妹紅ルート2
「んーんーんー」
鼻歌交じりに竹林を歩く1人の少女。
彼女の名前は藤原妹紅。竹林の案内人であり、不死の人間だ。
幻想郷でも随一の力を持ち、竹林の妖怪からも恐れられている「不死鳥」。
今日の彼女はいつもよりも身綺麗だった。
上着ともんぺは新調され、髪も丁寧にとかしつけられている。
香木でも焚いたのか、身体からはほどよい花の香りも漂い、爪の先から髪一本に至るまでくまなく気配りがなされているその姿は、気品すら漂わせていた。
さらにその顔に浮かぶ輝くような笑顔が、そのかわいらしさをいっそう引き立てており、もはやくすんだ部分などひとつもない「美少女」と彼女を評してもいいだろう。
だが、藤原妹紅を少しでも知る者がその麗しい姿を見れば、自分の目を疑うに違いない。
竹林の案内人として里の人間と交流を持つ彼女だったが、その時の彼女はお世辞にも愛想が良いとは良いがたいのだ。
話しかけられれば素っ気ないながらも会話はするが、自分のことは「ただの焼き鳥屋だ」と自称するのみで何も話そうとはしない。
そして案内を終えた後はすぐに姿を消してしまう。理由がなければ人里に姿を現すことすらなかった。
時には無謀な若者が彼女に言い寄ろうとするものの、どんな甘い言葉をかけても彼女が振り向くことは一切なく、それどころか冷たい視線を返されるという散々な結果に終わるだけだ。
「んーんー」
そんな彼女が極上のおめかしをして向かう先は、あるボロい一軒家。
木で作られた簡素な家を見つけた妹紅は、一層期待に満ちた笑顔を浮かべて、小走りに目的地へと近づいていく。
と、彼女がその家の前にたどり着いた時、扉がいきなり開いた。
出てきたのは、最近幻想郷でも有名になってきた、小説家○○だった。
「あ、○○!」
「ん? ああ、妹紅」
妹紅は○○の傍にすすっと近寄り、これ以上ないほど輝いた笑顔を彼に向けた。
○○も突然の来訪者に驚いた顔を見せるが、すぐに気心の知れた相手だと分かり、身持ちを崩す。
「どうした? 今日は……」
○○はふと妹紅の頭のてっぺんからつま先まで、全身を眺める。
妹紅はその彼の目にかっと身体が熱くなるのを感じた。彼に見られている、それだけでとてつもなく恥ずかしくなってきたのだ。
しかし耐えなければいけない。これから行うことを思えば、意志を強く持たなければならなかった。
○○はひとしきり妹紅の姿を眺め回すと、「へー」と感心の声をあげた。
「なんだか、今日の妹紅はいつもと違う気がする」
「そ、そうかな?」
「ああ。服とか変えた? 髪も……こう、撫で回したい感じになってる」
「ななな、何をいきなり!?」
「ははは」
冗談だったのだろう、○○は妹紅の慌てように楽しそうな笑い声をあげた。
しかし妹紅は機嫌を損ねはしなかった。
自分がいつもと違うことを○○に気づいてもらえただけで、妹紅はうれしくて仕方がなかったのだ。
この勢いに乗じて、と妹紅は決意を固める。
「○○、あのさ」
「うん?」
「さ、さ、ささ」
「さ?」
「さ、散歩にでも行かないか!?」
「散歩?」
そう、妹紅が今日に限ってこんなにもめかしこんでいるのは、○○を散歩に誘うという、彼女にとって非常に大それた企てを成し遂げるためだった。
今まで妹紅は、○○の家に押し掛けて一緒にご飯を食べることは何度もあったが、一緒にお出かけしたことは数少ない。
せいぜい魔理沙や慧音と一緒に遊びに行ったことがあるくらいだ。
なのに今日は、いきなりの2人っきりでの散歩のお誘い。
妹紅がこの重大な決断に踏み切ったのには理由がある。
妹紅と○○は、確かに普段から良き友人として付き合っていた。
しかし妹紅にとって、その現状に満足している場合ではなかった。
○○に心を寄せるものは少なくない。知っているだけでも自分の他に2人、彼を好いている者がいる。
それも、自分なんかよりももっと魅力的な女性と少女だ。
友人関係というぬるま湯につかっていると、あっという間に彼を連れ去られてしまうだろう。
彼が他の誰かを選ぶというのなら、それはそれで仕方ないが……そうでないなら、できる限り、彼と仲良くなりたい。他の誰よりも。
そのきっかけにでもなれば、と妹紅は○○を散歩に誘うこ決意を固めたのだった。
「うーん……」
しかし肝心の○○の顔が晴れなかった。何か考え事をしているのか、腕を組み、渋い顔をしている。
まさか自分と出かけるのが嫌なのかと思った妹紅は、ずきりと胸が痛むのを感じた。
自分は魔理沙のように話していて面白い人間ではないし、慧音のような知識があるわけではない。
だから○○は一緒に遊びに行くのを嫌がるのではないか。
この企てを計画した時から、そんな思いが妹紅の心のどこかにあった。
結局彼ならそんなこと気にしないと思い直し、お誘いを断行したのだが……
今、○○の気乗りしない顔を見て、とても心が痛い。
前言を撤回しようとした妹紅だったが、すぐに○○がその浮かない顔の訳を話してくれた。
「行きたいのは山々なんだけど、ちょっと今日は用事があってさ……」
「あ、ああ。そうなのか」
ほっと息をつく妹紅。どうやら嫌がられているわけではなさそうだった。
しかし○○に用事とは。かなりタイミングが悪かったようだ。
確かに今日の○○は、いつのもボロい着流しではなく、よそゆきのシャツとズボンを履いている(外の世界の着物らしい)。
断られても仕方がない……と妹紅は肩を落とした。
「用事……どういう?」
「ん、紅魔館っていう所に、ちょっとね」
「ああ、あそこか……え?」
妹紅は耳を疑った。
紅魔館。悪魔の住む館として、幻想郷でも1、2を争う危険区域に指定されている場所だ。
普通の人間なら訪れるどころか近寄ることもしない。
里の守護者の慧音も「できるだけ近づくな」と常に皆に諭しているほどだ。
「どうしてまたあんな物騒な所に」
妹紅が心配そうに呟くと、○○は彼女がそんな顔をしている理由が分からないのか、きょとんとした顔をしている。
「え、いや、小説の資料でさ、必要な本があるんだけど、里にも道具屋にもないんだ。
で、魔理沙に相談してみたら、紅魔館って所に大きな図書館があるって聞いて」
確かに、紅魔館には大魔法図書館がある。そこには魔法書だけでなく一般書も収められているとか。
「一応、図書館の主だっていう魔女さんと手紙でやりとりして、使用許可はもらったけど」
そう言って○○が取り出したのは1通の手紙。
花柄の綺麗な手紙には、えらく達者な字でこう書かれていた。
『汚さない、騒がない、勝手に本を持ち帰らない。これらの約束事が守れるなら、お好きにどうぞ。
P.S あなたの書いた未発表小説を1篇、必ず持ってくること』
「これぐらい、図書館を利用する上で当たり前のことだと思うんだけどねえ」
その当たり前のマナーを守れない人間を知っている妹紅だったが、そこは黙っておくことにした。
実際に行けば話を聞くことになる。白黒と呼ばれている彼女の所行を。
それよりももっと大切な懸案事項が妹紅にはあった。
「紅魔館って、前に戦った吸血鬼の家だったはず……」
○○に聞こえないように呟いた妹紅は、いつか起きた『輝夜主催の肝試し』を思い出す。
あの時色々な人間や魔法使いが自分の所にやって来たのは記憶に新しい。
彼女ら相手に、幻想郷に来て以来最も苛烈な弾幕ごっこを繰り広げたものだ。
吸血鬼の少女はその中でも特に強烈な威圧感、まがまがしさを帯びた、厄介な相手だった。
隣にいたメイド姿の従者もさることながら、「高貴な吸血鬼」らしい美麗な微笑みを浮かべながら見舞ってきた、あの弾幕。あれはかなりきつかった。
不死身の自分でも、彼女の妖気をまともにぶつけられた時には少々背筋が寒くなったほどだ。
あんなのがうようよしているかもしれない館に、ただ人間の、いや、それ以下の力しか持たない○○を1人で行かせていいものか。いや、いいはずがない。
それに……折角おしゃれをしてきたんだから、このままお別れするのも少し寂しかった。
「○○」
「うん? どうした? なんか怖い顔して考え事してたみたいだけど」
「私も一緒に行っていい? いや、行くから」
「へ?」
驚く○○に、妹紅はとっさに「暇だからな」と付け加えた。
それで納得したのか、○○は「ああ」と頷く。
もちろんそれだけが理由なわけがないのだが、正面切って○○に「心配だから」とは言えなかった。
(何千年生きているのに……臆病だよな、私)
そう自嘲しつつ、歩きだした○○の後ろをついていく妹紅。
○○と妹紅の紅魔館訪問が始まるのだった。
※
湖を抜けた先の大きな平原。山もなければ森もない原っぱ。そこに紅い屋敷は建っている。
○○と妹紅はすでにそこにたどり着いていた。
途中、「あたいったら最強ね!」な妖精が戦いを挑んできたが、妹紅が面倒くさそうにちょこっと周りの温度をあげると、氷精は「身体が溶けるー!」と叫びながら撤退してしまった。
そんな微笑ましい出来事を経て、とにもかくにも到着した。
「おー、すごい館だな、これは」
○○の感嘆の声。
目の前に広がる、紅い屋敷。
窓もなければ扉も少ない、壁も屋根も全てが紅く、青空と緑の草原の中では少々色合いが悪い。
だが華美でありながら左右対称にきちんと整えられている造り、幻想郷ではあまり見ないその洋風建築に、どうしようもなく目を引かれる。
危険な美しさ、とでも言えばいいだろうか。
○○はそれに目を奪われていた。
そんな○○を見た妹紅は、○○がこのまま妖しい美しさに吸い込まれてしまいそうだと思い、「やっぱり私がいないと」と決意を新たにするのだった。
「さて、門を探すか」
魔女からもらったという地図片手に、○○は館に入るための門を探し、妹紅がその後ろをついていく。
館の周りは高い塀で囲われている。飛べば進入可能だが、○○がそういう失礼な真似をするはずもなかった。
「あれは?」
妹紅が指さした方向。そこには巨大な鉄門があった。
人の何倍もの高さのある、大きな門。現在それは固く閉じられている。
そしてその横には、紅い髪の女性が立っていた。
チャイナドレスに中華帽を被った、えらく某国の香りが強い格好をしていた。
門の前まで近づくと、その女性が立ちながらにして眠っていることに気付いた。
妹紅が彼女の目の前で手をひらひらさせるが、相手は全く目覚める様子がない。
「寝てるみたいだね」
「どうするかなあ。このまま勝手に入るわけにもいかないし」
○○が困った様子で門を見上げる。
妹紅も腕を組んで、仕事をほっぽりだしている門番を呆れた顔で眺めた。
門番が寝てて、果たしてこの門は守られていると言えるのだろうか?
仕方ないので起こしてやろうと妹紅が手を伸ばした所で、
「はっ!」
何かに気付いたかのように、突然紅髪の女性が目覚めた。
「あ、起きた?」
妹紅が手をひらひらさせると、門番の女性は驚いたように目を見開いた。
「あ、あれ? あなた達は誰ですか? って、それどころじゃなかった、来るっ!」
何が? と○○と妹紅が首を傾げるのと同時に、背中から空気を切り裂く音がした。
ひゅんっ!という鋭い音。次に強烈な風。
それが収まると、ちょうど○○と妹紅の間に、白と黒の衣装を来た人間が現れる。
「お? ○○と妹紅じゃないか」
普通の魔法使い、霧雨魔理沙が空から降ってきたのだった。
彼女はニカリと笑い、ちょうど○○の目の前で箒から降りる。
○○は目を丸くして驚いていた。
「魔理沙、どうしてここに?」
「それはこっちの台詞だぜ。どうしてまたおまえ達がここに……」
魔理沙はまじまじと○○と妹紅を見つめ、「ふーん」と唇を尖らせた。
妹紅はその目に(抜け駆けしたな?)という非難の意を感じ取ったが、適当に視線を外してはぐらかしておいた。
一方で○○が魔理沙の質問に答える。
「俺達はここの図書館に用があるんだ」
「ふーん……ああ、それでこの門番に足止めされてるってところか?」
○○の返答に対し、魔理沙はちらりと門を見た。
そこには、先ほどからずっと戦闘態勢を取っている門番の姿がある。
自分達が話している間も構えを取っていたのか、と妹紅は変な所で感心してしまった。
「白黒め! 今日こそはここを通さないから!」
門番の女性はえらく威嚇的な目で魔理沙を睨んでいた。
「美鈴、お前も懲りない奴だぜ。私に弾幕ごっこで勝てると思うのか?」
ふふんと笑う魔理沙。
はてさて、このままでは弾幕ごっこが始まりかねない。
妹紅は思案する。
この2人の弾幕ごっこの実力は幻想郷でも随一だろう。
魔理沙は妖怪を簡単に吹き飛ばすパワーを持っているし、門番は――よく知らないが、紅魔館の関係者なので強いに違いない。
そんな2人がこんな近距離で弾幕ごっこを始めては、自分は大丈夫でも○○が危ない。
いざとなったら2人をぶちのめしてでも○○を守ろう。
妹紅はそう心に決め、かすかに指先に炎をともらせる。
だが、そんな剣呑な雰囲気の中、○○が門番の前へと立った。
「美鈴さん、でよろしかったでしょうか?」
「え? あ、はい、そうです。えっと……あなたはどちら様でしょうか?」
いきなり声をかけられた美鈴が戸惑う中、○○は綺麗なお辞儀をした。
「私は○○と申します。こちらの大図書館の主人に招待を承ったのですが、お取り次ぎをお願い頂けるでしょうか?」
「あ、その、しょ、少々お待ちください!」
美鈴が慌てて館の中へと走っていってしまった。
魔理沙という侵入者のことなど忘れ、門番の役目を放棄してしまうほど、彼女は慌てていたようだ。
妹紅と魔理沙は後ろでぽかんと口を開けていた。
今までに一度も見たこともない、○○の「礼儀正しい」挨拶に驚いたからだ。
普段の「小説万歳!」「他のことなんか知るものか!」な彼の姿しか見ていない彼女らにとって、その礼儀正しさは異様とも言えた。
「○○もそんな言葉遣いができるんだなー」
魔理沙が○○の肩を叩き、感心の声をあげる。
それまで緊張した面もちだった○○はそこで息をつき、魔理沙に呆れ顔を向けた。
「そりゃあな。魔理沙みたいになんでもかんでも突撃してちゃ、大人として失格だぞ」
「へいへい、どうせ私は子供ですよっと」
「まったく……ん? 妹紅? どうかしたか?」
妹紅ははっと意識を取り戻す。その頭の中ではずっと、先ほどの瀟洒な○○の姿がリフレインしていたのだ。
ああいう○○もいいなー、けど普段の小説にひたむきな○○も、と考えている内に意識がどこかにいってしまっていた。
「い、いや、なんでもない」と妹紅は取り繕うが、なかなか瀟洒な○○の姿が頭から離れず、言葉も途切れ途切れになってしまい、○○に疑問符を浮かべさせてしまうのだった。
「お待たせいたしました」
しばらくすると、館の中から先ほどの門番と共に、メイド姿をした女性が現れた。
その女性が謝罪の言葉と共に華麗なおじぎをしたので、○○達も思わず頭を下げてしまう。
「私はこの紅魔館のメイド長を勤めています、十六夜咲夜と申します」
メイド姿の女性――十六夜咲夜が再び頭を下げる。
それは、さきほどの○○の挨拶よりもさらに瀟洒なものだった。
銀髪にメイド服。顔は怖いほど整っており、その所作の一つ一つが美しい。
妹紅はその顔を見て、すぐに「あの時」の従者だと気づいた。
大量のナイフを投げてくる上に、時間を止める能力も持っており、非常に厄介な相手だったことを思い出す。
しかし、今は咲夜と○○が話している途中なので、とりあえず何も言わずにいることにした。
「あ、これはどうもご丁寧に。私は○○と申します」
「はい、○○様ですね。パチュリー様からお話は伺っております。
この度は私共の門番が失礼を致しました。門番にはきちんと取り次ぎをしておいたのですが……まったく、中国!」
