…………さとり、さま。
声が聞こえた気がして、さとりは立ち止まった。
「……どこからかしら」
呟いて、来た道を戻る。妹やペットたちを探している途中だった。
もうお茶にしようかという時間なのに、誰も居間に姿を見せないのだ。
「昼寝でもしているのかしらね」
呟いて、ありそうだと思う。このところ、この地霊殿はどこかのんびりした空気が漂っていた。
おそらく理由は一つ。地霊殿は最近、新しい住人を迎えたのだ。
行き倒れていた青年を、燐が死んでいると勘違いして運んできたのが発端である。
灼熱地獄に放られる前に気が付いたのは幸いというべきか。
そして、外の人間であったというその青年は、そのまま地霊殿に居着いた。
「危機感がないのよね……」
忌まれた妖怪たちの住む地底の、旧灼熱地獄を統括する地霊殿。
その中で、彼は暢気に暮らしている。周囲が恐ろしい妖怪だと気が付いているのかいないのか。
あまりに危なっかしいので、さとりのペットということにしている。そうすれば、下手な手出しはされないからだ。
彼自身も、お手伝いとしては申し分なく使えるレベルなので問題はなかった。
そうこう考えているうちに、彼の部屋の前に着いた。
ノックをしてみるが、返事はない。中にいるかどうか確かめるためにドアに手をかけた。
簡単に開いた。鍵をかけてないのも無用心だが、それも何だか彼らしく思えてしまう。
「……ああ、ここにいたのね」
部屋の中では、ベッドに寝転がる彼にくっついて、こいしと燐と空が寝ていた。
燐と空は動物の姿で胸の上に乗っていて、こいしは左腕を占領している。寝苦しくないのだろうか。
どうしたものか、と思案していると、彼の瞼が眠そうに開いた。
(……さとり様?)
「ごめんなさい、起こしたかしら」
「……いえ……」
やはり眠そうに首を振った彼に微笑して、ベッドの側に寄る。
暢気ね、と心から思う。別に、彼が心で話しかけてくるのは、言葉が不自由だからではない。
心の中で話すことを組み立てて、それを口にするという癖があるらしい。なので、さとりとだとたまに一方的に彼女が話していたりする。
他の面々とはテンポは遅いが普通に話しているので、単に癖だろう。
「お茶にしようかとも思ったのだけど、みんないなかったから」
「ん……すみません……」
開いている右手で、目をごしごしとこすっている。
(眠たい……)
「そうね、随分と眠そう」
こくりと頷いて、彼は口を開いた。眠そうな音が出てきただけで言葉にはならなかったが、言いたいことは届いた。
(さとり様も、お昼寝どうですか?)
「私も? ここで?」
頷く気配と、半分眠った思考で返ってくる。
(みんな一緒は、あったかい……)
あまり頭が回っていないのだろう、文法が怪しい。
「……この人は、全く」
仕方なさそうに、だが楽しそうに、さとりは口元を綻ばせた。
ここに来てからずっとこうだ。彼は、彼女を恐れない。
初対面のときに、心が読まれることはわかったはずだった。
けれども彼は、それを忌むことも恐れることもなく、ただ「なるほど」と心と言葉で言った。
彼はこの世界を知りたいと言い、みんなのことを知りたいと思っていた。だからさとりは、彼が此処に住むことを許した。
さとりからも、彼に興味がなかったわけでもなかったのも、ある。こんなにあっという間に慣れるとは思わなかったが。
「……そうね」
皆で昼寝など、最近なかったことだ。特にこいしは、いつも何処にいるかわからないから。
よいしょ、とベッドの上に上る。彼の右腕側に横になって、燐と空を撫でてみた。
二匹ともリラックスしているようで、喉を鳴らしたり文字通り羽を伸ばしたりしている。
さらに手を伸ばせば、こいしの髪に触れた。以前の騒動以来人間に興味を持ったらしい妹は、彼が来てからたまに帰ってくるようになった。
少しずつ変わっていっているのかもしれない。きっと、悪くない方向に。
「う……?」
「ああ、ごめんなさい」
身を乗り出したからか、さとりの髪が彼の鼻先をくすぐったようだった。
だが完全に目覚めはしなかったようで、思考だけが流れてくる。
(いい、匂い……)
「……貴方と同じもののはずだけれどね」
唐突な言葉に少しだけ頬を紅くして、さとりもこいしと同じように彼の右腕を借りることにした。
確かに、温かい。心地良くて、程なくうとうとしてきた。
(あったか、い…………り、さま……)
次第に深い眠りに入っていく彼の思考を聞きながら、さとりも眠りに落ちていった。
結局、夕方になるまで眠ってしまった。
起きた原因は、空が寝返りを打った際にうっかり人型になってしまい、燐と彼を押し潰したためだ。それがなければどれくらい寝ていただろうか。
「いたた……吃驚した」
「こちらもいきなり枕が飛び起きたから何事かと思ったわ」
廊下を歩きながら、鳩尾の辺りを撫でる彼にさとりが声をかけた。
「いやすみません。いつの間にあんなことになってたのやら」
「……? みんなで昼寝を始めたんじゃないの?」
自分で誘っておきながら何を、という気分で問いかける。
「いや、最初は一人だったんですよ。お燐とお空が来て俺の上で寝始めた辺りまでは覚えてるんですが……さとり様とこいし様はいつ来たんですか?」
「…………覚えてないなら、いいわ」
本気で言っているのがわかって――文字通り読み取れて、さとりは顔を紅くした。ということは、無意識のうちに誘ったのか。
「みんなで昼寝ってのはあったかいもんですね。一人暮らしが長かったから新鮮です」
「そう……ね。私もそう思うわ」
楽しそうに笑う彼に、さとりも笑みを返す。その背に、こいしが飛びついてきた。
「お姉ちゃん、そろそろ晩御飯だよー」
「あら、そうね。何にしようかしら」
「何か食べたいもんありますか?」
彼の問いに、こいしがぴしっと手を上げる。
「お好み焼きー!」
「……どこで覚えましたかそれ」
「何か地上で作ってたの。出来る?」
「ん、材料さえありゃ何とかなります」
そう応じる彼の頭の中では、既にキャベツが刻まれ始めていた。
「じゃあ、先に行って待ってるね」
「はい、任せといてください。さとり様も」
「いいえ、手伝うわ。一人じゃ大変でしょう?」
「そりゃありがたいですが、作り方は?」
「今貴方が見せてくれたから大体わかるわ」
悪戯っぽく言うと、ああそうだった、と彼は朗らかに笑った。
「んでは、お燐とお空が来る頃には焼き始められるようにしましょうか」
「そうね」
楽しそうに手順を頭の中で追っている彼を微笑ましく思いながら、さとりはその隣に並んだ。
料理が出来上がって、それぞれが好きなようにトッピングして食べる中、ふと、さとりはこいしに訊ねた。
「ねえ、こいし」
「ん? 何お姉ちゃん、ソース?」
「それも欲しいけど、そうじゃなくて。今日昼寝したでしょう」
「ああ、うん。お燐とお空が気持ち良さそうだなーって」
そう思ったら一緒に寝てた、と、ソースを渡しながらこいしは告げた。
「……彼に呼ばれたのではなくて?」
「違うよ? 気が付いたら寝てたの」
ぱく、とお好み焼きを一口頬張って、彼女は首を傾げる。
「どうしたの?」
「いいえ、何でもないわ」
妹の言葉に一つ首を振って、さとりは胸中の動揺が現れないように努力した。
ということは、だ。彼は、自分だけを能動的に誘った、ということなのだろうか。
寝惚けていて、無意識のうちにだったとしても。そういえば、最初に聞こえた自分を呼ぶあの声は、彼のものではなかったか――?
「さとり様? 味、何か不味かったですか?」
ひょい、と急に顔を覗き込まれて、さとりは慌てて首を振る。
「い、いえ。美味しいわ」
「だったらいいんですが」
(さとり様に美味いって言ってもらえた)
嬉しそうな思考が流れ込んでくると同時に、彼は楽しそうに顔を綻ばせた。
「お代わりあるんで言ってくださいね、また焼きますんで」
「あー、じゃあ、こっちお代わりー!」
「あ、お空ずるい、あたいもー!」
「はいはーい」
ペット達に呼ばれて踵を返した彼を見送りながら、さとりは自分の心の中に、何かが投じられて広がっていくのを感じた。
奇妙に温かいその波紋が何なのか――それがわかるまでにはもう少し時間を要するのだが、それはまた、後のお話。
──────────────────────
毛繕い。
足元でゴロゴロと転がる猫達にそれをほどこしながら、彼は一つ息をついた。
「お前さんらは気持ち良さそうだなあ」
当然、と言わんばかりに猫達は彼の腕に手をかける。早くやれ、と催促しているのだ。
彼の仕事には、他のペットの世話も含まれている。今はペットの猫達の毛繕いの世話だった。
「はいはい。ま、これで俺の仕事も終わりだし、終わったらちょっと休むかなあ」
みゃあ、と同意するように鳴かれて、彼は近くの猫の頭を撫でた。
終わったらお前も一緒に寝よう、というように、撫でられた猫もそうでないのも近寄ってくる。
「俺は暖を取る道具じゃないんだがなあ……ま、いっか」
猫達は――というか、ここのペット達は見事に彼を同僚、あるいは後輩とみなしている。
扱いもそれなりなのだが、彼にとっては悪い気はしなかった。こういう温かさはきっと必要なのだ。
程なく毛繕いを終わらせると、彼はごろりとソファにもたれかかった。
随分とご機嫌なペットが数匹歩いていくのに気が付いて、さとりは首を傾げた。
「どうかしたの?」
『あ、さとりさまー!』
『ぬくぬく昼寝してましたー!』
ひょい、と抱きついてきた猫達を抱き上げて撫でる。毛並みは綺麗に整えられていて柔らかい。
「あら、良かったわね」
『ん、あいつもまだ寝てるー』
「……また?」
くすりと微笑って、さとりは彼の居場所を尋ねた。
『向こうの、いつものお部屋ですー』
「そう、ありがとう」
猫達を下ろして、さとりは示す方向に歩いていく。
はたして、部屋の扉は開いていた。
ひょいと中をのぞいてみれば――
「ふふ、やっぱり」
ソファにもたれて寝ている彼と、その周りでにゃごにゃごと寝ている猫達の姿。猫好きなら一度はあこがれるシチュエーションだ。
気配に目を開けた何匹かが、さとりの姿を見つけて甘えるように喉を鳴らす。
「起こしてごめんなさいね」
撫でると、猫達は自分たちから撫でやすいように首を伸ばした。
『さとりさまもおひるねー?』
『さとりさまもぬくぬく?』
「そういうつもりじゃなかったんだけど」
本当は、彼を見つけて、一緒にお茶でもどうかと誘うつもりだったのだ。
仕事も一段落する頃だし、と見当もつけていたのだ。まあ、寝ていることも考えてはいたが。
「……そうね、いいかも知れないわね」
そう言うと、猫達は嬉しそうに鳴き、さとりのための場所を空ける。
それが青年の隣であることに、さとりは一瞬だけどきりとしたが、それを自身で抑えて横になった。
寝ているせいかそれとも猫で温まっていたのか、彼の隣は非常に心地よかった。
「……三十分程度、というところかしら」
あまり寝すぎると後に響くから。
そんなことも考えながら、さとりは静かに目を閉じた。
かくして三十分後、さとりは目を覚ました。
「ん……そろそろね」
目をこすりながら身体を起こし、彼を揺する。猫達はごろごろしながらも彼が起きる気配を察してか、場所を変えて寝始めた。
「そろそろ起きなさい。夕方になるわよ」
「んー……んん?」
眠たげに起き上がった青年は、まだ頭が回っていないのか、髪をがしがしとかいた後、こちらを見て首を傾げた。
(あれ、さとり様?)
「寝てたので起こしに来たんだけどね。そろそろお茶の時間だし、と思って」
「ああ、すんません……つい気持ちよくて」
心の声と言葉でと同時に会話しているが、本人は普通に会話しているつもりらしい。
さとりも慣れたもので、普通に頷き返す。
「さ、行きましょう。今日はいいお茶があるの」
「はい」
伸ばした手を自然に掴まれて、さとりはほんの少し動揺する。
だが、彼の表情の方がより見ものであった。自分が何をしているのかを理解した直後、真っ赤になって慌てだしたのだ。
「わ、す、すんません、さとり様!」
「いいわよ、ほら、起き上がりなさい」
引っ張り上げると、素直に起き上がる。だがどうやら十分動揺はしているらしい。
申し訳ない、というよりも、ごめんなさい、という意識が伝わってくる。まるで子供のようだ。
「はいはい、あまり謝らなくていいから、早く行きましょう」
「はい」
読まれているのはわかりきっていることだからか、彼も普通に頷く。
頷きながら、想像が茶菓子の方向に向かっているのもついでに確認して、さとりは微笑んだ。
「美味しいの、用意してるわよ」
「ん、あれ、てことは」
「今日は私が作ったの。感想聞かせてね」
「は、はいっ!」
読むまでもなく、喜色満面になった彼を何故か嬉しく思いながら、さとりはさらに手を引いた。
どきりと、どちらともなく鼓動が跳ねた気がするが、それには気が付かないことにする。
自分の頬が微かに紅くなっているだろうことも、気が付かないことにして。
「さ、さとり様」
「動揺しないの。いいでしょう、たまには」
「は、はい」
顔を紅くして思考をぐるぐるさせている彼にもう一度微笑みかけて、さとりはティールームに足を向けた。
少し遅めのお茶が始まりしばらくして。
「また昼寝してたの?」
「ああ、ええ、すみません、さとり様に起こしてもらいましたよ」
こいしの質問に答え、紅茶のカップを置いて照れたように頬をかいた彼に、にゅ? と空が首を傾げた。
「あれ、さとり様が遅かったのは、一緒にお昼寝してたからじゃないの?」
「ちょ、お空! 空気読みなって!」
「え……?」
きょとんとなった彼が何かを言うより前に、さとりが立ち上がって訊ねた。
「まだあるけど、食べるかしら?」
「要りますー! さとり様のお菓子、美味しいです!」
バタバタと翼を動かした空の隣で頭を抱えながら、燐も手を上げた。
「ああもう……さとり様、あたいもいただけますか?」
「あ、お、俺も!」
「じゃあ、みんなおかわりだね、お姉ちゃん」
こいしがそう言って、いつの間にやらさとりの隣に並ぶ。
「一緒にお昼寝してたんだ?」
「いいでしょう、別に」
耳まで顔を紅くしている姉の隣でくすくすと微笑い、こいしはさらに続ける。
「みんなあの人とお昼寝するの好きだから、隠さなくてもいいのに」
「それでも、よ。しかも今回はみんなで、ではないでしょう?」
「じゃあ、みんな一緒ならいいんだ?」
「それなら、まあ、悪くはないかもしれないわね。さ、持って行くから席に……って」
さとりが振り返ったときには、既に自分の席に戻って手を振るこいしが居た。
軽くため息をつきながら、それでもいつの間にかいなくなられるよりはましだ、と思い直して、さとりも戻る。
菓子と紅茶を新しく淹れたところで、こいしが彼に話しかけた。
「ねえねえ」
「はい、何でしょうか、こいし様?」
「今度夜寝るとき、みんなで寝たらあったかくて楽しそうじゃない? いつもお昼寝してるみたいに」
ごふう、と彼が紅茶を吹く。
「いやいや、こいし様、今だって別に一緒に昼寝って決めてるわけじゃ」
「だから、今度は決めて一緒に寝るの。お姉ちゃんと私とお燐とお空と貴方と。みんなで」
どう? と首を傾げるこいしに、彼はしばらく顔を真っ赤にしてあたふたした後、テーブルに額をつけて沈没してしまった。
「か、勘弁してください、それ俺絶対寝れません……」
「えー、でも楽しそうなのに」
「こいし、あまり困らせないの」
こちらも顔を紅くしながら、さとりが嗜める。
彼の昼寝に付き合ったことは一度二度ではないが、ふとそれを思い出すだけで心が騒ぐというのに、夜も一緒にそうしたら、と考えてしまったのだった。
それで何故心が騒ぐかは、まだ考えないことにしていたが。
「……でも、こいつ真っ先に寝てますよね、絶対」
「うん、絶対寝てる」
「お燐とお空までそんなこと言うかー! ああもう、俺の扱いって……」
しくしく、と口で言い始めた彼に、さとりは微笑を浮かべた。
本当は(助かった)だの(本気でされたら嫌ではないがどうしたらよいだろう)だの考えているのも知っていたが。
「はいはい、拗ねないの。はい、どうぞ」
「ああ、ありがとうございます、さとり様」
「あー、お姉ちゃん、私にも」
「私も!」
「まだあるから、慌てず食べなさい」
そう柔らかく言いながら、さとりも紅茶のカップを手に取った。
美味しい、という思考と感謝の気持ちが伝わってきて、何となく面映い思いになりながら、紅茶に口を付ける。
棚上げにしていることは多いけれど、とにかく今はこの茶会を楽しもうと、そう、このときのさとりは思っていた。
──────────────────────
「博麗神社で宴会をやるんだ」
「はあ」
唐突に訪ねてきた勇儀に、さとりは首を傾げた。心を読んで頷く。
「……なるほど、私達も参加しろ、と」
「地底の奴らの呼び集めを任されてしまってね」
後は訊くまでも読むまでもない。宴会好きの鬼にかかれば、地上にどうしても行きたくない、という者以外は大抵強制参加だろう。
