妖怪の山は紅一色に染まっていた。

  生命の力強さを感じさせる緑は過ぎ去り、今は紅。

  生ることの美しさ・変化を表現する様に鮮烈な深紅色が、付近に座する守矢神社も同じであった。

  奉られている神に遣える巫女が毎日欠かさず掃除しているためであろう。

  境内には小石一つ、落ち葉一つも落ちていない。

  奥にある本殿からは信仰心の強大さを示すかの如く、厳かな雰囲気が醸し出ている。

  辺りを囲うにして紅葉。

  それらは双方共に過不足無く混ざり合い、結果として荘厳な空気を作り出す。

  神の領域と自然の領域。

  その中に、異彩を放つ生命が二つ。

  神社の境内の中心。

  其処には、二つの影が在った。

  一人は妖怪。

  上半身をごわごわとした体毛で覆い、口元からは人よりも大きな犬歯を覗かせている。

  歩行形態は二足歩行、喩えるなら獣と合体した人間の様な姿である。

  端的に述べると人型妖怪であった。

  比類する例を挙げるとするなら、里の守護者である上白沢慧音、彼女の満月時の状態に近い。

  もう一人は人間。

  何の特徴も無い顔付きに、至って普通の服装に身を包んだ青年である。

  敢えて特徴らしきモノを挙げるとするならば、人より若干大きめの口ぐらいだろうか。

  彼はその口元に若干の笑みを浮かべつつ、咥えた煙草を暢気にぷかぷかと吸っている。

  二人は、互いに5メートル程の間を取って向かい合っていた。

  妖怪は背中を丸めた前傾姿勢で立っているが、青年はやや足を開いているだけの、殆ど棒立ちに近い状態である。

  青年を睨む妖怪の瞳には、怒りが孕んでいた。

  視線だけで相手を殺せそうな怒気。

  互いに向かい始めてからずっとその視線に晒されているにも拘らず、青年は尚も暢気に煙草を吸っていた。

  ありったけの怒りを、まるでそよ風か何かの様に気にもしないし動揺もしない。

  何処吹く風といった様子で彼は紫煙を斜め上空に向かって吐き出している。

  寧ろ気が気で無いのは、彼の関係者達の方であった。

  彼等が向かい合っている中央の奥、賽銭箱の手前付近に、少女達は居た。

  観客的立場の三人の少女達は、皆が皆、様々な表情を浮かべている。

 「だ、大丈夫なんでしょうか……?」

  その内の一人、東風谷早苗が呟いた。

  緊張を抑える様に、両手は巫女服の袖を掴んでいる。

  瞳の奥は、内心の不安を表す様に震えていた。

 「うーん……何だかんだ言っても、●●は只の人間だからねぇ」

  肩眉を上げながら八坂神奈子が言った。

  まあ、頑丈だから死にはしないさ。

  そう答える彼女の声にも、若干の焦りがあった。

 「私は大丈夫な気がするんだよね~」

  気楽に答えるのは漏矢諏訪子。

  大小の不安を抱く少女達の中で、彼女だけは唯一不安と離れていた。

  自身の友神の気軽な物言いに神奈子は食い付いた。

 「へぇ、言うじゃない諏訪子。で、その根拠は?」

 「無いに決まってるじゃない」

  あっけらかんと答える諏訪子に、神奈子はがくっと拍子抜けする。

 「アンタねぇ……」

 「でも……」

  諏訪子は遮る様に神奈子に振り向き。

 「そんな気がしない?」

  にこりと笑った。

  その笑みには、青年への絶対の信頼が込められていた。

  そしてそれは神奈子の中にも確かに存在するモノでもあった。

 「まあ……確かに」

  返しながら視線を戻す。

  青年と妖怪はまだ動かない。

 「信じる事の大切さは、私達が一番良く知ってるしね」

  諏訪子の言葉に、神奈子は視線そのままに頷いた。

  一方の早苗は、二人の神の会話等、全く耳に入っていなかった。

  内心に在るのは不安のみ。

  そして彼への心配のみである。

  無理です、絶対無理ですよぅ。

  泣きそうな視線を自身の想い人へと送る。

  そうだ、こんなこと無茶に決まってる。

  何の能力も無い只の人間が、妖怪に勝てる訳無い。

  それは弱肉強食の理。

  弱者は強者に喰われる、只それだけの真理。

  故に彼に待っているのは絶対的な死、のみ。

  だというのにどうして……

  どうして彼は、こんな馬鹿な話を持ち出したりしたのだろう。

  困惑と疑問の重りを乗せた天秤が早苗の中で不安定に揺れた。

  事の経緯は一時間程前に遡る。










  朝餉の途中、沢庵を咀嚼しながら●●は本日のハーレム巡りの場所を守矢神社に決めた。

  決定と同時に食事を最大戦速で済ませ、御馳走様の合図と共に彼は食器を片付けもせず自宅を飛び出す。

  そして二十分後。

  其処には守矢神社の鳥居の前で雄叫びを上げる彼の姿が在った。

  人里から妖怪の山の頂付近まで二十分。

  見事な俊足だと感心はするが何処もおかしくは無かった。

  この程度の事など、自身が手篭めにした少女達にみっちりと足腰を鍛え上げられた(主に弾幕ごっこで)今の彼には朝飯前であった。

  神社の裏に回り込み、縁側の方へと歩を進める。

  残念な事に縁側には誰も居なかったが、彼はその事を気にも留めずに靴を脱ぎ、部屋の中に足を踏み入れた。

  家人の姿を探すこと数秒。

  彼が第一に発見したのは丁度朝食を済ませ、ちょっと腹休めをしようと部屋に入って来た諏訪子であった。

  彼女の姿を視界に入れた●●は、獲物を発見した狩人の様に瞳を煌かせながら突進する。

  間も無くして、彼は小柄な少女を己が胸元に抱き入れた。

 「グッモーニン、諏訪子ーーーーっ!!」

  軽快な挨拶をしながら抱き締める。

  少女というより幼女に近い、ぷにぷにとした抱き心地と、少女から発せられる乳臭い匂いに●●はニヤケ顔を浮かべた。

  抱きつかれた側である諏訪子は、突然出現した想い人の姿に最初は困惑した……が、このような事態はいつものこと。

  すぐさま立ち直った彼女は、お返しとばかりに彼を抱き締め返した。

 「おはよう●●~。今日はいつもより早かったね~」

  青年の腹部に顔を埋めながら話しかける。

 「おう、朝飯食ってたら無性に逢いたくなっちまってな。猛ダッシュですっとんで来たぜ!」

  威勢の良い言葉を聞いた諏訪子は、頬を薄い桃色に染めた。

  神様とはいっても、恋する事にそれは関係無い。

  好きな人に逢いたいと言われて嬉しくない訳が無かった。

  空気を吸い込む。

  汗の臭いと共に彼の匂いが自身の中に浸透していき、じわりと身体の奥が熱くなるのを彼女は感じた。

 「もしかして、今日どっか行く予定だったか? それなら俺の寿命が欲求不満でマッハなんだが……」

  少女が黙っているのを不思議に思った●●は尋ねる。

  内容に反して、声色は動じていない。

  諏訪子は熱を感じる気持ちを抑えながら顔を上げた。

 「今日は何も無いよ? ただ、●●汗臭いな~と思って」

  悪戯小僧みたく答える諏訪子に、●●は更に調子を良くした。

 「臭いとは失礼な。この臭いはそれだけ諏訪子達に逢いたかったという、所謂愛の証明じゃないですかい?」

  俗にいう東京ラブストーリーと後に続ける。

  青年の戦歴を考えた末、諏訪子は突っ込んだ。

 「どっちかというと101回目のプロポーズじゃない?」

  余りにも的確な指摘に●●は思わず苦笑いを浮かべてしまう。

  しかしそれも一瞬の事。

 「おっとと、これは一本取られてしまった感。しかし俺の愛情は留まることを知らないんだぜ!」

  パッと気を取り直した彼は、抱き締める力を強めた。

 「好きです奥さん……ずっと、ずっと好きでした」

  搾り出す様に告げた、違和感を感じる告白。

  青年の雰囲気の変化を、諏訪子は敏感に感じ取った。

  乗り遅れる事無く言葉を返す。

 「駄目よ、私には家庭が……」

 「好きになってはいけないことは分かっています。けど、もう我慢出来ません!」

  彼女の言葉を遮って叫ぶ。

  言葉には熱い感情が迸っていた。

  青年は彼女の瞳を見つめる。

 「奥さん……」

  彼の瞳には、若く、そして青過ぎる情熱が宿っていた。

  彼女はその眼差しを潤んだ瞳で見つめ返す。

 「そんな駄目よ……駄目、なのに……」

  口では拒んでいても、内面の滾りは抑え切れなかった。

  青年はゆっくりと少女に顔を近づける。

  震える口元を塞ぐために。

  少女の全てを奪い去るために。

  彼は己の唇を彼女の唇に接近させる。

  それ拒む術は、彼女には無かった。

  目の前にある現実を受け入れ切れず、彼女は瞼を閉じる。

  そうして互いの唇が触れ合う直後。




 「なにやってるんですかーーーーーーーーーーーーーーっ!!」




  場の雰囲気に似つかわしくない怒鳴り声が二人の下に届いた。

  先程までの甘い雰囲気がまるで霧が晴れる様にして掻き消える。

  霧散した空気に●●と諏訪子は揃って一息吐くと、怒号のした方向に首を向けた。

  彼が侵入した縁側とは逆の方向。

  其処には引き戸を背にして立ちながら、顔を怒気と羞恥で真っ赤にさせている守矢の巫女、東風谷早苗の姿があった。

  横槍を入れてきた少女に●●は挨拶を、諏訪子は文句を口にする。

 「おっす早苗、元気してたか?」

 「も~、折角良いところだったのに~。空気読んでよ早苗~」

  二人とも、先程の空気など初めから無かったの様な、あっけらかんとした対応であった。

  早苗は真っ赤な顔のまま捲くし立てた。

 「お二人とも、朝っぱらから何やってるんですかっ!」

  ●●と諏訪子は抱き合ったままお互いの顔を見つめ、やがて早苗の方を向くと息を合わせたかのように答えた。

 「何って……」

 「団地妻ごっこ?」

 「所謂一つのイメージプレイだな! いや~、コレがやってみると案外面白くてさ~」

 「面白そうだったから、私もつい乗っちゃった!」

  あっはっはっはっ、と二人は楽しそうに笑う。

  その答えに早苗は黙って拳を握った。

 「まあ、邪魔が入んなかったら最後までやるつもりだったんだけどな!」

 「ちょっと●●~。流石に朝からそれはマズイでしょ?」

 「俺の股間のオンバシラは何時如何なる時でもバッチコイですたい! なんなら今すぐヤるか?」

  言って彼は厭らしく口元を吊り上げる。

 「相変わらずお盛んだね、●●は~」

  青年の貪欲な精神に諏訪子はやれやれと首を振る。

  実のところ、彼女もその案には賛成であった。

  表面上は特に何も無いフリをしているが、本音を言うと、今すぐにでも彼の全てを奪いたい衝動に彼女は襲われていた。

  原因は先程のごっこ遊びにある。

  ●●は演技として楽しんでいたのかもしれなかったが、彼女にとっては殆ど素に近かった。

  知っている者は知っているだろうが、彼女は元人妻である。

  出産経験は勿論あり、家庭を持った事もある。

  そして結婚中に他の男に言い寄られた事も、当然あった。

  無論、今のような状況になったことも。

  つまるところ、先程青年が気紛れに行ったごっこ遊びは、彼にとっては遊びでも、彼女にとってはリアルに近いモノだったという訳である。

  迫ってきた男が一握り程の興味も湧かない者だったのなら、彼女も此処まで発情しなかっただろう。

  だが実際に迫ってきたのは、彼女が惚れている人間なのだ。

  抱き締める力強さも熱い言葉も、全部が全部、演技とは分かっていても。

  それでも彼女には嬉しく思え、身体が熱くなってしまう。

  既に彼女の心は、彼から離れられなくなってしまっているのに。

  青年の事がもっと欲しくなってしまう。

  早苗に見咎められても諏訪子が彼の身体から離れないのは、偏にそれが理由であった。

  しかし……

 「でも……」

  諏訪子は青年を見上げながら小さく呟く。

  今は離れなくてはいけない。

 「お?」

  呟きに彼は疑問の声を上げて少女の顔を見つめた。

  腕の中にすっぽりと納まっている少女の両眼は、僅かながら潤んでいる。

  泣いている様にも取れるそれに、彼は首を傾げた。

 「どうした諏訪子?」

  気軽さと気遣いを梱包させた声。

  何も気付いていない青年の顔を見て、彼女は心中で溜息を吐く。

  ああもう、何処まで鈍いんだろうこの男は。

  それも仕方無いかと彼女は思ってしまう。

  多分彼は、与えられる側じゃなくて与える側なのだ……ならば。

  ならば思う存分与えて貰おうと、少女は心に決めた。

  具体的には今夜辺りに。

  そして少女はその声の主に笑みを浮かべて。

 「お楽しみは今夜にね!」

  そう残して、彼女は彼の腕の中に別れを告げた。

  二三歩の距離を置いた後、諏訪子は●●に人差し指を向ける。

 「あらら、それは残念……って、その人差し指は何ですかな?」

  首を伸ばして指を見やる。

  キリンの様に首を伸ばす彼に、諏訪子は意地悪げな笑みを浮かべ、滑らかな仕草で指を90度右に動かした。

  釣られる様に●●は首を動かす。

  其処には。

  物々しいオーラを放つ、緑白の巫女の姿があった。

  全身に寒気を覚える様な冷気を纏っている。

 「あ、あら早苗さん、暫く見ない間にすっかり冷たくなってしまって……」

  その冷気を払うように、●●は努めて明るく声を掛ける。

  しかしその努力も空しく空回り、巫女は何の反応も見せないまま、指の骨をごきりと鳴らした。

  長らく会話から置き去りにされていた彼女のこめかみには、何本もの青筋が浮かんでいた。

  と、次の瞬間。

  ゆらりと、まるで幽霊そのものの様に、少女はその場から姿を消した。

 「あり?」

  突然消えた少女の姿に驚く青年。

  周りを見回すも、姿は見当たらない。

  一体何処に行ったのか。

  そう思っていたのも束の間。

  背後に異様な気配を察した彼は、油を差していない機械人形の様な動作で真後ろを見た。

  彼の背後、真後ろ。

  其処に当たり前の様に、彼女は居た。

 「●●さんの……」

  少女は俯いたまま低い声で呟き、握り締めた右拳を肩の高さまで持ち上げる。

  一拍の間。

  そして少女は顔を上げると同時に……

 「ばかああああああああああああああああああああああっ!!」

  強烈な右ストレートを●●の顔面目掛けて叩き込んだ。

  渾身の力を込めて放たれた右拳は、集まった力を余す事無く対象に注ぎ込む。

  流し込まれる力の奔流に耐え切れなかった青年の身体は、あっさりと吹っ飛び、宙を舞った。

 「オウフッ!!」

  珍妙な悲鳴を上げながらまるでスローモーションの様に地面に落下してゆく青年を、少女は睨みつける。

  無視された事が辛かったのか、はたまた諏訪子に嫉妬したのか、瞳には若干の涙が滲んでいた。

  そして……

  喜劇悲劇はまだ終わってはいなかった。

  弧を描きながら落下する青年。

  最終的に彼が着地するであろう地点に急遽現れたのは、一人の女性であった。

  守矢の一柱、八坂神奈子。

  別に待ち構えていた訳でもなく、騒ぎを耳にして今し方現場に到着した彼女。

  なのでこんな事態になっているとは思う筈も無く、故に突然身に降ってきた男を避けるという選択肢は、彼女の頭には出てこなかった。

 「うわあっ!?」

 「ぬわおっ!!」

  為す術も無く衝突し、驚声と悲鳴らしきモノを上げる両者。

  勢いの付いた状態でぶつかったため、二人は畳の上を転がる様にして倒れてしまう。

  先に呻き声を上げたのは神奈子だった。

 「いたたたた……なんなんだい一体……」

  倒れた拍子に打った後頭部を擦りながら上体を上げる。

  痛みのためか、少し目が潤んでいた。

  なんか胸の辺りが苦しいわねと彼女は思った。

 「何か飛んで来たと思うんだけど……」

 「あらら。神奈子ってばナイスタイミングだね」

  現状を把握しようとする神奈子に声を掛けたのは諏訪子だった。

  嬉々として話しかけてきた友神に彼女は疑問をぶつける。

 「ああ、諏訪子。ナイスタイミングって、どうゆうこと?」

  疑問に諏訪子は答えず、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら彼女の胸元を指差した。

 「ん?」

  訳の分からぬまま釣られる様にして彼女は自分の胸元へと眼を向ける。

  見下ろした先には、彼女の持つ巨大な双丘に挟まれたまま悶絶している青年の姿。

  うわ言の様に、貧乳も巨乳も俺にとっては神の贈り物、と繰り返している。

 「……っ!?」

  友神の教えによって自分の状況を把握した彼女は、一瞬を以って全身を深紅に染め上げた。

  真っ赤に染まった恥ずかしさという名の熱は、程無くして思考回路にも到達する。

  ●●!?

  え? どうして!?

  なんで私の胸に!?

  そんな覆い被さる様に……

  え、まさかコレってつまり……そうゆうこと!?

