ルナサ6
ルナ姉と○○と音楽と Ⅱ(新ろだ2-261)
――練習は、厳しいものだった。
当たり前っちゃ当たり前なんだが、彼女たちは音楽に妥協がない。
騒霊としての存在意義がそうさせているのかもしれないが、音というものに厳しい。
自分も少しぐらいにはそういうのに慣れていると思っていたが・・・・・・現実はそう甘くなく。
趣味程度に音楽を齧っていた俺なんかとレベルが違った。
「音程が合ってない!半音も違ったら気持ち悪いわよ」
「声量もうちょっと上げて~。じゃないと私のトランペットが消しちゃうよ」
「バックの音をちゃんと聞いてよね。じゃないと合うものも合わないよ」
「歌いやすいように歌うのは良いのだけれど・・・・・・強弱もしっかりね」
容赦なく飛ぶ指摘の嵐。
特にルナサは凄い細かいところまで突っ込んでくる。
・・・・・・いや、まぁ、ね。分かってはいるんだ。悪気はないことも。
ただこれだけ続くとうんざりするのも事実なのだ。
「~~~~♪」
「ストップ」
ほらまた出た。ストップ。
「高音が安定しないわね。さっきのとこ、ソロで歌ってみて」
「あ、あぁ。ら~♪」
「もう一度」
「ら~♪」
「もう一度」
「ら~♪」
「もう一度・・・・・・」
・・・・・・悪気はないのは分かっている。
分かってはいるんだが・・・・・・。流石に、ちょっと限界だ。
そもそも俺は頼まれたからやってるわけだ。決して俺からやらせてくれといったわけじゃない。
確かに彼女たちは恩人だし、友人だ。だが、だからといって強制される謂れもない。
いや。違う。それ以上に。
俺は彼女たちとの世界の差を、感じていた。
「悪い。ちょっと外に出てくる」
「ちょっと。練習中よ。どうしたの?」
「・・・・・・俺はお前たちとは違う!
お前たちみたいに音楽に優れてるわけじゃないし、お前たちの音楽に俺の歌なんかが釣り合うとも思えない!
どうせライブでやったところで恥をかくのがオチだ!
あぁ、そうだよ。俺なんかが練習したって無駄だったんだ。そもそも乗り気じゃなかったしな。
確かに色々世話になった。お前たちには感謝もしているし、一緒に居ると楽しいよ。
だがそれとこれは違う!悪いがお前たちに付いてけないよ、俺は。
・・・・・・いつもの通り3人でやってくれ!」
「・・・・・・!」
「待って!話を・・・・・・!」
「ちょ、ちょっと!待ちなさいよぉ!」
「○○・・・・・・っ!」
あぁ。あぁ。違うのに。本当はちょっと休みたかっただけなのに。
あいつらの気持ちも分かってる。本気でやっているだけなのも頭では分かってる。
だけど、一度溢れ出した感情の波はもう止めようがなくて。
俺は――衝動のままに、言葉を放って、そのまま。
――そのまま。俺の名を叫んで、呆然とするあいつの姿を見もしないで、出て行ったんだ。
――外は、土砂降りだった。
「・・・・・・何やってんだ。俺」
今更後悔したって遅い。
そんなことは分かりきってるのに、俺は家に帰らず、出て行った館近くの森の中、頭を抱えていた。
本来、夜ではないとはいえ、人間が一人踏み入れるには危ない場所だ。
それに、雨が冷たくこの身をうちつづける。寒い。
だがそんなこと構うものか。
そう自棄になる気持ちと激しい自己嫌悪に今、俺は苛まれていた。
決してあいつらのことが嫌いになったわけじゃない。
歌も音楽も、嫌いなわけじゃない。
ただただ単純に、自分への重圧というか、かかってきている負担というか。
そういうのに嫌気がさしただけだった。
「・・・・・・考えてみれば、馬鹿だよな。俺。何を子供みたいに逃げてんだ」
はぁ、とマリアナ海溝よりも深いため息をつく。
「・・・・・・そういや」
あいつらと、最初に出会ったのも、この辺りだったよな・・・・・・。
「はぁ、はぁ・・・・・・」
息が切れ、肩を上下する。動悸が激しい。
足も擦り傷だらけで、もう動かしたくないほどに、痛い。
だが立ち止まってはいられない・・・・・・。
とにかく早くこの森から出なければ・・・・・・!
「一体なんだってんだ・・・・・・どうなってる!?
ここは、一体どこなんだ!
人を喰らう少女に、人語を解すオオカミに!果てはレーザーが飛んできた!
夢なら覚めてくれよ・・・・・・幻覚なら消えてくれよ・・・・・・俺が一体何をしたって言うんだ・・・・・・!」
あまりのことに錯乱しながら、とにかく走る、走る、走る!
