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※流れ

   プロローグ
     ↓
   共通ルート1
     │
 │ ̄ ̄ ̄│ ̄ ̄ ̄│
 │   │   │
妹紅1 慧音1 魔理沙1
 │   │   │
 │   │   │
   ̄ ̄ ̄│ ̄ ̄ ̄
   共通ルート2
     │
     │
    ???

新ろだ887 後書きより抜粋

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プロローグ



眠い。もう駄目だ。


机の上に万年筆を放り投げた俺はすかさず布団に入り込み、意識を失うかのように目を瞑った。
今は朝。ちゅんちゅんと雀の鳴く声が聞こえ、ガラスのない窓からはさんさんと日差しが降り注ぐ。
しかしそんなものは俺の知ったことではない。人が活動し始める時間だろうが、朝顔の咲く時間だろうが、徹夜明けの俺は眠いのだ。

さあ寝よう。3日徹夜してまで仕事を仕上げようとした俺がバカだったのだ。残りは起きた後に仕上げればいい。
あの新聞記者にはあと半日原稿を待ってもらって……駄目だ、意識がもう保てない……

「やっほー。○○、起きてるかー?」

いきなり開いた玄関の扉。この家は5畳1間の狭い家なので、闖入者の声がダイレクトに俺に響いた。
最悪だ。普段ならともかく今は勘弁してくれ。俺は眠い。お前に構ってる気力はないんだ、妹紅。
俺はあくまで布団にくるまり、意識を飛ばそうとする。

「なんだ。まだ寝てたのか。○○ー、もう朝だぞー」

闖入者――藤原妹紅はずかずかと家に上がり込み、俺の布団を無理やり剥ぎ取ってしまう。
太陽の光が俺の目に突き刺さった。やばいくらいに痛い。

「も、妹紅……」

俺が布団を取り返そうと手を伸ばすと、妹紅は意地悪にも布団を高く持ち上げた。そしてニカッと明るい笑顔。

「起きた? あのさ、釣りにでも行かない? 慧音から寺子屋の子供達に教えて欲しいって頼まれたんだけど、○○もよかったらさ」

妹紅の誘い方はそっけないが、俺にとっては嬉しい申し出だ、いつもなら。
俺は動かない口を鞭打ち、たどたどしく動かしていった。

「妹紅、頼む、寝かせてくれ。俺は徹夜して今寝る所なんだ。頼む、頼みます、お願いします、どうか俺に慈悲を」

寝ころびながら懇願する俺の姿はさぞ情けなかろう。だが俺は限界なのだ。

「また徹夜してたのか……いつかは身体壊すぞ、まったく」

小言を言いながらも妹紅は優しく布団をかけてくれた。暖かい空気に包まれ、俺の睡魔が急激に勢力を延ばし始めた。

「しょうがない。魚釣りは私1人で……うん? もう寝たのか。ったく……おやすみ、○○。よく寝ろよ」

妹紅の優しい声に包まれながら、俺は夢の世界に旅立つのだった。



小説とは俺の全てだ。どんなことよりも優先し、命を削ってでも書きたいという衝動がいつも渦巻いている。
外の世界から幻想郷へと放り込まれた今でもそれは変わっておらず、俺は下手くそな小説を書き続けていた。
そして運が良かったのか縁があったからなのか、この幻想郷にて何冊かの本を出すに至り、外の世界ではできなかった「作家」としての生活を送るようになったのだ。


しかし作家とは太宰治氏や樋口一葉氏といった大先生がそうであったように、そう安穏とした生活を送ることはできない。
お金に困り、人間関係に悩み、世の中と人生について深く思慮し、時には絶望と希望の境界に立たされながら醜く生きていく者のなんと多いことか。


特に俺は、幻想郷で作家生活を送ろうと思うこと自体がおかしいと言われるのではないだろうか。
ここでは現代世界における『出版社が作家から原稿を受け取って本にし、それを大量に印刷して全国の本屋で売りさばく』という販売構造が、微塵も存在しない。いや、そもそも近代的な出版技術自体が普及していない。
さらに人間の数が少なく、それよりも遥かに多くの妖怪や超人、幽霊が跋扈しており、一部の高等妖怪を除けば言葉も通じないありさまなので、読書人口は限りなく低い。


必然的に本を作ってもさほど売れず、俺は生きていくために身を粉にして文章を書かなくてはならなかった。
一応、臨時の仕事はいくつかあるが……あくまで俺は作家だ。できることなら文章でご飯を3食食べたかった。



そうして俺は、今その作家としての仕事をひとつやり遂げた所だった。

「はい、確かに受け取りました。しかし○○さん……次は締め切りをきちんと守ってくださいね」
「まことに申し訳ない。次は締め切りギリギリまでには仕上げます」
「本当は締め切りの前日ぐらいに書き上げてくれた方が助かるんですが……」

つい1分前に書き上げた原稿を手にしてため息をついているのは、今回の仕事の依頼者である射命丸文さんだ。
文文。新聞という不定期刊の新聞を製作している女性で、種族は天狗。人間に限りなく近い姿形をしているが、背中の黒い翼がしっかり人外であることを示していた。
幻想郷では数少ない出版技術を持っており、普段からお世話になっている。


さらに俺は彼女の文文。新聞に小説を連載している。今日の朝がその最新話の締め切りだった。
しかし、今日の朝俺は完璧に眠ってしまい、昼に起床。それから死に物狂いで書いた。
そうして原稿を渡すことができた現在、太陽は沈み、月がぼんやりと三日月の形で出ている。

人里離れた竹林の傍にあるこの家。外はとても静かだった。

「今日の分の原稿料はまた明日持ってきますから」
「ありがとうございます。助かります。そろそろお金がなくなりそうで」
「顔色悪いですもんねえ。何日食べてないんですか?」
「今日はちょっと徹夜明けで……そういや昨日の昼におにぎり食べたきりだったかな……もしくは一昨日……あはは」
「つまり覚えてないわけですか。相変わらずですねえ、○○さんは」

心底呆れているらしい射命丸さん。まあこのぐらいは締め切り前なら日常茶飯事だ。
仕事中は空腹なんて気にならない。3日絶食なんてざらにある。

その代わり、仕事が終わったら急激に腹が減る。今もぐーっと、大きな音が俺の腹から鳴った。

「おっと失礼」
「原稿の受け取りの時に何十回と聞いているのでお構いなく」

にっこりと営業スマイルを浮かべる射命丸さん。お義理の笑顔だと分かっていても、こんな美少女に微笑みかけられたらドキリとするものだ。
ほんと幻想郷って所は、人妖問わず美女・美少女が多い。まあ、そういう人は大抵普通の人間では太刀打ちできないほどの力を持っているので、手を出すことなんでできやしないけど。
ただ、最近は強大な力を持つ彼女らにもそういう色恋沙汰が増えてきた、と射命丸さんが言っていたか。彼女らが男性と一緒にいる姿なんてそうそう見ないのだが、いったいどこに相手がいるのだろうか。

「適当におにぎりでも作るかな。射命丸さんも食べます? もう晩御飯の時間でしょうし」
「いえ、私はこれから新聞製作で急ぎ帰らないと……」

と、射命丸さんが立ち上がったところで玄関の扉がいきなり開いた。

「おーす、○○、生きてるかって、なんだ新聞屋もいるのか」

遠慮などという言葉を彼女は知らないのか、家主には挨拶もせずにずかずかと部屋に入ってきたのは、やはり彼女――幻想郷に来てからできた友人その1の藤原妹紅だった。
白い髪をなびかせながら、肩には何か巨大な物体を担いでいる。紙に包まれた何か。水の雫がぽたぽた落ちていた。

毎度のことながら、妹紅はここを自分の家と勘違いしているのではないだろうか。
射命丸さんも呆れた様子で、カメラを構えている。いや、カメラ? どうして?

「妹紅さん。また○○さんの家に転がりこんでるんですか? もしかして同棲ですか? 記事にしてもいいですか? 婚約発表しますか?」
「違う。私には私の家がある。今日来たのは、これを届けるためだよ」

自分の家があるくせによくここに入り浸るじゃないか、と俺が突っ込む前に、妹紅が肩に担いでいたものをどんっと無造作に放り投げた。

やけに生臭い臭いがする。これは……魚だろうか。

「どうしたんだ、これ」
「今日の成果。1人じゃ食べきれないし、食料難の○○に分けてあげようかと思ってね」

誇らしげに言う妹紅。ああ、確か慧音さんに頼まれて子供に釣りを教えてたんだったか。あやふやな朝の記憶にそんな会話があったような。

確かに食料も尽きかけているのでこれはありがたいが、これだけの大きさ、2人でも食べきれるかどうか……
この魚、軽く丸太ぐらいの大きさはある。マグロか? 海ないだろ、幻想郷。

何の魚だ、と俺が聞くと、妹紅はさも当然の如く「鮎だけど」と答えた。
通常の10倍以上の大きさなんだが……さすが幻想郷。常識が通用しない。

「妹紅さんは○○さんに貢いでいるんですか? それともこれは持参金代わりに」
「射命丸さん、新聞づくりはいいんですか?」

取材方向が変な向きになってきたのっで、ここらで止めておこう。
途端に慌てた様子で取材道具をしまい込む射命丸さん。

「あやや。忘れていました。○○さん、私はこれで失礼します。妹紅さん、今度また取材させてくださいね」
「気が向いたらね」
「それでは!」

幻想郷一の速さを誇る射命丸さんは、部屋の中だというのに宙に浮き、開いていた扉から一気に飛び出していった。
ああいう風に空を飛べるというのはうらやましいし美しいと思うが、部屋の中は勘弁して欲しい。原稿用紙が風で飛び散る。

部屋に散らばった紙達を集めつつ、ため息ひとつ。

「はあ、で、妹紅。この魚、どうするんだ?」
「食べるんじゃないの?」

何を当たり前のことを、とでも言いたげな妹紅。食料の保存のことなんて考えていないのだろう。

「まあそうだけど……2人じゃ食べきれないだろ。魚はすぐ痛むしなあ」
「3人なら食べきれるんだぜ」
「ああ、3人なら……って、今度は魔理沙か」

友人2、霧雨魔理沙の登場である。

霧雨魔理沙は普通の魔法使い。白黒のエプロンドレスを着た、まだまだ少女臭のする女の子。
しかし、妹紅がずかずかと遠慮なしに入ってくる友人なら、魔理沙は声をかけることもなく勝手に入ってくる、不法侵入大好きな友人だ。人里で知り合って以来、よくやってくる。

今もいつの間にかちゃぶ台の前に座り、ナイフとフォークを手に、うきうきした目をこちらに向けている。
食べさせてもらう気まんまんだな、こいつ。

「魔理沙、家に入るなら声ぐらいかけろって、いつも言ってるだろ」
「ああ、分かった。それよりも早く調理したらどうだ? 魚が痛むんだぜ」

なんとずうずうしい。料理して食べさせろと言っているのだ。

「そうだね。○○、釣ってからもう長い。お前も腹が減ってるだろうし、食べよう」

妹紅も魔理沙を援護する。いや、彼女の場合は純粋に魚の痛み具合を心配しているのだ……そう思いたい。

「まったく……仕方ないか。妹紅、火をくれ。一気に焼く」
「ん、ほいっと」

妹紅が少し手を振ると、調理場の薪に火種もないのに火が点いた。
魔力だか妖力だかの力らしい。妹紅は主に火を使うことが得意なのだとか。
便利なもんだ。一度こういう力について徹底的に取材してみたい。

「さんきゅ。妹紅も席について待っててくれ。すぐに用意できる」
「りょーかい」

気のない返事と共にちゃぶ台の前に座る妹紅。手伝おうという意識がまるでないのが嘆かわしい。いや、手伝われても困るけど。
前に米をといでもらった時の大惨事……思い出したくもない。

「さてと、味つけは適当でいいか……」

俺は手ぬぐいを頭に巻き、久方ぶりの食事を用意するのだった。



「「「いただきます」」」

3人一緒に手を合わせ、食料となってくれた魚に感謝の意を示す。料理した俺に感謝することなんてないな、主に魔理沙は。

「おい魔理沙、いきなり脂のってる所を食べるなよ。遠慮しろ」
「こういうのは早いもの勝ちなんだぜ」
「○○、ここ食べるか? 栄養つけないと」

対面でばくばく食べ進める魔理沙に比べて、隣に座る妹紅のなんと優しいことか。涙が出る。
しかし目玉部分はそう易々と食べられるものじゃないことを分かって欲しい。魚の目ってギロリとにらんでくるようでちょっと怖い。

「おー、妹紅は相変わらず○○にべったりなんだな」
「何を言っているんだお前は」
「そ、そうだ。私は別に、ただ餓死しそうな○○が心配なのと、美味しい料理が食べられるから持ってきてるだけで……」

妹紅はよく俺の家にきては、食料を持ってきてくれる。
過去に一度、俺が小説を書くことに夢中で本当に家の中で餓死寸前までいったことがあり、それ以来のことだ。
さすがに知り合いが餓死するなんて夢見が悪くなる、とは一度理由を尋ねた時の妹紅の弁。

妹紅が料理の素材を持ってきて、俺がつたない腕ながら調理して一緒に食べる。ギブアンドテイクというやつだ。
それ以上の関係なんてないだろうに、魔理沙は何を勘違いしているんだか。

「だったら私にも何かくれよー。○○だけずるいんだぜ」
「どうしてお前なんかに」

すがりつく魔理沙に、迷惑そうな妹紅。この2人、仲がいいのか悪いのかよくわからない。
以前弾幕ごっこで対決したことがあると言っていたが、2人の間に険悪な雰囲気を感じたことはなかった。
まあ、弾幕ごっこ自体があくまで「ごっこ」なので、遺恨を残すようなことはないんだろうけど。

「くれよー」「離せー」と言い争っている2人を尻目に、俺は魚を食べ続ける。旨い。久々にタンパク質を取った気がする。

「もし、○○はいるか?」

コンコン、というノックの音と共に知った声。この丁寧な訪問の仕方は、あの人だ。

「はい、慧音さんですか?」
「ああ、私だ。開けるぞ」

友人その3、上白沢慧音さんの登場だ。
扉が開くと特徴的な帽子が目に入り、落ち着いた雰囲気を醸し出す美人さんの姿が現れる。

この美人さんは幻想郷に来て以来、最もお世話になった人だ。
人里で教師をしている彼女は、この世界に放り込まれて右も左も分からない俺を拾ってくれた上、一時期居候までさせてくれた。
他にも職の斡旋をしてくれたり、俺が初めて本を出すことになった時には率先して手伝ってくれたりと、世話になりっぱなしで感謝してもしきれない。

今ではお礼に彼女の寺子屋を時々手伝ったりしているが、いつかは彼女にきちんと恩返ししたいと思っている。

「失礼するぞ、妹紅がこっちに……やっぱりいたか」

固い表情で妹紅の姿を認めた慧音さんは、少し怒っているようだった。
当の妹紅は魔理沙をひきはがしながら、「あ、慧音」とのんきな声をあげている。

慧音さんは深くため息をついた。

「子供達を送り届けた後にどこに行ったかと思えば……やっぱりここか」
「なんかあった? 子供は全員無事に帰したはずだけど」

妹紅と慧音さんも友人だ。主に生活能力のない妹紅を慧音さんが心配している、という関係。
慧音さんは重度の世話焼きなのかもしれない。

「子供達はいい、よく引率してくれた。だが終わったなら終わったと私の所に報告してくれてもいいだろう。まだ釣りに行っているのかと思って、ずいぶん探したぞ」
「あー、ごめん。この魚を届けることしか考えてなくって」
「ふぅ、まあいい。魚か……たいそうな大物だな」

