「ん……ぁ………はぁ、んっ…………」
部屋に響き渡るのは熱を帯びた声。
その声を発している彼女は、今は俺の眼前で横に伏している。
「そんな……お、奥…………」
異物が侵入してくる感覚で身をよじりたい衝動に駆られながらも、
それが叶わないため必死で耐え抜く。
頬はおろか耳までほおずきの色に染めあげ、
肩が小刻みに震えるほど息を荒げて。
とはいえ、ここで止めるわけにはいかない。
否、止められない、と言った方が正しい。
彼女、さとりはもう終わらせてもらいたいと思っているかもしれないが、
俺がそうするわけにいかないからだ。
「いやぁ……こす…るの、や……めぇ…………」
抵抗する声すらどこか甘く、それを抵抗と呼べるのかは定かでない。
そんな声を耳で捉えつつ、より奥へ奥へと進んでいく。
「ッ!……ふぅ、んっ………ッ………」
空いた手で口を押さえ、漏れ出る声を押し殺そうとしている彼女を尻目に、
俺は彼女の中を探り続ける。
できるだけ強く、だが彼女を痛くするのは論外だ。
細心の注意をありったけの理性に、最上位命令で下す。
「ふぁ、あぁ……っ、はぁっ…やぁぁっ」
仕上に取り掛かったところで、さとりから出てくる声量が一段と増す。
口を押さえることを忘れた手は、シーツを強く握りしめ小刻みに震えている。
よく見やれば、目の端にはうっすらと光るものも見えていた。
あまり長引かせるのも彼女に悪い。早く出してしまわねば。
そう思い、俺は一段とペースを速める。
「も、もぅ………あぁぁ………」
さとりの方もすでに限界が迫っているようだ。
俺もあと少し、あと少しで………。
「………よし、とれたよ」
ベッドに腰掛けながら、俺はとれた垢をティッシュへとくるみつつ、
膝の上に横たわっている彼女の頭をなでる。
最後に梵天で細かい粉を絡め取って、一連の行為は終わった。
もちろん、ただの耳掃除である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
時を遡ることおよそ30分。
左手の逆剥けが痛かった俺が、救急箱から絆創膏を取り出そうとした時のことだ。
目当てのものはすぐに見つかったが、取り出す拍子にポロっと何かが落ちた。
取り上げてみれば、何の変哲もない耳掻きである。
「それは何?」
すると、たまたま見かけていたさとりが耳掻きに対し興味を持つ。
幻想郷って、耳掻きも無いのかな?
「というより、私が見たこと無いだけだと思うけれど。
その、耳掻きっていうものを」
まぁ誰だって知らないものはある。
それに対して興味を向けるのは、知的生物の特権という奴とかなんとかって聞いたような。
俺だってそう言う好奇心は旺盛な方だと自覚している方だ。
そんなこと今は別段重要じゃないけどね。
しかし、説明するとなるとどうしたものか。
耳を掻くためのものだ なんて言うのは説明とは呼ばない。
それではただ、名称の分解を行って読みあげただけである。
「そうだなぁ……実際にやった方が手っ取り早いかな?」
という提案を思いついたことで、先のように至ったということである。
…………変なことはしてないよ?
そういうことで、さとりの耳掻き初体験が終わった所である。
自分以外にやるのなんて初めてだったけれど、結構面白いものなのだと気付いた。
自分のものをとるときと違い、もっとかき出すことに集中できるからなのだろう。
一心に集中できるものとかって、結構好きだし。
………あと、さとりの反応とかがすごいのも。
あんなに強く反応していたってことは、さとりって耳が弱いのかな?
って、弱いって言い方がなんか変態チックな響きに……。
「…………えっち」
「ぐぅ………言い返せない自分が憎い…………」
涙目になりながら俺の服の裾をつかみ見上げてくるさとり。
未だ整わない息に涙を蓄えた目じり、赤みを帯びた顔がとても危険である。俺の理性的に。
………うん、ごめんなさい。途中悪乗りも結構入ってたと思う。
「……○○って、案外Sっ気強いのね」
「………かもしれない」
自分でもちょっと思う。
途中でさとりが艶のあるような声を上げ出した時からだろうか。
よくわからないが、心のどこかで変な喜びのようなものを感じていたかもしれない。
というか、声だけ聞いていたらまんまアウトだよなぁ、あれは。
実際、表情もかなり危なかった。CERO-Zもすぐそこに迫る勢いで。
官能的、という言葉が実に馴染む光景だった。
下手すると、そこら辺のアレなものよりよっぽど………。
「そ、そういう考え禁止!」
「あいたっ!」
また顔を真っ赤にさせたさとりが、すかさずデコピンを俺へとたたきつける。
不意を突かれたというのもあったが、それを抜きにしても結構響いた。
「まったくもう……」
「あ、あははは………ごめんごめん」
ぷうと膨らんだ頬をそっぽへ向ける彼女に、額をさすりながら謝っておく。
とりあえず、もう少し健全な思考を心がけよう。
KENZENじゃなく、ちゃんとした健全な方で。
「………フ、フフフ、フフフフ」
突如聞こえてきたのは、さとりの発した薄ら笑いの声。
……あ、あれ? 笑顔なのにちょっと怖いのはどういうこと?
「……さぁて、今度は○○の番よ?」
「え?……あ、あぁ、うん………」
どこかおどろおどろしくも妖しい笑みを浮かべたさとり。
手にはいつの間にか持っていたさっきの耳掻き。
目にはうっすらと狂気に近い色があったりなかったり。
………なんか、やたらと寒気がするんだけど気のせいかな?
「大丈夫よ○○。耳垢と一緒に、貴方のトラウマもほじくり出してあげるから………」
「いやいやいやいや、トラウマはダメだからね!?」
やばい。さとりに何か変なスイッチが入ったかもしれない。
具体的に言うと死ぬほど愛されて夜も眠れないとかそんな感じの奴が。
もしくは雛見沢の住人の末路のような感じ。
どっちだとしても絶望しか待ってないじゃないか……。
「冗談よ、冗談。さすがにそこまではしないから」
「………途中まで絶対冗談じゃなかったような気がする」
「そんなことより、ほら」
少しだけ不安な表情で見つめている俺をよそに、
先程の俺と同じようにベッドに腰掛けたさとりが膝をポンポンと叩き、
はやく横になって と、促している。
内心それなりに恥ずかしかったりもするが、急かされている現状そうも言ってられない。
若干ぎこちない動作ではあるが、さとりの膝へと頭を載せる。
「えと…貴方のやってた通りにやるけど、
痛かったら、ちゃんと言ってね?」
優しい声色の忠告とともに、ふわっと柔らかい手が頬を押さえてくる。
それと同時に訪れたのは、なんとも形容しがたい感覚。
安心というか、暖かいというか、はたまた懐かしいともとることができる何か。
懐かしいという感覚を探ろうとし、そこではたと思い出す。
母性、という言葉の存在を。
「あら、私はいつ貴方のお母さんになったのかしら?」
「そうじゃなくて、そんな感じがするってことだよ」
慎重に耳掻きを操りながら聞いてくるさとり。
言葉にするのが難しい心地よさ、と表現すべきだろうか。
そっと耳に入ってくる耳掻きの感覚が心地よい。
支えてくれている膝の温もりが心地よい。
鼻腔を刺激する甘い香りが心地よい。
押さえてくれている手の柔らかさが心地よい。
全てを内包するような優しさと安心感。
うまくは表せないが、こういうのが母性というものだと俺は思う。
実際に今感じているそれらが、とても愛おしい存在に思うからだ。
「そう想ってくれるのは嬉しいわね。
耳が大丈夫なのが、ちょっと悔しいけど……」
小さな笑みがこぼれる音とともに聞こえた彼女のつぶやき。
横を向いている状態なため、さとりの今の表情が見て取れないのがちょっと残念だ。
彼女自身嬉しいと言ってくれているが、一番嬉しいのは俺だ。
つい最近になって俺の中での存在の大きさを知った、彼女。
とても愛おしく、とても大切な人。
そんな人にこうしてもらっている今を、
幸せな時間であると言わずなんと言うのか。
「ちょ、ちょっと……
手が狂ったらどうするの……」
「はは……けど、こればっかりは本当のことだからね」
「も、もぅ……」
拗ねたような声をあげながらも、手を確実に動かし
耳垢を掻きだしてくれているさとり。
色々な気持ちよさに包まれているからか、
俺の中にはどんどんと眠気が蓄積されている。
「……はい、次は反対側よ」
「うん………よい、しょっと」
指示されるままに体をひねり、さとりのお腹の方へと向く。
すれば光が遮られ、ますます眠気が台頭するのを助長している。
更に、さとりから発せられる甘い匂いがより強く感じられるようにもなっている。
さすがにこれは、もう限界かな………。
「ふふ、いいわよ、寝てても」
「ん……ありがとう………」
許し と言うとちょっとニュアンスが違うと思うけど、まぁそんなものが下りた。
必要の無くなった抵抗を諦め、俺は鉛の如く重くなった瞼を下ろす。
瞬間、遅い来るのはふわふわとした睡魔。
さとりの膝から伝わる、なんと言い難い暖かさと柔らかさ。
甘い香りに包まれた、深い深いまどろみ。
まだ1月の下旬だというのに、春にいるような錯覚すら覚える感覚。
疲れがたまっているわけではない。
ただ、何故かとても安心して、自然と眠くなってしまう。
わかることは、ただただ心地よいということだけ。
そんな思考すら徐々に働かなくなり、
気付いた時には、意識は夢の向こう側へと流されていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「ん……くぁぁ、あぁ………」
少し間の抜けた欠伸をしながら、意識が覚醒を始める。
未だ開けるのに反対運動をしている両瞼の意見を無視し、しょぼくれた視界を取り込む。
「やっと起きたみたいね」
耳に入ってきたのはクスクス笑いと共に掛けられた彼女の言葉。
脳が完全に覚めきっているわけではないので、どこかぼんやりとした調子ではあるが。
頭が働いていないため、なんとか首だけ捻りさとりの顔を見上げる。
「んと……どのくらい、寝てた?………」
「少なくとも30分位は、かしら」
どうやらかなり長い間さとりの膝で寝ていたみたいだ。
まぁそれだけ気持ちよく眠れたということなのだろうが。
「でしょうね。とても気持ちよさそうな顔してたもの」
「………だろうね」
いつもの通りに攻勢に出ようとしたさとりであったが、今回は思惑が外れたようだ。
え という拍子の抜けた声を上げる彼女を尻目に、俺は続ける。
「好きな人に触れながら眠れることが、幸せなことじゃないと?」
「……そ、そう」
目の前にいる愛しい人は、朱の差した顔を明後日の方向へと向けてしまった。
そんな仕草も彼女のかわいさの一つであるのは揺るがない事実である。
さとりには悪いかもしれないが、どうにも俺が攻勢に出ている状態でいたい。
そう思うってことは、やっぱり俺はSっ気が強いのかな。
「……ずるいわ」
「ごめん。けどやっぱり、こっちの方が性に合ってるみたい」
言いながらも、多少名残惜しい気がするが起き上がり、目をこする。
ようやっと整理のついた脳は、若干クリアになった視界から
今が大分日の暮れかけている時間であることを認識した。
「さて、そろそろ夕飯作らなきゃ」
「そうね…………きゃっ!」
「うおっと!」
これから台所へ向かおうと立ち上がった矢先、突然さとりがしがみついてくる。
ちょっとだけバランスを崩したが、とっさに両腕を彼女の背中に回すことで、
なんとか彼女を支えることができたようだ。
「えと、どうかしたの?」
「あ、足が……痺れちゃって………」
膝が笑うというのはまさしくこの事を指すのだろう。
向けた視線の先には、小さく痙攣して内側に膝が曲がったままの両足。
こんな状態では、立つための力など入りようもないのが明白だ。
さとりが転ばなかったのは幸いだったが、どう見てもその原因は俺だろう。
長時間にわたり人の頭を膝で支えていたのだ。
まず普通に考えれば、痺れて当然である。
ともかくこのままでは何なので、うまく立てないさとりをベッドまで抱きかかえて運ぶ。
「うぅ、ちょっと情けないわね………」
「いやいや、悪いのは俺だから。
そういうわけだし、今日は俺が夕飯作るよ」
密着した状態で話しながら、俺はゆっくりと彼女をベッドに腰掛けさせる。
そして手を離し、台所へと向かおうとした時、
その行動は唐突に阻まれることになる。
動きを止めざるを得なかったのは、俺の頭が
すっと伸びてきた両手によって押さえられたからだ。
突然の自体に、俺の思考分野は一時的な緊急停止措置をとったようだ。
今現在把握できることは、目前に愛らしい顔が近付いているという視覚的情報のみである。
それがキスであると認識できたのは、さとりが離れて少ししてからだった。
「……さて、それなら今晩の食事に期待させてもらって待ってるわ♪」
蠱惑的な視線と笑みを浮かべ、僅かばかりの意地悪さを込めたさとりの言葉。
「…………………こりゃ参ったや」
こうも一方的にされては、俺には白旗を振るしかできない。
全く持って、どうしようもなく可愛くて愛しい人だ。
「どっちもどっち、という言葉もあるわ」
「……はは、本当に敵わないや」
どちらからともなく漏れだす、クスクスという笑い声。
片や立ち尽くし、頭を軽く押さえつつ。
片や寝台に腰掛け、口元を手で覆い隠しながら。
「っと、それじゃあ、お嬢様のお口に合うようなものを
精一杯作らさせていただきますよ」
「えぇ、楽しみにさせていただきます」
調子の軽い冗談を交わした後、居間を出る。
なんやかんやとしていた内に時間はさらに流れて行ってしまったため、
気が付いた時には外の風景は黄昏を追いやろうとしているところだった。
急いで支度をするのは勿論。
とはいえ、彼女に期待を向けられた上に、あんな念押しまでされてしまったのだ。
なんとも難しい板挟みの状況だが、
それが愉快で仕方ないのは惚れた弱みと言う奴なのだろうか。
「いや、楽しく感じてるんじゃむしろ強みか」
小さな笑みと共にこぼれ出たつぶやきは、
うっすらと白い姿になって消えていく。
さて、彼女を喜ばせるためにも、何を作るとしようかな。
──────────────────────
「これは………」
○○が学校へと行き、大体の家事をこなして一息ついていたとき。
それはテレビの画面に映っていたことだった。
"もうすぐバレンタインデー
男性を虜にする今年の流行チョコは!?"
デカデカと銘打たれた題が流れ、女性が次々と質問に答えていく。
画面に映った女は「あそこのお店のが……」などと言っているようだ。
いや、そんなことはどうだっていい。
今一番知りたいのは"男性を虜にするチョコ"という部分だ。
「チョコで……男の人を魅了するってことかしら?」
いまいち飲み込めない内容に、眉間が皺を寄せる。
しかし、それも程なくしてほぐれていくこととなる。
しばらく番組を注視していると、なんとなくだがつかめてきた。
どうも2月14日はバレンタインデーと呼ばれ、
女性が男性へとチョコレートを贈る日なのだそうだ。
なかでも、とりたて深い関係で無い場合には"義理"と名付けた
大したことのないものを渡し、意中の男性に対しては
"本命"と名付けたしっかりとしたものを贈るとのこと。
この"本命"であるが、手作りであるとより効果が見込めるとか何とか。
まぁ要するに、そういうイベントの日のようだ。
そうなれば私も彼へ贈らねばなるまい。
意中、というより……なんていうか、こ、恋人……なんだし………。
「けど、そうなると色々と必要になるわね……」
フッと冷静な思考が戻り、何とか落ち着く。
とりあえず、ざっと考えてみよう。
まずチョコレートを作るための材料が必要となる。
そしてその材料を知るためには、その作り方も調べなければならない。
まあ当然と言えば当然ではあるが。
そのバレンタインデーまで、あと1週間ほど。
時間はたくさんあるようにも見え、無いようにも見える。
とはいえ、こんなあからさまに用意されたような行事をみすみす見逃す手立てはない。
できることなら、秘密にしたまま当日に○○を驚かせてみたいし。
「そうとなったら、やるしかないわね」
こうして、私のひっそりとしたバレンタイン計画は開始された。
……………計画って言えるほど、大それたものじゃない気もするけどね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まずはチョコの作り方を調べないことには始まらない。
ということで、まずは本棚からレシピの本をあるだけ引っ張り出してみる。
○○が料理好きでよかったと、こんな形で確認することになろうとはね。
引き出した数冊の本の中から、お菓子について細かく書かれている本が見つかる。
これならば多分チョコレートのレシピも載っているだろう。
さっそく目次から目当てのチョコレート関連の部分を見つけ出し、
そのページまで紙面を滑らせていく。
…あった。けど、これは…………。
「………結構、いろいろな種類があるのね」
チョコレート位は知っていたが、まさかここまで種類が多いものだとは思っていなかった。
生やらミルクやらタルトやら、本の中には実に多種多様に記載されている。
こうまで多いとなると、どれを贈ったらよいか分からなくなりそうだ。
「チョコケーキとかもあるけど、さすがにこれは難しそうね……」
作る工程の想像すらつかないほど、写真の料理は手が込んだ出来上がりだ。
材料や作り方などを見る限りで、現状では不可能の域だと嫌でも認識させられる。
こんなことなら、もう少しお菓子作りでも嗜んでいればよかったと少しだけ思う。
「そうなると…………これが一番無難かしら?」
そういった私の視線の先にあった写真には、小さい球形のチョコが数個。
横の欄には「簡単なのに本格派の生チョコトリュフ」と印字されている。
レシピを見る限り、確かに私でも作れそうであるし、
材料も比較的少なくすみそうである。
簡単というのを売りにしているようだが、写真の見た目からも十分においしそうである。
うん、これに決まりね。
下の方にある欄に書かれていた材料は、僅かに4つだけ。
チョコレート、牛乳、卵黄、ココアパウダー。
と、材料の確認をしたところでふと考える。
材料、どうやって手に入れよう?