十六夜咲夜が従者然とした礼儀正しい態度から一転、鋭いまなざしで美鈴を睨みつけた。
まるで刃物のようにぎらついたその視線を受けた美鈴は、びくりと身体を震わせる。
「し、仕方ないんですよ~。白黒が来たと思って起きたら、目の前にこの人がいて慌てちゃって……」
「お、き、た、ら?」
「あ、あう! ち、違います、違いますよ咲夜さん! いい天気だったからちょっとまどろんでただけで、決して昼寝なんかしてませんから!」
妹紅はとっさに、いや寝てただろうという突っ込みをしそうになったが、美鈴があまりにも悲壮感たっぷりに言い訳をしているので可哀想になり、慈悲の心を持って黙っておいた。
咲夜は大きなため息をつくと、とりあえずお客の応対をするべきだと思ったらしく、○○の方に顔を向けた。
「では、○○様。ここから図書館までは私がご案内いたします」
「はい、よろしくお願いします」
「後ろの方は……あら」
妹紅と咲夜の目が合った。
どうやらあちらも自分のことを覚えていたようで、妹紅は少々気まずくなり、視線を逸らした。
だが咲夜の方は全く気にする様子を見せず、素知らぬ顔をして「お連れ様でしょうか?」と○○に尋ねる。
「はい。図書館を見学したいそうなので。いけなかったでしょうか?」
「私では判断がつけかねますので、図書館に到着した際、パチュリー様にお尋ねくださいませ。
とりあえずお連れ様共々、図書館までご案内いたします」
どうぞ、と咲夜は手を差し出した。○○と妹紅はそれに従って門をくぐる。
魔理沙もそれについていこうとしたが、それをメイドの咲夜が目で押し留めた。
「ああ、あなたは駄目よ」
「ん? おいおい、○○と妹紅はよくて私は駄目なのか?」
「あなたは招待されてないわ。あの方の連れというわけでもないでしょう?」
「いやいや、私もあいつの連れだぜ? なあ、○○」
いきなり声をかけられた○○は、「んー」と答えにくそうな顔をしている。険悪になりかけている雰囲気を感じ取ったのかもしれない。
○○が何かを言う前に、咲夜が「とにかく」と憮然とした表情で魔理沙の前に立った。
「泥棒猫をこれ以上館にのさばらせるわけにはいかないわ。美鈴」
「は、はい!」
「魔理沙を追っ払っときなさい。失敗したら今日の晩御飯は抜きよ」
「そ、そんな!」
門番がこの世の終わりのような顔をしている。飯抜きがそれほど嫌なのだろうか。
一方魔理沙はというと、懐から八卦炉を取り出してニヤリと笑っていた。
「ほう、私を止められると思ってるのか?」
「く、くぅー! 晩御飯のためにも、ここは退けない! 背水の陣だ!」
そうして2人は空へと舞い上がり、弾幕ごっこが始まった。
「さて、それでは参りましょう、○○様」
「は、はあ。あれはいいんでしょうか……」
「放っておいてかまいません。いつものことですから。では、こちらへ」
聞こえてくる爆発音と怒号を静かに受け流す咲夜に対し、○○は上空で繰り広げられている強者達の戦いに頬を引きつらせている。
きっと目の前で繰り広げられる華麗で危険な戦いに、若干の恐怖を抱いているのだろう。
妹紅はそんな彼を安心させたくて、どんっ!と背中を強く叩いた。
「さ、行こう。大丈夫だって、私が守ってやるから」
「いてて、ありがたいことだけど、背中は叩くなって。肺が飛び出るかと思った」
「気にしない気にしない。男の子は我慢が大事だよ?」
そう言って笑う妹紅。
○○はこれのおかげで顔が少し和らいだのだった。
※
案内された大魔法図書館。それは「大」とつくだけあってとてつもなく巨大な図書館だった。
様々な本がぎゅうぎゅうに詰め込まれている書棚が、それこそ数え切れないほど設置されていて、建物の中に入った途端、本独特の紙の匂いに身体を包まれた。
妹紅には慣れない香りだったが、○○にとっては親しみのあるものらしく、周りをぐるりと見渡しながら顔をほころばせていた。
「うっわ……これはすごいな」
「パチュリー様はこちらです」
○○が本の量に驚いている中、案内人の咲夜はつかつかと図書館の中央部へと歩みを進めていく。
その後を追う○○と妹紅。書棚の間を進む間、まるで本のトンネルの中を歩いているみたいだと、妹紅は思った。
「パチュリー様、○○様をお連れいたしました」
「ご苦労様、咲夜」
ちょうど図書館の中心部だろうか、そこに広くて大きな机が置かれており、その席には1人の少女が座っていた。
大魔法図書館の主にして、大魔法使い、パチュリー・ノーレッジだった。
全体的に紫っぽい、まるでネグリジェのような服を着ているパチュリー。
彼女は今まで本を読んでいたようだったが、来訪者に気付くと本を閉じ、椅子から立ち上がる。
○○は彼女に近づくと、すかさず頭を下げた。
「はじめまして、パチュリーさん。私が○○と申します」
「あら、丁寧な挨拶なんて久しぶりにされたわね。私はパチュリー・ノーレッジ。はじめまして、小説家の○○さん」
○○とパチュリーが握手をする。妹紅はそれを見てぴくりと眉を動かしたが、ぐっとこらえた。
「今日は図書館の利用許可を出していただき、本当にありがとうございます」
「別にいいのよ。ちゃんとした利用者なら、こっちも拒まないわ」
「ちゃんとした?」
「図書館には色々な虫が寄り付くものなのよ。例えば、白黒の泥棒虫とかね」
○○はそれが誰のことを指しているのか分からないらしく、首を傾げている。
妹紅はもちろん誰のことか分かっており、そういえば表の戦いはどうなったのだろうかと、適当なことを考えていると、
「あら? そっちは?」
パチュリーが自分の方に視線を送ってきたので、妹紅は「……どうも」と軽く頭を下げた。
自分でもぶっきらぼうだと思うが、どうにも○○達以外の誰かと関わるのはまだ苦手だ。
パチュリーがじろじろと妹紅を観察する中、○○がフォローを入れてくれる。
「付き添いというか連れというか、いや、見学者ですね」
「ふーん、ああ、確か竹林に住んでるとかいう人間だったかしら? まあ、暴れないなら適当に見学しててもいいわよ」
「どうも」
またもやぶっきらぼうな返事をすると、パチュリーは「へー」とでも言いたげな興味深そうな瞳をこちらに向けてきた。
妹紅はなんだかその瞳に全てを見られているような感覚がして、無意識に顔を背ける。
だが、パチュリーはすでに○○の方を向いていた。
「で、○○さん、持ってくるように言ったお土産はどうなの?」
「ああ、それならここに。本当に短い短篇小説ですけど」
「いいのよ。あなたの小説は私も結構好きだし、未発表のものを読めるなんて嬉しいわ」
○○が懐から取り出した原稿用紙をかっさらうかのように受け取ったパチュリーは、すかさず椅子に座ってその小説を読み始めた。
原稿用紙20枚程度とは言え、れっきとした小説だというのに、パチュリーはものの10秒も経たない内に読み終えたらしく、「うん……いいわね」と感心深く呟いた。
魔法使いだからなのか彼女個人の能力なのか、と○○と妹紅が驚く中、パチュリーは原稿用紙の一箇所を○○の方に示した。
「けど、ここの部分、もう少し詳しく解説してくれない? ああ、だけど先に資料の方が欲しいかしら?」
「いいですよ。資料はあとでじっくりと探しますから」
○○がパチュリーの目の前の席につき、同じ原稿用紙を眺め始める。
パチュリーはさっそく質問の箇所を指差した。
「この部分なのだけど、主人公の心情の吐露と情景描写に相関関係があるのかしら? その割には分量が少ないのだけど」
「関係はありますけど、ここでは心情の方に重点を置いているので、情景はそれに引っ張られる形で書こうと思って――」
初対面ながら、本という共通の趣味を持っている2人には相通じるものがあるのか、彼らは短篇小説を囲んでさっそく文学談義を始めてしまった。
○○もパチュリーも楽しそうだ。周りに本を読む人が少ないからなのかもしれない。
しかしこうなると暇になるのが妹紅だった。
○○とパチュリーの話は専門用語や難しい表現が飛び交っており、聞いていてもつまらない。
話相手が欲しくとも、咲夜はすでに他の仕事に向かったのかいつの間にか姿を消しているし、図書館の中には他に人の気配がない(そもそも○○達以外におしゃべりしたいとも思わないが)。
適当に図書館の中でも探索するか、と妹紅は本棚に視線を這わせながら歩き始めた。
(……やっぱり、話が合う相手の方がおしゃべりも楽しいものかな)
○○達から相当離れた場所にて、妹紅は『悪魔召喚術初級編―氷精でもできるもん!―』を書棚から手に取り出しながら、かすかにため息をついた。
瞼の裏に浮かぶのは、小説について楽しそうに話している○○とパチュリーの姿。
慧音しかり、パチュリーしかり、本についての知識を持っている人は、例外なく○○にああいう満足げな表情を浮かばせることができる。
少し、うらやましい。
「と言っても、私はなあ」
悪魔召喚術の本を開いた瞬間、手の平サイズの小さな悪鬼が出てきた。
おそらく魔術師以外は開けてはいけない本だったのだろう。出てきた小さな悪鬼が何やら吠えてくる。
このまま放っておいたら呪いでもかけられるのだろうか。
妹紅は妖術で作った炎をその悪鬼の足元に広げてやった。
すると悪鬼は熱い床から逃れようと「あちゃっあちゃっ!」と奇妙なダンスを踊り始めた。
(私はこういうことしか、できないしな)
「おいおい、小動物をいじめてやるなよ」
「ん、ああ。魔理沙か」
後ろから声をかけられて誰かと思えば、表で弾幕ごっこをしていたはずの魔理沙だった。
いつの間に図書館に入ってきたのだろうか。
「弾幕ごっこしてたんじゃ?」
「ああ、適当に切り上げて入ってきたぜ。中国は今頃……昼寝でもしてるんじゃないか?」
その昼寝が果たして自発的なのか魔理沙の攻撃によるものなのか。まあ、どちらでもいい、と妹紅は呪いの本を閉じた。
小さな鬼はそれだけでたちまち消えてしまった。
「で、妹紅は何してたんだ? 小動物で憂さ晴らしか?」
「別に。暇だったから適当に本を見てただけ」
「ふーん。○○は?」
「魔法使いさんと談笑中」
「ああ、なるほど。○○とパチュリーが仲良く話してるのを見るのが嫌になったんだな?」
「別にそういうわけじゃ……」
本を棚に戻しつつ、妹紅は顔を俯けて小声で呟く。
魔理沙の言っていることは当たらからずも遠からず。実際、あの場所にいるのはなんとなく嫌だった。
そんなこちらの心なんてお見通しなのだろう、魔理沙はニヤつき顔をやめない。
「なあ、今日はどうしてまた○○とお前がこの図書館に来たんだ?」
「○○はこの図書館の資料を使いたいから、らしい。お前から教えられたって言ってけど」
「ああ、そういえばそんなことも話したかな……で、お前は?」
「……付き添い」
「へー」
魔理沙の『なんでも分かってます』という目が非常にうざったかった。
「……なんか文句ある?」
「いーや。まあ、多分お前のことだから、『○○が1人で紅魔館に行くなんて危ない! か弱い○○は私が守ってやらなきゃ!』とでも思ったんだろうなー、と」
「うっ」
「いや、待てよ。今日のお前、やけに小ぎれいな格好してるな。もしかして、最初は○○をデートに誘うつもりだったとか? けど○○に用事があったから仕方なくついてきたとか?」
「ち、ちがっ!」
「抜け駆けはんたーい」
「う、うるさい。抜け駆けでもなんでもなく、私はただ○○のことが心配なだけで、それに……」
「それに?」
「私は、こんなことぐらいしか役に立たないから……」
声色が非常に暗くなっているのだが自分でもよく分かった。
魔理沙も驚き顔でこちらを見ている。『妹紅がそんなこと言うなんて』という表情だ。
いや、確かにいつもの『藤原妹紅』と比べれば、今の自分は深いマイナス思考に陥っていた。
少し前までは、長く生きてきたせいか他人との関係に無頓着になり、慧音と会う時以外は1人でいる時間ばかりだったはずなのに。
今はたった1人の人間との付き合いにこんなにも翻弄され、思い悩んでいる。
そんなマイナス思考に引きずられるように、妹紅は言葉をつづる。
「○○ってさ、必死に小説書いてるよね。それこそ日常生活に支障が出るくらいに」
「そうだな。餓死しそうになるぐらいだしな」
「そんなあいつを見てるとさ、なんだか手伝いたくなるんだ。応援したくなる。○○なら、きっとすごい小説を書くんじゃないかって」
「……ほうほう」
「けど、私は慧音とかあの魔法使いみたいに、小説関係で役に立つことなんてない」
俯いたままポツリポツリと呟く妹紅。
魔理沙は相槌を打つのをやめ、じっと耳を傾けている。
「それでも、なんとか○○の役に立ちたい」
「……」
「だから、せめてあいつが健康で無事に生きていられるようにって」
「……なるほどな」
魔理沙は納得したように頷いた。
「お前はほんと好きな相手に尽くすタイプだよなあ」
「な、す、好きなって」
「けどまあ、あれだ。ちょっと無理しすぎてる気がするな」
魔理沙は唐突に真顔になる。
妹紅はその様子に驚き、思わず口を閉じた。
真顔のまま、魔理沙は妹紅の隣に立った。2人して本棚に向かっている形になった。
「役に立つとか立たないとか、そんなことよりもだ」
魔理沙の呟きに引かれるように、妹紅はゆっくりと横を向く。魔理沙は真剣な顔で書棚の本の表紙を撫でていた。
「大事なのは、一緒にいて楽しいか楽しくないか、だぜ?」
魔理沙の右手がゆっくりと本を引き抜きにかかる。
左手には、本なんていくらでも入りそうな白い布袋があった。
「応援したいっていう健気な気持ちを否定するわけじゃないがな、相手の役に立たないからってそこまで悩むもんでもない」
「……」
「お前と○○が、互いに分かり合って、楽しく過ごすことができる。それが一番大切なんじゃないか? その上で○○を助けたいなら助ければいいんだ。
そのままだとお前ばっかりが辛い思いをするだけだぜ? まるでダメ男に引っかかる女、みたいな感じだ」
「○○はダメ男じゃない」
「そんなの分かってるぜ。問題はそこじゃなくて、お前はもっと○○と気持ちを分かち合って、楽しく過ごすことも考えるべきだってことだ。
無理してあいつを支えてるよりも、互いに互いを支え合う仲の方が、なんか幸せっぽいだろ」
本をどんどんと白い袋に入れていく魔理沙。
「……目の前で泥棒行為をしてる人間の言う台詞じゃない」
「泥棒じゃないぜ? ただ借りるだけだぜ?」
そう言い訳しながらも、ぽいぽいと本を袋に詰めていく魔理沙。
せっかく今の言葉に感銘を受けそうになったというのに、この犯罪行為で全て台無しだ。
「はぁ……けどまあ、ありがと」
「うん?」
「少し気が楽になったよ」
これは嘘ではない。魔理沙の言葉は、肩に重く圧し掛かっていた荷物をすっと取り除いてくれた。
自分は○○の役に立たないという自己嫌悪は、多少薄れた。
「いいさ。ライバルが強くないと、こっちも張り合いがないからな」
ニカリと笑う魔理沙は、相変わらずそこらへんの本を適当に袋の中に詰め込んでいる。
ライバル、という言葉に妹紅は多少対抗心を燃やしかけるが、それ以上に魔理沙への感謝の思いの方が強かった。
魔理沙はこう見えて、けっこう気配り屋だというのがよく実感できる。
だからこそ、色々な人・悪魔・妖怪に人気があるのだろう……あけすけな性格が災いして、トラブルメーカーになることも多々あるが。
「あっ! いたーっ!!」
「どわ!」
魔理沙の身体が一瞬で横から消えた。
いや、違う。何かが彼女の身体に突っ込んできて、そのまま遠くへと突き飛ばされてしまったのだ。
その先にはちょうど本を読むためのテーブルがあり、魔理沙と謎の物体はもつれあいながらテーブルの足に激突していた。
「いてて……」
「魔理沙! 遊ぼっ!」
