――――退屈だ、なんて思った。




最初は、そんなものだった。
また何か異変でも起こるんだろうって、いつものように期待してた。
そしたら、案の定。

案の定、私はいつものようにおかしなことに巻き込まれていた。




金属や硝子で出来た建物が溢れていた。
聴いた事も見た事も無い喧騒に町は溢れていた。
私の知らないことが溢れていた。


まるで、異変が起きたときのよう。



まるで、紅霧に満ちた夏の夜のような。

まるで、風雪舞い散る春のような。

まるで、永夜に満ち充ちる満月のような。



まるで、そんな異変のように。



何も分からなかった。
何も知らなかった。

だけど、いつもと同じだろうと思い込んでいた。




そして、異変の張本人……だと思っていた、○○が居た。


変なヤツだなんて、最初は間違い無くそう思ってたけど。

わざわざ色々と苦労して、大変だろう思いをして、私を住まわせてくれた。
私の知らなかった、本当の非幻想の最中を連れ歩いてくれた。
流れて行く日々の中でさえ、向こうへ帰る手段を模索してくれた。

どうしてそんなに良くしてくれるかだって、聞いてなかったのに。




……私は何かしただろうか。

……何かしていたのだろうか。




何もしていなかった。

何も出来ることなんて無かったんだと思う。

そうやって諦めていた。



いつか帰る時を遥か彼方に眺めながら、彼と共に過ごす時が惜しかった。


未知を目の前にして心躍らせ、無知にただ笑っていた時。
それでも更に楽しいことが欲しいって、浅はかにもそんな風に過ごしていた時。
不釣合いだろうにおめかしして見たりなんかして、少し調子付いてみたりした時。


そして、辛くって不安になって、怖くて恐くて仕方なかった時。

○○は、ずっと隣で笑っていてくれた。
こんな私を、ずっと抱きしめてくれた。





……だけど、私は何もしなかった。



彼の支えに安心して脱力して、身を任せるに任せ切っていた。
それで楽しかったから、後先なんて殆ど考えてなかった。

きっと良いように転がるだろうって、いつものように。



そう考えていたから――――







私は、幻想に否定された。

きっと、そうなんだろう。
誰も迎えに来ないって、そういうことなんだろう。
それは、私が私であること全ての否定。

私は……。




「…………私は、誰?」




沈黙が答えてくれるはずも無い。

足音だけは、草の根を掻き分けて静かに響く。
誰そ彼も気にしない雑踏のように。

私は、今や誰からも必要とされていないから。







……それでも、馬鹿みたいだなぁ、私。


こうして足を進めているのは、誰の為?
こうして歩き慣れた道を進んでいるのは、何の為?
そうして行き着いた先の答えを知ろうとしているのは、自分の為?


……本当に、私のためなの?





小径は続く。

でも、立ち止まることも出来る。
私はふと足を止めた。


天蓋は曇りにくもり、さっきまで満ちていた月はまるで嘘のよう。

頬を撫でる風は湿っぽい夏の空気で、何処か不安を誘う。
真っ暗で見えないけれど、此処が何処かくらいは肌で分かる。
ただ、この道を真直ぐ進んでいけば良い。

ふ、と雲の切れ間から月明かりが差す。



何とは無く、振り返った。







もう彼の家は見えない。



……このまま、踵を返して○○の家の玄関を叩いても良いかもしれない。


幻想でさえ忘れて、ここで生きる。
幻想からさえ忘れられて、だけど○○が覚えていてくれる。



私のことを。
きっと彼は待っていてくれるから。



眠そうな目を擦っていつものように面倒臭そうに、だけど何処か楽しげで。
不機嫌な顔を見せれば、すぐ冗談なんか言って笑わせてくれて。
今日は何処へ行こうか、なんて聞いて来る言葉だっていつも楽しみだった。


そうして迎えてくれるはずだから。



本当に馬鹿だった。



それがいつまでも続くなんて事、あっちゃいけないことだったのに。
どんな平和でさえ異変で掻き乱されるって、此処でとっくに学んでいたことなのに。

だけど、だけど本当に、楽しかったんだ。




たったの、一ヶ月。




……此処で生きた毎日と同じくらい、大好きだった。




「……だけど」




振り返って、どうするの?