「こいしはどこにいるかわからないけれど、お燐達も連れて行けばいいのですね?」
「あ、それとあいつもだ。ほら、ここに住んでる人間」
「彼も?」
地霊殿で唯一人の人間。さとりのペット、という立場で身を置いている青年のことだ。
「ん、まあ、話の種になるだろうしってことで」
「……酒の肴にしろと」
「本当に取って喰うわけでなし。そんなことしたら、巫女と……あんたにも殺されてしまいそうだ」
豪快に笑う勇儀に、さとりは少しだけ複雑な表情を浮かべた後、了承の頷きを返した。
「わかりました。日時は」
「明日の晩だ。まあ、何か手土産の一つでも持ってきてほしい。じゃないと」
「巫女が煩い、ということですね」
「そのとおり」
勇儀の返しに笑いながら頷いて、さとりは明晩の宴会参加を約束した。
「へ、俺もですか」
翌日。宴会に持っていくものの準備をしていた青年は、てっきり自分は留守番と思っていたようで目を瞬かせた。
「ええ。一緒に来い、って」
「俺は別にいいですけど……いいんですかね、俺が行っても」
「呼ばれてるんだからいいと思うわよ」
そうかな、と彼は首を傾げている。彼が言いたいこともわからなくはない。まだ、地上の面々とはちらと顔合わせした程度だからだ。
「……さとり様も一緒ですよね?」
「ええ、心配しなくていいわ」
他の妖怪のことは心配しなくて良い、とさとりは頷く。
「それにお燐やお空も一緒よ。こいしは……神社で会うかもしれないけれど」
「みんな一緒なら安心かな」
妖怪は人間を襲うもの、と彼も説明は受けている。地上に上がるのはその心配もあるようだ。
「……あのね」
「はい?」
「私達も妖怪なんだけど、そのことについては?」
「…………わかっては、いるんですけど」
(何となく、傍にいると安心するんで)
心の中だけで呟いた言葉に、さとりは、仕方ないわね、という笑みを浮かべる。
「さ、準備したら行きましょう」
「はい。あ、持ってくのってこんなもんでいいですかね?」
「ええ。重かったりしたら手伝うけど」
「いやいや、さとり様に持たせるわけには」
よっ、と担いで、彼は大丈夫だ、という仕草を見せた。
「もし途中疲れたら、お燐の車に乗せてもらったら?」
「……それだけは勘弁してもらえますか」
途中空に抱えてもらったりしながら辿り着いた神社の様子に、彼はぽかんと口を開けてしまった。
「……え、神社? ここ」
「妖怪だらけね」
「いつもこんなもんですよ」
呆れるさとりに、燐が鼻歌でも歌いそうな調子で応える。
「おお、来たねえ」
「もう飲んでるんスか、勇儀さん」
「おうとも。ほら、あんたらもさっさと来なよ」
「え、と、さとり様」
さとりにどうするべきか判断を仰ぐ。鬼は酒に強いとか聞いたような気がする。
「お酒、弱いわよね」
「人並みなはずなんですがね」
「鬼の酒は強いわよ。気をつけてね」
「はいっ」
人並みの強さだが、人並みには酒好きでもある。促されるままに近くの座に座る。
見慣れぬ相手ばかりにきょろきょろしていると、いきなり盃をずいと差し出された。
「ほら、駆けつけ三杯、ってね」
「あ、いや、さすがにそれは」
「あ、じゃああたいが」
寄って来た燐があっという間に盃を奪い、近くにいた空がまたそれを取ろうとする。
「仲良いことだね」
盃を差し出していた勇儀よりも小さな鬼が、そう言いつつ彼に代わりの杯を渡してきた。
「地霊殿に住んでるんだってね。あそこは嫌われ者の場所なのに、よくいられるものだ」
その物言いにむっとなる。自分は好きであそこにいるのだ。今までなかったくらいに優しい場所なのに。
「俺は好きで地霊殿に住まわせてもらってるんです。死に掛けてたの拾ってもらって住まわせてもらって、恩こそあれ」
嫌うなんて事できるわけがない。そう言いたかったが、言葉が詰まって上手く言えなかった。
昔から、肝心なところで言葉に詰まったりする。情けない、と思いながら酒を飲み干した。
「おお、行ける口だねえ。ほらほらもう一杯」
「ほほう、これはこれは中々面白そうな記事になりそうですね。地霊殿に住む人間に独占インタビュー、なんて良さそうです」
「こら、お前ら何いきなり絡んでるんだ。よう、元気か」
「……ああ、魔理沙かー」
一気に飲んたせいで少しくらりとした視界に、見知った顔が見えた。
確か魔理沙が地霊殿を家捜ししていて燐と追いかけっこしていた時に会ったはずだ。
「もう酔ってんのか?」
「はいはい、気をつけなさい、って言ったでしょう」
「ん、さとり様、すんません」
くらりとしたのは視界だけでなく身体もそうだったようで、いつの間にか隣に座っていたさとりが支えてくれた。
申し訳ないな、と思いながら、体勢を立て直す。
「お前が出てくるのは予想外だな。呼んだとはいえ」
「ん、そかな」
「ああ、私が呼びにいったんだ、来るに決まってるだろう。面白そうじゃないか」
勇儀の言葉になるほどと頷いて、魔理沙は楽しそうに笑った。
「丁度いい、いろいろ知り合い作っとくと便利だぜ、物を借りるときとか」
あれは盗っていくじゃないかな、と思いながら、彼は杯に軽く口を付けた。
程よく盛り上がった頃、さとりは自分のペット達を探していた。
「ああ、お空とお燐……と、彼も」
いつの間にやらあちこちに引っ張られていってしまっていた彼も、一緒にいるのを見つける。
「あ、丁度いいところに」
「どうも、アリスさん」
「どうも。あれ、早く止めた方がいいんじゃないかしら?」
アリスが指差す先には、呆れている燐と楽しそうな空と、何やら懸命に話している彼の姿。
内容、というか彼の意識を読んで、少し頭を抱えたくなる。
「…………まあ、嘘は言ってないのでしょうけれど」
「自分が如何に恩を受けたか、って熱弁中よ」
「……周りも止めないのですね」
「全員酔っ払いだから楽しんでるわね、きっと」
アリスに礼を言って、さとりは彼に近付いていく。
「こら、何を言っているの」
「いや、嘘は……って、さとり様」
「……だいぶ酔ってるわね?」
ああいやその、と言葉にならない言葉と心の声で慌てつつ、すみません、と彼は呟いた。
「面白かったよー」
「うん、そいつ何と言うか、単純というか純粋というか」
「……はっきり馬鹿正直って言ってやった方がいいんじゃない?」
霊夢の言葉がとどめで、さとりは大きくため息をついた。
「……しかし、自分のことをペットだと言い切るのはどうかと思います、けど」
「まあ、何だ、その、言い方がな」
早苗と慧音の言葉に、何がおかしいのだろうかと首を傾げる彼に、さとりはまた一つ息をつく。
「……地霊殿が気に入ってくれているのはありがたいけれど、ね」
「はい、俺、居させてもらって凄くありがたいです」
「だよね、たまにみんなでお昼寝したりするもんね」
「こいし!?」
知らぬうちに真横に居たこいしが、とんでもないことを言い出す。
「おお、それはそれはどういうことでしょうかっ!?」
やはり楽しそうに天狗が食いついてきた。
「……考えているようなことはありませんからね」
「あやや、残念です」
とは言いつつも、何かあるのではないかという期待は捨てていないようだ。
「こ、こいし様、あれは別に一緒に昼寝って決めてるわけじゃ」
「でも貴方の傍ではみんな安心して寝てるよー?」
「そうですよねー! この前もさとり様が……」
「お空ー! ストーップ!」
「今何か聞こえた。さとりが何だって?」
「面白そうな話題だねえ」
地底の者達中心に絡んでくる。まあ確かにネタとしては面白いのかもしれない。渦中にいる方はたまったものではないが。
「……こいし、お空、いい加減になさい」
「そ、そうですよ! てかお空お燐! お前らたまに昼寝してる俺の鳩尾にダイブしてくるだろうが動物型で!」
それは知らなかった。随分とペット同士仲がよいものだ。少し羨ましいと思ったのは気のせいと言うことにしておこう。
「いやあれは何と言うか無防備だからさ」
「ちょっと驚かすつもりでー」
「死ぬわー!」
「随分と仲がよろしいようで。で? 本命はどなたなのでしょうか?」
文が懲りずに絡む。一瞬彼は何のことかわからなかったようだが、意味が浸透すると同時に顔を真っ赤にした。
「ほ、本命って」
「おやおや、あれだけ美人揃いの中にいて誰にも興味はなしですか?」
「う、え、いやあの、そりゃ、みんな美人とは思うけど、そんな」
そういうのじゃなくて、と思う彼の胸中に、ほっとしたような残念なような思いになりながら、さとりは口を挟んだ。
「あまり苛めないでもらえますか?」
「おおっと、気になりますか?」
今度はこちらに矛先が向いた。記事になれば何でも良いというのは非常に天狗らしいけれど。
「私にとっては大事な家族ですよ。こいしもお空もお燐も彼も」
「そういう答えじゃなくてですね……」
適当にあしらいながら、彼を促す。すぐには気が付かなかったが、わたわたと走って離脱していった。
「ん、あれ、逃げられましたか」
「あら、いつの間に」
「白々しいですね……まあいいや、そのうち話していただきますよ」
珍しく引き下がった。かと思えば次は地霊殿にいるときを狙ってくるつもりらしい。鬼が苦手なのにどうやって来るつもりなんだろう。
とにかく警備を厳重にしておくべきか、と考えながら、さとりも席を立つ。
「あれ、さとり様」
「見てくるわ」
「はい。って、お空、何やって……っ!」
爆音が響いてきた。どうやら空がどこぞの氷精と喧嘩になったらしい。
それを好機として、さとりは彼を探しに場所を離れた。
「ふう、やれやれ」
喧騒から離れて、彼は木にもたれた。こっそり持ってきた軽めの酒に口を付ける。
「賑やかだよなあ。人間少ないけど」
妖怪は怖いものだ、と教えられたけれども、この様子を見ているとそうも思えない。
むしろ、向こうにいたときよりも賑やかで率直で、だからこそたまに戸惑うけれど、随分と居心地が良い。
「……俺って何だったのかなあ」
外にいたときは、人に中々溶け込めなかった。言葉が足りず、思いを伝えるのが下手で、妙にすれ違うことも多かった。
他人のペースがわからなくて自分のペースもわからなくて……思い出すと何だか随分と駄目人間な気がしてへこんでくる。
「……変わってないかもしれないけど、でも俺は幸せだよなあ」
頑張らないといけないことは多いけれど、前よりは生きる気力というものがあるような気がする。
「……もし出来るなら」
ずっと地霊殿にいられればな、と口の中で呟いてみた。
「あら、いてくれていいのよ?」
心臓が跳ね上がるかと思った。すぐ傍に、いつの間にやらさとりがやってきていたのだった。
「……さとり様、いつから聞いてました?」
「ほとんど最初から、よ」
うわあ、と頭を抱えたくなる。何と言うか気恥ずかしい。
「恥ずかしがらなくても。今のことよりも、さっきの貴方の方がずっと恥ずかしいと思うけど」
「まあ、あー、あれも酔いに任せていろいろ言っちまいましたけど」
「信用してくれてるのは嬉しいけれど、ね」
信用どころの話ではないのだが、上手く言葉に出来ない。
「……ありがたいと思ってますから」
「ありがとう」
そう微笑みながら言われて、ますます気恥ずかしくなったのを誤魔化すように一気に手元の酒を飲み干した。
ふう、と息をつくと、随分と眠くなってくる。気を張りっぱなしだとやはり疲れてくるものだ。
「お疲れ様」
「いやあ、はは、人付き合い苦手でして」
「知ってたわ。なのにごめんなさい」
「いえいえ、誘ってもらえたのは嬉しいんで」
それは本心だ。疲れはするが、どこか心地良い。
ふあ、と知らず知らずあくびが出た。そういえば、今日は昼寝をしていない。今は夜だが、少しくらいなら。
そんなことを思いながら、彼は意識が遠くなっていくのを感じていた。
「……寝てしまったの?」
さとりの呼びかけに、応える声は無い。ただ寝息だけが返ってくる。
「…………本当に、お疲れ様」
髪を撫でてやると、そのまますとんと身体が倒れた。
丁度膝の上に頭が乗る形になって一瞬焦ったが、一つ息をついてさとりは仕方ない、と言うように微笑んだ。
彼が疲れるのは知っていた。人付き合いが苦手そうな素振りは地霊殿に来た頃からあったし、旧都にもそう近付こうとはしない。
最初は警戒しているのかと思ったが、すぐにどう接すればいいのかわからないのだと気が付いた。
一つ一つ教えていけば、きちんと理解していった。口下手なのは変わらずだが、ペット達もさとり達も、困ってはいない。
けれども、宴会のような場が、さとりと違った意味で苦手なのはわかっていた。それでも、今日は連れてこなければならなかった。
彼の髪から手を離して、さとりは凛とした声を上げる。
「……そろそろ、出ていらしたらどうですか?」
「あらあら、気付かれていたのね。今日はお疲れ様です、二人とも」
「招いてくださってありがとうございます、と申し上げるべきでしょうか」
真横に現れた八雲紫に、さとりは涼しい声で答えた。
さとりは若干紫が読めずにいる。複数のことを考え、処理しているのでどうも真意が読みにくいのだ。
「あら、呼んだのは魔理沙と鬼よ」
「けれども裏には貴女がいた」
さとりの指摘に、紫はあっさりと頷く。魔理沙をたきつけたのは彼女だった。
「ええ。けれども、それで上手くいってくれたわ。彼はもうすでに、霊夢に宣言したから」
「…………幻想郷に残る、と?」
「彼は貴女の住処を口にしたけれどね」
力も能力も無く、ただただ非力な人間。たった一つ付いているのだとすれば、それは『さとりのペット』と言う肩書き。
「……肩書きにしたつもりはなかったのですが」
「けれど、彼はそれを受け入れ、霊夢が認めた。十分以上の条件は揃ったわ」
「そう、ですか」
さとりは優しい表情で頷くと、再び彼の髪を撫でてやった。
これが、今日彼を此処に連れてきた真意だった。彼はどうするのか、少なくとも、霊夢には伝えておかなければならなかった。
里に住むならまだしも、彼の住処は――今現在の住処は地霊殿なのだから。在り方を問う必要は、あった。
「全てはこれからよ。彼はただ、幻想郷の住人になっただけだし、心変わりをしても誰も止められない」
「幻想郷は全てを受け入れる、ですか」
「ええ。残酷よ、とてもとても。離れることすら受け入れてしまう」
もっとも、と紫は妖しく微笑んだ。
「人妖がどう動くかは、そのそれぞれの自由ですけれどね」
「覚えておきます」
「ふふ、そうしておいて。さて、私は向こうで霊夢達をからかってくるわ」
言い置いて、紫は姿を消した。向こうで騒動を起こして、こちらから目を離させるようだ。
どういう魂胆かはわからないが、とりあえず有り難くその厚意は受け取ることにする。
「……私も飲みすぎたかしら」
木にもたれて、さとりは大きく息をついた。とにかく、一番の懸念は終わったのだ。
彼を起こす前に、少しだけなら眠ってしまってもいいかもしれない。
そう、さとりもゆっくりと目を閉じた。
気が付けば、地霊殿への道の途中だった。みんなで、空を飛びながら帰宅している最中。
「あ、起きたー」
「……あれ、お空? ちょ、何で俺抱えられてるんだ?」
空中で空に運ばれている体勢であることに気が付いた彼は、慌てて腕をばたつかせる。
「もう宴会はお開きだよー」
「あたいの車に乗せようかとも思ったけど、さとり様がやめとけって言うからねー」
「あ、す、すんません、さとり様」
「いいわ。それより、気を付けないと落ちるわよ」
とは言われても、である。寝起きで不安定な状態にあればそりゃ驚くと言うものだ。
「わ、慌てると落とすよー」
「の、暢気に言うなお空、ずりおち……っ!」
わりとしっかりと持っていてくれはしていたものの、バタバタと慌てれば手も緩む。
当然だ、それはわかっているが。
「あ」
「あ、こらお空!」
ついにずり落ちた。ちょっと待てこちらは飛べないんだぞ。悲鳴も上げる間もなく落ちていく。
「あー、お姉ちゃん」
「仕方ないわね」
声がしたと思ったら、今度はさとりとこいしに両側から抱え上げてもらっていた。
脇の下に腕を通して、二人とも肩を担ぐように抱え上げてくれている。正直空の持ち方より安定していた。
「………………す、すみません」
「だいじょーぶ?」
「全く、慌てるからよ」
「……ごめんなさい」
……一つ間違えれば、人生が終わるところだった。危なかった。
「ごめーん」
「いや、すまんお空、俺も運んでもらってたのにさ」
「やっぱり車の方が安定すると思うんだけどねえ」
「……それは勘弁。まだ死体になったつもりは無いんで」
追いついてきた空に謝り、さて、と彼は首を傾げる。
「……あの、このままですか?」
「お空に渡すにしても、また外すと危ないでしょ?」
「後少しだし、このまま運んでしまいましょう」
重くないかな、とも思うが、そういえばこいしもさとりも妖怪だった。人間よりは強いに違いない。
人間がひ弱なんだろうか。いや霊夢や魔理沙見てるとそうも思えないけど。
「二人で抱えてるからそう重くはないわよ」
「ちょっと大きいけどねー」
「でかい図体ですんません……」
まあ、たぶん情けない状況なのだろう。だが飛べない以上、甘えさせてもらうしかない。