  混乱した回路が、よもやまともな判断等下す筈も無く。

  茹った思考の果て、カップヌードルよろしく三分後に出来上がったのは、惚れた男を胸に挟んだまま暴走する一人の乙女であった。

 「いやいや! 流石に朝からはマズいわよ●●! いや、別にしたくないっていう訳じゃないわよ? ただ、こうゆうのはもっとこう……」

  何をどう勘違いしたのか、一人紅い顔で喋り出す神奈子。

  どうやら路線変更した回路の到着地点はお花畑だったらしい。

  必死に捲くし立てながらも、実は満更でもないことは彼女のふやけた顔が証明済みであった。

  それでいいのか軍神。

 「でも●●がしたいんなら、私は別に今からでも……」

 「あのさ、神奈子」

  どんどん広がる妄想に歯止めを掛けたのは、彼女の友神であった。

 「えっ? な、なに、諏訪子?」

  妄想に割り込んできた諏訪子に、神奈子は驚きを見せつつ反応する。

  諏訪子は困った様に頬を掻きながら。

 「幸せ気分を味わうのも良いんだけど……」

  一つ区切った後、自身の友神にニンマリと微笑みながら言った。

 「後ろに注意してね?」

 「は?」

  彼女がその言葉を理解する前に。

  修羅と化した巫女の弐連踵落しが、青年と彼女の脳天を直撃した。










  意識が三途の川まで飛んで行きそうな踵落しから二人が生還して十数分後。

  守矢神社の一室には、まったりとした空気が流れていた。

  全員で卓袱台を囲って、お茶と茶菓子を嗜んでいる。

  この状態に至るまでには様々な経緯があった。

  早苗の放ったプロの格闘家も真っ青な踵落としによって綺麗に意識を刈り取られた二人が、漸くして意識を取り戻した後。

  ●●と神奈子と諏訪子の三人が最初に行ったのは、早苗の御機嫌取りであった。

  一方は能天気に、二方はひたすら下手に。

  宥めすかし、持ち上げようとするも、一向に彼女の機嫌は良くならない。

  好きな人に自分だけ除け者にされた少女の怒りと悲しみは、そんな事位では収まらなかった。

  これは困ったとばかりに悩む二柱。

  しかし●●は一発でその状況を打破した。

  なんてことは無い、構って貰えなかった事を不満に思っているのなら構ってやれば良い。

  言いながら彼は剥れる早苗の手を取って、奥の部屋へと引っ込んでいった。

  青年の突飛な行動に二柱は驚いたが、策が有るなら任せようと判断し、二人が帰ってくるのを待った。

  暫くして帰って来た自分達の巫女の顔には、愉悦と恍惚が貼り付いていた。

  神奈子と諏訪子が何かを尋ねても上の空。

  ほんのりと朱に染まった頬に手を当てたまま固まる巫女。

  ちょっとやり過ぎた、少しすれば戻ると思う。

  困惑顔の二人に対して●●はそう告げると、ぺろりと舌を出した。

  それだけで奥で何があったのかを理解した神奈子と諏訪子は、起こったであろう出来事を想像し、同様に頬を染めて俯いた。

  そして現在に至る。

  恍惚な笑みを浮かべていた早苗も、想像で顔を紅らめていた二人の神も、今此処には居らず。

  場に存在するのは和やかな空気と、卓袱台を中心にして穏やかな顔付きで茶を楽しむ少女達、それと暢気な顔で茶を啜る青年だけであった。

 「あ~、茶が旨え~」

 「ふふっ、ありがとうございます●●さん」

  ほへ~と息を吐く青年に、早苗は控えめに笑って感謝の意を示す。

  さっきの出来事がまるで幻だったかの如く、巫女服の少女はすっかり落ち着きを取り戻していた。

 「当たり前よ●●、早苗の淹れたお茶は幻想郷一なんだから」

 「何しろ愛情たっぷりだしね~?」

  からかう様な諏訪子の言葉に、早苗は自分の身を縮込ませた。

  愛情たっぷりという言葉に嘘偽りは無かったが、それでも他者に言われると照れるモノがある。

 「ほほう、愛情たっぷりとな? 具体的にどんな感じか【興味】が有ります」

  彼は真面目な顔を作って問う。

  質問に諏訪子は顎に手を当てながら答えた。

 「そうだねぇ……比較対象に麓の巫女を挙げると、主に金銭……」

 「おいやめろ馬鹿、この話は早くも終了ですね……」

  禁句を言おうとする諏訪子を●●は僅かに動転しながら止める。

  手の平を返した動揺っぷりに、少女達は揃って笑いを漏らした。

  笑い終えた後、諏訪子が訪ねた。

 「そういえば●●、今日はどうするの? 泊まってく?」

 「ハイ! 泊まっていきます!」

  有無を問わない勢いで切り返す。

  答えには何の迷いも見られなかった。

  彼から飛び出した一泊宣言に、早苗は自身の空気を一段階明るくした。

 「それじゃあ今日はお昼御飯と御夕飯、頑張って作りますね!」

  胸の前でグッと両手を握りながら気合を見せる。

  口元は嬉しそうに綻んでいた。

  その様を見た二柱は、彼女に聞こえる様に互いに耳打ちをした。

 「見た諏訪子? 早苗のあの気合の入れっぷり」

 「勿論。●●が泊まるだけであの気の張り様……一体何をするつもりなんだろうねぇ……」

  横目で早苗を見ながらぼそぼそと話す。

  密談を終えた彼女達は最後に口を揃えて、いやらしい、と呟いた。

 「何がですかっ! いやらしい事なんて、別に考えてませんっ!」

  謂れの無い誤解に、早苗は顔を真っ赤にして反論する。

  反論に、二柱は内心でいじめっこの様な笑みを浮かべた。

  早苗は気付いていなかった。

  彼女達の挑発に乗った時点で、自ら罠に掛かってしまったという事に。

  自身の信仰する神達を、早苗は頬を膨らまして睨みつける。

  剥れる少女を見て、こんな事位で怒るなんて可愛いなぁもう、と二柱は思った。

  そして次弾は、少女の予想外の所から発射された。




 「いやらしい事しないとか、ちょっとした拷問だろこれ……」




  意外な方向からの攻撃に、早苗は膨らました頬の空気を抜きながら発射地点であろう青年の方を振り向く。

  其処には、あからさまに残念な空気を全身から醸し出して、がっくりと肩を落とす●●の姿があった。

 「俺はそのいやらしい事がしたかったのになぁ……」

  お預けをされた飼い犬の様な顔で期待の残骸を漏らす。

  彼は苦言の後に小声で、汚い巫女さすが巫女汚い、と続けた。

  みるみる萎んでゆく想い人に、早苗は慌てて訂正の言葉を掛ける。

 「あ、あのですね●●さん? さっきのはその、何と言いますかその……そう! 言葉のあやです、言葉のあや!」

  両手を使い、先程の発言は誤解であったとアピールする。

  青年は少女の話を聞かずに、疲れ果てた老人の様に笑った。

 「ええねん、おいちゃんの勝手な勘違いやってん。嬢ちゃんが気にする事やあらへん……」

  そして何故か関西弁で話しだす。

  二柱は変化した彼の口調に激しく突っ込みたかったが、此処は我慢と堪えた。

 「で、ですから……」

  否定しようとする早苗を無視して、彼は寂しそうに天井を見上げ、言葉を続けた。

 「ははっ、そうやんなぁ……こんな可愛い子、俺なんかと釣り合わんよなぁ…………ホンマ、良い夢やったわ」

  言い終わってから、彼は涙を拭う様にして右腕で目元を隠した。

  小刻みに腕を震わせ、やがて彼は静かに鳴咽を漏らし始めた。

  幸せな夢から醒めた男の末路。

  勿論、全部演技であった。

  第三者視点から一連の流れを見ていた諏訪子と神奈子には、それが丸分かりであった。

  というか、関西弁の時点で怪しさ全開である。

  大根過ぎる演技に神奈子は渋い顔を作り、隣の諏訪子に顔を向ける。

  同じく顔を渋くしていた諏訪子は、友神の視線に無言で頷いた。

  二柱の思うことは同じであった。

  しかし……

  当事者の少女は、青年の姿を在りのままに受け取ってしまった。

 「そんなことはありませんっ!!」

  弾く様な声が部屋中に反響する。

  突然の大声に諏訪子と神奈子は目を丸くしながら発生源を見つめた。

  彼女達の瞳にはまさかという期待の念が篭っている。

  巫女は二柱の視線に気付かないまま、更に声を張り上げた。

 「勘違いだとか夢だとか、そんなことないですっ!! だって、私は●●さんの事が好きなんですからっ!!」

  まだあどけなさを残した顔を、林檎の様に真っ赤に染めて少女は叫ぶ。

  緊張しているためか両手は震えていた。

  震えを抑える様に、彼女はその手を握り締め、そして一際大きな声で宣言した。




 「だからっ! だから私も●●さんといやらしい事がしたいですっ!!」




  その言葉を境に、空間を静寂が支配した。

  時が止まったかの如く、誰も言葉を発さず、誰も動かない。

  無音の領域。

  制止した世界で最初に動いたのは、青年の口元であった。

  動き始めたソレは、徐々に高く釣り上がり、厭らしい形を作り上げる。

  そして顔を覆っていた右腕を振り払う様にどかすと、彼は意地の悪い笑みを浮かべながら早苗へと詰め寄った。

 「言ったな早苗?」

 「ふぇ?」

  青年の言葉に早苗は間抜けな声を上げる。

  瞬く間に変化した青年の態度に、彼女は対応しきれていなかった。

 「いやらしい事したいって、そう言ったな?」

 「は、はい……確かに言いましたけど」

  答えながら早苗は、何故か嫌な予感がしていた。

  罠に嵌った兎の前に、追い討ちで狼が現れたみたいな、そんな窮地にも似た感覚。

  その予感を実現するかの様に、●●は観客に確認した。

 「おいィ? 二人共、今の言葉聞こえたか?」

 「聞こえたわね」

 「いやらしい事したいって言った」

  腕を組みながら答える観客役の諏訪子と神奈子。

 「俺のログにも確かにあるな」

  うんうんと満足気に頷く●●。

  其処で漸くして早苗は自分が嵌められた事に気が付いた。

  ぼっ、と顔面に火が点る。

  思い起こされるのは、先程の自分の発言。

  ●●さんの事が大好き。

  私も●●さんといやらしい事がしたいです。

  羞恥と純情と献身が綯い交ぜになって、彼女の純心を燃やす。

  そして漏れ出た熱さは物理属性という形で青年へと返されることとなった。

  修羅、再来。

 「●●さんの……」

  ゆらりとした動きで、彼女は己の左手の位置を力を抜いたまま高くする。

  そして秒コンマの後、その左手は陽炎の如く揺らめき……

 「アホーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」

 「アバドンっ!?」

  神速の速さで打ち放たれ、ピンポイントで●●の右頬に命中した。

  与えられた衝撃に、青年は錐揉み回転をしながら真後ろへと吹っ飛び、程無くして着地する。

  着地を見届けた後で、早苗は一つ荒い息を吐いた。

  観客の二柱は目の前で繰り広げられた三文芝居を見終えて一言。

 「早苗ってさ……」

 「性格変わったよねぇ……」

  以前と比べて明らかに活発になった(良い意味か悪い意味かは置いておいて)彼女の性格に、神々は時間の流れを感じた。

  外界に居た頃の、大人しくて控えめでちょっぴり自信過剰だった少女の姿は、今となっては各々の胸の中にしか存在していなかった。

  過去に思いを馳せる二柱に、早苗は吠える様に文句を言った。

 「誰のせいだとおもってるんですかっ!」

 「●●」

 「●●のせいだよね」

  即答する軍神と祟り神。

 「~~~~~~~っ!!」

  事実なので否定が出来ないのか、少女は照れ隠しをする様にそっぽを向く。

  彼女の素直な反応に、諏訪子と神奈子はけらけらと笑った。

  玄関から誰かの声が聞こえて来たのはその時であった。

 「あ、誰か来たみたいですねっ! わ、私、ちょっと出てきます!」

  来客という助け舟が来たことにより、早苗は逃げる様にして部屋から出て行く。

  自身の巫女を見送った後、二柱は縁側の方に目を向けた。

  少女の性格を変えた原因は、倒れたままの状態で煙草を吸っていた。

  胸元には御丁寧に持参した携帯灰皿を乗せている。

 「ふぃ~、早苗をからかった後の一服は最高ですな」

  煙を吐きながら満足そうに言うと、彼はくつくつと笑った。

 「からかうのは反対しないけど、程ほどにしとくれよ? あの子はまだまだ純情なんだから」

 「笑いを堪えながら言っても説得力無いよ、神奈子」

