって、皆運動神経がよく、軽やかに乗りこなしている。
「ねえ、競争しない?」
それまで遠巻きに見ているだけだったてゐが、俺に勝負を持ち掛けてきた。
「ほう、俺に竹馬で勝負を挑むとは、いい度胸だ。
俺はかつて、四メートルの特製竹馬で二階の覗き見を敢行し、
あっさりバレてそのまま逃げて町内を一周する羽目になったほどの凄腕竹馬ライダーだぞ」
「あ、貴方ねえ……」
俺の過去の偉業に感動した鈴仙が、犬の宿便を見るような目で俺を見ていた。
「じゃあ、あそこの目印まで競争ね」
「うむ」
程なく準備を終え、スタート地点にてゐと二人並んで立つ。
左腕は肩より上には上がらず、激しい運動に耐えられるほどの握力が無いので、左手を布で結わえて固定してある。
いつの間にやら、イナバの子たちが全員野次馬と化して見守っていた。
「それじゃ、よ~い……どん!!」
イナバの子の合図で、スタートを切った。
「ほっ、ほっ、ほっ!!」
我ながら最高のスタートを切り、歩幅の違いを生かしたストロークで、みるみるてゐとの差を広げていく。
「大人気なーい!!」「みっともなーい!!」「卑怯者ー!!」
イナバの子たちの声援が、俺にみなぎる力と勇気を与えてくれる。
みんなありがとう!! 俺がんばるよ('A`)
……それにしても、自信たっぷりに勝負を挑んできた割に、てゐはずいぶんと遅いんだな。
「ふはははは、遅いぞ、てゐ!!」
勝者の余裕で後ろを振り返ってみると、
――てゐの顔に、いつもの邪悪な笑みが浮かんでいた。
「? って、うわっ!?」
竹馬を下ろした位置に地面の感触が無く、投げ出されるような浮遊感に襲われる。
――ズボー――――ッッ!!!
そのまま落とし穴に見事滑り落ちた。
「あ、あ痛たたた……何ともレトロな真似を」
泥にまみれながら、思わず苦笑いが漏れる。てゐとの勝負が真っ当に進むと思った俺が馬鹿だった。
『あははははははっ!!』
イナバの子たちから大きな笑い声があふれ、
「ちょっとてゐっ!! 何やってるのよ!!!」
……鈴仙の絶叫に打ち消された。
『……………………』
イナバの子たちが皆驚きに小さな身を竦め、場を居心地の悪い静寂が支配した。
鈴仙が悲壮な表情でこちらに駆けて来て、穴の淵から覗き込んできた。
「ね、ねえ、大丈夫? 腕は?」
「……ああ、大丈夫。腕も、ほら」
立ち上がって、布を解いた腕を指差して見せる。
落とし穴は、立てば頭がギリギリ出る程度の深さだった。……まったくてゐめ、周到な真似を。
「あぁ、よかった……ほら、引っぱってあげるから、右腕出して」
心底ホッとしたように笑うと、鈴仙は俺の方に手を差し出してくれた。
……それはありがたいのだが、この角度で君がしゃがみ込むと……あぁ……
――淡い水色の幻想郷が、俺の眼前に花開いた――
「ちょ、ちょっと、鼻血が出てるじゃないの! やっぱり何処かぶつけたんじゃ……」
「ああ……かなりヤバいから、しばらくこのままにしておいてくれ」
「? 何を言っ、て…………」
俺の視線の行く先に気づいた鈴仙の動きが凍りついた。
「な、な、なななななななな」
みるみる顔中に血が集まり、頭から煙を吐くと、
「何を見てるのよこの馬鹿ああああっっっ!!!!!」
――ドゴッ!! ドゴッ!! ドゴッ!!
「ぶはっ」
顔面に、体重の乗った見事なスタンピングを立て続けに叩き込んで来た。
「馬鹿っ、大馬鹿っ!! 心配して損した、心配して損した!!
この蓬莱エッチ、嫌い、嫌い、大っっっっっ嫌いっっっ!!!!!」
――ドゴン、ドゴン、ドゴン、ドゴン、ドゴンッッ!!!
「ちょっ、そんなぶほっ、丸見え、ぐはっ、やめっ、死ッ」
「……ねえてゐちゃん、止めないでいいの?」
「あー、いいの。いつもの夫婦ゲンカだから」
「お兄ちゃん、血まみれなのに幸せそうに笑ってる……怖いよぉ……」
イナバの子たちが、眼前の地獄絵図に小さな身を竦め、場を先程とは違う意味で居心地の悪い静寂が支配した。
…………
「……なあ。心配してくれたのは嬉しいけど、さっきのアレはちょっと過剰だぞ?