慧音さんも目を丸くしている。ちゃぶ台を丸々占領しているのだから、驚くのも当然だ。

「慧音さんも食べます? 俺たちだけじゃきつそうなので」
「ふむ……そうだな、貰おうか。妹紅を探し続けて夕飯もまだだからな」
「慧音ー、そんな怒んないでくれよー」

慧音さんの当てつけに妹紅がすまなそうな声をあげる。微笑ましい光景だ。

俺は慧音さんに箸と取り皿を渡し、好きな所に座ってくれ、と一言。
すると彼女は、あろうことか妹紅と俺の間に座る。けっこう強引な割り込み方だったので、俺も妹紅も驚きだ。

「ではいただこう」
「はあ、どうぞ」
「慧音……怒ってるんだな、そうだなんだな」

拗ねる妹紅に、ふふんと意地悪な笑みを浮かべる慧音。いつも親切な彼女にしては珍しい表情だった。

「おーおー、○○はモテモテだなー。私も寄り添ってやろうか?」
「だからお前は何を言っているんだ」
「いてっ」

魔理沙が本当に俺の隣に座ってこようとしたので、デコピンを1発かましてやった。
魔理沙はにひひっと笑い、また魚を食べ始めた。悪ふざけの好きな奴だ。

俺もさっさとタンパク質の摂取に努めよう。

美女と美少女に囲まれて食事、とはなんと恵まれたことかと自分でも思う。
しかし彼女らはあくまで友人。あちらもそう思っていることだろう。
学生時代、仲間と一緒に鍋パーティでもしたのと同じようなものだ。

無論、俺も男なのでそういう色恋沙汰に興味がないわけではないが、彼女らは一癖も二癖もある上、幻想郷でも実力者。
売れない作家ごときがそういう関係になるなんて、おこがましいことだ。

「お、ここは脂満載だな、もらったぜ」
「おい魔理沙よ。おいしい所はみんなで分けあおうとは思わんのか」
「○○、目玉食べる? ほら、旨いよ」

狭い家ににぎやかな声。
今はこの暖かな空気に浸っておけるだけで十分だった。


新ろだ884
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共通ルート1



万年筆の筆先が進まない。原稿用紙の上で文字を書くこともなく止まったまま。
机の周りにはすでにくちゃくちゃに丸められた原稿用紙が散乱していた。
俺が書いては捨て、書いては捨てを繰り返した結果、5畳1間の狭い部屋は紙屑まみれになっていた。

「違う……ここの心情の吐露が冗長すぎると話のリズムが崩れる……けどここで書いとかないと行動論理が破綻して……」

自分自身に確かめるかのように、俺はぶつぶつと小説についての構想を練っていた。
傍目から見れば、部屋の中で独り言を言っている不気味な青年に見えることだろう。
しかしこの狭い家に住むのは俺1人。誰の目も気にすることはない。

ふと、風呂に入ったのは何時だったかな、と俺は取り留めのないことを思い出した。
3日前は入ったか……なら、2日ほど身体を洗っていないことになる。どうりで頭が少し痒いはずだ。

肩もこってきたし、ここは一つ気分転換でもするべきかもしれない。

小説はかなり行き詰まってる。1時間は考え続けていたが、どうにも新しいことを思い浮かべそうにない。

よし、風呂に入ろう。
だが、薪はあっただろうか。確か昨日野菜炒めを作った時に全て使ったような……ということは湯が沸かせない。

「里に行くか……」

里には一応公衆浴場がある。金はかかるが、薪を拾ってくる手間を考えればそっちの方がマシだ。

俺は手ぬぐいと石鹸、着替えを押入れから取り出し、着の身着のまま外へと繰り出した。
すでに時刻は夕方。公衆浴場にも人が集まっている時間だった。



俺は里の人間と比較的仲がいい。

この世界に来た当初、俺は慧音さんの家に居候していた。
今は竹林の側で人を避けるように住んでいるが、最初は里で暮らしていたのだ。
慧音さんの助けを借りつつ、俺が幻想郷に定着できるよう頑張っていたわけだ。

職も斡旋された。就職して自立した生活を送る。外でもここでも人間の生きる方法は一緒だ。
しかしその職は苛烈極まりないものだった。

なんと、筆より重いものを持ったことがない俺に、畑を耕したり大工の仕事したりしろというのだ。
まさにシベリア送り。強制労働のように過酷だった。
俺は死ぬ直前までこき使われ、そこで反骨精神を養った……いつかこの苦渋を文章にして表そうと思って。



……すみません、俺に体力がないのが悪いんです。

最初はがんばった。慧音さんに紹介された仕事なのだ。筋肉のない身体を鞭打って働いた。
だが次の日、俺は筋肉痛で起きあがれなくなり、さらには作家の持病である慢性的腱鞘炎が悪化して、万年筆さえ持てなくなる事態になったのだ。

さすがに見かねた慧音さんが、肉体労働をさせることは諦めて他の仕事を紹介してくれて、今の作家生活につながることになったのだが、それはまた別の話。


そんな笑い話にも等しい出来事があったためか、さらに幻想郷では珍しい小説家ということも相まって、俺の存在は里の人間によく知られている。
時には畑でとれた野菜を分けてくれたりすることもあり、俺は人間の縁ってのは大切なんだな、と再認識するのだった。

「おー、○○先生だ。あの本、見たぞー」
「あ、どうもー。ありがとうございます」

「○○先生、次はどんな話を書くんですか?」
「内緒ですよ。本を楽しみにしてください」

道端でも男女問わず話しかけられる。大抵は俺の本の読者さんだ。
先生と呼ばれるほど偉くなったつもりはないのでやめてくれと言っているのだが、どうにもその呼び方が定着してしまったらしい。
今では俺も諦めている。こういうのは慣れだ。


里の人達との交流を深めながら、俺は公衆浴場へとたどり着いた。

ここの公衆浴場は外の世界で言う銭湯に近い。
外の世界では少々廃れ始めている施設だ。だからこそこうやって幻想郷にあるのかな、俺は思っていたりする。

さっさと身体を洗おうと思って入り口に向かうと、知った背中が前を歩いていることに気付いた。

特徴的な帽子に薄い水色の髪が1人。
赤白のリボンに白くて長い髪が1人。

「慧音さん、妹紅」

「ん? ああ、○○か」
「あ、○○。おーす」

人混みにまみれても目立つ2人。手には手ぬぐいの入った桶を持っていた。

「2人も公衆浴場に?」

俺がそう尋ねると、慧音さんが「ああ」と答える。

「妹紅が昨日風呂に入っていないと言うからな。無理矢理連れてきた」
「へー、妹紅がねえ」
「け、慧値! ○○に言うことないだろ!」

妹紅が顔を赤くしている。女の子として、さすがに風呂に入っていないとばらされるのは恥ずかしい所があるのだろう。
しかしまあ、妹紅は生活能力が皆無なので不思議ではないし、驚きも少ない。俺も同じようなものだし。

「気にするな妹紅。俺も2日は風呂に入ってないからな」
「○○……それは励ましでもなんでもない」

はぁ、とため息をつく妹紅。何を見当はずれなことを、とでも言いたげだ。どうして?

一方で慧音さんが疑問を浮かべた表情をしている。

「○○、お前は確か最近大きな仕事が終わって、今は比較的生活に余裕があるんじゃないのか?」
「あー、確かに今は急ぎの仕事がないんですが、今の内に以前から書いていた長編を進めようと思ったんです。けど、どうにも行き詰まってまして……」
「ふむ、お前は小説のことになると、本当に他のことに目がいかなくなるな」
「面目ない」

だからこそ妹紅や慧音さんという友人には感謝している。
彼女らがいなくては俺は生きていけないのではないだろうか。



話もそこそこに、俺達は公衆浴場へと入っていった。
男女別なので、慧音さん達とは別れ、俺は1人でだだっ広い浴場へ向かう。

「あー、生き返るな」

頭を洗い、身体もさっぱり。身体がリフレッシュしていく。
やはりこういう時間は大事だ。いつも小説のことばかり考えていては、頭もパンクする。
慧音さんの言うとおり、集中し始めると他に目がいかなくなるのは俺の悪い所だ。

お嫁さんでもいてくれたら、そこらへんのフォローもしてくれるのかねえ、と俺はくだらない考えをめぐらせながら湯船へ。


男湯は思ったよりも客が多かった。俺と同じように湯船に入っているのが5人、身体を洗っているのが4人。なかなか盛況のようだ。
これから夜にかけてさらに客も増えるだろう。混雑する前にさっさとあがってしまおう。

ああ、そうだ。帰りに慧音さんと妹紅と一緒に何か食べに行こう。
大きな仕事の後でお金にも余裕があるし、たまには俺が奢るのもいい。

何かおいしい料理屋はあったかな。たまには脂肪分の多い食事をしてみたいものだが……

「ひゃっはー! 銭湯だぜー!!」

突然、壁の向こう側から聞き知った声が響いてきて、俺は何事かと上を見上げる。
ここ銭湯は、男湯と女湯が巨大な壁で隔たれているだけで、壁の上の方はあちらと繋がっていた。
女湯からの声、さらにこの馬鹿みたいに大きな声は……魔理沙か。

「おー! これは気持ち良いんだぜ!」
「ちょっと魔理沙。まずは身体を洗いなさいよ」

うん? この声は誰だろうか。あまり聞いた事がない。どうやら魔理沙の知り合いのようだが……
落ち着いているというか気だるげというか、魔理沙と同年代ぐらいの少女の声だ。

「霧雨魔理沙はクールに風呂に入るんだぜ。いちいち身体なんて洗わなくても、さっさとお湯を浴びちまえばいいんだ」
「どこがクールなのよ。それに身体を洗うのは公共のマナーよ」
「気にすんなって霊夢」

霊夢? その名前はどこかで聞いたことがある。なんだったか……ずっと以前に聞いたことがあるような。
俺は頭の中をこねくりまわして思い出してみる。
そうだ。この世界にやって来て1カ月ほど経った時、外の世界に戻れる方法があるとして魔理沙に紹介された巫女さんがいたか。
連れて行かされたのが山の上の有名な神社で、名前は『はくれい神社』だったか。そこの巫女が霊夢という名前だったはず。

俺はこの世界で暮らすことを選んだので、結局巫女さんの世話にはならなかったが……ふむ、そうか。魔理沙は友達と銭湯に来たということか。

巫女さんは湯船で暴れている魔理沙に呆れた声をあげている。

「まったく、見なさい。周りの人も呆れて……って、あら?」
「魔理沙、霊夢、お前達もこの銭湯に来ていたのか」

この落ち着いた声は慧音さんか。顔の広い彼女は巫女さんとも知り合いなのだろう。
どうにも女湯の会話がダイレクトに聞こえていけない。しかもあっちは全員服を着ていない、生まれたままの姿なのだ。

ほら、男湯に入っている人達が皆黙り込んでしまったではないか。
魔理沙の「おー!」という声が余計に響く。

「慧音と妹紅かー。ははは、なんだ、今ここにいるのは知り合いだけだ。だったら気にする必要ないんだぜ」
「気にしなさい。それにしても、今日は少ないのね……私達4人だけじゃない」

巫女さんによると、女湯にいるのは慧音さん、妹紅、魔理沙、巫女さんの4人だけということらしい。
男湯なんてそろそろ満員になりそうだというのに……広い風呂場でうらやましい。

「慧音、石鹸とってくれ」
「ん、ほら」
「さんきゅ」

妹紅の声も聞こえる。彼女は身体を洗っている途中なのか、先ほどからやけに言葉少なだ。

「やだ、私石鹸忘れてきたみたい」
「はははー、霊夢のばーか」

巫女さんは石鹸を忘れてきたのか……なんで俺はこんなに聞き耳を立ててるんだろう。

「うっさい。ねえ、藤原妹紅――だったかしら、その石鹸、次に貸してくれない?」
「……ほら」
「ん、ありがと」

なんだろうか。妹紅の声がいつも以上に暗いというか、そっけないというか。
もしかするとこれは、あれだろうか。うん、そうに違いない。

俺と同じことに気付いたのだろう、魔理沙が妹紅に話しかける。

「んー? 妹紅、お前霊夢のこと苦手だったか?」
「……どうしてだ?」
「なんかしかめっ面してたぞ。石鹸渡すときに、こんな感じで」

どんな顔だ。ちょっと見てみたい。

「……別に苦手でもないよ。少し会ったことがあるだけで仲が良いわけでもないんだから、これが普通だ」
「かーっ、お前はいつもそうだな。たまには私達以外の友達も作れよ」

魔理沙の言う通りだ。妹紅はどうにも人見知りというか、人嫌いな面がある。
別に人と話さないわけではないし、世間話ぐらいはするのだが、他人とは決して深く付き合おうとはしないのだ。
妹紅が笑ったり、怒ったり、ふざけあったりするのは、俺と慧音、魔理沙、後は寺子屋の子供達ぐらいではないだろうか。

これに関しては俺も以前から問題視している。妹紅はもっと、色々な人と話すべきだ。

だが妹紅の声は晴れない。

「……そのうち」
「そのうちってなんだよそのうちって」

魔理沙と俺が、同時にため息をついていた。妹紅、別に親友になれと言っているわけじゃない。ただ話してみればいいんだ。

「そうだな、妹紅。良い機会だ。ここで霊夢と何か話してみればいい。裸の付き合いという奴だ」

慧音さんも促すが、妹紅は意固地だった。

「い、いいよ、別に。話すことなんて特にないし……」
「あら、私は聞いてみたいことあるわよ。例えば、どうして肌も髪がそんなに白くて綺麗のかしら、とかね」

誰かが湯船に入る音。巫女さんが湯に浸かっていた妹紅に近づいていったのだろう。

「他にも、こことか」
「ひゃう!」

「おーっ、妹紅が背中触れただけで奇声あげたぜ」

なんだ、いったい何が起こっている。巫女さんが妹紅に何かしたのか?

