俺の名前は――――たぶんこの世で最もどうでもいい事だと思う。
目覚めた直後のぼんやりした頭でそんなくだらない事を考えてみた。欠伸混じりに伸び
をしつつ、おもむろに起き上がってカーテンを開ける。差し込んでくる陽光が眩しくて思
わず目を細めた。天気は憎らしい位に快晴のようだ。
「……二度寝しようかな」
天気が良すぎて若干テンションが下がったせいか、そんな事を無意識に呟いていた。隣
の家――ちょうど真正面にある窓はカーテンと共に閉じられている。馴染みが顔を出す気
配は無い。
当然だけど。あいつは旅行に行くとかで春休みに突入するなり姿を消してしまった。ぶ
っ壊された自転車の修理費を請求しようと踏みこんでもぬけの殻だったのは今でもよく覚
えている。
とまあ苦い記憶は置いておこう。今は春休みなのである。
更に。神が何を思ったかは知らないが、春休みが始まるなり両親が仕事の都合で海外に
飛んで行ってしまった。気が付けば夢にまで見た一人暮らし状態。さぞこの春休みは特別
なものになるだろうと舞い上がったものだ。
結局長続きしなかったけど。
一人暮らし、なんて響きはいいが実際やってみると存外――いやかなり面倒だった。家
事というやつはあれこれ面倒極まりない。特に食事。最初の頃こそある程度自炊していた
が、生活リズムが狂っていくにつれて段々とおざなりになっていった。昼夜逆転生活全開
だった後半はコンビニが無ければ餓死していた自身がある。
おまけに友達連中は軒並み旅行何なりで不在。しょうがないので一人で黙々と積みゲー
を消化する日々。何か一人暮らしながら普通の休みとやっている事がかわらなかった。い
や、家事という面倒が増えている分普段の長期休暇よりも面倒だったかもしれない。
「…………ん?」
朝の陽光降り注ぐ町並みを眺めながらそこまで考えて一つの疑問に辿り付いた。
何で俺はこんな朝早くに起きているかである。限界まで起き、そして好きなだけ寝ると
いうのがお約束。朝――こんな学校に行くような時間帯にバッチリ起きるなんて珍しい通
り越して奇跡だ。
「ま、たまには朝早くに起きるってのも悪くは――」
”こんな学校に行くような時間帯”。
「…………きょ」
胸騒ぎがして机の上の電波時計を見た。日付を見て凍りつく。
「…………今日から、学校じゃないですか」
春休み、昨日で終わってました。
◆◆◆
「うおおおおおおおおおまさか食パンじゃないけどパンかじりながら猛ダッシュなんてこ
んな古典的お約束展開をやる事になろうとはァァァ!!!!」
力の限り両脚を動かしながら絶叫してみる。まあ叫んだところでこの非常な現実が変わ
る訳ではないが。
ちなみに何で急いでいるのにしっかり朝飯食おうとしているかというと。
学校だと気付く。
時計を見る。
まだそれなりに余裕があった。
じゃあ朝飯を喰おう。
時計が遅れていました。
嘘ォォォォ!!!
どうせなら絶対遅刻な時間に気付きたかった。なまじ急げば間に合いそうな時間だった
のが運のつき、こうして全力疾走をやる羽目になっているという訳だ。
自転車ならまだ余裕もある。だが生憎愛車は不在だった。修理に出したはいいが、何と
引き取りに行くのを忘れていた。休みに引きこもり生活をした結果がこれだ。
「ええいなんてこった! 休みになってからこうもお約束なパターンが多すぎやしません
かゴッド! でも未だ一つとして嬉しくないのは何でですかゴッド!!」
今気付いた。
叫びながら走るとめっちゃ肺痛い。
「――いや待てこの流れはあれかあれですかお約束の曲がり角でドーンですか!? 期待
しちゃっていいんですかゴッド――ッ!!」
どうしよう。
肺が深刻に痛い。
もはや自分が何を口走っているのかよくわからないままも、ともかく学校へ続く道を力
の限り駆け抜ける。そうして曲がり角にさしかかって。
俺は本当に。流石にそれは”無いだろう”と、思い描いていたお約束と遭遇した。
角を曲った瞬間に、別の誰かと鉢合わせ。その事に気付き、慌てて急停止。でも間に合
う筈もない。全力疾走していたのだ。勢いが付き過ぎている。
(ぶつか――――らない?)
激突の衝撃を予感し、身を強張らせる。だが何時まで経っても俺の身体が他人にぶつか
る事は無かった。
「悪いわね」
上から声がした。何となく、よく通る声だなと思う。
ああ、そういう事か。
「ちょっと急いでるの」
要するに。
ぶつかる寸前に、相手が高く跳び上がっていたのだ。自分の頭上を通り越していくのは、
黒髪の少女。赤と白の大きなリボンが特徴的だった。服装は制服なのだが、この近辺では
見たことが無い。顔は逆行なのでよく見えない。スカートの中はバッチリ見えたけど。
「――ていうかこれもう完璧に飛んでねぶっしゃッ!!!」
思わず漏れた呟きが途中で途切れた。
全力疾走から無理な体勢のまま急停止したらどうなるの。
こけます。というかこけました。盛大に。
顔面から。
◆◆◆
「ふ、っふふふははははははは!!!!!」
机をバッシンバッシン叩きながら爆笑してやがる相手を力の限り睨み付ける。だがまる
で効果は無く、前の席に座るそいつは腹を抱えて爆笑していた。
「言ってみろ……何がおかしいのか言ってみろォ――――!!」
「お前の顔」
スッパリ断言しやがったのは霧雨魔理沙。席も近けりゃ家も近い。家何か隣だし、部屋
が迎いにあるせいで家を行き来するまでもなく雑談程度ならこなせたりする。こういうの、
普通なら幼馴染とか言うんだろう。
ただこの魔理沙。見た目は普通に女の子だが、言動が若干男よりなのと遠慮が無い(良
くも悪くも)性格の所為か、実際は悪友とか言った方が近い関係である。
「はー……笑った笑った。で何でそんな事になってるんだぜ?」
涙を拭いながら問いかけてくる魔理沙。俺の絆創膏だらけの顔がよほどお気に召したら
しい。釈然としないまま、今朝俺に起こった不可思議な出来ごとの大まかな流れを説明し
てやった。
「――! ――――!!」
説明してやったらさっきよりも激しく爆笑しやがった。
俺はそろそろ怒ってもいいと思う。
「というか魔理沙、お前何時帰ってきたんだ?」
何かこの話題が続く限り笑われそうなので話題を変える事にした。
「ああ、今朝」
俺の問いに魔理沙はしれっと答える。
「今朝ぁ? じゃあ本当に春休み丸々旅行だったのかよ」
「あー、まーな。色々あったんだよ、私にもな」
左側の三つ編みおさげをいじくりながら魔理沙がどうでもよさそうに呟いた。旅行だっ
たんならもうちょっと楽しそうに語ってもよさそうなものだが。
まあいいか。
「そういうお前は何してたんだ?」
「積みゲー崩し」
「おいおい、もうちょっと健全に休みを謳歌したらどうだ?」
「んな事言われても先立つものがだな――あっ。というか帰って来たならチャリの修理代
払え。誰のせいで俺の愛車が全壊したと思ってやがる」
「そう言えば先生に呼ばれてたな! ちょっと行ってくるぜ!!」
「待てコラァァ! 踏み倒そうったってそうはいかねーぞこのやら――!!」
十分後。
基本休み明けの初日なんて始業式とHRだけと相場が決まっている。
始業式はもう済んだので、後はHRを残すだけ。担任の先生が来るまでの間、教室は話
し声という名の雑音で溢れかえっている。
そんな中、俺と魔理沙は死んだように机に突っ伏していた。
「あ……頭が……!」
「割れる……!」
踏み倒させてなるものかと魔理沙を追って全力疾走したはいいが、運悪く担任の上白沢
先生に発見されてしまった。当然魔理沙ともども捕獲されて頭突きの刑である。
「ったく、お前のせいで酷い目に遭ったぜ……」
「いや元々はお前が人のチャリぶっ壊したのが始まりだろうが」
「……」
「……」
互いに険悪な目つきで睨み合う。間でバチバチと火花でも散りかねない勢いだ。
ただ目力を強めた所為で頭に血が上ったのか、頭痛が加速して二人揃って再度突っ伏す
羽目になったが。
「あ。そーいえば」
「ん?」
魔理沙が頭を押さえながら再度こちらを向く。
「いやな、今朝ブン屋が騒いでたんだ。転校生が来るとか何とか」
「ふーん」
魔理沙が言っているのは朝の教室での事だろう。俺は結局遅刻して始業式の途中から参
加したので、その話は初耳である。
ちなみにブン屋っていうのは新聞部(総勢二名)の部長の事だ。名前は射命丸文。発行
している「文々。新聞」は、どうでもいい事から学園の裏事情まで網羅している事に定評
がある。だいたいがガセだけど。
「転校生ねえ。まさか俺を飛び越えていったのじゃないだろうな」
「ハハハ、意外とそうかもしれないぜ?」
「んな一昔前の恋愛ADVじゃあるまいし――あ」
「どうした?」
「なあ魔理沙、ちょっと聞きたいんだけど――」
朝見た光景で、一つ気になっていた事を思い出す。怪訝気に首を傾げる魔理沙に、率直
に疑問をぶつけてみる事にした。
「お前今日下着何穿いてる?」
殴られた。
グーで。
「痛い!?」
「な、なななな何をほざいてんだぜお前は――――ッ!?」
「殴ったな! 親父にも27回くらいしかぶたれた事無いのに!!」
「多ッ!!」
「……あ、ごめん間違えた。31回だった」
「そんな事はどうでもいい!! 問題はお前が訳のわからん質問をして来た事だろう
が!!」
魔理沙が顔を真っ赤にしてまくしたてる。
どうもコイツはこういう話題になると反応が過剰になる。昔っからそうだ。
「いや別に変な意味は無いぞ?」
「質問からして変だろうが」
「むう。じゃあ説明するから、ちょっと離れてくれ。近い」
よほどヒートアップしていたのか、既に吐く息がかかる距離まで接近している。これで
は説明するにも都合が悪かろう。
「…………お、おう」
魔理沙が更に耳まで赤くなる。たぶん取り乱した事が恥ずかしいんだろう。その証拠に
ホラ、座り方も何か普段より大人しいというか女の子っぽいし。
「いやほらさ。ぶつかりかけた子が俺の上を飛び越えていったって言ったじゃない。その
時に当然の如くスカートの中丸見えだった訳だ痛いッ!?」
また殴られた。
「女の私にそういう事平然と言えるお前の神経が解らん!」
「お前を女の子扱いとか不可能だろ。普段の所業的に考えて」
「ハハハハハ。もうちょっと殴っとこうか」
「あっ、ごめんなさい。か、可愛いよ! 魔理沙は今のままで十分女の子っぽくて可愛い
ですハイ!!」
「声が大きい――っ!!」
「結局殴られたッ!?」
3分23秒。
魔理沙が落ち着くのにかかった時間である。
「でまあ不可抗力ながら見えた訳ですが。何か変わった下着……えーと、何だっけ。ああ
そうそう、ドロワーズだドロワーズ。存在は知ってたけど初めて見たからさ。もしかして
そういうの流行ってんのかなーとかふと思って」
「いや、聞いた事無いが……何度も言うが何で女の私にそういう事平然と聞くかなお前」
「んー特に深い理由は無いけど」
「……ああそうだな。お前はそういう奴だったよ」
疲れた様子で魔理沙が呟く。
そこで教室のドアが開く。上白沢先生が出席簿をパタパタ叩きながら入って来た。席を
離れていた奴は慌てて自席へと戻り、喋っていたやつも口を閉じる。
騒がしかった教室は一瞬で静まり返る。
HRが始まったので先生の話を右耳から入れて左耳から出す作業に専念。おもむろに窓
の外を見やった。俺の席は教室の左後ろの一番最後。我ながら良いポジションに陣取れて
いると思う。
(あーあ。学校始まっちゃったなぁ)
結局春休みに目立ったイベントも無く、新学期が始まってしまった。異星人が攻めてく
るとかそんな異変みたいなのとまでは言わないが、もうちょっと軽い刺激のようなのを求
めてしまう今日この頃。
青空を眺めながら黄昏ていると、教室が再度騒がしくなっている事に気が付いた。もう
HRが終わったのかと意識をこちらに戻す。
上白沢先生は未だ壇上に居る。そもそもまだHRが終わるような時間じゃない。
何事だろうかとぼんやり眺めていると、教室のドアが開いて女の子が一人入って来た。
黒い髪。見慣れぬ制服。そして頭の紅白リボン。
間違いない。
顔自体はよく見ていないが、これだけ特徴が一致するのならばもう間違いない。
驚きに赴くままに俺は行動を起こす。
「転校生の博麗――」
「今朝のドロワ「ああぁ――ッ! 霊夢ッ!?」――何か今日こんなんばっかッ!!」
思わず身を乗り出して叫ぼうする。だが叫び声は俺以上の音量で叫んだ魔理沙の声にか
き消されてしまった。かつ身を乗り出していたせいで、急上昇した魔理沙の頭部が見事に
俺の顎に直撃、後方に吹っ飛ばされる羽目になった。
脳を盛大に揺らされたせいか、意識がぐんぐん遠のいて行く。既に視界はブラックアウ
トしておりサウンドンリーの状態だ。
「――あれ。もしかして魔理沙? ひさしぶりねー」
「何でお前がこんなとこに居るんだぜ!?」
「……何だ、二人とも知り合いか? まあともかく話があるなら後にしなさい。霊夢まず
は自己紹介――」
テレビのスイッチを切るかのごとく。
世界の総てがブッツリ途切れた。
◆◆◆
色の消えた風景が映っている。
子供の頃、俺はもっと田舎に住んでいた。
ある日、俺は寂れた神社を見つけた。興味をそそられた俺は友達やっていたかくれんぼ
の事などすっかり忘れ、その神社を探索する事にした。
しばらくあっちこっちを見て回る。だが大して面白いものは見つからず、俺は速くも飽
き始めていた。そんな風に歩きまわっていると、やがて神社の縁側に出た。
そこでは、同い年くらいの女の子がお茶を啜っていた。
「だれ?」
声をかけられて驚いたのを覚えている。人がいるかもしれなかったから、出来る限り
