蓮子4



蓮子と彼2(新ろだ976)



「蓮子と彼1」の続編です。








「そういえば……」
「ん?」
「はい?」

読んでいた雑誌から視線を外し、宇佐見蓮子はぽつりと言った。
彼はそれに反応して、呼んでいた雑誌から視線を外す。
彼女も同じく読書をしていたようで、ハードカバーの背表紙には『相対性理論とブラックホール』という題名がデカデカと書いてある。
そして右隣。同じく読書をしていたマエリベリー・ハーンも読書中から顔を上げて彼を見る。本はブックカバー付きで内容まではわからない。
蓮子は本を放り出し、ずびしと目の前の二人を指差して、口開いた。

「私たちが出会ったのって、どんな感じだったっけ?」

ん、と答えを詰まらせた彼と少女。


「どんなって言われても」


と彼は苦笑し、


「衝撃的過ぎて、明確に覚えてるわよ」


とメリーは懐かしむ表情で頷く。

蓮子は「あれ? 覚えてないの私だけ?」と頭に疑問符を浮かべたように腕を組んだまま首を傾げる。
その様子に、彼はふむと頷いて席を立ち上がった。
台所に向かい、相変わらず安物の紅茶を三人分きっちりと淹れ終えると、再びコタツの方へと歩き出す。
ソーサーごと二人に渡すと、二人の少女は揃って「ありがとう」と礼を述べた。

「そんなに印象的だったっけ?」

彼女が奥歯にものが挟まったような風に二人に聞くと、二人は顔を見合わせて笑った。

「そうだな……じゃあ昔話にでも花を咲かせるとするか」

彼がそう言い、彼と蓮子とメリーの出会いの過去話が始まった。







○○○










「ありがとう! いやー、本当に助かったよ」
「いえ。お役に立てるのならよかったです」

一つの研究室の前で相対している助教授と学生。

放課後に彼が助教授から頼まれたのは、なんでもない、報知用ポスターのプリントアウトと配布だった。
内容は今度実施される、全国数学共通テストの知らせの紙。
彼の目の前の助教授が、偶然にもその任を任されたようで。そしてその助教授の研究室にいたのが、彼だった。
印刷物の配布、といっても廊下に張りにいくだけだが、一人で行くには数が多すぎる。
困り困ったところで、彼に白羽の矢がたったということだ。

「じゃ、僕は東を担当するから。君は西をよろしくね」
「はい」

東、西というのは棟のことである。

そこでふと思った。

現在いる場所は、西棟三階。
彼の研究室の位置である。
そして、助教授がポスターを貼りに行くのが、反対の東棟。
距離の遠い方の場所に行かせるのは、他称お人よしの彼が是とするはずも無く。

「待ってください。やはり俺が東棟まで行きます」
「ええ? でも、ここからだと距離が遠いし、わざわざお願いしたのはこっちだよ。遠い方を選ぶのは―――」
「お気になさらないで下さい。俺は、頼られた方が嬉しいです」
「そ、そうかい? ……それなら、遠慮なく。西棟は僕がやろう」
「ええ。それでは」

踵を返して廊下を歩く。










西棟から東棟まで続く廊下は、夕方のこの時間はとても人が少ない。
静かな廊下を歩く音は、彼ただ一人のものだけだった。

ちらっと窓ガラスの向こう側を覗けば、綺麗な夕陽が見えた。

「今日もいい天気だ」

雲が少ない、理想的な天気。
季節からして日が沈むのが若干早いような気がする。
これはなるべく早く帰った方がいいだろうと、彼は思って歩を進めた。

階段を上がり、目的の廊下へ辿り着く手前で―――妙な違和感に気付いた。

「……?」

背後を振り返ったが、誰もいない。
いや、違和感と言うのは視線のことではないし、人の気配と言うことでもなかった。
奥歯に物が挟まったような、不快なもの。
近くにあるものが遠く感じるような、真夏の蜃気楼越しの背景。
とにかく不安定。それが、感じたものだった。

しかし、それが杞憂だと思い直し、彼が手に持ったポスターを貼ろうと廊下の壁に向き直った。










―――そこには、廊下の壁ではなく、一面の草原が広がっていた……。









○○○







「嘘ね」
「残念ながら本当だ」

真正面から睨み合う蓮子と彼。
もっとも、彼らのいる場所が炬燵なので雰囲気は刺々しいものではなかった。
むしろ―――

「あのね二人とも……それ以上顔を寄せ合ってどうするの? ここには私がいるんだけど?」

微妙に甘い雰囲気が出ていたようだ。
メリーがそう、二人を制する形で、蓮子と彼は弾かれた様にお互いの距離をとる。

「別にまだ変なことはしてないわよ!?」
「あら蓮子。『まだ』ってことはするつもりだったのね」
「ちーがーう!」

珍しい。あの蓮子が焦っている。
傍若無人。気まぐれな蓮子が焦っている。
彼は傍観しながら紅茶のお代わりを持って来ようと、席を立った。
背中から「濃い目でよろしくねー」というメリーのからかい声が聞こえる。