「さ、触るな! 別に綺麗でもなんでもないだろ!」
「そう? 何か手入れとかしてるんじゃないの? うらやましいわねえ」

「霊夢なんか毎日ゴロゴロしてるから、少し太って――ぎゃふ!」

水が飛び散る音。魔理沙の奴、顔に水でもかけられたか。

「失礼ね。別に太ってなんかないわよ。ちゃんと運動もしてるし」
「けど、プロポーションは維持できてない、と。ほら、見てみろよ。そこの2人を」
「2人って……」
「慧音はぼんきゅんぼん! 妹紅はスラーッとしてるだろ? で、2人の後に自分を見ると……」
「……うっ!」

巫女さんの蛙の潰れたような声。
次の瞬間、魔理沙の爆笑が銭湯内に響いた。

「はっはっはっ!」
「何よ、魔理沙も同じようなもんじゃない。胸もないし、腰のくびれもない。移動は箒だから、ほら見なさい、腰の辺りに肉があるわよ」
「私の場合は肉付きがいいと言ってくれ。ぷにぷにしてる感じだな」
「小太りって言うのよ、それは。肉付きがいいっていうのは、慧音みたいに胸がある人のことを言うのよ」

「慧音の胸……確かに大きい……」
「こら、妹紅。そんなに見るな。私だってお前の足が細いのがうらやましかったりだな……」

なんだこの会話。徐々にまずい方向に向かっているような気がする。
こんな、人が裸になるような場所で、キャッキャッウフフな会話をされてはたまったもんじゃない。
しかも壁の向こう側にいるのは幻想郷でもとびきりの上玉(下品すぎるか?)。そうそう見かけることのできない美女・美少女達だ。

必然的に男湯の空気がムラムラとしたものに変わってきている。
こら、そこのおっさん。壁に耳をつけるんじゃない。そっちの少年は鼻血が出そうなのか……早くあがれ。

微妙に女湯側の壁に人が集まり始めている。人口密度が一気にあがったな、こりゃ。
俺は反対側の湯船でゆっくりと暖まるとしよう。


「ねえ、慧音」
「なんだ」

巫女さんが慧音さんに話しかける声。そろそろあっちも全員湯船に浸かっている頃か。

「そんなに胸が大きかったら、男にいやらしい目で見られたりしないの?」
「ん……まあ……なんだ。そういう視線を感じることも、確かにあるな」

こっちにいる男達の中の数人が「ギクリ」と身体を震わせた。視線というものに心当たりがある奴らなのだろう。
しかし、それを非難する者はいない。皆が「そりゃ仕方ない」という表情をしている。あれだけ大きければ、ねえ。

巫女さんのため息をつく声が聞こえた。

「やっぱり? 私も時々里に降りたりするけど、微妙に視線を感じることが……」
「霊夢、お前の場合は胸じゃないぞ。きっと脇だ、脇」

魔理沙のふざけたような言葉にも、男湯にいる者の何人かが頷いている。そうか、脇フェチって幻想郷にもあるのかー。
なんだか頭が痛くなってきた。

巫女さんも気分が悪くなったらしい声をあげている。

「何よそれ。そんなマニアックな視線、嫌よ」
「まあ、あれだ。人の好みってのは十人十色、人それぞれ。お前の脇に欲情する奴もいるってこった」
「十人十色ねえ……あんたの貧相な胸に欲情する奴がいるとは思えないけど」
「そんなことはないぜ? 私だって時々言い寄られたりするんだ」

ほう、それは初めて聞いた。嵐のような少女の魔理沙を口説こうとする男がいるのか。
こっちの男達も意外そうな顔をしている(何人かは顔を俯けているが)。

こちらの疑問符を感じ取ったかのように、慧音さんの尋ねる声が続く。

「魔理沙よ、それは本当か? 例えば、誰にだ?」
「そりゃー、人里離れた一軒屋に住む作家さんとか、な」
「嘘だな」「嘘ね」「嘘つくな」

慧音さん、巫女さん、妹紅の順できっぱりと切り捨てる。
俺も心の中で否定した。そんな命知らずな行為に及んだことはない。魔理沙、冗談が過ぎるぞ。

「な、なんだよ。本当なんだぜ? 前にあいつの家に言った時にだな」
「あんたの嘘はすぐばれるわ。嘘をつく時に眉がぴくぴく動くから」
「マジか!」
「嘘よ。けど、確かめたってことはやっぱり嘘なのね」

魔理沙と巫女さんは非常に仲が良いのだろう。
まるで会話のキャッチボール以上の、紅白試合のように軽やかに会話している。
妹紅もこれぐらい話してくれるようになったら……

「○○って……どういう人が好きなんだろ……」

その妹紅が、魔理沙と巫女さんのじゃれあいの合間を縫って、かすか呟いたのが聞こえた。
おそらく囁き声に近いものだっただろうに、それはえらく銭湯の中に響いた。

妹紅、いったい何を言って――うん? 女湯がいきなり静かになったな。

「……○○さんねえ。私はあんまり会ったことないから、よく知らないわ」

巫女さんの当然の言葉。そうですね、俺もあなたのことはよく知りません。

「○○は……」

慧音さんがぽつりと喋り出した。

「何度か、私の胸をじっと見ていたことがある」

はい?

「ほ、本当か慧音!」
「○○……やっぱり胸が……」

魔理沙の驚く声と、妹紅の沈んだ声。
一方で慧音さんの声は誇らしげだった。

「あれは熱烈な視線だった。おそらく彼の好みが、そういうことなのだろう」

慧音さん、あなたはいったい何を言っているんですか……
そりゃあ確かに、初めて会った時とかにその大きな胸に目を惹かれたこともありますが、いやらしい目で見たことなんてないですよ、多分。

おかしな話はさらに続く。

「そ、それなら私だって、○○と手を繋いだ時、『すべすべするな、お前の手』って言われたことあるんだぜ!」

待て、魔理沙。それはお前に無理やり箒に乗せられた時のことを言っているのか?
それにそんなロマンチックな口調ではなく、『なんかお前の手がすべすべしてて、滑り落ちそう』という切羽詰った言葉だったはずだ。捏造すんな。

「……私も、○○に髪を撫でられたことあるんだ」

ああ、妹紅。そうだな。何度か撫でたな。
それはあれだ、俺が髪フェチというわけではなく、そりゃあお前の白い髪は綺麗だと思うが、純粋に撫でてやりたいと思っただけなのだ。
小動物を愛でる時の感情に近い。だからそんな邪な気持ちを持っていたわけでは……


はっ! と俺は気付いた。男湯にいる人間の目が、一斉に俺の方へと向いていた。
その視線の種類は様々だ。羨望、好奇心、憎しみ、怒り、絶望――数多くの感情が入り混じり、物理的な痛みすら感じられるほど強烈になっていた。

「ちくしょう、ちくしょう」
「俺も作家になろうかな……」
「俺だって、たまには女の子に囲まれたい……」

い、いたたまれない。彼女達はただの友人だと説明したいが、下手なことを言えば襲われかねなかった。

「○○は、私の胸を!」
「ぷにぷにした手が!」
「髪とか足を!」

女湯の方は白熱している。何をそんなに言い争うことがあるんだ。俺の好みなんてどうでもいいじゃないか。ヒートアップしすぎだ。


仕方ない。この場を収める方法はただ一つ……

俺は女湯の方を向いて、大きく口を開いた。

「あー、あー、テステス。女湯に入っている方、聞こえますかー!」

「「「え? ○○!!」」」

3人同時に俺の名を呼ぶ。巫女さんが「あら」と暢気な声をあげていた。

「えー、みんなの銭湯ですから、なるべく静かに入りましょうねー」

そう告げると、にわかに銭湯の中が静かになった。男湯連中も事の成り行きを見守っている。
これで余計な話はしなくなるか? 頼むから俺の世間体を潰すようなことは……


しばらくして、女湯から3人の悲痛な声が聞こえてきた。

「待て、まさか今までの会話を全て……」

はい、慧音さん、聞いてました。

「太ったとか、好みがどうとかも……か?」

そうだぞ、魔理沙。お前は嘘つきだ。

「……あ、う……っ!!!」

妹紅、叫びたいのは分かるがそこは我慢して……なんだ? お湯が急に熱くなってきたような。


「――う、うううう!!」

妹紅のくぐもった叫び声があがると同時に、湯船のお湯がぼこぼこと泡を噴き始めた。
もしかして、沸騰しているのか? 銭湯のお湯が?

まさか妹紅、お前、そっちで火を。

「あっつ! あっつ!」
「ぎゃあああ!」
「死ぬうううう!」

阿鼻叫喚。悲鳴があちらこちらから上がり始める。

これは豆知識だが――銭湯の湯船って壁の下の方で繋がっているらしい。
もし、女湯の湯の温度が上がれば、必然的に男湯の温度も上がるというわけだ。


今日の銭湯――軽い火傷を負った者、数十名。




「これはどうも、『はくれい』の巫女さん。お久しぶりです」
「ええ、久しぶり。○○さんも変わらずに元気なようで、何よりね。それと、巫女さんじゃなくて霊夢でいいわよ」

銭湯の主人にこってり絞られた後、俺達は建物の前に集合していた。
さっそく俺は巫女さん――もとい、霊夢さんと挨拶を交わし、少々世間話をする。

「霊夢さんは3人とも知り合いなんですね」
「まあね。魔理沙は昔からの腐れ縁。慧音は人里との付き合いでよく会うし、藤原妹紅は、まあ以前のちょっとした事件で会ったことがあるのよ」

ちなみにその3人はのぼせてしまっているのか、手ぬぐいを頭に乗せたまま近くの壁によりかかっている。
特に妹紅は恥ずかしさが極まったことと、トラブルを起こしてしまったことで落ち込んでいるようで、地面に座り込んでいた。

俺はその様子をちらりと見つつ、霊夢さんとの世間話に興じる。

「○○さんの本、私も読んだことあるわよ」
「それはありがとうございます。霊夢さんに読んで貰えるなんて光栄です」
「ま、短編1つで挫折したんだけど……あれ、普通の人には難しすぎる文章だと思うわ」
「ああ、多分そういう小説を選んじゃったでしょうね……よければ、もう少し平易な表現の本も書いてますから、差し上げましょうか?」
「そうね、気が向いたら読んでみるわ。魔理沙にでも持たせてちょうだい。それにしてもあなたの口調、どうにも堅苦しいわ。こっちが肩凝りそう」

強力な力を持つという巫女さんを前にしているのだから、けっこう緊張しているのだ、俺も。
もう少し霊夢さんと仲良くなったら、こういう口調もおいおい直していくことだろう。


世間話もそろそろと、俺はパンッと手を叩き、座り込んでいる3人の顔をあげさせた。

「さて、と。皆でご飯でも食べにいかないか?」
「○○……怒ってないのか?」

妹紅のびくびくした表情はとても珍しいが、彼女らしくない。妹紅にはもっと堂々としてもらわないと。
確かに、妹紅以外の湯船に浸かっていた人は、どこかしら火傷を負っている。だが、そんなのは氷で冷やせばすぐに治る程度の怪我だ。

「怒ってないよ。怒られるのはここの主人だけで十分だろ? 中で起きたことは忘れて、おいしいものでも食べにいこう。俺の奢りだ」

「○○……すまん」
「やったぜ!」
「ありがと」

慧音と妹紅が頭を下げる一方で、魔理沙が大きく手を挙げて喜んでいる。
魔理沙、お前も反省しろ。1人だけ奢らないぞ。

「もちろん霊夢さんもどうぞ」
「あら。それはどうも。私も口説くつもりなのかしら?」
「ははは、お望みなら、あなたのようなかわいい人、喜んで口説きますよ」

うふふ、と笑う霊夢さん。これぐらいは社交辞令の範疇、のはずだ。

「ま、○○、まさか脇なのか?」
「脇巫女はやめとけ、金を毟り取られるんだぜ」
「……脇の空いた服なんてあったかな」


3人共、俺の好みなんてどうでもいいじゃないか。それに、3人皆が美しいし、かわいいし、女性としての魅力に溢れていると、俺は思う。
だからと言って俺が口説くかどうかは別の話。そういう関係にあるわけじゃないんだから。


俺は微笑みながら、彼女らと共に料理屋へと向かうのだった。



終わり


新ろだ887
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妹紅ルート1


「おーい、○○ー」

その日、妹紅は○○の家を突然訪問した。
手には竹林で取れた筍と川で釣った魚を持ち、若干ウキウキした様子で木造の一軒屋の扉を開ける。

「……あれ?」

しかし、肝心の○○は留守のようだった。部屋の中はもぬけの空だ。
妹紅は荷物を置き、落胆のため息を吐いた。

「なんだ、いないのか……それにしては鍵もかけずに無用心だな。いつものことだけど」

さっさと勝手知ったる部屋の中に上がりこんだ妹紅。こうやって○○の家にやってくるのは日常茶飯事で、留守中にお邪魔することも何度かあった。
その経験から、どうせ○○は近くに散歩に行っているだけで、少し待てばすぐに帰ってくるだろうと妹紅は判断したのだった。

扉を閉め、畳の上に座り込んだ妹紅。

なんだか退屈になってきた妹紅は、畳にごろりと寝転んだ。○○がいなければ、この部屋にはなんら面白いものはなかった。
とても静かだった。ここが人里離れた場所だということもあり、昼だというのに物音がまったくしない。

「ふぅ……」

しばらく横になっていると、きぃきぃと玄関の扉が開け閉めする音がし始めた。鍵がかかっていないせいで、ちょっとした風で扉が動いてしまうのだ。
○○には扉に鍵をかける習慣がない。無用心なことこの上なく、どうしてなんだと一度○○に聞いてみたことがあるが、答えは「かける意味がないから」だった。

『竹林の傍だから滅多に人もこないだろ? 妖怪相手なら鍵なんてそもそも意味ないし。それに、この家から盗むものなんてあるか?』

そう言って笑った○○。ふむ、と妹紅は部屋の中を見渡す。確かにこの家には幻想郷の住人にとって役立ちそうなものは何もなかった。
食料なんて他人から分けてもらわないと生きていけないぐらいに少ないし、お金もほとんどない。
その代わりに部屋の四方八方に積み上げられているのは本、本、本……一画に執筆用の机と原稿用紙があるだけで、他には本当に何もなかった。

「変な家だな、ほんと」

これなら泥棒も入ろうとは思うまい。○○の持っている本なんて、価値があるのかないのか分からないものばかりだ。

○○は外の世界の本を大量に所有している。
ちょっと近くの本に目をやってみると、『三省堂国語辞典』『ファウスト 森鴎外訳』『チェーホフ全集』……
とまあ、表紙を読んでも何の本なのかがいまいち理解できないものばかりだ。

たとえこれを盗んでも、お金に換えることは難しかろう。買い取ってくれるのは森の中の道具屋ぐらいじゃないだろうか。
いや、そもそも○○がこれらの本を持っているのは、幻想郷に放り込まれた時に持っていたものか、もしくはその道具屋で買ったものなのだから、たとえ盗んだものを道具屋に持ち込んでもすぐに盗品とばれるだろう。

つまるところ、こんな家に盗みに入る利点なんて何もない、ということだ。



「暇だー……」

1刻ほど経っただろうか。○○はまだ帰ってこない。
わー、と声をあげてみたが、暇が紛れることはなかった。

ここで暇つぶしになることと言えば本を読むことだろうが、本なんて○○の書いた小説ぐらいしか興味がない。
それに外の世界の本を読んでも、理解できる事の方が少ないだろう。

ばたばたと足を動かす。手も動かす。床を叩く音が何度かした。
慧音がいたら「はしたないぞ」と怒ってくるだろうか。これだけ暇なら慧音の説教でも聞いた方がマシかもしれない……でもないか。


慧音と言えば、彼女は○○の持つ本に興味があるらしく、何度か借りていっている姿を見たことがある。
時にはその本の内容について白熱した議論を交わすこともあり、そういう時の○○は非常に充実した表情を見せている。
○○にそういう顔をさせることができる慧音が、なんだか羨ましい。

「私も○○の役に立つことがしてみたいな……」

食料を持ってくることとは少し違う、○○の仕事絡みで役に立つようなこと。
せめて外の世界にいた時の記憶が残っていれば、○○にとっては自分の世界の大昔の出来事のことだろうから、少しは興味は持ってくれただろうか。
だが、年をとると物忘れが激しくなっていけない。普通の人間だった頃のことなんて、もうほとんど覚えていない。
だいたい、最近起こった出来事があまりにも印象が強すぎて、記憶の器をどんどんと侵略していっているのだ。

幻想郷にやってきた事から始まり、輝夜との再会、慧音と知り合ったこと、人間や吸血鬼と戦った事、○○と出会った事、○○の家に来たこと、○○とご飯を食べたこと、○○の……
と、そこで妹紅は思考を停止させた。自分の頭が○○のことばかり覚えていて、なんだか恥ずかしくなってきたのだ。


とにもかくにも、と妹紅は熱くなった顔を冷ましながら、気を取り直して考える。
慧音みたいに、○○を充実させてみたい。「すごいな、妹紅」と感心してもらいたい。
せめて貴族の娘であった時に培った知識が残っていてくれたら良かったのに……。