そーっと近付いた筈だったのに。
「もしかして、さんぱいきゃくのひと?」
突然女の子の顔がぱあっと輝かんばかりの笑顔になった。すいませんただの冷やかしで
すと返そうとするも、その笑顔があんまりにも明るくて俺は言葉に詰まったのだ。
そして沈黙を肯定と受け取ったのか。その子はそんな眩しい笑顔のまま――
「素敵な賽銭箱はあっちよ」
◆◆◆
「――――ん、――くん。――起きてください――」
「うーんうーんすいません今持ち合わせが無いんです本当なんです勘弁して下さいいやそ
んなその場でジャンプしてみろって言われ――はっ。此処は誰!? 私は何処ッ!?」
「逆になってますよ」
肩をゆすぶられて俺の意識は現在へと舞い戻る。目を開けると困ったような顔で笑う学
級委員長の姿があった。蛙と蛇の髪止めが今日も絶賛トレードマークである。
「あれ。誰かと思えば容姿に加えて気立ての良さで我がクラスどころか学園総合でのアイ
ドルの名を欲しいがままにしているだけど宗教の斡旋だけは勘弁な! の東風谷早苗さん
じゃないですか。この哀れな一般モブに何か御用でしょうか」
「もう完膚無きまでに大丈夫そうですね」
「あれ? そういえば何でほとんど人居ないんですか? HRは?」
「もう終りましたよ」
という事は俺は気絶したままHRが終わってもなお放置されていたという事か。
「なにこの放置プレイ……ああ、すいません。わざわざ起こしてもらって」
「気にしないでください」
笑顔で言う早苗さんがちょっと女神に見えてきた。早苗さんがいなければ何か夕方辺り
までそのままだった気がする。
「よし。思ったより時間たって無い――あ、そういや転校生もう帰ったんですか」
「ああ霊夢さんなら誰よりも先に帰っちゃいました」
「あ、そうなんですか。てっきりお約束の質問攻めにでもされてると思ったんですが」
「そうなりかけたんですけど」
『だるい。帰る』
「――と言い残してそこの窓から」
「ここ三階でしたよねえ!?」
ぴっと早苗さんが指した窓に思わず駆けよって下を覗き込む。見下ろすとグラウンドが
あるだけだ。無事に着地したという事か。何者だ転校生。
「じゃあ私は帰りますね」
「あ、はい。起こしてもらって本当ありがとうございましたー」
早苗さんを見送って、もう一回窓から下を見下ろした。
改めて確認するまでも無く、高い。
「……忍者の末裔かなんかかな」
とりあえず俺も家に帰る事にした。
◆◆◆
帰りは行きよりもずっと速かった。修理が完了していた愛車を引き取ったからである。
ついでに買いものでもしていこうかと思ったが、面倒になって止めた。
まだパンとかカップ麺は残っていた筈だ。買い物は次の週末にでも改めて行くとしよう。
そうして我が家である。
春休みは終わったが、両親はまだ帰ってこない。下手したら一年以上かかるかもしれな
いとの事だ。不便ではあるが、解放感を感じているのもまた事実。精々謳歌するとしよう。
そんな風に考えながらチャリを車庫に叩き込んで玄関へと向かう。
そこで人影を見つけて足を止める。玄関の前で女の子が我が家を見上げていた。
黒髪紅白リボンを見るのは今日三回目の事だ。
「忍じ――転校生じゃん。何してるんだ?」
声をかけると向こうがこちらに振り向いた。これで会うのは三度目の筈なのだが、顔を
しっかりと見るのは初めてかもしれない。
何せ先の二回は即座に気絶したしな。
「ここって、あんたん家」
「そうだけど。何か用?」
何故この場にこの子がいるのかが未だに理解できず、困惑しつつも返答する。
……そういえばこの子の名前がわからん。
ええい思い出せ働け俺の脳細胞。確か上白沢先生が『博麗』って言って、その後に魔理
沙が『霊夢』って続けていた。
単純に考えて、名前は多分『博麗霊夢』だろう。
「私今日から此処で厄介になるから、よろしくね」
「あー、そう。よろしく」
今日はいい天気ですね、位の軽いノリでそう言うのは博麗霊夢(推定)。思わず返事を
してしまった。霊夢(推定)の方は鞄から鍵を取り出して、玄関を開けるとそのまま中―
―俺の家の中に入っていった。
その場で呆然と立ち尽くす。何だろう、何か重要な事がさらっと流れていった気がする。
”此処で厄介になる”。
イコール。ここに住む。
「…………ゑっ?」
──────────────────────
我が家に居候が住む事になりました。
しかも女の子。
「――――聞いてねええええええええよおおおおおおお!!!!!!」
自宅の玄関先で力の限りシャウトするという醜態をさらしてから大体三時間後。俺は再
度自宅の前へと舞い戻っていた。
「ゼェゼェ……ハァハァ……くそ……俺とした事が……空港に着いてからチケットを買う
金が無い事に気がつくとは…………不覚…………!」
衝撃の新事実を知った俺はほぼ条件反射で両親とコンタクトを取ろうと動いていた。両
親は海外に居る訳だから、直談判するのなら俺も海外に行かねばらない訳で。
思い立ったが吉日とか何とかでチャリを死ぬ気で漕いでちょっと空港まで行ってきた。
「ふふふ……よく考えたら電話でいいじゃん……! 俺ったらうっかりさん……!!」
俺は決して馬鹿では無い。ただ行動力が有り余っているだけだ。
……金が足りずにチケットが買えなかったのは幸いだったかもしれない。
そんな訳で再びマイホーム。悲鳴を上げる肺と地味な痛みを訴える四肢を引きずりなが
ら玄関を開ける。
「あれ?」
何で鍵が開いてるんだろうとふと疑問に思う。
――私今日から此処で厄介になるから、よろしくね
「…………忘れてた」
”女の子が家に住む”という事実があまりにもショッキングだったせいか、実際に居る
女の子の方をすっかり忘れていた。
「ていうか放置しちゃったじゃんかヤベエ!!」
慌てて家へと入る。玄関先に靴があったから家の中には居るのだろう。とりあえず何処
から探そうか一瞬だけ考えて、一番近い台所へと滑りこむ事にした。
「あらおかえり。何処行ってたの」
居た。しかも何か座って一服していらっしゃる。お茶と煎餅的な意味で。
というか煎餅なんて買ってあったっけ。
「ビンゴ!!」
「は?」
細かい事はさておいて。一発目で当たると思って無かったので反射的に叫んでいた。何
かとても変な物を見る目で見られる羽目になったが。
「あ、いえ何でもないです……って」
そこで不意に気が付いた。現在進行形でお茶を啜っている転校生博麗霊夢嬢(推定)が、
服を着替えている事に。それはリボンと同じ紅白で、腋の部位が開いた構造だ。
同じ呼称を持つ服装の中でもかなり珍しいタイプだろう。
「…………あの、何で巫女服なんすか」
「あー、何か昔っから着てるせいかもう普段着の粋なのよねこれ」
「普段着がそんなんでいいのか!?」
「いいのよ」
いいらしい。まあ本人が良いって言ってるからいいか。
「で、何時まで突っ立ってんの? 座ったら?」
「あ、ハイ……」
言われて俺も椅子に座る。ちょうど博麗霊夢嬢(推定)と向かい合う形だ。
向こうはそれで満足したのかバリバリ煎餅を齧っていた。相変わらず煎餅なんて渋いお
菓子買った覚えがないのだが、もしかして持ち込みなのだろうか。
(いやよく見ると湯呑が明らかに自前だ! 持ちこみだ! このお茶セット一式(和風)
明らかにこのお嬢さんの持ち込みだァ――!!)
とまあ些細な事に戦慄しつつ、相手をちょっと観察してみる。
うむ。可愛い。美少女に分類しても十人中四人位しか文句は出ないだろう。多分その四
人は目付きと雰囲気が気だるげとか辺りで引っかかると思う。
俺は気にならないので別によし。
まあ、衣装が一般家庭の台所に酷く似つかわしくないのは置いておこう。
「えーと、博麗、さんでいいんですっけ?」
「合ってるけど。朝学校で自己紹介したじゃない?」
「大変申し訳ないのですが当方その際気絶しておりまして」
「ああ。横の席で白目剥いて泡吹いてたの、あんただったのね」
「そんな酷い状況が目に見えているのなら何かアクションしましょうよ! 具体的には助
けるとか助けるとか助けるとか――ッ!!」
「面倒」
俺の当然の訴えは一言でザックリ切り捨てられた。
というかこの子俺の隣の席だったのか。そういえば空席だったっけ、俺の隣。
「博麗霊夢」
「うん?」
「だから、名前。博麗霊夢ね。霊夢でいいから」
何故だか知らないが割と呆れた様子で博麗霊夢(推定)……あ、もう推定じゃないか。
ともかく名前で呼んでもいいらしい。最後に付け加えるように敬語も要らないと言われ
た。タメ口でいいらしい。何か本当ザックリした性格だなこの子。
「じゃあ霊夢。とりあえず一つこれだけは聞いときたいんだけど――その格好は趣味なの
かそれとも何かしらの必要性に駆られてのものだろうかどっちだろう」
俺の言葉に霊夢はくい、と腕を上げつつ。
「ま、慣れちゃったけど趣味ってほどじゃないわね。一応巫女やってるから」
「ああよかった服装のセンスがちょっと特殊な人だったら今後どうやって付き合っていこ
うか不安になるとこだった」
「本当にわかってなかったの?」
「え。何が?」
「だってあんた、これ見て真っ先に『巫女服』って言ったでしょ。着てる私が言うのも何
だけど、これ結構変わった形してるから」
腋出てますもんね。
「だから説明するまで巫女服って認識されないコトが多いのよね。直ぐ巫女服だってわか
ったって事はてっきり知ってるもんだと思ってたわ」
「あー……そう言われてみればそうだな」
言われて気付いた。何故俺はこんな腋出し紅白衣装を即座に『巫女服』と認識したのだ
ろう。世間一般広く知られている巫女服の定義とは色位しか一致していないのに。
「……うーむ」
その理由をしばし考える。
霊夢は煎餅を齧る手を止めてこちらの様子を窺っている。あんまり見られると何か妙に
気恥しい。気を逸らすためにも思考の海に沈む事数十秒。
「うん。わからん」
結局特に思い当らなかった。
「……………………ムカツクくらいに昔通りだわこいつ」
「え? 何?」
「何でもないわよ」
霊夢が何か呟いていたのはわかるのだが、聞き取れなかったので聞き返す。
返ってきたのはさっきよりも若干トーンが落ちたというか、やや不機嫌気な返答だった。
煎餅を齧る音がちょっと物騒になっている気がする。
あれ。俺なんか気に触るようなこと言ったんだろうか。別に普通の会話しかしてない筈
なんだけど。
「とにかく霊夢って本物の巫女さんなのか。へー……。あ、巫女さんて具体的にはどんな
事やるんだ?」
「大した事はしないわよ。たまにちょっとした事やるだけ。普段は境内の掃除とお茶を飲
む位ね」
何かおかしいの混じってる気がする。
たぶんこれスルーした方が良いな。
「ふーん」
「ああ、そうそう。退魔みたいなのもたまにやるわ」
「退魔って妖怪退治の事か。でも今の御時世じゃそんなに無いだろ。問題起こす妖怪なん
て滅多に居ないって聞くけど」
「……信じた、というより――もしかして知ってるの?」
霊夢がちょっと呆けた顔になっていた。
俺が普通に返したのが意外だったらしい。
「そっち系の道と血筋が軽く繋がっててね。そのせいか見える事は見えるんだなこれが。
別に能力とかそういうのは無いけどさ」
科学万歳な現代社会ではあるが、実際妖怪とかそういう類は割と居たりする。
流石に見た目化物チックな方々は山奥だったり特殊な場にいらっしゃるが。
でも比較的人間の姿に近いものは人間社会に溶け込んでいる。無論彼等は常人が見れば
普通の人間に見える。
ただ霊力なり魔力なり、そういうモノ持ち合わせていると話は別だ。
妖怪の特徴――手頃なとこで獣の耳とか尻尾とか羽根があるのが見える訳だ。それで俺
はそれが見える側の人間だった。
けど、だからどうって事も無い。
見えたからってどうしたいとも思わないし。
というか見えるだけでどうにもできないし。
「いつから?」
「たぶん最初から見えてたんじゃないかなあ。でもさー、それが特別側だって思わなくて
さー。本格的に気が付いたのはだーいぶ後何ですよねーハハハ」
最初は両親も祖父も俺が何も言わないので見えないのだと思っていたらしい。ちなみに
両親は見えない。祖父は見える。
あれは何時だったか。たぶんこの街に住み始めて少したってからだと思う。稽古の帰り
に祖父と歩いていた時の事。
『あの子は黒犬耳より白犬耳の方が似合うと思うんだけどなあ』
盛大にズッコケる祖父を、その日俺は始めて見た。
「とまあこんな感じで。その日発覚したけど、ちょっと説明された位で今に至る」
「……」
話し終えた。
霊夢はというと、口をぽかんと開けて呆けている。
「あれ、そんなに変な話だった?」
「変」
断言されてしまった。
これについては深く考えたことが無かった。そもそも話せる相手も居なかった事なので、
俺の基準がどうなのか解る訳が無いのだが。
そうか、俺の考え方は変なのか。極めて常識的な一般人のつもりなんだけどなあ……
俺が押し黙っていると、何故か霊夢がふっと顔を綻ばせる。
おやと首を傾げる間もなく。がたと椅子を鳴らして霊夢が身を乗り出したかと思うと、
伸ばした人差し指で俺の額を軽く突っつく。
「――もう。相変わらずバカなんだから」
さっきより格段に近い距離で、なぜか嬉しげに笑う霊夢。鼻先にかかる吐息がくすぐっ
たかった。女の子が良い匂いするって言うの、本当だったんですね。
俺の何がお気に召したかはまるでわからない。けど笑った霊夢の――その表情がどうに
も不意打ち過ぎて思考がフリーズした。
あれ。でもよく考えると俺罵られてませんか?