みんなビックリしてたじゃないか」
イナバの子たちに断って、鈴仙と二人その場を離れて歩きながら、先程の件について訊いてみた。
「……だって、あんな悪戯で、万一腕がまたおかしくなっちゃったりしたら……」
「大丈夫だって。てゐだって、いつもそこまで酷い事はしないだろ?」
「それはそうなんだけど……でも…………その、ごめんなさい……」
…………ちょうどいい機会だ。以前からの疑問をぶつけてみる事にした。
「なあ鈴仙。前から思ってたんだが、俺の左腕の事になると、いつも『ごめんなさい』だよな?
他の事だったら普通に笑ったり怒ったりしてくれるのにさ」
こっちは本当に感謝してるってのに、相手が謝ってばかりだから、逆に自分は悪い事をしているような気分になってくる。
「それは……私のせいで怪我が酷くなっちゃったから……」
「はぁ……前にも言っただろ? 俺が勝手に突っ込んで勝手に怪我したんだから、誰も何も気にするような必要は無いって」
「……そうじゃない、そうじゃないの……私が……私が、弱かったから」
「はい?」
何のこっちゃ。
「…………」
それきり鈴仙は暗い顔で黙り込んでしまい、肝心な事は何も聞けなかった。
「で、私の所に来た、と」
「だって、鈴仙ってば、肝心な事は何にも教えてくれないんだもんよ……」
苦笑いを浮かべる永琳に、思いっ切り不貞腐れた返答を返してやった。
「しょうがないわね……いいわ、答えられる事なら何でも教えてあげる。で、ご質問は?」
「ん、ありがとう。そうだな……あの娘、時々俺の事を見て、凄く辛そうな顔をしてる事があるんだ。
過去にあの娘にあった事で、何か思い当たるところがあるなら、それを教えて欲しい」
頭の中を整理しながら投げた質問に、永琳は人差し指で頬をかいて笑った。
「ふふ、それは確かにあの娘からは絶対に教えてくれないでしょうね。
……いいわ、話してあげる。ただし……条件が二つ」
そう言って、永琳は悪戯っぽい微笑を浮かべた。……条件?
「何だ? 屋敷の中を全裸でブラジャーだけ着けて走り回れ、という程度の事なら、今すぐやってやるぞ」
「そんな事をしても、貴方が悦ぶだけだから意味がないわよ……そうじゃなくて」
おほん、と一つ咳払いをして彼女は続けた。
「まず一つ目。これから話すのは、今のウドンゲを形作る、最も大きな過去。
おいそれと第三者にして良い類の話ではないわ。
――ねえ、貴方はウドンゲの事、どう思ってる?」
……こういう意地悪なところが、この人にはある。
「なあ……全部分かってて訊いてきてるだろ」
「当然です。だけど、それでも私は、貴方の口からちゃんと聞きたい」
「はあ……分かったよ、ったく。好きだよ。好きだからこんな事で悩んでるんだ」
一息に言って、彼女からそっぽを向いた。顔が真っ赤になっているのが自分でも分かる。
けど、永琳はそれを茶化すでもなく、柔らかく微笑んで、俺の頭を撫でてきた。
「はい、よく出来ました。きっとあの子も貴方の事を、あるいは貴方以上に好いている。
……けど、それだけでは貴方たちにはまだ足りないわ」
俺の頭を放し、彼女は俺の眼前に人差し指を立てた。
「そういう訳で、さあ次の条件。
ね、初めて会った時に貴方に出した課題、覚えてるかしら?」
「ああ」
あの時、何を間違えたのか。
あの時から今日まで、今日から明日へ、自分は何を為すべきなのか。
今日まで半年の間、永遠亭の人たちと生活を共にしながら、ずっと考えてきた。
「……答えは、見つかった?」
「ああ、見つけた。永琳が納得できるかどうかは分からないけど、少なくとも俺には、もうこれ以上の答えを出す事は出来ないと思う」
「そう……いいわ、それじゃ貴方の答え、聞かせてくれる?」
きっと彼女は、俺の考えている事なんて、語るまでも無く全てお見通しなのだろう。
それでも、今までの感謝を思いの丈詰めて、精一杯の言の葉を紡ごうと思った。
全てのものには、そこに在る理由と、為すべき事がある。
神様の考えている事など分かりようも無い俺は、
自分がこの幻想郷に来た理由、この幻想郷で為すべき事を、勝手に自分で定める事にした。
「鈴仙、いる?」
夕食の後、鈴仙の部屋を訪れ、襖の向こうに声をかけた。