 「やっぱり? だって可愛いんだも~ん」

  友神の指摘に対し、心底の反応を示す神奈子。

  種族は違えど、何処の家庭の親馬鹿も同じであった。

 「確かにさっきの早苗は可愛かったけどね~」

 「でしょう? さっきの宣言とかホント録画モノよ!? カメラの用意をしておくべきだったわ……」

  準備不足を悔しがる軍神。

  その様は愛娘の一生を、こと細やかに記録する事を生き甲斐にしている母親みたいであった。

  恋をしても変わらない友神の親馬鹿っぷりに、諏訪子はこそっと溜息を吐いた。

  吐きながら思う。

  果たして彼女の中では娘と男、どちらが上なのだろうかと。

  考える間も無く答えは自ら顔を出した。

  それは縁側から。

  首だけ上げて彼女達の話を聞いていた●●は、徐に口を開いた。

 「俺的にはカナちゃんも早苗に引けを取らないくらい可愛いと思うぞ?」

  可愛い。

  その言葉を耳にした瞬間、神奈子は表情を薔薇色に変え、条件反射みたく身体を青年へと向けた。

 「ななななっ! い、いきなり何を言ってるんだい●●! そんな可愛いとか、急に言われたら困るでしょう!?」

  わたわたと手を前面に突き出して否定するも、顔にまで嘘は付けれない。

  言動とは裏腹に、彼女の顔は緩み切っていた。

  ●●からは見えないが、諏訪子から見れば、耳の裏まで紅く染まっているのが良く分かる。

 「ん~? 可愛い子に可愛いと言うのがなんで駄目なんだ? 俺には意味不明なんすけど?」

 「だ、だから、それはその、言われ慣れてないから照れるというか、その……」

  二度目の可愛い発言に、徐々にしおらしくなってゆく神奈子。

  軍神と謳われ奉られた彼女も、こと恋愛に関しては初心な少女であった。

  友神のあからさまな態度の変化に諏訪子は先程の思いつきに決定を下した。

  早苗小なりいこーる大●●。

  親馬鹿でも恋する乙女は恋する乙女であった。

  そしてそれは自分自身にも当て嵌まる式である。

  もじもじとしだした神奈子の心情を知らない●●は、其処に気軽な調子で追撃の拡散弾をぶっ放した。

 「なんじゃそら? お前等が可愛いのは当たり前だろが。早苗もカナちゃんも諏訪子も皆可愛い! 全員俺の嫁!」

  ほらこんなもん。

  彼から途端に発せられた厚顔無恥でその上無節操な発言に、神奈子だけでなく諏訪子も頬を桃色に染め上げられる。

  他の二人より経験豊富な彼女も、一方的に(相互的ではあるが比率的な問題で)惚れるという感覚には未だ弱かった。

  再び熱くなりそうな身体で諏訪子は思う。

  ホント、駄目な御先祖様だよねぇ……

  自分の子孫より惚れた男を強く想ってしまう自分に、彼女は若干の後ろめたさを感じてしまう。

  しかしそれも直ぐに杞憂に終わった。

  何故なら己の子孫もこの男に惚れているのだから。

  それはもう、ベタ惚れというレベルで。

  なら何も問題は無い、か。

  そう判断を下すと、彼女は自身の想い人に尋ねた。

 「言ってくれるねぇ●●……んじゃ今夜は期待して良いのかな?」

  恋を楽しむ女の表情の諏訪子に、●●は煙を吐きながら言った。

 「任せとけ~い。4Pとか、俺にとってはちょろいモノ。俺本気出したら10Pとか余裕だし」

  余裕綽綽にそう言うと、彼は再び煙草を口に付けた。

  青年の返答に諏訪子は艶のある笑みを浮かべ、神奈子はもじもじと指同士を絡め始めた。

  なにやら小声で、けど後ろは流石に……でも●●がしたいんなら、とかなんとか聞こえた気がしたが、諏訪子は聞こえていない振りをした。

  そして各々が其々の感情を弄び始める。

  男性の懇願する様な叫び声が三人の下へと届いたのは、それから約五秒が経過した頃であった。

 「なんだ今の?」

  聞き慣れない声に反応して上体を起こす●●。

  その声の主を知っている二柱は、またアイツか、と呟いた。

 「カナちゃんと諏訪子は、誰か知ってんのか?」

  知った素振りを見せた彼女達に訪ねる。

  質問に、両者は嫌そうな顔を浮かべながら答えた。

 「知ってるというか、ねぇ……」

 「どっちかっていうと、知りたくないけど知っちゃったって感じ?」

 「んん? どゆこと?」

  要領の得ない回答に、●●は首を傾げる。

  そんな彼に対して二柱は、見れば分かると言って玄関へと続く通路側の戸を指差した。

  疑問を感じながらも●●は素直に指示に従い、音を立てない様に戸を開け、其処に首だけを入れて玄関方面に視線を泳がせる。

  視線の先には……

  下足場で土下座をする獣人っぽい妖怪と、それを見下ろすようにして立っている早苗の後ろ姿。

  妖怪の突然の行動に戸惑っているのか、彼女は背中越しからでも分かる程に慌てている。

  現場を目視した●●は首を引っ込め、巻き戻す様にして戸を静かに閉めた後、口を開いた。

 「なんだありゃ? さっぱり状況が分からん」

  二柱に見てみろと言われ見てみたものの、結局彼には現場の状況と経緯が全く以って理解出来なかった。

  ハテナマークを頭に浮かべている●●に神奈子と諏訪子は困った様子で事情を説明した。

  一月程前から早苗に求愛を始めた妖怪が居ること。

  そいつは今玄関で土下座をしていた妖怪で、この神社の信者の一人だということ。

  最初の内は境内に居る時にしか迫ってこなかったが、最近では境内に居ないと玄関まで乗り込んでくること。

  一応の注意はしているが、一向に懲りていないこと。

  分かりやすく言うと、●●と諏訪子が朝一でやっていた団地妻ごっこのリアル版だということ。

  最後の発言に対し、神奈子は諏訪子を言及したが、彼女は華麗にスルーした。

 「早苗はそうゆう所に甘いからねぇ……」

 「強く断りきれないんだよね~」

  最後にそう漏らして説明を終えると、二柱は深く息を吐いた。

  彼女達の話を黙って聞いていた●●は、説明の終了と共に立ち上がると玄関通路側の戸へと足を向けた。

 「どうしたの●●?」

 「まさか止めさせに行くとか?」

  神々の期待の篭った声色に●●は背中を向けたまま平坦な声で、勿論、と呟いた。

  青年のいつもとは違ったテンションに、彼女達は若干の驚きを見せた。

 「一つだけ聞いても良いか?」

  背中を向けたまま彼は彼女達に尋ねた。

 「早苗は、あの妖怪の事が好きなのか?」

  彼の口から発せられた質問に、二柱は更に驚きを重ねた。

  何故ならその問い掛けはどう聞いても弱音としか捉えられない内容だったからだ。

  鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔を浮かべる少女達だったが、答えは決まっていた。

  想い人が珍しく見せた弱い部分を一刻も早く癒すため。

  二柱は青年の背中に向けて、迷い無く言い放った。

 「そんなことは絶対に無いわよ」

 「早苗が●●にベタ惚れなのは確定的に明らかだね」

  勿論私達も、と付け足して諏訪子は微笑む。

  友神の発言に神奈子も照れながら同意した。

  彼女達の嘘偽りの無い言葉に●●は喉を一つ鳴らすと、顔だけ後ろに向けて言った。

 「サンキュー二人とも。んじゃ、ちょっくら嫁を連れ戻してくるわ!」

  そう言ってから青年は一度笑い、勢い良く戸を開くと玄関側へと歩いて行く。

  それに続く様にして諏訪子と神奈子は戸に向かい、戸口から顔だけを覗かせた。

  彼女達の視線は、煙草片手に玄関先へと向かう青年の背中に。

  玄関に居る二人は会話が白熱(といっても熱くなっているのは妖怪だけなのだが)しているらしく、彼の出現に気付く素振りも無かった。

  先程土下座をしていた妖怪は、今は立ち上がっており、興奮した様子で早苗に迫っている。

  苦しそうな表情で言葉を吐き出す。

 「どうしてなんですか早苗さん! 俺はこんなにも貴女の事を想っているのに!」

  最早何度目かも分からない程に繰り返された愛情過多の発言に、早苗は困り顔で返事をした。

 「すみません。本当に申し訳無いのですが、私は貴方の想いを受け止めれません……」

  言いながら申し訳無さそうに頭を下げる。

  控えめなその態度が相手を付け上がらせるという事に彼女は気付いていない。

  妖怪の男は彼女の謝罪の言葉等、一切耳に入っていないかの様に愛の告白を続ける。

 「俺は貴女が好きなんです! 愛してるんです! だからっ!」

  内心で溢れ出す感情を塞き止め切れなくなったのか、遂に彼は行動に出た。

  少女の華奢な両肩を強引に掴む。

 「痛っ!?」

  余りに強く掴まれた早苗は痛みを漏らすも、暴徒と化した彼は気付ずに己が愛の続きを叫ぼうとする。

  ……だが、彼の一人舞台は此処までだった。

 「俺と付き合ってくだ……」

 「お、灰皿はっけ~ん」

 「は?」

  修羅場に近い状況に、突如として乱入した間の抜けた声。

  その声に、妖怪は愛の暴徒モードを強制終了させられる。

  そして次に彼が味わったのは……

 「鎮火~」

 「あづぁーーーーーーーーーーっ!!??」

  場違いな言葉と共に己の左手に与えられた、火傷しそうな程の熱であった。

  じゅっという火の消える音の後、更におまけとばかりにぐりぐりと火傷部分を刺激される。

  妖怪といっても痛みを感じない訳ではない、当然痛みは有る。

  彼はその痛みから逃れるため、少女の肩を掴んでいた両手を離すと、一歩後ろへと下がった。

  其処で漸くして彼は、己に熱と痛みを与えた張本人の姿をその眼に捉えた。

  その男は、自身が先程まで愛の言葉を囁いていた少女の右隣に、まるでさも居るのが当たり前という風に立っていた。

  突然与えられた痛みに妖怪は怒りを露にする。

 「てめえっ! いきなり何しやがるっ!」

  目に見える怒りを、突然現れた男はさらっと無視して早苗に声を掛けた。

 「大丈夫か早苗? 早苗のピンチを知った俺は、急遽とんずらを使って駆けつけた訳なんだが?」

 「は、はい大丈夫です。ありがとうございます●●さん」

  青年の登場に早苗は顔を綻ばせた。

  其処にさっきまでの困窮感は無く、在るのは安心のみであった。

  その顔を見た●●は、少女の真似をする様に口元を若干吊り上げた。

 「無視してんじゃねええええええええっ!!」

  自身の発言を綺麗に流された事に妖怪は更に怒りを募らせた。

  ●●は叫び声の大元を横目で見ると、舞台監督が役者を降板させる場面の口調で告げた。

 「まだ居たのかお前。もう帰って良いぞ、これから身の程知らずの妖怪に傷付けられた嫁の心を癒す系の仕事があるので」

  空気を読んでくれませんかねぇ、と視線を送る。

  言外にお前の出番は無いと言われた事に、妖怪は怒りを燃え上がらせた。

 「何なんだてめえ!! 早苗さんと一体どうゆう関係だ!!」

  訴える様にして指を突きつける。

  青年はその指摘に対し……

 「どうゆう関係って……」

  少女の左肩を包み込む様にして抱いた。

  彼の突飛な行動に早苗は最初驚いたが、直ぐに嬉しさが勝っため、黙って素直に従った。

 「こんな関係ですが、何か?」

  そして青年は左手で少女の肩を抱き締めると、小指だけ立たせた右手を妖怪の男に向け、これでもかと見せ付けた。

  瞬間、後ろの方から小さな歓声が上がった。

  戸口から顔のみ出していた二柱は小声で、ウチの●●と凡妖怪では性能の違いは明らか、ハーレムを作った男に隙は無かった、等と囁き合っている。

  会話が聞こえているのかいないのか、事実を吐き付けられた妖怪は口をあんぐりと開けて呆然としていた。

  焦点の合っていない赤い瞳に映っているのは、見知らぬ人間に肩を抱かれ、頬を桃色にしながら嬉しそうにはにかんでいる少女。

  それは彼にとって悪夢以外の何モノでも無かった。

  故に、彼の脳は目の前の現象を信じられずに居た。

  ぐらついた思考回路を使って考える。

  何だこれは?

  何で突然現れた人間の男が、俺の早苗さんの肩を抱いているんだ?

  何で俺じゃないのに彼女はあんなに嬉しそうなんだ?

  歪んだ感情で、歪んだ思考で。

  彼は只管に何故を繰り返す。

  何で俺じゃないのに……

  何で俺の早苗さんは……

  何で? どうして?

  何で何で何でなんでなんでなんでどうしてどうしてどうして!?