「さて」
これまた唐突に霊夢が離れる。さっきまでの様子は何処へやら、既に元の気だるげな様
子だった。
処理能力ガタ落ちの俺など気にした様子も無く、霊夢はテーブルの上のお茶セットを片
付けてしまう。
「荷物とか片付けたいんだけど、ちょっと案内頼んでいい?」
「えー、あーうん。オッケー」
「そ。じゃあお願いね。まあそんなに無いけどね……そういえばあんた、さっき何処行っ
てたの? 何か奇声上げながら走ってったみたいだけど」
「ちょっと空港に――」
あ。忘れてた。
「って和んでる場合じゃねええェェェ!!!」
絶叫しながら立ち上がり、飛びかかる勢いで電話の子機へ手を伸ばした。
◆◆◆
「それでいいのか。それでいいのか両親よ……!」
夕方。窓の外は茜色。
電話で一時間ほど親子で言葉(拳)のキャッチボールをした後、霊夢の荷物整理の手伝
いをしていたらすっかりこんな時間だ。
言葉通りというか、霊夢の荷物は本当に少なかった。むしろ少なすぎてちょっと心配に
なるレベルで。
そして霊夢は俺の自室と二つ隣の部屋に本当に住む事になった。というかなっていた。
俺の知らない所で。
「伝えるの忘れてたじゃねえっつうの……」
窓枠に身体を預け、空を見上げながら力無く呟いてみる。
霊夢が何かしらの用事(詳しい事は伝えられた無い)でこっちに来たのはいい。
霊夢側の親と知り合いだった俺の両親が霊夢を預かる事を快諾したのも、これだけなら
おかしくもない。
問題は。現在我が家は両親が不在で息子一人という状態だという事だ。
「そんな状況で快諾するかフツー。ていうか俺に何で黙っとくねん……」
さっきから溜息が止まらない。
幸せが絶賛逃亡中だろう。やべえ、ただでさえ俺幸が薄いのに。
「どーしてこーなったのかなー……」
呟いたところで、ごとと物音がした。
たぶん霊夢が何か整理しているんだろう。
「…………か、壁二枚の向こうに、女の子居るんだよなあ……」
まあちょっと無愛想ですが。
改めてその事実を認識すると、何とも言えない気持ちがこみ上げてくる。
悲しい事に女性方面は結構疎い俺である。
魔理沙とは付き合いが長いし、泊めたり泊まったりもそれなりに経験している。だがど
うにもあっちの場合悪友としての意味合いが強い付き合いだ。
それに魔理沙との付き合いは両親が居た。だが今回は完全に一つ屋根の下二人である。
「――あああぁぁぁ考えたら考えるほど何だこの状況――――ッ!!!」
何だろう。これから先が不安でしょうがない。
いや嬉しくないかっていわれたら間違いなく嬉しいって言うか美味しいのだが。
「何やってんだ?」
頭を掻きむしって悶えていたところ声をかけられた。二階にある自室にこの距離で声を
かけられるのは一人しか居ない。
「よう魔理沙」
「よーす」
案の定。向いの窓が開いて魔理沙が顔を出していた。互いに片手を上げて挨拶。
「で、何かあったのか? 奇行は何時もの事だが、今日はいつにも増して酷い気がするん
だぜ」
「脳のキャパ超えた人間は大体こうなるんだよ――ていうか何だその言い方。俺が普段か
ら奇行に走ってるみたいに」
「自覚なしか。こいつは始末が悪いぜ」
ふーやれやれとか聞こえてそうな感じで魔理沙が肩をすくめて首を振っている。
「この、言わせておけば――」
「あはははは。事実だろー」
「ちくしょう、お前には優しさが足りやしねえ」
「?」
「お前だッ! ていうかお前の部屋何だからお前以外居らんだろうが心底疑問気に後ろ何
か振り向き寄ってからにこの――ッ!!」
何がおかしいのかケタケタ笑っている魔理沙。
どうにもこいつは俺をネタにして笑い過ぎじゃなかろうか。
「――ああ、ああ。ここまで近付いたんだ。そう簡単にくれてやるか」
「? 何だって?」
「……いや、何でもないぜ!」
一瞬だけ俯いた魔理沙は、そう言うと再度顔を挙げて笑いだした。
その笑顔は普段と変わらない様に見える。
(何か一瞬暗くなってたような。気のせいかな)
それにしても何か俺に聞こえない呟きをされる事が多いなあ。
何か内容が微妙に気になるんだけど。
「そんな事よりだな。お前霊夢知らないか霊夢。今日探し回ったんだけどみつかりゃしな
いんだ」
「何でまた……ん? そういや霊夢霊夢って、何。魔理沙知り合いだったのか?」
「ああ。あいつはな」
思い出す。そういえば魔理沙は朝、霊夢を見てえらい反応していなかったか。
もしかして知りだったのかなあとか考えつつ、魔理沙の言葉の続きを待つ。
「ライバルだ」
その答えは想定して無かったよ。ていうか出来るか。
(……いやライバルって何さ)
あの魔理沙さん、なんで拳握り締めてわなわなしてらっしゃるんでしょう。
どうしよう。物凄く返答に困る。
「という訳で探してるんだ。何の連絡もなしにいきなり現れやがって。一言言わないと気
が済まないんだぜ。うーん、アイツん家どこなんだろーな?」
あっはっはっは。
お探しの方なら二つ隣の部屋にいらっしゃいますよー。
「言えねえ……!」
思わず小声で呟いていた。
魔理沙の様子を見るに二人は何かしらの因縁があるらしい。
(いや、でも何時かは……ばれるよなあ……)
家が隣なのだ。いくらなんでも隠し通すってのは不可能だろう。
ただ今はマズイ。
だって何か魔理沙ヒートアップしてるし。今言ったら『匿ったお前も同罪だ』とか何と
か言われて処刑されそうな気がするというかそうに違いない。
俺その決定に実際全然関わってないのに。
まあ知ってても快諾したと思うけど。
断るとか――あるわけ無いでしょう?
(――よし。機会を見計らって自然に切り出そう!)
何やらイライラしてうーうー唸る(威嚇行動する猫のようだ)を見て、そう堅く決心し
てみたりする。
「ねえ。夕飯どうする? 冷蔵庫空何だけど」
オープンザドア。
後ろからかかる霊夢の声。すげえな。血の気が引くと本当にザーッて音するのか。よく
あるマンガの擬音みたいな事が今まさに俺の顔面で。
どうしよう。
よろしくない。
この流れはよろしくない。
驚いたのは俺だけじゃなかったらしい。視線の先にある魔理沙の表情がぐるぐると変化
する。最初は目をまんまるにして、その後口をぱくぱくさせて、一気に憤怒の表情になっ
て目じりが吊り上がった、かと思うと一転して怖い位の無表情になった。
「三行」
「何か
居候する事に
なったらしい、よ」
そして魔理沙は満面の笑みになった。
俺こんな怖い笑顔見た事ねえよ。
「ちょっと。聞いてる?」
「ノック――――――!!!!!」
後ろからの声に絶叫しながら振り向いた。
前の現実に耐えられなくなったともいう。
「ノック、ノックしましょうよ霊夢さん! 先人の発明した偉大な礼儀作法――ッ!!」
「良いじゃない別に。見られて困るものがある訳じゃなし」
「貴方が見て困るものはありませんが貴方を見て困るものがあったんですよォ――!!」
本当にヤバいのはベッドの下じゃなくて本棚下に厳重に封印してあるから。
ぱっと見は解らん筈。だから大丈夫。
「ふーざー」
感じる悪寒。
さっきまで前、今は後ろの方向へ再度身体を向け直す。
「けるなああああああああああ!!!!!」
「ぎゃあ――ってあぶねぇ!?」
思いっきり助走を付けてのドロップキック。元々そんなに距離の無い窓と窓の間を、魔
理沙は文字通り飛び越えて俺の部屋へいらっしゃいました。
ええ、突き刺さりました。
見事に。
(何か、今日――本当気絶してばっかだなあ……――)
薄れゆく意識の中、駆け巡るのは今までの経験――あれこれもしかして走馬灯?
ってマジで走馬灯だこれ! 子供の頃の記憶とか普通にあるよ!!
あー、懐かしいなあ。田舎に住んでた頃だ。
確かこの頃、仲のいい子が居たんだよなあ……元気かなあ――――
無垢な幼少時代の光景に浸りながら、意識が落ちるままに瞼を閉じる。
あ。そういや魔理沙はドロワじゃなかったな。
やっぱ流行っては無いらしい。
──────────────────────
「私もここに住んでやるぜ!!」
「なにそれこわいッ!!」
気絶復帰直後のやり取りというか第一声というか。復帰直後の脳でも人間意外とちゃん
とノリ良く受け答えできるもんだなと思ったりした。
「大体住むも何もお前家隣じゃねえかよ! 歩いて一分飛んで五秒だろ!!」
「うるさいこのバカ」
場所はリビングに移っている。俺の当然の意見に対し、魔理沙から返ってきたのは罵り
である。更に鼻を鳴らしながら勢い良くそっぽを向く魔理沙。
さっきまでのハイテンションはどこへやら、今は”ぶすっ”としている。
「あー、はいはい。とりあえずそれ置いといて」
パンパンと手を叩く音に顔を向ければ、相変わらずけだるげな様子の霊夢が視界に入る。
魔理沙は少々過剰反応過ぎると思うが、逆にこの子は反応が薄すぎやしないかと、そん
な事をふと思った。
「とりあえず晩御飯どうするのか決めてからにしない? さっきも言ったけど冷蔵庫空っ
ぽなのよねー」
再登場の愛用湯呑片手に、霊夢がぴっと指すのは我が家の冷蔵庫。容量はあるが、春休
みの自堕落生活のせいで補充されていないため中身はほぼ空である。あるとしたら調味料
くらいだろうか。
その前に何時の間にお茶淹れたんだろうこの巫女さん。
「最近買い物行ってないからなあ」
呟きながら時計を見ればもうすっかり夜である。スーパーとかは大体閉まっているだろ
うし、そもそも今から外出して、帰ってから調理というのはなかなかに億劫だろう。
「お前が気絶してたせいですっかり夜だからな」
「まず誰のせいで気絶したかを思い出しやがれ」
「――?」
「このやろおおおォォォ!!」
魔理沙が心底疑問気に自分の後ろに誰か居るっけ的に明後日の方向へ振り向いた。表情
と仕草が無駄に可愛らしいのが憎らしい。
テーブルをバァーンと叩きながら絶叫するが、魔理沙は別に気にした風も無い。むしろ
してやったり顔である。
「しかし参ったな。晩飯はこっちで集ろうと思ってたんだが、当てが外れたぜ」
俺の魂の慟哭など聞こえないと言わんばかりに。魔理沙はそんな事を呟いていた。
顔がさっきからにやにやとしているから、憤っている俺を見て楽しんでいるに違いない。
このサディストめ。
「ええい相変わらず図々しいやつめ。まあ仕方ない、今晩は適当に済まそう。買い物は明
日の帰りでも行けばいいや。霊夢、それでいいか?」
「…………相変わらず、ね…………ふーん……」
同意を求めて霊夢へ向き直るが、返事が無い。むしろ俺の声が届いていないようである。
虚空――というよりはどこにも視線を向けないまま、何やら”面白くない”とでも言いた
げな表情をしている。何かメガ怖い。間違えた。眼が怖い。
何故そうなったのかは不明だが、気怠げな表情ばかりしていたものだから、こういう表
情をしている霊夢が少し新鮮に映った。
普通こういうのは可愛らしい挙動とか笑顔とかに対して感じると思わなくもないが、実
際こんなふくれっ面に感じているのだからしょうがない。
「おーい、霊夢ー」
「…………え? 何?」
とはいえこのままにしておくわけにも行くまい。
もう一度呼びかけると霊夢がハッとした様子でこっちに顔を向けた。その返答は若干慌
てた様子こそ感じるが、それだけだった。
「いや晩飯な。今日のとこは適当でっていう話」
「あ、ああ――うん。私は別に構わないから」
「悪いな。来るって事前にわかってりゃ用意しといたんだけど……」
「別にその位気にしてないわよ。こっちは厄介になる身だしね」
「ん。そう言ってもらえると助かる」
霊夢が軽く笑ってきたので、こっちも軽く笑って返す。
「……ふん」
さっきのおかしな様子等無かったように普通に戻る霊夢、一方相変わらず不機嫌な魔理
沙が居た。霊夢の前に置かれた小皿から掴み取った煎餅を、まるでカタキと言わんばかり
にバリバリバリと威勢のいい音と共に咀嚼している。
下手に刺激すれば爆発しそうである。よし放っておこう。爆発されたら面倒だ。
「さて本格的にどうするか……あ、いっそ外に食いに」
「奢りだああああ!!」
「奢らねえよッ!!」
バンザーイ! と飛び上がる勢いで立ち上がる魔理沙に反射的に一喝。そのまま威嚇し
合い、膠着状態に陥った俺と魔理沙に対して、茶を啜りながらの声がかかる。
「それなんだけど」
◆◆◆
最初は霊夢は夕飯を作る気だったらしい。
居候にしてもらうのは何とも気が引け――いやむしろ居候ってこういうのするもんか?