妹紅は近くに置いてあった『資本論』という本を手にとって広げてみた。目次だけをさらりと読んでみる。
だが、書いてある言語は確かに日本語なのに、何度文章を読んでも意味が分からない。
『剰余価値の利潤への転化、および剰余価値率の利潤率への転化』……マルクスという人は漢字を使うのが好きなのだろうか。

「駄目だ、他の本を……ん?」

ふと顔をあげると、○○の仕事机の上に黒い影のようなものがいるのが見えた。
腕で抱えられるほどの大きさで、全身が真っ黒なもの。
なんだ? と思いじっと見つめると、なんとその黒い影は動き出し、机の上に置いてあった○○の原稿を持ち出そうとしているではないか。

いや、すでにその原稿と共に宙に浮いている。

「お、おいっ!」

妹紅は急いでその黒い影を捕まえようとしたが、そいつはものすごいスピードで飛んでいき、一瞬だけ開いた玄関の扉から飛び出していってしまった。


まずい、と妹紅は思った。

「あれって、○○の書いた原稿のはず……もしそれが盗まれたとなると」

○○の職業は小説家。原稿は○○にとって商品。あれがなければお金を稼げない。
お金がなければ○○は生活できず、小説家としての地位も落ち、必然的にこの小さな家で餓死なんてことに……

「それは駄目だ!」

○○は小説家として頑張っているんだから、あんな盗賊に邪魔させてはいけない。
妹紅は急いで立ち上がり、外へと飛び出した。だが、あの黒い影の姿はどこにもない。逃げ足の速い奴だ。

「逃がすものか……!」

妹紅は背中に不死鳥の翼を広げ、空へと舞い上がる。
あいつが飛んでいった方向なんて分からないが、とにかく追いかけてみよう。道中、聞き込みでもすれば手がかりも得られるはず。


妹紅は飛ぶ。
○○の大切な原稿を盗んだ不届き者を成敗するために。




『東方灼熱追』




――ステージ1 『焼き鳥屋の宿命』――


「どこいったんだ、あの黒い奴……」

しばらくの間空を飛び続けていた妹紅だったが、重要目標はまったく見つからなかった。
現在の位置は竹林の上空といった所か……

「~♪ ~♪」

「ん、この歌声は……」

遠くから聞こえてくる、空の上では場違いとも言える歌声。
遠くから茶色と紫色をした物体が近づいてきていた。


―夜雀の妖怪 ミスティア・ローレライ―


「うわっ、天敵!」
「天敵? 何言っているんだよ」

空に浮かび、おおげさなまでに驚いているのは夜雀。
やたらめったら歌い続けては人間の目を鳥目にしているらしいが、今はこんな奴に用はない。というかどうして夜でもないのに歌ってるのだろうか?
妹紅はさっさと立ち去ろうとしたが、しかしミスティアは強くこちらを睨みつけ、あまつさえスペルカードの用意さえし始めるではないか。

「おいおい、私は別に戦う気ないぞ」
「そう言って私を焼く気なんでしょ! そう簡単に食べられるつもりはないんだから!」
「だから何言って……勝手に始めるな! ったく!」

飛んできた弾幕に対し、妹紅は懐から「凱風快晴 -フジヤマヴォルケイノ-」のスペルカードを取り出して、臨戦態勢を取るのだった。




少女弾幕中……




スペル・ブレイク!

ミスティアの「ブラインドナイトバード」を見事攻略した妹紅。
一度も被弾しないどころかスペルカードも使わずに済み、かすり傷1つついていない服を翻して、ミスティアを睨みつける。
ミスティアは祈りのポーズを取って、はらはらと涙を流していた。

「ああ、屋台のお客さん。これで私のヤツメウナギは食べられなくなります。ごめんなさい」
「人の話は聞けってのに。おい、夜雀。私はな、鳥の丸焼きなんて食べる気ないんだ」
「だったらどうして戦ったの?」
「お前がいきなり勝負をしかけてきたからだろ……」

はぁ、とため息をつく。余計な時間をくってしまった。あの黒い影はどこにいったのか……

「そうだ、雀。変な黒い奴を見なかったか? これぐらいの大きさの奴」
「黒い奴? それだったら竹林の中を飛んでるのが見えたけど」
「そうか、なるほど……もしかしたら輝夜の嫌がらせかもしれないな。よし、雀、そこらへんで食べられないように気をつけなよ」
「むー、そんな簡単に食べられないよー」

(あんなに弱いのに、大丈夫なんだろうか……)

ミスティアのこれからを憂いつつ、妹紅は竹林へと飛ぶのだった。





――ステージ2 『いたずら兎にご用心』――


「竹林の中を走ってたって言っても……さすがにここは広いからな」

妹紅は竹林に降り立ち、その足で広く走り回っていた。
竹がぼうぼうと生えている中で、うかつに空は飛べない。不死鳥の翼をうかつに出せば、火が竹に燃え移って大惨事にもなりかねなかった。
地道だが、この足で探していくしかない。迷いの竹林とは言え勝手知ったる庭なので、効率的に探し回る術は知っていた。

「ん、誰かが来るな……」

気配を感じて立ち止まると、正面方向から小さな人影が現れた。

「ありゃりゃ、嫌な奴に出会っちゃったなー」
「あいつの所の兎か……」

小さな体に兎の耳。いたずらっ子の目が妹紅のことを見ていた。


―幸運の素兎 因幡てゐ―


「おい兎。ここら辺で黒い奴を見なかったか?」
「おー、珍しい。あんたが私らに物を尋ねるなんてねー」
「……どうなんだ、見たのか、見てないのか」

にひひと笑う因幡てゐ。輝夜の所にいるだけあって性格の悪そうな兎だ、と妹紅は思った。

「地獄の沙汰も金次第。教えてやるかどうかも金次第。ほらほらー、出すもの出しなよ」
「今日の私はすこぶる機嫌が悪いんだ。もしあれが輝夜の仕業だとしたら……竹林の一部分が燃え尽きるけど?」
「こわっ! こりゃ逃げるが勝ちですかね。さよならー」
「待て! こうなったら……!」

永遠亭の関係者ということで、どうしても好戦的になってしまう妹紅。
先ほどと同じ「フジヤマヴォルケイノ」のスペルカードをいきなり発動させ、その弾幕戦は始まった。



少女弾幕中……



スペル・ブレイク!

「ぐわー、やーらーれーたー」
「ふぅ、手こずらせるなよ」

「エンシェントデューパー」を軽々攻略し、てゐを捕まえた妹紅。
最初はじたばたしていたが、首根っこを掴んで持ち上げていると観念したのか、「で、何よ」とふてくされた表情をする。

「黒い影。見なかったのか?」
「それなら竹林を抜けて、花畑がある方にいったわ。どんな奴かは見てないけど。なんか羽ばたいてたような」
「そうか。ならいい。ほら、さっさと行け」

首を離して解放してやると、てゐは心底不思議そうな顔をした。

「このまま逃がすの? 珍しい。姫様相手ならぼこぼこにするくせに」
「別に私は輝夜以外と喧嘩する気もない。無駄な体力は使わないに限るしな」
「ふーん……なんだか女の子らしくなったのは気のせいかな?」
「はあ?」
「里の人間の噂を聞くに、お熱な人がいるらしいじゃないですか、旦那」
「な、何を!?」
「ふふふー、さらば!」

ささーと走り去ってしまう因幡てゐ。最後まで油断のならない兎だった。
妹紅は彼女の姿が見えなくなると、改めて頬を赤くした。

(○○との事が人里で噂になっている? まさか……ね)

もしそうだったらなんとなく嬉しいな、と思いつつ、妹紅はてゐの示した方角へと急いだ。




――ステージ3 『火山に花束を』――


「花畑か……ここらには近づくなって、慧音が○○に言ってたっけ」


夏の近い今の季節にふさわしい、色とりどりの花たちが咲き乱れる花畑。
ここには物凄く強大で危険な妖怪が住んでいるらしく、もし普通の人間が入り込めば生きて帰れないだろう、と言われているのだ。

「肝心の黒い奴が見当たらない……あの兎、嘘でもついてたのかな、っと、なんか大きなプレッシャーが来たな」

炎の翼の羽ばたきを止め、その場に静止する。やけに大きな妖力が前方から近づいてくるのだ。
これは確かに危険と言ってもいいかもしれない。普通の人間ならば。

「花達が怯えてるわね……迷惑な人間が入り込んだみたい」


―四季のフラワーマスター 風見幽香―


「花畑に火、なんて場違いだと思ったりしないのかしら」

緑髪の女性はそう言って、手に持つ傘をくるりと回しながら、妹紅のことをギロリと睨んだ。

なんという殺気か。これは並大抵の妖怪ではない。
花畑に住んでいて、さらにフリフリスカートのかわいらしい格好をしているというのに、人なんて虫と同じにしか思ってない目をしている。
これは普通なら命の危険を感じてもいい相手だ。……普通なら。

「聞きたいことがある。戦う気はない」
「あら、この私に質問? 花達に火の粉を浴びせておいて、ずうずうしい人間ね」

傘をこちらに向ける女性。話し合うことも難しそうだった。

仕方ない、と妹紅はスペルカードを取り出した。

「ほら、花に向かって土下座するように、沈みなさい」

次の瞬間、女性の傘から魔理沙の「マスタースパーク」と同じようなビーム砲が放たれ、弾幕ごっこは開始する。



少女弾幕中……



スペル・ブレイク!


「つつつ、何度か死んだな、これは」
「……あなた一体何者? 確かに殺したと思ったのに」

女性はめちゃくちゃ強かった。輝夜と本気の喧嘩をした時と同じくらいの緊張感だった。身体も何度か壊されてしまったほどだ。
だが、こちらは不死身の身体を持つ人間。死んだって生き返る……物凄く痛いから殺されたくはないけど。

女性は少し焦げた服をぱぱっとはたきながら、訝しげな視線を送ってくる。

「霊夢といい魔理沙といい、あの作家といい、人間って時々理解できなくなるわ」
「そりゃどうも……って、作家? まさか、○○?」
「知っているの? 何度かここに来ては花について教えてほしいって……小説の資料にしたいだかなんだか知らないけど、何度追い払ってもやってくるから、鬱陶しいたら」

妹紅は愕然とした。○○はこんな危険な場所に1人で来ていたというのか。

「知り合いなら忠告しておいてちょうだい。『花のことが知りたいなら質問を手紙にでも書いて寄越しなさい。気が向いたら返事してあげるから、もう来るな』って」

しかもこの凶悪妖怪を懐柔してしまっている。いったいどうやって……自分も○○のことがよく分からなくなってきてしまった。

「それで、あなたは何の用? まさか花を燃やすつもりじゃないでしょうね」
「そんなことはしないって。黒い影みたいな奴を追ってきたんだけど……見てないか?」
「それならあっちの山の方に行ったわ。糞を落としていったから、お仕置きしたのを覚えてる」
「糞?」

てゐは「黒い影が羽ばたいていた」と言っていた。そしてこの女性は糞をしたと……もしかして、黒い影というのは……


「そうか、ありがとう。じゃあ、これで」
「ええ、もう来てくれないことを祈るわ。あの野良作家ともどもね」

もし○○がまたここに来たら、この女性は彼を軽く捻りつぶしてしまうのだろうか……
そうならないよう、○○が来たいと行ったら、自分もついて行くようにしなければ!



――ステージ4 『妹紅、まかり通る』――


「妖怪の山か……ここはあんまり来たことないな」

緑の映える山の上空を、妹紅はきょろきょろと周りを見渡しながら飛んでいた。
人里から離れた所にあるこの山は、天狗や河童などの妖怪が住む山として有名だ。
うかつに入り込めば、天狗に追っ払われるか妖怪に食べられるかなので、人里の人間もあまり近づこうとはしない。

「あの兎と花の女が言っていたことから推測するに……黒い影は鳥なんだろうな」

普通の鳥なら、それほど速く飛べないはず。そろそろ追いついてもいい頃なのに、と妹紅は影1つ見落とさないように目に力を入れる。
それにしても○○の原稿を、どうして鳥が盗んでいったのだろうか。巣作りの材料にでもするつもりなのか?

「そこの人間! 止まれ!」
「うん?」


―下っ端哨戒天狗、犬走椛―


怒声を浴びせてきたのは白い耳と尻尾を持った天狗の少女で、怒り顔で剣と盾を構えていた。
確か白狼天狗と言っただろうか。人間が山に入ろうとすると警告してくる天狗だったはず。
あの耳がもふもふしていて、なんとも触りたくなってくる。

「それ以上進むな! ここからは天狗の住処だ!」
「そうは言っても、私にも事情があるんだ。別に天狗のテリトリーを侵すつもりはないから、見逃してくれ」
「駄目だ! 警告はした! 聞かぬというなら攻撃させてもらう!」
「お堅い奴だな、肩凝らないか?」

白狼天狗が弾幕を張ってきたが、さほど驚異のある弾幕ではなかったので、妹紅は少し余裕を持ちながら、スペルカードを用意した。



少女弾幕中……



撃破!

「くー、これは私には手に負えない! 撤退だー!」
「ふぅ、スペルカードも持ってないのに挑んでくるなんて……仕事熱心な奴」

さっさと逃げてしまった天狗を見送り、妹紅は妖怪の山に向かって飛び進める。
弾幕ごっこばかりしていたせいか、思ったよりも時間を食ってしまった。
あの黒い奴はいったいどこに……

「……いた!」

前方、低空を飛んでいる黒い影。明らかに鳥だった。
くちばしには白い紙を咥えており、悠々自適に空を飛んでいる。
○○の大切な小説を、今から破り捨てて、巣作りにでも使おうというのか。

「させるか……!」

○○の原稿、必ず取り返す!
妹紅は懐から「フェニックス再誕」のスペルカードすら取り出し、本気の本気であの鳥を追い詰めてやる、と息巻くのだった。





――ファイナルステージ 『追跡の果てに』――



少女弾幕中……



撃破!


