雛6



新ろだ2-301



「さて……
 それじゃあ、俺の引越し完了記念と……」
「これからの二人の生活に幸多からんことを祈願して……」



「「かんぱーい!」」



 キンキンに冷えた麦酒の注がれた2つのグラスがぶつかり、
 涼やかな音が夏の夜に響く。

 妖怪の山――そこを流れる川からそれ程離れていない場所に建つ一軒家。
 その縁側に腰掛けて、俺と雛――この家の主にして厄神様――は晩酌を楽しんでいた。


「……んっ……んっ……んっ……
 ぷっはぁーーっ…
 んー、やっぱり夏は麦酒に限るわねー♪」


 ……神様は酒好きって言うけど、雛も相当なもんだよなぁ。
 などと、早速グラスを空けた厄神様を見ながら思う。
 そして空になったグラスに次の麦酒を注いでやると、


「あー、ありがとー♪」
「どーいたしまして」


 満面の笑みを浮かべて、注がれた麦酒に口をつける雛。
 そんな幸せそうな表情を見ながら、自分の麦酒に口をつける。
 俺も酒は嫌いじゃないけど、雛のペースについていけるほど強くはないので、ちびちびと味わう。
 というか、なんで幻想郷の連中はこうも酒に強いのばかりなんだろうか。


「しかし、終わってみれば意外と楽だったわねー、引越し」


 と、さっき注いだグラスを半分以上空にして雛が呟く。ていうか呑むの早ぇよいつもの事だけど。


「……んー、もとよりそんなに荷物ないしな。
 空き家に越すわけでもないし、必要最低限なら少ないもんさ」
「むしろ、皆からの引越し祝いのほうが多いくらいだったものね」
「お陰で荷物が倍近くになったものなぁ……嬉しい悲鳴というか何というか」
「まぁいいじゃない、それだけ祝ってくれてるってことで」
「それもそーだ」


 多分、お祝いのうちいくつかは雛へのお供えも兼ねてるんだろうなー、などと思いつつ、麦酒を一口流し込む。
 ん、美味い。


「しかし、明日から二人暮しかぁ。
 うちもそんなに広くないし、今度改築でも計画しようかしら」
「広さでいったら、俺んちの方が広いもんな……あっちはオンボロだけど」
「あんまり変わらない気がするけど?」
「いやいや、こっちのほうがしっかりしてると思うぞ、俺は」
「そうかしらね……?
 なんだったら、私がそっち行ってもよかったのになー」


 などとのたまう厄神様。
 いや無理だろそれは。


「人里に住む神様とか聞いたことないんだが」
「わかってるって、言ってみただけよ。
 厄神が人里に住んだら本末転倒だし、そもそも神が人里に嫁ぐわけにもいかないし」


 ぶっ。


「きゃっ。
 ……どうしたのよ。いきなり噴き出して」
「い、いや……
 急に嫁ぐだの言われたもんで、つい……」
「あれ? てっきり一緒に住むっていうからそれくらいは予定してるものかと思ったけど……」
「いや、そりゃあ……考えてはいるけどさぁ。
 口に出していわれると……ちょっと驚いた、っていうか……照れ臭いというか……」
「変なところでウブよねー。
 いざって時にはエラい根性見せるくせに」


 そう言いながら、雛は笑顔のまま2杯目を呑み干す。そして注ぐ俺。


「相変わらずいい呑みっぷりだなー。
 ……ま、しばらくは山の生活にも慣れなきゃいけないし、頃合を見て言い出そうと思ってたんだけど。」
「今更じゃないの、それ?
 あなた、今までどれだけ山に通い詰めてると思ってるのよ」
「んー……大体2年くらい?
 でもほら、通い詰めてるっつっても大抵は雛のところだし、他は宴会に呼ばれるのがほとんどだったから。
 実際に居を替えるってなると色々とある気がするしなぁ」


 そんなことを言いながら、山に通い始めた最初の頃を思い出す。
 あん時は雛に会いに行っちゃあ弾幕で追い返されてたなぁ……
 結局、振り向いて貰えるまでに半年以上掛かったし。


「大丈夫だと思うけどね、私は。
 今じゃ山でもすっかり有名カップルなんだし。
 明日は守矢で引越し歓迎宴会やるって、文とにとりが張り切ってたわよ」
「守矢神社、ってことは山総出じゃねぇか……」


 どーせ片付けは俺と東風谷さんとになるんだろうなぁ……歓迎してくれるのは有難いんだけど。


「ほらほら、そんなテンション下げないの。
 私も片付け手伝ってあげるし、椛とかも手伝ってくれるから……多分」
「うぅ、神様の優しさが五臓六腑に染み渡る……」


 そんなことをぼやきながらグラスを煽る。
 夏の蒸し暑い夜に流し込む麦酒はなぜこうも美味いのか。
 そんなことを思いながらグラスを空けると、雛もグラスを空けていた。
 雛に麦酒を注いでもらい、お返しとばかりに注ぎ返し、二人同時に一口呑んで、雛が口を開く。


「きっと神奈子とかうるさいでしょうねー。
 やれ式はいつだ、うちの神社使えーだのって」
「……ありありと想像できるな、それ」


 八坂様は、神格の割に人間にもフランクに接してくれるけど、
 酒が入るとフランクに成り過ぎるのが困り所だなぁ。
 ぶっちゃけ、お隣のおばちゃんが酔っ払った時とあんま変わらん……畏れ多過ぎて口には出せないけど。




「でも……嬉しいなぁ」


 雛が夜空を見上げながら、嬉しそうに
 ――本当に嬉しそうに、呟いた。


「山の皆も、人里の皆も、私たちのことをこうして祝ってくれる……」


雛が寄りかかってくる。
俺の肩に頭を乗せて、言葉を続ける。


「人間と神……しかも厄神、上手くいくはずないって最初は言われた。
 なにより、私自身がそう思ってた」
「だからあんなに手荒く追い返してくれやがったのか……」
「というより、最初の頃は『この人間は頭おかしいんじゃなかろうか』って真面目に思ってたからねー。
 開口一番、あまつさえ神に向かって『一目惚れしました、付き合ってください!』だもの」


 ケラケラと笑ってみせる雛。
 いや、そうもバッサリ言われると傷つきますよ?