とりあえず、三倍は薄めてやろうと誓った。











○○○










「は……?」

彼が見たのは、それはそれは幻想的な光景だった。
丘の上から見下ろす形となっている風景。
そこには、絵本から飛び出してきたような、忘れ去られた自然の姿がある。

緑溢れる山。

吹き抜ける夕焼けの空。

青い海はないが、ここが本当に日本なのかわからなくなるほど、そこには幻想が溢れている。
慌てて振り返っても、やはりそこにはいつもの大学はなくなっていて。
完全に、彼はこの丘で独りだった。

「オイオイ、どうなってんだ?」

まさか自分が光の速度を越えたわけでもあるまいに……なんだろうコレ。
彼が専攻しているのは応用物理学。とくに量子理論だ。
光の速度と空間に及ぼす影響については、一般人より詳しい知識を持ち合わせている。
だが、この事態には流石に目を丸くするしかなかった。

周囲をぐるりと見渡しても、見えるのは山山山。

「まさか、俺が一瞬で光の速度を越えたとか?」

ありえないと頭を振る。
大体大気のある場所でそんなことができるわけがない。音速を超える時点で空気との摩擦で燃える。
しかも衝撃波で体がバラバラになるだろう。
それに……光速を越えたとしても、行ける場所は過去だけだ。さすがに異空間まで繋がるわけがない。
異空間に行くには、空間ごと捻じ曲げてしまう他ない。
辿り着いた異世界。別に彼は信じているわけではないが、もし可能性としてあるならば、唯一つだけ。
彼が考えた異世界への行き方とは、ブラックホールだ。
諸説色々あるが、ブラックホールは違う空間のもう一つの穴、すなわちホワイトホールへと繋がっているという。
科学的根拠のないものを信じるほど、理想家ではない彼は、しかし今回ばかりはそれを信じるしかないと思った。

「ブラックホール。まさか、地球上で精製されたっていうのか?」
「そんなわけないじゃない」
「っ!」

突然の女性の声。
思考を中断し、彼は声のした方を振り向く。
そこには、どこかで見覚えのある顔があった。
金色の髪に、見たこともない白い帽子。
そして日本人とは少し違う顔のつくり。
記憶力の良い彼は、彼女とどこで会ったのかを瞬時に思い出した。

「マエリベリー・ハーンさん?」
「ええ」

同じ、大学の学生だった。
なんという偶然。
上品に微笑んだ彼女に、彼は呆けた顔をして彼女に笑われた。











○○○









「あああああああああああ!?」
「いきなり声がでかいって。どうした蓮子?」

紅茶のお代わりを静かに飲んでいた彼とメリーを、蓮子の叫び声が驚かせる。
思わず紅茶を噴出しそうになった彼を、蓮子は気にせずに首を締め上げる。

「ちょ、れん―――」
「思い出した! メリーたちが初めて会ったときの話!」
「首、締まって―――」
「っていうかなんで私よりメリーの方に先に会ってんのよ!」
「知る、か」
「蓮子、締まってるわ蓮子」
「え? ……あー!」

いちいち騒がしいなと彼は思い、昔の続きを思い出しながら気を失った。









○○○









「貴方は確か、同じ大学の―――」

うーん、と首を捻り彼女は必死に思い出そうとする。
しかし彼の方はよく知っていた。
確か、彼女は秘封倶楽部とかいう、大学でも悪い意味で有名なサークルに所属していた。

秘封倶楽部。

オカルト信者同好会というように、周りからは変な目で見られることが多いサークル。
そもそも、サークルかどうかも怪しい。サークル人数はたった二人。もう一人は宇佐見蓮子という、黒髪の日本人だ。
彼としては、まあ周りの学生ほど秘封倶楽部に対して疑心的な目で見ているわけではない。
好きなことをするのがサークルだし、周りに迷惑をかけているわけでもない。
確かに活動内容はちょっとアレだとは思うが、彼はそこまで彼女らに興味を示していなかった。
ただ人の顔をおぼえるのが得意なだけで、彼女たちがどういった人物かなど、あまり知らないのだ。
知ってるといえば、精々学部と成績程度である。
ここまで思考した時点で、彼は彼女へと問いかける。