しまった、と心の中で一言。思わぬ盲点だった。
そうだ、いつもは○○が買ってきた材料で料理を作っていただけで、
私自身が買い物に行くことは一度たりとてなかった。
といっても、私の事情を彼も知ってくれているし、
足りなくなったものを言っておけば、彼は忘れず買ってきてくれる。
まぁ、要求することなんてそうそう無いのだけれどね。
しかし、どうしたものか。
こうまで彼に依存していたのであれば、
一人になった時にどうしようもなくなってしまうではないか。
………って、一人になった時?
「……あー…そう言えば」
ちょっと思い出したくない記憶とともに浮かび上がったある記憶。
振り返るのは、彼が実家へと帰省する前のこと。
-食べ物とか足りなくなったら、これを使って買ってね。
近くのお店の行き方も、地図にして書いておくから。
あと合鍵も渡しておくから、出かける時は鍵を閉めてね。-
そう言って○○に渡された封筒。
自分の支度をするのに追われている中、私のことを考え用意してくれたもの。
結果としては使わずに、戸棚へ仕舞ったままになっていたが。
まぁ、あの時は食事に気をつけれるほどの気分じゃなかったから
あるものだけで間に合ったからなんだけれどね。
などと考えつつも、戸棚を探してみればすぐに出てきた件の封筒。
中から出てきたのは一切れのメモと一枚の紙幣、それと鈍い銀色の鍵。
前者は、手書きの簡単な地図と一万円札というものだった。
私はこっちの物価などに詳しいわけではないし、
もっと言えば貨幣についてすらまだよくわからない。
ただ、彼と出かけた時に見ていた分だと、一万という数字は
出てきていなかったが、十分に色々なものを買うことができていたはずだ。
とりあえず、チョコレートの材料を買うには十分であろうと考える。
「あとは………売っている場所、ね…………」
封筒から取り出した地図へと目を向けながら一人つぶやく。
やはりこれだけは避けて通れないか。
以前に○○と一緒に外へと出かけたことはあるが、
だからといって外出することが平気になったわけではない。
まして、今回はたった一人。もっと言えば勝手の効かない土地である。
こんな状況で、気が進むわけがない。
しかし、彼にはこの機会にチョコレートを贈ってあげたい。
日ごろの感謝と、何よりの……あ、愛…情を、あ、表すためにも………。
心の中でのつぶやきに恥ずかしがりながらも、彼の残した地図に目を通す。
主要な目印となるものもわかりやすく描かれている上、
端の方に色々な注意書きが簡潔に記述されていたこともあり、
道順のイメージはしっかりと認識できた。
思っていたほど遠い道のりでもなく、歩いて少しの距離らしい。
「あとは、私次第…か……」
とは言うものの、答えはすでに決まり切っている。
材料を買いに行くしか、道はないのだから。
あまり早く買いに行きすぎても、それらを○○から隠し通せる自信はない。
それに、下手に早く作ってしまえば傷んでしまう可能性もあるだろう。
買いに行くならば明後日が良いだろう。
決意を胸に計画を練った後、
私はもう一度レシピをしっかり読みなおすことにした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「それじゃ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
バレンタインデー2日前。
いつもの様に学校へと行く○○を見送った私。
彼が外出したのを皮切りに、行動を開始する。
久しぶりに袖を通す、外行きのコート。
羽織って前を閉める前に、"目"を体へとしまいこむ。
できるならやりたくないけれど、外に出るからにはやむを得ない。
私自身の第三の目が、周囲からの過負荷に耐えられないというのもあるが、
変に目立ってしまえば○○に多大な迷惑がかかってしまうことも理由の一つである。
少しだけの息苦しさを抱えながらも、スゥと"目"は私の体に沈んで行った。
靴を履き、爪先で数回床を突く。
そばに置いておいた買い物用のトートを左手で取り上げる。
中のポケットに○○のメモとお金、鍵が入っていることを確認した。
準備はしっかり整った。
一つ、深めの呼吸をして気をしっかりと持つ。
今私の右手のドアノブを回し、扉を開け放てば、
その瞬間から周囲の視線が来るものと思っていいだろう。
しかし、今日はそれに自ら飛び込まなければならない。
そうしなければ、私の目的は達成されないし、
目的を放棄する気など今は微塵とて考えていない。
自分自身の意思で、こうすると決めたのだから。
右手に力を込め、金属の円柱を半回転。
そのまま、前へと押す力も加えていく。
玄関を抜ければ、肌寒い風と微妙に晴れた空が私を待っていた。
前にこうした時は、綺麗に澄んだ空だったろうか。
彼と出かけるということで、あまり気にとめてなかったかもしれない。
まぁ、そういうのを思い出すのはまた後にでも。
そんな事を自分に言い聞かせつつも、鞄から出した鍵で玄関を施錠する。
「さて、行くとしましょうか」
気合は十分。準備も万端。
目指す場所も彼が示してくれてある。
いざ、バレンタインに乗り切るために。
○○のために、チョコレートを作るために。
乙女の誓いとでも言うべき何かを心に秘めながら、
メモに記された通りに私は歩みを進めていく。
──────────────────────
「はぁぁぁ……」
体の奥底から出てきたかのような、深い深い溜息。
まるで、死が寸前でちらついているかと思えるほど
壮絶な弾幕戦を終えた後の様な疲労感が、私の体にのしかかっている。
少しでもそれから逃れるため、パッとコートの前をはだけ"目"を体の中から解き放つ。
ずっと続いていた閉塞感が消えたこともあり、大分気分も落ち着いてきた。
何とかチョコレートの材料を買い終えて無事帰ってきた私だが、
思っていた以上に精神への負荷が強い外出だった。
力なくおろした腕につかまれたトート。
その中身を手に入れられたことだけが、今回の救いである。
「けど……いくらなんでも、視線がひどすぎ………」
そう、今回の疲労の原因はそれである。
すれ違う者全て、老若男女など一切合切含め、皆が私の方を振り返っていたのだ。
ある若い女性は、何かに感心するかのように。
ある初老の男性は、珍しいものを見つけたかのように。
ある小さな子供は、口をあけながら好奇の眼差しを向けて。
ある手押し車を押したお年寄りは、どこか気に食わなさそうな表情で。
まるで見世物小屋で見物されている動物のような状態。
私はただ買い物に来ていただけだというのに。
見られていたのは、私が妖怪だからではないはずだ。
第三の目を出して歩いていたわけではないから、それはない。
多分、私の髪の色が違うからだろう。
周囲の髪色はほとんどが黒。
老人たちは白髪であったり、若者の中に色が薄いのがチラホラいたくらいである。
対し、私は紫色。ほぼ無彩色の中で、有彩色は当たり前に目立つこと位は知ってる。
人間のこういうところは、幻想郷も外も、昔も今も変わらないようだ。
一言で言い表してしまうならば、「排他的」。
珍しい、というより「違う」という存在を嫌う。
明確な理由なんてない。ただ、「違うから嫌だ」というだけ。
程度の違いこそあれ、本質はそういうものなのだ。彼らは。
だからこそ、そうでない○○に私は心惹かれたのだろう。
生憎、心が読める状態ではなかったから断定はできかねる。
けどあれだけの視線を浴びせられれば、
よほど無頓着な者でない限り、誰だって嫌でもわかる。
場を支配する空気が、私に対して好意的でないことを。
チクチクと無数の視線が突き刺さる中、お店で材料を探し当て。
店員すらもチラチラ見つめてくる中、できるだけ早く買い物を終わらせて。
時間はさほどかかっていないはずなのに、
私自身はまるで何年とも感じるような程、時間を長く感じた。
その結果が、今ここにある疲労感であるわけだ。
「けど、これで材料は揃ったわ」
まぁ、そういうことだ。
道に迷うこともなくお店にたどり着くこともできた。
目当ての品物も案外早く見つけることもできたし、
懸念していたお金も十二分に足りていた。
本質的な部分では、何一つ失点はなかった。
ただ単に、私が周囲から視線を向けられていただけのことだ。
最後に目標が達成できているならば、それらは最早過去のことである。
気に病む必要などどこにもないし、
大事なのは、これから○○へのチョコを作るということなのだから。
「まぁ、作るのはまた明日になりそうだけど……」
時計を見れば、針は午後の4時をとうに過ぎた位置を指し示している。
さすがに御夕飯の用意を始めたほうが良い時間であるし、
それが終わってから作ろうにも○○が帰ってくる時間である。
できることなら、当日まで隠し通し、それから渡して彼を驚かせたい。
ならば、選ぶべき選択は一つである。
「チョコなら別に傷まないわよね。
冬だから融ける心配もまず無いし」
というわけで、彼の目が届かないであろう場所として、
クローゼットの隅の方へと材料を隠しておく。
後は明日になって作り、そのまた明日に渡すだけ。
言うだけならば簡単だが、それでも私の心はどこか緊張している。
さしあたって、大きな不安があるわけでもない。
なのに、ソワソワした感覚があるのは何故なのか。
「…………考えても仕方ないわね」
チョコの材料を隠し終えたところで呟く。
現状、明日にならなければ作業はできないのだ。
今からそれの不安を憂うより、成功するように準備する方が遥かに生産的である。
……まぁ、それよりも御夕飯作る方が先なんだけれどね。
「さてと……今日はどうしようかしら」
とりあえず今晩の献立を何とかして、
時間が空いたらもう一度レシピを見直しておくとしよう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
バレンタインデー前日。
昨日と同じように、今日も○○が学校に行ってから行動開始となる。
そして何より、今日が一番重要な日ともなるだろう。
明日、例のバレンタインデーに○○へと贈るチョコレートを
制作するのが今日なのだから。
「………っと、よし。これで準備はできたわね」
各種材料と必要な調理器具を並べ終えて一言。
傍らにはいつでも見ることができるようにレシピの本も完備。
用意したチョコレートは板状のものを2枚ほど。
今は包んであった包装を全て剥がして、まな板の上に置いてある。
その隣には卵一個とコップに出した牛乳、ココアパウダーの袋。
うん、ちゃんと揃ってる。
「じゃあ、始めましょうか」
まず最初に、卵黄と牛乳をあらかじめ混ぜておく。
そうしておかないと、後でチョコレートに混ぜる時に手間取り、
分離したりうまく混ざらなかったりしてしまうらしい。
小さめのボウルで先程のものを混ぜ終え、次の工程に移る。
チョコレートを包丁でできるだけ細かく刻み、それらを耐熱ボウルに移し、
刻み終わったそれを湯煎にかけて融かしていく。
この時、できるだけゆっくり融かしていくのがコツであると書かれてあった。
弱火で湯を張った鍋にボウルを乗せ、丁寧にかき混ぜていく。
そのまま湯煎に掛けることしばらく。
塊にぶつかるような感覚もなくなり、
スルスルとヘラが動くほどチョコが融けてきたようだ。
「えっと……そうしたら、次はこれを混ぜてっと…………」
レシピを再度確認しながら、ボウルを湯煎から外し、卵黄と牛乳を加えていく。
黒一色のボウルの中に注ぎこまれていく薄い黄色。
正確に言うならば、白の中にオレンジが点々とあるもの。
まとめてヘラで混ぜていけば、なんとも形容しがたい模様となった。
混ぜるのを続け、次第に全体の色も茶色で落ち着いてきたころ、
段々とチョコレートがヘラに対し抵抗してくるようになってきた。
この状態になったら、たしか次の工程に移るはずだ。
チラとまたレシピを覘き込み、それで正しいことを確認する。
「あとは、丸めてココアパウダーを付けて………
冷やせば出来上がりね」
いよいよもって調理も最終段階に差し掛かってきた。
あと少しで終わるが、ここで気を抜くわけにはいかない。
一度深呼吸をして、再び集中を整える。
気合を入れなおしたら、ボウルの中身をバットへと空ける。
もったりとしてきたチョコレートは、ヘラで掻きだした後も小山のような状態を維持している。
うっすらとした湯気と共に漂ってくる香りは、挑発的ともいえるほどのものだ。
チョコ特有の、苦さが若干強調されつつも、芳しく鼻腔を刺激する独特の匂い。
作っている私も、ちょっとだけ誘惑に駆られそう。
それはさておき、一個一個を形成する作業に移るとしよう。
まずは、あらかじめ平らな場所にラップを敷いておく。
こうすると、固まった後に剥がしやすくなるとのことが本に記されてあった。
「っと、次はこれね」
そう言いながら取り出したのは2つのティースプーン。
右手・左手で一つづつ持ち、いよいよ成形開始である。
片方のティースプーンでチョコを掬い上げ、
それをもう片方のスプーンで丸めるように掬いとる。
それを数回くりかしたところで、ラップの上に出せば
適当なサイズの球体が出来上がっていた。
よし と心でつぶやき、またスプーンで掬い上げ丸めていく。
カチカチと小さな金属音を奏でながら、
一つ、また一つとトリュフの形は出来上がっていく。
「………ふぅ。こんなところかしら」
鍋にあったチョコを全て形作り終えたころには、
調理台の上には1ダース強ほどのトリュフ一歩手前のチョコが整然と並べられていた。
「さてと、そろそろ始めの奴が乾いちゃうわね」
成形したてと見比べてみればすぐにわかる。
明らかに光沢が減っている様から、乾燥が進んできていることが。
急いでココアパウダーを小皿に用意し、そこにチョコを潜り込ませ、
指先で軽く触れるように、粉の中でコロコロと転がしていく。
3回ほど転がせば、写真で見たまんまのトリュフチョコレートがそこにあった。
「………できた」
予想以上というか、写真通りというか。
初めて作ったのに関わらず会心の出来ととれる程綺麗にでき、
無意識の感嘆からか、パッと口をついて言葉が出ていた。
これなら○○にちゃんと贈ることができる。
そう確信できる出来上がりに、表情が自然と緩みだす。
「…っと、いけない。他もあるんだから」
ハッと我に返り、残りのチョコもココアパウダーで化粧を施していく。
等というものの、ただ粉にくぐらせるだけの作業なので、
あっという間に全てのチョコが出来上がりを迎えた。
「あとはこれを冷やして、○○に渡すだけね」
皿に並べられたトリュフチョコレート。
荒熱もほぼ無くなっており、隣り合っても既にくっつく気配はない。
それらの上にラップをかけて、冷蔵庫の奥の方へ隠すように仕舞う。
渡すのは明日、まだまだ見つかってはいけないのだから。
「頼むから、見つからないで頂戴ね……」
小さく願いをかけてから、偽装を施した冷蔵庫を閉じる。
帰ってきた返事は、パタンというドアの音と、ブーンという機械の音だった。
やるべきことはすべて終わった。
後は明日、○○が帰ってきた時に驚かすだけである。
彼はどんな反応を見せてくれるかしら?
いつものように笑顔を向けて喜んでくれるだろうか。
大口開けて茫然と立ち尽くすだろうか。
感極まって涙……は流石に無いわね。
考えているだけで、私の心が子供のようにはしゃごうとする。
早く渡して、彼の反応を見たい。
○○が喜ぶ姿を、おいしいと言ってくれる言葉を、
私の心が今か今かと待ちわびている。
いくらなんだって早すぎるわよ、もう。
と、冷蔵庫を閉めた後にふと首を巡らせる。
その時に視線の先にあったのは、数々の使った後の道具たち。
ほとんどにチョコレートがへばりつき、道具の一部表面をコーティングし、
段々と硬化を開始している始末だった。
「………そういえばお菓子作りって、後片付けが大変だったのよね」
散乱した調理器具を見つめ、すこし冷静になることができた。
というより、冷めたと言った方が正しいかしら。
「…はぁ。さてと、片づけるとしましょうか」
まぁ、結果としてはいつもの調子が戻ったのかもしれない。
袖をまくりなおし、洗い物へと取りかかる。
さっさと片付けて、今日の御夕飯を考えなくちゃ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
いよいよもって迎えた2月の14日。
件のバレンタインデー当日である。
現在時刻は午後6時を少し過ぎた辺り。
じきに○○が帰ってくるいつもの時間だ。
ドキドキ。ソワソワ。ワクワク。
いろんな感情に後押しされてか、終始私は落ち着けないでいた。
チョコレートはすでに冷蔵庫から取り出し、
ラップは掛けたままその上にハンカチをかぶせて彼の帰りを待つ。
まだかまだかと逸る心を押さえこみ、時が来るのを待っている。
ガチャ と、玄関の鍵が動作する音。
時は来た。
居間の戸を挟み、目の前に○○が来るのを待ち構える。
妙な緊張が心臓を急かし、鼓動が一気に早くなるのを感じる。
扉越しに聞こえる音は、確実に○○が近づいてくる音であることはわかる。
それがどうにも焦らしているかのように遅く感じるのは、
私の感覚が変に研ぎ澄まされてしまったからだろう。
一歩、また一歩近づく足音。
やがてそれがすぐそこまで迫り、眼前の引き戸が道をあける。
「ただい………ま?」
「おかえりなさい、○○」
始めの反応は「茫然と立ち尽くす」だったようだ。
キョトンとした表情をいくらか傾けて、事態が飲み込めないことをさらけ出す。
「えと……どうしたの、さとり?」
「今日が何の日か、貴方は知っているでしょう?」
「へ?」
情けない声を上げ、先程の顔のまま目線を上げて何かを思い出そうとしている。
「2月の14日………って、まさか」
「そうよ。はい、コレ」
やっと何の日か思い出した彼の目の前で、
後ろ手に隠していた皿を取り出しハンカチを取る。
「私からのチョコレートよ」
「……………………………………………………」
あら、完全に頭が止まっちゃったみたいね。
心の中まで真っ白になっちゃってるわ。
「……………は、はははは」
口をあけて立ち尽くしていた○○だったが、突如笑いだした。
……えと、大丈夫よね?