「前もって色々と考えてはいたんだけどなー。
 いざ目の前となると、頭の中真っ白になっちゃって」
「その結果があの台詞な訳ね……
 ま、今となってはいい想い出だけど♪」
「あんま言ってくれるな……恥ずかしいんだから」


 山で迷ったところを助けられて、そんで後日、お礼ついでに告白だもんなぁ……
 あんときの俺は猪突猛進だった。


「で、結局私が折れて……
 気付いたら、本気で好きになってた」


 とろんとした感じで、そんなことを呟く雛。
 あぁもう可愛いなぁ。


「それからも大変だったなぁ。
 人里の皆からは釘を刺されるし、山の皆からも色々言われたりちょっかい出されたり。
 特ににとりと射命丸が」
「にとりは心配だったのよ、私達のこと。
 あの子、人間好きだしね」
「射命丸も?」
「……1割くらいはパパラッチ根性かもしれないけどね、文の場合。
 でも、やっぱり心配してくれてたのには違いないわ」
「途中からは、むしろこっちの味方になってくれたしな」


 実際、射命丸が居なかったら二人の仲を認めてもらうにはもっと時間が掛かってたろうし。
 ……しかし、その代わりと言わんばかりに俺達のことをやたら記事にするのは止めてほしい。
 いや、その記事があったからこそ周りの理解を得られたってのも解ってはいるんだが。


「お陰で、こーして二人で過ごせるものね♪」


 ぽふっ。


「……珍しいな、もう横になるん?」
「今日は特別♪」


 そんなことを言いながら、寄りかかっていた体を横にして頭を俺の太腿の上に置く雛。
 いわゆる膝枕の体勢である。


「今日は呑むより……こうしていたい気分、かな」


 頭を上に向け、俺の顔を見上げてくる。


「たまにはいいでしょ?
 普段は私がやってあげてるんだし」
「珍しく甘えてくるのな……
 ま、こんな硬い枕ならいくらでもどうぞ」
「神様だって、好きな人の前では甘えたいのよ♪」


 そんなやりとりをしながら、俺の首から下がっている御守り――『厄除』の文字が縫い付けられている――
 に触れる雛。


「……お世話になった人、みーんな式には呼ばないとね」
「そうだな……引き出物がエラい数になりそうだけど」


 この御守り――紅魔館の図書館、永遠亭の先生、守矢神社に博麗神社、稗田の家その他と、幻想郷中を駆けずり回って作ってもらった特注品――これのお陰で、ただの人間の俺が、厄神である雛とこうして過ごすことが出来ている。
 ほんっと、皆にはお世話になりっぱなしだ。


「幸せ者だよなぁ……俺たち」
「あら、今頃気付いたの?」
「いんや、ずっと前から気付いてた」
「よろしい♪」


 雛が両手で俺の顔を掴み、顔を上げる。
 それに合わせて、俺も顔を下げる。


「んっ……」


 唇同士が触れ合うだけの、簡素なキス。
 数秒そうして、唇を離す。


「……ふふっ」


 元の膝枕に戻った俺と雛は、互いに頬を紅くして笑いあっていた。


「これからよろしくね、旦那様」
「こちらこそよろしく、お雛様」


 幸せだなぁ、俺たち。








 ***チラシの裏***


雛様はこれくらいサバサバしてる&厄神も人里から距離を置いているがちゃんと神として崇められてるんじゃないかな、という妄想。
あと山の面々とも結構仲いいと俺が嬉しい。


 ***チラシの裏***


Megalith 2011/11/07


「お邪魔します」
「……またお前か」

 男は古びた戸を開け中に入ってきた女に背を向け答える。女は気にすることもなく、居間に腰を下ろしながら静かに目を閉じていた。男は手にした小刀を止め、肩越しに女を見る。それを見越していたように女は微笑みながら男の視線を受け取った。男は不機嫌そうに眉を潜めるとまた作業にとりかかる。ッシ、ッシと単調な音が二人を包むだけ。会話も何もない。それがこの男女の日常だった。男は女に聞こえないよう小さく溜息を洩らした。この女――鍵山雛は、また俺に微笑みかける。

幻想郷、人里の外れ。妖怪も多く屯するその地区に男は居を構えていた。竹を用いる指物と最近では寺に奉納する木彫りの仏像で生計を立てている。家と申しても壁板には罅が入り、乾拭きの屋根も少し剥げかけていた。広さも大体四畳半、煎餅蒲団を置いてしまえば囲炉裏以外の場所はほとんどない。土地は痩せていて農業にも向いていなかった。近くには身元不明の死体を供養する無縁仏の墓があるため、よけい人は寄り付かない。しかし外から来た男はそんな場所を快く受け入れた。いや、人里の中にある住まいを拒んだためといったほうがいいか。人を寄せ付けない視線、猜疑に満ちた目をした男に人里の者も大いに気味悪がった。
 一人のほうが楽でいい。廃屋には小刀で木片を削る音しか聞こえない。誰に気を使わず、誰にも媚び諂うこともしなくて済む。男は憔悴しきった溜息を吐きながら外にいた時のことを思い出していた。エスカレーター式に上がらされる学校。その内容はより上のステップに行くための踏み台でしかなかったように思われる。運よく最高学部に入学しても、まともな研究もしないまま急き立てられるように職に就かされた。後は企業の馬車馬として、社会の歯車として、壊れるまで働かされる。この幻想郷に引き込まれた自分は運がいいほうかと自嘲気味に笑った。それでも複雑な人間の奔流に巻き込まれた男は、人と向き合うことに疲れを覚えていた。

「……なんだって俺のところに来る?」
「私の存在をお忘れですか?」
「……あぁ、俺ほど厄に満ちた者もいないな」
「そういうことです」

 屈託なく雛は笑う。深い紅を基調としたフリル付ワンピース、深緑の頭には同じくフリルのついたリボンを結んでいる。外でいうゴスロリ風の服装をしたこの女は、厄を集める厄神であるといった。雛の周りには宵闇のような瘴気が渦巻いているのを男の目でも確認できる。彼女の周りにいるものは総じて不幸になると言われているが、男自身にそのような兆候は見受けられなかった。それともこんな厄神の目に留まること自体不幸なのか。