――俺の眼の前には炊けた白米がそれなりの量。
無論いきなり出現した訳ではなく、霊夢が炊いておいたものである。
冷蔵庫は空だったが米の備蓄はまだあった。なので霊夢もとりあえずそっちの準備を先
にしていたとの事。
海苔やら塩はあったので、今晩はおにぎり辺りを作る事に相成った。ある程度量を作っ
ておき、明日の朝飯にも回す予定だったりする。
(それはいいんだけど)
掌の上で白米の塊をくるくる転がしながら、天井を見上げる。
場所はほんの少しだけ移動して台所。まあ塩振って握るだけとはいえ調理するんだから
台所に来るだろう。
重要なのはそこでなくて、位置関係である。右に霊夢で左に魔理沙――どちらも俺と同
じように掌の上で白米の塊を手頃に握り固める作業に勤しんでいる。
(…………狭い)
我が家の台所自体はそこまで狭くはないのだ。でもさすがに人間が三人横に並ぶと、何
かしらの圧迫感を感じてしまう。
それ以前にこの二人の距離が近すぎる。確かにスペースに余裕はないが、それでももう
少し横に広がれる筈だ。二人が直ぐ両隣に立つ現状では迂闊に身動き出来ない。
手は動かしたまま視線だけをちらりと左側に向ける。そこには鼻歌交じりにおにぎりを
握る幼馴染が居る。正直なところ、魔理沙が手伝いを申し出るのは予想外だった。普段な
らあーだこーだ言ってこっちに作業を丸投げし――そして俺より多く食うのだこいつは。
全く嘆かわしい。世の中はこういう些細な理不尽で溢れている。
「思ったよか上手いじゃない」
右側から声をかけられる。左側に意識がいっていたので気付かなかったが、何時の間に
か霊夢がこちらの手元を覗き込んでいた。
覗き込んでいるせいか、さっきよりも身体が近い。今にも密着してしまいそうである。
それは精神の耐久値的によろしくないので、身体をずらそうとする。
が、左側には魔理沙が居るのでそもそもスペースが無い。それでも気持ち身体を横にず
らしつつ返答する。
「でも料理なんて最低限のことしか出来ないけど」
「そのくらい出来れば十分なんじゃない?」
受け答えしつつ、霊夢の手元見やると、淀みない動作でおにぎりが大量生産されていく。
料理なんて焼く炒める程度しか能が無い俺だが、霊夢は料理上手いんだろうなと何となく
窺えた。
「それにしても――奇麗だな」
「へっ」
霊夢が素っ頓狂な声を上げて固まった。握っていたおにぎりがいきなり過剰に力を加え
られたせいか、霊夢の細い指から米がにょぎょりとはみ出ている。
「な、何いきなり変、な……こ、と……」
ぷいとそっぽを向いたかと思うと、一粒残さずその存在握りつぶしてくれるッ! と言
わんばかりに手元の白米を握り潰す霊夢。
手元によほど力を入れて体温でも上がったのか、見えている耳が赤い。顔は見えないが、
この分だと顔も赤そうだ。どんだけ力入れてるんだろうとちょっと戦慄する。
「いや、変か? だっておにぎりの形が実際奇麗だろ。俺のはこう、何か上手くも無けれ
ば下手でも無い中途半端というか?」
「――――――ああハイハイ、おにぎりの事ね」
「ふぇ? 他に何かあります?」
消失するさっきまで感じていた圧力(プレッシャー)。霊夢がふーと長い息を吐く。そ
のまま霊夢は俺の問いに答える事無く、再度おにぎりの量産に復帰する。
「れーむのはやとーちーりー」
霊夢の態度に首を傾げていると、唐突に左側から魔理沙の声が聞こえてくる。何か妙に
底意地が悪い声である。クックックとか続けたらとても似合いそうだった。
「――――――ッ」
あれ。
何だろう。
何か右側が、とても怖い。
「あっはっはっは。こいつが”そういう事”言うわけがないだろう。まあ付き合いの短い
霊夢にはわからんかもなあ、あっはっはっは」
さっきまでの不機嫌オーラは何処へ行ったのか、至極愉快そうに続ける魔理沙。そして
魔理沙が言葉を続ける度に右側が――もう何か怖いを通り越して寒い。
(何だ、何なんだこの状況は……ッ!?)
右側に気を取られがちだが、魔理沙の方も笑いながら重圧を放っている。まるで霊夢と
魔理沙で睨み合いでもしているうかのようだ。おにぎりを握りながらで、しかも視線も合
せていないのに、である。
両側から放たれるプレッシャーは、おにぎりを握り終えるまで止むことはなかった。
◆◆◆
「――疲れた」
俺は身を投げ出すようにしてベッドにダイブ。ごろりと仰向けに寝転がる。
既に風呂も終り、もう後は寝るだけだ。明日の事を考えるならもう眠ってしまっても問
題ないだろう。普段ならゲームやマンガに手を伸ばす所であるが、今日はそんな気力も残
っていなかった。
「……それにしても」
新学期初日から随分と濃い一日だった、と思う。まるで春休みの虚無ぶりを取り返すか
のようだ。
何かこの疲労度(主に精神的な方向で)的に明日は休みたいところだが、無情にも明日
は普通に学校がある。その手のゲームとかなら、こういう流れで転校生が来た次の日は都
合よく休日である事が多いのに。
「あ。誤魔化し方考えとくか……霊夢と一緒に住んでるなんざ馬鹿正直に言いふらしたら
袋叩きに遭いかねん……」
独り言を呟きながらのそりと起き上がる。霊夢が俺の家に居候するのはもういいとして
も、何か適当な言い訳なり誤魔化しを用意するのが賢明だろう。
「手近なのだと、まあ遠い親戚で――とかそんなんだよねえ」
何か良いフレーズは無いかと本棚から小説なりマンガなりを抜き出してパラパラとめく
る。しかしまさかマンガを参考にする日が来ようとは。
「入るわよ」
「どぅおッ!?」
声と同時にドアが開く。一人暮らしの習慣が見に付いていたせいか、誰かが部屋に入っ
てくると言う事態を全く想定できなかった。
「……なにやってんの?」
「純粋にびっくりしたんだよ! ノックしろって言ったろう!?」
マンガ本を放り出し、起き上がろうとしたら足を捻ってそのまま床に墜落。そうして変
な体勢になった俺を見て霊夢が眉をひそめる。
「あー、言われたような……言われてないような……」
「言いいましたとも! …………まったくもう」
明らかに覚えていない様子の霊夢である。
とりあえず起き上がった。
「で、どうかしたのか? 何かわかんないことでも?」
「ん。いやそういう訳じゃないんだけど、ね」
不自然に言葉を切った霊夢が、そのまま何を言うでも無く視線を宙に泳がせた。
少しの間そうしていたが、やがて俺の方へ向き直る。
「これからずっと、お世話になります」
微笑みながらそう言うと、霊夢はものすごい高速で部屋に帰っていった。何の事はない、
改めて挨拶がしたかったのだろう。律儀な事である。
そうして俺の心はさっき来た霊夢によって埋め尽くされている。カーテンを開け、窓を
開ける。現れるのは当然ながら夜空である。そうして思っていることを星空に向かって吐
き出した。
「あの巫女服……パジャマでもあるのか…………」
もう寝る時間なのに、さっき来た霊夢は例の巫女服だった。そんなに機能的なんだろう
か、あの服。割と肌寒そうなのに。
「…………」
「……うおっ、ビックリしたっ」
そのまま夜風に当たっていると、向かい側の窓から顔を半分だけ覗かせている魔理沙を
見つけ、ぎょっとしてしまう。そのジト眼で何時からこっちを見ていたんだろうか。
「何やってんだぜー」
「いやさっき霊夢が部屋に来てな」
「! …………それで?」
時に魔理沙、いい加減顔を出せ。
何時まで半分なんだお前は。
「いや急に入ってきたから驚いてベッドから落ちて強かに顔面打ってな。顔が熱いから冷
やしてるんだ」
「アホ」
「うるせえやい」
そこでようやく魔理沙は顔を全部出した。俺の無様っぷりがお気に召したのか、にしし
とか聞こえてきそうな笑顔になる。
「相変わらずのマイペースっぷりだな、お前は」
「お前に言われるとすげえカチンとくるんだけど」
「?」
「だからお前だっつうんだよ!!」
毎度のように後ろを振り返る魔理沙。
「ええい毎度毎度同じネタを! 他ならともかく”ここ”での会話に俺とお前以外居るわ
けねーだろうが!!」
「――!」
フイを付かれたかのように、魔理沙の肩がちょっとだけ跳ねる。
「あー……ま、まあ、そうだよな。ここは私とお前の場所、だもんな……えへへ」
「?」
俺としてはそのまま、なんせ高レベルの腐れ縁だからな! とでも続けようと思ったの
だが、魔理沙の様子がおかしいので見送った。
魔理沙は明後日の方を向きながらぼそぼそと呟いている。気のせいでなければ口元が緩
んでいるようにも見える。
「何ニヨニヨしてんだ?」
「っ! ――してない、私は別ににやにやなんてしてないぜ!?」
「いやして、」
「おーっともうこんな時間だ私は寝るぜっ」
俺が言い終わる前にバシャーッと盛大な音を立てて閉じられるカーテン。俺はその速度
に呆気に取られ、しばしフリーズする。
なんだったんだと呟こうとしたら、しゃらしゃらと音を立ててカーテンが少しだけ開い
た。そこから魔理沙が少しだけ顔を覗かせる。
「…………また明日、な。おやすみ」
「おーう。おやすみー」
ひらひら手を振りながら返答すると、今度こそ魔理沙は部屋の中と戻っていったようだ。
窓も閉じたから間違いないだろう。
俺も窓とカーテンを閉め、目覚まし時計をセット。
部屋の電気を消して布団に潜り込んだ。
そういえば霊夢が来たせいで言い訳の類を結局考えていなかった事を思い出す。他にも
これからの生活がどうなるかとか、色々と噴き出してくる。
それら全部を放棄して、俺は眼を閉じた。
「………………まあ。なるようにしかならんわな」
今日はもう眠ろう。明日に備えて。
──────────────────────
「何でおるねん」
朝起きて第一声がそれだった。目覚ましを叩き壊す勢いで止め、下へと降りてきてみれ
ばリビングには我が物顔で珈琲を飲む魔理沙が居た。
「おはよう、ねぼすけ」
「誰がねぼすけかこの野郎おはようございます」
家が隣同士なので朝一番に魔理沙とエンカウントするのは初めてではないが、珍しいと
いえば珍しい。俺も朝はそんなに強くないが、魔理沙と比べたら俺の方が概ね早く起きる。
だから俺が朝飯食ってる時に魔理沙が顔を出したり、俺がギリギリまで眠りこけてる魔
理沙を起こしに行く方が多い。
「失礼なヤツだな。迎えに来てやったんだぜ」
「朝飯集りに来ただけじゃねーのか」
「そうともいうな」
「そうとしか言わねえだろう」
「細かいこと気にするなよなあ。ほら」
「あんがとよー」
魔理沙が差し出したカップを受け取って中身を一口啜った。
「あれ、そういや霊夢は?」
「用があるから先に行くんだとさ」
今日はいつもより早く起きたのだが、それでも会わなかったのだから霊夢はもっと早く
起きたという事になる。昨日が転校初日だというのになかなか霊夢も忙しい事だ。いや、
生活が変わったのだから最初は忙しいものか?