  暴走する歪みきった愛情が彼の中で一つの答えを出す。

  歪んだ全ての果ての、更に果て。

  自己中心的な者特有の、客観的視点を徹底的に排除した主観の成れの果て。

  そういった者が最後に出す結論は、独りよがりで自分勝手な脳内補正と総じて決まっていた。

  妖怪の脳裏に映ったのは、自身の最愛の少女を奪い、自分を見下す様に笑う人間。

  そうか、この男か。

  コイツが俺の……

  妖怪は淀んだ瞳で青年を睨みつけ、言った。

 「お前が……お前が俺の早苗さんを、誑かしたんだな?」

  呪う様な物言い。

  妖怪の変化に、●●は台風が来るのを楽しみに待つ子供の様な気分になった。

  気さくな口調で妖怪に話を返す。

 「誑かしたとは失礼な。俺達の関係は、両想いという名の犯罪性の全く無い繋がりなんですがねぇ?」

  何処かの誰かさんと違って。

  中てる様に言って、彼は早苗を抱き寄せる。

  少女は抱かれたまま、青年に不安を耳打ちをした。

 「●●さん、今の言い方はちょっとマズいんじゃ……」

 「いいから」

  進言した少女に●●は手短にそう返すと、じっと妖怪を見つめる。

  爛々としている青年の瞳の意味を、早苗は正しく理解出来ていなかった。

  場の変化は、後ろに控えていた神達も感じていた。

 「なんだいなんだい、急に雲行きが怪しくなってきたじゃないか」

 「うん、コレはまだまだ終わりそうも無いね」

  突如として澱み始めた空気に神奈子は眉を顰める。

  怪訝そうな彼女に対して、何故か諏訪子は心なし楽しそうであった。

 「ちょっと諏訪子、貴女なに楽しそうに言ってるのよ。ちょっとアレはヤバい雰囲気じゃない?」

 「神奈子は心配性だね~。そんなに心配しなくても大丈夫だって」

  文句を言う友神を軽くあしらいながら、諏訪子は渦中を見やる。

  濁った空気の中でも泰山の如く揺るがない想い人の背中を見つめながらぽつり。

 「●●はホント、イベントに事欠かないね~」

  その言動は退屈を持て余す神そのものであり、また、彼に寄せる信頼の表れでもあった。

  さてさて、今日はどんな事が起こるのかなぁ。

  プレゼントの内容を想像する子供みたいな気持ちで愛する男を眺める。

  期待と不安と心配を寄せられている青年。

  彼がこの後発した言葉は、彼女達にとって予想外にも程があった。

  妖怪は尚も青年を睨みつけていた。

  時間と共に比例してゆく視線の鋭さは、既に呪い殺さんばかりである。

 「お前が、お前が全部悪いんだ……お前が俺の早苗さんを……」

  うわ言の様に同じ言葉を何度も繰り返す。

  そうする事によって、身の内に潜む殺意を捻出しているのか。

  妖怪は壊れた機械のように繰り返す。

 「お前が……お前が俺の早苗さんを…………お前が俺の……」

  その様に、早苗は全身に脅えを感じた。

  自身に向けられる狂った愛情は、彼女にとって到底耐え切れるモノではなかった。

  肩が震え、手の先が冷たくなる。

  怖い、恐い、こわい。

  此処から逃げ出したい。

  恐怖に駆られた少女は、無意識の内に自分を抱き締めている青年の服を縋る様に掴む。

  少女の行動に彼は何も言わずに、ゆっくりと口角に深い笑みを刻み、そして口を開いた。

 「ほう、見事な殺意だと感心するが何処もおかしくないな。そんなに俺が憎いか?」

  青年の問いに妖怪は溜まった情念を発散する様にして叫んだ。

 「お前が全部悪いんだ! お前が俺の早苗さんを……俺の早苗さんを誑かして奪ったんだ! 俺のモノを奪ったんだ! 俺の! 俺の……っ!」

  溜まりに溜まっていた自分勝手な妄想を、狂気を同伴させて喚き散らす。

  決して受け止められる事の無い、一歩通行の愛。

  その妄言を、●●は笑みを浮かべながら聞いていた。

  妖怪を見る彼の表情は、まるで子供の癇癪を見守る親の様であった。

  やがて想いの丈を吐露し終えた妖怪が黙る瞬間を狙って、彼は遊びに誘う様に言った。




 「なら俺と、勝負でもすっか?」




 「…………あぁ?」

  最初、妖怪は彼の言った事を理解出来なかった。

  瞬きを何度か繰り返す。

  内に秘めた想いを存分に出し切ったせいか、その瞳に宿っていた狂気は、幾分か和らいでいた。

  直後、廊下の奥で固い音が二連続で発生したが、彼等は気付かなかった。

  理解に至らない妖怪に、●●は教えた。

 「言葉で納得出来ないんなら、もう腕ずくしか無えだろ? なら喧嘩だよ、喧嘩。惚れぬなら、奪ってみせよう守矢の巫女……ってな」

  彼はそう言い終えると片目を閉じ、すっと右腕を突き出した。

  妖怪は出された右拳を見ながら、男に言われた事を反芻した。

  腕ずく。

  決闘。

  奪う。

  守矢の巫女。

  理解を深めていくと共に、妖怪の顔面に野生が浮かび上がってくる。

  ……と、別の方向から声が上がった。

 「何考えてるんですか●●さん! そんな事しちゃ駄目です!」

  悲痛な声で制止を訴えるのは東風谷早苗。

  言いながら彼女は青年の右腕を降ろそうとする。

  だが突き出された右腕は彼女がどれだけ力を込めても、まるで其処に固定されたかの様にびくともしなかった。

  必死な形相の彼女に、彼は飄々と言った。

 「はいはい、早苗は少し静かにしてるよろし。今から勇者と魔王の戦いが始まるから、お姫様は大人しくしててプリーズ」

  茶化した青年の態度に、早苗は口調を荒げた。

 「ふざけないでくださいっ! そんな喧嘩だなんて、人間の●●さんが妖怪に勝てる訳無いじゃないですかっ!」

 「自分の事を棚に上げる巫女が居た! まあいいからいいから、テリーを信じて~…………で、どうするよ?」

  少女の至極真っ当な抗議をそこそこに切り上げ、●●は妖怪に是否を問い掛ける。

  妖怪は二三度を瞼を開閉させると、深く頷いた。

 「いいぜ、やってやる。決闘だ」

  快い快諾の言葉に、●●は楽しそうな顔を作った。

 「おっ、話せるねい。流石妖怪、荒事はお好きみたいですな」

 「それで、何をするんだ?」

  青年の軽口を無視して妖怪は尋ねる。

  求めているのは形式、ルール内容であった。

  妖怪の質問に●●は何を今更という口振りで答えた。

 「喧嘩なんだからルール無用の殴り合いに決まってんだろ? まあ決着の判断としては、相手が参ったと言うか気絶するまで、って感じで」

  説明された内容に、妖怪の眼が鈍く光った。

 「弾幕は?」

 「男の戦いに飛び道具なんか必要ナッシング! というか使えないからパス! 人間と妖怪なんだから、そんぐらいハンデとしてくれても良いよな?」

 「いいだろう」

 「サンキュー。んじゃ、そんな感じでやりますか!」

 「ああ」

  そして最後の言葉を合図に、妖怪を先頭にして二人は玄関の外へと出て行った。

  妖怪は淡々と足を動かし、●●はわくわくとスキップ調で。

  二人は境内へと歩を進める。

  跳ねる様に歩く青年の背中を、争いの渦中に居た巫女は焦り顔で追いかけ。

  その後ろを、額を涙目で押さえる二柱が駆け足で追った。

  境内へと移動しながら妖怪は、己のすぐ後ろを歩く青年を胸中で侮蔑した。

  馬鹿が。

  弾幕も撃てない只の人間が俺に、妖怪に敵うとでも、本気で思っているのか。

  だというなら呆れるなと妖怪は思った。

  幻想郷での人間は(極一部を除いて)圧倒的に弱者であり、逆に妖怪は強者である。

  それはこの世界に住む者ならば、常識と呼んでも良いモノだ。

  人間は妖怪に喰われ、故に人間は妖怪を恐れる。

  ならば……

  それを今此処で、実証してやろうじゃないか。

  妖怪は口の形を醜く歪め、鋭い牙を剥き出しにする。

  出来上がった歪な吸気口から、細い音を立てて空気が漏れ出た。

  一時なりを潜めた狂気が再び湧き上がり、妖怪の内外を余す所無く覆い始める。

  圧倒的に、徹底的に。

  思う存分にこの人間を殺し尽くす。

  終わった後には骨も残さない。

  妖怪は青年を生かすつもりなど毛頭無かった。

  そうする事で最愛の少女が手に入ると。

  疑う事無くそう思っていた。

  待っててくれ早苗さん。

  もうすぐ君を俺のモノに出来るから。

  彼等の本質とも呼べる狂気に身を埋める。

  少女への歪んだ愛情に溺れる。

  だから気付かなかった。

  妖怪は最前列を歩いている。

  だから気付けなかった。

  スキップながらに境内へと向かう青年。

  楽しげに肩を弾ませる彼の顔が、目前の妖怪等比較にならない程、醜悪に歪んでいた事に。










  そして時間は戻り、舞台は再び境内へ。

  以下の経緯を経て戦いの場へと降り立った人間と妖怪と、それを見守る少女達。

  場を流れるは緊迫した空気と一方的な戦闘意識。

  いまや境内は、彼等二人のための闘技場へと変貌を遂げていた。

  戦闘開始の合図が仕掛け人である●●の口から出されて数分。

  舞台の主役となった二人は、未だどちらも動いてはいない。

  互いに充分な距離を取ったまま、相手に視線を添えている。