「さあ、返してもらおうか」

攻撃する術を持たない鳥など一ひねり。
鳥の首根っこを掴んで少ししめつけてやると、鳥は「かーかー」と鳴いて首を横に振った。こいつ、鴉だったのか。

「返すつもりはないって?」

鳥のくせに器用に頷く鴉。ここまで追い詰められて盗んだ原稿を返さないとは、なんとも見上げた奴だった。
しかし、妹紅はそれを許すはずもない。

「○○の書いた小説なんだ……返さないって言うなら」

妹紅は空いている方の手の平の上に、鴉と同じ形をした炎を出した。

「燃すぞ?」

ニヤリと笑いながら手を握り締め、ボンッ、と鴉の形をした炎を一瞬で消してやった。
それを見た鴉は途端にぶるぶると震え始め、かーかーと煩く鳴き続ける。
あまりにも煩いのでさらに炎を顔面に近づけてやると、さすがに観念したようで、くちばしに咥えた原稿をようやく放した。

「よし、それでいい。私だって無駄なものは燃やしたくないんだ」

原稿を受け取り、鴉は解放してやる。
妹紅は原稿がきちんと揃っているか確かめる。端の方が弾幕ごっこのせいで少し焦げているが、文字の書かれている部分には何のダメージもなかった。

これで○○の努力の結晶が散らなくて済んだということだ。


少しは○○の役に立ったかな、と妹紅は晴れやかな笑顔を浮かべるのだった。




「よかったよかった」

ふんふーん、と鼻歌混じりに○○の家に帰ってきた妹紅。
原稿ももちろん健在で、風で飛び散らないよう大事に胸の部分に抱きとめられていた。

「あれ、妹紅」

木造のあばら家に入ると、家主である○○がいつの間にやら帰ってきていた。
突然○○の顔を直視することになった妹紅は、急激に顔を赤くして顔を背けた。

「ま、○○。帰ってきてたのか」
「まあね。ちょっと散歩してたんだけど……もしかして、妹紅も来てた? この食べ物、妹紅が持ってきたんだよな?」

積み上げられた本の合間に、無造作に置かれている食料。
原稿を取り返すことに夢中で、持ってきていたのをすっかり忘れていた。

「あ、ああ。そろそろ餓死しそうになってるんじゃないかな、って思って」
「助かるよ。明日原稿料が入る予定だったから、今日はお金がなくって。いつもすまない」
「か、代わりに私はお前に料理してもらってるんだし、おあいこだ!」

○○の顔が直視できなくて、顔を背けながらそう言い捨てる。
一緒にご飯も食べられるし、という言葉は封印しておく。そんなことを言えば、顔から火が出ることは間違いない。比喩ではなく本当に。

「ははは。あれ、妹紅が持ってる紙……それって」
「そうだ、この原稿! 鳥に盗まれそうになったんだ! で、わ、私がそれを捕まえて取り返してきて……無用心だぞ! ○○!」
「鳥? 鳥って……どんな鳥?」
「黒くてかーかー鳴く奴だったかな。多分鴉だと思うけど。まったく、大切な原稿なんだから、机の上に放置してちゃ駄目だろ」

自分でも一言多いと思うこの説教。○○のために必死になって追いかけたことが知られたくなくて、どうしても口調がきつくなってしまう。
妹紅はそんな自分に自己嫌悪しながら、○○に原稿を渡してやった。

だが、○○はどういうわけか目を丸くして驚いていた。予想外の出来事が起きた、という顔をしている。
妹紅はとたんに不安になってきた。

「ど、どうかした? 何か……あの、もしかして、原稿が足りないとか燃えてたりとか……」

びくびくしながらそう尋ねると、○○はハッとした顔をして、すぐに笑顔を浮かべてくれた。

「いや、なんでもない。そうか、妹紅はこれを泥棒から取り返してくれたんだな」
「ん、まあね。ちょうど弾幕ごっこがやりたい気分だったし、これぐらいなんでもないよ」
「ありがとう。妹紅のおかげで大事な小説をなくさなくて済んだよ」

○○はそう言って微笑み、手を伸ばしてくる。
一瞬何事かとびくりとしたが、次にやってきたのは、とても柔らかな感触。
○○は優しく、髪をさするかのように頭を撫でてくれた。

それはあまりにも甘美で至福な感触だった。
妹紅は撫でられるがままに目を瞑った。幸せだった。人に誉められてこんなに嬉しくなったことはなかった。

いつまでもその甘い時間に浸ってしまったかったが……
数秒後、○○の手が離れた時、「あっ……」と短くも寂しさの篭った声を出した妹紅は、そんな声を出した自分がとても恥ずかしくなった。

そのせいでどうしても口調が強くなってしまう。

「つ、次からは気をつけるんだぞ!」
「ああ、分かってる。それじゃあ、今から料理するから、妹紅は座って待っててくれ」
「ん……分かった」

つんけんした態度を取る妹紅。
だがそれは、○○にお礼を言われ、さらには一緒にご飯も食べられるのが嬉しくて仕方なかったからだった。
口が綻ぶのが止められない。胸が馬鹿みたいにドキドキする。撫でられた所から蒸気が出てきそうだ。

(落ち着け。何度も一緒にご飯食べてるじゃないか……一緒に……一緒に……う、ううう!)

妹紅はその日、○○の家で食事をして帰った後も興奮して眠ることができなくなり、教えてもらったばかりのヤツメウナギの屋台に行って徹夜で酒を飲むことになるのだった。





――エクストラ――


深夜、○○の家はとても静かだった。
妹紅はすでに帰ってしまい、丑三つ時の誰もが眠っている時間だったが、しかし○○はまだ起きていた。

執筆用の机に向かっている彼の目の前には、端が少し焦げた原稿がある。
○○はそれを手に取り、「むぅ」と唸った。彼は何かに悩んでいる様子だった。


そんな時、玄関の扉がコンコンと鳴らされる。
来た、と思った○○は原稿を掴んで、急いで扉を開けた。

「どうも○○さん」
「射命丸さん……」

深夜の訪問者は射命丸文だった。
少し疲れた顔で小さくお辞儀した彼女の肩には、羽の一部が焦げている鴉が1羽、とまっていた。

○○はそれを見て、ああ、やっぱりと小さくため息をついた。

射命丸文も力なく笑っていた。

「事情はほとんど聞いています、○○さん、今回は……」
「すみませんでした。どうにも行き違いがあったというか……妹紅が勘違いしてしまったみたいで」

○○は大きく頭を下げる。射命丸文に迷惑をかけてしまったことへのお詫びだった。


実は妹紅が取り返した原稿、これは射命丸文に渡すはずのものだったのだ。
今日は文々。新聞に載せる小説の〆切日だったのだが、射命丸文の方に突然急用ができて原稿を取りに来れなくなってしまった。
まさか○○が妖怪の山を訪れるわけにもいかず、それなら、と彼女の使い魔とでも言うべき鴉が来ることになった。

本来は直接鴉に手渡しする約束だったが、もし○○が不在だった場合、机の上に原稿を置いておくのでそのまま持っていってくれ、ということになっていた。
しかしそれが仇となり、さらには予想外の妹紅の訪問と勘違いで、今回のハプニングが起きてしまった、というわけだった。


「本当にすみません。射命丸さんにはなんとお詫びすればいいか……」
「いえ、仕方ありませんよ。この子も妹紅さんに何の説明もしないまま持っていってしまったみたいですから。勘違いするのも当然です」

○○はペコペコ頭を下げつつ、改めて原稿を射命丸文に渡した。「確かに」と内容を確認した彼女は頷き、そのまま懐にしまいこんだ。

「妹紅さんは必死になってこの原稿を取り返そうとしていたみたいですよ。
 椛が言っていました。『攻撃したら容赦なく返り討ちにされた。怖かった』って」

「ははは、妹紅には感謝しないとですね」


○○は妹紅に真実を伝える気もないし、たしなめる気もなかった。
彼女が自分のために頑張ってくれたことは事実なのだ。少々方向性に間違いはあっても、その彼女の行動が嬉しい。
幻想郷という、言わば弱肉強食の世界でひ弱な自分が小説家として暮らしていけるのも、彼女の助けがあってのことだと、改めて感じさせられた。

感謝しよう。彼女と出会えたことに、彼女が自分の友人になってくれたことに、そして藤原妹紅という優しい女の子に。

「さて、と。私はすぐに帰って新聞を仕上げます。原稿料は少し遅れますが、構いませんよね?」
「もちろん。妹紅が食べ物を分けてくれたので、まだなんとか生きていけそうですし」
「愛されてますねえ、○○さんは。いつになったら――おっと、これは私が言うべきことじゃありませんでした」
「何がですか?」
「いえいえ。それでは、また原稿をお願いしますね!」

射命丸文は軽くウインクして空へと飛び上がり、幻想郷最速という異名に恥じない速さで山の方へと消えていった。
○○は彼女が最後に残した言葉に首を傾げるが、まあ妹紅に関する何かだろうと大して考えることもせず、家の中へと消えていった。



こうして、射命丸文の文花帖に『灼熱小異変』と記された、小さな小さな物語は幕を閉じるのであった。



新ろだ894
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慧音ルート1


上白沢慧音は悩んでいた。

ある日の夕方。里の寺子屋の中にある、いつも使っている休憩室。
3畳程度の小さな部屋にて、椅子に座っている慧音は今日の授業を振り返り、悩んでいた。

(……私の授業は面白くないらしい)

慧音は大きくため息を吐き、今日の授業中に起こった出来事について思いを馳せる。



里の寺子屋。これは慧音が立案し、始めたものだった。
言葉や算術と言った、知っておけば必ず役に立ち、子供の人格形成に役立つであろう知識を与えるために、寺子屋を作った。
様々な紆余曲折はあったものの、今では子供の親達にもなかなかに好評で、子供達も学ぶことの喜びを知ったのか、頻繁に足を運ぶようになってくれた。

そんな寺子屋には、教師が慧音1人しかいない。よって彼女は1人で様々な教科を子供達に教えていた。
算術や読み書きはもちろん、星の詠み方や釣りの仕方などの実践的なものや、妖怪への対処方法など、色々とだ。

その中に、慧音が毎回自信を持って行っている授業がある。それが「歴史」だった。


(算術や読み書きは楽しく受けてくれているが……どうも歴史は不評のようだ)


はあ、とまた大きくため息をつく慧音。
いつものきりっとした里の守護者としての表情はなりを潜め、思い悩む1人の女性がそこにはあった。
彼女の知り合いがその姿を見ればさぞ驚くだろうが、休憩室には彼女の他に誰もいない。


歴史の授業が不評だと気付いたきっかけは、授業中、ふと子供達がとっている学習帳を覗いてみた時だった。
この学習帳は、子供達が板書や口頭で説明したことを書き留めていくためのものだが、算術や読み書きに比べて、歴史の学習帳にはそれほど授業内容が書き写されていなかったのだ。
もちろん、試験に出るような箇所は写しているが、それ以外の雑多な内容――慧音にとっては大切な歴史の一つ一つのエピソードが、まるで書かれていない。

つまる所子供達は、試験に合格すればいいや、程度にしか授業を聞いてくれていないということだ。

(阿求にも、歴史の授業が難しすぎると言われたしな……)

机に頬杖を突いた慧音は、どうしたものかと悩む。

歴史は慧音にとって大切な、いや、自分の存在する意味の1つだった。
『歴史を食べる程度の能力』と『歴史を創る程度の能力』を持つ慧音は、幻想郷における紡がれなかった歴史を編纂することを、自らの使命としていた。
だからこそ歴史を知ることの大切さは人一倍分かっているし、子供達に教える時も熱が入る。

それこそ、ある1つの事件に関する様々な出来事、人物、その他関係する事項を詳細に説明し、その事件が起こった原因とその後の結果を、黒板に書ききれないほど板書していくぐらいに。


しかし、そんな自分の思いとは裏腹に、歴史の授業はつまらないものになっているようだったのだ。

(……ふぅ)

改善しなければいけない。それは分かる。
このまま自己満足に浸るだけの授業を続け、子供達に何も得るものがない時間を過ごさせてはいけない。

だが、いったいどうすればいいのか。まさか歴史を簡略化したり、脚色を加えたりするわけにはいかないし……もっと細かく教えていけばいいのだろうか。

「すみませーん、慧音さんはいらっしゃいますかー?」

「ん? この声は……」

寺子屋の入り口の方から聞こえてきた声に、慧音は思わず椅子から立ち上がってしまった。
自分の耳が狂っていなければ、その声は慧音にとってとても大切な男性のもののはずだったから。

慧音は休憩室を出て、寺子屋の入り口まで急ぐ。
そこには確かに、かの男性がニコリと笑って立っていた。

「こんにちは、いえ、こんばんはですね」

外来人であり、小説家としてこの世界で暮らしている男性、○○。
慧音にとっては友人であり、心配の種の1人でもあり、そして憎からず思っている――いや、明確な好意を抱いている人間だった。


慧音はすぐさま先ほどまでの悩み顔を引っ込め、キリッとした立ち振る舞いを意識して行った。

「ああ、こんばんは。○○、どうした。こんな所まで」

○○が寺子屋に来るのは久しぶりの事だった。

小説家として生活をし始める前、幻想郷に放り込まれたばかりで住む所もなかった頃の彼は、慧音の所に居候していた。
その時、何か仕事がしたいと言った彼だったが、肉体労働ができない身体だったため、ちょくちょく寺子屋の仕事を手伝ってもらっていたのだ。

里から離れて暮らし始めた今でも、「小説家の先生」として、読み書きや言葉の表現といった授業を臨時で行ってもらうことがある。
しかし最近は作家の仕事が忙しく、そういう手伝いもできなくなっていたはずだった。

「寺子屋に来るのは久しぶりですかね。変わってませんね、やっぱり」
「お前が最後に来たのはせいぜい半年前ぐらいだろう。そんなに急には変わらんさ。で、何か用か?」

そう言い切ってから、慧音は自分の口調に違和感を感じた。どうにも硬い。声色も表情も。
沈んだ気分を無理やり抑え込んでいるからだろうか。

「ああ、はい。まずは慧音さんにこれを……以前頂いたフライパンのお礼です」

だが、さして気にしていないらしい彼は、大きな桃がたくさん入った籠をすっと差し出した。

ああ、と慧音は彼の言うフライパンのことを思い出す。
以前から○○の家には炊事道具がほとんどなく、あるとしても大きな鍋ぐらいしかなかった。
それを見かねて、少し前にいらなくなったフライパンをあげたことがあるのだ。

律儀な男だな、と慧音は感心しながら、「ありがとう。頂いておくよ」と籠を受け取った。

「里に来たということは、仕事は終わったのか? かなり忙しそうだったじゃないか」
「あ、いえ、そのことについてちょっとご相談もありまして」

ぽりぽりと頭を掻く○○。小説が書き終わっていないのに里に来るとは、よほどのことがあったのだろう。

○○は執筆作業が佳境に入ると、自宅に缶詰になることが多々ある。
時には餓死寸前になるまで引きこもることもあり、妹紅や自分が生きているか確認しに行くことも度々だ。

そういえば、○○の顔が少しやつれているように見えた。おそらく満足な食事もしていないのだろう。
そうだ、食事でも作ってやろうか……自分の家で○○と一緒に食事をし、あわよくば泊まってくれるなんてことに、と慧音が想像していると、

「あの、慧音さん?」

○○が首を傾げている。

いかん、変なことを考えている場合ではなかった。

「ん、すまない。ちょっと考え事があってな。それで、相談とは?」
「えっと、今書いている小説の中でですね、ちょっとした資料が必要になったんです。歴史の資料なんですが……」
「歴史か……」

歴史と言われて、慧音は自分の悩みについて思い出してしまい、声のトーンが少し落ちた。
子供達にも満足に教えられない自分が、○○にちゃんとした資料を与えることができるだろうか、と。

「××年代の幻想郷の資料なんです。慧音さんなら持っていると思いまして」
「ん? ××年代?」

落ち込みそうになった頭に、いきなり教師としてのスイッチが入った。
××年代。今日、子供達に「明日は××年代について授業する」と言った覚えがあった。

「それなら、明日の授業でやる範囲だな。資料も用意はしているが……」
「あー、だったら今日その資料を持って帰るわけにはいかないかな。明日、使いますよね?」
「そうだな、教える範囲の項目は見ておきたい。今日はさすがに……明日の夜に渡すのでは駄目か?」

○○が腕を組み、悩み始めた。

「うーん……明日の夜までに書き上げたい部分なので、できれば昼ぐらいに……あ、そうか」
「どうした?」
「俺が慧音さんの授業を受ければいいんですよ。おー、これは良い考えだ」
「え?」

慧音は背筋が震えるのを感じた。

○○が自分の授業を受ける? 明日?