「なんだ、フランかよ。あのな、出会い頭にタックルするなって、いつも言ってるだろ」
したたかにぶつけた自分の頭をさする魔理沙の胸の中には、1人の小さな女の子がいた。
小柄な身体に金色の髪。ドレスのような綺麗な洋服に、レースのついた帽子。
そして一際目を引くのは、その背中から伸びる、色とりどりの宝石を散りばめたかのような翼。
妖気で分かる。この子は明らかに吸血鬼だった。
「えー、けど私、魔理沙を見つけたのが嬉しかったから……」
女の子は大げさなまでにしゅんっと寂しそうな顔をする。
だがその内に秘められた妖気は尋常ではない。女の子らしい表情とのギャップがあまりに激しかった。
魔理沙は女の子の頭を撫で、優しい笑顔を浮かべた。
「だったら、普通に声かけてくれればいいんだぜ? 私は逃げやしないんだから」
「分かった! じゃあ、遊ぼ!」
無邪気に笑う女の子。どうやら魔理沙に相当なついているようだ。
「あー、けどなあ、私は本を物色するので忙しいし……」
「えー! 遊ぼうよー! 弾幕ごっこしよ!」
「いやいや、弾幕ごっこはさっき中国としてきたばっかだからな。私よりは……おっ」
魔理沙がこちらに視線を移した。
どうにも嫌な予感がする。
「フラン、弾幕ごっこするなら、いい相手がいるぞ」
唐突にこちらを指差す魔理沙。女の子はそれに従い、その瞳をまっすぐ投げかけてきた。
「お姉ちゃん、誰ー?」
「こいつは藤原妹紅って言うんだ」
「おい、魔理沙、いったい何を……」
するつもりだと言いかけた所で、突然女の子がその目から強烈な妖気を浴びせてきたため、妹紅は思わずぞくりと背筋を震わせた。
似ている。「あの時」に対峙した吸血鬼の少女と、同じぐらいに強大な力を浴びせられている。
不死身の身体ですら、一抹の恐怖を覚えてしまうほどに。
「……で、魔理沙、その子は誰?」
妹紅は妖気に押し負けないように腹の底から声を出した。
女の子が驚いた目でこちらを見つめてくる。自分の妖気にひるまなかったことに驚いているのだろうか。
舐めるな、と身体の底で力を煮えたぎらせる妹紅。このぐらいの妖気で逃げ出すほど、弱くはないつもりだった。
魔理沙はそんな自分達の様子を、さも楽しそうに見物しながら質問に答える。
「ああ、こいつはな、この館の主人の妹で」
「フランって言うの」
ニコリと笑った少女。かわいらしい仕草だが、まだその目からは威圧感をばんばん飛ばしてくる。
妹紅はまっすぐその目を見返してやった。
「……ん、そうか。フラン、とりあえず、その馬鹿でかい妖気を引っ込めて喋ってくれ」
「えー? 怖いのー?」
「身体が勝手に反応するんだ。図書館の本を燃やすのはさすがにまずい」
「おおっと、それは困るぜ。フラン、やめとけ」
「はーい」
魔理沙の言うことは素直に聞くフラン。空気がふっと軽くなり、妹紅も緊張気味だった肩を下ろした。
「で、お姉ちゃんが遊んでくれるのー?」
「遊ぶって……」
先ほどの言葉を聞く限り、この子にとっての遊びは弾幕ごっこらしいじゃないか。
あまり無駄に戦ったりはしたくない、と妹紅はため息をつくが。
「いいじゃないか、妹紅。こんなかわいい女の子が頼んでるんだ。少し遊んでやれ」
「お、おい、魔理沙、押すなって」
魔理沙に背中を押され、図書館の出口から館の方へ。
吸血鬼の少女は「やったー!」とはしゃぎながら、後ろをついてくる。
どうしたものか、と妹紅は首を傾げるが、暇であるのは間違いないし、このまま図書館にいてもつまらない。
○○には保険をかけているので大丈夫だろうし……万が一何かあったら、すぐに飛んでくればいい。
先ほどまでのもやもやを吹き飛ばす意味も含めて、ここは思いっきり弾幕ごっこでもしてやろう。
そんなことを考えながら、魔理沙とフランに背中を押されて館の方へと向かう。
それが面倒ごとの始まりだと気付くのは、数十分後のことなのだった。
※
「ふぅ、こんな所かしら」
パタンと本を閉じたのはパチュリー。
その傍には数多くの本が積み上げられており、今にも崩れ落ちそうになっていた。
「ありがとうございます。これで小説の方はなんとかなりそうです」
愛用のメモ帳を懐にしまっているのは○○。
必要な情報を入手することができた満足感からか、とてもほくほく顔だった。
○○が今日必要としていた資料は、主に悪魔や魔界の生活について書かれたものだった。
しかし、人里にはあまり資料はなく、慧音さんもあまり詳しく知らなかった。
そうしてひどく困っていた所、魔理沙から『良い図書館がある』と教えられ、ここを紹介してもらったのだ。
実際、この図書館はすごい。魔法や悪魔関連のものを中心に、蔵書量が半端ではない。
もしかしたら、外の世界の国立国会図書館(東京にある。日本最大の図書館)よりも多いかもしれない。
もちろん、魔法・悪魔関連だけではなく、一般の資料や学術論文、果ては外の世界の小説まで集められており、大抵の資料はここにあるのではないかと思ってしまう。
ただまあ、そんな蔵書量よりももっとすごいのは、図書館の主であるパチュリーと、もう1人司書の女性なのだが……
「どうぞ、紅茶ですよ」
「あ、はい。どうもありがとうございます」
横からティーカップに淹れられた紅茶を差し出してくれたのは、この図書館の司書をしているらしい赤い髪の女性。
背中に小さな黒い翼を持っており、『小悪魔』と名乗られた。
それが名前なのかと不思議に思っていたのだが、パチュリーも『こぁ』と略称で呼んでいるのでそれが名前なのだろう。
もしくは本当の名前を知られては不都合なことがあるのかもしれない。一応彼女も悪魔らしいので。
さて、このパチュリーと小悪魔の2人は、資料集めに快く協力してくれたのだが、
『こぁ、ソロモン72柱の最新の軍団構成が書かれた資料、確かあったわよね?』
『あ、はい。取ってきますね。それとお話を聞く限りでは、【大奥義書】も必要のようですね』
欲しい情報について少し尋ねただけで、2人は即座に何の資料が必要か思い当たるらしく、1分もしない内に机の上は本で一杯になってしまった。
これが不思議でしょうがなかった。○○が見た限り、図書館の書棚は整理整頓がされていない。1つの棚に置かれている本のジャンルはばらばらだし、番号の振り分けもされていない。
だというのにこの2人は、何の資料がどこにあるのか全て記憶しているようで、迷わず目当ての本を探し出してくるのだから、脱帽ものだ。
この図書館をずっと利用できれば、きっと小説の資料に事欠くことはないだろう。
「いいなあ、この図書館」
紅茶を口に含みつつ、○○はポツリと呟いた。
「なに?」
「あ、すみません、口に出てました?」
本から顔を上げたパチュリーが訝しげな顔をしている。
その後ろで控えている小悪魔も不思議そうに首を傾げていた。
思ったことを言葉にするような癖はないはずだが、と○○は苦笑した。
「いえ、この図書館って本当に便利で、これからもまた資料が必要になった時に利用できたらな、と」
「別にいいわよ」
再び本に視線を落としたパチュリーが、当然のように答えた。
まさかこんなにも気楽に許可されるとは思わず、○○は驚いてしまう。
少し話しただけで分かったのだが、パチュリーは基本的に騒がしさを嫌う。
資料集めをしている途中も、小悪魔がドタドタと大きな足音で傍を通る度にぎろりと睨みつけ、
『静かに』
と穏やかながらも怒気のこもった声で一喝していた。
おそらく、自分のテリトリーである図書館を荒らす者が大嫌いなのだろう。
そんなパチュリーが、こうも簡単に部外者の利用を許可してくれるとは。
○○のその驚きを感じ取ったのか、パチュリーは本を読みながら話を続ける。
「あなたはここの本を有意義に使ってくれそうだし」
「それに」とパチュリーは小さく繋げ、
「あなたには良い小説を書いて欲しいわ、私が読むために」
ぴくり、と○○の肩が揺れた。
幾分かの沈黙の後、○○は控えめな調子で口を開いた。
「……俺の小説って面白いですか?」
「面白いと思うわ」
「どの辺りがですか?」
「気になるの?」
パチュリーが顔を上げて、○○の顔をじっと見つめた。
人間の寿命以上に長く生きている魔法使いの彼女の瞳は、まるで全てを見通しているかのようだった。
○○は1つ間を置き、彼女の瞳を見返しながら答える。
「気になりますよ。たかが俺ごときの書いた小説を、魔法使いのパチュリーさんにも楽しく読んでもらえてるのか、とか」
「……そうね」
パチュリーが本を閉じ、紅茶を一口。
「私は、人間じゃないわ」
「魔法使いという奴ですよね」
「そうよ。すでに種族自体が違ってる。けど、心の作りは人間に限りなく近いと言ってもいいわ。
だからでしょうね。魔法書以外でも面白いと思うのよ。人間がその心を砕き、1つ1つの言葉に己自身を込めて形として残した、『本』という存在を、ね」
愛しそうに手に持つ本を撫でるパチュリー。
「少なくとも、あなたの書いた小説は中途半端ではない。己を込めようとする真剣さが伝わってくるわ。だからこそ私を面白くさせてくれるのよ」
「……俺が書いてるのって、作り物のお話ですよ」
「フィクションだからって、あなた自身がそこに込められていないとでも? いえ、フィクションだからこそ、あなたは自由に世界を描けるはずよ」
その真剣な眼差しに対し、○○は黙ってぽりぽりと頭を掻くことしかできなかった。
彼女の言葉を否定しているわけではない。それどころか、あまりにも的確に自分の文章に対する姿勢を言い当てられてしまい、戸惑ってしまったのだ。
パチュリーはそんな○○の顔を見た後、再び本を開いた。
「とにかく、マナーさえ守ってくれるのならいつでもここに来なさい。こぁも好きに使ってくれていいわ」
「ぱ、パチュリー様、なんだかそれって卑猥な響きがします」
「何言ってるのよ、あなたは」
顔を赤くして身体をくねくねさせている小悪魔に、パチュリーは冷たい視線を浴びせる。面白い2人だ。
そんな彼女らの様子を微笑ましく見つめつつ、○○が口にしたのは、
「ありがとうございます」
図書館を使わせてくれることと、小説への姿勢を理解してくれていることの、両方に対する心の底からのお礼だった。
パチュリーはそれを聞き、ふと優しく微笑んだ。
ここに来て初めて見せた笑みだった。
「いいのよ。その代わり、新しく本を出したら、1冊だけでもいいからここに送ってちょうだい」
「それはもちろん。さっそく来月出す予定のものを近々送ります」
「ふふふ、それは楽しみだわ。ああ、けど、そうね。頻繁にここに来るなら、私だけじゃなくレミィにも一度話しておいた方がいいかもしれない」
レミィ。聞きなれない名前だった。
「どなたですか?」
「レミリア・スカーレット。紅魔館の主よ。一応、この図書館は紅魔館の所有物の1つで、私はレミィの客人という扱いになってるのよ」
「そうですか……それなら一度挨拶をして、度々訪れることの許可を頂いた方がいいですね。うーん」
腕を組み、紅魔館の主人だという吸血鬼レミリア・スカーレットとどう顔を会わせるか悩み始める○○。
危機感の薄い彼にも、さすがに相手が吸血鬼とあっては、粗相のないようにお目通りしなくては、と考えるだけの常識はある。
ただし、同時に『仲良くなれたら吸血鬼について色々聞いてみたい』という好奇心も大きく持ち上がっているのだが。
「では、一度レミリアさんに会ってみたいと思います。けど、誰に言えば……」
「私が、何か?」
突然の横からの声に○○達は驚く。
いつの間にか、小さな少女が書棚の間に立っていたのだ。
「レミィ、珍しいわね、ここに来るなんて」
「暇だったから遊びに来ただけよ」
パチュリーと少女が親しげに言葉を交わしているのを見ると、どうやらこの少女が紅魔館の当主だというレミリアらしかった。
想像と違ってとても小さな女の子だったので、○○はとても驚いていた。
ピンクのかわいらしい服に整った顔。髪の毛は絹のように麗しい。
背中の小さな翼がなければ、まるで人間の女の子のようだ。
幻想郷とは、かくも女の子が人外の強者であることが多いのは何故だろうか。射命丸文しかり、風見幽香しかり。
「で、お前は誰か?」
○○へと向けられた鋭い視線。パチュリー相手とは違って、威厳たっぷりの声。
○○は多少緊張しながら、椅子から立ち上がって頭を下げた。
「これは申し遅れました。私は小説家の○○と申します」
「ほう……お前があの噂の」
「私をご存知で?」
「ああ。外の世界から来た物書きだろう? 私の屋敷でもお前の本を持っている者は多い。私自身はまだ読んだことはないがな」
優雅な動作で椅子に座り、小悪魔から出された紅茶を口に含むレミリア・スカーレット。
確かにこれは、何百年も生きている吸血鬼にふさわしい威厳だった。
「そうか、そういえば人間が図書館を利用するという報告を受けていたかな。それはお前のことだったか」
「そうよ、レミィ。彼はこれからもここに来ることが多くなりそうだわ。できれば、訪れることの許可をもらいたいのだけど」
「それぐらいは構わない。パチェが許すのなら、私が反対する理由もない」
許可を貰えたことが嬉しく、○○は再度頭を下げた。
「ありがとうございます」
「私は許可を出しただけだ。そこまで感謝される理由もない。頭を上げろ」
彼女の言葉に従い、頭を上げると、レミリアはパチュリーの持っている原稿用紙に視線を移していた。
それは○○が今日持ってきた短篇小説だ。
「パチェ、こいつの書いた小説はそこまで面白い?」
「ええ。面白いわ。よければ、読んでみる?」
差し出された原稿用紙を、レミリアは興味深そうに受け取った。
一度ちらりと○○の方を見たレミリアは、しかしすぐに原稿用紙に目を落とし、そこに書かれた文章を読み始める。
まさか当主さんにも小説を読んでもらえるとは。
○○は嫌でも心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。
※
「あはははは! 楽しい! 楽しいよお姉ちゃん!」
「ああ、もう! 面倒くさい奴!」
ここは紅魔館の地下室。
フランドールの自室とはまた別の、自由に空が飛べる程度の広さを持ち、さらに壁にかけられた拷問道具や安楽椅子が良いアクセントとなっている、素敵な部屋。
ここでは今、禁忌「グランベリートラップ」と虚人「ウー」という2つのスペルカードの弾幕がぶつかり合っている。
「おー、これはすごい」
部屋の片隅にて、魔理沙は結界の中でその弾幕ごっこを見学していた。
様々な色の弾幕と赤い炎が混じり合っている今のこの部屋の様は、安全な場所から見ているととても綺麗で、弾幕ごっこの本質を表しているかのようだった。
「あははは! あははは!」
フランは先ほどから笑いが止まらないらしく、とても楽しそうに部屋の中を飛び回っている。
本気で攻撃しても相手が倒れないのが久しぶりだからなのだろう。
嬉しさに任せて強烈な弾幕を今も張り続けている。
「ったく、こんなことなら遊んでやるんじゃなかった!」
それに対し妹紅は、地面に立って忌々しそうに舌打ちしつつ、フランの弾幕に対抗する炎を放出している。
まさか目の前の少女がここまで強いとは思わなかったのだろう。先ほどからしきりに「面倒くさい」を連発していた。
ただ、弾幕ごっこで手を抜いてはおらず、決してフランの本気にもひけを取ってはいない。
この戦いが開始して、すでに30分以上経っている。通常の弾幕ごっこと比べればいささか長い。
2人の能力はそれぞれ「ありとあらゆるものを破壊する程度の能力」と「老いることも死ぬこともない程度の能力」だ。
破壊と不変。ほぼ正反対の能力を持つ2人が戦っては、なかなか決着がつかないのか?