「ふふ、でもどう?」
「何がですか、こいし様?」
「両手に花、ってこういうことなんじゃない?」
「こら、こいし」
……確かに言われてみれば、だ。あまりそういうことは考えないようにしているけれど、いざ言われると顔が熱くなる。
綺麗だな、と思うときは正直多いし、今みたいな状況は、本当に両手に花と言うに相応しいだろう。
「あら、貴方もそういうこと考えたりするのね」
「う、あう、すんません」
「謝らなくてもいいわ。そういうことを思われて、悪い気分になったわけじゃないから」
「ん、どうしたの? 何考えたのー?」
「本当に両手に花だな、って」
「へー、意外、そういうこと思ったりもするんだ」
「俺一体何だと思われてます?」
でも、花か。花に喩えるなら何だろう。薔薇かな、と彼は思った。こいしのスペルカードにイメージが引きずられてるのかもしれないけれど。
「薔薇?」
「ん、ええと、はい」
「薔薇かー。でも、綺麗な薔薇には棘があるんだよ」
「そうね、きっと」
人の心に、自分の心に刺さって取れないほどの。さとりが小さく呟いた言葉は彼にしか聞こえていなかった。
そんなことはないと思う。少なくとも自分は救われた。それは確かなのだ。そんな悲しい顔はして欲しくない。
けれども上手く言葉にすることは出来なくて、彼はそのまま黙っていた。
それぞれ部屋に戻ったのを確認し、さて休もうとした時に、さとりはベッドの上にこいしがいることに気が付いた。
「こいし? 珍しいわね」
「今日はここで寝るのー」
「はいはい」
こいしの分のかけ布団を用意しようと背を向けたさとりに、こいしが尋ねてきた。
「ね、お姉ちゃん」
「なに?」
「お姉ちゃんは、あの人のこと、どう思ってるの?」
驚いて、思わず布団を取り落としそうになる。落ち着くように一つ深呼吸して振り向くと、さとりはこいしに毛布をかけてやった。
「どうして?」
「随分、あの人のこと気に入ってるみたいだから」
にこにこと無邪気な笑顔で、こいしがそう告げた。
「……だって彼も、地霊殿の家族でしょう?」
「そうだけど、結構親身になってあげてるでしょ?」
ね? とこいしが首を傾げる。見透かされているような思いになりながら、さとりはそれでも首を振った。
「……家族だもの」
「…………それでいいの?」
「いいの。それだけでも」
心を読んでも嫌わずにいてくれて、地霊殿にいたいと言ってくれて。
それ以上、一体何を望むと言うのだろうか。
「さ、寝ましょう、こいし」
「うん、おやすみ、お姉ちゃん」
「ええ、おやすみなさい」
心を落ち着けるように大きく息をついて、さとりはしばらく天井を見つめた後、目を閉じた。
そう、何をこれ以上求めようというのだ。
人妖に嫌われ、心を読んで傷つけるだけの覚りが、一体何を。
それでも、明日の朝、また彼の笑顔が見れることが、それが嬉しいのだと。
眠気で虚ろになる思考の中で、さとりは、それくらいは求めてみたいと、そう思った。
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最近、ペット達が慌しい。
さとりはそんなことを思いながら、空の元に歩いて向かっていた。
「この前、宴会に連れて行ってから、かしら」
先日の宴会を思い返して、さとりはくすりと笑った。
随分と賑やかなものだった。彼を地霊殿に住まわせることも正式に認められたし、からかわれた以外はそう悪いものではなかった。
まあ、途中彼と席を外していたことには下世話な想像をする輩もいたが。
「……最近、よくお燐と地上に行ってるわね、そういえば」
彼はもちろん、火車である燐の手伝いは出来ない。だが、別の運搬用の車を仕入れ、たまにではあるが物資の運搬をしている。
地霊殿にも物を買って帰るようにもなった。燐と一緒なのは、身の安全を考えてである。
「……まあ、少しは外に出るようになったのも良いのかしら」
それでも心配が無いわけではない。それに最近はよく動いている。
何かをしようとしているのかとも思ったが、本人達に中々会えない以上、空に聞くのが一番だろう。
問題は、空が知っているかどうかだが。
「……そのときはそのときね」
そう呟いて、さとりは空のいる旧地獄に向かった。
里の外れ。荷車を傍らに置いて休憩している青年が、遠くから来る火車を見つけて軽く手を振った。
「お燐、こっちの仕事終わったぞー」
「あいよー。あたいも終わりだから、一度お空のとこに運んでからまた来るよ」
布をかぶせた猫車を指して、燐が告げる。その中を想像しないようにしながら、彼は頷いた。
「ほいよ。今日は地獄だっけ?」
「最近センターと行き来してるからねー。でも今日はきちんと戻ってきてるはずだよ」
「忘れてないだろうな?」
「大丈夫だよ。お空はさとり様大好きだからさ。だから次さとり様泣かせたら、今度はお空の弾幕が飛んでくるよ?」
「あれは俺のせいじゃない……はずだぞ」
燐の言葉に、青年は頭をがしがしとかく。
先日、さとりが彼の記憶を許可の元、読んだことがあった。
彼が見ていた外の世界を知りたいのだとかで、別にそんなことなら、と了承したのだった。
だが、途中からさとりがぼろぼろと泣き始めてしまい、どうしたものかとあわあわしていたところ燐にドロップキックを食らったのだった。
彼のせいではない、とさとりが説明してくれなかったら、そのまま猫車に乗る羽目になっていたのではないだろうか。
「どうだかねえ」
「ほんとだって。さとり様も言ってただろ。それにさとり様は恩人なんだ、好きで泣かせたりしない」
「ならいいんだけどさ。おっと、鮮度が落ちちゃうや。じゃあ、後で迎えに来るから、買い出しよろしく!」
「おうさー」
何の鮮度かも考えないようにして、彼は走り去る燐を見送った。
「さて、後はこいつを買って……」
「おや、珍しい。地霊殿の」
雑貨店を回っている途中、後ろから声をかけられて彼は振り返った。
「ああ、えーと、慧音さん、だっけか」
「そうだ。貴方が地上に来るのは珍しいな」
「いや、これでも前よりちょくちょく上って来てるんですよ。太陽を浴びないと駄目だって永琳先生に怒られて」
笑いながら頭をかく。
「そうだな、人間には太陽の光が必要だから」
「あんまり深く考えてなかったんですけど、さとり様にも健康には気を付けろ、って言われて」
「地霊殿の主、か。前から不思議だったんだが、いいかな?」
「はい、どうぞ」
慧音の問いに、彼は頷いた。
「貴方は、心を読まれることが怖くはないのか?」
「いえ? いやまあ、読まれて拙いことはあるにはありますが、それでも」
嫌ではないし、怖くはない、と彼は言葉にした。頑張って言葉にした。
「そうか……いや、普通は嫌がるものだろうと思っていてな」
「普通は嫌なんだろう、とは思いますよ、俺も」
「でも貴方は嫌ではない、と」
「俺がたぶん、普通じゃないんだろーな、と。俺、口下手ですし人付き合い悪いし、でもさとり様は、そういうの全部わかってくれて」
上手く言葉に出来なくて、うー、と唸りながら、彼は必死に言葉を繋ぐ。
「何だろう、心を読まれるとか読まれないとか、そういうところじゃなくて、その、俺自身を受け入れてもらえてるのかな、って感じで」
「うん、何となくはわかるよ。一生懸命に思ってることも」
慧音は彼の必死さを気遣うように頷いた。
「……本当に大事にしてるんだな」
「え、あはは、そりゃ、俺なんかを拾ってくれた人ですし、出来る限りの恩は返したいですし」
そうだそうだ、と彼は何度か頷く。
「ちょっと今日、ペット一同でとある企画を立ててまして、それで、花とか用意したいんですけど、何かいいの知りませんかね?」
「ん、花か……里の中ほどに花屋はあるが、もう夕方だからな、どれほど残っているか……」
「うーん、ですか。やっぱりちと遅かったかなあ」
「あら、花ならうちの庭に山ほどあるわよ?」
会話に入ってきたのは、小さな少女。背には大きな羽があり、隣には日傘を差しかけているメイドの姿がある。
「これは、どうも。里に出てるとは珍しい」
「面白いことがありそうだったからね。丁度面白いものに行き当たったみたいだ」
少女――レミリア・スカーレットはそう言って、青年を仰ぎ見た。
「先の宴会以来かしら」
「そっすね。どうも」
「地霊殿の主に渡すのね。薔薇の花でも欲しいのかしら?」
「そうです、まさに」
そのとおり、と頷く。レミリアは楽しそうに笑みを浮かべた。
「薔薇なら、まさにうちの庭ね。いいわ、案内してあげる」
「いいんですか!」
嬉々として、彼は表情を綻ばせる。
「……危機感ないわねえ」
「危機感がないな……まあいいか。とにかく、彼も幻想郷の人間なので」
「わかってるわ、その辺りは。紅魔館と地霊殿の全面戦争なんて――楽しそうだけど、あまり大事にすると霊夢が煩いから」
慧音の言葉に、わかっていると言いたげにレミリアは手を振る。
「案内してあげるわ。咲夜」
「はい、それでは、ついてきていただけますか」
「はい!」
慧音に一礼して、彼は紅魔主従の後をついていく。
旧地獄に下りてきて、あまりの熱気にぱたぱたと扇ぎながらさとりを声を上げた。
「お空ー、いないのー?」
「さとり様っ!? どうしたんですかー?」
呼ぶと、楽しそうな声と共に空が降りてきた。
大きな翼をばたばたとはためかせ、さとりの前に着地する。
「ご苦労様。ちょっと聞きたいことがあったの」
「はいっ! 何でしょうか!」
「お燐と彼なんだけど」
「お燐ならさっき死体持って来ましたよー! あいつを迎えに行くってまた地上に行きました!」
何故か物凄くテンションが高い。どうやら何か楽しいことがあるのかあったのかしたらしい。
「そう、今日もまた地上に行ってるのね……」
「さとり様? どうしました、あいつがまた何かしましたか!?」
また泣かせたらただじゃおかない、と空の心が流れ込んでくる。
「違うわ、お空。彼はそもそも私に何もしてないのだから、そんなに心配しないで」
「そうですか?」
「ええ」
空が言っていることが何なのかはわかっている。
この前の宴会の後、ふと気になって、彼にお願いしたのだ。外の世界のことを見せて欲しいと。
彼はわかってかわからずか――いやたぶんあれはわかっていないのだろうが、快諾してくれた。
そして、さとりは見てしまった。彼のこれまでを。彼が心を痛め続けていた時間をも。
人付き合いが下手だ、とは言っていた。それでも、他人への恨み言は口にしない人だった。
自分をどこか卑下する方向にあるのは知っている。
人と上手く付き合えなかったことで、そういう思想に行ってしまったのだろうとも思っている。
けれども、さとりが見てしまった彼のこれまでは、あまりにも独りでありすぎた。
友人達といても中に入りきれず、上手く自分が表現できず、どこか敬遠されてしまう、日々。
彼自身も、和を乱すことを恐れて踏み出すことが出来ず、「俺はいいよ」と離れてしまっていた。
心だけが悲鳴を上げているのに、それを無視して。何事もないかのように独りで。
気が付けば、涙が流れていた。痛みを直に感じて、その孤独に思いを馳せてしまって。
孤独が辛いのは知っている、知っているけれど、さとりには妹がいて、ペット達がいた。でも、彼には。
「心配しないで。お空、優しい子ね」
頭を撫でてやると、嬉しそうに空は目を細めた。昔からこういう素直なところは変わらない。
「ところで、お空、その彼とお燐だけど、最近地上によく出ているけれど何をしてるか知らない?」
「え、あ、ええっと」
さとりの問いに、空は途端に慌てだした。
(だめだめだめだめ、さとり様には内緒って言われてるんだから)
「私には内緒、ですか。お空、何が内緒なの?」
「あうあうあう」
(言ったらお燐に怒られちゃう、あいつも内緒にしてくれって言ってたのに)
やはり空は素直だ、と思いながら、さとりは微笑む。
「大丈夫、お燐に言ったりしないから」
「でもでも…………あれ?」
「?」
(…………あれ? あれ?)
空が頭を抱え出す。嫌な予感がして、さとりは訊ねた。
「……お空、まさか」
「…………さとり様、私、何を内緒にしなきゃいけなかったんでしょう…………?」
訊かれても困る。うー、と涙目になってしまった空の頭を撫でてやりながら、これは本人たちに訊くしかないかと、さとりは一人頷いていた。
「いやあ、凄いなあ」
紅魔館の庭園。館の主に連れられてやってきたそこを見て、彼は感嘆の声を上げた。
「いいんですか、本当にもらってしまって」
「面白いものを以前の宴会で見せてもらったからね、構わないよ」
「どれにしますか? どれも自信作ですよ」
美鈴が示した花壇を眺めて、彼は指をさす。
「じゃあ、この、白とオレンジのを」
「え、いいんですか、赤じゃなくて」
「……何でかな、俺の中では、こういうイメージなんですよ」
美鈴に選んでもらっているのを眺めて、レミリアが訊ねる。
「花言葉くらいは知ってる?」
「え、いやいえ、そういうのはちょっと疎いんで」
「……まあ、そんなものかもね」
軽く頷いて、レミリアは傍らの咲夜を見上げた。咲夜は一礼して言葉を繋ぐ。
「悪い意味は有りませんから、安心して持っていってください」
「ああ、そりゃありがたいです」
嬉々として、彼は花束を受け取った。
「棘も綺麗に取ってますから大丈夫ですよー」
「ああ、花束にするときは取るんですね」
「危ないですからね」
そうか、と彼は呟いた。棘は外すことも出来るんだ。
「まあ、棘もあってこその薔薇でもあるがね」
レミリアは意味ありげに微笑う。
「お前、棘がある薔薇は嫌いか?」
「…………いいえ」
首を振って、彼は笑った。
「俺は、どちらも好きです」
「いい返事だ」
満足気に頷いて、レミリアは咲夜を促した。
「咲夜、あの猫のところまで案内してあげなさい」
「はい」
「あ、いえ」
確かに燐とは里の辺りで待ち合わせているが、わざわざ手を煩わせるほどではないはずだ。
「もう日が暮れるわ。客人の安全を守るのは招いた者の役目よ」
「そういうことですので」
「すんません、では、お願いします。花、ありがとうございました」
ぺこり、と彼は丁寧に頭を下げた。
「あー、遅いっ!」
「すまんお燐! これもらっててさ。ありがとう、咲夜さん」
「いいえ、では、私はこれで」
去っていく咲夜にまた一礼して、青年は燐に花束を見せた。
「さとり様とこいし様に渡そうと思って」
「いいんじゃないかな、薔薇っていかにもさとり様とこいし様って感じだ」
「うん、綺麗だもんな。じゃ、とっとと帰るか」
「準備の方は間に合うかな?」
「大丈夫だろ、そのために下ごしらえしてきたんだぞ」
「よくやった!」
談笑しながら、二人は地霊殿へと急ぐ。
「そろそろ帰ってくる頃かしら」
「うにゅ……」
しょぼんとなっている空をなでなでしながら、さとりは旧地獄から地霊殿に戻ってきた。
「食堂に行きましょうか」
「はぁい」
今日の当番は彼の番だった。予定通り帰ってきているなら、今頃準備をしているはず。
「あ、お姉ちゃん」
「あらこいし、お帰りなさい」
「ただいま。ね、早く食堂に行こう?」
「ええ、今から行くところだけど、何かあるの?」
「いいからいいから」
手を引っ張るこいしに連れられて、食堂に向かう。
辿り着いた食堂の前に何匹もペット達が待っていて、さとりは首を傾げた。
『さとり様ー! こいし様ー!』
『お燐、さとり様来たよー!』
「あいよー! 準備は?」
「オーケー!」
威勢の良い燐と彼の声が聞こえて、さとりはこいしと空と一緒に食堂に入った。
途端に、ぱぁん、という音と共に、紙吹雪と紙テープが飛ぶ。クラッカー、という単語はおそらく彼の思考から入ってきた。
「な、何?」
「やった! サプライズ成功ー!」
いえーい、と彼と燐がハイタッチをしている。他のペット達とも手と前足をあわせたりしている。
隣で目を真ん丸くしている空に、燐が飛びついた。
「お空偉い! さとり様に内緒に出来たんだね!」
「…………あああああ! サプライズパーティ!」
たった今思い出したかのように――いや実際思い出した空が手を打ち合わせる。
「……忘れてたね?」
「ごめーん」
「…………ごめんなさい、説明してもらえる?」
全員の意識が混沌としていてよくわからない。とりあえず、サプライズパーティなのは伝わった。
「ああ、ちょっとパーティ開こうと思ったんですよ、さとり様に内緒で」
にこにことしながら、犬と手を打ち合わせていた彼が言う。
「さとり様にいつも世話になってるから、さとり様に驚いてもらおうと思って。本当はこいし様にも内緒にしたかったんですけど」
「何か美味しそうなの作ってる、って思ってつまみ食いしちゃって見つかっちゃった」
「気が付いたら隣でつまみ食いしてるんですから、内緒にするどころの話じゃないっすよねえ」
「でもお姉ちゃんは驚かせたでしょ」
ですね、と言って、彼はこいしともハイタッチした。
「えっと、話が見えないんだけど」
「さとり様、俺達が何かしようとしても、すぐにわかるでしょう」
