随分と具合が悪かった。風邪をこじらせでもしたのだろうか、と思うほど、全身がだるかった。

「おかしいなあ……ったく、気を付けないと……ああでも、さとり様達にゃうつらないんだったか」

 ふらふらしながら、地霊殿の廊下を歩く。確か台所の棚に人間用の薬も置かせてもらっていたはずだ。
 だが、行き慣れたその道がいやに遠い。途中、壁にもたれて、ずるずると情けなく尻餅をつくはめになった。

「おかしいな……」
「……どう、したの?」

 声に振り仰ぐと、最愛の恋人の姿が見えた。だが、妙に視界が揺らぐ。

「いや、何だか、身体がおかしくて……」
「凄い熱じゃない!」

 駆け寄ってきて膝をついたさとりの手が額に触れて、彼はその心地良さに目を細めた。
 細めた瞬間、気が緩んだ。

「あ、やべ……」
「っ!」

 そのまま、気を失うように、彼はさとりの方に倒れこんだ。



 これが、彼が地霊殿にずっと居つくようになった一連の話の、最後の話。





 彼が倒れてすぐ、さとりはヤマメに声をかけた。使いは燐に頼んだのだが、幸い、すぐに彼女は来てくれた。
 ヤマメは彼の容態を見て、しばらく考え、首を振った。

「……これは、病原菌の類じゃないね」
「そう……」
「うん、ウイルス性のものでもない。私の管轄ではないね。人間相手の医者に診せないとわからないと思う」

 ヤマメはそう断じた。さとりは素直に頷く。

「ありがとうございます」
「いや、何も出来なくてごめんよ。せめて医者が通るとき、道中問題ないようにパルスィにも伝えておくよ」
「お願いします」

 帰っていくヤマメを見送って、さとりは燐を振り向いた。

「お燐、またお願いできますか」
「もちろん! あの、竹林の中にいるとかいう。宴会にも何回かいた」
「ええ、ですが、会いに行き辛いと聞きます。手紙を渡すので、人里の守護者に連絡してもらえますか」
「はい!」

 言いながら、手近のテーブルで簡単な手紙を書き、燐に渡す。

「では、行ってきます!」
「……すんません、さとり様……」
「気が付いた? 大丈夫?」

 目を覚ました彼の枕元に寄って、軽く額を撫でる。酷く熱かった。

「熱が高いわね……」
「かなあ……ちょっと寒いかな、って思ってるくらいなんですが。ああでも、さとり様の手、ひんやりして気持ちいい……」

 重ねてきた手も熱くて、さとりは気遣わしそうな表情になる。焦るような彼の心が聞こえてきたから、なおさらだった。

(早く、治さないと)
「無茶はしないで。ゆっくり治せば良いから」
「はい……」

 頷きつつも、彼は気遣わしげだ。

「……いつから、悪かった?」
「あー……体調、ですか? 梅雨時……いや、梅雨が終わる前?」

 うーん、と思い出しながら、彼は唸る。

「たぶん、半月から一ヶ月くらい、かと」
「だいぶ悪かったのね……」
「ただの風邪と思ってたんですがねえ」

 苦笑する彼に、さとりは首を振った。

「次からは早く言って。今は、休んだ方が良いわ」
「はい……すみませ、ん……」

 そのまま、彼は眠りに落ちた。
 眠るというよりも気絶するような眠り方に、さとりは不安が胸中に広がるのを感じていた。






「……どれくらい前から、この状態でした?」

 連れてこられた永琳が、さとりに尋ねる。

「……半月から一月ほど前から、少し風邪っぽかった、と言ってましたけれど」

 薬を飲んで眠っている彼の隣で、さとりは応えた。
 うなされていたのもだいぶ良くなっていて、少しだけほっとする。
 だが、永琳は難しい表情をしたままだ。何か専門的な用語を頭の中で回している。

「……起こしては悪いわ、別の部屋で話せる?」
「ええ、では客間に」
「ウドンゲ、少し代わりに診ていて。容態が変わったら私を呼ぶこと」
「はい、師匠」

 鈴仙がそう頷いたのを確認して、永琳は席を立った。



 客間に場所を移して、永琳の告げた言葉に、さとりは息を呑む。

「……命に関わる、と?」
「ええ。人間と妖怪と、病の形が違うのは知っているわね?」

 さとりは頷く。心を読む妖怪である彼女だからこそ、妖の方が精神的な病にかかりやすいと知っていた。

「……彼は今、双方を病んでいるわ」
「どうして」
「……一つは、此処の気温。怨霊の瘴気。それに少しずつ、本当に少しずつ彼が蝕まれていたと言うこと」

 けれども、何度か宴会であったときには、ここまで悪化はしていなかった、と永琳は告げる。

「身体の方なら、そのうち私が気が付いたはず。けれど、精神的なものが、進行を異常に速めたの」
「それは?」

 さとりは勢い込んで訊ねる。永琳は少し黙り、言葉を発した。

「……その前に、茶化しではなく訊くわ。最近、貴女と彼の距離が近くなったりしたかしら? 具体的には、恋人のように」
「? え、ええ……」

 真剣なだけに、返答に困りつつもさとりは頷いた。
 その返答に、永琳の心は、やはり、とだけ呟き、すぐにそれを消した。

「…………どういう、ことですか」
「いえ」

 この人も心を隠すのが上手い、とさとりは思う。見せてもいいラインを引いて、本心を中々見せない。
 さとり自身の心に、不安が滑り落ちていく。これ以上先を聞くのは怖い。何故かはわからないけれど、酷く怖かった。
 それでも、さとりは口を開いた。開かなければならなかった。

「……話して、いただけませんか」
「ええ」

 永琳は頷き、言葉を選びながら話し始めた。

「……彼は、平気そうにしていた。実際、平気だったのだと思う」
「…………?」

 要領を得ないそれに、さとりは首を傾げる。
 その彼女を見て、永琳は僅かに、哀しむ様な光を瞳に宿して続けた。

「……けれども、ね。常に心を読まれるというのは、人間の意識下に、酷くストレスをかけるものなのよ。近くなればなるほど、なおさらに。
 人間の精神は妖怪よりは強いけれど、少しの時間ならともかく、間断ない状態であれば――」

「………………っ!」

 さとりは目を見開いた。それは。それが示す事実は。

「……私の所為で、彼が、死ぬ?」

 確かに最近、前にもまして、話す時間は増えていた。顔を合わせる時間も、傍にいる時間も。
 その、その全てが、彼の命を削っていたというのならば。

「まだ死ぬと決まったわけではないわ。ただ、危ないことは確か……もう、永遠亭まで動かす体力すらないの、彼は」

 永琳の言葉は静かで、残酷ですらあった。
 それは彼がここから動けず、ただ死を待つだけの存在になってしまっているということ。

「……そんな顔をしないで。言ったでしょう、死ぬと決まったわけではないと」
「……酷い顔をしていますか、私は」
「後で栄養剤をあげるわ」

 永琳は微かに微笑んだ。そして、表情を引き締める。

「……ただ、その幾つかの方法。そのどれもが、辛い選択になるかもしれない。貴女にとっても、彼にとっても」
「というと?」
「…………彼の肉体、精神。いずれにも干渉しなければならないということ」
「……!」

 さとりは永琳の思考を読む。永琳もわかっていて、その方法を羅列していた。

「…………最も良い方法は、それなのですね」
「ええ。蓬莱人にするのもいろいろ問題はあるし、魔法使いにするには時間が足りない。吸血鬼は……協力を取り付けるのがねえ」
「ならば、強制的に肉体が耐えうるように強化してしまえばいい、と。それこそ、妖怪に近付けるほどに」

 永琳が示した方法の最善手。それは、彼自身を強化すること――ただの人間の肉体ではないようにすることで。

「使い魔にする、というのがイメージとしては一番近いのだけれどもね」
「妖の力を強制的に流し込み、妖の頑丈さと、人間の強さと、双方を同時に持たせるということですね」
「半人半妖が肉体的にも精神的にも頑強、というのはわかっている事実なのよ」

 どうしますか、と問う永琳に、さとりはしばし黙った後、口を開いた。

「……少し、時間を」
「ええ、貴女にも、覚悟は必要ですから」

 さとりは口元を引き結んだ。永琳が示す、最も問題が少なく、彼を救う方法。
 肉体も精神もぼろぼろならば、双方共に頑丈である、半人半妖にしてしまえばよい。半獣でも良いのだ。
 魔力を送り込み主と繋がりを持たせることで、只の人間の脆弱な肉体に妖としての強さを持たせ、かつ精神は強靭さを維持させる。
 そうすれば、精神、肉体のどちらかが若干弱ったとしても、死に至るようなことはない。
 ただし、それには相応の準備と――力の供給源が要る。
 それに合致できるのは、この地霊殿ではさとりしか居らず――それは同時に、さとりが彼の全てを奪ってしまうことを意味していた。



 永琳と二人して彼の部屋に戻ったとき、まだ彼は眠ったままだった。
 椅子に座っていた鈴仙が立ち上がって二人を迎える。

「ああ、お話は終わりました?」
「ええ、一先ずはね。では、私達は一度戻ります。明日、また伺いますので」
「よろしく、お願いします」

 さとりは頷き、永琳と鈴仙を見送る。地霊殿を出る時に、永琳はさとりに告げた。

「彼に付いていても大丈夫です」
「よろしいのですか?」
「今になっては、傍に居ても居なくても変わりません」

 そう、永琳は首を振る。さとりは軽く頷いた。
 おそらく、もっと早い段階ならば手もあったのだろう。今言ってもどうしようもないことだが、もっと早くに気が付いていれば。
 いや、そもそも、自分が傍に居なければ、傍に寄ってしまわなければ。想いを寄せなければ。
 彼を手放していれば、こんなことにはならなかったのに。

「出来れば早く……二日以内には結論を出すように」

 永琳の声が、さとりを意味のない思考から引き戻す。
 今更、ああしていれば、こうしていれば、という仮定は意味がない。だから、永琳もその不毛な仮定を口にしなかった。

「はい、わかりました」

 言葉だけは毅然とさせて、さとりは深く礼をした。せめてもの、地霊殿の主としての態度だった。
 姿が見えなくなったのを確認した後、心の定まらぬまま、さとりは彼の部屋に向かう。

「…………ん、さとり様?」
「ごめんなさい、起こしたかしら?」

 部屋に入って声をかけると、額の上に乗せられたタオルを持ち上げながら、彼は首を振った。

「ちょっと前に目が覚めたんです。先生は何て?」
(俺の病気、そんなに悪いんですか?)

 彼の質問に、さとりは軽く首を振った。

「地底の熱に、中てられたのだそうよ」
「そうなんですか?」

 本当に? と彼はさとりの表情を見て尋ねる。微笑おうとして失敗して、誤魔化すようにさとりは彼の手からタオルを受け取った。

「……他にもいろいろあるけど、大丈夫」
「…………さとり様」

 彼は真剣な表情でさとりを見つめた。瞳の奥には疑問がある。何でも話してくれと、そう言っている。
 さとりは迷う。言ってしまえばどうなるか。彼は受け入れてくれるだろう。でも、でもその瞬間、少しでも絶望が垣間見えてしまったら。
 言えなかった。長引かせてもどうしようもないことなのに、口に出来なかった。タオルを彼の額に乗せて、呟く。

「……大丈夫よ」
「俺は、むしろ今のさとり様の方が心配なんですが」

 それは嘘ではなかった。自分のことを棚の上に放り上げて、彼はさとりの髪から頬を撫でるように触れる。

「……そんなに?」
「はい。泣きそうな顔してる」

 優しい声、優しい想い。さとりは彼の手に手を重ねて、軽く首を振った。
 きっと、自分はこの温もりを失うことに堪えられない。
 かつて、妹が心閉ざしたときと同等、或いはそれ以上の衝撃を精神に受けてしまう。
 それはさとりにとって、堪えられ得るものではなかった。ましてや、原因が全て自分にあるとするならば。

「ごめんなさい」
「いや、いいんですけど……俺の具合悪いことで、何か負担かけちまってますね」
「そんなことはないわ」

 もう一度首を振って、さとりは俯く。どのみち、さとりに選択肢はない。彼がそれを受諾するかどうか。
 伝えようとして――上手く言葉が見つからなくて、さとりは結局伝えられなかった。

「……とにかく、今は休んで。後でまた来るけれど」
「はい……さとり様も、休まなきゃ駄目ですよ?」

 それに応えず微笑んで、さとりは彼の部屋を出た。最後は上手く表情を取り繕えたはずだ。
 でもどうすればいい。伝えなければ。それはわかっている。ただそれだけが、こんなにも恐ろしい。
 押し潰されそうになりながら、さとりは大きくため息をつく。

「さとり様……」

 声に振り返ると、燐と空が心配そうな顔で立っていた。






「……どうしたもんか、ねえ」

 燐はとぼとぼと地上を歩いていた。本来、陽気な彼女にしては非常に珍しい。
 だがそれが自身の主と、主の恋人にかかることとなっては話が別だった。
 昨晩、元気のないさとりから、燐と空は強引に理由を聞き出した。
 普段二人ともそんなことはしないし、さとりも言わないだろう。それを言ったということは、相当参っている証拠だった。
 会話を思い返しながら、燐は大きくため息をついた。


 彼の症状と、対処法。燐と空は二人ともそれを聞いた後、あいつに話すべきだと思い、そう告げた。
 だが、さとりは二人に、彼に言わないようにと頼み、一人で思考の海に沈んでしまった。
 そっとしておこう、と二人で廊下を歩いているうちに、空が当然の疑問を口にしたのだった。

『ねえ、お燐、どうして、さとり様は悩んでるのかな?』
『まあ、お空には難しいかもね』
『むう、馬鹿にして。だって、あいつ助けたいんでしょ? あいつだって助かりたいんでしょ?』
『そうだけどね……さとり様は、あいつを人間ではなくさせるのがきっと怖いのさ』
『それは、あいつが望んでないから? でも、あいつどうやったら永く生きれるかな、って言ってたじゃない』
『ん、たぶんさとり様知らないんだろうね。それに……あいつを無理矢理変えてしまうんだって思ってるのさ』
『でもでも! あいつだって、さとり様のために永く生きたいはずだよ! だから私達に聞いたんじゃないの?』
『そうだね……きっとそうなんだと思うよ』

 燐と空は、彼の心理をかなり近いところで理解していた。
 ここのペット達は、さとりに救われた。理解してもらった。だから、さとりの役に立ちたいと思った。傍にいたいと思った。

『……あいつが、人間だからなのかな』
『かもね』
『でも、人間じゃなくなっても、あいつはきっとさとり様が好きだよ。私達だってそうだったじゃない』
『……本当にね。さとり様もわかってるんだと思うよ。でも、やっぱり怖いんだろうさ』

 泣き出しそうな空をよしよしと慰めながら、燐は大きく息をつく。
 さとりは、全てが自分の所為だと思い込んでいるのだということは、燐にも、空にさえわかっている。
 違う、違うのだ。あいつもまた気が付くべきだったのだ。そうすれば、多少は違った今になっていただろう。

『お空、お姉ちゃんに付いててあげて』
『こいし様?』

 不意にした声に、燐と空は周囲を見回す。だが、姿は見えない。

『神様には、私から伝えておくから』
『こいし様! こいし様は、どう思って……!』

 言い掛けて、意味のない言葉だと燐は気が付く。こいしからは返答はないだろう。だが、その予測は裏切られた。

『……あの人に、本当は伝えなきゃいけないの』
『え……?』
『……お姉ちゃんはきっと伝えられないから、誰かが』

 それは、と、燐は口ごもる。地霊殿の誰もが、伝えたくて伝えられない。さとりの意志に反することを、したくない。
 命令、ならば、もしかしたら反することが出来たかもしれない。後でどんな叱責を受けようと。
 だが、お願い、と言われては、どうすることも出来なかった。

『……こいし様、あたい達は』

 燐の言葉に、返答はもうなかった。行ってしまったのだろう。

『お燐……』
『お空、お空はさとり様についてて。あたいまで仕事サボるわけにゃ行かないからさ』
『でも』
『わかってるよ、わかってる……でも、今のあたい達にはさ、何にも出来ないんだ……』

 こくり、と頷く空に頷き返して、燐は大きく息をついた。


 さとり様は、どれだけみんなに愛されているのか、知る必要があると思うんだ。
 心が読めるのに、どうしてさとり様は、大事なことを知らないんだろう。私達は、こんなにさとり様が大好きなのに。


 それが、燐と空の、共通した想いだった。




 もう一度ため息をついて、燐は首を振る。幾ら考えてもどうしようもない。自分達に出来ることなんて――

「お、どうしたんだ、妙に暗い顔して」
「……ああ、お姉さんかい」

 不意に上空に現れた魔理沙に、燐は気のない返事をして――ふと、気が付いた。

「お姉さんは魔法使いだったね」
「ああ、大賢者でもいいがな。盗賊じゃないぜ」

 軽口に付き合わず、燐は訊ねた。

「……使い魔、って、どういうことなのかな」
「あん? 抽象的過ぎてよく分からん、どういうことだ?」

 言葉だけは興味のない様子を見せながら、瞳は好奇心を表している。
 わかりやすい、と思いながらも、燐はこの魔法使いに話してみることにした。
 彼女が、いろいろと首を突っ込むのが好きだというのを知っていたからでもある。


 話を聞いた魔理沙は、専門の奴のところに聞きにいくか、と燐に告げた。
 専門なんているのか、と思ったが、連れて行かれてすぐに理解した。
 話した結果、説明の為にきてくれることになった――本人は出るのを嫌がったため、魔理沙だけが来て通信だけになったが。



 そして舞台は地霊殿に戻る。



「おあ? 魔理沙、か。お燐も、どした?」
「ひでえ顔してるな。死神が迎えに来そうだぜ」

 魔理沙の軽口は、その軽さのわりに表情は真剣だった。

「はは、だったら追い返さねえと……死んだら、さとり様、哀しむし」
「あ、こら、無茶するな!」

 身体を起こそうとして失敗した彼に、燐は叫んだ。そして、さとりの姿がないことを訝る。

「……さとり様は?」
「いま、お空が連れてってる……寝ちまっててさ。具合悪くしそうだし」
「じゃあ、好都合だ。お前の身体に何が起こってるか、お前わかってるか?」
「地底の熱にやられたー、ってくらいかな」

 でもそれだけじゃないんだろ、と、彼は視線だけで言う。体調に反して、その瞳は力強かった。

「さとり様、何も言ってくれないんだ。あんなに泣きそうな顔して。俺頼りないのかね」
「……いや。よく聞け。私と、パチュリーが説明してやる」
「んあ? 紅魔館の魔女さんか。来てるのか?」

