その結果に至った原因として予測されうるモノは複数あった。

  一つは、彼に喜んで貰いたいがため。

  一つは、彼の友人が一番と薦めたため。

  一つは、他の選択を行う時間が絶望的に少なかったため。

  一つは、彼の積極性が余りにも欠如していたため。

  そして最後の一つは……

  思えば、コレが一番大きな理由なのだろう。

  多分、きっと……








  ~3~








  夜の帳が降りた、夏の幻想郷。

  昼の時間、灼熱ともいえる程の熱線を以ってして世界を見下ろしていた太陽は、紅く染まりながら沈み。

  交代とばかりに登場した三日月が、柔らかな光で若干ながらも涼しくなった夜の世界を照らしている。

  それは此処、妖怪の山も同じであった。

  蒸す様な熱気は形を潜め、山特有のひんやりとした空気が辺り一帯を包んでいる。

  任務を終えた白狼天狗は滝の内側にある社務所で涼を取りながら盤に向かい。

  山の頂上にある神社の巫女と二柱は縁側で三人仲良く西瓜を食べ。

  研究を一段落させた河童は、盟友と近くの川に涼みに行く。

  誰もが茹だる様な昼の暑さから解き放たれ。

  誰もが夜の涼しさを満喫する。

  そんな夏の幻想郷の一般的夜の風景。

  ……だが。

  ある一角は、そんな誰もが感じる涼しさは必要無いと言わんばかりに、燃えていた。

  滾る程に。

  迸る様に。

  熱く、暑く、暑苦しく燃えていた。

  見る人が見れば、地獄にいるハイスペック烏を思い出すような、強烈な熱。

  不用意に近付けば、その圧倒的な熱量で瞬く間に体中の水分を奪われそうな……そんな凶悪な熱。

  当然だが、実際に燃えている訳ではない。

  別に妖怪の山の一角が火事になっている訳でもないし、竹林に住む火の鳥娘が暴れている訳でもなかった。

  そう、つまるところコレは例え、イメージである。

  要はそれ程の暑苦しさが、ある場所に集まっているという話だ。

  架空の表現……だが、暑苦しいのは事実であった。

  現に、発生源の近くに生息している妖怪等の人妖達は、暑苦しさのせいか早々に避難していた。

  暑さによる人的(この場合、被害に遭っているのは妖怪なのだが)被害。

  この程度の被害は既に起こっている。

  しかし、原因に対して文句も苦言も、誰も言ってはいない。

  文句など、言えよう筈がなかった。

  誰が文句など言えようか。

  言いに行ったら最後、問答無用で叩き潰されるかもしれない相手が居る処なんかに、自ら乗り込む馬鹿など居る訳がない。

  妖怪だって自分の命は惜しいのである。

  まだ死にたくないと思うのは、人間も妖怪も同じであった。

  皆が皆、別々の場所でそんなことを思いながら膨大な熱の源を眺める。

  暑苦しさの原因であるその場所を。

  見つめる先に在るのは、一つの家屋。




  其処で、彼女はある決意をしていた。

  それは、その関係にある者達なら、何れは辿り着くであろう一つの段階。

  それは、その関係にある者達ならば、大抵の者達が通り過ぎるであろう一つの通過点。

  それは、その関係にある者達が、お互いの関係をより一層深めるための儀式。

  彼女は、射命丸文は……決意をしていた。








  ~1~








  耳に届く楽しそうな鼻唄と、鼻腔を擽る香ばしい匂いで彼女は眼を覚ました。

  ゆっくりと瞼を開く。

  まだ睡眠が足りないと言わんばかりに半分だけ開いた両眼に映るのは、彼女にとって良く見慣れた天井。

  所々ささくれ立っている天井板をぼんやりと眺めていると、トントンという軽快な音が彼女の耳に届いた。

  音のしている方向に首を回すと、其処には台所の前に立って何かをしている青年の姿。

  紺色のエプロンに身を包み、鼻唄交じりに調理をしている。

  鍋の蓋を空け、切った食材を流し込み、現在焼いている最中であろう魚を裏返す。

  当の昔に慣れたであろう作業を、今でも楽しげに行う彼を眺めること数秒。

  ふと、疑問が彼女の脳裏を過った。

  それは極単純な、何の変哲も無い疑問。

  彼がその行動をしていることによって発生する問題。

  朝御飯の支度。

  それを、彼がやっているという事実。

  彼女にとって、それ自体が問題であった。

  何故ならそれは……

  そこで漸く彼女、射命丸文は完全に覚醒した。

  そして青年は、覚醒するタイミングを見計らったかの様に彼女の方を振り向いた。

  ほぼ同時に、お互いが別々の言葉を発する。

 「あ、おはよう射命丸さん」

 「どうして○○さんが朝御飯を作ってるんですかっ!」

  文の発した言葉に、○○と呼ばれた青年は、苦笑いをしながら頭を掻いた。










  朝御飯を食べる文の表情は険しかった。

  ほかほかと温かな湯気を立てる白米を口に頬張りながら不満を漏らす。

 「全く、今日は私が朝御飯を作りますって、昨日あれだけ言いましたのに……」

 「いやぁ、早く起きちゃってさ。起こすのも悪いし、することも無いし、つい……」

  小皿に載せてある沢庵を一切れ摘まみながら謝罪する○○。

  口調には困った感がある。

 「それに、射命丸さん最近忙しそうだし。なら、これくらいはしないとさ」

  宥める様にそう言うと、○○は労わる様に笑った。

  そんな彼の笑顔を見て、文は心の中で溜息を吐く。

  もう、そんな顔をされたら何も言えないじゃないですか。

  内心でそう思いつつも、彼女には許せない事情があった。

  悔しさは自分に。

  実際のところ、○○の言っている事は事実であった。

  確かに最近の文は、夏の増刊記事を作るためのネタ探しのため、毎日幻想郷中を西へ東へ飛び回っていた。

  朝早くに自宅を飛び出しては深夜遅くに帰ってくるという、およそ外界に居る企業戦士の様な生活。

  それが最近の彼女の生活スタイルであった。

  無論、今の状態を良しとは思っていない。

  勿論記事を作るのは楽しい、生き甲斐と行っても良い。

  新聞を作ることは何より優先すべきこと。

  新聞作りこそ我が道、我が生き甲斐。

  一年前の彼女なら迷わずこう答えたであろう。

  けれど、今の彼女は違った。

  今の彼女には新聞よりも大切な存在があった。

  味噌汁を啜りながら、上目で卓袱台の向かいに座る青年を覗き見る。

  別にコレといって美点とも言えるところが無い、所謂平均的な造りをした顔。

  十人居ても十人とも振り向かない様な、普通の青年。

  ミスター平均……追加で奥手、もといヘタレ。

  それが彼を表す全て。

  ちなみに、追加部分は彼の友人の談である。

  けれど文にとって、そんな周りの評価等どうでも良かった。

  青年の真面目で誠実で、そして優しい心が。

  穏やかな笑顔が。

  青年を形成する全てが、文にとっては愛しかった。

  自分が恋する、只一人の存在。

  自分を愛してくれる、唯一の存在。

  それが○○、現在彼女の真正面で穏やかな笑みを浮かべている青年であった。

  そして問題は其処にあった。

  ここ最近の文には、全くといって良い程○○と接する時間が無かった。

  何せ朝起きて御飯を食べたら夜まで(それも真夜中に近い)自宅に帰って来られないのだ。

  確かに今までもそれに近い生活ではあったが、一日の内に何度か二人は会っていた。

  昼御飯の時だったり、三時の休憩時だったりと、会うタイミングは様々に。

  兎に角、文は偶然を装って○○に会っていた。

  一種のストーカーを思わせる行為であったが、まあ、この点に関しては彼も嬉しがっているので問題は無いと思われる。

  しかし今回の件に関しては、それを行う時間が全く以って無い。

  無いと言ったら無い。

  今回の仕事が始まってから一度も無い。

  射命丸文にとって、これ程までに耐え難いことは無かった。

  もっと一緒の時間が欲しい。

  けれどネタを探さなくてはいけない。

  どうしようも出来ない現実に板ばさみにされた文に、唐突に舞い降りたのは更に嫌な未来だった。

  それは自分が○○に捨てられるという予想。

  彼等を知る者達から言わせれば、笑いながら『それは無いわ』と断言出来る程馬鹿らしい妄想である。

  だが、その時の文は彼等みたく笑い飛ばせなかった。

  それ程までに彼女の中を占める○○の割合は大きかったのである。

  最悪の未来に文は悩んだ。

  どうすればいいのか。

  どうすれば、○○に見限られないで済むのか。

  泣きそうな程に考えた末に出た結論。

  それが『○○さんに美味しい朝御飯を作って見直して貰おう』というモノであった。

  此処まで追い詰められた挙句に出たのが、こんな健全極まりない発想だということからも彼女の純情具合が伺えるであろう。

  彼の友人が聞いたのならば『それも良いけど、こうゆう場合、もっと違うのあるだろおおおおおおっ!!』と叫びだす程に健全且つ少女な作戦。

  その乙女チックな作戦を思い付いたのが前日の昼間。

  ○○に明日は自分が朝御飯を作ると宣言したのが夜中。

  そして結果は当然ながら……

 「はぁ、気合入れて作ろうと思ってましたのに……」

  溜息混じりに呟く文。

  気合を入れていた作戦も、疲れによって強化された睡魔には勝てず、あっけなく失敗に終わった。

 「はぁ、○○さんに朝御飯を御馳走したかったなぁ」

  再び溜息。

  言いながら顔を俯ける。

  俯くと同時に、暗い感情が文の心を覆った。

  このままだと。

  失敗に便乗するかの様に、圧し掛かってくる負の感情。

  このままだと、本当に。

  その負が文の心に暗い未来を灯す。

  ○○さんに、見捨てられるのでは……

  暗い感情に飲み込まれるその間際、○○が口を開いた。

 「なんでそんなに朝御飯に拘るのか知らないけどさ……」

  言葉に、文は先程までの思考を止め、顔を上げた。

  見上げた先にあるのは○○の顔。

  瞳は、何故か斜め上を向いていた。

  そのままの状態で彼は話を続ける。

 「別に今直ぐじゃなくても良いんじゃないか? ほら、今射命丸さん忙しいし……」

  視線は斜め上を向いたまま。

  ○○は言葉を繋ぐ。

  それじゃ駄目なんです、と言いたい気持ちを文は堪えた。

  彼はまだ何か言おうとしている。

  どうせ言うなら、最後まで聞いた後にこの言葉を出そう。

  そう決めて彼女は口を閉ざした。

  そして次の言葉で、その語句は放たれる機会を永遠に失う事となった。

 「まだまだ時間も沢山ある訳だし…………それに、これからもずっと一緒な訳だし」

  瞬間、顔面に熱が集まっていくのを文は実感した。

  喜びという名の光が先程まで全身を覆っていた暗闇を払ってゆく。

  歓喜に心を震わせながら彼女は思った。

  自分はなんて想われているのだろう、と。

  さっきまで悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。

  今すぐ目の前の青年に向かって飛び付きたい衝動に文は駆られた。

  輝く様な視線を○○に向ける。

  依然として○○は斜め上を向いたままだった。

  自身の発言が恥ずかしかったのか、若干頬が紅くなっている。

 「あ~……そんな訳だから、この話題は終了! さ、飯食おう! 冷めたら不味くなるからな!」

  恥ずかしさを誤魔化す様に一気に捲くし立てると、○○は勢い良く白米を掻き込んだ。

  子供みたいにがっつく様を暫く眺めた後、文は紅い顔に笑みを浮かべながら、はい、と小さく、けれど幸せそうに呟いた。

  彼女の表情に、もう暗闇は存在していなかった。

 「おかわりくださいっ!!」

 「ちょっ、はやっ!?」

  そして数秒の後、眩しいばかりの笑顔と共に突き出された茶碗。

  彼女が御櫃の中身を全て平らげたのは言うまでも無い話である。










  散々悩んだ問題がすっきりと解決し、普段より美味しく朝御飯を食べ終えた後。

  二人は互いに仕事の準備をしていた。

  文は勿論、記事のネタ探しに。

  ○○は人里に営業に。

  其々が別の、元を辿れば同じ仕事をするための準備をする。

 「今日の晩御飯、何かリクエストあるかな?」

  鞄に書類を詰め込みながら○○が訪ねた。

  問い掛けに、愛用の手帳をチェックしていた文は、手帳から顔を上げて答えた。

 「○○さんの作るモノなら、何でも良いですよ~」

 「了解~」

  文の答えに短く返して、○○は頭の中で思案する。

  今日も暑くなりそうだから、冷たいモノでも作るかなぁ。

  素麺? 冷やし中華? 心太……は、可笑しいだろ。

  考えながら何となく視線を巡らせる。

  と、○○の眼はカレンダーで止まった。

  壁に掛けられた、西瓜の絵が描かれているカレンダー。

  その月と日を見て、○○は今日が何の日か思い出す。

  あ~、そういえば今日って……

 「どうしたんです? カレンダーなんて見つめて……」

  じっとカレンダーを見つめる○○を不思議に思い、声を掛ける文。

  習う様にカレンダーを見つめる。

  彼女からすれば、何でも無い日付だった。

 「今日って、何かお祭りとかありましたっけ?」

  思った疑問を口にする。

  彼女のスケジュールには、イベント等の予定は入っていない。

 「いんや、何もないよ。なんとなく見てただけ」

 「そうですか? なら良いんですけど」

  明るく笑う○○に、文は笑顔で返す。

  そうこうしている内に、出発の時間になっていた。

 「あ、そろそろ行きますね!」

 「おっと、もうそんな時間か」

  慌しく取材に必要な荷物を掴み、文は玄関に向かう。

  靴を履きながら、文は○○の方を振り向き、大きな声で言った。

 「今日は出来るだけ早く帰ってきます!」

 「早く帰ってくるのは良いけど、気を付けるんだぞ? 取材も良いけど、無茶は禁物だからな?」

  まるで母親の様に安全を促す○○を見て、文はくすりと笑う。

 「わかってますって! では、行ってきます!」

 「はい、行ってらっしゃい」

  言葉と同時に疾風の如く飛び立つ文。

  まるで音速機の様に飛んでゆく様子を見て一言。

 「流石天狗は格が違った」

  彼女が飛び去った後には、飛行機雲が出来ていた。

  文が元気に飛び立っていく様を見届けた後、○○は居間に戻った。

  カレンダーに目をやり、改めて本日の月日を確認する。

 「あ~、やっぱり間違い無いな。さて、どうしようかなぁ……」

  右手を顎に当て、左手で頭を掻きながら考える。

 「忙しそうだし、言わないでおくか」

  気楽に結論を出し、再び彼は自分の仕事の準備を始めた。

  鞄の中に詰める書類を再確認する。

 「そんな年じゃねえしな~」

  それは殆ど本音であった。

  祝ってくれるのは確かに嬉しい。

  けど、いい年した大人がこんな事を自分から言うのも、何だかなぁ……と。

  そう思っていた。

  ……だが。

  彼はとことん甘かった。

  問題点は三つ。

  一つ目は、その日が今日であること。

  二つ目は、自分がどれ程彼女に愛されているのか、彼自身把握しきれていなかったこと。

  そして三つ目は……




  『偶然』の名を欲しいがままにする、荒唐無稽を絵に描いたような男が、自身の友人であるということ。




  そして再び『偶然』の引き金によって新たな問題は発生することとなる。

  後に自身が被ることになる被害を、今の彼は知る由も無かった。








  ~1.5~








  彼女が其処に立ち寄ったのは偶々であった。

  そしてまた、彼が此処に来たのも偶然であった。

  片やネタ探し。

  片やハーレム巡り。

  偶々なのだから避けられる訳でもないし、分かっていたとしても態々避けようという気も彼女には無かった。

  寧ろ此度の出会いによって、何かネタになるような事が起こるかもしれない。

  何といっても彼女が出会った青年は、いまや幻想郷(の主力部)では知らない人の方が少ない、居ないと言っても良い位の、超が付く有名人である。

  人として間違っているが、男としては間違っていない夢のために。

  博麗と守矢を、魔法使いと人形使いを、紅魔館を、白玉楼を、永遠亭を、百鬼夜行の鬼を、向日葵の主を、閻魔と死神を。

  仕舞いには天界と魔界に地獄まで。

  幻想郷全土の凡そ大部分に値する勢力と少女達を、僅か一年足らずでその手中に治めた人間。

  一つ制覇する都度、起こした事件は数知れず。

  彼の行く先にはイベント・ハプニングの類が、あたかもバーゲンセールの如く立ち並ぶ。

  ……まあハプニングの回数なら、あの人も負けてませんけどね。

  兎も角(ぶっちゃけ彼女は彼の事を人間とは思えないが)そんな人間なのだ。