「いいでしょうか、慧音さん。明日の授業を受けて、その後すぐに家に帰って書き上げます」
「あ……いや、待ってくれ。授業を受けると言っても、そんな、いきなりは」
「駄目ですか?」

うっ、と慧音は言葉を失った。○○が弱った小鹿のような目でこちらを見つめてくるのだ。
さすがにそんな目をしている彼の頼みを断れるほど、慧音は薄情ではなかった。

「わ、分かった。分かったからそんな風に見つめるのはやめてくれ」

○○が、見つめる?とオウム返しに呟いて、首を傾げている。彼は自分の懇願の顔がどれほど破壊力があるのか、よく分かっていない。

慧音は気を取り直し、余っている机と椅子ぐらいならあったかな、と段取りを立てていく。

「机と椅子は用意しよう。ただし、一番後ろの席でよければ、だがな。いくら○○とは言え、授業は子供達が優先だ」
「もちろんです。なんだったら立ち見でもいいぐらいですよ」
「そんなやつれた顔をして、何を言う」

ぺんっ、と○○の額を小突いてやった。少しの衝撃だというのに、○○はそれだけで「おとと」とふらついてしまう。
とても微笑ましい。先ほどまでの気分の落ち込みが、幾分か晴れてくれた。

「明日の歴史の授業は昼過ぎからだ。遅刻は許さんぞ」
「分かりました。慧音先生の生徒としてふさわしい態度で授業を受けます」
「せ、先生と呼ぶな。なんだか恥ずかしい」

赤い顔をする慧音に、はははと笑う○○。

こんな時間がとても愛おしい、と慧音は思った。

「○○、私の家でご飯でも食べていくか? その様子だともう何日も食べていないだろう?」
「いいんですか? 俺、めちゃくちゃ食べちゃいますよ?」
「望む所だ。私の料理の腕にびっくりするんだな」
「おー、これは楽しみです」

よほど料理が楽しみなのか、まるで子供のような顔をする○○。
慧音はどうにもその顔が直視できなかった。

そんな照れを誤魔化すかように、慧音は「では」と会話に一区切りを入れる。

「帰る準備をするから、少し待っていてくれ」
「はーい」

○○は入り口に待たせておき、休憩室に戻った慧音。

素早く家路に着く準備をしなければならなかった。○○をそんなに待たせてはいけない。
授業道具をカバンに入れ、慧音は部屋の後片付けをし始める。

しかし、ふとなんでもない所で手を止めた彼女は、目を瞑って、少しだけ高鳴る胸に手を当てた。

(……ドキドキしているな)

○○は知らない。彼と2人で話していると、普段の「里の守護者」「寺子屋の先生」としての振る舞いが崩れてしまいそうになるのを。
それを必死に保つために、どうしても普段よりも硬い口調になったり、年長者として振舞ってしまうことを。

(妹紅達が一緒なら、幾分か素直になれるのにな……)

妹紅や魔理沙と一緒にいると、その場の勢いに押されて、自然に自分の気持ちを表に出すことができた。
だがこうやって彼と2人きりになると、彼が敬語を使ってくるのも重なって、「○○を助けたお姉さん」「里の世話焼き人」として接してしまう。
ふがいないな、と自分でも思う。そういった殻を被ってないと、○○と向き合うこともできないのだ。

そんな自分に比べ、妹紅は言葉でこそつんけんしているが、家を訪れたり食料を持っていったりと、その行動で○○への気持ちを表している。
そして魔理沙はストレートに、純粋なまでの自然体で○○と接している。

彼女達がうらやましい。自分はどうにも理性が強すぎる……


「いや、そうやって落ち込んではいられないな」


慧音は顔を上げ、決意に満ちた表情を浮かべた。

○○が明日、自分の授業を受ける。これはもう変わらない。
気分が乗らないからと言って、手の抜いたことはできない。そういった負の感情はすぐに子供達にも伝わってしまう。

「よし、明日は頑張るんだ、上白沢慧音よ」

いつも以上に頑張って、歴史を伝えよう。
熱意を持ってあたれば、どんなことでも結果がついてきてくれるはずなのだから。


「待たせたな、○○。それでは帰ろうか」
「あ、は、はい」

次に休憩室を出た慧音は、とても意気揚々としていた。
○○はそんな慧音を見て、そんなに料理に自信があるのかな、と不思議に思うのだった。





翌日、ついにその時間はやってきた。

子供達との昼食を終えて一段落した慧音は、休憩室にて次の授業の準備をしながら、何度も深呼吸していた。

(大丈夫、大丈夫だ。昨日あれだけ復習したんだ。××年代については完璧なはず)

教科書と資料を持ち、なるべく分かりやすくするために用意した年表やフリップボードも持ち、慧音は休憩室の扉に手をかけた。


また1つ、深呼吸。


よし、行こう。


扉を開け、教室へと出た。すでに授業時間は始まっていたので子供達は着席しており、隣に座る者同士でぺちゃくちゃと喋っている。
そしてその教室の後ろの方、小さな机には幾分か不釣合いな、すらっとした身体の男性がいた。
もちろん、○○だ。

○○は普段の着流しに鉢巻をして、誰かから借りたらしい教科書を机の上に置いている。
そして周りの子供に話しかけられては、笑顔でそれに応じていた。

何度か彼による授業も行われていることもあり、生徒達と○○は顔見知りだ。
ちなみに彼の言葉の授業はなかなかに評判が良く、子供達からは「○○先生は次、いつくるのー?」と聞かれたりもしている。
さらには、彼は子供向けの小説も書いているので、生徒達の間にもファンがいたりするのではないだろうか。

○○がちらりとこちらを見て、小さく手を振った。
しかし授業中である今はそれには応えず、教壇に立つ。

「静かに。授業を始める」

そう一喝しただけで、教室はしんと静まり返った。子供達にも分別はある。これも教育の成果か。
○○はそんな子供達に少し驚いているようで、きょろきょろと周りを興味深そうに見ていた。

ふふ、と笑いそうになったが、そこは自重。

「では、今日は××年代についてだ。まずはこの年表から見てもらおうか」

上白沢慧音、一世一代の授業が今始まった。





「では、これで終わりだ。宿題はきちんとやっておくように」

「は、はーい」

「それでは、今日はこれで解散」

「ありがとうございました!」

ふぅ、と慧音は息をついた。終わった。自らの全てを込めた授業が、今終わった。

今日はこの歴史の授業で寺子屋も終わりだったので、子供達が次々と荷物をカバンに詰めて帰っていく。
少しは楽しい授業になってくれたのかな、と慧音は教壇から子供達を観察し始めた。


「今日は特に難しかったよねー」
「俺、途中で寝そうになった……」
「宿題できるのー?」
「できるって。皆で考えてやろう!」


子供達の会話を聞くにつれて、慧音の胸は針でも刺されたが如くに痛んだ。


「そうか……」

どうやらまたしても自分はやってしまったらしい。
子供達は口々に今日の授業の難しさについて語り合い、宿題をどう片付けるか相談している。
宿題は本来、授業を理解していれば1人でできるもの。協力しなければならないということは、教師が生徒達に内容を理解させることができなかったのだ。

あれだけ頑張って用意したのに、結果はこれか。
情けない。やはり自分には歴史を教えることなんてできないのか……

「慧音先生、さよーならー」
「ああ、さようなら」

慧音は教壇の椅子に座り、子供達が帰りの挨拶をしてくるのをいつも通りに見送る。
平静を装ってはいるが、その心は悔しさと悲しさで一杯だった。

さぞ○○も、この授業の分かりにくさに辟易し、「これなら資料を借りた方がよかった」と思っていることだろう。
そんなやりきれない思いが彼女の中に渦巻いていた。

そうして、子供達が全員帰った後。
慧音は休憩室に戻って今日の反省をしようと思ったが、ふと教室の一番後ろの席に人影が残っているのに気がついた。

「ここで事件……ああ、そうか、1年前のこれと関連してて……」

○○だ。○○が教科書と学習帳を交互に見つつ、何か書きものをしていた。

「○○」

慧音は彼に近づき、声をかける。
しかし○○は気付いてくれない。

「ここがこうで、この出来事ではこの人が……」
「○○、おい、○○」
「ん……今は良い所で、って、慧音さん!」
「どうしたんだ。もう授業は終わったぞ。帰って小説を書かなくてはいけないのでは……ああ、そうか」

○○はおそらく、資料を借りるつもりで残っていたのだろう。
授業なんて役に立たなかっただろうから、それも当然だ。

「少し待っていてくれ、資料は今持ってくる」
「え? 資料ですか? いや、必要ありませんよ?」

きょとんとした顔をする○○。
慧音は「なに?」と言い返しそうになったが、しかしすぐに納得した。

簡単なこと。自分なんかからは資料を借りる気もないということだ。
あんな授業をする教師が持っているモノなど、小説に活かすこともできないのだろう……

ああ、と慧音は自らの失敗を嘆く。きっと○○に失望されてしまった。
歴史の専門家と名乗っておきながら、なんと無様なのだ、上白沢慧音よ。
もう○○に頼られることもない……素直な自分を出すどころか、年長者として振舞うことすら失敗してしまったのだ。

涙すら誘う感情の高ぶりを必死に抑え、慧音はゆっくりと○○に向かって言った。

「すまない、○○。私などはもう役に立たないんだろうな。しかし、資料に罪はない。できれば借りて行って……」
「はい? なんだかよく分かりませんが、資料は必要ないですって」
「しかし、それでは小説が書けないだろう?」
「書けますよ。ほら」

○○がそう言って差し出したのは、彼がいつも携帯している小型のノート。
彼は普段からそれにネタを書きとめたり、思いついた文章をメモしたりしている。
自分にとっては命の次に大事なものです、と彼は言っていた。

そして今そこには、先ほどの授業で行った××年代についての記述が、所狭しと書かれていたのだ。
それこそ1つの歴史書として扱ってもいいぐらい、詳細に。

「○○、これは……」
「いやー、さすが慧音さんですね。これだけ詳細なら小説にも十分活かせます。本当にありがとうございました」

そう言って頭を下げる○○。

慧音は予想外の出来事に混乱してしまった。
あの授業……あれは難しすぎたのではなかったのか?

「難しくは、なかったのか?」
「え? そうでしたか? うーん、まあ確かに、子供向けの授業にしては随分と細かく語るなあ、とは思いましたけど、分かりにくいとかはなかったですよ」
「そう……なのか」

小さく呟いた慧音。
胸につかえていたものが取れたかのようだった。

難しくはなかった。分かりにくくはなかった。
○○はきちんと、自分が投げかけた歴史を受け取ってくれていた。

それが嬉しくてたまらなかった。

「まあ、もう少し子供目線に立って教えても……っと、すみません。小説家としての意見が出てしまいました」
「いや、いい。その忠告、ありがたく聞いておく」

とても気が楽になった。
歴史を伝えようとする姿勢そのものに間違いはなかったのだ。
伝え方が子供向けではなかっただけ。現に○○はきちんと理解してくれた。

もちろん、子供目線を考慮しなかったのは反省するべきことだ。
まだまだ精進が必要だが、やはり進むべき道が正しかったと実感できることほど、嬉しいことはない。

「それに、授業をしている慧音先生、なんだかかっこよかったですよ」
「そうか、ありがとう」

先生と呼ばれたり、自分の姿を誉められたりして恥ずかしく思うよりも、まずは彼にお礼が言いたくなった。

それは少しだけ滲み出た、自分の素直な気持ち。
自然と柔らかい微笑みを浮かべているのが自覚できた。

「あ、え、と、そんな、お礼を言われるようなことでは」

○○が急にうろたえ始めた。きっと『慧音さんがそんな風に笑うなんて』と驚いてでもいるのだろう。




そうだぞ、○○。
私はお前の前だと、いつだってこんな笑顔になれるんだ。
普段は毅然とした態度を取っているけれども、こんな表情も見てほしい。


お前に認めてもらえれば、私はすごく強くなれる。




「あ、慧音さん、良ければこの辺りの出来事についてもう少し、いいですか?」
「ああ、もちろんだ。なんでも聞いてくれ」


慧音と○○はそれからしばらく、歴史談義に花を咲かせるのだった。





それから、少し分かりやすくなった慧音先生の歴史の授業。
寺子屋の生徒達にも好評。さらには大人にも聞く価値があるとして、里の人間はおろか妖怪の見学希望者が現れたりするのにも、そう時間はかからなかった。


「この人物が里を興したきっかけは――」


いつしか立ち見の人が現れるほどになった寺子屋。
生徒達の学習帳には、彼女の語る歴史のお話がいっぱいに書き留められていくのであった。



新ろだ897
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魔理沙ルート1

今日も今日とて霧雨魔理沙は空を飛んでいた。

箒に乗って、鳥もかくやというスピードで空を突っ切っていく魔理沙の目的地は魔法の森。
雲を追い越し、空を駆ける魔理沙を邪魔する者は何もなかった。

「大漁大漁~♪」

彼女の背中には風呂敷があり、その中には大量の本が包まれていた。
それらは全て彼女の本ではない。湖の向こう側にある紅魔館の図書館から「借りて」きたもの。

図書館の主であるパチュリーとは友人で、かつ弾幕ごっこ仲間だ。
今日もちょっとした弾幕ごっこをした後、「もってかないでー」と言われながら、これらの本を「借りて」きたのだった。
これを強奪と言うものもいるかもしれないが、魔理沙にとって「借りて」いるだけである。だからこそ性質が悪いとも言えるが。

「んーんーんー」

適当なメロディで適当にハミングしつつ空を飛ぶ魔理沙。
自分の家がある魔法の森までもう少しだった。

「んーんんー、ん? あれは……」

そろそろと着地地点を探していた魔理沙の目に、意外なものが映った。
森のすぐそばにある広い平原に、一本だけ大きな木があるのだが、そこに座り込んでいる人間
黒髪のひょろっとした体型、少しボロめの着流し。

あれは○○ではないだろうか?