 彼の問いに、魔理沙は首を振って傍のオプションを指す。

「いやこれの向こうだ。声は聞こえる」
『というわけで説明しに来たわ』
「来てるのは私だけだがな。まあ、地霊殿に入り込むときの伝手が出来ると思えば安いもんだ」
「……あたいは、席外してるよ。さとり様が来ないように見とく」
「よろしく、お燐」

 燐を見送った後、彼は笑って魔理沙に訊ねた。

「さ、説明してくれ」
「……このままだと、お前は死ぬ。身体も精神もボロボロなんだと」
「…………酷使してたつもりはないぞ」
『地底の熱に、怨霊の瘴気、覚りに覗かれ続ける心。人間の心身を壊すのには十分よ』

 その言葉に、彼は激昂した。それでも、叫ぶ体力さえ、彼にはなかった。

「待て、最初の二つはともかくとして、最後はない。俺は、俺はさとり様に」
『知っているわ。貴方がどれだけさとりを愛しているかも』

 それでも、と淡々とパチュリーは続ける。

『ストレスとは意識とは無関係にかかるもの。貴方の精神を弱らせていった。気が付かないうちに』
「…………助からねえのか」
「いや、ある。というか、一番手っ取り早く確実な方法がある」
「何だ」
「お前がさとりの使い魔になる。そしてお前を人間ではなくして、身体を丈夫にする。そういうことだ」
「…………?」

 意味を飲み込めず、彼は首をひねった。

『使い魔と言うものの契約の一つとして、主と僕の魔力的繋がりを持たせる、というものがあるわ。今回はそれ』

 パチュリーが説明をはさむ。

『私と小悪魔もこれに近いわ。私から魔力の供給を受け、小悪魔は私に労働力として仕える』
「ギブアンドテイク?」
『そう。でもこれは、互いの立場が妖であるから問題はないの。今回の問題は、貴方が人間であること』
「それが?」
『主従の契約を結べば、さとりの魔力が貴方に流れ込む。人間という状態では、その魔力に耐え切れないの』
「だから、契約のときにお前の身体を受け入れられるように変化させる――って感じだろうな」
『でもそうすれば、貴方は人間ではなくなる。そしてさとりなしでは生きていられなくなる。さとりの魔力によって生かされる存在になる。
 そして、これが今回の主目的。貴方の身体を変化させなければ、貴方は死ぬから。使い魔云々は二次的なものね』
「…………さとり様が言わなかったのは、それでなのか」

 彼はぽつりと呟く。オプションの向こうで頷く気配がした。

『おそらくは、ね。さとりも当然それを知っているはずだもの。躊躇いは全てそれが理由でしょうね』

 魔法使い達の説明を聞き、少し考えながら頷いた彼は、あっさりと言った。

「なるほど。何だ、そんなことか」
「そんなこと、って」
「俺は人間であるかどうかなんて問題じゃないんだ。俺はただ、さとり様だけのためのものなんだから」
『……咲夜も顔負けしそうな忠誠心ね』
「実際そうすれば、全部問題は片付くんだろう?」

 彼は笑った。解決方法が見つかったときに浮かべるような、嬉しそうな笑みだった。

「今だって、俺はさとり様のペットであるわけだ。それが使い魔になる、さほど変わりゃしない」
『……そうね、さとりの使い魔になれば、心の負担もきっと軽減される』
「……人であることよりも、生きる方を選ぶのか」
「生きる方を選ぶ。生きてれば、何だって出来る、きっと」

 そう明るく言った彼に、パチュリーはさらに告げる。

『……さらに残酷なことを言うけれど、貴方の存在が、さとりを縛ることになることも気が付いてる?』
「…………わかってる。だから、さとり様が拒むなら、俺はこのまま死ぬ」
「おいおいおい、矛盾だらけだぞ?」

 魔理沙の呆れた声に、彼は首を振った。

「一応、筋は通ってはいるつもりだぜ。さとり様が望んでくれるなら、生きる。望まないなら、それでいい。ほら、な?」
「……はー、そこまで惚れたのか」
「うん、そこまで惚れてる」

 言い切られて、はあ、と大きく魔理沙はため息をついてパタパタと自分を手で扇いだ。

「パチュリー、さすがに熱い、どうしたもんかね」
『大丈夫。こちらにも熱気は伝わるから。もう私達が言うことはないわね?』
「ああ。教えてくれて、ありがとう。何か、お礼をするよ、生きてたら」
「期待せずに待つことにするぜ。じゃあ、さとりが戻ってくる前に私達は行くよ」

 魔理沙が後ろ手に手を振って去っていくのを、彼は再び横になりながら見送った。
 気分は晴れ晴れとしていた。



 外で待っていた燐は、出てきた魔理沙に問うような視線を向けた。

「大丈夫だ、全部解決しそうだぜ」
「そうかい」

 ほっとしたように、燐は呟く。

「一番性質の悪い病が恋の病だってのも再確認してきたところだ」
「あはは、そうかもしれないねえ」

 魔理沙の軽口に、燐も少し気を緩めた。

「しかし今なら、家捜しし放題だな」
「やめとくれよ、今はそんな労力はないんだ」
「ならばなおさらか」
『魔理沙、あんたはまた……』

 オプションの向こうから呆れた声が届いてくると同時、別の声が二人の傍からした。

「じゃあ、私が相手してあげようか」
「おお、妹が出てきたか、こいつは分が悪い」
「こいし様!」

 燐の声に、こいしはにこりと微笑った。

「お姉ちゃんは、決めそうだね」
「……はい、きっと」

 こいしはもう一度微笑んで、魔理沙の袖を引く。

「ここは病室の前よ。向こうのホールで勝負しましょう?」
「こいつは参ったな」
『あら、丁度いい機会じゃない。無意識の弾幕、私はもう一度拝見してみたいのだけど』
「戦うのは私なんだぜ? まったく」

 だが、魔理沙も楽しそうにしている。そして、こいしの帽子に手を乗せた。

「そうだな、私が勝ったら、お前ら全員で次の宴会強制参加だ」
「……お姉ちゃんも、あの人も?」
「当然。さあ、始めようか」
「うん!」

 魔理沙の笑みに、こいしも満面の笑みで応じた。





「ああそうだ、魔理沙、私が勝ったら、私からもお願いしていい?」
「ペットになる以外なら良いぜ」
「それも惜しいけど、それじゃあないの。じゃあ、最初から全力ね」







「お燐? 戻っていたのね」
「さとり様、具合は……」
「もう大丈夫よ」

 さとりはそう言いつつ、酷い顔色なのだろうな、と実感していた。
 燐の表情と思考、それに隣で半泣きになっている空を考えればわかりきったことである。

「お燐~……」
「ん、わかってる、わかってるよ」

 燐がぽんぽんと空の頭を撫でてやっている。それを横目に、さとりは部屋に入ろうとした。

「あ、さとり様」
「何?」
「……いえ」

 燐の言おうとしたことは、幾つかの情報となって流れ込む。
 それを読みながら、さとりは力なく微笑んだ。

「……心配をかけてますね」
「いいんです、それより、あの」

 あいつを、と言う燐に頷いて、さとりは部屋の中に入った。

「さとり様」

 入るなり声が聞こえて、足早にさとりは彼の枕元に寄る。

「……起きてたの?」
「はい。さとり様……俺を、貴女のものにしてください」
「っ!」

 さとりが問う前に、知っていた、みんなが教えてくれたのだと、横になったまま彼は告げる。

「俺は生きたい。貴女さえ良ければ、貴女の傍にずっといたい」
「……いいの? 貴方は、人間なのに」

 此処に来たばかりに、自分に愛されたばかりに、全部失うことになるのに。

「私に会ったから、傍に居たから、貴方は全てを失くしてしまう。人であることさえ」
「俺には、そもそも何もなかった。空っぽで、人に触れられなくて、好かれなくて。さとり様は全部くれた」
「……でも」
「俺の心に、躊躇いとか後悔とか、ありますか?」

 わかっていた。さとりにはもう全部伝わっていた。

「俺は、貴女を愛してる。貴女の傍で、生きていたい。その方法があるなら選びたい。それじゃあ、駄目ですか」
「……いいのね」
「さとり様はどうですか? さとり様がいらないってんなら、俺は全部諦めま……」
「馬鹿なこと言わないで!」

 遮るように叫ばれて、彼は目を瞬かせる。彼が起きている時に大声で怒鳴ったのは――そういえば、初めてだった。

「私が、私がどれだけ……! どれだけ、貴方を失いたくないと思ったか!」
「さとり様」
「お願いだから、そんなことは……」

 泣き出してしまったさとりの頬に、彼は手を当てた。

「……すみません」
「ごめんなさい、取り乱して」
「……けれども、それが俺の全てなのです」

 彼の心が正直に告げてくる。言葉にするのが難しいらしく、心の中で呟いている。


(魔法使いとか何とか、永く生きる方法はないか、探そうと思ってた)

 此処にいたいから、居たかったから。

(お燐とかお空とかは、怨霊食って永く生きれば、って言ってたけど、俺は人間だし)

 そういうことは、いろいろな意味で拙い、と思って。

(だから、どうにかして、永く生きようと思ってた)


「……貴方は」
「……俺は、さとり様と、一緒に居たかった。外に二度と帰れなくても、人間でなくなっても」
(赦してもらえないかも、しれないけど)

 彼は力の入らない笑みを浮かべた。

「永らえるには狡いやり方だ。でも、さとり様、その狡いやり方に、加担してくれませんか」
「……本当に、貴方は」

 さとりは頬に当てられた彼の手に自分の手を重ねて、涙を流した。
 それだけで、彼は全てを了解した。すまなそうに、言葉にする。

「知ってるんです。これで俺はさとり様を縛ることになっちまう」
「……違うわ。貴方が私のものになるの」
「…………光栄です」

 さとりは彼の手を離して、彼を正面から見つめた。

「……私は、貴方を失いたくない」
「はい」
「……寿命という形なら、もしかしたら諦めもついていたかもしれない。でも、この形では、私の心が納得いかなかった」
「…………さとり様の所為では、ないですからね。俺も、気が付かなきゃいけなかった。おあいこです」
「それでも、それでもなの。地霊殿に居たが為に――いえ、私が愛した所為で、貴方を殺してしまうのは、私の心が赦せなかった」

 生きようと足掻き、生かせようと足掻き、その結末が、これ。

「……貴方を、私の使い魔にします。これでも魔力は高い方だと思います。永琳さんの協力は仰ぎますが」
「はい。俺は、貴女のものに」
「ええ」

 さとりは、彼の額に口付ける。少し照れたように、彼は笑った。
 その笑みに切ない愛しさを感じながら、さとりは身体を離す。

「準備をします……待っていて」
「はい、さとり様」

 頷いた彼に微笑みを返して、さとりは部屋を出た。



「覚悟は決まったようね」
「永琳さん」

 客間で待っていた永琳と鈴仙に、さとりは丁寧に一礼した。

「お待たせいたしました。よろしく、お願いします」
「いいえ、大事なことですもの。ウドンゲ」
「はい、師匠」

 持っていた鞄の中を、鈴仙がいろいろと確認し始める。

「早くしてしまいましょうか。彼の体力が持つうちに」
「はい」
「貴女は、大丈夫?」

 永琳の問いに、さとりは頷いた。

「……彼とも、しっかり話をしてきましたし」
「その安定があるなら大丈夫ね。でも念のため、少し身体を休めておきなさい」

 そう口にしたとき、扉が開いて声が飛び込んできた。

「よーお、面白い話だな」
「あれ、何であんたこんなところにいるの?」

 声の主、霧雨魔理沙の登場に、鈴仙が目を丸くする。どうしてか、その衣服はあちこち擦り切れていた。

「いやまあ、な。何か面白い話が聞こえてきたんでな」
『少し協力してあげようか、ということよ』

 傍にあるオプションから、ため息混じりのパチュリーの声が聞こえてくる。

「あら珍しい。どういう風の吹き回し?」

 永琳が首を傾げる。魔法使いは興味のあるものにしか動かない、という認識なのだ。

「まあ、ここの伝手がいなくなるのも問題だしな。付き合いゼロなわけでなし。ここの猫に話も聞いてしまったからな」
「……そう、お燐が連れてきていたのね」

 さとりはため息をつく。そこまでペット達に心配をかけていたことを申し訳なくも思っていた。

「ま、怒ってやるなよ。私は何かもらえればいいからさ」
「家捜しは勘弁してくださいね。騒動になるので」
「怖い怖い。さて薬師、どうだ?」
「そうね、実際、紅魔館の魔女さんの理論を借りれるのは大きいわ」
『人間に応用できる保証はないけれどね。でもいい研究対象にはなりそうだわ』
「それでも構わないわ。さて、協力者がいるなら早いほうがいいわね。行けそう?」

 永琳の言葉に、さとりは強く頷いた。

「ええ、いつでも」
「いい返事よ」

 永琳は茶目っ気たっぷりにウインクして、鈴仙に再び指示を与え始めた。





 そして――





「おお、元気になった。凄いな」
「病み上がりなんだから、無理しないで」
「はい」

 それでも、ベッドの上に身を起こして、嬉しそうに彼は表情を綻ばせた。
 あれから、二日。いつの間にやら魔法使い達だけでなく、あちらこちらに協力者が出来ていて、意外なほど全てが上手く進んだ。
 関わっていたらしいこいし曰く、『スペルカードルールって良いよね』だそうだ。何をしたのだろう。

「半人半妖と同じようなもん、って言ってましたし、今度霖之助さんにいろいろ聞いてみますよ」
「ああ、あの古道具屋の……」
「ええ、いろいろ工面してもらったりとか」
「…………男の人が見るようなものもね」
「……それは見なかったことにしてください」

 気まずそうな顔をして、彼は頬をかく。

「……まあでも、不思議な気分です。まだ人間な気分ですね」
「基本は変わらないもの。死なないわけではないし、それこそ病気に強くなっただけ。それでも、本当に、非常手段だったのよ」

 本当に。そう、さとりは彼の手を握る。
 彼はほとんど人間だ。何も特殊な能力など持ち合わせない。ただ、命を繋いだだけ。

「これで貴方は、地底を、地霊殿を離れられない。物理的に離れることは出来ても、精神的には」
「さとり様、わかってるでしょう、俺がどう思っているかくらい」

 彼は微笑う。もう、自分の帰る場所は地霊殿でしかありえない、と。
 大事な家族がいる地霊殿が、自分の家なのだと、彼は言う。

「……ありがとう」
「いえいえ。俺こそ、ありがとうございます」

 朗らかに笑って、さて、と彼は頭の中で寝込んでいた間に放置していた仕事をふと考えた。
 たしなめるように、さとりは微苦笑する。

「しばらくは駄目よ」
「あー、いやはや、何か働いてないと落ち着かなくて」
「……家族なんだから、もう少し頼ってくれてもいいのよ」
「あ、う、は、はい」

 顔を紅くしてしまった彼に、さとりはくすりと微笑う。

「今、先に家族って言ったのは貴方なのに。心の中だけど」
「声にされると、そのやはり。未だにですね」

 家族と呼ばれるのが、まだ落ち着かないらしい。少しいじめてみることにする。

「家族だし恋人なんだから」
「う、あう、はい、頑張ります」

 さらに真っ赤になってしまいながら彼はこくこくと頷く。
 ただ、恋人、という単語に、言葉に出来ないようなことまで考えられて、さとりは顔を紅くしながら軽く咳払いした。

「そういうことは、まだ、ね」
「ううううう、すみません……」

 男の性なんですよ、と彼は頭を抱えた。そしてしばし唸った後、がばりと顔をあげる。

「……さとり様」
「何?」

 改まって、彼は話し始めた。何を話されるかわかっていて、さとりは尋ねる。

「……きっと、これから、いろいろあると思います」
「ええ」
「俺のことを嫌だ、って思うことも、全くないわけはないと思います」
「そうね、逆に、貴方が私のことを嫌だと思うときもあるかもしれない。それは一緒に暮らす以上、絶対ね」
「はい。そういうのを重ねた上に、本当の、その、家族とかっていうのはあると思います」

 喧嘩や言い争いを全くしない関係、というのは理想ではあるけれど、それが絶対に成し得るわけではない。

「言いたいこと、思ってること、いろんなものの相違、って、きっとあるはずです」
「ええ。私は、思っていることを読めてしまうけれど」
「そう、言ってしまえばそれなのです。それだけなんですよ」
(それだけ、という言い方は悪いかな)

 彼は胸中で呟きながら、えーと、と言葉を詰まらせる。

「けれど、普通の人達と違うのは、きっとそれだけなのです」
「それだけ、が、随分と大きいけれどね」
「はい、大きいです。でも、それを最初から了解しておく、って言うのは、大事だと思ったんで」
(さとり様にとっても、俺にとっても)

 彼の目は真剣だった。本気で共に在りたいからこそ、誤魔化さなかった。
 一緒にいるというのはそういうことだ。時にはぶつかり、怒り、憎むことさえあるかもしれない。
 それでも、大事に想い、共に喜び、守りたいというものもきっとある。
 それを全部受け止めていくのが、きっと愛するということなのだろう。

「……そうね」
「はい」
「……ありがとう」

 さとりは腕を伸ばして、彼を抱きしめた。嬉しかった。真剣に想ってくれていることが、何より。

「……ではさとり様、最初に俺が言いたいことがあります」
(これはまず言っておかないと)
「何?」

 身体を離そうとするのを遮って抱きしめ、彼が話し出す。

「……もっと俺達を頼ってください」
「え?」
「さとり様が心細いときとか、頼りたいときとか。俺達に頼ったり甘えたりしてください」
(さとり様は、一人で無理するから。絶対甘えるの下手だし)

 声と心の声とで、言葉が入ってくる。

「……そんなに下手かしら」
「そらもう。お燐もお空も今回だいぶ心配してましたよ」

(俺達の心の中をさとり様が読めても、俺達は読めないんだから)

「まあ、主としてそういうの、あんま出せないってのもわかんなくはないですが、えと、その」

(せめて、俺の前だけでも)

 力が強くなって、さとりは少し身を捩った。それでも、彼が力を緩める様子は、ない。

「……その、ええと、甘えてくれると、嬉しいです」

 彼は、強く抱きしめることで、さとりが苦しがっているのではないか、と思ってはいた。
 それでも、返答を得るまでは離す気は到底ないようだった。変に頑固なことを、さとりは思い出す。

「……努力、するわ。最初からは、無理かもしれないけれど」
「はい」

 頷いて、ようやく彼は力を緩める。照れくさそうに笑って、腕を離した。

「すんません、でも、これだけは言っときたくて」
「ありがとう。ん、そうね、じゃあ、まず二つ、お願いしていいかしら」
「早速ですね。何でもどうぞ」

 楽しげに返した彼に、さとりは悪戯っぽい表情を浮かべる。

「一つは、後から。また後で来たときにお願いするわ。今は」

 そう、さとりは彼の口唇に人差し指を当てた。

「……言わなくても、わかる?」
「…………俺の考えたのが、間違っていなければ」

 彼はさとりの頬に手を添え、少し上向かせる。

「正解、よ」

 微笑んださとりは、そっと瞳を閉じた。緊張した彼が近付くのを、鼓動が早くなるのを押し隠して待って――


 どこか不器用な、だが優しい口付けに、心の何処かが満たされるのを感じていた。


「……意外に、積極的ですよね、さとり様って」
「あら、そうかしら?」

 彼の胸に身を預けて、さとりは首を傾げた。
 実は恥ずかしくて顔が上げられないのだが、それは彼も同じようなので、これ幸いと顔を隠したまま言う。

「『催促されるとは思わなかった』と?」
「まあ、そうですね」

 頭をかいて、彼は照れたように呟く。

「……私だって、一応女だもの、初めては好きな人の方からしてもらいたいと思わない?」
「はあ、わかるようなわかんないような」
(そんなもんなのかな……て、初めて?)