『ん? 珍しいわね、そっちから来るなんて。いいわ、入って』
返事を得て襖を開いて足を踏み入れると、勉強中だったらしく、
机に広げた竹簡を読み耽る鈴仙の姿が目に入った。
「悪い。勉強中だったんだな」
「いいわよ、別に。何か用かしら」
「……ああ、大事な話がある」
それも一世一代の。
鈴仙も俺の様子から只ならぬものを感じたのか、竹簡を仕舞い、俺の方を向いて居住まいを正した。
さて、長い問答になる。腹を据えて唇を湿らせる。
「まずは……悪い。永琳から、昔何があったのか、全部聞いた」
「……っ……」
鈴仙がハッと息を呑む。不安げに俺を見つめる彼女に、俺は続けた。
「何で今まで鈴仙が俺に謝り続けてきたのか、何をそこまで後ろめたく感じていたのか、よく分かった。
だから、その上で改めて君に言いたい」
俺は姿勢を正座に変え、
「――今までありがとう。鈴仙のお陰で、ここまで頑張ってこれた」
目の前の恩人に、頭を下げた。
「ちょ、ちょっと、頭なんて下げないでよ。何で礼なんて……そもそも私が……」
鈴仙が慌てて俺の面を上げようと肩を掴んで引き上げる。
眉尻を悲しげに下げた彼女と顔を間近につき合わせて、俺は一気に言の葉をぶつけた。
「何度も言ったと思うけど、本当にありがたいって思ってるんだよ、俺は。
そもそも、鈴仙のやってる事、言ってる事は間違いだらけだ。
確かに月から逃げた君からすれば、あの時の俺はさぞかしご立派に見えた事だろうさ。
だけど、そこでもう間違えてるんだよ、鈴仙は」
「え……」
「俺だって、鈴仙と同じくらい情けない間違いをしたんだ。
永琳が言ってたよな? たまたま良い賽の目が出ただけだ、って。
あの時の俺はさ、自分の命を使って君やてゐ、あの子たちの心に、一生消えない傷を刻もうとしていただけなんだ」
自分の命と引き換えに誰かを助けようなんてのは、残される者の痛みを一切考えない、馬鹿げた自己満足だ。
生活を共にして、永遠亭のみんなを大好きになった今だから、そう言い切れる。
自分がそういう消え方をして、残った人たちがどれだけ悲しい目を見るか、想像しただけで胸が張り裂けそうになる。
「俺達、一緒なんだよ。鈴仙」
「……一緒?」
「力が無いから、弱いから、正しい答えを選ぶ事が出来なかったんだ。
――俺さ、決めたよ。もっともっと鍛えて、スペルカードも扱えるようになって、今よりずっと強くなる。
誰も何も傷つけずに、自分も傷つかないで大好きな永遠亭のみんなを守れるくらいに」
じっと黙って聞き入ってくれている鈴仙の両手を取って、しっかりと握った。
「ぁ……」
「だから、さ。その……鈴仙、お、俺と、その……一緒に……」
……あーもうっ! 何で一番肝心なところがちゃんと言えないんだよ!
――ぽたっ。――――ぽたっ。
俯いてもごもごとヘタレていると、手の甲に、冷たいものが二つ落ちてきた。
「?」
何事かと顔を上げてみると、
「っ、……っ、……っ……」
鈴仙が、声を必死に噛み殺して泣いていた。
「おっ、おい、鈴仙? 俺、また何か拙い事言った?」
今日はズボンのチャックもしっかり閉めて来た筈だが。
鈴仙は首を横にブルブルと二回振って、搾り出すように声を出した。
「違う……違うの……」
「違う? じゃあ、何で……」
「私……貴方みたいにはなれない。貴方みたいに強くない……
月に残してきた子たちの事を思い出すだけで、そこから動けなくなるの…………」
「…………」
――ほとほと、呆れ果てた。
「…………あ、あのなぁ……」
どこまで優しくて不器用なんだ、この娘は。
もうこれ以上言葉を弄したところで、鈴仙の胸には届かないだろう。
だから俺は、自由の利かない左腕に、あらん限りの力を込めて――
「よっと」
「きゃっ……」
――彼女の体を抱き寄せた。
「ちょっ、ちょっと……」
「……なあ鈴仙。俺と一緒に、頑張ろうぜ。
君が一緒に頑張ってくれたから、俺の左腕もこんなに動くようになったんだ。
もし鈴仙が動けないって言うのなら、今度は俺が君の手を引いてやるからさ」
「…………」
「…………鈴仙?」
「……………………いいのかな」
蚊の鳴くような、か細い声。
「私…………貴方と、頑張れるかな」
「頑張れるさ。鈴仙は強い子だからな」