「そういえばそうだったね。今日はバレンタインデーだったか」
「…………もしかして、忘れてた?」
「うん、すっかり」
心と同時に聞こえてくる馬鹿正直なまで素直な言葉。
「いやぁ、今までの人生でこんなこと一度もなかったからね。
本当に忘れてたよ」
「そ、そう……って、○○。貴方………」
「え?……あ」
よほど予想外にうれしかったのか、
彼の目の端には光るものがうっすら浮かんでいた。
まさか涙の方であってたなんて………。
「ははは……っと、それじゃ食べてもいいかな?」
「勿論。そのために作ったんだから」
指で涙を拭いながら聞いてくる彼。
とりあえず、荷物と上着を外し一緒にこたつに入る。
この時、材料に関して○○から質問があったが、
今までの経緯を話したら素直に驚かれた。
まぁ覚りである弊害を我慢して買い物に行ったのは、自分でも褒めておきたい位だったけどね。
話し終わったあと、○○の口から出た言葉。
-そこまでがんばってくれて、ありがとう-
その言葉を貰えただけで、今回の計画は成功と言えるだろう。
そうした後、皿にかけられたラップを外すと、彼の右手が伸びてくる。
と、あるアイデアが私の脳を駆けていった。
「じゃ、いただき……」
「ちょっと待って」
掴もうとした彼の手を遮り、代わりに私が一つチョコを掴む。
そのままチョコをつまみ、持っていったのは○○の口の前。
後は最後に、決め台詞。
「はい、あーん」
「え!?えっと、えと……」
顔を赤く変化させ、頬を人差し指で掻きながらしどろもどろとなった○○。
あぁ、やっぱり○○をからかうのはやめられないわね。
こうまであからさまに反応してくれると、本当に気持ちが良い。
-これはいくらなんだって、恥ずかしいよ………
けど、嬉しいのには違いないし…………-
うろたえ照れる○○の心を読みながら、顔がニヤついてきていることが自分でもわかる。
居間の私は、いつも以上に意地の悪い笑いを浮かべていることだろう。
「……あ、あーん」
やがて観念したのか、はたまたヤケになったか。
おずおずとではあるが、彼は口をあけた。
待機していた指の力を抜き、その中へ一粒のチョコを放り込む。
口を閉じ、むぐむぐとチョコを味わい始めた○○。
それを見ながら、次の反応を待ちわびる私。
「どう?」
「んーー………………………ん?」
出てきた言葉は、首をかしげながらの疑問符だった。
予想を完全に逸脱した返答に、私にもまた疑問符が浮かんでくる。
-………なんか、甘くない。というか、苦い?-
未だチョコを味わっている彼の口の代わりに、彼の心が理由を教えてくれた。
「え?そんなはず…………」
「むぐっ………はい、さとり」
皿の上を見つめていた私に、彼が一つつまんで差し出してくる。
先程の彼と同じように、口をあけてそれを入れてもらった。
少し舌の上で転がしたところ、どうやら本当のことだったことが分かる。
口の中に広がったのは、チョコの香りと強い苦みだけ。
私が知っているチョコとは違い、甘味なんて知る由もないと主張している味だった。
「んっ、そんな……ちゃんとレシピ通りに作ったのに…………」
「もしかして、ビターチョコを使ったとか?」
「ビターチョコ?」
まさかとは思ったが、立ち上がり台所のごみ箱を覘いてみる。
見つけたチョコレートの黒い箱には、「ビター カカオ80%」と確かに表示されていた。
まさかだった。
こんな初歩的な間違いをするなんて。
買い物の最中に、もっとよく読んでいれば気付いたはずだ。
作っている途中で、味見していたならば砂糖を足すことだってできたはずだ。
「……………なによ。全然……ダメ、じゃない………」
一個目が出来上がった時の自分が、馬鹿らしく思えてきた。
見た目だけ繕って、中身がこんなものを作って、やり遂げたような顔して。
せっかくのチャンスを、こんな形で終わらせてしまった。
そう思った瞬間、胸が張り裂けそうになる。
俯きながら、目から熱いものがこみ上げてくるのが感じられる。
なにが驚かせたいだ。まともなものすら贈れない女が、何をほざく。
やり切れない思いが、自己嫌悪の念を増幅させて私を責め立てていく。
「さとり」
いつの間にか後ろに立っていた○○。
いつもの、優しい声で私を呼び掛ける。
「………ごめ…なさい」
涙に押された声は、聞き取りづらいものとなって出てきた。
今の私は謝ることしかできない。
こんなものしか贈れない、ダメな私には。
と、突然○○に肩を掴まれ向き直らされる。
「はい、口あけて」
「え?あ……」
あっけにとられて驚いた私の口に、何かが放り込まれる。
それは紛れもなく、先程と同じ苦いトリュフだった。
何故? と思う前に、彼は次の行動に移っていた。
見上げて○○を見ようとした私の目の前に、彼の顔が迫ってきていた。
当然思考が追い付いていないため、避けることなどできるわけがない。
だが、"目"から伝わってきた彼の考えに、私の心は驚愕する。
それに対し体が反応するより早く、○○と私の唇は触れ合っていた。
「んっ!んん~~~~っ!!」
驚きに体があわてる中、更に驚きは続く。
口唇をこじ開け、侵入してきた○○の舌。
それは私の舌の上に転がっていたトリュフを絡め、融かしてゆく。
「ん、ぷはっ………んぁ、はっ…………」
呼吸が荒くなっている今、意識はすでに働いていない。
まるでこのために作られた器官であるかのように、
互いの舌は求めあうように、無意識に入り混じっていく。
舌と舌とが絡まり合う中、広がっていくのは苦みとそれに勝る甘さ。
融けたチョコがどちらのとも知れぬ唾液と混ざりあいながら、
私たちの口内で先程の味を運びながら行き来してゆく。
それを手助けしているのは、蛇鞭のごとく私の中を蹂躙している彼の舌。
所狭しと動き回り、私の舌と絡まり合う。
口を介して息ができないため、自然と鼻息が荒くなる。
聞こえてくるのは淫靡な水音。
それらが同時に、私の顔に熱と赤みを送り届けてくる。
「……んっ、はぁ」
「……………っ、ぷぁ……はぁ…………」
いつのまにかチョコレートは姿を消し、それに伴って私たちは唇を離す。
距離を置いて行く互いの舌には、茶色の細い橋がかかっていた。
「こうすれば、甘いでしょ?」
「え?」
掛けられた○○の問いに対し、
整わない息に肩を動かしながら、私はただただ返事を返す。
途中で力が抜けていたようで、だらしなく弛緩してしまった私の体は、
今は彼に抱きかかえられるようになっている。
「だからさ」
彼の腕に力が込められ、より密着する私の体。
互いの心臓の音が、互いに伝わるかというほどに。
「そんなことで泣かないで」
抱き寄せられた私の耳元で、そう呟く○○。
熱を帯びた私の耳に、彼の吐息がさらなる熱を送る。
思考が再び働くのは、さらに先送りされることとなった。
真っ白くて、ふわふわとした何か。
それがまた、私の心を包み込んでゆく。
少し前までよくわからなかった、これの正体。
今の私には、これが何なのか答えられると思う。
気づけば○○の右手が私の目尻に伸ばされ、
人差し指と中指で水滴を拭いていった。
触れられた手はいつもと同じ。
冷たい、けれど暖かい○○の手だった。
「貰えただけで、俺はすごい嬉しいんだから」
微笑みながら語りかける○○に、私はまだ茫然としたまま。
「あんなに頑張って、俺のために作ってくれたってだけで、
俺は本当に嬉しいからさ」
そこまでいった後、ただ… と彼は付け加える。
「やっぱりチョコは甘い方が好きだから、
残りも甘い方で食べたいんだよね」
ニタリと口角が吊りあがるように、意地の悪い笑みを形作る○○。
けど、その目はさっきと全く変わらずに、どこまでも優しい色をした目のままだが。
傍らに置かれていた皿からチョコをつまみ、私の目の前にちらつかせる。
やっぱり○○って、Sっ気が強い。
けど、やっぱり優しい。
心の奥で、ぼんやりとそんなことを考える。
だが、意思の働いていない体はそんなことはお構いなしに動き出す。
両腕を彼の首に回し、しっかりと離れないように組む。
そのまま口をあけ、舌を出してトリュフチョコを○○の手から受け取る。
あとはただ、私の身を○○と私の本能に明け渡すだけ。
今は意思なんてどうでもいい。
そう私の心が告げている。
重なった唇に感覚を奪われるまで、心はそんなことを考えていた。
真っ白くて、ふわふわとした何か。
それは多分、「幸せ」を指し示す色なんだと思う。
──────────────────────
「久しぶりだなぁ………あっちとは大分配置が違うや」
ぽつりと漏れたつぶやき。
それを漏らした口の持主たる俺は、今レンタルビデオ店で物色中である。
ふとした寄り道の中、偶然にも見つけたその店。
そういえば財布に入りっぱなしだった会員カードは、既に期限を過ぎていただろうか。
そんなことをふと考えている時に、店のガラスに張られたポスターが目に付く。
"特別キャンペーン中!今なら新規契約・更新時に旧作1本無料!!"
デカデカと書かれた広告は、横一列に同じものがずっと続いている。
「そうだなぁ…良い機会だし、何か借りていこうかな」
そういって入店したのがほんの数分前のこと。
所狭しと並べられたDVDを見回しながら、興味を引かれる作品を探す。
買い物帰りの何気ない寄り道、たまにはこういうのも悪くはない。
「ん~~~…………っと、お?」
指先でタイトルをなぞりつつ見定めていると、ある一つの作品が目にとまった。
正確にいえば、そのタイトルにだが。
「あ~たしかにあったなぁ、これ。
それとなく興味はあったけど、いつの間にか忘れてたっけ」
棚から抜き出し、しげしげと裏に記されている概要を見つめる。
たしか、結構前に公開された作品だったろうか。
あまり映画を見に行かない自分にとっては、そんなことに関する知識は豊富とは言い難い。
だが、今の自分にとってはかなり関係性の高い映画かもしれない。
これが公開された当初はもとより、少し前の俺でも今の生活は想像できなかっただろうから。
「うん、これにしようか」
抜き出したDVDを持ちながら、カウンターへと向かっていく。
帰ったら彼女と見よう、そう思いながら。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「おかえりなさい」
「ただいま。ちょっと遅くなったかな?」
いつもより少しだけってところかしら? と、ちょっと考えるしぐさと共に答えてくれた。
一人暮らしであるはずのアパートで一緒に暮らしている、とても優しい人。
彼女-さとり-は、いつものように俺を出迎えてくれた。
「何かあったの?買い物はそんなに多くなかったと思うけれど……」
「いや、ちょっとだけ寄り道をね」
そう言いながら、彼女に見えるように青い四角の袋を取り出す。
硬い布で作られた、普段はあまり目にかかることのないもの。
「また何か、新しいもの?」
「映画のDVDってやつだよ。簡単にいえば、映像で見れるお話ってところかな」
「……えっと、テレビみたいなものかしら?」
「そんな感じだね」
テレビの番組と映画を比べるのは、いささか間違っている気もするが。
まぁ大本の部分は大体あってるのだ。それで十分だろう。
頭の片隅でそう考えながらも、袋の中から透明なケースを取り出す。
中に入っているDVDが光を返す一方で、ケースに張られたシールは
控えめな字で作品の題名を主張していた。
「………"サトラレ"?」
「少し前の作品だけど、お店で目についてね。
おもしろそうだと思ったから借りてきたんだ」
「へぇ……」
聞きながら、熱心に印字された文字を確認しているさとり。
やはりタイトルが指すものが、彼女の興味を強くひいたようだ。
「ねぇ、これってどういうお話なの?」
こちらへと向き直り、見上げて問うて来る。
「え~っと………たしか、考えていることが全て周囲に筒抜けになる"サトラレ"
っていう人の色々を描いた作品だったかな?」
「…私と真逆なのね」
とは言うものの、見てないので詳しい内容はさすがに知らない。
大体そんな感じで宣伝されてた気がする。
借りてくる時にも、店のケースの裏にそんなことが書かれていたような。
「考えていることが、周囲に漏れてしまう………"サトラレ"……………」
彼女は少し俯きつつ、ケースの題名を見つめて何かを考えている。
おそらく内容がどんなものか想像しているのだろう。
物語の続きを予想する段階などは、どの作品でも共通して面白いものだ。
とはいえ目の前に答えがある以上、早く見たいのも事実だったりする。
「まぁ、夕飯の後にでも見るとしようか」
「そうね。じゃ、早く支度するわ」
買ってきた食品を持ち、さとりと共に台所へと向かう。
先程のDVDは炬燵の上に置かれたまま。
さて、早く食べ終わって映画を見るとしようかな。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「さてと、それでは映画鑑賞を始めるとしようか」
言いながら夕飯を片付け終わった炬燵の上に、俺はノートPCを置く。
DVDなんて普通はテレビで見るものだが、生憎大学生一人暮らしのアパートでは
テレビと接続するタイプのDVDプレーヤーなんてものとは縁がない。
よって、再生できる機器は一つしかないPCに絞られるわけだ。
致命的な欠点として、画面がかなり小さくなってしまうが。
「無いものは仕方ないもの。別にこれで十分じゃない」
「そう言ってくれると、少しは気が楽になるよ」
起動を終えたノートにDVDを入れつつ返す。
少し間を挟んで、ブーンという音が卓上から響いてきた。
そんなPCの起動を待っている間、画面を一緒に見るため、
今俺たちは炬燵の一面に身を寄せ合うように座っている。
もしかしたら、窮屈だったりしないかな?
「大丈夫よ。それに……」
途端に重さが加わる俺の左肩。
原因は一部始終を見ていた為、考えることもなくわかる。
「こうやって、寄りかかることもできるし」
肩を寄せ、首を傾けて頭を乗せてながら、彼女は楽しそうに答える。
その仕草たるや、喉を鳴らし甘える子猫が如く。
少しは慣れてきたかと思っていたが、どうにも勘違いだったようだ。
まるで軋んで音を鳴らすかというほど、理性が大きく揺るがされる。
いかん、危ない危ない危ない…………。
と、そうこうしている内にDVDの再生が始まったようだ。
少し離れた小さな画面を見つめる、2つずつの瞳。
液晶が紡ぎ出した物語に、二人とも集中して見いった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
一時間半ほどの上映時間が終わり、パソコンはデスクトップ状態に戻されていた。
一方で、鑑賞していた俺たちはというと………。
「………うぅ………グスッ…………」
「……ズズッ、グスッ…………はぁ…………」
二人してボロボロ泣いていたりする。
いや、こればっかりは絶対に仕方がないだろう。
自分の考えが周囲に思念波となって流れ込む"サトラレ"。
周囲の人たちは表面上は繕いつつも、心では距離を取ろうとする。
"サトラレ"を中心にした情報・思想が流れ込み、それによって迷惑するから。
やりたいことがあっても、それはいつの間にか裏で操られていて、
知らない内に、気付くこともなく国に役立てられている。
全体的にいえば、少しだけコメディ要素を交えた、
ちょっと物悲しいお話だった。
物語としては突飛なところがあるかもしれないが、
最後には何故か目頭が熱くなっていた。
「あんなに頑張ったのに……おば、あさん…………」
「……ぅ………けど、最後は…きっと助けられるよ………」
何より、最後の方のシーンが強く心に響いた。
理由を考えるのも野暮というものだ。
こういうものは、見たからこそわかる。
「………けど」
しばらくして、不意にさとりが口を開く。
その雰囲気は少し重いが、映画の余韻というわけではなさそうだ。
「○○も、最初の"サトラレ"の人の様に……
心を読まれる恐怖を覚えたことはないの?」
「最初の"サトラレ"みたいに、か………」
彼女が指しているのは、登場人物のある一人のこと。
最初期に発見された、"サトラレ"。
彼は自分が"サトラレ"であることを自覚し、それに苦しんだ。
自分の考えが、全て周囲に知られてしまう。
辛いことも、悲しいことも、恥ずかしいことも、醜いことも。
そんな日常に耐えきれなくなった彼は、自殺を図る。
だが、重要な知的財産である彼の自殺を、国が許すはずもなく。
更生施設に送られ、その後無人島で一人きりの生活を送る。
孤独に震えながらも、人と接触する恐怖も襲い来る最悪の板挟みの中で。
俺は彼の様に"サトラレ"ではない。
が、隣にいる彼女からしてみれば大差はないのかもしれない。
覚る側と、覚られる側。
心・思考を読み取られることで、少しでも恐怖を覚えたことはあるの?