  ならばこのチャンスを逃すことは出来ない。

  仮に、何もネタになる様なことが無かったとしても、別として面白いことがあるかもしれない。

  ならばそれはそれで良いだろう。

  文はそう考えていた。

  そんな軽い気持ちで、彼女は彼に同行してしまった。

  ……そして間も無くして。

  彼女の身に、問題という名の爆弾は投下されることとなる。








  ~2~








 「おいおい何してんだ輝夜、ぺトラは絶対ガードしろって!」

 「何言ってんのよ、こんな魔法よりムドの方が危険に決まってるじゃない!」

 「今回はぺトラの方がヤバイんだっつーの!」

 「石化魔法より即死魔法の方が危険なのは確定的に明らかな気がするのだけれど?」

 「今作は設定変わってんだ。良いから敵が構えたらガードしとけガード!」

 「何よ~、イチイチそんなことしてたら倒すのに時間掛かるじゃないの~」

 「お前に何の変哲も無い雑魚にやられる悔しさの何が分かるって言うんだよ。アレは相当悔しいのでガードするべき、死にたくなければガードするべき」

 「ああもう分かったわよ、すれば良いんでしょすれば…………あ」

 「あ」

 「…………」

 「…………」

 「あーーーーーーーーーーーーっ!!」

 「だから言ったのによ~」

 「私のデータが! マイデータがっ! まだセーブしてなかったのにーーーーーーーーっ!!」

 「人の忠告を聞かなかった結果がコレ。お前調子こき過ぎた結果だよ?」

 「むきぃーーーーーーーーーーーっ!!」




  奇怪な叫び声を上げながらコントローラーを放り出し、蓬莱山輝夜は勢い良く後ろに倒れた。

  ぼふんという音を立てながら後ろにある肉の塊、もとい人間にもたれかかる。

 「おっとと」

  後ろから輝夜を覆う様にして座っていた青年は、彼女の突然の行動に驚くことも無くその身体を受け止めた。

  腕の中に納まった少女はえらく燃え尽きた顔をしている。

  その様子を見て、青年の口から笑いが漏れた。

 「何が可笑しいのよ~」

  笑いが気に食わないのか、若干拗ねた様な口調で問う黒髪長髪の少女。

  問いに青年は口元を楽しげに吊り上げて答えた。

 「べっつに~? 流石お姫様は格が違ったなぁ、と思ってさ~」

 「五月蝿いわねぇ……どうせ忠告を聞かなかった私が悪いのよ~」

  喋りながらぐりぐりと後頭部を青年の胸に押し付ける。

  それが擽ったいのか、青年は僅かに身を捩った。

 「あ~あ、またやり直しか~」

  深い溜息を吐く。

  がっくりと肩を落とす輝夜に、青年は意地悪気に眉を上げて答えた。

 「ま、こまめにセーブをしてなかった報いだな、諦めてやり直せや」

 「むぅ~。手伝う気は無いのかしら、この男は……」

 「うむ、俺は手伝って上げても良いんだが……」

  少女の願いに、青年はワザとらしく瞼を閉じて考える振りをする。

  其処で漸くして、彼と彼女のすぐ後ろで控えていた少女達が声を上げた。

 「姫様、順番は順番ですから」

 「もう時間です姫様っ!」

 「駄目に決まってるじゃないですか」

  後ろを振り向かずとも、青年と少女には其々が誰の声かは分かっていた。

  取り敢えずの礼儀として二人は首だけを背後に回す。

  其処には……

  腕を組んで微笑む、赤と青が交互に混じった服に身を包んだ女性、八意永琳が。

  むすっとした顔で腰に手を当てている、紅い瞳のブレザー少女、鈴仙・優曇華院・イナバが。

  好奇の色を浮かべた、白いワンピースを着たウサ耳幼女、因幡てゐが。

  其々が躾けられた犬の様に、綺麗に横一列に並んでいた。

  どの瞳にも、焦れる様な色が伺える。

 「次は私の研究に付き合って貰う時間ですので」

 「待ってくださいよ師匠! 次は私の番じゃないですかっ!」

 「何言ってるのよ鈴仙ちゃん、次は私に決まってるじゃない」

  皆が皆、其々言葉を発する。

  大人の女性らしい穏やかな声色、思春期少女の気張った声、幼子特有の無邪気な発言。

  三種三様の……だが結局はどれも同じ意味を持つ主張。

  三人分の主張を一身に受け、輝夜は端正な顔を苦々しいと言わんばかりに歪めた。

  歪んだ顔で輝夜は言った。

 「もうちょっと位、良いじゃない……」

  駄目元と分かりつつも、モノは試しとばかりに言ってみる。

  結果は当然。




 「姫様、今何か仰いましたか?」

 「駄目ですっ!」

 「引き篭もってばかりじゃ、健康に良くないですよ姫様?」




  一刀両断、問答無用とばかりに切り伏せられる。

  余りのキレの良さに、輝夜は何も言い返せなかった。

  正確には、言い返そうとしても出来なかった。

  三人の、計六つの瞳。

  一見穏やかに見える眼に、待ち切れないと訴える瞳に、好奇心旺盛に笑う双眸に。

  宿っているモノは同じ言葉。

  彼女達の瞳は輝夜にこう告げていた。

  死にたくなければ早く代われ。

  それは紛れも無い殺意であった。

  実際の話、永琳を除いた他二人の実力は輝夜より下である。

  だというのに今向けられている殺意は、彼女自身の実力より数段上のモノであった。

  それが三人分。

  彼女に残された選択肢は一つしかなかった。

 「……うぅ、分かったわよ」

  敗北を認めるかの様に、がくりと頭を垂れる。

 「見事な御決断です、姫様」

 「流石です姫様!」

 「状況を知るって大事ですよね」

  己が主の姿に、三人の従者達は満足気に微笑んだ。

  輝夜は俯いたまま、ぼそりと呟く。

 「私、姫なのに……」

 「今それは関係ありません」

 「全く関係無い事です」

 「恋は盲目って言葉知ってますか?」

  とどめとばかりに放たれた言葉を受け、輝夜は青年の胸の中で大きく肩を落とした。

  無念さがオーラとなって見えそうな少女と、それに反比例するかの如く期待感で胸を膨らましている三人。

  傍観者と化していた渦中の青年は、彼女達をのほほんと眺めながら思った。

  布団の上だと、皆仲良いのになぁ。

  常人とは一線を隔した斜め上の思想に想いを馳せる青年は、有る意味この場で一番恐ろしかった。

  そしてもう一人の傍観者、射命丸文はというと……

  少女達と青年から少し離れた場所。

  出されたお茶を片手に持ったまま、彼女は呆気に取られていた。

  眼は見開かれており、口は半開きである。

  いつもの彼女ならば、このような状況を見たらすぐさまシャッターを切り、手帳に文字を書き記すだろう。

  新聞記者として。

  だが今の彼女から、そんなことを行う気力は失われていた。

  青年に会った時から、青年が言った時から、大方の予想を彼女はしていた。

  彼女は彼という人物を、少なくとも知っているのだ。

  それは取材対象としてもそうだし、自身の想い人の友人としてもそうである。

  だからこんな感じになるだろうといった、予想・予測を彼女はしていた。

  だがしかし。

  今、彼女の目の前で起こっている現象は、それ等を遥かに上回っていた。

  彼女の目に映るは、一人の青年に寄り添い、そして取り合う少女達の姿。

  少女達は一人を除き笑みを浮かべ、全員が頬を薄く染めている。

  誰が予想するだろう。

  月の姫ともあろう者が、只の人間に甘える様にもたれ掛かっている姿など。

  誰が予測するだろう。

  月の頭脳と呼ばれた天才が、凡人としか評価出来ない男に柔らかな笑顔を向けるなど。

  誰が考えるだろう。

  人間不信に近い状態である筈の月の兎が、下賎な地上の人間に絶対の信頼を寄せるなど。

  誰が思い付くだろう。

  詐欺兎とも呼ばれる因幡の白兎が、騙すべき対象である筈の人間に心から素直に接する様など。

  きっと誰も想像出来ない。

  博麗の巫女も、神隠しの主犯も。

  ……まあその二人も(八雲紫は微妙に違うが)当の昔にこの青年の手の中に落ちているのだが。

  ある種の異変とも呼べる光景。

  故に、射命丸文はひたすらに呆けるしかなかった。

  呆ける頭の端で、ふと彼女は思った。

  もしかして、他者から見れば自分もあんな感じなのだろうか……と。

  何気なく思い浮かべた想像は、普段の行動によってリアルになる。

  瞬く間に文は自分の頬が熱を持つのを実感した。

  照れくさい様な、恥ずかしい様な。

  嬉しい様な、もどかしい様な。

  そんな様々な感情が溢れ出す。

  そして文は、唐突に彼女達の気持ちを理解した。

  結局、自分も彼女達も同類なのだ。

  大切な人が出来て。

  その人とずっと一緒に居たいと思う。

  その人と共に在り続けたいと願う。

  それは、誰だって同じである。

  自身の想い人に想いを馳せる。

  早く○○さんに会いたいなぁ……

  浮かぶは朝に見た、穏やかな微笑み。

  今日は本当に早く帰ろうと、文は決めた。

  青年がこちらに声を掛けたのは、文が決意を固めるのと同時であった。










 「いや~、ほったらかしにしちゃってスマンスマン!」

 「いえいえ、気にしないで下さい」

 「そうか? いや~、悪ぃな文ちゃん!」

  底抜けに明るい声で謝罪する青年に、文は仕事用とは違う、プライベートの笑顔で返す。

  それはこの青年と話す時の、いつものスタイルであった。

  記者たる者、取材対象には礼儀を尽くすモノ。

  新聞記者の端くれたる文も、当然そう思っている。

  しかし出会いっぱしらに青年は言った。

 『そんな固っ苦しい態度取らなくて良いって!』

  記者とか取材対象とか、そんなモノは必要無い。

  その言葉を、当初の文は額面通りに受け取れなかった。

  それが本音と知ったのは、○○から彼のことを聞いた後のことである。

  以降、彼女は彼と接する時は仕事用の自分では無く、出来る限り私用の自分である様にしている。

   私用とはいっても口調は変えず、態度だけを変えている処が彼女らしいといえば彼女らしかった。

 「で? 今日は永遠亭に何の用だったんだ?」

 「いやぁ、ちょっとネタ探しに伺ったんですけどね……」

  青年の質問に、文は目線を逸らしながら返した。

  目の前の青年と会話を始めて二三分。

  その間、文は殺気と言う名の視線に晒されていた。

 「ん? どしたの文ちゃん?」

 「いや、その、なんと言いますか……」

  気まずそうな文を見て、青年は不思議そうに訪ねる。

  自身の近辺から彼女に向けて放たれているモノについては、当然ながら気付いていない。

  言葉の定まらない文を、依然として不思議そうに見つめる。

  暫くして、文はおずおずと口を開いた。

 「もしかして私……お邪魔でした?」

  その問いに青年が答える前に……

 「邪魔に決まってるじゃない」

 「邪魔ね」

 「はっきり言って邪魔」

 「玄関はあっちよ」

  青年を囲う様に座した少女達が次々に返事を返した。

 「あぅぅ……」

  刺々しさを隠しもしない態度と言葉に、若干怯む文。

  青年は少女達を宥める様に口を開いた。

 「まあまあ、ちょっと位良いじゃねーか」

  ちょっと位。

  それはつい先程、交代をせがむ三人に対して輝夜が言った言葉。

  文は青年の言葉に、次の瞬間、四人に怒られる彼の姿を予想する。

  しかし、またしても結果は予想を裏切った。




 「●●がそう言うなら仕方無いわね」

 「全くもう、仕方ありませんねぇ」

 「●●が良いんなら、私は別に良いけど……」

 「頭撫でてくれたら許す」




  先程其々が行ったモノとは真逆の、花開く様な対応と言葉に、座っていた文は前のめりにずっこけた。

  各々の対応の変化の何という急激なことか。

 「サンキュ~」

  少女達に礼を言って、●●と呼ばれた青年は笑った。

  暢気に笑う彼を見ながら、文は想い人の友人の恐ろしさを改めて痛感した。










  文が●●、そして永遠亭の主力勢四人に取材を始めてから、かれこれ数十分。

  未だ取材という名の会話は続いている。

  取材と言っても、話す内容は各々が好き勝手に話しているだけであった。

  輝夜は最近嵌っているゲームシリーズについて熱く語り。

  永琳がゲームのやりすぎを窘めつつ最近行っている実験の成果を話す。

  鈴仙が先日罠に掛かったことを愚痴り。

  てゐがそれは自分の仕掛けた罠だと言って意地悪く笑う。

  取材とは名ばかりの、要するに雑談であった。

  記者としての文は、これで良いのかと思う。

  が、皆が楽しく笑っているのだから今回はこれで良いか、と判断していた。

  けれど一つだけ。

  どうしても気になることが一つだけあった。

  話をしつつ、文は●●を見る。

  正しくは、●●の周りに居る少女達を。

  まずは輝夜。

  彼女は会話の途中から横になっていた。

  胡坐を掻いている●●の膝に頭を乗せて。

  十人居れば十人振り返るその美貌は、今やふにゃふにゃにふやけきっている。

  次に鈴仙。

  彼女も途中までは普通の姿勢で●●の右隣に座っていた。

  しかしある会話の流れで彼が頭を撫でると、急にしおらしくなり、後は為すままされるがまま。

  数秒後、其処には見事に陥落した一匹の月兎が居た。

  顔は瞳の色よりも真っ赤である。

  もしかしたら全身くまなく真っ赤っ赤なのかもしれない。

  次にてゐ。

  彼女はころころと立ち位置を変えていた。

  初めは胡坐を掻いている●●の膝の上に座り。

  輝夜が横になってからは彼の左腕にしがみつき。

  そして今は彼の背中にもたれ掛かっている。

  彼の頭に顎を乗せ、時折むふーと息を吐き、にへりと満足気に表情を崩す様は、とても千年の歳月を生きた兎とは思えなかった。

  最後に永琳。

  彼女は初めから変わらず、彼の右肩後ろに寄り添うように座っていた。

  他の連中と比べると、別段何もしていない様に見える……が。

  良く見ると、彼の右肩に乗せている彼女の左手は、話を始めた時から一度たりとて離れていなかった。

  柔らかな瞳も、注意深く観察すれば、絡み付く様な情熱の炎が深部に伺える。

  ある意味一番危険な人物だと、文は身震いした。

  否、それは違う。

  この場所で、この幻想郷で、最も危険な人物は……

  ちらりと●●を見やる。

  彼は愉快そうに会話を続けている。

  それはそれは心の底から楽しそうに。

  身に受けている有りっ丈の情に気付いているのかいないのか。

  文には判断出来ないし、出来るとも思っていなかった。

  もし、彼がそれに気付いていたとして、何処にそれだけの情念を受け止める器が有るのか。

  仮に有ったとしても、それは彼女には理解しかねるモノだった。

  それに器が有ろうが無かろうが、彼が現在保有している情念は規格外である。

  その事実だけが、有る意味真実であった。

  故に彼女はその思考を止め、一つだけ気になっていた疑問をぶつける事にした。

 「ところで●●さん」

 「なんだい?」

 「攻略まで何日掛かりましたか?」

 「一ヶ月ジャスト!」

 「そうですか、ハーレム凄いですね」

 「それほどでも……あるな!」

  褒め言葉に●●は片目を閉じ、グッと親指を立て、眩しい笑顔を文に向けて放つ。

  清々し過ぎる答えに、文は軽く眩暈を覚えそうになった。

  ああ、やっぱり変な人だなぁ。

  思いつつも、その余りにも欲望に愚直な精神は、有る意味尊敬すらしてしまう。

  その愚直なまでの真っ直ぐさは、文に想い人の姿を連想させた。

  愚直な●●と実直な○○。

  まるで正反対に見える様で、実のところ、彼等は根っこの部分では同じなのかもしれない。

  自分の好きな人と同じ信念を持つ人間。

  だからこそ、自分はこの青年のことを気に入っているのかもしれなかった。

  ちなみに、友人的な意味で。

  こんなとんでもないことを仕出かしているのに、この人なら仕方無いかなぁ、とつい思ってしまうのは偏に人格の成せる業なのかも。

  そうぼんやりと考える。

  何と無しにそんなことを考えていたためか、文は返される質問に対して、まともな思考を使っていなかった。

 「ところで文ちゃん」

 「なんですか?」

 「○○とは最近どうよ?」

 「あんまり接する時間が無いです」

 「そうか~。そういえば、今日○○の誕生日だな」

 「そうですねぇ…………へ?」

  問答の最後に届いた聞き覚えの無い単語に、文は思考を取り戻した。

  彼女は初め、その言葉の意味が理解出来なかった。

 「へ? え? えっ? ええっ?」

  口から飛び出すのは言葉とも呼べない音だけ。

  ぐるぐると先程●●から聞いた単語の意味を解読する。

  誕生日?

  それはその人が生まれたことを祝う日。

  誰の?

  決まっている、○○しかありえない。

  いつ?

