「緋色の空は想いを乗せる天の色。故に―――緋想天」
口に出た言葉は、誰に聞こえるように言ったのではなく、ただなんとなく口から出た言葉だった。
「こうした風景も、天界からしか見えないよなぁ」
寝転がった草木から身を剥がし、ぶつぶつと独り言を述べている男はゆらゆらと歩く。
ふと見下げる下の風景。雲がかかり、まるでそれは地上の風景をシャットアウトするフィルタのようだった。
「緋想、非想、秘想………想いに焦がれ、想いに敗れ、想いを貫けないこと」
骨がバキバキと鳴るのも構わずに背伸びをすると、ややあって彼は一つの結論を出した。
「いいところだ、ここは」
「何言ってんのさ気持ち悪い」
「何だよ酒呑童子。人が気持よく天界の考察をしてるってのに」
「それだから気持ち悪いってのよ。一人でぶつくさ呟くな」
彼の背後に現れた幼子。いや、実際生きてる年月は相当なものだが、見た目がそうなのだ。
酒呑童子、伊吹萃香である。
彼女は自前の瓢箪から直接呷り、今度はその瓢箪を彼へと投げ渡した。
キャッチし、彼は尋ねる。
「いいのか?」
「別にいいよ。あいにく、枡もぐい飲みもないしね。アンタもいちいち気にしないだろ」
「まぁな」
そう答え、彼は直接瓢箪に口をつけて中身を呑んだ。
当然その中身は、酒。それもなかなか上等なもの。
彼女が自分の瓢箪の中身を他人に飲ます、しかも直接瓢箪を投げ渡すというのは非常に稀な行為だ。
「ぶはぁ。朝からお酒はいいねぇ」
「つまみが欲しい?」
「その通り」
けれど味のそっけない桃くらいしかこの辺には生ってないので。
「返すぜ。さんきゅ」
「おう」
投げた瓢箪は、綺麗に彼女の手の中に収まった。
萃香がすたすたと彼へと近寄っていく。
彼は彼女の歩調に合わせ、自然と並んで歩く形になった。
ごつごつとした石がちらばる足元を、しばらく歩いていると萃香が口を開く。
「ここには慣れたかい?」
「ん。それなりにな」
「そっか……それにしても早いもんだ。お前が、ここにきてから既に三年だよ」
「そういやそうか」
外の世界にいた彼が、幻想郷にやってきて早三年。
唐突に幻想郷へと迷い込んだ彼は、妖怪たちに揉まれながら三年間を生きてきた。
初めて会う天狗という種族。
見た目に反して強靭な肉体を持った鬼という種族。
意地の悪いことしか言わないひねくれた吸血鬼という種族。
素手でしか戦う手段がなかったから、彼女らとぶつかりあう時は弾幕ごっこではなくただの殴りあいだった。
それでもなんとかかんとか生きてきた彼は、やがて一つの場所に留まることになる。
天界。天人の住む、有頂天へと。
「懐かしいね。お前さんときたら、愚直に突っ込んでくるしか能がないんだからさ」
くつくつと忍び笑いを漏らす小さな百鬼夜行へ、彼は憮然と答えた。
「幻想郷にきて三ヶ月目で異変に関わった身にもなってくれ。正直怖かったんだぞ」
「知ってるよ。あのときのお前さんは、忘れようとも忘れられない顔をしてたからさ」
伊吹萃香の起こした異変。
それは終わらない宴の始まりにして、彼が鬼という種族に関わる切欠となった物語だ。
意味はない。
突然幻想郷に迷い込んだという、八雲紫ですら困惑していた事態の元凶。それが、偶然にも鬼の目にとまっただけのこと。
今まで地底でくすぶっていた妖怪心に火がついたのか、ちょっと脅かしてやろうとしただけの話。
被害者、攫われそうになった彼が土壇場になって引き起こしたのは―――決闘だった。
その時の情景を思い出したのか、萃香は腹を抱えて笑った。
「あの時は面白かったよ。『黙って攫われるほど温厚じゃない。やるなら、俺に勝ってから好きなだけ攫え』ってね。
いつ思い出しても笑い物だ。正直アホだよアンタ」
「けっ。惚れたか?」
「馬鹿言うなよ。……ま、これでも認めてるんだ。私に挑んだ虚弱な人間様は、死にかけた身体でようやく私に届いたってことをさ」
決闘はいたってシンプル。
どちらかが負けを認めるまで。
萃香からしたらただの遊びだ。片目をつぶってても余裕で勝てる。
おまけに彼は素人。外の世界にいた時に殴りあいなんてしたことはあまりない。
……何度も投げられ、死に体となった彼の拳が届いたのは、奇跡だった。
「それからだったねぇ。アンタが、我が身を省みずに妖怪へ挑んでいったのはさ」
「……ふん」
「命が惜しくないのか? って紫と私が何度忠告しても聞かないんだもんな、お前さんは」
弾幕勝負ができない彼が妖怪と対峙する方法は、一つ。
シンプルな殴りだけだった。
もちろんその無謀ともいえる決断を止めたのは、博麗の巫女や白黒の魔法使いなど多々いる。
でも彼は止まらなかった。
「……『妖怪相手に素手で勝てないことを誰が決めた?』ってね。千年前の私なら間違いなく惚れてたよ」
「うるせぇなこんちくしょう」
「ま、それから好きなだけ死にかけて好きなだけ殴りあったんだ。もう私らも諦めてるよ。こんな馬鹿に付ける薬はないってね」
「あーもう! うるせぇうるせぇ! こっぱずかしい昔の話を持ってくるんじゃねえよアホ!