「こんな朝早くから? 何の用事なんだ」
「そんなもん私が知るか」
一瞬魔理沙の目つきが険しくなった気がするが、見なかった事にした。
掘り下げると面倒な事になりそうだし。
それから二人でどうでもいい話をしつつ朝食を食べて、用意をして、外に出た。
車庫から自転車を引っ張り出す。春休み開始では見るも無残だった俺のチャリは今では
完全復活を遂げている。籠の中にカバンを放り込む。
すると籠の中にカバンがもう一つ放り込まれた。おやと思う間もなく、今度は背中に軽
い衝撃。何て事はない。後ろに魔理沙が乗ってきただけだ。
「乗るのは勝手だけど落ちんなよ」
「言われなくてもわかってんだぜ」
通学にチャリを使うようになってからは、ほぼ毎日魔理沙を後ろに乗せている、という
か乗られている。
「…………ぇぃっ」
いざ漕ぎ出そうと思ったその直前に、小さな声が耳に入った。同時に魔理沙が両腕を俺
の胴体に回し――しっかりと掴まる体勢になる。
「っ」
一瞬だけ思考が止まった。魔理沙を後ろに乗せる――というか乗ってくるのはもう今で
は当たり前。でも、こんな風に密着する程にくっついて来るのは、もしかしたら初めてな
のではないか。不覚にもまるで予想していない事態に、何時も通りの事の中に突然混じっ
た変化に対応しきれず、しばし凍りついてしまう。
「……早くいかないと、遅刻するぜ」
「……いやまだ歩いても間に合う時間だろ」
「うるさいっ、遅刻するったら遅刻するんだ」
するらしい。よくわからん理屈を叫びながら、魔理沙はこちらの胴に回した手に更に力
を込める。魔理沙は細身だがそこそこ力はあるので、そろそろ痛いのだが。
「魔理沙お前……」
「なんだよ」
魔理沙の声は決して大きくないのに、いつもより大きく聞こえる。
それは距離が近いからだろうか。聞き慣れているはずなのに、ただ距離が変わるだけで
その声色はいつもと違う響きを持っている気がした。
「おまえ――」
何故かペースを上げて行く心臓に戸惑いながらも、むしろ戸惑ったからこそ、俺は思っ
たことをそのまま口に出す。
「胸ねえな」
――胴体を捩じ切られるかと思った。
◆◆◆
チャイムの音で目が覚めた。
教室のざわめきが普通の休み時間よりも少し大きいのは、恐らく昼休みだからだろう。
そんな話し声で溢れ返る教室の中、俺は自分の席にて大きく伸びをする。
「――すっきり、目覚め爽やか」
「それは授業直後に言う台詞じゃあないと思いますよ……」
呆れた様な声が投げかけられる。位置関係的に考えると魔理沙か霊夢が妥当なのだが、
今は二人とも姿が見えない。
「ラリホーを乱発する教師の方が悪い」
「言い掛かりっていうんですよ、それ」
「んで、どったの椛。何か用か?」
声の主はクラスメイトの犬走椛だった。学校での俺の交友関係において一番付き合いの
多い異性が魔理沙だとすると、椛は同姓でのそれに当たる。
その椛だが、白い髪の上に犬系の獣耳がぴょこんと飛び出ている。ブレザー姿の美少年
の頭に犬耳がのっかっているのは世間一般ではかーなーりカオスい光景だと思うが、椛の
それは”本物”だ。
本当に生えているのだ、その犬耳は。
人ではありえないその獣耳は、彼が妖怪である事の証ともいえるだろう。しかし普通の
人から見れば、その耳は視認出来ない。
つまり他の大多数のクラスメイトには、椛はただの女顔の美少年にしか見えないという
訳だ。他の地域がどうかは知らないが、俺の生まれ育ったこの街ではこんな風に妖怪の類
が生活に溶け込んでいる。
「部活動の話なのですが」
敬語口調なのは本人曰く癖らしい。個人的には止めてくれたほうが気兼ねないのだが、
そこまで無理強いする気も無い。
「あーあー、アレな」
今朝教室へと向かう途中で見た張り紙の内容を思い出す。
連絡事項を伝達する白いプリントには簡潔な一文。何でも今年から全生徒は何らかの部
活動に所属しなければならないとか抜かしやがる。
帰宅部至上主義の俺にとっては実に迷惑な話である。
「もう入る部活は決めたんですか?」
「んー、いやまだだねえ」
俺としては程よく寂れてやる気が無くサボっても誰にも咎められない、そんな部活を探
して幽霊部員にでもなろうと思っている。
そんな俺の考えを知る訳も無い椛は、俺の返事にぱあと顔を輝かせた。
「じゃあっ」
「断る」
「まだ何も言ってないでしょう!?」
「聞くまでもねえよ。どうせ新聞部の勧誘だろうが!!」
「ぎく――っ」
ずびしーっと指を突きつけて高らかに叫ぶと椛は身を強ばらせ、目に見えて狼狽し出す。
視線が泳ぎ、頭の上の耳がぴこぴこ揺れている。尻尾は普段消しているらしいが、出てい
たら動揺的な意味でさぞ盛大に振られていることだろう。
「いいじゃないですか! 一緒にやりましょうよ!! 文さんのお供をするのに一人じゃ
大変なんですよぅ!!」
「お、こ、と、わ、り、し、ま、す。俺じゃあ射命丸のバイタリティについていけねーよ。
誘うなら魔理沙辺りをオススメしとく。あいつは活力が人数倍有り余ってるからな」
「うーん。魔理沙さんは貴方が居ない部活には入らないと思いますけど……」
「は? 何だそりゃ?」
真剣に意味が理解で気なかったので反射的に聞き返す。が、椛は呆れたような顔で頭を
振る。
「自分で考えてください」
「んーむ?」
思案する。これでも魔理沙との付き合いは長いのだ。何を考えているか、皆目見当が付
かない訳ではない。
普段の魔理沙の言動を脳内に思い出していくと、そう時間もかけずに俺は真相へと辿り
着くことが出来た。
「――ああ! 違う部活に入ると俺に作業を押し付けられないからか!?」
「………………はぁ」
会心の答えのつもりだったのだに、椛は酷く渋い顔で溜息を吐いた。
◆◆◆
「まあ」
惣菜パンに齧り付きながら空を見上げる。今日もいい天気だ。というかいい天気でなけ
れば屋上には来ない。
「長年幼馴染に王水を飲まされ続ける俺としては、大変だと言いたくなるお前の気持ちも
わからんでもないが」
「体内ぐずぐずになってませんかそれ」
「だからこそ思うんだが、射命丸の相手はお前以外出来ないだろ」
「そうですか?」
「少なくとも俺はそう思うがな」
俺と魔理沙が幼馴染(という名の腐れ縁)であるように、椛と新聞部部長である射命丸
文もまた幼馴染であるらしい。
知り合ったのがこの学校に入ってからなのでそれまでの二人は知らないが、古くからの
付き合いである事が本当なのは二人を見ていれば容易に理解出来る。
息が合っているとでもいうか、気心が知れ合った中というか。俺と魔理沙とはまた違う
タイプの幼馴染なのだと思う。まあ一見じゃ椛が射命丸にジャイアントスイングで振り回
されているようにしか見えないが。
「そんな事言ってごまかそうとして、どうせ本当は面倒くさいだけなんでしょう」
椛が口を尖らせる。
「あはーはー。否定はしない」
「むうー。どうしても駄目ですか?」
眼を潤ませて上目遣いでこっちをみてくる椛。何処か捨てられた子犬を思い出させる表
情である。まあ確かに同じイヌ科だしな。
というかこいつ本当に女顔だ。
もしかしたらこいつ実は性別を偽っているんじゃないかと、割と常から思う。でもまあ
流石に無いか。それこそ恋愛AVGじゃあるまいし。
「ダメっつうか、無理」
新聞部部長、射命丸文。
学校に存在するあらゆる事に対して取材という名の特攻をかます彼女に付き合おうと思
ったら体力気力精神力共にかなり高い数値が要求される。
「それはいい加減置いといてサー」
「私の身に関わる事をあっさり置かないでください……」
そういえば椛は一人称が”私”だ。男でそれは珍しいと思わなくも無いが、変わり者が
多いこの学校ではその位じゃ個性にはならなかったりする。一人称が変なのは他にも数人
居たような記憶があるし。
「何かいい部活知らないか。程よく寂れてやる気が無くサボっても誰にも咎められないよ
うなの」
「凄まじく後ろ向きですね」
「ほっとけ」
「剣道部にでも入ればいいじゃないですか。小さい頃はそういう道場に通っていたんです
よね?」
「あれは爺ちゃんが勝手に――つかそんな昔の事よく知ってんな」
「文さんが言ってました」
「……………………」
射命丸なら仕方がないと思える辺り、慣れって恐ろしいと思う。
「ともかくそういうの無し。もっと楽いので頼むぜ」
「そうですねえ。運動部は全体的に活動的みたいですから、文化部の方でしょうか」
そこで椛は言葉を詰まらせ、うーんと唸り始める。
「文化部がどうかしたのか?」
「いや三桁あるので流石に全部把握できてないんですよ……」
「多くねえ!?」
「中には存在が伝説と謳われているものも」
「それ学校側も把握し切れてねえって事じゃねえか!!」
「逆に言うと、名前の知れている部活は活動的だという事にもなりますね」
「そりゃ言えてる……でも何か、あんまりにもマイナーだと逆に濃いのが集まってそうだ
からな」
「この学校、変な人多いですからねえ……」
しみじみと呟く椛。
犬耳をぴこぴこ揺らしながら言うとまるで説得力が無いのだが、言わないでおいた。
「文さんに聞けばわかるかもしれませんけど、どうします。ついでに情報代替わりに新聞
部員に」
「さり気なく勧誘を付け足すな。後何かお前、俺にこだわり過ぎじゃね?」
「どうせ誘うなら気心の知れた人のほうが良いじゃないですかぁ」
「ともかく俺は入る気なーし!」
「そんなぁ――!」
パンの包装紙を丸めながら立ち上がる。食べ終わったのもあるが、今にも物理的に食い
下がってきそうな椛から距離を取るためにも。
そのまま屋上の出口へと向かう。
「あ、そういえば剣道部。新入生が騒ぎ起こしたとかで騒動に――」
後ろから椛の声が聞こえてくる・
でもそれは独り言に分類されるものであったらしくボリュームが小さく、また俺との距
離も開いていたので、朧気にしか聞き取れなかった。
◆◆◆
寝て起きてを繰り返せばあっという間に放課後だ。
「さてと」
手元のメモには文科系部活の名前がいくらか羅列されている。とりあえず聞いたら首を
傾げる程度で、かつ名前がおかしく無い部活を椛に頼んでピックアップしてもらった。
後は実際見て回った方が速いだろう。部活動全員参加のお触れのせいで、今はどの部活
も見学が可能になっているらしいし。
「しっかし魔理沙のヤツどこ行ったんだか」
歩きながら呟いた。授業が終わるなり魔理沙は教室から飛び出して行った。どうにも霊
夢が来てからのアイツはバタバタし過ぎているような気がする。
「ま、いいか。それにあいつ、もうどっか入ってるのかもしれないしナー」
思いつかなかったが、その可能性が無い訳じゃない。普段向こうから遊びに誘ってくる
から、幽霊部員なのは間違いないだろうが。
「つか本当に多いな……どっから行こう」
手元に無数に記された部活の名前を眺めながら呟いた。大分絞ってもらったのに、それ
でもまだ数十個はある。今日は買い物にも行かないといけないから、あまり時間をかけて
いられない。
「一番近いのからでいいか。こっからだと一番近いのは――」
名前の横に記された部室場所を一通り眺めて、その部活に辿り着いた。
「手芸部か」
一番近いと言っても、部活動の部室は大体別棟にある。そんな訳でやってきたのは手芸
部の部室だ。見かけた限り部員の勧誘をしている様子はない。
活発な部活は部員増加のチャンスなので勧誘活動をしている様だが、ここはそんな気が
無いらしい。ドアをノックする。
「返事なしと」
これは期待出来るかも知れない。部室にも顔を出さない部活の場合、部長を探し出して
入部許可を取る必要はあるが、その分活動は皆無だ。
これは一発目から当たりかなと思いつつ、一応ドアノブに手をかける。
「ありゃ?」
ガチャリと音を立ててドアノブが回る。鍵のかけ忘れか、それともノックに気付かなか
ったのか。
「すいませーん、見学にきたんですけど――?」
はてと思いつつも入ってみる事にした。当初の目的は見学だったのだし。ドアを開けて
室内に踏み込んだ。
「――――おぉう」
正直に言おう。その光景に圧巻された。
部室の壁に設置された棚には無数の人形が並べられ――いや、違う。そんな無造作なも
のでは無い。一体一体がきちんとその場に”座らされている”。
「あなたの入室を許可した覚えは無いわ」
平坦で感情の薄い声が耳に入る。
声の主は一人の女子生徒。金髪を肩の辺りで揃え、頭に赤いカチューシャを付けている。
部屋の一角にあるテーブルに座り、ミシンで何かを縫っているようだ。
「それは失礼」
美少女だった。ただ俺の知るそのカテゴリとは趣が違う。造り物めいていると思えるよ
うな整い方をした顔。綺麗や可愛いというよりも、造形美――美しいと言った方が合って
いるのかも知れない。表情に感情があまり表れていないせいか、俺はその子を見て一つに
結論に行き当たる。
――まるで、人形の様な女の子だと。
無数の人形に囲まれて、その中で人形よりも人形らしく、でも確かに生きている人間と
して、確かにその子は存在していた。
「ただ、その意志をこちらに伝達してくれたら良かったんだがな」
「あらそれは失礼したわね。鍵を掛け忘れていたみたい」
「って、部活中に鍵かけんのか?」
「誰にも入ってきて欲しくないんだから当たり前でしょう」
「誰にもって他の部員はどうすんだ」
「来ない事がわかっている部員を待つ程楽観的じゃないの」
話てみて再確認した。
この子は整いすぎている。
顔もそうだが、声も。ただ機械的とか無機質とか、そういう感じは受けない。何処か神
秘的というか、不思議な感じがする。
「ところで、質問いいかねお嬢さん」
「アリス・マーガトロイド。変な呼び方は止めてくれると有り難いわ」
「じゃあマーガトロイド。一つ確認させてくれ。ここは手芸部で、あんたはその部員だよな」
長さ的にアリスと呼びたいところだが、止めておいた。
流石に女の子相手でいきなり呼び捨ては気が引ける。
「正確には部長よ」
「つまり手芸部ってのは合ってる訳だ」
「ええ」
こちらを向かないまま、素っ気なく返されるアリスの返事。
部屋をぐるりと見回して、俺は思わず息を吐いた。
「何で手芸部の部室が人形の館みたいになってんだ……?」
「あら心外ね。人形の洋服を縫うのは立派な”手芸”でしょう」
「…………さいですか」
明らかに含みのある言い方。アリスは手芸部のために人形を置いているのではなく、人
形のために手芸部に居るのだと、この部屋を見ていると確信出来た。
「しっかしすげえ部屋だなぁ」
入り口近くに、まるで来客を迎えるように、あるいは門番のように座っている人形に手
を伸ばす。高価そうなものだったので、抱き上げるようにそれを眼前に持ち上げた。
見れば見るほど本当によく出来ている。今にも動き出しそうだ。
「そう」
カチャリと小さな音がした。アリスがミシンにかけていた手を離す。ガタリという音は
彼女が立ち上がるために椅子を引いた音だ。
「貴方、上海が”見える”のね」
それまで俺に見向きもしなかったアリスがしっかりと俺の方へ向き直って、そう言った。
同時に部屋中から聞こえてくる衣擦れの音。棚に並んでいた人形、その全てが一体残ら
ず余すこと無く俺の方を向いている――!?