「ところで、ハーンさんはどうしてここに?」
「あら、貴方こそどうしてこんな場所にいるのかしら?」

答えになってない、と彼は思った。

「質問を質問で返すのか」
「返すわ。確かに貴方のは質問だけれど、私宛じゃないもの。
きっと貴方は、自分で自分に問いかけているだけでしょう?」

ここはどこなのか。何故自分がここにいるのか。
彼は、彼女の正しさに、何も言い返せなかった。
そんな彼の表情に、マエリベリー・ハーンはまるで心を見透かしたように言い放つ。

「ここがどこなのか私は知らないわ。でも、間違いなくここは日本。
狭い意味での場所は私もわからない。過去なのか、未来なのかも不明」
「……貴女がここにいる理由は?」
「証明できる物も者もいない。その質問は無意味よ。第一、私も突然だったんだもの。説明できないわ」

そう言って、彼女は肩を竦める。
ふと頭をよぎった新たな答え。



「神隠し、か」




その言葉に、彼女の目の色が変わった……気がした。
目を丸くし、ややあって淡い笑みを浮かべるマエリベリー・ハーンに、彼は怪訝な顔で迎え撃つ。

「何か?」
「ふふふ、いえ、さっきとはまるで言ってることが違ってるから」
「さっき?」
「ええ。まさか、ブラックホールなんて言い出すとは思わなかった」
「……忘れてくれ」

思い出し、なんてアホなことを考えてたんだと反省する彼に、彼女は首を横に振って否定した。

「別にバカにしてるわけじゃないの。ごめんなさい」
「はぁ」
「信じてない?」
「信じろってのが無理だな。アレだけ笑われたら、バカにされる以外の意味を逆に知りたい」
「証明ね。私は理系じゃないから難しいわ」
「貴女の好きな分野でいい。俺を納得させてくれたら信じるよ」
「うーん。それなら……」

まるで幼稚な言葉遊び。
けれど、彼の言葉に彼女は優雅に笑って付き合ってくれた。

彼女がいくつも出す答えに、彼は小さく笑って両腕をクロスさせる。

やがてその回数が二桁になるとき、彼女は白い掌を挙げ、人差し指だけをぴんと上に伸ばす。

「じゃあ次は、とっておきのでいきましょう」
「とっておき?」
「私が貴方に興味を持ったから―――っていうのはだめ?」
「………は?」

口元をだらしなく開かせた彼に、彼女は気にせず続けた。

「こんなところに迷い込んできた人に、少しだけど興味が出たの」
「……」
「もしかしたら、貴方は私と同じなのかもしれないわ」

そう言って、マエリベリー・ハーンは夕暮れの丘から、赤く染まった村の風景を見下ろす。
自然に溢れた世界が、まるで別世界のようだと彼は思う。
事実ここは、紛れもない別世界だった。







「ここがどこか、って貴方は聞いてきた」







振り返る彼女が、そう言った。

「ここは多分、私たちの住んでる世界から隔離されたもう一つの世界。
既に絶滅した動物も、昔は生えていた植物も、使い古した道具も、全てが行き場所を失って到達するところ」

「……墓場なのか?」

「違うわ。言うなれば、忘れ去られたものたちの末路。
詳しくは説明してあげられないし、私もあんまり来たことないからこのくらいしか言えないけど」

「そうか」

なんとなく、彼は理解した。
どこかで見た覚えのある風景。
それはかつての日本を髣髴とさせる風景だったから。
彼は実際に見たことがあるわけじゃない。資料でしか見たことがない。
でもその資料の風景と、この場所の雰囲気はとてもよく似ていたから理解したのだ。

忘れ去られたものたちの末路。

彼が、どうしてここに行き着いたのか。
一番知りたいことが不明瞭だったけれど。
多分、彼が来たのは偶然。まさに、神隠しにでもあったのかもしれない。
そう、結論付けた。

今見ている風景はまるで幻想。
かつて日本にあった、幻想の欠片たちが集まっている理想郷であると、彼は思う。

彼の前にいたマエリベリー・ハーンは、静かに草原の丘を下る。
それに続くように、彼は彼女を追いかけた。

「どうしたんだ?」
「帰り道」

彼の質問に、なんでもないように答えるマエリベリー・ハーンという少女。
ゆっくりとした歩みが、本当にここから出る気でいるのかどうか怪しくさせている。

「帰り道?」
「ええ。ここに私たちは来ちゃいけないのよ。さっきも言ったとおり、ここは忘れ去れたものたちだけが来る場所。
貴方も私も、まだ忘れ去れたものではないから」
「でも、俺たちはここにいる」
「神隠し」
「え?」
「貴方が言ってた言葉は半分当たり。この世界と、私たちの世界はところどころ繋がっている。
その境界が曖昧になったところがリンクする場所になる。私はそれのおかげで、ここに来てるのよ」