「ええ、そうね」
そうでなければ、ここまで驚かなかった。
「だからです。驚くのが新鮮かなって思って」
「ここ暫く、あたいとこいつで地上と往復して頑張ってたんです」
「……私に?」
「はい! 俺達、さとり様に何か感謝の気持ち伝えたくて」
「パーティだけだとバレますから、みんなで内緒にして、サプライズにしたらきっとさとり様にも驚いてもらえる、って、こいつが」
「お燐もノリノリだったじゃないかよ。ペット達みんなからの感謝の気持ちです。さとり様」
そう、彼は椅子を引く。燐も、こいしに対して椅子を引いた。
「ね、お姉ちゃん」
「……え、ええ、そうね。みんな、ありがとう」
心からの言葉を言うと、全員が歓声を上げた。
「……嬉しいね、お姉ちゃん」
「ええ、本当に」
おそらく、知らないはずだ。覚りという種族は、思いもかけないもの、読めなかったことが一番の弱点ということを。
昔話ではそれは退治の方向に使われたものだ。だからこそ、今のこのサプライズは涙が出そうなほど嬉しく感じてしまう。
それは仕方がないのだ。覚りとはそういうものなのだ。
「ねえ、さとり様、楽しんでくれてますか?」
「ええ、お燐、お空」
両隣に来た二人の頭を撫でながら、さとりは微笑んだ。少し酒が入っているためか、燐も空も顔が紅い。
「実はですね、これ、全部あいつの発案なんです」
「そうなんです! 本当は、あいつに何かしようってなってたんです」
「……どういうこと?」
本人がいないことを確認して、燐が話し出す。彼自身は、ちょっと取ってくるものがあると席を外していた。
「ほら、あいつが来て、半年でしょう。ペット達の中で何かやるか、って話になったんです」
「何がしたいか、ってあいつに聞いたら、『さとり様とこいし様に、何か恩返ししたい』って言って」
「それで、さとり様に内緒でパーティ開こう、ってなって、みんなで準備したんです」
「そう、なの」
自分のために、何かを求めればいいのに。それなのに、彼はさとり達に何かを返すことを選んだということなのだろうか。
「あいつが一番張り切っちゃって、ばれないようにずっと心の中で歌ってたりとかしてたらしくて」
「ああ、それで最近、よく外の世界の歌を歌ってたのね……」
「私達にも内緒だぞーって。何か別のことを一生懸命に考えろ、って」
「……随分、大変だったんじゃないかしら?」
「いいえ! だって、さとり様のためですもん」
「さとり様のためだったら、あたい達は何だって」
きっと、あいつも。嘘偽りのない二人の思いが、同じことを告げてくる。
「……ありがとう、お燐、お空。教えてくれて。私達を大事に思ってくれて」
「もちろんです、さとり様!」
空が抱きついてくる。よしよし、と撫でてやっていると、彼が戻ってきた。
両手に、オレンジと白の薔薇の花束を抱えて。
「さとり様、こいし様」
「わあ、綺麗だね、お姉ちゃん!」
「ええ、本当に……どうしたの?」
「あはは、まあ、その、普段のお礼、ってことで」
こいしには、オレンジの花束を。さとりには、白の花束を。
「花束なんて贈ったの初めてだから、どういうこと言えばいいのかわかんないんですが、いつも、ありがとうございます、かな」
「ん、ありがとう、嬉しいよー!」
「私も、とても、嬉しいわ……どうしたの、こんなに」
言葉をかけると、紅魔館に行ってきた記憶が流れ込んできた。
「……また、危険な場所に」
「ああいや、今回は向こうに招いてもらったんで」
「そうね、あそこの主は、招いた相手を危険に晒す事はしないでしょうから」
そう言いながら花束を抱きしめると、強い薔薇の香りがした。
「……気に入って、いただけました?」
「もちろんよ。このパーティも、花束も」
「え、あ、えっと……あ、まさかお燐……」
「あたいは知らないよーっと」
猫の姿になって、燐はぴょんと飛び去ってしまう。そのときに、空にちょっかいかけたため、空も燐を追いかけて一緒に行ってしまった。
「ああもう、内緒だって言ったのに……楽しんで、いただけましたか」
彼の心には、常に不安がある。自分がやったことが、相手に喜んでもらえているか自信がないのだ。
「ええ、ありがとう」
「ありがとー!」
「そういってもらえると嬉しいです」
にこにこと笑った彼に、さとりも微笑む。そして、花束を見つめた。
「薔薇の花、なのね」
「ええ。棘も綺麗に取ってくれました」
けれど、と彼の心には、紅魔館の主との会話が蘇っている。
「棘があってもなくても、綺麗なもんですね」
「……そう? 棘があると、怪我しかねないわよ?」
「それでも、俺は、棘のある薔薇も、ない薔薇も、どちらも好きです。綺麗だと、思います」
真剣な、少し引き締めた表情で、彼は告げた。直視するのは少し眩しくて、さとりは視線をそらす。
「……そう」
「はい」
「ね、これ、花言葉とかあるの?」
不意にこいしに訊ねられ、彼は首を傾げた。
「あー、そういえば、もらうときに何か言われた気が。でも俺知らないんですよねえ」
「薔薇自体は愛情、だよね?」
「あー……家族愛、ってことでお願いできますか」
少し顔を紅くして、彼は言った。恋慕とか愛情とかは恥ずかしいらしい。
「ふふ、いいよそれで。ね、お姉ちゃん」
「え、ええ。そうね。ありがとう」
「お二人にそう言ってもらえるんなら、準備した甲斐があります」
本当はかなり大変だったはずだ。さとりに知られないようにしながら、ペット達にも働きかけて。自分は地上にも上がって。
そこまでしてくれた彼を、さとりは嬉しく、愛しく、思った。
片付けまで全て彼がしようとするのを押し留めて、さとりはこいしと皿を洗っていた。
「珍しいわね、こいし」
「たまにはお手伝いするよう」
家事は二人とも嫌いではない。ペット達の世話も元々は二人でしていたのだ。大抵のことは出来る。
「ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんは花言葉知ってるよね?」
「どうして?」
「お姉ちゃんは物知りだもの」
「確かに、本は好きだけど」
さとりは微笑んで、こいしの言葉を半ばだけ肯定した。
「じゃあ、私のもらったのには何の意味があるのかな?」
「オレンジは……無邪気、だったかしら。こいしにぴったりなのかもね」
「そうかも。お姉ちゃんのは?」
「白い薔薇は……尊敬、だったと、思うわ」
「じゃあ、お姉ちゃんにもぴったりだ」
楽しそうに、こいしは笑う。そうね、と、さとりは曖昧な笑みを浮かべた。
「けれど、彼は花言葉を知らなかったのよ?」
「それでも、あの人が無意識に選んだのだとするならば、それはあの人の心を表してるとも言えないかな」
「かも、しれないけれど」
「だから、きっとぴったりなんだよ、お姉ちゃん」
お皿しまってくるね、と、こいしがさとりの傍を離れる。
「……彼の、無意識」
呟きながら、さとりは手を止める。オレンジの薔薇にも白い薔薇にも、まだいろいろ意味がある。
オレンジは、無邪気、信頼、尊敬、絆。そういう意味があったはず。
白は、心からの尊敬、純粋、清純、そして。
「……私は、あなたにふさわしい」
「どうしました、さとり様?」
「きゃ!?」
「うわ!?」
片付けの皿を持ってきた彼が急に後ろから声をかけたため、さとりは驚いてバランスを崩した。
「あ、危な……大丈夫ですか、さとり様」
「ご、ごめんなさい……」
彼が支えてくれて、さとりは辛うじて倒れずに済んだ。皿はテーブルに避難させたらしい。
「珍しいですね、さとり様が驚くなんて」
(何か考え事でもしてたのかな)
「ええ、ちょっとね。そちらに気を取られてしまって」
しかも近付いてくるまで彼は鼻歌を歌っていたのだから、よもやあんなタイミングで声をかけられるなど思わなかった。
無意識や思い付きで行動されるのには、どうも弱い。
(しかし、細いなあ……でも、女の子ってこんなに柔らかいんだな……知らなかった)
ふと思ったらしい彼の思考が流れ込んで、さとりは顔が熱くなるのを感じる。
「あ、あの」
「へ、あ、どうしました?」
「あの、そろそろ」
言いかけたところで、ひょこ、と、こいしが戻ってきた。
「お姉ちゃーん、次は……って、あれ? 何でお姉ちゃん抱きしめてるの?」
「ち、違うわ、こいし!」
「そ、そうですそうです、俺はその、支えただけで」
そう言いながら、彼が手を離す。思考がぐるぐるしている。すみませんだのごめんなさいだの、謝る言葉しかまともに聞き取れない。
「そんなに謝らなくてもいいの。ありがとう」
「そうそう、お姉ちゃんもちょっと嬉しかったりしたでしょう?」
「こいし!」
「あの、でも、すみません、俺のせいで」
しゅんとなる彼に、さとりは首を振って頭を撫でた。
「助かったわ。だから、そんなにしょんぼりしないで」
「はい……」
少し浮上した彼から手を離して、そうね、とさとりは飾っていた白い薔薇を一輪手に取る。
「貴方からもらった想いを、少しだけ返させて」
「え」
「あ、お姉ちゃん、私も!」
こいしもオレンジの薔薇を一輪手に取り、さとりがしようとしていたように彼に渡す。
「え、えと、俺」
「今何も貴方に返せないから、貴方からもらったもので申し訳ないのだけれど……」
「私もお姉ちゃんも、貴方やペット達と過ごせてとても嬉しかったし、楽しかった!」
(…………ありがとう、ございます)
心の中だけで呟いて、彼は深々と頭を下げた。口元を引き締めてるのは、泣いてしまいそうになっているらしい。
「大事にします、これ」
「……栞にするのね」
「はい」
(さとり様達から、もらったものだから)
大事に、何よりも大事に。そんな思考が流れ込む。
「……お二人は、もう休んでください。あと少しだから、俺がやっときます」
「あと少しだから、手伝うわ」
「そうだよ、私もお手伝いー」
「ありがとうございます」
今度は言葉に出来た彼の笑顔が、嬉しいという感情が、さとりの心の内を温かいもので満たしていく。
(何かお返ししたいなあ……ああ、そうだ)
皿を拭いていた彼の意識に、広々とした草原が広がる。
「……地上の草原?」
「ええ、地上に出てみませんか、ピクニックみたいに」
「あ、いいね! 今、まだ本格的に暑くないからとっても過ごしやすいよ!」
こいしが賛同する。少し考えて、さとりは頷いた。どうも、妖精がたまに飛んでいる程度で、あまり他の人妖も来ないらしい。
「……そうね、悪くはないわね」
「じゃあ、今度天気のいいときにでも。お燐とお空連れてたら、危険はないでしょうし……つか危ないの俺だけか」
「地霊殿総出だったら、その辺りのは近付いてこないもんねー」
「まあ、そうね」
地獄の火車に核融合を操る烏、それに覚りがいるとなっては、そうそう近寄ってもこないだろう。
「あ、じゃあ、こいし様、ピクニックのときはきちんといてくださいよ?」
「はーい! じゃあ、お弁当期待してるね」
「任せてください!」
彼の心の中は、こいしがいれば、さとりもきっと楽しんでくれる、と呟いている。
その優しさに甘えそうになる自分に気が付き、しっかりしないと、と胸中で呟いて、さとりは微笑んだ。
「じゃあ、それはまたきちんと計画立てましょうか。今は片付けをしてしまいましょう」
「はい」
「はーい」
楽しげな会話を交わしながら、それぞれに手を動かし始める。
「……あいつ、絶対そうだよねえ」
「にゅ? 何が? お燐」
「お空、あいつ、さとり様のこと好きだと思う?」
「え、だってあいつみんな大好きって言ってるよ?」
「……うん、まあ、そうだね」
聞く相手を間違えたかな、と思いつつ、燐は空と食堂の陰から、楽しげな三人を見守っていた。
ちなみに、ピクニックのための仕事の調整をしよう、と燐が告げた瞬間空がはしゃぎだしてしまい、そのままさとり達に突撃するように抱きついていったのは言うまでもない。
その光景は本当に家族のようで。
これ以上、幸せなことなんてない、と、彼が呟いていたのを、さとりは聞かなかったことにしていた。
さとりもまた、それでいいのだと、このときはそう、思っていた。
──────────────────────
六月の、天気の良い日。
広場のようになった草原には、清々しい風が吹いていた。遠くには里も山も見えるが、人影はない。
「いや、いい天気になったー。梅雨時だから蒸すかと思ったがそうでもないな」
「そうだねえ、この辺りにはいい死体はなさそうだけど、まあたまにはこういうのもいいかな」
青年の横で、物騒なことを燐が言う。おーおーはしゃいでる、と追いかけっこをしている空とこいしを眺めて微笑った。
「さとり様、あたいも混じってきます!」
「はいはい、いってらっしゃい」
ぽんと猫の姿になって、燐が駆け出す。どうせ子守のような状況になるのだろう。
「さとり様、座りますか?」
「そうね、ありがとう」
敷物の準備をしていた青年は、楽しそうに笑った。
「ピクニックなんて初めてですよ」
「そうね、私も、みんなでこういう風に外に出たことはなかったわ」
さとりは腰を下ろしながら頷いた。楽しそうにはしゃぎまわる妹とペット達を楽しげに眺める。
「貴方は行かないの?」
「いや、あれについてくのは至難の業なんですが。空飛んでるし弾幕張ってるし」
そう言いながらも、彼は楽しそうだった。
「じゃあ、一緒に眺めてましょうか。紅茶でも飲む?」
「ああ、いただきます。ちょっと喉渇いちまいまして」
水筒の紅茶をカップに入れて渡すと、彼は一息に飲み干した。
「はあ、生き返る」
「それは良かったわ。たまには、こういうのもいいわね」
「ですね。いやしかし、みんな揃えて良かった」
満足そうに、彼は遊んでいる三人の方を見遣っている。
最近ようやく、こういう表情を見せてくれるようになった。
地霊殿に来たばかりの頃とは大違いだ、と、さとりは自分も紅茶を口にしながら思う。
最初の頃、彼は心を読まれることも、怨霊やペット達が多く居ることにも頓着しなかった。
代わりに、自分が此処に居て良いのか、と常に思っていた。何度此処に居ていい、と言っても、落ち着かない様子を見せていた。
それは、どこにも居場所が無かった動物が、自分の居場所を探す姿に似ていた。
さとりが彼を見捨てておけなかったのは、それもある。それに何より、彼は――
「さとり様? どうしました?」
「いいえ、何でもないわ」
さとりは首を振った。何を思おうとしたのかも棚上げにして、遊んでいる三人を見る。
「あー、遊び出したばかりだけど、そろそろ飯の時間かな」
日が中天に懸かり始めた空を見上げて、彼が呟く。
「ん、お昼ご飯?」
「うお、こいし様、いきなりですね」
「ええ。でも驚くからいきなりはやめて、こいし」
こいしは二人の回答に楽しそうに頷くと、空と燐に手を振った。わかっているかは非常に怪しい。
「お燐ー! お空ー! ご飯だよー!」
「はーい、こいし様!」
「ご飯ー!」
駆け戻ってくる二人を見ながら、彼が弁当を並べ始める。
「おー、美味そうだね、あんたが全部作ったの?」
「いいや、さとり様も手伝ってくれたからさ」
「じゃあ、当ててみせる……これがさとり様のだっ!」
「こらお空、勝手に食うなー!」
賑やかな食事が始まって、さとりも知らず知らず頬を緩ませていた。
今日はみんなと出てきて本当に良かった。そう思える日になりそうだった。
「あれ?」
「あら」
食事も終わり、思い思いに談笑していて――気が付けば、彼はごろりと横になって眠ってしまっていた。
「今日朝早かったものね」
「あー、でも絶対こいつ寝るって思ってましたよ」
「こんなにいい天気ですし!」
「お昼寝もいいよねー」
こいしが言うなり、彼の隣に横になる。
「ああ、そうですねえ」
「あ、私も私も!」
二匹して動物の大きさになり、彼の腹の上に乗る。うう、と彼は軽く呻いた。
「起こしちゃ駄目だよー。さ、お姉ちゃんも」
「……そう、ねえ」
少し迷わなくもなかったが、人影もないし気配も無い。少しくらいならば、悪くは無いだろう。
「安心するよね」
「そうね、どうしてなのかしら」
彼の近くは、心が緩む。気が付かなかった眠気が襲ってきて、さとりも目を閉じた。
これも彼の良いところなのだろうと、そう思いつつ、睡魔に身を委ねた。
一瞬視界に影が降りたのを感じて、彼は目を覚ます。
「あー……雲か鳥か?」
広い草原で寝転がるなんて経験はそうない。ついつい寝てしまっていたらしい。
「……ん?」
身体にしがみつく幾つかの感触。いつも通り腹の上では燐と空がいるのを確認した。
「またか……」
ということは両側は、と見ると、右にさとり、左にこいしが寝ている。
「……何で俺が寝てると集まって来るんだろう」
はあ、とため息をつく。しがみつく力はそう強くは無くて、ゆっくりと抜けば腕も抜くことは出来そうだった。
「ん……」
右腕を動かそうとすると、微かな声と共に、さとりのしがみつく力が少し強くなった。
心臓が高く鳴って、うっかりそちらを見てしまう。穏やかに眠るさとりの寝顔が、そこにあった。
「……あ、やべえ」
鳴り続ける心臓を抑えるために、ゆっくりと腕を引き抜く。
