雲一つ無い青い空。

  空高くに上った太陽が人々の生活を見守る様にして日差しを送り。

  時折吹く心地良い冷たさをもった風が、忙しげに働く人達の火照った肌を冷ます様に撫でる。

  そんな秋晴れの空の下。

  とある人里の大通りを●●は一人、気怠げに歩いていた。

  のろのろと緩慢な動作で歩を進める。

  いつも楽しそうな顔には、今回に限って明らかな不満感が塗りたくってあった。

  不満を持て余すように尖らせた口の先に咥えた煙草をぷらぷらと上下に動かす。

  振動に伴って、煙草の先から上がる煙がゆらゆらと揺れた。

  一息で煙を肺に入れ、そして吐き出す。

  鼻から排出された紫煙が、色々な形になりながら天へと消えてゆく様を見届けてから、●●は呟いた。

 「あ~あ、めんどくせえなぁ……」

  心底嫌そうに顔を顰める。

  それ程までに自分が今からしなければならない事が煩わしかった。

 「な~んで俺が、こんな事をせにゃならんのだ?」

  愚痴々々と文句を垂れる。

  正直、今すぐにでも現状をブッチしたい気分であった。

  それもその筈。

  何故なら本日の行き先は、彼が選んだ場所では無かったのだから。

  事の起こりは早朝に。

  自宅で朝御飯を済ませた後、彼は一服しながら、今日は何処に行こうかしらん、と考えていた。

  守矢神社は一昨日行ったので今回は除外、紅魔館はその前の日に行ったのでパス、んじゃ白玉楼は……あ~この前行ったわ。

  全体を満遍無く補える様に訪問日を回想する。

  とは言っても実のところ、其処まで間隔に拘ってはいない。

  ただ、あんまり偏るのは良くないよな~、と思う程度であった。

  そして熟考に熟考を重ねた結果、彼は本日の目的地をマヨヒガへと決めた。

  理由はな~んとなく八雲一家(と藍の手料理)に逢いたくなったから。

  そうと決まれば善は急げ。

  元の半分ほどの長さになった煙草の火を消すと、彼は食器を持って台所へと行き、それ等をちゃちゃっと洗い終える。

  洗い物を終わらせると、今度は服を寝間着から外着へと着替え、速やかに支度を完了させた。

  そしてさあ行こうかと思った矢先に戸を叩く音。

  突然の来客に返事をしながら戸を開くと、其処には里の守護者である上白沢慧音。

  何の知らせも無く訪れた事にきょとんとした顔を浮かべる彼を気にも留めず、彼女にしては珍しい命令口調で慧音は言った。

  今から稗田家に行ってお前の話をしてこい。

  突然言い渡された理不尽な依頼内容に、彼は不満を隠しもせずに抗議したがそれも無駄な抵抗。

  数分後、其処には額に大きなたんこぶを作ったアワレな貧弱一般人の姿があった。

  回想を終えると同時に、●●は再度紫煙を吐き出した。

  何度煙を吐いても問題が解決する訳も無く。

  嫌がる気持ちに見切りを付け、そしてどんよりとした気分を切り替えようと努力する。

 「ま、行くだけ行きますか」

  やれやれといった感じでぼやきながら額を一つ掻くと、青年は歩調を少し速めた。

  歩きながら●●は、あの人にはどうも頭が上がらねえなぁ、と思った。

  上白沢慧音。

  人間の里の守護をしている彼女に、彼は恩義を感じていた。

  幻想郷に迷い込んで早々、右も左も分からない自分の手助けをしてくれたのは、他ならぬ彼女だったからである。

  自身にこの世界で生きる術と知識を叩き込み、また此処に永住を決めた時には住居と仕事場を提供してくれた彼女。

  何の見返りも求めず無償で尽くしてくれた慧音に、彼は常日頃から感謝していた。

  だから彼は、彼女からの頼みとあらば大抵の事は引き受けていた。

  男手が必要な時は喜んで手伝ったし、寺子屋で子供達に勉強を教えた事もある。

  ……尤も、寺子屋は一回きりだったが。

  理由は授業の一科目である保健体育の時に、性的な部分を重点的に教えていたためである。

  慧音にはまだ早過ぎると怒られたが、子供達(特に男子)には大人気だったのを●●は知らない。

  寺子屋の一部の生徒達からは、彼の授業をもう一度という声が何度も上がっているが、それを慧音は悉く実力行使(主に頭突き)で却下していた。

  そういった風に彼は慧音の頼みを今まで何度も聞いてきた。

  中には手が掛かりそうな作業もあったが、彼は持ち前の気楽さでそれ等を難なくこなしてきた。

  しかしそれでも今回の話は、今迄引き受けた頼み事の中でも段違いに面倒臭い、と彼は感じていた。

  今朝方、玄関先で慧音から聞いた内容を思い返し、苦い声を漏らす。

 「う~む、テンションの上がる要素が全く無いでござるな……」

  そう言って彼は、顎に手を当てて渋い顔を作った。

  ●●の中でどうにも乗り切れない要因は二つあった。

  稗田家で自分の話をする。

  其処がまず一点。

  別に彼は人と話をするのが苦手なタイプなどでは無く、どちらかといえば好きな方である。

  お茶を啜りつつ、のんびりと他愛も無い話に興じる事をこよなく愛しているし、内容の無い馬鹿話に華を咲かせるのも好きである。

  個人が好きな様に言葉を投げて、誰かがそれを受け止める。

  彼はそんな気の置けないキャッチボールが好きだった。

  逆に格式ばった会話はあまり好みでは無い。

  一方通行の話など論外である。

  だというのに、彼が今から稗田家で話すのは、その一方通行の話なのだ。

  そして内容は自分語り。

  彼にとってはつまらなさの極致であった。

  相槌が有る無いの問題ではない。

  自身の身の上話など話されても、相手はつまらないだろうと思っているのだ。

  彼ほど痛快な人生を歩んでいる人間は幻想郷でも数える程しか居ないだろうというのが周りの見解なのだが、そんな事は知らない。

  突撃インタビューを受けたならまだしも、何が悲しくて自分から相手の家に行って話をしなくてはいけないのか。

  ……まあ一度は出向くつもりではあったのだが、それは今日では無い。

  故に今回の件に関して●●は乗り気では無かった。

  そしてもう一点は、今から会う人物について。

  立ち止まって瞼を瞑り、里で何度か姿を見た少女の姿を思い浮かべる。

  薄紫の髪を首下で綺麗に切り揃えた、和服姿の少女。

  年の功は十と少しを過ぎたばかり。

  稗田阿求。

  幻想郷の妖怪辞典的存在『幻想郷縁起』を編纂している稗田家の現当主で、第九代目阿礼乙女である。

  保有する能力は、一度見た物を忘れない程度の能力。

  その能力故に、彼女(達)は幻想郷で起こったあらゆる事柄を記録する役割を担っている一族の代表であった。

  ちなみに阿礼乙女とは、百数十年毎に生まれる、稗田阿礼が転生した者を示す言葉であり、総称は御阿礼の子と呼ばれている。

  転生とはそのままの意味で、御阿礼の子は稗田阿礼の生まれ変わりである。

  だが彼にとって大事なのはそんな事では無く、寧ろその辺りはどうでも良かった。

  少女の姿を細部まで描き、自身に埋蔵された知識(家を出る前に慧音に教えて貰った)を掘り返した後、●●は閉じていた瞼を開くと勿体無さそうに言った。

 「可愛いとは思うんだけどな~……」

  どうもピンと来ねぇ。

  そう後に続けて、彼は軽く首を振った。

  今日の幻想郷では知らない人の方が少ないと思われるが、彼はかなりの女好きである。

  その好き具合は博麗の巫女を筆頭とした幻想郷の有名な少女達、その殆どに手を出し、自らのモノにする程。

  里の人間に幻想郷で一番の女好きは誰かと尋ねれば、九割九分の割合で彼の名を上げるだろう。

  それ程までに彼の女好きは周知の事実であった。

  そんな彼であったが、只我武者羅に少女達に迫っている、という訳では無い。

  守備範囲というモノは当然彼の中にも存在する。

  その判断基準は容姿でも年齢でも性格でもなく、またエロスでもなかった。

  直感というべきか、第一印象というべきか。

  兎も角そんな感覚が、少女を見た瞬間に彼の中で芽生え、本能にゴーサインを出すのだ。

  勝負は一瞬。

  故に彼は今迄、対象に初めて出会ってから数秒の内に判断を下していた。

  攻めるか、スルーか。

  その感覚は現在に至るまで、一度も間違いを起こしていなかった。

  現時点で彼がスルーをした回数は六回。

  宵闇の妖怪、湖上の氷精、闇に蠢く光の蟲、夜雀の怪、知識と歴史の半獣、そして幻想郷の記憶。

  何れも初対面以降、何度も遭遇してはいるが、彼の中で愛情が発生した事は一度も無い。

  だからこそ、今回の訪問も気分が乗らないのであった。

  別にスルーした相手の事が嫌いという訳では無い。

  寧ろ好きな部類に余裕で入っている。

  バカルテットと呼ばれている連中からは良く遊びに誘われるので暇な時は付き合っているし、夜雀には屋台でもお世話になっている。

  里の守護者に到っては、最早語るまでも無かった。

  阿礼乙女に関してのみ、余り接点が無いので何とも言えなかったが、それでも話を聞く限りでは嫌いという分類には入らない。

  ただ用件の内容と悪い方向で噛み合わさってしまっただけなのである。

  なので彼女に責任はこれっぽっちも無い。

  つまるところ、ぶちぶちと腐っていても意味の無い話であった。

  気を取り直して目的地に向かう事にする。

  ……ちなみに八雲一家の件に関しては、彼の中ではノーカウントとなっていた。

  協力者との肉体関係と従者達との恋愛事情は、彼にとって唯一ともいえるだろう例外中の例外であった。

 「……可愛い子とお喋りしに行くと思えば良いか」

  何とかやる気を出させるために言ってみるも効果は薄い。

  初対面に近い少女に、マンツーマンで自分語りをするのは、やっぱりキツかった。

  せめてもう一人援軍が欲しかったが、そんなに都合良く見かける筈も無く。

  彼はやけっぱち気味に声を上げた。

 「あ~あ、誰か一緒に行ってくれねぇかしら~?」

  途端、その言葉を待ってましたと言わんばかりに真後ろで一陣の風が舞った。

  背中を伝う良い感じの風圧に、彼は自身の背後に首を向けた。

  此処で余談だが、彼の守備範囲もとい判断基準は、二種類に分かれている。

  一つは、第六感的な一瞬の直感に寄る決定。

  そしてもう一つは、対象が既婚者、または恋人、もしくは想い人が居る場合。

  相手に想い人が居ると知った時点で、彼は手を出さない様にしていた。

  自ら藪を突付いて蛇を出す必要は無い。

  略奪愛は彼の好みでは無かった……そしてその逆も。

  まあ基本的に彼は相手を見た時点で、対象が彼氏持ちかそうじゃないか、好きな人が居るかどうかが何と無く分かってしまうため、今のところ問題は無いのだが。

  主な例を挙げると、想い人が居るのが鍵山雛と犬走椛。

  恋人(友達以上恋人未満含む)が居るのが河城にとりと……

  たった今彼の目の前に現れた、黒い翼の少女であった。

 「どうもこんにちは●●さんっ! 清く正しい射命丸です!」

 「なにいきなり話しかけてきてるワケ?」

  片手をシュタッと上げ、溌剌とした声色で挨拶をしてきた少女に対し、●●は不躾な言葉を返した。

 「予告も無しにいきなり話しかけるとか、お前絶対ブンヤだろ……」

 「あやややや?」

  ●●のいつもと違った対応に、少女は若干の驚きが鬼なる。

  珍しく機嫌でも悪いのかと思ったが、彼の楽しそうな目元に気付いた少女は直ぐにノリを合わせた。

  自前の扇を取り出して口元を覆いながら少女は反論する。

 「おやおや……ネタ探しに空を飛んでいたら一人で心細そうな貧弱一般人の姿を見つけたので、天狗の素早さで急遽駆けつけた訳なんですがねぇ?」

 「俺がどうやって心細いって証拠だよ? 一人だからってすぐ心細いと決め付ける浅はかさは愚かしい」

 「なら一人で大丈夫なんですか? ほら見事なカウンターで返した。調子に乗ってるからこうやって痛い目に遭うんです」

 「……何か言い返そうと必死に回転させたが何も浮かばなかった。俺はこのまま裏世界でひっそり幕を閉じるハメになる」

 「●●は深い悲しみに包まれた!」

 「勝ったと思うなよ……」

 「もう勝負ついてますから…………ぷっ、あはははははっ!」

  其処まで言い終えると、少女は耐え切れなくなったのか噴き出し、声を上げて笑った。

  青年が始め出した可笑しな言葉遣いの応酬に、遂に彼女の腹筋は痙攣してしまったのだった。

 「なんだ急に笑い出した天狗。急な爆笑にこっちは意味不明状態なんですわ? お?」

  腹を抱えて笑う少女に文句を言うも、彼の顔は何処か満足そうである。

  一頻り笑った後、彼女は目尻を擦りながら言った。

 「あ~おかしかった……もう●●さん、突然何を言い出すんですか」

 「いや~、いつも同じ挨拶じゃ物足りないかと思って」

  普段通りの口調で尋ねてきた少女に習って、●●も言葉遣いを元に戻して返す。

 「それでアレですか」

 「うむ、俺的には結構楽しかった」

 「私的には頭とお腹が疲れましたよ」

 「またまたそんな事言って~。文ちゃんも結構ノリノリだったじゃない。即興であそこまで付いて来れるのって、俺が知ってる限りじゃ文ちゃんと天子くらいだぞ?」

 「それって、素直に喜んでも良いんですか?」

 「勿論。今度から胸を張って一級廃人を名乗って良いぞ」

 「駄目じゃないですかそれ……」

  青年の言葉に少女、射命丸文は、げんなりとした表情を浮かべながら肩を落とす。

  落ち込む彼女を見て、彼は愉快気に笑った。

  気分はさっきより少しだけ軽くなっていた。

  文はさっと気を取り直して尋ねた。

 「それで●●さん、今日はどちらへ行かれるんですか?」

 「今日はマヨヒガに行こうかと!」

 「マヨヒガとはまた……」

  珍しい所に行きますね。

  そう続けようとした彼女だったが、それを青年の溜息が遮った。  

 「思ってたんだけどな~……」

 「あれ? 違うんですか?」

  尋ねる文に、彼は落胆した様な声で返した。

 「俺は行きたかったんだけどさ、慧音先生が今日は稗田家に行けって仰られたんですよ」

 「稗田家? 阿求さんの所ですか?」

 「はいその通り」

 「ほほう……」

  青年の口から出た、これまた珍しい場所名。

  奇妙な組み合わせを前に、文の中の記者魂が僅かに顔を覗かせたが、彼女は直ぐにソレを引っ込めた。

  ふぅ危ない危ない、危うく本来の目的を忘れるところでした。

  内心で溜飲を落とす。

  今彼女がこの人里に来ているのには理由が在った。
 
  ネタ探しよりも遥かに重要な理由が。

  なので今回は話だけ聞いて深く突っ込まないでおこうと文は心の中で決める。

  だがそんな彼女の心情を、青年はまるっとお見通しであった。

 「それで、何をしに行くんです?」

  質問に彼の眼の奥底が光ったのを彼女は気付かない。

  ●●は遊びに誘うように何気無く答えた。

 「気になるなら一緒に来るか? ネタになるかどうかは知らんけど」

 「いえいえ、折角ですが今回は別件がありまして。折角ですが遠慮させて頂きます」

  やんわりとした断りの言葉を入れながら軽く会釈をする。

  頭を下げる彼女に●●は人差し指を突き付け、当ててやろう、と言った。

 「えーと……何をですか?」

  何もかも見透かした様な瞳に文はぎくりとしたが、何とか平静を保って尋ねる。

  口の端を吊り上げながら彼は答えた。

 「別件って、○○だろ?」

 「はいぃっ!?」

  一撃必中とばかりに一突きで核心を貫かれた文は、即座に動揺を示した。

  ○○とは彼女、射命丸文の恋人の名前である。

  また、●●の外界時代からの友人(悪友と呼んでも良いかも知れない)でもあった。

  文の仕事の補佐をしており、ついでに同居もしている。

  主な仕事の内容は記事の添削と『文々。新聞』を人里内で広めるための営業活動である。

  そのため彼は、しょっちゅう何処かの人里に居るのであった。

  ちなみにその事実全てが、そっくりそのまま彼女が此処へ来た理由となる。

  少女の分かり易い反応に彼はケケケと笑って追撃した。

 「大方、○○と昼御飯でも食べようといったところか?」

 「いいいいいいっ一体全体何の事やら! 私にはさっぱり分かりませんなぁ!」

  ●●の推理を文は両手を忙しく振りながら否定する。

  わたわたと慌てる少女の姿に彼は楽しげに眼を細めると、とどめの一撃を放った。

 「付け加えると、○○とは偶然を装って会うつもりだろ? アイツに気を遣わせないために」

  ●●はそう言い終えると、確かめる様な視線を文に送った。

  悉く図星を突かれてしまった天狗少女には、正直に答える術しか残されていなかった。

 「な、なんで其処まで分かってるんですか……」

  恥ずかしさに渋さを混入させた顔で青年に教えを乞う。

  立てた親指を自分の顔に差し向け、彼はさも当然とばかりに。

 「二人の恋愛スキルの低さと傾向を一番良く知っているのは、何を隠そうこの俺だからな」

  歯を剥き出しにして笑う。

  予想していたけれど出来れば聞きたくなかった青年の自信満々な言葉に、文は観念した様に首の力を抜いた。

 「はいその通りですよ~。●●さんの言う通りですよ~だ」

 「んむ、素直で宜しい。恋する乙女は素直じゃないとな!」

 「うぅ……」

  悔しそうに頭を垂れる。

  頬も僅かばかり紅く染まっていた。

  敗北を喫した文は、この手の分野で彼に勝てる訳が無い事を改めて痛感する。

  初心者が熟練者を出し抜くのは、土台無理な話であった。

  探偵気分を満喫した後、彼は用件を切り出した。

 「其処で、だ。まだ昼飯まで時間が有るだろう文ちゃんに相談があるのだが」

 「時間潰しついでに稗田家まで付き合え、と?」

 「話が早くて助かるわ。ネタが有るかもしれないし、時間も潰せる。それに俺も退屈しない。正に一石三鳥と思うんだが?」

  良い案だと思うんですがねぇ?