いや、弾幕ごっこに能力の有無は関係ない。単純に2人の実力が拮抗しているだけなのだろう。
「もしくは妹紅が適当にあしらってるのかねえ。まあ、楽しそうで何よりだ」
魔理沙は持参した水筒でお茶を飲みつつ、弾幕ごっこという花火を鑑賞しつづけるのだった。
※
レミリアが小説を読み始めてから数十分経った。
図書館の中は不気味なまでに静まりかえっており、レミリアが原稿用紙をめくる音と時折小悪魔が紅茶を淹れる音以外に物音ひとつしない。
○○が緊張した面持ちで待つ中、ようやくレミリアは最後の1枚を読み終えた。
「……」
「レミィ、どう?」
「……ま、まあ、たかが人間の書いたもの。私に感銘を与えるはずもない」
原稿用紙を机の上に放り投げ、そう一蹴したレミリア。
やっぱりダメか、と○○は気落ちしそうになったが、その前にパチュリーが「あらら」という暢気な声を出した。
「レミィ、嘘はいけないわ」
「な、何が」
「面白かったんでしょう? あなたの背中の翼がピクピク動く時は、嬉しかったり楽しかったりする時だもの」
「むっ……」
確かにレミリアの背中の黒い翼は、まるで小動物のように細かく動いていた。
自分の感情を言い当てられたレミリアは慌てて翼を折りたたむが、時すでに遅し。
パチュリーと小悪魔がニヤニヤ笑っている中、レミリアは赤い顔で「ま、まあまあね」とどもりながらも感想を述べてくれた。
「ありがとうございます」
○○は嬉しくなり、頭を下げて礼を言う。
対してレミリアは大仰に頷きを返すが、先ほどの威厳がどこか薄れてしまった気がした。
パチュリーも、手のかかる友達だ、とでも言いたげな笑みを浮かべている。
「レミィ、他にも妖怪と人間の恋物語を描いた小説もあるのだけど」
「うっ……な、なかなか面白そうね。後で見せてもらう」
「はいはい、小悪魔、用意しておいてね」
「はーい」
小悪魔がクスクス笑いながら1つの書棚の列へと消えていった。
一方でレミリアはからかわれていることに気付いたのか、コホン、と1つ咳をすると、気を取り直して○○に話しかける。
「○○、と言ったか」
「はい」
「小説の中で妖怪のことがかなり詳しく書かれているが、これはお前自身で調べたものなのか?」
「そうですね。人から伝え聞いたこともありますが、私はなるべく自分の目で見て感じたことを書きたいと思っているので、実際に会った人も多数います」
「ふむ……面白い」
レミリアは唇の端を持ち上げ、じろじろと○○の顔を眺め始める。
「○○」
「はい?」
「お前、人間だったな?」
「そうですよ」
「なのに、私が怖くないのか?」
「あーと……それはつまり、吸血鬼なのに怖くないのか、という意味ですか?」
「そうだ」
外見だけ見れば幼い少女だが、レミリアはまぎれもない吸血鬼。人間の血を吸う悪魔だ。
(張りぼてっぽいけれども)威厳もたっぷりあるし、普通なら怖がってもおかしくはないだろう。
しかし○○は、威厳は感じても恐怖は感じていなかった。
「そう、ですね。どうやら私にはそういう感覚が希薄みたいです。よく友人からも『もっと気をつけろ』と言われますし」
普段から慧音には「もっと妖怪に気をつけろ」と言われるし、以前花の妖怪に取材を申し込んだことが妹紅にばれた時は、何を考えているのかと大層怒られた。
だが、それでも○○は妖怪や幽霊と言った存在を頭ごなしに怖がることはしなかった。
問答無用で自分に危害を加えるものならまだしも、こうやって顔を突き合わして話をし、自分の本を読んでくれるような女の子を怖がる理由なんてないように思っていたのだ。
「……ふーん」
レミリアは大層興味深そうに○○の顔を見つめている。
あまりにもその視線がダイレクトに注がれるので、○○は気恥ずかしくなってきた。
レミリアは言うまでもなく美少女。こんなにもじろじろと顔を見られては恥ずかしくない方がおかしい。
「なら、これならどうかな?」
「え?」
レミリアが小さく呟いた瞬間、彼女の赤い瞳が一層怪しく輝いた。
※
「あー楽しい! よーし、そろそろ終わらせるよ!」
「はぁ……はいはい、終わろう終わろう」
地下室の弾幕ごっこは佳境を迎えていた。
軽く1時間は続いていたこの戦いだが、そろそろフランが満足し始めたのか、次の1発で終わらせようと提案してきたのだ。
妹紅がこれを受けない手はなく、彼女も適当なスペルカードを出して、攻撃に備えていた。
2人の様子を眺めながら、魔理沙はやれやれと腰を上げる。
これでようやく図書館に戻って本の収集を再開できそうだ。
さすがに1時間も弾幕を見ていれば、飽きる。
次の1発が終わったら試合終了のゴングでも鳴らすか、と魔理沙は見物していたが、
「行くよー!」
「よし、こ――ッ!」
妹紅がカードを出す姿勢のまま、急にあらぬ方向に視線を向けて、動きを止めてしまった。
その間もフランのスペルカードは発動を始める。
「レーヴァテインでやっちゃうよー!」
禁忌「レーヴァテイン」。
巨大な魔力の剣がフランの手から伸びている。これに直撃すれば、ただではすまないだろう。
妹紅は死なないとは言え、痛みは感じる。さすがに油断しすぎだ、と魔理沙は妹紅に声をかけようとするが、事態はさらに急変した。
「――くそ!!」
妹紅が懐に手を伸ばした次の瞬間、生まれる爆発と爆音。
「フェニックス再誕」――妹紅のラストワードのカードが突然発動し、レーヴァテインの刃はおろか、地下室の天井をも消しさる炎がのぼった。
結界の中にいる魔理沙ですら炎の熱気にあおられ、手で顔を覆わなくてはいけなかった。
「○○ー!!」
妹紅は何事かを叫ぶと、背中に不死鳥の翼を広げ、ついさっき空いた天井の穴から地上へと飛んでいってしまう。
炎はほったらかしたまま。まるで大火事のように部屋中を炎が包んでいる。
「ちっ、マスタースパーク!」
このまま炎を放っておくわけにもいかず、魔理沙は八卦炉を構え、地上への穴めがけてマスタースパークを放った。
巨大魔砲のエネルギーで起きた風によって、術者が消えて勢いの弱まった炎は途端に鎮まっていった。
「ふぅ……」
しばらくすると竜巻のような炎も収まり、魔理沙は結界を解いた。
地下室はものの見事に消し炭しか残っていなかった。
壁にかけられていた拷問道具の数々は溶けてなくなっている。
「うー、何よー。どうして消えちゃったのー」
フランだけは、洋服の端っこを焦がしているだけで無事だった。対戦相手がいなくなって少々不機嫌のようだが。
「大丈夫か、フラン」
「あ、魔理沙。お姉ちゃんはどこにいったの?」
「さあな。あの様子はただ事じゃないみたいだが……」
抱きついてくるフランの頭を撫でてやりつつ、魔理沙は妹紅の妙な行動について考えを及ばす。
「フェニックス再誕」は妹紅のラストワード。最終兵器だ。
その威力ゆえに、妹紅は滅多なことがなければこれを使うことはしない。
使うのはせいぜい輝夜との喧嘩の時か、彼女が本気の本気で弾幕ごっこをやる時ぐらいだ。
そんなカードを使わなくてはいけないほど、妹紅は切羽詰っていたのか。
思えば、彼女は最後に○○の名前を叫んでいた。となれば……
「そういえば、妹紅がいきなり動きを止めた時に見てたのって、図書館のある方向だったか……」
もしかしたら、図書館にいる○○に何か起こったのかもしれない。
だったらラストワードを使ったのも納得できるというもの。
妹紅は○○に関することになると見境がなくなる。時には暴走してしまうほどに。
その愛の力で○○の命の危機でも感じ取ったのか。
しかし、この紅魔館はそう簡単に客人の命を危険にさらす真似はしないはずだが……
「ま、いいか」
甘えてくるフランの喉を撫でつつ、魔理沙は妹紅に全てを任せることにした。
もし本当に○○の身に何かあったのなら、たとえ紅魔館でも全面戦争をしかける用意はあるが、いかんせんその可能性は限りなく低いように思える。
○○に危害を加える可能性が最も高いフラン(彼女は誰かれ構わず弾幕ごっこをけしかけるので)は今ここで猫のように自分に抱きついている。
他のメンツならせいぜい妖気をあてて脅かす程度のことしかしないだろう。
ここは、勇気を出して○○をデートに誘うつもりだった妹紅に、ひとつ花を持たせてやろうではないか。
どうやら○○への接し方に新たな道を見出しかけているらしいし、ライバルが強くなればなるほど戦いとは燃えるもの。
それがたとえ恋の戦いであっても、だ。
「ねーねー、今度は魔理沙と弾幕ごっこがしたい!」
「おいおい、さっきまで妹紅と遊んでたろ?」
「だってー、なんだか中途半端だったんだもん」
「仕方ない奴だぜ」
フランが図書館に行ったりすれば、事態は余計にややこしくなる。
妹紅のためにも一肌脱いでやることを決めた魔理沙は、八卦炉を取り出し、弾幕ごっこに興じるための準備に取り掛かるのだった。
※
レミリアにとってそれはほんの戯れでしかなかった。
外の世界から来たという小説家、こいつはどうにも妖怪を怖がっていない節がある。
妖怪とは人間の畏怖の対象だ。人間に怖がられてこその妖怪とも言える。
妖怪と人間とはそうであるべきだし、そのように世界は回っている。少なくとも幻想郷では。
だというのにこのように簡単に談笑されては、妖怪のプライドというものが刺激されてしまうのだ。
この小説家さんには、一度妖怪の怖さを知ってもらおう。
妖怪を怖がらない人間なんて、博麗の巫女、白黒、咲夜の3人で十分なのだから。
そんな思いつきで始めた戯れ。それは妖力のこもった視線を○○に浴びせるという単純なものだった。
吸血鬼の視線の力は半端ではない。そこらの人間など、ひとにらみで屈服させてしまうことができる。
少し力を込めれば、この人間を完全に自分の配下に置くことも可能だ。
ただ、そこまでするつもりはない。ちょっと脅かしてみるだけだ。
まあ……ちょっと加減を間違えて、自分に従順な人間を作ってみるのも面白いかもしれないが。
この男は面白い小説を書くし、命令して自分のための小説を書かせてみてもいいかもしれない。
そんな軽い気持ちで始めた戯れでしかなかった。
視線の効果は絶大で、真正面から受け止めた○○はその動きを止める。
もっとこれを続ければ、瞳孔がみるみる内に開き、顔色も悪くなっていくことだろう。
くくく、とレミリアは歪んだ笑みを浮かべる。
視界の端で、パチュリーが呆れた顔をしているが、まあ無視だ。
小悪魔も、指示された本を持ってくるや否や、妖力の余波を受けて怯えているが、関係ない。
今はこの戯れを楽しもう。
そうしてさらに妖力をこめようとした、その時だった。
「……っ!」
突然、○○から強大な力が発生したことで、レミリアは強くその顔を歪めた。
○○は間抜け面のまま動きを止めているというのに、その体からは水が溢れるかのように力が出始めたのだ。
その上、その力は吸血鬼の妖力をかき消してしまったではないか。
レミリアは自分の力が消されたことに驚き、パチュリーは本を閉じて○○を観察し、小悪魔は相変わらず怯えている。
「え、えーと、何かありました?」
暢気なことを言っている○○とは対照的に、その身体からは力が溢れ続けている。
図書館中を覆いかねないその力。
もはや視線に込めた妖力など届きそうもない。
なんだこれは。なにが起こっている
混乱するレミリアの目に、うっすらと赤い物体が映った。
○○の背中に、ぼんやりと浮かぶその赤い翼。
以前にも見たことがある、不死鳥の炎の翼だった。
「○○さん、やめなさい」
パチュリーが眉をひそめて咎めるのも当たり前だろう。
その炎の翼は、今でこそまだ実体化していないが、このまま力を発し続ければ、あらゆるものを燃やす本物の炎になる。
図書館の中でそんなものを起こされては致命的だ。
「な、なにがですか? というか皆さん、何にそんな驚いているんですか?」
これほどの力を背中から発しているというのに、○○は何も感じていないらしい。
逆に何が起こっているかわかっていない様子だ。彼にはこれを止めることができない。
その間にも、翼からはもはや熱気すら感じられるようになってきた。
「駄目だわ。レミィ、あなたの方からやめないと消えそうにない。お願い、本が燃えるわ」
「……ちっ」
このまま大惨事が起こることも望まないレミリアは、舌打ち混じりに視線に妖力をこめるのをやめた。
すると途端に不死鳥の翼は消えてしまい、図書館の中にこもっていた熱気も冷めていった。
ふぅ、とパチュリーが安堵の息をつく。幸いにも、本に被害はなさそうだった。
「えーと、いったい何が」
「○○さん、あっちの本棚に外の世界の本があるわ。あなたにも読めるものかもしれないから、見てきたら?」
「は、はあ」
「こぁ、案内してやって」
「は、はい!」
壁の隅で震えていた小悪魔は、パチュリーからの命令を受けるとすぐに立ち上がる。
そして足をがくがくと言わせたまま、「ど、どうぞ」と○○を別の場所に連れていく。
○○は不思議そうな顔をしていたが、外の世界の本と聞いて惹かれるものがあったのか、素直に小悪魔の後をついていった。
しばらくして○○と小悪魔の姿が完全に見えなくなると、パチュリーから口を開いた。
「レミィ、戯れがすぎるわ」
「……私のせいではないわ」
「何言ってるの。危うく本が燃えるところだったじゃない」
パチュリーの諫めに対し、レミリアは憮然とした表情を返す。
レミリアとしてはちょっとした遊びのつもりだったので、そこまで怒られる筋合いはないと思っていた。
だがパチュリーは「まったく」と怒りをおさめようとしない。
「彼の交友についてはあなたも知っているでしょう? 下手に手を出せば、火傷するわよ」
「……あれはやはり、あの娘の仕業なのね」
レミリアは先ほどの炎の翼について思い返す。
あれは以前にも見たことがあった。
いつだったか、竹林で肝試し大会をやった時に出会った不老不死の少女が、同じような翼を扱っていた。
彼女は元人間のくせにやたら強かった。吸血鬼と渡り合う存在なんてそうはないというのに。
その不老不死が小説家と懇意にしているというのは、有名な話だ。
天狗の裏新聞にもよく出てくるので、レミリアも知っていた。
「彼女、今日もここに来ているのよ。もうやめておきなさい」
「そうなの? 確かにそれなら、これ以上手を出しても面倒なだけね」
紅魔館に大火事を起こしたくもないレミリアは、素直のパチュリーの言うことに従うことにした。
ただ、あの人間にはどうも強烈に興味が惹かれてしまう。
面白い小説を書くだけではなく、あんな風に人外に守られているとは、と。
ただの人間のはずなのに。
「神の加護ならぬ、不死鳥の加護か。ふふふ、ますます面白いわね」
「レミィ……」
「別に今は何もしないわよ。面白い人間だなと思っただけ。ちょっと支配してみたいぐらいに、ね」
「人の恋路を邪魔すると、馬に蹴られるわよ」
「馬なんて吹き飛ばしてやるわ」
ふん、と笑ったレミリアは、パチュリーのため息をかけられても、これからどうやってあの小説家で暇つぶしをしてやろうかという「遊び」を画策するのであった。
※
妹紅が駆け足で図書館の中に入り(炎の翼を広げるのは自重した)、気配を辿って向かった先に、求める人物はいた。
「○○!」
「お、妹紅。どした?」
妹紅が慌てて駆け寄ると、○○は持っていた本から顔を上げ、朗らかな笑みを浮かべた。
妹紅はすかさず、○○の身体を上から下まで、じっと観察する。
その身体、精神共に何の異常も見られず、どうやら彼自身には何の危害も加えられなかったようだった。
「ふぅ……良かった」
「何が?」
「ん、なんでもない。ちょっとね」
妹紅は軽い笑みを浮かべながら○○の後ろに回り、その背中に張られている小さな紙の札をちらりと見る。
図書館まで飛んで来た理由……それは、この札を通して、○○に強い妖力が浴びせられたことを感じ取ったからだった。
この札は妹紅の妖術の1つ。札の中には強いエネルギーを込められており、何かのきっかけでそれを発散させるものだ。
妹紅は紅魔館に入る直前、○○の背中を強く叩いた。その時にこの札を貼り付けてやったのだった。
札は○○に何らかの危害が加えられると自動で発動し、○○を守る。
そのエネルギーは大抵の妖怪ならあしらえるぐらい強力だ。
大妖怪相手でも数分間は耐えられる作りで、その間に妹紅が○○を助けに行くという寸法であった。
(札が焼き切れてる……力を使ったのか)
今、その札は見事に燃え尽きており、ほとんど残っていない。
○○に何らかのアクシンデントがあったのは間違いないようで、妹紅の胸の内では怒りが沸々と湧き上がっていった。
もし○○に悪意を持って何かを行おうとした者がいたのなら、館ごと燃やしてしまいかねないほどの怒り。
「○○、何か変なことが――」「あ、妹紅、これ見て――」
ちょうど喋り始めが重なってしまい、妹紅と○○は互いに目を丸くして会話を中断した。
若干の沈黙と目配せが2人の間に交わされる。
「あ、先に」
「いや、妹紅から」
互いに譲り合う2人。
もう一度沈黙が訪れ、その次には――両者とも同時にぷっと吹き出した。
「じゃあ、俺から。この本さ、すごいぞ」
○○が手に持つ本の表紙を掲げる。そこにはよく分からないぐにゃぐにゃした文字が綴られていた。明らかに日本語ではない。
「アリストテレスの本なんだ! しかも外の世界ではもう残ってないやつで、もし外の世界に持ってったら歴史が変わるぞー」
「……読めるの?」
「古代ギリシャ語だから、ちょっと無理だな。名前と題名ぐらいしか分からない。誰か読める人いないかなあ」
相変わらず珍しい本には目がない○○。その目はキラキラと輝いている。
小説を書くだけではなく本の収集も行っている彼にとって、ここは宝の宝庫なのだろう。
「で、妹紅は何?」
「いや、私は……何でもない、ほんとに」
いつも通りの暢気な笑顔を見ていると、なんだか怒りが萎えてきた。
特段彼に被害があったわけでもないし、これからもっと注意すればいいだけ。そう自分の気持ちに見切りがつけられた。
○○はそうか、と納得してくれたようだった。
「まあ、いいけど。にしても、妹紅、その格好は」
「え?」
少し冷静になった妹紅は、そこで初めて自分の格好に考えが及んだ。
よく自分の身体を見てみると、あの吸血鬼の妹との弾幕ごっこのせいで、服が所々破けており、すかしつけていた髪もぼさぼさになっている。
昼まではあんなにめかしこんでいたというのに……なんと汚らしい格好だろうか。
「……いや、これは、その」
こんな格好で○○の前に立ちたくない。
そんな羞恥心と共に、妹紅は○○に背中を向ける。
「誰かと遊んでたのか?」
「まあ……吸血鬼の妹とかいうのと」
「そっか。元気があるのはいいことだ」
頭に○○の手がポンッと置かれる。
その感触に思わず頬が緩みそうになるが、すぐに自分の髪の惨状を思い出し、顔を赤くした。
「ま、○○。今、私の髪ってすごく汚れてるからっ」
「ん? そんなことないぞ。いつも通りに綺麗な髪だ」
「う、うぅ」
全く、○○はこういう台詞を素で吐いてくるからたちが悪い。
本人は少し可愛がってるだけのつもりだろうが、撫でられている側は心臓がバクバク言っていることに気付いていないのだ。
(けどそんな○○だからこそ、私は……)
妹紅は先ほど魔理沙と行った会話を思い返す。
ただ支えるだけではなく。
相手の役に立ちたいと思うだけではなく。
互いに互いを支え合えるようなそんな関係に、いつかはなりたい。
心地よい手の感触に目を細めながら、妹紅は心の内でそっと決意を固めるのであった。
※
「今日はありがとうございました」
資料集めも終了し、太陽が沈んだ頃、ようやく○○と妹紅は紅魔館からおいとますることとなった。
館の扉の前には案内役の咲夜と荷物持ちの小悪魔、そして主のレミリアが直々に見送ってくれた。
「では、どうぞ。返却はいつでも結構ですので」
「ありがとうございます、小悪魔さん」
小悪魔から必要な資料が入ったカバンを渡される。なかなかの量で、ずっしりと手に重い。
返却期限はなし、というのはここにいないパチュリーが許してくれたこと。小説を書く上で必要になるからと配慮してくれたのだ。親切なことこの上ない。
ちなみにパチュリーは今も図書館で本を読み続けている。見送りはそこで済ませた。
次にレミリアが一歩前に出て、尊大な顔で一言。
「また来なさい。今度はお茶会に招いてやるわ」
「ああ、それはありがとうございます。私もいろいろお話したいと思いますので、ってイテテテ」
話をしている途中で妹紅が○○の腕を引っ張り出した。
彼女はレミリアの顔を見た時からやけに機嫌が悪い。
「早く出よう。ここにいると○○が汚れる」
「失礼ね。咲夜がちゃんと掃除してるわ」
「……ロリ悪魔」
「ボロボロの格好してる女が悪口を言っても、痛くもかゆくもない」
なんだか妹紅とレミリアが目線で火花を散らしている。この2人、初対面ではないのだろうか。やけに仲が悪い。
2人に挟まれている○○としては、どうにも居心地が悪かった。
「○○様」
「あ、はい、十六夜さん」
「咲夜で結構です。○○様はお嬢様のお気に入りになられたようですので」
ニコリと笑うメイド長の十六夜咲夜。その手には取っ手のついた小さな紙の箱があった。
「これはお土産です。中身は洋菓子ですので」
「あ、これはどうもありがとうございます。こんな、いたせりつくせりで……」
「お構いなく。土産を用意せよと命じられたのはお嬢様です。お礼でしたらどうぞお嬢様に」
さりげなく主を立てることも忘れない咲夜。まさしくメイドの鑑だ。惚れ惚れとしてしまう。
ここまでメイド服の似合う女性はそうはいないのではないだろうか。
○○が咲夜のメイドとしての作法に目を奪われていると、
「……○○!」
「あ、な、なんだ?」
「帰ろう!」
妹紅が頬を膨らまして、さらに強く腕を引っ張ってきた。
その力に逆らえるわけもなく、○○は引きずられるかのようにして紅魔館の門まで歩いていく。
「また来てくださいねー」
「どうせ来る運命にあるのよ」
小悪魔が手を振り、レミリアが「分かってます」とでも言いたげに頷きを繰り返している。
○○が彼女らに手を振り返すと、妹紅はさらに強く腕を引っ張った。
「まったく、○○は無防備すぎる」
「はあ、なんだかよく分からないが……」
どうして妹紅が苛立っているのか理解できない○○だったが、ふと紅魔館の門に女性がいることに気付いた。
門番の美鈴だ。どうしたことか、生気の抜けた顔で門の前に立っていた。
「美鈴さん、どうしました?」
「あ、あなたは○○さん……いやあの、ちょっとヘマをしてしまいまして、今日は晩御飯抜きと咲夜さんに……」
所々ボロボロな美鈴は、トホホという顔で落胆のため息をついている。
そういえば、と○○は思い出す。確か館に入る前のことだったか、メイド長の咲夜が「魔理沙を止められなければ晩御飯抜き」とかなんとか言っていたか。
そういえば魔理沙はどこに行ったのだろうか。門の前で会ってからは姿を見せていない。
ただ、美鈴がこうやって罰を言い渡されているということは、きっと魔理沙も紅魔館の中に入ったに違いない。
遠くから何かが爆発する音が聞こえることに関係があるのか……まあ、ともかく今は目の前の紅い髪の女性が問題だ。こんなにも腹を空かせては不憫すぎる。
「お気の毒に……あっ、そうだ」
○○は、妹紅に掴まれた左腕でカバンの中を探る。
「これ、さっき咲夜さんにもらったお土産なんですが、量がけっこうあるんで、少しだけあげますよ。あ、もちろんメイド長さんに内緒ですからね」
そう言って、箱の中に入っていたお菓子を手渡す。
どうやらドーナツらしい。幻想郷ではあまり見ないお菓子だ。
それを受け取った美鈴は、一瞬ポカンと口を開けて呆けていたが、
「……あ、あうううう!」
すぐに表情を崩し、滝のような涙を流し始めてしまった。
彼女のあまりの反応に○○は思わず驚いてしまった。
「め、美鈴さん?」
「○○さん! このご恩は一生忘れません! 私で良ければ何でも力になりますので、いつでもお呼びください!」
「え、いや、たかがお菓子でそこまで」
「いーえ! なんでしたらあなた専属の門番になってもいいぐらいに感動しているのです!」
「俺の家、門なんてないのですが」
顔をこれでもかと近づけてくる美鈴に対し、○○は苦笑する。
美鈴の言葉は冗談の範疇を出ていない。感激しただけのことだ。
○○はそう判断して軽く笑みを返していたのだが、しかしそうは思っていない人が○○の隣に1人。
「……○○! 早く帰ろう!」
「も、妹紅、ひっぱるなって」
「○○さん! また会いましょう!」
「○○はもう会わない!」
ぶんぶん手を振る美鈴に、妹紅は荒い声を返す。
やたらめったら色々なフラグを立ててしまう○○に、妹紅は大層ご立腹。
こうして○○と妹紅の紅魔館訪問は幕を閉じるのであった。
新ろだ998
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慧音ルート2
「けーねせんせー、さよーならー」
「ああ、さようなら。また明日」
ある日の夕方。授業が終わった寺子屋。
教室を出て行く多くの子供達が、元気な挨拶と共に明るい笑顔で手を振り、帰路についていた。
そんな教え子達に対し、慧音は玄関で1人1人きちんと声をかけ、時には優しく微笑み、時には寄り道しないように注意をし、見送っていった。
「ふぅ。さて、明日の準備でもしておくか」
一通り子供達がいなくなると、慧音は大きく伸びをし、寺子屋の中へと戻っていった。
その頭の中では、ひっきりなしに仕事の組み立てが行われている。
授業が終わっても、教師としての仕事はまだまだある。試験の採点、授業日程の確認、参考資料の収集などなど、すぐに私的な時間に入るわけにはいかないものだ。
教師の仕事は好きでやってることなのだから、そこに不満があるわけではないが……
「私的な時間……ふむ」
教室で参考資料の確認を行っていた慧音はふと、最近遊びに時間を使ったことがあっただろうか? と自分のことを振り返ってみた。
先日の大工仕事の手伝いの時から、はてさて、遊びに行ったり、友人とおしゃべりをした時間はどれだけある?