「がー。良かった、寝てて本当に良かった」
今心を読まれていたら、確実に気が付かれていた。
起こさないように身体を起こし、その拍子にころんと動物型の空と燐が足元に転がったのにも気を留めず、彼は呻いた。
「…………気が付かれちゃ、駄目だからな」
さとり様のことが、好きだ、なんて、伝えていいはずがない。
平常心で、平常心で。気持ちを落ち着けるように、押し込めるように。
それでも、安らかに眠っている表情を見ると、心がざわつく。
「どうしたのー?」
「うあ、こいし様、起こしちまいましたか」
「さっきから起きてたよ。お姉ちゃんの顔じーっと見てたから、どうしたのかな、って」
にこにこと笑顔で、反対側に寝ていたこいしが起き上がる。
「いや、その……さとり様が寝てるの見るの初めてだなー、とか思って」
「あれ、そうなの? そういえば、いつも貴方とお昼寝するときは、一番に起きちゃうもんね」
「……いつも寝てるんですか?」
「だって、よくお昼寝してるでしょ? みんなの時間がたまたま合ったときとかはいるよー」
どくり、とその言葉に反応するかのようにまた心臓が跳ねた。
さとりが傍で眠っていて、そのときに穏やかに眠ってくれているのだとすれば、それほど嬉しいことはない。
「……見惚れてた?」
「う、え、ああ、えっと」
もしかしたら、こいしには全て気が付かれているのかも知れない。
「……綺麗だなあ、ってのは、思ってますよ、いつも」
それでも、全ての本心を告げることは出来ず、当たり障りのない事実のみを告げる。
「……好きなの?」
「ダイレクトっすねえ」
やっぱり気が付かれているのだろうか。笑顔はきっと引きつっている。
「…………俺は、さとり様やこいし様、お燐やお空、地霊殿のみんなが好きですよ」
「……貴方は、それでいいの?」
「いいんです。俺はきっと、今初めて幸せなんです。何か、物心着いた頃から、家族とも何か上手くいかなくて」
反抗期だったんですかね、と笑う。
「そっから独り暮らしになって、俺、友達とも上手くいかなくて」
「独りだったの?」
「完全な独りってわけじゃないですよ。友達はいましたし。でも何か、俺が歯車おかしくしちゃってて。
結局、何だかんだで、俺がみんなから離れちゃいました」
馬鹿だよなあ、と、呟く。もう笑いしか出てこない。こいしが、あ、という表情をしたのにも気が付かないほど。
「そんなのだからですかね、幻想郷に来ちまったのは。でも此処に来れて、俺は本当に良かった」
「……それ、言ってあげたら、お姉ちゃん喜ぶと思うよ?」
「いやまあ、流石に気恥ずかしいです」
頭をかくと、ふふ、とこいしは笑った。
「じゃあ、私はちょっと遊んでくるね」
「はい、帰るまでには戻ってきてくださいよ」
「気が向いたらねー」
走り出したこいしを見送って、彼は一つ息をついた。
「……みんなと一緒にいていいのかな、って思うときもあるんですよ、本当は」
こいしと話していると、どうも自分の深いところを見つめてしまうときがある。
それが無意識と向かい合うということなのか。
もう見えなくなった――いるのだろうけれど見えないこいしに向かって、彼は呟いた。
「こんな奴は、本当は独りでいた方がいいんじゃないか、って」
「……それで、地霊殿でも独りでいようとしていたの?」
「………………さとり様? いつから起きてました?」
「家族とも上手くいかなくて、の辺りかしら」
ちょっとだけほっとした。こいしとのやり取りはあまり聞かれてないらしい。
それを読んでか、起き上がってさとりが首を傾げた。
「あら、何か話してたの?」
「さすがに内緒ですー」
そう笑いながら、彼は不意に向こうのことを思った。
家族と仲直りしておけばよかっただろうか。友人ともっと仲良くなるよう努力しておけばよかっただろうか。
今言っても、どうしようもないことなのはわかるのだが。
「……外が、恋しい?」
「ん、ああ、読みましたか。いいや、恋しくはないです。俺が馬鹿だっただけですから」
それは、本当だ。自分から後少し動けば変わっていたのかもしれない。けれども、それは過去のこと。
自分が生きているのは現在なのだ。過去を悔いるだけではいけない。そう、思えるようになってきた。
「……強いわ、貴方は」
「いや、俺は弱いです。俺にそういうの気が付かせてくれたのは、さとり様ですよ」
「私?」
「はい。俺は、何やっても駄目なんだと思ってた。でも、さとり様はそうでないと、教えてくれた」
上手く言えないのは相変わらず。それでも、思いを伝えるには、きっと十分。
「誰かのために、何かが出来るのなら、こんなに嬉しいことはない。ありがとうございます」
「……きっとお礼を言うのは私の方よ。ありがとう」
首を傾げる彼に、さとりは首を振っただけだった。少しだけ、泣きそうになっているのは気のせいだろうか。
そのとき、ひょい、と足元で猫と烏が顔を上げた。
「あれ、どうして転げ落ちてるんだろ?」
「いやあの……すまん、気付かんかった」
「何で気が付かないかねえ」
怒るよりも先に呆れて、燐は人型になるとさとりの傍に座った。
「大丈夫ですか? こいつにまた何かされてないですか?」
「俺どれだけ信用ないんだ。何かって何だ」
「……またさとり様泣かせたの?」
「泣かせてない、泣かせてないからその制御棒下ろせお空っ!」
こちらも人型になった空が制御棒を向けてくる。
それは死ねる。冗談抜きで死ねる。
「ふふ、何もないわよ、お燐、お空」
「そうですか? ならいいんですが」
頭を撫でられながら、燐は空と視線を合わせる。
「前科がねー」
「あるもんねー」
「本当に仲良いなお前ら!」
笑いながら、じゃれるように会話をする彼らを、さとりが楽しそうに見ていた。
彼にとっては、それで満足だった。大事な主が笑ってくれる、楽しんでくれる。
それが何よりも、嬉しかった。
「お姉ちゃんといい、あの人といい……」
草原を歩きながら、こいしは、ふう、とため息をついた。
無意識ではあんなに傍にいたがっているのに、どうして近寄ろうとしないんだろう。
「似たもの同士なんだよね、きっと」
他の人妖から嫌われた覚りと、人に近付けず、近付かれることもなかった人間。
その二人が、ようやく手を伸ばそうとしているのに、肝心の本人達が何も気が付いていない。
んー、と首を傾げて、こいしは何かを思いついたように微笑んだ。
「そうだよね、無意識でわかっているのなら、それが表面に出てくればいいんだよね」
こいしは無意識で動く。それが彼女の能力。時として無意識に発動するその能力。
その能力を、彼女は大好きな姉のために使えれば、と思った。
思うだけで十分だった。
ピクニックから帰って、数日。彼がぼんやりしているときが多くなった。
「どうしたのかしら」
普段から、とりとめもなくぼーっとしていることはあった。それでも、最近のような、奇妙に落ち着かないものではなかったはずだ。
あの、昼寝をしていたときから何かおかしい気がする。天狗に新聞記事にされたからだろうか。天狗の件は空と燐に任せたけれども。
「聞いてみるのが一番よね」
そう、さとりは自室を出た。
もう夜だから寝ているかもしれない、寝ていたら日を改めよう、そう考えて。
本来ならば、こんな夜に訪ねようなど思わなかったはずである。だがさとりは、何故かそうしたいと思ってしまった。
しばらく廊下を歩いて、彼の自室の前に着く。
唸るような声が扉の奥から微かに漏れてきていて、やはり何か具合が悪いのだろうかと、さとりは心配になった。
どうしたのか、何かあったのか、訊ねるためにノックをしようとして――
(……好きなんだ)
聞こえてきた心の声に、さとりの動きが止まった。
(さとり様が、好きだ)
「え」
動揺する間もなく、彼の心がさとりに流れ込んでくる。
(ちくしょう、あのとき寝顔見ちまったからか? あれから離れねえ)
彼の心がとめどなく光景を映す。
彼と話しているとき、燐や空を撫でているとき、こいしのことを思っているときの、さとりの表情。
さとり自身が、自分がこんな表情をしていると、気が付かないような、そんな些細なことまで。
(昼間が辛い、さとり様にバレそうで怖い)
苦悩するような声がする。うめくような、辛そうな。
(ずっと我慢できてたのに、何で抑えられなくなってきたんだろうな)
それでも、それでもと、彼の心が叫ぶ。
(俺は、さとり様が、好きなんだよ……)
優しくて、強くて、何よりも自分を救ってくれたと。必死に彼の心が叫ぶ。
その声は、切実で、想いに溢れていて。
さとりの身体と心を硬直させるには十分過ぎた。
我に返ったのは、彼が動いた気配の後。それまで、心が痺れたようになっていて気が付かなかった。
(何か飲むか、みんな、もう寝てるだろうし)
ドアの前まで来た気配に、さとりは離れようとして、足をもつれさせる。
幸い転ばなかったが、上手く身体が動かなかった。
「っ、悪い、誰かいんのか……さとり様?」
「あ、あの」
開いたドアの向こうから、驚いたような彼が出てくる。
「………………まさか、聞こえて、ましたか」
「あ、えっと、その」
誤魔化せばよかった。そんなことはないと。何も聞いていなかったのだと。
(……聞かれた)
愕然となった彼の心に、さとりは胸を突かれた気分になった。
彼は厭うだろう、嫌うだろう。想いを勝手に盗み見たことを、許してはくれないだろう。
どれだけ想ってくれていたとしても、優しい想いを寄せてくれていたとしても。
忌み嫌ってしまうに、違いない。
「ごめんなさい……」
視てしまって、ごめんなさい。
さとりは彼の前から逃げるように駆け出した。
彼の想いを真正面から受けて、定まらなくなった自分の心を抱えたまま。
しばらくさとりが去っていった方向を茫然と眺めた後、彼はドアにもたれて、ずるずるとその場に座り込んだ。
「やべえ、バレた」
ずっとずっと、内緒にしていたのに。
「……どうすっかー」
がしがしと頭をかく。十二分に混乱している。何で此処にいたのかとか、そういう疑問が無いわけではないけれど。
「………………うあー」
言葉に出来ない言葉を発して、彼は部屋に戻った。
寝よう。
今は寝て、全ての問題を棚上げにしてしまおう。
ああ、でも願わくば。
今日のこのことが夢でありますようにと。
全てが夢の中で、明日起きたら何事もなくさとり様とお燐とお空と、帰ってきていたらこいし様も。
みんなで何でもない日常を過ごせる日々に戻れればと。
そう願いながら、彼は眠りにつく。
全てわかっている。
これが夢なんかでないことも。全てが元に戻るなんてないことも。
それでも、それであったとしても。
さとりのことを好きだという気持ちには、何一つ変わりが無いと。
それだけが、混乱しきった彼の思考の中で、只一つはっきりしていることだった。
部屋まで逃げ帰って、さとりはベッドに身体を投げ出した。
心臓の鼓動が速い。顔が熱い。心が、苦しい。
「私、私は」
喘ぐように呟き、仰向いて天井を見つめる。
彼の想い。今まで全く気が付かなかった想い。
「私は、彼を。彼のことを」
その想いを受けて、表面化した自分の中の、彼への想い。
第三の目に自分の手を当てて、さとりは考える。
彼の無意識の動作は、きっとさとりに想いを現していた。
それこそ、彼自身身気が付かないほどの想いを。
それに気が付かなかったのは、さとりが覚りであったがため。
意識上に上らなかった想いに、気が付こうはずもなかった。
何より、そんな風に誰かに想いを寄せられる機会がなかった彼女にとっては、青天の霹靂に等しい。
だが、今はそんな言い訳は利かない。さとりは彼の想いを聞いてしまった。自分の想いを知ってしまった。
彼に想われて、嬉しいとどこかで感じた自分を、知ってしまった。
やがて、さとりは思考を放棄した。ただ眠ることにした。
眠りが浅くなるのもわかっていた。ろくに眠ることなんて出来ないことも。
それでも、今は眠ってしまいたかった。
彼の想いを知って、自分の想いを確かめて。
けれどもきっと、彼は私から離れてしまう。想いを覗いた私を、嫌うだろう。
その残酷な思考から逃れたくて、さとりは瞳を閉じた。
その目の端から涙が流れたことにも、気が付かないままに。
──────────────────────
「さとり様、お呼びですか?」
「ええ、お燐。ちょっと申し訳ないのだけれど、聞いてもらえる?」
部屋に呼び出してのさとりの言葉に、燐は首を傾げた。
わざわざそう言わなくても、自分に出来ることなら何でも聞くというのに。
「ありがとう、お燐。大したことではないのだけど」
「いえいえ、何でしょうか?」
「ちょっと調べ物と考えたいことがあるから、しばらく此処で食事を取ろうと思うの。彼に伝えておいてもらえる?」
「……はあ、それだけですか?」
「ええ、お願いね」
それだけなら、自分で伝えに行ってもいいような話なのに。そんなに大事な用なんだろうか。
燐の疑問に気が付かないはずもないだろうに、さとりはただ微笑んだだけだった。
少し妙な気分になりながらも、燐は頷く。
「わかりました。伝えておきます」
「ありがとう」
「いいえ、では!」
燐は一つ礼をして外に出る。彼女の脳裏に残る、微笑んださとりの顔は少し寂しそうだった。
猫の姿になって駆け出しながら、燐はとりあえずあいつに問いただすことを決めていた。
台所で朝食を作っていた青年は、燐の報告にただ頷いた。
「そうか、了解」
「さとり様の様子が何かおかしかったんだけど、何か知らないかい?」
言外に何かやっただろう、というのを含ませてみたが、彼は首を振った。
「さあ、俺には」
「……そうかい」
料理をしながらもどこか心此処にあらずの状態の彼を胡乱気に見遣るが、それすら気付いていないらしい。
「……すまん、お燐、さとり様の食事、持ってってもらっていいか?」
「え、あんたが持ってけばいいんじゃ?」
「……女性の部屋に入るのも、ほら、その」
取ってつけた理由のような気もしたが、顔が紅いので本心なのだろう。
そういえば、異性に耐性がない、みたいなことを言われていたことを思い出す。
「まあ、そういうことなら仕方がないね」
「すまん、サンキュ。おかずサービスしとくよ」
「ん、話がわかるねえ」
そう笑って応えつつも、燐は彼の表情が、どこか切羽詰っているように見えた。
「……何があったか知らないけど、あんまり考えすぎるんじゃないよー」
「ん、そうする。ありがとな、お燐」
そう言って、彼は皿を準備し始めた。その様子すら、どこか危なっかしかった。
仕事を一段落させて、部屋に戻って彼は椅子に乱暴に腰掛けた。
「部屋から出てこない、か。まあ、そりゃなあ」
自嘲気味な声が喉から漏れる。その音の自虐加減に、自分でため息をついた。
「まあ、俺にしても、どんな顔すりゃいいのかわかんねえし」
それに、と彼は呟く。知られたからには、此処に居られないだろう。
たとえ、さとりが変わらぬ態度で接してくれたとしても、だ。
いや、変わらぬ態度で接してくれるわけがない。現に今も、部屋に篭ったままではないか。
「……まあ、善は急げ、か?」
今日は流石に無理だろう。出来て、明日の夕方。もしくは明後日の朝。
それまで、さとりに会わずに済むだろうか。会いたいけれど、会いたくない。
「……随分臆病になったなあ」
どうせ独りだった。いつも独りで、何をやっても上手くいかなくて。人とも付き合えなくて。
此処に来て、初めて他者と繋がりを持てた。相手は人間ではなかったけれど、それでも。
それが幸せと思えた。だからこそ。
「……今更怖がるのか」
呟いて、机の上の便箋を手に取る。これに一番時間がかかるかな、と、少し苦笑した。
「後は、いろいろ準備、だな」
三日以内には、準備は完了できるはず。
地霊殿を、出て行こう。
誰にも好かれた経験がない人間にとって、それは当然のことだった。
どれだけの想いを告げても、きっと返って来ることはない。だから知られないように、ただ想うだけで良かった。
知られたら――後はきっと、嫌われるだけだ。
そう、彼は信じていた。自分に自信がない分、それは彼にとって真実だった。
だから彼には、もうその選択肢しか思いつかなかった。
さとりもまた、ずっと考えていた。
「…………彼も私を嫌ってしまうのかしら」
言葉にすると、気が重くなった。それが事実になってしまうようで――いや実際、事実になるのだろう。
これまでもそうだった。心を見られること等、誰もが嫌う。
物言えぬペット達はそれを理解してくれた。ペットから妖になった者達も、心を読まれるのには慌てるが、慕ってくれている。
「……でも、彼は人間だものね」
人間も妖怪も、心を読まれることを嫌い、恐れる。覚りという種族は古くからそういうものだった。
それでいいと思っていた。それで良かった。こいしはそれを厭い、目を閉ざしてしまったけれども。
だからこそさとりは、自分だけはそれでもいいと思っていた。
思っていたのに。
「私が恐れているのかしら」
怨霊さえ恐れる自分が、ただ一人の青年に対して嫌われることを?