  引っ張られた弦の様に全身に力を溜め、放たれる瞬間を待っている。

  ……のは、妖怪だけであった。

  緊迫した空気を発しているのも、闘争心を剥き出しにしているのも、妖怪だけ。

  人間●●の方はといえば、開始直後に取り出した煙草を暢気にふかしているのみ。

  自分から言い出したというのに、彼からは戦闘意欲の欠片も感じられなかった。

 「ふぃ~~……」

  眼を細め、肺に入れた紫煙を上空にばら撒く。

  空気中に散布されたソレは、青空へと溶けてゆき、やがて姿を消した。

  消え去るのを見届けた後、●●は視線を相手へと戻す。

 「で、いつ掛かってくるんだ? 早くしないと陽がくれちまうんですけども」

  呆れ顔の●●に妖怪は何も答えず、代わりにじとりとした視線を返した。

  粘つく様なソレに、彼は外国人ばりのリアクションをお返しする。

 「ワーオ。やる気は満々なのね。ならさっさと来てプリーズ!」

  煙草を口に咥えながら、ヘイカモーンと誘う様に両手を振る。

  けれど妖怪は何の反応も示さない。

  開始直後に取った行動は前傾姿勢だけ。

  合図と同時に吸い始めた煙草は、既に七割近く減っている。

  一向に攻めてくる気配の無い相手に、青年は辟易した。

  思わずして呆れが鬼なってしまう。

  退屈そうに煙を吐き出しながら彼は呟いた。

 「も~つまらんの~。な~にを躊躇ってるんだか。早苗を自分のモノにするんじゃなかったのかよ~う」

  それは何気無しに言った言葉。

  しかしそれは相手に取っては発火剤であった。

  瞬間、妖怪の内側からドス黒い気配が溢れ出した。

  ダムが決壊したかの如く大量に噴出したソレは、覆い被さるようにして●●を襲う。

  ソレはヘドロみたいにドロドロとした、殺意という名の激情。

  後ろ髪が逆立つのを感じながらも●●は、嬉しそうに追撃を重ねた。

 「おぉ、こわいこわい……マジでぶっ殺す五秒前って感じですな。そんだけ早苗への愛は凄かった……って事ですかねぇ?」

  おどけた調子で言う●●に、妖怪は小さく、けれどハッキリとした口調で返した。

 「殺してやる」

  それは明確な意志、明瞭な殺人予告であった。

  言ってから妖怪は深く腰を落とし、更に前へと屈んだ。

  肉食獣が獲物を狩る時の様な姿勢。

  鋭い牙が両端から突き出す。

  ぎちりと、歯と歯が擦れ合う音が鳴った。

 「お前を殺せば……早苗さんは、俺のモンだ」

  眼を血走らせて己の欲望を発する。

  殺害の対象とされた青年は、相手の感情が混沌とする様に満足すると、徐に視界を少女達へと向けた。

  傍観者となっていた三人の少女達は、二人は不安、一人は信頼を込めた視線を青年に送っている。

  その意味を充分に理解している青年は、少女達に向かって陽気な声で叫んだ。

 「お前等見てろよ~? 一撃で終わらせてやっからな~?」

  不敵な笑みを浮かべながら少女達に軽く手を振る。

  無知過ぎるとしか思えない青年の軽快な勝利宣言に、少女達は其々表情を変えた。

  神奈子は苦笑いをし、諏訪子は期待を込めた頷きを返す。

  事象の原因である早苗も、青年の明る過ぎる言葉にほんの少しだけ微笑を浮かべた。

  そして少女達が未だ手を振り続ける想い人に何か言い返そうとした時……

  獣は解き放たれた。

  両脚に極限まで溜め込んだ力を解放させ、爆発させる。

  地面を滑る様に移動し、コンマで対象の懐へと辿り着くと同時に左足を一歩前に踏み込み、回転させ、発生した力を上半身へと送る。

  流れ込んでくる力を右肩から右肘へとポンプで注入するみたく送り、そしてそれは終着地点である右拳へと向かう。

  そして渾身の力と完全な殺意と歪曲した狂気を込められたソレは。

  憎しみの元凶である人間の腹部へと、吸い込まれる様に、貫く様に、綺麗に、鮮やかに、轟音を立てて。

  すっぽりと型に填まる様に収まっていった。

  一撃。

  正に一撃であった。

  妖怪の渾身に人間が到底耐え切れる筈は無く。

  衝撃に青年の身体はくの字に曲がり、数センチだけ宙を彷徨った。

  一秒にも満たない時間の空中浮遊の後、着地した彼の身体を襲ったのは激痛。

  外部からの衝撃は内臓を直撃し、多数の器官を蹂躙する。

  そして内部の被害状況は彼の喉元から口内、そして口外へと吐き出された。

  食い縛った唇が一気に膨張して数瞬後。

  ごぽりと、真っ赤な鮮血が彼の口から溢れ出した。

  血液の総量は、複数箇所の内臓器官が破壊された証明であった。

  何本もの真紅の線が、青年の顎に軌跡を残しながら地上へと落下する。

  やがて最初の一粒が地面に接触し、紅い華を咲かした頃。

 「いやああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

  切り裂かれるような少女の悲鳴が、上がった。










  まるで発狂した様な、金切り声に近い悲鳴を上げたのは早苗であった。

  彼女の双眸に映されているのは、折れそうな程に身体を曲げ、止め処無く血を吐く、自身の愛する青年の姿。

  目の前で起こった現実を認識したくないのか、両頬に手を当てながら首を左右に振る。

  顔は狂相に近かった。

  大きく見開かれた両の眼からは大粒の涙が零れ出ている。

 「冗談、でしょう……?」

  呆然とした様子で神奈子は口を開いた。

  早苗に比べると、精神の動揺は表に出ていない。

  けれど内面部分の彼女は、みっともなく焦り、狼狽し、早苗に釣られて泣き出しそうであった。

  歯を食い縛ってその感情を抑え、そして自身を叱責する。

  どうして止めなかったのか。

  相手は妖怪なのだ、人間の彼が勝てる筈無いじゃないか。

  怒りは青年を止めなかった自分自身に。

  事態を軽く見ていた数分前の己に殺意さえ抱きそうになる。

  しかし今は……

  違う、今はそんな事を考えている場合じゃない。

  そんな事より優先すべき事が彼女にはあった。

  巫女と神が青年の下へと駆け出そうとしたのは、ほぼ同時であった。

  神奈子はこの争いを止めさせるため。

  早苗は衝動的に。

  自身の愛する青年を救うため、彼女達は彼等の元へと足を踏み出す。

  それを諏訪子は片手で制した。

  矢先に現れた横槍に、二人は声を荒げた。

 「邪魔です!!」

 「退きな諏訪子!!」

  怒号に近い声。

  諏訪子は二人に背を向けたまま、静かな声で返した。

 「まだだよ。まだ終わってない」

  冷静に事実を告げる彼女に、二人は驚愕した。

  そしてそれはすぐさま激昂へと変わる。

 「何言ってるんですか諏訪子様っ!!」

 「正気か諏訪子!? このままだと●●が死ぬかもしれないのよ!?」

 「●●は、まだ終わらせるつもりは無いみたいだけど?」

  諏訪子はしれっと答える。

  あっさりとした友神の言葉に、神奈子は絶句した。

  何故この状況でそんな発言が出来るのか。

  友神の真意は、背中からは読み取れなかった。

 「そんなの関係ありませんっ!!」

  制止を無視して早苗は駆け出した。

  その手を諏訪子が掴んだ。

 「離して下さいっ!!」

 「駄目」

 「諏訪子様っ!!」

 「大丈夫だから」

 「でもっ!!」

 「●●を信じなさいっ!!!!」

 「っ!?」

  響き渡る怒鳴り声。

  沈痛さを内包した声色に、早苗と神奈子は其処で漸く諏訪子の内外を見た。

  射殺さんばかりに妖怪を睨みつける眼差しを。

  喰い千切りそうな程に唇を噛み締める姿を。

  制止した手とは逆の手を、血が出る程に握り締める様を。

  そうまでなってしても、自分が愛する男を頑なに信じ続ける心情を。

 「諏訪子様……」

 「諏訪子……」

  その在り方を見て、二人は何も言えなくなってしまう。

  搾り出す様に諏訪子は言った。

 「大丈夫、きっと大丈夫だから」

 「……はい」

 「……ええ」

  二人は静かに頷き、そして渦中に目を向けた。

  きっと大丈夫。

  果たしてそれは、誰に当てたモノだったのか。

  考えることもせず、二人は祈る様にして手を組んだ。

  少女達の願う事は唯一つであった。

  縋る様な瞳で青年を見つめる。

  そしてその願いに応じる様にして……

  青年の右腕は、天高く突き上げられた。










  妖怪は勝利を確信していた。

  青年の腹部を突き上げる様にして殴り込んだ体勢のまま、自身の圧倒的勝利を確信する。

  余りにも呆気無い決着に、自然と口元に笑みが浮かんでしまう。

  己の拳から伝わる鼓動は弱々しく、今にも消えそうであった。

  時折びくんと痙攣する青年の肉体。

  ごぽごぽと泡を吹く血液。

  先程の吐血量から推測して、保ってあと数分といったところだろう。

  どう足掻いても自分の勝利は間違い無い。

  その事実が妖怪の狂喜を更に増幅させる。

    大量に分泌する脳内麻薬による異常な興奮。

  今にも笑い出しそうになりながら、妖怪は脳内で青年を罵倒した。

  馬鹿が。

  何が勝負だ、何が喧嘩だ。

  俺は妖怪だぞ?