  ●●は言いながら文の顔を伺う。

  彼女は提示された案に、仕方無いですねと内心で呟きながら言った。

 「別に構いませんけど……あんまり御一緒は出来ませんよ?」

 「私は一向に構わん! 昼前になったら退散して良いからさ! 少しだけでも付き合ってプリーズ!」

 「はぁ、それなら良いんですけど……」

 「きた! 天狗きた! メイン天狗きた! これで勝つる!」

  文の同行の意を聞いた●●は、イヤッホォォォォォォォッと諸手を上げて嬉しさをアピールする。

  決定された案件をすぐさま実行に移すため、彼は足を前に出しながら少女を促した。

 「そうと決まれば早速行きますか! 目指す場所は稗田家、目的は稗田阿求ちゃん!」

  レッツゴーと言って歩き始める。

  子供みたいにはしゃぐ彼の背中を、文はやれやれといった表情で見つめてから、一つ笑った。

  まあ少しくらいなら付き合ってあげますか。

  これはこれで楽しそうだと思いながら、彼女は恋人の友人の背中を追い駆ける。

  背後に追従する気配を感じつつ、●●は厭らしく哂った。

  今の彼は身代わりを見つけた人柱のような気分であった。

  後ろを歩く彼女は青年の表情の変化に気付いていない。

  気付かぬまま気付かせないまま、一行は稗田家へと向かう。

  やっぱりというかなんというか。

  彼の友人同様、彼女は甘かった。

 「ところで●●さん」

 「なにかな文ちゃん?」

 「稗田家の場所って、ちゃんと分かってます?」

 「詳しくは知らん」

 「そうですか、方向全く逆ですよね」

 「……マジで?」

 「マジです。方向音痴凄いですね」

 「……それほどでもない」










  若干のタイムロスはあったものの、●●と文の二人は何とか稗田家門前へと辿り着いた。

  ちょっとやそっとじゃ壊れなさそうな堅牢な門と、その奥に聳え建っている視界に収まりきらない程に巨大な日本屋敷を揃って見上げる。

  里にある家屋の中では凡そ最大級に近い建造物に対して、二人は何の感想も抱かなかった。

  一方は仕事上の都合で見慣れていたし、もう一方は似たようなクラスの建物に何十回も立ち入っているためである。

  まあ普遍的に出てくる感想として、大きい家だなぁ、とは思っていた。

  客人として呼ばれていた●●は、張りのある大きな声で家人を呼んだ。

  遠慮も緊張も無い来訪の声に、間も無くして年季の入った木々は擦れ削れる様な音を立てながら口を開いた。

  開かれた門の中から現れた稗田家の使用人らしい妙齢の女性に、●●は稗田阿求に自身が招かれた旨を丁寧な口調で伝える。

  彼が言い終えると、家主から話を聞かされていたらしい彼女は柔らかな物腰で二人を家の中へと促した。

  使用人の後ろを追従する様にして、二人は稗田家の内部を進む。

  踏み締める度にきしきしと音を立てる板張りの廊下を歩きながら、文は小さな声で感嘆を示した。

 「驚きました」

 「ん? どうした文ちゃん?」

 「●●さんって、ちゃんと礼儀を知ってたんですね」

 「おいィ……それどうゆう意味ですかねぇ?」

  純粋な感心の言葉に●●は顔を渋くする。

  青年のじと目を文は気にせず、更に失礼を口にした。

 「●●さんの事ですから、てっきり問答無用で乗り込んで行くかと思ってたんですけど……」

 「俺は強盗か何かか?」

 「流石にそこまでは言いませんけど……」

  其処で文は言い留まると、顎先に人差し指を当てて小さく唸った。

  何かしらを考え始めた少女に、●●はじと目を送り続けていた。

  文の発言は至極真っ当な意見であった。

  日頃の行いを見る限りだと、彼は礼節という言葉から、最も遠い場所に居る様に思われても仕方の無い事である。

  しかしそんな彼にも人並みの礼儀・礼節・マナーは当然ある。

  今はこんな人間ではあるが、彼も昔は一般的な社会人だったのだ。

  不毛な接触を避けれる程度の紳士さは身体に染み付いている。

  ちなみに外界時代の彼は、自分の友人である○○と同じ会社に勤めていた。

  けれどそれを今この場で言うつもりはハナから無い。

  もしこの事を言ったら、彼女の仕事を手伝わされるかもしれないからだ。

  尤も自分の分野は営業だったので、手伝うといってもやる事は限られてしまうのだが。

  そんな事を彼が考えているとは露も知らない文は物思いに耽け、そして閃いた。

 「でも、少し前まで似た様な事をしてましたよね?」

 「おいおい、俺がいつ強盗の真似事をしたって証拠だよ」

  さっぱり身に覚えが無いといった風の青年に、少女は明るく教えた。

 「ほら、幻想郷中の少女達を無理矢理襲って手篭めにしたじゃないですか。アレも下手すれば犯罪ですよね?」

  そう言って文は●●に同意を求めた。

  余りにも拡大解釈過ぎる発言に、あ~新聞記者ってこんな感じだよなぁ、と妙に納得した●●であったが、其処までなじられて黙っている訳も無く。

  一つ鼻を鳴らした後、彼は少しばかりのリベンジをした。

 「ブンヤがどうやってネタを作るのか良く分かったよ。天狗感謝、○○に振られろ」

 「なっ!? いきなりなんて事言うんですかっ!」

  ●●が気軽に放った発言に、文はいとも簡単に動揺した。

  小石を地雷原に投げられた様な気分になってしまう。

  彼にとってはジャブのつもりでも、彼女にとってはストレートだったらしい。

  脆い箇所を攻撃、此れ戦場では当たり前。

  少女の慌てる様を見て、●●は形勢逆転とばかりにニヤリと笑った。

 「あらら、これは痛いところを突いてしまった感。もしかして心当たりでも御有りですかな?」

 「あああああるわけないじゃないですかっ! 適当な事言ってると、天狗烈風弾でバラバラに引き裂いてやりますよ!?」

 「おぉ、怖い怖い。不利だと分かったら力尽くで黙らせようとするブンヤ、いやらしい……」

 「むきーーーーーーーーっ!!」

  我慢の限界とばかりに文は●●へと食い掛かった。

  黒曜石みたいな瞳に怒りを滲ませて青年を睨み付ける。

  そしていざ反論しようとした時、前を歩いていた使用人の女性は立ち止まった。

  急停止した女性に、今自分が何処に居るのかを思い出した文は、騒ぎ過ぎたと反省する。

  先に謝っておこうと彼女が声を掛ける前に、女性はこちらを振り向いた。

 「こちらになります」

  穏やかな顔で一室を示すと、女性は横に退き、室内に向けて声を出した。

 「阿求様、●●様がいらっしゃいました」

  洗練さを感じさせる声色に、どうぞ、と部屋の内部から返事が戻ってくる。

  主から了承を得た使用人は、再び二人に姿勢を向けると恭しく頭を下げた。

 「それでは、私は此処で失礼致します」

 「どうもありがとうございます」

 「あ、ありがとうございますっ」

  二人の感謝の意に女性は柔和な笑みを浮かべると、廊下の奥へと去っていく。

  音も立てずに歩み去ってゆくその背中を見送りながら●●は言った。

 「文ちゃんさ、さっき怒られると思っただろ?」

 「お、思ってませんよ?」

  見透かされた発言に、彼女は目線を逸らしつつ返した。

  この娘、判り易いわ~。

  ●●は彼女と出会ってからもう幾度も思った事を本日も思ったが、今回も敢えて言及はしなかった。

 「ふ~ん、まぁ良いや。んじゃ、中に入りますか」

 「そうですよ、早く入りましょう」

 「へいへい、りょ~か~い」

  ●●は襖に向き直り、歯切れの良い口調で失礼しますと言ってから取っ手の部分に手を掛けた。

  丹念に手入れをしているためか一度もつっかかることは無く、するりと襖は開いた。

  室内へと足を踏み入れた瞬間、新緑の芳香が二人の鼻腔を擽った。

  二十畳程の部屋は中心に多人数様の卓袱台が置かれているだけで、他に目を惹く物は無い。

  簡素とも質素とも呼べる部屋の内装。

  しかし、逆にそれが室内に溢れる清涼な空気を生かしていた。

  卓袱台の一端に姿勢正しく座していた少女は、部屋の入り口で立っている二人を見て、僅かばかり目の色を変えた。

  だがそれもほんの一瞬の事。

  少女はその場に静かに立ち上がると、模倣的な礼をした。

 「ようこそ御越し下さいました。どうぞこちらへ」

  促されるまま、二人は少女に向かい合う形で席に着く。

  全員が座したのを確認した後、●●は言った。

 「本日は御招き頂きありがとうございます」

  言い終えてから、軽く頭を下げる。

  どうやら礼儀を知っているのは本当みたいですね。

  少女に負けず劣らない青年の模倣的態度に、文は今更乍らに思った。

  横目で見た彼は、背を真っ直ぐに伸ばし、胸を張って正座をしている。

  表情もいつものちゃらんぽらんな顔付きではなく、お釣りがくる程に真面目なモノであった。

  彼の素行を知っている人達がこの姿を見たなら、間違い無く誰てめえと言うだろう。

  普段からこうしていれば良いと思うんですけどねぇ……

  しかしそれはそれで違和感がありますな、と考えていた文の耳に少女の声が届いた。

 「そういえば射命丸さんは、今日はどうしてこちらへ?」

 「へっ? わ、私ですか?」

  少女の疑問に、彼女は来訪の理由を考えていなかった事に今気付いた。

  まさか●●さんに無理矢理連れて来られたなんて言える訳も無い。

  どうしようかと焦る彼女をサポートする様に、青年が代わりに答えた。

 「彼女とはこちらへ向かっている最中に偶然会ったんですよ。今回お話しする内容の都合上、第三者も必要かと思い、勝手かと思いましたが一緒に来てもらいました」

  淡々と事情を説明する。

  同行の理由を聞かされた少女は、納得した様子で言った。

 「そうでしたか。確かにその通りですね、御同行ありがとうございます射命丸さん」

 「え、あ~……っと、こちらこそ急に押しかけてきて申し訳無いです……」

  感謝の言葉に文はうろたえながらも何とか返す。

  彼女の思考は青年の口から流れる様に飛び出した尤もらしい同行理由に呆気に取られていた。

  少女は青年の方に向き直ると、忘れていましたと言った。

 「すみません、自己紹介がまだでしたね。私は稗田阿求、此処稗田家の当主を務めております」

 「こちらこそ失念していました。自分は外界から来た●●といいます。まあ、只の一般市民です」

  特別言う事も無い彼は、気恥ずかしそうに頬を掻く。

  白々しい挨拶に、文は猛烈に突っ込みを入れたくなった。

  どの面下げて只の一般市民とかほざくんでしょうかねぇ、この人は。

  自分の恋人が彼をどつく気持ちが、文は少しだけ分かった気がした。

  出来る事なら今すぐ会話に割り込みたかったが、それは余りにも空気が読めていない。

  ああ突っ込みたい、物凄く訂正を入れたい。

  そんな彼女の気持ちを代弁してくれたのは目の前の少女、稗田阿求であった。

 「只の一般市民とは、随分謙虚な物言いですね。幾多の少女達を手篭めにしてきたといいますのに」

  少女、阿求の楽しそうな物言いに、●●は片眉を上げる。

 「幻想郷に己がハーレムを作った男。無理無茶無謀を絵に描いたような愚か者。これって有名ですよ? でなければ、本日御呼びする事も無かった訳ですし」

 「全て御存知という訳ですか」

 「勿論。これでも御阿礼の子ですので」

 「これは失礼致しました。流石は稗田阿礼の生まれ変わりですね」

  誇らしげに微笑む少女に、青年は困った様な笑みを浮かべながら答えた。

  二人の応対を見ていた文の顔は、いつのまにか怪訝さを湛えていた。

  原因は彼女の目の前で紳士的な対応をしている青年であった。

  胡散臭さを込めた視線を隣に座る青年へと送りつけながら思う。

  幾らなんでもコレは流石にやり過ぎではないか。

  相手に礼を尽くす事は確かに大事だ。

  だが今目の前で話をしている青年は、まるっきり別人と思える程に、普段の彼のイメージとは掛け離れていた。

  破天荒さも、大雑把さも、厭らしさも、今の横顔からは微塵も感じ取れない。

  この彼はつまらない、と文は思った。

  最初に見た時は素直に感心したモノだったが、慣れてくるとソレは平凡でしかない。

  平凡とは何も無い事であり、逆に非凡とは何かが有るいう事だ。

  故に彼女としてはいつもの彼の方が好みであったし、それは当人も同じであった。

  そして彼が我慢の効くタイプでは無い事を、彼女は関わった中で何と無く理解していた。

  微笑みあった後、阿求は軽く姿勢を正してから若干低い声で言った。

 「それでは、そろそろ本題に移りましょうか」

  本題に移ろうとする彼女を、●●は片手を上げて制した。

 「その前に一つ宜しいでしょうか稗田さん。といっても大した事では無いのですが……」

 「なんでしょう? 何でも気にせずに仰ってください」

  気後れ気味の伺いに、阿求は落ち着いた声で返す。

  神妙な顔付きで彼は尋ねた。

 「ありがとうございます。それで質問なのですが、今回の件は公的か私的、どちらの方になるのでしょうか?」

 「公的か私的?」

  質問の内容に、阿求は意味を分かりかねぬといった感じで首を傾げた。

 「つまり簡単に申しますと、今回の来訪はプライベートか否かという事です」

 「ああ、そういう質問ですか」

 「はい。それで、どうでしょう?」

  意味を理解した彼女に、●●は重ねて言った。

  同じく質問の意味を理解した文は、この後の展開を予測した。

 「そうですね、今回はどちらかといえばプライベートに近いですね」

 「プライベートに近い、ですか……」

 「はい」

  少女の回答を聞いた後、●●は顔を俯かせた。

  彼の変化に、阿求と文は其々違った思いを抱いた。

  我慢の限界を示す様に、ぷるぷると小刻みに震える肩。

  溜まりきった鬱憤を吐き出す様に大きく息を吐く。

  そして顔を上げて言った。




 「何だよも~~~、そうならそうと早く言ってくれよ~~~」




  気の抜けた声と共に、彼は一気に萎びれた。

  瞬く間に形態を変えてゆく。

  ぴんと伸ばした背筋は猫背になり、真面目そうな顔付きはやる気のなさそうなモノに。

  変化は姿勢まで及び、先程まで正座だったというのに、今では胡坐を掻いていた。

  緊張を解す様に大きな欠伸を一つ。

  一変した青年の状態に阿求はくすりと笑い、文はですよねーと小声で呟いた。

  背伸びをしながら彼は尋ねた。

 「くっそ~、無駄に疲れたわ~…………あ、煙草吸って良い?」

 「ええどうぞ。気にせずお吸いになって下さい」

 「サンキュー阿求ちゃん。携帯灰皿は有るから、灰の心配はしなくてオッケーよ?」

  心配無用と語尾に付けながら、彼は素早く胸ポケットから煙草と百円ライター、ズボンのポケットから円形の携帯灰皿を取り出した。

  箱から一本取り出し、口に咥えて火を点け、深く吸い込み、暫くして紫煙を排出する。

  大気を侵食する様に撒き散らされる有毒物を見た彼は、うっとりとした様子で目を細めた。

  コインの裏表の様にころりと変わった青年の態度に文は思わず内情を漏らした。

 「いや●●さん、ちょっと態度変え過ぎでしょう……」

  ●●はぐるりと首を彼女に向け、苦言に対する答えを返した。

 「何言ってんだ文ちゃん。仕事じゃないから良いんだっつーの」

 「そういう問題ですか……」