さとりが言いたいことは、つまりそういうことなのだろう。
なんというか、まぁ…………。
「愚問、ってやつなのかな?」
「え?」
自然に浮かび上がってきたのは、その言葉である。
「だって、言うよりも前に"見る"方が早いんじゃないかな?」
「…………たしかに"見てる"わ。
……けど、それでも不安になることがあるの」
「不安?」
さとりは続ける。
「時たまにいるの……"無意識"の内に自分の心を偽り、
自分にすら自分の本当の気持ちを隠す人が………」
「自分を、偽る……」
「心を読む私が言っていいことじゃないと思うけど、
本心が見えないのは、少し怖いの…………」
俺が"無意識"の内に、自分自身に嘘をついて、
本当の気持ちを隠しているのではないか。
「そうだとしたら、私は貴方に無理を強いていることに………」
「はい、そこまで」
更に陰鬱な影が纏わり付こうとしていた彼女の肩を抱き寄せ、
暗い色の言葉を紡ぐをやめさせる。
そう、さっきも言ったはずだ。愚問、だと。
「俺が言いたかったのは、そんなことないってこと」
たしかに、最初こそは戸惑ったこともあった。
「そして、これも嘘なんかじゃない本当の気持ちだから」
けれど、それを嫌だと感じたことは無かった。
「何より、さとりならそれが一番わかると思うし」
自分でも不思議に思うが、それが事実なのだ。
「だから、気にしないで。俺は気にしてないから」
ひとまずは彼女を安心させるため。だが、紛れもない本心を告げる。
"無意識"というものを自覚できるわけではないが、
俺自身が感じることができる範囲に、さとりに対する暗い感情は一切ない。
それだけは、絶対に揺るがない事実だ。
「………やっぱり、優しいのね。貴方は」
「さとりが喜んでくれるのなら、いくらでも優しくなってみせるさ」
「……それはちょっと、クサいわ」
「う……やっぱり?」
表れたのは苦笑と、すぐ後にクスクスとした笑い。
うん、最後にはこうやって微笑みあっている。
そうあることができるなら、途中はそこまで重要じゃないよね。
今のさとりの笑顔を見ているだけで、そう確信できる。
サトリ、サトラレ。
心を読んで、心を読まれて。
それでも笑いあえるなら、何も問題なんてない。
同じ場所に二人がいて、幸せと共に笑うことができるなら。
それだけで、十分だと思うから。
──────────────────────
ふぅ、と一陣の風が通り、辺りに春の色を巻き上げる。
少しずつ暖かくなってきた日差しと共に、
それらは冬の終わりをこうして伝えに来たのだろう。
「もしかしたら、こっちにも春を告げる妖精が
まだ残っているのかもしれないわね」
「だとしたら、日本はもっと愉快だろうね」
非現実はすべて画面や紙面を超えた先にある。
そうなった今の世の中では、妖精などというものは
子供に聞かせるお伽噺か、本や映画などの創作物でしか語られない。
実際、日常会話で「妖精が…」なんて切り出した瞬間、
よほどの会話で無い限り、自分に対する周囲の認識が変わってしまうだろう。
当たり前だ。"非現実は存在しない"。
それが「こっち」の常識だからだ。
「そう考えると、少し寂しいものね。こちらは」
「まぁ、"幻想"を認めなくなった結果がこういう形になったのかな。
だから幻想郷があるわけなんでしょ?」
「……そうなるのかしら?」
何の変哲もない会話というには、少々突飛な内容のそれを交わしつつ、
俺たちはある場所へと向かい歩いている。
場所は? と聞かれれば、近くの河川敷へと。
何をしに? と聞かれれば、ただの花見に行くためである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
きっかけは、本当に些細なことで。
時を遡ることほんのちょっと。
洗濯を干し終えたさとりが窓を閉めようとした時、
うららかな日の中、吹き抜けた一陣の風が運んできたものが一つ。
「………ん?」
自身の名が冠せられた色を鮮やかに纏いながら現れたそれは、
風と共に舞い踊るかの如く目の前を漂った後、俺の肩にふわりと止まった。
小指の爪ほどの花弁。桜の花だった。
そうか、もうそんな季節になっていたんだなぁ。
「あら、どこから来たのかしら?」
「風向きからすると、多分あっちの河川敷の方からかな?」
言いながら俺は窓から上半身を乗り出し、河川敷がある方向を見据える。
視線の先には民家が建ち並ぶ中、僅かな合間から桜色が揺らいでいるのが見えた。
それなりに外出しているつもりではあるが、
花の咲き具合を気にしながら歩くことなんてまず無い。
まして、河川敷の方の道はあまり利用しない。
気がついてみたら、既に風に飛ばされてくるほど開花していたようだ。
「ここから見えるってことは、大分咲いてるってことだよなぁ」
「本当ね、あんな遠いのに」
いつの間にやら同じように桜を臨んでいたさとり。
一瞬ではあったが、ほんの少しだけ驚いてしまったことは伏せておくとしよう。
「ダメよ。あんな可愛い表情、忘れるわけにいかないもの♪」
………だそうです。
また一つ、敵わない種ができてしまったようだ。
「けど、ここからじゃ全然見えないわね」
「まぁそれなりに離れてるしねぇ」
ここからも見ることはできるが、枝先が揺れているのを微かに確認するのがやっとである。
これだけの距離で確認できるほどなのだから、さぞや見事に咲き誇っているのだろう。
できることなら、間近で眺めてみたいものだが……。
「……って、そうか。見に行けばいいのか」
唐突に思い出したある事柄。
そう、日本には"花見"という古来からの伝統行事があったのだった。
その言葉を発端として、突然ではあるが花見に行くことが決まったというわけだ。
幸いにも時間はまだ10時を回ったところ。今から支度をしてもお昼には十分に間に合う。
そうして支度を終えたのが、ほんの30分ほど前のことだったりする。
お弁当を手提げかばんに入れ、外行きの服に着替えて外出。
途中の自販機で飲み物を買い、現在に至るというわけだ。
そうこうして歩いている内に、景色にはちらほらと桜花が春の風に乗り、
ハラハラと散っていく光景が映る様になっていた。
たしか、もうそろそろ住宅街を抜けると思ったけど……。
少しあやふやな記憶に意識を巡らせていると、
いつの間にか路地を抜け、開けた場所へと出ていた。
目の前に広がるのは割と大きな河川。
水面は暖かくなってきた日差しを跳ね返し、控えめではあるが小刻みに輝いていた。
だが何より目を奪うのは、その岸を彩る木々。
春の到来を視覚に強く訴えかけてくる鮮やかな色。
舞い散りながらも尚、荘厳さと美しさを誇る姿。
日本の春の象徴、桜である。
「……綺麗」
「……そうだね」
互いに出てきた言葉は、心の奥底から出てきたそれだけだったと思う。
それだけ交わし、さとりと共に見上げながらしばしの間見とれる。
こうやって桜をゆっくりと眺めることなど最近は無かった気がする。
ましてや、俺はまだ世間的にいえば若造である。
学生生活を送る中で、周囲の花に気を向けることなんてまず無かった。
今にして思えば、少し勿体ないことをしていたかもしれないかな。
「………けど、ここで立ちっぱなしというのも少し変じゃないかしら?」
「っと、そうだったね。
それじゃあ何処か良さそうな場所を探そうか」
さとりに声をかけられ、我に戻る。
人通りの少ない場所とはいえ、ずっと道に立ち尽くしていては
交通の邪魔であるし、何より彼女だって立ち続けでは疲れてしまうだろう。
俺だってそれは勘弁願いたい。
ということで、桜並木を歩くことしばらく。
河川敷内に桜の木と隣り合う形で設置されている簡素なベンチを見つけた。
道側からも見えにくい位置で、人の気配もない静かな場所という破格の立地条件。
さとりも二つ返事で了承してくれたため、そこに腰を落ち着けることにした。
「ふぅ……しかし、見事に咲いてるなぁ」
「えぇ、それもこんな沢山なんて。本当に綺麗………」
荷物を置き座ってから、改めて川沿いの桜並木を眺める俺とさとり。
穏やかなせせらぎと、雲ひとつない晴天から降り注ぐ陽光。
麗らかな日の暖かさを帯びた春風と、それと共に揺れる枝と舞い踊る花弁。
耳が、肌が、目が、春の訪れをしみじみと感じ、俺の"心"にそれをありのまま伝えてきてくれる。
「…………えい」
と、四季を感じながらの緩やかなひと時を過ごしていると、
突如俺の頬を何かが突いてきたようだ。
振り向き確認すれば、それは白く綺麗な人差し指。
それを向けてくる人物は、まず間違いなく彼女しかいない。
「○○、もう目を細くして……着いたそばから寝るつもり?」
「あ、いやいや、そんなことないって」
「………もう」
少しだけ顔を膨らませながら聞いてきたさとり。
決して眠るつもりはなかったが、こうも条件が良いとついつい睡魔というものは出てきてしまうもの。
急いで取り繕うと、うっすらと呆れるような表情で、彼女は一つ息を吐いた。
きゅうぅ…
ふと聞こえてきたのは、可愛らしい虫の鳴き声。
まぁ虫は虫でも、お腹の中に住んでいる方の虫なのだが。
けど、どうにも自分の腹から聞こえてきた感覚では無かったような……。
そうなると、導かれるのは一つの答え。
あれだけ可愛らしい音だったのだ。その虫の飼い主だって相当可愛いに違いない。
ならば、思い当たるのは一人しかいないわけだが………。
「…えっと、そろそろお昼にしない?」
「…………そ、そうね」
どうにもビンゴだったようだ。
問いかけに対するさとりの反応は、頬を少しばかり紅潮させながら僅かに声を詰まらせるという
なんとも分かりやす過ぎる反応だったからだ。
けど、こうした彼女の恥ずかしそうな表情も、
俺にとっては大量破壊兵器の如く破壊力の高いものなのだ。主に理性にとって。
なんてことを考えながらさとりの顔を眺めていると、
いつのまにかジト目な上目使いで睨まれていた。
頬は依然赤い為、破壊力も健在のまま。
「………また何か、変なことを考えてるでしょ?」
「いやぁ、さとりは可愛いなぁ ってね」
「ま、またそういう…」
「はは、ごめんごめん」
膨れるさとりに、からかいながら返す俺。
第三の目が使えなくとも、もう俺の心は大体彼女に読まれるようだ。
もしかしたら、表情にすごい出てたのかもしれないけど。
…………変な顔じゃなかったかな?
「まったく………それより、お昼にするんでしょう?」
「っと、そうだったね」
言い終えて、俺たちは持ってきた弁当のタッパーを広げ始める。
中身はおにぎりをいくつかと卵焼きなどのおかずといった簡単なもの。
普段なら物足りなく感じてしまう中身かもしれないが、
暖かい陽気と綺麗な桜がある今は、その雰囲気をおかずに食が進みそうである。
食は目でも楽しむものとも言うし、こういうのもありだろう。
そんなことを考えている内に、ベンチの上に昼食が広げ終わった。
途中で買ったお茶を傍らに置き、ひとまずは二人とも手を合わせる。
「さてと、それじゃ……」
「えぇ、いただきましょう」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
空になったタッパーを片付け終わり、程よい満腹感と共に再び桜を見上げる。
ここに着いた時と同じく、そよ風に小さく揺れる美しい枝先。
そこから飛び立つ薄色の花びらは、吹き上げられるままに何処かへと飛ばされていく。
あるものは地面に。あるものは川面に。あるものはさらに遠くに。
きっと今朝の花びらのように、色々な人たちに春を伝えに行くのだろう。
もしかしたら幻想郷にいる春を告げる妖精の仕事は、
こっちでは彼らが代理で行っているのかもしれない。
「ねぇ、今度は何を考えているの?」
感慨にふけっていると、覘き込むようにさとりが尋ねてくる。
あぁそうだった。いつもなら彼女が心を読んで会話の切り口になるが、
そのための"目"は外では出せないんだった。
「あぁ、ごめん。ただ、もう春なんだなぁ って思ってただけだよ」
なんだかつい最近まで雪と寒さに耐えていたかと思えば、
あっという間に季節が移り変わっていた気がする。
月日が経つのはこうまで早いものだっただろうか。
「そういえば、もうあれからかなり経つのね」
「……あれから?」
「私たちが出会ってからよ」
「…そうか、冬の初め頃だったからね」
あの時のことは今でも鮮明に思い出せる。
夕方の冷えた風の中帰宅してみれば、部屋の中に見ず知らずの少女がぽつねんといるのだから。
後になって八雲さんからの電話により、
原因は"紫という人の寝つきが悪いから"というどうしようもないものだと知った。
それからは貧相な男子大学生と心を読む妖怪少女の同棲生活。
最初は互いにギクシャクしたような感じであったが、
日が経つにつれ心を開きあい、次には心惹かれるようになり。
その……恋人になって。
そっか。これだけ色々なことが起きていれば、時間なんてどんどん過ぎていくか。
「早いものね、月日が経つのは」
「そりゃあ、楽しい時間は早く進んじゃうからね」
「……ふふっ、確かにそうね」
互いに見つめ、微笑みあう。
俺は心を読むことはできないけど、そうでなくても今はわかる。
多分彼女も、同じことを考えている。
一緒に過ごすようになって、本当によかった って。
「あら、お邪魔だったかしら?」
唐突にかけられたのは、妙齢の女性の声。
途端にこみあげる恥ずかしさと共に、顔の熱が上がりながらも声の方向へ振り向く。
そこにいたのは、不思議な雰囲気のある女性だった。
艶やかな着物に身を包み、豊かな黄金色の髪の上には変わった帽子。
高級そうな日傘と、その下から覘く色香の漂う顔立ち。
しかしなにより、変な違和感を覚える。
目の前にいるのは一人の女性であるはずなのに、
猛獣を前にしたかの如く、心の奥底が何かに軽く握られているかのような感覚。
「あ、貴女は?」
突然なこと以上に、この女性の存在が動揺を誘うが、
なんとか一言だけ言葉をひねり出すことができた。
「あら失礼、申し遅れましたわ」
恭しく、美しく、無駄なく行われた礼であるのに、
俺の心が落ち着きを取り戻すようなことは一切無かった。
「はじめまして。私の名は八雲 紫。
幻想郷の管理者をやっているものです」
春はあらゆるものの始まりの季節であり、出会いの季節。
しかし、別の面ではこうもある。
冬の終わりと、別れの季節とも。
──────────────────────
「……これで、全部…ね」
茶色い厚紙の箱に詰め込んだのは、こちらで買った様々な衣類。
今私が着ているのは、こちらに飛ばされたときに身に着けていた向こうの服。
最近は全然着ていなかったが、洗濯したまま仕舞っていたので何も問題は無い。
一つだけ違うのは、小さな銀の葉が首に下げられていること。
聖なる夜に彼からもらった、大切なチョーカーが。
最後に箱へ軽い封をし、これで荷造りが終わる。
幻想郷へと帰るための、こちらを旅立つ荷支度が。
「…忘れ物は、もうないよね?」
「えぇ、大丈夫…」
黄昏をとうに回った部屋の中、普段と大して変わらないはずの会話が
全くと言っていいほど弾まない。
いつものように優しく微笑んでいる○○だが、
その表情には若干の愁いの影が見え隠れしている。
-来るべき時、か……わかってはいたけど…………-
第三の目には、事態を受けとめようと努める
心の葛藤が鮮明に映し出されていた。
私もわかってはいた。
だが、心ではそれを忘却の彼方へと追いやろうとしていた。
一言でいえば、駄々をこねる子供と同じような、我が儘。
飛ばされた異郷の地で、離れたくないものに出会ってしまったから。
だけど、それが許されないことだってわかっていた。
短い間だけの、儚いものだってわかっていた。
私には居るべき場所がある。
幻想の隔離された地。太陽からかけ離れた地底。
たとえ現実を引き離しても、それはただの時間稼ぎでしかない。
そして今、その時が来たにすぎない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
二日前の晴れた日に、歯車は動き出した。
一かけらの前触れすら見せず、彼女は突然に表れた。
幻想郷を統べるもの。一人一種族である最強の妖怪。
神隠しの主犯。幻想の境界。
八雲 紫。
私がこっちへ飛ばされることとなった元凶。
その本人が、今私たちの目の前にいる。
「八雲…紫さん!?」
「えぇ、私が八雲紫。多分、藍から話は聞いてるでしょう?」
「えっと……はい」
-聞いてるって…つまり、この人の寝相でさとりが飛ばされてきたことだよなぁ……-
人通りから見えないように○○の後ろに隠れ、
上着の内側に隠すようにそっと出した"目"に伝わってきた彼の思念。
そういえばそうだった。
今更になって思い出したが、私が飛ばされたのは
このスキマ妖怪の寝つきが悪かったからという、どうしようもないものだったんだ。
「ごめんなさいね。どうにもうなされて、
そしたら無意識に境界いじくっちゃってて♪」
「は、はぁ……」
きゃ♪ などと言っているかのような、いかにも若い仕草をする目の前の大妖怪。
遠いところから「年を考えろ」とでも言う野次が聞こえてきそうだ。
-なんていうか……一気に砕けたというか、所帯じみたというか…………
それに、可愛らしい仕草が何かこぅ、アレだしなぁ……………-
全く持って○○に同意である。
先程まであった謎めいた雰囲気は何処へやら。
今はただのキツイ女にしか見えない。
というか、○○も結構きついこと考えるのね……。
「あら?何か言いたそうだけど?」
「い、いえ何も」
何かしらに気付いたのだろうか。
彼女は曇り一つない笑顔を私達へと向けてくる。
その向こう側に見えたのは、なんとも淀んだ感情だったが。
本能的に感じた危機に対してだろう。彼はすかさず否定の意を返した。
「と、まぁ早速だけど本題に移るわ」
ふっと表情を切り替え、先程までの少しだけ緩んだ空気は刹那に霧散する。
同時に、私も○○も体が強張ったのが見えた。
「貴女を迎えに来たわ、古明地さとり」
「………でしょうね。わざわざ外の世界まで出向いてくるんですもの」
-わかっているなら話は早いわね。
もっとも、本当にわかっているならだけれど-
筒抜けている心の声は、軽く見下してくるような声色。
何がわかっているかはさておき、原因は誰だと言いたくもなる。
言ったところで、軽く流され時間の無駄にしかならないだろうが。
「旧地獄の管理も、そろそろ限界がきてるわ。
悪いけど、うちの式が手伝うにも限度があるもの」
「…あの子たちは?」
「貴女のペット達は元気そのものよ。
仕事に追われっぱなしなのを除けば、だけれど」
彼女が言いたいのは、私には帰らなければならない理由があるということ。
旧地獄を治める、地霊殿の主としての務め。