さとりは寂しげに微苦笑した。思考が定まらない。
ノックの音がして、誰何する前にそれが燐であると気が付き、さとりは入室を許可する。
「失礼します、さとり様……?」
「どうぞ」
「ご飯、持って来ました。あの、さとり様」
(元気ないようだけど、何かあったのかなあ)
燐の心の問いにも、今は答えることは出来ない。代わりに、こちらから訊ねた。
「彼の様子はどうだった?」
「え? ああ、ぼーっとしてましたよ。何か考え込んだり」
「そう、ですか」
彼はどう思っているのだろう。
知りたい、怖い、知りたい、怖い。
「……さとり様?」
「ああ、いえ、何でもないの」
ありがとう、と燐に告げて、さとりは再び自分の思考に沈んだ。
幾度考えても、結論は同じだった。
ずっと逃げてばかりいても仕方ないのもわかっているけれども。
忌み嫌われることに慣れていながら、それでも彼が離れるのを、さとりは哀しいと思っていた。
そして――嫌われた妖怪であるからこそ、彼の想いが変わらないと思うことはできなかった。
信ずることが出来なかったのではなく――思いも寄らなかった、というのが正しかった。
何よりも哀しいことに、それがさとりの真実であった。
そして、約三日が経つ。
「ああもう、何処に行ったんだい!」
燐は怒りながら廊下を歩いていた。ここのところ、さとりが元気のない様子を見せるのはあいつのせいだ、と結論付けたからだ。
三日程前から様子がおかしいのはわかっていた。いつもぼーっとして気が付けば寝ている奴が、始終落ち込んだように考え込んでいればわかろうというものだ。
それと同時にさとりも元気がなくなった。だとすれば原因はそれしかない。
そしてその肝心の彼が見つからないのだ。
「全く、さとり様に心配かけて……うん?」
廊下の向こうから飛んでくる馴染みの妖精――ゾンビフェアリーの時に手伝ってくれる妖精の一匹に、燐は気が付いた。
彼の捜索を頼んでいたその妖精は、慌てた様子で燐に話しかけてくる。
「え、部屋にも居ない? で、こんな紙があった?」
妖精が手にしていたのは数枚の便箋だった。開いてみると、一枚目に『ごめんなさい』と書いている。
燐は険しい表情になってそれに目を通す。中には、地霊殿を出て行くことと、そのことを申し訳なく思う、という旨が書かれていた。
二枚目からは各々に宛てた手紙。空、燐、こいし――さとりに。
「あの馬鹿!」
彼が落ち込んでからさとりの元気がないというのに、いなくなったらどれだけ哀しむか。
さとりに渡しに行こうと駆け出して――数匹、ペット達が慌てて駆けていくのに行き会った。
「どうしたんだい、慌てて」
ペット達も燐が併走していることに気付き、口々に鳴き始める。
「…………何だって? それ、本当かい?」
「さとり様!」
駆け込んできた燐に、ぼんやりとしていたさとりはゆっくりと顔を上げた。
「お燐? どうしたの? ああ、いえ……その子達?」
「ええ!」
燐が連れてきた猫達――いずれもさとりのペット達が、めいめいに話しかける。
『さとりさまー!』
『あいつが鬼につかまっちゃった!』
「……え」
さとりは絶句した。その様子をわかってかいないでか、ペット達は続ける。
『旧都を、ふらふら歩いてて』
『なんか、いろんなのに囲まれて』
『それで、鬼がひょいってつれてっちゃった!』
猫達が伝えているのは、間違いなく彼のことだろう。
その言葉に我に返り、さとりはペット達の頭を撫でた。撫でながら、自身の混乱を収める。
「教えてくれてありがとう……でも、どうしてそんなところに」
危ないから、あまり一人で行ってはいけない、行くなら誰かと一緒に、と言っておいたのに。
地霊殿の者に普通は手は出さないだろう。だが、何があるかわからない。彼は人間なのだから。
「さとり様、それが、その」
燐がそっと、彼の部屋に残されていた便箋を差し出した。
「……彼の部屋に?」
「はい」
ざっとした内容も、さとりの中に流れ込んでくる。
彼が、地霊殿を出て行った、ということ。
やはり、私を恐れたのだろう。想いを勝手に読んだ私を、忌み嫌ったのだろう。
手紙を読むのは怖かった。だがこれが罰なのだろうと思って――さとりは便箋を開いた。
『さとり様へ。勝手に、あいさつもなく出て行くことを許してください――』
読み終わるまでには――そう長い時間ではなかったが――空もやってきていて、燐と一緒にさとりを見つめていた。
「……お燐、お空」
「は、はいっ!」
「何でしょう、さとり様っ!」
二人の驚いた思考――あいつ何か怒らせることでも書いたのか、と流れ込んできて、さとりは首を横に振った。
「いいえ、怒ってはいないわ。とても、とても大切なことが、書いてあったの」
手紙には、恨む言葉も、嫌う言葉も、忌む言葉もなかった。全く逆であった。
地霊殿に来て楽しかったと、幸せだったと、みなと過ごせて嬉しかったと。
そして、さとりへの感謝と謝罪と――胸が苦しくなるほどの想いを。
「さとり様……」
「私は行きます。行って、彼に伝えなければならないことがあります」
あるいはやはり、さとりは怒っているのかもしれなかった。
勝手に想いだけを告げて、どこかへ行ってしまおうとする彼に。
そして何より、臆病な思いから彼に何も伝えられなかった自分自身に。
彼は想いをくれた。心で。手紙で。ならば自分も返さなければ。
自分だって、彼に伝えたいことがたくさんあるのだから。
決心したように立ち上がったさとりに、空が口を開いた。
「さとり様! 私も行きます!」
「あたいも! あたいも連れてってください!」
二匹の言葉に目を丸くして、さとりは首を傾げる。
「私だけでもいいのですけれど」
「だって、あいつも私達の家族じゃないですか」
「そうそう、心配かけた文句も言ってやらなきゃ」
さとり様にもこんなに心配かけて、と、心の中で二人は同じことを声にした。
「では、行きましょう」
大事な家族を、迎えに行きましょう。
出かけていくさとり達を、ペット達の報告したものやら心配したものやらが見送る。
しばらくして彼らは、近くに来た存在に気が付いて声をあげた。
彼女には、言葉が届かないのはわかっているけれども。
それでも、彼らは言うのだ。『おかえりなさい、こいし様』と。
「いい子達だね」
こいしは微笑む。声は聞こえない。何を考えているかもこいしにはわからない。
それでも、彼の動向を何故か気にして、追いかけていった猫達も、帰ってきたそれらの報告を聞いた他のペット達も。
みんなが心配しているのは間違いないのだと、こいしは確信していた。
「……だから、後は本人達次第なんだよ、お姉ちゃん」
「何で、こういうことになってるかなあ」
「ん、不満かい?」
「いや、鬼の酒は旨いし、勇儀さんと萃香さんは友達だし、問題はないんだけどさ」
盃の酒を舐めるように飲みながら、彼は宙を仰いだ。
空は明るくない。地底は暗い世界だ。その暗さが、彼は嫌いではなかったが。
「しかし、あんたが地霊殿から一人で出てくるなんて珍しい。何か用があったのかい?」
勇儀の問いに、彼は詰まる。自分は地霊殿から出て行こうとしているのだ。
言葉に詰まった彼と、彼の持っていた荷物を交互に眺めて、萃香が首を傾げた。
「もしかして、出て行こうとしてた、とか?」
図星を突かれて、彼は深く項垂れた。
旧都の街中を、あてどなく歩いていたときだった。
人間だ、地霊殿の奴だ、と珍しがり不審がるように、旧都の妖怪たちに囲まれた。
さてどうするか、このまま食われてしまうのだろうか、そんなことを思っていたとき、勇儀と萃香のコンビに助けてもらった。
が、助けてもらうと同時、飲み会に連行されることになってしまった。
命は助かったが、酒の肴にされることには変わりがなかったようだった。
「何でまた。喧嘩でもしたのかい?」
「いや違う、俺が勝手に」
そこまで言って、言葉を飲み込むようにぐいと盃を呷った。
世界が微かに揺れた。鬼の酒は後には引かないが、強い。
「お、いけるねえ。ほらほら、もっと飲みな」
盃に酒が注がれる。鬼なりの気遣いであると気付き、彼は一礼して口を付けた。
「気持ちに辛いもんがあるなら吐き出しちまいな」
「まあ、聞くだけは聞いてやるからさ」
二人の言葉にまた頭を下げて、彼は口を開いた。
「……俺は、怖かったんだ」
「ほう、あの目がかい? 心の中を見通すあの目。本人は悪い奴じゃないが、あれは嫌だねえ」
「違う、違うんだ。俺が怖かったのは――」
勇儀の言葉に首を振り、盃を見つめるようにうな垂れて、彼は呟く。
「さとり様に嫌われるのが、怖かった」
ぽつぽつと、彼は呟き続ける。
「最初は、恩返しとか、仲良くなりたいとか、そんなだった」
でも、時間が経つに連れて。寂しそうな様子とか、ペット達に優しくしている様子とか、妹を気にかける様子とか見ていくに従って。
「どんどん好きになってって、でも知られちゃいけないって思って」
最初は、それを誤魔化し誤魔化しやってきた。
みんなが好きだと――これも嘘ではないから、それに紛れるように、想いを隠して。
「大好きだって、そう想って、でも知られちゃいけなくて、でも、ばれちまって」
酒が回ってきているのか、呂律が怪しくなってきている。それでも懸命に、彼は言葉を紡いだ。
「ほんとうは、一緒にいたい。けど、けど、この想い抱えたまま、さとり様に嫌われるの、怖くて」
「――逃げてきたんだ」
「うん、逃げた。俺は逃げた。怖くて、それに耐えられなくて、俺が弱くて――逃げたんだ」
ぽた、と盃の中に雫が落ちた。彼は泣いていた。
「今まで誰に嫌われても怖くなんてなかった。俺は独りだった。でも、あの人にだけ、嫌われるのが怖かった。
どうしようもない俺に、何もない俺に、優しくしてくれた人だった。
……まともに顔さえ見れなくて、逃げてきちまった。好きなんだ、もし嫌われていても」
「馬鹿だねえ。馬鹿だが、そういう正直な馬鹿は鬼は嫌いじゃないよ」
「で、行く宛はあるの? 何なら霊夢に言って、帰してもらう?」
萃香の問いに、彼は首を振った。
「あてもないし、帰るとこも、ほんとはない。とりあえず、地上には出てみようかと思ったけど」
「行き当たりばったりだねえ」
「これ以上、さとり様に迷惑もかけられないし」
ぐい、と、また盃の酒を飲み干す。飲み干すと、世界が回った。回る世界を見ながら、唸るように呟く。
「くそう、何でだよ、何で俺はあの人のこと忘れられないんだ。これだけ飲めば、意識も飛ぶと思ったのに。
何でさとり様のことが頭から離れねえんだ……」
「呆れるほどの馬鹿だなあ」
「何でだよ、勇儀さん」
「お前、それだけさとりが好きってことだろう?」
「ああ、そうだな。ちくしょう、そうだ。俺は、さとり様のこと――」
こんなにも好きなんだ。
呟いたのかどうなのかわからないうちに、世界が暗転した。
「やれやれ、こういう酒の飲み方はよくないんだがねえ」
「だねえ。ああ、勇儀、そろそろ行ってくるよ」
「ん、よろしく、萃香」
霧になって消えた萃香を見送って、勇儀も酒を飲み干した。
「さあ、果報は寝て待て、ってね」
楽しげに呟いて立ち上がると、勇儀は手元の盃に再び酒を満たす。
ふわり、と目の前に霧が漂ってきて、さとりは立ち止まる。
果たして、その霧は一人の鬼の姿を映し出した。
「やあやあ、古明地の。大層な様子だけど」
「彼が此処にいるはずです。迎えに来ました」
毅然としたさとりの言葉に、現れた鬼――伊吹萃香は瓢箪を傾けながら訊ねる。
「あいつは地霊殿から出たがってるんじゃないのかい?」
「かもしれません。でも、私はまだ彼に伝えてないことがある。それを話すためにも、彼を返してもらいます」
「随分勝手な論理だ。あいつはあんたに会いたがってないんじゃないか?」
その言葉は、さとりの胸を刺す。同時に、彼がまだ地底にいることも、萃香は心の声で教えてくれていた。
ならば、彼がこの先にいるというのなら。
「……それでも、私は行かねばならないのです」
「こっからは鬼の領域でもあるしねえ。強引に行くと言うのなら」
瓢箪から口を離して、萃香が微笑う。その意を汲み取って、さとりも構えようとして――それを遮った手に、目を瞬かせた。
「……お燐、お空?」
「さとり様! ここはあたい達に任せて!」
「さとり様はあいつのとこに行ってやってください!」
燐と空が、さとりの前に颯爽と躍り出る。二人の思いを感じて、一つ目を閉じ、さとりは穏やかな口調で問うた。
「……二人とも、お願いしてもいい?」
「任せてください!」
元気の良い返事が聞こえたか否かで、さとりは全力で飛び出す。
「行かせないよ!」
萃香の放った火炎弾がさとりの背中に迫り――到達する前に爆発した。
「さとり様は追わせない!」
「私達が相手だよ!」
構えた空の腕が熱を持っている。萃香の弾幕を打ち落としたのは彼女の弾幕だった。
「おや、猫と鴉風情が鬼に挑戦するってのかい?」
「やるよ! やってやる! さとり様が悲しそうなのは嫌なんだ!」
「追うのなら、あたい達を倒してからだよ! お空、合わせて!」
「オーケー、行くよ!」
低く構えた燐の後ろで、空がチャージを始める。
それを見て、萃香は満足そうに笑った。そして、大きく声を上げる。
「主を想う、その心意気や良し! さあ、かかってくるがいい、この百万鬼夜行を止めてみよ!」
燐と空を気にしながらも飛び続けたさとりは、眼下に勇儀と青年の姿を見つけて再び立ち止まった。
それに気が付いてか、勇儀も飛び上がる。
「やあ。まあ、余分な話はいらないね」
「ええ。彼は?」
「何もしてないよ。ただ少し眠ってもらっているだけさ」
鬼の言葉に嘘はない。さとりはそれをよく知っているし、実際聞いてもそうだった。
「……話すことが、あるのです」
「それではいそうですか、と帰してやるわけにもいかないんだよ」
悩み相談なんぞ受けてね、と勇儀は豪快に笑う。
「……では、幻想郷の流儀で」
「そうだね、あんたとは一度やってみたいと思ってたんだ」
スペルカードセット。枚数を提示しながら、勇儀が訊ねた。
「本気で心配してるのかい?」
「どういう意味ですか」
「ん、いや、いいや。その顔見てたらわかるよ」
でもこうなったらねえ、と笑って。
「じゃ、こうしよう。単なるスペルカードルールじゃない、私がこの酒を呑み終わるまで耐えられたら勝ちだ。無論零しても」
盃に酒をなみなみと満たし、ずい、と掲げる。
「どちらを達成してもあんたの勝ち。さあ、どうだい?」
「随分な条件ですね」
「本気のあんたと弾幕れることなんて滅多にないからね。本気で来てもらうよ」
短期決戦だ。その分激しい弾幕戦になるだろう。さとりは心を決める。
「わかりました。受けてたちましょう」
「そうこなくちゃ」
楽しそうに笑う勇儀に対し、さとりはスペルカードを展開させ始めた。
弾幕が、ぶつかり合い、弾け、相殺し、消えていく。
「いや、凄い、凄い、凄いねえ! これが本気のあんたか!」
嬉々とした声が、勇儀の口から漏れた。弾幕を首を傾けて避け、勇儀は訊ねる。
「あんたは、どうしてあいつを追いかけるんだい?」
「……先ほども、訊かれました」
さとりは軽く目を伏せる。
「彼に伝えなければならないことがあるのです」
「こいつは聞きたくないかもしれない。怖がっていたよ」
応じる勇儀は、再び飛んできた弾幕を避けた。
「……私は、彼の手紙の言葉を信じます」
「手紙?」
「ええ。彼は想いを伝えてくれた。私は彼の想いを盗み見たというのに――だからこそ」
一瞬だけ、さとりの表情が泣きそうになったように、勇儀には見えた。
だが、その次の瞬間には、さとりの表情は静かな、凛としたものになる。
「私は、彼の想いに応えないといけないのです。行きます!」
「そうか、ならば全力で相手しないとな!」
さとりが自分の思考に合わせようとしているのが、勇儀にはわかっていた。
わかっていて尚、いやわかっていたからこそ、勇儀はこの大技を放つ。
「四天王奥義――「三歩必殺」!」
それに、対するは。
「想起――「非常識の裏側」」
勇儀は突っ込んでくるさとりの姿に、頬を楽しげに歪めた。確かあれは巫女が使ってたものだ。
完全には同じではないようで、弾幕の間の僅かな隙間を縫ってくる動きにあわせようと、右手の拳を強く握る。
抜けた瞬間に、弾幕を放つつもりだった。全く同じでないと言うことは、当たり判定もあるはず。
「そこだっ!」
勇儀が渾身をこめて放った弾幕の先に――さとりの姿は、なかった。
「こちらです」
「く、楽しいねえ、だが……っ!?」
弾幕を抜ける最後の瞬間、さとりは勇儀の左側に回っていた。そのさとりに腕を掴まれ、勇儀は目を丸くする。
どういうつもりだろうか。力比べなら負けるはずは無い。彼女は何を――と、思う間もなく。
ぐい。
音がしそうなほど豪快に、さとりは勇儀の手にした盃の酒を飲み干した。
「……私の勝ち、でしょう?」
「………………」
挑むような瞳で、さとりは勇儀を見据える。
一瞬呆気に取られた勇儀は、次の瞬間弾かれるように笑い出した。
「あっはっは! こいつは一本取られた! まさかこんな……!」
「約束は約束ですよ」
くつくつとしばらく勇儀は額を押さえながら笑っていたが、彼の方にさとりを促した。
「酒に酔い潰れて寝てるだけさ。結構混乱してるっぽかったからねえ、気持ちよく眠ってもらったのさ」
「ええ、わかってました」
だからこそ、さとりは勇儀の誘いを受けたのだ。鬼に対する一先ずの返礼としては十分だろう。
「返すよ、あんたに」
「はい」
さとりは身を翻し、彼の前に降り立った。
彼は壁に寄りかかって眠っていた。さとりは、その目の前に膝をついて目線を同じ高さにする。
いつもは彼の方が頭一つ半以上高いのに、こうするのは何だか不思議な気がした。
「……起きなさい」
声をかけると、薄く目が開いた。だが、まだ意識は朦朧としているらしい。
(……さとり、様? 夢かな……夢でも、この人の姿を見るのか、俺は)
「寝惚けてるのね」
(寝惚ける、寝てる?)
また落ちそうになる意識に苦笑しながら、さとりは彼の頬に手を伸ばした。
鬼や他の忌まれた妖怪の住む、この旧都の真ん中で暢気に眠れる人間など彼くらいのものだろう。
そう想うと、不意にその暢気さが愛おしくなった。同時に、彼が離れていこうとするのが哀しく思えた。
(夢、なら、許してもらえるのかな)
彼は頬に触れている手に自分の手を重ねるや否や、さとりを引き寄せるように抱きしめた。
「っ!?」
突然のことに身体を硬くすると、彼の自嘲気味な思考が流れ込んできた。
(……夢でも、やっぱり嫌われるか。当然だよな、俺は)
「違う、違うわ! 貴方は何も聞いてない、私は何も言ってない、のに……!」
(……さとり様?)