  それは今日。

  整理完了。

  そして金魚みたいに数回口を開閉した後、文は声量マックスで叫んだ。

 「ええええええええーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!??」










  永遠亭のとある一室。

  其処に彼と、彼女達は居た。

  車座になって座っている六人の男女……正確には●●、文、永琳、輝夜、鈴仙、てゐ。

  ●●を除いた全員は、揃いも揃って神妙な顔で車座の中央に置かれた大きめの紙を見つめている。

  紙には大きな文字で『○○の誕生日をどうするか!?』と書かれていた。

 「さてと、それじゃあ始めましょうか」

  永琳が始まりを告げる。

  誰に言われなくとも自ら進行役を勤めているのは、流石永遠亭の実質的リーダーと言うべきか。

  他の五人も、彼女が進行役であることに何も反対は無く、開始の合図に対し素直に頷いた。

 「料理に関しては貴女が作るという事で構わないわね?」

 「はい。料理には一応の自信は有りますし、大丈夫です」

  永琳の質問に文は真剣な顔付きで頷いた。

 「宜しい。材料は……今から買出ししても間に合うか分からないから、ウチから持って行きなさい」

 「ええっ!? 幾らなんでもそれは……」

  突然の提案に驚く文。

  割り込むように永琳は言う。

 「良いから。こうゆう時の好意には素直に甘えておくモノよ?」

  言い終えた後で、永琳は柔らかく微笑んだ。

  まるで聖母を思わせるその笑みに、文は開いていた口を閉ざし、感謝の意を込めて頷く。

  その光景を、永遠亭のメンバーは怪訝そうな顔付きで見つめていた。

  隣に座っている鈴仙に輝夜は小声で訪ねる。

 「ねえイナバ。永琳、何か変なクスリでも呑んだの?」

 「さ、さぁ……? 呑んでないと思うんですけど……」

  其処に鈴仙の後ろから、てゐが口を挟む。

 「というか姫様と師匠って、薬の類は効かないでしょう」

 「「確かに」」

  てゐの発言に、二人は納得する。

  そして疑問は振り出しに。

  三人は揃って頭を捻った。

  目前に居る、慈母と呼んでも差し支えの無さそうな永琳の姿。

  普段のサディスティックっぷりからは想像すら出来ない今の姿。

  何か裏がある筈だと。

  彼女達はそう考える。

  そして……

  悩む間も無く回答は現れた。

 「お~、流石永琳。優しいなぁオイ」

 「そうかしら? 困っている時はお互い様じゃない?」

  感心した声を上げる●●に、永琳はしれっと答えた。

 「いやいや、普通は出来ねえって。流石俺の嫁!」

 「ふふっ、褒めても何も出ないわよ?」

 「任せとけい、出させるのはこっちの仕事ですわい!」

  ●●はそう言うと、ぐにっと親指を人差し指と中指の間に入れた握り拳を作って永琳に向け、にやりと笑った。

  出された拳の意味を理解している永琳は困った様に笑う。

 「もう、あんまり人前でそんなこと言っちゃ駄目よ?」

 「んなモン気にすんなって!」

  頬を薄く染め、恥ずかしそうに咎める永琳と、それを全く気にせず笑う●●。

  残されたメンバー(文除く)は、其処で漸く月の頭脳の策略に気付き、三人が三人共、やられた、と思った。

  そう、彼女は何の見返りも無く文に親切にしていた訳では無い。

  彼女、八意永琳はこの機会を利用したのだった。

  自分の良い所を●●にアピールするチャンスとして。

  そしてアピールは抜群の効果を発し、●●の中で永琳の株は上がった。

  彼女達がその思惑に気付いた時には時既に時間切れ。

  結果として永琳の策は上手く進み、三人は彼女にリードを許してしまった。

  正に後の祭り、後のカーニバルであった。
  
  わなわなと永琳を見つめる三人。

  それに気付いた彼女は、少女達に向けて小悪魔を思わせるウインクを送った。

  ●●の作った握り拳の意味も、永琳の思惑も知らない文は、今にも湯気を噴き出しそうな三人を不思議そうに眺めていた。










  食事の材料を集め終え、作る料理も決め、残すは後一つとなった。

  しかしその最後が最大の難関であった。

  あれやこれやと片っ端からリストアップしては、考えた末に却下される。

  誰かが再度熟考した末に出された品も、誰かが更に熟考を重ねて結局却下。

  熟考しては提出、熟考しては却下。

  そんな流れを、かれこれ一時間近く、彼女達は繰り返していた。

 「どうせ貰うのなら、珍しいモノが良いに決まってるわ!」

  強気な口調で自分の主張を告げる輝夜。

 「姫様、一般人にそれは厳しいですよ。やっぱり薬とか、どうかしら?」

  顎に手を当てながら自身の考えを述べる永琳。

 「薬って師匠、それは流石にどうかと……う~ん、此処はやっぱり服とか?」

  如何にもベターな発言をする鈴仙。

 「鈴仙ちゃん、それは好みが分かれると思うよ? やっぱり健康食品でしょ!」

  それもどうかと思われる案を上げるてゐ。

  いつまで経っても終わらない討論を終わらせるため、最終的に彼女達が出した結論が、この四つであった。

  余談ではあるが、コレ等は彼女達が一番初めに出した品々である。

  それって、自分が欲しいモノでは無いのか?

  そう思っていても、結局決められず仕舞いの文は口には出せず、作り笑いを浮かべるしかなかった。

  ちなみに●●は初めの方に煙草を吸いに部屋を出て行ったっきり、まだ戻ってきていない。

  メインの文を放置したまま、四人の少女達の討論は更に激化する。

 「絶対珍しいモノの方が嬉しいわよ!」

 「薬で幸せな脳内ライフで良いじゃないですか」

 「セオリー的には、服とかの方が絶対良いですって!」

 「健康食品で長生きした方が良いに決まってるじゃない」

  揃って自己の案を主張し、揃って相手の案を批判する。

  拮抗する空間を壊したのは、煙草を吸い終えて戻ってきた●●であった。

 「お前等、ま~だやっとんのか……」

  睨み合う少女達を見て、呆れた様に言う。

  戻ってきた彼に、少女達は詰め寄った。

 「ねえ●●! どうせ貰うなら、珍しいモノの方が良いわよね!?」

 「良い薬呑んで、良い夢見たいでしょう?」

 「自分に似合う服だったら、●●も欲しいわよね!?」

 「健康食品食べて、いつまでも長生きしたいでしょ~?」

  最早○○のために選んでいるのか、●●のために選んでいるのか分からない問い掛け。

  彼は迫る彼女達を一瞥した後、不満気に、別にどれも欲しくねえ、と言った。

 「「「「なんでっ!?」」」」

  青年の発言に、四人は驚愕した。

  自分を選んでくれるという期待があったのか、はたまた全部選ぶかもしれないという予想があったのかは定かでは無い。

  だが、彼はそんな彼女達の期待と予想を裏切った。

  それは彼女達にとって、全くの予想外であった。

  仰天したままの少女達を見ながら、●●は一つ深い溜息を吐き、部屋を見回した。

  そして永遠亭のメンバーの勢いに気圧されて、隅で小さくなっていた文を見つけ、問い掛ける。

 「ちなみに、文ちゃんは○○にどんなモノをプレゼントしようと思ってるんだ?」

 「えっ? わ、私ですか? えーっと……お揃いの手帳とかを考えてたんですけど……」

  突然の降って湧いた問いに、どもりながらも答える文。

  言ってはみたものの、実際の所は手帳なんて地味だと彼女は思っていた。

  どうせなら、手作りの何かを作りたかった。

  しかしそれは時間が有ればの話。

  現状を垣間見れば、手作りなど論外であった。

  かといって、先程彼女達が挙げていた品々を選ぶのも憚れる。

  珍しいモノなんて直ぐには見つからないし、薬なんて論外だ。

  服といっても色々有るし、健康食品なんて年寄り臭い……というかプレゼント的には何かおかしい。

  そうして考えた結論が、自身も持っている手帳と同じ種類のモノをプレゼントする案だった。

  今の処は、それが彼女の選んだ最良であった。

  文の告げたプレゼントに、●●は笑みを浮かべた。

 「うん、それで良いんじゃねえか?」

 「え? い、良いんですか?」  

  てっきり地味だとか言われて却下されると思ったのに。

  先程、四人の案を一太刀でブッた斬った彼を見て、自分の案も却下されると思っていた文は、拍子抜けをした。

  不思議に思いながら●●を見る。

  彼は笑みを浮かべたまま言った。

 「結局の処さ、文ちゃんが一番良いと思ったモノを上げるのが一番なんだって」

  文ちゃんも、○○がくれるモノなら何でも嬉しいだろ?

  後にそう付けて、●●はニカッと笑った。

  その笑顔に釣られる様に文も笑顔を浮かべる。

 「はいっ!」

  元気良く答える文を見て、●●はうんうんと満足気に頷いた。

  少し離れた所で話を聞いていた永遠亭のメンバー達も、彼の出した答えに納得と謂わんばかりに首を縦に振っていた。

  ……しかし。

  その内の三人、輝夜、永琳、てゐは、内心でもう一波乱有ることを何と無く予想していた。




  此処で、この辺りで綺麗に締めておけば、彼も善良な人間という評価で終わったのかもしれない。

  だが、彼がそんなまともな人間である筈が無いことは、永遠亭の彼女達も、射命丸文も、理解していた筈である。

  何といっても幻想郷を己がハーレムにしかけている男なのだ。

  その本質は日常・正常という存在から大きくかけ離れている。

  日常よりも非日常を、正常よりも異常を、平穏よりも騒動を、LOWよりもCHAOSを。

  混沌こそが、己の生き様。

  故に、こんなめでたしめでたしな話で終わる訳が……終わらせる訳が無かったのだ。




 「あっ!」

  話も纏まって、後は実行に移すのみ。

  と、煮詰まった雰囲気が霧散しかけているこの時この瞬間を狙ったかの様に、●●は声を上げた。

  少女達は彼の方を向き、注目する。

 「どうしたんです●●さん?」

  文が声を掛ける。

  彼はポリポリと頭を掻きながら言い難そうに答えた。

 「いや~、ああ言った手前申し訳無いんだけど……あったわ」

 「え?」

 「ん?」

  意味有り気な●●の態度に鈴仙と文は頭上にハテナマークを浮かべる。

  予想をしていた輝夜と永琳、てゐの三人は、やっぱり来たか、と内心で思った。

 「何があったの?」

  鈴仙が訪ねた。

  数瞬の間を空け、●●は言った。




 「アイツがもっと喜ぶモノ。っつーか、大抵の男はコレが一番だろっていう……」




  ちなみに俺はコレが一番嬉しいです、英語で言うならグレイティスト。

  続けて述べた後、●●は口の端を高く吊り上げた。

  一見すると、とても良い事を閃いたと思わせる笑顔。

  しかし、少女達の受け取り方は二つに分かれていた。

  二人はそんなに良い案が有るのかと感心し、三人はまるで悪魔が浮かべる様な厭らしい笑みだと思う。

 「そんなに良い案があるんですか!?」

 「おお、あったあった。コレが一番だろっていうのが」

  感心した二人の内の一人である文に、嬉しそうな顔で答える●●。

 「全くもう……そんなモノがあるんなら、さっさと出しなさいよね」

  感心組のもう一人である鈴仙が、若干の不満を込めて言う。

  全く気付いていない月兎を見て、悪魔組は哀れむ様な視線を黙ったまま彼女に送った。

 「まーまー、そう言うなって。俺もすっかり忘れてたんだからさ~」

  言いながら●●は井戸端会議のおばちゃん風に手を振った。

 「で、それは一体何なんですか!?」

 「ちょっと待ってくれよ~……え~っと」

  詰め寄る文を片手で制しつつ、残った手でズボンのポケットを漁る。

  目当てのモノは、直ぐに見付かった。

  見付けると同時に、自分の笑みが更に醜くくなるのを●●は実感した。

  目の前には期待に胸を膨らました天狗の少女と、そっぽを向きつつも横目でチラチラとこちらを覗いている月兎。

  その背後には、波乱の気配を敏感に察知した月の姫と頭脳、そして因幡の白兎。

  高揚する精神を顔に出さない様懸命に堪えながら、●●はポケットの中で握っていた『あるモノ』を少女達の目前に突き出した。

  果たして出されたモノは。

  ソレを目にした瞬間、文を除く女性陣はソレが何かを瞬時に理解した。

  最近の自分達にとっては、とても馴染みの深いモノ。

  一週間に一回は確実に、下手すればその日の内に三四回は使われるであろう代物。

  ソレは掌に収まりきるサイズの大きさの、ピンク色のパックであった。

  中にリング状の何かが入っているのか、輪の様なモノが浮き上がっている。

  少女達は一名を除き、顔を朱に染めて沈黙する。

 「あ~……確かに」

 「言われてみれば……」

 「納得……だねぇ」

  ……訂正、沈黙しているのは鈴仙のみ。

  他の三人は、頬を紅く染めながらも納得々々とばかりに其々が其々の反応をしていた。

  鈴仙のみ、顔を茹蛸にしてフリーズしている。

  ソレの用途を理解出来ない文は、不思議そうにソレを眺めていた。

 「コレが一番のプレゼントだと僕は思います!!」

  でも、使わないでする方がもっと好きです。

  キラキラと無垢な笑顔を浮かべて言い切る。

  それは例えるなら、夏休みに大きなカブトムシを見つけた時の少年の様な、曇りの無い輝きであった。  

  少年の心を持った青年の訴えに、輝夜達は否定しづらそうに曖昧に頷き、鈴仙は未だ紅くなったままフリーズしていた。

  文は●●の言葉を聞きながら、出されたソレを興味津々といった感じで弄繰り回している。

  そして一頻り弄った後、生徒みたいに小さく手を上げて質問をした。

 「あの……●●さん」

 「なんだ、文ちゃん?」

  文を指名する。

 「コレ、何なんですか? 皆さんは知っているみたいですけど……」

  質問に、鈴仙を除いた三人と●●は固まった。

  四人は信じられないといった風な顔付きで天狗少女を見つめ付ける。

  見つめた先の瞳には、不思議と疑問と好奇心が、ありありと浮かび上がっていた。

  それは紛れも無い無知の証明、故に紛れも無い本気の質問であった。

  流石に此処までとは予想していなかった●●は、徐に手を突き上げて叫んだ。




 「き、緊急ターーーーーーーーイムッ!!」




  叫ぶと同時に、●●は脱兎の勢いで輝夜達、アダルト軍団の居る処へと向かった。

  三人は彼が到着すると、待ってましたとばかりに円陣を組む。

  そして会議が始まった。

 「ちょっとアレ本当!? 信じられないんだけど!?」

  出始めに捲くし立てる輝夜。

  表情は今の発言が信じられないといった風である。

 「ばっか俺だって信じられねえっつーの! 純情とは思ってたけど……まさかこれほどとは思わんかった」

  若干動揺した様子で話す●●。

  マジで知りませんでしたと、顔の前で手を左右に振る。

 「彼女……確か千年を生きる烏天狗ですよね」

 「ちょっと信じられないウサ」

  懐疑の眼を以って首を傾げる永琳とてゐ。

  動揺を隠せないのか、てゐの語尾は少しおかしかった。

 「でもあの眼はマジだろ……俺一瞬眩しかったもん。光属性の俺も流石にちょっとばかりビビッたわ」

 「で、どうするのよ。教えるの?」

  ●●の阿呆な発言を完全スルーして、輝夜は結論を促す。

 「う~ん、良い機会だから教えようとは思うんだが……」

  彼は腕を組んで悩む。

  果たして本当に教えても良いのか。

  ちょっと気が引ける、と●●は思った。

  このまま純情少女で進んで行って欲しいと思う天使と、良いから教えちまえYOという悪魔が彼の中で鬩ぎ合う。

  助け舟を出したのは、全員がほぼ同時であった。

 「別に私は良いと思うわよ?」

 「私は構わないと思うわ。悪いことでは無いのだし」

 「何れは知ることだし、今教えても変わらないウサ」

  0対3。

  余りにも偏った援軍により、勝負は悪魔側の圧倒的勝利に終わった。

  哀れ天使。

  可哀想ではあるが、一応の決着は付いてしまったので仕方が無い。

  此れにて緊急会議終了し、後は報告するのみである。

 「んじゃ、教えてくるわ!」

 「おー!」

 「応援してるわ」

 「あんまり激しいのは教えちゃ駄目ウサよ?」

  釘を刺すてゐに任せろと告げ、●●は円を抜け、再び文の元へと戻った。

  シュタッと片手を上げ、待ち惚けを食っていた文に頭を下げる。

 「いやいや、お待たせお待たせ! 悪いね文ちゃん!」

 「いえ、別に構いませんよ~。それで、さっきの続きなんですけど……」

  特に気にすることも無く答えると、文は先程から気になって仕方が無いと言わんばかりに、掌に載せたピンクのソレを●●に見せた。

 「うん、オッケーオッケー! お兄さんがバッチリ説明しちゃうぞ!」

 「はい! それじゃお願いします!」

  言うが早いか、文は気を付けとばかりにピンと背筋を伸ばす。

  そして真面目な顔で●●を見つめた。

  今から語ることを考えるとその姿勢は如何なモノかと●●は思ったが、敢えて何も言わなかった。

  理由はその方が面白いからである。

 「よーし、それじゃあ説明を始めるぜい!」

  そして●●はソレの詳しい使用方法を純情純心な天狗少女に向けて説明し始めた。  










  説明を終えた後の永遠亭の一室。

  ほんの数分程前までがやがやと騒がしかった其処は、今は別の意味で騒がしかった。

  少し前までは騒がしくも楽しげだった空気。

  それが今は怒りと羞恥で満ち溢れていた。

  源となっている主犯格は二人。

 「ちょっと●●! アンタ何教えてんのよ!」

  怒鳴り声を撒き散らす月の兎である鈴仙と。

 「そんなこと…………出来ませんっ!!」

  恥ずかしさに身を染めながら訴える烏天狗の文。

  二人は異句異音を騒動の原因の原因である●●に放つ。

 「そんなの無理っ! 無理ですっ!」

  深紅に染まった顔面を左右に振る天狗少女。

  顔と態度は、説明を始めた当初よりも紅く、そして動揺していた。

  うろたえる文を眺めながら、●●は眉を八の字にして頬を一つ掻いた。

  少しばかりの反省をする。

  説明する前の彼女は、何の知識も無い、真っ白な状態だった。

  其処に先程、無理矢理に知識を植え込んだのは、紛れも無い●●本人とその後押しをした輝夜達である。

  輝夜達は、知らないのならば教えてやれば良い、という考えであった。

  それには●●も同感であった。

  寧ろ、千年も生きていて知らないとかどうよ……?