「お上手ですね」

 居間で座っているものだと思っていた雛がいつの間にか自分の横に移動していた。人形のような色白の肌を包む体温、規則正しい息遣いが伝わるほどに近い。男はより一層眉間に皺を寄せるが追い返すことはしなかった。雛は瞳を輝かせて自分の手元を眺めていた。そこには作りかけの仏が一つ。目の前にはすでに出来上がったものが三つほど置かれていた。命蓮寺という人里近くの寺に売っているこれはなぜだか評判がいい。人心の支えになる仏陀を彫っているのが根暗な捻くれ者であるとは世界も矛盾で満ちている。

「お一つ手に取っても?」
「売り物だから丁重に扱え」

 雛の手が仏へ伸びる。自分の目の前で誰かに作品を見られることは実は初めてだった。表面に出すまいと思っているのに手の中の小刀はその動きを止めたまま。白くか細い指が仏の顔を撫でる。その仕草が他人の涙を拭うようで男はふいと顔を背けた。憐れむような目が、慈しむような瞳が今は苦痛にしか思えない。

「ご評判通りよいお顔をされています」
「社交辞令の一種だろ?」
「そうでしょうか? 聖さんがおっしゃっていました。これほどまで朗らかで思わず縋りたくなるような御仏を彫るには、よほど苦しい思いをしなければできないと」

 男の表情が曇る。古傷をまさぐられたような苦い気持ち。誰も信じず独りで生きていくと決めたのに、俺はまだ何かに助けを求めているというのか。男は自らを抱きしめるように右手で左の裾を掴む。弱い自分を他人に見られる、それは生娘がその肌を男に見せるのと同じ辱め。自然握られた服に皺ができるほど力が入る。

「……○○さん?」
「……今日はもう帰れ。仕事に集中できん」
「……わかりました。それではまた伺います」

 雛の笑顔が視界の隅に映る。男は何も言わず彼女から目を背けたままだった。数歩床を歩く音はやがて土を踏み鳴らし、聞こえなくなっていた。視線は無意識につい今しがた雛が出て行った戸板に向かう。雛の影を女々しくも追っていた。男は今日何度目かの溜息をつく。それから仕事道具を家の隅に追いやり、蒲団に身を横たえた。

――あなたはいつも鬼のように睨み付けるのですね
――おまえはいつも幸せそうにヘラヘラしている

 思い起こすのはある日の会話。彼女はいつも変わらぬ笑顔で接してくる。どんなに冷たくしようが軽くあしらおうが。近頃ではそれに安らぎを覚えている自分がいる。あの微笑みを見ていると頑なな感情が薄皮を向くように和らいでいく。そしてそれと同じくらい、猜疑と恐れが膨らんでいる。あの笑顔は真のものなのだろうか。その腹の中では何を考えているのか。被害妄想甚だしいことは男自身気づいている。そしてそんな自分に嫌悪感を抱いていることも。男は蒲団の中で身を縮めた。悪夢に怯える幼児のように。考えれば考えるほど、あの笑顔があの口元があの瞳が。怖い。



「今日はお話があってきました」

 いつもなら置物のようにじっと居間に座っているだけの雛が、戸口の前で立っていた。その瞳には確かな決心を携えて。男は体こそ雛のほうを向いているが、視線は逸らしたままだった。とてもあんな強い思いを受け止められるとは思えなかった。
 雛は胸の前でお祈りをするように手を握り、数回深呼吸したのちまた男に向き合った。

「私は……○○さんが好きです」

 部屋に沈黙が訪れる。雛は気持ちを吐き出せた解放感から大きく溜息をつく。だがその顔にはまだ緊張感が残っていた。男の返事が気になるようだ。男は胡坐をかきながら雛の言葉を頭の中で反芻していた。溢れんばかりの好意の渦、それは男の体を容易に呑み込んでいく。纏うように包み込む幸福。彼女の純白ともいえる気持ちが男の指先に触れた。

――けれど、自分は?

 触れた先から彼女が黒く濁っていく。まるで集めた厄に自らが染められてしまったかのように。自分は人を傷つける。自分こそ厄そのもの。彼女をきっと不幸にしてしまう。男は強く瞳を閉じた。胸にすがる幸せを抱きとめられない弱い自分。そんな男に身を焦がす必要なんてない。
 男は初めて雛と視線を合わせた。それはいつもと同じ人を拒絶するもので。

「それだけか?」
「え……あ」

 予想もしなかっただろう答えに雛は狼狽えた。男は彼女に背を向け仕事に取り掛かる。雛の言動が戯言であると言っているかのように。釈然としない答えに戸惑いを覚えている雛に、男は背を向けながら言った。

「好いた惚れたは人の勝手だが、それは受け取る側も同じことだろう。俺はお前の気持ちに答えることはできない。諦めろ」
「わ、私あなたを幸せにするためなら何でもします! 決してあなたに後悔――」
「寄るな厄神」

 戸口から身を乗り出し居間の男へと思いを伝えようとした雛へ、辛辣な男の言葉が突き刺さる。男の背中は壁のように自分の存在を拒んでいるように見えた。伸ばした手は宙ぶらりんで救いを求めているようにも思える。そして男は最終通告を言い放った。

「お前に何ができる厄神。俺の厄を集めたところでそれが俺の幸せに繋がるのか? 所詮お前は俺を幸せになどできない。はっきり言おう、邪魔だ」
「あっ……あぁ……」

 慟哭の声。背に伝わる悲痛の感情。男はそれすら目を背けていた。卑怯者だ、俺は。けれどこれでいい。これでいいんだと心の中で自分を慰める。家から駆け出す足音、それはもう二度と聞くこともないだろう。これでいい、これでいいんだ。望んだ結果なのになぜ心はこんなにも痛い。