「貴方が勝手に思い込んで出て行っただけじゃないの! 私が貴方を嫌ったなんて、いつ言ったの!」
言いたいことはたくさんあるはずなのに形にならない。上手く形に出来ない思いが歯痒い。
心を読める、というのは良い事ばかりではないし、むしろ逆のことが多いが、こういうときにはあって欲しいと思う。
(…………ああ、ちくしょう、願望か? でも、それでも、赦してもらえるんなら)
自分を嘲笑う彼の心が、すがるように呟く。
(さとり様、俺は、さとり様のことが、大好きなんですよ……)
そう告げて、眠気に負けたのか、彼の意識はまた眠りの淵に沈んでいった。
「…………勝手なんだから」
さとりは微笑む。偽るのはやめた。抱きしめ返して、優しく囁く。
「今度は起きているときに、貴方の言葉で聞かせて」
そこまで言うと、不意に疲労と眠気が襲ってきた。
ここ三日ほどは不眠だったし、気苦労も多かった。そこに、どうやら先程のあの酒が止めを刺したようだ。
彼の所為だ。何もかも。さとりはそう想う。
ここまで心労を重ねさせられたのも、此処まで必死に追ってきたのも鬼と弾幕勝負をしたのも。
そして、こんなにもこの腕の中が安らげてしまうのも。
みんなみんな、彼の所為に違いないのだ。
そう想いながら、さとりは穏やかな気分で瞳を閉じた。
「あー、終わったのか」
萃香は小さな自らの分身の報告を聞いて、軽く頷く。
そして、展開させていた弾幕を収束させた。
「っ!」
「ああ、次はないよ。ここでの勝負はもう終わりだ」
「なっ」
何かを言いかける燐に、まだ止まらない空の弾幕をかわしながら萃香は笑う。
「あんた達のご主人様の勝ちさ。さあ、迎えに行ってきな。ついでにそいつを止めてくれると嬉しいねえ」
「っ、お空、ストップ!」
「え、でもお燐、こいつ」
「さとり様があいつを取り返した、ってさ」
「にゅ?」
空が本気で弾幕勝負の意味を忘れていたんじゃないかと危惧しながら、燐は萃香に向き直った。
「本当だろうね?」
「鬼は嘘を吐かないよ」
「……お空、さとり様とあいつ、迎えに行こう」
「うん!」
飛んでいった二人を眺めつつ、萃香もゆっくりとその後ろを飛んでいく。
飲み会の場まで戻ってきて、のんびりと酒を呑んでいる勇儀に気が付き、声をかけた。
「勇儀ー、お疲れー」
「ん、萃香。そっちもお疲れさん」
二人で眼下の、眠っているさとりと青年、その二人に駆け寄っている燐と空を眺める。
「どうだった?」
「楽しかったよ。いやあ、地霊殿の主人が、あんなに必死になるところを見れるなんてそうそうないさ」
「しかしまあ、鬼が二匹して他人の恋路の手助けをするとはね」
「あまりにも真っ正直な想いだったから、だろう?」
呆れ顔の萃香に、楽しそうに笑いながら勇儀が返す。そだね、と萃香も笑った。
「気持ちのいい馬鹿だからねえ。ちょっとした暇潰しにはなったかな」
「酒の肴にはなったね」
二人を連れて去っていく猫と鴉を眺めながら、鬼二人は再び酒を呷った。
帰り着いた頃にはさとりも一旦目を覚ましていて、地霊殿の前で待っていた人影に自分で声をかけることが出来た。
というよりも、姉としては寝こけたまま運ばれる姿を見られるのはいろいろと問題がある。
「ただいま、こいし」
「おかえりなさい、お姉ちゃん。お空も、お燐も」
「ただいま帰りましたー!」
「無事連れ戻してきましたよー」
いい子いい子、と撫でながら、こいしはさとりに笑いかける。
「良かったね」
「……そう、ね」
担がれたままの彼にも視線を向けて、さとりも頷いた。
くすくすと微笑んで、こいしは、じゃあ、とさとりに提案する。
「この前言ってたあれ、実行しちゃおうよ」
「あれ?」
「みんなで一緒に、ね?」
ああ、とさとりは思い出して、少し考え、頷いた。
「…………悪くないわね、彼も慌てさせられるだろうし」
「こいつは散々心配かけたんだから、それくらいして大丈夫ですよ」
「それに楽しいですし!」
口々に、こいしの提案に乗る。
「もう遅いし、休んでしまいましょうか」
「うん! お空、お燐ー」
「はいはーい、運ぶのは得意ですよ」
楽しげに運んでいく様子を見ながら、さとりもこいしと並んで地霊殿に入っていった。
さて、こちらを散々振り回してくれたのだ。彼には少し反省してもらわなければ。
「……ぬぅ?」
目が覚めた。慣れ親しんだ天井が見える。おまけに何だか身体が重い。身体の上と腕が特に。
「あー、二日酔いかぁ?」
寝る前何してたっけ、確か萃香と勇儀と飲んでて、とそこまで考えて、一気に覚醒した。
そうだ、俺は地霊殿から出て行こうとして、それで。
「ん、起きたー?」
「え、あ、ええ!? こいし様、何やってんですか!」
左側からこいしが現れて、驚いた声を上げる。左腕の重みも無くなった。枕にされていたようだ。
「しー、お姉ちゃん起きちゃうよ?」
「え、ええ?」
言われて首を巡らせれば、右腕を枕にして寝ているさとりが視界に入って、知らず胸がどくんと鳴った。
「……な、なんでこんなことに」
「貴方が勝手に出ていっちゃったからだよ」
こいしは微笑う。
「それでお姉ちゃんが迎えにいって、帰ってきてみんなで寝たの」
「……どうして」
俺はきっと、さとり様に嫌われると思ったのに。
「それはお姉ちゃんに訊かないと。さ、私達は向こうにいってるから、ちゃんとお話してねー」
こいしは起き上がると、身体の上で丸まって寝ていたらしい燐と空を抱き上げた。身体の重みも消える。
今度お前ら少し太ったか、と言ってやろうか。何となく死亡フラグな気もするが。
「こ、こいし様」
「後で来てねー」
とりつくしまもなく、こいしは二匹を抱えたまま部屋を出て行く。
諦めて、彼は大きくため息をついた。何でこんなことになってるんだろう、と考える。
「……本格的に嫌われちまう前に、出てこうと思ったのにな」
視界に入れないように入れないようにと思っても、さとりに視線を向けてしまう。
妙に距離が近いから、一層どきどきする。何とも情けない、未練たらたらじゃないか。
「…………寝直したら、全部夢だったりするのかな」
好きだってバレたことも、ここから出たってことも、ここで今横になってることも。
現実逃避してしまいそうな頭をがしがしとかいて、さてどうしようかな、と考え直す。
「腕外したら起きそうだしなー」
思考が固まらずぐるぐるする。こういうところが悪いのだとわかっていてもぐるぐるする。
でも、どうにかしないと。ずっとここにはいられないのだから、と思い直して。
「…………そしてまた、私に探させる気?」
「っ!?」
心臓が跳ね上がったかと思った。恐る恐る視線を向ければ、じと目で睨むようにしているさとりと目が合う。
「……さとり、様、起きて」
「ええ、貴方が相変わらずぐるぐる思考を回してたのも、見てたわ」
起き上がろうとすると、腕を引かれて止められた。
「……どうして、私が貴方を嫌うと思ったの?」
「…………だって、嫌でしょう、普通。好きでもない男に好かれるなんて」
自分で言うのは結構へこむ。直視できず、目を逸らしてため息をついた。
「……馬鹿」
優しい声が聞こえて、胸に温かく柔らかな感触が当たる。
「私は、貴方のことを嫌ってなんかいないのに」
「さとり、様」
「一緒にいて欲しいと、思ってるのに」
これは夢だろうか。さとりが一緒にいたいと言ってくれている。
「……いつか、貴方と話したわ。私とこいしが、薔薇の花のようだって」
「……ええ」
「私は、そのとき、薔薇の棘は人を傷つける、と言ったわ」
「っ、ですけど、さとり様」
俺は、と言いかけたのを、さとりは遮った。
「貴方は、花束を持ってきた。棘は取ることも出来るし、棘があっても好きだと、言ってくれた」
「……言いました。それは今だって、変わらない」
それは本当なのだ。本当に本当なのだ。薔薇のように綺麗だと思ったのも、何もかも。
「私が、薔薇だというのなら」
手を伸ばしながら、さとりは呟く。
「貴方は、私の棘を取り払ってしまったのよ」
「え……」
「だから、責任取りなさい。私は、貴方を、その……」
さとりは言葉を切り、彼にしがみつくように抱きついて告げた。
「貴方を、愛してしまっているのだから」
一瞬、頭が真っ白になった。さとりが何を言ったのか、わかっていない自分がいる。
「……さとり様」
「面白いほどに真っ白よ、あなたの意識」
胸の中で、さとりがくすくすと微笑う。微笑って、彼の手を取った。
「……俺、ああ、よくわかんねえ、あの」
「落ち着いて、ゆっくり、貴方の想いを言葉にして」
さとりの言葉に、彼は口を一度閉じた。定まらない思考を、落ち着きながら形にしようとする。
「……俺は、さとり様に拾ってもらえて、幸せだった」
「………………」
「誰にも必要とされなかった俺を、地霊殿のみんなは受け入れてくれた」
訥々と、彼は語る。
「幸せ、だった。でも俺、さとり様のこと、本気で、好きになって」
「ええ」
「隠さなきゃ、って。知られたら、嫌われると、そう思って」
「……私の想いは知らないまま?」
「……俺なんか、誰にも好きになんてなってもらえないと思った」
彼は俯く。それが彼の中での真実だった。今まで、ずっとそうだった。
「……嫌われるの怖くて逃げて。でも、今さとり様に好きだって言ってもらえて」
「……ええ」
「ちょっと、混乱してる。今まだ、夢の中にいるんじゃないかって」
こんなに幸せなのは、嘘なのではないのかと。
「……現実よ。私が貴方のことを好きなのも、今こうしていることも」
さとりは少し微笑んで、手を離すと彼の首に腕を回して抱きしめた。
「愛しい貴方が、私の腕の中にいることも。ね、貴方は私の心は読めないけれど、私は今とても幸せなの」
「…………はい」
「……お願いだから、これを夢だなんて言わないで……!」
抱きしめる力が強くなる。おずおずと、本当におずおずと彼も抱きしめ返す。
そして、告げる。ようやく、自分の言葉で。
「…………さとり様、俺、貴女のことが、好きです」
「私も。私も、貴方が大好きよ」
泣きそうになって、彼は歯を食いしばる。それでも、閉じた目の端から、一筋何かが零れた。
腕の中のぬくもりも、この想いも、それが偽りではないのだと、確かめるように強く抱きしめる。
「……ん、少し、痛いわ」
「す、すみません」
身を捩るさとりに、彼は手を緩める。さとりも手を緩めて、彼の顔を見つめた。
「夢では、ないでしょう?」
「……はい」
すっとさとりの手が伸びて、彼の頬を拭った。
「はは、情けないですね、俺」
「私も、同じようなものよ」
微笑むさとりの目元にも、光るものが浮かんでいる。彼も、出来る限り優しく指先で拭った。
「ありがとう」
「いえ、その」
何だか照れくさくなって、彼は必死に言葉を探す。
そのぐるぐるしている様子が面白いのか、さとりはくすくすと笑った。
「慌てなくていいのよ」
「ああ、はい。すみません、慣れなくて」
「それは、最初からわかってるから」
そして、さとりは彼の胸に額をつけた。
「……貴方は、幸せだと言うけれど、もっと、幸せを求めてもいいのよ」
「そう、ですかね?」
「そうよ。貴方は私達に、いろいろ与えてくれた。だから貴方も、この地霊殿で、幸せになって欲しい」
「……頑張ります」
まだ、難しいかもしれないけれど。それでも、少しは、自分から求めていくようにしてみよう。
ああでも、いるだけで幸せなときはどうしよう。追々考えていっていいか。
「貴方らしいわ」
「ん、かもしれないです……これからも、お願いします」
彼は笑って、ふと、意識に眠気が混じったことを感じる。
「……すみません、さとり様、もう少し、寝ていいですか。眠い」
「……本当に、貴方らしいわね……」
呆れたような言葉が、少し遠く聞こえる。
「……さとり様、お願いが」
「何かしら?」
「……起きるまで、傍に居てもらえますか」
今のこのときが、夢でなかったと確かめていたい。本当だと、実感していたい。
そして何より、さとりと一緒にいたい。
「……いいわ。ゆっくり、おやすみなさい」
「ありがとう、ございます……」
頭を撫でる優しい感覚を感じながら、彼は目を閉じた。
「あ、二人とも寝ちゃってる」
「私も混ざ……いたたっ! 何で羽引っ張るのお燐?」
「邪魔しちゃ駄目だって。ようやく幸せなんだからさ」
「ようやく?」
「そう、ようやく」
こいしと燐と空が、部屋の扉の影から中を覗いていた。
「一件落着ですねー」
「……かな?」
「不安になること言わんでください」
燐の返事に、ふふ、と笑って、こいしは身を翻す。
「どちらに、こいし様?」
「お姉ちゃん達が起きたらご飯にしようと思って」
「あ、あたいも手伝いますよ!」
「私もー!」
三人は仲良く連れ立って、台所に入っていく。
後に目覚めたとき、すでにさとりは起きていた。起きていて、腕の中にいてくれていた。
「……おはようございます?」
「もう昼前だと思うけれど」
優しく微笑んで、さとりは少し窮屈そうに身を捩る。
気が付けば、さとりを強く抱きしめていた。慌てて、腕を緩める。
「す、すみません」
「気にしないで。私も、安心できたから」
さとりはこつりと彼の額に自分の額をつけて、そっと微笑った。
「さあ、行きましょう。少し遅いけれど、ご飯にしましょうか」
「はい……その、居て、くれたんですね」
「当然よ。貴方が、居て欲しいって、言ってくれたから」
カッと、顔が熱くなる。確かに言ったが、嬉しいような恥ずかしいような、むず痒い思いになった。
「照れなくてもいいのに」
「いやまあ、その」
名残惜しく思いながら腕を離して、起き上がる。
先にベッドから降りて、さとりに手を差し出した。
「んでは、行きますか」
「ええ、行きましょう。みんな待ってるわ」
手を重ね、さとりは微笑んで立ち上がる。
その微笑みに、ああ、俺はこれだけで幸せなのかもしれない、と、彼は思った。
後日。地霊殿は勇儀と萃香を招いていた。
先日の礼、という名目で呼んだはず、だったのだが。
「お招きしたのはお二人だけのはずでしたけれど」
「何、折角だからねえ。とはいえ、来たのは少なかったが」
ホールに陣取って飲んでいるのは、鬼二人やら橋姫やら土蜘蛛やら釣瓶落としやら。
「酒宴は多い方がいいもんだよ。それに手土産も持ってきたんだからさ」
どん、と萃香が無数の酒瓶を置く。まあ確かに、鬼が二人もいれば半端な量では足りないのはわかるが。
「天狗とかも誘えればよかったんだけどねえ」
「断ったもんなあ」
それは断るだろう、という思いは口にせず、さとりは一つ息をついた。
とにかく、楽しむのは悪くないかもしれない。
「それでは、ごゆっくりお過ごしください」
「ん、勝手にやってるよー」
ひらひらと手を振る萃香に礼をして、さとりは猫と難しげに睨めっこしている橋姫や遊んでいる土蜘蛛達の方を向いた。
「よくいらっしゃいました」
「ああ、招かれざる客で申し訳ないけどね」
さとりは首を振った。ヤマメは陽気な声で笑って、パルスィを捕まえながら応じる。
「まあ、勇儀のお誘いでもあるしね。たまには地霊殿が賑やかでも良いだろう」
「ありがとうございます」
「はい、料理持って来ましたよー。ってかもう飲んでるんですかい」
料理を持ってきた青年が、呆れた声を上げる。
「ん、いただいてるよ。ほらあんたも飲んだ飲んだー!」
「ちょ、俺まだ料理運んでる途中だから!」
萃香に捕まりかけている彼に、さとりはくすくすと微笑う。
「私が手伝いましょうか?」
「いやしかし、さとり様は」
「ん、いいんじゃないかね、行ってきなよ。その代わり、そこの猫と烏に相手してもらおうかねえ」
「わわっ!?」
「にゃっ!」
勇儀が手を伸ばして、彼と一緒にいろいろ持ってきていた燐と空を引き寄せる。
「ゲストもこう言ってくれてることだし」
「んでは、すみません、お願いします」
申し訳なさそうに笑って、彼は提案を受けた。
「とはいえ、後はもう少しなんですけどね」
「そうね、思っていたほどなかったわ」
料理の皿を用意しながら、彼は頭をかく。
確かにまあ、手伝ってもらわなくてもよかったかもしれない。
「あら、でも、貴方は私に来てもらいたかったのでしょう?」
「うく、読まれてましたか、やっぱり」
「当然よ。好きな人の思考は、やっぱり気になるわ」
そう言われると、顔が熱くなる。
「ふふ、慣れない?」
「好かれた経験がないもので。さとり様こそ、顔紅いですよ」
「そ、それは……お互い様だもの」
もう、と微かに拗ねた様子を見せるのが可愛らしくて、頬が緩む。
「笑わないで、貴方も同じなのに」
「すみません」
そうは言われても、この状況は素直に嬉しい。
まあ、中々面と向かって二人きりになりたい、というのが言えなかったのもあるが。
「私はわかるからいいけれど、きちんと言葉にもしてね?」
「善処します。いやまあ、人前では流石に照れくさくてですね」
「……私も恥ずかしいわね、それは」
そう会話を交わしているうちに、一通り皿に盛り付け終わった。
さて、名残惜しいが流石に戻らないといけない。
ふと見ると、さとりが廊下の方を気にしていた。
「……? さとり様、どうしました?」
「いいえ、何でも……そうね」
何かを納得したように頷くと、さとりは彼を手招く。
「どうしました……っ!?」
近付いた瞬間、背伸びしたさとりに、いきなり頬に口付けられた。
「!? っ!?」
「声が出ないほど驚かなくても。嫌だった?」
「そ、そんなことありません!」
口付けられた頬が熱い。顔が真っ赤になってるんだろうな、というのは容易に想像がつく。
見れば、さとりも真っ赤になっている。やっておいて照れるのは何かずるいのではないだろうか。
「だって……その、ちょっと、ね」
「どうしたんですか、本当に突然」
「……ちょっと野次馬達に、見せ付けたかっただけなの。忘れて」
「忘れられませんよ。てか野次馬……?」
廊下の方を向いて、彼は、まさか、と呟いた。
「ああもう、そこは押し倒すとこだろう! ぐいっと引き寄せて!」
「ほほう、見せ付けてくれるねえ」
「此処の主がああなるとはね、いやはや、いいもの見せてもらった」
「勇儀、親父くさいわよ。しかし妬ましいわね……」
ドアの陰に隠れて、見ている影が複数。むしろ全員。
こっそり覗いているのだが、傍から見れば怪しい集団である。
「お姉ちゃん、意外に大胆ー」
「こいし様ぁ、あたい達、気が付かれてませんよね……?」
「たぶん気が付いてるよー。それわかってて見せ付けてるんだもん」
「にゅ~……」
地霊殿在住組は空が首を傾げているくらいで、割合落ち着いて見ていたりする。
「さ、気が付かれたし戻ろうかー」
「まあ、あれ以上進展もなさそうだしねー」
散々な言い様であった。だがどこか楽しそうに、彼女達は宴席に戻っていく。
地底には娯楽が少ない。さとりと彼との関係は、良い話題になるだろう。
さとりが覚りである以上、近付きたくないのは変わらない。
それでも、恋をしてしまえば、さとりとて一人の少女には違いないのだ。
彼女達には、それがよくわかっていた。
その後、戻ってきた彼が、覗いていたことを指摘するが、逆に何故手を出さないかと反撃され、沈没していたり。