  という、共通の親切心による行動である。

  そして……

 「無理です恥ずかしいですーーーーっ!!」

  結果は言わずもがな。

  やはりというか何と言うか、彼女、射命丸文は純情乙女だった。

  ある程度は予想していたが、過剰ともいえる彼女の敏感過ぎる反応に、彼と輝夜達は苦笑するしかなかった。

  文の正面に立っている●●と、輝夜含む三名は、揃って軽く息を吐く。

  そしてこれとは別に、気になることがもう一点。

 「変なこと教えてるんじゃないわよ、この馬鹿っ!!」

  吠えながら●●に詰め掛かる鈴仙。

  説明の終わり頃にフリーズ状態から解凍された彼女は、現状を知った後、猛烈に怒り出したのだった。

  文には若干劣るが、こちらも顔を紅く染めている。

  紅い瞳には、照れと怒りが混じっていた。

  その態度と言動に、●●は思っていた疑問を彼女に投げ掛ける。

 「っつーか、何故にうどんげはそんなに怒ってんだ?」

  心底不思議そうな顔を浮かべる彼に、鈴仙は更に声を上げて食い掛かった。

 「当たり前でしょう!? 人に変な事教えてんじゃないわよっ!」

  牙を剥き出しながら答える。

  少女の言っている内容の意味が分からないと言わんばかりに、●●は腕を組み、首を傾げた。

 「変な事? 何が?」

 「さっきアンタが文に説明していた事に決まってるじゃないっ!」

  分かっていないことが苛付くのか、●●を睨み付ける鈴仙。

  対する彼は、心外そうに顔を顰めた。

 「俺が話した事ってーのは、そんなに変な事なのか?」

  問う●●。

 「当たり前じゃない!」

  迷わず答える鈴仙。

 「そうなのか……んじゃ、お前はそんなことはしたくない、と。そう言いたいってことだよな?」

 「っ!? それはその……」

  ●●の更なる問いに、鈴仙は言葉を詰まらせた。

  勢いは見て取れるほどに無くなった。

  風向きは反転し、先程までの追い風は彼女自身に吹く向かい風へと変わる。

 「そうかそうか、そりゃスマンかった。俺は楽しいから好きなんだが……相手が嫌がる事をしてまで自分が楽しくなりたい訳じゃないからな~」

 「違っ……別に、そういう訳じゃ……」

  あくまで軽く、しかし重い内容の●●に、鈴仙は言葉に詰まりながら返す。

  怒りは最早、動揺と後悔に塗り替えられていた。

  彼女の内心の変化に気付きつつ、●●は追撃を重ねた。

 「いやいや! 別にフォローしてくんなくて良いって! ゴメンなうどんげ! 今度からお前の分は、輝夜と永琳とてゐに回すからさ~」

  言いながら意味有り気な視線を輝夜達に送る。

  視線の意味を違えることなく理解した彼女達は、無慈悲な援護射撃を鈴仙に向けて放った。

 「ありがとうイナバ! 貴女の分はちゃんと貰っとくからね~」

 「これは今夜が楽しみですね」

 「さらば鈴仙ちゃん! 今日は一人で寝てね~」

  自身の主と師と仲間の、何処まで明るく爽やかな声に、鈴仙はびくりと肩を震わせ、顔を俯かせる。

  何時の間にか作られた握り拳は、恐怖か喪失か、小刻みに震えていた。

  彼女の変化に、彼は内側でほくそ笑んだ。

  んじゃ、締めといきますか。

 「そーゆうことなんで、今夜は四人で楽しもうぜ~!」

  誰かの背中を押す様に、一際大きく叫ぶと、●●は輝夜達の方へと駆け出そうとする。

  その彼の服の端を、誰かは、ぎゅっ、と掴んだ。

  突如起きた抵抗に、彼は笑いを堪えながら身体を反転させる。

  抵抗の原因は俯いたままの姿勢で、彼の服を掴んでいた。

 「なんじゃいうどんげ。まだ何か問題でも有るのか?」

  表向きは平坦な声に、鈴仙は何も言わず、只首を振る。

 「まだ何か問題があるんなら、早く言って欲しいんだけどなぁ……」

  罠に掛かる寸前の獲物を追い詰める様に。

  彼は行動を急かした。

  追い詰める様な言動に、やがて……

 「誰も……」

  その獲物は口を開き……

 「嫌なんて…………言ってない、じゃない」

  見事彼の思惑通り、自ら罠へと飛び込んで行った。

  口元が大きく攣り上がり、両眼には歓喜を浮かべる。

  彼は素早く彼女の顎を持ち、顔を上げさせ、その口を塞いだ。

  獰猛な肉食獣が餌を貪る様な、親が子を慈しむ様な、そんな口付け。

  当然ディープである。

  彼女は突然の事態に驚き、眼を見開くも、それも保って数秒。

  口内から全身へと広がる、骨の髄まで届く様な甘い痺れには耐えられず。

  強情な仮面は脆くも崩れ去り、後に残ったのは、うっとりとした表情でただ只管に口撃を受け入れる、一人の恋する少女だけであった。

 「ちょっと、それはズルイわよイナバ!」

 「これは想定外でしたね……」

 「良いなぁ、私も後でして貰お~っと」

  聞こえる野次も何のその。

  陶酔仕切った彼女の耳には、何も届いちゃいなかった。

  今の彼女は、この現状を満喫するのに精一杯。

  自分と彼以外のモノに意識を向ける時間すら惜しい。

  甘い、甘い時間。

  自分と相手だけの世界。

  しかしそれにも当然終わりは在り……

  鈴仙の口内を思うがままに蹂躙していたモノは、不意に戦域から離脱した。

  まだ足りない。

  もっと欲しい。

  そう思っていても、口内にあった熱は急速に失われていく。

  離れた後も、まだ足りないと言う彼女の意志を反映するかの様に、一本の光る糸が二人の口元を繋いでいた。

  それを青年は掬いながら、この場に相応しく無いが、彼らしい笑みを浮かべる。

 「続きは今日の夜にな、鈴仙」

  場の雰囲気にそぐわない、邪悪な笑み。

  出された提案に、まだ夢心地のままの鈴仙は子供の様に何度も頷いた。

  数分前まで確かに其処に居た生真面目な少女は今は居らず。

  現在其処に居るのは、魔王に蹂躙されながらも只々愛情を求め続ける一人の少女であった。

  自分達の想い人の鮮やかな攻略っぷりを見た永遠亭組は、流石●●、と口を揃えて呟いた。










  そして問題の一つをあっさりと解決した彼は、残った問題を解決するため、天狗の少女に視線を向けた。

  事の顛末を初めから最後まで観ていたであろう少女は、刺激が強かったのか、真っ赤になったまま固まっていた。

 「文ちゃん」

 「はいぃぃっ!?」

  跳ねる様に返事を返す少女。

 「な、なんでしょうか●●さん!? 別に私は何も思ってませんよ!? ええ、別に少し羨ましいとか思ってませんから!!」

  聞いてもいないことを自白するように早口で述べる。

  その姿を見て彼は眼を細めた。

  瞳に宿っているのは、老婆心と優しさ。

  彼の様子に気付かないまま、文は尚も捲くし立てる。

 「○○さんとしてみたいなぁ……とか、ぜんっぜん思ってませんから! いや、ちょっと位なら……って、ああもう!」

  百面相みたく、ころころと顔を変化させる文。

  ●●は変わらない。

 「一つ聞いて良いか?」

 「なんでしょう!?」

 「○○のこと、好きか?」

 「え……?」

  予想外の質問に、文は呆気に取られた顔になった。

  呆けた顔で●●を見る。

  青年の顔は真剣そのものであった。

  いつもの悪ふざけではない。

  先程までのエロでもない。

  只、単純に純粋に。

  自身の友人の身を案じているのだと、文は理解した。

  友を想うその姿を見て、文を落ち着きを取り戻す。

  やがて内容を十二分に噛み砕いた後、彼女は答えた。

 「はい、好きです」

 「そっか」

  彼は微笑んだ。

 「アイツはさ、本当に奥手なヤツなんだよ。恋に臆病なんだ」

  困った様な声色で話す。

 「よっぽどの事が無い限り、自分からはキスも出来ない。その先なんてもっと無理だ」

  口調には、馬鹿にした色も、見下した色も見られない。

  其処にあるのは心配だけ。

  文は黙って話を聞く。

 「でも、したくない訳じゃないんだ。多分、アイツは今以上に文ちゃんを求めたいと、愛したいと思ってる。ただそれを自分で出来ないだけで……だから」

  だから文ちゃんから寄ってってくれたら助かるかなぁ、と思ってさ。

  最後にそう付け加えて、●●はバツが悪そうな顔でスマンと謝った。

  文は謝る彼を黙って見つめていた。

 「ゴメンな無茶言って。人には人の流れってモンがあるもんな。俺が口出しすることじゃなかったわ」

  んじゃこの話はおしまいってことで。

  言って、彼は文に背を向ける。

  黙っていた文が口を開いたのはその時だった。

 「私やりますっ! やってやります!!」

 「「「「はぁっ!?」」」」

  その発言に観客と化していた輝夜達は面食らった。

  驚愕は、ほぼ全員に。

  打って変わった発言に永遠亭組は驚きを禁じえない。

  各々が驚きを言葉にする。

 「どうゆうこと!?」

 「これはまた……」

 「ちょ、ちょっと変わりすぎじゃない?」

 「吹っ切れ過ぎウサ」

  眼を丸くしながら口々に。

  爆弾発言をした少女の心境の変化に、輝夜達は付いて行けていなかった。

  一方の文は、それまでの葛藤と羞恥がまるで嘘だったかの様に前向きになっていた。

  心をやる気が満たしていく。

  何をうじうじと悩んでいたんだろう。

  皆さんに、彼の友人である●●さんにこんなに心配を、迷惑を掛けて。

  何を迷う必要があったのだろう。

  自分はこんなに彼のことが好きだというのに。

  そうだ、私こと、射命丸文は○○さんのことが好きなのだ。

  大事なのはそれだけ、それだけで充分ではないか。

  そうだ、彼が喜んでくれるのならば。

  この身を捧げる事に、何を躊躇う必要があったというのか。

  もとよりこの身はあの人だけのモノ。

  ならば。

  ならば何も問題は無いではないか。

  それを行う為に今必要なモノは何だ?

  必要なモノ、それは……

  そして彼女は、今自分に最も必要な知識を得るため……

 「皆さん!! 私に御享受願います!!」

  経験があるであろう少女達と、経験豊富であろう青年に向かい、勢い良く頭を下げた。

  急速に変化した状況について行けず、頭を下げる文を呆然と眺めている少女達を尻目に。

 「おう、任せとけ!」

  只一人、●●だけが元気良く、少女の願いを快諾した。










  そして時間は過ぎ、場所は変わって永遠亭玄関前。

  文を見送るため、●●と永遠亭のメンバーは玄関の外に集まっていた。  

  集まったメンバーの内、二人は笑顔で、残りの四人は其々複雑な表情を浮かべている。

 「それじゃあ皆さん、色々とありがとうございました!」

  笑顔の一人である射命丸文は、永遠亭の面々に感謝の意を伝えると、ぺこりと頭を下げた。

  両手には永琳の好意で貰った、様々な食材が入った袋を抱えている。

 「おう! 頑張ってな!」

  感謝に親指を立てて返したのは、もう一人の笑顔である●●。

 「はいっ!!」

  気合の入った返事に、彼は満足そうに頷く。

  そして後ろを向き、黙って突っ立っている少女達を促した。

 「ほらほら、お前等も何か言ってやれって~」

  彼の促しに、少女達は罪悪感を隠しながら口を開いた。

 「まあ、やれるだけやってきなさいな」

 「物事は程々が一番よ?」

 「無理はしちゃ駄目だからね?」

 「男の性欲を舐めちゃいけないウサ」

 「ありがとうございます!」

  経験者達の有り難いお言葉に、文は改めて頭を下げる。

  感謝の言葉を貰っても、頭を下げられても、やはり先輩連中には後ろめたさしかなかった。

  頭を上げると、文はきりっとした顔を作り、言った。

 「それでは、行って参ります!!」

  別れの言葉と共に、彼女は漆黒の羽を広げ、幻想郷最速の名に恥じぬ速さで飛び立って行った。

  数秒を待たずに姿は消え失せ、残るは彼女が作った飛行機雲と残響のみ。

  まるで今から戦場に赴く兵士みたいな物言いね、と。

  飛び立った天狗少女を眺めつつ、元軍人の鈴仙は思った。

  ……まあ、彼女がこれから行う行為は、有る意味では戦争なのかも知れないが。

 「お~行った行った……んじゃ、戻るとしますかな」

  友人の恋人が消えるのを見送った後、●●は片手で伸びをしながら玄関の戸に手を掛ける。

 「その前に、ちょっと良いかしら?」

  その背中に質問を投げかけたのは輝夜であった。

  静止の声に彼は戸に掛けた手を離し、輝夜達の方に身体を向けた。

  ●●が完全に向き直った後、輝夜は質問を続けた。

 「何を企んでるのかしら?」

 「あらら、バレてたか」

  質問に対しあっさりと自白をした●●は、ワザとらしく額に手を当て、舌を出した。

 「あったり前でしょう」

  ねえ、と輝夜は三人に同意を求めた。

  求められた三人は、勿論、と軽く頷いた。

  今回は鈴仙も気付いていた様である。

  三者の同意を確認した輝夜は、鼻を軽く鳴らした。

 「あれだけうさん臭い演技を見せ付けられたら、誰だって気付くわよ」

 「うさん臭いとは失礼な! アレも一応は本音だっつーの」

 「いや、それは嘘でしょう」

 「絶対嘘ね」

 「嘘吐きに嘘は通じないよ?」

 「ちょっ、ひでえっ!」

  全員に嘘だと疑われ、軽く凹む●●。

  彼の言っていることは、どちらかといえば事実であった。

  友人である○○のことを心配しているのも本当だったし。

  文と幸せになって欲しいというのも彼の本心であった。

  割合で言えば、過半数を真実が占めていた。

  だというのに、彼女達が欠片たりとて●●のことを信じていないのは、要するに彼が……

 「で、今回は何を企んでいるのかしら?」

  全員の代表として輝夜が訪ねる。

  ●●は意地の悪い笑みを浮かべて答えた。




 「人の恋路ほど、面白ぇモンは無えよなぁ?」




  にたあ、と。

  とことん厭らしく、そして心底楽しそうに哂う。

  それだけで彼女達は全てを理解した。

 「それは面白そうね」

  文字通り愉快気に輝夜。

 「本当、性分ねぇ……」

  溜息を吐きつつも、娯楽への期待は隠せていない永琳。

 「全くもう、どうしてこう次から次へと……」

  額に手を当てて文句を言いながらも、止めようとはしない鈴仙。
 
 「面白そうね」

  有る意味、一番ノリノリのてゐ。

  四人共、態度に違いはあるが、誰も反対はしない。

  例え反対しても、この状態の彼が実行を中止する筈が無いという事を、全員が知っていた。

  それに最近の彼女達は、彼の巻き起こす騒動を内心では楽しみにしていた。

  この事からも、彼が彼女達(永遠亭以外も含む)に及ぼす影響・悪影響の侵食具合が伺える。

  罪悪感も後ろめたさも、面白楽しい事の前には何処吹く風。

  朱に交われば赤くなる。

  満場一致に彼は笑みを深めた。

 「んじゃま、準備しますか!」

  そう言って、彼は深呼吸を始めた。

  今から行う作業は、肺活量がモノをいうからだ。

  数回程呼吸を繰り返し、最後に大きく息を吸い込む。

  そして彼は、自身の協力者の名前を絶叫した。








  ~4~








  ぐつぐつと旨味を凝縮するために鍋の中で煮込まれ、解されるスープ。

  頃合を見て蓋を空け、おたまで一掬いして口に運ぶ。

  味覚を総動員して味の確認を行う。

  不足している調味料は無い。

  煮込み具合はどうか。

  問題無い、具材は程良い固さを保っている。

  出来に納得した文は、火を止めて鍋掴みを手に嵌め、鍋を掴んだ。

  ゆっくりと、慎重に。

  壊れ物を扱うかのように繊細な動作で鍋を運ぶ。

  用意したモノ、その何れかが一つでも欠けてしまう事を、彼女は望んでいない。

  もしこの場から皿一つ消えただけでも、それは命取りとなる。

  そんなことある筈無いのだが、今の彼女はそう思い込んでいた。

  程無くして鍋は卓袱台に置かれ、文は安心した様にホッと息を吐いた。

  最後の料理を準備し終え、彼女は卓袱台の上に並べられた料理の数々を見下ろした。

  どれも己が持つ調理スキルを最大限に生かして作られた料理。

  正に集大成とも呼べる料理群を見て、彼女は満足気に一つ頷いた。

  壁に掛けられた時計を見る。

  そろそろ○○が帰ってくる時間帯であった。

 「ふう、なんとか間に合いましたね」

  ぐいっと額に薄くかいた汗を拭い、身に着けたエプロンを外しに掛かる。

  料理の準備も終了し、部屋の片付けも完了。

  残すは……

  エプロンを外す際、何かが落ちた。

  床下に目線を落とす。

  ソレは手の平にすっぽり収まる大きさの、ピンクのプラスチックパック。

  見止めた瞬間、文の頬に朱が差した。

  震える手でソレを拾い上げ、じっと見つめる。

  今回の作戦に一番必要なモノであるソレを、暫しまじまじと眺めた後、彼女はソレをスカートのポケットにしまった。

  大丈夫、きっと上手くやれる筈。

  心の中で呟き、永遠亭で●●から言われたことを思い出す。

 『最初は普通に誕生日を祝っといた方が良いぞ? 初っ端からだと、アイツ絶対へっぴり腰になるから』

  それは○○のことを熟知している男の発言。

  大丈夫ですよ●●さん、上手くやりますから。

  戸棚から手鏡と櫛を取り出して、髪を念入りに梳き、整える。

  今日は記念すべき日なのだ、彼にとっても、私にとっても。

  ならば、今までで一番の自分でいよう。

  もうすぐ帰ってくるであろう想い人のことを考える。

  最後に鏡の前で笑顔を作って、文は手鏡と櫛を戸棚にしまった。

  帰宅の声が聞こえたのは、その数秒後のことであった。










  上機嫌に自分を出迎えた文を見て、彼が最初に思ったことは、どうしてこんな時間に彼女が家に居るのかということだった。

  最近の日常を振り返ってみても、帰宅する早さは○○の方が圧倒的である。

  それより更に遡ったとしても、文が○○より早く帰宅することは、稀も稀であった。

  疑問はもう一つ。

  先程からニコニコとこちらに笑いかけている文を見つめる。

  どうしてそんなに機嫌が良いんだろう?