それしかもう俺が出来ることはなかったから。
逃げることを選択するしかないと俺の本能が叫んでいたから。
留まる事は死を意味することを何より理性が知っていたから。
死・・・・・・。あまりに遠かったその単語が、今や俺の足を掴んで離さない。
死神が俺の首をいつでも刈れるように、その刃が首筋に固定され続けている。
そんな嫌な想像が頭を駆け巡り続ける。
「・・・・・・俺、死ぬのかな。嫌だよ・・・・・・嫌だ・・・・・・」
あ・・・・・・視界が・・・・・・。
そうして意識を俺は手放した。
ブラックアウト。なりぃ。
夢を見た。4人の少女と笑いあう幸せな夢。
極上の会話のアンサンブル。
それは、決して手が届かない光景なのだろうか。
ただの死に際の夢なのだろうか。
・・・・・・だとしても。
まだここで死ぬわけにゃ行かないんだ。
もう消えかけた蝋燭の火を、無理やり燃やすように。
夢を燃料として、再び光ある世界に這い上がる。
「・・・・・・さん、・・・・・・もう、・・・・・・こうよ」
「・・・・・・くら・・・・・・でも、お人よし・・・・・・よね~」
「・・・・・・黙って・・・・・・息は・・・・・・」
何だろう。声が聞こえる。
俺、どうなったんだろうか。生きてるのか。それとも死後の世界にでも行ったのか。
聞こえてくる声は、どんどんと輪郭をはっきりさせていく。
それは・・・・・・。
それは、とても騒々しい声だったけれど、何故か甘く、落ち着かせてくれて。
もうどうなってもいいや、とそれらの声の主に俺のこの後を委ねても良いと思わせるほど、甘美で。
だから、俺は、目を開ける勇気がもてたんだ。
「あ!起きた!起きたみたいだよ~!姉さん!」
「全く姉さんもお人よしよね。見ず知らずの人を~」
「分かったから騒がない」
・・・・・・目の前に居たのは、天使だった。
そんな陳腐な表現が、相応しいと思えるほどに。
俺は、見惚れたのだ。
今までの体験、そして未知の場所への恐怖も。
その全てを、忘れてしまうほどに。
・・・・・・そう。俺はどうしようもないほどに。
「大丈夫かしら?立てる?」
彼女にこの時から惹かれていたのだと、思う。
その真っ直ぐな眼差しに。その流れるような、眩しい金の髪に。
――俺には、とても眩しすぎる、その存在の輝きと、儚さに。
捨てきれない想いを、抱いた。抱いてしまったのだ。
あの時の夢のことはあまり覚えていないのだけれど。
きっと、俺が意識を戻すのにその役目を果たした。
何故だろう。彼女たちが助けてくれた気がするのだ。
・・・・・・いや、そうじゃない。
あぁ、そうだ。あの時、間違いなく。俺は。『彼女』に救われた。
「けど・・・・・・」
それだけじゃ、ないんだよな。
ただ命の恩人だから、だとかそんな理由だけで、あそこまで関係を持とうとしたわけじゃない。
「どうしようもなく。救いようのない男だよ、俺は」
一人、自分を責めるように。
そうしていると気がまぎれる気がしたから。
「どんなジョークだってんだ。初めて、恋をした。初めて、そんな気持ちを抱いたのは一目惚れだった。
初めて、そんな経験をした相手が、種族の違う、女性だった。
魔性に魅入られたのか。或いは、人外の魅力とはかくあるものなのか。
でもよ。どうしようもないんだ!この想いはもう、誤魔化すことも出来やしない!
どうすりゃいいんだよ!どうしたら俺は!俺は!」
あの出会いの後、人里で知ったよ。あいつらが、人間とは違った存在だって。
人気者だけれど、だからといって近づきすぎないほうが良いって。そうも言われたさ。
それでも!俺はあいつらと一緒の時間が好きだった。それを改めなかった。
許されない想いなんだと思っていた。だから”終わり”が来るまで、俺の自己満足で良いと思い込んでいた。
――いや、その想いすら、忘れようとした。精一杯の言い訳で固めてな。
だから、あんな提案されて、あそこまで距離が縮まって。
戸惑うどころか、それを今、拒絶してしまった。
けれど。そんな誤魔化し、無意味だったんだ。
あぁそうだよ。俺はあいつと一緒に居たかった。
だからあんな性に合わないことをした。
だからあの話だって断らなかった。
今ならはっきり言える。あの時、俺は、内心嬉しかったんだ。
仮初だろうが、恥をかこうが。
俺は、あいつと一緒に。一緒に、何かを、やりたかったん、だ・・・・・・。
「あれ・・・・・・涙が・・・はは。なっさけねぇ、俺・・・・・・」
馬鹿みたいだな。俺。
今頃自分の気持ちに気づくなんて。
それでいて・・・・・・逃げてしまうなんて。
それでいいのかよ、俺。なぁ、おい。
「そうね。あんたって、ほんと、大馬鹿」
降りしきる雨音。
それに混じって、高らかな鈴の音のような声が聞こえた。
「・・・・・・リリカ」
「全くもう。ルナサ姉さんをメルラン姉さんに任せて、追ってきてみれば。あんた、そんなどうでもいいこと悩んでたの?」
「な・・・・・・!どうでもいいだと!?俺が、どれだけ」
「この大馬鹿者!姉さん、泣いてるんだよ!?その意味分かる!?」
「・・・・・・あんなことしたからな。ライブに向けて皆が真剣に取り組んでるのを、俺は放り出したんだ。
すまないことをしたと思っている」
「あぁ、もう・・・・・・」
額に手を当て、呆れたような仕草をする目の前の少女。
正直カチンときている部分もあるが、こっちが悪い部分も多大にある。
だから、続きを待った。
「・・・・・・あのね、姉さんは、あんたが練習から逃げたことを怒ってるわけでも、悲しんでるわけじゃないの。
あんたがああやって『私たちと一緒にやること』を拒絶したことにショックを受けているのよ。分かる?