 きょとんとした思考に、さとりは彼の胸に顔を押し付けて頷いた。

「……忌み嫌われた妖を、好きになる者なんていなかったわ。貴方がよっぽど奇特なのよ」
「ん、面と向かって変人て言われるのはあれですが……それでも、俺はさとり様のこと、その、好きですし」

 嬉しそうな気配が、さとりの心に流れてくる。それに身を委ねながら、さとりも微笑った。

「ありがとう」
「いえ、う、その、礼を言われるようなことでも」

 真っ赤になってしまった彼を愛しく想いながら、さとりは顔を上げた。

「少し終わらせないといけない仕事があるから、そろそろ行くわね」
「ああ、はい」
「また、後で来るわ」
「はい」

 無理しないように、と言う彼に頷いて、さとりは彼に顔を寄せた。

「行く前に、今度は私から」
「あ、う、は、はい」

 どこかまだ不慣れな雰囲気の中、二人はもう一度、口付けを交わした。





 再びさとりが来たのは、既に就寝準備も終えるような時間だった。

「だいぶ良さそうね」
「ええ、風呂も入れましたし。身体自由に動かせるってのはいいもんです」

 そうおどけて見せると、さとりも微笑みを返してくれた。

「無理しない程度にね」
「はい。ああ、そういや、もういっこのお願いって何ですか? もう夜になっちまいましたけど」

 こんな時間だし、明日以降になるだろうか。自分に出来ることは僅かなことで、特にこれというものは思い浮かばないけど。
 ああ、でも甘味作りなら何とかいけるか。見つけたレシピもあるし、方々の友人に教えてもらったものもあるし。

「それも気になるけれど、今はそれじゃないわ」
「ん、とすると何でしょう?」

 首を傾げると、少し言いよどんだ後、さとりは口を開いた。

「その、ね、今日は、一緒に寝ても良いかしら?」
「え、えええ!?」

 顔を紅くして告げたその一言に、彼は思わず声を上げた。言われて見れば、さとりの服も寝着のようなものだった。
 気が付かなかった、というより、意識しないようにしていたのだろう。たぶん無意識に。

「……安心して、眠りたいの」
「う、ですが」

 むしろ彼自身が危険だとは思わないのだろうか。

「……それは、その、信頼……してるもの」
「…………結構反則的なこと言ってくれますねえ」

 そんなことを言われたら、男としては何も出来ない。

「……駄目?」
「……わかりました」

 上目遣いは更に反則だ。本人はわかっていないようだけれど。
 首を傾げたさとりの顔が、更に紅くなっていく。

「え? あ、え……?」
「読んだならわかりますね? 可愛いんですよその仕草。うっかり理性放り出しそうになるくらいに」

 放り出さなかった自分を褒めてやりたい。まあそれはそれとして、だ。

「さとり様、あの……っ!?」

 言いかけた瞬間、背後から何かがぶつかってきて、彼は驚いてさとりを抱きしめるようにつんのめった。

「きゃっ!?」
「すんません、いや、誰かが……!?」

 驚いていたのはおそらくお互い様だが、背後から聞こえた声に彼は脱力することになる。

「じゃあ、今日はみんなで寝ようねー!」
「……こいし様、いつからいらっしゃいましたか」
「二人でらぶらぶな会話してたときからー」

 甘々だからいつ入ろうか迷ったよー、と無邪気な声で言う。

「……こいし、人の部屋に無断で入らないの」
「ん、出来る限り入らないようにはするよ」

 にこにこと微笑いながら、こいしはベッドの上から降りる。

「じゃあ、お空とお燐連れてくるねー」

 そのまま、パタパタと走っていってしまった。

「まったく、あの子は……」

 ため息をつきつつ、さとりは彼の胸から離れる。何となく寂しく感じつつも彼は腕を離した。

「……あら、名残惜しい?」
「うー、あー、すんません」
「謝らなくていいのに」

 よしよし、と頭を撫でられていると、また足音が戻ってくる。

「ただいまー!」
「はいはい、では休みましょうか」

 その声に、バタバタと羽をはためかせて空がさとりの腕の中に納まる。燐も、さとりの肩の上に乗ってきた。

「二人とも、今回はありがとう。そうね、一緒に寝ましょうか」
「……先に言っとくが、二人とも鳩尾にはアタックするなよ?」

 そんなことしたら放り出すからな、という彼の言葉に、そ知らぬ顔で二匹はさとりに甘えていた。




「すっかり、落ち着いちまいましたね、こういうの」
「あら、不満?」
「いや、何とも言い難いですが。俺が起きてるときから一緒にってのは始めてなんで」

 言われて見ればそうだ。眠っている彼の傍に、いつの間にかみんなが集まってくる、というのがパターンだった。

「落ち着かない?」
「……いや、変な気分ですね。誰かと一緒に添い寝する、なんて、物心ついてから経験ないですから」

 頬をかこうとして、彼は両腕を動かせないことを思い出していた。
 左腕はこいしに抱えられているし、右腕はさとりの枕になっている。

「嫌かしら?」
「嫌ではないんですけどね。俺はこれでいいのかって気分になります」
(布団か枕か、という扱いなのかねえ)

 微妙な思いになっている彼に、さとりはくすくすと笑みを漏らす。

「貴方の傍は温かいもの。みんな落ち着いてしまうのよ」
「そんなもんですかね。ま、役に立ってるなら何より」

 楽しそうに、彼も小声で微笑った。もうみんな寝てしまったようで、起きているのも二人だけだ。

「……本当に、安心できるの」

 さとりはそう、彼の心音を確かめるように胸に耳を当てる。
 とくん、とくんという規則正しい音が、さとりを安心させた。

「……さとり様に安心してもらえるんなら、それが一番ですけどね」

 躊躇いがちに抱き寄せて、彼はそう囁いてくれた。
 くすぐったいような、嬉しいような気分になりながら、さとりは彼に擦り寄った。

「ありがとう。嬉しいわ」
「礼を言うのは俺の方ですよ。ありがとうございます」

 照れくさそうに、彼は言う。その感情を感じながら、さとりは彼の顔に手を添える。

「……なら、私からのお礼はこれで」
「え?」

 驚いた彼に構わず、さとりはその口唇を奪う。

「おやすみなさい」
「え、あ、お、おやすみなさい……」

 言うだけ言って、さとりは顔を伏せてしまう。恥ずかしいのと、顔が紅くなっているのを隠すために。

(……いや、今のは反則だろ……!? 眠れんのか、俺……)

 密かにパニックになっている彼に、自身の鼓動が速くなっているのを隠しながら、さとりは目を閉じた。



 五分後。

「……私は、眠れないのに……」

 安らかに寝息を立てている彼を少しだけ恨めしそうに見遣って、さとりは息をついた。

「……でもそれが貴方らしいのかも、ね」

 温かくて、どこかのんびりしていて。傍に居ると心が落ち着いて。

「……そうね」

 どこか安堵の吐息を漏らしながら、さとりは再び目を閉じた。
 今は、何も心配することはないのだ。愛しい人の腕の中にいる。それが何よりも安心できる。
 急に睡魔が襲ってきて、さとりはそれに身を委ねることにした。




 翌朝。

「さて割とすっきり起きられたわけだが」

 全員起きてないとはどういうことだ。時計に目を走らせれば、そろそろ起き出す時間ではある。
 ここはまず、ペット達から起こすべきだろう。きっと。

「お燐お空、起きろー」
「んー? ああ、朝かー」

 ひょいと床の方に降りながら、空が人型になる。良かった、人の上で人型に戻らないことは学習してくれたらしい。

「お燐ー、起きなよー」
「……ああ、うん、そうだね。おはよ」

 眠そうな声から一気に覚醒して、燐も床の上で人型になった。

「おはよー。あれれ、さとり様とこいし様、まだ寝たまんまなんだ」
「おう、おはよ。そろそろ起こさなきゃな、とは思うんだが」
「ま、ここんとこ忙しかったし、少し寝坊しても大丈夫だろ。朝ご飯、あたい達の分は自分で用意するからさ」
「おうさ、よろしく」

 ひらひらと手を振って、部屋を出て行く二人を見送る。

「……さあしかしどうするかー」
「私は起きてるよー?」
「……おはようございます、こいし様」

 おはよー、とこいしは腕から手を外して起き上がる。

「お姉ちゃんまだ寝てる?」
「寝てますね」
「お姉ちゃーん、そろそろ起きよー?」

 彼の躊躇いも何もすっ飛ばして、こいしはさとりを揺する。

「……んん……ああ、おはよう、こいし……」

 とろん、とした瞳で、さとりが目を覚ます。第三の目も心なしか眠そうだ。
 瞬間、心臓が跳ねて、彼はその動悸を収めるのに苦労した。

「おはよう、お姉ちゃん」
「ん……」

 随分眠そうに起き上がったさとりは、頭を一つ振って状況を確認しようとしているようだった。

「おはようございます、さとり様」
「え、あ、あれ……」

 起き上がって挨拶をする。少し混乱はしているようだったが、ようやく目が覚めたのか、さとりは一つ頷いた。

「おはよう。少し寝坊しちゃったかしら」
「ほんの少しですよ」
「うん、さ、起きてご飯にしよう?」
「そうね。その前に、着替えてくるわ」
「ん、私もー。また後でね」
「了解です」

 ベッドからそれぞれ起き上がって、彼は一つ伸びをした。体が随分と楽だ。これならもういろいろ動いても大丈夫だろう。

「動いて大丈夫?」
「ええ、問題なさそうですね。朝飯は作りますよ」
「わぁい、久し振りだね、楽しみだよ」

 こいしが楽しげに言う。彼も笑って、さて、と首を傾げた。

「んでは、また後で」
「念のため、一緒に行きましょうか」
「じゃ、部屋の前で」

 そう頷いて、彼は二人を見送る。久々の清々しい朝に、我知らず頬が緩んでいた。



 着替え終わって部屋の前でぼんやり立っていると、いつの間にか隣に居たこいしに声をかけられた。

「お疲れ様」
「ああ、こいし様。お疲れ様って?」
「いろいろと。貴方の心も身体も。お姉ちゃんも、そうだけど」
「こいし様、こいし様は、もしかして最初から」

 何もかも、知っていたのだろうか。こいしは首を振った。

「知ってはいなかったよ。何となく、ただ何となく」
「……ですか」

 確かに今回は無意識下の事だ。こいしは何かを感じ、本当は警告していたのかもしれない。
 それに気付かなかっただけ、ということか。いやはや、無意識とは奥が深い。

「でも、いい方向になって良かったな。私はお姉ちゃんに幸せになって欲しいし」
「さとり様も、こいし様に幸せになって欲しいと思ってますよ」
「そうかな」

 はにかんだように微笑んで――そうそう、と、こいしは彼の前に一本、指を立てて見せた。

「先に言っておくけど、お姉ちゃんとらぶらぶなのはいいけど、手を出しちゃ駄目だからね?」
「え、あ、は、はい?」
「お姉ちゃん、信頼してる相手には無防備だからねー。ぐらっとくることもあるかもしれないけど」
「……わかってます、信頼を裏切るようなことはしないですよ」

 でも俺ってそんなに信用ないですか、とため息混じりに彼は呟く。

「信用はしてるよー? でも、お姉ちゃん、無意識にああだから」
「…………心当たりが皆無なわけではないっすけどね」

 納得はして、彼は頷く。

「まあ、そういうことを焦るわけでもないですから」
「えー? 襲いたくなるほど可愛い、って思ってるんじゃないの?」
「……いやまあ否定しないですけど、こいし様俺に釘刺してるんですか煽ってるんですか」
「ふふふ、どっちでしょー?」

 さ、朝ご飯だよー、と先に行ってしまったこいしの後姿に、彼は大きくため息をついた。
 深く考えないようにしよう。たぶんからかっているだけだ。
 もう一度ため息をついていると、後ろからさとりに声をかけられた。

「どうしたの? ……こいしがまた何か?」
「いえいえ、何でも。からかわれただけですよ」

 苦笑して、彼はさとりと並んで歩き出す。

「さ、今日は何にしますかね」
「貴方が作ってくれるのも久々ね」
「腕が鈍ってないといいんですけど」
「大丈夫よ、きっと」

 軽口に微笑い合って、二人は歩いていく。



 本人たちが気付く気付かないに関わらず、問題はまだ山積みであったが、今はただ、これで良いと思えていた。
 問題も、一つ一つ解決すればよいと、そう思っていた。そしてそれは事実でもあった。
 そうしていくことで、きっと一歩ずつ、新しく進めていくのだから。



 これが、彼が地霊殿にずっと居つくようになった一連の話の、最後にして、始まりの話。
 そして――


──────────────────────
 是非曲直庁の一角。裁判を終えた四季映姫が、一つ息をついていた。

「さて、これにて一段落しましたが……何用ですか?」
「ごきげんよう、閻魔様。少々お耳に入れたい議がありまして」
「貴女が自らやってきて話とは珍しい。何の話でしょうか?」
「旧地獄周りのことですわ」
「……聞きましょう」

 映姫はゆっくりと振り返り、そこにいた八雲紫の言葉に耳を傾けた。






「ということで宴会だ」
「宴会か」
「宴会だ」

 訪ねてきた魔理沙に、どういうわけかわからんが、と呟きながら青年は一つ首を傾げた。

「強制参加だって?」
「ああ。こいしに聞けば詳細はわかるさ」
「こいし様? 珍しい。まあでも、わかったよ。さとり様達にも伝えておく」
「おや、私は家捜しをするつもりでもあったんだがな」
「……紅茶とケーキぐらいは出してやるから、それは勘弁してくれ」

 ため息をついて、彼は、ああ、という表情をした。

「ケーキ、土産にも持たせるよ。お前さんと、紅魔館の魔女さんの分」
「ん? ……ああ、こないだのか」
「世話になったからな」
「お客さん?」

 後ろからの声に、彼は途端に相好を崩した。魔理沙はそれだけで状況を察する。

「はい、さとり様。魔理沙が」
「いらっしゃい。あら、『面倒な奴が出てきたな』ですか」
「家捜しするには邪魔な奴だな」
「相変わらず、本心は口にしないのね……そう、一緒にお茶を、ということ?」
「ええ」

 さとりは彼を見上げ、二、三度頷いた。

「そう、お土産もね。では、どうぞ」
「……本当にナチュラルに心で会話してるのなお前ら……」

 呆れた声で、魔理沙が呟いた。




「まあ、そういうわけで、神社で宴会だ。いつもの通りだな」
「はいはい。『夜の境内は涼しいし』ですか」
「相変わらず言葉要らずだな」

 魔理沙は軽口を叩きながらケーキを口に含み、声に出さず唸った。

「どうだ、それ。外のレシピ手に入ったんだ」
「まあまあじゃないか」
「そか、精進する」

 生真面目に応える彼に、さとりはくすくすと微笑う。

「十分美味しい、だそうよ」
「ん、そなのか、魔理沙」
「ああ、まあ、な」

 気まずそうな声を上げたものの、土産にも貰えるということで、ケーキに不満を漏らすことはなかった。

「ま、それはいいとしてだ。宴会、いつものように頼むな」
「何かしら持っていくのですね」
「そうだ。やはり話が早いな」
「まあ、何か選んで運んでいくよ。何か見繕っておきましょうか、さとり様」
「ええ、お願い」

 さとりが頷いたとき、ドアの向こうから彼を呼ぶ燐の声がした。

「おーい、今日もそろそろ始めるよー!」
「ああ、おうよー! すみません、さとり様、ちと行ってきます」
「ええ、いってらっしゃい」

 一つ礼をして、彼は部屋を出て行く。不思議そうな顔をしている魔理沙に、さとりは説明した。

「弾幕勝負をお燐に習ってるのですよ」
「あいつ弾幕撃てるのか?」
「『魔法が使えそうにもないが』ですか。そうです。避ける専門ですね」
「それでいいのかね」

 魔理沙はどこか呆れたように呟いた。さとりは少しだけ微苦笑する。

「魔法が使える様になった訳でもないですからね」
「自衛のためとはいえ、ちょっと消極的過ぎるよな。今度何か教えてやろうか」
「……『上手くいけば実験台にも出来るし』ですか。それはやめてくださいね」
「あはは、わかってるって」

 わかってかわかっていないでか、魔理沙は一口紅茶を啜った。



「ほい、行くよー」
「おー!」

 燐が放つパターン弾を、慎重に避けていく。弾幕の基礎から、かわし方まで。
 基本的にどういう弾があり、どうやって避けるか、という講義になってしまうのだが。

「まあ、あたいが今やってるのは練習だからねえ、本番とは違うよ?」
「ん、わかってるけど、とりあえず弾幕から逃げる手段は欲しいしなあ」
「……宴会の騒ぎ見てたらわかるけどねえ」