「私………………貴方と幸せになって……いいのかな」
「当たり前だ。月のみんなも、赦してくれる。友達の幸せを願わない奴なんて、いるもんか」
「………………………………ぅ……」
鈴仙の顔が、嗚咽に歪む。
一旦体を離して、彼女の頭を胸元に抱え込んでやった。
「……ぅわああああああああああんっっ!!!」
体の底から声を張り上げて、鈴仙は赤子のように泣いた。
泣きじゃくる鈴仙の頭を撫でてやりながら、俺は彼女に出来る限りに優しく声をかけた。
「なあ、鈴仙。ひとつ、いい提案があるんだ」
二人で強くなると、決めた。
二人で幸せになると、決めた。
ゴールではなく、二人の新しいスタートとして、相応しいものになると思う。
俺は、心に湧く限りの愛情と、胸に湧く限りの勇気を振り絞って、腕の中の大切な人に告げた。
「――結婚しよう、鈴仙。二人で、幸せになろう」
――――――――――――――――――――――――――――――――
面(おも)をかすめて 吹く風寒く
笠(かさ)は飛べども 捨てて急ぎぬ
はるか離(さか)りて たたずまえば
なおもきこゆる 此処に幸あり
此処に幸あり
――――――――――――――――――――――――――――――――
・
・
・
・
・
・
――以下、上白沢慧音の日記より抜粋
×月×日(大安)
今日は、永遠亭で行われた結婚式に招かれた。
新郎は、馬乗袴を凛々しく着こなした人間。
新婦は、白無垢を艶やかに着こなした月の兎。
新婦の師・永琳は優しい笑みを浮かべ、輝夜は曖昧なまま列に加わった。
界隈の関係者をことごとく集めた為、式は大変な賑わいを見せ、私も大いに楽しませてもらった。
新郎・新婦共に、初めて見た時よりも、格別に良い目をしていた。
あれは、いい夫婦になるだろう。
若き夫婦の行く先に、どうか八百万の神の加護のあらん事を。
2スレ目 >>52
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2スレ目 >>52 後日談
「……ふうぅぅぅ…………」
吸い上げた空気を腹で練り上げ、全身に余す所無く伝える。
木刀を握って掲げた右腕に静かに力を込め、常人よりも弱い左腕が暴れて力を逃がさないよう、しっかりと腋を締める。
よく無我の境地、と言うが、それは俺が剣を振るうにあたって、まるで縁の無い概念だった。
俺が剣を振るう時にいつも脳裏に描くのは、守りたいもの――この永遠亭の人たちの笑顔だった。
爪先から踵、膝、腰、肩、肘、そして剣の柄へと瞬時にうねりを伝え……
「――――っ!!」
ひゅんっっっっ。
振るった木刀が、鋭く大気を裂いた。
「…………ふぃー――っと。今日はこれまでかな」
ホッと息を吐くと同時に、張り詰めていた周囲の空気も一息で弛緩したものに変わる。
汗を拭くタオルを取ろうと、縁側に足を向ける。
いつの間にか、縁側に腰掛けて、鈴仙と永琳が俺の稽古を見ていた。
「お疲れ様、あなた。はい、お茶」
鈴仙が、湯呑みとタオルを差し出してくれる。
「ん、ありがとう」
ありがたく受け取り、渇き切った喉をゆっくりと潤し、タオルで頭をかき混ぜた。。
「あらあら、すっかりいい夫婦ね、貴方たち。うふふふふ」
そう言う永琳は、すっかり近所のウザいオバさんみたいになっていた。
「……もう、師匠……何言ってるんですか」
いつも同じようにからかわれているにも関わらず、鈴仙が羞恥に顔を赤くする。
こういう初々しいところは、いつまで経っても変わらない。
「それにしても、この短期間で大したものね。この前、ついに妖夢から一本取ったでしょう」
永琳がそう言って楽しそうに俺を見て笑った。
刀を自分の武器に選んだ時点でまず最初に選んだ目標が、白玉楼の庭師、魂魄妖夢だった。
雑用で度々ここを訪れる彼女を捕まえては稽古をつけて貰い、この間ついに一本取るに至ったのだ。
「ああ。とは言っても、竹光での模擬戦で、だけど。
刀だけの勝負ならいいとこ行くけど、スペルカードを交えた総合力じゃ、まだまだ勝負にならない」
今まで二種のスペルカードを組み上げ、十分実戦で使える、と永琳からもお墨付きを貰ったが、まだ鍛える余地は十分すぎるほどにある。
「という訳で鈴仙。仕上げにちょっと付き合ってくれないか?