「何してんだ、あいつ」

こんな所で彼の姿を見つけられるとは思わず、魔理沙は少し驚きながらも興味がひかれ、よしと箒をそちらの方向へ向けた。
まるで獲物を見つけた鳥のように、魔理沙は急降下していく。
たちまち距離が詰まり、ちょうど木の前で停止、着地した。

「おーい、○○ー」

乱れたスカートを調えながら近づいてみると、やはり○○だった。
手に本を持って顔を俯け、木に寄りかかって座っている。
しかし、○○は呼びかけられても顔をあげない。身じろぎすらしなかった。

「うーん?」

ふと、とてもすがすがしい風が吹いて、○○と魔理沙の髪を共に揺らした。
魔理沙は目の辺りにかかった金髪を指でかきあげた。一方で○○の前髪も風で吹きあがり、彼の顔がよく見えた。

そこでようやく、○○が眠っていることに気がつき、なんだ、と魔理沙は呆れ気味に息をつく。

「こんな所で昼寝とは、酔狂な奴だぜ」

○○は暢気にも草原の真ん中ですやすや眠っていた。
おそらく本を読んでいる途中に寝てしまったのだろう。

こんな場所で何してるんだか、と魔理沙は心底呆れた。
ここは人里からも竹林からも遠い。妖怪は滅多に出ないが、散歩にしては少し遠出しすぎだ。

○○はこんな風に幻想郷のどこでも突然現れたりする。
噂では花の妖怪の向日葵畑にも行ったとか……本当だったら呆れるよりも怒りたくなる。

「んー、よし、じゃまするぜ、っと」

まあいいや、と思った魔理沙は、○○の横に腰を下ろした。
○○は眠ったまま。口を少し開け、だらんと身体を弛緩させている。
穏やかな寝息だけが聞こえてきた。眠っている時の○○はまるで子供のようだった。


魔理沙はふと、いい天気だな、と空を見上げた。

草原の真ん中なので、ここは太陽の光がまぶしいぐらいに降り注ぐ。
しかし気温はそれほど高くはなく、こうやって木陰にいると穏やかな陽気が眠気すら誘ってくる。

「こりゃ眠くなるわな……」

ふわぁ、と一つ大きなあくびをする魔理沙。弾幕ごっこをしてきたせいか少し疲れていた。
このまま眠ってしまいたいが、箒の近くに置いてある本が少し気になる。
それにここで寝ると無意識に寄りかかったり、あまつさえ抱きついたりしかねない、横に眠る細っこい身体に。

それはそれで面白いが、さすがの自分にも乙女の羞恥心というものがある。
非常に魅力的な眠りへの誘いをはねのけ、魔理沙は無防備に眠り続ける○○を観察することにした。

「そういや、初めて会ったのもここだったっけか?」

じーっと○○の顔を見つめつつ、そんな既視感から記憶の底をさらいあげてみるが、何ぶん結構昔の話なのでよく覚えていない。

(確かその時は、○○がこの草原で寝転んでて……)

「いや、私だったか?」
「んー」

きちんと思い出そうとすると、○○が急に声をあげたので、魔理沙はびっくりして少し距離を取った。

「……起きてない、か?」

息を潜めて○○の様子を伺う。もし今起きられたら、どうして顔をじろじろ見ていたのかと問い詰められることは間違いない。
まあ適当に「鼻でもつまんでやるつもりだった」と言えば、いつもの悪ふざけと変わらないと思ってくれるだろうけど。

○○は眠ったままだった。まだ目覚める様子はない。

「驚かせるなよ、な」

ふぅ、と息をつき、○○の服の袖辺りをつんっと突いてやった。自分を驚かせたことに対する、ちょっとした反撃だ。
ついでに手の甲や腕辺りも突く。少しためらったが、思い切って頬にも指を立てた。
おぉ、と驚いた。男のくせにやけにほっぺたが柔らかい。これは新発見だ。

○○は眠ったまま。頬を突かれた時は顔をしかめたが、ただそれだけだ。


唐突に、胸がドキリと弾んだ。

なんだか、とても距離が近い。

身体の距離も、心の距離も。
そうか。今、○○の最も近くにいるのは自分なのだ。

「うっ……」

そう思うと、急にドキドキしてきた。
なんて初心な反応だ、と自分でも思う。たかだか隣に座っているだけではないか。
○○とは友達同士で、時にはふざけあってその背中に抱きつくことだってあったはず。
そんな時は逆に○○の方がわたわたと戸惑っていた。そんな彼の反応を面白がって「にひひ」と笑うのが霧雨魔理沙だ。


なのに……今はやけに○○のことを意識してしまう。
友達同士でじゃれあっている時とは少し違う。
無防備な○○が隣にいるというこの状況は、とても、特別だった。

「……やっぱ、好きなんだよなあ」

そう呟いた魔理沙は頬を染め、まだ眠り続ける○○の顔を見つめ続ける。

自分の中にある確かな好意。それを自覚したのは何時のことだったか。
こんな普通の男、いや、普通の男よりもてんで弱っちくて、「ペンより重いものは持てない!」と豪語するようなこの青年を、どうして好きになったんだろうか。
「弾幕はパワーだ!」と言っている女が好きになるにしては、どうにも頼りなさ過ぎるのではないか?

「や、違うな」

自分の疑問に自分で否定した魔理沙。

○○が弱いなんてことはない。彼は彼なりに幻想郷で生きるために必死で行動している。
前に進もうとしている人間が弱いなんてことはない。
そういう観点から見れば、自分が○○に惚れたのも当然のことか。

「……けど、どうにも不利だよなあ」

そう呟いた魔理沙は、引き続き○○のほっぺたをつつく。


今、この○○に対して自分と同じような感情を抱いているであろう女性が2人いる。
1人は人里の守護者である上白沢慧音。
幻想郷にやってきたばかりの○○を助け、今も彼と里の間の橋渡しをしており、良き相談役としての関係を築いている。

もう1人が藤原妹紅。
彼女は「○○の小説を気に入ったから」「ギブアンドテイクだ」いう建前(多分に本音も含まれてるだろうけど)を前面に出し、何やかんや彼の傍にいることが多い。
竹林の傍に住んでいることもあり、その関係は非常に濃い。


それに比べて、と魔理沙は自分のことを振り返ってみる。
○○とは友達。そうだ。それ以上でもそれ以下でもない。
里で偶然知り合い、時々一緒に遊ぶ程度の、とても薄い関係。相談役でもご近所さんでもない。

○○にとっては幻想郷で知り合った友人の1人、という程度の認識かもしれない。

だったら会う量を増やせばいいのだが、自分にも魔法と弾幕ごっこの研究があり、おいそれと人里や○○の家に顔を出すこともできない。
それに……そんな毎日会っていたら、自分の気持ちがパンクしてしまう。平然としていられる自信がない。


「恋色の魔法使いが弱気になるとはねえ」


魔理沙はどすんと再び木の下に座り込み、自嘲気味の笑顔を浮かべた。
何事も押して押して押しまくる、押して駄目だったらさらに押す、というのが自分の信条だったはず。
それがなんだ。たった1人の青年に対してはこんなにも弱いのか。

「……押して押して押しまくる、か」

そう確かめるように呟くと、また風が吹いた。髪とスカートがひるがえりそうになるのを手で押さえた。
ペラペラという音が近くでした。○○の手の上にある本が、風で飛びそうになっている音だった。

魔理沙はその本を○○の手から取り、パタンと閉じたが、表紙に書いてある題名に目をひかれた。

「魔法理論基礎?」

見慣れた言葉を口にした時、魔理沙は驚き、色めいた。
これは魔法使いが読むような魔法書ではないか。しかも初心者が読むような入門書だ。
どうして○○が魔法書を読んでいるのか? いや、そんなことはどうでも良かった。


○○が、魔法に興味がある。


そう思った魔理沙は、途端に自分の心が膨らんでいくのを感じた。

魔法はこれ以上ないほどの自分の得意分野だ。
まだまだ発展途上で、パチュリーやアリス以上だとは断言できないが、そこらの魔法使いよりも詳しいという自信がある。
それこそ、人に教えられるほどに。


なんだ、つけいる隙はいくらでもあるじゃないか。
弱気になっていたせいで、どうやら目が曇っていたらしい。


押して駄目なら押し通せ。それでも駄目なら突っ込んでしまえ!


単純明快。悩んでいたのが馬鹿らしい。

「ん……んあ」

うっかり頬を突く指の力が強くなってしまっていたようで、○○が不機嫌そうに顔を歪め、目を開いた。
しかし魔理沙は、指を引っ込めるような真似はしなかった。もう退くつもりはなかった。

「起きたか?」
「魔理沙……? って、どういう状況だ、これ……」

○○は魔理沙の指と顔を交互に見つめ、寝ぼけた頭で状況を把握しようとしているようだった。
魔理沙は、思いっきり、見せ付けるかのような明るい笑顔を浮かべた。

「私がお前の頬をつついてる。で、お前は昼寝から今起きた。オーケー?」
「……納得はいかないけど、オーケー」

○○が大きくあくびをして、背筋を伸ばし始めた。しかし魔理沙はまだ指を引っ込めない。

「そろそろやめてくれてもいいんじゃないか?」
「嫌だぜ」
「少し痛いんだが」
「ここで退いたら負けなんだぜ」

なんだそりゃ、と○○が笑った。
魔理沙はそこでようやくつつくのを止め、かの「魔法理論基礎」を○○の前に掲げてやった。

「なあ、○○、これはどうしたんだ?」
「ん、ああ。外の世界にはないものだから、ちょっとした好奇心で読んでみたんだ。どうにも理解しにくいけど」
「魔法に、興味があるのか」
「まあな」

そう言って本を受け取る○○。知識には貪欲で、なんでもかんでも小説に結び付けようとする○○。
きっと魔法のことも、いつかは小説に書くつもりなのだろう。

やはりおあつらえ向きな状況だった。「突っ込む場所」はもう決まった。

「私が教えてやろうか?」
「……魔理沙がー?」
「なんだよ。どうしてそんな、不満そうな顔するんだ? 私が魔法使いだってこと、忘れてないか?」
「じゃあ、例えばこの理論は分かるのか?」
「ああ、これは陣の展開の論理公式だろ? 私は使わないけど、パチュリーがよく使ってる奴だな」

○○が物凄く驚いた顔をしている。失礼な、と魔理沙は少し腹立たしくなった。

「○○は、どうせ魔法言語のことなんて何にも分からないんだろ? こんな入門書も読めないんだもんなあ」

ニヤニヤとおちょくるかのように言ってやると、○○は悔しそうに「うっ」と呻いた。

「ほれほれ、大人しく私に教えられとけよ。優しくしてやるぜ?」
「……ったく、魔理沙のことだから、見返りでも求めるんだろ?」

むっ、やはり○○は失礼だ。確かにちょっとした下心はあるが、あくまでも親切心からの申し出だというのに。

いや、見返りをくれると言うのなら貰っておこう。貰えるものはなんでも貰う。さすが私だ。


「そうだな、見返りは……」


魔理沙は一瞬考え込む素振りを見せた後、とても輝いた笑顔を見せてこう言った。


「お前の心でも貰うぜ!」


押して駄目なら突っ込んだ結果の、その言葉。
魔理沙にはもはや「逃げる」という選択肢はなかった。





「えーと、心ってのはまさか、心づけ……金か!」
「はははは……」

しかし○○にはのれんに腕押しのようだった。


新ろだ900
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共通ルート2


ある晴れた昼間のこと。

○○は人間の里を1人で散歩していた。荷物は何も持たず、幻想郷では一般的な着流しを着てゆらゆらと歩いている。
普段は竹林の傍にある自分の家に引きこもっている○○だが、時折こうして気分転換に里を訪れることがあった。
特に仕事から一時的に解放された時期には、友人を誘って甘物屋に向かったり、栄養満点の食料を買い込んだりする姿が目撃されることが多い。

しかし今日の○○は違った。難しい顔をし、誰に話しかけることもなくぶつぶつと何かを呟き、不気味な雰囲気を醸し出していた。
そのため、○○のことをよく知っている里の人間も、決して今日の彼には話しかけようとしなかった。

分かっているのだ。こういう状態の○○に声をかけても、暗い声で支離滅裂な話をされるだけだということを。
そしてこんな彼に話しかけられるのは幻想郷中でも数人に限定されるのだということを。

触らぬ神には祟りなし。○○は微妙に人に避けられながら、ふらふら歩き続ける。

「ん、○○じゃないか。久しぶりだな」

話しかけることができる人の1人がようやく姿を現したことで、人里の住人達はホッと安堵の息をもらした。
道の向こう側からやってきたのは上白沢慧音。○○の親しい友人である彼女が来てくれたなら、もう安心だ。

「……」
「おい、○○、○○! 聞こえているのか?」

呼びかけても反応のない○○に、慧音は彼の目の前で手を振ってさらに呼びかける。
10秒ほどの間が空き、ようやく○○の目が慧音に焦点を合わせた。

「……ん、ああ、慧音さん。こんにちは」
「ああ、こんにちは。どうした、そんなにぼーっとして」

○○は呆けた顔で慧音の事を見ていた。いつも以上に気の抜けた顔をしている彼を、慧音は心配そうに見つめる。

「元気がないな? 何かあったのか?」
「いえ、ちょっと……小説が行き詰ってまして。少しは気が晴れるかと思って外に出てみたんですが、逆に小説のことが気になって仕方なくなって……」
「それは辛いな。ふむ……良ければ何に悩んでいるか話してくれるか? 人に相談してみたら新しい発想が生まれるかもしれないぞ」

ですね、と○○が頷く。彼がこうして気楽に仕事についての悩みを相談するのは、本当に限られた相手に対してだけだ。
たとえ里の人間がこう提案しても、彼はやんわりと「小説のことは自分でなんとかしたいので」と断るだろう。
それだけ彼が友人のことを信頼し、頼りにしているということだ。

「私も聞くぜ!」

そんな友人がまた1人、空から降ってきた。いや、正確には箒と共に着地した。
霧雨魔理沙。空を飛んでいた彼女が突然急降下し、○○と慧音の前に降り立ったのだった。

彼女の出現により、里の人々は状況が変な方向にいきそうだと危惧し始めた。魔理沙がいつも場を引っ掻き回していくのは、周知の事実だ。
しかし、もはや彼らの間に割り込むことはできず、周りの人々は事の成り行きを見つめることしかできなかったのだった。

案の定、少し機嫌の悪くなった慧音が魔理沙を睨む。

「お前は小説のことなど何も分からんだろう」
「そんなことはないぜ。私だって最近、魔法書以外の本も読むようになってきたんだ」
「どうせ子供向けの絵本ぐらいだろう。お前が読めるものなどな」
「おっ、それは私に喧嘩を売ってるのか? 常識人の慧音様がらしくないな」

一触即発。2人が険悪なムードを漂わせ始めている中、、○○がまた暗い顔でぶつぶつと呟いている。

「魔理沙も……だけど今回は魔理沙にも聞いてもらった方が良いアイディアが浮かぶかもしれないし……けどだからと言ってその台詞をそのまま使うのも……けど、そうだな、よし」

何かを決心した○○がパンッと手を叩いた。その音に、にらみ合っていた慧音と魔理沙が目を向ける。
○○が2人に向かって、荘重に告げた。

「2人に聞いてもらうことにする。とりあえず俺の家で話そう」

「そ、そうか。お前がそう言うなら……」
「宝船に乗ったつもりで私『だけ』に相談していいんだぜ!」

少々納得のいかなさそうな慧音と、どんっと胸を叩く魔理沙。
3人は連れ立って、○○の家がある方向へと歩いていった。


そんな彼らを見送る里の人間達は、ここで何も起こらなかったことに安心しつつ、現れなかったもう1人の友人も含め、彼らの関係がさっさと固まってしまえばいいのに、と思うのだった。






「じゃ、入ってくれ」

竹林傍の○○の家に着くと、扉を開け、女性2人を先に部屋に入れた。

「お邪魔する……ん?」
「邪魔するぜーって、あれ?」

「あ、○○帰ったのか――げっ、慧音、魔理沙」

どこから入ってきたのか、いや、そもそもそんな疑問は愚問であるかの如く、くつろいだ様子の妹紅がそこにはいた。
これには慧音と魔理沙も驚き、そして妹紅に疑いの目を向ける。

「妹紅、どうしてここにいる?」

慧音が少々威圧感を滲み出しながら尋ねる。後ろの魔理沙も八卦炉の用意をしていたり。

「え、わ、私か? いや、食べ物持ってきたんだけど○○がいなかったから、勝手にあがらせてもらって……その、○○、ごめん」

申しわけなさそうに謝る妹紅。上目遣いを無意識に使っており、慧音はその破壊力に少しくらっと来たようだが、肝心の○○は俯いたまま、またしても何事か考え込んでいた。

「……妹紅か。妹紅の視点なら意外な結果を生むことも……だったら、んー……よし」

○○がまたパンッと手を叩く。

「妹紅も相談に乗ってくれるか? ちょっと、今書いてる小説で行き詰ってるんだ」
「相談? よく分かんないけど……私で役に立つなら」


そうしていつものメンツが○○の家に集合したのだった。





「まあ、今回の小説は恋愛系なんだ。前に射命丸さんからこんなことを言われてさ」

そう切り出し、○○はその小説を書き出すきっかけを話し始めた。


概要はこうだ。
射命丸文が○○との世間話の中で、『最近は恋話に進展がないようなので、見物――もとい、読者の方々は甘いお話をご所望のようです』と語った。
これがかなり意外な話で、最近の幻想郷の実力者達は本当に色恋沙汰に興味を持ち始めたんだな、と○○は非常に感心を覚えた。

最近、仕事が立て続けに舞い込み、ほとんど家に缶詰状態だった○○。
(そうか。仕事漬けで世間の事情に疎くなってるんだな)と、缶詰状態の時には誰にも会わない自分の生活っぷりを反省。
そして読者がそういう話を求めるのなら、と試しに恋愛小説の短編でも書いてみようとひらめいたのだ。