 宴会ではたまに弾幕勝負が始まって流れ弾が飛んできたりする。
 多少でも心得があるものにはそれほど危険でもないようなのだが、彼にとっては割合死活問題だ。

「それに、まあ、ちょっと思うところが」
「ん? 何かあるのかい?」
「いやまあ、杞憂になってほしいんだけどなー」

 そういうわけにもいかんだろうし、と、彼は一つため息をつく。

「よくわかんないけど、じゃあもう一回」
「……お手柔らかに頼む」




 そんな日々を過ごしながら、地霊殿の面々は宴会の日を迎え、地上へと繰り出した。




 宴会が始まるや、彼は地霊殿の面々から離れてふらふら歩いていた。
 別に深い理由があるわけではない。ただ宴会でしか見ない相手に挨拶しよう、という軽い思い付きである。
 挨拶をしよう、という行為自体が、この青年にしては中々成長が見られる事態なのだが。

「よう、ご主人様放っといていいのか?」
「ああ、魔理沙か。ん、一言言ってきたから大丈夫だ」
「……律儀だよな、お前は」

 感心したような呆れたような言葉を口にして、魔理沙は幾つか手にしていた杯の一つを渡す。

「ま、宴会だ。細かいことはなしだな。ほれ」
「サンキュ」
「ああ、そういや、閻魔がお前を探してたぜ」

 そう言われて、彼は杯に酒を入れようとしていた手を止めた。

「……閻魔? って、映姫さんか」
「ああ。何でもお前に用があるとかで」

 その言葉に、彼は杯を魔理沙の手元に返した。その表情は真剣で、魔理沙が不思議そうな表情で尋ねる。

「どうしたんだ?」
「いや……飲むのは、やめとく」
「説教か? 私は逃げるが」
「俺は受けないといけないんでな」

 苦く笑って、彼は静かに立ち上がる。視線の先には四季映姫と、小野塚小町の姿があった。

「そういうことなのですね、映姫さん」
「ええ、そうです。こちらでは宴会の邪魔にもなるでしょう。少し離れましょうか」
「ま、取って食われるわけでなし、緊張はしなさんな」
「ああ、ありがと」

 小町の言葉に微かな笑みを返して、彼は映姫に頭を下げた。

「よろしく、お願いします」
「はい」




 境内裏の、木々に囲まれた場所。そこに、彼は映姫と小町と向かい合うようにして立っていた。

「それでは、裁判を始めます」
「はい」

 頷いた彼に、映姫は告げる。

「貴方の罪は重い」

 告げられた言葉は、予想はしていても重い言葉だった。
 それでも、これは聞かなければならなかった。

「自らの変調に気が付かず、手遅れになって初めて生きようとした」
「はい」
「自己管理をせず、多くの者に負担をかけ、そして――一人の女性を不自由にした」
「間違い、ありません」

 深く、項垂れる。彼は、さとりに全てを渡すと同時に、彼女を縛ったのだから。

「人が人でなくなったことも罪ですが、それより何より、他者の人生までも変えてしまった」
「その通りです」
「ましてや、彼女は、ただの妖ではない」
「……?」
「彼岸にとって、という意味です。何故彼女が地霊殿の主を任じられているか、知っているでしょう」
「……怨霊を、統括する、という役目。心を読める、覚りという妖だからこそ、ですか」
「そうです。彼女はその役目を全うせねばならない――貴方は、その負担となることでしょう」
「……そうだと、思います」

 そう、そうなのだ。自分はさとりにとって負担にしかならない。
 何かを、何かを返せれば良いが、それすら出来ぬ、ただの、一人の存在。
 わかっていても、突きつけられるのは痛かった。

「……貴方の命を奪う、ということはしません。それは、多くの者の努力を踏みにじる行為となります」
「ありがとう、ございます」
「わかっていますね。貴方は生きなければならない。それがどれだけ、彼女の負担となろうとも」
「はい」

 そうだ。そこまでしても、自分は生きたかったのだ。命に、執着したのだ。

「俺は、こんな俺でも、生きて欲しいと言われて嬉しかった。だから、生きます」
「……はあ。まあ、説教は後にしましょう。とにかく――罪には罰を」

 一つため息をついて、映姫は悔悟の棒を彼に向けた。

「貴方は、死して裁かれるまでに時間がかかります。されど、この一件は彼岸と地獄に関わること。今この場で、理解してもらいます」
「弾幕、ですか」
「幻想郷で最もわかりやすいものですから。それに、貴方も準備していたのでしょう?」
「お見通し、って奴ですか」

 彼の言葉に微笑んで、映姫は浮かび上がる。彼は、腰を落として動きやすい体勢をとった。
 全ては覚悟していた。わざわざ燐に頼んでいたのも、弾幕で何かあったときのため。その何かが今なだけ。
 どのみち、弾幕など放てない。空も飛べない。地べたを這いずるものに過ぎない。ならば。

「必死に、駆けずり回る」

 独白して、彼は口の端を引き締めた。





 さとりは青年を探していた。妹の相手をしているうちに、気が付けば姿が見えなくなっていたのだ。

「あら、さとり、誰か探してるの?」
「ええ」

 霊夢は少し考え、ああ、あいつか、と納得したようだった。

「始めの頃魔理沙と話してたはずだけど……魔理沙の奴あちこちに行くから……何処うろついてるのかしら」
(何処ほっつき歩いてるんだか)

 心と言葉が同じ事を言っている。これだから、この巫女は面白い、と思いながら、さとりも魔理沙を探して辺りを見回した。

「ああ、いた。魔理沙ー」
「ん、何だ霊夢、どうしたんだ?」

 酒瓶を持ってうろうろしていた魔理沙が、もう酔っ払っているらしく怪しい足取りで寄って来る。

「さとりが探し人よ」
「ん、ああ、あいつか。知らんなあ」
「……どうしてどうでもいいところで嘘をつくのですか、貴女は」

 呆れたさとりに、魔理沙は笑った。

「まあまあ。でもあいつ今説教でも受けてるんじゃないか?」
(閻魔と死神に呼び出されていったもんなー)
「……え」

 魔理沙の心を読んで、さとりは絶句する。
 閻魔に、呼び出された。それは、彼が。

「どちらに?」
「ん、ちょっと離れたとこに行くって向こうに……おい!?」

 さとりは駆け出す。どういうことなのか、彼女にはよくわかる。
 自分の行為が閻魔や彼岸にとって罪であるだろう事も、罰を受けることも。
 それでもさとりは、自分だけが罰を受けると思っていた。

「……こっち!」

 弾幕の音に、さとりは方向を変える。おそらく、彼はそこに――

「……ああ、地霊殿の主殿か」
「貴女、は。死神の」
「ええ。まあ、今弾幕裁判中なんで、ちょっと待っててもらえるとありがたいね」

 木々の合間の開けた場所。そこで、映姫の弾幕を必死にかわす彼の姿があった。
 息を切らしながら、さとりはなおも走ろうとする。それを、小町が鎌で行く手を遮った。

「っ!」
「申し訳ないけれど、今あそこには誰も辿り着けないよ。あたいが距離を弄っているからね」

 読むまでもなく、事実なのだとわかる。けれども、ぼろぼろになって弾幕を避け続ける彼を、じっと見ているのは何より辛かった。
 映姫の弾幕が降り注ぐ。それをぎりぎりで避けて、彼の身体がよろめいた。

「………………」

 血が滲みそうなほど手を握り締めて、彼が転びながらもかわし、起き上がり、駆けるのを見つめる。

「……もう結構被弾してるんだよ。映姫様も常人相手だから、手加減はしてるだろうだけどさ」

 それでも、あいつは止まらないんだ、と小町は呟いた。

「それが、罪の償いと言わんばかりにね」

 黙って頷くさとりの方に、映姫がちらりと視線を向けた。そして、弾幕を止める。

「……ご苦労様でした」
「は、くっ……はい」

 ぜいぜいと息を荒げたまま、彼はその場に倒れて仰向いた。

「いやあ、きつい、っすね」
「途中で音を上げる人とは思っていませんでしたが、これほどとは。よく出来ました」
「はは、閻魔様、に、合格いただけるんなら、それなりですか」

 大きく深呼吸をして、彼は起き上がり――こちらに、気が付いた。

「さ、さとり様!? どうしてここに!?」
「先ほどから来ていましたよ。さて、古明地さとり。丁度良かった。貴女にも言わねばならないことがあります」
「はい」

 こちらに向かって歩いてくる映姫に、さとりは神妙な表情になった。
 わかっていますね、という映姫の心の声に頷いて、目の前に来るまで待つ。

「貴女の罪もまた、重い」
「はい」
「!? ちょっと待ってください、何で!」

 驚いたのは彼だけだった。小町が今度は彼の方に行って押し留めている。

「彼の変調に気が付かず、死の淵近くまで至らせたこと。彼を保護している立場とするならば、それは怠慢というしかありません」
「はい」
「そして、彼の命を永らえさせるために、貴女は彼を人以外のものにしてしまった。それは、本来許されざることです」

 映姫の口調は静かで、さとりに一つ一つ重みを加えて行く。このときの映姫の心は読み取れない。
 完全に閻魔としての存在になっていて、単なる人妖のように読み取れなくなっている。
 だからこそ、一言一言が、重い。

「この罪を償うに、貴女の任を解くことはありません。地霊殿の管理は、貴女にしか出来ないが故に」
「はい」
「功を以って罪を償う――これが、彼岸としての決定です。ですが、それだけでは済まない」
「如何様な裁きも、受けるつもりです」

 さとりは背筋を伸ばした。閻魔の判断は絶対。地霊殿の主として、一人の妖怪として、それを諾々と受けなければならない。
 向こうで、彼が叫んでいるのが聞こえた。

「待ってくれ! それは、俺が……!」
「はいはい、大人しく聞いてるんだ。悪いようにはならないからさ」

 心配している。そこまで心配しなくてもいいのに。本来、自分が受けなければならなかったはずなのだ、全て。

「……古明地さとり、貴女に、もう一つの任を与えます――その前に」

 映姫はくるりと振り返って、小町に抑えられて地面でバタバタしている彼に悔悟の棒を突きつける。

「とにかく静まりなさい。貴方に、罰を科す方が先なのです」
「俺なら、何でも、何でもします! だから……」

 言いかけた言葉を遮るように、映姫が告げる。

「……では貴方に、閻魔である私と、彼岸からの命です。地霊殿の主の職務、旧地獄の管理を輔けなさい」

 その静かな言葉に、その場に居た、映姫以外の思考が止まった。

「え、それは、どういう」
「言葉の通りです。今の貴方の仕事も続け、かつ贖罪としてその任務に付くのです。生涯をかければ、多少は罪も軽くなるでしょう」

 そこで言葉を切り、映姫はさとりに向き直った。

「話が途中になりましたね。貴女への新たな任は、この度新たに付く輔佐を教育、監督していくことです」
「…………はい」
「これは貴女の罰であると同時に、他者の贖罪の手助けとなります。覚悟して、受けることです」
「はい。ありがとう、ございます……」

 さとりは深々と頭を下げた。下げることしか、出来なかった。



「さて、裁きが一段落したところで、説教です」

 映姫は肩の荷が下りた、とでも言うように、彼の方を向いた。

「小町、もういいですよ。ご苦労様です」
「はい。しかし随分体力あるねえ、お前さん」
「火事場の馬鹿力って奴だよ。明日は筋肉痛だな」

 彼はそう笑った後、ようやく立ち上がって映姫に向けて首を傾げた。

「……説教?」
「説教です。ええ、貴方にはいろいろ言わなければならないことがありますので」
「う? そうなんですかい?」

 さっきまでの威勢がどこかに吹き飛んだかのように、彼は後退る。

「ええ。それはもう。貴方が人間であったときに先に言っておくべきだったことでもありますが」

 こほん、と一つ咳払いして、映姫は彼に告げた。

「貴方は、少し自虐に過ぎる」
「自虐……ですか」
「ええ。自分は大したものでないと思い込み、誰にも必要とされないとし、何もないと言う。それは大きな間違いです」

 びし、と映姫は悔悟の棒を彼に突きつける。先ほどの威圧とはまた違う威圧を感じた。

「その思いは、貴方自身を虚無にする。貴方は誰かに必要とされている存在でもあることを自覚しなければならない」
「必要、と、されて」

 言葉に詰まる。自分が必要とされている、というのは、未だに彼自身が、どこかで否定しようとしている思いだから。
 わかっているのだ。必要と言ってくれたから、自分が此処に在るというのも、十分わかってはいるのだけれど。

「……先程、貴方が誰かの為に必死になったように、貴方の為に必死になる人がいることを、貴方は知る必要があります。
 貴方が自分を必要以上に卑下していくことは、その想いすら無駄にしてしまうということ。それは許されることではありません」

 はっとなった彼に構わず、映姫は微笑んで続けた。

「貴方を大切に想う人の心を信じること。想いを信じること。それが、今の貴方に出来る善行よ」





「いいんですか、あのまんまにして」
「いいのですよ。今は二人きりにしておきましょう」
「はーい。それにしても、あれで良かったんですか、裁き」
「少々甘いですけれどね。いろいろ思惑も絡むのです、旧地獄が絡むと」
「へーえ、あたいはてっきり映姫様が手回し……きゃん!」
「言わなくていいことも有るのですよ、小町」





「……さとり様」

 気が抜けたように胡坐をかいて座り込んだ青年は、近付いてきたさとりを見上げた。

「……隣、いいかしら」
「はい」

 彼の頷きを見て、さとりは隣に座る。

「……怒られちまいました」
「ええ、見ていたわ」
「……全部が全部、間違ってたとは、思ってはないんですが」

 彼はそう呟いて、思うままに言葉を繋いだ。

「……俺が、何の役にも立たなかった時があったのは、確かですし」
「でも、貴方はここに来て変わったはずよ」
「ん、たぶんそうなんだとは思います。俺はここに来て初めて、誰かの役に立てた気がする」

 きっと、そうだからこそ、外で役に立たなかったからこそ、外から零れて幻想郷に来たのだろうけれど。

「俺は……まだ、よくわかんないです。こんなだから、ちょっとまだ上手く自分の感情、把握できない」
「ゆっくりでいいと思うわ。感情を持て余すことなんて、誰にでもあるもの。でも、覚えておいて」

 さとりは微笑んで、彼の頭を撫でた。

「私にとって、貴方は大事な人。とても大切な人。全てを奪ってしまっても――生きていて欲しいと思うほどに」

 それは、と。上手く言葉にならない感情で彼は問う。
 俺の全てが、貴女を縛ることになってしまったとしてもですか。

「それでも。それに私は、縛られたなんて思っていないわ」
「俺も、貴女に奪われたなんて思っていない。俺は望んで、さとり様の傍に居たいと願った」
「……私も願ったわ。貴方に、居て欲しいと思った」

 さとりが頭から離した手をそっと握って、彼は一生懸命言葉にする。

「……俺、きっとさとり様の負担になります。映姫さんに言われたのは、その通りだと思う」
「…………」
「でも、俺も何かを出来るんなら、ただ負担になるだけじゃなくて、ええと……」

 上手く言葉に出来ないのがもどかしい。わかってる、さとりには伝えたいことは全部伝わっている。
 でもやはり、思いは言葉にしたいではないか。

「……さとり様を、支えていけたらな、って思います。映姫さんに、役目ももらったことですし」

 ああ、でもやはり、上手く言葉に出来ない。言葉とはこんなに足りないものなのか。

「……そうね、私も」

 さとりはこつりと額をつけて微笑う。

「貴方にいろいろ助けられることは多いわ。これまでもそうだし、これからもきっと」
「さとり様……」
「わからないところは教えるわ。足りないところは補い合って。そして、私と一緒に居て」
「はい。俺は、いつでも、傍に」
「ありがとう。貴方が私を支えてくれるように、私も貴方を支えたい」
「はい」

 彼も微笑った。しばらくくすくすと微笑い合って、身体を離す。

「帰ったら、やること山ほど出来ちまいました。勉強しなきゃ」
「ええ、そうね」
「これからも、よろしくお願いします」
「私の方こそ。これからも、よろしくお願いするわね」

 静かな、だが、これからを決める、決意の表し方。

「……さて、宴会に戻りましょうか。勝手に抜けてきちまいましたし、まさかもう終わってるなんて事は……」
「…………それだけは、ないと思うわ」

 さとりが、木立の向こうに視線を向けつつ呟く。

「……? どういうことですか?」
「だって、その辺りにいるもの」
「…………は?」
「出てきなさい!」

 さとりが振り返ると同時、わらわらと木立の間から人妖達が出てくる。

「……みんないるんじゃねえか! 何やってんだ!」
「いやだってさ、あんたはいなくなってるしさとり様走っていっちゃうし」
「あんな様子見たら、何事かーって気になるわよねえ」
「まあ、追ってきてみたらいいもの見れたってことで」

 見世物じゃない、と、ぶつぶつと彼は呟く。これでも真剣なのだから。

「ふふふ、しかしまあ、邪魔しちゃったかねえ」
「本当に、妬ましいほどね」
「……ヤマメさんパルスィさん、何ですかその笑みは」

 物凄く嫌な予感と共に、彼は尋ね返した。

「おや、わかってるんじゃないか? ここにいる奴らが何を期待しているか」
「特にさとりはねー」

 言われてふと見ると、さとりが顔を真っ赤にしていた。

「え、あれ? さとり様?」
「察しが悪いねえ。ほらほら、みんな期待してるんだからさ」

 キスしろってことだよ、と勇儀が豪快に笑う。

「いや、え? ええ!?」
「ほらほらー、早くー!」

 周囲が騒ぎ出す。彼は途方に暮れたような表情になりながら、さとりに声をかけた。

「……どうしましょうか、さとり様」
「……覚悟を決めましょう。どのみち、多少見せ付けておけば、貴方にちょっかいかける人もいなくなるでしょうし」
「はい………………では」

 周りから野次が飛ぶ中、彼はさとりを抱き寄せる。
 抱きしめたとき、距離が思っていたより近くて、心臓が跳ねた。大きく深呼吸して、さとりの頬に手を添える。
 顔を紅くしたさとりが目を閉じた。その表情に更にどぎまぎさせられながら、彼は身をかがめる。





 一際大きな歓声が、周囲から上がった。




 それを遠目に見ながら、話す影が二つ。

「かくして、綺麗に収まりました、ということね」
「私はまだ、お姉さんに聞きたいこともあるけどね」
「あら、そうなの?」

 紫は、いつの間にか隣に居たこいしに疑問を投げかける。
 こいしは意に介せず、ただ尋ねた。

「……お姉ちゃんとあの人を、利用したの?」
「あら、利用した、なんて人聞きの悪い」
「けれども、実際全ては収まった」

 地霊殿は旧都と、そして地上との繋がりを持った。
 それは、変わっていく幻想郷――地上の産業革命とも合わせ、必要なことでもあった。
 エネルギー源は、元はといえば地底の――地霊殿の管理下にあるのだから。