実は、新しいスペルを二つほど試してみたいんだ」
「え? あ、その、今日は……」
何故か渋る鈴仙に、永琳が助け舟を出してきた。
「あー、そういう事なら、今日は代わって私がお相手するわ。貴方のスペルに興味もあるし」
「え、いいの? でも、何でまた」
「ふふ、今日は諸事情につき、鈴仙が貴方の相手をしてあげられないの。
理由は後で彼女から聞きなさい」
「し、師匠!」
悪戯っぽく笑う永琳に、鈴仙が顔を真っ赤にしてうろたえているが、俺にはさっぱり事情が呑み込めなかった。
今までのスペル二種も、鈴仙に付き合ってもらって組み上げたものだ。
「まあいいや。それじゃあお願いするよ、永琳」
これはこれで、ありがたい話だ。
実の所、今回のスペルは、鈴仙よりも永琳のようなタイプに対して使う方が、より大きな効果が期待できるものなのだ。
庭に出て、永琳と七メートル程度の距離を置いて向かい合う。
いつの間にやら、てゐやイナバの子たちも縁側に集まって野次馬になっていた。
「いいわよ。何時でもいらっしゃい」
永琳は特に身構えるでもなく、悠々と佇んでいた。
たかが出来たてのスペル、恐れるに足らず、といった感じだ。
……これから己の身を、かつてない恐怖が襲う事も知らずに……
「それでは、いざ」
素振りの時と違い、稽古用の木刀ではなく、愛用の日本刀を肩の上に構える。
鈴仙やてゐ、イナバの子たちが固唾を呑んで見守っている。
――神弾「桃園暴き」
スペルカードを切り、構えた刀を振り下ろす。
ひゅんっっ――――――ぱちんっ。
刀が空を切る音に一瞬遅れて、永琳の背中から、金属の爆ぜるような音が聞こえた。
「……えっ、何!? ちょっと、何をっ」
永琳が酷く慌てた様子で自分の背中をまさぐっている。
「……成功だ」
何が何やら分からない様子でおろおろと狼狽する永琳を、野次馬連中が唖然と眺めていた。
「わ、あんなに慌てた師匠、初めて見た……ねえ、何をしたの?」
「ふ……よくぞ聞いてくれた。我が愛しの鈴仙」
残心の姿勢を解き、野次馬連中にスペルの解説をしてやる事にする。
「このスペルカードの特性はただ一つ……相手の体、衣服に一切傷をつけず、ブラのホックだけを破壊する事だ」
「ぶふううぅぅぅー――――っっっ!!!!!」
「ああ、それで『桃園暴き』ね。上手い事を言う」
俺のありがたい高説に、鈴仙が茶を噴き出し、てゐがポンと手を叩いた。
このスペルの欠点を敢えて挙げれば、幻想郷に、このスペルが効果を発揮しそうな程の桃園の持ち主があまり見受けられない事だろうか。
「げほっげほっ!! あっ、あなた、一心不乱に素振りしながら、こんなスペルを考えてたのっ!?」
「当たり前だ!!」
咳を散らしながら何故か俺に非難の眼差しを向けてくる愛する妻を、いかにも頑固亭主っぽく一喝する。
「見てみろ、あの永琳の様子を!!
たわわな果実が暴れるのが恥ずかしくて、もはや俊敏な動きは出来まいっっ!!!」
我ながら、悪魔の如き知恵の冴えようだった。
「…………あぁっ……」
――ふらり。
「ああっ、鈴仙様、しっかり!」
貧血のように体の力を失う鈴仙を、隣のイナバの子が慌てて支えた。
「ごめん、みんな……私、夫にする人、間違えたかも……」
「そんな事無いですっ!! ただ馬鹿なだけで、凄い人じゃないですか!!」
揃いも揃って、何やら失礼な事を言われている気がした。
「気を失うにはまだ早いぞ、鈴仙!!
ここで動きの鈍った相手に、もう一発新種のスペル、さあ照覧あれっっ!!!」
「……ちなみに、そのスペルカードの内容は?」
「剣圧とスペルの力を相乗させて、相手の衣服を、靴下だけ残して全て斬り刻む」
『何考えてるのこの大馬鹿っっっ!!!!!』
鈴仙と永琳の絶叫が、見事なシンクロを見せた。……嗚呼、麗しきかな師弟の愛。
「しかし、俺は一度やると言った事は必ずやり遂げる男!!!