姉さんは自分に非があるんじゃないか、って気に病んでるの。この意味、分かる?」
「・・・・・・」
「全く。その様子じゃ全然分からないみたいだね。この鈍感。
姉さんが、どんな気持ちであんたにライブの提案したか、教えてあげるよ」
『○○は、人間だし、私は騒霊。きっとお互いに手は届かない』
『私の気持ちも、きっと彼には迷惑で、重荷にしか、ならないわ』
『けれど、音楽は、種族を問わない。演奏で作り上げた世界は、いつまでも残る』
『2人で・・・・・・いいえ。メルラン、リリカ。大事な貴女達と○○とで、一緒に、音楽を』
『きっと実る筈のない恋物語。だけれど、1つぐらい・・・・・・夢を見てみたいの。協力してもらえないかしら?』
「・・・・・・え?」
俺は、信じられなかった。
あのルナサが、そんな・・・・・・。
それって、つまり・・・・・・?
固まる俺に、リリカは更に続ける。
「あの姉さんが、あそこまで言った。
あの、何にでも真っ直ぐで、頭のことは演奏のことと、私たちのことばかり気にしていた姉さんが。
他に、眼を向けるところを知らない姉さんに、あんたはあそこまでのことを言わせたの!
それが、どういうことか分かる!?どれだけの想いか分かる!?
姉さんは、自分の想いなんて叶わなくていいといった!あんたに迷惑になるからって!
けど私はそんなの間違ってると今、確信したよ!」
雨音が、消えた。
そう感じるほどに、俺は彼女の次に紡いだ言葉に、心を打たれた。
彼女は俯いて、震えるようにしながら、こう言ったのだ。
「・・・・・・だって、二人とも・・・・・・好きあってるんじゃないのよ。何が、障害だって・・・・・・言うのよ」
「種族の差が何?相手に迷惑?許されないから一緒に居られない? 近づきすぎたくない?ばっかみたい!お互いに好きならその程度、何も障害ですらないじゃん!」
彼女は叫んだ。最愛の姉のために。
俺は雷鳴に打たれたような衝撃を受けた。最愛の人の想いに。
Megalith 2010/11/21
月夜を肴に縁側で酒を呑んでいると、空から少女が飛んできた。ここ最近の習慣である。
「よう、今日も来たのか」
「うん。……少し、庭を借りる」
彼女は庭に降り立つとどこからともなくヴァイオリンを取り出し、一人練習を始めた。何でもここは静かだから練習に良いとかなんとか。
陰鬱ながら優しいメロディーを一心不乱に奏でる彼女をちらりと見つつ、今宵は暫し席を外す。
彼女は俺が席を立つのに気付くと目線を向けて来たが、直ぐ戻ると口パクで伝えると再び演奏に戻った。
縁側に戻ると丁度曲の終わりで、弓を降ろした彼女がジト目で言う。
「何のつもりだ、曲の途中で席を立つなんて」
「いや、こいつを取りに。お前、演奏終わると直ぐ帰るだろ?」
先程取ってきた物を彼女に投げる。空いていた右手でそれを取った彼女は怪訝な表情をした。
「……盃?」
「呑んでけよ。毎晩の演奏会の礼だ」
「宴会にも来ないし、私の前でも殆んど飲まないから、人と呑むのは嫌いなのかと思ってた」
「あの宴会は敷居が高い、そして俺は音楽をしっかり聴く質だ」
幻想郷に来て間もない時、外来人として連れて博麗神社に案内された。
……間が悪く、その夜は宴会であった。
かくして俺は鬼と呑み比べをさせられたり、吸血姫の弾幕に巻き込まれたりと大きくトラウマを植え付けられた訳である。
「まあ、その話は良い。それで、呑むの、呑まないの」
「うん、折角だから頂く」
彼女が俺の横に腰掛け、盃を差し出すので徳利から酒を注ぎ、乾杯する。
自分の盃には酒が半分程しか残っていなかった為に、一気に煽って盃を空け、新たに継ぎ足す。
「……なんだ、普通に呑めるんじゃないか。絡まれないように気を付ければ宴会だって平気だろうに」
「俺は騒がしいのは苦手なんだよ、人付き合いもな。だからこんな人里離れた所に家を建てたんだし」
呆れたように言う彼女にさらりと返し、その後は又無言でちびりちびりと呑んだ。
徳利の酒も半分を切ったところで、彼女は口を開く。
「……騒がしいのが苦手なら」
「ん?」
「騒がしいのが苦手なら、私が来るのは迷惑か」
その物言いに、思わず吹き出した。
「何がおかしい」
彼女にとっては至極真面目な話だったようで、憮然とした顔で睨んで来る。
「迷惑な訳無いだろう? かの有名な楽師の演奏を一人占め。こんな名誉もそう無い」
彼女は安心か、それとも又呆れたのか、溜め息をついて言う。
「今夜はいつになく饒舌だな。何かあったのか」
「酔いが回ってきでもしたかな、……いや
月の夜に
脇に添え置く