その言葉に、彼は何度目か分からない茫然自失状態となった。
やがて、彼は一つの答えを導き出す。



「マエリベリー・ハーンさん。君はさっき帰ると言ったけど、もしかして、君はその境界とやらが見えるのか?」



一瞬だけ、彼女の歩みが止まった。
彼女は彼の方に振り返り、

「ええ」

彼の言葉を肯定した。
そして彼は、

「凄いな」

と口にした。
その言葉は、どういった意味を持っていたのだろう。
やがてマエリベリー・ハーンは、彼の台詞に呆気に取られた。

「凄いって……貴方はそんな反応するのね」
「どういった反応すると思った?」
「笑い飛ばして馬鹿にするかと思ってた。
だって、どう見ても貴方ってカチコチの理論家でしょう? こんな摩訶不思議なこと言われたら、一蹴するタイプだと思ってた」
「その予想は、さっきのブラックホール発言から?」
「正解」

溜息混じりに、彼はその説を否定する。

「確かに理論は大切にする。
けれど、もっと大事なのは事実からくる想像だ。
君がここにいて、俺もここにいる。そして、君の言うことはきっと正しい。
ならば……君がその境界を見えるというなら納得するしかないんだよ」
「理解はできないけど、納得はするんだ」
「これを理解する奴がいたら聞いてみたいもんだ。秘封倶楽部の君だって、よくわかってないんだろう?」
「あら、秘封倶楽部のこと知ってたのね。やっぱり有名なのかしら」
「名前がまず珍しい。知らない奴もいるけど、俺は知ってる」

彼が、彼女の隣まで歩いていく。
やがて並んだその肩。
マエリベリー・ハーンは、彼の方を無表情で見上げた。

「第一、君がその境界とやらを見ることが出来るのを信じなければ、俺はどうやって帰ればいいんだよ」

自然に疑問を感じたような言葉に、マエリベリー・ハーンは笑みを浮かべる。

「割と柔軟なのね。貴方」
「融通が利くとはよく言われるよ」
「人が良いって言われるタイプかしら?」
「正しいね」



言葉の掛け合いが、止んだ。
二人が黙って夕暮れの空を見上げる。
見たことのない鳥が空を舞い、けれど、真っ赤な太陽はいつも通り。
本当に、小説の中のような光景だと彼は思う。



「なあマエリベリー・ハーンさん」
「何かしら?」

ぽつりと、零れるような彼の台詞に、彼女は律儀に反応した。

「俺を秘封倶楽部に入れてくれ」
「……は?」

今度は、彼女は唖然とする番だった。

「それは……どうして?」
「ここにもう一度来たいから」

あっさりと彼は言う。

「忘れ去られた風景を、そのままにしておくにはもったいない。
また見たい。昔の日本が持っていた、この美しい場所を。風景を。感動を。
でも、俺がもう一度ここに来られる確証がない。なら、俺は君のその力に頼りたい。
秘封倶楽部に入れなくてもいい。ただ、いつかまたここに連れてきてくれないか?」
「……そう何度も何度も来れるわけじゃないの。それに、今回はたまたま帰れるけれど、次はどうかわからない」
「構わない」
「何故?」
「君と一緒なら、いつかかならずもう一度来れる。
それに……忘れたくない」
「?」
「忘れられた者たちのみが行ける、理想郷」


意図せず口に出た言葉は、やがて意味を持っていく。


「そうか……」


いつもと違う風景を、いつまでも見ていたいこの風景を、


「幻想、と」


そう呼ぶ。
幻想が蔓延る理想郷。
故にこの地を、彼はこう呼んだ。









「幻想郷。たとえ、忘却の彼方にある場所でも、そこに俺の知らない幻想が生きてる。

知りたい。忘れたくない。もう一度見たい。それだけじゃ理由にならないか?」









ざあと、風が草原を撫でる音が響く。
彼の言葉に、彼女は瞳を丸くさせて、やがて何も言わずに前へと向き直る。
草を踏みしめ、前へと歩く彼女。
彼はその後姿を数秒眺め、彼女の後を追いかけた。