永琳よ、その身にとくと受けよ!! 男の浪漫の奔流を!!!」
「ひっ、や、やめっ」
再び刀を構える俺に、永琳が怯えて息を呑み、身を竦めた。
……貴重な風景だ。この場にあの出歯亀風神少女がいないのが悔やまれる。
――夢斬「アルティメットフェチズム」
スペルカードを切り、渾身の力で刀を振る。
音鳴る事さえ赦さぬ神速で銀の光が閃き、そして――
――――――はらり。
俺の衣服が、靴下を残して全て布切れと化し、足元にこぼれ落ちた。
『きゃあああああああああっっっ!!!!!』
イナバの子たちから、黄色い絶叫が上がった。
「あ~、やっぱりダメか」
慌てて縁側に走ってタオルを取り、腰に巻きつける。
「な、何をやってるのよ貴方は……」
永琳が、ホッとしたのか呆れているのか、よく分からない引きつった表情をして聞いてきた。
「いや、実はこのスペル、未完成もいいところで、まだ自分の周りだけ……と言うより、自分自身にしか効果が出ないんだよ」
「……よく、そんな恐ろしい状態のスペルカードを人前で使えるわね……」
「う~ん、環境が変われば上手くいくかも、って思ったんだけどなあ……」
「…………上手くいく前に二種とも封印しなさい……」
グッタリと疲弊しきった永琳にダメ出しを食らい、今回のスペルカードはどちらもお蔵入りとなった。
「きゃあっ!! 鈴仙様、しっかりして!」
イナバの子の悲鳴に振り向くと、鈴仙が白目を剥いて気を失っていた。
「う、う~~~ん……夢よ……これは、悪い夢なんだわ……」
――今日も、永遠亭は平和だった。
…………
「いや~、酷い目にあったなあ、今日は」
「それはこっちの台詞よ……」
夕食後、二人で部屋に戻るなり、鈴仙にジト目で睨まれた。
「うっ……わ、悪かったよ……」
「まあ、分かればよろしい。師匠にもこってり絞られてたしね」
二人して苦笑を浮かべ、座布団に腰を下ろす。
「それにしても、スペルカードの中身はともかく、動き自体は凄かったわね。
二つ目の時なんか、速すぎて動きがまるで見えなかったわ」
「ん、ありがと。まあ、そこが持ち味な訳だからな」
左腕が人より利かず、パワーの点で越えようの無い壁がある為、今までスピードとコントロールに特化した鍛え方をしてきた賜物だろう。
「妖夢も焦ってたわよ。このままじゃすぐに抜かれちゃう、って」
「ああ、それは当たり前だ」
どのように生きるか、剣を振るか、進むべき道を完全に一つに絞った俺と、
色々な事に悩みながら剣を振る彼女とでは、成長の度合いが違うのは当たり前だ。
「あらあら、頼もしい限りね。私も負けてられないわね、うふふ」
ころころと鈴が鳴るように、鈴仙が笑う。
あれから彼女はすごく朗らかに笑うようになったし、人当たりも目に見えて柔らかくなった。
懐が深くなった、とでも言うのだろうか。内面的な目に見えづらい部分の成長が目立つが、
俺から見れば、彼女も俺と同じくらいか、あるいはそれ以上に強く逞しく成長していた。
「こっちだって負けてられないよ。……つくづく、みんなに感謝だな」
「うん……」
決して俺たち二人だけの力だけでここまで来れた訳ではない。
永琳は俺たち二人の師として、弱く幼い俺たちの道を影から照らしてくれた。
てゐやイナバの子たちとの優しくあたたかな日々が、心に尽きせぬ力を与えてくれた。
俺にとっての妖夢しかり、外の人たちも、俺たちの背中を強く押してくれた。
…………えっと、一人、肝心な人を忘れている気がする。
『も もこぉ』
『あらあら姫、こんな所にいらしたんですか。お部屋に戻りますよ』
ごきり。
ずるずるずるずるずるずるずるずる…………(フェードアウト)
「……………………」
「……………………」
襖の向こうで何やら不穏な気配がしたが、そんな細かい事をいちいち気にしているようでは、立派な大人にはなれない。
気を取り直して、改めて鈴仙の方に向き直した。
「あー、おほん。それはそうと、今日は一体どうしたんだ?」
稽古に付き合うのを断られたのは、今日が初めての事だった。
「う、うん。……実は、今日だけじゃなくて、しばらくあなたの稽古に付き合えなくなっちゃったの」
「ええっ!? け、倦怠期?」
「違うわよ!! 私があなたの事をどれだけ、その、あ、愛してるか、知ってるでしょ?」
「うっ…………君も言うようになったな……」
見事な不意打ちに、不覚にも自分の顔が赤くなるのが分かる。
「おかげ様で。……って、違うの。倦怠期とか、そんなのじゃなくってね……」
そう言うと鈴仙は俺の手を取り、自分のお腹に当てると、頬を赤らめて幸せそうに呟いた。
「……この子が、ビックリしちゃうから」
「……………………」
「……………………」
「……………………マジで?」
すっかり固まってしまった全身に活を入れ、何とか唇だけを動かした。
「大マジよ。実はね、最近体が凄くだるくて、この間師匠に診てもらったの。
そしたら、その……『おめでとう』……って」
「そうだったのか……悪い、全然気づかなかった」
「ううん、いいの。私も風邪か何かだと思って、少し無理しちゃってたから」
「そっか…………なあ、この中に、俺たちの子供が……」
「そう。私たちの、可愛い赤ちゃん」
幸せそうに瞳を蕩かす鈴仙のお腹を、一つさすってみた。
……ふつふつと、体の芯から力が湧き出してくる。
「…………う……」
「?」
「うおおおおおおおおおっっっ!!!!! でかした鈴仙っっ!!!