「結果論よ。私は可能性を述べただけ。彼岸には口添えさせてもらったけれどね」
「彼の異変についても教えてくれたのは貴女でしたけれどね」
「閻魔様。閻魔様も?」
「ええ、まあ。思うところがないわけではないです。彼岸としても、地霊殿の扱いに悩んでいたところでしたから」
「そうなんですか?」

 こいしの問いに、現れた映姫は頷いた。

「少し前の怨霊の騒ぎは――やはり、問題にはなりましたから。未然に防げたということで不問にはなりましたが」
「それではやはり、地霊殿の輔佐を考えていらっしゃったのね?」
「ええ。ですが、地霊殿に好んで行く人妖はいませんから……本来は、貴女がそうあれば良かったのですが、古明地こいし」
「私は――私には、無理だから」

 閉じた瞳に触れて、こいしは微笑んだ。映姫は軽くため息をつく。

「彼は確かに適任です。人間のままでは、環境的な問題もありましたが……今では、その問題もありません」
「全てが、収まるところに収まったんだ、やっぱり」
「私が引き起こしたことではありませんわ――確かに、彼が幻想郷に落ちたときに、何もしなかったのは事実ですが」

 けれど、と紫は胡散臭く笑う。

「彼が地霊殿に辿り着いたのも、覚りが彼を受け入れたのも、彼が地霊殿に住み、覚りと愛を育んだのも――全ては彼らの選択」
「……あの人が、全ての引き金?」
「かもしれません。今となっては、事実が残るのみですけれどね」

 映姫はそう言って、再び大きく息をついた。

「随分と大掛かりですね、八雲紫」
「ええ、大掛かりです。けれども、色恋沙汰なんて、それでいいと思いません?」

 パチン、と扇子を閉じて、紫は満足そうな笑みを浮かべた。こいしも、ようやく微笑んで軽く首を振る。

「私は、お姉ちゃんが幸せなら、それでいいよ」
「幸せになるかどうか、は、これからの二人次第でしょうね。あの分だと、心配は不要でしょうけれど」
「想いも時として罪となりますが――この際は、それは置いておきましょう。あの二人の想いは、最終的に誰も傷つけませんでしたし」

 そう――この一件はそれが大きい。損をした者も、傷ついた者も、不利益をこうむった者すらいない。
 彼という、どこまでも不完全な一ピースが、ただ、嵌まっただけのことなのに。

「結構なことですわ」
「ええ、本当に……さて、丁度良い機会です、古明地こいし、貴女にも――?」

 説教をしようとこいしの方を向いた映姫は、そこに既に彼女がいなくなっているのを確認することになった。

「あらあら、またどこかに行ってしまったのね」
「はあ……まあ、彼女は全くわかっていないわけではありませんし、次の機会としましょう」
「そうよ、閻魔様。祝うべきことがあった席に、説教は無粋ですわ」
「粋の問題ではないのですけれどね」
「それはこの際おきまして。宴会の席に参りましょう」
「……そうですね」

 紫の提案に頷き、映姫も集団に向かって歩き出した。





「それにしても、随分思い切ったことしたのね」

 宴会の一角で、アリスがパチュリーと魔理沙に話しかけていた。

「決めたのは私達ではないわ」
「ちょっと手伝っただけだぜ」
「主に私がね」

 魔理沙の言葉に、パチュリーがため息をついた。

「まあ、そうなんでしょうけれど。人間を使い魔に、なんて中々聞かない話題だし」
「貴女の方が適任だったかしらね」
「さあ、それはどうでしょうね」

 アリスは明言を避けた。魔力のないものに魔力を入れるというのはアリスの方が優れているはずだが。

「しかし、不思議なものですね。私が居た頃に比べると、随分変わりました」
「ああいう物好きは少ないと思うがな」

 白蓮の言葉に、魔理沙が応じる。と、そこに件の彼がやってきた。

「おおお、魔法使いさん達みんなここにいたのか、良かった」
「噂をすれば何とやら。どうしたの?」
「いやちょいと聞きたいことがあってな」

 どこからか持ってきたらしい酒瓶を置いて、彼は尋ねる。

「その、魔法、って、どうやったら使える様になるんだ? あ、いや違うな、覚える方法ってあるのか?」
「……魔法使いにでもなる気?」
「……もし、使い魔にならなかったら、その方法探すつもりだった」

 訥々と話す彼の言葉を、四人は待った。

「……俺、その、今、何も力なくて、足手まといで。でも、そういうの覚えたら、俺でも、何かの役に立てるかと思って」
「……要領を得ないわね。つまるところ何かしら?」

 パチュリーに指摘され、彼はつっかえながら、ぽつぽつと説明していく。しばらく話を聞いて、ああなるほど、とアリスが呟いた。

「……つまり、上手く魔法や魔力というものが制御できたら、さとりへの負担が減るかも、って話?」
「そう、そうだ」

 こくこく、と彼は頷く。

「口下手にも程があるぜ。私達はさとりじゃないんだからさ」
「……すまん」
「朴訥、朴直、とは、貴方のような方を言うのかもしれませんね」

 白蓮の言葉はフォローするかのようだった。実際、彼女は優しく微笑んでいる。

「俺の命は永くなった、って聞きました。覚える時間は、あると思って」
「そうですね……ですが、尋ねて良いですか?」
「何でも」

 白蓮の問いに、彼は身構える。

「貴方は彼女のために力を求めると言っています。それは本当に彼女のためですか?」
「……そうだな、そうですね、突き詰めれば、俺のためかもしれない」

 深く頷き、考えながら、彼は言葉を口にする。

「さとり様に負担かけたくないのも、俺がそんなさとり様を見ていたくないだけ、だと思います。

 けれども、それでも、少しでもさとり様を楽に出来るなら、俺のエゴでも、俺は何かしたいと思う」
 言葉を一つ一つ選びながら、彼は続ける。

「でも、じゃないな、俺の我侭だ。それでも、俺は、俺を必要だと、大事だと言ってくれた人のために、成長したい」
「……心の底から、そう思っているのですね」
「はい」

 こくり、と頷いた彼に、白蓮は微笑んだ。

「わかりました。私に出来ることならばご協力しましょう」
「ありがとうございます」

 彼は深々と頭を下げる。

「それにしても、本当に貴方は彼女のことを大事にしているのですね」

 白蓮はそう、彼の後ろから近付いてくるさとりを視界に入れながら言った。
 他の魔法使い達にもその姿は見えているが、彼自身は気が付いていないようだ。
 さとりもこちらに気が付いたようで、歩いて――いや何故か走って近付いてきている。

「それはもう。俺はさとり様のことをあ……」
「な、何を大声で言おうとしているの!」

 ぐっ、と後ろから抱きつかんばかりの勢いでさとりが彼の口を塞いだ。

「……何言おうとしたかは大体わかるけれど」
「何を今更、って感じもするがどうだ?」

 アリスと魔理沙の呆れた声に、さとりは手を離して一つ咳払いをした。

「失礼しました」
「お熱いのは構わないんだけどね」
「ふふ、本当に」

 ため息交じりのパチュリーに、微笑んで頷いた白蓮は、改めて彼に言葉をかけた。

「私の知っていた頃とは、本当に随分変わりました。妖と人の新しい形に、私も力を貸したいと思います」
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ。それに、誰かが誰かを想うということは、とても素晴らしいことだと思いますよ」




「何か、バタバタしちまいました」
「本当にね」
「まあでも、やんなきゃならないこととやりたいことは出来たんで」

 微笑う青年に、さとりは一つため息をつく。
 宴会も酣を過ぎた辺りだ。空いてる酒瓶やらまだ残っているのやらが転がっている。
 その宴の片隅に、二人は腰を下ろしていた。

「本当に驚いたわ」
「すみません。でも、訊きたかったことだったんですよ」

 さとりは軽く頷く。それは知っていた。

「……ありがとう」
「え?」
「私のためだ、って言うのは知ってるのよ?」
「え、え?」
「魔法使いの人達が言ってたから、間違いはないと思うのだけど」
「え、どうして……ああ、そっか」

 心を読んだのか、と彼は納得していた。相変わらず、それで納得するのが彼らしいというか何というか。

「……慌てず焦らず、でいいのよ」
「はい」

 微笑って、彼は近くにあった酒とグラス二つを取り、一つをさとりに差し出した。

「あんま飲んでないですし、よかったらお付き合い願えますか」
「ええ」

 グラスを受け取って、彼がその中に酒を注ぐのを見つめる。

「貴方のも」
「ああ、その、すみません」

 手酌しようとしていたのを遮って、さとりは彼のグラスにも注ぐ。果実酒の甘い香りが漂った。

「それでは」
「ええ」

 こん、と軽く打ち合わせて、口を付ける。予想していた通りの甘味が広がった。

「ん、えと」
「てやっ!」
「うお!?」

 何か言おうと言葉を探していた彼の背後から、燐が飛び掛ってきた。

「なにさとり様独り占めしてるんだー! あたい達にもあまえさせろー!」
「そうだー! さとり様ー!」

 さとりにも、空が抱きついてくる。二人とも完全に出来上がっているようだ。

「ああもう、この酔っ払いどもがー!」

 ため息をつく彼に、さとりはくすくすと微笑った。

「まあ、いいわ。おいで」
「やったー!」
「わーい!」

 膝に頭を乗せて甘えだした燐と肩に顎を乗せて擦り寄る空を、それぞれ撫でてやる。

「……ま、こういうのも悪くない、ってことなんですかね」
「そうなのよ、きっと」
「じゃあ、私も混ぜてよー!」

 いつの間にやらやってきていたこいしが、二人の間に座っていた。

「そうね、こいし。こいしも一緒に」
「うん」
「そうですね。ああ、こいし様も、どうぞ」

 そう、こいしにも飲み物を勧めて、彼も頷いた。

「ありがとう」
「いえいえ」
「……悪くないわね、こういうのは」

 宴会の片隅だけれども、こうして家族で揃うというのは、きっと悪くないことだ。

「いいもんなんでしょう、きっと」
「そう、ね」

 笑った彼に笑みを返して、さとりも頷く。

「私を挟んでらぶらぶなのはいいけど、みんな見てるのも忘れないようにね、二人とも」
「ぐ、いやいや、そ、そういうわけでは」
「そ、そうよ、こいし」
「それは私じゃなくて、向こうでにやにやしながら見てる人達に言うことじゃないかなあ」

 呆れたように言って、こいしはグラスに軽く口を付ける。

「てか、うっかりスルーしたがまた見てんのか!」
「あら、今日の主役級がそういうこと言うのかしら?」

 唐突にスキマから上半身だけ出して八雲紫が現れた。

「……何してるのですか」
「からかいに来たに決まってるじゃない。さあ、まだ宴はこれからよ」

 さとりの言葉に楽しげに微笑んで応じ、紫は新たなスキマを開くと酒瓶を出してきた。

「……こりゃまた、いい酒で」
「祝いの席にはぴったりよ。さ、どうぞ一献」

 呆れ返る彼のグラスとさとりのグラスにそれぞれ注いでいると、鬼達を先頭に他の人妖も寄ってきた。

「いい酒と聞いては黙ってられないね」
「紫、私達にも飲ませてよー!」
「はいはい」

 呆れながら紫はさらにスキマを開いていく。それを見ながら、彼が首を竦めた。

「何か、いつも以上の酒の量ですね」
「酔い潰れないように、ね」
「気を付けます」

 苦笑ながらも楽しそうな彼に、仕方ないわね、と言うように、さとりは微笑みを返す。
 嬉しそうに頷きながら、彼は手元の酒をぐいと飲み干した。周囲から囃す声が上がって、またグラスに酒が注がれる。
 本当に酔い潰れそうね、と心配しながらも、さとりもまたグラスに口を付けた。
 こういうのも、本当に悪くないのかもしれない。そう思いながら、さとりは彼を見つめていた。







 これにて一先ず、彼が地霊殿の住人となった、最初の話は終わる。
 当然、彼にはこれからの生活もあるのだが――それはまた、次の話。



──────────────────────
「さとり様、大丈夫ですか?」
「さとり様~……」

 心配そうに、燐と空がさとりのベッドの隣についている。

「大丈夫よ、ただの心労だって言われてるから」
「でも、妖怪にとってはそれが一番問題なんじゃないですか!」

 燐が声を上げる。心は読むまでもない。二人して『心配』という字が空中に踊っているようなものだ。
 一連の事態の後、疲れ切っていた身体がついに限界を訴えたかのように、さとりは倒れてしまったのだった。
 ひとしきり騒ぎになった後、原因は単なる心労であるとわかり、竹林の薬師に診てもらったのもあって今は養生中である。
 大したこともないので、二、三日休めば治るとの見立てだ。

「さとり様、私何か持ってきますよ! 地上に行って、何か取ってくる!」
「こらお空待ちな!」

 走り出そうとした空を燐が止める。どこまで行くかわからないと思ったのだろう。本当にどこまでも行きそうだ。
 丁度そのときノックの音がして、さとりは、どうぞ、と声をかけた。

「失礼します……ああ、お前ら、仕事どうしたんだ」
『さとり様が心配なんだもん』
「異口同音に言うんじゃない、まったく」

 入ってきた青年はため息をつきながら、それでも心配なのはわかっている、と心の中では理解を示していた。
 それでも、少しは休ませないと、休養させている意味がないではないか、と、そう呟きながら、サイドテーブルに食事を置いた。

「お燐とお空の分も、飯、食堂に用意してあるから、食って仕事に戻れい」
「えー」
「さとり様と一緒にいるー」
「子供みたいに駄々こねない!」

 そのやりとりを見ながらくすくすと微笑って、さとりは燐と空の頭を撫でた。

「ありがとう。でも大丈夫だから、いってらっしゃい」
「さとり様が、そう言うなら……」
「仕事が終わったら、また来てもいいから」
「本当ですか!」

 ぴん、と尻尾と立てて、燐は猫の姿になって出て行く。ならば早く仕事を終わらせようとの魂胆だ。

「あ、お燐、私も!」

 空もバタバタと燐の後を追う。それを見送って、ふう、と彼は一つ息をつく。

「まったく、病人の部屋だってわかってんですかね」
「賑やかなのは、嫌いじゃないわ」
「ならいいんですけど。ああ、飯、持ってきたんですが食べられます?」
(食べやすいかとお粥にしたけど、良かったかなあ)

 彼の気遣いに、さとりは頷いた。

「ありがとう。お粥の方が、今はいいかも」
「なら、良かった」

 笑って、彼はベッド横の椅子に座る。彼自身も、かなり心配している。大したことがないといわれていても、だ。

「そんなに、心配しなくてもいいのよ?」
「それでもです……無理しすぎなんですよ」

 顔色がまだ良くない、と、彼はさとりの頬に手を伸ばす。
 その手を取って、さとりはその温かさに安心するのを感じた。
 柔らかく笑って、彼は、ああ、とサイドテーブルに置いたお粥の方を見る。

「食べますか?」
「ええ。えっと、その……」
「?」
「……食べさせ、て」

 彼が一瞬息を呑んだ。変なお願いだったかと、首を傾げる。

(ああ、くそ、やばい可愛い……表情とか仕草とか!)
「…………さとり様、それは反則です」
「ん、ごめんなさい……ちょっと、恥ずかしいけれど」
「いや、まあ、いいんですけどね」

 平常心平常心、と心で呟きながら、彼はお粥の入った小さな土鍋を開ける。

「ちとまだ熱いかな」

 レンゲにすくい、ふーっと息を吹いて冷ます。何度か繰り返して、さとりの方に差し出した。

「はい、あーんしてください」
「っ……!?」

 まさか彼にそんなことを言われるとは思っていなかった。そんなことをしそうなイメージは全くなかったので。

「……?」
「あ、いえ、何でもないの」

 全くの無意識らしい、と納得して、さとりは言われるままにあーんと口を開けた。
 程良い温かさだった。卵と、ほんの少し生姜を混ぜていて、身体全体が温まる気がしてくる。何より、ほっと心が安まるような味だった。

「……美味しい……」
「良かった」

 心から喜んで、彼は微笑んだ。再びお粥をかき混ぜ、冷ましてさとりに差し出す。
 まるで、餌をもらう雛鳥みたい。
 そう思いながら、さとりはまたお粥を口に運んでもらった。




「……らぶらぶだねえ」
「……あいつも嬉しそうな顔してますしねえ。というかだらしない顔」
「でもさとり様も嬉しそうだよ?」
「それはそうなんだけどねー。もう、お姉ちゃんももう少しアプローチかければいいのに」

 ドアの影から見てるのはお約束。




「ごちそうさま」
「はい、お粗末さまです」

 結局、全部食べさせてもらってしまった。
 さとりは小さく息をついて、何ともいえない幸福感に浸る。

「さて、俺は片付けしてきますね」
「あ、ええ……そうね」

 いなくなるのが名残惜しくて、さとりは僅かに言いよどんだ。

(……名残惜しいのかな?)
「……わかったの?」
「何となく、さとり様の顔見てたら、そんな気がして」

 彼の言葉に、顔が紅くなる。こちらの顔が紅いのを見て、自分が何を言ったのかに気が付き彼も顔を紅くしていた。
 自分で言っておきながら照れるのは、少しずるい。

「ああ、その、えと、俺、今日の仕事は大体終わってるんですよ、地上に出る用事もないし」
「ええ」
「だから、その、片付け終わったら、また戻ってきて良いですか」
「勿論」

 嬉しくて、さとりは微笑んだ。彼も、照れた頬をかきながら少し嬉しそうに笑った。

「じゃ、すぐ行って来ますんで」
「待ってるわ」
「はい」

 部屋を出て行く彼を見送って、さとりは軽く横になった。



 こんこん、と部屋をノックする。が、返事はない。もう一度。返答はない。

「さとり様?」

 少し迷って、彼はそっとドアを開けた。そして、返答が返ってこなかった理由を知る。

「ああ、寝ちまってたのか」

 すう、と、さとりは穏やかに寝息を立てて寝ていた。
 起こさないように、そっとベッド脇の椅子に座る。
 しばらくぼうっと見つめ、やがて見つめている自分に気が付いて、彼は少し紅くなってるだろう頬をかいた。

「……どうすっかな」

 自分を落ち着けるように呟いて、さりとてやることもなく本を取り出す。
 少しは幻想郷や旧地獄を勉強するように、と先日の宴会の帰り際に映姫に言われていたのだった。

「ま、邪魔もしないしいいだろう」

 顔色も、心なしか先ほどより少し良くなった気がする。
 本を開きながら、さとりの顔にかかっている髪を軽く払った。

「ん……」

 その手が、さとりの手に掴まれる。起こしたか、と思ったが、そうでもないようなのでほっと息をついた。
 手を離そうとすると、それを拒むように握ってくる。
 その仕草に微笑ましいものを感じて、彼は離すのを諦め、手元の本をめくった。  





 温かい。
 さとりがまず感じたのはそれだった。心地良い、柔らかな毛布に包まれているような感覚。

「ん……?」
「……ああ、さとり様、起きました?」
「……あ、私……寝てたのね」

 まだ動かない頭に手を当てようとして――さとりは、自分が彼の手をしっかりと握っていることに気が付いた。
 何故握ってるんだろう、と動かない頭でしばし考えて、それが問題ではないことにようやく思い当たる。

「ご、ごめんなさい……」
「?」
(何がですか?)