  只の人間が勝てる訳無いだろうが。

  雑魚が、糞が、屑が。

  人間の分際で俺の女に手を出した報いだ、迷う事無く死ね!

  頭の中で自分以下の生物を徹底的にコケにする。

  気分はとても晴れやかだった。

  何故ならこの人間はもうすぐ死ぬから。

  笑い転げそうな程に気持ちが良い。

  何故ならもう障害は何も残っていないから。

  今なら頭を抉っても笑えそうだ。

  何故ならこれで彼女は自分のモノだから。

  そう、妖怪は勝利を確信していた。

  絶対に揺るがないと。

  覆らないと。

  頑なに信じきっていた。

  そう……




 「バーカ」




  聞こえる筈の無い声が。

  自身の思考、精神、存在、それ等全てを嘲る様な。

  悪魔の嘲笑が、己の耳元に届くまでは。

  そして妖怪は降りかかった言葉の意味を考える間も無く。

  突如として背中に与えられた尋常では無い霊力を理解する間も無く。

  地面に強制的にへばり付かされ、めり込まされた。

  打撃音と炸裂音と衝撃音が妖怪の鼓膜に警鐘の如く鳴り響き、強烈な痛みと痺れが背面部から全身へと広がってゆく。

  雷にうたれた様な痛みを載せたレーシングカーが火花を撒き散らしながら痛覚神経というコースを何度も何度も巡回する。

  眼の裏で星が忙しく点滅し、頭の奥がぐらぐらと揺れる。

  朦朧とする意識の中、妖怪の脳裏に浮かんだのは否定だった。

  嘘だ、こんな事は有り得ない。

  コイツは瀕死の筈では無かったのか。

  壊れかけのデッキで記憶というビデオテープを再生させる。

  罅割れた画面に映し出されるのは、ほんの数秒前の相手の姿。

  全身を痙攣させ、血反吐を吐く。

  絶命間近は確定事項、故に自身の勝利は明らかだった筈。

  だというのに、どうして……

  妖怪は混乱しながら途切れかけの意識を活動させ、それを稼動のための動力へと変えた。

  残された力を振り絞り、顔の上半分だけを地面から引き抜く。

  そして妖怪は見た。

  霞がかった視界の先でさえくっきりと映る。

  暗闇の中で血の涙を流す、真紅の三日月を。

  捉えた瞬間、妖怪は不意に見知った感覚に囚われ、そして其処で意識の限界を迎えた。

  完全に手放す刹那、三日月はぐにゃりと形を変え、言った。

 「人間様を舐めんなよ?」  










  相手が完全に意識を失うのを確認、戦闘続行不可能と断定した後。

  ●●は左手で口元の血を拭ってから胸ポケットを探って煙草の箱を取り出し、その内の一本を口咥え、そして火を点けた。

  深く煙を吸い込み、有害物質類を肺の中に過不足無く充満させる。

  やがて行き渡ったのを自覚すると、大きく吐き出す。

  勢い良く紫煙を出した後、彼は右手をズポンのポケットにしまってから少女達の方へと歩き始めた。

  ゆっくりとした歩調で歩く。

  途中で軽く欠伸をし、眼を瞬かせた。

  のらりくらりとした動きで進む。

  到着が待ち切れなかった緑髪の少女は自ら駆け出し、そして青年へと抱きついた。

 「おおぅ、これは嬉しいお出迎え~!」

  感嘆の声を上げながら少女の軽い身体を難なく受け止める。

  早苗は青年の胸元に額を摺り寄せると涙声で叫んだ。

 「●●さんの馬鹿っ!」

  思いも寄らぬ罵声に●●は顔をへたれさせる。

 「おいおい、しょっぱなから馬鹿って酷くね?」

 「馬鹿に決まってるじゃないですかっ! あんな無茶な事やって! 本当に馬鹿じゃないですかっ!」

  顔を胸元に埋めたまま、青年を心のままに叱咤する。

 「死んじゃったらどうするんですか! ●●さんは只の人間なんですよ!? 私達とは違うんですよ!? ●●さんに何かあったら私、私は……」

  最後に近付くにつれ、小さくなってゆく少女の声。

  ●●は黙って早苗の頭に手を置くと、優しく、幼子にするようにして撫でた。

  掌の温かさに少女が顔を上げると其処には太陽の笑顔。

  笑顔の主は濡れた瞳を見つめて言った。

 「なっ? 一撃だったろ?」

  一級一般人の俺が貧弱妖怪に遅れを取るはずが無かったですな。

  後に続けてから可笑しそうに笑う。

  それだけで、そのいつもの笑顔だけで。

  彼女の心の霧は綺麗に晴らされてしまった。

  青年の背中に手を回し、慈しむように抱き締める。

 「本当に……心配、したんですから…………」

 「心配性だなぁ早苗は。俺を誰だと思ってるんだ? ハーレム王に隙は無ぇ!」

 「何言ってるんですか、もう……」

  いつも通りの可笑しな発言に、呆れたような言葉を返す。

  今の早苗にはそのいつも通りが、心を落ち着かせるための特効薬であった。

  暫くそのままでいた後、●●が口を開いた。

 「んじゃ、カナちゃんと諏訪子のところに行くか」

 「そうですね。お二人も随分心配してましたから、早く安心させて下さい」

 「あいよ~」

  互いに笑い合ってから二人の下へと向かう。

  十数歩の距離を歩いた●●と早苗を出迎えたのは、帽子を深く被った諏訪子と。

  あんぐりと口を開け、放心状態で突っ立っている神奈子であった。

  異様な状況の二柱に早苗は驚くが、●●は気にせずに、自分と距離が近い神奈子に声を掛けた。

 「どったのカナちゃん? そんなオンバシラが大人のオモチャにでもなったみたいな顔して」

  場を和ませる様に言った(本人はそう思っている)言葉に、神奈子は何も反応を見せない。

  まるで心此処に在らずといった表情を見た●●は口を尖らせると、左手の人差し指で彼女の頬を突付いた。

  ぷにぷにとした感触が指先に伝わる。

  十回程突付いた頃、漸く神奈子は大きく開けていた口から呼吸以外のモノを吐き出した。

 「あ、貴方……」

 「おっ、やっと返事を返したか。俺が勝つ瞬間、見ててくれたか?」

  楽しそうな青年を、神奈子は信じられないと言わんばかりの目つきで見つめ、言った。

 「貴方、身体は大丈夫なの!?」

 「身体? 別にそこまで問題は無いぞ?」

 「そんな筈無いでしょう!? 相手は下等とはいえ、妖怪には変わり無いのよ!?」

  驚愕しながら言葉を発する。

  彼女の言葉は、正に正論であった。

  そう、妖怪は人間を襲うモノ。

  人間を襲って喰らい、蹂躙する、捕食者的存在。

  その条件上、妖怪の身体能力は人間と比べるまでも無い程に高い。

  腕力一つ取っても歴然の差がある。

  そして彼は、妖怪の渾身の力を込めた一撃をその身に受けた。

  只の人間である●●が、妖怪の全力を。

  故に神奈子の驚愕の原因は其処に在った。

 「私達なら兎も角、只の人間の貴方が、どうしてそんなに平然としてるのよ!!」

  疑惑と混乱を交えた感情で青年を問い詰める。

  その問いに青年は不思議そうな顔付きで答えた。

 「あら? 言ってなかったっけ?」

 「何を!?」

 「まあいいや、ネタバレをするとだな……」

  言いながら●●は左手で服のボタンを素早い動作で外していく。

  あっという間に全部のボタンを外し終えると、次に彼は肌着のTシャツを裏側を見せる様に捲った。

  黙ってその様を見ていた神奈子は、露になった青年の傷一つ無い腹部に驚き、Tシャツの裏側に縫い付けられているモノを見て目を剥いた。

 「こ、これは……」

 「護符……ですか?」

  神奈子の言葉を拾った早苗が後を続ける。

  口を出すタイミングが掴めず、黙って成り行きを見守っていた彼女だったが、Tシャツの裏側に在るモノを見て思わず言葉を出してしまった。

  Tシャツの裏側に縫い付けられていたのは護符であった。

  それも一枚や二枚ではない。  

  何十枚もの札がびっしりと、前面部を覆う様にして縫い付けられている。

  きっと後背部にも縫い付けられているであろうソレ等には、高位の魔法陣や梵字などが描かれており、一枚一枚に膨大な魔力が込められていた。

  二人は険しい表情で大量の護符を見つめる。

  魔術に余り詳しく無い神奈子と早苗には、どのような効果が有るモノなのかまでは判断出来無かった。

  難しい顔の二人に、●●はしたり顔で言った。

 「見事な治療用護符だと感心するが何処もおかしくはないだろ?」

 「治療用護符、ですか?」

  早苗は小首を傾げる。

 「おう。範囲内の肉体に一定以上のダメージを受けると回復してくれんだ。痛いけど便利だぞ?」

 「どうして●●さんがそんなモノを?」

 「この間、紅魔館に行った時に魔理沙とアリスとパチェが、俺はいつも危険な事をするから御守り代わりにってくれたんだ。御丁寧にTシャツの裏に縫い付け済の状態で」

 「Tシャツに縫い付けて、ですか……」

 「うむ、何でも三人の合作らしいな。いや~、Tシャツでくれたお陰で助かったわ。護符だけなら絶対持ってこなかっただろうし、マジで嫁達に感謝です!」

  やはり持つべき者は嫁ですなと笑いながら、●●は捲り上げたTシャツを元に戻す。

  能天気に笑う彼を、早苗は半眼で見つめながら内心で溜息を吐いた。

  呆れ顔でTシャツに目を向ける。

  護符と同様に手作りであろう、シンプルなデザインの白いTシャツ。

  効果を少しでも強くするために肌着用にしたであろうソレ。

  その右胸部分には、一目で誰の作品か分かる様に、星と月と小さな人形のワンポイントが拵えてあった。

  きっとコレが彼女達にとって、最低限の譲歩だったのだろう。

  ●●さんって、変なところで鈍感なんですよねぇ……

  素直じゃない魔女達の気持ちを何も分かっていない青年の代わりに、早苗は心中で彼女達に同情をしておく事にした。

  巫女の同情の時間が終わると同時に、神奈子はすとんと地面にへたり込んだ。

 「は、ははは……それならそうと早く言っておくれよ……」

 「ど、どうしました神奈子様!?」

  うろたえる早苗に、神奈子は泣き出しそうな顔で答えた。

 「こ、腰が抜けた……」

 「はい?」

 「あ、あはははははは…………」

  泣き笑いのような顔で乾いた笑い声を上げる。

  その顔には、先程●●を問い詰めていた時の緊迫感は微塵も残っていなかった。

  其処に在るのは愛する男が無事だった事を喜ぶ気持ちだけ。

  本音を告げれば、彼女も素直に想い人の生還を喜びたかったのだ。

  だが現実を良く知っているが故に、彼女は目の前で起こった現象を信じる事が出来なかったのである。

  しかしそれも蓋を開ける前の話。

  手品の種を知った後の彼女に、内に秘めた安堵を我慢する理由は無かった。

 「良かった……本当に良かったよ……」

 「神奈子様……」

 「いやはや、何やら心配掛けたみたいですな。う~ん、やっぱ俺って愛されてるぅ!」

  内情を吐露する神奈子に●●はおちゃらけた様子で返す。

  煙草を咥えながらニヒルっぽい顔を作る青年を見て、神奈子は安心を示すように小さく笑った。

 「やっぱ女の子は笑顔が一番ですな…………んで、っと」

  微笑み返す彼女に満足すると、●●は最後の報告をするため視線を動かした。

  移動した視線の先に映ったのは、もう一人の神様。

  ●●が戻って来てから今まで、彼女は一度も言葉を発していなかった。

  最初から現時点までの間中ずっと、帽子を深く被り、その場に立ち尽くしている。

  おかしさに気付きながらも、青年は少女に声を掛けた。

 「さっきからずっと黙ってるけど、どうしたんだ諏訪子? 俺の格好良過ぎる勝利シーンに惚れ直しちまったのか?」

  少女は彼の言葉に一度肩を震わせると、帽子を深く被り直して歩き始めた。