私は、確かめに行かなきゃいけない。
此処に在ったはずの、私という存在の意味を。




恐い。



足は震える。

冷や汗が伝う。

息は荒い。




恐かった。





誰か待っていたりするんだろうか。
誰も待っていそうな当ては無い。

いや、一人二人は居るかもしれないけれど。

でも、恐かった。



そうしてまた否定されたら、私はどうしたら良いの?
そうして誰もが一様に、変わらない様で迎えてくれたらどれほど良い事だろう。
それとも、其処には誰も居ないのかもしれないけれど。

皆、笑っていた。

怒ったり悲しんだり辛かったり苦しかったり、それでも楽しかった。
迷惑千万なあいつらに、いつもいつも振り回されて、最後は結局笑うんだ。

それが今は遠くてとおくて、届かなかった。



……どうして。



今にも足を止めてしまいそうで、立ち止まってしまいそうで。

だけど月さえ見えない夜空には眺めるものさえ無くて、立ち止まる理由も無かった。
周囲に耳を済ませてみれば、色々な生き物の鳴き声が聴こえる。



まるであの場所に居た時のよう。


無為で無意味な喧騒に溢れていたあの場所。


そこでは私さえ無意味だったのだろう。


それでも、あの時は○○が一緒に居てくれた。



……私がそこに居る、理由だったんだ。




「…………なんで、泣いてんのよ、わたし……」




もう、理由は無かった。
何処にも。此処にさえも。

私が自ら選び、捨てた。
捨ててしまった。



私が在る、理由。




……恐かった。


恐い。
恐いよ。


……恐いよ、○○。



涙が止まらなかった。



「わたしって、こん、なに……弱っちかった、かなぁ……?」



自嘲するように、私は哂ってみる。



答える者は居ない。居るはずも無い。

魔理沙もアリスも咲夜もレミリアも妖夢も幽々子も、ましてや紫さえも居ない。
当たり前のように○○だって、居ない。居る訳が無い。

誰も助けてはくれない。助けてくれるはずも無い。



だって、私が、そう選んだから。
いや、選ばないままに進んでしまった結果。

本当に、愚かだ。



足下から命を吸い取られるように、湿った草土に膝を突く。



私は、私が私じゃなくなったら。
私って、一体何なのよ。
それを確かめて、どうしようってのよ。



私が「博麗の巫女」じゃなくなったら、私は一体何処の誰になるの?



そしてその先にある「私」は、一体何者なの?



――――私は……。






しばらく輝いていた月が、不意に雲の壁に遮られた時。






「――――こんばんは」






――――聴き慣れた声がした。

あまりにも唐突で、心の準備も出来ていなくて、ただ咄嗟に振り返っていた。





「…………ゆか、り?」

「ええ」




振り向いた先に居たのは、紛れも無く、「それ」だった。



























「おや。お出かけ?」




玄関先に居て安心した矢先、いきなりの出来事に俺は言葉も無かった。





「…………」


「そーんなに目を丸くしなさんなぁ、お兄さん」




…………俺の猫が、しゃべった。



「んー。こっちの世界じゃ猫は喋らないものなのかしらん」

「……たぶん、喋らないものだと思うよ?」



かろうじてそれだけ返事をする。


そりゃあ驚く。

我が家で飼っていた猫が突然珍妙なノリと共に口を開いてベラベラと話し始めたら、
そりゃあ驚く。誰だって驚く。空を飛べる人間と比べたら威力は低いが、それでも驚く。
更に言うならその喉から放たれる声が意外にも可愛い声で尚更に驚いてしまった。

……って、今はそこに反応している場合じゃない。



「そう言うあたいも、この姿のまま話せるようになったのは最近なんだけどさ。
 まーまー、喋るか喋らないかはさて置こうよ、お兄さん」

「さて置くなよ……って言うか、えーと、お前は俺のペットの猫だよな?」

「はて。あたいはいつからここの飼い猫になったのかな?
 あたいにゃさとり様と言う立派な御主人様が既に居られるんだけどね」



…………さとり?