鬼が珍しくさとりに妙に絡んだり、と、普段とは一風変わった飲み会になった。
「どうして俺はこんな集中攻撃にあうんですかい……?」
「へたれなのが悪い」
「ぐおう……」
完膚なきまでに叩きのめされ、テーブルに突っ伏した彼の服の裾を、誰かが引っ張った。
「ん? ……ああ、こいし様」
「随分、楽しそうだね」
「この状況をそう仰いますか。まあもういいか……しかし、こいし様もいてくださって良かった」
ぐったりしながらも笑った彼に、こいしは尋ねる。
「私がいると良いの?」
「ええ、さとり様もいつも心配してますし。俺達だって、こいし様が帰ってきてくれると嬉しいです」
「へえ……でも一番は、お姉ちゃんのためなんだね」
「そりゃもう、当然ですよ。さとり様のためなら。さとり様が喜んでくれるなら、俺は何でも」
「それは、本心なんだね。お姉ちゃんが何より大事だって言うのも」
「はい。えと、何だろ、俺なんか拙いことでも?」
不安そうに尋ねると、こいしは満面の笑みで首を横に振った。
「んーん、何でもないよ。ただ、お姉ちゃんが向こうで真っ赤な顔してるだけで」
「へ?」
見ればこいしの言うとおりである。周りは何だかニヤニヤしている。
はて、自分は今何を――
「あ」
「じゃあねー」
「ちょ、こいし様っ!」
「さー、面白いことを聞かせてもらったねえ」
がっと肩に置かれる手は鬼のもの。拙い、逃げられない。
「ふふ、妬ましいほどの想いねえ。さあ、洗いざらい語ってもらいましょうか」
「いや、それはっ」
「さっきまで熱く語っておきながら何を」
救いを求めようと周りを見るも、全員興味津々で誰も手伝ってくれようとはしない。
さとりは――助けを求めれば逆効果だろう。耳まで紅くなっているし。
いろいろ観念しつつ、彼は近くにあった杯の中身を飲み干した。
「……これで、めでたしめでたし?」
「そうであればいいのだけれどね。そうは思っていないのでしょう?」
「どうかな。私はそう思ってるけれど。むしろ思ってないのはお姉さんの方」
「あら怖い。無意識とは斯くの如きなのかしら――確かに、地底に人間は不似合いだけど」
隙間の向こうに対して、こいしは淡々と言う。
「覚りに想い人は不似合い?」
「いいえ、そんなものは自由よ。ただ――いえ、こんなことを言うのは紅い吸血鬼の領分ね」
「随分と中途半端」
「それは失礼。ですが、必要とあらばお手伝いは致しますわ――幻想郷は、全てを受け入れるのですから」
胡散臭い言葉は隙間に消えていく。こいしはそれに気を留めた風もなく、ただ立っていた。
「……灼熱地獄跡に、生きている人間は、不似合い?」
言葉を繰り返して、こいしは何となく、その言葉が不吉なものに思えた。
このときは、思えただけであった。
──────────────────────
「さて、と、少し休憩しましょうか」
呟いて、さとりは一つ伸びをした。書斎で書類仕事をしていたのだった。
「……何か、飲み物でも……」
随分長い時間机に向かっていたからか、喉が渇いてしまっている。
さとりは、実際それほど暇ではない。地霊殿の主として灼熱地獄跡の管理、という仕事がある。
少し前にペット達に放任しすぎてしまったために問題を起こしたので、気を入れているところであった。
とはいえ、少し疲れてしまった。今日のペット達の行動を思い出しながら、台所に向かう。
(今日は、お空はセンターの方でしょう、お燐は地上に出ているかしら、それと彼は……)
彼のことを思って、さとりは顔が微かに熱を持つのを感じた。
「今日は、地上に物資の運搬、だったかしら」
立ち止まり、言葉に出して、心を落ち着ける。
心を読んでも大丈夫な相手、というのにはだいぶ慣れてきたものの、恋人、というのは全然慣れない。
「……少し、慣れないと、ね」
彼のことを考える度に動揺していては、地霊殿の主としての威厳も保てない。
よし、と一つ気合を入れて、さとりはしっかりと歩き出した。
台所に行くと、上半身裸の彼と鉢合わせた。上着を脱いでいたらしい。
さとりが来たことに気が付くと、驚いて目を丸くした。
「うおう、さとり様、どうしました?」
「ちょっと飲み物を……って、何してるの?」
驚いたのはさとりも変わらない。動揺して尋ねるより先に答えてしまった。
「いや、さっき帰ってきたんですが暑くてですねー。と、失礼」
そう言いながら、彼はシャツを羽織った。
「この時間誰も来ないだろ、って思ってたんで。これから部屋の中だけにしときますね」
「……ええ、そうして」
彼自身はあまり気にしていないようだったが、さとりとしては目のやり場に困る。
異性の身体にドキドキさせられるのは、男性ばかりではないのだ。
思考を逸らそうとして――さとりは、彼の言葉に引っ掛かりを覚えた。
「……暑い?」
「ああ、ええ、ちと暑くないですか? まあ、俺が動き回ってたからかもしれないですが」
今日はむしろ涼しいくらいだ、と思う。それとも、地上とは気温が違っているのだろうか。
「地上は?」
「ああ、雨でしたよ。ちょいと濡れちまいまして。蒸す癖に、濡れると肌寒かったですねー」
「その落差なのかしらね。風邪引かないようにね」
「はい。ああ、さとり様、何飲みますか?」
(今日はデスクワークかな、としたら甘いものもあった方が……)
尋ねながら用意をしている。器用だな、と思いながら、さとりは頷いた。
「そうね、何かあると嬉しいけれど」
「ああ、ということはやっぱり書類仕事ですか。じゃ、里で買ってきた甘味、結構あるんで先にさとり様に用意しましょうか」
「いいの?」
「さとり様になら、お空もお燐も文句は言わんでしょう」
俺が食ったら非難轟々ですけどね、と言いながら、緑茶と羊羹を用意する。
「結構評判のとこでしてね、おまけしてもらったんですよ」
「そうみたいね」
彼が、朴訥そうな店の主人と話している図が見えた。
彼自身も、素直で丁寧なところがあるから気に入られたのだろう。
「また地上に出たら何か買って来ますね」
「あまり無茶はしないでね」
「大丈夫です、大体顔見知りにもなったんで、とりあえず地底は」
(地上は若干危ないんですけどね)
そう、彼は肩を竦めた。
「本当に大丈夫?」
「まあ、霊夢に札もらったりしてますし……賽銭はたかられますが」
笑いながら、どうぞ、と彼はさとりに茶と菓子を差し出す。
「ありがとう。貴方はいいの?」
「俺は他のみんなが帰ってきてからにしますよ」
勝手に食うと怒られる、と、彼は立ち上がった。
「んでは、ちょっと仕事終わらせてきます。ああ、良かったら、また何か本借りたいんですが」
「いいわよ。そうね、書斎に来てもらえればいつでも。今日は私も続きをしているだろうし」
彼が意外に本が好きだと知ったのはつい最近である。
暇そうにしているときがあったので、何かしたいことはないのか聞くと、彼は書斎の本がずっと気になっていたのだと言った。
もっと早く言えばよかったのに、と思ったが、遠慮しがちな彼らしい、とも思う。
「ああ、うーん、晩飯までに終わらないかもですね」
「じゃあ、いつもの時間に、かしら」
「はい」
彼は笑顔で頷いた。就寝前の少しの時間、書斎や居間で話をするのが、告白以来の日課になっていた。
湯を使うのが彼で最後なので、本当に寝る前の僅かな時間の逢瀬ではあるが、それが最近の二人の楽しみだった。
「では、俺は行ってきます。ああ、もしこいし様がいらっしゃったりしたら、残りは戸棚に置いてますんで」
「わかったわ」
頷いた後、さとりは少し首を傾げた。彼がどうやら、手に触れたがっている様だったので。
「手? 私の手が、どうかしたの?」
「ああ、いやその、うー……」
(怒られるかなあ、ううむ)
うーむ、と唸りながらぐるぐるしていた彼は、差し出されたさとりの手をそっと取った。
「怒らないから。どうしたの?」
「ん、では……その、失礼します」
軽く、本当に軽く、彼はさとりの手の甲に口付ける。
「あ、はは、すみません、では、行きますね」
(やっぱ、ちと、気障か、こういうの。少し行動しろ、みたいに言われたけど)
照れた思考が流れてきて、さとりまで顔が紅くなった。
どうも地上に上がった際に、誰かにそそのかされたらしい。それでも、悪い気はしなかった。
「え、ええ、頑張って。また後で」
「は、はい!」
照れたのを押し隠して何とか笑顔を返すと、彼も笑みを返して走っていった。
少しぼうっとした後、さとりは手を自分の胸に当てる。何だかんだと、彼が自分から触れてくることは珍しい。
寝惚けているときや咄嗟のときは別として、遠慮しているのか照れなのか――おそらく両方の理由で、あまり彼から接触されることはない。
だから、今回も彼にしては思い切った行動だっただろう。何より――手の甲とはいえ、口付けしてもらったのは、嬉しい。
どれだけの勇気を振り絞ったのだろうか。それを思うと、自然と顔が綻んだ。
「……お姉ちゃん、顔が緩んでるよー」
「ひゃっ、こ、こいし!?」
呆れた声に、さとりは飛び上がらんばかりに驚く。いつの間にやら、こいしが帰ってきていたのだった。
「い、いつからいたの?」
「さっきから見てたよ。仲良しだねー」
くすくす、と笑って、こいしはさとりの隣に座った。
「からかわないで。こいしも食べる?」
「うん、食べるー!」
戸棚にしまっていた羊羹を、こいしの分も切り分けて持ってくる。
「いただきまーす」
「はい、落ち着いて食べるのよ」
さとりが言い終わらないうちに、こいしは食べ始めている。やれやれ、と思いながらさとりも口にした。
「美味しいねー」
「そうね」
「あの人が買って来たの?」
「ええ、みんなに、って」
「……お姉ちゃんのために買ってきたんじゃないの?」
からかうような、無邪気な口調で、こいしは尋ねる。
「みんなに、って言ってたから」
「ん、それも本当だろうけれど」
こいしは楽しげに笑ったままだ。何となく決まりが悪くて、さとりは首を振る。
「……そうだと、嬉しくはあるけれど」
「ふふふ、お姉ちゃん可愛いなあ」
「まったく、あまりからかわないで」
はあい、とわかっているのかどうかわからない声で応じて、こいしはまた一口、羊羹を口に放った。
食べ終わって、緑茶を手に一息つく。これでまた続きも頑張れそうだ。
同じく食べ終わってぼうっとしていたこいしが、不意に口を開いた。
「ね、お姉ちゃん」
「何、こいし?」
「……あの人のこと、気を付けてあげなきゃ駄目だよ」
「……?」
その言葉の真意がわからず、さとりは首を傾げた。
こいしは変わらず、何処かを見ていて、かつ何処も見ていない瞳で、呟く。
「だって、お姉ちゃん、あの人は人間なんだよ」
「ええ、そうだけど……」
「気を付けてあげないと、駄目だからね……人間は、脆いから」
「え……?」
どういうことか、そう問い質す前に――こいしは去ってしまっていた。
「……何か、感じているの? こいし……」
さとりは不安に駆られて呟いた。彼女は妹の忠告を無為にするほど愚かではない。
無意識に、何かを警告しているのだろうと、さとりは判断する。
だが、彼が危険な目に遭うとするならば何だろうか。
「妖怪……? やっぱり、地上かしら」
人食いの妖怪も、地上にはいる。現在妖怪は無闇に人は襲わなくなったが、それでも。
「……誰かと、常に一緒に行動させた方がいいのかしら」
呟きながら、思考をまとめようとする。だが、どの方法を取ったしても、不安は晴れそうになかった。
とりあえず、今は仕事を終わらせてしまおう、と、さとりは思考を放棄した。
夕飯のときも、こいしはいなかった。
さとりは、もしこいしがいたら、昼間の話を訊こうと思っていたのだが――おそらく、訊いても明確な回答は返ってこなかっただろう。
無意識に知ったことならば、こいし自身がわかっていない可能性が高い。
軽くため息をつきながらも、さとりは彼の安全に留意することにした。
書斎のドアを、軽くノックする。どうぞ、と声がして、彼はそっとドアを開けた。
「失礼します、さとり様」
「ええ、どうぞ」
机に向かっていたさとりは、立ち上がって彼を迎えた。
「今日は……この前の続きの本?」
「ああ、はい。続きがちょいと気になりまして」
笑いながら、彼は手にした盆を机の上に置く。
「それなら向こうの棚よ。取り出しておけば良かったわね」
「いえいえ、取ってきますよ。ああ、さとり様、良かったらこれを」
盆に載せて持ってきた飲み物を勧める。
一日デスクワークは疲れるだろうと思って作ってみたのだが、気に入ってもらえるかどうか。
「いただくわ。ん……これは、レモン?」
「レモネードです。少し前に作ったシロップがいい感じに出来上がったんで」
幻想郷でも作れるのは少し驚いた。確かに材料さえあれば簡単には出来るのだが。
「そんなに簡単に出来るの?」
「ああ、はい。これは砂糖と蜂蜜で作った奴なんですが」
分けてもらった砂糖と蜂蜜とレモンがあったので作ってみたのだ。
手順をどう説明すべきか頭の中で並べていたが、それだけで伝わったらしくさとりは頷いた。
「本当に簡単なのね」
「そうですね。ただ、あんま日持ちしないのがなー。冷やしておければ多少持つんですが」
「氷室使ってもいいわよ? 少し前から作りやすくなったし」
「助かります。食料の保存にゃ使わせてもらってんですが、自分の趣味で作ったのをどうするかと」
「遠慮しなくていいの。貴方は地霊殿の家族なんだから」
「は、はい」
そう言われるのに慣れなくて、まだ少し照れてしまう。
「まだ、慣れない?」
「ええ……さとり様、楽しんでません?」
くすくすと笑うさとりに、彼は恨みがましく言ってみた。無論、冗談交じりではあるが。
「ふふ、ごめんなさい」
「ったく……さとり様にゃ敵わないですよ。そういや、梅酒も浸け始めてんですよね」
「いろいろ始めてるのね……」
「一人暮らしで、つるむような友人もいなけりゃ、趣味も限られてきまして」
読書に音楽に料理にゲームに、後は学校とかのジムで黙々と身体を動かしたり、とか。
考えてみれば、随分と寂しい青春な気がする。
「でも、今は楽しいでしょう?」
「ん、まあそうですね、それで帳消し――いやお釣りが来すぎてますね」
仲の良い家族や友人とか、綺麗な恋人が出来ている時点で、十分に幸せだ。
「…………それは、不意打ちになるから」
「ん、え? あ、あああ」
顔が紅いさとりを見て、何を考えたかようやく自覚する。
「え、と、うん、私も気を付けるわ。それにしても、梅酒ね……」
「さとり様も作ってたりするんですか?」
「いえ、私は作ってなかったわ。偶に悪乗りした鬼が持ち込んでくるので十分だったし」
「……勇儀さんか」
「彼女は顔役だから。地霊殿と旧都が全く交渉なし、ではやっていけないから度々来てたのだけどね」
半分くらいは飲み会かな、と少し思う。まあ、陽気な鬼という種族は、彼自身嫌いではない。
「大体当たりね。でも、百年物とか偶に持ってくるのよね……」
「そりゃすごい」
「浸けてたのを忘れてた、っていうのが本音だったけど」
「らしいなあ。しかし百年か。人間の寿命じゃ作れないな」
「……そうね」
さとりの声に寂しさが混じったのを見て、彼は少し申し訳なくなる。
自分が人間である限り、必ず先に逝くだろう。幻想郷ではそれを回避する方法がないわけではないらしいが。
まあ追々考えればいいか。すぐに来るものでもなし。それに永く生きれば、長く酒も浸けれるかも知れない。
「……酒の為に寿命延ばす、なんて初めて聞く話よね」
「何か幻想郷ならそれが許されそうな気がして」
「……許されそうなのが……」
大きく、さとりはため息をついた。わかっているのだ。互いにこれ以上触れなかったのは。
決定的な一言でも、口にしてしまえばお互い考え込んでしまう。だからこそ、冗談に紛らわせた。
臆病なのかもしれない。でも今はまだ、このままで。
「さ、本はこっちよ。少し高いところにあるけど……」
「ああ、大丈夫ですよ、そこそこ高いくらいなら取れますし」
「……それは私の背が低いことに対する嫌味?」
「いやいやいや、そういうわけじゃないですが」
そう低くはないと思うんだがなあ、と彼は思う。確かに空とか燐とかの方が高くはあるが。
「でも、いいんですか、さとり様何か読んでたんじゃ」
「いいわ。それに貴方は放っておくと本棚の前で読みふけるんだもの」
くい、と彼の腕を引き、さとりは少し顔を逸らして呟く。
「……こんなときくらいしか二人きりになれないんだから」
「ん、すんません」
少しでも長く一緒にいれたら、ということなのだろうか。それは純粋に嬉しい。
「合ってるわ、それで」
「はい。俺も、一緒にいたいです」
情けない笑顔になってるんじゃないかな、と思うが、頬が緩むのを止められない。
くすりと笑って、さとりも笑顔を向けてくれた。
「さ、急ぎましょうか。そして貴方の作ってくれたレモネードで一息つきましょう」
「はい」
「……今度、こいしや他のペット達にも、作ってもらって良いかしら」
「もちろんです」
そのときは、菓子でも作ってお茶と一緒にすればいいかな、と彼は思った。
何が良いだろうか、クッキーとかが良いだろうか。とするとジンジャーを使ってもいいかもしれない。
「いいわね、そのときは私も手伝うわ」
「ありがとうございます、さとり様」
礼を言うと、さとりは嬉しそうに微笑んだ。
その笑みを見れるだけで、彼は満足な想いになるのだった。
子供染みている、という自覚はあったが、彼はただ、さとりが笑顔でいてくれるだけで、それで十分だった。
そのためには、何でもするつもりだった。出来うる限りのことはするつもりだった。
先のことはわからなくても、今このときに、大事な人が笑っていてくれればいいと、ただそれだけで。
だから、寿命云々、に関して、焦ることはないと思っていた。
思っていたのだ――――このときには。まだ。
本を借りて、さとりを部屋の前まで送り、自室に戻りながら彼は上機嫌だった。
周りからは、子供の付き合いか、と言われることもあるが、そんなに慌てて関係を進めることもないだろう。
こうして、話す時間が長くなっただけでも、幸せだというのに。
「さて、明日の仕事は……っ? っ!? グ、ゴホゴホッ!?」
喉の痛みと、身体の中の不快感。壁に手をついてひとしきり咳き込み、彼は呟いた。
「……風邪かな。やっぱ雨にあまり当たるのはよろしくない、と。雨の日は外に出るのやめとこかな」
寝る前に、もう一杯レモネードを作って飲むか、と考えながら、彼は台所に足を向けた。
レモンシロップを作り足そうか、梅酒の様子はどうだろうか、などと考えながら歩くうち、梅酒がきっかけとなって、ふと思い出す。
「……永く生きる、か。梅雨明けにでも、誰かに相談できるかなあ」
魔法使いとかかね、と呟きながら、彼はゆっくりと歩いていく。
彼は気が付かなかった。
疲れ易くなっていた身体にも、体調の異変が多くなっていることにも。
そして、誰かに何かを相談する時間など――もうとっくに、なくなっていたということにも。
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最終更新:2010年10月24日 00:46