  黙々と青年の下へと進む。

  帽子のため、身長の低さのため、表情は伺えない。

  言葉を失ったまま少女は歩き続け、やがて青年の一歩手前で立ち止まった。

 「おいおい、ホントにどうした? 何か嫌な事でもあったか?」

  いつもと違い過ぎる少女の動向に、●●は微量の困惑を見せる。

  少女は黙ったまま、ずっとズボンのポケットに突っ込んでいる青年の右手首を左手で強く掴んだ。

 「ぁづっ!?」

  突如与えられた刺激に、●●は身体を跳ねさせた。

  右手から這い上がってくる何かを耐える様に、顔を苦痛に歪ませながら片目をきつく閉じる。

 「●●さん!?」

 「ちょっと諏訪子、貴女何してるのよ!」

  怒鳴る友神を無視して、諏訪子は青年の右手を掴む力を緩め、残った自身の右手を添える。

  そして優しく、壊れ物を扱う様に繊細な動作で、一切の刺激を感じさせない様に、青年の右手をズボンのポケットから引き抜いた。

  抜き出された彼の右手を見て、早苗と神奈子の二人は言葉を失くした。

  現れた青年の右手は、最早手と呼べるモノでは無かった。

  全ての指は其々が有り得ない方向に折れ曲がっており、爪は全部根元から剥がれ、手の甲は一面が重度の火傷で覆われている。

  血は一滴も出ていないが、それは焼かれた際に蒸発した為であろう。

  最も損傷が激しいのは掌であった。

  全面が手の甲等比較にならぬ程に焼け焦げており、一部が炭化している。

  最早彼の右手は、手としての機能を完全に失っていた。

  惨状に、早苗と神奈子は息を呑み込む。

  五体満足と思っていた青年の右手の、余りに惨過ぎる状態に、二人の顔は青褪めていた。

  諏訪子は未だ黙ったまま、両手で包み込む様にして持っている青年の右手を見つめ続けている。

  破損した右手の持ち主は、悪戯がバレた子供の様な声で言った。

 「あ~らら、バレちまってたか。いや~、流石に零距離霊撃は厳しかったみたいでなぁ」

  右手の現状等、まるで気にも止めていないといった風に言うも、少女達は何も返さない、否、返せなかった。

  霊撃。

  御札に自身の霊力を込め、解き放つ巫浄の力。

  妖怪等の人外の類に絶大な効力を発揮する退魔の技。

  霊力を持つ人間ならば誰でも使えるモノでは無いため、その使用者は限られている。

  当然修練も素養も無い、只の人間に使用出来る筈も無い。

  しかし、物事には何事も例外が存在する。

  脆弱な人間が膨大な霊力を扱えるという例外。

  それは予め発動分の霊力を御札に込めておき、念を込めると発動という、抜け道的な発想。

  此度の彼は、その例外を使ったのであった。

  博麗霊夢から護身用にと貰った御札を右手に巻き付けて、相手に叩き付けるという力技。

  無理矢理な使用方法でも博麗の力は絶大であり、結果、彼は一撃の名の下に相手を沈めた。

  だが、只の人間が膨大な霊力をノーリスクで使用出来る筈が無い。

  利益には代償が不可欠である。

  それは彼自身も予想していたし、覚悟もしていた。

  寧ろ右手の形が残っただけ幸運だと思っていた。

  故に彼は、この現状に余り動じていなかった。

 「博麗印の御札で霊撃張り手。俺的には良い案だと思ったんだけどな~」

  明るく言ってみせるも効果は無し。

  蒼白になった二人の姿に、●●は口をへの字にして、さてどう振舞ったものかと考える。

  そんな彼の傷塗れの右手を、諏訪子は自身の頬へと当てた。

 「おおぅ?」

  不意に感じた柔らかな感触と温もりに●●は控えめな驚きを上げた。

  諏訪子はそれに構わず、頬に当てた右手を両手で愛しく撫でた。

  慈しむ様に、癒す様に、少しでも痛みが紛れる様に。

  ボロボロになった愛しい男の右手を、柔らかな頬と小さな両手で包み込む。

 「あの~……諏訪子さん?」

  少女の突然の行動に●●は戸惑いを露にする。

  しかし諏訪子は答えず、只管に彼の右手を優しく包み込んでいた。

  そうして幾秒か過ぎた後、顔を上げて彼女は言った。

 「私ね、●●の事を信じてた。絶対、絶対大丈夫だって!」

  青年の瞳を一直線に見つめる。

  真っ直ぐなその瞳の目尻には、仕舞い損ねた悲痛が残っていた。

 「だから、何が有っても信じてたよ?」

  何かを食い縛る様にして少女は想いを告げる。

  話す毎に、心の箍が外れてゆくのを諏訪子は感じていた。

 「だから、心配なんて少しもしなかった……」

  彼女はそれを懸命に縛り付ける。

  しかし隙間から漏れ出して、彼女の目元に熱い液体を作った。

  じわりと視界の端が滲む。

 「だから……だからね…………っ」

  言葉が詰まる。

  歪んでゆく視界の中で言葉を紡ごうとするも、暴れ出す感情がそれを邪魔をする。

  最後の言葉を必死に出そうとするも、喉が震えて声が出ない。

  青年は少女の目線まで腰を下ろすと後押しをする様に、穏やかな声で続きを促した。

 「続きを聞かせてくれねえか?」

  そして彼はこの上無く優しく微笑んだ。

  もう諏訪子は耐えられなかった。

  始まりから今迄必死に堪えていた激情が解き放たれる。

  鎖は引き千切られ、抑えていた想いが激流となって流れ出し、彼女の顔面を崩壊させる。

  始まる時の気楽なモノでも、早苗と神奈子を制止した時のモノでもない。

  神でも何でも無い、ちっぽけな一人の少女。

  ぽろぽろと珠の様な涙が零れ出す。

  嬉しさと安堵が絡まりあって上手く喉が回らない。

  けど、それでも。

  それでも、少女は何度もえづきながら、最後に一番伝えたかった言葉を。

 「今度、は……っ。私が、私達がっ、●●に大丈夫、って……言う番、だよ?」

  言い終えると同時に、●●は無事な左手で諏訪子を抱き寄せた。

  小柄な体躯を胸の中に入れ、少女の頭に顎を乗せる。

  陽だまりの匂いと涙の温かさを感じながら、彼はいつもの調子で言った。

 「んじゃ、お願いしましょうかしらん? 右手がこのままだと、4Pもままならなずにアワレ俺はこのまま骨になる」

  余計な付属品の付いたお願いに、諏訪子は青年の腕の中で何度も頷く。

  涙に濡れてぐしゃぐしゃになった顔は、けれど幸せそうで。

  格好相応の子供のように泣きじゃくる諏訪子の背中を●●はあやす様に、彼女が泣き止むまでずっと撫で続けた。










  早苗と神奈子が冷静さを取り戻し、諏訪子が泣き止んでから数分後。

  ●●は一人境内の中心で煙草をふかしていた。

  境内には、彼以外に立っている者は居ない。

  三人の少女達は現在、永遠亭へと向かう準備のため、家の中を駆け回っていた。

  何故彼だけ残されたかというと、少女達に怪我人は動くなと怒られたためである。

  なので●●はのんびりと煙草を吸いながら、準備が終わるのを待っているのであった。

  最初は暇で仕方無いと思っていた●●だったが、それは既に過去のモノ。

  今の彼の表情は、何処か愉しそうであった。

  大好物の料理が出来上がるのを待つみたいに、チラチラとある場所を何度も見つめている。

 「まだかの~」

  待ち切れないと言わんばかりに、そわそわと身体を揺する。

  早苗達に此処で待っていろと言われた時は、何を大袈裟なと思った●●であったが、今ではその選択は正解だと思っていた。

  状況的には最適だ、と彼は考えている。

  何せ最大の障害である筈の彼女達が、一時的とはいえ今この場に居ないのだ。

  このチャンスをモノにしない手は無かった。

  縁側の方に目線を向ける。

  まだ彼女達が出て来る気配は感じられない。

  青年は焦れる様に、軽く舌打ちをした。

 「……こっちから起こそっかな」

  強行手段を口にした時、●●の耳に微かな呻き声が届いた。

  彼は声のした方向に勢い良く身体を向けると、其処には緩慢な動作で沈下した地盤から這い上がろうとする元対戦相手の姿。

 「おっ、ラッキー」

  ●●はその様子に目を輝かせると、早足で妖怪の下へと向かった。

  速やかに目的地点に辿り着いた彼だったが、件の妖怪はまだ夢半ばの状態であった。

  無意識の行動なのか上半身は地面から引っ張り出されていたが、意識は未だ回復しきっていないようである。

 「も~、しょうがないな~」

  彼は溜息を一つ吐くと、妖怪の頬をペチペチと叩いた。

  適度な刺激を受けた妖怪は、其処でやっと意識を取り戻した。

 「お、起きた起きた。ハローボーイ、お目覚めの気分は如何?」

  気さくに声を掛ける。

  目覚めたての妖怪は最初、目の前の人物を認識出来なかった。

 「……誰だお前?」

 「誰だとは失礼な。お前さんを一撃で沈めた、只の人間ですが何か?」

  寝ぼけた様な口調で返した妖怪に、青年は厭らしく口元を釣り上げてみせる。

  その笑みを見て、妖怪は瞬時に覚醒した。

  目覚めと同じくして、目の前の青年との間で起こった出来事を思い出す。

  そして自身が味わった、見知った感覚も。

  回想が終わると同時に、不気味な震えが妖怪を襲った。

 「て、てめえ……」

  震えを隠す様にして青年を睨み付ける。

  しかしそれも今となっては虚勢以外の何物でも無かった。

  そう、力関係が決定された今となっては。

  互いの視線が交差するも、それは一瞬の事。

  妖怪は青年の歪んだ口元に真紅の三日月を思い出し、その時の感情から逃れる様に俯く。

  人間に見下される形のまま、妖怪は問うた。

 「……な、何の用だよ」

 「いやな? ちょっと言い忘れた事があってさ~」

  怯えをプライドで隠す妖怪に、青年は目を細めて笑いかける。

  そして彼は相手に顔を近づけるとフランクな声で言った。

 「今後一切、早苗達に近付かないでくれませんかねぇ?」

 「あぁっ!?」

  妖怪は伝えられた内容に語気を荒げ、反論しようと顔を上げた。

  震えと怯えを自身の愛する少女への想いで消し去り、真っ向から対峙する為、青年の視線を真正面から受け止める。

  そして青年の眼を捉えた瞬間。

  妖怪の中に確かに在った、愛という名の反骨心は根元から折られた。

  飛び出しそうな程に両眼を開く。

  心臓が狂った様に動き、呼吸さえままならない。

  脊髄に氷柱を何本もブチ込まれた様な悪寒が全身を襲い、かちかちと歯が鳴った。

  やっとの思いで薄い息を吐く。

  が、それでも視線は逸らせない。

  逸らせられなかった。

  眼に。

  黙って見つめているだけの瞳に、妖怪は異常な程の怖れを植付けられていた。

  否、それは違う。

  青年の双眸には、明らかな逸脱が在った。

  その瞳に宿っているのは、狂気。

  己が障害となるモノは躊躇う事無く消す、ただそれだけの。

  自身の狂気など比べ物にならない程に歪んだ、天地を冒す程に昏く淀んだ狂愛。

  それが己を見つめている、侵食している。

  恐怖が自分を呑みこんでゆく。

  まるで悪夢を見ている様だと妖怪は思った。

  顔全体に畏怖を貼り付けている妖怪に、青年は抑揚の無い声で命令した。

 「早苗に、神奈子に、諏訪子に、守矢神社に、二度と近付くな。もし近付いたら……」

  其処で言葉を区切る。

  その先は言われなくても分かっていた。

  狂想という名の言霊が妖怪の精神に侵入する。

  禁を破った時、この人間は自分を殺しにくるだろう。

  必ず、どんな手を使っても、どれだけ時間を割こうとも。

  現にこの人間は理不尽ともいえる方法で自分を倒している。

  どちらが上で、どちらが下か、それは既に立証済みなのだ。