しばらく歩いていると、森へ続く入り口のようなところに付く。
そこで彼女は首だけ振り返る。


「ここが帰り道へ続く入り口」
「そうか」
「ええ。それと―――」
「?」
「秘封倶楽部に入るなら、蓮子の許可ももらわないといけないの。
でも私は賛成する。きっと貴方なら、蓮子も許可してくれると思う。
だから先に言っておくわね」



ぴしりと、硝子の割れる音がした。
音がしたのは、森の入り口のところ。
ぐにゃりと割れた境界の向こうには、見慣れた世界が広がっていた。




「ようこそ秘封倶楽部へ」






境界を越える前に……
マエリベリー・ハーンの声は、きちんと彼に届いていた。



この後、彼はマエリベリー・ハーンをメリーと呼ぶようになる。








○○○





















昔話が終わると、メリーはとっとと帰った。
「後は二人っきりでね」と悪戯を考えたときの悪がきの笑顔で。
気を利かせたつもりだったのだろうか、とりあえず、彼は仏頂面でメリーを小突いておいた。
その光景に、先ほどから絶対零度の笑みだった蓮子の表情が、さらに温度の下がったのを、彼はしっかり確認してしまった。
炬燵の上を片付ける際、彼女の表情をちらりと確認する。

「……」

無表情だった。いや、微かに目元が震えている。
マジギレ中というわけである。
どうしたものかと考えるものの、彼はそこまで気の利く男ではなかった。

数秒考えた後、彼は思い切って彼女へ尋ねる。

「なあ、何で怒ってるんだ?」

その問いに対して、

「怒ってない」

蓮子の対応は、非常にドライである。
彼は困った。
元々口下手であることに加え、女性の感情に鈍感である。
何をすべきかはわかってはいるのだが、それを口にするのが難しい。
ただ謝っても、彼女は無視するか余計に怒る。宇佐見蓮子とは、そういった面倒くさい種類の人間だと彼は知っていた。

(こんなことなら心理学も専攻しておけばよかった)

彼の専門とは最もかけ離れたものである。
所詮はない物強請り。故に、行動でどうにかするしかなかった。
彼は洗い物を済ませ、蓮子が占領している炬燵まで近づく。
腰を下ろし、炬燵の中に足を突っ込もうとするだが……肝心の位置がちょっとおかしかった。

「……ねえ」
「何だ?」
「どうしてそこに座るの?」

彼が座っているのは、彼女の後ろだったのだ。
蓮子の背中を抱くようにして、彼は後ろから手を腰に回す。

「っ!?」
「どうした?」
「そりゃこっちの台詞よ!」

身体を硬直させた蓮子に、構わず彼は強く力を入れる。
足は彼女の横から伸ばすように。

完全に蓮子を抱く形で、彼は炬燵に入っていた。

「うーん、寒い寒い」
「はぁ? そ、そりゃ、洗い物してたら当たり前でしょ」
「でもお前は暖かい」
「な」

本日二度目の硬直。
蓮子の肩に顎を乗せ、彼は耳元で囁く。

「面白くなかったか?」

今日の会話が、と言わなくても蓮子はわかるだろう。


過去話が、メリーと彼が中心の話だったから。


自分がいないから、少しだけ寂しかったのかもしれない。


彼はそう思って、蓮子になるべく優しく語りかける。

「ごめん。ちょっと、夢中になってた。お前を無視するつもりはなかったんだ」
「……別に、そこまで気にしてないわよ」
「それでも、ごめん」
「だから! 謝らなくてもいいって!」

彼女は持っていた本を投げ、自分の手を、彼の手に重ねた。
冷たくなった彼の手に、彼女の手は、とても暖かかった。

「ねぇ。私と初めて会ったときのことは、ちゃんと覚えてるの?」

不安そうに、そう言った蓮子。
彼は答えた。さも当然のように。

「ああ。よく覚えてる」
「そっか……よかった」
「メリーのことだけ覚えてて、お前のことを忘れるわけがないだろ」
「なんで?」
「なんでって……そりゃ、な」

お前のことだから、と面と向かって言えるほどに彼は大胆ではない。
それでも、いつの間にか彼女が気に入っていた彼だから、その想いは彼女へと繋がったと思う。
何も言わずとも、蓮子はわかってくれると。

「うん。わかった」

嬉しそうに、彼の腕を抱きながら、蓮子はそう呟いた。








「とりあえず、今日はこのままがいいな」
「寝るときどうすんだ? 風呂は? トイレは?」
「……空気読みなさい」
「俺のせいか」
「ええ。だから―――」





「―――今日は、一緒に寝てもいい?」


















終われ。


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最終更新:2010年08月14日 22:40