 本気で疑問に思っている彼に、さとりは軽く手を握り返す。
 ああ、と頷いて、彼は読んでいた本を閉じると、もう片方の手でさとりの頭を撫でてくれた。

「途中、俺の手握ってきたんですよ。やっぱり無意識だったんですね」
「ごめんなさい……」
「いいんですよ、さとり様が安心できるなら、それが一番です」
(何か飲むかな)

 水差しに視線を送りながら、彼は紅茶を淹れることも考え始めていた。軽く首を振って、さとりは彼に言った。

「お水、もらえる?」
「ちょっとぬるいですが」
「それでもいいわ……ありがとう」

 手が離れたとき、少し名残惜しく感じた。それを誤魔化すために問いかける。

「貴方は、ずっと起きてたの?」
「ん、少しだけうとうとさせてはもらいました。まあ昼寝の代わりですね」

 彼が昼寝好き、というのは、もう誰もが知っていることだが、自分の仕事を放棄して眠ることは決してなかった。
 その代わり、仕事を昼寝のために終わらせる、という面はあるにはあるのだが。

「私が手を離してたら、きちんと寝させてあげられたのに」
「いや、まあその、何と言うか」
(俺も、手を繋げてて嬉しかったですし)

 照れながらそう言われて、こちらも頬が熱くなる。

「あ、ああ、そろそろ、お燐達も戻ってきますかね。戻ってきたら、交代して飯作りに行きますよ」
「もう、そんな時間?」
「そうですね、夕方くらいですか。そろそろ、上でも日が落ちる頃でしょう」

 彼が言い終わるか終えないか、のところで、ドアを叩く音が聞こえた。

「どうぞ」
「さとり様ー! ただいまー!」
「きちんと終わらせてきましたよー!」

 空と燐だった。二人とも息を切らしている。

「ん、じゃあ俺は行くかな。では、さとり様、夕飯もこちらで?」
「少し動くわ。みんなと一緒に」
「わかりました。まあでも、消化のいいものにしときましょう」

 そう立ち上がった彼に、燐が文句をつける。

「あ、もしかしなくてもあんたずーっとさとり様と一緒に居たんだろ!」
「……仕事はしてるぞ」
「えー、ずるいー! 私達もさとり様と一緒に居たかったのにー」
「ええい、服を引っ張るな! では、さとり様、後で」

 恨みがましい二人を振り切り、彼は一つ頭を下げていってしまった。

「さとり様、あたい達何か出来ることありますか?」
「そう、ね……」

 何でもやりますよ! と読むまでもなくやる気に満ちている二人に、さとりは優しく微笑んだ。

「では、湯浴みを手伝ってもらおうかしら。汗をかいてしまったから」
「はい! あ、ではシーツも替えますね! お空、さとり様の準備手伝って」
「うん! さとり様!」
「ええ、ありがとう」

 空の手を取りながら、さとりは立ち上がる。

「丁度良いから、二人も一緒に洗ってしまいましょうか」
「うく、あ、あたい達もですかぁ……?」
「私も手伝うよー!」
「こ、こいし様ぁ……」

 情けない声を出す二人に笑いながら、こいしはさとりの手を引く。

「どうしたの?」
「ううん。ふふ、お姉ちゃん幸せそうだったなーって」
「見てたの?」

 少しだけだよー、と笑うこいしに、さとりは軽くため息をついた。




「じゃあ、今日は全員で風呂だったんですね」
「ええ」
「楽しかったよー」

 就寝準備を終えた後、水差しを運びに来た彼はさとり達と話をしていた。コップは何だかんだで三人分用意している。
 夕飯のとき、やけにぐったりしていた燐と空の理由がわかって、彼は頷く。
 今は二人とも動物の形でさとりのベッドの上で丸くなってしまっている。相当疲れたらしい。

「さとり様は大丈夫だったんですか? 病み上がりなのに」
「ほとんどこいしがやってくれたから」
「うん、ごしごしー、って」

 楽しそうだ。まあ、ペットを洗うのは飼い主の役目なのかもしれないが。

「そうね、ペットの面倒を見るのは飼い主の役目よ」
「まあ、それなら二人とも大人しくするはずですね」
「あ、でも、貴方もペットなんだし、一緒にお風呂に入りたかった?」

 水を噴くところだった。

「ごほっ、こ、こいし様っ! それは駄目です!」
「えー?」
「駄目よ、こいし。貴方も、そういうこと考えないで」

 顔を紅くしたさとりが窘める。すみません、と彼は一口水を飲んで落ち着いた。

「ま、そろそろ俺は戻ります。おやすみなさい」
「え……ああ、そうね。おやすみなさい」

 名残惜しげに見えるのは自分の錯覚だろうか。
 都合のいい考えを振り切ろうとした彼の背中に、こいしが飛びついてきた。

「もう、じれったーい。一緒に寝たかったら寝たいって言えば良いのにー」
「ちょ、こいしさ……!」

 バランスを崩して、さとりの方に倒れかかる。その瞬間、鳩尾と額に激痛が走った。



「……大丈夫?」
「ええ、何とか……」

 さとりの隣に横になった彼が、額と鳩尾の辺りを撫でている。

「お燐、鳩尾に体当たりはないだろ……」
「さとり様を押し倒そうとしてるように見えたんだよ」
「違うって。お空も身を乗り出してくるし」
「私も痛かったんだからおあいこだよー」

 空はともかく、燐の言葉が本気ではないということはさとりにはわかっていた。
 彼が半日さとりを独占していたことに対する、ちょっとした意趣返しのようなものだ。
 無論、彼もそれをわかった上で応じている。

「はいはい、それくらいにね。そろそろ寝ましょう?」
「はーい」

 声が揃う。そして、結局また五人で――正確には三人と二匹、の状態で休むことになった。
 違うのは、今日はさとりが真ん中にいる、ということか。

「ふふ、お姉ちゃんのところで寝るの久し振りー」
「あたいもですー」
「私もー」
「…………何で揃って俺を見るか」
(そもそも部屋に入ったのだって初めてだってのに)

 頬をかきながら、彼はそう呟く。

「ったく、遅くなるし、もう休みましょうや。俺も大分眠……くぁ」

 一つ欠伸をして、眠たげに彼は目をこすった。

「眠そうね」
「ん、すんません……」

 さとりが頭を撫でると、ゆっくりと瞬きをしながら目を閉じ、寝入ってしまった。

「いつもながらの早業だねー……」
「ですねえ……」
「こいつらしいと言えばこいつらしいんですがねえ……」
「さ、私達も寝ましょう」

 みなで寝始めたところで、さとりはそっと、彼の手をとって指を絡めた。
 これくらいは、求めても許されるだろう。







 翌朝。よくわからない、だがどこまでも安心できる温かさに包まれて、さとりは目を覚ました。

「ん……」

 寝起きは、あまりよくはない。傍にある温かさに身を寄せて、すりすりと頬を寄せる。
 しばらくそのままうとうとして――気が付いた。

「…………え?」

 温かいのは、何かに包まれているから。自分を抱きしめている、誰かが居るから。
 それが誰なのか気が付いた瞬間、さとりは一気に覚醒した。

「…………え、っと」

 カッと、頬が熱くなる。そっと顔を上げると、眠ったままの彼の顔が見えた。よく眠っている。
 かつて、こうして抱きしめられて眠ったことはある。
 けれども、あれは大変なことがあった後だからか、ここまで意識していなかった。

「……ん?」

 寝惚けた声に、さとりはびくりと身体を震わせた。彼の瞳が開いて、二、三度ゆっくりと瞬きして……大きく見開かれる。

「………………さとり様」
「お、おはよう……」
「おはよう、ございます……あれ、俺、なんで」

 自分の腕がさとりをしっかりと抱きしめていたことに気が付いて、彼は身体を硬直させた。
 眠っている間に、自分が何かしたんじゃないかとパニックになっている彼に、さとりは首を振る。

「だ、大丈夫、その、抱きしめてもらってた、だけだから……」
「い、いや、それでも、その、すみません」

 腕を離そうとして、それが彼にとっても酷く名残惜しいのだと、さとりに流れ込んでくる。

「……大丈夫よ、もう、少しなら」
「あ、え、ああ、そか。でも、もうそろそろ起き……いや待ってください、こいし様達は?」

 言われて、さとりも初めて思い出す。そういえば、ベッドの上にいる気配もない。

「……もう、起きたのかしら?」

 実際に身体を動かして見てみたが、本当にいない。が、その瞬間、彼の思考が混乱した。

「どうしたの?」
「あ、いやその、服」

 見れば、随分と肌蹴ていて――正直、見えてはいけないところまで肌蹴ていて、さとりは咄嗟に身体を縮こめた。
 こんなに寝相が悪かっただろうか。赤面しながら、照れ隠しも兼ねて彼の頬をつねる。

「……忘れなさい」
「……頑張ります。厳しいですけれど」

 そう言いながら、彼は手を離した。今見た光景が忘れられそうにないらしい。

「……起きましょうか」
(……うっかり押し倒しちまいそうだ)
「え、ええ」

 彼の思考を正確に読み取って、顔を紅くしながらさとりは頷いて起き上がる。
 服の前だけは手で合わせて、見えないように隠していた。

「てか、みんな先に起きちまったんですかね。起こしてくれりゃあいいのに」
「そうね、こいしもいなくなってたし……」

 わざとらしい話題の振り方であったが、さとりもそれに乗った。
 何となく、気恥ずかしくてたまらない。
 どうしたものか、と互いに思っていると、ドアを叩く音がした。

「お燐?」
「はいー。さとり様ー、起きまし……?」

 がちゃ、とドアが開いて、入ってきた燐が硬直した。

「ん、お燐どうし……」
「……さとり様に、何した?」

 剣呑な声に、彼が一瞬妙な顔をする。そして、勘違いされていることに気が付いた。

「いやちょっと待てお燐! 違う! 何もしてねえって!」
「ほほう」
「信じてねえだろ! ストップ怨霊下ろせ投げるな!」
「お燐。その、そういうことは、なかったから」

 さとりは一つ咳払いをする。燐の思考を読んで、さらに紅くなっているのを誤魔化すように続ける。

「すぐに起きるわ。先に行ってて……貴方も」
「はい、さとり様。ほら、お燐、行くぞ」
「うー、何か納得いかないですけど、さとり様がそういうなら……」

 部屋を出る燐を宥めつつ、彼もまた部屋を出ようとして、さとりに向き直った。

「んでは、また後で」
「ええ」
「……すんません、何かいろいろ」
(男なもんで、どうしても。不快にさせてたら)

 申し訳なさそうな思考に、さとりは首を振る。

「謝らなくて良いわ。その、そういうの、わかっていないわけじゃないから」
「や、まあ、それでもです」

 全部筒抜けなのもわかっていてなお、彼は頬をかいて一つ頭を下げた。

「そういうので、嫌いになったりしないから」
「ありがとうございます。その、さとり様、やっぱり、その」
(俺は、さとり様のこと、大好きです)

 言葉に出来なかったことを口の中だけで呟いて、彼は照れたように微笑ってドアに手をかけた。

「それでは、後で!」
「……ええ」

 バタバタと出て行った後を見ながら、少し茫然となっていたさとりは、気を取り直すように呟いた。

「……それは、反則じゃないかしら」





「お燐、お前わかってて俺に怨霊投げようとしてただろ?」
「まあね。あんたが甲斐性なしなのは知ってるしさ」
「……そこまで言われるのか俺。間違ってないが」

 はあ、とため息をついて、彼は一つ欠伸をする。

「でも、もうちょっと強引に行ってもいいと思うんだけどなー」
「おおう、おはようございますこいし様」
「おはよー。今日の朝ご飯は私とお空が作ったよー」
「あ、ありがとうございます……」

 変なもの入ってないだろうな、と一抹の不安がよぎる。
 曖昧な返事を気にした風もなく、こいしは燐と彼に並んで歩き始める。

「お姉ちゃんと二人っきりにしたから、何か進展あるかなーって思ったのに」
「やっぱりこいし様の仕業ですかあれ。びっくりしましたよ」
「だって見ててじれったいんだもの」
「……変に煽らんでください。俺が本気で手を出してたらどうする気だったんですか」

 ため息交じりの彼の言葉に、こいしは、んー、と考えて笑顔で言った。

「イドの解放とスーパーエゴかなー」
「あたいもゾンビフェアリー投げつけますかねー。たぶん協力してくれますし」
「死ぬ。それは比喩無しで死にますから。本当に俺にどうさせたいんですか……」

 がくりと肩を落とす。進展を焦るつもりは一切ないのだが、こう周りから茶々が入るのはどうしたものか。

「ふふふ、ないしょー」
「あたいは普通にさとり様泣かせたら承知しないだけだけどね」

 どうしたもんかな、と頭をかいていると、後ろから足音が聞こえてきた。

「あら、まだ食堂に行ってなかったの?」
「ん、これからー。お燐、先に行こう」
「え、あ、はい?」

 燐の手を引いて、こいしは先に小走りにかけていく。

「……また、何かからかわれてたのね?」
「まあ、いつものこと……って感じですかね」

 さとりは彼の顔を見ながら第三の目に手を当て、こくりと頷いた。

「やっぱりあの子の仕業だったのね。全くもう……」

 顔が紅いのは、ついでに彼自身の不埒な思いを覗いてしまったからだろう。

「……まだ、駄目よ?」
「わかってますって。そこまでも読んだでしょう」

 彼自身も紅い顔をかきながら、可愛いなあ、と、ぼんやりと思う。

「もう、そんなこと……」
「すみません」

 ああ、でも、と彼は呟き、さとりの方に腕を伸ばして抱きしめた。

「煽られたから、とか、そういう理由にしといてください」
「あ、う、えと……」
「……好きです、さとり様」

 急に、何と言うか、抱きしめたくなったのだ。理由がない――あるいは、無意識に。
 さとりは少し腕の中で身動ぎしたが、微かに息をついて彼の身体に軽く手を添えた。

「……ええ、ありがとう。私も、貴方が大好きよ」

「ありがとう、ございます。すみません、さとり様」
 細いな、と思う。相変わらず、きちんと物を食べてるのか、と思うくらいに。
 病み上がりだからだろうか、いつもよりやせている気がする。
 無理がかからないようにしたいと、出来る限り、支えていきたいと思う。
 燐や空達も同じように思っているだろうから、彼女達に負けないくらいに。

「……ありがとう」
「いえ……」

 少し強く抱きしめた瞬間、さとりの身体の感触を感じてしまい、今朝のことにまで思考が飛んでしまった。
 結構着痩せするんだよな、などと、余計なことを考えて――

「いだだだっ! すみません!」
「……馬鹿」

 思い切り、頬をつねられる羽目になった。





「あれ、どうしたの、頬のとこ赤いよ?」
「気にすんな、お空……」

 朝食の席、首をかしげて訊いた空に、彼は首を振った。

「お姉ちゃんと何かあったの?」
「何もないわ」

 顔が紅いままでは説得力がないことはわかっていながらも、さとりは素っ気無く応じた。

「廊下で抱き合ってたのは見てたけどー」
「こいし様、勘弁してください……」
「ま、どうせこいつが何かしたか思ったかしたんですよね。どうします? 一発入れときます?」
「いいわ、お燐」

 怨霊を構えようとする燐を制して、さとりは微かに微笑った。
 不思議に和んでしまって、少し気が抜けてしまった気もする。けれども、それは悪くない感覚だった。

「さ、ご飯を食べたら、仕事を始めましょう」

 さとりの言葉に、早々に食べ終わっていた彼が頷いた。

「んでは、今日も頑張りますか。今日俺は運搬だから、何かついでに買って帰るよ」
「お、いいねー。あ、さとり様は無茶しちゃ駄目ですよ」
「ええ、わかってるわ」
「私も何かとってくるー!」
「私も、地上で面白いことないか見てくるよ」

 各々好き勝手に話しながら、食器を片付けていく。
 こうやって、一日が始まるということが、何だかとても、幸せだと、思った。




 これからも、こうした日々が続いていくのだとするならば、それはとても幸せなことなのだろう。
 からかったりからかわれたり、時には喧嘩もしながら、日々を過ごしていこう。
 地霊殿の一日が、またこうして始まろうとしていた。





新ろだ971,2-084,2-141,2-163,2-172,2-207,2-224,2-239,2-320,2-321
───────────────────────────────────────────────────────────

「おや、来ていたのか」
「ん……ああ、慧音さんか、ども」

 甘味屋の入り口付近で、壁にもたれてうとうとしていた青年は、顔見知りの友人に一つ頭を下げた。

「今日も何かの運搬か?」
「ああ、そっすね、祭りが近いんで酒とかを。上にも下にも、です」

 訥々と言って微笑った彼に、慧音は頷きを返す。

「確かに、秋の祭りが近いからな。今年は地下とも日をあわせて盛大にやるから……」
「ええ、地下も、結構みんなわいわいやってます。冬の前に、って。冬でも、結構騒いでんですが」
「そうか。ここにもそれで?」
「ああ、いや、これは単なる頼まれ事です。個人的な奴も、割と運んでるんで」

 そう、彼は機嫌良さそうに店の中に視線を向けた。

「買い物か?」
「はい、鬼の人達に何か甘味買って来てくれ、って頼まれて」
「案外豪胆だな、鬼とは」
「地霊殿に住んでると、結構付き合いも出来るもんですよ……っと」