 「見事な論理だと思うが何処もおかしくは無いな! ふはーっ! 煙草美味えーっ!」

  満面の笑みを浮かべながら勢い良く煙を吐き出す。

  最早口調どころか名前の呼び方まで変わっている青年の急速な変化に文は呆れ顔を作ると、これ見よがしに溜息を吐いた。

  内心ではやはりこっちの方が面白いと思っていたが、伝えると調子に乗るので言わない事にしておく。

  青年は煙草を吸っては吐きの動作を只管に繰り返す。

  蒸気機関車も真っ青な勢いで煙を上げる彼を他所に置き、文は阿求に言った。

 「すみません阿求さん、これが●●さんの地なんです」

 「ふふっ、そうみたいですね」

  申し訳無さそうな文に、阿求は笑いを溢す。

 「……余り驚いていないみたいですね」

 「彼の所業は有名ですので。寧ろ予想通りといった感じでしょうか」

 「……確かに」

  二人揃って件の青年を見やる。

  ●●は何時の間にか寝転がっていた。

  畳に頬を摺り寄せながら、こりゃ良い畳ですなとか何とか言っている。

  口元には依然として煙草が健在していた。

  灰が畳に落ちたら危ないと思った文は、注意しようと思ったが、それより早く彼は起き上がった。

  起き上がった彼は、短くなった煙草を携帯灰皿に押し付け、そして新しい煙草を取り出した。

  滑らかな動作でソレを口に咥え、さて吸おうとした時に阿求は彼に声を掛けた。

 「そろそろ落ち着いてきたようですね。では、改めてお話を伺っても宜しいでしょうか?」

  彼女の要求に、●●は瞳の隅を光らせる。

  煙草に火を吐けてから彼は言った。

 「オッケー。それじゃ始めますかな」

  聞き手と語り手の立場に、文は不思議そうな顔をした。

 「あれ? ●●さんが話すんですか?」

  質問に対して●●は、小馬鹿にした様な視線を少女へと送った。

 「な、なんですかその微妙に腹の立つ視線は……」

 「文ちゃんさ、俺と阿求ちゃんの話、あんまり聞いてなかっただろ?」

 「いや、まあ、その……あははははは~」

  誤魔化すかの様に笑う文に、彼は自分の眉間に指先を当てた。

 「今日は阿求ちゃんのお願いで、俺の話をしにきたんだよ。身の上話みたいなモンだな」

 「そうなんですか~……って、あ」

  急に文はしまったという顔を浮かべると、気まずそうに阿求の方を見た。

  おずおずと口を開く。

 「す、すみません阿求さん。さっきはあんな事言いましたけど、実は●●さんに無理矢理連れて来られたんです……」

  申し訳無さを全身から醸し出しながら謝罪をする。

  阿求はさらりと言った。

 「ああ、それも知ってましたよ」

 「ええっ!?」

  驚く文を尻目に、●●はカカカと笑い声を上げた。

 「流石阿礼乙女は格が違ったな!」

  楽しそうに言い放つ。

  天狗の少女は恥ずかしそうに頬に手を当てていた。

  全部バレバレだったという事実に頬を紅く染める。

  そして彼女の悶絶地獄は此処から始まることとなった。

 「んじゃま、気を取り直して始めますか!」

  気合を入れる様に言うと、●●は右肘を卓袱台の上に載せた。

  彼に倣う様に阿求も気持ちばかり身を乗り出し、文も何とか気持ちを切り替えつつ耳を傾けた。

  二人の準備が整った事を確認した彼は、軽く呼吸を整え、そして絵本でも読む様な口調で話し始めた。

  気が付けば何故か偶然幻想郷に迷い込んでいた事。

  森の中を適当に彷徨っていると、偶然空を飛んでいたある少女に見つけられた事。

  とある事情で幻想郷に永住を決め、働き先を探していると、またまた偶然里に下りて来ていたその少女に仕事を手伝って欲しいと頼まれた事。

  手伝い中に働き先と住居について相談すれば、更に偶然とばかりに、住み込みで仕事を手伝ってくれる人を探していた、と彼女に告げられた事。

  そしてこの世界に身寄りも頼る宛ても無い自分は、そのまま済し崩し的に彼女と同居生活を送ることとなった事。

  それから数ヵ月後に彼女と恋人同士になった事。

  彼が其処まで話すと、漸くして話のヒロインが非難の声を上げた。




 「それって私と○○さんの話じゃないですかーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」




  屋敷中に轟かんばかりの絶叫に、阿求は速やかに両耳を押さえ、●●は愉快気に笑い出した。

  文は絶叫を終えると押し倒す勢いで●●の肩を掴んだ。

 「何でそんな事を●●さんが知ってるんですかっ!! 答えて下さいっ!! さあ早くっ!! 早くーーーーーーっ!!」

  犬歯を剥き出しにして訴えながら猛烈に青年を揺する。

  顔はトマトの様に真っ赤っ赤になっていた。

  羞恥を力に変えて己の身体を振動させる少女に、彼は嬉しそうに答えた。

 「いや~、ちょっと前に○○とみすちーの屋台で呑んでる時に聞いちゃったのよね~」

  お酒って怖いですねぇ。

  そう言ってにやける●●に、文は力の限り抗議した。

 「何ですかそれ!? 大体、何で私と○○さんの話をしてるんですかっ!! 阿求さんが聞きたいのは●●さんの話でしょう!?」

 「だってさ~、俺の話なんてしてもつまらないじゃん? 主に俺が。なら、知ってるヤツの話の方が楽しいかな~って。運良く文ちゃんと会ったし」

  最後の部分で口元を厭らしく吊り上げる。

  其処で文は、彼が自分を連れて来た理由を理解した。

  要するに自身は彼の代理に抜擢されたのだと。

  ほいほいと誘いに乗った自分を嘆くも、時既にタイムアップ。

  まだ彼の話は序章しか終わってない。

  文は羞恥と興奮で茹った脳味噌で、彼が何処まで知っているのかを考える。

  最悪のケースは全部知っている事。

  自分の恋人が何処まで話したかは分からない。

  けれどもし、あの人が酔いに任せて全てを事細やかに話していたら……

  不安を増長させる様に、目の前の友人は深く笑みを刻み、そして非情な現実を告げた。

 「添い寝をした事まで知っているのは確定的に明らか」

 「それ最近の事じゃないですかーーーーーーーっ!!」

  一ヶ月以内に起こった秘め事を恋人以外が知っている現状に、文は悲痛の叫びを上げる。

  ●●はその様子を笑いながら見つめ、恥ずかしさで発狂しそうな少女を更に叩き落とすために厭らしく歪んだ唇を開いた。

 「まだまだお楽しみはこれからだぞ~。今から語るのは正に王道の純愛ストーリーだ。主人公がヘタレ過ぎるけど、其処は御愛嬌!」

 「ちょっ!? 何勝手に続けようとしてるんですかっ!! 人権問題で訴えますよっ!?」

 「大丈夫大丈夫、18禁的な部分は隠すから。あ、そんな箇所は一個も無かったっけ。こりゃ失礼」

 「そそそそそんな問題じゃありませんっ!! 話をすること自体が……」

 「良いから良いから、二人の愛の物語を幻想郷の歴史に刻んで貰いなさい。さぁ続けるぞ~」

 「いやあああああああああああああああああああああっ!!」

  純情少女の悲鳴と鬼畜男の至極楽しそうな暢気声が室内に響き渡る。

  友人の恋物語を暴露しようとする青年と、それを何が何でも阻止しようとする恋物語のヒロイン役。

  騒がしい事この上無い二人を、阿求は黙って見つめていた。

  口を挟む余地さえ無い惨状を見据える瞳には、ある感情が宿っている。

  それは二人が部屋に入った当初に、ほんの一瞬だけ彼女が見せたモノと同種であった。










  マヨヒガのとある一室で、八雲紫は不機嫌そうに眉を顰めていた。

  細く鋭い視線は目の前に開かれたスキマへと注がれている。

  スキマの中には今回の目的である青年と、彼の友人の交際相手である射命丸文が映し出されていた。

  二人は取っ組み合いでもするかの様に暴れ捲くっている。

  顔を林檎みたいにした文が、錯乱した様子で彼に喚き捲くり。

  彼はそれを適当にいなしながら話を続け、文は自身にとっての恥部を表沙汰にされる度に叫び声を上げる。

  事情を知らない人が見たら痴話喧嘩、知っている人が見ればいつもの馬鹿騒ぎ。

  どちらに捉えられとたしても、少し度の過ぎたじゃれあいと思われるだろう光景を、紫は不満気に眺めていた。

  鬱陶しそうに天狗の少女を見つめる。

  その目付きは邪魔者を見る眼そのものであった。

  実際紫にとって、文の登場は予定外且つ望まれないモノだった。

  予定では、彼だけが稗田家に来る筈だったのだ。

  無論、其処に来させる様に仕組んだのは紫本人である。

  一昨日の晩に稗田家を訪れた彼女は、突然の来訪に驚く阿求にこう言った。

 『●●という人間はこの世界に害を及ぼす存在かもしれない』

  聞いた当初の阿求は、いきなり何を言い出すのかと言いたげな顔だったが、紫が詳しく話を進める内にそれは氷解していった。

  紫が彼女に話した内容のポイントは三点。

  幻想郷にハーレムを作った彼は、各地に多大な影響を及ぼしている人物であるという事。

  しかしその目的に至った理由が不明瞭だという事。

  それ故に、幻想郷に甚大な被害を齎す危険性を秘めているという事。

  最後の要点を話している途中で阿求は顔を渋め、話が終わると彼女は何事かを考え、やがて納得した様に頷いた。

  緊張した顔付きで頼みを承った後、次に阿求は彼の詳しい情報を紫に尋ね始めた。

  幻想郷にとって危険な存在は、彼女も見過ごせなかったのであろう。

  只純粋にこの正解を想う彼女の姿に、紫は心の隅で後ろめたさを感じてしまった。

  それは自分が吐いた嘘に。

  彼がそんな人間では無い事を一番良く知っているのは自分だというのに。

  本人の知らない所で彼の風評を悪くしてしまったという事実に、紫は心を曇らせる。

  けれど、それでも彼女は知りたかった。

  幻想郷の母、妖怪の賢者、そんな建前を利用してでも、彼の本心、彼の全てを、彼女は知りたかった。

  守矢神社での一件以来、その想いは膨らむ一方であった。

  形容し難い熱く滾る何かに背中を押され続けている。

  独占欲に近いその感情の正体に、紫は未だ気付いていなかった。

  理解する間にも欲求は膨張を続けて彼女の心を占領していき、そして今に至る。

  苛つきを隠しもせずに舌打ちをし、紫は騒ぎ立てている天狗少女を睨み続ける。

  暫くの間そうしていた彼女だったが、やがて一つ溜息を吐くと、今度は悩ましそうな目線を青年へと送った。

  青年は慌てふためく少女を横目に、けたけたと笑いながら話をしている。

  どう見ても意地悪をしている様にしか見えないが、それが彼にとっての親愛の表現なのかもしれない。

  しかしそれは今の彼女にはどちらでも良い事。

  片手を頬に当て、紫は困った様に言った。

 「本当、一筋縄ではいかない人ねぇ……」

  手の掛かる子供を持った母親の様な声色。

  整った眉を八の字にしながら彼女は青年を見つめる。

  スキマの先に居る彼からは、あの時の狂気は塵一つ程も感じられない。

  外界から遮断する様に、完全に密閉されている。

  その意固地にも見える頑なな拒絶に、紫は感情は昂ぶらせ、決意を固めた。

 「いいわ、そっちがそのつもりなら……」

  こっちにだって考えがある。

  そう言ってから紫は勢い良く立ち上がると反転し、広がる視界全域に多数のスキマを展開させた。

  均等の大きさで開かれたスキマの中には、其々別の場所が映し出されている。

  紫はそれら一つ一つを眼を皿の様にして見回し、やがて一つのスキマに注目した。

  スキマの中に映っているのは、凡百な顔付きの青年。

  目的の人物を発見した紫は、嬉しそうに口元を綻ばせると、すぐさま接触行動を開始した。

  抑えきれない興奮と共にスキマへと入り込む。

  その横顔は、ある種の熱に浮かされた少女そのものであった。










 「あ~面白かった」

  一通り話し終えた後、彼はすっきりした顔で息を吐くと、煙草を取り出して火を点けた。

  もくもくと煙を上げながら含み笑いを漏らす。

  気分は思う存分に悪戯をした後の子供の様であった。

 「いや~、やっぱ人の恋バナほど面白いモンは無ぇよな~」

  誰かに聞かせる様にそう言うと、彼は話の途中から静かになった少女を見やった。

  彼が話した物語の主役の片割れは、体面をかなぐり捨てる様に畳に身体をへばりつかせ、座布団で頭を覆っていた。

  素肌が見える箇所全てが茹蛸の様に真っ赤に染まっており、全身を時折ぴくぴくと痙攣させている。

  追加ですすり泣くような声も出していた。

  無理矢理レイプでもされたかと勘違いされるような有様であったが、そんな事実は勿論無い。

  まぁ彼女からすれば、先程までの出来事は有る意味レイプに近かったかも知れないが……主に精神的な意味で。

  仮にも天狗である彼女を此れほどまでに痛めつけた加害者は、目の前の惨状を気にも止めず、明るく声を掛けた。

 「なっ? 文ちゃんもそう思うだろ?」

  罪の意識の欠片も感じられない同意の声に、返ってきたのは消え入りそうな自傷。

 「も、もう死にたい……」

  それだけ言うと文は再び沈黙した。

  彼女の心身はボロ雑巾もかくやという勢いでズタボロであった。

  自分と彼の恋物語を第三者の口から延々と、事細やかに聞かせ続けられた彼女の精神は、途轍も無い程のダメージを受けていた。

  心の中は嵐と竜巻と雷雨が一遍に通り過ぎた後の様にぐちゃぐちゃになっている。

  頭からぷすぷすと煙を上げる彼女に、●●は不思議そうに尋ねた。

 「おいおい、どうした文ちゃん? 俺の話、何か間違ってたか?」

  青年の見当違いの発言に頭の中で何かが切れた文は、頭を覆っている座布団を放り投げながら立ち上がる。

  そして彼の胸倉を掴むと、腹の底から叫んだ。

 「全部合ってるからこうなってるんですよおおおおおおおおおおおおっ!!」

 「なら良いじゃない」

 「良くないに決まってるじゃないですかーーーーーーーーーーーーーっ!!」

  暴走する感情のままに雄叫びを上げ、青年の身体を前後に揺する。

  羞恥心の限界を超えた彼女の顔面は真紅に染まっており、頬は恥ずかしさで溢れた涙の後が残っていた。

  見るも無残に崩壊した顔のまま、●●を問い詰める。

 「何で●●さんがあんな事まで知ってるんですかっ!! 私と○○さん、二人だけの秘密だったのにーーーーーーーっ!!」

 「それは○○に言ってくれプリーズ。話は全部アイツから聞いた訳だし」

 「だ、だからって、此処で話す事じゃないですかっ!!」

 「それはほら、純愛小説並みに稀少な二人の恋愛模様を語る上で、隠し事はいけないと思ってな?」

 「そんな事まで話す必要なんて無いです!! というか頼んでませんからーーーーーーーーーっ!!」

 「あ~……まぁ、面白かったから良いじゃん?」

 「っ!? ●●さんの馬鹿っ!! すけこましっ!! ハーレム王っ!! ああもう、この馬鹿ーーーーーーーーーっ!!」

  反省の色を全く見せない青年の態度に、文は更に激昂を重ね、半分以上けなしているのか分からない罵声を浴びせる。

  ●●は少女の発狂具合を楽しんだ後、この現状を一時放置して卓袱台の向こう側で静かにしている少女に声を掛けた。

 「どうだった阿求ちゃん? 今時珍しい純愛っぷりだったろ?」

  阿求は薄く微笑みながら言った。

 「そうですね、かなり興味深い内容でした」