すげえっ、すげえよ!!!!!」
一体、どこまで俺に力を与えてくれるのだろう。
一体、どこまで俺を幸せにしてくれるのだろう。
「きゃっ! ちょ、ちょっと、大声出さないでよ」
「馬鹿っ、これが騒がずにいられるか!!
おおおおおいっ、みんなっ、聞いてくれえええええええええ!!!!!」
矢も盾も堪らず、部屋を飛び出した。
男泣きに泣きながら、屋敷中を叫んで走り回った。
そうでもしないと狂ってしまいそうなくらい、俺は幸せだった。
「ね、貴方のお父さんはね、あの通りちょっと馬鹿だけど、とても強くて優しい素敵な人なの。
貴方の事も、きっと幸せにしてくれるから……すくすく元気に育ってちょうだいね」
…………それから半年…………
さて、今日は十五夜、いわゆる中秋の名月という奴である。
慣例に従い、博麗神社で界隈の関係者総勢で、月見がてら宴会を行うという事だった。
未だ残暑の跡を色濃く残す中、すっかりお腹の膨らんだ鈴仙を連れて行くのも躊躇われたが、
本人の希望を尊重して、決して無理はしない、という約束を取り付ける事で妥協した。
すっかりマタニティドレス姿が板についた鈴仙の手を引いて、ゆっくりと味わうように、空を泳いだ。
「飛ぶの、上手くなったわね」
「ああ」
これも、外の世界からの異分子だった俺が、完全に幻想の一部となった証なのだろう。
誇らしくこそ思えど、悪い気などする筈も無かった。
…………
「わあ、すごいすごぉい、触らせて触らせて」
神社に着くなり八雲一家に出迎えられ、橙がごろごろと鈴仙のお腹に擦り寄ってきた。
「こらこら橙、やめないか。鈴仙の体に障る」
「ふふ。いいのよ、藍。……ねえ、橙。たくさん撫でてあげてちょうだいね」
「うんっ。…………わあ、あったかいな……」
当人の許しを得た橙が、お腹に顔を埋めて、瞳を輝かせている。
鈴仙は、他人にお腹に触られるのを嫌がるでもなく、むしろそれを歓迎していた。
「申し訳ない。後できつく言っておく」
藍が、俺の方に頭を下げてきた。
「いや、いいんだよ。よかったら、藍も撫でてやってくれ。鈴仙もお腹の子も喜ぶ」
「ええっ、いいのっ?」
藍の顔が、パッと輝く。……君もやりたかったのか……
「ああ。生まれる前からたくさんの人に愛してもらって、あの子も幸せになれるだろうさ」
「あらあら。それじゃ私も、ご相伴に預かってもいいかしら?」
「あんたはダメだ!!」
――ごんっっ。
「ふぎゅっ」
腹パンチしたくて堪らない様子の紫さんの鼻っ柱を、剣の柄尻でブン殴った。
「ひっ、酷いわっ! まだ何もしてないのにっ!」
「『まだ』って事は、これからする気満々じゃねえか!!
お願いだから、そのフリッカーの構えをやめてくれ……」
「わ、分かったわよぉ……」
いかにも渋々といった感じで、紫さんは目にも留まらぬ振り子の動きを止めた。
「ふう、まあいいや。……なあ、紫さん」
この人とはそう親しくした訳でもないけど、俺はこの人に特別な感謝の念を抱いていた。
「はい? 何かしら?」
「……ありがとう、紫さん。貴方には、本当に感謝してる」
「あらあら、いきなりどうしたのかしら」
「どうもしないさ。ただ、何となく」
――俺たちを巡り合わせてくれたのは、きっと。
「なあ紫さん。よかったら、鈴仙のお腹、撫でてやってくれないか。
本当は、貴方にこそお願いしたい」
「えっ、いいのっ!?」
――ひゅんひゅんひゅんひゅんひゅんっっ!!!