だいたいお前らのせいでなぁ、俺がこっちに移住しなきゃならなくなったんだぞ!」
「そうだっけ?」
「そうだよ!」
彼が妖怪を打ち倒すたびに、萃香たちはその勝利を讃えた。
そして当然、その話は尾ひれ背びれが付いていき……噂となる。
彼はそのたびにやってくる好戦的な妖怪に飽き飽きしたのだ。そして彼は住居を変え、誰もやってこないだろうこの場所を選んだ。
……半分は、だが。もう半分は別の理由だ。
「だいたいなんだよ、『鬼を素手で殴り殺した男』ってのは! 誇張表現も大概にしろってんだ!」
「そうだねぇ。逆に殴り殺される寸前だったしねぇ」
「……それはそれでむかつくな」
「お? だったらどうする?」
「決まってんだろ……」
何時に間にか足を止めていた萃香を、敢えて置き去りにして距離を取る。
十歩分の距離を歩くと、彼はくるりと反転した。
その視線の先には、腕を組んだ伊吹萃香がいる。
「やろうってことだ。そうだろ?」
「へへ。上等さね!」
ずんと地面を踏みぬく勢いで、彼と萃香は構えを取る。
当然、その構えは弾幕ごっこ用ではない。
単純な、殴りあいの構えだった。
萃香の不敵な笑みは、やがて鬼の残虐なソレへと変化していく。
「さて。ってことでとりあえず今までの記録を確認するか。何勝何敗だっけ?」
「今まで通算四十九戦五勝四十一敗三引き分けで、俺の負け越しだ」
「そうかいそうかい。じゃ、記念すべき五十回目だね。かかってこいよ。そんでもって『彼女』に看病されてきな!」
「やかましいぃいい!!!」
先手は、彼の鋭い右ストレートから。
それを彼女が綺麗に掴み、捻りあげ、そして――――
「……っで、負けちゃったんだ」
「そうだよ」
「かっこわる」
「うるせぇー」
大の字になって寝っ転がる彼を癒しているのは、長い髪をした女性の天人。
膝の上に彼の頭を乗せ、呆れたように頭を撫でていた。
くすぐったそうに彼が彼女の、比那名居天子の手を取った。
「で、どうしてここがわかった?」
天子は一瞬だけきょとんと目を丸くし、その問いに不機嫌な色を混ぜて答えた。
「衣玖が教えてくれたわ。ご丁寧に、『貴方の愛する彼氏が倒れてますよ』ってね」
「あー、なる」
綺麗な羽衣を纏った竜宮の使いを思い出し、彼は苦笑した。
「見てたなら助けてくれりゃよかったのに」
「……許すわけないでしょバカ」
「なんで?」
「私以外の誰かに貴方を抱かせるなんて、死んでも御免だわ」
「こわっ。独占欲こわっ」
「うるさい。……っで、どうして貴方がこんなところで倒れてるのよ。今日は私と、その―――」
口元をもごもごとさせ、何かを言いかけた彼女に代って彼が口を開いた。
「デートだったんだもんな」
「そ、そうよ! それも初めての!」
「あれ? そうだっけ?」
「そうよ! だってアンタってば、いっつもいっつもこんな風にやんちゃして、私が介抱しに来てって感じじゃない!」
「喧嘩を売った奴が悪い」
「買う奴も悪いに決まってんでしょ!!」
天子はそう言って、すぱん、と彼の頭を叩く。
そして何を思ったのか、重い重い溜息を吐いた。
「はぁ。これじゃ、いつが初デートになるかわからないわ」
「いいよ別に」
「いやよ! 私の夢を壊すな!」
「あれぇ? 欲を捨てたのが天人じゃなかったっけ?」
「欲じゃなくて夢! 愛する人と一緒に手を繋いで歩くのが夢なのよ!」
「……うわぁ」
「引くなバカ!」
再び彼の頭は叩かれた。
「うー、頭ががんがんする。あまり大声で叫ぶなよ」
「叫ばれるようなことをしないで。お願いだから」
「萃香にいえよ。アイツ、全力で投げやがった。死ぬかと思ったぜ」
「一回くらい死んだらいいんじゃない? そしたらマトモな頭になるかも」
「そうだな」
「……え」
冗談を、あっさりと肯定した彼に、天子は絶句した。
気付いているのか、それとも気付いていないのか、構わず彼は続けた。
「お前みたいな魅力的な女の夢を叶えてやれないなら、死んだほうがマシかもしれんな」
びっくりするほどあっさりと、彼の口から出た言葉は、天子にとってはとても深刻な言葉だった。
「……」
空いた口が塞がらない。
天子は、放心したように虚空を見つめ、ややあって―――両目から滴が垂れ始めた。
「っ」
「なっ……ちょ、天子?」
「ひぐっ、ぐすっ」
止めようと思っても止まらない。
原因は一つ。彼の、「死」という単語に反応しただけのこと。
そっけなく彼女が彼に接していたかもしれない。けれど、天子は、彼のことが大好きだった。
だから、彼の死を想像してしまった。脆い人間の末路を、あっけなく動けなくなった彼を。
余計に溢れだす涙は、彼の顔全体を濡らしていく。
困惑する彼に、彼女は切願した。
「お願いだから、そんなこと言わないで」
「………」
「デートなんてできなくてもいい。こうして貴方に会えればそれでいい。
でも、会う度に傷つく貴方を見るのが嫌だ。包帯とか薬とか、本当は持ってきたくないのよ? 好きこんで治療したくないのよ!?」
「天子、」
「貴方が強いのは知ってる! 拳だけで妖怪と渡り合えるのは知ってる! 貴方が私に説教してくれたことは一度だって忘れないわ!」
「……あの緋想の空のときか」
「ええ……覚えてる?」
「もちろん」
わがままな天子が引き起こした異変。
空を飛ぶことができない彼は、空へと行けない。
だからその時ばかりは何も関わらずにいた。
けれど、博麗神社が二度目の倒壊と起したとき、彼は彼女と出会った。
唯我独尊、天上には自分しかいないと信じ込んでいる比那名居天子と。
「なつかしいな……どうやって天子に惚れたんだっけ?」
「知らないわよ。私は、貴方に頬を叩かれてからだけど」
弾幕ごっこのできない彼は、それでも彼女へと挑戦した。
迫りくる緋想の剣の斬撃と弾幕。
逃げず、引かず。
彼の愚直なまでの前進に、天子は思わず剣を取り落としかけた。
どうしてここまでできるのか。たかだか人間が、何もできない筈の弱い人間が。
疑問が隙となり、彼は天子の頬を力の限り引っぱいたのだ。
そのときの台詞が―――
「―――『暇潰しで迷惑かけるなお転婆! そんなに遊びたきゃいつでも俺が付き合ってやるぜ!』……って」
「あー、そうだったな」
「今思うとプロポーズ一歩手前よね。でも―――」
そんな貴方でも、と天子は悲しそうに言う。
「やっぱり人間だもの。そんな無茶なこと、いつまでも続くわけないわ。
妖怪相手に戦おうとするのを極力避けるために、貴方をここに呼んだのに。これじゃ地上にいたころと変わらないわ」
「そうだな……」
「だからお願い。せめて私を頼ってよ。どんな妖怪が来ても、貴方に戦って欲しくない。代わりに私が」
「嫌だね」
ばっさりと、彼は彼女の言葉を遮った。
「俺は嫌だ。いくら天子が強くても、俺には俺の戦いがある。引けないし引かない。
戦える力が欲しくて、これまで死ぬ気でやってきたんだ。今更捨てるなんて、できない」
「でも! 私は―――!」
「わかってるよ天子。
だから約束する。俺は絶対に死なない。寿命まで必ずお前と一緒にいることを」
「そんなの……口約束だわ」
「ああ。だから誓う。何かの対価をもって、お前に誓うよ」
「対価?」
「……平たく言えば契約?」
「なんで疑問形なのよ」
天子が吐いた溜息。
けれど、彼女の涙はいつの間にか止まっていた。
天子は頬に手を当て、何事か考え始める。
「対価、か。なんでもいいの?」
「ああ。そのぐらいじゃなきゃ、成り立たないだろ」
「ふーん」
「……やっぱり容赦してくれ」
「よわっ」