「っくそ!」

 男は作りかけの仏像を壁に叩きつけた。彼女を泣かせてしまったこと、彼女の思いを踏みにじったこと、そして彼女を抱きしめることもできない不甲斐ない自分が無性に腹が立った。彼女の温もりがあった居間の床板は、秋口の風でもう冷たくなっていた。



 長い石畳の階段、均一に整えられたそれらはまだこの寺が建立して日が浅いことを意味していた。今日は約束されていた納品の日。男は風呂敷包みに仏像を入れてここまで歩いてきた。あまり外出しないためか今だ草履が足に合わない。親指と人差し指の間が歩くたびにヒリヒリと痛んだ。

「よくおいでくださいました」

 お堂の奥へ案内されるとこの命蓮寺の主である聖白蓮が出迎えてくれた。男はいつも通り素っ気ない挨拶を交わすと風呂敷の中身を彼女に渡す。彼女が仏像の品定めをしている間、この寺に住んでいる妖怪が茶を出してきた。全身が煌びやかな色で纏められた、見た感じ虎を連想させるこの妖怪。ニコニコと男に茶を渡し、帰る途中で派手に転んだ。思うに服の丈が合ってないのではないか。「うぅ……」と情けない声を上げていると今度は鼠を象ったような妖怪が呆れ顔でやってくる。話を聞くあたり二人は主従関係で鼠のほうが従者なのだとか。

「すいません、お騒がせしてしまって」

 聖人君子の聖もこれには苦笑いするしかないようだ。男はじっと二人の様子を眺めていた。出来の悪い上司に真面目な部下。それでも険悪な感じがしないのは互いに持ちつ持たれつなのだからだろう。相手の良いところ悪いところを受け入れ、自分の全てを曝け出している。「しっかりしてください、ご主人」というわりに顔が朗らかなのはそのためなのか。「また失敗してしまいました」と笑って従者の手を借りるのはそのためなのか。そんな二人に、密かな羨望の眼差しを送ってしまう。

「そういえば、雛さんはご一緒ではないのですね?」

 突如雛の名前が出てピクリと体が反応してしまう。聖はその些細な所作も見逃さなかった。「話していただけませんか?」聖の問いかけに、男は少し間を開けて口を開いた。雛の告白、自分の拒絶、何もかも。それは神に懺悔する罪人のよう。聖は責めるでもなく、詮索するでもなくただ男の話を聞いていた。男の話が終わると聖は一口お茶に口をつける。

「それはひどく傷ついたでしょう……雛さんも、そしてあなたも」

 返す言葉がなかった。胡坐の上の拳は強く握りしめられていた。過去の自分への憤り、そして悔恨。それを聖は達観した様子で見つめていた。雛という厄神が彼に思いを打ち明けたのも納得がいく。一人で悩み苦しむ彼の姿はとても儚げで手を伸ばしたくなる。

「あなたは心優しい方、そしてとても弱い。人の好意を受け入れることもできず、誰かに優しくすることもできない。それは誰も傷つけたくないから。他人も、自分も。けれど○○さん、人は誰かを傷つけずに生きることはできません。そして人はあなたが思うほど弱くはありません。先ほど転んだ妖怪、名を星というのですが少しおっちょこちょいといいますかよく物を無くすのです。それをナズーリンが渋々探すというのがお決まりで。毎回毎回、他人が呆れるぐらい繰り返しているのですが二人は仲睦まじいです。誰かを傷つけることに、愛することに恐れてはいけません。雛さんはどんなに傷ついてもあなたを受け入れてくれると思いますよ」
「……こんな俺でもですか?」
「それはあなた次第。あなたが雛さんをどう思っているか、ご自身の胸に手を当てて考えてみてください」

 男は料金を受け取るとそのまま寺を後にした。曇天の空は近々降り出すことを予想していた。自分が雛をどう思っているか。男は長い階段を下りながら思い出していた。穏やかな雛の声、朗らかな雛の笑顔、そして暖かな雛の存在。全てが愛おしくて、それを傷つけたくなくて。それでも手放したくなかった。ずっと傍にいてほしかった。その一言が言えない弱い自分。彼女の愛を受け止められなかった弱い自分がこれほどまで憎い。
 男は階段の中腹で足を止めた。その場に座り込み溢れ出る涙を必死で拭う。胸に残るのは虚無ではなく、ひどく美化された雛との思い出とそれを失った喪失感。崩れてしまった現実はもう戻らないと知っているのに。

「……会いたいよ……雛ぁ」



 男の体を打ち付ける秋雨は身を切るように冷たく、吐く息は白く濁り虚空へと消える。どう雛のことを忘れようか、男はそればかり考えていた。いっそう潰れるほど酒を煽れば消えてくれるだろうか。他の女でも買って抱けば忘れることもできるだろうか。いや、余計に辛くなるだけだ。逃げてしまえば苦しむことを身を以て知っただろう。
 濡れた髪が視界を遮る。鬱陶しそうにそれを払うと、自宅前に人影が見えた。それは傘も差さずじっと戸口の前に立ちすくんでいるようだ。近づき目を凝らしてみる、その影はまだこちらに気づいていないのか視線を伏せている。男は持っていた風呂敷を落とした。何度も目を拭って確認する。

「……雛」

 男の声に反応して人影は顔を上げそちらを見た。深緑の髪、紅の服はすっかり雨に濡れ男が来るずっと前から家の前にいたことを裏付けていた。雛の顔は驚愕から悲哀に変わり、踵を返して男から離れようとする。ここで別れてしまえばもう二度と会えないかもしれない。男は必死で手を伸ばす。か細く冷たくなってしまった雛の腕を捉え強く握りしめた。離さないように、もう離れないように。雛は観念したように肩を落とし、ポツリポツリと呟くように話し始めた。

「何度も忘れようとしました。何度も何度も何度も……けれど、瞼を閉じてしまえば思い出してしまうのです。私があなたの厄を集めにいき、あなたは素っ気なく私をあしらう。そんな日常で満足していたのに……日を増してあなたの存在が大きくなっていってしまう。もう抑えきれなくなってしまった。あなたの傍に、あなたの近く、あなたの人生に、共に生きたいと思ってしまったのです……馬鹿みたいですよね、厄神なんかに惚れられたって誰も嬉しくなんかないのに……」