「上海、おいで」
俺が両手で抱えていた人形がすっぽ抜ける。取り落としたのではない。何らかの力によ
ってまるで飛び上がるように宙に舞う。”上海”と呼ばれた人形は、アリスの眼前辺りで
ふわりと停止した。
「――じゃあ改めて用件を聞こうかしら、侵入者さん」
”微笑み”ながらアリスが言葉を紡ぐ。まるで背中に氷柱を突っ込まれたかのようなぶ
るりとした寒気が走る。心臓を鷲掴みにされた気分だ。
人形みたいな子だと思ったが、その認識は間違いを孕んでいたのだと思い知る。ただ造
り物である人形に、こんなに活きた表情ができる筈が無い!
その笑顔が恐ろしい。
しかしその笑顔は美しい。
眼を離したいのに目が離せない。
「ど、」
何が起きているかはわからないが、ややこしい事になっているのは解る。ともかく誤解
が起きているのならそれを解かなければいけない。
勝手にペースを上げる心臓と、思考を取りこぼす頭を何とか抑えつけようとする。いく
らかの時間を要してそれを成して、ようやく俺は一言を呟いた。
「…………どうしてこうなった」
──────────────────────
「かくかくしかじかまるまるうまままま――ッ!!!!」
「日本語喋ってくれない?」
しどろもどりつつも必死に説明すること……えーと、たぶん数分くらい。どうにか勘違
いである事はわかってもらえたらしく、アリスは臨戦態勢を解除してくれた。
ちなみに件の上海と呼ばれていた人形は今俺の頭の上に乗っている。そして頭の上でさ
っきから定期的に金属が擦れ合う音がしているのは一体何だろう。もしかしなくともおか
しな真似をしたらわかってるな的な何かだろうか。
『――――シャンハーイ』
正解っすか、上海さん。
「結局。あなた一体何をしにきたの?」
机に頬杖を付いてつまらなそうに言いやがるアリス。彼女が身を捩ったせいか、木製の
椅子がガタリと重い音を鳴らした。
「最初に見学って言いませんでしたかねえ……?」
やや恨みがましい視線を向けるもまるで気にした様子が無い。
時に何で俺は床に正座してるんだろう。俺別に何も悪いことしてなくね。でも何かこう
しないといけない気がする。何これ。
「見学?」
「部活のな。今年つうか今学期から部活動全員参加だろ。だから部活動は今緊急の見学期
間に――ってかお前もしかして」
「ふうん。そんな事になっていたのね」
「やっぱり知らなかったのかよ。それでも部長か」
「興味が無いもの」
平坦な声で言い切ると、アリスは会話も打ち切るかのように、椅子から立ち上がる。こ
ちらも別に会話を続ける気は無い。
間が空いてしまったので、改めて室内をぐるりと見回す。視界に入るのは棚に腰掛けた
無数の人形たち。
「……人形遣い」
無意識に呟いていた。
さっきの――上海を始めとして、無数の人形を従えていたアリスはそう形容するのが最
も相応しいと思ったのだ。
「分類的には『魔法使い』だけどね。今の私を呼ぶのならそれで正解よ」
アリスが何か手を動かしながら答える。こちらに背を向けているから何をしているかは
わからない。ちょっと不安になる光景である。
「ん? そういやあ俺にその辺の素性なりなんなり明かしちゃって大丈夫なのか?」
妖怪というか人外化生の類は、誰も彼も一目でそうと解る訳ではない。
例えば、特に人間と見分けが着かないタイプの妖怪である場合。
また、そうであると知られる事を嫌い、意図的にそれを隠している場合。
「何だそんな事。気にしなくていいわ。だって」
アリスが振り向いた。その整い過ぎた顔に浮かんでいるのはマインドクラックに定評の
ある例の微笑である。
「それを知ったあなたは、この部屋から二度と出ることがないから」
別に普段から特別鍛えている訳では無いが、それでも運動不足にならない程度には気を
使っている体力をフルに使ってその場から走りだそうとした。
でも飛び掛ってきた無数の人形にあっけなく取り押さえられ、それでも縛を脱さんとも
がきにもがいて、体力が付きてぜーはーぜーはーと息が切れたところでアリスが一言。
「冗談よ」
「洒落になってねえんだよッ!! 本気で始末されるかと思ったじゃねえか!!!!」
「そのつもりならとっくに解体してるわよ」
アリスがそう言うと、人形が俺の上から退きわらわらと元居た棚の上へと戻っていく。
「怖い……!」
身体の自由を取り戻したので、力の限り恐れおののいておいた。
「じゃあお茶にしましょうか」
そう言ってアリスがテーブルの上にティーカップやポットを並べる。さっきから何かし
ていたと思ったらそれか。
「今の流れのどこに茶が出てくる要素が……?」
首を傾げつつも、好意に甘える事にした。さっきまでアリスが作業していたのとは別の
テーブル。アリスの向かいに座る。
「さ。次はあなたの番よ」
「何が俺の番か。何か流れ的に俺のターンとか永久に来そうにねえじゃん」
「さっきから私ばっかり話しているでしょう。そっちの事情も話すのがフェアってものじ
ゃない?」
そう言うとアリスは紅茶の注がれたティーカップを傾ける。アリスの人形めいた容姿と
相まって、やたら画になる光景だった。
「事情?」
「あなたが普通の人間なのかどうかよ」
「ああ、そゆこと」
ツッコミしすぎてちょっと喉が枯れかかっていたので、紅茶を一口飲む。あまり紅茶に
明るくはないが、これが上等なものだというのはもう香りの時点で理解出来た。
ただわかるのは上等っぽいって事だけで、どう上等なのかはさっぱりわかりゃしない。
所詮一般モブの舌じゃこんなもんだ。
ティーカップを置いた。
「つってもたいした事ないんだけどな。霊感みたいなのはあるけど、逆に言うとそれしか
ねえ。能力も無し」
「ふうん」
「聞いといた割にどーでもよさそーだなオイ……ともかく俺は実際生まれつきそういうの
が見えるってだけだよ。それもたぶん血だろ」
「血?」
「血縁をギュインギュイン辿っていくと、なかなか面白いとこに辿り着くんよ。つっても
辛うじて繋がってる程度だけど」
言ってから思う。家系図を迷路の様に辿る必要があるとはいえ、あの姉妹二人と自分に
関係があるというのは何度考えても現実味が無いものである。
「そういう事。おおむね納得したわ」
「そりゃよござんした」
アリスは詳しい事を話すまでも無く納得したらしい。それ以上聞いてくる事は無かった。
とはいえ別に隠している訳でもないので、聞かれたら普通に答えていたけど。
「しっかしまあ、こんな可愛い人形に凶器持たせたるなよ」
頭の上の上海を抱えて持ち上げる。
手触りだが、俺の知る人形とは異なっている気がする。人形と聞くと堅いイメージがあ
るが、今俺が手に持っているそれは明らかに柔らかい。
人形達が動くのはアリスが操っているからなのだろう。だがあれだけ自由自在に動き回
れるのだから、人形自体も特別製なのだろう。
「あら以外。人形遊びって馬鹿にされるかと思っていたのに」
「可愛いもんを可愛いと言って何が悪い。なー上海ー?」
『シャンハーイ』
肯定と受け取れるタイミングで上海から返事が来た。
素晴らしい愛くるしさである。これで金属音が聞こえてこなかったらパーフェクトなの
だが、それは高望みなのだろうか。そうでないと信じたい。
「参考までに聞くがもしバカにしていたら俺はどういう事になっていたんでしょう」
「その程度で怒る訳ないじゃない。まあそうね。その価値のない眼球を抉り出すくらいは
したかも」
「完膚なきまでに怒髪天じゃねそれ!?」
「冗談よ」
「ったく驚かせ……上海なんか研がないでええええええ!!!!」
素晴らしいタイミングで上から聞こえてくる金属音。愛くるしさは時に恐怖をとんでも
なく加速させるのだと知った。身を持って。
「お前何か、もう、わざとやってないか!?」
「まさか」
アリスの言葉に心外な、とでも言いたげなニュアンスが含まれる。
何かさっきからアリスにペースを乱されているというか、弄ばれているような気がする
のは気のせいだろうか。気のせいであって欲しい。
アリスを見れば涼しい顔をしている。人形めいた容姿も相変わらず。ただ物騒な冗談を
定期的に挟む辺り、見た目に反して中身は割と茶目っ気があるヤツなのかも知れない。
「――さて、この辺でお開きにしましょう」
それまでとは少しだけ違う様子でアリスが言う。テーブルに置かれた空のティーカップ
が小さな音を立てた。ちなみに俺のカップも空。テーブルの上には空のカップが向かい合
っている。
「あなたは場違いなところに迷い込んだだけ。私もあなたの事を勘違いしただけ。誤解は
解けたから、これまでね」
「……場違いねえ。ここが手芸部である以上、俺は別におかしなとこに来た訳じゃないと
思うんだが」
「部員は募集していないわ」
アリスの声は相変わらず素っ気ない。いや、これは最初からずっとか。ただその視線は
最初の時と同じように俺へは向けられない。
ミシンのあるテーブルに戻ったアリスはその手元をよどみなく動かし始める。縫ってい
るのは人形の服だろう。そうでなくともきっと人形絡みの何かだと今ならわかる。
「……ふーん。ま、タイムリミットだからここらで失礼しますかね」
壁の時計を横目で見ると、その針はこの部屋に来た時よりもかなり進んでいる。今日は
他の部活を見て回るのは諦めた方が良さそうだ。
さて途中、具体的には人形達にガン見された時に取り落とした鞄は何処だろうと見回す
と、傍らで浮かぶ上海が俺の鞄を掲げていた。持ってきてくれたらしい。
「悪いな」
『シャンハーイ』
鞄を受け取って、謝礼代わりに上海の頭を軽く撫でる。上海の髪の手触りはサラッサラ
だった。本気でどういう作りになってるんだろう。
知的好奇心を刺激されつつも入り口へ。首を僅かに傾けてアリスを見やる。部屋を出よ
うとする俺のことなどまるで気にも留めていないように見える。
「さようなら」
「ああ、またな」
こちらを向かないまま、アリスは言葉だけ発する。それに返答しつつ、ドアノブに手を
かける。後は掴んだノブを回して、腕を動かせばこの部屋から出られる訳だが。
「――今日はこの辺で勘弁してやるが弄んでくれた分はいつか必ずキッチリ利子付けて返
してやるからそのつも」
「上海」
「あばよッ!!!!」
上海が懐から何かを取り出す前にドアから飛び出て全力で走り出した。
今日、人形の夢見るかもしれない。
◆◆◆
「またな、か」
きっぱりとこれっきりという意味も多分に含めた別れの挨拶。それに返ってきたのは、
当然の様に次があると確信した挨拶だった。
ふとミシンを動かす手を止めて、この部屋に久しぶりの来客が来ていた時間のことを思
い返す。
無駄に騒がしかった。
男の癖に、人形に可愛いと心底本気で言ったいた。
見せかけとはいえ自分に敵意を向けた人形を、まるで壊れ物を扱うようにとても大切に
扱っていた。
「変なやつだったわね」
言葉と同時に思わず――本当に意図していないのに――笑みが零れた。
思いのほか、私はさっきまでの時間を有意義だと思っていたらしい。
──────────────────────
「う~、タイムセールタイムセール」
今割引商品を求めて全力疾走している俺は高校に通うごく一般的な男の子。
強いて違うところをあげるなら、普通の人には見えないものが視えるってとこかナー。
――よくわからんフレーズを心中で呟きながらペダルを漕ぐ。
部活の下見(恐怖の人形劇場)に思ったより時間を取られたが、このままいけばタイム
セールには何とか間に合いそうだ。
「ん?」
向こうから女の子が歩いてくるのが見えた。
特に何の特徴もないブレザータイプの制服姿から、同じ学校だと推測する。もしかした
ら新入生かもしれない。遠目ながら背丈が小さそうに見えたからである。あと何かを肩に
かけているのがわかった。
「あ、普通じゃねえな」
さっきはそれ関連でトラブったので、何か傍らでふよんふよんしている半透明のそれは
気にしないでおこう。
距離が近付くにつれ相手の姿がはっきり見えてくる。おかっぱみたいに整えられた銀色
の髪に黒いリボン。肩にかけているのが竹刀袋だと判った。背丈に不釣合なくらいに――
長い?