しばらくして、天子は何かを思いついた。
何度も思い返し、頬を緩ませながら、けれど若干頬を赤くさせて彼女は言った。
「何でもいいのよね? そう言ったわね?」
「うぐ、た、確かに言ったが」
「言質は取ったわよ。じゃ、私が願うのは―――」
「ぐっ。来るなら来い! できれば俺の財布が生きていけますようにー!」
すると、いきなり彼の視界が真っ暗になる。
どうやら天子が彼の眼を掌で覆ったようだ。
そのことに驚く彼だが、次の衝撃はその上をいった。
「―――っ」
「っ!?」
塞がる唇。
硬直した彼に、天子は構うことなくさらに奥へと舌を突っ込んだ。
「!?!?!?!?!?!?」
そうして十秒程度だろうか、いつの間にか彼女の頭に回していた腕を、彼はゆっくりと解く。
「殺す気か!?」
「第一声がそれ!? 私のファーストキスよ!?」
「知らねぇよ! っていうか俺もファーストだよこんちくしょう!」
「男のファーストって価値が薄いと思わない?」
「じゃあセカンドでしたって言ったら?」
「半殺しで」
「ですよねー」
「それよりも! 何か他に言うことはないの!?」
「何をどう言えと……?」
いきなりのキスである。
強姦魔として引けばいいのだろうか。いや、体勢が体勢なので無理だが。
考えていると、天子の顔に影が落ちているのが見えた。
「……キス、嫌だった?」
「そんなわけあるかぁあ!!」
これは瞬時に出た。
同時に、天子の顔が見る見るうちに明るくなっていく。
そして、彼女は彼に言った。
「ねぇ」
「ん?」
「私が貴方に願うのは、たったひとつ。―――永遠の愛を誓って。
永久の愛情を、私に誓って欲しい」
「……それは難しいな。俺は人間だぞ? 永遠は歩めないぜ」
「なら永遠に歩めるようになって。それぐらいのわがまま、貴方の甲斐性でどうにかしてよ」
「それぐらいって……簡単に言うなよ」
彼は天子の顔を退かせ、ゆっくりと立ち上がった。
溜息が出る。けれど、これは嬉しいから。仕方なく出ているのだ。
座り込んでいる天子の膝の裏に手を入れ、背中をもう一つの腕で支える。
そうして、彼は勢いよく持ち上げた。
「きゃぁ!」
「じゃあ早速愛を注いでみますか。とりあえず、デートに行こう」
「ちょ、ちょっとちょっと待ったぁ! この状態で行くの!?」
「あん? 文句あるか?」
「あるわよ! だってこれって―――お姫様だっこでしょ!」
「いちいちうるせぇな。ほれ、とっとと行くぞ。とりあえず桃食いに。あ、ちゃんとあーんしてくれ」
「? あーん?」
「食べさせろって意味。あんだーさたんど?」
「な……」
「手と口以外は使うな。あ、できれば口がいいな。ポッキーゲームならぬ桃げーむとか」
「ななな!」
「安心しろ。上手く出来たら――
――夜は可愛がってやるからさ」
「っ!!」
天子はぼんと頭から煙を吹き出した。
彼が笑う。
天子は照れた表情で嬉しそうにその笑顔に答える。
天界に住む人間と天人のカップルは、今日も絶好調である。
───────────────────────────────────────────────────────────
天は快晴。暑い日差しから逃げるように木陰へと腰を下ろしている二人の姿があった。
片方は、男。それも青年といった年頃だ。
片方は、女。長い髪を持った美しい天人の女性である。
天界においては、比那名居天子とその相方、というのが正しい表現だろう。
もっとも、いつも振り回されているのは彼の方なのだが。
木を挟むように座った二人のうち、ややあって女性の方が口を開いた。
「足りないわね……」
ぽつりと、そう漏らした声は、しかし強い日差しの前には霞んでいった。
「足りないわね……」
独り言なのだろうか、彼女はその後も何度か「足りない、足りない……」と言い続けた。
そうして天子の発言回数が両手両足の指の数を越えそうになると、
「何が?」
彼が反応した。
その声はあまりの暑さのせいか、若干参っている色を混ぜていた。
対して彼女は、まるで彼の言葉を待っていたかのように、軽やかに彼へ返事をする。
「足りないのよ」
「いや、ちゃんと答えろよ」
きちんと返事はしなかったようだ。
彼は頭を捻り、彼女が足りないといった理由を探した。
結果、彼は一つの答えを導きだす。
「お前の頭が?」と言いそうになったが、もし実行した場合、彼は必然的に死ぬ(文法的に間違ってるだろうが、間違いではない)。
ということでこっちだろうと、もう一つ思いついたことを言った。
「肉付きが?」
「……ちょっと待ちなさい。何でそうなった?」
聞き捨てならない、と天子は首を彼の方へと回す。
当然そこには木しかないのだが、その向こう側には間違いなく彼がいる。
木越しに彼が喋った。
「だってお前、ぜんぜんないじゃん」
天子は何が、とは聞かなかった。
代わりに緋想の剣の先をゆっくりと木の腹に沿え、
「あ、間違った」
彼女には、木が命乞いしているように見えた。
訝しげに彼女は聞き返す。
「なに?」
「お前に足りないもの―――それは」
「それは?」
「胸」
天子は勢いよく緋想の剣を繰り出した。
比那名居天子は性質が悪い。
腕も足も腰も細い。全体的に細い。そのくせ美人だ。
天界でも言い寄られることが多々あるというし、見合いの話も半端なく多い。
女性として持つべきものはほとんど揃っていると思われるのだが……決定的にかけているものが二つある。
そして天子自身も自覚している。
一つは性格。
もう一つは―――地雷となっているのでNG。
ちなみに、ついさっき彼が踏んだものだ。
隣り合う形で座る彼と天子。しかし、態度はそれぞれ正反対だった。
「あたたた……ふつう全力でぶち抜くか?」
「本当なら殺してるけどね」
「こわっ!」
違和感のある背中をさすりながら彼が天子へそう言った。
対する天子は、鼻を鳴らして不機嫌気味にそっぽを向く。
「悪かったって。そんなイジけるなよ天子」
「べ、別にイジけてないわよ」
「全く、お前って奴は……」
素直じゃない。
彼は最後まで口にせずに、天子の頭を撫でる。
それを否定せずに受け取る天子は、やはり嬉しいのだろう。
彼が手の動きを止めると、小さな声で天子が声を漏らした。
「あ……」
「さて天子。そんなアンニュイな君に、プレゼントをやろう」
「プレゼント?」
突然だなー、と天子が呆けている中、彼は大仰に立ち上がり、勢いよく彼女に向かって倒れこんだ。
目標は、彼女の膝の上である。
「膝枕をさせる権利をプレゼントふぉーゆー!」
「……普通する方じゃないの?」
「いいんだよ。だって、お前の膝のほうが気持ちいいんだからさ」
「っ」
そう口にしつつ、天子の膝の上に頭を乗せたままの彼は笑った。
「お? 赤いな天子。そんなに暑いか?」
「ば、ちがっ」
「嬉しいならそう言えっての。ちゃんと口にしてくれないとたまに不安になるよ」
「……え?」
最後の言葉は、やけに実感が篭っていた。
しみじみと、彼は言葉を続ける。
「だってお前から言ってくれることって少ないからさ、想いの言葉。たまには俺も甘えたいよ。
それとも、甘える俺は嫌いか?」
お嬢様で超絶自信家でわがままな天子。
今まで数々のわがままに付き合ったことのある彼は、そう思っている。
実のところ、天子に惹かれているからそう思っているだけなのだが、
だからこそだろうか、そんな天子だから、あまり彼に対して言葉をかけてはくれない。
想いを。口にするのはほとんど彼からだ。
度々彼はこうして天子にお願いする。
天子は、普段よりもずっと優しい声で彼に語りかけた。