  少女の感想を聞いた●●は、うむと頷くと再度文へと顔を向ける。

 「良かったな文ちゃん、阿礼乙女は御満悦のようですぞ」

 「だから何ですかーーーーーーーーーーーーーーっ!!」

  ずれた慰めを掻き消す様に叫ぶ。

  負傷者に風邪薬を投与しても、何の効果も無かった。

  そして彼女の怒りは遂に頂点へと達した。

  憤怒と羞恥が少女の背後から立ち上る。

  断罪を告げる裁判官の如く彼女は告げた。

 「もう今日という今日は許しませんっ!! 今から地獄の閻魔様に懺悔して来て下さいっ!!」

 「閻魔様って文ちゃん、映姫は俺の嫁じゃないの」

 「喧しいっ!! 良いから其処へ直れーーーーーーーーーーーーっ!!」

  的確な突っ込みを問答無用でぶった斬りながら、文は愛用の扇を取り出すと、其処に力を溜め始めた。

  彼女の元へと急激に収束する大気が室内を震わせる。

  徐々に強くなる振動に、●●は少し焦った様子で言った。

 「おいおい文ちゃん、此処稗田家の部屋の中なんですけど~?」

 「知るかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」

  一応の忠告も、今の彼女には馬の耳に念仏状態。

  口調まで変わってしまう程に怒りを募らせた少女に●●は、ああ一緒に居ると中身まで似てくるんだなぁ、と思った。

  怒り方まで自身の友人に似てきた少女の姿をしみじみと見つめる。

  その間に収束を完了させた大気は彼女自身の妖力と混じり合い、巨大な圧縮空気の塊へと姿を変えていた。

  原因が原因のためか普段の三割り増しの大きさのソレは、彼女の扇を中心にして集まり、今か今かと放たれる時を待っている。

  強大な暴力を手にしたまま、文は怒りを込めて尋ねた。

 「何か言い残す事はありませんか●●さん!?」

  目の前に存在する暴威を視界の隅に入れながら●●は答えた。

 「特に無いけども……」

 「そうですかそうですか!! それでは早速幻想郷の果てまで飛んで来て下さいっ!!」

  まだ続くであろう彼の言葉を荒々しい口調で遮って文は告げる。

  そして手の内にある殺意の塊を解き放とうとした瞬間。

  彼は少女の後ろを指差し、続きを口にした。

 「代わりに、使用人のお姉さんが何か言いたそうにしてるぞ?」

 「……はいぃ?」

  その言葉に、文はぴたりと動きを止めた。

  大弾片手に後ろを振り向く。

  と、其処にはいつ現れたのか、訪問した際に彼女達を出迎えた妙齢の女性の姿があった。

  女性は開いた襖の奥で姿勢正しく座したままこちらを、正確には文の様子を伺っている。

  状況に動揺する素振りすら見せないのは稗田家使用人の経験故か。

  女性の透明な視線に毒気を抜かれた文は、今自分が此処で何をしようとしていたかを思い出し、我に帰った彼女はすぐさま大気の弾を霧散させた。

  解除された圧縮空気は周りに強めの風を起こしながら、瞬く間に消え去っていく。

  これで大丈夫だろうと思い、文は女性に苦笑いを送った。

  だが彼女の眼は未だ自身を捉えており、その唇は何か言いたそうであった。

  なんだろうと文が気になっていると、阿求が女性に声を掛けた。

 「どうされましたか?」

  阿求の言葉を待っていたかの様にして使用人は口を開いた。

 「○○と名乗る方が、射命丸様を迎えに来ております」

 「……へ?」

  女性から告げられた自身の恋人の名前に、文は眼を丸くした。

  何故彼が今此処に?

  目下急速冷却中の思考回路を働かせる。

  彼女が考えを纏める前に、これはチャンスとばかりに●●は口を出した。

 「おっ、真打登場みたいだな。昼には少し早いけど、そろそろ帰るか文ちゃん?」

 「えっ!? あっ、そ、そうですね、ではそうしましょうか……」

  無理矢理気味の方向転換に、文は混乱しながらも頷く。

  そして本来の目的を忘れかけていた自分に、彼女は今更乍らに気付いた。

  稗田家当主に頭を下げる。

 「すみません阿求さん。用事が入りましたので、私はこの辺りで失礼させて頂きます」

 「そうですか。本日は御足労して頂き、ありがとうございます」

  退出の礼を告げると、文は身形を整え始める。

  先刻の乱痴気騒ぎで乱れた服装を正しながら文は首を傾げた。

 「どうしたんでしょうか急に……私が今日此処に来てる事を、○○さんは知らないと思うんですけど」

 「恋人のピンチを察して駆け付けたんじゃね? いやはや、○○のヤツも空気読めてんな~」

  唇を蛸の口にして煙を吐きながら●●は適当に答える。

  その無関心な態度に、文は鎮めた筈の怒りを五割ほど再燃させた。

 「●●さん? 言っておきますけど、まだ私は怒ってるんですからね?」

 「またまた~。結構満更でも無かった癖に~。照れちゃっても~」

 「っ!! この人は~~~……」

  握り拳を胸元まで掲げる少女を、青年は意地悪気に急かした。

 「んな事より早く行きなさいって。急ぎの用事なんだろ? ○○が待ってんぞ? ほらほら早く早く~」

  平手を振って追い出す様な仕草をする。

  無性に腹の立つ言い方と態度であったが、言ってる事は真実なので仕方が無い。

  目の前の怒りよりも自身の想い人を優先した彼女は、拳を降ろして踵を返した。

  青年に背中を向けながら彼女は言った。

 「……勝ったと思わないでくださいね」

 「もう勝負ついてるから…………っと、帰る前に一つだけ」

 「なんですか?」

  身体の向きはそのままに首だけを回して青年を見やる。

  不機嫌そうな漆黒の瞳に、彼は柔らかく微笑んだ。

 「文ちゃんの話をしてる時の○○は、ガチで幸せそうだったぞ?」

 「んなっ!?」

  刹那、文の頬は桃色へと塗り替えられてしまった。

  言葉の意味を理解した脳回路が鬱蒼とした気分を吹き飛ばし、心臓に喜びの信号を送っている。

  何馬鹿な事を言ってるんですか。

  そう言いたくても言い出せない。

  何故なら彼の瞳は本当に優しかったから。

  それが誠であると、見守る眼差しが証明していたから。

  故に文は、●●に文句の一つも言えなかった。

  全く、だからこの人は嫌いになれない。

 「○○を宜しく頼むな?」

 「……勿論です」

  友を想う青年の願いに、彼女は小さな声に大きな意志を込めて返す。

  少女の言葉に、想い人の友人は好々爺の様に笑った。

 「それでは、お先に失礼します」

 「おう、○○に宜しく伝えといてくれや」

  ひらひらと手を振る青年に、はいと頷くと、文は早足で部屋を出て行った。

  彼女に付き従う様にして使用人の女性も後に続く。

  板張りが軋む音、遠くで何かを話す様な声、玄関が開いて閉まる物音。

  やがて無音になった部屋で彼は鼻で一呼吸すると、煙草の火を消し、新しい煙草に火を点けた。

  思い切り吸い込み、口元から漏らす。

  其処で漸くして彼は、一連の流れを静観していた少女に眼をやり、口を開いた。

 「で、こっからが本番ってか?」

  瓦斯に塗れながら哂う。

  紫煙の奥に映った双眸には、先程まで確かに在った筈の、温かな感情の全てが取り払われていた。










  ○○が稗田家に恋人を迎えに行ってから暫く。

  二人は現在、人里の大通りに居た。

  仲良く肩を並べ、ゆったりとしたペースで歩いてる。

  周囲は活気に満ちており、様々な人が血気盛んに其々の仕事に従事していた。

  魚屋に並べられた多種多様の魚類を横目で眺める。

  旬の魚である立派な秋刀魚を見て、○○は今日は焼き魚にしようかなと思った。

  射命丸文との同居を始めてから一年強。

  その間に培われた家事スキルは、既に専業主夫といっても差支えが無いレベルにまで達していた。

  夕食の献立を考える○○に、文はおもむろに尋ねた。

 「そういえば○○さん、どうして私が阿求さんの家に居るって分かったんですか?」

  稗田家を後にしてからずっと気になっていた事柄に、○○はさらっと答えた。

 「ああ、紫さんに教えて貰ったんだ」

 「紫って……あの八雲紫ですか?」

  彼の口から出た珍しい人物の名前に、文は眼を大きくして聞き返す。

 「うん。急に目の前に変な空間が開いたと思ったら中から紫さんが現れて、稗田家で射命丸さんが●●に弄られてるから助けてきなさい、って言われてさ」

  それで丁度近くに居たから駆け付けたと、○○は言った。

 「そうだったんですか」

  彼の説明に、文は複雑な気分になった。

  紫に言われて来た、と彼は言った。

  彼女はその点が妙に引っ掛かってしまった。

  他の者なら只管に感謝出来たのだが、いかんせん相手が相手。

  胡散臭さに定評の有る八雲紫である。

  大方スキマを使って騒ぎを覗いていただろう事までは分かる。

  だが、騒動を娯楽としている彼女が何故自らその騒動を中断させるような真似をしたのか。

  其処が分からない。

  八雲紫の思考は、凡そ他の者には理解出来ないモノである。

  何か自分が居る事で不都合な事でもあったのか。

  それとも只の気紛れか。

  気になって仕方が無い文は、様々な憶測を展開させた。

  微かにネタの匂いを感じ、新聞記者の血が騒ぎ始める。

  ……が、今更稗田家に戻るという選択は彼女的に有り得なかった。

  そんな事よりも重要な事項が彼女のすぐ横に存在していたためである。

  なので彼女は作り上げた憶測の山をあっさりと崩して、救いの手を差し伸べてくれた隙間妖怪に対して素直に感謝しておくことにした。

  気持ちの回路を切り替えて文は言った。

 「正直助かりました、ありがとうございます○○さん」

 「いえいえ、どういたしまして。まあ、紫さんのお陰なんだけどね」

  恋人からの感謝の言葉に、○○は謙遜しながら頬を掻いた。

 「というか○○さん、紫さんと面識あったんですね」

 「うん、●●の関係でね。何度か有った事はあるよ。といっても、顔見知り程度だけど……」

  言いながら何かを思い出した様な表情を浮かべた後、彼は心配そうな声色で文に聞いた。

 「そういえば、●●のヤツに何かされてたみたいだけど、大丈夫か?」

  ○○の心配に稗田家で●●から受けた辱めを思い出した文は、苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべそうになる。

  しかしそれを最後に貰った言葉で帳消しにし、誤魔化す様に微笑んだ。

 「はい大丈夫です。まあいつものおふざけですから」  

 「そう? なら良いんだけど……もしアイツが何かしたら遠慮せずに言ってくれよ? 速攻でしばきに行くから」

 「あははっ、御心配ありがとうございます」

  躊躇い無く危険な発言を口にする彼に、文は苦笑した。

  普段は温厚な彼だが、こと己の友人に対してだけは違う。

  嫌そうな表情を遠慮無く出し、罵倒罵声を平気で浴びせ、必要と有らば問答無用で手を下す。

  彼の変貌した姿を最初に見た時に仰天した記憶は、彼女にとって忘れ難い大切な思い出の一つであった。

  まあ今ではそれが御互いのスタンスだと分かっているため、敢えて何も言わない事にした。

  気を取り直した彼女は、先程体験した事に対する感想を○○に伝えた。

 「そういえば●●さんって、ちゃんと礼儀を知ってたんですね。ちょっと驚いちゃいました」

 「ん? ああそっか、射命丸さんは知らなかったね。ああ見えてアイツ、結構切り替えの差が激しいんだよ」

  文が持ち出した新たな話題に、○○は何でも無い事を言う様に答えた。

 「アレは切り替えというレベルじゃないと思うんですけど……」

 「あ~、俺も初めて見た時に同じ事思った。アイツは仕事とプライベートで、キャラが全く変わるからなぁ」

 「それにしても変わりすぎじゃないですか?」

 「ははっ、確かにそうだね」

  話しながら文は、先程彼の友人が見せた吐き気を覚えるまでに紳士的な姿を思い出したのか、何ともいえない表情を浮かべる。

  そんな彼女に同情の言葉を掛けながら、○○は真っ青な空を見上げた。

  蒼色のキャンバスに色褪せた過去を思い描く。

  メインの絵柄は悪友との出会いと、それから起こったイベントの数々。

  嬉しい時も、辛い時も、退屈な時も、いつでもどんな時も。

  友人はいつも笑顔だった。

  まるで全てが楽しくて仕方が無いといわんばかりに。

  彼は笑っていた。

  可笑しくも懐かしい思い出に、彼は自然と眼を細めて口元を綻ばせ、そしてふと気付いた。

  そういやアイツ……外の世界に居た時よりも、もっと楽しそうに笑ってるよなぁ。

  ぼんやりとそんなことを考えていると、心細そうな声が彼の耳元に届いた。

 「やっぱり、外の世界に戻りたいですか?」

 「え?」

  ぽつりと漏らした言葉の先に振り向く。

  戻した先には親と逸れた子供の様な表情の、自身の恋人の姿。

  空よりも更に遠くを見つめる青年の眼差しに郷愁の念を感じ取ってしまったのか、少女の顔は今にも泣き出しそうであった。

  彼女の変化に驚いた○○であったが、それも直ぐに納得へと変わった。

  何か勘違いさせちゃったかな?

  自身の行動を反省し、そして少女の誤解を解くために明るく声を掛けた。

 「ああ、違う違う。アイツとの付き合いも長いなぁ……と、思ってさ」

 「でも……戻りたくない訳じゃないんですよね?」

 「まあ、そうだね。一度は戻ろうとは思ってるよ」

 「……そう、ですか」

  聞きたくなかった返事に文は絶望を覚え、顔を俯かせた。

  自分から振った話題とはいえ、実際にそうだと言われるのは耐え難いモノがあった。

  悲しみで胸が締め付けられ、零れ落ちそうな涙で視界がぼやける。

  泣き叫んで引き止めたい衝動に駆られた。

  そんな文の気持ちを打ち消す様に、○○は彼女の頭に軽く手を置くと、ハッキリとした口調で言った。

 「だって、俺の大切な人を家族に紹介したいからさ」

 「……え?」

  唐突に舞い降りた予想外の言葉に彼女は顔を上げると、理解不能といった風な面持ちで彼を見つめた。

  瞼を何度かぱちくりとさせる。

  弾ける様な瞬きをする度に、目尻に溜まっていた涙は飛散していった。

  意味を伺う様な視線を浴びた○○は、自身の発言が恥ずかしくなってきたのか、頭を掻きつつそっぽを向いた。

 「しゃ、射命丸さんさえ良かったらって、話だけどね…………はは、急に何言ってんだろ俺」

  どもりながら訂正を入れる青年を、文は潤んだ瞳で見つめる。

  両頬は熱かったし、鼓動も徐々に激しくなってきている。

  しかし、それ以上の嬉しさが心身を満たしていた。

  期待と喜びと感動を込めた眼差しを、彼女は自身の恋人へと投げ掛け続ける。

 「さ、さてと、それじゃあお昼でも食べに行こうか? 実は最近、良いお店見つけたんだ。結構美味しいと思うんだけど……」

  己の羞恥に耐え切れなくなったのか、○○は彼女の頭から手を退けると早口で言葉を捲くし立てながら歩き始めた。

  動き始めた彼の手を、文は逃さないといわんばかりに両手で掴む。

  触れた先から伝わる好きな人の温度に、一際強く胸が高鳴った。

 「○○さん」

  呼び掛けに、彼はぎこちない動作でこちらを向く。

  自分に引けを取らない紅さの顔を見つめ、少女は華開いた。

 「いつか、連れて行ってくださいね?」

  期待してますよ?