それが、遠い昔に交わした地上との契約。
忘れたつもりなどない。
大切な家族を心配にならないものが、この世のどこにいようか。
だが、素直に帰ろうと思う気持ちになれない私が、私の中にいるのも事実で。
「とはいえ、今すぐは貴女も無理でしょうから………
そうね、明日の夜にもう一度来るわ。
それまでに、帰り支度を済ませていて頂戴」
矢継ぎ早に、さも夕飯の献立をリクエストするかの様に、
あっけらかんとした動作と共に、紫は言い捨てた。
何も思うことなど無い。さっさと仕事を片づけたい。
"2つ"が捉えた情報からはそのように。
-さて、時間までどうやって暇をつぶしたものかしら?-
"1つ"が捉えた情報からはそのように。
「それじゃ、私は一旦これで」
日傘を翻し、空いた方の手に持った扇子で虚空を一閃。
その軌跡をなぞるように、現れたのは黒い切れ目。
やがて大きな楕円状に開いたそれに彼女は身を放り込ませ、
一瞬の間をおいてから裂け目は閉じ、跡形も残らず消えていった。
まるで嵐のように過ぎ去っていった、どうしようもない元凶。
残していったものは、少なからずも良いものは存在しない。
「……さとり」
掛けられた彼の声は、いつもよりトーンが低い。
「…とりあえず、部屋に戻ろうか」
「………えぇ」
暖かかった日も傾き始め、吹き抜ける風も少し冷めてきた。
"目"を再び仕舞い、荷物をまとめた○○の後ろを歩く。
明日の夜。それが、私が幻想郷へと帰る日取り。
つまり、こちらを離れる時でもある。
前触れもなく告げられたそれはが指すのは、
喜ぶべき凱旋か、悲しむべき離別か。
今の私には、はっきり言って前者を選ぶことはできない。
けど、私にはやるべき義務があちらにあることも事実。
長い長い間守り続けてきた、地底での生活。
大事な妹と慕ってくれているペット達も、ずっと私の帰りを待っている筈。
答えはすでに出ている。
迷う余地など、微塵も与えられてない。
ただ一つだけ、愚痴にしかならないものを零すとするなら……。
やりきれない
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
夜の帳はすっかりと下り、いつものように私たちは床に就いた。
ただ、背中を向けあっていることだけを除いて。
帰ってきてからというもの、会話らしい会話は一切無い。
しかし、彼の心は絶え間なく同じことを考えていた。
-さとりは帰らなきゃならない。俺が頼まれたのは、春まで彼女の身を預かることだけ-
-さとりにはやるべきことがある。俺なんかが口を挟んでいいことじゃない-
-これは仕方のないこと。そして、最初から決まっていたこと-
何度も何度も繰り返される思念は、何かに言い聞かせるように続いていた。
恐らくは彼の奥底にある感情を、理性の鎖で縛りつけるために。
彼も私も同じだった。
受け入れなければならない現実。
いつまでも続くはずがないと知っていた新しい幸せ。
彼も私も、心の中で涙を浮かべていた。
何かに耐えきれなくなった私は、向き直ってから両手を彼の体へ回す。
○○にしがみついていないと、何かが崩れてしまう。
そんな気がしてならないから。
少しだけ間をおいて、彼も寝返りを打ち互いに向き合う形となる。
そして、○○の両手がそっと伸ばされ、ギュッと私を包み込む。
直接触れた"目"から伝わってくるのは、
もはや何色とも取れないほどグチャグチャに混ざった暗い色。
エスの暴走と、それを抑える超自我の葛藤模様。
言葉の形を読み取ることなど、何一つできないほど混乱した彼の心。
多分、私もこうなっているんだろう。
ちょっとのことで崩れ去りそうな儚い心を、
私たちは互いの腕に込めた想いで、それを何とか支える。
春先にもかかわらず、冷え込む夜だった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
桜を見に行った日から迎えた2回目の日没。
荷造りの終わった荷物から視線を外し、傍らに立っている青年の方へと向き直る。
とても暖かく、とても優しく、とても大切な存在。
けれど、冬の間だけしか許されなかった関係。
「……悪いわね、こんなに服を貰っていくことになっちゃって」
「はは、構わないさ。さとりのために買ったものなんだから、
さとりが持っているのが当然だよ」
降り積もった沈黙を振り払おうと、簡単な話を切り出す。
答えてくれた彼の表情には、雀の涙ほどの笑みがあった。
「はいは~い、こんばんは~」
突如現れた空間の裂け目と、そこから上半身を生やしている胡散臭い女。
気の抜け切った挨拶と共に、ニヤついた顔が癪に障る。
そして、彼女が訪れたということは、とうとう時間が訪れたということ。
「……こんばんは紫さん」
「はいどうも。…さてと、それが手荷物かしら?」
「………えぇ」
「じゃあ、これだけは先に持って行くわ」
言いながら手に持った扇子をくいと下へ向けると、
床に置いてあった箱は漆黒の空間へと沈んで行った。
「よしっと。それじゃあ、外で待ってるから
支度が済んだら出てきてちょうだい」
「……………わかったわ」
-ま、こんな時くらいは待つべきよね-
向けられたのは一欠けの情けか、それともただ雰囲気に合わせただけか。
全てを読み切るより早く、紫は再びスキマへと潜る。
「………もう、行く時間だね」
「……そうみたい」
-こんなんじゃ駄目だな……せめて、笑顔で送り出さなきゃ-
「大丈夫、無理はしないで」
「無理なんかじゃないさ。
むしろ、こうしないと後で後悔しそうだからだよ」
そう言って彼は、口元を緩ませ笑顔を形作る。
ただ、いつも優しい○○の眼差しだけは、どこか悲しそうな色を湛えていた。
「そんな暗い顔をしないで。
悲しい顔で別れたら、いつまで経っても悲しいままになっちゃうよ」
-そうするしかない。そう思うしかないんだ……-
「だから、さ……」
-こんなことを言うのは、我が儘に他ならないだろうな……-
「………やっぱり、無理してるじゃない」
「…はは、やっぱ分かっちゃうか」
困った顔に苦笑を浮かべながら、○○は頭を掻く。
第三の目に映るのは、彼の心から来る痛々しいほどの必死さ。
-できる限り、彼女を悲しませたくない-
-できる限り、彼女に笑っていてほしい-
-できる限り、彼女に幸せでいてほしい-
秘められていたのは、全て私に対し向けられた想い。
自分より何より優先して、私なんかを心配している。
最後の最後まで、どこまでも優しい○○の心。
「………なんで……そう………」
言葉にならない言葉をもらしながら、私の中の何かが支えを失ったのを感じる。
突き動かされる体を支配しているのは、意識を超えたその奥にある感情。
飛び込んだ先は、やや細身な青年の胸元。
閉じた瞼からは、とめどなく熱いものがあふれてくる。
声らしい声はすでになく、出ていたのはしゃくりあげるような音だけ。
ギュッと彼の服を握った両手は、小刻みに震えることをやめない。
小さな部屋に響く、嗚咽の混ざった悲しげな泣き声。
それを上げている私の背中には、いつの間にか何かが回されていた。
時折軽く叩きながら、私の背中を優しくさする"2つ"のもの。
それに気付いたのは、私の涙が収まってきた時だった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「来たわね」
玄関を抜け、少しだけ歩いた先に紫は待っていた。
小洒落た日傘は今は閉じられ、彼女の手を支える役を担っている。
もう片方の手では、扇子を持って肩のあたりをポンポンと叩いていた。
少しだけ瞳が潤んだまま、私は質素な鉄階段を下りる。
その後に続いて、○○も私と並び、紫の前で立ち止まる。
「それじゃ、スリスリスリ~ット♪」
波打つような動作で、虚空に向かって扇子を縦に走らせる紫。
同時に出てきたふざけた声は、平時なら呆れるだけであろうが、
今は私たちの神経を逆撫でさせていくだけである。
続いて現れたのは、昨日と合わせ何度目かになる漆黒のクレバス。
恐らく、これを抜けた向こうは私の居た幻想の世界。
それはつまり、"こちら"を去るために通る最後の門となる。
「分かっていると思うけど、これが本当の最後になるわ。
何かあるなら、ちゃんと済ませた方が良いわよ」
-まぁ、こうなった原因でもあるわけだし…
それなりに配慮しないと、ねぇ……-
届いてきたのは、誰に言うでもなく心でつぶやいたスキマ妖怪の声。
胡散臭い笑みの向こうに見えた一面に、先程の苛立ちは少しだけ収まった。
ただ、それ以上に私の中に響いていたのは、彼女が口に出した言葉の一部。
これが、本当の最後。
「………さとり」
掛けられた声に振り向けば、途端に視界を大きな何かが覆いかぶさる。
暖かくて、ちょっとゴツゴツしてて、どこか安心できるもの。
「君にはやることがある。幻想郷の地底を治める大事な仕事が。
君にしかできない、とても大事な仕事が」
包み込むように、彼は両手をそっと私の背に伸ばす。
「それに、さとりの帰りを待っている子達がいる。
その子たちをこれ以上心配させるわけにはいかないよ」
私の耳元に囁くように、けれど痛いほどに強く響く言葉。
「俺にも、多分やるべきことがあると思う。
そして、俺はそれを頑張っていく」
-だから……-
「俺の心配はいらないから、安心して幻想郷へ帰るんだ」
-離れるのは寂しいし悲しい。けど……-
「俺はさとりの幸せを願い続ける。
だから、君は為すべきことを為すんだ」
-……大好きだ、さとり-
キュッと押しつけられるように、包んでいる腕へ力がこもる。
心にあるままをそのまま言葉とした○○の声は、
もはや自虐的とまで思えるほどの満ち満ちた優しさ。
自分の幸せを投げ捨て、他人のために進んで贄となる情。
それは時として、向けられた側が辛く感じるものでもあるのに。
「…………ぎる」
私の心が突き動かすまま、彼の胸で言の葉を紡ぎ出す。
「貴方は、優しすぎる」
「…え?」
少しだけ顔を離して、○○の顔を見上げるようにして続ける。
「何もかも自分より、他の人のために犠牲になろうとして…」
もしかすれば、彼の"意思"が"無意識"にそうしているのだろう。
「もう少しだけ、自分に欲を出して…。
もう少しだけ、自分の幸せを求めて」
口を衝いて出てきたのは忠告か、はたまたお願いか。
「だから、貴方こそ幸せになって……」
茶と黒の混ざった"2つ"を見つめながら、
それに近づくように私は少しだけ背伸びをする。
そっと目を閉じ、軽く触れるだけの口づけ。
私たちが初めて交わしたのと同じような、けれど大きく違うもの。
伝えあう気持ちは、好きという気持ちと、私たちの願い。
-互いが離れようとも、互いが幸せでありますように-
閉じられた瞼から零れ落ちた雫は、一筋の川を私の頬に作りだす。
夜風に当てられたそれは、頬の上であっという間に冷たくなった。
どれほどの時間をそうしていたのだろうか。
1分か、10分か、もしくはもっとかもしれない。
離れてしまったら、もう二度と触れることはできない。
その思いが、私たちを捕らえていたのだろうか。
やがて、どちらからともなく離れた二人。
互いの背へと回されていた腕も、今はもう触れていない。
否、もう触れることはできない。
「そろそろ時間ね」
後ろから掛けられた声は、無情な時を告げる鐘。
振り返り一歩、私は漆黒へと足を踏み出す。
第三の目へと流れ込んでくる雑音の様な声は、昨日見た色と同じ。
何色にもとれないほどグチャグチャに混ざった暗い色。
開かれた幻想への扉への歩みは止めない。
止めてしまったら、もうどうなるか分からない。
視界をゆがませる熱い何かが、とめどなく溢れて頬を濡らす。
こんな姿を○○に見せたら、彼は笑顔を向けてくれないだろう。
目と鼻の先には紫のスキマ。
底に身を投じれば、元の生活が待っている。
そして、彼にはもう会えなくなる。
唐突に私の心が描いた思いは、歩みを止めさせる。
これが最後であるならば、彼が望む形にしないと。
-できる限り、彼女を悲しませたくない-
-できる限り、彼女に笑っていてほしい-
-できる限り、彼女に幸せでいてほしい-
○○は自分を押し殺してまで、私を笑顔で送ろうとしている。
なら私も、笑顔で行かなければならない。
指の背で目元を強引に拭い、涙を全て振り払う。
耐えるために固まった顔の筋肉を、強引に笑っている形に作り変えて振り向く。
長い時間は保てない。けれど、せめてこれだけは彼に伝えたい。
精一杯作った笑みで見た彼は、私に向かって微笑んでいた。
眼からはとめどなく水滴が零れ、血が出そうなほど強く握られたこぶし以外は。
「………さようなら、さとり。愛してる」
崩れ始めた頬笑みで、彼は必死に言葉を紡ぐ。
「…………さようなら、○○。私も愛してる」
そんな○○の姿も、眼前の水面が大きく歪ませる。
限界が近い表情へ、最後の力を注ぎこみ○○へ伝える。
「どうか、幸、せに、なって………………」
最後の方は、言葉になっていたかどうかすらあやしい。
そして私は、繕いきれなくなった感情を隠すように、
幻想へとつながる裂け目へと身を投じる。
首元で翻った銀色の葉は、月明かりを鈍く反射させていた。
その直前に伝わってきた、ノイズ交じりの一つの思念。
-さとり……どうか、幸せに…………-
それは最後まで優しすぎた、一人の青年の"心"だった。
──────────────────────
薄暗がりの中に差し込む一筋の光は、
煌めく直線を描きながらまっすぐに俺の瞼へと舞い降りてくる。
それが指し示すものは、この場所が太陽光の照射範囲に入ったことであり、
古くからの分かりやすい言い方でいえば、朝になったということである。
「ん……はぁ…………」
特に何があるわけでもない、ごくごくありふれた起床風景。
だが、少し前のこの部屋とは決定的に違うことが一つ。
それは、ただのシングルベッドがやけに広く感じるということ。
一般の男子大学生より少し大きい体型で広く感じることができるというのだから、
それだけ聞けば良いことのように聞こえる。
ただ、そこに虚しさと寂しさが残されている場合は、その限りではないだろう。
午前7時。今日も朝一から講義が始まる。
気分は優れないがとりあえず起き上がり、意味もなく部屋を見回す。
視界に広がるのは、"無"が支配する空間。
音もなく、色もなく、熱もなく、何も感じられないただの箱。
少し前までは、ささやかな安らぎと暖かみがあった筈なのに。
ほんの6週間ほど前、さとりが帰る前までは。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
深淵のごとき闇が広がる、縦に開かれた楕円。
紫さんが言うには、彼女の能力が作り出した空間の境界というものらしい。
そこへと彼女は、身を投げいれた。
何処までも優しく、何よりも儚いような、一人の少女。
短い間だったけど、互いの気持ちを知ることができた人。
古明地さとり。
幻想となった地ですら疎まれ、地底の忘れ去られた地獄で暮らす者。
人の心を読む"覚り"であり、誰からも忌み嫌われる妖怪。
彼女はそう言ったが、そんな要素など俺は露ほども感じなかった。
心を読んで悪戯程度にからかうことはあっても、傷つけたり拒否する様なことは絶対にしない。
それはつまり、心を読んで尚相手を許容し、思いやることができる優しい心を持っているということ。
常人には考えられないほどの優しさに満ちた心でなければ、そんなことはできない。
そんな優しさに気付いた時からだろう。
俺が彼女に惹かれていたのは。
だがそれも、限られた間しか許されないものだった。
"春が来るまで、彼女の身を預かる"
それが俺に頼まれた内容。
つまり冬が終わりを告げた時、さとりは幻想郷へ帰るということ。
出会ったすぐにそのことは知っていたのに、いつしか忘れていようとしていた。
幸せな時間であればこそ、彼らは駿馬の如く駆け抜けていく。
忘れまいとしていても、幸せな時間の中で彼らは静かに駆けている。
そしてそれに気がつく時は、いつだって全ての時間が浪費しつくされた後である。
「さて、○○と言ったかしら?」
掛けられた声に若干の間を置いて、表情を繕い直してから首を向ける。
声の主は、先程から離れてこちらを窺っていた紫さんだった。
「貴方には本当に感謝しているわ。正直こんなケース、今まで無かったから」
「……はぁ…………そう、ですか」
「御礼となるかはわからないけど、貴方に預けたお金はそのまま好きにしてもらって構わないわ」
「………えと…有難う、ございます」
「こちらこそ、本当にありがとう」
そう言いながら軽く下げられた紫さんの頭に向かって、
俺は簡単な返事しか返すことができない。
正直に言ってしまえば、もうどうだって良かった。
大金をそのままもらうことができたようだが、
俺の心の中に、それで喜んでいる俺はいなかった。
あったのは、大きく欠損した部分だけ。
「じゃあ、私はこれで………」
向けられた声に反射で顔を向けてみれば、
開かれた境界へと歩んでいる紫さんの姿があった。
「それでは、どうかお幸せに」
それだけを言い捨てるかのようにして、彼女もまた幻想郷へと帰っていった。
後に残されたのは、抜け殻のようになった俺の心と、肌寒い風だけだった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
唐突に思い出される6週間前の夜のこと。
かぶりを振って、意識を現実へと引き戻す。
どうせこのまま思い出していても、ただただ虚しくなるだけだ。
だというのに、冬の前までの生活に戻っただけだと頭に言い聞かせても、
理性以外の"俺"が違和感をぶつけてくる。
たったの5ヵ月位だというのに。
それが俺の中にすっかりと根を張ってしまっていて。
ふっとそれが無くなってしまったら、全てが抜けたようになってしまった。
ギリギリのラインで、理性が最低限の生活リズムと大学での学業を保たせてはいるが、
正直言ってこれがあとどれだけ続くか自信がない。
朝起きて、学校へ行って、帰って課題をして、風呂に入って寝る。
単純な作業を延々と続けていくだけの、簡素なプログラムを施された様な生活。
今時なら、機械の方がまだ味気のある動きをしてくれるだろう。
自分ではできるだけ気丈に振舞っていたつもりだったが、
3日もしないうちに友人に心配の言葉を掛けられた。
全てを話すわけにはいかないが、それとない内容を彼らに告げたら、
皆して色々とアドバイスをくれた。
一人の友人はこう言った。
「カラオケでも行って歌いまくれば気が晴れるさ」
連れられるまま、何人かと一緒に長いこと歌った。
流行りの歌や、懐かしい歌。明るい歌や、叙情的な歌。
今までにないほど、沢山歌ったつもりだった。