こうの月
いと麗しき
惑わしの君」
周りの音が身を潜め、代わりに静寂が訪れる。
「……それは、」
先に口を開いたのはルナサだった。
「それは、告白のつもりか」
「見られるだけで良かったんだがね。ひどく月が綺麗な夜だから、欲が出た。忘れてくれ」
丁度酒も切れ、話も終わった。徳利を持っていつものように部屋へと歩き出す。……はずだった。
「何処に行く」
「何処って言われてもね。もうやることも無いし、寝るとしたいんだが」
後ろは見えないので分からないが、恐らく彼女は俺に後ろから抱きついている。おかげで動けない。
「……返事。聞かないの」
「やめとくよ。止めを刺される趣味は無いし、気を使って良い返事をしてくれなくても構わない。元より、違うモノへの恋慕は実らないのが相場だろ?」
「馬鹿、鈍感」
「ん?」
「その言い方、私の気持ちを考えて無いじゃないか。何の為に毎晩来てると思ってる」
「いや、それは」
――まさか、この騒霊の少女も同じ気持ちだとでも言うのだろうか。
「言葉にしないと分からない?」
永く感じた小休止の後、
「……私は、〇〇の事が好きです」
――同じ気持ちだ。
そして、俺はただ、ルナサを正面から抱き締めた。
さらに時は永く、仄暗い夜の中、月だけが俺達を見ていた。
短歌の意味です↓
月の夜の一人酒に、隣に添えて置かれている肴としての月。
その紅のあまりの美しさに惑わされてしまいそうだ。
「こう」は肴と紅(ルナサの頭のアレ、紅色ですよね?)を掛けてみました(ぇ
まあ、ルナサに「馬鹿、鈍感」って言わせたので満足(スキマ送り
Megalith 2011/01/06
紅葉の舞い散る様というのは何とも言えぬ寂しさを感じさせる。
それは実りの終焉を意味するためなのか。
――散華。
散り行くその中でただ只管に音と戯れる。
それはきっと至上の幸福で。
久しぶりに愉しみを見出した。
「・・・・・・○○?」
だからこそ、その世界を乱すものには敏感で。
その声が聞こえたとき、少しだけ寂しい心持だった。
「ルナサか」
声を聞けば分かる。だから俺は振り向かずに答えた。
・・・・・・彼女が此処に来るとは思わなかったが。
ここは妖怪の山の中でも奥地。
彼女の行動範囲からは外れていた筈だった。
「うん。・・・・・・」
彼女は俺の言葉に反応を見せたがその後は沈黙を見せた。
流石に俺もそれではどうすればいいのか分かりかねる。
「どうした?この辺に用事でもあったか?」
「いや、何となく飛んでいただけなのだけれど・・・・・・綺麗な音色が聞こえてね」
歯切れが悪い気がする。だがまぁ、何となく事情は分かった。
あまり人に聞かれないところを選んだつもりだったが、偶然にも聞かれてしまったわけだ。
「・・・・・・○○ってヴァイオリン弾けたのね」
それはどこか意外そうに。そして隠し切れない興味を乗せた声だった。
・・・・・・嗚呼そうだよ、悪いか。
俺は心中少し毒づきながらも出来るだけ平静に答えた。
「趣味で触る程度だけどな。少なくとも人に聞かせるレベルじゃないよ」
「・・・・・・」
彼女はまた沈黙する。あぁやり辛い。
どう反応するか考えているのだろうか。
しかして、言葉は意外に早く出てきた。
「嘘、よね?」
「・・・・・・どうしてそう思う?」
「だって、聴いたのは少しだけだけれど、とてもあなたの音は良かったもの。・・・・・・物悲しい、音だったけれど」
聴かれたのが彼女だということがやはりまずかった。
俺よりも遥か上の音楽家――音の専門家に、誤魔化しは通じないか。
だから俺は溜め息をついて降参するほかなかった。
俺はそこで初めて彼女に振り向く。
「・・・・・・はぁ。まさかお前さんに聴かれるとはなぁ、参ったよ」
「そんなに都合が悪かった?」
彼女の顔には少しだけ悪戯めいた喜びが浮かんでいて。
やはり俺は悪態をつく他なかった。
「始まりは何てことは無かったよ」
そう。俺がヴァイオリンを触ったのは小さい・・・・・・物心も付かない頃だった。
うちは、いわゆる音楽一家というやつで。
俺は当たり前のようにヴァイオリンを持たされた。
「まぁこういうのは珍しくない。というかヴァイオリンで食ってるような奴ってのはそんなのばっかだしな」
「・・・・・・外の世界のことは私はあまり分からないわ」
「あぁ、そっか。まぁ・・・・・・続けるぞ。後でその意味も分かるさ」
まぁそんで、だ。子供ってのは純粋でなぁ。
玩具で遊ぶような感覚で練習したもんだ。音が出るだけであの頃は楽しかった。
・・・・・・だけど、楽しくなくなるのも直ぐだった。