「…………んん?」
その子が持っている竹刀袋にどうにも違和感を感じる。剣道というか剣術というか、ま
あその辺りは一応経験者であるので道具の類は見慣れている。見慣れているから、違和感
を感じる。
もう少しですれ違う。
顔立ちはちょっと幼さが残るが、でも、いやだからこそ可愛いというカテゴリに分類さ
れるだろう。ただその表情が酷く曇っている。もうものすっごい、こう、見ているだけで
がっかり感が伝染しそうなくらい。
何か嫌な事でもあったのだろうか、人間笑顔に限るというのに。
美少女は特にな。
美少女は、特にな。
(んー)
何かあったのかと気にならない訳ではない。が、見ず知らずの俺が出しゃばっては怪し
さ満点だろう。とりあえずは彼女の旅路に幸多からん事をとでも祈っておこう。
俺とその子がすれ違う。
偶然だろうか。
すれ違う瞬間に、ちょうどその子が独り言を呟いたのは。
「――――腹を切るしか」
きききききーっ(ブレーキ音)。
ぐりん(旋回音)。
ずしゃあああああ(加速音)。
「はやまるなァァァァ!!!!」
「うひゃあああああぁ――!?」
俺の力の限りの絶叫が余程想定外だったのか、女子生徒は悲鳴を上げて飛び上がる。
「な、ななな何ですか貴方はッ!! 不審者ですか!?」
「誰が不審者か!? ええいそんなもんはどうでもいい! 何だその聞き捨てたら一生後
悔しそうな独り言は!! 女の子が往来でそんな事言うもんじゃありません!!!!」
女の子が飛び退くように距離をとって、肩にかけた竹刀袋に手をかけた。
が、それに構わず捲し立てた。
いや捲し立てざるをえない。
「え? 私、何か言って……?」
「思いっっきり切腹宣言してたろうがァァァ!! ぶっちゃけさっきの人形祭りよりもな
んぼか驚いたわァァァ!!」
数分後。
「魂魄妖夢と申します」
場所を往来のど真ん中から公園に移した後、後輩と思しき少女はぺこりとお辞儀しなが
らそう名乗った。
こちらも軽く自己紹介――といっても氏名と学年、クラスくらい。自己紹介を済ませた
後に、本題であるさっきの物騒な独り言は何事かと切り出した。
「剣道部を追い出されたあ?」
「はい……」
まるで想定していなかった答えに、思わず間の抜けた声を出してしまう。
一方妖夢は心底落ち込んだ風でがっくりと肩を落とす。
「何でまたそんな事になったのさ」
「私、部活というものに入るのが初めてだったんです。だから、何がいけなかったのかよ
くわからなくって……」
更に下がる妖夢。物理的に体勢が下がるだけでなくテンションの低下も感じさせる下が
りっぷりである。
ショボーンとか聞こえてきそうだ。
「剣道自体は素人じゃなさそうだけど、中学じゃ剣道部入ってなかったのか?」
座っている今、妖夢の傍らに立てかけられている竹刀袋? を指差しながら聞いてみた。
あくまで俺の感じた印象だが、妖夢からは初心者という感じがしない。
俺みたいにサボりがちなのは別として、剣道を心底真面目にやってる人間ってのは割と
見分けが付く。この生真面目で礼儀正しい感じとかな。
「前の学校には剣道部が無かったんです。それに今まで祖父から教えを受けていたので」
「ふーん。まあ事情はわかった。でもなあ、何も部活追い出されたくらいで切腹宣言する
事は無いんじゃ」
「いいえくらいで済まされることではありません!! 我が魂魄家は代々西行寺家の庭師
であると同時にその剣でもなければならないのです!!」
「ひぃスイマセンでした!?」
食らいつくような勢いで鼻っ面まで言い寄られ、反射的に謝ってしまった。
「だというのに剣道部を追い出されてしまうなんて……私には剣の道を生きるものとして
なにか足りないものがあるのでしょうか……ああ、幽々子様に合わせる顔が……」
「いや気迫的に足りないどころか溢れんばかりな気がしますよ?」
俺の鼻に齧り付かんばかりの様子から一転、再度がっくしと肩を落とす妖夢。
それほど、感情を大きく動かす程に、剣道に本気で取り組んでいるという事なのだろう。
さて。
こりゃふざけられないな。
「……別に部活に拘る事ないんじゃないか?」
「え?」
「剣道自体がまるで出来なくなった訳じゃないんだ。練習なんて家でも出来るだろ」
まず思い当たったそれを口に出す。
けれど妖夢はふるふると首を横にふった。
「主人に家での鍛錬禁止を言い渡されてしまったんです。これから学生の間の内は学生ら
しくしなさい、と。部活での剣道なら構わないとお許しいただいているんですが」
「……なるほどなるほど。それじゃあ確かに部活にこだわりたくもなんのか」
妖夢は本気で剣道に取り組んでいるようだから、それを生活から切り離す事は考え難い
のだろう。『主人』さんもそれをわかっているから、部活動という抜け道を用意したに違
いない。部活動だって立派な学生生活だ。
「”部活”ならいいんだな?」
「え?」
「剣道部じゃない部活に入って、剣道すりゃいいんじゃねえ? ちょっと反則て言うか抜
け道的だけど」
「はい? あの、仰る意味がよく?」
「勝手の効く適当な部活に入ってさ、その自由時間で剣道の練習しちまえよ。どうせ部活
全員参加のお触れが出てんだしさ」
ニヤリと笑いつつ妖夢に提案する。
開店休業の部活に入って得られる自由時間。要はそれを剣道に当てればいい。それなら
部活道と言えなくも無い。ちょっちグレーだが。
「それは……でも……あっ、駄目ですよ。それじゃあ練習する場所がありません。一通り
見て回った限りでは、何処も埋まっていましたよ?」
妖夢の言葉も最もだ。うちの学校は運動部が活発だから、各体育施設に余ったスペース
なんて物はないだろう。
「無いだろうね。ガッコの中にゃ」
「やっぱり駄目ですよね……」
中に無いのなら、外に出ればいいのだ。
「ふっふーん。使える場所にゃあ心当たりあるんだなーこれが。外だけどな」
「ほ、本当ですか……?」
妖夢が放心した様子で聞き返してくる。
「お前さんみたいな子を騙すほどひねくれてるつもりは無えよ?」
まあ綺麗に真っ直ぐかと言われたら否と答えるけど。
自信満々でな。
「今日は遅いから、その辺の打ち合わせはまた今度にしようぜ。それでいいか?」
「は、はいっ!」
ぱあと顔を輝かせて妖夢が大きく頷いた。さっきまでの暗い様子は消え去って、顔には
笑みが浮かんでいる。無い知恵を雑巾絞りした甲斐があったと言うものだ。
しかしこれだけ期待されては後に退けないどころの話ではない。でもこの子を笑顔に出
来たと考えれば安いもんか。
「んじゃま、差し支えなければ連絡先聞いてもいいか?」
ポケットから取り出した携帯をひらひらさせる。すると妖夢は何か躊躇った様子で視線
を泳がせ始めた。
「ああ、悪い悪い。そりゃ知り合ったばっかの男に教えんのは抵抗あるか。どうもこの辺
適当らしいからな俺。じゃあ落ち合う場所だけでも――」
「ち、違います! そういうことではないんです! それは全然構わないんです!!」
「へ?」
「そ、その…………けいたいでんわ、上手く使えないんです……」
顔を赤らめながらおずおずと取り出した携帯を掲げる妖夢。
何だこの子、可愛いなおい。
「しかしその割にゃ新しい機種なのな」
「入学祝いに幽々子様に買って頂いたんです。私には過ぎたものだと断ったのですが」
「好意は素直に受け取るべきだよ妖夢君……まず電源が入ってねえ! ちょい貸してみ」
受け取った携帯の電源を入れて、それから各種機能を簡単にレクチャーする。
妖夢は酷く真面目な顔で聞いていた。
「じゃあこれで登録完了っと」
「おぉー」
そんな感嘆する事か?