「……不安になる? 私が、貴方を想ってないんじゃないかって」
「ああ」
「ストレートだなぁ」
苦笑し、彼女は彼の頬を撫でながら笑った。
「バカ。どこをどう見ても、貴方を嫌いになる要素がないわ。自分がどれだけ愛されてるかわかりなさいよ」
「男は言葉で聞きたいのさ」
「女もよ。だから―――貴方も言って。私への想いを、言葉にしてくれる?」
答えず、彼は天子の膝から頭を上げた。
そして向かい合うように座り込むと、静かに天子の身体を抱きしめる。
「暑いよ」
「嫌か?」
「ううん。もっと暑くして」
「ああ」
耳に口元を近づけ、彼と彼女はお互いに囁いた。
「愛してる」
「うん。私も愛してる。ずっと、ずっと傍にいて」
「そういえば、足りないってのはなんだったんだ?」
「あー、なんでもないわよ」
「気になるだろ」
「いいの。だって……今は満ち足りてるから」
───────────────────────────────────────────────────────────
複数の妖怪に囲まれれば、通常の人間は即死である。
だが、何事にも例外は存在するらしい。
五体の妖怪に絡まれた一人の人間は、逆に何故か彼らを追い詰めていた。
振るわれる拳。
―――避けた。
鎌のような蹴り。
―――受け流した。
崩れた体勢。
―――トドメの一撃を。
軸足を蹴り、仰向けに転がった相手に対して、握り締めた拳を叩き降ろす。
下段正拳突きは見事に相手の眉間を打ち抜いた。
これで、三匹目。
突き降ろした拳を上げ、ゆらりと彼は辺りを見渡す。
自分を囲んでいる妖怪の数は、ものの一分で半分以下になっていた。
今しがた、妖怪を殴った人間の男は言う。
「まだやるか?」
ソレに対し、妖怪たちはうんともすんとも言わない。
当然か。
彼らは既に、戦おうとする気力を失っていた。
噂に聞いた「素手で妖怪を倒す人間」の逸話。
その男は霊力も何もないくせに、妖怪と殴り合って勝つことが出来るほど強いという。
だがしかし、どんな下級妖怪も人間より遥かに強い生き物である。
昔から人間は妖怪に対して恐れるしかなかった筈なのに……
だから彼らはそんな噂を信じなかった。
そして確かめたかった。
その結果、彼ら妖怪は、知ることになった。
無論、その人間だって無傷ではない。
体のあちこちには裂傷や打ち身が見られる。酷い箇所は骨折しているかもしれない。
現実は、立っている人間と倒れている妖怪という構図なのに。
だから妖怪たちは知ったのだ。
この男は、紛れもなく妖怪に対して「敵」となりえるほどの強者だと。
「てめぇら妖怪がどうして俺を襲ったとかは聞かない」
男はまだ若い。青年に入ったばかりの顔立ちと声質をしている。
「だからてめぇらが俺を囲って袋にしようとか思ってても肯定してやる。だから―――」
ゆるぎない眼光と、確かな殺意で青年が構えた。
「かかってこい。そんでもって返り討ちにしてやる!」
数分後には、残りの妖怪たちが倒れ伏していた。
「いってぇ……」
自分の家までの道のりを歩きながら、青年はそう呟く。
最近出来たという温泉からの帰り道に、突然複数の妖怪に囲まれたのだ。
おかげでせっかく洗った身体はボロボロ。傷跡は既に血で固まっているものの、痛いものは痛い。
「全く。飽きないなぁ幻想郷は」
元々彼は外の世界から来た。
ある程度年月は経っているものの、一度たりとも外の世界を忘れたことはない。
だから最初は、この妖怪というのにどうしても慣れなかった。
「お疲れ様です」
声のしたほうを振り向く。
そこにいたのは、彼のよく知っている妖怪がいた。
「永江さん」
「はい永江です」
竜宮の使いである永江衣玖。恭しく頭を下げる様子は相変わらずだ。
妖怪、というにも見た目は普通の女性であることに変わりは無い。
今更ながら、彼は彼女のことを妖怪とはあまり思っていないのであった。
故に、
「今日も、ですか」
「……、」
こうして、叱られたとき、妖怪という種族がどういったものかを再確認する。
嘆息し、彼女は告げた。
「いつもより量が多いですね。まあこの程度の雑魚妖怪に負ける貴方ではないでしょうが」
「見てたのか?」
「つい先ほど。加勢しようにも、終わってましたので」
それにしても、と彼女は続ける。
「いつも通り傷だらけで、大丈夫とか言葉をかけ辛いですね」
「うっさい」
昔からずっと自分の拳を振るい続けてきたわけではない。
幻想郷に入り、妖怪と言う種族の強さを知り、そして喧嘩を売られたから買っただけの話。
そうして彼は自然に自分を高めていくようなった。
それだけの話だ。
最終的に彼が手に入れたのは、最強の拳と傷だらけの体。
一生残ると言われた傷跡は二桁に達するだろう。
それ以外ならその倍はくだらない。
これがただ単に、彼だけの話ならば永江衣玖が絡むこともないのだが……いかんせん彼はそういうわけにもいかなかった。
「また総領娘様が、悲しまれます」
「げっ」
彼には一人、恋人がいる。
それもとびっきりわがままで、人一倍寂しがり屋の甘えん坊が。
彼女の口癖は『無茶をするな』。
しかしまあ、彼にとってそれは無理というもので……
「どうか内緒にしておいてくれ」
どうせ彼女が知れば、眦を吊り上げて緋想の剣を振りかぶるに違いない。
そして一通りわめいた後に、今度は泣き出すのだ。
そのことを知っている衣玖は、首を横に振ってそれを否定した。
「無理でしょう。その傷だと隠し切れません」
「うぐっ」
「それに明日はデートでしょう? バレないほうがおかしいでしょう」
「うぐぐぐっ」
「やれやれ……しかし今度は何を罰にされるんでしょうね。以前は『膝枕半日耐久レース』で、その前は『一日キス千回』でしたっけ?」
それは罰になってないような気がするのだが、彼と天子はその点にまるで気付いていなかったりする。
「と、とにかく! 今日中になんとか傷とか隠すからこの辺で失礼するぜ!」
「わかりました。では途中まで送りましょう」
「い、いらない」
「また妖怪に襲われてもいいんですか? 傷が増えますね。最悪骨折でデートがお流れ。総領娘様はどうなることやら……」
「是非お願いする!」
ちなみにデートが流れた場合、彼の家に天子が押しかけて泊まりに来る。
彼としては汚い部屋に女性を泊めたくないし、布団が一式しかないのである意味罰ゲームだった。
……などと思っているのは彼と天子の二人だけである。
さて。衣玖と分かれた彼は、ゆっくりと歩いていた。
去り際に「気をつけてくださいね」という謎の発言を残し、竜宮の使いはふよふよと空へ飛んでいった。
その様子に、彼は人知れず溜息を吐く。
それよりもどうせだからもう一度風呂に入りたかったが、さすがに血塗れの状態で温泉に入るのはどうかと思った。
何より、また妖怪に襲われたらと思うと気が引けたのである。
ということで、とりあえず妖怪とエンカウントすることのない人里まで歩いていくことにしたのである。
歩く、というよりは半分足を引きずっているような感じだが。
それでもなんとか足を動かして、どうにか自分の家まで辿り着く。
彼の家は人里の中にぽつんと建つ一軒家だ。
時間帯が時間帯だけに、周囲の明かりはほとんど消えている。
無論、彼の家も消えている筈なのだが……
「あ? なんで明かりが点いてやがる?」
まさか泥棒か? 不審に思って、彼は自分の中でスイッチを切り替えた。
(めんどくせぇええええええええええ! っていうか今日はアレか!? そういうアンラッキーデイかコラァ!)