「・・・・・・何で?」
「これまたお前さんにゃ分からんだろうが。人と比べるようになったんだよ」
そう、親が俺にヴァイオリンを持たせたのは。
当然、プロ――つまりそれで食ってくやつらだな――にさせるためで。
そのためには誰よりも、巧くなる必要があった。
こいつが・・・・・・曲者でな。ヴァイオリニストってのは大変も大変だ。
まぁこれはどんな道でもそうだが・・・・・・特にあの世界は、数多のプロ志望者の中から這い上がらなきゃならん。
しかもどいつもこいつも生まれたときから楽器に触っていたり、天才だの神童だの呼ばれた連中だ。容易じゃない。
・・・・・・俺が、才能の壁にぶち当たるのは、そう遠く無かったよ。
「まぁ要するに・・・・・・俺はそんな重圧と壁に挫折したってこと。本当は人前で弾く資格なんてありゃしないんだ」
「・・・・・・」
「ま、そんなとこさ。俺の話は。なんてことない。つまらなかったろ?」
自嘲するように呟いて、はっとする。
・・・・・・なんで、俺はこんなとこで、回りまわってこんなやつに、こんなことを話してるんだろうか。
こんな話、聞かされる方も困るだろうに。
俺は少し慌てたようにルナサの方を伺う。
「・・・・・・そうか」
けどその相手は思いのほか冷静で。
というより、予想してた困惑、とか憐憫とかなんて表情から読み取れなくて。
俺の方に、向き直って。その眩しくて、真っ直ぐな眼差しに見つめられた。
「大変だったんだな、と思う。けど、きっとそんな言葉はあなたには届かないでしょうね。
・・・・・・けど、少しだけ嬉しかった」
「嬉しい?」
はて。今の話を聞いてどこに嬉しくなる要素があっただろうか。
「あなたが私の、私達のライブを聞いているときに時々感じたあの鬱の音・・・その理由を話してくれたこと。
あなたが、それぐらいには私に心を開いてくれていたこと。
・・・・・・それが、私には嬉しい。嫌な女、と思われるかもしれないが」
「まぁ、そうだな。何故か、喋ってしまったよ。こんなこと、滅多に話すものじゃないのにな」
「けれど」
少し落ち着いて、けれどまた自嘲してしまいそうになった俺の言葉を、力強く彼女は遮った。
存外、我が強い。まぁ、そうでもなければ音楽なんて、やらないのかもしれない。
「こういうと、怒られるかもしれないけれど。
私はあなたが挫折した理由も、その意味も、重さも分かってあげられない。
大したことじゃない、と思えてしまうの」
「なっ・・・・・・!」
俺は立ち上がって彼女に抗議するように、声を荒げた。
冗談じゃない。話を静かに聴いてくれて、それほど困ってなくて、少し安堵さえ感じていたのに、そんな否定されるような・・・・・・!
「聞いて」
「いや、聞けないね!流石に言っていいことと悪いことがあるだろうが・・・・・・!」
「お願い、聞いて」
暫く睨みあう様に俺たちは対峙した。
けれど、彼女は一歩も引かない。
・・・・・・本当は、これは。俺のことで、勝手に俺が話した問題だ。
だから、愛想を尽かして、怒って、飛んで去る選択も出来たはずなんだ。
だけど、彼女は、そんな素振りは欠片も見せなくて。
真剣に、あの瞳に見つめられながら、頼まれては。
流石に折れるしかないかな、と思った。
やっぱり、我が・・・・・・いや、芯が強いのかな。
少しだけ、羨ましい。
「・・・・・・有難う」
礼なんて、言われる立場じゃないのに。
俺は困ったように、顔を背けるほか無かった。
「あなたが外の世界で、沢山の人と競いあって、挫折したのは解かった。
けれど、それが、なんだというの?」
「何が言いたい?天才には所詮俺は・・・・・・!」
「そんなこと関係ない!」
驚いた。こんな大声も、あげるのか。
そういえば、どこかの文献で、いざとなればあの姉妹の中でも最も騒音が出せるってあったっけ・・・・・・。
けれど、少なくとも。
いつも怜悧な印象すら感じる彼女が、これほど感情を発露するところなど。
俺は初めて見た。
「・・・・・・それが、なんだというのよ。あなたはあなたじゃないの。
それにここは外の世界なんかじゃない、幻想郷よ。
外の世界の道理に縛られる必要なんてないのよ」
「・・・・・・」
少し、頭が冷えた。それと同時に、救われた気がした。
そうか、俺は――今、こんな馬鹿げた・・・・・・面白い世界に居るんじゃないか。
皆して好き勝手騒いで。楽しんで。そして、それが続く日常が当たり前のようにあって。
まるで、生きることを楽しまないことが、非常識な世界。
どこか、俺には眩しく感じてた。けれど、それが思い込みだったら?