 中から店主が顔を出したことに気が付き、彼は店の方に向き直った。

「おう、出来たぞ。ああ、慧音先生、いらっしゃい」
「私は通りすがりだよ」
「ありがと、親父さん。おし、これで土産も出来た」

 袋を二つ抱えて、彼は嬉しそうに頷く。

「地霊殿に?」
「そうです。まあ、中々出て来られないですから」

 彼が誰を想って言っているのかは一目瞭然だった。それを察したのは慧音だけではなかったようで、店主も、ああ、と呟く。

「あれか、天狗の新聞に載ってた……心を読むって言う」
「ああ、うん、そうだよ」
「確かに美人だが、何というか……」

 言い淀んだ言葉の先を、彼は気付かなかったわけではないだろう。だが、彼は楽しげに言った。

「だろうだろう、さとり様は綺麗だからな。それに優しいし、家族思いだし……」
「それくらいにしておけ。甘味処の前で砂糖を撒き散らすんじゃない」

 営業妨害だ、と、半ば冗談、半ば本気で慧音は苦笑混じりに彼を止めた。

「……ははは、そうだな。俺が悪かった。ほら、持ってけ。おまけだ」
「いいのか、親父さん」
「いいよいいよ。また贔屓にしてくれ」
「ん、ありがとう。また来るよ」

 店の中に戻った店主を何となく見送って、彼は渡された包みを開く。美味そうな団子が入っていた。

「おお、美味そうだ。慧音さん、どうっすか、一つ」
「私に?」
「はい。まあ、賄賂ってことで。ちょいとお願いが」

 冗談めいた言い回しに、ではもらおうか、と慧音は微笑った。





「浴衣、と」
「そうです。さとり様に合うようなの。でも俺店知らねえですし」
「ふむ、それならば店もいくつか知っているが……」

 そこまで言って、慧音は少し笑った。

「一体誰の入れ知恵なんだ?」
「ぐ、わかるっすか、やっぱ。まあ甲斐性なしなのはわかってますけどね」

 彼は一つため息をついて、苦笑気味に応えた。

「勇儀さんに今回の頼まれ事のときに、ですね。祭りがあるんだから、浴衣でも買って一緒に行ったらどうだ、って」
「……本当に、貴方が豪胆な人に思えてくるよ……」
「かなあ、そんなつもりは毛頭ないんですが」

 団子の串を行儀悪く銜えて、彼は首を傾げた。

「まあいいか。それならば妖怪用も売ってる店がいいだろう。案内しよう」
「ありがとうございます」

 そう一礼した彼の隣で、不意に声がする。

「なに買うのー?」
「浴衣を少し……って、こいし様いつの間に」
「今来たとこ。何してるの?」
「丁度良かった、こいし様も来てください。いなくなんないでくださいよ」
「? う、うん、頑張ってみる」

 いつになく真剣な様子に、首を傾げながらもこいしは頷いた。



「わー! たくさんある!」
「品揃えはここが良いと思う」
「ありがとうございます、慧音さん」

 彼はそう言って、店内を見回す。普段着から何からいろいろ揃っていた。
 里でも指折りの大店だということだが、それも頷ける。

「はー。しかしこれだけあるとどうしたものか迷うな」
「まあ、大幅に形の変わるものでなし、気に入った色や柄から選んでいっていいと思うが」
「何から何まですみません」

 申し訳なさそうに言った彼の袖を、くい、とこいしが引いた。

「見てみてー」
「おお。こいし様いつの間に試着してるんですか」
「へへー」

 楽しげに、こいしは一つ回転してみせる。

「こいし様はそれがいいですか?」
「ん、そうだねー。もう少しいろいろ見てみたいけど」
「んでは、それは候補ってことで、さとり様のも一緒に選びましょうか」

 二人で楽しげに選ぶのを、慧音は何となく不安になって見守っていた。

「この柄とかどうですかねー」
「んー、でもお姉ちゃんにはこの色もいいと思うんだけど」
「私が口を出すのも何だが、姉妹で揃いの柄にするのはどうかな」

 ふと慧音が口にした言葉に、「それだ!」と二人は口を揃えた。

「そんでは、こいし様のから決めましょうかね」
「うん。貴女も良ければ手伝ってよー」
「私も?」
「だって、私とこの人だけじゃあねえ」
「……何も言えんのが辛いとこです」

 頭をかいて、彼は一つため息をついた。

「とはいえ、私もそんなに知っているわけではないけれど」
「それでも」

 こいしの求めに応じて、慧音は頷いた。

「では、一緒に選ぶとしようか」
「ありがとうございます」
「ありがとー」

 そうこうして、三人で「この柄は」だの「これ良さそう」だのいいながら選んで行くのだった。



 半刻ほどの後、ようやく生地を見立て、それを仕立ててもらうことになった。

「寸法は分かりますか?」

 女性店員の問いかけに、彼は腕を組む。

「あー、んーと、身長がこんくらいなのはわかるんですけど、サイズかー」
「私お姉ちゃんのサイズわかるよー」
「あ、じゃあお願いします」

 一つ頷いて、こいしは店員に話しかける。

「ええと、スリーサイズでいいのかな」
「ええ、それがわかれば」
「俺耳塞いでますんで」

 後ろを向いて、彼は耳を押さえた。うっかり聞いてしまって何かの拍子に思い出したら目も当てられない。
 というよりも、帰ってさとりを見た瞬間に絶対思い出すに決まっているのだ。
 しばらくして、こいしに袖を引かれる。店員はくすくす笑っていた。

「ああ、終わりました?」
「うん、そうだけど……お姉ちゃんのサイズ知らないの?」
「知りませんよ! てかどうしてこいし様ご存知なんですか」
「姉妹だもんー。でも知らないの意外。見たらわかったりしないの?」
「見たらわかるような能力なんて持ってないですって! 第一見たこともないし!」
「あれだけ一緒にいてまだ何もないの!?」
「何でそこで驚かれにゃならんのですか俺は!」
「だって一緒に寝たりしてるのに!? もしかしてへたれ!?」
「お燐やお空も一緒ですって! へたれ呼ばわりはやめてください!」
「あー……二人とも、他の客もいるんだからな?」

 心底呆れた声で、慧音が止めに入った。



「いや、すんませんでした……」
「いやいや、まあ、程ほどにな」
「とりあえず、次はさとり様にも来てもらわんとなあ」

 細かいサイズは、実際本人が来たときに合わせてもらえることになった。
 リサイズにはそれほど手間はかからないそうなので幸いである。

「そうだな。まあ、祭りの当日でも良いと言っていたし」
「ええ、そうっすね。しっかし、こいし様何処に行ったんだか」

 元の服装に着替えた後、一緒に店から出たはずなのにいつの間にやら姿が見えなくなってしまった。

「悪さをしていないといいのだけれどな」
「それは大丈夫……だと。たぶん」
「まあ、地底が考えていた以上に警戒する相手ではない、というのはわかっているのだが、私は立場上、な」

 そう言って、慧音は立ち止まる。

「では、私も戻るよ」
「ありがとうございました。俺も戻ります。たぶん数日は行き来するんで、配達の用事があれば」
「ああ、そのときはお願いする」
「よろしくです。んでは、失礼します」
 軽く礼をして、彼も足を地底の方へ向ける。日が暮れるまでには帰れそうだった。





 地霊殿まで帰る前に、旧都の飲み屋に立ち寄った。もちろん、飲むのが目的ではない。

「おお、やっぱ此処に居た。勇儀さん、頼まれもんです」
「お、ありがとう。ん、良い匂いだ」

 包みを受け取りながら、楽しそうな声で勇儀は笑う。 

「上でも評判のとこですからね。結構美味いと思います」
「萃香に聞いていてな、食べてみたいとは思ってたんだ」

 包みを受け取りながら、勇儀は笑った。

「で、どうだい? 何か良さそうなのはあったか?」
「良い柄の生地があったんで、浴衣にしてもらおうと。相談乗ってくれてありがとうございました」
「そうかそうか、そいつは良かった」

 楽しげににやにやしながら、勇儀はしげしげと彼を見やる。

「しかし、あんたも献身的だねえ。そこまで惚れてるか」
「……っ、んなこと、とっくにわかってるでしょうが……」
「あはははは! 確かに!」

 また今度酒でも飲もう、と、どんと背中を叩き、勇儀は店の中に戻って行ってしまった。

「……ああ、うん、わかるんだが、ちと力加減は欲しいなあ」

 いてて、と背中を押さえて、彼は地霊殿へと足を向けた。



 地霊殿に入って、初めに会ったのは燐だった。

「ああ、おかえり」
「ん、ただいま。土産買ってきてる。さとり様は?」
「居間で紅茶飲んでいらっしゃったけど……何かぼーっとしてたよ」
「休憩中かな。行ってみるよ」
「あ、土産は?」
「後でお茶の時間にでも出すから待っててくれい。つまみ食い禁止だぞ」

 はいはい、とわかっているのかいないのかわからない反応を示した燐を置いて、彼は居間に向かう。

「ただいま戻りました、さとり様」
「あ、ああ、お帰りなさい」

 声をかけながら入ると、さとりは慌てたような声で応じた。確かに、様子がおかしい。

「どうしました? 何かありましたか?」
「いえ、そういうわけでは、ないんだけど……」

 歯切れも悪い。どうしたのだろうか。首を傾げていると、さとりが軽く息をつく。

「うん、まあ、貴方に限ってそういうことはないと信じているけれど」
「え、俺、何かしましたか?」
「いいえ、そういうわけじゃ……いえ、そういうわけなのかしら……」

 しばらく悩んでいたさとりだったが、やがて、再び一つ息をついて告げた。

「あの、人里の守護者の……慧音さんと二人で、楽しそうに歩いてた、って聞いたのだけど」
「へ? ああ、店を聞いてたんですけど……誰に聞いたんですか?」
「あの、こいしから、だけど」

 さとりの言葉は、若干不安気に揺れていた。彼に二心ないことはわかっているのだろうが、それでも不安になるのは仕方ないと言うことなのだろうか。
 というか、こいしも一緒にいたのにどうしてそう誤解されるような表現を使うのだろう。

「……こいしも一緒にいたの?」
「はい。なんでそこ伝えないんだこいし様……」
「里にも行っていたのね……そこで何を?」
「あー、まあ、隠すのも何ですし」

 そう、彼は思い返しながら言葉でも説明する。

「……浴衣? 私に?」
「ええ。まあその、折角の祭りですし、一緒に行けたらとか何とか、思いまして」

 地底と地上とあわせて大騒ぎするのだから、そういうのもいいと思ったのだ。
 まあ、自分自身では思い付かなかったので鬼に相談に乗ってもらったのも事実なのだが。

「……そう、お祭りなのね」
「はい。良ければ一緒にと。人が多いのが、難といえば難ですが」
「……そうね、人が多いのは、苦手だけど」

 柔らかく微笑って、さとりは頷いた。

「貴方とこいしが折角選んでくれたんだし、行ってみようかしら」
「いいんですか!? やった!」

 絶対似合うと思っていたのだ。嫌なら仕方がないと思っていただけに、喜びもひとしおである。

「……もう、そんなに喜んでくれるってわかってるんだから、断れるわけなんてないじゃない」

 そう小さくさとりが呟いた言葉は、彼には届かなかった。





 かくして祭り当日。
 地霊殿の者達も、休暇に近い形で祭りに出ることをさとりは許可していた。

「偶には、みんな一息入れないとね」
「ですね。まあ、俺はもっと頑張らんといけないですが」

 そう呟く彼の脳裏には、閻魔から出された宿題が回っている。

「一朝一夕に出来るものではないと仰ってたでしょう。日々の努力も大事だけど、息抜きも必要よ」
「ああ、はは、そうですね。気を付けます」

 読まれたことに悪びれも、居心地の悪さも見せず、彼は頭をかく。指摘されたことに照れてはいるようだが。

「しかし、昼間からやるのはどういうことなんでしょうかねえ」
「丸一日騒ぎ通すつもりみたいよ。そう鬼から回ってきたわ」
「鬼らしいってか何というか……最後まで完走出来る奴いるのかな」

 それはそれで楽しそうだけど、と胸中で呟きながら、彼もまた楽しそうな表情をする。

「もう、程々にしないと途中でバテるわよ」
「あはは、気を付けます。では、そろそろ行きましょうか。お空とお燐も待ってますし」
「ええ」

 地霊殿の入り口を出たところに、二人は大人しく待っていた。

「二人とも、お待たせ」
「いいえ、そんなに待ってないですよ」
「早く行きましょう、さとり様!」

 楽しげな二人に、さとりは微笑って頷いた。



「すごーい、賑やかだー!」
「お空、あんまはしゃぎすぎんなよ。しかし盛大だな」
「あたいもあまり里には来ないからねえ。いい匂いもするね」
「はぐれてしまいそうね。三人とも気を付けてね」

 はーい、と声を揃えたペット達に向かって、さとりは軽く頷き、そして少しじと目になった。

「『さとり様が一番迷子になりそうだけど』、ですか。三人で声を揃えなくてもいいんじゃないかしら?」
「あああ、ごめんなさいさとり様~」
「同じこと考えたのかよお前ら」
「そっくりそのまま返すよ」

 燐に言われて、ぐう、と少し唸った後、ああ、と彼は話題を変えた。

「祭りに行く前に、ちょいと店に寄ってもらっていいですか、さとり様」
「ああ、ええ。浴衣ね」
「はい。こいし様はどうなされたのかな」

 言いながら、彼は先導するように歩きだす。程なくして、件の店に着いた。

「あ、おそーい。待ちくたびれちゃったよ」
「こいし、先に来てたのね」

 店に入ると、既に浴衣を着付けてもらっているこいしが一行を迎えてきた。

「うん、お姉ちゃんも早く早く」
「え、ええ。行ってくるわね」
「はい、待ってま……ってこらお燐お空何やってんだ」
「私も着てみたいよー」
「あたいも。面白そうだからねえ」
「ああもう、貸衣装になるぞ。それでもいいなら工面してやる」

 はしゃぎ回る二人を抑えるにはそれしかないと思ったようで、彼は諦めたようにそう告げた。

「大丈夫なの?」
「ま、それくらいの出費なら。どうせ使うとこもほとんどないですし」

 さとりの言葉に首をすくめて、彼は応えた。

「では、俺は待ってますんで、どうぞ」
「ええ、では行ってくるわね」



 小半刻程の後、一同は浴衣に着替え終わった。

「面白ーい!」
「お空、その格好であまり暴れては駄目よ」
「はい、さとり様!」

 わかっているのかいないのか、空は羽をバタバタさせて応える。

「お燐の可愛いねー」
「そうですか? こいし様もよくお似合いですよ」
「ああ、終わりました?」

 戻ってきてみれば、彼もまた浴衣に身を包んでいた。

「あら、貴方も着替えたのね」
「最初はそうするつもりじゃなかったんですけどね。何でか」
「だってみんな一緒の方がいいじゃない」

 こいしの言葉に、さとりの心にまさかという思いがよぎったが、それは口に出さないでおいた。
 彼も一瞬同じことを思ったようだったが、まあいいか、と呟いて、さとりに向き直った。

「にしても、やっぱりよく似合います。悩んだ甲斐があったってもんです」
「あ、ありがとう……」

 口にはそれだけしか出てないが、彼の心から、さとりに対しての賞賛が流れ込んできている。
 綺麗だとか可愛いとかだけでなく、浴衣の色が肌に似合っているとか、少し色っぽく感じるとか、そういったものまで止めどなく。

「あの、恥ずかしいから、それくらいで留めてもらえるとありがたいのだけど」
「あ、ああ、すんません」
「あんたばかりさとり様独占してるんじゃないよ。さ、行きましょう、さとり様」
「私も私もー!」
「私もお姉ちゃんと一緒ー」

 ぺたりとくっついてくる三人に少し微笑んで、さとりは彼を見上げた。

「では、行きましょう。里はあまり詳しくないから、よろしくね」
「ええ、んでは」

 店員に軽く挨拶し、彼を先頭にして、一行は祭りに繰り出した。




「やあ、地霊殿の……うん、壮観だね」
「どうも、萃香さん、勇儀さん」
「楽しんでるみたいだね。うんうん、華やかじゃないか」

 勇儀が感心したようにさとり達を見やる。祭りの屋台の一つを陣取って飲んでいる二人に行きあったのだった。

「少し居心地は悪いですけどね」
「あはは、まあそうだろう。地霊殿の覚り姉妹が歩いてたらそりゃ目も引く」
「しかもお供は火車に地獄鴉。まあもう一人おまけもいるけどね」
「俺はおまけっすか。ま、いいですけどね」

 苦笑しつつも、彼は楽しげに応じた。

「いい匂いー」
「お、こいしちゃんも飲むかい?」
「飲むー!」

 萃香になみなみと注がれた杯をこいしが手に取る。

「あ、こら、こいし」
「いいじゃないか。祭りだよ、あんたも飲みな」
「あ、いえ私は」
「では、俺がいただきましょうか」

 お、いけるねえ、と言いながら、勇儀が彼に酒を渡す。

「……あれ、果実酒じゃないっすか」
「そうだよ。強さはそんなにないが、味はじっくり出てて美味いものだよ」
「『収穫祭だし、こういうのも風流だろう』ですか。確かに」
「酒というのはただ強いだけじゃ美味くない。天と地と人、なんて洒落たことまでは言わないが、特に美味く感じるという時もあるさ」

 勇儀は、どうする、というようにさとりを眺めてきた。

「鬼のお酒を断るというのが、そもそも無理な話でしたね」
「わかってるじゃないか。ほら、そこの猫と鴉もおいで」
「やったー」

 にわかに始まった酒宴を、最初は遠巻きにしていた人妖達も、その賑やかさと陽気さに惹かれて集まってきていた。



「さとり様、どうですか」
「ええ、大丈夫よ。そんなに飲んではいないわ」

 貴方程にはね、と言われて、彼は照れ隠しに頭をかいた。

「ええと、少しその辺りの屋台でも巡ろうかと思うんですが、どうです?」
「そうね、一緒に行くわ」
「辛くはないですか?」
「確かに声はたくさん聞こえて煩いけれど、負担がかかるほどではないわ」