むしろ、本物の泥棒だったら明かりなんぞ点ける筈もないのだが、先ほど妖怪たちと乱闘騒ぎをして疲弊している彼にはそんな考えは浮かばない。
体力は残り二分といったところ。全力で動いても長続きはしないだろう。
故に彼が取った行動は、とてもシンプルだった。
まず始めに手頃なサイズの石を玄関とは逆側の窓から投げ入れる。
硝子が割れる音がした。その数瞬後に、彼は一瞬で玄関を蹴破り中へ入る。
狭い狭い屋内に踏み入り、蹴ったほうの足を地面へ着地させてから必殺の拳を構える。
複雑な仕様をしていない自分の家のことは熟知していたため、仮にどこかに隠れていても一目でわかる。
玄関を蹴破り、足を地に着けるまでに犯人の位置は視界に納めていた。
長い髪に桃の飾を付けた帽子。
女性である。しかし彼はその程度ならば容赦しない。
此方を唖然と見ているその姿に、彼は構えた拳を放とうとした。
―――それが、彼の知り合いでなければ情け容赦なく頭をぶち抜いていただろう。
泥棒などではなかった。
幸運なことに彼は知っているのだ。
「……天子?」
体の力を一部一部抜いていき、彼はやっとこさそう口にした。
ややあって、目の前の天人は言葉を返す。
「こんばんわ。なんていうか、斬新な家の入り方よね」
今度は私もやってみようかしら、とぼやく彼女に彼はツッコミを入れる。
「やめろっつーの。っていうか何でお前ここにいるんだよ……」
「あれ? 衣玖に貴方を連れてくるようにお願いしたはずなんだけど。何も聞いてないの?」
「何もくそも……いや」
そういえばわけのわからんことを最後に言ってたな、と彼が考えた後で、重大なことに気付いた。
「ねぇ」
それは、天子の確かな怒気で
「どうして」
それは、天子の震える声で
「アンタの服が血塗れで」
それは、天子の両目から流れた涙だった。
「傷だらけの体してるのかなぁ」
言葉を失った。
今までのどの反応よりも、彼はこんな天子を見た事がなかったから。
「総領娘様」
「のぅわぁああ!?」
背後からの声に、文字通り彼は飛び上がる。
「びびっびびびっくりしたぁああ!? アンタ帰ったんじゃなかったのかよっ!?」
「はぁ。一度救急箱を取りにいっただけですよ」
美しい衣を纏った女性は、手にした大きな救急箱を掲げて言う。
「それよりも総領娘様、これを」
「ん、ありがと」
「それと伝言を承ってきました。総領様からですが、聞きますか?」
「うん」
「『羽目を外すな』だそうです」
「わかってるわよ」
手渡された救急箱を受け取った天子は、涙を拭おうともせずに彼に言った。
「来なさい」
是非もないと彼は感じた。
静々と彼が天子に近寄り、天子の座っている場所まで歩き、目の前に胡坐をかいて座った。
「それでは私は窓と玄関の補修をしましょうか」
衣玖はそう言って外へ出て行く。
部屋の中には、二人だけが残った。
「……服、脱いで」
「……ああ」
それから手当てが始まった。
傷跡を見て、所々で天子が「うわぁ」とか「これは……」のように表情を歪める。
その様子に彼は、居心地の悪さを感じる。
だから彼は無言だった。
時折消毒などで小さく悲鳴を上げることはあるものの、終始無言で顔を俯かせる。
「……」
「……」
一度身体を拭かれて、てきぱきと包帯を巻かれ、十分な量があった包帯が見る見るうちになくなっていった。
いつものことだった。
彼が傷つき、彼女が手当てをする。
そしてその度に天子は言うのだ。
『やめろ』と。
そして彼はそのたびに天子に言うのだ。
『無理だ』と。
故に二人とも無言になる。
言葉を交わすことができずに、お互いが無言で作業をする側とされる側に分かれるのだ。
天子の両目から、既に涙は流れていない。
ふと、彼女の手が止まった。
作業が終わったのかと思って、彼が面を上げると、それが間違いだと気付く。
「なんでかなぁ……」
呟く彼女は、続けて言葉を発する。
「どうして、いっつもいっつも私の話を聞いてくれないのかなぁ」
「天子、」
「いっつもいっっっっつもぉ! アンタは私の話を聞いてくれなくて! それで!」
「……ごめん」
「謝るな!」
握り締めた手が白くなるくらい、天子は怒っていたのだ。
「謝るくらいなら私の話を聞いて!
我慢してきたよ。いっぱい我慢したのよ……いつか、いつかアンタはこういうことを止めてくれるって!
そう信じてた!
私の大好きな貴方は、いつか私の言うことを聞いてくれるって! それでこんなバカらしいことをやめてくれるって!
見なさい!」
そう絶叫して、彼女が差し出したのは、真っ赤なタオルだった。
それは元から赤かったのではない。
白い生地に、彼のさっきまで流れていた血液が染みこんで赤く染まったのだ。
「今日だけでコレだけの血がアンタから流れたの! コレを見てどう思う!?」
「えーと、凄い量だなって」
「ふっざけるなぁ!」
「ひぃ!?」
がばっと覆いかぶさってきた天子に、彼は思わず悲鳴を上げた。
力強く抱きしめられたせいで、傷口にかなり痛みが響く。
「ちょ、天子、痛い……」
「知ってる!」
「おい」
「知ってる、わよ」
「……」
「ねぇ。どうして私が怒ってるかわかる?」
「俺が妖怪と喧嘩ばっかりしてるから……だろ」
「それもあるけど、違う」
ぎしりと音が鳴るほど抱きしめられて、天子は泣きそうな声で言った。
「私は貴方が好き。貴方も私が好き。
所詮は人間で、すぐに死んじゃう貴方と私じゃ寿命が違いすぎてるのは知ってる。それでも貴方は私が良いって言ってくれた」
「ああ。覚えてる」
「元々長く貴方といられることはできないのはわかってる!
本当はずっとずっっっっと一緒にいたいけどできないのは知ってる!