  故に妖怪は命令に素直に従い、頭を垂れた。

  小刻みに何度も首を縦に振る。

  この時点で妖怪は、彼の事を人間という脆弱なカテゴリから外していた。

  従順な反応に、青年は顔全体を酷く愉しげに歪ませた。

  その時、自身の名前を呼ぶ少女の声が青年の耳元に届いた。

 「●●さ~ん! 準備が出来ましたよ~~~!」

  彼は首だけを少女の方へ向けると、大きな声で叫んだ。

 「あいよ~~~! すぐ行くわ~~~!」

  そう伝えてから妖怪の方に顔を戻す。

  青年の顔に先程までの狂気は一欠片も残ってはいなかった。

 「んじゃ、そーゆう事で一つ宜しく!」

  脅える妖怪に片手を上げて笑いかけると、駆け足で少女達の下へ。

  少女達と軽く話をした後、彼は彼女達に吊り上げられる形で青空へと舞い上がって行く。
  
  妖怪は空へと溶けてゆく青年の姿を、まるで取り憑かれたかの様に見開かれた両眼で追い続ける。

  最早少女への愛は、妖怪の中から跡形も無く消え去っていた。










  夜の帳が降り始めた幻想郷、マヨイガの一室。

  其処で彼女、八雲紫は膨大な思考を処理していた。

  一人座したまま黙々と延々と。

  完成したパズルに、実は裏側が在ったのを今初めて知った様な感覚を味っている。

  計算を始めてからはや数時間。

  太陽の日差しが入り込んで明るかった室内も、陽が沈みかけた今では薄暗くなっていた。

  昼近くに平静を取り戻した彼女の従者が食事の用意をした事を伝えに来たが、それも言葉少なめに拒否している。

  それ程の時間と集中を要しても、まだ計算は終了していなかった。

  真顔に近い表情で、目の前の空間を見つめる。

  朝方に開いたスキマは既に閉じられていた。

  彼女が眼にしたある場面以降、スキマの役目は終わっていた。
 
  何も無い空間を瞳に映しながら紫は考える。

  瞼の裏側に在るのは、先程の青年の姿。

  その顔はいつもの厚顔無恥な脳天気では無く、絶対無比の狂気に歪んでいる。

  普段の彼からは到底考えられない姿だった。

  己の身を滅ぼす事さえ厭わない、狂った情念。

  思い出す度に、背中を刃で貫かれる様な錯覚を感じつつ、彼女は振り返った。

  今回彼が、その狂気に至った経緯を。

  考えてみると今日の青年の行動は、そのどれもが不可解であった。

  彼が守矢神社に足を運び巫女と二柱と戯れる、此処までは良かった。

  其処までは彼女も、今回はどんな馬鹿をやるのかと楽しみにしていた。

  問題はこの後からだ。

  思わぬ珍客が現れてから、彼の行動は徐々に通常から解脱し始めた。

  妖怪が守矢の巫女に求愛している事を知った彼は、妖怪を言及しに行った。

  目の前で巫女を抱き寄せ、その様をこれ見よがしに相手に見せ付ける。

  この辺りまでは、まだ彼らしいといえば彼らしい。

  此処までは彼女もにやけ顔で、修羅場キターとはしゃいでいた。

  だがその後、彼が嫉妬に狂った妖怪にある提案をする様を見て、彼女の顔から笑みが消えた。

  その時彼女は、その場に居た連中と同じ事を思っていた。

  何の能力も持たない只の人間が妖怪と殴り合いをする。
  
  無謀としか呼び様の無い提案に、紫は呆れてものが言えなかった。

  だが不思議と心配はしなかった。

  幾ら無鉄砲な彼でも、妖怪相手に真っ向から立ち向かう筈が無い。

  人外連中と深く関わっているのだ、その力を知らない訳が無いだろう。

  ならば適当な小細工を弄して煙に巻く筈、と彼女は考えていた。

  しかし境内へと向かう彼の醜悪な横顔を見て、その考えは有る種の不安へと変わり、後に驚愕へと変化した。

  彼が選んだのは正攻法過ぎる正攻法であった。

  真正面から相手の攻撃を受け止め、反撃する。

  それは戦闘的には正しいが、人間としては論外の手段。

  彼が魔女達から治療用護符を縫い付けた手作りTシャツを貰っていた事を勿論紫は知っていたし、博麗の巫女から護身用にと御札を貰っていた事も知っていた。

  だから攻撃を受けても最悪死ぬ事は無いと思っていたし、仮に戦闘になったとしても少しは戦えるだろうと踏んでいた。

  けれど、それでも彼の取った行動は彼女の常識では有り得なかった。

  只の人間が、妖怪の渾身を甘んじてその身に受ける。

  護符のお陰で死ぬ事は無いと判っていても、それでも痛みはあるのだ。

  低級だろうが下等だろうが妖怪は妖怪、故にその威力は人間にとって生半可なモノではない。

  例えるなら拳大の鉄球を超高速で叩き付けられた様なモノ。

  あっけなく内臓を数個破裂させる程のレベルである。

  八つ裂きにされそうな痛みが彼を襲った筈だ。

  意識が飛んでもおかしくない程の激痛。

  それを彼は歯を食い縛って耐え、右手を吹き飛ばすかもしれないリスクを省みず、己の渾身を叩き返した。

  遠距離発動である霊撃を零距離から放ったのは、確実に一撃を当てたかったためだろう。

    そして彼は文字通り命を削って、誰から見ても判る形で妖怪を討ち果たした。

  一目で分かる力関係を刻み、そしてとどめとばかりに彼は妖怪に忠告をした。

  守矢神社に、自分の愛する少女達に、金輪際近付くな、と。

  大妖怪と呼ばれる彼女ですら、寒気を覚える狂気をその顔面に貼り付けて。

  事の顛末を最後まで振り返った後、紫は彼が正攻法で戦った理由をふと思い付いた。

  もしかして彼は、妖怪を最初に見た時から倒すつもりだったのではないか?

  それは思い付きにも程が有る発想。

  しかし何故か振り払えず、紫はその思い付きを解析する。

  もしそうだとしたら全ての辻褄が合うからだ。

  そして彼女の予想は当たっていた。

  奪い合いの喧嘩をする前から、正確には早苗に迫る妖怪の内情を知った瞬間から。

  彼は妖怪を倒すつもりだった。

  自身に徹底的に屈服させるつもりだった。

  内心での彼は、この機会に期待感と待望感を持っていた。

  ソレは例えるなら部屋の中に潜んでいる害虫を見つけた時に感じる、比喩し難い高揚感。

  居るかもしれないし居ないかもしれない、そんな存在を偶然発見出来た時の、感動にも近い感覚。

  相対していた妖怪とはベクトルが違うが、彼も同じ様に興奮していたのである。

  やっと出会えた相手。

  そしてソイツは見事自分の誘いに乗り、自身との殴り合いに至る。

  其処までは良い。

  けど、そこからが進まない。

  相手はこっちに来てくれない。

  自分の手が届く距離に来ない。

  故につまらない。

  目の前に居るのに手が出せないもどかしさ。

  そのもどかしさを払拭するため、彼は妖怪の傷を抉る挑発をし、相手が攻め易い様にワザと隙を見せた。

  結果、罠と知らない妖怪は彼の正面から殴りに行き、逆に手痛すぎる反撃を貰うハメになる。

  相手有利の戦闘形式も、あからさまな挑発も、慢心による油断も、彼に取ってはどれもが予定内だった。

  打撃による激痛、右手の損壊、そして修復による副作用。

  全て、さほどの問題では無い。

  それよりも大きな戦果を得た事の方が、彼には大事だった。

  力の差を見せ付けられた妖怪の心に恐怖という名の楔を打ち込めた事。

  自分の愛する少女に手を出した羽虫を保険付きで排除出来た事。

  彼にとってこれに勝る満足感と達成感は無かった。

  その時の彼の気分は、絶頂を遥かに超越していた。

  予想という不確定な考えを、紫はあっさりと否定出来ない。

  何故なら辻褄が合っている。

  納得がいってしまう。

  故に紫は戦慄した。

  彼の巧妙な狂気の扱い方に。

  少なくとも彼は自身の内に潜むソレを自覚している。

  暢気な笑顔の裏側に隠された、冷徹で冷酷で無慈悲な狂気。

  己が思うがままに行動し、望むがままに手に入れる。

  それは妖怪の暴走する狂愛等、比較にならない。

  自覚的な狂気は、自覚しているが故に無意識の狂気を遥かに凌駕する。

  ……しかし、それでも。

  それでもまだ、彼女は青年の事を危険だとは思えなかった。

  彼女の脳裏に浮かんでいるのは、とある場面。

  妖怪に迫られる巫女を奪い返しに行く直前、彼は二柱に聞いた。

 『早苗は、あの妖怪の事が好きなのか?』

  この言葉に、紫は違和感を覚えていた。

  何故彼はあの時、こんな事を聞いたのか?

  もし彼が相手の気持ちを考えずに行動する人間ならば、こんな発言は出ない。

  もし彼が自分の欲望のためだけに動く人間ならば、相手の事等どうでも良い筈である。

  だというのに、彼は二柱に巫女の真意を尋ねた。

  どちらに転んでも気にしない様な、普遍的な声で。

  仮に巫女が妖怪の方に傾いていた場合、彼はどうしただろう?

  例の妖怪みたいに嫉妬に狂う青年の姿を、紫は想像出来なかった。

  精々みっともなく大泣きする程度だと思ってしまう。

  紫はその様を想像して、おかしそうにくすりと笑った。

  その顔に邪な感情は微塵も無い。

  ただ素直に、青年の滑稽な姿を頭に浮かべている。

  それ程までに彼女は青年の生き方を見続けてきたのだ。

  見向きもされない少女達に只管に突貫する無謀を。

  どんなに障害があっても諦めない不屈を。

  相手が誰であろうと構わず求愛する無知を。

  波乱万丈の人生を駆け抜ける男の生き様を、紫はこれでもかと見せつけられてきた。

  そんな彼女だからこそ、今日の彼を見ても早々に判断を下さない。

  どれ程に戦慄しても恐怖しても。

  今までとは180度違った印象を与えられても。

  自分を楽しませてくれる人間を、少女達が愛した青年を、あっさり見限りたくは無かった。

  だから情報が欲しい。

  こうだと断定出来る情報が。

  確固たる立証へと繋がる糸口が。

  彼の口から発せられる本音を、彼女は聞きたいと思った。

  さて、そうと決まればどうするか。

  紫は思案する。

  自分が素直に聞いた所で、今の今迄隠していたモノを彼が正直に打ち明ける筈は無い。

  それは彼の手篭めにされた少女達も同じ事。

  個人的には地霊殿の主に頼みたかったが、頼んでも引き受けてくれない、というか信じてくれないだろう。

  心を読めるとはいっても、それはその場限りのモノ。

  紫の心を読ませたとしても、現場に居合わせていない彼女には、それが真実かどうかの判断は出来ない。

  胡散臭いと突っぱねられて帰らされるのがオチである。

  ならばどうする?

  考えた末、彼女は一つの案を捻り出した。

  賭けに近かったが、それでもこれしか無いだろう。

  即決で案件を採用すると、早速紫はスキマを開いた。

  開かれた先に見えるのは大きな日本屋敷。

  目的は其処に居るであろう歴史を綴る少女。

  いそいそと紫はスキマに入り込みながら考える。

  はてさて、一体どう話したモノか。

  スキマの中で少女に説明する内容を作り上げる。

  納得してくれる話になる様に、嘘と真実を練りこんで。

  話の微調整をする思考の端、彼女は思った。

  朝の夢。

  全てを失っても笑い続ける青年の話。

  果たしてアレは『誰』の夢だったのだろう。


新ろだ653
───────────────────────────────────────────────────────────

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2011年02月20日 15:44