俺にも、あんな風に生きる権利があるのだとしたら?いや、権利などそもそも誰が規定するのだ。
「あなたがやりたいことをやればいいじゃないの。
その上でもっと巧くなってやればいいじゃないの」
「そう、だな。引きずるのは馬鹿馬鹿しい、か」
「そうよ。あなたは笑ってる方が良いわ」
「なんだそりゃ」
「・・・・・・それに」
ん?どうしたんだろうか。
少し声のトーンが変わったような・・・・・・。
「私も付き合ってあげる。練習とかね」
「お、おう」
「何よ?ご不満かしら?このプリズムリバー楽団のヴァイオリニストじゃ、釣り合わない?」
俺の生返事が気に食わなかったのか、少し眉を吊り上げて不平を言ってくる。
・・・・・・何が不満なものか。充分すぎる、いや、多分・・・・・・過分、だな。
「いいや。充分すぎるよ。寧ろいいのか?俺みたいな下手の横好きに付き合って」
「・・・・・・私も好きで付き合うんだから、気にしないで。それに」
「それに?」
「○○。あなたは自己評価が低すぎるわ。きっともう少し練習すれば、舞台にだって立てるっていうのに」
「それは流石に・・・・・・いや、いずれはそうなりたいが、早いんじゃないか?」
「あら。そんなことないわよ?」
「私のパートナープレイヤーとして、それぐらいはやってもらわないと。
・・・・・・初めての共同作業(ライブ)、楽しみにさせてもらうわよ?」
それは、どこか悪戯めいていて。それでいて、真剣な。
いつまでも、印象に残る――それはそれは素敵な笑みだった。
Megalith 2017/04/17
「いらっしゃい」
もう日も落ち始める頃、ガラガラと音を立てた引き戸に、男は手元の本に目を落としたまま応じた。
表紙はもう掠れて、大部分が読み取れなくなってしまっていた。"・ベーラ"と書いてあるのがなんとか読み取れるくらいだ。
これは後半部分で、前半部分は痕跡が辛うじて見られるものの、何が書いてあるかもう分からなくなってしまっている。
そしていつも彼はこれを読んでいる。本人曰く思い入れのある本なんだそうで。
男は不意に込み上げた欠伸を噛み殺すと、椅子の背もたれに背中を預け直してまたページをめくる。
「……ん」
対して入ってきた"お客さん"は軽く、しかし満足げに頷いただけだ。
そしていつもの位置――僕の肩越しに本を覗ける位置に収まる。
少しホコリっぽいのは、もう気にならなくなったらしい。
「今日も演奏だった? お疲れ様」
やはり本から目を離さずに男は軽口を投げる。
大体いつもこのくらいの時間に来るが、引き戸の音の立て具合でなんとなくわかるのだ。
演奏してきた後の時はまだ少し昂ってて音が激しいか、疲れて音が大人しい。
「……ありがと」
男の労いに微笑み、彼女は男の読む本に視線を落とした。
男の視界の端に僅かに金色のショートボブが揺れた。
既にトレードマークの三日月付き黒帽子は部屋に置かれている。
勝手知ったる、ということなのだろう。部屋に入ってすぐの棚の上が彼女の帽子の定位置だ。
「お腹減った?」
「そうね、ちょっと」
暫くページを進めていって、一区切りところで男は本をパタンと閉じた。
いつの間にやら少女も男の隣のもう一脚の椅子に座っている。
そろそろ夜も更け始める時間。さらに言えばお腹も減る時間帯でもあった。
「騒霊も食べるんだよね」
「……それ何度目?」
「さあて。十より先は数えてない」
こんなくだらないやりとりもいつものこと。
そして唐突にやられるこれも。
「……ん」
お客さんにくいっくいっと袖を引っ張られた。
そしてそのまますっと頭を差し出される。
「毎度言ってるけど、せめて言葉にしてくれないかな」
相変わらず言葉少ない少女に男が苦笑する。
しかし、毎度と言っている割に男が彼女の求めていることをする気配はない。
むしろこの膠着を楽しんでる節もあった
「…………んっ」
「はいはい」
いよいよ焦れたように再度袖を引く彼女に男はくすりと笑って、引っ張られていた右手で彼女の頭をふわりと撫でた。
少し癖のあるショートボブを手櫛で梳かれると、少女は心地よさそうに目を細め、ついには完全に目を瞑って男の肩に体重を委ねていた。
実態のある霊だからか、彼女も一応体重があった。まあやはり霊だからか、見た目には不釣合に軽いけど。
「好きなのかい?」