なら……それなら! 少しでも一緒にいてよ! 短い時間を減らそうとしないで、私に構ってよ!」
「天子、」
同じ時間を刻めない。天人と人間とじゃ歩む時間が違いすぎた。
一緒にいたくてもやがて別れは来る。
彼は死に、天子はずっと生きる。
それでも彼は言ったのだ。
天子と一緒にいたい。
彼女ならば、例え自分が先に死んだとしても悲しんでくれるだろうと。
彼はエゴイストだった。
自分が死ぬ姿を見せるより、彼女が息絶える姿を見るのが嫌なのだ。
だから寿命の長さを気にしたことはない。こんな自分でも、彼女が悲しんでくれるなら価値がある人生だったと思えるから。
天子はそれを受け入れた。
だから彼らは一緒にいる。
できるだけ長く、できるだけ共に同じ時間を歩もうと彼女は言う。
しかし彼の行為は、その僅かな時間すらも奪おうとしている行為だと天子は言っているのだ。
自覚は……少しだけしていた。
彼としても、自ら進んで妖怪たちと拳を交えるわけではない。
向こうからやってくるから、迎え撃つしかないだけ。
そう、彼女にずっと言ってきた。
『仕方ない』
『俺のせいじゃない』
言い訳だった。
「天子」
唇を噛む天子へ、彼は優しく問いかける。
「俺はもう二度と謝らない」
それはいつものからかった口調ではなく、真剣な声だった。
彼女はその言葉に耳を傾けるだけ。
「俺のやってることで、もしお前を悲しませることがあるなら素直に謝るよ。
でもこればっかりは謝れない。前も言ったけど、俺の幻想郷での生き方、アイデンティティなんだ。
天子のことは好きだ。愛してる。
だからわかって欲しいっていうのは……ダメか?」
「それが、私のことを蔑ろにしてても?」
「……」
「わかってるわよ。アンタがそういう人だってことも。全部了承して付き合ってるんだから」
自嘲気味に呟き、暗い笑みで笑う天子。
それでも、と彼女は続けた。
「これ以上貴方を求めちゃいけないのはダメなのかな?
私のことが本当に好きだったら、少しは、ほんの少しでいいから私のことを気にかけてほしいかも」
そうして彼女は、彼から自分の身体を離そうとした。
彼は、拒否した。
それどころかよりいっそう力を込める。
彼女を抱く腕に力を込めると、傷口がさらに裂けるように痛んだ。
構わずに彼は言う。
「……あ」
「最低な彼氏で悪い」
「……うん」
「彼女の願いを叶えられない男で悪い」
「……うん」
「でも好きだ。好きなんだよ」
「私も好き。愛してる」
「人間でごめん」
「それなら私は天人だわ」
「天子」
「うん」
「わがままを、言ってくれ」
「?」
「本当は知ってるんだ。お前が俺に求めて一番大きなものをさ。
でもお前は肝心なときにそれを我慢してる。
しなくていいんだよ。我慢する天子は天子らしくない。
俺の知ってる比那名居天子は、どんなときもわがままで、唯我独尊で、誰よりも寂しがり屋な筈なんだ。
言ってくれ天子。お前が俺に望んでいることは何なのかを」
天子は驚いていた。
そしてそれ以上に嬉しかった。
何も見ていないようで、自分のことを気にかけている彼の優しさが嬉しかったのだ。
言いたくなかった。
でも言いたくなった。
力強く抱きしめられているせいだと、彼のせいだと、天子は言い訳をした。
朴念仁だと思っていた彼の、最愛の彼の胸に額を押し当て、声を絞り出す。
それは本当なら言ってはならない言葉。
もし言えば、彼はきっと自分の出来る範囲で努力して、実らせるだろう。
その対価など考えずに、比那名居天子という女性のためにひたすら頑張るだろう。
天子の惚れた彼は、そういう不器用で一直線な人物だから。
「ずっと一緒にいて」
だから絶対、こんな些細な願いでも、彼は最大の努力で最強の願い事にしてしまう。
以前の言葉とは全く違う意味での言葉でも、
「うん」
こうやって、意味を理解して、うんと頷いてくれるのだ。
やはり彼は優しい。
天子は、幸せになれた気がした。
「ずっとよ。私が死ぬまで、一生」
「お前の寿命っていくつ?」
「下手な妖怪より長生きするわよ」
「そうか。じゃ、最低でも不老不死になればいいよな」
「多分」
「わかった。じゃあ明日にちょっくら不老不死になってくる」
「……いいの? 閻魔が怒るわよきっと」
「知らん」
「罪が増えるわ。地獄行きよ絶対」
「這い上がる」
「後悔は?」
「そんな文字は聞いたことがない」
ほら、こうやって痛む身体を無視して、自分を慰めてくれる。
天子は幸せになれる。
「ねぇ」
「なんだよ」
「愛してる。ずっとずっと好きでいてね」
彼がきっと、永遠に幸せにしてくれるだろう。
───────────────────────────────────────────────────────────
「何をしてるのえーりん?」
「……姫様」
丑三つ時。
永遠亭の薬師、八意永琳のもとへ、そこの姫である蓬莱山輝夜が現れた。
襖の奥から覗くような輝夜は、月の光をバックに永琳へと歩み寄る。
当の本人は、手にした一本の瓶をぼやっと眺めているところだった。
輝夜がその瓶を見て、ややあってその中身に気付く。
「それ、蓬莱の薬?」
「……ええ」
「一体どうしたのよ、今更そんなもの」
飲んだ者を強制的に不老不死にしてしまう劇薬を見て、輝夜は表情を顰めた。
不老不死。
聞こえはいいかもしれないが、実質最悪の薬である。
何をやっても死なない。老いない。
億回殺されようが、億年経とうが死なない身体を作る薬を、彼女たち二人は良く知っている。
そも、彼女たちはその被験者だからだ。
偶然永琳がその薬を手にしている可能性は極めて低い。
何故な等、幻想郷で唯一蓬莱の薬を作れる人物が、彼女だから。
意味もなく彼女がその薬を手にしているわけがない。どうやらこの薬は新たに作ったものらしいが。
「イナバにあげるとか、そういった類の話じゃないでしょうね」
「まさか。あの子たちにそんな罪は背負わせないわ」
「永遠に生きることの罪と辛さ、か。既に一人、関係ないのが飲んじゃってるけどね」
その馬鹿者の顔を思い浮かべ、二人は苦笑する。
「それで、えーりん? 本当にどうしたのよソレ。新しく作ったってことは」
「ええ。頼まれたの」
「……誰? まさか私が知ってる人かしら」
「知りません。私も直前まで知らなかったもの」
「は?」
その言葉に、永琳は苦笑を浮かべ、輝夜は唖然とした。
言葉が告げられない輝夜に、永琳はさらに言葉を続ける。
「依頼が舞い込んだのは一昨日よ。羽衣を着た、美しい妖怪がここに来たの。
そして一言、『蓬莱の薬を作って欲しい』とね」
「それで貴女は作ったの? 薬?」
言外に非難をしているのだ。
輝夜のあからさまな言葉に、製作者は嘆息する。
「もちろんちゃんとした理由を聞いたわ。
するとね、『この薬はとある人がとある理由で使うんです』って」
「とある理由じゃわからないわよ永琳。少なくとも、まともな理由じゃないんでしょう?」
「さて。確かに蓬莱の薬を服用するのに、今までまともな理由にありつけたことはないわね」
それでも、と彼女は続ける。
「私は思うの。仕方ないって」
思い、想い。
製作を頼んできた妖怪が、一途に頭を下げて願わなければ作らなかったと彼女は語る。
それほどまでに必要なのか。
それほどまでに欲しいのか。
蓬莱の薬が。不死が。永遠の時間が。
考え込んだ輝夜は、ふと外の様子に気付いた。
「……騒がしいわね。誰かがドンパチでもやってるの?」
それにしても妙だと輝夜は思った。
幻想郷で有名な決闘は弾幕ごっこだが、その弾幕特有の激しい炸裂音がしない。
夜空を染め上げるほど美しい弾幕ならば、この永遠亭まで光が届く筈なのだが。
聞こえるのは炸裂音ではなく、悲鳴と怒声。
ところどころ弾幕の炸裂音が聞こえるが、弾幕ごっことは言いがたい。
「妖怪同士の殺し合いにしても妙ね。 この周辺で……妹紅?」
「それはどうでしょうね。あの子が妖怪とやれば、そこらへんが燃えてるはずだから違うと思うけど」
炎を使う不死の少女を思い浮かべ、彼女たちは否定する。
ならば誰が? そう思ったとき、この部屋の下へ駆け寄ってくる足音がした。
荒々しく開けられた戸。そこにいたのは、兎の少女だった。
「姫様! お師匠!」
「てゐ? どうしたのそんなに慌てて」
息を切らせた彼女は、次にこんなことを言った。
「賊です! それもかなり強い!」
「賊ぅ?」
言葉を失った。賊? この永遠亭に?