 自嘲気味に笑う雛の頬に雨粒とは違う滴が流れる。男の手を取り、その手を温めるように雛は両手で包み込む。感情が噴出したのか、雛の目から大粒の涙が零れだす。包んだ手を胸の前に持っていき彼女は男を見つめた。

「愛してくれなんていいません。けれどこれだけは覚えておいてください。独りで……独りで悲しまないでください。あなたの悲しむ姿を見て、心を痛める者がいる。独りで苦しまないでください。あなたの苦しむ姿を見て、何もできない自分を許せない者がいる……孤独に逃げないでください。傍にすらいられない、そのことに涙を流す者もいる……どうか、このことだけでも……」

 男の視界が揺らぐ。包まれた両の手から確かな温もりと愛情を感じられる。逃げてばかりだった自分を迎えてくれる。男は雛の手を握り返した。雛もまたその手を握り返してくる。

「俺は……お前を傷つけた」
「……はい」
「俺は……お前が思う以上に弱い人間だ」
「……はい」
「それなのに……なんで俺なんだ? 俺以上にいい男なんて……」

 雛は握っていた手を自分の頬にあてる。その笑顔は泣き笑いともとれる、しかしいつもの優しく朗らかな笑顔。

「あなたを愛しているからです……傷ついても、傷ついても、その人の傍にいたいと思えるくらい、あなたが愛しいのです――!?」

 雛の体は男の胸へ吸い込まれ、包み込まれた。苦しいほど体を密着させ、それでも幸せを感じられる。慟哭を抑えることができず、男はただ彼女を抱きしめることしかできなかった。傷つくことを恐れ、何者もその胸に抱くことができなかった。そんな弱い自分を雛は愛してくれるといってくれた。離したくない。もう二度と。

「傍に……俺の傍にいてくれ……雛」
「えぇ……ですから、もっと強く抱きしめてください……」

 秋雨が二人を濡らす。それでも互いの温度を感じ取れる。空から降り注ぐ雨粒は二人だけの世界を作り出していた。



「お邪魔します」
「ん……」

 雛はいつも通り男の居間に座り、男の仕事風景を眺めていた。男は相変わらず無愛想な態度をとるが、それでも彼女は幸せだった。その傍にいることができる。それだけで。

「あれ?」

 机の上に見慣れない置物が置かれていた。木彫りの人形、しかし彼がいつも作っている仏像ではない。ふわりとした服、頭のリボン、女性と思われるその顔は優しげに微笑んでいた。

「○○さん、これって……」
「木材が余ってたからな……ついでだ」

 男は振り向かずに答えた。しかし髪で隠し切れないその耳は桜色に紅潮している。恥ずかしがり屋で無愛想で、人付き合いも不器用。それでも他人のことを一番に思っている自分の想い人。雛は人形を机の上に置き、男へ近寄る。

「ねぇ、○○さん」
「なんだ――」

 男が振り向いた瞬間、その唇に柔らかな感触が襲う。息をするのも惜しまれ、ただその時を享受するしかなかった。顔を離した雛の顔も真っ赤に染め上がり、恥ずかしそうにまた笑う。

「ありがとうございます○○さん。私、幸せです」

 その言葉と笑顔に男の表情も和らぐ。笑顔というにはなんともぎこちないものだが、目の前の女性を幸せにできた、そんな幸福そうな顔をしていた。


雛さんは健気キャラが似合いますね。


Megalith 2012/03/03


「あかりをつけましょぼんぼりにー♪」
「お花をあげましょ桃の花~♪」

ひな壇の前で嫁と娘が仲良くひな祭りの歌を歌っている。
娘はもうすぐ5歳になる。今日はとても大事な記念日であるひな祭りだ。
これ以上に微笑ましい光景はないだろう、と惚気話ではあるが自負している。
「お父さんも歌おうよー」
娘が目をキラキラさせてこっちを見ている。頼むからこっちを見ないでくれ。勝てる気がしない・・・。
「えーっと・・・歌の続きはなんだったっけ?」
俺は渋々と立ち上がり娘のいる方に向かう。
「五人ばやしの笛太鼓、よ」
「そんな感じだったような気がするな」
娘をひざの上に乗せていた嫁の雛が答えてくれた。
俺は雛の隣に座り、さりげなく娘の頭を撫でる。
「もうっ、わかっているのに聞かないの」
「なんていうか、昔を思い出すなーって思ってさ」
「ええ、そうね。このやりとりが一番最初の出会いだったんだもの」




俺が幻想郷に迷い込んだ時に一番最初にあったのが雛だった。
たまたま山登りをしている時にふと見かけた薄暗い洞窟っぽい所を抜けたら、幻想郷に迷い込んでしまっていた。
迷い込んだ日がちょうどひな祭りの日だったから、気晴らしにひな祭りの歌を歌いながら歩いていたんだ。
桃の花、と歌ったところまで突如目の前に雛が回転しながら現れて
「歌の続きは、わかっているのかしら?」
「五人ばやしの笛太鼓、だろ?」
「ええ、そうよ。でもね、人間はここには着てはいけない場所よ。帰りなさい」
その時俺はあまりの彼女の美しさに一目惚れしてしまった。
その後、彼女のはからいにより運良く人里にたどり着いた俺は、元の世界に戻る事もなく
もう一度彼女に会いたい一心で幻想卿で暮らす事にしたんだっけな・・・。懐かしい。