  二つの疑問を、○○は靴を脱ぎながら目の前の少女に躊躇う事無く問い掛けた。

 「今日は早かったんだね、射命丸さん。それに、何か良い事があったみたいだ」

 「ええ、今日は早く帰ってくることにしたんです。良い事は……勿論ありました!」

  文は笑顔のまま返答した。

 「そうなんだ。どんな良い事があったの?」

 「上がってくれば分かりますよ~」

  悪戯小僧みたいに言って、一足先に文は居間へと入っていった。

  何があったんだろう?

  不思議に思いながらも、彼は文に従って居間へと足を踏み入れた。

  入った瞬間、目の前の光景に○○は度肝を抜かれた。

 「はい……?」

  驚きは卓袱台の上に載せられた料理の数々に。

  香ばしいタレが食欲をそそる鰻重に、こんがりと飴色に焼き上げられた七面鳥。

  様々な魚介類が盛られた船盛りに、何処ぞの面点師が来たのかと思いさえする多種多様の点心類。

  喉を潤す役割を果たすのは、知る人ぞ知る銘酒・水道水。

  各種フルーツ盛り合わせ、果てはマムシの姿焼きにスッポンスープまで。

  これでもかと並べられた豪華料理に、彼は呆気に取られた。

  説明を求める様に、卓袱台の向かい側で座っている文を見つめる。

 「射命丸さん、これは一体……?」

  問い掛けに、文は卓袱台の下に手を入れて何かを取り出した。

  出されたモノが示す意味を、○○は直ぐには理解出来なかった。

  文が両手で持っているモノはケーキだった。

  一切れや二切れではない、ホールサイズのモノである。

  ケーキの上面にはチョコプレートがあり、其処には『お誕生日おめでとう』と書かれている。

  そこで彼は漸く理解をした。

 「ハッピーバースデー、○○さんっ!!」

  立ち尽くす○○に、文は嬉しそうに祝いの言葉を送った。










  感動と驚きを収束させる間も無く席に着かされ。

  上機嫌の文に勧められるままに酒を注がれ、食事を促され。

  やれ食べや呑めや。

  ○○がやっと口を開けたのは、並べられた一級料理の大半を胃の中に収めた後だった。

 「いや~……射命丸さん、俺の誕生日知ってたんだね。俺、教えたっけ?」

  酒の入ったグラスを傾けながら問う。

  頬は酒気のためか、若干紅くなっていた。

 「実は、今日偶然会った●●さんが教えてくれてたんです」

 「●●が?」

  恋人の口から飛び出した友人の名前に○○は、へぇ、と感心した。

  アイツも偶には良い事するじゃないか。

  僅かばかりの感謝を友に送る。

  今度会った時に、礼くらいはしておくか。

  そんなことを考えながら酒を仰ぐ。

  辛過ぎず、また甘過ぎない。

  今まで味わった事の無い、絶妙とも呼べる味が○○の舌と喉を焼いた。

 「それより酷いですよ○○さん。どうして教えてくれなかったんですか」

  文は不満そうに頬を膨らます。

  不満は彼がそんな大切な日を自分に教えてくれなかった事に対して。

 「ごめんごめん、俺も今日思い出したんだ。それに、射命丸さん最近忙しいだろ? だから……」

  申し訳無さそうに謝罪する○○。

  それを見て、言外に付け足すだろう言葉を文は察した。

  君に、迷惑を掛けたくなかった。

 「もう、そんな顔されたら何も言えないじゃないですか」

  拗ねた様に言った後、彼女は○○に微笑んだ。

 「良いです、許してあげます。何はともあれ、こうしてちゃんと祝えましたから。でも……今度はちゃんと言って下さいね?」

  約束ですよ、と語尾にそう加えて。

  微笑みに一瞬だけ見とれた後。

  照れた様な笑顔を返しながら○○は、了解、と頷いた。

  返事に、にんまりとする少女。

  自身の恋人を見つめつつ、○○は思った。

  ああ、こうゆうのを幸せって言うんだろうな。

  穏やかで優しい、二人だけの時間。

  この時がずっと続けば良いのに。

  酒に惑いつつ、○○は思った。

 「ところで○○さん」

 「ん? なに?」

 「まだ料理が残ってますよ?」

 「いや、もうお腹一杯なんだけど……」

 「……全部食べてくれないんですか?」

 「……食べます」

  と思った現実がコレである。

  負い目プラス、好きな女の子の上目使い。

  当然勝てる筈も無く、哀れにも○○は残った料理を食べ尽くすことになった。

  ニコニコ顔の文を視界の端に写しつつ、押し込む様にしながら気合と根性で食べる。

  彼が後半戦で主に食べた料理は以下の三品。

  鰻重、マムシの姿焼き、スッポンスープ。

  何れも滋養強壮に優れた料理である。

  文が●●に会ったことの本当の意味を、○○はまだ、知らない。

  少女の決戦まで、あと少し。










  少女の期待に満ちた笑みを受け続けながら食べる続けること三十分。

 「うあ~食った食った~。ごちそうさま~」

  漸く完食した○○は、くぐもった声を上げながら後ろに倒れ込んだ。

  腹は満腹を通り越して、今やはちきれんばかりである。

 「お粗末さまでした。全部食べてくれて、ありがとうございます」

  嬉しそうに労わりの言葉を掛ける少女。

 「いやいや、こちらこそ。美味しかったよ~……あ、食器は俺が洗うから、置いといてくれれば良いよ」

 「何言ってるんです。今日は私が全部しますから、○○さんはゆっくりしていて下さい」

 「いや、流石にそれは悪いって」

 「良いったら良いんです」

 「う~……それじゃあ御言葉に甘えるとします」

 「はい、甘えちゃってください」

  其処で会話は途切れた。

  互いに無言の、けれど気まずくはない時間が流れる。

  その時、文の脳裏に、教えられた言葉が再び浮かび上がった。

  食事を終え、のんびりと余韻を味わう時間。

  このタイミングかな、と彼女は思った。

  思った刹那、一際強く心臓が跳ねる。

  僅かばかりだが呼吸が荒くなった。

  落ち着かせる様に、文は○○からは見えない位置で、ぎゅっとスカートの裾を強く握る。

  いよいよだ、此処からが本番だ。

  さあ、行動を開始しよう。

  緊張する心を奮い立たせる様に、彼女は立ち上がり、寝そべっている○○に話しかけた。

 「○○さん。お風呂どうしますか?」

 「あ~、今は止めとく。酒呑んじゃったし」

 「そうですか。じゃあ私は入ってきますね。あ、まだ寝ないで下さいね? 渡したいモノがありますから」

 「あいよ~」

  そして文は脱衣所に入っていった。

  入るところを見送った後、○○は膨れ上がったお腹を擦りながら、先程文が言った言葉の意味を考えた。

 「渡すモノ……ねぇ」

  何かは当然分かっていた。

  今日が何の日で、ここまで致せり尽くせりなのだ。

  分からないほうがおかしい。

  しかし、それでも彼女が何を渡してくれるのかは予想出来なかった。

 「何をくれるんだろう?」

  鞄、スーツ、手帳。

  思い思いに思考を巡らせる。

 「う~ん……わからん」

  自分の発想の貧困さに彼は呆れる。

  我ながら、なんという貧弱な発想だと○○は自嘲した。

  その中に当初の正解があったことを、彼は知らない。

 「ま、何でも良いや」

  そう結論を出して、彼は思考をストップさせた。

  別にどうでもいいと考えているのではない。

  文がくれるモノならば、何でも良いと。

  ○○は真面目にそう思っていた。  

  恋人が自分のために選んだ何かをくれる。

  彼にとっては、それだけで充分過ぎる程嬉しかった。

  期待感が湧き上がる。

  まだかまだかと胸を躍らせた。

  そうして待ち続けて十分後。

  脱衣所の方向で戸が開く音が、○○の耳に届いた。

  どうやら上がったみたいだな。

  もう少しでプレゼントの正体が分かる。

  ワクワクした面持ちで、○○は脱衣所の方を見つめた。

  鞄? スーツ? 手帳? それともそれ以外の何か?

  待ち焦がれる青年。

  願いを聞き入れるかの様に扉は開かれ、中からは……




 「…………はい?」




  そして青年は再び度肝を抜かれることになった。

  決戦、開始。










  彼は混乱する脳内で、今日身の回りに起きた事を再確認していた。

  まずは朝。

  起きてから不機嫌な彼女を何とか宥めて食事を済ませ、そして見送る。

  見送った後、自室のカレンダーを見て、今日が自分の誕生日であったことを思い出す。

  しかし彼女に伝えることはせず、続いて出勤。

  次に昼。

  いつもと同じ様に人里で営業回り。

  それ以外に目立った事は特に無し、敢えて言うなら霧雨魔理沙とアリス・マーガトロイドに会ったこと位。

  雑談の内容は大したモノでは無いので割愛、主に自分の友人のノロケであった。

  最後に夜。

  帰宅すると、彼女が嬉しそうに自分を出迎える。

  居間には豪勢な料理の数々が並んでおり、理由を尋ねると自身の誕生日を祝うためだと彼女は告げた。

  予想もしていなかった事態に、喜びが収まり切らぬまま楽しい食事タイムに突入、数十分後に終了。

  彼女はプレゼントを期待させる様な発言を残してお風呂に入り……そして現在に至る。

  オーケイ、何もおかしなところは無いな。

  本日身に起こった事柄を並べて、不備が無かったことを確認した後、彼は改めて現在自分が置かれている状況と原因を眺める。

  目前に有るのは異常。

  誰が何と言おうと異常。

  通常では予測のしようも無い、異常。

  目論んだ訳でも無く、経過があってこうなった訳でも無い。

  突如として発生した異変。

  故に、回想の意味は解決に繋がらない。

 「大丈夫です、私に任せて下さい……」

  馬乗りになった姿勢のまま、少女は艶のある声で囁く。

  遊女を連想させる、男を惑わす微笑を浮かべながら。

  頬は薄紅色に染まり、身体も風呂上りのためか、ほんのりと紅い。

  興奮しているためか息は荒く、短い呼吸を早めに繰り返す。

 「○○さんは何もしなくて良いですから……」

  蕩けた様な瞳。

  青年は、少女を視界に移さない様に、視線を逸らして言った。

 「と、とりあえず、落ち着こう射命丸さん。あ、あと服を着て欲しいんだけど……」

  しどろもどろになりながらの懇願。

  目の前の少女は、下着しか身に着けていなかった。

  黒を基調とした上下の布が、少女の、絶妙のバランスをもった肢体の大事な部分のみを隠している。

  意図せずに生唾を呑み込む。

  文はくすりと笑って、青年の懇願を蹴飛ばした。

 「何言ってるんです、今から脱がなきゃいけないのに着てどうするんですか」

  陶酔する様に、とんでもない事を口にする少女。

  その言葉を聞いて○○の混乱は更に悪化する。

  今にも転げ落ちて行きそうな精神で彼は叫んだ。

  どうしてこうなった!?

  心の叫びに、答えは当然返ってくることは無い。

  脱衣所から出てきたと思ったら突然押し倒されてこの体勢。

  倒れた身体の上に圧し掛かるは自身の恋人。

  平穏な日常から奇想天外の非日常に突き落とされたかの様な錯覚。

  健全な少年少女がある日突然大人の階段を一足飛びで上りきってしまった様な郷愁。

  コインを裏返した様な少女の変化に、どうしようもない程に小心な青年は只々困惑するしかない。

  揺らめく脳裏に一瞬、悪魔の様な笑みを浮かべる男の姿が過ぎった。




  困惑は○○だけではなく、射命丸文もしていた。

  内心の彼女は、それはもう動揺しきっていた。

  どうしよう、これからどうするんでしたっけ。  

  あわあわと慌てながらも次に自分が行うべきことを思い出す。

  その様は普段の純情な彼女そのモノであった。

  それもその筈だろう。

  幾ら知識を植え込まれ様とも所詮は付き焼き刃。

  実践経験がモノをいうのに、その経験はゼロなのである。

  彼の友人の言葉に感動してやる気になったものの、やはり想像と現実は違うモノ。

  元は真っ当過ぎるほど純情な乙女である。

  そんな彼女がこの状況に動揺しない訳が無かった。

  表向きは妖艶な女性を演じてはいるが、内面では必死の形相で、昼間彼等に教えられた事を記憶から引きずり出している。

  初めに自分がした行動も、文にとっては予想外であった。

  先人達から出されていた案は四つ。

  一つは、慎ましやかに。

  一つは、自分からリードする形で。

  一つは、有りのままの自分で行く。

  一つは、問答無用で襲う。

  その中から、文は『慎ましやかに』という選択肢を選んだ筈であった。

  当初の予定では、脱衣所の扉を開いた後、弱々しく○○にしなだれかかる予定であった。

  しかし結果は御覧の有様である。

  扉を開けた瞬間、彼女は緊張とも興奮とも形容の出来ない感情に流され。

  気付けば押し倒し、気付くと妖艶な女性を演じていた。

  最悪の二つをごちゃ混ぜにした行動。

  依然として大人の女性を演じてはいるが、既に文の脳は限界だった。

  緊張は臨界に達し、恐怖は底抜けに落ちて行く。

  それでも行動を止めないのは、偏に○○への想いの深さに他ならなかった。

  逃げ出したい衝動を、愛と言うなの鎖で縛り付ける。

  大好きです。

  大好きなんです。

  貴方のことが、どうしようも無い位に好きなんです。

  貴方のためなら何だって出来ちゃう位、好きなんです。

  呪いを掛ける様に彼女は紡ぐ。

  どうかこの想いが届く様にと、祈りを込めて。

  だから。

  だから、ずっと私を好きでいて下さい。

  そして彼女は自身を纏う布に手を掛けた。




  身に纏う下着を脱ぎ去ろうと、肩に手を伸ばす少女。

  握ったら折れてしまいそうな程にか細い指先を、緩やかな動作で肩の紐に掛ける。

   未だ混乱と動揺を沈めきれないまま、○○はその姿を黙って視界に入れていた。

  心臓はずっと16ビートを刻んでいる。

  おぼろげな脳内で考えるのは、その先に待つ行程。

  純情純潔を地で行く彼であっても、流石にここまでお膳立てされると分かっていた。

  この先に待っているのは、肉と肉が絡み合う宴。

  愛する者同士が、互いを求め、熱と愛を奪い合う儀式。

  そして其処に在るのは深い情愛と、欲。

  故に、何処までも実直で生真面目な青年は悩んでいた。

  本当に良いのか、と。

  彼自身、彼女とこうなりたいと思っていなかった訳では無い。

  今日教えられるまで知らなかった文と違って、その筋に精通した友人を持つ○○は、耳年増だが内容を十分に熟知していた。

  行為が齎す効能と結果も。

  そして情報を彼女より多く持っているからこそ、彼は悩む。

  本当に、今日、今この場で、それをしてしまっても良いのかと。

  過度な情報量と、度を越した純情(プラス生来のへタレさ)故に。

  しかしそれも、目の前の少女にはまるで無意味なのかもしれなかった。

  するりと。

  少女は両肩に掛けられている布紐の片方を解く。

  白磁の様に滑らかな肌。

  自身を切なげに見つめる、濡れた双眸。

  甘く漏れ出る吐息。

  理性の一部が壊れる音が、○○の頭に響いた。
  
  身体の奥で、得体の知れない何かが狂った様に叫ぶ。

  浅い呼吸をしているためか、胸が苦しい。

  ごくりと唾を呑む。

  待て。

  聞こえる静止の声と。

  やっちまえ。

  背中を押す様に叫ぶ何か。

  二つのモノが、頭の裏側から姿を現す。

  こんな形で彼女を抱いてしまっても良いのか?