輝夜も永琳も、正気かと疑った。
この永遠亭は幻想郷でもパワーバランスの一角を担う輝夜と永琳がいるのだ。
二人は月から逃げてきた咎人。
彼女たちを狙ってくるとしたら、月からの使者である可能性が高いのだが。その可能性は極めて低い。
まともな妖怪でも攻めてこようとは思わない。
そしてその予想は当たった。
「賊ったって、この永遠亭に喧嘩を売ってくる輩なんて……一人しか思い浮かばないんだけど」
「しかし姫様」
「わかってるわ永琳。妹紅じゃない。それならまっすぐに私のところにやってくる筈だし」
「そうね。……てゐ、今その賊とやらはどうしてるの?」
「ただ今、鈴仙が迎撃に出てます。でも、何時まで持つかわかりません」
「ウドンゲが?」
ウドンゲとは、鈴仙・優曇華院・イナバのことだ。
彼女もまた、月からやってきた妖怪である。
波長を操る彼女は、見ただけで相手を狂気に陥れることができる。
つまり、弾幕ごっこじゃなければかなり強い。
まともに相手をすれば戦いにすらならない。
その彼女が、迎撃に出ても足止めが精一杯だと?
「誰? 少なくとも並の妖怪じゃないわね」
「いえ、それが……」
歯切れの悪いてゐの言葉。
まるで自分の言葉が自分で信じられないというように、てゐは言い留まる。
「妖怪じゃ、ないんです」
「は? じゃあ何? 神様とか?」
「違います」
しばらくして、てゐはその言葉を発した。
輝夜と永琳の予想は当たっていた。
並の妖怪でもなく、月からの使者でもない。
この永遠亭を目指し、なおかつ鈴仙を退けるほどの猛者は、
「人間です。まだ若い、男の」
「……なんですって?」
ただの人間だったのだから。
「へぇ。ただの人間が、一体何の用?」
「わかりません。けどしばらくしないうちにこっちにっ!?」
一際大きい破砕音。
そうして、さっきまでの戦闘の音は消えた。
代わりに聞こえるのは、ぎしぎしと板を踏む音。
「鈴仙が、負けた……?」
「うちのイナバが負けたか。本当に人間かどうか疑うわね」
てゐの信じられないといった声に、輝夜は嘆息する。
どうやら、自分たちが出なければならないらしい、と。
「いくわよ永琳。てゐはイナバの手当てをしてきなさい」
「御意に」
「はいっ!」
「ああ、その必要はねぇよ」
突然聞こえた男の声。
まだ若い、青年に入ったばかりのその声に、永琳は声のした方向、つまり障子の向こう側へ矢を放つ。
放つ動作すら見えなかったその動き。障子を突き破った矢は、しかし当たった気配がなかった。
向こう側から、障子を静かに開ける姿が見える。
そうして現れたのは、血塗れの少年だった。
青年に入ったばかりの顔立ち。しかしその体つきはどこかおかしい。
同年代の少年と比べて、違和感がありすぎる肉体をしている。
まるで戦闘に特化したような筋肉の付き方。
血に塗れた姿でも、その在り方は一目瞭然だった。
「姫様、コイツです!」
「わかってるわよ」
やれやれ、と嘆息し、永遠亭の姫は相手へ声をかける。
「はじめまして賊の方。私がこの永遠亭の主、蓬莱山輝夜よ」
「ああ、アンタがね。噂どおり綺麗な姫様だな」
「あら知っていらしたのね。で、今宵は随分無作法な訪問だと思うのだけど、どのようなご用件で?」
「や、実はアンタじゃなくて八意永琳って人に用があってきたんだが……それとそこのチビ。
連れなら玄関前で倒れてるから行って来いよ」
「っ! 言われなくても行くっての!」
どたどたと駆けて行くてゐを尻目に、彼は嘆息して告げた。
「無作法、ね。竹林で迷ってたら兎を見つけて、案内を頼もうとしたらさっきのチビに襲われたんだがね」
「……は?」
「そんでもって今度は髪の長いうさ耳がやってきて、突然バチバチ撃ってきやがった。
で、当然応戦したんだが、これって正当防衛に入るのか?」
「えーと、つまり?」
「俺は悪くねぇ!」
事の発端に、輝夜と永琳は眼を見開いて驚く。
次の瞬間、やれやれと首を横に振った。
「そういうことね。なにやら不幸な行き違いがあったみたいでよかったわ」
「よかねぇよ。おかげでこっちはズタボロだ」
「本当に私たちを襲ってきたのであればそれじゃ済まなかったわ。多分この場で死んでたわよ」
それは正しかった。
先ほど永琳が矢を放ったが、殺すつもりで撃ったのであればこの部屋にまで被害が出るほど過激な洗礼になっていたはず。
本来なら生身の人間を塵芥にすることができるほど、彼女たちは常識離れしている。
しかし、
「そっちのが楽だったけどな」
彼もまた、十分常識離れしているのである。
「あんたのところの兎、どうやら人間慣れしてないだろ?