  そう言って文は、満面の笑みを青年に送った。

  秋に咲いた向日葵に○○は数瞬の間見蕩れてしまう。

  そして我に返った後、彼もまた幸せそうに微笑み、頷いた。

 「善処します」

 「はいっ」

  微笑みと共に、二人並んで歩き出す。

  決して離れることの無いよう。

  しっかりと繋がれた手はそのままに。

  固く契った想いをそのままに。

  自分達の恋路を進むような速度で歩み始める……と、その時。

  きゅるり。

  小動物の鳴き声の様な音が、二人の耳に届いた。

 「あ~……」

  聞き慣れた音源に彼は微妙な表情を浮かべ、隣を歩く恋人を横目で覗き見た。

 「あ、あははははは……」

  音の発生源である彼女は、顔をさっきとは別の意味で紅く染めながら。

  繋いだ手とは逆の手を腹部に当てて、照れ隠しする様に笑った。

  どうやら緊張の糸が切れた反動が、胃腸の方へと行ったらしい。

  可愛らしい空腹の訴えに、○○は一つ堰払いをした。

 「……昼御飯は、お腹一杯食べれる処にしようか」

 「……お願いします」

  青年の不器用な気遣いに、文は萎みながら答える。

  もじもじする彼女を眺めながら○○は思った。

  やっぱり射命丸さんの食い意地は凄かったよ●●……

   友人が昔言った言葉に対し、彼は心の中で同意する。

  今日の夕御飯は沢山作ろう。

  見事なムードブレイクの最中、そう考える○○であった。










  その場を支配していたのは静寂だった。

  互いに動かず、双方共に何も言わない。

  凍り付いた部屋の中で唯一煙草の煙だけが、自由を許されたかの様に上空を不規則に彷徨っていた。

  文がこの場を去ってから悠に十分が経過している。

  その間二人は一言も言葉を交差させず、ただ只管に互いの顔を見つめていた。

  向き合う歪みと無表情。

  耳が痛くなってきそうな無音。

  室温が下がったと錯覚しそうな程に冷たい、場の空気。

  硬直した状況を破ったのは招かれた側であった。

  吸い切って短くなった煙草を携帯灰皿に捻じ込む。

  鎮火する際に煙が眼に染みたのか、片目をぱたんと閉じる。

  そして彼は、それが合図であるかの様にして口を開いた。

 「こんな手の込んだ事をしてまで、俺とサシで話をしたかったんですかねぇ?」

  話し方はいつも通りだが、其処に籠められた感情は別物である。

  片目を閉じたまま向かいの少女を見る。

  煩わしいといわんばかりの視線を、彼女は平然と受け止めていた。

  彼の問いに少女は何も返さない。

  人形の様に澄ました顔を見つめながら、●●は一人納得した様子で鼻を荒く鳴らした。

  やっぱり碌な事じゃなかったなと彼は思った。

  思えば、始めから違和感と不自然さを感じてはいたのだ。

  まずは慧音の態度と対応。

  礼儀と誠実と人情が凝り固まった堅物の象徴の様な彼女が、朝っぱらから急用を強引に押し付ける様な真似をする事自体、有り得ないと彼は思っていた。

  確かに今迄にもこのような事は在ったといえば在った。

  が、それでも無理矢理やらせようとした事は一度も無い。

  何故ならこの場合、無茶を言っているのは慧音の方なのだ。

  非は自分にあるのだから、彼女の人柄を考えるとすると、懇願する事はあれど無理強いの類は決して行わないだろう。

  それが今朝に関してはどうだったか。

  有無を言わさず用件だけを伝えられて、逆らえば黙らせるために頭突きをされた。

  そういえば……稗田家に関する概要と基礎的情報を教えている時の彼女は、何処か申し訳無さそうな顔をしていたな。

  自身の想像を決定的なモノにさせたのは阿求が見せたとある変化だった。

  最初和室に入った自分達を見た時と、自分が話の路線を変更させた時。

  彼女は一瞬だけ、ほんの僅かに眼の色を変えた。

  気を配ってなければ気付かれないであろうその変化を、●●は敏感に感じ取っていた。

  彼女の視線が意味するモノも。

  邪魔、障害、場違い。

  まるで異物を見る様に、彼女は文を見つめていた。

  予想を確信に変えた●●は初め、少女の思惑を鬱陶しく思ったが、直ぐにその考えを改めた。

  寧ろ其処までして自分に探りを入れようとする彼女に、彼は興味が湧いた。

  今まで何も接触を計らなかったというのに、今更になって手の平を返したかのようなこの行動。

  気になってしまったモノは仕方無い。

  さてさて、俺は一体何を尋ねられるのかしら?

  厭らしい好奇心に胸を躍らせる。

  実際の処、大方の予想は着いているのだが、それでもそれは相手の口から出るまでは真贋を問えない。

  もし仮に予想通りだとしても、それはそれで好都合なので問題は無かった。

  思考の末端で彼は思った。

  まぁ、どうせいつかは話そうとは思っていた事だし、丁度良いといえば丁度良いか。

  頭の中でそう結論付けながら。

  ●●は卓袱台の向こう側で銅像の様に座っている少女を眺めた。










  第九代目阿礼乙女は感情の全てを内面へと向けていた。

  視界から入る情報を流れ作業で脳へと送る。

  彼女もまた、青年の変化を差分無く感じていた。

  敵意を剥き出しにした態度と歪んだ口元に、余り良い気分はしない。

  感情の変動を覚られない様に彼女は真一文字に口を塞いだ。

  これが彼女の言った彼の裏側、ですか。

  大妖怪・八雲紫。

  一昨日の夜に近い夕方、彼女は屋敷に現れるなり自分にこう言った。

  ●●という人間は、この幻想郷にとって害を及ぼすかもしれない存在だと。

  阿求は当初、その意見に同意は出来なかった。

  彼は自分の事を殆どと言って良い程に知らない様子だが、彼女は青年の事を少しは知っていた。

  主な情報源は屋敷の使用人と上白沢慧音から。

  使用人からは、他に類を見ない程の稀有なチャレンジャー、と褒めているのか貶しているのか判断の付け難い事を聞かされ。

  慧音からは、大馬鹿者で超が付く程の好色者、と至極判り易い表現を聞かされた。

  けれど、どちらも最後に同じ言葉を言っていた。

  でも悪い人間ではない、と。

  彼女達から聞いた内容を阿求は、そのまま紫に伝えたし、その内容に彼女も頷いていた。

  しかしそれでもと紫は引かず、真剣な眼差しを彼女に向けながら説明を続けた。

  鬼気迫る勢いに押されながら話を聞く内に、阿求は事の重大さを理解していった。

  話の終わりに、紫は沈痛な面持ちで彼女に謝った。

 『御免なさい、今は貴女しか頼れないの。最終的な判断は貴女に任せるわ。その眼で確かめて頂戴』

  すっかり困窮しきった妖怪の賢者の姿を目にした時、阿求は先入観を捨てた。

  自分は知らない情報だというのに、一方の情報を鵜呑みにして、もう一方を突っ撥ねるなどナンセンスだと彼女は思った。

  ならどうすれば良い?

  簡単だ、紫の要求通り、本人に直接会ってみれば良い。

  思考ルートを軽やかに滑りながら、阿求は相手を誘い込むための策を纏め上げる。

  やがて次の日には上白沢慧音の自宅を訪ね、大まかな事情を説明し、彼をこちらへ向かわせる様に取り付けた。

  そして今日、この日この時に至る。

  射命丸文の同席、話のズレ等のトラブルはあったが、それも既に終了し……

  現在この場に居るのは自分と彼だけであった。

  青年は眼を細めながらこちらを見つめている。

  煙を避けるために片方だけ開かれた瞳には、何故か若干量の諧謔が含まれている様に思えた。

  先の発言から、己が嵌められた事には気付いているようだ。

  彼の内面が一変している事は見て取れた。

  砕けた雰囲気と無神経で暢気な笑顔は射命丸文の退出と共に鳴りを潜め。

  代わりに鋭い視線と歪んだ笑みが生まれている。

  彼女は自身の保有する情報と先程新たに得た情報を再度確認した後、彼に対する危険度を一段階上げた。

  幻想郷に害を及ぼす存在。

  果たして本当に彼はそのような人間なのか。

  この眼で確かめなければいけない。

  御阿礼の子として。

  幻想郷の記憶として。

  そして何より、自身の探究心を満たすため。

  そうして若き記憶の語り部は覚悟を決めると、重苦しく閉ざされたその瑞々しい唇を動かした。

  貴方の目的は何ですか?










  いきなり核心に迫った少女の第一声に、●●の気分は一気に愉しくなってしまった。

  逸る気持ちを抑えつつ、とぼけた声で返す。

 「んん? それはどうゆう意味だ?」

 「貴方が幻想郷の少女達を手篭めにした理由です。貴方は只の人間で在りながら、異能・人外の力を持つ少女達をその手に収めた。

  只の人間の貴方が。何の力も持たない、幻想郷の住人ですらない外来人が」

  問い詰める様に話す。

  ●●は黙ったまま彼女の話を聞いた。

 「これがどれ程の異常か分かりますか? 幻想郷の主力勢の注目が貴方という一点に集中しているんです。

  過去の歴史を振り返っても、そんな事は一度もありませんでした。しかも彼女達に近付いた目的が、ハーレムを作りたいなどという馬鹿げた理由」

  言いながら阿求は起こっている事象の異常さを改めて認識する。

  そう、確かに可笑しい。

  余りに荒唐無稽過ぎて自然に受け入れていたが、よくよく考えてみればこの状況は明らかな異変である。

  脆弱な人間がこの世界の異能者・妖怪の類を執拗に求め、愛を迫る。

  それ自体がまず可笑しい。

  普通の神経を持っている人間ならば、まず妖怪に近付こうとすら思わない。

  友好的な妖怪も中には居るが、それでも危険には変わりが無い。

  彼が外界から来た人間だから?

  否、外来人だからといっても人間という種族上、本能的に強弱の差が分かる筈。

  彼が彼女達に愛情を以って接したから?

  それも否、彼の友人と射命丸文の様に、御互いが好意を少なからず持っていた場合とは訳が違う。

  吸血鬼姉妹、風見幽香、毒人形、ざっと数えてもこれだけ。

  非友好的に加え、実力も妖怪の中では最高クラス(一部除き)の妖怪達。

  逆立ちしても人間が手出し出来る相手では無い。

  だというのに、彼は彼女達を執拗に求めた。

  何故彼はこんな事をした?

  何が彼を動かしている?

  考えれば考える程、脳裏に浮かぶのは嫌な想像だけ。

  袋小路に陥ってゆくと共に、彼女の双眼は自然と厳しいモノへとなっていった。

 「貴方は一体何をしようとしているのですか? よもや本当に……」

  ハーレムを作るために。

  そのためだけに彼は、こんな命が幾つ有っても足りない無茶をやらかしたというのか。

  馬鹿げている。

  それは余りにも馬鹿げている。

  真実を求める探求者の様に彼女は言った。

 「答えて下さい●●さん。私は、本当の事が知りたいのです」

  挑むような眼付きの彼女に、●●は内心で呆れていた。

  この子は何を勘違いしているんだろうと思っている。

  尋問中の警察官みたいな少女の口調に、●●は自分が犯罪者にでもなったかの様な錯覚を覚えてしまう。

  犯罪者、ねぇ……

  苦笑気味に思った心情は、今の物足りない気分に不思議と馴染んだ。

  宜しい、それはそれで愉しそうだ。

  面白い事を閃いた彼は、それをすぐさま採用した。

  別に嘘を付く訳ではない。

  何故なら自分が今から言う内容は、半分は本心なのだから。

  自虐にも近い感情を弄びながら、彼は厭らしく歪ませていた口の形を変えた。

 「本当も何も、それが俺の最終目的なんですがねぇ?」

 「ふざけないでください」

  はぐらかす様な言い方に、阿求は言及した。

  青年は尖った視線を柔らかくしながら言った。

 「別にふざけてねえって。俺のモンにしたくなったから、そうしただけだっつーの」

 「そんな理由で」

 「俺にとっては充分過ぎる理由だと思うけど? だってあんなに可愛いんだぜ? 欲しいと思うに決まってるじゃない」

 「ですが」

 「男は夢を掴むためなら何でもする生き物なんだ。例えそれが、無茶でも無謀でも」

 「そんなモノ……ですか」

 「少なくとも、俺にとってはそんなモンだ」

  肯定を示す様に頷く。

  青年の話に、阿求は戸惑いを覚えた。

  それと同時に気持ちばかりの安堵を感じている。

  最悪の想像は間違いだったと思い始めている。

  しかしそれを、青年は別の方向へと覆した。

  動揺しているだろう少女を見ながら彼は言った。

 「そんでもって……」

  口の端を高く攣り上げ、下弦の形を作り上げる。

  そして地獄の底から響く様な音色で。




 「アイツ等の全ては俺のモンだ」




  にたりと、彼は醜く哂った。

  凶変した青年の顔付きに、阿求は心臓を鷲掴みにされたかと思った。

  咄嗟に言葉が出ない。

  何とか理性をフル動員させて声を出す。

 「……どうゆう意味ですか?」

 「言葉通りの意味だけど? 当たり前だろ? アイツ等は俺のモンなんだから」

  彼はさも当然とばかりに返した。

 「身体も心も、瞳も唇も、それこそ髪の毛一本さえ、全部が全部俺のモンだ。それを奪おうとする奴は……」

  殺してやる。

  言い乍ら彼は、三日月の瞳から汚泥の様な視線を少女に放った。

  阿求の全身に纏わり付くような悪寒が走る。

 「何を言ってるんですか貴方は」

 「所有者の主張ですが何か? というか、コレって阿求ちゃんに関係有る? 俺達の問題だろコレは」

  捲くし立てる様に言葉を並べられ塞がれる。

  言葉の隅々にはどろりとした欲望が渦巻いていた。

  異論を挟まない口調と思考を絡み取る様な視線に、阿求は無意識に閉口してしまった。

  新たな波風が彼女の心を荒らし始める。

  何だこの人は。

  この人は何かおかしい。

  ちぐはぐだらけの積み木の山。

  一度開いて裏返したカードをもう一度開いたら、全く別のカードになっていた時のよう。

  ノイズ交じりの不協和音。

  彼は……異様だ。

  狂っているとしか言いようの無い異常な独占欲と支配欲に、少女は戦慄を覚えていた。










  スキマの奥で繰り広げられている不気味な光景を眺めらながら、紫は魅惑的な唇を苦しげに歪めた。

  閉じ気味の瞳には失望と焦れが二分されている。

  急転した状況に慄いている少女を見ながら、彼女は後悔にも見限りにも似た感想を漏らした。

  やはりこの子には荷が重すぎたか。

  望みを託した少女の心は、いとも簡単に翻弄されていた。

  御阿礼の子といっても、少女自身の年齢は、まだ十を過ぎたばかり。

  生前の記憶(それすらも微量だ)を引き継いではいるが、それ以外は年相応の少女である。

  精神年齢は他者に比べれば高いかもしれないが、交渉等の経験値は無いに等しい。

  冷静な駆け引きなど、この子には土台無理な話だったという事か。

  稗田家に対して過剰な期待を持ちすぎた自身を戒め、そしてその反対側で狂相を浮かべている男に眼をやった。

  特に整ってもいない顔面を更に歪にして、下水の如く濁りきった瞳から悪意をばら撒いている。

  誰が見ても嫌悪感が沸くだろうその相貌に、賢しい彼女は胸の奥を啄ばまれている様なもどかしさを感じてしまった。

  あの時の狂気を知っているが故に、今其処に有るそれが仮初めのモノだと分かってしまう。

  虚偽の仮面を付けて悪鬼を演じる彼の姿に、紫は情の深い姉が天邪鬼な弟を窘める様な気持ちになった。

  どうして?

  どうして貴方はそうまでして拒むの?

  此処まで舞台を作ってあげたのに。

  貴方が本音を出し易い場所を提供し、天狗を彼に連れ出させ、二人っきりにしてあげたというのに。

  それでも……

  それでも貴方は、まだ自分を曝け出す事が出来ないの?

  滾る焦燥を紛らわすようにして紫は爪を噛んだ。

  強く噛み締めた爪先からじわりとした痛みが伝わってくる。

  口内に滲む鉄の味と鈍い痛みは、気を紛らわす役目すら果たせない。

  もう……

  もう我慢しなくても良いじゃない。

  全部吐き出してしまえば良いじゃない。

  ずっと、ずっと隠してきたんでしょう?

  もう良いじゃない。

  そんな見せかけの嘘なんて吐かないで。

    ねえ貴方。

  私は、貴方の事が知りたい。

  本当の貴方を……貴方の全てを知りたいの。

  だから。

  もうそんな道化の真似事なんてしなくていいから。

  もう私は分かっているから。

  全部……全部分かってるから。

  分かった上で……それでも貴方を受け止めるから。

  だから。

  だから貴方を……

  ●●の心を、私に見せて?