敢えて"なにが"とは言わない。いつものからかいだ。
「好きよ? これもアナタも」
しかし少女は不敵に微笑むと、意趣返しのようにいたずらっぽい声で言葉を返した。
こころなしか少し赤かった耳がなければ100点だっただろう。
「そういえば今更だけど、一度くらい僕はキミの演奏とか聞いてみたいんだけど」
「嫌よ。アナタといる時くらい、私は"音"ではなく"声"を弾いていたいわ」
またいつか、ね。
撫でられながらのその声はからかいで楽しげに笑っていて、でもそれだけではなくて、少し拗ねたようにひねていた。
そんな彼女の声を聞いて……男は少し意地悪な表情を作った。
「君と違って僕は明日にはいないかもよ?」
自虐的に男も笑う。
ただし、放り投げたようなその言葉は紛れもない事実で、そして彼の浮かべた笑いには微かな恐怖も見え隠れしていた。
しかしそれを自覚してかいないか、男は続ける。
「君の生涯に比べたら、今の僕は一曲の音楽みたいなものなんだから。いや、もしかしたらその中の一つのパートにすら過ぎないかな?」
下手したらもう少し短いのかもしれないね。
そんな風に続けようと思った矢先、不意に撫でていた手を撫でられていた方から止められた。
「どうかしたかい?」
「……音楽の別名、知ってる?」
唐突な、そしていつになく真剣なその問いに男は一瞬だけ戸惑い――程なく彼女の問いかけの答えにたどり着く。
前に話したときにちらりと彼女が言っていた言葉だ。
「ああ。"瞬間芸術"、だろう? まあ音楽には限らないけど」
「そう。そして私もあなたも同じこの瞬間を生きてるわ」
「そうだね。僕が君を撫でているのが一番の証拠だ」
「ま、まあそうね。
だから――たとえあなたの音が明日、いえ、たとえこの場で途絶えてしまったしても、その響きは私の中に永遠に残るの」
音ってそういうものだから。
ちょっと悲しげにルナサが呟く。
肩を寄せ合いつつも背を丸めて俯いて、まるで今にも泣きだしそうだった。
「慰めてくれたんだ?」
「……別に」
なんとなく気恥ずかしかったのか、ふいっとそっぽを向いてしまった彼女を軽く引き寄せた。
あ、と小さく声をあげながらも、大して抵抗もしないままに彼女は男の膝の上に収まる。
顔はそっぽに向けられたままで表情は伺えなかったが、想像は容易についた。
「耳赤いよ?」
「赤くない」
意地を張るルナサに男は苦笑しながら、執り成すように優しく撫でる。
「こんなに熱いし」
「ん、あ、熱くない」
不意に囁かれ、同時に耳をなぞられたルナサは思わず出た小さい声を押し殺した。
単なる悪戯からなら別にどうとでも我慢できる。
しかしそれがまるで自分を愛おしむような、そして慰めているような感じがするのだから質が悪い。
否が応にも感じる心地良さはこらえるのが難しいから。
「……なんのつもり?」
「人恋しくなったんじゃないか、ってね」
「別にそんにゃっ」
言葉の途中で鎖骨を撫でられた。否応なしに出た変な声に我ながら呆れてくる。
犯人はというとそんな自分を見てくすりと面白そうに、でも優しげな微笑みを見せていた。
「……否定はしないけどそんな風じゃイヤよ」
結局今日も勝ち目はなさそうだ。
毎度、とまではいかないがちょくちょく起こるこんなくだらないやり取りは今のところは全て向こうが勝っていた。
そしてある意味白旗をあげるようなその一言にも、向こうはくすりと笑ってしまっている。
まるでなにかが足りないと言いたそうに。
「リクエストも無しに随分求めるね?」
囁かれた声は意地悪く、自分を咎めるどころか甘やかで優しくて、その気持ちよさにルナサは身じろぎした。
ゾクゾクと、或いはゾワゾワとした快感が背筋を撫ぜる。
「い、"いつもの"、じゃだめ?」
「残念ながら心当たりがないね」
「……意地悪」
じとっとした視線を向けるルナサを男は楽しげにまた手を滑らせた。
鎖骨をなぞった手はそのまま首筋を撫であげると、髪をすっと梳いていき、背筋をつっと這っていく。
「別に逃げてもいいんだよ?
僕はもたれかかってる君を受け止めてるだけでいつでも君は身を起こせるんだし」
そんな余裕がもうあまりないことも、なにより離れたくはないというこちらの思考回路もあちらは織り込み済み。
しかし、最早嬲られているようにも感じるその指は不意にぴたりと止まった。
なにかあるの?