何処かで聞いたような名前だ。
でも、何処で聞いたかが思い出せなくて何だかモヤモヤする。
さとり? 何を悟るんだ?

うーん、なんて首を傾げていると、俺のペットだったモノは、ニヤリと笑いながら口を開いた。




「さてさてお兄さん。どうやらこれから出かけるんだね? この森の先へ。
 小便は済ませたかい? 神様にお祈りは? 妖怪の目前でガタガタ震えて命乞いをする心の準備はおーけー?」

「待て待て待て。台詞はさておき、なんで命乞いをする前提になってるんだ」

「そりゃあ、妖怪って言うのは人の命を獲るものだからね。知らなかった?」




――――妖怪は、人の命を獲るもの。


思わず、苦く染み出した唾を飲み下ろす。
改めて言われてみれば、目の前のちっぽけな猫からでさえそんな現実を感じる。
「コレ」よりもハッキリとした現実に、いずれ出会うことになるのだろう。


……だけど、後には引けない。




「……そら、そら知ってるけど。

 俺は、俺は霊夢に逢わなきゃいけないんだよ。
 これが別れの始まりだってんなら、俺はまだ、さよならだって言ってない。
 もしもこのまま逢えなくなるんだとしても、お別れくらい言いたい。

 ……何も言えないままに離れ離れなんて……その、俺は嫌だ」



……そう、嫌だ。



包帯でグルグル巻きの手がまた疼く。
別に、この手で何か出来るなんて思っちゃ居ないし、そもそも俺は何の力も無い。
これが別れだって言うならそれも受け入れてやるさ。

だけど、決めたことを曲げるもんか。

あの時、正しい道を選べず喪った時のように。
そう、後悔しない道を選ぶって、いつかどこかで決めたはずだから。
せめて、この言葉だけは言おうと決めた。

君が、好きだと。




……いつか、どこかで喪った?




「ほほー。そりゃまた人間にしては、なんとも我が身を軽んじた物言いだね。
 
 そうだね、このままあんたが進んで行けば、きっと誰か死ぬ。
 誰とは分からないし、誰とも言えない。
 けれど黒い風が吹き止まない。あたいは嬉しくて仕方ない。

 誰が死ぬのか、いつ死ぬかってね。

 ……まあ、そんな事は今、どうでも良いんだ」



目の前で饒舌に喋る黒猫は、果たして本当に俺の飼っていた猫だったんだろうか……?
黒猫は不幸や災厄を運ぶ象徴だと言う。もしかして、コイツもその仲間なのかもしれない。

ニヤけた面のままに黒猫は言葉を続ける。



「あんたがそう望むなら、博麗の巫女に伝えてやってもいい」

「……なにを、だよ?」

「別れの言葉さ」



胸の奥が揺らぐ。



「なにも、あたいは命を獲ろうなんて思っちゃいないよ。
 大体、そんなんならお兄さんじゃなくてもこっちにゃいくらでも居るし。
 恨み辛みを抱えた怨霊の方がよっぽど価値がある。

 けどね、格好付けて颯爽と出て行ったお兄さんを見送った挙句、
 結局死んじまったお兄さんの霊魂を地獄まで引っ張って行く、
 なんてのはあたい自身格好が付かないと思うんだ。

 こー見えて、地獄の猫車と有名なあたいだからさ。
 

 ――――だから、どうだい?」




諦めろ、とその瞳は語っていた。




「お別れの一つや二つ、告げに言ってあげるからさ」




悪魔の使者の二股に分かれた鍵尻尾が、嘲うように揺れた。
不吉だな、なんて心の中で呟く。

構う事無く決まりきった言葉を吐くように黒猫は話を続けていた。




「……んー、むむ。博麗の巫女ってのは、割かし此処じゃ重要人物でね。
 あんたとは随分懇意にしていたみたいだし、かと言って巫女の心証も悪くはしたくない。
 今後の人妖の関係にヒビが入ってもらっても困る。