答えは0。時間は全部仕事に消えていった。
しかし、それも仕方なかった。大工仕事の手伝いは思ったより寺子屋の仕事を圧迫していたため、それからしばらくは残務処理に追われる毎日だった。
ここ最近になってようやく平常通りに戻ったが、それでも教師としての仕事に集中していたため、遊びに行こうだなんて思いついたことすらない。
仕事仕事仕事、食事、睡眠、仕事仕事仕事……そんな日々が続いていた。
「なんとも、自分のことながら、面白みのない生活だ」
それが嫌なわけではないし、教師の仕事には誇りを持ってはいるが。
友人達とも長い間顔を合わせていない、むしろ合わせようともしない自分に、これでいいのか? と疑問を抱いてしまうのも確かだ。
「……たまには息抜きでもしてみるか」
慧音の頭に、人里離れた場所に済むあの青年の姿が思い浮かぶ。
彼ともしばらく話をしていない。あちらも小説の仕事が立て込んでいて忙しいらしく、最近は人里にも姿を見せていないとか。
その姿を瞼の裏の浮かべて、彼女はじわりと胸の奥が熱くなるのを感じた。
たまには……息抜き代わりに自分の思い人の顔を見に行くのも、精神衛生的に良いかもしれない。
思い立つと、すでに自分の足は外への扉へと向かっていた。
※
○○の家は竹林の傍にあった。
そこは本来人が住むような場所ではない。慧音のいる人里からも遠く、付近には妖怪の姿もちらほら見られる、少々危険な場所だ。
なのに、○○自身は『これぐらい静かな方がいい』と言って、頑なに住み続けている。始めは慧音も含めた周囲の者達がよく反対したものだ。
(まあ、今となってはあの家ほど安全な場所はないぐらいだが)
自分や妹紅、魔理沙、その他幻想郷の少女達が寄りつくようになってから、あの家は最近、妖怪達の間で『実力者が集う家』として有名になってきたらしい。
おかげで、危険な区域の中であの周辺だけがぽつんと『安全地帯』になっていて、阿求の本でも『特異な場所』として紹介されているとかいないとか。
さらに最近行った『建て替え』によって、対妖怪に関して言えば鉄壁の要塞と化している。
(それでも心配であることに変わりない……以前のように私の家に住めばいいというのに)
そこまで考えて、慧音は自分の考えの突飛さに顔を赤くしてしまった。
○○と一緒に住む? 朝起きればあの顔がすぐ目の前にある? 夜は一緒に酒盛り?
耐え切れる自信がない。1日で知恵熱を出してしまいそうだった。
出会った当初は一緒に住んでた頃もあるのに、今はもう恥ずかしくてできない。
それは彼に対する感情が色々変わっていったから……
「むー」
歩きながらも、顔を赤くしたりうろたえたりと、表情の変化がせわしない慧音。
人里を歩けば里人達に首を傾げられ、草原に出れば妖精達に笑われ、時には彼と一緒に住む場面を想像して恥ずかしさに気を失いそうになりながらも、彼女の歩む先は○○の家であった。
そしてようやく辿り着いた○○の家。
竹林の傍の、若干小さめな木造一軒屋。一人で住むには広いが、人が集まるには適さない場所。
その家の外に見知った顔がいて、慧音はおやと首を傾げた。
「妹紅?」
「あれ、慧音? 珍しいね」
藤原妹紅、慧音の友人であり、○○と浅からぬ縁を持つ少女。
家の扉に寄りかかってため息をついていた彼女は、慧音を見つけて驚いた顔をしている。
「仕事は? 最近忙しくなかったっけ」
「まあな。ようやく一段落したので、散歩がてらここに、な」
少し照れくさそうに答える慧音。
嘘は言っていない。息抜きがしたかったのは確かなのだ。
○○の顔が見たかった、とはなかなか一口に言えない。
妹紅は「そう……」と少し暗めの調子で呟いた。
その様子に、慧音は何かが起こっていることに感づいた。
「どうした?」
「いや……あ、慧音はもしかして、○○に会うつもりだった?」
「ああ。最近話していなかったからな……何かあったのか?」
尋ねると、妹紅は途端に口をへの字に曲げ、もんぺのポケットに手を入れて顔を俯けた。
憂いを帯びたその姿は、同姓ながら絵になる美しさを持っていて、思わずどきっとしてしまった。
妹紅は一瞬家の方に目を向ける。
「うーん、今日はやめといた方がいいよ」
「何がだ」
「○○に会うの。ちょっと……ね」
「彼に何かあったのか?」
妹紅のただ事ではない様子に、慧音の神経がぴりぴりと張り詰めていく。
何かよくないことが起こっている。そう感じられた。
「慧音は知らなかったっけ? もうすぐ○○の新しい本が発売されるんだけど、今日はそのせいで発作が……」
「発作!? 病気なのか!? まさか、危険な状態で面会謝絶……!」
「い、いや、違う違う。そういうのじゃなくって」
「なんだ、何があった。早く教えてくれ」
しどろもどろな妹紅にじれったくなる。
もし、○○の身体に何かあったのなら、今すぐ里の医者を……いや、永遠亭の医者がいい。彼女なら確実に治してくれるはず。
果物も用意し、○○が抱える仕事の都合をつけるために新聞記者と話をして、さらには妖精や妖怪がよりつかないように1日中見張りを……
そうして慧音が頭の中で着々と看病の段取りを立てていると、妹紅がようやく重い口を開いた。
「知らないのなら、一度見た方が早いかな……慧音」
「妹紅! まずは見張りのローテーションを決めるぞ!」
「へ?」
きょとんとする妹紅。その顔を見て、慧音は自分が先走ったことを自覚し、落ち着くために大きく息を吸い込んだ。
「こほん。すまない。なんだろうか」
「えーと、今から少しだけ家の扉を開けるから、一度覗いてみて。そしたらあいつに何が起こってるか分かるから」
「そ、そうか。分かった」
「じゃあ、いくよ」
さっそく妹紅が扉に手をかける。
慧音はごくりと喉を鳴らした。
いったい、○○に何が起こっているのか。
最近会っていなかった分、余計に心配してしまう。
(もし彼が不治の病にかかっていたとしても、私はいつまでも支え続けてみせるぞ……!)
新たな決意を抱くと、その扉は少しだけ開かれた。
(……? 暗いな。太陽は出ているのだが)
家の中はまるで夜のように暗かった。
窓にはめ板がされているらしい。何故だろうか。以前来た時はそんなものなかったはずだ。
扉の隙間から、目をこらしてよく見てみる。少しすると目が慣れてきて、若干部屋の様子が確認できた。
しかし、部屋の中には誰もいなかった。部屋自体は片付けられていて、よく散らかっている本達も全て壁の傍で積み上げられている。
また、部屋の隅に丸くて黒い空間ができていた。そこがまたやけに暗く、まるで宵闇の妖怪がいるかのようで、
「ん?」
違った。そこには確かに「誰か」がいた。
目に力を込めることで、ようやくそれが「人」であることに気がついた。
黒い髪、若干細めの身体、古い着流し。そうだ、○○だ。
しかし彼は今こちらに背中を向けてうずくまっており、その表情までは確認できない。
慧音の喉がもう一度鳴った。
それにしても暗い。暗すぎる。
部屋の暗さだけではない。彼の雰囲気の暗さが、いっそう太陽の光を遮ってしまっているように感じる。
「――だめだだめだだめだだめだだめだだめだ」
かすかに聞こえる彼の声。低く、鈍く、人の心の底を揺さぶる声色。
地獄の底の主でもまだかわいらしい声を出してくれるだろう。
その異様な光景に圧倒され、慧音の目は○○の背中に釘付けにされてしまった。
「これも駄文、これも駄文、これもこれもこれも」
○○が少しだけ身体の角度を変えてくれたおかげで、彼が何をしているかが分かった。
彼は本を読んでいた。何の本か分からないが、それを読み、一文一文を指先でなぞりながら、ぶつぶつと呟いている。
異様だった。異様すぎて言葉も出なかった。
一方で○○がとても苦しそうな顔をしているのにも気がついた。
蒼白で、思いつめた顔。今にも自分を殴り出しそうなほどの自己嫌悪に満ちている。
それに気付いた慧音は、彼の傍に行きたくなった。
しかし、その前に扉が閉められてしまった……慧音が動き出すのを見た妹紅が慌てて扉を閉めたのだ。
慧音と妹紅の間に沈黙が訪れた。
まるで家の中から出てきた暗い空気が2人にまで感染したかのようだった。
「妹紅」
慧音は呆然としながらも、妹紅の名を呼ぶ。
その一言に、慧音の疑問と困惑が一緒くたになっていた。
妹紅はそれに答えるように「うん」と頷いた。
「こういうこと。この状態の時は外に出ようとしないし、話しかけられてもまともな返事もないんだ」
あんな暗い○○は初めて見た。
いつもひょうひょうとして、何事にも穏やかに接し、優しさを忘れない○○。
そんな彼がどうしてああなるのだろうか。
「○○に何があったんだ」
慧音が問うと、妹紅は辛そうな顔をして、答えた。
「もうすぐ本が発売するって、言ったよね」
「ああ、知っている。久しぶりの長編だと、里の者達も楽しみにしていた」
「○○はさ、本が出る前になるといつもああなるんだ。特に発作のピークになると1日中家にこもって、部屋の隅っこでじっとしてる」
「……本を読んでいたが」
「あれは次に出る自分の本。ずっとあれを読んでてさ、自分の文章が下手だ下手だって嘆いてるんだ」
彼の顔に滲み出ていた自己嫌悪の感情。見間違いではなかった。
思い出せば、それだけで胸がずきずきと痛くなる。思い人の苦しそうな顔ほど、見ていて辛いものはない。
「いつも、なのか」
搾り出すように尋ねる。
「……うん」
妹紅が扉の真正面に立ち、じっと見つめる。その板の向こうにいる○○を見るかのように。
「今日は久々の長編のせいか、いつもよりひどいみたい」
「そうなのか……お前はここで何を?」
「あー、私はただ立ってるだけ、かな。こういう時はあんまり傍にいてほしくないらしくてさ。
けど、やっぱり心配だから、できるだけ近くにいとこうと思って……」
妹紅が照れくさそうに頬を掻く。
なんと健気な少女だろうか。思い人のことが心配だからと、長時間ここで立ち続けていたのだ。
言葉をかけるわけでもない、何か世話をするわけでもない。ただ近くにいるだけ。
ただそれだけのことなのに、妹紅の思いの強さがよく分かり、惚れ惚れとしてしまう。
だが、同時に嫉妬もした。
○○がいつもこんな風に苦しんでいることを、慧音はまるで知らなかった。
いや、妹紅以外に知る者はほとんどいないのではないだろうか。
きっと○○は周囲に隠していたはずだ、この『発作』のことを。
だが、妹紅は○○と仲が良く、彼の様子をよく見に来るからこそ、それをを知ることができた。
それだけ妹紅と○○は近しい関係であるとも言える。
慧音はその関係に嫉妬した。○○のことをよりよく知っている妹紅が羨ましいと思った。
そしてそんな嫉妬をする自分を嫌悪した。良き友人に対して何を考えているのか、と自分を叱咤した。
憧れと嫉妬、嫌悪感。その3つの感情を振り切るために、慧音は○○のことだけを考えるようにした。
○○はどうして落ち込み続けているのだろうか。自分の本が出ることが嫌なのか? つまり、自分の本に自信がないのか?
しかし、○○の書くものは面白い。それは人里での売れ行きや評判から言って確かだと言える。
なら、原因は本の評判とか売れ行きではない、別の何かなのか?