  縋るような想いでスキマの中の青年を見つめる。

  沈痛な胸の内は、決して彼には届かない事を彼女は理解している。

  最早彼に対する疑惑や警戒といった類の感情は、幾分か前から紫の中には存在していなかった。

  それらは既に別の何かへと昇華されており、今在るのは身を切る様な想いで彼を案ずる気持ちのみ。

  直ぐにでもスキマの中に飛び込んで行きたい願望を決死の努力で跳ね除け続けているが、それも限界に近かった。

  自身の想いの丈を吐き出したい衝動に駆られ始めてしまう……その時。

  耳にしただけで誰のモノか分かる程に聞き慣れてしまった笑い声が、彼女の元へと届いた。

  そして彼女は深い痛みと共に知る事となる。

  己の奥底に蝕むようにして根付いている、得体の知れない粘ついた感情の正体を。










  それは突如として起こった。

  険悪な空気と陰険な気分をもろとも吹き飛ばしそうな笑い声が部屋に響き渡る。

  高らかなソレは瘴気に近い流れをばっさりと切り払う様にして。

  時たま音域がズレる高音は、室内で反響する程に声量が大きかった。

  突如発生した大音量に三半規管を揺らされた阿求は、混沌の海に頭までどっぷりと浸かっていた自身の意識を半強制的に引き摺り上げられてしまった。

  我に返った彼女は慌てて焦点をこの場に戻す。

  しかし、今視界に映っている状況を理解する事は出来なかった。

  意味不明を貼り付けた双眼の先には腹を抱えて笑う青年。

  堪え切れないといった風に涙目で卓袱台を叩きつけている。

  その姿は無邪気な子供そのものであった

  一旦笑いを止め、煙草を取り出して火を点けようとするが、震える指先がそれを邪魔してしまって上手く点けられない。

  この状態なら致し方無いと早々に諦めた彼は、再び可笑しそうに笑い出した。

  依然として阿求の思考は整然としていない。

  相手の事などお構い無しに笑い続ける彼を、阿求は何がなんだかといった具合で眺めている。

  はしゃいでいる様にも取れる笑い方に、彼女は悪戯を成功させた悪童を連想し、其処で気が付いた。

  回答の鍵は彼女自身が抱いた感想に。

  鍵穴を探す阿求に、●●は途切れ途切れに言った。

 「くははっ……あ~くるしっ……まさかこんな簡単に引っ掛かると思ってなかったわ…………ぶはっ! あっはっはっはっはっはっ!!」

  言い終わると同時に噴出してしまう。

  今の彼なら箸が転んでも面白いと言い出しそうな調子であった。

  愉快愉快と笑い続ける青年を横に阿求は鍵穴を見つけ、速やかに施錠を開放させる。

  開いた先にあったモノを理解した瞬間、彼女は激昂した。

  憤怒は自身の未熟とこちらに向き合わない相手に。

  全ては彼の策略。

  故に自分は彼の手の中で踊らされていたのだと。

  耐え難い屈辱が彼女を襲う。

  そして漸く笑いの虫を治めた彼が一服を始めた時、阿求はその場に立ち上がると掌を卓袱台へと勢い良く叩き付けた。

  静まりかけた室内に再び騒音が起こる。

  腕から伝わる振動を感じながら、阿求は絶叫に近い声で叫んだ。

 「いい加減にして下さいっ!! 貴方は何処まではぐらかせば気が済むんですかっ!?」

  親の仇を見るような眼で●●を睨み付ける。

  顔は深紅色であった。

  自身の誇りを侮辱された悔しさと怒りが、彼女の顔面を紅潮させていた。

 「私は真剣に聞いてるんですっ!! 稗田家の主としてっ!! 幻想郷の皆を守るためにっ!! なのにどうして貴方は……」

  阿求は言葉に詰まる。

  ぞんざいに扱われた声帯が限界に達したのか、それとも許容量を超えた感情が声を失わせたのか。

  彼女は黙ったまま肩で荒々しく呼吸を繰り返す。

  激変した少女の内外に●●は、しまったやりすぎた、と少しばかりの反省をした。

  それと同時に、そこまでこの世界を想っている彼女に対して純粋に敬意を表したくなってしまう。

  彼はそれを実行するようにして周りを囲う何重もの壁を壊し、自身に幾重にも絡み付く鎖を解いてゆく。

  そして青年は少女に頭を下げた。

 「……なんですか?」

  少女の震える言葉に、彼は心底からの謝罪をする。

 「ゴメン、ちょっと悪ふざけが過ぎたみたいだ。此処は素直に謝ろうと思う」

  ●●は顔を上げて阿求に、申し訳無い、と続けた。

  彼らしくない態度に、阿求はまたそうやって騙すのかと怒鳴り返したくなった。

  が、それも青年の表情を見る前の話。

  彼女が見たのは普段の気の抜けた顔とも、つい先程の狂相とも違う、例えるなら背に乗っている重しを取っ払った様な自由さ。

  まるで風一つ吹いていない広大な草原のような。

  感じた事の無い印象に、気が付けば阿求は荒れ狂っていた怒りを納めてしまっていた。

  彼は彼女に座るよう指示する。

  促されるまま阿求が腰を下ろした後、●●は煙草を吸った。

  彼の口元から白く濁った瓦斯の塊が這い出てくる。

  ゆらゆら漂うソレは、変幻自在に形を変えながら大気へと散ってゆく。

  彼女にとっては毒物以外の何物でも無いソレが、今は何故か自身の心を落ち着かせた。

  そうして時間は過ぎ、彼女が落ち着きを取り戻した頃、彼は煙草の火種を消しながら口を開いた。

 「でもな? さっきの話もまるっきり嘘って訳じゃないんだ。アレはアレで俺の本心だから」

 「それは……」

  尋ねようとする彼女を、彼は微笑みで制した。

  陽だまりを思わせる穏やかな笑顔と穢れの無い双眸に、阿求は何も言えなくなってしまう。

  口篭る彼女に●●は言った。

 「これから話すのは俺の本心だ。此処からは一切の冗談も嘘も吐かない、全部話してやる。まぁ、いつか話すつもりだったしな。その代わり、一つ約束してくれないか?」

 「何をでしょう?」

 「誰にも言わないでくれねえか? 慧音先生と……紫を除いて」

  彼の口から出た人物の片方に阿求は内心で吃驚したが、それを内側だけで押し留めた。

 「……どうしてか聞いても良いですか?」

 「それはまあ、最後に話すからさ。約束、出来るかい?」

  慈愛に満ちた父親が愛しい我が子に向ける様な口調に、阿求は素直に頷いた。

  了承の意に●●は困り顔で謝った。

 「ゴメンな阿求ちゃん。記録に残すのが阿求ちゃんの仕事なのに」

 「いえ、構いません。元々御無理を言っているのはこちらなのですから」

  言葉を返しながら阿求は、自身の心から先程までの刺々しさが無くなっている事に気付いた。

  何故だろう。

  まだ自分は彼の掌の上に乗っているかの様に思えてしまう。

  けれど不思議と不快感は無い。

  その理由は未だ誰も知らない彼の奥底を覗ける事による高揚感かもしれなかったし、彼の安らぎを感じさせる微笑のせいかもしれかった。

  謙虚な言葉に●●は顔を綻ばすと、おもむろに少女に聞いた。

 「阿求ちゃんはさ、今欲しいモノってあるか?」

 「欲しいモノ……ですか?」

 「うんそう、欲しいモノ。何でも良いよ? 今自分が欲しいモノ、ある?」

  尋ね返す阿求に、彼はにこやかに頷いた。

  予想とは違う角度の質問に、彼女は戸惑ってしまう。

  いきなり何を言い出すんだろうこの人は。

  もしかしてまた煙に巻く気ではないかと一寸邪推したが、彼の言からそれは無いと結論付け、阿求は彼の質問を考え始めた。

  稗田家の当主だろうが阿礼乙女だろうが年頃の女の子。

  欲を出せば欲しいモノなんてそれこそ山の様に有るが其処は其処、流石に見栄というモノも存在する。

  数秒の思案の後、彼女は控えめに答えた。

 「それはまあ、それなりにありますけど……」

 「そっか」

  阿求の答えに、●●は嬉しそうに笑う。

  ともすれば羨ましそうだとも取れる笑い方であった。

  そして瞳に雲が掛かると、彼は平坦な声で真実の先端を見せた。

 「昔の俺にはさ、欲しいモノなんて一つも無かったんだ」

 「……え?」

  彼が口にした内容に、阿求は無意識に言葉を返した。

  欲しいモノが無い?

  そんな筈は無いだろうと彼女は思った。

  人間誰だって欲しいモノの一つや二つ、或いは無数に有る筈だ。

  それは物欲だったり金欲だったり、愛情だという形の無いモノも欲求の対象に当て嵌まる。

  何も恥ずべき事は無い、欲望こそが人の生きる糧なのだ。

  阿求はそう言い返したかったが、それを彼の双眼が抑制した。

  瞳に塗られている、悲壮とも自虐とも取れる色が、それが紛れも無い事実であった事を告げていた。

  少女の動揺を知らない●●は、僅かばかり目線を上に逸らす。

 「そら生きるために必要なモノはあったけどな? でも本当に欲しいと思ったモノなんて、一つも無かった」

  謳う様にして言葉を作りながら、彼は過去を思い出す。

  無欲な人生、満たされない日々。

  勉強をして良い学校に入っても。

  幾ら金を稼いで物を買っても。

  周りの連中と馬鹿騒ぎをしても。

  気紛れに恋愛の真似事をしてみても。

  本当に満たされた事なんて、心の底から何かが欲しいと思った事なんて、一度も無かった。

  自分の手元に入ってくるのは、別に人に上げても構わないモノばかりだった。

  ……いや、大事といえば大事だったのかもしれないな。

  けど、ソレを欲しいっていうヤツが居たから……

  あげて喜んでくれるのなら、それで良いかと思ってたんだ。

 「……まぁ、周りの連中はそう思わなかっただろうけどな。だってほら、俺ってこんなヤツだし?」

  憂いを隠すようにして笑ってみせるも、それは何処かぎこちなくて。

  明るく見せるためのソレは、却って少女の憐憫を増す結果になってしまう。

  そういえば、いつからだっけ?