「あの、聞いてもいいですか」
「何を?」
返した携帯を抱えつつ、妖夢がこちらを見上げていた。
「どうして、知り会ったばかりの私にこんなに親切にしてくださるのですか?」
「何となく」
「それだけですか!?」
「え、駄目!?」
……また何か変な事言ったかな俺。
「駄目ってわけじゃありませんけど、それだけでそんな」
「いやだって、そうしたいからそうしたってだけで。というか、こういうのに理由なんて
必要なくねーか……なんつうかなあ、ほらアレだ。台所の蛇口が開きっ放しだったら止め
るだろ? そういう感じなんだよ」
「な、何ですかその例えは」
妖夢が可笑しそうに笑い出す。
「あっ別に魂魄の問題が台所の蛇口レベルって言ってる訳じゃありませんよッ!?」
「わかってますよ」
「まあともかくそんな感じで、俺って適当だからさ。魂魄もそんな気にしなくていいぜ。
ともかく明日からだ、明日から。今日はもう帰んな」
俺の言葉を聞いた妖夢が目を閉じる。
「――私。新しい学校で、いきなり部活を追い出された時は、正直これからどうなるか不
安だったんです」
「まあそうだろうねえ」
というか何で部活追い出されたか聞いてなかったな。
今は完全にタイミング外してるから、明日椛辺りに聞いてみよう。
「でも、あなたみたいな人に会えて良かった」
そう言って、妖夢は深々とお辞儀をした。竹刀袋が揺れてガチャガチャと金属音を鳴ら
す。あれ? 竹刀袋ってこんなに金属音するっけ? 中身は竹だし、見たところ金具もそ
んなに付いてない気がするんだけど。
とか心中で鎌首をもたげていた些細な疑問は、次の瞬間吹き飛んだ。
「ありがとうございます、先輩っ!!」
妖夢が歩いていくのをその場に馬鹿みたいに棒立ちしながら見送った。
『先輩』。
可愛い後輩が、笑顔で俺に対して『先輩』。
「……いい。なんかいい……! すごくいい……!! 響きが素晴らしい……!!!」
感動に打ち震えてみる。
今俺は傍から見たらそれなりにヤバ気に見えているかも知れない。が、それを隠せない
ほど体の芯から深刻に震えているのだから仕方がない。
「っと、こうしてる場合じゃねえ」
名残惜しいが余韻を振り切って、停めてあった自転車に向かう。すっかり話し込んでし
まったから時間にはもう一切の猶予が無い。
とはいえ気分は上々だ。鼻歌交じりに鞄を籠に放り込みつつ、息を大きく吸い込んだ。
「――――さーてちょっと死ぬ気でチャリ漕ぐかー」
その後。
スーパーに辿り着いた辺りで臨死体験した様な気もするが、まあ些細な問題だろう。
ちゃんと帰ってこれたし。
──────────────────────
「三途の川って結構濁ってんだなぁ」
呟きながらスーパーの自動ドアをくぐる。すれ違ったあんちゃんが何故か酷く驚いた顔
をしていた。何故だろう。何か変なものでも見たのだろうか。
不思議に思いつつも気持ち早足で歩を進める。間に合ったとはいえ時間はギリギリだ。
「おや?」
少し進んでから別のことに首を傾げる。タイムセールはもう始まっていてもおかしくな
いのだが、どうもその気配がない。始まっていたらもっと騒がしくなる筈だ。
「……って魔理沙じゃねーか。霊夢も居るし」
見知った後頭を見つけて思わず声を上げた。一つは見覚えのありすぎるちょっとクセっ
毛の金髪。もう一つその横には大きな紅白リボン。
「――っく、あのバカまだ――ないのか」
「まあ――もう――てるわよ」
何か話しているようだが聞き取れない。が、二人並んで喋っている姿は思ったよりも普
通だった。魔理沙の霊夢への過剰反応からして、二人になったらもっと険悪だろうと思っ
ていたのだが。もしかして実は仲いいんだろうか。
「おーう、何してんだ二人して」
声を掛けた。このまま通り過ぎる理由もないし。
「うお――――――!?」
「――――ッ!!」
滅茶苦茶驚かれた。むしろこっちが驚いた。
魔理沙は叫びつつ実際にその場で飛び上がり、霊夢は声こそ上げてないがびくーっと肩
を強ばらせている。
「……驚きすぎじゃねえ?」
「いきなりビックリするだろ!?」
「普通に声かけただけだろ。俺が本気で驚かせようと思ったらこんなもんじゃないよ?」
「知るか!!」
「まあそれはどうでもいんだけどさ。タイムセールもしかしてまだ始まってないのか」
「ああ、何か今日まだだな。いつもならとっくに始まってるんだが」
「おーラッキー。急いできた甲斐があったってもんだぜ」
「急い……ってか何かお前異常に汗だくだぜ!?」
「ばあちゃん元気だった! 元気って表現おかしいかも知れないが!!」
「お前のその定期的に訳の解らんこと言い出すのは何とかならんのか!?」
そこでふと霊夢に目が行った。どうやら既に復帰したらしく、普段から見る例の気怠げ
な顔になって明後日の方を向いている。たださっきの余韻だろうか、その頬にちょっと赤
みがさしていた。おお、何か可愛いぞアレ。
「…………」
突如足に走る激痛。下を向けば思いっきり踏まれている俺の靴。
「おい魔理沙、何でお前俺の足踏んいでででででで痛い痛い痛い」
「ばーか!」
「何で罵られてんのかわかんねえ!!」
魔理沙の理不尽な攻撃から何とか脱出しつつ、追撃を恐れて距離を取る。
「んで結局どうしたんだよ、二人揃って」
「ふん。霊夢が買い物したいっていうから、案内してただけだぜ」
「あんな冷蔵庫見ちゃったらね」
呆れた顔の霊夢。
それを言われると全くもって返す言葉がない。
「そんな気遣ってくれなくても別にいいのに。その位は俺がやるっていうか、あんなスッ
カラカンなのも元は俺の責任だしな」
「私はそう言ったんだがな、霊夢がど――してもって聞かないから仕方なくな」
ふーやれやれと言わんばかりに魔理沙が呟いた。瞬間、その脇腹を凄まじい速さと正確
さで霊夢の肘が突いた。崩れ落ちて呻き出す魔理沙。
「……お前等、思ったよか仲良しなのな」
思ったことを即口に出したのだが、どうもまた地雷を踏んだらしい。
「そんな訳あるか!!」
「そんなことないわ」
激昂した魔理沙も怖いっちゃ怖いが無表情で棒読みの霊夢が更に怖い。
「あ」
この場で回れ右して店外へ逃げ出したい衝動と必死に格闘している最中、ふいにそれに
気が付いた。確実に違っているのに、でもそれは本来当たり前なのだ。だからこそで今ま
で気が付かなかったのだろう。
「霊夢、制服こっちのになったのな」
少なくとも今日授業が終わるまで、霊夢は前の学校の制服と思しきセーラー服だった筈
だ。だが何時着替えたのか、今は学校指定のブレザーを着ている。
「ああ、まあ、ね。明日からでいいってのに紫がどうしても直ぐ着ろってうるさくて」
スカートの端をつまみながら、霊夢がややげんなりした様子で言う。
「ゆかり?」
会話の中に突然出現した人物名と思しき単語。さて、どっかで聞いた名前である。
どこだったかな、割と身近なとこで聞いた気がするんだが。
「……スカート短すぎる気がするのよね」
ぽつりと霊夢が呟いたのが耳に入る。まあ確かに今まで着ていたセーラー服に比べたら
大分短いだろう。
――さてここで決してやましい気持ちでなく純粋な好奇心から浮かんだ疑問がある。不
可抗力ながら俺は霊夢がドロワーズなんて珍しい下着を穿いているのを確認してしまった。
だがあのドロワーズの丈から考えるに今の状態でもあれを履いていたら間違いなくスカー
トからはみ出る筈だ。だがそうなっていない。何故か。考えるまでも無い。下着が変わっ
ているという事だろう。そもそも、だ。霊夢の脚を見て欲しい。黒ストッキングである。
幾ら何でもこれにドロワを組み合わせる筈が無いだろう。つまり今スカートという名の布
切れ一枚の下はこう年頃の男の子には大変よろしい事になっ――いや待て、薄い黒の繊維
で覆われた脚って時点でこれは既に相当よろしいのではないか。間違いなくよろしい。他
はともかく俺にはよろしい。とてもよろし、
「………………」
ぎりぎりぎりぎりと音が聞こえてきそうだ。何故かってそりゃ魔理沙が俺の頬を全力で
つねり上げているからさ。
「どこを、見てんだ、ぜ……?」
「お前みたいに生足全開ってのも元気っぽさが出ててアリだと思う。スパッツはちょっといただけないが」
「ちぎるぞ」
「すいませんごめんなさい条件反射なんです俺にもどうしようもないんです」
「ねえ」
そろそろ俺の頬が千切れそうだなあとか他人事みたいにぼんやり考えていたら、霊夢が
こっちをのぞき込んでいる。出来れば助けて欲しいって言うのは過ぎた望みなのだろうか。
そういえば前も霊夢は気絶している俺を放置していたような。
「もしかして、何か変?」
「何が?」
「だって何か見てるから、どっかおかしいのかと思って」
「まさか!」
両手でスカートの端っこをいじりながら言う霊夢。どうも俺がずっと見ていたのは何か
おかしいところがあったからだと思われているらしい。完全に的外れな心配だったので即
答で返答する。
ところで魔理沙はいい加減本気で俺の頬を離してくれないかな。気のせいかどんどんつ
ねる力が強くなっている気がするんだ。
「似合う?」
「かわいい!!!!」
ちょっと悪戯っぽく笑いながらそんな事を言う霊夢。それは服装がどうかの問いだと理
解していたが、今の霊夢全部に対する率直な感想が思いっきり漏れ出た。
「間違えたァァァ! 制服全然似合ってますよ!!」
可笑しそうに笑う霊夢。その様子もまた可愛い。そしてそろそろ千切れそうな俺の頬。
意図的に見ないように勤めていた魔理沙をつい見てしまうと、眉を吊り上げ口を思いっ
きりへの字にひん曲げていた。
「ぅぅぅぅ…………!!」
その顔は熟れたトマトの如く――これちょっとありきたりな表現だな。まあいいや。と
もかく真っ赤である。魔理沙は体温が高い方なので、少し興奮すると直ぐ赤くなる。昔っ
からそうだ。
どうやったら手を頬から離してくれるか頑張って考えていると、タイムセールの開始を
告げる店員の声が聞こえてきた。
◆◆◆
「「勝利ッ!!」」
戦利品が詰まった買い物かごを傍らに、高らかに叫びながら魔理沙とハイタッチした。
俺の方が背が高いので、魔理沙は少し背伸びしている。
このスーパーはタイムセールの際はそれなりの混雑になるが、俺達にとってはそんなの
慣れたものだ。
俺は壁、開いた進路を魔理沙が進攻。無駄に長い付き合いのせいか、こういう時の連携
は完璧である。もはや目線だけで語り合えると言っても過言ではないだろう。
「んー」
お使いで浮いた金がダイレクトに小遣いになったせいか、俺や魔理沙は結構昔から争奪
戦に参加している。その頃から魔理沙と一緒にこんなふうにやってきた。考えてみれば長
い付き合いだ。長いからこそ思う事もある。
「どうした神妙な顔して。珍しいな、熱でもあるんじゃないか?」
「俺が普段からアホ面全開みたいに言うの止めやがれ? いや、これな」
手を宙にかざすと、魔理沙がそこに手を重ねてきた。ペチンと音が鳴る。いわゆるハイ
タッチである。
たぶん魔理沙が俺と同じように手を出したら、俺も同じように手を合わせるだろう。ず
っとやってきたから、もう習慣のようなものになっている。
「昔は同じ高さだったなーと思ってさ」
子供の頃は、どちらが何をしなくても、ちょうど同じ高さで手がぶつかっていた。でも
今は違う。俺の方が背が高いから、魔理沙はちょっと背伸びをする形になる。
「気がつきゃ割と撫でるのにいい位置になってるもんな」
魔理沙のクセッ毛をわっしゃわっしゃと撫で回す。そこまで身長差がある訳でもないが、
手を置くにはいい位置だった。
当然髪は少し乱れてしまうが、魔理沙はその辺まるで無頓着なのでいつもボサボサ一歩
手前だ。多少乱れても問題あるまい。
もうちょい身だしなみ方面にも気を使えばいいとは思う。でも、魔理沙がこういう性格
だから気兼ねなく付き合えているのかもしれない。
「お前は背ばっかり伸びて中身がまるで成長しないよな」
「うるせえやい」
てっきり手を払いのけられるかとも思ったが、魔理沙はそんな事を言い返しながら可笑
しそうに笑っている。つられてこっちも口元が緩む。
何時までもそうしている訳にも行かないので手を離す。少し乱れてしまった髪を両手で
直しながら、魔理沙は嬉しそうに笑っていた。にしし、とか言うより、にへら、とかいう
擬音が似合いそうな緩みきった笑顔。
その笑顔が心に残る。
何時も見てきたはずだし、贅沢かもしれないが見慣れていると言えなくも無い。でも何
故だかとても、今目の前にある女の子の笑顔が可愛いと思った。
(…………こいつたまにすっごく可愛くなるからなあ)
普段の俺なら反射的に口に出しそうというかむしろ出す。でもこの場でそれをするのが
妙に気恥ずかしくて、結局口の中で留まった。
元々可愛いってのはわかってる。でも普段の言動のせいかどうもそれが頭から抜けがち
だ。だからこう、不意打ち気味に女の子全開になられると、一気にくる。
「ん? どうかしたか? 変な顔してるぜ?」
「あー……いや、何でもない何でもない」
明後日の方向を見やりながら適当に誤魔化した。
駄目だ。このままだと変な事を口走る。話題を変えた方がいい。
「そういやあ霊夢どこ行った?」
「人ごみに流されたんじゃないか?」
「まあ、激戦区だからなあ」
二人してきょろきょろと周囲を見回す。俺と魔理沙も今では常勝だが、それでも昔は負
けの方が多かったのだ。今日はじめての霊夢には少しハードルが高かったかもしれない。
とか考えていると、カゴを地面に下ろすがしょんという音が聞こえた。
「ちょろいもんね」
そこにはカゴ一杯に戦利品を詰め込んだ霊夢の姿が!
「「なん……だと……?」」
二兎を追う者は一兎をも得ずという諺がある。その理論で俺と魔理沙が他を確実に手に
入れる為にあえて見逃した競争率の高い食材までも、カゴに収められている……!?
戦慄する俺と魔理沙等知った事ではないと、霊夢は涼しげな顔をしていた。
◆◆◆
今日の晩御飯。
鳥の水抱き。
鍋物の際に肉をめぐって争う光景というのは割とポピュラーな認識だと思う。我が家の
場合は主に俺と祖父の間で戦争になる。なんであの爺ちゃんは歳いってるのにあんなにガ
ツガツ食うのか。
またかなりの高確率で食卓には魔理沙も参加する。おれにより肉の需要は更に加速した。
なんせ魔理沙ったら何時まで経っても成長期だし。前にこれを胸を見ながら言ったら本気
で蹴られた。正直者は辛いね!
「…………」
奪い合いっても別に箸でガキンガキンやる訳じゃない。そんなの行儀も悪い。
じゃあどうするかって、ただただ食うだけ。
相手より速く食いまくるだけである。
「なあ魔理沙。今思ったんだがてめえそれは俺が狙ってた肉だぞ」
「んー? どうした早いもん勝ちだぜもらった」
隣に座っている魔理沙に話しかけた。ちなみに話しかけている方も話しかけられて返事
をした方も箸は一切止めていない。だって美味しいんだもん。
「はーい霊夢」
「自分で取るってのよ……」
「あーん」
「誰がするか」
向かいに座る霊夢はというと。加速のかかった俺や魔理沙とは対照的に、気怠げさを普段の二割増しくらいにして食事を続けている。
「肉子! 肉子を返して!!」
「肉子は私と暮らす方が幸せなんだぜ! で、何がどうしたって?」
”その横に座る女性”は霊夢のその様子がお気に入りなのか、さっきからずっとニコニコしながら霊夢にあれこれとアプローチしている。
「何か一人多くねえ?」
「遅ッ!!!!」
時刻は晩飯時。
場所は我が家の食卓。
俺達の通う学園の学園長こと八雲 紫の登場である。
…………なんで?
新ろだ889,895
新ろだ2-014,2-033,2-045,2-049,2-066
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最終更新:2010年07月02日 23:49