そう思って少し彼を見上げると、 不意打ち気味に指が動いて何度目かの甘い声が漏れる。
「ん、ふっ……もう、狡い」
「それじゃ一旦止めよう。で、何が欲しいの?」
「――させて……」
「ふむ? もっかいもっかい」
相変わらず後ろから顔を寄せてきて囁かれる。
声と共に耳にかかる吐息がくすぐったい。
そろそろ年貢の納め時か、と感じ、ルナサは背を向けていたのを半身にすると、ぽふりと胸元に身を預けて口を開いた。
「その……甘え、させ、て――?」
「ん、わかった」
結局こうなるのだ。
でもこうなったあとの彼は純粋に優しいし、心地いいし、気持ちいいし、その……好きだ。
彼の腕の中は心地いい。
さらりと髪を梳かれて。手をぽふりと頭に乗せられて。ゆっくりと頭を撫でられて。緩く抱きとめられて。
そんな風に、私は彼に甘える。
が、不意に彼は頭から腕を下ろした。
不満の視線を向けようと顔を上げようとすると、そんな私に苦笑しながら彼は言った。
「やめられなくなる前に、何か食べよう?」
そういえばお腹減ってたんだった。
刹那、くうと鳴ったお腹にルナサは顔を赤らめると、慌てて彼の腕から離れた。
*
なんでこうなったかは未だによく分からない。
なんとなく夜の森を歩いていたら、ボロ屋が流れ着いていた。
幻想郷では別に珍しいことでもない。
そしてそれが無縁塚を外れることも、数を重ねていれば度々起こる。
だから別に気にも留めなかった。留めなかったはずだったのに。
「――♪」
微かに聞こえたのは鼻歌だった。ただし、歌ではなく曲。それも、聞き覚えのある曲。
バイオリンソナタの一曲だ。名前は――なんだっけ。
でもその小節は確かに弾いたことがあるし、割と好きな曲ではあったはずだ。
そんな曲がそのボロ屋の中から聞こえていた。
ただ人間がいるならば明かりくらいつけるだろう。それにもっとこっそりしていそうだ。
じゃあ妖怪か?
いや、それにしては静かすぎる。あとあんな曲に関心のある妖怪、それも耳で覚えてるレベルの音楽好きはそうはいない。
興味を覚えた私はふらりと戸口に向かい、軋むその扉を開いた。
「〜♪っと」
「あ、ごめんなさい。邪魔、しちゃった?」
目が合って、ずっとBGMのように響いていた鼻歌が途切れる。
その鼻歌の主は、案外かっこよくて、そして――
「い、いや。大丈夫だよ」
姿が少し透けていた。少し踏み込んで聞くと、病気だったらしい。
容態が悪くなってきて、体が辛かったから薬の力を借りて眠り、起きたらここにいたと言う。
「あのさ、話し相手になってくれない? 一人には慣れてるけど、退屈には中々慣れなくて」
少し悲しい顔で肩をすくめる姿はどこか放って置けなくて。気がつけば首を縦に振っていた。
そして通ううちに惹かれてしまった、という訳だ。
自分の単純さに辟易する。誰かを好きになるなど、会いたいと思うなど、今までには有り得なかった。
まあ今ではすっかりお熱なのだが。
*
豪華とは決して言えないご飯を済ませて、彼は早めに布団を敷いていた。
そして、その上に座ると眺めていた私に手招きしてきた。
「お待ちどうさま。寝る準備も出来たし、どうぞ?」
「…………ん」
一層体を委ねた私を彼がさっきよりしっかりと抱き留める。
微かに透けた肌。それなのに彼は、力も、温もりも、声だってしっかりと持っていた。
「いつにもまして甘えるね。なんか怖いことでもあったかい?」
「あんなこと、言うから」
「事実から目を背けても仕方ないさ。でも、謝るよ。あと、傷ついてくれてありがとう」
撫でられる手の心地よさと、少し悲しげで優しい声に思考回路が溶かされていく。
同時に、まどろみと呼ぶには余りに心地よすぎるものが押し寄せてきて、ルナサは思わず瞼を閉じた。
「……ほんとに疲れてるみたいだね。このまま寝ちゃう?」
「……いいの?」
少し苦笑されながら囁かれて、それだけなのに心臓がトクンと跳ねた。
そんな彼に甘えた声でルナサは確認をとる。
ふわりふわりと緩やかに蕩けつつある意識は、いいと言われれば本当に寝付けてしまえそうだったから。
「ああ。おやすみ」
「……ありがと。おやすみ、なさい」
了承の意を込めたおやすみから一泊遅れて、可愛らしい寝息が聞こえ始める。
それを認めて――男は安堵のため息をついた。
いつもこうなのだ。不用心で、無防備で、何もかもこちらに預けきったような寝顔を見せてくる。
その癖、偶に信じられないくらい熱っぽい表情を見せるのだから、こちらは理性を保つのに必死だ。
しかもいつもここまで。同衾で満足されてしまう。
一応、俺は男なんだけれど。
でも、それでも、これだけは一度たりとも欠かすことなく口にすることにしている。
なんか気恥ずかしいから、まだちゃんと起きているときに言ったことはないのだが。
「……今日も会いに来てくれて、ありがとう」
――ガラじゃないか。
独り心地ると、腕の中の恋人を起こさないよう、ゆっくりと一緒に横になる。
最後に額に一度口付けると、男はかけ布団をかけて目を閉じた。
願わくば、あんな言葉を囁やける日が来ますように。
奏でられる寝息が一つから二つに増えるまで、そう時間はかからなかった。
ルナサとの相手は生殺しだろうなぁと思ったので
最終更新:2017年08月07日 21:25