  良いじゃないか、此処まで来たんならやっちまえよ。

  現れたのは天使の理性と悪魔の本能。

  ふざけるな、もっと段階というモノがあるだろう。

  知るかそんなモン、好きにすれば良い。

  二つは、彼の中を縦横無尽に暴れ回る。

  何を言ってるんだお前は。

  てめえこそ何言ってやがる。

  睨み合いながら互いが互いの意見を蹴飛ばし、殴り合う……そして。

  お前は……

  てめえは……

  そんな中届けられた、捨てられた子犬の様な声。




 「○○さん……私じゃ駄目、ですか?」




  瞬間。

  何かが切れ、そして。

  彼は全てをかなぐり捨てた。

  勢い良く跳ね上がり、少女の華奢な身体を跳ね除け、押し倒す。

  羽の様に軽い少女の身体は、力任せの行動にされるがまま。

  もう限界だ。

  ○○は内心で唸った。

  もう我慢なんて出来ない。

  熱い吐息が自身の口から漏れる。

  普段の自分からは到底予想も出来ない程、熱い。

  理性は消え去り、残った本能と言う名の獣が高らかに笑い、囁く。

  そうだ、何を迷う必要がある。

  好きなんだろう?

  言葉に彼は肯定の意を示す。

  ああ、好きだ。

  彼女のことが好きだ。

  好きで好きでたまらないんだ。

  内包されていた、狂おしい程の情愛を吐露する。

  獣は薄く哂う。

  なら、好きにすれば良い。

  なあに、文も受け入れてくれるさ。

  囁きに命じられるまま、○○は文の細い手首を掴み、動きを拘束する。

  強く掴んだためか、痛みに少女は顔を顰めるが、彼は気にしない。

  これでもう。

  これでもう、逃げられはしない。
 
  どろりとした欲望が胸の中心から溢れ出す。

  これで彼女は……

  欲望に、獣はとても楽しそうに哂った。

  そうだ、これでコイツはてめえのモノだ。

  焦点の定まらない瞳に、己が渇望する少女の姿が映る。

  瞳の中の少女は震えながらも、ぎこちなく。




  にこりと、微笑んだ。




  ……え?

  その微笑みに、○○は疑問を抱いた。

  何かおかしい。

  疑いは少女の震える微笑みに。

  疑問と謎は一気に全身を駆け巡り、覆っていた熱と狂気を排除する。

  さっきまでの自分が嘘だったかの様。

  クリアになった頭の中を思考が巡る。

  記憶の引き出しから、過去を引っ張り出す。

  上機嫌で自分を出迎えてくれた彼女。

  ●●に会ったと言う彼女。

  妖艶な笑みを浮かべていた彼女。

  そして今、目の前で震えながらも、それを隠す様に微笑んだ彼女。

  浮かび上がるシーンの内、最後の二つを照らし合わせる。

  違和感を感じた。

  やっぱりおかしい。

  次に、先程のそれ等に友人の名前を繋ぎ合わせ、再度照合。

  ものの一秒もしない内に、それが意味するモノを彼は理解した。

  そういうことか。

  一人納得する。

  考えてみれば、簡単過ぎる答えだった。

  馬鹿だなぁ俺。

  内面世界で自分を罵倒する。

  それが真に意味するモノは相手への愛情だった。

  そして彼は、掴んでいた手を離した。

  自由になった手の片方を少女の頭に置き、子供をあやす様に優しく撫で、青年は終わりを告げた。

 「もう良いよ、射命丸さん」

  もう、無理なんかしなくて良いから。

  優しく微笑む。

  暫し呆然とした後、少女は震える声で青年に訴えかけた。

 「どうして……どうして、止めるんですか…………私は、私は……っ」

  この先を行わない事に戸惑う様な、安堵した様な色を見せる文。

  青年は全てを愛しむ様に。

 「うん、分かってる。全部分かってる。射命丸さんが俺のために色々頑張ってくれたことも、全部分かってる。それでも……」

  それでも。

  無理をして、こんなことをする必要は無い。

 「こんなことしなくても……俺は、射命丸さんのことが大好きだから」

  だから、無理なんてしなくていい。

  その言葉に、文は塞き止めていた感情を崩壊させた。

 「うぇ……っ」

  堰を切って溢れ出した感情の渦が、内から外へと流れ出る。

  溢れ出した感情は涙となり、ぽろぽろと彼女の頬を伝った。

 「っく……ひっ、あっ、ああっ……」

  止まらない涙を隠す様に、何度も何度も頬を拭う。

  しかしその度、涙は溢れ出て少女の頬を再び濡らした。

  鳴咽を漏らしながら少女は話し出す。

 「私っ、頑張ったんですよ? ○○さんにっ、よ、喜んで……っ、貰える様に……って……」

  ずっと押さえ込んでいた不安や恐れを吐き出す様に。

 「本当は怖かった……ひっ……怖かったんです……っ。皆さんに、沢山教えても、貰いましたけど……それでもイザとなると……っ」

  彼女は全てを曝け出す。

  未知への緊張、恐怖。

  どれも彼女に取っては初めてのモノだった。

  怖かった。

  ●●の前ではやる気に満ち満ちていた文だったが、未体験への恐怖は到底拭い切れるモノでは無かった。

  それでも精一杯の虚勢を張って、あんな演技までしたのは……

 「それでも……それでも……っ。○○さんが喜んでくれるなら……って。私……私は…………っ!?」

  そして彼女は言葉を詰まらせた。

  涙が止まらない事ためではなく、話す事が無くなったからでもない。

  泣きながら形を変えていた、彼女の口。

  それは今、目の前の○○によって、ぴったりと塞がれていた。

  潤んだ瞳を大きく見開く。

  彼女の頬に熱が集まってゆく。

  心臓が二度三度と大きく跳ねた後、高速で鼓動を刻む。

  口と口が触れるだけのキス。

  たったそれだけなのに、彼女の心は満たされる。

  涙や悲しみに代わって、愛しさと温もりが文の胸の中を占拠する。

  唇を離した後、○○は真面目な顔で聞いた。

 「射命丸さん」

 「はいっ!?」

 「俺のこと、好きですか?」

 「えっ、あ、はいっ! 大好きです!!」

 「そっか。ありがとう、俺も愛してます」

 「あいっ……!?」

  最大級の愛の言葉に、文は頭から湯気を上げた。

  そんな文を気にせず、○○は真面目だった顔を照れ顔に変える。

 「いや、面と向かって言うと照れるねコレ」

  ぽりぽりと頬を掻く。

  今更になって恥ずかしくなってきたのか、頬は紅く染まっていた。

  頬を掻きながら天井を見上げ、独り言の様に○○は言った。

 「あ~あ。こんな事位で照れる様だと、これ以上の事なんて、今はまだ無理だなぁ……俺ヘタレだし」

  情け無い声で言いながら、チラリと横目で文を見る。

  数秒の間を置いて、文はその言葉と視線の意味を理解した。

  青年の気遣いに、涙目で苦笑しながら文句を漏らす。

  ズルイです、○○さん。

  けれどそれは嬉しくて。

  だからこそ、もっと好きになってしまう。

  もっと求めてしまいたくなる……でも。

  でもまだ、自分には勇気は足りないみたいで。

  だから今回は保留にしよう。

  それはお互いの同意の上での決断。

  いつか。

  いつかきっと来るその日まで。
  
  大切に大切に。

  胸の奥底に優しく鍵をしめて。

  その時が来るまで……

  そして文は真っ赤な顔のまま。

 「そうですか、それは残念ですねぇ……出来るだけ、早くして下さいね?」

 「善処する!」

  困った様に微笑む文に、○○は片手を挙げて笑い掛けた。








  ~5~








  夏の日差しが満遍なく世界に降り注ぐ。

  氷精はへばり、冬の妖怪は全力で引き篭もる。

  紅い吸血鬼が、霧を出したら涼しくなるかしら、と考えそうな程の夏。

  猛暑と呼んでも差し支えの無い、そんな幻想郷の昼。

  人里の大通りを歩く○○は、内心で上機嫌であった。

  暑苦しい日差しも滴る汗も何のその。

  そんなモノが何だと言わんばかりの上機嫌である。

  上辺では営業用の顔付きをしてはいるが、それも薄い氷みたいなモノ。

  気を抜けば、にへら、とだらしなく顔を緩めている。

  幸せそうな笑顔には、当然理由が存在した。

  端的に述べると、昨日の文が可愛過ぎたのであった。

  誕生日を祝ってくれただけではなく、身を挺してまで自分に尽くそうとしてくれた少女。

  泣きながら己の心情と愛を告白するその様。

  嬉しくない訳が無かった。

  可能なら、今すぐにでもこの喜びを声に出したい。

  それ程までに、昨日の出来事は○○にとって感動的であった。

  笑顔にならない筈が無かった。

  しかし今の自分は仕事中なのである。

  それではいけないと、気を引き締めようとした……が。

  それも無駄な抵抗。

  ふっと気を抜けば、すぐさま緩んだ顔を覗かせ、幸福が彼の心身を包み込む。

 「あ~、俺って幸せ者だなぁ……」

  思わずして声に出る。

  身に余る幸せに、彼は打ち震えていた。

  そんな彼だから気が付かなかった。

  彼にとっての災厄とも呼べる男の手が、自身に伸びていた事に。

  幸福感に浸っていると、彼は左肩をがっしりと掴まれた。

  突然の衝撃に、彼は回想を断ち切って掴まれた肩の方を見る。

  其処には彼の良く見知った人物が居た。

 「ハロー、幸せモン!」  

  しゅびっと片手を挙げて挨拶をする。

  肩を掴んだのは、状況的に当然といえば当然の●●であった。

  顔には楽しそうな色を浮かべていた。

 「なんだ、お前か」

  友人の突然の登場に幸せ気分をブチ壊された○○は、嫌そうに顔を顰めた。

  顰めっ面に●●は文句を言う。

 「なんだとは失礼な。心配して来てやったというのに」

 「うっせえ、お前に心配される様なことなんか……」

  言いかけて○○は、はたと思い出す。

  思えば昨日の出来事の原因は誰だったか。

  じと目を作って友人を睨む。

 「そういやお前、よくも射命丸さんにあんなことを教えてくれたなぁ?」

 「あんなことって? ハッキリ言ってくれないと対応に困るんですわ? お?」

  丸分かりの敵意に、●●は怯まず挑発的な態度で言葉を返す。

  分かっていながらも、こんな態度を取る辺り彼らしい。

  そのことを嫌過ぎる程に理解している○○は、一睨みした後、諦める様に溜息を吐いた。

 「……まあ良い、今回は見逃してやる」

 「あら珍しい。その様子だと、昨日の誕生日がよっぽど嬉しかったみたいだな」

  俺に感謝しろよ?

  言って、●●はカカカと笑った。

  えらい目にもあったけどな……お前のせいで。

  そう思っていても、○○は言い返せなかった。

  トラブルの原因もイベント発生の原因も、元を辿れば●●なのだ。

  彼が文に偶然会わなければ、昨日の誕生日は無かった。

  これは事実である。

  そして不本意だが、●●が文に変なことを吹き込まなければ、あれ程までに可愛い文を、彼が目にすることが出来なかったのも事実であった。

  なので、この件に関して彼は黙認することにした。

 「一応感謝はしといてやるよ。つーか何だそのクマ、やばいぞ?」

  礼を言いつつ、●●の目元を指差す。

  指摘に●●は強い口調で言った。

 「十回から先は覚えていない!」

  そして誇らしげに胸を張る。

  上体を反らしたことにより、先程まで隠されていた場所が明るみに出る。

  ○○の視線はその首元に。

  注がれた先に在るのは、複数のキスマークであった。

 「……お前、相変わらずだな」

 「ハイ! 最高でした!」

  苦い顔を浮かべる彼に、●●は煌く笑顔を向ける。

  いつものことなので○○は何も言わなかった。

  歓喜と感動を満面に浮かべながら●●は事の経緯を彼に話し始めた。

 「いや~、昨日は永遠亭で燃えたぜ!」

 「ああ、そうかい」

 「5Pとか久々にやったわ! いや~、気持ち良かった~!!」

 「おま……まあ良いや」

  友人の命知らずな行動に突っ込みを入れたかったが、○○はスルーすることにした。

  ……5Pて。

  それを十回て。

 「いや、マジでこれ、気が付けば朝とか久しぶりですよ先生!?」

 「誰が先生だ」

  ●●の言葉に適当に相槌を打つ。

  彼は友人のこういった話を聞く時は、いつも話半分で聞く事にしていた。

  未経験者が経験者の体験談を聞くこと程つまらないことは無い。

  それでもこれといって忙しい訳では無かった○○は話を聞く。

  まあ昨日は世話になったし……別に良いか。

  義理堅い彼はそう思い、友人の話に返事を返す。

  今回の悲劇は、その義理堅さが招くこととなった。

 「いや~、やっぱ燃えた一番の原因はアレだねアレ!」

 「アレってなんだよ?」

  話の内容が若干切り替わったことに○○は興味を示した。

  続きを促す様に問い掛ける。

  ●●は彼の問いにニヤリと口元を上げて。




 「アレと言ったらアレだって! ○○と文ちゃんの甘酸っぱい恋物語のスキマ生中継! いや~、これがまた予想外に皆発情しちまってさ~!」




 「…………は?」

 「…………あ」

  互いに固まる。

  一人は想定外過ぎる発言に。

  一人は調子に乗って口走ってしまった自身の迷言に。

  まるで其処だけ時間が止まったかの様に、二人は動かない。

  ○○は停止した頭を無理矢理活動させる。

  スキマ生中継……生中継?

  中継ということは、つまり……

  発せられた単語が意味するのは余りにも嫌な現実。

  全部、見られていた?

  それもリアル中継で?