共に来てくれた友人には悪いが、何も変わらなかった。
一人の友人はこう言った。
「気分を変えるのに模様替えとか結構いいよ」
言われるままにアドバイスを信じ、模様替えをしようと試みた。
けど部屋に戻って物に触るごとに、さとりとの思い出が浮かび上がってきた。
結局そのまま、何もせずにベッドに入った。
一人の友人はこう言った。
「バイクはいいよ、走ってる間はメチャクチャ気持ちいいし」
勧められるまま2週間ほどで免許を取り、彼とツーリングに行った。
幸い紫さんから頂いたお金があったため、金銭では困らなかった点は救いだろう。
ただバイクに乗っている間は少しだけ気が晴れたが、
降りた瞬間に結局また虚無感が襲ってくるだけだった。
そんな感じで色々なことをして"心"を騙そうとした。
そして、そのことごとくが俺を満たすことはなかった。
失った部分を補おうと足掻けば足掻くほど、俺の心は虚しさを訴えてくる。
だが何もしなければ、今度は寂しさが俺を押しつぶそうと迫ってくる。
そんなことの繰り返す行為の名は、自分でもわかっている。
悪循環である、と。
あぁ、もしかしたら俺はこのまま精神が擦り切れていってしまうのか。
そうしたら、近いうちに廃人になってしまうかもしれないかな。
最近はふとそんな考えも浮かんでくるようになってきた。
彼女が去り際に言った言葉。
-幸せになって-
互いに願った、互いの幸せ。
けど、俺はさとりの願いを叶えることはできないと思う。
夢を追うために選んだ大学という道。
その先に待っているのが夢であり幸せであると信じてきていた。
だが、今の俺にはそれらに色を見出すことができない。
色素の抜け切った世界で、何が幸せであるかの見分けがつかない。
そんな中で、その幸せをどうやって見つけろというのか。
少なくとも、俺はその答えを知らない。
「……………あぁクソ、またか」
口を衝いて出た悪態は、またしても浸ってしまった沈んだ思考に対して。
傍らに置いてある腕時計を見れば、既に7時半を指している。
未だベッドから起き上がっただけだというのに、またこの様である。
手首で額を小突き、我に喝を入れる。
このところ授業でも身が入っていないことが多くなっているというのに、
参加すらしないとなればもはや論外である。
塞ぎこんでいても腹は膨れないし、知識もつかない。
気は進まなくとも、今は支度をして学校に行かねばならない。
そう自分に強く言い聞かせ、気だるさと共に立ち上がる。
これも少し前から続く、毎朝の光景。
自分で言うのもなんだが、なんともひどいものだと思う。
いつものように虚しく呆けて、いつものように頭を叩いて。
そんなことをしながらも、また長い一日が始まりを告げる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
明るさが少し増した宵闇を背に、帰り道は終点を迎えた。
適度な疲れより幾分か多いそれを抱えて、俺は玄関扉をくぐりぬける。
授業の一日が終わった解放感は、もうわからない。
扉を抜けた先にあった安らげる空間は、何処かへ行ってしまった。
出迎えてくれた笑顔と優しい声は、幻想の園へと帰っていった。
「もう、やめてくれ……」
帰宅するたびに現れてくる、瞼の裏の蜃気楼。
それが幸せであった時の光景であるから、尚のこと性質が悪い。
それを映し出している誰とも知れない誰かに、心から頼みかける。
少し前の光景を思い出すたびに、辛さが心を締め付ける。
今は無いことを認識し直す度に、精神は仄暗い色に蝕まれていく。
そしてそれらに気付くたびに、軽い頭痛が俺を悩ませる。
何処へも逃げられない。決して解放されない。
終わりなく続く、拷問の様な幻燈。
サステインペダルを踏み続けたままメチャクチャに鍵盤を叩いたかのような、
いつまでも残響する大音量の不協和音。
それらが俺の中を駆け巡り、ゆっくりと俺の心を滅入らせる。
今日だけで何度したかわからない頭を小突く動作をしながら、
乱暴に郵便受けから配達物を抜き取り、乱雑に靴を脱ぎ捨てる。
空腹は感じているが、食欲は失せている。
気力の抜けた足を引きずりながら、居間に入り荷物を放る。
やることもなく、やりたいこともない今、とりあえず俺はベッドに突っ伏す。
少しでもこの状態が好転するように。
そんな淡い期待を抱きながら。
座卓に投げられた一通の封筒。
それに包まれているのは、悪魔の誘惑が綴られた手紙。
それに俺が気付くのは、もう少しだけ先のこと。
──────────────────────
日の差さない窓辺に佇む一人の少女は、
今日も儚げな雰囲気と共にそこにいる。
地霊殿の主であり、怨霊も恐れ怯む少女。
あたいたちの飼い主、さとり様。
そんなさとり様だが、今は椅子に腰掛け茫然と窓から外を眺めている。
時折首のあたりで手先を動かしながらも、ずっとああやってどれ程経ったのやら。
視線は遠くを望んではいるけど、あの窓の先には岩壁くらいしかなかったと思う。
「…………はぁ」
椅子の肘かけで頬杖をつきながら、何度目になるかわからない溜息が聞こえてくる。
悩ましげとかそういう雰囲気じゃなく、切なさと寂しさが纏わり付いているのが傍から見てもわかる。
暗いとか、物静かとか、籠りがちだとかはよく周りに言われていた。
けど、これはいくらなんでもおかしい。
稀に面倒な仕事が続いた時などに、ああやって窓辺で溜息をついている時は確かにあった。
けど、こうまでずっと憂鬱な空気をまとっていることは一度もなかった。
何よりおかしいのは、こうやってあたいがさとり様のことを「考えている」のに、
それに対して何も言ってこないこと。
まるであたいの"声"なんて耳に入ってないというように。
まぁ正確には、"耳"じゃなくて"目"なんだけれど。
さとり様が帰ってきて、今日で大体一・二カ月ほど過ぎた位だったか。
一人の時間ができると、さとり様はいつもああやっている。
勿論、外の世界から帰ってきてからの習慣だ。
一応、理由は知っている。
一言で言ってしまえば、遠く離れた恋しい人を想っているから。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
○○という、何の変哲もない人間の青年。それがさとり様の思い人。
さとり様が事故で飛ばされた時、偶然出会ったのが始まりらしい。
それを切っ掛けとして、帰れるようになるまで二人で暮らすこととなった。
慣れない生活に知らない外の世界、おまけに年頃の男と一つ屋根の下。
初めて聞いた時は、本当に大丈夫だったのかと何度も思ったよ。
けど、○○はさとり様にとてもよくしてくれたらしい。
さとり様の"能力"を知った上で、だ。
小賢しい思考も、疚しい打算も、"覚り"にはすべてお見通しであるから、
本心に無い行動であればすぐにそれを突かれてしまう。
だが、○○は本心から優しく接してくれたらしい。
-貴女は心を読んだ上で、不快なことをする人じゃない-
-心を読んでなお相手を思いやれるのは、心の強い人にしかできないことだから-
-それだけ心の優しい人が、嫌われるなんておかしい-
自信のことを話したさとり様に対して、彼はこう告げたそうだ。
さとり様に向かって正面からそう言えるなんて、向こうも相当なようだ。
それか、とんでもないくらいにお人よしなのかもしれない。
恐らくそんな彼の言葉を聞き、心に触れたときからだという。
彼に惹かれ始めたのは、と。
その後些細なきっかけを元に、互いの気持ちを知りあうことができたという。
少し離れて気づいた、互いの存在の大きさ。
暖かい両腕と、柔らかな頬笑みと、優しい心。
彼がくれた、私を幸せにしてくれるもの。
そんな話だけ聞かされれば、ただの惚気かと片付けられる。
その方が何百倍も、何千倍も、何万倍もよかった。
だって、それならさとり様が幸せな顔をしてくれるから。
話し終ったさとり様が、辛そうな表情をしていなければ、その方がよかった。
勿論、そんなさとり様を見ていてあたい達が何もしないわけがない。
なんとかして元気になってもらおうと、お空やこいし様と相談したこともあった。
だがそういうときになると、必ずさとり様はこう言ってくる。
-ありがとう。でも大丈夫、心配しないで-
仕事の報告で訪れた時でも、廊下ですれ違った時でも、食事の席を囲んでいる時でも。
みんな同じようにさとり様のことを心配して、みんな同じようにこう返される。
それに対して何か返そうとしても、悲しそうに笑うさとり様の顔を見ると、
途端にあたいの口は言うことを聞いてくれなくなる。
こいし様やお空も、同じみたいだった。
それから二人と話し合った結果、あたい達からは手を出さないことになった。
決め手となったのは、こいし様の言葉だった。
「"過去"にとらわれていたら、"これから"の幸せは掴めない。
けど、"大切な想い"を忘れることなんて、簡単にはできないことなんだよ。
もしそうやって悩んでいる時に「忘れた方がいい」なんて軽々しく他の人に言われたりしたら、
きっと私は余計悩むと思う。それか、もしかしたら怒って暴れるかもしれない。
だって、"忘れたくないほど大切な想い"で悩んでいるのに、
関係無い人からサラッと「忘れた方がいい」なんて言われるの、誰だって嫌だと思うもん。
どれだけその人のことを想ってのことだとしても、結局は横槍みたいにしか見えないから。
今のお姉ちゃんも、きっとそうなんだよ。
だから、お姉ちゃんが自分で心を整理しない限りは、どうしようもないんだと思う。
……少なくとも、今私たちからはどうする事も出来ないよ」
悔しいけれど、こいし様の言うことは正しいと思う。
今あたい達がさとり様にかけられる言葉は、「元気を出して」とかいった当たり障りのないものしか無いし、
そんな言葉をかけたところで、結局はまた軽くあしらわれるのが見えている。
下手をすれば、"心配をかけている"という圧力をさとり様にかけてしまうかもしれない。
だって、さとり様は優しいから。
あたい達が心配していることには変わりない。
だけど、さとり様はそれを意識したら、負い目を感じて余計滅入ってしまうと思う。
人が人を想うのに、他人が口出しする事なんてできない。
昔も、今も。いつだって。
人間も、妖怪も。誰だって。
勿論それは、あたい達も同じ。
妹のこいし様でさえ控えているのだから、
ペットのあたい達なんて当然口出しはできない。
歯がゆさが両手に力を込めさせるが、それを吐き出すことはここではできない。
物に当たったところで何も変わらないし、さとり様やみんなにも迷惑がかかる。
とりあえずは振り返り、外へと向かい歩きだす。
休憩を終えるには少し早い時間だが、無性に体を動かしていたい気分だから。
そして外に出たところで、あたいは猫車を引っ掴み飛び出していった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「……………やっぱり、心配掛けてるわよね」
空中に引かれていく猫車と、それに続く怨霊の青白い帯を見届け一人つぶやく。
気が付いたのは、つい先ほど。
帰ってきてからここ最近は習慣のようになってしまった、
何があるわけでもない、憂鬱な時間。
そんな時何気なく聞こえてきたのは、小さく苦悶する様なお燐の心の声。
-歯がゆい。悔しい。さとり様のために何もできない-
連なるように私へと届いてきたそれには、僅かばかりの憤りの色。
"何もできない自分"に対して向けた、あの子の辛そうな声だった。
情けない。
それしか、今の私には言えない。
皆の前では、出来る限り気丈に振舞っていたつもりだった。
溜まっていた仕事も、しっかりと片付けていた筈だ。
何一つ変わりなく、元の生活を過ごしていたつもりだった。
一人になった時だけ、銀の葉を触りながら想いを馳せていた。
結果、やっぱり皆知っていた。
まだ私が○○の事を忘れられず、こうしてウジウジしていることを。
お燐も、お空も、こいしも。
心配してくれているのは知っていた。
あの子達とすれ違うたびに、いつもそう思われているから。
こいしの考えていることはわからないし、お空は何も考えていないのもしばしばだったが、
それでも素直なあの子達だから、表情や仕草ですぐに分かった。
だからこそ、余計に心苦しくなる。
今のこうしている私が、あの子たちに心配をかけてしまっているから。
更には、色々なことで私に気を使わせてまでしまっていた。
「○○が見たら、なんて言うかしら…………」
幸せになってほしいと心から願いながら、くしゃくしゃの笑顔で私を送ってくれた想い人。
そんな彼の願いを、私は叶えてあげられていない。
というより、恐らく不可能だと思う。
あの日に彼と別れてから、今日で二か月ほどだったか。
これまでに幾度と、この想いを振り払おうと試みた。
心の奥底にしまいこみ、大切な過去として処理しようとした。
その度に私の心は暗い色を吐きだし、
"目"からはキュッと締め付ける様な感覚が押し寄せてくる。
繰り返せば繰り返すほど、締め付ける痛みは増していき、
侵食してくる色は着々と黒に近づいてゆく。
それらから逃げようと、私の手は無意識の内に首元のチョーカーへと延びている。
あの日○○からもらったこれに触れている時だけは、少しだけ心が落ち着くから。
触れている間だけは、○○が傍にいる様な気がするから。
ここまでくれば、もはや○○に依存していると言って差し障りない。
そう気付くのに、あまり時間はかからなかった。
手が空けば○○の事を想い、その思いを振り切ろうとしても、
結局は首飾りを触り○○を想うことで自分を安定させている。
これじゃあまるで麻薬ね。
そう頭の中で思い至り、なんともぴったりな表現だと心の中で苦笑する。
全身が蕩ける様な幸福感。何物にも代えがたい至上の一時。
やがてより多くを欲するようになり、それは際限なく膨らんで行く。
しかしそれがいつしか途絶えた時、幸せは反転し負の感情となって圧し掛かってくる。
依存する度合いが強ければ強いほど、幸せを強く感じているほど、
失ったときにやってくる絶望感はより大きくなる。
一度その感覚を知ってしまえば、抜け出すことなんてできない。
足は泥沼のように沈みこみ、もがく手は虚空をかきわけるのみ。
這い上がろうと必死になればなるほど、更に深くへと沈みこんで行く。
「………ダメね、こんなんじゃ」
左手で顔を覆いつつ、言いながらドアを開け中庭へと出る。
気分転換となればいいが、それも淡い期待のまま消え去っていくのは目に見えている。
目の前に広がる花々は、地下の熱を利用して育てられた色取り取りの南国の花達。
そこかしこに広がる鮮やかな色彩が、小さな自慢でもあった。
けど、しばらく見ないうちにそれも失われてしまったようだ。
枝の張りや花の広がりなどは元気そのもの。ただ、色だけはどこかくすんだ様な感じに見える。
いや、"私には"くすんで見えてしまう、と言った方が正しいのだろう。
何も、何処も、こっちは一切変わっていない。
変わってしまったのは、私ただ一人。
そんな私のせいで、あの子達までも巻き込もうとしている。
それがどうしようもなく、情けない。
私がいるべき場所に戻り、元あった幸せが戻るはずだったのに。
-さとり……どうか、幸せに…………-
ノイズ交じりで届いた、彼の最後の心。
銀の葉を手に取るたびに"目"に浮かぶ、あの日の光景。
それを思い出すたびにも、苦痛が私の心を握り締めてくる。
恐らく、潰されるのももうじきの話だろう。
そんなことが頭の中を過ろうとも、もうどうだってよかった。
心を閉ざし、目を瞑り、何も考えなければ、それはきっと楽なのでしょうね。
仄暗い顛末を想像している自分を感じたところで、軽い嘲笑が漏れた。
これが幸せだとは到底思えない。けど、これ以外に楽になる方法は見当たらない。
矛盾もいいところ。というより、救われない結末、と言ったところね。
「………………ごめんなさい、○○」
零れた呟きは、小さく震えていた。
「そういうのは、本人に言ってあげなきゃわからないわよ?」
誰に言うでもなく漏れた言の葉に、唐突に返ってきた返事が一つ。
聞き覚えのあるそれは、癇に障る独特な調子。
振り返り見やれば、私の予想は的中していた。
「貴女は…」
「ご機嫌麗しゅう、地底のお嬢様」
空中に浮かぶ、不気味な裂け目。
女が腰掛けているそれの中からは、無数の視線が見つめてくる。
片手には日傘をさし、片手には扇子を仰ぎ、口元には不敵な笑みを浮かべ。
幻想の境界、八雲紫がそこにはいた。
─────────────────────────
ガシャガシャと、重い音を立てながら走る影。
漆黒に覆われた道の中、一つだけの篝火を煌々と灯して。
土を蹴り上げ、荒々しく息を吐き出し、風を纏わせながら。
暗く長い道を、一頭の黒馬が駆けていく。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「はぁ………はぁ…っ………」
荒くなった自分の息が、嫌というほどに今の状況を教えてくれる。
いくら地下深くであるとはいえ、季節ごとに妖精の活動が左右し、
それによりここ地霊殿も気温は変動する。
冬になれば地下特有の寒さに近づくが、夏季は適温より若干高い程度の温度で過ごせる。
とはいえ、湿度だけはどうしようもないほどに高く、
ジメジメとした気候となってしまうのは致し方ない。
だが、今何より息が上がる一番の原因は、目の前で展開されている圧倒的な光。
「あら、この位でへばってしまうのかしら?」
うっすらと愉快そうな表情を浮かべながら、光弾を放つ女。
空間の裂け目に腰掛けながら扇子を仰ぐその姿は、余裕の表れというのか。
今の私にしてみれば、全く持って不愉快極まる。
「…誰が、そんなことを言いましたか?」
一応は言葉を返すが、あちらと違い余裕がないのは自分でもわかる。
悔しいことに実際そうであるから、仕方がないのかもしれないが。
けど、この女にだけは。
今だけでも、この女にだけは勝たなくてはならない。
大した理由なんてない。
ただ、気に入らないからだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「………一体、こんな地下深くまでどんな御用で?」
見たくもなかった者の顔を見つめながら、適当に言葉を投げかける。
微笑みながらも、どこか他人を嘲笑うかのような視線。
一々気品のある動作一つ一つが、それだけで挑発ともとれるほど神経を逆撫でさせて行く。
「あらあら、随分と嫌われてしまったかしら?」
「…思い当たる節は御有りでしょう」
「それについては、とんだ失礼を」
軽い調子の言葉と共に、軽く頭を下げる紫。
それこそが私を苛立たせている原因であるというのは、大方承知の上だろう。