  無理矢理楽しそうにしだしたのは。

  他人との摩擦を減らすために、馬鹿みたいに笑う外面を作ったのは。

  内面では無表情の癖に、能天気な阿呆面を晒している。

  ……ああそうか。

  もしかしたら、そんな事をやってたから、俺はこんな歪な人間になっちまったのかもしれないな。

  だとしたら、とんだお笑い種だ。

  自らを嘲笑する様にして彼は笑った。

 「ホント、何も無かったなぁ……」

  長い溜息を吐く。

  空虚さを漂わせながら彼方を見つめる青年に、阿求は何も言えなかった。

  悲惨とは言えない、滑稽とも呼べない。

  ただ空っぽだった彼の半生に、彼女は迂闊に口を挟めなかった。

  それが失礼に値すると判っていても、憐憫の念を禁じえない。

  何か言わなくては。

  行動に移しあぐねている彼女を他所に、彼は朝陽が昇るような眩しさで言った。

 「でもな? こっちに来てから全てが変わったんだ」

  言いながら青年は視線を阿求に向ける。

  彼の顔からは先程の哀愁は消失していた。

  瞳からは曇天が失せ、代わりに少年の輝きを秘めている。

  がらりと変わった青年の状況に、阿求はどう対応して良いか判らない。

  困惑する彼女を彼は気にしなかった。

 「俺が迷い込んだのは霊夢の処でさ。俺は最初、そっから幻想郷を見下ろしたんだ」

  彼が迷い込んだ先は幻想郷の要点である博麗神社。

  その階段上から、彼は世界の全貌をその目と心に刻んだ。

 「綺麗だと思った。外で目にしてきた何よりも。俺、その時泣いたんだぜ? 嘘みたいだろ? そんでな……」

  其処で僅かに溜めた後。

  彼は嬉しさを前面に出した口調で言った。

 「ソレ以上の感動が、すぐ傍にあったんだ」

 「博麗の巫女……ですか?」

 「そう。ま、後から沢山増えたけどな?」

  阿求の相槌に、●●はくつくつと喜びを噛み殺しながら返した。

  楽園の素敵な巫女・博麗霊夢。

  幻想郷に来た彼が最初に出逢った少女。

  其処に立っているだけで幻想的な彼女の姿を己が両の眼に映した時、彼の心身は進化を遂げた。

  自分が丸ごと変わってゆく快感。

  膨大な、けれど曇りの無い純粋な欲望が心の中に芽吹くのを、その時の彼は実感した。

 「一目見て、欲しいと思った。生まれて初めて心の底から欲しいと。アイツの、アイツ等の傍に居たいと、本気で思ったんだ」

  それは彼にとって叶わないと知りつつも何処かで待ち望んでいた瞬間であった。

  そして彼はその日その時を境に、文字通り生まれ変わった。

  永住を決めて住居を構える間にも様々な少女達に出逢い、そしてその度に欲望という名の樹木は成長を続けていった。

  自身の中で新たな欲求が息吹く度、彼は歓喜に心を震わせた。

  そして下準備を終えた青年は、自身の本能に忠実になった。

  彼はまず、相手の住み家との物理的な距離の問題を解決させるため、里の噂で聞いた話を頼りに単身マヨヒガへと乗り込み、其処で八雲紫との協力関係を結んだ。

  紫のスキマを利用する事により距離を無くした後、漸くして彼は本腰を入れた。

 「阿求ちゃんも知ってると思うけど、何度もアタックしたんだぜ? 気を惹くために馬鹿な真似もやった。その度派手に吹っ飛ばされたけどな」

  痛い思い出に、彼はわざとらしく目を顰めてカラカラと笑う。

  けれど、その痛みさえも彼にとっては喜びであった。

  傷付く度に彼女達に近付けると、その時の自分は理由も無くそう思っていたから。

  それに楽しかった。

  望むことがこんなにも楽しくて胸が躍るという事を、彼は知らなかった。

  難攻不落の城塞に真っ向から果敢に攻める自分を、里の人間はいかれていると嘲笑った。

  馬鹿な真似はよせと、里の守護者からも忠告された。

  それでも諦めるつもりは毛頭無かった。

  ずっと探していた『何か』を見つけてしまった。

  自分には持ち得ないと諦めていたソレ。

  眩しくて暖かくて、傍に居るだけで幸せになってしまう。

  そんな存在がこの世界には確かにあるのだ。

  手を伸ばせば届くかもしれない場所に在るんだ。

  黙って見過ごす事なんて出来なかった。

  ならば……

  ならばするべき事は一つではないか。 

  そうして彼は制御の効かない生まれたての感情に流されるまま、命を惜しむ事を忘れた狂信者のように、只管に我武者羅に行動を起こした。

  策も何も無く相手の場所に乗り込み、只管に真っ直ぐな想いを相手に告げ、毎回の様に騒動を起こしては盛大に吹っ飛ばされる。

  彼はその行為を馬鹿正直に繰り返し続けた。

  それは生涯で一度も求めた事が無かった人間の、余りにも不器用な表現方法であった。

 「怒鳴られた事もあったし、ビンタを喰らった事もあった……けど、それでもアイツ等は俺を、こんな何の変哲も無い人間を受け入れてくれた」

  何がどう効果を発したのかは定かでは無い。

  経験した事の無い真っ直ぐな好意を向けられた故か、熱烈な求愛活動に根が折れたのか、若しくはそれ以外の何かがあったのか。

  想像も判断も出来ないし、しようとも思わない。

  結果として彼女達は自分の存在をその身に受け入れてくれた。

  彼にはその事実だけで充分であった。

  充足感、決して埋まらなかった隙間が満たされてゆく感覚。

  少女達は彼から与えられていると思っているが、それは逆であった。

  彼女達が気付いていないだけで、寧ろ与えられているのは自分の方なのだ。

  温かくて擽ったくて穏やかで、けど不意に泣きたくなるような……そんな、揺り籠の安らぎにも似た感情。

  泣き笑いの様な表情で●●は言った。

 「初めてだった、あんなに幸せだと感じたのは。そして手放したくないと思ったのも。だからさ……」

  区切った後、彼は自身の両の眼に強さを込める。

 「アイツ等を奪おうとする奴は、誰であろうと絶対に許さねぇ」

  裂帛の意志を秘めて。

  獣が唸る様な声で彼は言い放った。

  殺意にも勝る二度目の明確な意思表明に、今の阿求は動じなかった。

  打ち明けられた本心により、寧ろ納得したという感の方が強い。

  執拗なまでに少女達に固執する理由を聞いた現在となっては、その姿すら当然とさえ思ってしまう。

  だがしかし、その考えさえも次の発言で訂正を余儀無くされる事となってしまった。

  獰猛な感情を剥き出しにしていた彼だったが、不意にそれをフッと緩めると……

 「とは言っても、アイツ等が俺に愛想を着かした場合は引き止めねえけどね?」

  あっさりとそんな事を言った。

 「……はい?」

  束縛に近い宣言の後に出現した矛盾に、阿求はつんのめった気持ちになってしまった。

  間の抜けた声を出した阿求に、●●は左手をぺらぺらと振る。

 「だってさ~。その場合は俺が悪いんだから仕方無いじゃん? 流石に無理矢理引き止めたりは出来ねえって」

 「そ、そうゆうものですか……」

 「阿求ちゃんだって、好きでもないヤツと一緒に居たくないだろう?」

 「……それは確かにそうですけど」

 「ま、多分そん時はガチで泣くだろうけどな」

 「はぁ」

  えらくさっぱりとした説明に、阿求は微妙な表情をする。

  ついさっきアレ程の意志を示された手前、はいそうですかと納得は出来なかった。

  探る様な視線を送られた●●は頭を掻きながら、でもと続けた。

 「その時が来るまでは、アイツ等は俺のモンだ。んでもって……」

  俺はアイツ等のモンだ。

  そう言い切ってから、彼は誰もが羨む様な笑顔を作った。

  言外に込められた想いの欠片を寸分違わず読みきった阿求は、呆れた様に言った。

 「成程、自分より相手の気持ちを優先したい訳ですか」

  彼女の指摘に●●はぎくりとした。

  引き攣った顔を見て、図星を突いた事を確信した阿求は溜息を漏らした。

 「全く、貴方という人は……」

 「いや~、まいったねどうも……」

  見事に心理を読まれた●●は、照れ臭そうに頬を掻いた。

  そう、必死の思いで手に入れた大切な少女達が自身の元を離れていった場合、彼がそれをすっぱりと割り切れる筈が無かった。

  出来る事なら駄々を捏ねる勢いで引き止めたいのだが、それを少女達への愛と自分への不信が邪魔をする。

  彼は彼女達には何が何でも幸せになって貰いたいと考えている反面、自分にそれが出来るのかとも考えていた。

  生憎、ハッキリ出来ると断言出来る程の自信と傲慢さを彼は持ち合わせていない。

  力量も度量も器の大きさも、自分には全く以って足りていない事を、彼は重々承知している。

  故に断腸の思いではあったが、決定権は常に彼女達にと、彼は決めていた。

  変な所で臆病な青年に阿求は叱るように言った。

 「細かい所までは知りませんが、貴方は数多の少女達を手篭めにしたんですよ? それなのに……」

 「だってさ~。俺って見た目とか格好良い方じゃないじゃん? 特に此れといって取り得も無いし……それに馬鹿でエロいし」

 「何を今更…………というか自分で言いますかそれを」

  青年の自虐的且つ自己軽視的な発言に、阿求は呆れを通り越しそうになってしまった。

  鈍感も度が過ぎると苛立ちに変わるというのが良く分かる。

  こめかみを痙攣させる彼女に●●は言った。

 「それにな? 俺の嫁達って、大多数は人外な訳なんですよ」

 「? それがどうしたっていうんですか」

  いきなり何を分かりきった事を言うのかこの人は。

  話題とずれた事を話す●●に、阿求は微かな疑問を抱いた。

  ●●は額に手をやると、何気無い口調で事実を口にした。

 「つまり、俺の方が必ず先に死ぬって事」

 「あ……」

  気軽な声色の重苦しい言葉に、阿求は自分の迂闊さを呪った。

  それは紛れも無い真実であった。

  彼は人間で、彼が恋慕する少女達のその殆どは数百数千の時を生きる存在なのだから。

  幾ら相手を想い遣っていても、こればっかりはどうしようもない現実である。

  それ故に阿求は反論出来なかった。

  苦虫を噛み潰した様な表情の彼女に、●●は更に衝撃の事実を暢気な声で伝えた。

 「しかも俺の場合、残りの寿命は十年から二十年の間だからねぇ」

 「っ!? それは……どうゆう事ですか?」

  余りにも短すぎる青年の余命に阿求は心を乱す。

  取り乱す彼女を無視して●●は自身の右手を見た。

  一昨日のある時を境に、手という存在を破棄した筈の右手。

  しかしそれはその日の内に八意永琳の医療技術によって回復もとい修復されており、綺麗に元通りになっていた。

  一度は役目を果たした掌を何度か開閉した後、彼は波風の立っていない水面の様な声で言った。

 「俺が結構な無茶をやらかしてんのは知ってるよな?」

 「は、はい。それなりには……」

  小さく頷きながら、阿求は青年が起こした騒動の数々を思い起こした。

  博麗守矢捜査網、第二次紅魔異変、乱心辻斬り騒動、永遠の夜再び、三途の川ストライキ事件、向日葵太陽、桃色有頂天、旧地獄の白夜。

  大きな騒ぎだけでも此れだけの数が有る。

  小さなモノを入れたらそれこそキリが無かった。

  一度郷縁起に書き記そうかとも思ったが、際限無く増えてゆく事件の数に泣く泣く諦めた過去が彼女にはある。

  でもその事と彼の寿命に何の関係が?

  肯定の意に、●●は頭の後ろで手を組んだ。

 「なら話は早いな。ぶっちゃけそのせいなんだわコレが」

 「ちょ、ちょっと待って下さい。最初からちゃんと説明して下さい」

  簡潔な説明に彼女は狼狽してしまう。

  だから気付いていなかった。

  彼が得たモノの……その巨大さに。

  要領を得ない彼女に、●●は口を尖がらせながら答えた。

 「俺は何の力も無い只の人間だからな。だっつーのにアホみたいに弾幕に突っ込んだり妖怪とドンパチしてたりしたら…………そら当然、命削られるでしょう?」

  其処で漸く阿求は漠然と理解した。

  世界の法則、等価交換。

  何かを得るためには何かを失わなければならない。

  得たいモノが大きければ大きい程、それには相応の代価が必要である。

  彼が手に入れたモノは何だ?

  元々聡明な彼女の思考は、正常になった今、本人の意思とは無関係に精密に動作してしまう。

 「……まさかそんな」

 「理解が早くて宜しい」

  知りたくない情報を解読してしまった様子の彼女に、●●は生徒を褒める様に言った。

  目の前に提示された事実を否定する様に阿求は弱々しく首を振る。

 「冗談ですよね?」

 「初めに言っただろ? 嘘や冗談は言わないって。なので本当です。ちなみに助けてえーりんの御墨付き」

  現実を見ようともしない彼女に、彼はやれやれと鼻息を吐く。

  変わらぬ明るさで意見を両断された少女は、一気に顔色を青褪めさせた。

  精神は揺らいでも思考は健在なのか。

  優秀な思考回路は否が応でも最悪の結末を予測してしまう。

  彼女の反応を当たり前と受け取った●●は、更に言葉を重ねた。

 「ついでに言うと、一昨日早苗に迫ってた馬鹿妖怪と一戦やらかしたから、もちっと縮んでるかもしれんね」

  まるで他人事の様に平然と残酷な事実を告げる青年に、阿求は声を荒げた。

 「貴方は……事の重大さを分かってるんですか? そんな事を続けてたら、死んでしまうんですよ?」

  ●●はまるでそんな事は関係無いとばかりに。

 「十二分に分かってるって。分かった上でやったんだ」

 「……そうでしたね。貴方はそうゆう人でした」

 「物分りが良くて助かりますな」

  如何ともし難い問題に憔悴する阿求に、●●は頬を吊り上げてみせる。

  彼は内面で少女達に謝罪をしていた。

  護身用にと御札をくれた時の霊夢も、御守りと言って護符付きのTシャツをくれた時の魔理沙達も、妖怪と戦う自分を見つめる時の早苗達も、右手を治しに行った時の永琳も。

  皆が皆、己の生命を心の底から案ずる様な顔をしていた。

  思い浮かべる度に心が締め付けられてしまう。

  今直ぐ彼女達の元へ駆け付けて、ただ只管に頭を下げたくなる。

  けどそれでも。

  それでも譲れないモノが有るのだ。

  嬉しいんだ、お前等を守れる自分が。

  楽しいんだ、お前等と騒ぎ回るのが。

  幸せなんだ、お前等の傍に居れるのが。

  お前等のためだったらこの身ぐらい、幾らでもくれてやる。

  その結果で死ぬのなら本望だと、彼は本気で思っていた。

  そして自分が死んでしまった時は……

  何かを解き放つ様にして●●は頭の後ろで組んでいた両手を勢い良く離す。

  分離した両手を卓袱台に置きながら彼は新たな話題を持ち出した。

 「そ・こ・で・だ! こっからが最後の話になるんだけどさ」

  話しても良いか知らん?

  首を伸ばして少女の顔を覗く。

  妙に高くなったテンションの彼の伺いを、自身の無力さを痛感していた阿求は磨耗した声で許可した。

  ●●は沈んでいる彼女に、内緒事を話す時のような潜み声で言った。

 「実はさ、俺が死んだ後の話なんだけど……」

  非常に興味深い内容に、ぴくりと少女の肩が跳ねる。

  反応に彼は笑みを深め、そしてとんでもない事を口走った。

 「慧音先生と紫の力で、皆の頭ん中から俺の存在を綺麗サッパリ消して貰おうかと思ってるんですがねぇ?」

  これって名案じゃね?

  新しい遊びを思い付いた子供の様な瞳で感想を尋ねる。

  尋ねられた側である阿求は驚きに眼を剥いてしまった。

  滅茶苦茶にも程が有る案件に、彼女は自然と口を開いてしまう。

 「何を言ってるんですか貴方は! なんでそうなるんですか!」

 「なんだ? 阿求ちゃんは反対なのか? 我ながら名案だと思ったんだが?」

 「反対に決まってるじゃないですか! そんな馬鹿な真似!」

 「あ、大丈夫大丈夫。阿求ちゃんと慧音先生と紫の記憶は残したままだから」

  青年の頓珍漢な言葉に、阿求は抗議の声を上げ続ける。

 「そんな問題じゃありませんっ! 大体どうして全ての者の記憶を消す必要が有るんですか!」

 「いや~、嫌な事は忘れた方が良いかなと思って」

  その何気無い言葉に、彼女はハッとなった。

  信じられないといった顔付きで青年を見つめる。

 「……まさか●●さん」

  真意に気付いた様子の少女に、彼は自分以外を案じるような声で言った。

 「立つ鳥跡を濁さず……ってな」

  生と死を悟りきった高僧の様な笑みで、彼女の思惑は確定した。

  それと同時に、この人はやっぱりおかしいと阿求は思った。

  自分が愛した者達が悲しまないよう、後悔しないよう。

  それからの日々を幸せに過ごせるように。

  生前の記憶を根こそぎ奪って行くつもりだなんて。

  自身の存在よりも、相手の心を心配するだなんて。

  まるで偽善者、エゴイストではないか。

  全く、なんという人だろう。

  思考を巡らせる阿求を楽しそうに眺めながら、●●は追撃の決め台詞を放った。

 「言っただろ? アイツ等の全部は俺のモンだって。なら当然、記憶も俺のモンだわな」

  心底愉快気に顔を歪める。

  厭らしい筈のその顔つきを、何故か彼女は清々しいと感じてしまう。

  自身に降りかかる死を真正面から受け止め、悔い一つ無く笑って逝ける彼の在り方はとても眩しくて。

  覚悟を決めた人間というものは、かくもこのようなモノなのかと思ってしまった。

  ああ悔しいな、これは悔しい。

  己の生き方を知ってしまった不器用な人間の最後の計画を、奇しくも尊敬してしまったではないか。

  彼の発案を、阿求は決して肯定出来なかった。

  かといって否定も出来ないでいる。

  そのどちらが幸せなのか、今の自分には判らないから。

  だからそれは、実行する側の判断に任せよう。

  二人の首を縦に振らせられるかどうかは彼次第だ。

  考えを纏めた後、彼女は満足気に笑う青年に、少しばかりの仕返しをする事にした。

  今まで随分とやられたのだから、これ位は良いだろう。

  小悪魔的な色を携えた瞳で豪快に笑う青年を見やりながら、彼女は楽しげな声で言った。

 「そうですね。馬鹿だ馬鹿だとは思っていましたけれど、此処まで馬鹿だとは思いませんでした。これはもう、国宝級の大馬鹿ですね」

 「ちょっ!?」

 「おっとと。グーの音も出ない程に凹ましてしまった感、ですか?」

  ストレートな罵倒にショックを受ける青年に、誰かの言葉遣いを拝借した彼女は朗らかな微笑を浮かべた。










  それから一息吐いた後。

  ●●と阿求の二人は、他愛も無い雑談(主に○○の恋愛話)に花を咲かせていた。

 「でな? そんな事があった癖に、まだあの二人は純潔ボーイ&ガールなんだよ」

 「本当に純情なんですねぇ……」

  面白可笑しそうに話をする●●に阿求は感想を漏らす。

  現在の話題は、彼の友人の誕生日に起こった出来事であった。

 「やっぱそう思うよな~? 俺だったらもうヤっちまうっつーの」

 「それは●●さんだけだと思いますよ?」

 「うわ~、これまたバッサリと切られた感」

  的確な突っ込みを入れられ、●●はがくりと項垂れる。

  大げさなリアクションを取る彼を見て、阿求は楽しそうにくすくすと笑った。

  砕けた態度で青年に接する彼女の中には、遠慮という概念は最早存在していない。

  全てを知ってしまった今となっては、もうそんなモノは必要無かった。

 「むぅ……阿求ちゃんって、結構毒舌なのかしらん?」

 「さあどうでしょう? もしかしたら仮面なのかもしれませんねぇ」

  愉快そうな視線を送る。

  この子絶対Sだなと判断した●●は、思いっきり渋い顔を作った。

  彼の珍妙な顔を堪能した後で阿求は言った。

 「そういえば●●さん」

 「何じゃい?」

 「慧音様と紫様は分かるんですけど、どうして私にも教えてくれたんですか?」

  終わった話を持ち出してきた彼女に、●●はそんなの当たり前だろうと返した。

 「え?」

 「だって、阿求ちゃんは幻想郷の記憶じゃない」

  理由はそれだけで充分だといわんばかりの物言い。

  それだけで阿求は彼が何を言いたいのか分かってしまった。

  つまり彼は、覚えていて欲しいのだ。

  此処に居た事を。

  例え人々の記憶から自身の存在が消えても、己が愛した世界にだけは自分が在った事を覚えていて欲しい。

  それは全てを手に入れた青年が終わりに望んだ、ささやかな願いであった。

 「ありがとうございます……ハーレム凄いですね」

 「それほどでも……ありますっ!」

  儚い笑みに豪胆な笑みを返す。

  互いに微笑みあった後、彼は付け加えた。

 「追加で言っとくと、紫と慧音先生に頼む理由もちゃんと有るんだぞ?」

 「そうなんですか? 私はてっきり、お二人の能力が一番都合が良いからだと思ってたんですが……」

  境界を操る程度の能力と歴史を食べる(隠す・創る)程度の能力。

  紫の力で記憶を書き換え、慧音の力で歴史を創り変える。

  彼の計画上、この二人の能力は非常に相性が良い。

  その点を考慮した上での選択だと阿求は思っていた。

 「そら能力的に考えても最適だけどな? 俺にとってあの二人は別の意味で特別だからなぁ」

 「……それは、聞いても良い事なのでしょうか?」

  好奇心を隠した声色で伺う少女に、●●は勿論と頷いた。

 「慧音先生は、俺が一番尊敬している人なんだ」

  この世界に迷い込んだ自分を親身になって世話してくれた女性。

  何度叱られても懲りずに無茶を続ける己を、決して見捨てずに何度も窘めてくれた人。

  彼女から受けた恩は、一生を掛けても返しきれない程である。

  だからせめて最後くらいは思いの丈を全て伝えたいと、彼は考えていた。

  ●●の言葉に、阿求は片眉を上げながら言った。

 「尊敬、ですか。●●さんの口からそんな言葉が出るとは思いませんでした」

 「手厳しいわぁこの子……俺って結構、義理堅い男よ?」

 「ふふっ、冗談です。分かってますよ、貴方はそんな人ですよね」

 「な~んか引っ掛かる言い方ですなぁ……」

 「まあ気にしないで下さい。では、紫様の方は?」

  ぶすっとした顔で抗議する青年を宥めながら、阿求は本来聞きたかった理由の方を口にした。

  上白沢慧音についての予想は幾つか出来ていたが、八雲紫については些か不明であった。

  果たして彼女は、彼の中で恩人というカテゴリに入るのか。

  それとも別の枠に入っているのか。

  ●●は区切れの良い声で答えた。

 「紫は、俺が一番信頼してる女だからな」

  アイツが居なかったら今の俺は此処に居なかった。

  相手への感謝を堂々と言い切った彼に、阿求は圧倒されてしまった。

  それ以外の言葉は不要とばかりに口を塞いだ彼の顔には、自身の協力者への全面的な信頼が満ち満ちていた。

  貼り出された信頼感に、阿求は静かな声で言った。

 「彼女の事を、とても信頼なされてるんですね」

 「あったりまえよ! アイツは俺の相棒だからな。相棒を信じなくて何が相棒か」

  グッと親指を立ててそう言った後、●●は小声で、まあ別の意味でも相棒ですけどね、と呟いた。

  青年の意味深な発言を流しながら、阿求は彼から絶対的な信用を得ている妖怪の事を思った。

  彼女がこの話を持ち出した事を彼が知ったら、どう思うだろう?