  かっと身体が熱くなる。

  ○○が掴みかかるのと、●●がやけくそ気味に笑うのは同時であった。

 「ハッハッハッハッハッ! バレちまっちゃあしょうがねえっ!!」

 「お、ま、え、は~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!」

  恥ずかしさを怒りに変えながら、○○は友人の襟元を掴み上げた。

 「そんなに怒るなって! 血管切れちまうぞ?」

 「喧しいっ!! これが怒らずに居られるかっ!!」

 「良いじゃんか別によ~。心配だったんだよ~う」

 「嘘付け!! お前が心配なんてするタマかっ!!」

 「うわ、何気に酷くね!?」

 「うっせえ馬鹿!! 今回ばかりはマジで許さんっ!!」

  反省の色が全く見えない●●と激昂する○○。

  ぎゃぎゃあぎゃあぎゃあと、お互いに騒がしく叫び合う。

  彼等の周りに異変が起きたのはその時であった。

 「お?」

 「あ?」

  ひゅう、と。

  風一つ吹いていなかった二人の周囲に、冷ややかな風が吹いた。

  粘つく様な夏の風では有り得ない、冷気。

  漣の様にうねるそれは、上から下に。

  空気の変化の源は、彼等の上空に。

  無意識に、二人は首を上に向ける。

  其処には。

  漆黒の翼を美しくも雄々しく広げる……

 「成程、そうゆうことでしたか……」




  烏天狗が、居た。




  少女は空中に静止しながら二人を見下ろしている。

  眼光は鋭く、鈍く輝いていた。

  双眼の奥には昏い光が灯っている。

  最もこの場に望まれていない役者の登場に、二人は得てもせず固まった。

 「親切に教えてくれたのには、そんな裏があったんですねぇ……」

  薄く笑いながら少女は呟く。

  ゆらりと、彼女の周囲が歪んだ。

  荒れ狂う風が殺気を伴って少女の周りに集ってゆく。

 「あ~、こいつぁやべえな……」

  少女のキレ具合を計った●●は、彼にしては珍しく冷や汗を流した。

 「馬鹿、●●! 早く謝れっ! 謝っとけ!!」

  ○○はがくがくと彼の肩を揺すりながら吠えている。

  口では謝罪を促しているが、もし謝っても、この状態から無事で済む展開など有る筈が無いことを、○○は頭の片隅で悟っていた。

  大気が収束し、形を成す。

  少女はお手本の様な笑みを浮かべる。

  普段なら綺麗だと感じるそれも、この場では死神の微笑としか認識出来なかった。

 「●●さん?」

 「なんだい文ちゃん?」

 「昨日は楽しかったですか?」

 「おう、楽しかったぞ! それはもう色々な意味で!」

 「そうですか。覗き見とは卑怯ですね」

 「汚いは、褒め言葉だ……!」

 「では……」

  ちょっと飛んで来てください。

  死刑宣告と共に、彼女は力を解放した。

  自身の周囲に収束した大気を、己の妖力で塊に変え、そしてソレを……

  全力で真下に叩き付けた。

  非常識と呼べるレベルの轟音と爆風と衝撃が、人里を、幻想郷を震わせる。

  何処から見ても一般人レベルの身体能力しか持たない二人は、哀れにも路端の小石の様に。




 「ですよねーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」

 「なんで俺までええええええええええええええええっ!!」




  悲鳴と非難を上げながら、遥か彼方へと飛んで行った。

  少女は二人の消え往く様を不機嫌そうに睨みながら。

 「自業自得です」

  彼女が自身の恋人をも吹き飛ばしてしまったことに気付いたのは、彼等が真昼の星になってから約十秒後のことである。

  燦々と照りつける太陽。

  ゆらゆらと揺らめく陽炎。

  大空を駆け抜け抜ける一人の少女。

  一夜の決戦は純情と純愛の波に消え。

    爆弾は不発に終わり、彼と彼女の胸に眠る。

  幻想郷は一部を除いて今日も平和であった。



─────────────────


    夢。

  彼女は夢を見ていた。

  ハッキリと夢だと断定可能な判断材料は何も無い。

  けれどそれが夢である事を、彼女は本能的に理解していた。

   夢の中の彼女は傍観者で、舞台には誰も居なかった。

  其処は夜の深遠より尚深い常闇。

  絵の具の黒を辺り一面に塗りたくったかの様な、真っ暗な空間。

  温度等というモノは存在せず、在るのはただ無音の漆黒のみ。

  ぽつりと、ある一点を光が照らした。

  暗闇を切り取った場所に居たのは、幼子だった。

  光が強過ぎるためか、はっきりと顔の細部までは見えない。

  身体の大きさから察するに幼子だろう。

  まだ生まれてから十年も経っていないであろうその子は、あどけない笑みを浮かべていた。

  幼子は手に『何か』を持っていた。

  ソレが何なのかは分からない。

  けれどソレは、その幼子にとって幾分か大事なモノであることは理解出来た。

  幼子は笑みを浮かべている。

  数秒の間を置いて、その子とは違う、別の子供が光の中に現れた。

  現れた子供は、その子の持っている『何か』が欲しいと言った。

  要求に幼子は一瞬の戸惑いを見せたが、すぐに笑みを浮かべ直して、手に持った『何か』を現れた子供に手渡した。

  礼を言って立ち去る子供を、その子は手を振って見送った。

  そして二人の子供は姿を消した。

  次に現れたのは少年だった。

  多分、先程の幼子が成長した姿なのであろう。

  その少年も、顔全体に満面の笑みを浮かべていた。

  まだ若干のあどけなさを残しながら笑う少年の両手には、また『何か』が握られていた。

  そしてまた別の少年が現れる。

  現れた少年の数は、今度は二人だった。

  その二人も先程現れた子供と同じ様に、少年が両手に握っている『何か』を欲しいと言った。

  逡巡する間も無く、少年は笑みを浮かべながら、その『何か』を二人に差し出した。

  感謝の言葉を告げて立ち去る二人を眺めながら、少年は微笑んでいた。

  そしてまた、繰り返す様に少年達は姿を消した。

  次に現れたのは、青年となった少年の姿だった。

  すっかり大人の身体つきになった青年は、昔と変わらない笑みを浮かべている。

  青年の周りには、複数の『何か』が浮かんでいた。

  年齢を重ねる度に増えるソレ。

  ソレが増える度、比例する様にソレを求める人数は増えた。

  青年にとって大事なモノであろう筈の『何か』。

  ソレはきっと誰もが大なり小なり持っていて、誰もが手放すのを拒む様な代物なのだろう。

  だが、その青年はソレに何の執着も見せず、呆気無く手放し、相手に差し出す。

  渡した相手に笑顔を送って。

  そして受け取った人達は喜びを露にしながら舞台から退場した。

  青年は消えなかった。

  いつもなら一緒に消える筈だというのに。

  今回に限って青年は消えず、光の中に、ぽつんと立っていた。

  表情は依然として笑顔。

  大事なモノを失った筈なのに、その顔には後悔も悲しみも浮かんではいない。

  口元を綻ばせ、目元を和らげて微笑んでいる。

  青年はただ笑顔を浮かべ。

  只管に相手に差し出す。

  そうして結局、青年の元には何も残らず。

  唯一残ったのは、幸せそうな笑顔だけだった。

  眩い光の中で青年は声も出さずに笑う。

  何も求めず、何も手に入れず。

  それでも青年は笑う。

  空っぽの両手を大きく広げて。

  満足そうに、嬉しそうに。

  青年は笑う。

  けれど彼女には、それが心を持たない人形の様に見えて。

  とても痛々しく、感じた。










  朝の気配を感じた八雲紫は閉じていた瞼を開いた。

  ゆっくりと身体を起こし、視線を右に向ける。

  障子から漏れ出る光が、空中に散った塵に反射してキラキラと輝いていた。

  その分子の煌きを眺めながら、彼女は緩やかに思考を働かした。

  考えるのは、先程自分が見ていた夢の内容について。

  全く以って不可解な夢物語。

  夢を見るという行為自体、彼女にとっては珍しいモノであった。

  普段の彼女は、全くと言って良い程に夢を見ないからだ。

  彼女にとっての睡眠とは、自身の体力と妖力を回復するための手段であった。

  体調等を回復・復旧させるためのモノであって、それ以外の必要は無い。

  故に今回の出来事は、彼女にとってイレギュラーだった。

  といっても、ただ夢を見たというだけならば、別に考える必要も無かった。

  全く見ないとはいうが、それはゼロでは無い。

  別に夢が嫌いという訳ではないのだ。

  普段は回復目的に睡眠をしているため夢を見ないというだけであり、彼女だって偶には夢くらい見ることはある。

  それは別段疲れていない時だったり、何と無く暇な時であったりと、状況は様々だ。

  そんな時、気紛れに彼女は夢を見る……が。

  本音を言えば、夢など見ても見なくても、彼女にはどうでも良かった。

  見た夢の内容など、気にする性質では無い。

  だというのに今回に限って考えてしまう原因は、見た夢の内容にあった。

 「一体、何だったのかしら?」

  う~ん、と小首を傾ける。

  彼女が見た夢。

  それは一人の男の在り方だった。

  半生を通して、自分にとって大切であろう『何か』を、望む者に惜しみも無く差し出し続け、只管に笑顔を浮かべる人間の話。

  まるで戯曲にでも使われそうな内容のソレが、彼女は喉に小骨が引っ掛かった時の様に気になって仕方が無かった。

 「最近読んだ本の影響かしらねぇ?」

  そう呟くも、最近自分が書物類に手を付けていない事を自覚しているため、違うのは明らかである。

  ましてや自分はその様な内容(所謂、物語の類)の本を余り読まない。

  ならばその線である可能性は低いだろう。

  では何が元になっているのか?