にも拘らず、本人は調子を変えようとしないあたりが、また癪に障る。
それに何故かはわからないけど、彼女の心の声が全く聞き取れない。
"目"に入ってくるのは、支離滅裂にもほどがあるごちゃ混ぜの騒音じみた"声"。
まぁ、"境界を操る程度の能力"といったペテンそのままの能力の持ち主なのだ。
大方なんやかんやと対策してきたということなのだろう。
全く、面倒なことばかりが好きな妖怪ね。
「とはいえ、あれからどうしているか気になって見に来たわけだけれども、
どうやら当たっていたようね」
「………どういうことかしら?」
ピクリと、瞼と頬の筋肉が小さく痙攣をおこす。
「"愛しの人と別れざるを得ず、それからというもの寂しさと虚しさで何も手につかない"
それ以外の何であって?」
芝居がかった調子の言葉が耳に入った所で、私の中で煮えたぎるものが込み上げる。
「貴女は……!」
「否定する事ができて?」
「ッ、!!」
瞬間、右手を振り上げ閃光を目の前へと叩きつける。
大きな音を立てつつ着弾すると同時に、土煙りにまかれながら葉が四散していった。
「……で、図星を指されて逆上と。まだまだ若いわねぇ」
薄ら笑いと共に聞こえてきた声は、後方の上から向けられてきていた。
キッと振り返り見やれば、先程と一切変わらない不敵な笑みがそこにいる。
「別れの一つや二つでそんなになっているんじゃ、
長いこの先やっていけないわよ?」
「………元凶である貴女が、よく言う」
「確かにきっかけは私。けど、そう動いたのは貴女の方でしょう?」
口元で開いていた扇子を閉じ、クイと手首を返し私の方へと向ける。
「誰もそんな所まで求めてはいないわ。
だと言うのにそこまで気を配れというのは、些か我が儘が過ぎるのではないかしら?」
「…………流石、妖怪の賢者ということかしら。言うことが違いますね」
「それはそれは、どうも」
少しずつ頭から熱が引いてきて、軽い皮肉を言えるくらいには余裕が取り戻せた。
そして、彼女が言っていることも幾らかは正しいのかもしれない。
そう思えるほどに、冷静さも戻ってきている。
だが、私の中で変わらずに燻り続ける黒い感情が一つ。
気に入らない。
明確な理由なんてない。
ただただ、そう私が思っているだけ。
けど、それでいい。
それさえあれば、理由なんて十分すぎる。
次の言葉を出す前に、私は一枚のカードを取り出す。
とてもとてもわかりやすい、幻想郷での挨拶の一つ。
「御親切な忠告、ありがとうございます。
ですが、それだけというのも物足りないでしょう?」
「おやまぁ、貴女みたいな人が。珍しいものね」
そう言っている彼女の表情も、何処か面白そうに感心している目だった。
そして、その手にはいつの間にか私と同じようなカードが取られている。
つまり、"受けて立つ"という意思の表れ。
これもまた、幻想郷での挨拶の一環。
それを確認した時、私の口角が僅かに吊り上がった気がした。
ふぅと飛び上がり、紫と同じ視点まで移動する。
「けどどうなのかしら?貴女に私の心は読めていないでしょうに」
「確かに。けど、そうだとして何か問題があって?」
そうだ、今彼女の心は読むことができない。
覚りにとって、それはこれ以上無いまでの難敵である。
ましてや、相手は数多いる妖怪の中でも最上位に位置する、あの八雲紫。
普通だったらまず間違いなく"詰み"の状態である。
だが、だからといって私の行動は変わらない。
僅かばかりの驚きを漏らしたスキマ妖怪を見据えながら、右手を真横に切る様にかざす。
「弾は出せる。符も宣言できる。飛んで避けることもできる。
ほら、何も問題は無いでしょう?」
小さく首をかしげながら、少しだけ見上げるように答えてやる。
そう、弾幕遊びをする上では、何も問題はない。
私が覚りで、心の読めない相手と戦う、というだけなのだから。
「……そうね、ごめんなさい。私の勝手な考えだったわ」
そう返した紫の顔は、先程よりも楽しそうな表情を作っている。
そうだ、それでいい。変な感情を挟まれたままだったら、意味がない。
"せめて私の気を紛らわせるためなら"等と考えられていたとしたら、虫唾が走る。
"目"が実質使えない今確証は持てないが、可能性は大いにある。
そんな風に見下されたまま勝負に挑むのは、御免こうむる。
変な茶々を入れたことを後悔させ、さっさと出て行かせる。
それを実行するための勝負に、勝手にハンデを付けられていたのでは余計に気分が悪い。
だからこそ、これでいい。
気に入らない笑みをした彼女とほぼ同時に、それぞれの持つ"名"を走らせる。
「魍魎「二重黒死蝶」」 「想起「テリブルスーヴニール」」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そうやって勝負が始まったのが、大体10分くらい前のことだったか。
一時的に止んだ光の応酬に合わせるように、ゆっくりと下方の土煙が晴れていく。
折れた木の枝や散り散りになった花びらなどが、辺りに撒き散らされている。
地面も所々が抉られていたり爆ぜていたりと、再び整えるのには骨が折れそうだ。
「しかしすごいものね。まさか、自分の記憶から弾を再現するなんて」
言っている彼女はと言えば、弾一つ掠ることなく悠々と漂っているまま。
余裕そのものをまさに体現しているかのような、品のある佇まいを見せびらかしている。
対する私は、まさしく満身創痍という言葉がピタリと当てはまる状況だ。
乱れた呼吸と砂をかぶった髪、おまけに着衣は幾らか破けているという始末。
どう見ても私が劣性であるということを、嫌でも理解させられる。
「……自分で言うのもどうかと思うけど、
あれだけの数を平然と避けた人の口から出る言葉とは思えないわね」
「あら、そうかしら?」
紫が施した私の"想起"への対策。
それを看破するためとった方法は、私の記憶から弾を作り出すこと。
先の異変の時に"見た"天狗やら河童やらのスペルをはじめ、
お燐やお空のスペルまでをも含めた弾幕を、出せるだけ出しきったつもりだ。
だというのに、目の前のスキマ妖怪はどうだ。
あれだけの数をいなした後で、唇に人差し指を添えるようなそぶりをしながら
疑問を浮かべている様な顔を見せている。
あの程度が大変なものなのかしら?
そう、彼女の仕草が私に伝えている。
やはり覚りの私と最強の妖怪とでは、こうなるのが当たり前だったか。
力のこもる奥歯をよそに、理性はそれを痛烈に理解する。
「まぁ、ウジウジと籠っているだけの小娘に圧されているようじゃ、
"幻想の境界"なんて名乗っていられないもの」
「っ……」
悔しさだけであれば反論するに十分足り得るが、それ以外の何かが欠落している。
多分、自分でも自分を正当化できる理由がないから。
自分でも、それが事実だとわかっているから。
「理解してることだけは、ほんの少しだけ救いなのかしらね。
とはいえ、悲劇のヒロインごっこはどうかと思うけど」
……わかっている。わかっているんだ。
「それに、白馬の王子様役があんな貧相な男じゃあねぇ……
もう少し、なんというかマシなのもいたと思うけど」
…………あぁ、だめだ。
やっぱり気に入らない。
内に広がるのは、燃え盛る様な真っ黒な激情。
敵意、憎悪、憤怒……もしかしたら、殺意まで混じっていたかもしれない。
食いしばった奥歯からは、何かが軋むような音が響く。
もう何も、歯止めになる様なものは無かった。
「…たに………」
膨れ上がる感情を、ただただ目の前の妖怪へとぶつける。
意識を介さずに具現化したスペルは、あの時の人間の技だったか。
「あんたに何が分かるのよっ!!!」
前方に突き出した両手の先に浮かび上がる、八卦の形を模した陣。
僅かな光の収束の後に、その先から暴力的なまでの出力の光芒が駆け抜ける。
吐き出された紫電の如き光は、進む先にあるもの全てを飲み、轟音を上げて薙ぎ払う。
このスペルの持ち主曰く、これが"恋の魔法"であるというのであれば、
こんな歪みきったものが出せるのは私しかいないだろう。
否定してくれた○○には悪いけれど、
やはり私は忌み嫌われる妖怪なのだろう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
感情の奔流が消え去った後、程なくして濛々と立ち込めていた土煙が晴れ始める。
その先に広がる光景は、ただただ惨状の一言。
直線状に木々はなぎ倒され、芝や花は影すら残っていない。
射線上にあった館の一部は、綺麗なまでの大穴が出来上がっていた。
「はぁ………っ…はぁ…………」
弾幕遊びを終えた後に、残っていた全ての力を注いでしまったためか。
これ以上ないほどに息が切れ、汗が頬を伝うのを感じる。
もう飛べるだけの霊力すら残っていないと思う。
それほどまでに、全てを出し切ったのだから。
「若いっていいわね。まだまだ真っ直ぐで」
トン と、背中を何かが押す。
不意に起きた事態であるため、崩れるように私は膝をつく。
抵抗しようとしても、足にはもうそんな余力はなかった。
「これで満足かしら?お姫様」
呆れが色濃く表れている言葉を投げかけてきたのは、やはり彼女だった。
せめてもの想いで放った悪あがきの一撃も、結局は無意味に終わった。
握りしめた指先は、ただ虚しく地面に爪痕を残す。
爪に食い込んだ砂利が、僅かばかり痛かった。
ポツリと土に滴った雫は、額から流れ出た汗だろうか。
波打つように揺らめく視界では、よくわからない。
もう、何一つわからない。
頭の中も、心の中も、グシャグシャで、メチャクチャで。
堰を切ったように、流れ込んでくる"暗い色"。
「……んなの………どぅ、すればいいのよ……………」
漏れ出した呟きは、誰に向けたものでもない。
私の心が漏らした、文字どおりの泣き言だから。
「知らないわ、私は貴女じゃないんだから。
来もしない白馬の王子様に聞いてみたら如何?」
問わず語りに返すスキマ妖怪の皮肉めいた言葉も、どうでもよくなってしまった。
聞いていたところで、私にはどうすることもできないし、何の意味もない。
寂しさと、虚しさと、切なさと、悔しさと、いろんなものが押し寄せる。
一度解放した感情は、止まる気配を見せてくれない。
あぁ、
やりきれない
「それか………」
ふと聞こえた紫の声は、どこか楽しそうな声色で。
それと同時に、遠くから聞きなれない音が近づいてくる。
地鳴りの様な、唸り声の様な。とても低く、けど力強く響く音が。
「鉄馬に引っ張られた、貧相な男にでも聞いてみる?」
そう言った彼女の声をかき消すように、ガラスの砕ける音が盛大に響く。
音の方向に首をめぐらせてみると、少し離れた場所にその原因はいた。
「………ぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!!!」
中庭の天窓を破り、黒い何かが叫びを上げて落ちてくる。
とても鬼気迫った、どこかで聞いたことのある声で。
「あらあら………ホイっとな」
気の抜けた声と共に、スキマ妖怪が扇子を翻す。
瞬間、前方に現れた空間の裂け目から幾重もの網が伸び、黒い何かを絡め取る。
ものすごい勢いで落ちてきていたそれも、次第に速度を落としていく。
やがてゆっくりと地面に下ろした所で霧散するように網は解け、
するするとスキマへと吸い込まれていった。
残された件の黒い何かは、外で見たことのある"車"にどこか似ていた。
ただ、大きさは二回り以上小さく、ずっと細長い形をしている。
なにより、それにまたがるように人が座っているのが一番違った。
そんなことよりも、今の私にとって一番重要なこと。
それは、目の前に現れた人物の正体。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「し………死ぬかと、思った……本気で…………」
今も尚アホみたいにアイドリングしている心臓とは裏腹に、
青ざめた顔から力なく言葉が漏れ出てきた。
同じように全身も石像の如く固まり、両手はクラッチとブレーキをそれぞれ力いっぱい握っている。
まさか教えてもらった地下道が、地底の岩壁に開けられた穴へ続いていると誰が予想できようか。
それも、地面までエライ高さがある場所の。
あの河童の子は"地霊殿のすぐそこにつながっている"と言ってはいたが、
必ずしも"二次元的に近い"とまでは言ってなかった。言ってはいなかったけど……。
「一個間違えてたら………本当に死んでた、よなぁ………」
いや、けどここの人たちは普通に飛べるのだから、あながち問題ではないのだろう。
俺にとっては「シップーケッ!」とでも叫びたくなるような事態だったが。
「全く……派手な登場まではいいとして、もう少しマシな表情を用意できないの?」
ハッと我に返り掛けられた声を辿れば、苦笑いを浮かべた女性の姿。
以前見た時とは違う、クラシカルなドレスを身に纏っている彼女 -八雲紫さん- が。
「そんなゲッソリした顔を見せに、わざわざ来たわけじゃないでしょう?」
「いや、まぁそうなんですけど…ちびりそうな位怖かったんで……」
凝り固まった表情筋を動かし、苦々しくはあるが一応の笑顔を作ってみる。
と、カタンという音を立ててから、ずっと腹の底から伝わっていた振動が唐突に止まった。
レバーを握っていた左手の力が抜けて、クラッチを繋げてしまったみたいだ。
とりあえずニュートラルにしてからサイドを立て、愛車から降りる。
「…まぁ、あちらもお待ちのようだし、早く行ってあげたら?」
紫さんはそう言いながら、扇子の先でスッと行き先を示す。
自身は目を向けず。けれど、その表情はどこか楽しそうにも見えた。
「……はい」
その一つだけ言葉を返し、俺は歩を進める。
途中からヘルメットが無かったからか、
髪がバサバサと揺れてどうにも心地が良くない。
適当に手で掻きむしり、元の状態へと近づけながら歩く。
向けた視線の先には、どれ程待ち望んだか分からないほど会いたかった人物がいる。
確か二か月前に別れたはずだが、俺の中では思い出したくないくらいの長い時間だ。
距離が近づくにつれて、風貌も表情も段々と見えてくる。
何故かは知らないが、衣服の至る所がボロボロになり、一部は肌が露出してしまっている。
全体的に見ても、土煙に巻かれたのか、髪まで砂が付着している。
そしてそんな恰好をしている当の本人は、ただただ唖然とした表情をこちらへと向けている。
やがてあと二歩までの所で止まり、言葉を掛けようとして口を開けたところで固まる。
こういう時、まずなんて言ったらいいんだろうか?
まずい、何も考えてなかった……。
「……○、○………」
依然驚きに満ちたままの顔で、ゆっくりと俺の名を告げた目の前の少女。
一時も忘れなかった彼女の名は、古明地さとり。
意を固め、一拍深呼吸をしてから俺は口を開く。
「…やぁ、さとり」
とりあえず出せたのは、それだけだった。
けどまぁ、それでもいい。
こうして会えた。そして言葉を交わせることができた。
それだけでも、全身の血管がざわつくほど喜ぶことができる。
「会いに来たよ」
一つ歩みよりながら、率直にあるがままの心を告げる。
それからもう一つ歩みより、両腕を前へと伸ばす。
今一番すべきであることかどうかは知らない。
だが、今一番したいことを実行に移すため、
ゆっくりと、彼女を抱きしめた。
そっと包むように。けど実際には加減が効かず、大分力がこもってしまったかもしれない。
伝わってくる体温は、以前のそれよりとても儚げで。
少し力を加えたら壊してしまいそうなほどの繊細さを感じさせる。
けど、多分こうした方が良いし、こうした方が伝わるだろう。
何より、彼女なら言葉以上のものを俺の中から"見て"くれる。
「どうして、貴方が……それにどうやって…………」
「落ち着いてさとり。理由も、方法も、全部余すところなく"こっち"で、ね?」
未だ混乱したままのさとりを諭し、俺の体を彼女の"目"へと向き直らせる。
数テンポ置いて我に返ったさとりは、集中するように両目を閉じた。
同じように俺も視界を閉ざし、伝えたいことすべてを想い起こす。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ある日郵便受けから取り出した、一通の封筒。
いつものピザ屋と美容院の簡素なチラシに挟まれたそれに綴られていたのは、ある一つの"提案"。
一言で表せば、幻想郷へと行く"お誘い"。
つまりは、自ら進んで"幻想"となって"現世"から忘れ去られるということ。
差出人も書かれておらず、切手や消印すらない怪しさ満点の手紙。
だがこんな内容で、こんな誘いをかけるような人物は、
生憎と俺は一人だけしか知らない。
それからというもの、俺はすぐに行動に移った。
大学への休学届、アパートの引き払いなどの身辺整理。
向こうへと行くための身支度。
それと、親へと向ける謝罪と許しの手紙を書いた。
心苦しいものが全くなかったわけではない。
むしろ、罪悪感が終始纏わり付いてくるような日々が続いた。
けど、それでも俺はもう行くことしか考えられなかった。
全ての準備が整った後、月灯りの下でバイクに手荷物を積む。
封筒の指示では、子の刻に同封してある札を破ると術が起動し、
幻想郷へとつながっている"スキマ"が現れるのだと書かれていた。
このままこっちで生活していても、それなりには幸せな人生が待っているかもしれない。
だが、本当の幸せはここにはない。
俺が知っている本当の幸せは、幻想郷にいる。
ならば会いに行くしかない。
たったそれだけの単純な理由だが、それ以上の理由もない。
腕時計が12時を回った時点で、僅かなためらいも全て消え去った。
同封されていた札を起動させ、荷物を乗せた愛車のセルスターターを押す。
ハロゲンの前哨灯が点き、目の前に広がる夜の闇より尚暗い空間を示す。
春に見た時以来の、歪な空間の裂け目。
その先に広がっているはずの、幻想の地。
迷う暇すら惜しく、俺はスロットルを力いっぱい開いた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「………と、まぁこういうわけ」
「そんな……………」
大まかな経緯を"心"で伝え終わると、さとりは小さく震え始める。
「……どうして!? どうしてなの!?」
大粒の雫を目尻に浮かべながら、俺に詰め寄ってくる。
「貴方、向こうでやることがあるって………!」
「うん。確かに夢みたいなものはあったし、それに向けて勉強していたよ」
肩に手を置き彼女を落ち着かせてから、再び口を開く。
「けどね、"その先"がもうなかった。
どうやったって、"本当の幸せ"とはほど遠いって、分かったんだ」
「……本当の…幸せ…?」
「そ。勉強するっていうのは、幸せに近づくための努力でしょ?