「いやあ、あの時は思わず目を疑ったかな。まさか空から女神が舞い降りてくるなんてね」
「あれからあんだけ私の話を聞いても、何にも動揺しなかった貴方の方が目を疑ったわよ・・・」
ハァとため息。ひざの上に乗っていた娘は立ち上がってひな壇の前ではしゃいでいる。
「何ていうかさー。あまりの可愛さにそれどころじゃなかったんだよ」
「何それ、ほめてるつもり?」
「真心のつもりだけど?」
雛は照れながら俺の肩に手を添えて、俺を見ると
「ふぅん。じゃあ今の私は?」
頬を若干赤く染めながらはにかんできた。
「もちろん、今でもあの時と変わらないよ。雛」
思わずギュッと抱きしめてしまった。
「ちょっとっ、娘が見てるわよ・・・!」
「なんだよ、お前から話をふっといてさ~っ」
「いや、あの、その。ちょっと、やりすぎたわよ?ってきゃあ!」
雛が恥ずかしそうに抵抗してきたせいでバランスを崩してしまい、そのまま雛を押し倒す形で前に倒れてしまった。
「○○・・・」
「雛・・・」
顔を真っ赤にしてこっちの様子を窺ってくる姿に俺は思わず理性が崩壊してしまった。
雛の顎に手をあて、目で合図をすると雛も覚悟して目を瞑る・・・。
「お父さんお母さんずるいー!」
ふとふりかえると娘がこっちを見て駄々をこねていた。
イカンイカン。危うく二人だけの世界に入るところだった。
あわてて元の体勢に戻ると、娘は俺と雛の間に割り込んで座ってきた。
雛に目線で合図を送ると、しょうがないわねという返事代わりの微笑みが帰ってきた。
「続き、歌おうか」
「うん!」




我が家のひな祭りが終わり、家族で川の字になって布団に入る。
娘は既に熟睡モードで、すやすやと寝息を立てている。
「もう。さっきのまま行ってたら大変な事になってたわよ?」
雛がこっそりと耳打ちしてくる。
「ごめんごめん。つい思わず暴走しそうになった」
「したくなったら、この子がいない間にいつでも求めていいんだから」
「えっ!?ア、アハハ、考えておくさ・・・」
思わず意表をつかれてしまい苦笑いしてしまう。
雛は満面の笑みでしてやったりという表情をしていて、こりゃやられたなと心の中でつぶやいた。
「ふふっ。それじゃあおやすみなさい、アナタ」
「ああ。おやすみ、雛」
雛と軽いキスを交わしてはにかみ合い、そして間で眠っている娘の頬にもそっと同時にキスをして眠りについた。