振り子の動きが再び激しくなる。
「ふざけるなっ!! アンタ今すぐ『撫でる』って単語を辞書で引いて来い!!」
「な、何よぅ、そんなに怒鳴らなくても、ほんの冗談じゃないのよ……」
「もういいから、早く行ってやってくれ……」
――ごろごろごろごろ。
「あ、よかった。ねえ紫~、この人たち何とかしてよ~」
「あらあらしょうがないわね。はいはい、今すぐ」
すっかりダメな子になってしまった式と式の式からダブル頬擦りアタックを受け、鈴仙が苦笑を浮かべて困り果てた声を上げている。
「ほらほら二人とも、離れなさい。次は、私の番」
ケダモノ二人を引き剥がすと、紫さんは鈴仙の前に片膝をついて、そっとお腹に手を当て、ふんわりと撫でた。
「……あたたかいわね。きっと、元気で幸せな子が生まれるわ」
「当たり前よ。私とあの人の子供だもの」
「うふふ、言うようになったわね、あの弱々しかった兎さんが。
……ね、鈴仙。……貴方、今、幸せ?」
噛みしめるような紫さんの言葉に、鈴仙は柔らかな笑みを返した。
「うん、とても幸せ。……ありがとう、紫。私も、貴方には凄く感謝してる」
「あらあら、夫婦揃って奇特な事ね。私、貴方たちに礼を言われるような謂われは無いわよ?
……でも、どういたしまして」
鈴仙には悪いと思ったが、そう言って淡く笑う紫さんは、幻想的なまでに綺麗だった。
で、そうこうしている内に続々と面子が揃い、色々な人たちに物珍しそうに囲まれる羽目となった。
「それにしても大きくなったなあ。あとどのくらいで生まれるんだ?」
「う~ん、あと一、二ヶ月ほどって師匠が言ってたわ」
「あら、もうすぐじゃないの。ねえ、どんな子が生まれるのかしら」
「ウササササ、きっとこんな子が生まれてくるわ(ttp://takuki.com/aic/img04/usakin.jpg)」
「ふざけるなこの野郎!!」
――どげしっっ。
洒落にならない冗談を言うてゐの背中を、思いっ切り蹴り飛ばした。
「そうよ、てゐ。きっとこの人によく似た、強くて男前な、素敵な男の子が生まれてくるに決まってるわ」
「何言ってるんだよ。きっと鈴仙によく似た、優しくて気立てのいい、可愛い女の子が生まれてくるに決まってる」
「あら、あなたったら。うふふふふ」
「あはははは」
『…………………………………………』
何故か、周囲の気温が二度ほど下がった気がした。
「……幽々子様、帰ってもいいですか」
「いやいや妖夢。だからあなたはダメなのよ。
そんな事だから、あの兎どころか、あなたより余程後に剣を持った彼にさえ勝てなくなるの。
あの二人の強さ、しっかりとその目に焼き付けておきなさい」
「……はい…………」
…………
さて、宴もたけなわ、そろそろ身の危険を感じる頃合になってきたので、輪を離れて、境内の方に避難した。
先に一人輪を離れていた鈴仙が、縁側に腰掛けて、じっと空を見上げていた。
秋の長雨の時期にも関わらず、よく澄んだ闇空に、真ん丸な月がその姿を晒している。
俺は黙って鈴仙の右隣に腰を下ろし、自分の左手を、そっと彼女の右手に添えた。
――右の腕は、仇為す敵を斬り裂き、屠る為のもの。
――左の腕は、愛する者を包み込み、守る為のもの。
それが、強くなると決めたあの日から、自分の両腕に課した大切な役割だった。
「…………」
鈴仙が月を見上げたまま、俺の肩に頭を預けてくる。
「……ね、今までずっとコソコソ隠れて生きてきたけど。
今なら私、あの月で生まれて育ったって、誰に対しても胸を張って言えるわ」
「そうか」
「うん。……本当にありがとう。全部、あなたやみんなのお陰」
「違うよ、鈴仙。確かに半分は俺たちが君の手を引いたり背中を押した結果だ。
でも半分は、君が逃げずにちゃんと自分で頑張ってきた成果だよ」
左の腕を上げて、彼女の肩を抱き寄せた。
鈴仙の瞳が、幸せにじわりと潤む。
「……大好きよ、あなた。もっともっと、幸せになりましょう」
博麗の結界の天上、夢と現の境界から、どこか懐かしい月の光が、優しく俺たちの体を包み込んでくれていた。
2スレ目 >>112
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最終更新:2010年05月27日 23:24