  疑う事無く彼女を信じていたのに、それを裏切る様な真似をされたのだ。

  どう転んでも悪い展開しか浮かばない。

  故に阿求は元々伝えるつもりのなかった話を、更に頑強に封印する事にした。

  そうこう考えていると部屋の外から声が掛かった。

  艶のある女性の声に返事をする。

  音も立てずに襖を開けた使用人は、落ち着き払った声で昼食の準備が出来た事を二人に伝えた。

  用件を済ませた女性が再び襖を閉めた後、●●は大きく伸びをした。

 「うあ~……っと、もうそんな時間か」

 「そうですね。気が付けばあっという間でした」

 「んだな。うお~肩凝った~」

 「今日は本当にお疲れ様でした。さて、それでは昼餉にしましょうか」

 「あ~……悪ぃな。今回は遠慮しとくわ」

  労いと共に出した食事の誘いを、●●は申し訳無さそうに断りながら立ち上がる。

 「ちょっと用事があってな」

 「そ、そうですか。でしたら仕方ありませんね」

  残念そうな少女の色に気付いた彼は、其処に明朗な声を重ねた。

 「また来るからさ。そん時は御馳走してくれ」

  期待してますと添えながら、●●は人好きのする笑みを浮かべる。

  その言葉に期待感を膨らませた彼女は、倣うようにして顔を綻ばせた。

 「わかりました。死ぬ前に来てくださいね?」

  彼女の諧謔味を帯びた返事に●●は若干の驚きを見せたがそれも一瞬の事。

  速やかに驚きを不敵さに変えて、彼はお得意の口調で言った。

 「女の子との約束は守るのではなくて守ってしまう者がハーレム王。お前全力で待っていて良いぞ」

  不敵同士で見つめ合ってから数秒。

  計った様にして二人は同時に噴き出した。

  控えめな笑い声と品性の欠片も感じられない笑い声が室内に響く。

  笑いながら彼は言った。

 「それじゃあ帰るわ。またな阿求ちゃん」

  微笑みながら彼女は返した。

 「はい、それではまた」

  別れの言葉を交わすと、彼は廊下に向けて歩きだした。

  その背中を、阿求は掛け替えの無いモノを見るようにして眺める。

  瞳の奥には親愛に近い感情が宿っていた。

  軽い足取りで歩を進め、やがて彼は襖の前に辿り着く。

  そして取っ手に手を掛ける前に、くるりと反転した。

  急に振り向かれたことにより、青年の背中に熱い視線を送っていた阿求は彼とバッチリ眼があってしまった。

  見つめていた気恥ずかしさにより、頬が紅く染まる。

  跳ね上がった動悸を抑えながら彼女は尋ねた。

 「どどどどうされましたっ!? 何か忘れ物でもっ!?」

  緊張と動揺で見事にどもり捲くってしまう。

  彼は少女の変化を毛先程も気にしない様子で、首の後ろに片手を当てながら言った。

 「忘れ物っつーか…………阿求ちゃん、一つ頼まれてくんねえか?」

 「はい何でしょうっ!?」

 「うーんとな……」

  考え込む彼を視界に入れながら、阿求は心を落ち着かせようと試みた。

  静まれ静まれと自身の心臓に念波を送る。

  それが功を奏したのか徐々に落ち着きだした頃。

  彼は双眼を脂っこくギラつかせ、顔の筋肉を奇怪に歪めながら。




 「今日は寝かせねえぞって、紫のヤツにそう伝えといてくれや」




  話の大元をひっくり返すような爆弾発言をした。

  狂喜とも狂愛とも取れる感情を顔全体にべったりと貼り付けて。

  己がこれから起こす事を愉快で堪らないと言いたげに。

  空前絶後の最大級の哂いを創造しながら。

 「……は?」

 「頼んだぞ? んじゃ、またな~」

  盛大に呆ける阿求を置き去りにして。

  今度こそ彼はその場を立ち去った。

  そして部屋に残ったのは、巨大な爆弾を手元に残され、どうしたら良いのか分からないと言わんばかりに呆然とする彼女だけ。

  座り尽くす少女を他所に爆弾は解明という名の導火線を伝ってゆく。

  じりじりと迫る火種はやがて根元に達し……

  爆発と同時に彼女の脳と腹筋を崩壊させた。

 「……ぷっ! ははっ!! あはははっ!!! あはははははははははっ!!!!」

  生まれて初めての大爆笑。

  小さな両手でお腹を抱えながら畳の上を笑い転げる。

  目尻には涙が滲み、肺は酸素を求めて止まない。

  笑いの渦に呑まれながら彼女は思った。

  なんということだ。

  彼は初めから分かっていたのか。

  仕組まれた内容の、その全てを。

  分かった上で彼はその舞台に自ら上がったというのか。

  去り際の種明かしに驚愕する。

  だがそれさえも今の彼女には腹筋を活発にさせる要素にしかなりえない。

 「あはははっ! くっ!! っははっ!!! ぁははははははっ!!!!」

  結局、最初から最後まで自分……もとい自分達は彼の掌の上に乗っていたという事か。

  のせられていたという屈辱すら彼の滑稽さに裏返されて、笑いのエッセンスに変わり果てる。

  なんて人だろう。

  なんて馬鹿で愚かで純粋な生き様なのだろう。

  心の中で幾ら罵っても、その想いの色は蛍光色。

  誹謗罵倒の類は吹き荒れる心地良い暴風にかき回され、相手への敬意へと発展する。

  ああ面白い。

  何処まで愉快な人なんだろう。

  お見事です●●さん。

  この私、第九代目阿礼乙女・稗田阿求は、貴方様に感服致しました。

  褒め称える様にして歯を剥き出しにした笑い顔を作ると、彼女は虚空に視線を送った。

  笑いを噛み殺しながら彼から頼まれた伝言を対象に伝える。

 「聞こえましたか紫様? あの人は今からそちらに向かうそうですよ?」

  暫く待っても、標的にされた女性はうんともすんとも言わなかった。

  反応を特に気にせず、阿求は身体を大の字にして大きく大きく息を吐いた。

  肩の荷が下りた様な達成感を実感する。

  彼という人間の内面を覗いた結果は、紛れも無い白。

  其処に在ったのは、少女達の幸せのためならば自身を滅ぼす事さえ厭わない信念のみ。

  抜け殻だった過去に別れを告げた男の、儚くも幸福な夢。

  危険性なんて初めから無かった。

  始まりから終わりまで綺麗に締め括ろうとする生き様の、何処に危険が在ろうか。

  天に座する星々を、莫大な犠牲を払ってしてまでその手に掴んだ者を何故咎める事が出来ようか。

  故に心配すること等、何一つ無い。

  阿求はそう断言すると、思考回路のスイッチを切り替えた。

  全開で稼働していた脳回路が急速に冷却されてゆく。

  私の役目はこれで終わりですね。

  胸中で溜飲を落とすと、彼女は別の思考を展開させ始める。

  さてと、それでは……

  此処からは、私の時間です。

  嬉しそうに頬を緩ませる。

  取り敢えずのタイムリミットは、何時まで経っても来ない自分を使用人の女性が呼びに来るまで。

  それまでは自分の世界に没頭しよう。

  まずは何を考えましょうか?

  脳裏に浮かべたのは、茨の道を望んで歩む青年の姿。

  つい先程、彼の口から語られた生き様と在り方をリピートする。

  覚えている内に書き残しておこうかと思ったが、それを阿求は自制した。

  それは無粋というモノである。

  なら新鮮な今の内に、出来うる限り自身の記憶に書き記そう。

  巻き戻しと再生を繰り返す。

  途中、ふと彼女は思い至った。

  そうだ、今度彼が来た時には何を聞こう?

  少女達の中で誰が一番好きか、とか?

  ○○さんとの馴れ初め?

  それはそれで面白そうですね。

  ……そういえば、あの人は○○さんの記憶も消すつもりなのでしょうか?

  彼にとっては縁の深いらしい青年。

  聞くところに寄ると、外界時代からの付き合いだという。

  唯一とも呼べる外との繋がり。

  彼はそれすらも奪って消えるつもりなのだろうか。

  うーん……どうなんでしょう?

  考えてみても彼の思考等、到底読める筈も無く。

  悩む事をあっさりと放棄した後、彼女は決めた。

  良し、今度来た時に聞いてみましょう。

  弾む想いで青年が来る日を待ち望む。

  まるで彼の陽気さが感染ったかの様に、阿求の胸は躍ってしまう。

  そんな事を考えながらも、彼女は心の中核で強く願っていた。

  願わくば……

  願わくば彼の人生に、幸多からん事を。










  八雲紫は静かに佇んでいた。

  まるで一枚の絵画の様にその空間に描かれている。

  彫刻の様に静止した横顔は、今にも壊れそうに思えた。

  事の顛末を見終えた彼女の深層心理は混沌としていた。

  己の浅ましさと愚かさ、自身の無神経さと無遠慮さが、後悔という名の刃となって彼女の心を切り刻んでいる。

  痛みに悲鳴を上げる間にもそれは続き、無慈悲にも彼女の心身を痛めつけた。

  やがて限界を超えた精神の痛みは、涙という形となって彼女の目尻に溜まってゆき……

  次の瞬間、堰を切った様にして溢れ出した。

  止め処なく流れる感情の奔流を、彼女は両手で覆いながら言葉にならない声を漏らす。

  えづきながら口を開くも、それは音に成らず、只悪戯に嗚咽を吐き出すのみ。

  言葉に出来ない想いは、故に内面に。

  彼に対して行った仕打ちに懺悔を繰り返す。

  ごめんなさい。

  本当にごめんなさい。

  謝る度に頬を伝う滴は量を増し、白磁の様な頬を重ねるようにして濡らす。

  それでも彼女は謝る事しか出来なかった。

  謝罪の言葉は明らかな裏切りに。

  私は……

  私はなんて愚かな真似をしてしまったのだろう。

  彼がそんな人間では無いと分かっていた筈なのに。

  彼の事は私が一番知っていた筈なのに。

  だというのに。

  私は彼を試してしまった。

  懐疑でも無く、疑惑でも無く。

  ただ己の好奇心を満たしたいが為に。

  そんな自分勝手な我侭の為に。

    嘘をでっち上げて、他人を利用して。

  そして……

  彼という人間の、全てを暴いてしまった。

  過去、現在、未来、その在り方全てを。

  彼を構成する根幹を。

  決して他人が不用意に触れてはいけない領域を。

  私は自分の為だけに……

  ごめんなさいと。

  彼女は何度も繰り返す。

  まるで壊れたカラクリ人形の様に同じ言葉を口にする彼女の姿は、普段の余裕に満ちた印象とは似ても似つかなかった。

  凄惨な自己嫌悪に陥ってしまう。

  己の傲慢さに紫は反吐が出そうだった。

  自身の度し難い醜さに気が狂いそうになる。

  純粋にこの世界の事を思った少女と自身とでは、罪の意識の重さが違い過ぎた。

  思えば、あの時の自分はどうかしていたのだ。

  何故あそこまで執拗に彼の事を探ろうと思ったのだろう。

  悔やみに悔やんでも事態は既に手遅れ。

  知る前にあった高揚感も、知った後では良心の呵責の材料にしか成り得ない。

  得た知識全てをかなぐり捨てたい衝動に駆られてしまう。

  ……けれど。

  それでも青年の只管に愚直で愚鈍な生き方だけは、消したくないと紫は思った。

  己の何もかもを省みないその理由。

  ただ死を待つだけだった人生を転換させた出逢い。

  渇望し続けた感情が突如として湧き上がった瞬間の例えようの無い感動。

  望みを叶えるために躊躇い無く己を捧げる信念。

  時には狂気さえも伴わせることを厭わない意志。

  最後には自身を世界から消滅させるという決意。

  紫にはその全てが眩しく映り、尊く思い、そして愛しかった。

  まるで七色に光輝く宝石を眺めているかのよう。

  故に彼女の中には、懺悔以外の感情が存在していた。

  それはつい先程出来上がった一つの狂おしい情念。

  好奇心から変化したソレは嫉妬と苛立ちへと姿を変えて……

  最後に、愛情という名の華を咲かせた。

  そう、彼女は青年を愛しいと想ってしまった。

  彼が欲しいと、傍に居たいと願ってしまった。

  青年と繋がれた少女達がかつて感じたその想いを、彼女は得てしまった。

  暗い感情の対面に位置する仄かな温かさ。

  触れるだけで沁み入るような熱が生まれてくる。

  彼と共に在れたなら、ソレはもっと温かくなるだろう。

  しかし。

  その願いは叶わないという事を、彼女は熟知していた。

  何故なら自分は最低な女だから。

  無理矢理に彼の過去を覗き見た、卑しい女だから。

  そんな自分を彼は許すだろうか?

  きっと許さないだろう。

  自分なら絶対に許さない、八つ裂きにしてスキマに放り込んでやる。

  そんな行為を私は彼に対して行ったのだ。

  故にこの想いは、あの人には絶対に届かない。

  なんという悲劇であろうか。

  やっと自分の気持ちに気が付いたというのに。

  あろうことか己の手で、その掛け替えの無い感情を潰してしまった。

  どす黒い負の感情が、嫌悪に囚われた彼女の心を覆い尽くしてゆく。

  底無し沼に這入り込んだかのような感覚。

  どろどろとした濁りが小さく灯る光を汚染してゆく。

  耐え難い苦痛が容赦無く紫に襲い掛かる。

  それを彼女は当然の報いとして受け入れようとした……刹那。

  朽ち果てた少女の精神から引っ張り出されたのは、愛しい者の言葉だった。

 『紫は、俺が一番信頼してる女だからな』

  その言葉に、何の臆面も無く出されたその言葉に。

  八雲紫は自身の欠片を取り戻す。

  次に飛び出したのは彼が最後に言った言葉。

 『今日は寝かせねえぞって、紫のヤツにそう伝えといてくれや』

  彼らしさを全開にした笑顔で言った置き台詞。

  内容に紫は違和感を覚えた。

  何故彼はあんな事を言ったのだろう?

  己の過去を晒すハメになったのだ。

  その元凶の顔など、普通なら見たくないと考えるのが一般的である。

  だというのに、どうして彼はあんな事を……

  違和感の正体を解析してゆくにつれて、紫は彼の言った事を思い出した。

 『アイツは俺の相棒だからな。相棒を信じなくて何が相棒だ』

  絶対的に自分を信じきった声色で彼はそう言い切った。

  疑う事など無いと。

  考えることすら愚かだと言わんばかりに。

  それはつまり……

  疲弊しきった思考が自己の安定を優先した結論を組み立てる。

  そうして出来上がった結論は。

  まだ貴方は私を信じていると。

  まだ貴方は私を必要としてくれていると。

  そうゆうことなの?

  この場に居ない想い人に彼女は問いかける。

  他者が評すれば余りにも身勝手な妄想であったが、それでも今の彼女にとっては信ずるに値する想いつきであった。

  何と言っても自分が想いを寄せる青年は、規格外も規格外。

  幾度も常識を覆してきた男なのだから。

  一般常識なぞ、当て嵌まる訳が無い。

  事実、彼はこちらに向かうと稗田の子に告げたのだ。

  それが真実で有るのなら。

  彼は今、此処に向かっているという事になる。

  再び胸の奥に淡い光が灯るのを紫は実感する。

  その温もりを絶やさぬよう、彼女は顔を覆っていた両手を退けると、両頬を勢い良く叩いた。

  痺れる様な痛みが顔全体を突き抜ける。

  目が覚める様な感覚と同時に、自身を覆い尽くしていた暗闇は波が引くようにして消失していった。

  残り滓さえ残さないという勢いで目尻を拭う。

  拭った後の両の瞳に、負い目は一切無く。

  一途な想いを秘めた一対の鮮烈な真紅が、其処には在った。

  ありがとう●●。

  こんな私にチャンスを与えてくれて。

  そしてごめんなさい。

  貴方の全てを奪ってしまって。

  精一杯の感謝と謝罪を青年に送る。

  だから……

  どん底から這い上がった情熱が、初速から一気に最高速にまで達する。

  だから代わりに……

  限度一杯にまで上がった愛情という名の炎は留まる事を知らないかのように燃え盛る。

  私の全てを、貴方にあげる。

  そして彼女は同性も異性でさえも堕ちる様な妖艶な笑みを浮かべた。

  彼が疾走っているであろう彼方を見つめる。

  青年の到着を待ち焦がれる横顔は、誰がどう見ても恋に恋する乙女のモノであった。



新ろだ654
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最終更新:2011年03月27日 23:27