Megalith 2012/05/17


 僕は、一人だった。

 それは気がついたときから。

 いや、あるいはもっと前からだったのかもしれない。

 誰かが気にかけても、何かが起こって離れていく。

 事故、災害、人間関係、仕事、金。

 ありとあらゆるものが、僕から他人を奪っていった。

 そうしているうちに、誰かが僕を指して叫んだ。


 「疫病神!」


 それはただの冗談だったのかもしれない。

 ひょっとしたら、軽い気持ちで僕をそう呼んだだけかもしれない。

 けれど、次第に人々の目が変わっていくのが分かった。

 今まで知らなかった人たちも、僕を見て叫ぶ。


 「疫病神!早くどこかに消えろ!」

 「そうだ!お前なんていらない!」


 いつしか、僕は忌避される人間になっていった。

 一種のスケープゴート。

 人間が集団を持つ以上、仕方の無いことではあった。

 ただ、それに運が悪い僕が選ばれた。

 それだけのことだった。


 誰にも話しかけられないし、気にも留めて貰えない。

 関わったら、不幸が訪れるから。

 ただ僕はじっと、隅で大人しくしているだけだった。

 そうしているうちに生きているのか、死んでいるのか分からなくなっていった。

 生ける屍、まさしくその通りだった。














 そんなある日、一人の女の子に出会った。

 髪を前で束ねて、赤い服を着た女の子だった。

 厄神である彼女も、僕と同じで人々に嫌われていた。

 可哀相だと思ったけど、僕は救いの手を差し伸べることが出来なかった。

 きっと、彼女を不幸にしてしまうかもしれなかったから。

 辛い思いをしているのに、さらに辛い思いをさせるわけにはいかなかったから。


 「……あなた、厄がついているわね」

 「……厄を吸い取ってあげましょう」


 いつに聞いたか分からない、久しぶりの他人の言葉を耳にした。

 嬉しかった。

 こんな僕でも気にかけてくれる彼女が。

 でも、だからこそ。


 「………やめてください、別に頼んでいません」


 差し伸べられた手を、自らの意思で振り払った。

 きょとんとする彼女を、さらに責め立てた。


 「邪魔です、帰ってください」


 悲しそうな顔をして彼女は帰っていく。

 心が痛んだけど、それでも彼女を守れたんだと思えば辛くなかった。

 また、一人になった。












 次の日も、彼女はまたやってきた。


 「あなた、そのままだと死ぬわよ?」

 「いいです、誰かが不幸になるくらいならそのほうがマシですから」


 自分だけが助かり、誰かを蹴落とすところなんて見たくない。

 何をしても裏目に出る。

 それくらいなら、始めから何もしない方がいい。

 ただじっとして終わることを待っていればいい。

 僕に出来ることなんて、それくらいしかないんだから。


 「来ないでください、誰とも会いたくないんです」


 以前よりも悲しそうな顔をして彼女は去っていった。

 この前よりも、心が痛んだ。

 また、一人になった。  















 それでも、彼女は僕に会いに来た。


 「………あなたを放っておけない、本当にこのままだと……………」

 「いいです、別に」


 どこまでも僕を心配してくれる、そんな彼女が好きになっていた。

 けれど、想いを伝えたら。

 きっと、きっと何もかも裏目に出る。

 そんな自分が許せないから、僕は彼女を突き放した。


 「僕はあなたが嫌いです、施しを受けるつもりはありません」


 泣き崩れる彼女を、ただただ見ているだけだった。

 心が張り裂けそうになるくらいに痛んだ。

 また、一人になった。














 あんなに酷いことを言われたのに、彼女はまたやってきた。

 性懲りもなく、僕に救いの手を差し伸べに。


 「どうして、どうして僕に会いに来るんですか?」


 彼女に対して、嫌いといったはずなのに。



 「あなたが優しい人だから」

 「なのに、あなたは人を不幸にする」

 「見ていて可哀相だった、助けてあげたかった」


 見抜かれてしまった。

 同じもの同士だからこそ、分かってしまうんだろうか。


 「私のことが好きだからこそ、あなたは私を嫌いと言わざるを得なかった」

 「………何もかも、私の身を案じてくれたから」

 「違います」


 もう何もかも筒抜けだった。

 心の内まで、何もかもお見通しだった。


 「ただの勘違いです、そう思うあなたが大嫌いだ」


 また、彼女を泣かせた。

 心がどんどんバラバラになっていく。




 泣きながら彼女が踵を返した瞬間、体が勝手に動いていく。

 ――――――――止まらない、もう止まることはできない。



 「…………え?」

 「………嫌い、なんかじゃない」




 「全部嘘だ、あなたの言うとおり」






 「僕は、あなたが好きだ」







 「大好きなんだ」






 そう告げた瞬間。

 振り返り、僕に向かって飛び込む彼女を抱き止めた。





















 あの日から、彼女と一緒に過ごすようになった。

 厄神と一緒だからだろう。

 人々の見る目は厳しくなり、本当に空気のようになっていった。

 誰も僕の話をしないし、そこにいないかのような対応をしてくる。

 皆の中にある僕の居場所は、どこにもなくなっていた。



 「雛」


 「どうしたの?」


 「ありがとう、これからも一緒にね」


 「何を言っているの?当たり前じゃない」



 でも、もう寂しくなんかない。

 僕は、一人じゃないから。



気がついたら書いている、何故だ……

思いついたので一つ。

厄神様は献身的なイメージ。



Megalith 2012/10/29



 風鈴を鳴らしていた風は徐々に冷たさを増していき、耳障りだった蝉の声も紅葉が落ちる音へとすげ変わっていた。どことなく淡い寂しさを感じながら、男はふと昔を振り返る。幻想郷に来てから季節の節目が妙に色濃く思える。
寒さに耐え凌ぎ過ごした冬。啓蟄も過ぎ万物が萌え息吹く春の到来は人妖問わず心躍るもので、桜の咲く頃になると待ちくたびれたと言わんばかりに鬼の少女が宴会を催す。といっても、あの鬼は年がら年中何かにつけて酒を飲みたがるので春だろうとなんだろうと関係ないが。
 梅雨を越すといよいよ夏真っ盛りだ。今まで見たこともないほど澄み切った青空に雄々しく聳える入道雲は圧巻の一言。夜になると虫と蛙の声とともに天と地で瞬く生命の光を眺めたことはいい思い出だ。そして今、妖怪の山は紅と黄金に彩られている。そろそろ守矢の二柱も冬籠りに向けて準備を進めている頃だろうか。鉄とコンクリートに囲まれた以前の生活では味わえない多様な四季の顔に触れられる喜び。フッと男は顔を綻ばせた。

「どうかなさいました?」
「いや、なんでもない」
「急に笑うんですもの。何か嬉しいことでもありましたか?」
「あー、うん。雛の太ももは柔いなと思ってな」
「まぁ、○○さんの助べえ……フフフ」

 男の頭を乗せている太ももの主は満更でもない微笑みを浮かべた。鍵山雛、妖怪の山に住む厄神であり現在では異境から来た人間の男と所帯を持っている。人間と神が結ばれる、その出来事に最初は驚愕と好奇の視線を受けたこともあったが、今では『妖怪の山のオシドリ夫婦』と文屋が報道するほど周知のこととなった。
 山の麓に建てられた小さな茅葺屋根の家。男は時折人里へ降りては農作業の手伝いや雑用をこなし生計を立てていた。決して贅沢をいえる暮らしぶりではない。しかしこうして、夫婦となった者同士助け合っていくことに今は満足している。

「出雲大社の集会はどうだった?」
「はい、例年通り。恙なく」
「もう少しゆっくりと見て回ればよかったのに。幻想郷の外に出ることなんて滅多に無いんだから」
「クスクス、○○さんが私恋しさに枕を濡らしてるんじゃないかと思いましてね」
「この、言わせておけば」

 愛妻に耳垢を掃除してもらいながら、男は彼女について考えていた。雛は気立てもよく、共にいれば不幸を招く厄神であっても人妖問わず交友関係が深い。夫婦になってからは常に男より三歩下がって歩くという細やかな気遣いもできる女性だ。仮に自分たちの間に子が授かっても良妻賢母となるであろう確信がある。
 そんな雛はいつだって自分のことより他人のことを優先させたがる。そんな健気な性分も含めて男は彼女に惚れ込んだのだが、それで本当に雛は満足しているのだろうか。雛と出会って、友人から男女の仲へそして契りを結んだ今に至るまで、男は彼女が自分に対して何かを要求した記憶がない。

「だいぶ綺麗になりましたね」
「……なぁ、雛」
「はい、なんでしょう?」
「どっか行きたい場所とかあるか?」
「うーん……○○さんと一緒ならどこでも」
「……何か食いたい物とかあるか?」
「○○さんとなら何でも。どうしたんですか? 急に」

 これだ。言われて悪い気持ちはしないのだが、男は口を尖らせ頭を掻く。勘のいい彼女は男の反応を見て、少し困惑した表情を浮かべながら夫を見下ろしていた。

「……ご不満でしたか?」
「いや、不満って言うことじゃないんだが。雛、少しは俺に甘えてもいいんじゃないか?」
「え……?」

 本当に人は予期せぬことが起こると目を丸くするらしい。目を見開いていた雛は、困ったように微笑んだ。しかし男の真剣な眼差しを受け、少しばかり視線を落とす。妻の心中を察することができないほど、疎遠な関係ではない。厄神として生き、他人の不幸を背負い他人の幸福を願ってきた彼女は、自分の幸福に関してとんと疎かった。誰かを支えることはできても誰かに支えてもらおうという気すら考えなかった雛の生き方に、男は自分なりの変化を与えたかった。

「俺は……普通の人間だ。能力も何もないただの人間だ。それでも、俺の手の届く範囲ならお前の願いを叶えてやれることができる。本当に人並みだけど、お前の我が侭だって聞いてやれる」
「で、ですが……私は○○さんとこうして一緒になれて、それだけで十分幸せです。これ以上の幸せを願ってしまうと……なんだかすべて夢幻のように消えてなくなってしまうんじゃないかって」
「馬鹿だな。俺はどこにもいかないよ。ほら、心配しなくてもいい。旦那が嫁の願いを叶えてやるって言ってるんだ、そうそうないことだぞ?」