  そうして思考に耽っていると、失礼しますという女性の声と共に、静かに障子戸が開いた。

  音も立てずに開いた戸の奥には、一人の女性が姿勢良く座していた。

  女性は彼女が起きている姿を目にすると、若干の驚きを示した。

 「おはようございます紫様、まさか起きていらっしゃるとは思いませんでした」

 「あら失礼ね。その言い方だとまるで私が寝坊助みたいじゃない」

  紫の拗ねた様な言葉に、彼女の式である八雲藍は眉を八の字にした。

 「事実その通りなんですけどね」

 「あら手厳しい。全く、何時からこんな子に育ってしまったのかしら」

  よよよ、とわざとらしく姿勢を崩しながら片手で口元を覆う。

 「育ての親が親ですからねぇ……」

  最早慣れつつあった恒例行事に、藍は目線を逸らして返した。

  自身の主のノリに、彼女は付き合うつもりは無かった。

  さっさと用件を伝える事にする。

 「それより、朝餉の準備が出来ましたので」

  早く来てくださいねと続けると、藍は立ち上がって廊下に足を踏み出した。

  その背中に、紫は思い出したかの様に声を投げた。

 「そういえば忘れていたわ」

 「何をです?」

  主の言葉に振り返る藍。

  彼女の主は、我が子を慈しむ様な微笑を浮かべてから言った。

 「おはよう、藍」

  その微笑みに少しの間見蕩れた後、藍は倣う様に笑みを浮かべて返した。

 「はい、おはようございます紫様」










  いただきますの掛け声と共に、彼女達は食事を開始した。

  各々が各種並べられた料理に手を伸ばす。

  円形の卓袱台に並べられた料理は、朝食として模範的であった。

  其々の席の前には、綺麗に炊き上げられた白飯と大根の味噌汁。

  二つの椀の奥にあるのは秋刀魚の塩焼き。

  旬の魚が発する、食欲をそそる脂の匂いが各人の鼻腔を擽っている。

  当然、大根おろし付属なのは言うまでも無い。

  そして中央には自家製の胡瓜と白菜の浅漬けと、口直しの用意も万全である。

  これぞ朝食の定番とも呼べる朝食であった。

  勿論の事ながら味も絶品。

  数百を軽く数える歳月を生きた彼女、八雲藍に死角は無かった。

  偶に飯を集りに来る博麗の巫女に寄れば、最近更に腕を上げたとの事らしい。

  自作の胡瓜の浅漬けを一切れ口に入れ、咀嚼する。

  素材の質を損なわない程度に染み込んだ仄かな塩味と、シャキッとした歯応えが口の中で踊る。

  此度の味も納得の出来具合であったことに、藍は満足気に頷くと含んでいたソレを飲み込んだ。

  彼女の視界の右側では、彼女の式である橙が忙しそうに白飯を口に運んでいる。

  小さな手に持った御椀の中身を慌しく掻き込む少女の動作に、藍は少しばかり頬を緩めた。

  少女の頬には幾つか米粒が付いている。

  その米粒に、藍は優しく手を伸ばした。

 「こら橙、もっと落ち着いて食べなさい」

  注意をしながら、式の頬に付いた米粒を取る。

  窘める様に言ってはいるが、口調に怒った感は無い。

  寧ろ微笑ましいといった感じであった。

  橙は自身の主の言葉に顔を綻ばせた。

 「はい、藍様!」

 「ん、宜しい」

  言って互いに笑い合う。

  それは八雲家では良くある食事風景であった。

 「相変わらず親馬鹿ねぇ……」

  式と、式の式の心温まる光景を眺めながら、紫はぼそりと呟いた。

  言葉は自身の式に対してである。

  彼女の式、八雲藍の橙に対する親馬鹿(もとい式馬鹿)っぷりは有名であった。

  それはもう、その光景を見た者全員がそう評する程に。

  自身の式である橙のためなら、たとえ火の中水の中。

  彼女のためならば、藍はどんな危険にも飛び込んで行くだろう。

  そう言われる程に、彼女の自分の式への溺愛っぷりは有名であった。

  本当に式なのかという質問は、彼女にとっては愚の骨頂である。

  最早彼女にとっての橙は、式などではなく愛娘に近かった。

  橙こそ我が全て、橙可愛いよ可愛いよ橙。

  従者の家族的な発言は紫も公認しているので特に咎める事はしない。

  尤も最近の彼女には、橙以外にも気になる存在が居るらしいのだが……

  紫の呟きが耳に届いた藍は、視線をそちらに向けて反論した。

 「親馬鹿とはなんですか、失礼な」

 「あら、見た通りの事を言ったつもりだけれど?」

  自身の式の反論に、紫は正論で返した。

 「訂正して下さい紫様、私は親馬鹿ではありません」

  若干の不満を込めて言う。

  瞳には心外だといった意思が込められていた。

  式のそんな様子を見て、紫は内心で呆れてしまった。

  何処をどう見たらそんなことを言えるのかしら。

  そう思っていた次の瞬間、紫の脳天に閃きが生じた。

  思い浮かんだ考えに、口元が僅かに上がるのを彼女は実感する。

  閃きは彼女生来の悪戯心を以って、児戯へと変化を遂げた。

  紫は内心の悪戯心を隠したまま、訂正の言葉を発する。

 「そうね、確かにそう。言われてみれば、藍の言う通りね」

 「分かって下されば良いんです」

  難い顔で藍は頷く。

  自身の主の空気が変わった事に、彼女は気付いていなかった。

  紫はその姿を見て、頬を引き攣らせた。

  さてと、それじゃあ落としましょうか。

 「そうね、藍は親馬鹿なんかじゃないわ。だって……」

  頷く藍に満面の笑みを送りながら言う。

  それはそれは心底楽しそうな笑みを浮かべて。

  そうして彼女は爆弾の導火線に火を点けると……




 「今の貴女は、恋する乙女ですものね」




  フルスイングでその爆弾を、己が式目掛けてぶん投げた。

  爆弾は目標の胸元にすっぽりと収まり、数秒の間を置いて爆発する。

  発火する様にして彼女の式の顔面は朱色に染まった。

  何か言いたげに口を開閉する。

  それを数回程繰り返した後、彼女は漸く声を上げた。

 「ななななな、何を言ってるんですか紫様っ!!」  

 「何って……事実?」

  どもりながら抗議する藍に、紫はしれっと返した。

 「じ、事実とは何ですか! ななな、何を根拠にそんな事を仰るんです!?」

  したり顔の主を、藍は尚どもりながら問い詰める。

  その動揺っぷりは、普段の冷静沈着な彼女からは考えられない姿であった。

  藍の質問に、紫は含みの有る笑みを浮かべながら答える。

 「根拠って……今此処で言って良いのかしら?」

 「っ!?」

  その笑みを見た瞬間、藍は固まった。

  沸騰する様に真っ赤だった顔面から、急速に熱が失われてゆく。

  動揺する思考を抑えつつ、彼女は考えた。

  本当に自分と彼の関係がバレているのかは、現時点では分からない。

  もしかしたらカマを掛けられているのかもしれない。

  もしかしたら全部バレているのかもしれない。

  相手は己が主、胡散臭さに定評の有る八雲紫なのだ、故にその判断は途轍も無く難しい。

  けれど、もし知られているのであれば、それを今此処で公言されるのは非常に不味い。

  何故なら……

  ちらりと視界の右側を覗く。

  其処には御椀と箸を持ったまま、二人の様子をぽかんと口を開けて眺めている自身の式の姿。

  突然の事態に対応出来なかった少女の無垢な瞳は、不思議そうにこちらを見つめていた。

  今この場で紫に公言されてしまうと、それはこの純真な少女の耳にも届いてしまう。

  それだけは駄目だと藍は思った。

  可愛い橙、私の橙。

  お前はまだ幼い。

  まだお前は真っ白な状態なんだ。

  何れお前も大人になるだろう。

  その過程で色々な事を学ぶだろう。

  綺麗な事も、汚い事も。

  知りたくなかった事も学ぶだろう。

  でも、それが大人になるって事なんだ。

  それが成長するという事なんだ。

  無垢な瞳も、その時残っているかは分からない。

  だから、だからこそ。  

  今はまだ、穢れを知らないままでいておくれ。 

  そうして彼女は白旗を上げた。

 「参りました……」

 「はい、宜しい」

  自身の敗北を認めてがくりと頭を垂れる藍に、紫はにんまりと笑った。

  認める事って大事よねと続ける彼女を見ながら、藍はこの人には敵わない事を改めて悟った。

 「まさか、藍まで落とされるとはねぇ……」

  紫は自分の式の変化を楽しそうに受け取める。

  その心境は巣立つ雛鳥を見やる母鳥に似ていた。

 「別に……落とされてなんかいませんよ」

  頭を垂れたままブツブツと否定を口にする藍。

  あそこまでの動揺を披露した後だと、それは最早照れ隠しでしかなかった。

  素直じゃない自分の式に、紫は溜息を吐く。

 「今更何を言っても無駄よ、彼の事が好きなら好きと認めちゃいなさいな」

  全て分かっているといった声色に、藍は言葉に詰まる。

  実際の所、彼女がある青年の事を気に掛けているのは事実であった。

  足繁く我が家に足を運ぶ人間。

  主な目的は自身の主であったが、それでも自分や自分の式と触れ合う機会は多々あった。

  何度も会話や食事を重ねる内に、彼の人となりに惹かれたのは嘘ではない。

  彼という人間は、自分を妖怪というカテゴリには入れず、女の子というカテゴリに入れて接する。

  その差別の欠片も無い態度に、惹かれてしまったのは真実である。

  だが彼女も、よもや自分と彼の関係が、所謂大人の関係にまで発展するとまでは予想していなかった。

  この点については彼に責任があるのは勿論であるが、青年の性分を把握仕切れていなかった彼女にも責任はある。

  それはある日のこと。

  自分以外誰も居ない家で、突如本領を発揮した彼に、あれよあれよという間に流されそして夜が明け。

  気が付けば其処には彼と同衾している自分が居た。

  見る者が見れば強姦に近い行為であったが、抵抗しようと思えば彼女は出来た筈である。

  何といっても彼女は幻想郷にその名を轟かす大妖怪、八雲紫の式なのだ。

  只の人間等、それこそ一捻りで消滅させられる。

  しかしそれを藍がしなかったのは、偏に彼女も彼とこうなりたいと少なからず願っていたという事に他ならなかった。

  心の何処かでこの男との関係を深めたいと思っている自分が居た事は、彼女にとって否定出来ない事柄である。

  そしてそれ以降も、青年との逢瀬は度々行われた。

  余談ではあるが、それまででも完璧に近かった彼女の料理の腕が最近になって更に上がったのは、もっと美味しい料理を彼に食べて貰いたいがためである。

  此処まで落ちていながら、それでも彼との関係を否定するのには、勿論乍ら理由が存在する。

  藍は俯いたまま、呟く様に言った。

 「そんなこと……第一、紫様の協力者にそんな感情は……」

  そう、これが理由。

  彼女が青年との関係を頑なに認めないのは、彼が自分の主の協力者だからであった。

  主を差し置いて自分だけ彼とそんな関係になったという事実が、彼女に後ろめたさを与えていたのだった。

  しかしそんな後ろめたさも、己が主の前には杞憂であった事を彼女は知る。

  紫は申し訳無さそうに縮こまる自分の従者に向けて、さらりと現状を教えた。

 「貴女そんな事を気にしてたの? なら安心なさい。当の昔に、彼と私はそんな仲だから」

  といっても、私の場合は暇潰しの意味合いが強いんだけどね。

  そう付け加えながら、紫は解した秋刀魚を口の中に放り込んだ。

 「…………は?」

  藍は最初、紫の言葉の意味が良く分からなかった。

  呆けた脳細胞を使って受け止めた言葉の意味を分解し、状況と合成させる……しかし。

  意味を十分に吟味する前に、更なる追撃が彼女を襲った。

 「大体やること全部やっといて、落とされてないも何も無いと思うのだけれど?」

 「ちょっ!? 紫様ぁっ!?」

  もぐもぐと口を動かしながらの発言に、藍は意味を理解する思考を停止させ、再び動転した。

  どうして其処まで知っているのか。

  動転しながらも、藍は答えに気付いていた。

  彼女の保有する能力と二つ名を知っている者からすれば、それは一目瞭然であった。

  境界を操る程度の能力。

  神隠しの主犯。

  彼女は何処にでも現れ、何処にでも姿を消す。

  故に隠し事など出来る訳が無かった。

  見られていたという真実に、藍は顔を紅潮させる。

  今まで目にした事の無い自身の式の初心な姿を、紫は子を想う親の気持ちで見つめていた。

  なんともいえない微妙な雰囲気が、辺りに流れて数秒。

  空気を破ったのは、式の式であった。

 「あ、分かった! 彼って、●●お兄さんのことですよね藍様!」

  黙って話を聞いていた彼女は、考えた末に至った答えを嬉しそうに伝える。

 「あ、ああそうだ。うん、●●のことだよ」

  突然発せられた言葉に、藍は戸惑いながら返事を返した。

  返答に、彼女の式は満面の笑みを自身の主に向けて放った。

 「藍様もお兄さんの事が好きだったんですね! えへへ、私も同じです!」

  何の邪気も照れも無く、只素直に自分の気持ちを表に出す自分の式。

  その余りにも綺麗な心の在り方に、藍は自身の奥で縺れていた何かが解れるのを実感した。  

 「ああ、橙と一緒だな。うん、一緒だ……」

  言いながら彼女は柔らかく微笑んだ。

  自身の式の言った『好き』と自分の『好き』が違う事は分かっていた。

  彼女の『好き』は友情に近いモノで。

  自分の『好き』は愛情に近いモノだと。

  でも、今の自分はそんな些細な事はどうでも良くて。

  素直に好きと言える気持ちが、心地良かった。

  笑顔で御互いを見やる。

  八雲紫はニヤケ顔でその様を眺めつつ箸を進め、そして自分の食事を終了させた。

  御馳走様と胸の前で手を合わせてから立ち上がる。

 「それじゃ、私は部屋に戻るわ。何かあったら言って頂戴」

 「あ、はい、分かりました」

  従者の言葉を耳に入れながら、戸に向かって歩く。

  戸を開き、足を廊下に踏み入れ、そして戸を閉める直前、彼女は忘れ物を思い出したかの様にひょっこりと顔を覗かせた。

  何かあったのかと不思議そうな顔をする藍を見て、紫は目元を三日月に変える。

  そして一言。




 「二人揃って盛るのは結構だけれど、節度は弁えなさいよ?」




  突拍子も無く放たれた主の言葉。

  それに彼女の式は再び顔を薄い紅に染め、式の式は元気良く返事を返した。

  其々の反応を楽しんだ後、彼女は戸を閉め、鼻唄交じりに廊下を歩いて行った。

 「全く、あの御方は……」

  紫が立ち去って数秒後、藍は恥ずかしさを隠す様に顔を顰めた。

  意味は合ってるが、それにしてもあの言い方は無いだろう。

  盛るとは、まるで動物扱いではないか。

  ……まあ、狐ですけど。

  主の茶化した様な物言いに、彼女は内心で愚痴る。

  あながち間違っていないから始末に困っていた。

  ……ん?

  其処で彼女の中で何かが引っ掛かった。

  そういえば……

  思い返すのは先程の言葉。

 『二人揃って盛るのは結構だけれど、節度は弁えなさいよ?』

  二人と。

  確かに自身の主はそう言った。

  ……どうゆう事だ?

  二人の内の一人が私だという事は分かる。

  既に行く処まで行ってしまったからな。

  だがしかし……

  自身の式に目線を向ける。

  少女は耳をピコピコと動かしながら、ラストスパートとばかりに御椀の中身を掻き込んでいた。

  子供そのものの動作で食べる様を見て、それは無いだろう、と藍は思った。

  そうだ、それは無い。

  幾ら何でもそれは無い。

  だって橙だぞ?

  この純真無垢な橙が……

  彼女は想像する。

  目の前の少女が、彼の腕に抱かれている姿を。

  唇を、身体を、己の全てを捧げ、嬌声を上げる姿を。

  ……有り得ない。

  想像の果てに、藍は全力で自身の考えを否定した。

  うん、そんなこと、ある訳が無い。

  きっと紫様の言い間違いだろう。

  そう結論を出す。

  間も無くして彼女は、それが都合の良い考えだったということを思い知ることになる。

 「御馳走様でした!」

  出された食事を全て平らげた橙は、勢い良く両手を合わせた。

 「はい、お粗末さまでした」

  式の綺麗な食べっぷりに感心しながら、藍は湯呑みに手を付ける。

 「それでは藍様、遊びに行ってきます!」

  橙はそう告げて立ち上がると、早足で戸に向かって行った。

 「気を付けるんだぞ~?」

 「はーいっ!」

  元気の良い返事に納得して、藍は湯呑みを傾ける。

  首を上に逸らしながらも、視線は少女を捉えたまま。

  そして彼女は見てしまった。

  今目の前を通り過ぎて行く少女。

  まだあどけなさを満遍無く残した少女の、その首筋に刻まれた……

  己の首筋に在るモノと、同じ形をした印を。

  瞬間、彼女の口に含まれたお茶は、間欠泉の様に噴出された。

  弧を描きながら噴出すお茶には目もくれず、彼女は出掛けようとする少女を見つめる。

  少女は自身の主がお茶を噴出した事に気付いていないのか、そのままの勢いで戸を開いた。

  差し込む朝陽に照らされる少女。

  眩しい日差しに、手を翳し、微笑む。

  その少女の横顔は、彼女の知るどれにも当て嵌らなかった。

  飛び出して行く自身の式。

  彼女の主は何も言えず、ただそれを見送るだけ。

  そうして後には、茫然自失となった彼女と、自身の口元から垂れたお茶が地面に跳ねる音のみ残った。

  やがて自我を取り戻した彼女は深い呼吸を一度だけした後、魂を搾り出すようにして叫んだ。

 「ちぇえええええええええええええええええええええええええええんっ!!??」

  その絶叫は、幻想郷全土に轟かんばかりだったという。










  自室に戻った直後、自分の式の叫び声を耳にした彼女は愉快気な笑みを浮かべた。

 「まだまだ甘いわね、藍」

  可笑しそうに言って笑う。

  よもや自分の式は大丈夫だと思っていたのかしら?

  だとしたら式煩悩も大概ね。

  己が式の浅はかな考えに、紫はやれやれと首を振った。

  確かに橙は見た目も中身も子供である。

  だが、子供はいつまでも子供のままじゃない。

  何かの切欠で、ふとした拍子に、子供は目まぐるしく成長を遂げるモノなのだ。

  それは精神面であったり、肉体面であったり、変化は場面によって様々で。

  一秒毎に進化する子供に、ついていけないのはいつも大人の方。

  故に変化に戸惑い、困惑する。

  それは彼女の式の心情そのものであった。

 「ま、暫くはあのままでしょうね…………さてと」

  吐く息と共に思考を切り替えると、彼女は目の前にある空間の中に、もう一つ空間を開いた。

  開かれた空間の内部には、幾何学模様と複数の目が、上下左右に貼り紙みたく張り付いている。

  境界を操る程度の能力、その力によって発生する『スキマ』という名の異次元空間。

  ありとあらゆるモノを収納または取り出し、遠く離れた場所と場所を一瞬で繋ぐ、そんな出鱈目染みた空間干渉。

  今回のスキマの使用目的は、後者の方であった。

  ある場所を指定して開いたスキマの奥に、彼女の目当ての人物は居た。

  それは特にこれといった特徴の無い青年だった。

  別段見栄えが良い訳でも無く、凛々しい訳でも無い。

  何か特別な力を持っているかと問われても、そんなモノは一切持っていない一般人。

  そんな無力な人間……だが。

  有る意味で、彼は最も特異な人物であった。

  他の一般人には到底為し得ない偉業(愚行とも呼べる)を達成した男。

  己が身を省みず、己が力だけで幻想郷に住む(郷縁起に乗るレベルの)少女達を、その手に収めた人間。

  それが彼、●●。

  先程の朝食時に話に上がった件の青年であった。

 「今日は何をしでかすのかしらねぇ?」

  わくわくしながらスキマを覗き、彼の動向を目で追う。

  盗み見とも呼べる彼女の行為。

  しかし対象の青年に限り、その名称は当て嵌まらない。

  御互いの同意の元で行う覗き行為を、盗み見とは呼べないからである。

  彼と八雲紫は、ある契約を結んでいた。










  それは彼がこちらに来てまだ間もない頃。

  彼が幻想郷に永住を決め、ハーレム宣言をした翌週であった。

  マヨイガに自力で辿り着いた彼は、紫を発見するなり笑みを浮かべながらこう言った。

 『お姉さんが八雲紫か! 初対面でなんだが、俺と協力関係を結んでくれい!』

  出会って早々の物言いに、当時の紫は驚愕した。

  人間がマヨイガに自力で辿り着いた事にも若干の驚きはあった。

  が、それよりも驚いたのは青年が発した要望である。

  協力関係?

  只の人間が?

  脆弱な人間風情が、この私に力を貸せと?

  この八雲紫に?

  紫は最初、舐められているのかと思った……が、直ぐにそれは違うと判断した。

  青年がこちらを見つめる瞳は、侮蔑等というモノとは掛け離れていたからだ。

  彼女は彼に問うた。

  どうして私と協力関係を結びたいのか、と。

  力が欲しい等という、くだらない理由だったら殺してやろうかしら。

  残酷な事を気軽に考えながら、紫は青年に問うた。

  彼は至極真面目な顔で答えた。

 『俺のハーレムを作るためにはお前さんのスキマが必要不可欠なんだ! 勿論タダじゃない、代わりにお前さんには……』

  己の生き様を見せてやる。

  それが彼の提示した協力の報酬であった。

  青年の目的と提案を聞いた直後、紫は余りの可笑しさにその場で笑い転げた。

  恥も外聞も関係無しに、腹を抱えて縁側を左右に転がり捲くる。

  彼女の腹を捩れさす原因は彼の望みに。

  ハーレムを作る、ですって?

  本気で言っているのかこの男は?

  只の人間の癖に?

  何の力も持たないヒトの分際で?

  この幻想郷に自分のハーレムを?

  可笑しい、可笑しすぎる。

  なんという珍妙奇天烈な人間か!

  腹筋が壊れそうな程に笑い声を上げる。

  そしてそのまま数分が経過し、やっとのことで笑いの虫を治めた彼女は、涙目を擦りながら青年を見た。

  目前の青年は、何故笑っているのか分からないといった風に、不思議そうに首を傾げていた。

  紫はその様子を見て、再度笑い出したくなったが、ぐっと堪え。

  口を引き攣らせながら再度青年に問うた。

 『貴方、さっきのは本気で言ったのかしら?』

  青年は真っ直ぐに紫を見据えて答えた。

 『ガチに決まってんだろうっ!!』

  親指を立て、こちらに向ける。

  そして彼は力強く笑った。

  達成への無謀さ困難さ、その全てを知った上での笑顔。

  その覚悟を見て、紫は思った。

  面白い。

  この男は面白い。

  性分である好奇心と興味が、首を擡げるのを紫は実感した。

  この人間に自分が協力したら、どんな事が起こるのだろう?

  その疑問は目を背けるには余りにも魅力的過ぎて。

  目の前の人間は余りにも愉快過ぎて。

  ……ちょっと位なら、良いかしら?

  そうして彼女、隙間妖怪・八雲紫は好奇心という名の元に。

  外界から来た青年、●●と協力関係を結ぶ事にしたのであった。










  そして今に至る。

  青年にはスキマによる短縮移動を、自分には彼の生活の全てを覗く権利を。

  笑い話の様な経緯を経て、ギブアンドテイクの名の元に、彼と彼女は協力関係を結んだのであった。

  勿論乍ら、この関係を破棄出来る条件もある。

  それは紫が彼の生活を覗く事に飽きた時、その時点でこの契約を破棄するというモノだった。

  彼女からしてみれば、それは当然の条件である。

  只の人間の一生等、彼女からすれば一瞬の閃光に近い上に同じ映像を繰り返し観るようなモノ。

  そんなつまらないモノを、紫はずっと見続けるつもりは当然無かったし、彼もその条件にあっさりと同意した。

  しかし未だ彼女に飽きる気配は無く。

  一年と半分以上が過ぎた今でも、当時の契約通り、彼等は御互いを利用し合っていた。

  それ程までに、彼を観察するのは面白かった。

  気紛れにスキマを覗けば、其処で繰り広げられているのは騒動に次ぐ騒動。

  爆発・轟音・絶叫は当たり前。

  ある時は博麗神社で、ある時は魔法の森で、ある時は紅魔館で。

  紅白巫女が御札を投げ、黒白の魔女と人形師が合体弾幕を放ち、吸血鬼姉妹が暴れ捲くる。

  そして毎度の如く吹き飛ぶ青年。

  何度やられても諦めず、嬉々として危険に乗り込んでゆく男。

  見ていて面白くない訳が無かった。

  尤も、最近の彼は少女達とイチャつくシーンの方が多いのだが。

  それでもトラブルが起きない日は無く。

  幻想郷全土の大部分の少女達を手に入れた青年は、今でも変わらず空の星になっていた。

  それは今日という日も例外では無い。

  スキマの中に映っている彼は鳥居の下で、着いたどー、と叫んでいた。

  どうやら目的地に着いたみたいである。

  感動的な場面を演出したいのか、一人で涙を拭う振りをしていた。

 「ふふっ、相変わらずお馬鹿ねぇ」

  青年の大袈裟な演技に、紫は頬を緩めて笑った。

  彼の背中を紫は楽しそうに眺める。

  普通の人間では一生を掛けても為し得れる訳が無い所業を、僅か一年足らずで為し得た男。

  只の人間には不可能の御業。

  そう考えると彼は間違い無く異常なのだろう。

  とはいっても、彼の異常は外見、肉体面、能力面等では発見出来ない。

  つまり、それは内面にあるということ。

  彼の中身、所謂性格人格の類は、一般人のソレとは遠く離れていた。

  目的の為ならば自身を厭わず、只我武者羅に突き進む、荒唐無稽と呼べる無鉄砲さ。

  螺子が二三本外れているのかと思わせる程の自己保身の無さ。

  自身の好みと判断したら種族の差など全く問題にしないという節操の無さ。

  度し難い程の情念を平然と受け入れる許容量の膨大さ。

  コレ等が彼の基盤であり、原点であると思われる。

  まあ性格分析については、紫が此れまで彼を見てきた末に出した結論であるため、確定は出来ないのだが。

  だが、あながち間違ってはいないだろうと彼女は思っていた。

  そう思っていた。

  今日この時、スキマを覗くまでは。

 「さてさて、本日の娯楽の始まり始まり~」

  楽しげに一人呟くと、彼女はスキマに肘を掛け、そして観察を開始した。

  この後、彼女は知る事になる。

  彼という人間の持つ闇、裏側、その一端を。

  深い深い暗黒の底に、幾重にも囲いを作って、まるで眠る様に。

  一級手品の如く巧妙に隠蔽されていた……ある感情と想いを。





新ろだ617,652
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最終更新:2011年03月27日 23:26