 そ。だからあたい達は、あんたの命も大事にしてあげたいと言ってるのさ。

 ……だからね、お兄さん。ここはひとつ、諦めて――――」



「嫌だね」




……きょとん。

そんな言葉さえピッタリだろう表情を見せた黒猫に、少しだけ口の端を歪めて答えてやった。




「……死ぬの、こわくないの?」




くい、と小首を横に捻って疑問符ひとつ。
どうしてか、その問いには裏表が無いだろうと感じた。

傾いだ首に、りん、と鈴の音がした。



「そりゃ、こわいさ」



だけど、と俺は続ける。



「……だけど、後悔しながら死ぬ方がもっと嫌だ。

 このまま、例えば此処との繋がりを失ったとして、
 もしそうなったなら、二度と俺は霊夢と逢えないかもしれなくて、
 そしてその葛藤を死ぬまでずーっと続けて、挙句に死ぬ。

 そんなの、此処で死ぬよりみっともない話だとは思わないかな?」



そして最後に、苦笑いのままにこう付け加えた。



「……ま、その提案にはちょっと惹かれたけどさ」



俺だって死にたい訳じゃないから。
でも、どうせ死ぬなら此処で、このタイミングで死んだ方が収まりが良い。

……なんて言い聞かせてカッコ付けてるだけなんだけどさ。
それに、ね、死ぬと決まった訳じゃない、し……。

ほ、本音言えばそりゃ、やっぱり恐いけど。



黒猫は目を見張ったまま、だけど少しずつ、その顔を不吉な笑みへと変えた。



「……カッコ良いなぁ、お兄さん。
 博麗の巫女も、随分とまた想われてるんだねぇ……だけど」




ひょい、と俺の近くから跳ぶように離れ、黒猫は背を向けて座り込む。




「……気持ちだけじゃ、届かない事もあるよ――――」




子を亡くした親猫のような声だった。

するとそのまま二の句を告げることも無く黒猫は夜闇を駆けて行く。
闇の中に真っ黒な背中は目で追えるはずも無くて、数秒と経たない内に見えなくなり――――



――――再び、夜の静寂が帰って来た。





「…………そんなの、知ってるよ」




そう、知ってる。

吐き捨てるように言うことしか、出来なかった。







轟、と三度風が吹く。



……頭が痛い。



喪いたくないと決めたのはいつからだったろうか。

何か、思い出したくないものが在った。
だけど、きっと大事なことだった。

それを失くしたら自分を亡くすかのように、喪いたくないと誓っていた。
自分を、大切なものを、二度と喪いたくないと。
気持ちだけじゃ、もう届くことは決してないから。


例え喪うことになろうと、後悔だけは二度としないといつかどこかで決めた。




そう、アイツが死んだ時に。




……アイツ、って?




一際、眩暈がした。





「……あ」






――――思い出した。






「…………」





――――思い出して、しまった。





「……ごめん」






飛び出したのは、そんな言葉がひとつだけだった。

忘れるはずも無いその時を。
大切なものを亡くしたその時を。


たかが、猫一匹。


いつか死んだ、あの猫を。
今になって思い出した。
忘れるはずも無かったのに。



「…………なんで」



分からなくて、それがまた悔しかった。

生温い涙の粒が頬を伝う。
零れた涙でさえ、一滴だって俺には掬い戻せない。

……どうして、忘れていたんだろう。




「…………ちくしょう」




悲しかった。悔しかった。助けられたかもしれないのに。

そんな思いや想いが全部、唐突に蘇って来た。

全部ぜんぶ、俺が生き続ける限り決して消せない後悔の疵痕。



そうだった。


思い出したんだ。
後悔は、永遠に消えないんだ。
だから、諦めないんだ。



彼女には、まだ逢えるから。



ふと明るくなった周囲に、夜空を見上げる。

丁度、満月が機嫌を直したように雲の合間から顔を覗かせていた。

目の前には暗い道が続いている。



黙って拳を握った。






そろそろ、行こう。





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(現在未完)
最終更新:2010年07月02日 22:28