考えても、到底分からない。○○から直接話を聞きたかった。
「相談すれば回復したりしないのか?」
「全然、駄目。とにかく思考がマイナスになっちゃうらしくって、誰かと話をしても、したことに後悔するような具合だから。
『時間が経てば勝手に治るから、放っておくのが一番いい』って○○自身は言ってたけど」
「しかし、あれはあんまりだ。見ているだけでも辛い」
「……だね。こういう時、ただ長く生きてるだけの自分が嫌になる。どう励ませばいいかも分からないなんて、ほんと、私って役立たずで」
悔しそうに俯く妹紅。唇をかみしめ、自分の力の無さに嘆いている。
そんなに落ち込むことはないのに、と慧音は思った。彼女は十分魅力的だ……健気で、可憐で。
「……妹紅、○○の症状が移っているぞ」
しかしそれを直に言う雰囲気でもないので、慧音は彼女の肩に手を置き、励ます。
妹紅は「あはは」と気を取り直したかのように笑った。
「あ、そうだ。私、食べ物持ってくるよ。そろそろ夕方だし、慧音も一緒に食べない?」
「○○は?」
「あー、○○は今日1日何も食べないと思う。食べ物渡してもそのまま帰ってくるし」
「……そうか」
むぅ、と腕を組んで苦悶する慧音。
確か、こういうのを外の世界では『ひきこもり』と言うのだったか。
いや、『ひきこもり』は部屋から出ないで食べ物だけ食べるような存在だったか……どっちでもいい。
ともかく、そういう人を外に出すには、話し合いをしつつ、簡単なものでもいいから役割を与えるといいとか、なんとか。
○○から教えてもらった知識なのでどうも定かでない。
それに、○○の場合は一時的な症状――『発作』なので、やはり『ひきこもり』の対処方法でなんとかなるわけでもないだろう。
悩む慧音。妹紅も同じように考え込む。
互いに向かい合ってそれぞれ悩み続けていることが少しおかしくて、慧音は妹紅に向かってふっと笑いかけた。
お互い、思い人を前に辛くしている。同族哀れむとでも言うか、妙な親近感も生まれた。
妹紅もそうなのか、慧音の笑みに応ずるように肩をすくめた。
「ここで悩んでても仕方ない、かな?」
妹紅がそう言うと、慧音も同意した。
「そうだな。後々○○と話し合いをするなりしよう」
「だね。じゃ、私食べ物取ってくる」
「私も一緒に行こうか?」
「いいよ。それより、誰かが訪ねてきても中に入れないように、ここで立っててくれた方が助かる」
「分かった。しっかりとここで門番をしておこう」
「門番って中国娘じゃないんだから……それじゃ、頼んだから!」
妹紅が竹林へと元気良く走り出して行った。自分の家からでも食べ物を持ってくるのだろう。
慧音はそれを見送ると、「ふぅ」と息を吐いて家の壁によりかかった。
妹紅――彼女と話をするのも久しぶりだった。友人との会話はやはり心が穏やかになる。
不老不死でありながら、そこらの人間よりもはるかに人間らしく、人を思いやれる彼女は――大事な大事な友人だった。
今日の夕食は妹紅の手作りがいいかもしれない……いや、まあ、彼女は簡単な料理しか作れないが。
慧音は優しい笑みを浮かべる。
と、そこで。
――バタン
「ん?」
○○の家の中から、何かが倒れる音が聞こえた。
「……まさか!」
家の中にいるのは○○だけ。
嫌な予感がして、慧音はすかさず玄関の扉を開けた。
そこには案の定、床に倒れた○○がいたのだった。
※
「ん……んん」
「○○、起きたか?」
「あれ……けー、ねさん?」
あれから10分ほど経って。
○○は布団に寝かしつけられていた。
倒れている彼を見つけた慧音が、急いで寝床を用意し、彼を寝かせたのだ。
慧音は○○の頭に手をやり、熱がないか診る。
「身体の方はどうだ? 熱はないようだが」
「いえ……大丈夫ですが、その」
どうやら彼はただ気を失っただけのようで、身体には何の異常も見られなかった。
そこで慧音はひとまずほっと息をついた。
一方の○○は、まだ状況を把握し切れていないのか、きょとんとした顔で、傍にいる慧音を見ている。
「えと、これは」
「お前が倒れていたのでな。勝手ながら、あがらせてもらった」
「あー、そうですか。すみません、ご迷惑をおかけして」
○○は先ほどに比べて少し明るくなったようだった。言葉も通じるし、暗い雰囲気もマシになった。
ただ、慧音を見つめるその顔があまりにも申し訳なさそうにしていた。まるで大きな罪を犯した者が許しを乞うような表情だ。
「気にするな」
慧音はそんな○○の表情に胸を痛めながらも、一言だけ呟き、立ち上がった。
「台所、借りるからな」と告げ、茶葉の缶と急須を棚から出す。
布団から起き上がった○○が何かを言い出す前に、お茶を淹れる作業をパッパと済ませてしまった。
とんっ、と○○の前に温かいお茶が置かれる。
「食べ物が喉を通らないにしても、水分は取っておけ。また倒れてしまう」
「もしかして、このことを知って」
「ああ、妹紅から聞いた」
「そうですか……」
○○の表情が蔭る。
慧音はその顔を見て、また胸がずきりと痛んだ。
「もし、私がここにいるのがお前にとって辛いことなのなら、今すぐ出て行こう」
「いえ、大丈夫です……お茶、いただきます」
湯のみを取り、お茶を一口飲む○○と慧音。
それからの会話は一切なかった。○○は顔を俯けたまま動かず、慧音はそんな彼をじっと見つめるだけ。
行動も会話もない。ただ共にいるだけだった。
そんな時間が5分ほど続いた後、○○がゆっくりと口を開いた。
「慧音さん」
「うん?」
「俺って情けないですか?」
「どうしてそう思う」
「我ながら思うんです。ただ本を出すだけなのに、どうしてこんなびくびくしてるんだろうって」
「誰でも自分の努力の結果が出る前は、びくつくものだ」
「けれど、俺のあれは異常です。自分でも分かります。けど、どうしても不安になってしまって……」
○○はぎゅっと握りこぶしを作った。
「とにかく自信がないんです。自分の小説が、果たして皆に読まれるだろうか、本にされる価値があるだろうかって。
自分では面白いと思っていても、他人から見ればそうじゃないかもしれない。それが怖くて……」
「……」
「ははは、どうしてこうなったんでしょうね。多分、外の世界にいた時に酷評されたことが――」
「○○」
慧音は思わず○○の手を握り締めてしまった。そうせずにはいられなかった。
○○は話をしながら震えていた。顔は真っ青になり、呼吸も若干荒くなっていた。
そう、苦痛だ。苦痛の感情だけが彼の全身から感じられて、止めなければ彼が潰されてしまいそうに見えたのだ。
「話すのが辛いことまで話さなくていい。私に対して負い目を感じることもない」
○○はきっと、『世話になったから事情を話さなくてはいけない』という強迫観念に捕らわれている。
いきなり自分の恥部を告白してきたのはそのためだ。けれど、そんな風に考えて欲しくなかった。
「詳しい話を知らなくとも、私はお前を助けるさ。私にとってお前は、無条件で信じられる人間なのだから」
もし親子だったら、事情を知らなくても親は子を助けようとするだろう。
相手が恋人なら、どんなことがあっても恋人を信じたいと思うはず。
大切な人が苦しんでいれば、正しかろうと間違っていようと、相手を助けたいと思うものなのだ。
だから、辛いなら話さなくてもいい。
話してくれる気になった時でいい。
それまで待ってみせるから。
慧音の言葉にはそれらの思い、全てが込められていた。
その思いが伝わらないはずもなく、○○は一瞬呆けた表情をした後、段々と目を潤ませていった。
「……慧音さん。そんなこと言われたら、俺、泣いちゃいますよ」
「ほお、それは見てみたいものだ」
「嫌です、男の涙なんて恥ずかしいだけじゃないですか」
「男の涙に母性本能がくすぐられることもあるさ」
○○が笑いながら顔を背けたので、慧音も軽く笑って冗談を吐く。
これでお互いに気が晴れたのか、先ほどよりも随分と部屋の雰囲気が明るくなった。
また2人共がお茶を飲むだけの時間が過ぎる。
ただ、さっきよりは肩肘張らない、穏やかな時間だった。
「○○」
「はい」
「本当に辛いのなら、お前の過去を見えなくすることもできるぞ?」
『歴史を喰う』能力を使えば、過去をなかった事にするぐらい造作もないこと。
もし本当に○○がそれを望むのなら、慧音は惜しげもなく能力を使っていたことだろう。
○○の苦しみが和らぐのだったら、是非もない。
しかし慧音は同時にある確信も抱いていた。
「遠慮しておきます」
そしてその確信の通り、○○は提案を拒否した。
儚げな笑みを浮かべたその顔は、とても美しかった。
「申し出はすごく嬉しいですが……自分を省みて、自分を嫌いになるぐらいが、ちょうどいいですから」
「……そうか」
「過去を無理矢理消したら、それまで色々と悩んできたことが無駄になりますしね」
「だが、辛いだろう?」
「そりゃ、辛いです。けど、必要な辛さだと思います。
歴史と同じです。過去の出来事を知り、そこから学ぶことで前に進むことができる、ですよね」
「ああ、その通りだ。すまない、無粋な提案をした」
慧音は頭を下げながら、やはり○○は○○だと感じていた。
彼は自分のことをそのままに見つめられる強さを持っている。
そしてその強さを持って、先へ進めるだけの生命力がある。
そんな彼が過去をなかった事にするはずがない。
ああ、と慧音は感嘆した。その強さに自分は憧れているのだ。
「……なんだかこうしてると、慧音さんと一緒に住んでいた時のことを思い出しますね」
「ああ、お前が大工仕事で全身筋肉痛になった時と、状況が似ているな。あの時もお前を布団に寝かせたか」
「ははは、そんなこともありましたねえ。あの時からずっとそうなんですけど、なんだか俺、慧音さん相手だと、とても安らぎます。
人と一緒に住むのって、前は苦手だったんですけどね……慧音さんとなら大丈夫かもしれません」
「そ、そうか。それはその……光栄だな、うん」
図らずも○○の言葉は、家に来る時にしていた妄想を言い当てているようで、思わずドギマギしてしまった。
○○は「光栄?」と首を傾げている。
コホンッ、と気を取り直した慧音は、お茶の片付けを行いつつ、外を見た。そろそろ夕日も深まる時刻だった。
「もう妹紅も戻ってくるはずだが」
「え? 妹紅も来てたんですか?」
「ああ。外でずっと立っていたらしいな。今は食べ物を取りに行っている」
「そうだったんですか……妹紅にも迷惑かけてるなあ、ほんと。申し訳ないです」
「私もあいつも、好きでしていることだ。謝るより礼を言ってやれ」
「なるほど。なら、慧音さんにもお礼を言います。ありがとうございます」
「……ああ」
本当に礼を言われるとどうも照れくさくなり、慧音は洗い物に集中することで赤い顔を誤魔化した。
湯のみと急須、ついでに溜まっていた茶碗や皿も洗い、台所はすっきりと片付いた。
「そうだ、これから妹紅と夕食なんだが、○○も一緒に食べるか?」
ふと冗談混じりに○○へ呼びかけてみた。
彼の今の状態から考えて断られると分かっている誘いだった。彼はそんな和気藹々とできるような精神状態ではない。
だが、雰囲気を明るくするにはちょうどいいと思った。
○○のことを気にかけているというサインにもなる。要はちょっとした粉かけ。
だが、○○の答えは予想に反して、
「……ですね。ご一緒します」
「!」
「? どうかしましたか?」
「いや」
慧音は驚いていた。まさか○○が了承するとは思わなかった。
あの発作が起きれば、1日中何も食べずに過ごすはずだった○○。
それが今、こうして食事の誘いを受けてくれている。
(私と話をしたからだと思うのは、自惚れかな)
少なくとも、○○は自分の事を頼りにしてくれている。安心を覚えてくれている。
それだけで、今は十分。
いつか思いを通わせて、一緒に住めるようになれば。
そんな希望を慧音は抱くのであった。
新ろだ2-098
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魔理沙ルート2
霧雨魔理沙はとても良い友人だ。
傍若無人、唯我独尊を地で行くと思われがちだがそうではない。
どんなものにも縛らない自由さ、そしてその自由を貫くための強さ。
空を自由に駆け巡る鳥。それが霧雨魔理沙だ。
その奔放さにどれだけ自分は救われたことだろうか。
この魔法の森の奥深く、小さな家にこもりきった生活。
人付き合いが得意ではなかった自分は、外の世界に目を向けることをしなかった。
人形作りばかりの日々に寂しくなることはあっても、自分からは動けなかった。
勇気がなかったのだ。
けれど、霧雨魔理沙はそんな寂しさを一瞬にして晴らしてしまった。
彼女の奔放さは、私を囲んでいた壁を苦もなく壊してしまった。
私は外の世界に出ることができた。
それから訪れたドタバタが連続する毎日。弾幕ごっこやら異変やら、色々と巻き込まれた。
人里に連れてかれて人形劇を開かされたこともあった。
忙しくも楽しい日々。人形作り以外に楽しいことがあるなんて思わなかった。
人付き合いもするようになった。人里を訪れるようにもなった。魔理沙のおかげで色々と変わることができた。
もう一度言おう、そんな日々に連れ込んでくれた霧雨魔理沙は、とても良い友人だと。
そんな友人が悪い男に引っかかっているという噂を聞いた。
なんでも外の世界からの人間だとかで、幻想郷では小説家として有名らしい。
魔理沙に彼のことを直接尋ねてみると、彼女は顔を赤くして『あ、あいつは友達だって』と答えた。バレバレだった。
どうやら魔理沙がその男に特別な思いを抱いているのは確からしい。
では、この小説家とはいったいどんな人物なのか。
里の人間や知り合いにその男の評判を聞いてみたところ、こんな答えが返ってきた。
「真昼間に青い顔してふらふら歩いているのを見たことがある」(男A談)
「綺麗な女の子と一緒に茶屋で団子を食べてたよ。白髪の綺麗な子だったような。けど、他の子と一緒にいるとこもよく見るなあ」(男B談)
「あの方なら、慧音先生と『もし人里を襲うとしたらどうやるか』という話で盛り上がってましたよ」(女C談)
「変な人ー。けど本は面白いよー」(子供D談)
「竹林を散歩してたら、ガンガンッって音がしたウサ。何事かと思ったら、その男が竹に頭を打ちつけてたウサ。変な奴ウサ」(兎T談)
「本は売れてるはずなのに食生活悪そうなのよねえ。家もボロボロだし、何にお金使ってるのかしら」(巫女R談)
「普通に本を借りていくわ」(魔女P談)
これらの評判をまとめると小説家さんとは、
『真昼間からふらふらしている放蕩者で、(魔理沙も含めた)綺麗な女性をとっかえひっかえ侍らせている。
里を襲撃する計画も立てるような悪人だが、書いてる本は面白い。
自傷行為などの奇行も目立ち、金遣いは荒く、図書館で普通に本を借りる』
というような人物らしい。
……自分でまとめておいて何だが、よく分からない人物だ。
しかし、まともな男でないのは間違いないだろう。
さて、これから魔理沙が自分の家にやってくる。しかも件の男を連れて。
霧雨魔理沙は良い友人だ。本当に、大切な友人。
友人が変な男に引っかかっているとなればどうするか。
決まっている。説得して、なんとか離れさせるのだ。
ただ、会っていきなり『別れろ』なんて乱暴なことを言うつもりはない。
直接話をして、その男の人となりを見てからでも遅くはない。
魔理沙も『あいつは良い奴だ』と言っていた。周囲の評判と違うのが気になる。
まあ、並大抵の男では認めるつもりはないが。
さあ、今日は○○という男を見定めてやろうではないか。
「魔理沙は私が守ってやらないと!」
アリス・マーガトロイドは自宅の窓を勢いよく開け、澄んだ青空を見上げた。
家の中から外へと、紅茶の香りが流れ出ていた。
※
朝、魔理沙が突然家にやってきたのがそもそもの始まりだった、
『私の友達にアリスって奴がいて、そいつも魔法使いなんだ。
あいつの魔法もけっこう勉強になるからさ、一度会ってみたらどうだ? 私が紹介してやるよ』
と言って、俺を外に引っ張り出したのだ。
俺が了承する暇もなく無理矢理連れ出してしまうとは、さすが魔理沙、人の話を聞かない。
しかし、小説の執筆に行き詰まっていた今の俺にはちょうどいい息抜きになると思い、結局ついていくことにした。
今、俺は小さな船のような座席に押し込められている。
魔理沙の箒から紐で吊り下げられているこのお客様用座席、よく揺れる。結構怖い。
「なあ、魔理沙ー。まだなのかー?」
「んー、まだだなー。」
上にいる魔理沙と大声でやり取りする。
彼女は空を飛ぶことに集中しているのか、あまり身の入った言葉を返してくれない。
俺はやれやれと呟きながら、青色の濃い空を眺めてみた。
風を切り、雲の合間を縫って飛んでいるこの状況。
飛行機なんかよりも、よりリアルに空を飛んでいることが実感できた。
「……魔法なあ」
呟き、今空を飛んでいるこの状況を改めて振り返る。
この箒、魔法の力で飛んでいると思うと、とても不思議だった。
人2人を空に飛ばせるほどの揚力をどうしたらあの箒から出せるのか。
いや、そもそもエンジンも翼もないのにどうして空を飛べるのか。
それを可能にするのが『魔法』だと言われればそれまでだが、外の世界の常識しか持たない俺としては不思議なことこの上なかった。
訝りは驚嘆を呼び、驚嘆は好奇心を呼んだ。俺はこの不思議な魔法のことをもっと知りたいと思った。
そうして随分前から、俺は魔法の本を読むようになった。
魔理沙はそんな俺を手助けしてくれている。以前、魔法について学びたいと彼女に言ったからなのだろう。
家をよく訪れては、俺でもなんとか読めるという本を薦めてきたり、目の前で解説しながら本物の魔法を見せてくれたりする。
魔理沙の教え方は意外にも丁寧で、魔法のまの字も知らない俺に根気よくその仕組みを説明してくれた。
おかげで、今では魔力のなんたるかを多少理解できているし、簡単な術式なら読み解けるようになった。
ただし、俺自身が魔法を使えるかというと、そんなことはない。
そもそも、俺の身体には魔法を扱う源である魔力が微塵も存在しない。
魔理沙にも『○○が魔法? うーん、50年かけて煙草に火をつけるぐらいなら』と笑いながら言われた。
少し残念だが、まあ自分で使えるかどうかはさしたる問題ではない。
大事なのは魔法を理解できるかできないか、なのだから。
今回、アリス・マーガトロイドという魔法使いの家を訪れるのも、いわゆる『校外学習』みたいなものだった。
本の中にある知識は、現場ではどのように使われているのか。
理論と実践の間には明確な齟齬がある。それを埋めるために、実践の場、すなわち『校外』へと出る。
アリス嬢のお宅はそのための現場だった。
自然と心が浮き足立つ。新しい知識、新しい人との出会い。
とても楽しみだった。
「魔法の森が見えたぞー、もうすぐだぜー」
上からの声に促されて正面方向に目を移すと、そこには緑色の海が広がっていた。
魔法の森。幻想郷最大の森林地帯だ。
幻想郷の有名スポットの中でも1,2を争う知名度の高さで、『森』と言えば魔法の森を指すほど。
空から見ると、森の豊かさがよく分かる。人里の数倍はある広さに圧倒される。
外の世界で言う『樹海』に近いのではないだろうか。
俺はこの森の入り口から奥へは、あまり入ったことがなかった。
せいぜい森の入り口に居を構える『香霖堂』を訪れるか、森の中にある魔理沙の家を数度訪れたことがある程度だ。
なぜかというと、魔法の森には幻覚作用を持つキノコが数多く自生しており、それが少し危険だからだ。
キノコの胞子が普通の人間にはちょっと身体に悪いらしく、人によっては体調を崩してしまうのだとか。