そうして彼が書き始めたのは、妖怪と人間の恋の話。
人里に住む青年が、近くの山に住む妖怪の女性に恋をし、種族の違いに阻まれながらも懸命に乗り越えていく、ありがちだが王道の物語だ。

「だいたいのプロットは完成して終わりまで書いたんだけど、どうしても納得のいかない部分があるんだ」

○○が原稿を取り出し、神妙な顔の女性3人に悩みの種となっている物語の一部を見せる。
ちなみに「妖怪と人間の恋話」と○○が言った時、3人はびくりと身体を震わせていたりする(特に慧音)。

「ここ、人間の男性が妖怪の女性に愛の告白をするんだ。で、妖怪の女性は種族と寿命の違いを理由に一度は断る」

またしてもびくりと大げさなまでに反応する女性3人。今度は妹紅が一番動揺していた。
しかし○○はそんなことには気付かずに説明を続ける。

「まあ、結局最後は女性も告白を受け入れてハッピーエンドになるんだけど、その前段階であるこの場面は、物語の中でも特に重要なんだ。
 だから告白の言葉にはこれでもかと力を入れて考えたんだけど、どうもしっくりこなくってさ」

「で、外を散歩してても悩んでた、ってわけか」
「そういうこと。はぁ……」

魔理沙がまとめると、○○は頷き、頭を抱える。よほど悩んでいたのだろう。ため息までついていた。

「なら簡単なんだぜ」

肩を落とす○○を、魔理沙がポンっと叩いて励ます。
○○はまるで神様でも見つけたかのように懇願する視線を向けた。

「本当か? どうすればいいんだ?」
「小説の中だけで考えてるから行き詰るんだぜ。だから、実際にその台詞を口に出して言ってみればいい」

「なっ!? ま、魔理沙!」

慧音がいきなり立ち上がった。その顔はよく見なければ分からないが、少し赤い。

「じ、実際に言ってみるとは、つまりだな、誰かに告白しろとでも言うのか! そんな破廉恥なことは私が許さんぞ!」
「おいおい、落ち着けよ慧音先生。そんな風に取り乱しちゃ、いつものクールビューティーな印象がぶっ壊れるぜ」

うっ、と慧音は黙りこくり、深呼吸して座りなおす。
気を取り直した魔理沙は再度○○にこう提案した。

「いいか、○○。演技でもいいから、声に出してみればいいんだ。そしたら、なんとなくその台詞の印象とかがつかめるんじゃないか?」
「なるほど。一理ある」
「私がその台詞を聞いてやるよ。で、2人が一番いいと思った奴を採用すればいいんだぜ」
「……うん、いいな。このまま悩んでても仕方ないし、よし、そうしよう」

そう決めると行動が早い○○は、さっそく台詞候補を書き連ねた紙を取り出し始める。
この流れに乗り遅れまいと、慧音と妹紅も手を挙げた。

「私も協力するぞ。いいな、○○」
「わ、私も」

○○は、もちろん協力者は多い方がいいとして了承するが、魔理沙が陰で舌打ちしていたのを彼は知らない。



○○が台詞候補をメモしたものとして取り出した紙の数は、原稿用紙10枚をゆうに超えていた。
10パターン以上の告白の言葉を思いついたが、どれもしっくりこないらしい。

「じゃあ、声に出して読んでみるから、3人とも聞いててくれ。まずは……」
「待て、○○」

さっそく始めようとした○○を、魔理沙が止める。かすかにあくどい顔をしながら。

「それじゃあ駄目だ。告白ってのは、相手と1対1で向き合ってやるものだろ? だから、私達3人の内1人がお前の前に座って聞く。
 で、他の2人は少し離れておくってのはどうだ。お前も感情を込めやすいだろ?」
「……確かに。すごいな。なんだか今日の魔理沙は冴えてるんだな」
「私はいつだって頭がよろしいんだぜ。じゃ、まずは私からだな。お2人とも、お先~」

真っ先に○○の前に座る魔理沙。言いだしっぺの特権とでもいうか、○○もそれを止めようとはしない。
慧音と妹紅は抗議の声をあげたいのを我慢し、狭い部屋ながら精一杯の距離を取って、2人の様子を眺める。

「あまり気分の良いものではないな……」
「だね……」

慧音と妹紅はそう呟きあいながら、顔を向かい合わせる○○と魔理沙を苦々しそうに見つめていたのだった。

「じゃあ、始めよう。あ、一応俺が台詞を言い終わったら手を挙げるから、そしたら魔理沙は『ごめんなさい。私とあなたは一緒になれない』って言って断ってくれよ」
「分かった。いつでも来い!」
「それでは、と」

コホン、と咳払い一つ。
○○は原稿用紙にちらりと目を落とした後、すぐに魔理沙の目をじっと見つめた。

「好きなんだ」

ポツリと呟くように言った○○。その声と表情はまさに恋する男性そのものだった。
あまりの迫真の演技に、魔理沙は「うっ」と声を詰まらせる。
しかし、○○はまだ合図の手を挙げていない。

「好きなんだ、君の事が。胸が張り裂けそうなぐらいに。何をしていても君の姿が思い浮かぶぐらいに。
 もちろん許されない恋だっていうことは分かってる。けれども、俺は君を求めている。それだけは確かなんだ。
 親類縁者も友人ですらも否定したこの心を、俺は捨てきれない。お願いだ。どうか行き場の失くした俺の心を受け取ってほしい」

ここでようやく○○が手を挙げた。魔理沙が断りの台詞を言う番だ。

「あ、う……」

しかし魔理沙は最早正常な言葉を話せる状態になかった。
盛大に顔を赤くし、魚のように口をパクパクと開け閉めしている。
もはやこれが演技であることなんて頭からぶっ飛んでいた。

「魔理沙?」

○○が不審そうに声をかけると、ようやく魔理沙はハッと意識を取り戻す。
そして台詞を言わなくてはいけないことをを思い出すが、しかし、思考は完全に混乱していた。

(せ、台詞? 断るんだったか? けど、私は嬉しいから断るなんて、いや、演技だったか、なのに○○はあんなに真剣で『親が反対しても』って、けど断らなきゃだから、あ、うううう!)

魔理沙は唐突に八卦炉を取り出し、構えた。

「ご、ごめんなんだぜえええええ!」


竹林を散歩していたウサギが、空にマスタースパークの光を確認した。





「どうして撃った」
「う、ううう……緊張してたんだ。すまん……」
「別に舞台で演技するわけじゃないんだから、緊張なんかするなよ……」

○○の家は木造。もちろんマスタースパークの威力に耐え切れるはずもなく、天井には巨大な穴が空いていた。
この穴は後で修理することにし、とりあえず台詞を決める作業を続けることになった。

「で、だ。今のはどうだったんだ?」
「あ、えと……わ、私はいいと、思う……ぜ」

顔を赤くして俯く魔理沙。しかしそこで横から「待て」という冷静な声が割って入った。慧音だ。
彼女は至極真面目な顔でこう言った。

「今の台詞、好きであることをただ伝えているだけで、妖怪と人間の恋という設定が活かされきっていないように思うが」

その鋭い突っ込みに、○○はふむ、と頷く。

「うん、確かに。親が反対するっていうだけじゃちょっと弱いですね」
「熱烈に愛を伝えるのもいいが、そういう設定を活かしている台詞も、もちろん考えてあるのだろう?」
「んー、妖怪に愛を伝えることに重点を置いた台詞もあったはずです」
「ならば、それを聞いてから判断すればいいだろう。そして、次は私が前に座る」

慧音がずいっと魔理沙を押しのけて、○○の前に座った。

一方で顔が赤くなるのが止まらない魔理沙は、そそくさと妹紅のいる部屋の隅へと移動していった。
妹紅が彼女の傍に寄り添い、「大丈夫か?」と珍しく気を配る。
魔理沙はパタパタと顔を仰いで頭を冷やしていた。

「うー、すごい威力だった……」
「そ、そんなになのか?」
「ああ。○○の奴、完璧に感情込めてやがる。くそっ、恋色の魔砲使いが撃墜されるとは……」

ごくりっ、と妹紅は喉を鳴らし、次に始まる告白劇に目を向けた。
次は自分が……と胸を高鳴らせながら。

「よし、これでいこう。慧音さん、さっきと同じで俺が手を挙げたら、『あなたの想い、受け止められない』って断ってください」
「いいだろう。始めてくれ」
「では……」

一瞬目を閉じて咳を一つ入れると、○○はまっすぐ慧音の目を見て、口を開いた。

「俺と君は相容れないと、人は言う」

完璧に熱の入った演技だった。いや、事情を知らない者が見れば、本気の告白なのかと目を丸くするだろう。それほどに感情がこもっていた。
しかし、それに対峙する慧音は動揺していない。じっと○○の言葉を受け止めている。

「それは君が妖怪だから? 俺とは違う種族だから? それ故に俺の愛が否定されるのが世の理だというのなら、俺はそれに逆らってみせる。
 種族だとか、妖怪と人間だとか、そんなものは俺の心になんら影を落とさない。外見がどうした。俺は君の魂を求めている。
 いや、違う。俺は君の全てを求める。妖怪である君をも求めている。人としておかしなことだろうとも、それが俺の想いなんだ。
 これまで一緒に過ごした時の中で、君も俺を求めているんじゃないだろうか?」

○○が小さく手を挙げた。
傍目で見物する魔理沙と妹紅は、はらはらと慧音に視線を移す。
ここまで熱烈に告白されて、果たしてきちんと演技できるのだろうか。

だが2人の心配をよそに、慧音の表情はじつに涼しげだった。

「残念ながら、君の想い、受け止められない」

言い切った。表情といい声色といい、完璧だった。青年の愛を理解しながらも断らなくてはいけない悲しみがその台詞から聞こえてきそうだった。
ここらで魔理沙と妹紅は、小説なんだからこんな完璧に演技しなくてもいいんじゃないだろうか、と思ったが、そんなことはどうでもいい。
耐え切った慧音に賞賛の拍手を送りたい気分だった。

「よっし、慧音さん、ありがとうございます。どうでした?」
「いいんじゃないか? 妖怪と人間の悲恋、見事に描ききっている。そしてそれを乗り越えようとする青年の思いもきちんと伝わってきたぞ。まあ、愛しているの一言ぐらいは欲しかったがな」
「なるほど、定番の台詞も盛り込んだほうがさらに盛り上がるか……うーん、けどここでは……」

○○が原稿用紙に視線を落とし、修正箇所を探し始めた。
そこで魔理沙と妹紅は見た。慧音の手が細かく震えているのを。

「○○」
「はいー?」

話しかけられても、○○は原稿用紙から顔をあげない。慧音は震える声で続ける。

「少し外に出る。すぐに戻ってくるから」
「はい。どうぞ」

慧音は立ち上がり、足早に外へと出て行った。○○は原稿用紙に万年筆を走らせたままだ。


妹紅と魔理沙は、いきなり出て行った慧音に疑問を感じていたが、


しばらくして、



「ふぉおおおおおおおお!」



獣のような叫び声と、何かが走り去る音が外から聞こえてきたのだった。


同時刻、竹林を散歩していた兎が、満月の夜でもないのにワーハクタクの爆走する姿を目撃したとか。





ついにきた、と妹紅は震える手を抑えつけ、○○の前に座った。ちなみに慧音はまだ戻ってこない。

「慧音さんがいないけど、台詞はまだまだあるから先に続けておこう。えーと、次は……」

落ち着け。これぐらいなんだ。幾千年と生きてきた自分なら、大抵のことは経験してきたはずだ。
いや、だけど真正面から愛の告白を受けたことなんてあっただろうか……昔の記憶なんて薄れているけど、覚えている限りでは一度もない。
そう、もし経験済みだったら、こんなにも胸がドキドキすることなんてない。

(落ち着け。演技だ、これは演技……きちんと聞いて台詞を返せばいいんだ)

そうだ。○○も本気で告白してくるわけじゃない。演技、これは演技……
○○は小説のことに夢中で、自分達が彼の告白の言葉に戸惑っていることになんて気付いていないのだ……そう考えたらなんだか寂しくなってくるけど。

「妹紅、準備はいいか? 分かってるだろうけど、手を挙げたら『ごめんなさい』って断ってくれよ」
「ああ。任せろ。見事に断ってやるさ」

1つ深呼吸。大丈夫。慧音のように冷静に演じきればいい。そして後で永遠亭に行って輝夜に喧嘩でもふっかけてこよう。

「では」

○○が軽く咳を挟み、じっと妹紅の目を見た。

「妹紅、聞いてくれ」

うっ、と妹紅は意識を失いそうになった。
おそらく小説の中の登場人物の名前を呼ぶ場面なのだろうが、破壊力ありすぎだ。

これからさらに言葉の弾幕が張られるのだろうか、と妹紅は心して身構える。


しかし、○○はふと目を瞑り、黙りこんでしまった。

「……?」

○○は何も言わない。もしかして台詞を忘れたのだろうか。その割には原稿用紙を見る素振りを見せないが。
妹紅は戸惑い、声をかけそうになるが、その時。

○○が目を開いた。

「愛してる。俺のものになってくれ」

短いながらも誠意の感じられる言葉。なおかつ純粋に相手を求めているという欲望に近い愛情。
それが、妹紅に向かってダイレクトに放たれた。

「……」

直球の愛情に被弾した妹紅は、もはや合図の手が挙げられていることにも気付かず、呆然と○○を見つめ続けていた。
長い告白の台詞を想定していた彼女にとって、槍のようにまっすぐ飛んできたこの愛の言葉は心の奥底にまで深く突き刺さった。
これが演技だということなんて、妹紅の頭の中には最早ない。

「……あ」

さらに数秒後、彼女は突然火山が噴火したかのように顔を赤くし、

「うん……」

かすかな返事と共に、小さく頷いた。







時が、止まった。



「妹紅……?」
「はっ!」

妹紅はようやく意識を取り戻し、○○が訝しげな表情を浮かべていることに気付いた。
部屋の隅では、魔理沙が大笑いしそうになるのを堪えている姿。

「え、や、ち、違うよな、あははは……うん、違う。分かってるんだ、今のは間違っただけで……う、うぅ、うああああああ!」




竹林を散歩していた兎は、まだ顔の赤くなっているワーハクタクと共に、真昼の花火を見物することができたのだった。





「どうしてこうなった」


「「「ごめんなさい」」」


○○の家、全焼。
フジヤマヴォルケイノにさらされた木造の家は見事に燃え尽きていた。

炭になった我が家の前で、○○は必死に守った原稿と辞書などの仕事道具と共に、呆然と立ち尽くしていた。


「はあ……仕方ない。家は建て替えるとしよう」

「さすがに手伝うぜ、○○」
「ああ、私達の責任だからな……」
「本当にごめん」

魔理沙、慧音、妹紅の順で頭を下げるのを、○○は仕方ない、といった様子で笑顔を浮かべた。

「いいよ、そろそろぼろくなってきたしね……けど、問題は小説の方だな。結局告白の言葉が決まらなかったし……他の人にも意見を聞いてみるかなあ」

「「「それは駄目だ!」」」


後日、○○の恋愛小説は妹紅達の協力により完成し、文文。新聞に掲載。
まるで実体験であるかのような物語と、心に響く青年の告白は幻想郷の女性達に好評を博し、続編を求める声がやまなかった。

しかし○○は

「もう家を燃やされたくありません」

と言って当分は恋愛小説を書かないと宣言したとか。


新ろだ906
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最終更新:2010年07月22日 00:00