だけど、幸せになれないんじゃ意味なんてないからさ」
誰しも、結果として自身の願いや心を満たすことができるから、
辛い勉学に励み、必死に汗水を流して働く。
目的が果たせないと知っていて、手段の過程のみを楽しむような変わり者など、そうはいまい。
仮にいたとしても、それは手段が目的となっている場合でほぼ全てが片づけられる。
そのどれにも当てはまらない俺にとっては、日々そのものが苦痛でしかなかった。
「それに気付くのに、大分時間がかかっちゃったかな。
心では否定し続けていたけど、頭では諦めるしかないってずっと考えていたから」
足掻こうにも、足掻きようなんてなかった。
「幻想郷」などというものは、向こうでは存在を知られていない。
知られていないものについて調べられるほど、俺に情報収集の技能は無い。
元あった通りの生活を"模倣"し、出来る限り"元通り"を演じ続ける。
自らを傀儡とし操り続け、何もない日々を送り続けるしかなかった。
そんな諦観が支配を強めていく矢先に、届いたのがあの封筒。
差出人不明だけど、誰が出したか丸わかりの"お誘い"。
「おかげで、俺はこうしてここに来ることができた。
こうやって、さとりに会うことができた」
そして、俺は約束を果たすために来た。
……大分、乱暴な解釈だけど。
「…約束?」
「うん、あの時の約束。
一緒に"幸せになってほしい"って想った、あの約束」
一度 あ、とさとりが呟いたが、それに構わず俺は言葉を続けた。
「いい?さとり…………」
しっかりとさとりの両目を見据え、言い聞かせるように想いをぶつける。
「こうやってさとりの傍にいることが、俺の幸せなんだ」
それが、向こうで考え抜いた末の俺の答え。
「そして、その幸せを叶えるために俺はここへ来た」
それが、長い時間悩み抜いた末の俺の行動。
「だから………その、ちょっと卑怯かもしれないけど………」
一つの深呼吸を挟み、"心"のありのままを最後まで伝える。
「君の傍に居させてくれないかな?」
自分勝手だとは重々承知している。
元あった生活を全て投げ出し、今まであった家族などの縁も全て捨て去って、
ただただ"自分の幸せ"を追い求めるために、何もかもを放り出してきたのだ。
心配させないように書き残してきた手紙も、要は単なる言い訳にしか過ぎない。
けれど、そうまでしてでも、俺はこの幸せを逃したくなかった。
他の何もいらない。恥も外聞もどうでもいい。
さとりと共にいることができるのなら、なんだってしてみせる。
それが、俺の覚悟。
「…………………………………か…………」
心のうちを全て伝え終わった時、彼女は俯きながら何かを呟き始める。
「…………貴方……馬鹿よ……………」
とてもか細く、とても震えていて、とても必死そうな声で。
小さく光る粒をこぼしながら、さとりは言葉を零していく。
「ホントに……ホントに馬鹿……………」
「そうだね、俺もそう思う」
小さく震えながら俯き続ける少女へ、そっと包むように腕を回す。
あの冬の日のように、その姿は今にも崩れ去ってしまいそうなほど儚く見えて。
そんな姿の彼女を、どうしても守ってあげたくなる。
「馬鹿よ、大馬鹿よ……………」
「うん、言えてる」
俺は"現世の側"の"人間"で、彼女は"幻想の側"の"妖怪"。
住む世界も違う上に種族も違う。
彼女の方が強いし、俺より断然寿命も長い。
こんな考えを持つこと自体、自分勝手なのかもしれない。
だけど、こうして泣いているさとりを見ると、そんな考えも何処かへ行ってしまう。
いつか聞いた限りの、心を読む忌み嫌われた妖怪なんてどこにもいやしない。
俺の目に映るのは、細い肩を震わせながら泣いている、一人の儚げな女の子だけ。
とても心優しい、俺の大切な人が。
「……………貴方の、方こそ」
「…つまり、お互いさまってことだね」
聞こえてきた声は若干詰まっているものの震えておらず、声色も先程と違う穏やかなもの。
聞き覚えのあるさとりの声に、だいぶ近づいたもので。
「………もしかしたら……期待、していたのかもしれない」
だが、少しだけ寂しそうな声でさとりは言葉を続ける。
「こうやって、また貴方に会えるんじゃないかって………
でも、それが間違っていることだっていうのも、わかっていたの」
俯きながら、ほんの少しずつ。
「だから………諦めてた。
諦めようとしていた…………」
辛そうな表情を隠しながら、彼女は続ける。
「けど………貴方は来てしまった」
段々とトーンが下がり、声色がまた暗さを増していく。
「私は、貴方を……歪めてしまった………」
「…え?」
俺の胸元できゅっと締められた手が、再び震えている。
「貴方に………全てを捨てさせてしまった……………」
まるで重ねた罪を白状するかのように、何かに怯えているような姿で。
「なのに……貴方に会えたことで、心が喜んでいるの………」
弱弱しく掠れるような声で、必死に彼女は言葉を口に出す。
「私は…………最、悪で…最低の、女よ…………」
しゃくり上げる音と共にさとりが漏らしたのは、自己の抱く罪の意識。
自身のせいで、俺に全てを捨てさせる道をとらせてしまったと。
自身のせいで、俺の進んでいく道を歪めてしまったと。
彼女が言いたいのは、恐らくそういうことなのだろう。
「違うよ」
違う。断じて違う。
心苦しそうに続けられる独白を遮るように、彼女を強く抱き寄せる。
ギュッと、腕に込められた力が音の形をとって小さく響いた。
「これは、俺のわがままだから」
そう、わがまま。
一人の女性に会いたいが為に、全てを投げ出すような一世一代のわがまま。
学んでいた知識も、用意された未来も、親しい人達との関係も。
なにもかも、一切合切を置いて来た。
持ってきたのは簡単な手荷物と、中古で新しい俺の相棒。
それ以外は持って来れないし、もういらない。
だから、置いてきた。
「俺が欲しかったのは、この"幸せ"だけだから」
こうやって、両手で包むことができる"幸せ"。
小さいけれど何よりも大きい、この暖かな"幸せ"を。
俺が欲しいのは、この"幸せ"。
さとりと共にあることができるという、何よりの"幸せ"。
これ以外なんて、もういらない。
だからこそ、この"幸せ"だけを求めてやってきたのだから。
「だから、俺のわがままを聞いてくれないかな?」
耳元に顔を近づけ、囁くように告げる。
「君の傍に、居させてほしい」
彼女が悪いことなど何一つない。
誰が悪いという問題でもない。
ただ俺が、彼女の傍に居たいだけのこと。
ほんのちょっと、人よりわがままの規模が大きいだけ。
他の誰に指示されたわけでもない。
俺自身で決めた、俺の居たい場所。
その程度のわがままなら、一つくらい許されたっていいはずだ。
「……………勝手、よ……」
「わかってる。けど、此処に居たいから」
いくらかの間をおいて返ってきた言葉は、まだわずかに震えている。
だけど、そこに薄暗い感情は見あたらない。
「…………元とはいえ、此処は地獄よ」
「俺にとってどうなのかは、俺が決めるさ」
「…………日も射さないし、湿気もひどいわ」
「あのアパートもそんなだったさ。今更変わらないよ」
「…………言うことを聞かないペットも、沢山いるわ」
「動物の世話は昔から好きだよ」
「…………心を読む、忌み嫌われた妖怪よ」
「そんなことを言う奴の気が知れないよ」
思い当たるだけの問題点を挙げるさとり。
だけど、どれもこれも些細な問題じゃないか。
「…やっぱり、変わった人ね、貴方」
そういったさとりの声には、もう震えは残っていない。
あるのは、どこか楽しげで嬉しそうな感情だけ。
「ほんと、変わった人」
「さとりが言うんじゃ、そうなんだろうね」
彼女を好きでいて変わっていると言われるというのなら、
俺は喜んでそう呼ばれよう。
むしろ、誇らしくさえ思える。
気づかないうちに、俺の背に回されていた細い腕。
柔らかくて暖かい、"2つ"のもの。
「………馬鹿」
胸元に埋められた小さな頭から、くぐもった声が届く。
紫色の癖っ毛と砂埃越しに届く、懐かしくすらある仄かに甘い香り。
片腕を背中から後頭部へと回し、愛おしく包み込むように抱き寄せる。
あぁ、やっぱりこれなんだ。
俺の求めていた"幸せ"は、間違いなくこれだ。
触れ合っている部分から伝わる、あの時のような暖かさ。
それが、心の奥底へじっくりと染み渡る。
「……愛してる、さとり」
何度言っても言い足りない、俺の心そのままの言葉。
「……私も、愛してる。○○」
何度言われようと、その度に俺の心が舞い上がる言葉。
ただただ、二人で抱き合っているだけ。
けれど、心が一番通いあうことができる、二人だけの魔法。
暖かくて、ふわふわとしたような、言い表しがたい感覚。
さとりに会ってから、初めて知った感覚。
これが多分、人を好きになる感覚なんだと思う。
「…私も」
唐突に返された、さとりの言葉。
「貴方に会ってから、色々なことを知ることができた。
一緒に街へ出かけたり、一緒にお祝い事をしたり、ずっと一緒に過ごした」
埋めた頭を少しだけ離し、彼女は続ける。
「そうしているうちに、私も"見た"ことのない感情が出てきたの」
俺の背中に回されている手が、キュッと服を握りしめる。
「始めはよく分からなかったけど、
少ししてからはっきりと分かったわ…」
顔を上げたさとりの表情は、いつかみた笑顔より尚眩しく。
「貴方が好きだっていう、そういう感情なんだって」
あぁ、なんてこった。
その表情は反則すぎる。
そんな顔を見せられたら、もう何も言えないじゃないか。
頭だけはゆるゆると動き、そんなことを考えているが、
それ以外の制御は、全てさとりに持ってかれてしまった。
意識の介在しない体は、コマ送りのようにゆっくりとさとりへ近づいていく。
徐々に徐々に彼女の瞳に吸い込まれていくのを、俺の"2つ"は脳に伝えてくる。
やがて彼女の"2つ"が閉じられるのと同じくらいに、
俺の"2つ"もいつの間にか情報を遮断していた。
次に伝わってきたのは、唇に触れた暖かい感覚。
ただただ触れているだけのはずなのに、全てが溶けてしまいそうな暖かさ。
脳髄も、心臓も、心さえも、まとめて溶けだしていくような。
何もかもがどうでもよくなるほどの、何ものにも代え難い幸せ。
依存を遥かに通り越した、さらに離れたくない程の感覚。
さとりだけが与えてくれる、ただ一つだけの至上の幸せ。
もう絶対に離さない。
何があろうと、離れてなんてなるものか。
心が、体が、無意識が、揃って俺にそう伝えている。
閉じられた彼女と俺の"2つ"。
間に挟まれた彼女の"1つ"。
全て溶けあって"1つ"になった様な感覚。
ずっとずっと、こうしていたい。
呆然としたような思考を、俺の頭は考えていた。
「やれやれ、若いとこうも甘ったるいのかしら。
いい加減胃がもたれてきそうだわ……」
少し離れたところからかけられた、呆れ一色の一言。
それが聞こえた瞬間に、半ば反射で俺たちは顔を離す。
「あ、貴女まだ……!」
「あら、気づかないほど夢中だったのね。
やっぱり、人の色恋沙汰は見てて飽きないわ~♪」
扇子で口元を隠してはいるが、ケタケタとニヤついているのが見え見えである。
なんというか、意地の悪い近所のおばさんみたいにしか見えない。
「ほらほら、外野は気にせず続けちゃいなさいな。ほらほら~♪」
「ッ~~~~~!!!」
ニヘラニヘラと楽しそうに茶化す紫さんの言葉に、
さとりは耳までトマトのように顔を真っ赤に染め、
ボフッと音を立てて俺の胸に隠れてしまった。
「はは……あの、あまりからかわないでやってください」
さとりの頭を撫でつつ、照れ隠しに苦笑しながら紫さんに告げる。
こうしているさとりもとんでもなく可愛いのだが、
からかい過ぎるのも、やはりかわいそうだ。
「あら、中々の優男だこと」
「それはどうも」
「……貴女は………」
かけられた皮肉を適当にあしらっていると、ゆっくりとさとりが顔を上げる。
「……貴女は、なんで○○を此処まで連れてきたの?」
少しだけ赤みが残っている顔を向け、彼女は紫さんに問いかける。
俺も知りたかった、俺を幻想郷へと連れてきた彼女の動機。
「何を考えて、彼を幻想郷へ招き入れたの?」
「あぁ、それね………単なる暇つぶしよ」
「「………は?」」
あっけらかんと答えた彼女の言葉は、拍子抜けを完全に通り越し、
もうギャグにしか聞こえない。
さとりと一緒に漏れた呟きは、二人揃ってなんとも間抜けな声だった。
「暇つぶしよ、ひ・ま・つ・ぶ・し♪」
「ひ、暇つぶしって……」
「だって、暇なものは仕方ないじゃない。
だから何かないかしら、って思って。
それで、久しぶりに神隠しでもしようかなぁって♪」
人差し指を口に当て、ん~と顔を左右に動かしながら、そう口を動かす大妖怪さん。
可愛らしい仕草のはずなのだが、なぜ痛々しく感じてしまうのか。
「…それで、彼を?」
「適当に知っている場所に手紙を送りつけただけよ。
まぁ、おかげでこんな面白いものも見れたから、上々ね」
「……………はぁ」
心底楽しそうに告げた紫さんとは裏腹に、さとりは深い深いため息をついた。
「それに、"此処"に連れてきてなんかいないわ。
とりあえず適当に、幻想郷の何処かに放り込んだだけよ」
そう。確かに、彼女はここまで連れて来てはいない。
あのスキマを抜けた先は、たしか真夜中の開けた丘だった。
そこから色々な人たちの助けを借りながら、なんとかここまで来ることができたのだ。
人喰い妖怪も跋扈しているらしいここで、無事にたどり着けたのは幸運以外の何ものでもない。
「まぁでも…」
流れを遮るように、俺は口を開く。
「ありがとうございます」
出した言葉は、感謝。
こうしてさとりに会うことも、紫さんが居なくてはできなかった。
彼女のおかげで、俺はこうしてさとりの傍に来ることができたのだから。
「やれやれ、暇つぶしの神隠しで恨まれるどころか、感謝されるとはね」
「それでも、です。ありがとうございます」
重ねて礼を伝えると、紫さんは肩をすくめて薄く笑みを浮かべる。
「まぁ、そういうことで受け取っておくわ」
そう言いながら彼女は、持っていた日傘を横に薙ぐ。
切っ先の辿った後に続いて現れたのは、黒の広がる歪な空間。
以前と違い、中にはギョロギョロと外を見つめている無数の目が覗いていた。
「それじゃ、お幸せに…かしら?」
少しだけ振り向きざまに言い捨てながら、紫さんはスキマに飲み込まれていった。
後に残されたのは、俺とさとりに、荒れ放題の庭と一台のバイク。
「全く、あの女は………」
「なんていうか…良い人なんだか悪い人なんだか……」
呆れるさとりと、苦笑いの俺。
「けど、まぁいっか」
軽く息を吐き、開き直る。
もう過ぎたことなのだし、気にしても仕方ない。
「そうね、考えるだけ意味もないもの」
ただただなんとなく、互いにクスクスと笑いあう。
こんな風に笑いあえるのも、ひどく久しぶりに感じる。
「さて、どうしようかしら。これ……」
そう言いながらさとりは周囲を見回す。
つられて動かした俺の視界に広がるのは、見るも無惨な中庭だったもの。
「あ~……うん。がんばって直そうか……」
「それしかないわね…はぁ………」
目の前の惨状に、互いに苦笑いがこぼれる。
まぁ、さとりの為ならと思えば、この位軽く思えるものだ。
「さてと…じゃあ、始めちゃおうか」
上着を脱ぎ、袖を捲って作業しやすい格好になる。
軽く首を捻ると、コキッと小さく骨が鳴った。
「えぇ、さっさと片づけちゃいましょう」
さとりも同じように袖を捲り、体についた砂埃を払う。
ここまで荒れた庭を整え直すのは正直きつそうだが、
彼女と一緒であれば苦でも何でもない。
手に入れた幸せの前には、こんな作業なんてことない。
何より、さとりも手伝ってくれるのなら、
こうしている時間もまた楽しいものだ。
「…そうね。また一緒に、色々とできる」
「うん。一緒に、ね」
微笑みあうことのできるこの時間こそ、
何よりも代え難い幸せな時間なのだと。
短い冬の間に、俺たちは分かることができた。
そしてまた、こうして笑いあうことができている。
心の底より確信している。
これが、"幸せ"なんだと。
俺の"2つ"とさとりの"2つ"。
見つめる先は、まだ見ぬ未来。
障害や困難も数あれど、二人でなら必ず乗り越えていける。
俺にはない、彼女の"1つ"。
見つめる先は、俺の心。
恥ずかしい心なども数あれど、それ以上に大事なものを見ていてくれる。
"2つ" と "2つ" と "1つ"。
一緒に見つめるのは、やっと手に入れた"幸せ"。
"二人"の姉妹と"二匹"の人型ペット、新しく加わった"一人"の青年。
地底で紡いでいくのは、真新しい幻想の日常。
薄暗くてジメジメした地底で語られていく、ある小さな幸せのお話。
新ろだ869,872,876,878,885,893,904,915,921,930,968,980,1006,1014
新ろだ2-010,2-093,2-113,2-160,2-276,Megalith 10/12/12
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最終更新:2011年01月15日 12:59