また、森全体が放つ暗いオーラ、瘴気とでも言えばいいのか、それもまた人間に悪影響を及ぼす。
よって人里の人間はあまりこの森に入ろうとしない。
俺も慧音先生から『○○は身体が弱いからな。森に1人で行っては駄目だぞ。倒れてしまう』と釘を刺されている。
魔理沙の家に行った時も、一緒に魔理沙本人や妹紅がいた。彼女らが胞子や瘴気を近寄らせないようにしてくれるのだ。
一方、魔理沙やアリスといった魔法使いの面々は好んでこの森に住むことが多い。
なんでも森の中のキノコが魔法道具の素材として便利で、瘴気も魔力を高める道具になるとのことだ。
「よーし、このままアリスの家の近くまで行くぜ」
「おー」
アリスのお宅へは空から向かう予定だった。
森の中を歩くよりもこっちの方が安全だし、早いからだ。
空を行く箒。ゴンドラに揺られながら、緑のカーペットのような森を見下ろす。
このまま落ちたらどうなるだろうか。ふとそんなことを考え、まあ死んじゃうだろうなと軽く結論づけた。
怖くはなかった。それは上に魔理沙がいるからなのだろう。彼女のことは信頼している。自分の命を預けられるぐらいに。
(すごい景色だよなー)
空を飛ぶことを怖がるより、もっとこの広大な景色を楽しんでしまう。
風を感じながら空を飛べるなんてそうはない。
「お、見えたぞー」
しばらくすると、魔理沙が指差した方向にぽつんと白い一軒屋が見えた。
煙突の生えた洋風建築。1人で住むには少々大きめ。壁が真っ白で清潔な印象を与える、綺麗な家だった。
魔理沙の箒は徐々に高度を下げ、白い家の傍でゆっくりと地面に着陸した。
家の周囲だけ木が生えていない。居住用に土地を整備したのだろう。
俺はお客様用座席から降りると、改めて森の中をぐるりと見回した。
外から見る壮大な景色とは違い、森の中は暗い雰囲気に満ちていた。
日の光が地面まで届かないため、空気はじめじめしている。
地面に落ちた木の葉が湿気によって腐葉土と化し、地面を黒っぽく染め上げている。
この腐葉土を栄養にして、例の幻覚作用のあるキノコが生えるのだろう。
それらしい形をしたキノコが木々の下に生えているのが見受けられる。
少しだけ多めに空気を吸って吐いてみた。暗い森の中ではあるが、空気は新鮮ですがすがしかった。
「おい、○○。あんまり離れるなよ。気分悪くなるぜ」
「おっと、すまん」
魔理沙に注意され、慌てて彼女の傍に戻った。
魔理沙は魔法で空気の流れを調節し、キノコの胞子や陰鬱とした瘴気を吹き払ってくれている。
よって彼女の傍を離れれば、俺はたちまち気分が悪くなって倒れてしまうのだ。気をつけなければ。
「さてと」
魔理沙が家の扉の前に立ち、「あーりーすー」と大声を上げながら強い調子でノックをした。
まるで小学生の子供が友達を遊びに誘いに来たようで、俺は密かに笑った。
少しして家の中からドタバタという足音が聞こえ、扉が勢いよく開いた。
「そんなに声を出さなくても聞こえるわよ! というか、扉を思いっきり叩くのはやめなさい!」
「おー、アリスー。久しぶりだなー」
中から出てきた金髪の女性に、魔理沙を片手をあげて挨拶をした。
アリス・マーガトロイド。彼女が魔理沙の友達の魔法使いだ。
金髪のボブカットに青い瞳、肌はとても白い。
服装はヒラヒラのついた洋服で、ロリータ風味とでも言うべきか。
一見してまるで人形のような容貌だった。
「まったく、いつもいつも……で、そっちのが例の男ね」
青い瞳がこちらをじっと射抜いた。
その目は非常に鋭く、俺はちょっと気圧されてしまう。
ただ、それでも新しい人との出会いには心が浮き立つのだった。
※
魔理沙はいつも騒がしくて、自分勝手で……けど、それが私にとって心地良い。
いつまで一緒にいたいと思う。彼女の傍はとても楽しいから。
しかし、今魔理沙の横にいるのは自分ではなく、1人の男だった。
「あの、はじめまして、アリスさん。今日は色々と勉強させて頂きたく思います。よろしくお願いします」
礼儀正しい言葉と共に頭を下げたその男、小説家○○。
私はその外見をまずチェックすると、驚き、拍子抜けした。
なんと平凡な男だろうか。さほど顔が整っているわけでもないし、身体つきが良いわけでもない。
むしろひょろっとした印象を受ける痩身だ。筋肉がついてないのだろう、里の男に比べてふた回りほど細い。
頼りない男。それが第一印象だった。
「……はじめまして。○○さん。よろしく」
○○に向かって軽く頭を下げて礼をする。
相手の礼に合わせてのものだが、よく考えるとこんな風に挨拶をするのはひどく久しぶりのような気がした。
幻想郷の面々はよくも悪くも馴れ馴れしい。初めて会って即弾幕なんて日常茶飯事だ。
比べてこの男は礼儀をわきまえている。礼儀正しいのは人としてのプラス要素。この点は評価してもいいかもしれない。
「2人共、入ってちょうだい。今紅茶を淹れるわ」
「おー、さんきゅー。ついでにクッキーもあればもっと嬉しいぜ」
「はいはい。出してあげるわよ」
魔理沙の遠慮のなさに苦笑しつつ、2人をリビングに迎え入れる。
勝手を知る魔理沙は早々に椅子に座り、ワクワクした表情で紅茶を待っている。まるで子犬みたいだ。
先にクッキーをテーブルに置いてやると、魔理沙はすぐ2,3枚をまとめて掴んで口に放り入れ、子供みたいな笑顔を浮かべる。
魔理沙のこんな表情は、見ていてとても微笑ましい。
一方、その隣に座る男はというと、
「ふへー……」
先ほどからずっと、リビングをじろじろと見渡している。
レースのカーテンがかかった窓、木の箪笥、鏡台。そして人形が飾られている場所は特に興味深そうに見ていた。
いったい何をそこまで。ただの部屋だというのに、彼はそこに大事なものでもあるかのような真剣な目つきで観察している。
なんだか恥ずかしい。
よく知らない人に自分の部屋を見られるのはどうも慣れていなかった。
※
アリス・マーガトロイド嬢の部屋はまったく見ていて飽きなかった。
全体的にヨーロッパ調の家具、装飾品が多い。
レースのカーテン、テーブルクロスの過剰とも言えるほどの装飾具合、ヨーロッパ式の内装と見受けられた。
思うに幻想郷は全体的に和のテイストが強い。
人里の家は明治・大正の日本家屋に近いし、服装も前時代的な着物ばかりだ。
例外として魔理沙の家や、以前訪れた紅魔館は洋の雰囲気を持つが、このアリス宅はそれらに比べてさらに洋風だ。いや、欧風と言うのが的確か。
外の世界にいた時は何度も見てきたこういう内装も、幻想郷に来てからは久しく見なかったのでとても興味深い。
特に窓際やテーブルなどいたるところに飾られている人形は、素人目にも精巧な作りだと分かる。おそらく手作りに違いない。
興味が沸いて仕方なかった。
こんな家に住むアリスとはいったい何者なのか、どこの出身なのか、どういう所で暮らしてきたのか。
魔法のことを学びにきたというのに、むしろアリス嬢本人への好奇心がどんどんと湧いてくる。
一通り部屋を眺め終えた後、俺はふと、紅茶を淹れているアリスさんがこちらをじとりとした目で見ているのに気がついた。
まずいと思い、慌てて部屋を観察するような真似をやめた。
するとアリスさんも俺を見るのをやめ、紅茶の用意を再開した。
俺はふぅ、と息を吐いた。
悪い癖が出てしまった。一度興味深いものを見つけてしまうと、とことん観察し、理解しようとしてしまう癖。
時には行き過ぎて、話相手を不愉快にさせたり、危険な妖怪の出る場所をいつの間にか訪れたりすることもある。
この癖には色々な人から注意されたものだ。
妹紅には「もっと体を大事にして」と諫められるし、慧音さんには「時には距離感も大切だ」と叱られる。
アリスさんも「どうしてこの人は他人の家をじろじろ見ているのだろう」と不愉快に思っているだろう。
自重しよう。せめて初対面の人の内面を詮索するような真似はやめよう。
そうだ。あの博麗神社の巫女さんを相手にした時のように、礼儀と距離感を保って接すればいい。
「紅茶よ。○○さんもどうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
アリスさんから紅茶カップを受け取る。その器からはとても良い匂いが醸し出されている。
魔理沙がカップに鼻を近づけその匂いをかぎ、「んー」と考え込んでいた。
「今日はアールグレイか?」
「違うわ。魔理沙って、紅茶を見るたびにアールグレイって言ってない?」
「そんなことないぜ。他にも知ってるぞ。ほら、クラムチャウダーとか」
「それはスープよ」
「じゃあ、アラビカ」
「コーヒーの原種ね」
「玉露」
「わざとやってない?」
「そんなことないぜ?」
「ふぅ……今日はフランボワーズよ。木苺の香りがするでしょう?」
「魔界で買ってきたのか?」
「そんなわけないでしょ。霖之助さんの店で買ってきたのよ」
「へー」
今、さりげない日常会話の中にひょっこり『魔界』という非日常的単語が出てこなかったか?。
しかも二人とも、さも当然のように『魔界』とやらが存在していることを前提に会話している。
いったい『魔界』とはなんだ? 幻想郷とは違うのか? アリスさんは『魔界』出身なのか?
せっかく自重しようと思ったのに、また気になってきてしまった。
しかし口に出して質問することもできず、俺はじっと我慢する。
アリスさんと魔理沙が世間話に興じている中、木苺の香りがする紅茶を口に含み、密かに「うまいな」と呟くのだった。
※
とにかく○○というのは奇妙な男だった。
部屋の中をじろじろと見ていたかと思うと、突然こちらと目を合わせて慌て出し、今度は借りてきた猫のように大人しくなってしまった。
会話に入ってくるようなこともせず、紅茶を一口飲んで密かに「うまいな」と呟いている。
ただ、こちらを見る目がどこかぎらついていもした。
落ち着いているのかいないのか、軽薄なのか荘重なのか、明るいのか暗いのか、礼儀作法を心得ているのかいないのか。
刻々と変わる○○の様子からは、依然としてその人となりが伺いしれない。
まあ、紅茶の味が分かる点は評価してもいいが。
「さてと、それじゃあ本題に入りましょうか」
魔理沙との会話も一旦打ち切り、改めて腰を据える。
今日魔理沙と○○がやってきたのはただお喋りをするためだけではない。
「魔理沙からは魔法談義をするとしか聞いてないのだけれど」
昨日魔理沙からいきなり『明日○○連れて魔法談義しにいくから』と言われたのを思い出す。
人里で買い物をしている途中のことだった。どういうことか詳しく聞く前に魔理沙は去っていったので、今日は何をする予定なのか正確に聞いていない。
その魔理沙は明朗な笑みを浮かべ、テーブルから身を乗り出した。
「ああ、そうだぜ。アリスの魔法について聞かせてもらおうかと思ってな」
「あら、そうなの。どうしてまた? あなた、話して理解するというより見て盗むタイプでしょうに。それに○○さんも混ぜるなんて」
「その○○のためなんだぜ」
魔理沙がそう言うのに合わせて、○○が「よろしくお願いします」と頭を下げた。
私にはますます事情が分からなくなってきた。どうしてただの人間の○○に魔法のことを話すのだろうか、と。
すると疑問符を察したらしい○○がすかさず説明を始めた。
「私が小説家だということは、アリスさんも知っていると思われますが」
「ええ。けっこう有名らしいわね」
「はい、ありがたいことに。その小説の中でですね、魔法のことを書きたいと思っているんです」
「へえ……」
これはなかなか興味深い。普通の人間である○○が魔法を描く。
果たしてどこまで幻想でない魔法を書けるやら。
私達が扱う魔法は、見た目の派手さに反して実に精巧な術式と微妙な力の流れ方が存在する。
魔法使いはこれを細部に渡るまで理解し、操り、制御せねばならない。
中には短い人間の寿命ではとうてい実現しえない魔法もあり、魔法というものには底が見えない。
魔法とはそう簡単ではないのだ。
おそらく○○は『本物の』魔法を小説の中で描きたいと思っているのだろう。
普通の人間が魔法を理解するには多大な労苦が必要となる。それだけの覚悟が彼にあるのか?
私は○○の目をじっと見て、その本気の度合いを探った。
「できるのかしら? あなた自身は全く魔法が使えないのでしょう?」
「はい。魔理沙にもそれは言われました」
「でしょうね。魔力のひとかけらも感じないもの」
「しかし、魔法が使えないのと理解できないのとは違うと思っています。
現に私は初歩の魔法の術式ならばいくつか理解できるようになりました」
「……本当に?」
この問いは○○にではなく魔理沙に向けたもの。
おそらく教えたのは魔理沙だろうと予測してのものだ。
「ああ、本当だぜ」
魔理沙は胸を張って答えた。
「まだまだ勉強中だけど、単純な魔法なら構造把握できてるはずだ。
そうだなー、100点中82点ぐらいだな」
「……微妙なラインね」
私は腕組み考えてみる。この8割というのはかなり絶妙な点数だ。
ある魔法のことを8割理解できていても、残り2割を間違えていればその魔法は台無しになる。そのくらいに魔法はデリケートなものなのだ。
よって、そんな中途半端な状態で魔法のことを小説に書いたとしても、知る者が読めば間違っていることに気づいてしまう。
嘘を書いた小説の評判は地に落ちるだろう。それではいけない。
一方で、8割理解できているならば、あとの2割は周囲の魔法使いが見て修正してやれば一応の形にはなるとも言える。
それに、本当に魔法を使うわけではなく小説の中で出すだけだ。そこまで細かな構造を描く必要もないだろう。
だから8割で十分だという見方もある。
8割では足りないか、それとも十分か。
しばらく考えた後、私は後者の見方を取ることにした。
「……いいんじゃないかしら。8割できているならば十分だと思うわ」
「だろ? ここまで苦労したんだぜー」
魔理沙が自慢げに答えた。生徒の○○が認められたのがうれしいのだろうか。
そこに魔理沙の思いの欠片が見えたような気がして、少し複雑な思いを抱きながら、○○に話を戻す。
「で、私の魔法が見たいのはどうしてなの?
実際に魔法を見るなら、魔理沙のもので十分だと思うけど」
「魔理沙の魔法はパワーを重視したものが多い反面、もっと繊細な魔力の流れを必要とする魔法は少ないので……」
「ああ、なるほどね、確かに」
マスタースパークなんてその最たるもの。
あれは『魔力を増幅して放出する』という仕組みの延長でしかなく、構造的にはさほど複雑なものではない。
ただし巨大な力の制御の難しさは尋常ではないので、私は使おうとも思わないが。
「だってさー、ちまちました魔法なんて使ってられないぜ。魔法だってパワーだ」
魔理沙が拗ね気味に言うので、私は苦笑を浮かべた。○○も笑っていた。
そのタイミングがばっちり同時だったことに気がつき、私は顔を赤くして慌てて2人から視線を外す。
幸いにも○○は気付かなかったようで、彼は再び正面から私の顔を見て、頭を下げた。
「アリスさんの魔法はもっと知識と理論に依ったものが多いと聞いています。
色々な魔法を理解したいと思っているので、よければ見せていただけないでしょうか」
「……事情は分かったわ」
私を少し気を落ち着け、紅茶を一口飲む。
そして改めて「うん」と頷き、○○に向かって指を2本立てた。
「2つ、約束してほしいことがあるわ」
「どうぞ」
「1つ目。私の魔法をそのまま小説には書かないこと。
私がせかっく研究した魔法の構造を、公に公開されちゃたまらないわ。
小説に書くのなら広く知れ渡っているものや、あなたオリジナルのものにして」
「それは、もちろんです。魔法だってプライバシーの1つですから、そこは物書きとしてわきまえています」
「ならいいわ。2つ目。中途半端は許さない。
もし教えたことを理解できないのなら、全て忘れて帰ってちょうだい。
なおかつ小説に出す魔法も本物を書くこと。私が協力している以上、中途半端なのは駄目」
「分かりました。私も中途半端なものを書きたくはないので、一生懸命理解するよう努めます」
私はじっと○○の目を見る。
そこに宿るのは真っ当な意志。嘘はつかない、約束は守るという堅い意志が燃え盛っている。
へぇ。
こんな目をすることができるのか。
「じゃあ、用意するわ。少しここで待っていてちょうだい」
席から立ち上がり、別室へと足を進めながら、私は自分でも気付かぬ内に笑っていた。
○○。思った以上に骨のある男かもしれない、魔理沙の選んだ男に間違いはなかったかもしれない。
そう思うと何故か嬉しくなってきたのだった。
※
アリス嬢の魔法はまさしく本物だった。
始まったアリス主催の魔法談義。俺はアリスさんから色々な魔法を見せてもらった。
通常弾幕に始まり、魔理沙が不得意としていて実際に見れなかった様々な魔法、儀式。
そして何より、人形を操る魔法は素晴らしいの一言だった。
「見ての通り、人形1体1体に結び付けている魔法の糸は肉眼ではほとんど見えないし、触れることもできないわ」
現在、俺の目の前でアリスさんの人形10体が踊っている。
それぞれ2人組になったかわいらしい人形たちが、まるで生きているかのように床の上で踊っている様は圧巻だった。
「糸は指ではなく魔力で操っているのよ」
人形たちが踊っているのはワルツだ。音楽は流れていないが、リズム取りと足運びは完璧だった。
「大事なのは、人形に送り込む魔力の質と量。この調整がうまくいかないと、1体の人形も動かすことはできない」
そう言う彼女は椅子に座ってじっとしているだけで、苦労しているように見えない。
おそらく10体程度など彼女にとって物の数に入っていないのだろう。
「あとで術式も見せてあげるわ……はい、おしまい」
アリスさんがぱんっと手を叩くと、人形たちはゆっくりと踊るのをやめた。
そして姿勢を正すと、見物人である俺と魔理沙に向かって深々とお辞儀をする。
人形たちが顔をあげるのに合わせて、俺は凄まじい勢いで拍手していた。
「す、すごいです! すごすぎますよアリスさん!」
感動なんて生ぬるいものではない。驚愕と感激がいっしょくたになって爆発した。
小説家なのに「すごい」としか言えないぐらいの衝撃だった。
「そ、そんなに褒めなくても」
「いえ、本当にすごいんです! まさかここまでとは……! 人形とは思えない動きでした!」」
「……ん、んー、ありがと」
アリスさんは憮然としながらも、顔が赤い。褒められるのに慣れていないのだろうか。
しかしこれは褒められて当然の技術のはずだ。魔理沙だって拍手している。
「ま、確かにアリスの技術はすごいと思うぜ?」
「もう魔理沙まで……それより、○○さん、今からこの術式を教えるから、こっちに来て」
「あ、はい」
俺はさっそくアリスさんの隣に席に座ろうとするが、しかし魔理沙がその間に割り込んできた。
「私もお邪魔するぜ」
「あ、魔理沙は駄目」
「えー」
「同業者に教えるわけにはいかないわ」
「ぶーぶー。けちー」
「だーめ。あっちの部屋にまだクッキーがあるから、それでも食べてなさい」
「おっ、それを先に言ってくれ。じゃ、行ってくるぜ!」
現金な魔理沙は、不平を垂れていたその口をクッキーで満たすために別室へと行ってしまった。
これでは初対面の女性と2人きりになってしまう。普通ならば緊張しても良い場面だろう。
しかし俺はすでにこれから教わる知識に興味津々で、気恥ずかしさなんて全然感じなかった。
「では、はじめましょう、アリスさん!」
「え、ええ」
嬉々としてノートを開く俺であった。
※
不思議でしょうがなかった。
この男、女性と2人きりでいることに、なんら心が動かないのであろうか?