 気恥ずかしさを滲み出して雛は少し俯いた。沈黙の間、男は妻のどんな願いでも叶えてやろうと息巻いていた。といっても雛のことだからそうそう突拍子のない願望を言わないだろうという下心もないとは言い切れなかった。
 少々考えこんでいた雛は、照れ臭そうに笑うと男に持っていた耳かき棒を手渡す。

「……耳かき?」
「えぇ。誰かに耳を掃除してもらったことがないものですから……こ、このようなお願いで非常に恐縮ですけど」
「いや、よしわかった」

 男は雛の太ももから頭を持ち上げ彼女と向かい合うように胡坐をかいた。男の意図を理解してもやっぱりまだ遠慮がちな雛だったが、『乗せろ』とばかりに夫が自分の太ももを叩く。はにかみながら雛は男の体に身を委ねた。
 翡翠色の美しい長髪にフリルのついた大きいリボン、少し低めだが太ももを通して雛の体温が伝わってくる。慈しむように彼女の髪を梳くと、くすぐったそうに身を縮めた。指を通せば流水のようにその間から抜けていく。心地よい手触りももう少し楽しみたかったが、下から「ちょっと」と催促されたのでさっそく掃除に取り掛かる。

 もみあげ付近の髪を払うと小ぢんまりとした可愛らしい耳たぶが現れた。いきなり中には入れず、外側から竹の棒で掻いていく。正直言って男も人の耳かきをすることは初の体験だった。生憎手先の器用さは誇るほどのものでもない。女体を傷つけてはいけないと少し力を抑えめに耳垢を取っていった。時折「……っん」や「……あ、いい」など艶やかな雛の声に心中を乱しながらも男は作業に集中する。

「中に入れるぞ? 痛かったら無理しないでちゃんと言えよ?」
「はい、とても気持ちいいですよ……」

 だんだん耳の奥のほうに進んでいく。その頃になると男もだいぶ慣れたようで、力の加減を変えながら耳かきを動かした。不精な性格ではない雛の耳はさして掃除をしなくても綺麗なものだった。それでも初めて自分が頼られる存在になれたことに男自身とても嬉しく思える。
 うっとりと目を閉じる我が妻の横顔を眺めていると、むくむくと湧き上がる衝動。耳かきをゆっくりと引き抜き彼女の耳の近くに顔を近づける。吐息も聞こえる距離、男は耳めがけてフゥーっと息を吹きかけた。途端「ひゃん!」と普段の彼女からは聞けない悲鳴をあげる。男が顔を離すとジト目の彼女が少し頬を膨らませていた。

「もう……吹きかけるならちゃんと言ってくださいよ。不意打ちだなんて……」
「あはは、ごめん。ついやりたくなってね、はい片っぽ終わり。反対側向いて」
「むぅ……」

 少し拗ねながらも素直に言うことを聞く雛が可愛くて、優しく頭を撫でる。一撫でするごとに彼女の表情も柔らかくなった。たまに男の太ももへ頬ずりするようすは猫のようで、初めて見る雛の一面に自然と顔がほころんだ。

 秋の昼下がり。縁側で二人一緒に過ごすこの時が永遠に続けばいいのにとそう願う。しかしそれは叶わぬ夢物語。人と神では生の概念から異なる。自分はやがて彼女を残し黄泉の国へと旅立ってしまうだろう。神という種族が送る時間の前では、自分と過ごした日々など刹那に消える泡沫の夢に等しい。男は耳かきを動かしていた手が止まっていることにも気づかず、ただ彼女との惜別の日を頭に浮かべていた。

「……○○さん」
「ん、あぁ。すまん、ちょっと考え事……」
「もう一つだけ、お願いがあるんですが」

 そういうと雛は体を正面へと向け、仰向けに男を見つめる形をとる。色白で整った顔立ち。こうやって見つめあったのはいつぶりだろうか。男はじっと妻の願いに耳を傾ける。

「最近、私に『愛してる』って言ってくださらなくなりましたね?」
「うっ……そういえば」
「最後に聞いたのは確か、○○さんから結婚の告白をされたときでしたっけ」
「よく覚えてるな……」
「女という生き物は、こういうのを生涯忘れないものですよ……私の我が侭です、今日は聞いてくださるのでしょう?」

 悪戯に微笑む雛、もしかしたら先ほど息を吹きかけた復讐かもしれない。普段から一緒にいる仲だが、いざ互いの愛を確かめるというとなかなか緊張するもので。口の中が変に乾く。女神とも悪女とも取れる微笑みで見つめ返す妻。しかし、自分が生きているうちに何回彼女に愛を伝えられるだろうかと思うと少しずつ落ち着きを取り戻していく。雛の顔を両手で優しく抑え、しっかりと彼女の目を見据える。

「雛」
「はい」
「俺は恐らく……いや、絶対にお前を不幸にしてしまう。先のことになるだろうが、お前の傍にずっといられない俺を許してくれ」
「……えぇ」
「だから、お前と過ごせるこの一瞬一瞬を大事にしていきたい。雛、お前のことを愛している。俺が生きている間、お前をずっと愛し続ける。俺が死んだとしても、ずっとずっとお前のことを想いつづける。雛、好きだ」

 思いの丈を吐き出し、胸中から何かが抜けたようにスッキリとした心地に浸る。そっと男の頬に手が重なった。少し冷たい柔らかな女性の手。その持ち主は目尻に涙を溜めながら、じっと男を見上げていた。

「私も……あなたに会えて、あなたに恋をして……あなたを愛することができて……幸せです」
「うん……うん……」

 男はその手を取り、何度も頷いた。たとえこの身が滅びる日がこようとも、その一時まで彼女を愛する。男は頂に沈む夕焼けにそう誓った。


雛は甘え下手なイメージ


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最終更新:2013年05月11日 23:43