多少俺の姿が見えた程度で即効攻撃してきやがった。ありゃ慣れてないって言うか、嫌いっていうのが一番近いな」
「良く見てるのね。確かにウドンゲは人見知りが激しい子だけど」
「人見知りってレベルじゃねぇ。それに、悪意じゃないから本気で殴れないじゃないかよ」
「本気、ねぇ。まさか本気でやれば私たち相手に勝てると?」
「勘違いするな」
静かに呼吸を整え、彼は輝夜と永琳を睨むように見つめる。
「勝てるんじゃねぇ。勝つんだよ。今までそうやって生きてきたんだ」
自信に満ち溢れた表情。そして、確固とした意思。
打算や誤魔化しでいっているのではなく、彼は本気で言っていた。
勝てる勝てないでいえば、彼は確かに鈴仙に勝っている。
ズタボロの自分の体と引き換えに。
ならば本気とは? それはすなわち、殺すための本気であると彼女たちは思う。
歪んだ人間。それが、彼への第一印象だった。
緊張した空気が辺りを支配している中、ややあって、彼は溜息混じりに言葉を紡いだ。
「ああもう! とりあえず、俺はここに! 八意永琳さんに依頼しにきたんだよ!」
「依頼?」
「そうだよ。アンタにしか頼めないことなんだ」
「そう。それで、その依頼内容は?」
「ちょっと永琳。この男の依頼を受けるつもり?」
「とりあえず話だけならね」
「簡単な話だよ。蓬莱の薬を作って欲しい」
彼の一言で、場の空気が一気に凍った瞬間だった。
蓬莱の薬を欲する。つまり、永遠を生きたいということ。
言葉ではわかっている。
だが、二人は納得できなかった。
「理由を聞かせて頂戴」
「永遠を生きたい」
「何故?」
「愛する人と一緒にいたい」
「他に方法があるでしょう」
「知らねぇ」
「永遠を生きることが、どういうことが理解してるの?」
「不老不死になりたいんだ」
「わかってないわね。それだけじゃないのよ……不死になるってことは」
不死になること。
それはつまり、永遠に重なる罪を背負うということだ。
人は死んだときに、自らの罪と向き合わなければならない。
恐ろしいのは死んだ後だ。
蓬莱の薬が不老不死をもたらすかどうかは、実際にはわからない。
不老不死の効果を証明するには、永遠の時間が必要であり、蓬莱の薬を服用した者が何時死ぬかわからないのだ。
もし、コロッと死んだとき。
永遠の罪を重ねた者が地獄へ行ったとき、どうなるのだろう。
それが怖いのである。
だが彼はそれを、一刀両断した。
「細かいことはいいんだよ」
鋭い視線。
誰であろうと、粉砕してでも押し通るという確かな意思がそこにあった。
「受けるのか、そうでないのかだけを聞きたいんだよ」
指の骨をバキバキと鳴らしながら、彼は静かに拳を構えた。
「さて、返答をもらおうか。最もイエス以外受け付けないがな」
「もしも拒否したら?」
「言わなきゃわからないか?」
岩のように硬く閉じた拳を見せつけ、彼は問うた。
二人の不死の前で、ただの人間は瞳の中を燃やしていた。
「……そうまでして不老不死になりたい理由が、愛する者のためだけなの?」
「蓬莱山輝夜さんだっけ。尊大な理由が必要なのかよ。人様のわがままだぜ、コレって」
「他人を巻き込むのはわがままとは言わないわ。そも、他に方法があるでしょう」
「知ってる。でも他にある方法って大抵人間辞めちゃったり、時間かかるじゃん。
ちゃっちゃとなれるなら、それが一番いいだろ」
「随分と軽い理由ね」
「重かろうが軽かろうが知ったことか……見ちまったんだよ」
「見た?」
「ああ」
奥歯を砕くほどかみ締め、彼は言った。
「泣いてる姿をよ! 俺のために泣いてたんだよ!
わがままで、尊大で、いつも他人見下してるお嬢様がな、一緒にいたいってだけで顔面真っ赤で泣きじゃくったんだ!
なら全力で応えたいだろ! 命がけで叶えたいだろ!
……ああわかってるさ。自分の行いに、他人の理由を使っちゃいけないことくらいわかってる。
その行いをするのが『俺自身』なら、『俺自身の理由』でなければならないってことくらいわかってる。
だけどよ、そんなこと言い訳にして、たった一人の女の想いを踏みにじるようなマネしたくねぇんだよ!」
確かに、彼が永遠を歩む覚悟を決めたのは、彼女の一言だった。
こうして永久の時間を望むのは、彼女がそう望んだからだ。
けれど、叶えたい想いは自分も同じ。
ずっと一緒に。
同じ時間を歩みたい。
お互いが異種族であるならば必ず通る道。
いずれ彼が彼女を置いて死ぬ運命を拒んだ末、彼の取った行動がその結論だ。
どうあがこうが一緒に死ぬなど不可能ならば、せめて彼女の死ぬ姿を看取れる存在に。
「そのために永遠に生きる、と。偽善ね」
「……」
「どうしても必要なのかしら。その子と共にありたいと願うだけで。
それに、蓬莱の薬を使えば人間である貴方は変質するでしょう。
蓬莱人としての貴方か、人間としての貴方。ありのままを愛してくれてる彼女は、どちらを選ぶのかしら」
「……」
「いずれにせよ、選択するのは貴方。でもね、チャンスは一度よ。良く考えなさい」
「考えたさ。自分なりに精一杯な」
「その上で選ぶ、と?」
「ああ」
必死に考えた。
ずっと一緒にいるためには、どうしたらいいのか。
彼女のためにできることとは一体何かを。
決して良くない頭で、考えた。
「八意永琳さん。俺は、不死になりたい」
「そう」
「答えてくれるか?」
「応えるわ」
そう静かに笑い、小さな瓶を取り出す。
既に作られていた薬は、彼のためだったのだ。
中身を知って、彼は目を丸くした。
「もうできてたのかよ」
「既に依頼なら来てたからね。あの綺麗な竜宮の使いから」
「げっ。もう知ってたのかよ……」
「愛しの彼女が言ったんじゃないかしらね?」
「あんにゃろ」
苦笑し、彼はその薬を受け取った。
「……噂どおりね」
「あん?」
「礼儀知らずで無鉄砲、無愛想の上に妖怪を恐れないバカ……」
「オイオイオイ! なんてこと」
「一途で、比那名居天子に愛される唯一の人間」
「……」
「それでいてちょっと照れ屋ね」
「ふん」
僅かに赤くした頬を見られぬように、彼は踵を返してその場を去ろうとする。
足元がふらつくほど怪我は酷い。
だが、すぐさま行きたい場所があった。
「休まなくてもいいの?」
「気遣い無用。慣れてるんでね」
輝夜の問いに、予想通りの答え。
それに、と彼は続ける。
「待たせてるしな」
「長く?」
「割とな」
行く場所は……彼女が待つ場所。
見上げた空。
そこには予想通りの大きな月と、
「あん?」
「あら?」
それを隠すように、彼の元へ近づいてくる、
「おっっそぉおおぉおおおおおおおおい!」
「ぬあぁ!?」
予想外の、天子の姿があった。
新ろだ994,1008,2-096,2-241
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最終更新:2011年02月27日 00:18