「人形には簡単な命令を与えておいて、あとは勝手に動いてもらうということもできるわ」
「半自律、ということですね」
「ええ。この上海人形と蓬莱人形が特にそうね。定期的に命令を与えれば、あとは今みたいに勝手に動くわ」
○○は女好きである、と人里の噂で聞いた。
今、その本性を明らかにしてやろうと思い、魔理沙を別室に行かせ、女性と2人きりという状況を作ってみた。
もちろん魔法の説明はきちんと行っている。一度引き受けたからにはそれはちゃんとする。
一方で、さりげなく身体を寄せてみたり、かすかに指を触れさせたりして、○○の反応を見てみた。
もし色目を使ってきたり、あまつさえ暴走したりしたら……○○にマイナス評価を与えていただろう。
しかし、
「半自律、ということはもしかすると完全な自律人形も目指していたりしますか?」
「え、ええ。私の最終的な目標の一つはそこにあるわ」
「なるほど、外の世界で言う人工知能にとても近いのかも……だとするとAIと同じフレーム問題が……」
○○はぶつぶつと何事かを呟きながら、自前のノートに文字を記述し続けている。
私が近づこうが何しようが、意に介していない。
私はそんな彼の様子に口を引きつらせる。
別に自分の美貌が優れているだなんて自惚れは持っていないが、ここまで何の反応もないと女としてのプライドを崩されそうだ。
「アリスさん、その上海人形と蓬莱人形の構造について詳しく聞きたいのですが」
「……いいわよ」
「シャンハーイ」「ホラーイ」
「喋った! ふ、腹話術ですか? まさか本当に人形が喋ってるなんてことは……」
「さあ、どうかしら」
本当に人形のことしか――いや、小説のことしか見えていない○○。
なんだか自分のやっていること馬鹿らしく思えてきて、私は小さく声をあげて笑った。
「アリスさん?」
「いえ、なんでもないわ。そうね、上海人形の内部はね――」
それからしばらくの間、私は○○との人形談義に意識の全てを注ぎ込んだ。
もはや○○が悪い男かどうかなんてどうでもよくなってきた。
○○はあくまで魔法のこと、人形のこと、小説のことしか興味を示していない。
玄関で初めて目を合わせた時から感じていた○○の一途さ、思いの強さ、それらは全て小説にしか向いていない。
彼がここまでしているというのに、話相手が余計なことを考えていては彼に失礼だ。
こうして、私が話す魔法人形についての知識を、○○は一心に聞いた。
○○の話す外界の『AI』とやらの知識を、私は一心に聞いた。
お互いに充実した時間が過ぎていった。
○○は私の話す魔法の構造を、苦労しながらも理解していった。
その一生懸命さが私には好感だった。
しかし、○○と接していくにつれて、次第に私の中に疑問が浮上していった。
どうして? どうして○○はそこまで小説のことばかり考えているのか?
他の全てをないがしろにしてもよいと見えるほどの情熱は、どこから湧き出ているのか?
「え? 小説を書くことが好きか、ですか?」
だから、聞いてしまった。魔法談義が一段落してティータイムを挟んでいた時、ふと気になって。
「ええ。小説家さんにこんなことを聞くのは失礼だったかしら?」
「いえ、そんなことはありませんが……」
○○は一つ間を置いて、答える。
「そうですね、好きか嫌いかと言われれば好きと答えます。しかしそれ以上に私は」
「もうそんな口調じゃなくてもいいんじゃないかしら。せめて一人称だけでも変えましょう」
互いの知識を披露し合った仲なのだから。
私がそう言外に伝えると、○○は柔らかい笑みを浮かべ、頷いた。
「では、えーと、好悪以上にですね、俺には衝動みたいなものがあるんです」
「衝動……」
「こればっかりは自分でもどうしようもないですね。文章を書くことはもう本能に近いのかもしれません」
本能と言い切った○○の表情は、とてもすがすがしくて。
「じゃあ、魔法を勉強するのも小説のため? 自分で使えもしないものを勉強して楽しい?」
続けて質問しても、○○は嫌な顔せずに答える。
「楽しいですよ。使えなくとも、知っているだけの楽しくなります」
「……本当に? どうして?」
「うーん……だって、知れば知るほど面白いじゃないですか、魔法って。
いや、魔法だけじゃないですね。この世界の様々なことは、全て面白いんです」
○○は目を瞑り、手の平を広げて宙を掻いた。
私の目には、その手が世界を触っているように見えた。
「魔法を知れば、実際に魔法を見た時にそれがどういうものか詳しく認識できます。
つまり、色々なことを知るたびに俺が認識できる世界は広がっていく。自分が使える言葉も概念も増えていく。
すると、俺の書く小説の中の世界も広がるんです。こんな面白いことは他にはなかなかありませんよ、ほんと」
最後にニコリと笑った○○は、もはや放蕩人でも駄目男でもなかった。
『小説家』。私の頭の中にその言葉がすっと出てきて、○○という人そのものにリンクする。
するとこれまでの疑念や不審が一気に晴れていってしまった。
「……分かった。ようやく分かったわ。あなたって」
私は失礼を承知で、ビシッと○○を指差した。
「変な人なのね」
○○はきょとんとした顔をする。
「へ、変?」
「ええ、変。変人よ。小説に狂っていると言えるわ。小説狂とでも名付ければいいかしら」
「そ、そうですか? そこまで変だという自覚はないんですが……」
「いーえ、変よ。けど、私と一緒。私も変人だから」
私の場合は人形に狂ってるのだけどね。
そう呟いた私は、上海人形を抱きかかえながら微笑んだ。
「衝動、っていうのは理解できるわ。時には命や魂を削ってでも人形を作りたい時が、私にもあるから。
なのに衝動を満たせるだけの結果が出なくて、絶望してしまうこともある」
『発作』とでも言うべきそれに、○○も心当たりがあるのか、驚いた顔をしている。
この人は私と同じなのか、とつくづく感じる。
「そう、そういうこと」
「え?」
「いえ、こっちの話よ」
まったくこれはどうしたものか。
並大抵の男なら魔理沙の相手として認めるつもりはなかったが、まさか自分と同じような存在だとは。
『同族嫌悪』と『同気相求』。相反するモノが交じり合って感情が定まらない。
「アリスさん?」
「……いえ、その、ね」
今はただ驚きと戸惑いだけが強く感じられ、○○とどう話せばいいかも分からなくなってきた。
どうしよう。うろたえていると、別室への扉が突然開いた。
「あー、食った食った。ん? 話は終わったのか?」
別室にあったお菓子を食べ終えたのか、魔理沙がホクホク顔で戻ってきてくれた。
これはちょうどいいと、私はホッとしながら魔理沙用の紅茶を淹れる。
「話は一通り終わったわ。今は休憩よ。紅茶、淹れてあげるわ」
「お、サンクス。世間話なら私も混ぜてもらうぜ」
魔理沙は嬉しそうに○○の隣に座り、テーブルに置いてあったクッキーを食べ始める。
別室でもかなり食べただろうに、いったいどこまで食べるのか。
その姿はあくまで微笑ましく、私は自然と笑ってしまう。
「ほれ、○○も食べようぜ」
「お、ありがと」
ところで○○と魔理沙との間柄だが、なんともまあ微妙な距離感だった。
魔理沙は先ほどからしきりに○○にクッキーや紅茶を勧めており、傍目から見てもその好意を露骨に表している。
しかし○○はそれに気付かず、素直に魔理沙の勧めるものを受け取るだけ。照れもしないし、拒否もしない。
まるで暖簾に腕押し、ぬかに釘、霊夢に通常弾幕だ。魔理沙のアプローチに効果がまったく見られない。
そのため、魔理沙と○○との間には絶妙な距離感がある。
例えて言えば、棚の上にある荷物を取ろうとして背伸びをするも、あと少しの所で指先が届かない時の、その数センチのような距離感。
けど、それも仕方ない。
○○は小説のことしか考えていないのだから。
「さて、と。2人共、晩御飯は食べていく?」
「お、もちろんだぜ。○○も食べるよな?」
「えーと、いいんですか?」
「ええ、どうぞ。なら、私は材料があるかちょっと見てくるわ」
考える時間が欲しくなり、私は逃げるように立ち上がった。
○○。彼は良い人間なのか、悪い人間なのか。
魔理沙を幸せにしてくれるのか、不幸せにさせてしまうのか。
分からない。
○○と自分は似ている。だったら、もし自分が男だとして、魔理沙のことを好きになったら……どうなる?
人形作りにかまけて彼女を放置してしまう? それとも人形より大切な存在になる?
○○は、小説と同じくらいかそれ以上に魔理沙を愛せる?
分からない。分からないけど考えたい。
私は混乱する頭を抱えながら、台所へと向かった。
※
俺は台所に消えていくアリス嬢の背中をじっと見つめていた。
その背中は、なんだかこの場から逃げ出していくように見えた。
確か、彼女が「私とあなたは一緒」と言った時からだろうか。
アリスさんの様子が変わり、俺の顔をちらちらと見て落ち着かなくなった。
あれはいったい何だったのだろうか。もしかして、何か粗相でもしたのか?
振り返ってみるものの、心当たりはない。
「おーい、○○、どうした?」
「あ、いや」
魔理沙が不思議そうにしていたので、○○は思考を打ち切り、彼女が差し出すクッキーを受け取った。
晩御飯まで頂くのにこんなにクッキーばっかり食べていていいのだろうか。
「なあ、○○」
「ん?」
突然魔理沙が顔を引き締めた。口にクッキーが入ったまま。
何事かと思っていると、魔理沙はアリス嬢が消えた方向を見て、
「アリスと話して、よかったか?」
そう尋ねてきた。
何か不安なことでもあるのだろうか、と思いながら俺は答える。
「よかったぞ。すごく参考になった」
その答えに魔理沙は嬉しそうに頬を緩める。
「そっか……あと、それとだな」
「ん?」
途端に魔理沙の表情が曇り、珍しく言い淀んでいる。
何か言いにくいことなのだろうか、と思いながら待ってみると。
「あのな。まあ、確かにアリスは綺麗だからな、○○が鼻の下を伸ばすのもよく分かるけど」
「……待て、お前はいったい何を言っているんだ」
深刻そうな顔で意味の分からないことを言う魔理沙。
鼻の下を伸ばす? 俺が?
魔理沙はさらに続ける。
「私は妹紅みたいにうるさく言わない。けどな、初対面の女の子の背中をそんなジッと見るのは、駄目だと思うんだぜ?」
「いやいや、そういう意味で見てたわけじゃなくてだな」
魔理沙はいったい何を勘違いしているんだか。
俺はアリスさんに色目を使ったわけではなく、ただ彼女の様子に気になる所があるだけだというのに。
しかし俺がどれだけ説明しても渋い顔を続ける魔理沙。
と、ふと何かを思いついたらしく、彼女は「おっ、そうだ」と手を叩いた。
「見るんだったら、ほら、私を存分に見たらいい」
「はい?」
「背中が見たいのか? ほれほれ。○○って背中フェチだったか?」
にししと笑い、立ち上がって俺に背中を向ける魔理沙。どうやら悪乗りし始めたようだ。
ふむ、人をからかうとひどい目に合うこともある、と分からせてやろうか。
俺は手を伸ばすと、
「よっ」
つつー、と人差し指で背中を上から下へなぞった。
「にゃあ!」
「うわ!」
予想以上に過敏に反応した魔理沙が、その場で飛び跳ね、あまつさえこちらに倒れこんできた。
俺はとっさに彼女の身体を受け止めるが、勢いを殺しきれない。椅子ががたんと傾き、そのまま床へと一直線。
「きゃっ!」
「うげっ!」
2人して絨毯の上に寝転がる羽目になってしまった。
「ててて、魔理沙、大丈夫か?」
「あ、ああ。びっくりし……た……」
魔理沙が俺の顔を見上げて、そこで動きを止めた。
俺が下になったので、魔理沙には怪我はないようだ。よかった。
俺の方は少し背中が痛いぐらいで、問題ない。
「あう……あうあう」
ん? 腕の中にいる魔理沙の様子が変だ。顔を赤くして、口をぱくぱくさせている。
どこか怪我でもしていたか? だったら早く手当てを……
「何かすごい音がしたけど、どうかした……の……」
物音を聞きつけてやってきたアリスさんが、部屋に入ってきた所で動きを止めた。
ぽかん、と俺と魔理沙が重なり合っているのを見ている。
「アリスさん、魔理沙がもしかしたら怪我を」
魔理沙を抱き起こしつつ、救急箱を持ってくるよう頼もうとすると、アリスさんはボッという音が聞こえてきそうな勢いで顔を赤くした。
「な、な、な、なにをしてるのよ!」
「へ?」
「ま、まさか魔理沙を襲って……」
わなわなと震えているアリスさん。
襲う? 俺が魔理沙を?
そんな命知らずな真似、できるはずがない。
「い、いえ、それはちが」
「こ、このど変態! 最低!」
般若のような顔で手を前に広げたアリスさんが、いくつもの七色の弾を放った。
それらはピンポイントに俺だけに殺到し、直撃する。
すさまじい衝撃と共に吹き飛ばされる俺の身体。
「ぐは!」
いったい俺が何をした。
恨み言を言う暇もなく、窓枠と夕焼け空が見えた所で、俺の意識は消失するのであった。
※
「はあ、はあ、はあ、ま、魔理沙! 大丈夫!」
思いっきり魔力を放出した私は、わき目もふらずに魔理沙の傍に寄っていた。
今は魔理沙の安否だけが心配で、他のことなんて考えていられなかった。完全に頭に血が昇っていた。
「魔理沙! 魔理沙!」
「……あうあう」
「あ、あら?」
「まだ私達には早いんだぜえ……あうー」
魔理沙の様子がどうもおかしい。
赤い顔をして目を回している魔理沙は、嫌がっているというよりもむしろ喜んでいるというか……
これは幸せ過ぎて気絶した、とか?
「……え?」
頭が急速に冷えていく。
倒れている椅子、こぼれた紅茶。これはもしかすると……
「……ただの事故?」
魔理沙が事故で転びそうになった所を、○○が下敷きになって助けたとか?
けど、突然好きな男に抱かれた魔理沙は、オーバーフローを起こして気絶したとか?
そして自分はもつれて倒れこんでいる2人を見て、盛大な勘違いをしたとか?
「えーと……あ、○○さん!」
真実に気づいた私は、慌てて窓際に近づいて、外に放り出された○○を見る。
「きゅー」
彼は弾幕を受けた衝撃で気絶してしまっていた。
筋肉のないあの身体にあれだけの弾幕を受けたのだから当然だろう。
窓を開けていたのでガラスに当たらなかったのが不幸中の幸いか。
とりあえず彼には遠くから回復魔法をかけておき、森の瘴気に犯されないよう、人形たちに家の中へ運ばせる。
そして私自身はのびている魔理沙をベッドに運ぶ。
「やっちゃたわね……はあ」
ベッドでぐぅぐぅ眠っている魔理沙。絨毯に敷いた毛布の上には○○。
2人の姿を見下ろしながら、私はため息をついた。
「あとで謝らないと……」
あんな紛らわしいことになっていた2人も悪い、とは言えない。
全て自分の勘違いのせいだ。言い訳はできない。
「んー、○○ー」
いきなり寝言を吐き始めた魔理沙。
しかもまたそれが○○の名前を嬉しそうに呟いているのだから、なんだかほのぼのとしてしまう。
「はあ、とりあえず、保留ね」
台所でずっと続けていた思考に結論を、今ここでつけた。
保留、つまり少しの間彼女らの関係を見守っていこうという結論だ。
おそらく魔理沙と○○の関係はさほど進んでないし、これからもそう簡単に進みはしない。
少し抱き合ったぐらい気絶してしまう魔理沙がその証拠。この様子だと、本当に恋人同士になるまでどれだけかかることやら。
何年かかっても関係は進展しないのではないか。
その間、自分は○○のことをもっと見定めよう。
そして本当に彼らの仲を祝福できるようになったなら、魔理沙のことを精一杯応援しよう。
逆に祝福できないなら、まあちょっとだけ妨害しよう。
私は視線を○○に移す。
まるで子供のような顔で眠っている○○。
悪い人には見えないな、やっぱり。
そう思いながら、彼に布団をかけてやるのであった。
新ろだ2-200
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最終更新:2011年02月26日 21:43