 それならいいんですが、と言って、彼は手を差し出した。その手を取って、さとりは彼の隣に並ぶ。

「偶には、こうして外に出るのも悪くないわね」
「楽しんでくれてますか」
「ええ、貴方も楽しそうだしね」

 そうくすくす微笑いながら言われて、彼は照れたように笑った。

「ま、俺も、祭りとかは結構好きなんで」
「ええ。私も、みんなが楽しそうにしてくれてるのは嬉しいわ」

 微笑みに少しどきりとして、それを誤魔化すように彼は屋台に視線を向けた。

「ああ、リンゴ飴とかありますね。食います?」
「そうね」

 こちらの照れ隠しということなど全てお見通しなのだろう。けれども、楽しそうに微笑んで、さとりはそう頷いてくれた。



「よう、ご両人」
「あれ、魔理沙。霖之助さんも屋台出してたんすか」

 とある屋台の前を通りかかったときに声をかけられ、足を止めた二人は、それが香霖堂の店主の屋台だと気が付いた。

「ああ。そちらは地霊殿の方ですね、初めまして」
「初めまして」

 軽く挨拶をかわして、出している品を見る。さとりにはよくわからないものが並べられていた。

「外のものですか」
「ええ」
「『偶にはこうして人にも見せないと』ですか」
「……そうかそうか、心を読まれるのでしたね。これはやりづらい」
「霖之助さん、まさか見せるだけ、ってわけじゃないでしょうね」
「まさか。ちゃんと売り物もあるよ」

 じゃあこれは、という彼に、非売品だ、と返している店主のやりとりを見ていると、魔理沙が感心したような声で話しかけてきた。

「しかし、お前が出てくるとはな。少し予想外だ」
「私も偶には外に出ますよ」
「しかも洒落こんでるしな」

 似合うじゃないか、とは言葉に出さなかったが、胸中では思っていて、さとりは軽く礼を言う。

「どうも」
「それどうしたんだ。結構いいもののはずだぜ。なあ香霖」
「うん? ああ、その浴衣かな。そうだね。良い生地を使ってるし、仕立てもいい。あの大店のだね?」
「よくわかるっすね、霖之助さん」
「僕だって昔は里にいたんだよ。普通の物の目利きも多少は出来るさ。随分と値も……」
「あ、霖之助さん、ちょいとそいつは」

 随分と値も張るはずだが、と言いかけた店主を彼は慌てて遮った。遮っても、さとりにはわかっているのだが。
 その様子を見て、ああ、と魔理沙は納得したように頷く。

「その浴衣こいつからなのか。意外だな、そういう気は利かないと思ってたが」
「魔理沙、何だその扱い」
「日頃の行いって奴だな。では、私は行くぜ。邪魔するのも悪い」
「『どこかで面白いことないかな』ですか。向こうで宴席が設けられてますよ。飛び入り可の」
「お、サンキュ。じゃ、行ってくるぜ。またな」

 あえて鬼のとは知らせなかったが、まあ彼女のことだ、楽しんでくるのだろう。

「さとり様」

 どうしますか、という彼に頷き、さとりは霖之助に一礼する。

「ええ、では、私達も失礼します」
「またどうぞ」

 店から離れて少しして、さとりは彼の腕に自分の腕を絡めた。

「さ、さとり様?」
「駄目だったかしら?」
「い、いえ……」

 顔が赤いのは照れているからなのだろう。そういうところも愛しく思いながら、さとりは尋ねた。

「随分、無理したんじゃないの?」
「ん、あー、浴衣ですか。いえ、そうでもないですよ」

 想定していた範囲内だった、と彼の心は告げてくる。

「女物の服の相場なんて知らないですからね。高めに見積もってたんで」
「そこまで無理しなくても良かったのに」
「いやまあ、その」

 わかってはいるのだ。彼が一生懸命に考えてくれた結果だというのも。けれど、あまり気を遣いすぎないでほしいとも思うのだ。

「どういう風にすりゃいいのか、わかんないってもありましたけど、何より」
(さとり様が綺麗な浴衣着てるの、見てみたくて)

 あまりにストレートに入ってきた思考に、さとりは顔が熱くなったのを感じた。

「えと、その、すんません。かえって気を遣わせちまいましたか」
「いいえ。嬉しいわ、本当に。ありがとう」
「そう言ってもらえると、俺も嬉しいです」

 微笑み返して、さとりは腕を絡めたまま、彼の方に少し身を寄せた。
 照れくさそうに鼻の頭をかきながら、彼もまた、嬉しそうにしてくれているのが嬉しかった。





 しばらくして戻ってきてみれば、見事に酔っ払いの団体が出来上がっていた。

「また随分と飲んだものね……」
「おお、おかえり。逢い引きは楽しかったかい?」

 完璧に酔客となった声で、勇儀が迎えてきた。

「ええ、おかげさまで」
「何だい、もう少し面白い反応返してくれると思ってたのに。帰ってこないかとも思ってたよ」
「あいつらとこいし様ほっといて帰るわけにもいかんでしょうが」
「いやいや、そんときは送ってかえってやるよ」

 楽しげに笑った勇儀に、彼は大きくため息をついた。

「でも、特に面白いこともなかったんだろう? 天狗」
「ええ。何かあるかとずっと張っていたのに……」
「何やってんだブン屋」
「ああ、時折こちらを注目しているのがあるかと思えば貴女だったのですね」

 さとりが納得したように頷いて、こちらも大きく息を吐いた。

「腕を組んで歩いていたくらいですからねー。写真自体は上手く撮れたんですがネタにならなさそうで」
「いつの間に……第一、腕組めたのがそもそも」

 言いかけて、彼は慌てて口を閉じた。そういえば、そうやって歩くのは初めてだったか、とさとりも思い当たる。

「……待てい。そりゃどういうことなんだい」
「お二人とも奥手奥手とは思ってましたけど、まさかそれほどとは……」
「そうだよそうだよ、もっと言ってあげてー」

 こいしがやってきて、二人にさりげなく杯を持たせながら続ける。

「見ていてとっても焦れったいんだよ」
「実の妹にまでこんなこと言われていますけど、さとりさん」
「別にいいでしょう。こいし、貴女も余計なこと言って回らないで」
「でも、本当のことだもん」

 悪びれもしないこいしに一つため息をついて、さとりは彼の方を見上げる。
 どうしたものか、と難しげな顔をしている彼の腕を、軽く叩いて、さとりは微笑んでみせた。

「貴方も、あまり気にしないの」
「ええ、そうです、ね。焦るわけじゃなし」
「……ああ、熱いのはよくわかった。さあ、しばらく飲んでておくれ。ちょっと一仕事してくるからさ」

 立ち上がった勇儀が、肩を豪快にぐるぐると回す。

「おお、花火ですね! 鬼の花火は豪快で人気がありますからねー」
「褒めても何も出ないよ。じゃ、後でまた飲もう」

 そう、勇儀は歩いて行ってしまった。私も撮影がありますので、と動こうとした文は、その前に、と二人に写真を一枚渡した。

「よく撮れてますし、記念にどうぞ」
「いいのか」
「ええ。私が持ってても特に記事にも使えないですし」
「……『そのかわり文々。新聞をよろしく』ですか」
「あやや、まあ、そんなところです。では」

 言うなり、幻想郷最速に違わぬスピードで、文は去っていった。

「忙しないな」
「本当にね」
「お燐達も向こうにいるよ。お姉ちゃん、みんなで見よう?」

 こいしの求めに、さとりは彼と顔を見合わせ、頷く。大体の思いは二人とも一緒だった。

「そうね、そろそろみんなも心配だし」
「また、さとり様独占してたって愚痴られますしね」
「あはは、みんなお姉ちゃん大好きだからね」
「負けてられないですね、そいつは」

 冗談に隠した本気の言葉で、彼はそう言った。その想いに少し顔を赤らめながら、さとりは彼の手に指を絡める。

「では、行きましょう」
「はい」

 応えて、彼は小さく欠伸をした。随分と疲れてきたのだろう。人が多いのは、楽しいと共にまだ慣れないものらしい。

「途中で少し休む?」
「ああ、いえ、行くとこまで行きますよ。その代わり、明日ちょいと寝坊させてもらえれば」
「じゃ、みんなで寝坊だねー」

 さとりの空いている方の手を取って、こいしがそう微笑う。

「出来るだけ早くは起きますよ」
「別にいいと思うよ。だってみんなで寝るもんね。ね、お姉ちゃん」
「……そうね、そうしましょうか」
「……さとり様が、そう言うのなら」

 照れたような声でそう言って、彼は空を仰いだ。つられて空を見れば、鬼達が打ち上げ始めた花火が夜空を彩り始めている。

「……さとり様」
「何?」
「あの、その」
(言葉で、まだ、伝えられてないから)

 心では何度もさとりは聞いていたけれど、それでも彼が口にしたい言葉。

「綺麗です、さとり様」
「……ありがとう」

 わかっていたのに、言葉にされると尚更嬉しくて、さとりは頬を綻ばせた。
 空にまた一つ、大輪の花が咲き誇った。





 この後、燐や空などの介抱やら、戻ってきた鬼達の宴会再開やらで再び賑やかになるのだが、それはまた、ささやかな余談である。

Megalith 10/11/22
───────────────────────────────────────────────────────────

「あの、一つ、お願いしていいかしら」
「ん、何でしょう、さとり様」

 就寝前の時間。書斎で一緒に紅茶を飲んでいたところに急に尋ねられて、青年は首を傾げた。

「あの、ね、その」
「はい」
「……今日、一緒に、寝ていいかしら?」

 紅茶を吹きそうになって、ああそうか、いつものようなのか、と納得する。とすると、早めに他のペットにも声をかけた方がいいか。

「え、ああ、はい。んじゃ、お燐達にも声かけますか」
「あ、その、そうじゃ、なくて」
「へ?」

 俯いて顔を紅くしつつ、さとりは言葉を続けた。

「その、二人だけで、一緒に、いてほしいの」





「……さとり様、ええと、それは」

 思わずカップを取り落としそうになりながら、彼は尋ね返す。
 そういう言われ方をしたとき、男がどういうことを考えるかわかっていないはずはないと思うのだが。

「その、ごめんなさい、そういうことじゃ、ないのよ」
「ああ、ええ、はい。わかってます。流石に」

 さとり様から誘ってはこないだろうし、と考えたのを読んだからか、さとりはさらに顔を紅くした。

「誤解される言い方だった、わね。ごめんなさい」
「いえいえ。で、どういうことなんでしょうか」
「この前の、宴会の時なんだけれど。薬師さんとちょっと話をすることがあって」
「永琳先生ですか? まさか、何か身体に悪いとこが?」

 さとりは首を横に振って、少し微笑んだ。

「直接的に悪いわけではないの。ただ、ちょっと疲労がたまってる、って」
「忙しいですからね、さとり様は……」
「で、その回復に、ということなんだけど……」
「ちょっと待ってください、それで何で俺と一緒にってことになるのか繋がらないんですが」
「ええと、薬師さんが詳しく書いてくれてるから、とりあえず読んでもらっていい?」

 デスクの上に置いてあった書類を手渡され、彼はそれに目を走らせる。

「えっと……?」


 永琳の説明はざっくりとしたものだった。

 ここのしばらくの多忙が精神の負担になっていること。
 適度な休憩を取り、心身を休ませることが最も良い方法であること。
 休息を取ることが大事であり、処方はいらないこと。



「ん。薬は必要ねえってことですか」
「ええ」

 頷いて、彼はさらに先を読む。



 適度な休息、たとえばペット達と共に休むのは良いということ。
 それは永遠亭でも実証済みである。アニマルテラピーに近いものだということ。



 あのふかふか妖怪兎達か、と納得する。そういえば随分暖かそうだ。
 そこで状況説明は終わっていて、後は彼個人に宛てた手紙になっていた。


『以上から、地霊殿にはペットも多いからアニマルテラピーをお勧めします。
 特に貴方の側は猫やら犬やら別のペットや妖怪も寄ってきて昼寝するそうだから、安心出来る可能性は高いわ。
 きちんと実証を取りたいところだけど、貴方もペットだからそう問題はないでしょう』


 何か問題が多い気もするが、と思いながら微苦笑する。


『ということで、休むときに大勢で、ということもあると思うのだけど、時にはそれを主だけに独占させなさい。
 貴方だけでなくて他の子達もそうだけど、自身の主に気を遣うこと。無理をする性質なのはわかっているでしょう。
 主に頼まれたら、出来るだけそれを叶える方向で動きなさい。主を大事に思うならね。以上です』



「……なるほど、そういうことですか」
「そういうこと、らしいの」
「なら、一も二もないですよ、俺は。まあ、枕代わりにも何にでもしてください」

 さとり様が安心できるならそれが一番だ、と彼は笑う。

「ありがとう」

 さとりも微笑った。そして、あら、と首を傾げる。

「まだ何かあるみたいだけど?」
「ん? 二枚目?」

 ぱら、とめくる。お茶目なマークと共に書いてあったのは――


『追伸:一緒に寝てて、もし我慢できなくなったらそっち方向でいろいろ工面――』


 見なかったことにした。真面目な話の最後の最後でどうして人をからかうかあの先生は! 

「……あー、その」
「え、ええ」

 彼が読んだところはさとりにも伝わったのだろう。少しぎくしゃくした雰囲気の中、こほん、と咳払いする。

「じゃあ、ええと、どうしますかね」
「あ、その……私の部屋に来てもらっていいかしら?」
「ああ、はい。んでは、カップ片付けて、一度部屋戻ってからいきます。また、後で」

 三十分後くらいでいいかな、と考える。それを読んで、さとりが頷いた。

「ええ、それくらいには私も戻って寝る準備するから」
「はい」

 頷いて、空になったカップの盆を持って部屋を出ようとした彼の袖を、不意にさとりは掴んだ。

「あ……」
「どうしました、さとり様?」
「えと、その」

 顔を紅くして、しばらく戸惑った後、さとりは、ぽつりと呟いた。

「……待ってる、から」
「っ……! は、はい、失礼しますっ!」

 ぺこ、と一礼して、彼は廊下に飛び出した。そのまま、台所に向かって駆け出す。

「っ、ありゃ、反則だ……っ!」

 反則的に可愛かった。思考読まれたら本当にやばかった。
 いや思考以前に反射的に抱きしめるところだった。

「……煽ってるわけじゃあないだろうし、素だろうな……」

 もう少し考えてくれるとありがたいんだが、というぼやきは口の中だけに納めて、彼は小さくため息をついた。




 ノックの音に、さとりは立ち上がってドアを開けた。

「いらっしゃい」
「あ、ああ、お邪魔します」

 少し緊張した様子の彼に、さとりはくすりと微笑った。

「そんなに緊張しなくても」
「いやまあ、まだ慣れないんですよ、女の人の部屋に入るのは」

 頭をかいて、彼は照れたように笑った。

「もうだいぶ遅いし、休みましょう?」
「は、はい」

 さりげなく言ったつもりだったが、少し声がうわずったのを自覚して、さとりは紅い顔を隠すように彼に背を向けた。
 そういうつもりはないのに、どうしても緊張してしまう。いつものように、ただ休むだけなのに。
 思考に気を取られた所為か、足を軽く滑らせてしまった。

「きゃ……」
「おっと……大丈夫ですか、さとり様」

 後ろから支えられて、さとりは転倒を免れる。

「ご、ごめんなさい……ひゃっ!?」
「よっ、と」

 ひょい、と抱きかかえられて――俗に言うお姫様抱っこの形で抱き上げられて、さとりは慌てる。

「え、と……!?」
「そこまでパニックにならんでください。足下が危うかったんで」

 落ち着いて心を読めば、心配していたということと、今の状況に彼も動揺していることが伝わってくる。

「つい行動しちまって。すんません」
「う、ううん、いいわ。ありがとう」

 顔を紅くしたまま、さとりは彼の服を握る。

「あの、さとり様」
(このまま、連れてっていいもんかな)
「ええ、お願い」

 頷くと、彼はそのまま少しぎこちない動きでさとりをベッドに下ろしてくれた。

「その、貴方も」
「え、ああ、はい」

 頬をかきながら、彼がベッドに横になる。それを見て、さとりは枕元の灯りを小さくした。火勢を弱くすればそのうち消えるようになっているものだ。

「……ああ、すんません、やっぱ、ちと緊張しちまってて」

 堅くなる必要はないはずなんですが、と、しばらくの沈黙の後、額に手を当てて彼はそう苦笑した。
 いろいろと考えがぐるぐると回っているのもあるのだろう。

「それは、私も。安心するためのはずなのに、どうしてか、ね」
「いっそ俺がいろいろ耐えられなくなる前に戻った方がいいですかね」
「あら、何かしようとしても私の方が強いわよ?」

 そう、さとりが冗談めかして言うと、それもそうだ、と彼は笑った。くすくすと二人でしばらく笑っていると、不思議と緊張は解けてきた。

「だいぶ、落ち着いたみたいね」
「ええ。いやはや、すんません、気を遣わせて。これじゃあ逆ですね」
(俺はさとり様のために、ここにいるのに)

 くすりと微笑って、さとりは彼の右腕を引いた。

「じゃあ、枕に、させてもらっていい?」
「ああ、どうぞ」

 彼が伸ばした腕に、さとりは頭を乗せる。力仕事を続けてきたためか少し筋肉質になっているそれは、それでも何故かさとりを安心させた。

「ふふ、独り占めも悪くないわね」
「まあ、大抵誰かいますからね」
「暖かくて安らぐの。本当よ」
「そいつは光栄ですが。まあ、俺も」

 さとり様の隣にいられるのは嬉しいですし、とぼそぼそと口の中だけで彼は呟いた。

「ありがとう」
「いえ、ああ、えっと」
(どういたしまして、って言うとこ、なのかな)

 頬をかく彼に微笑って、さとりも頷き返す。
 それから、しばら沈黙が続いた。何か話そうとして、何を話したらいいのか互いにわからない。

 彼自身も何を言えばいいのかわからず頭の中でいろいろ話題を回していたし、さとりもそれを読みつつ、何と声をかけたらいいのかわからなかった。
 だからといって、気まずいかと聞かれれば、妙なことにそうでもなかった。
 薄明かりに照らされた互いを何となく眺めているだけなのに、不思議な安心感があった。

 不意に、ふっと灯りが消える。火が尽きたのだった。

「消えた、わね」
「ええ」

 視覚情報がなくなると、触れている部分がさらに熱を増した気がする。
 鼓動だけが響くような中、急に抱き寄せられて、さとりは彼の腕の中で少し身動ぎした。

「いや、ですか」
「少しびっくりしただけだから、大丈夫」

 自分の場所を安定させるかのようにすり寄った後、さとりは軽く息をつく。
 落ち着くのだ。温かくて優しくて、溶けてしまいそうな程に。

「何だか、とても落ち着くの」
「そりゃ、ありがたいてす」
「……貴方も、随分安心してくれているのね」
「まあ、それは」
(温かくて、落ち着くんで)

 その心を読んで、さとりはくすりと微笑った。

「私も、一緒」
「ああ、はは、何て言やいいのか」
(幸せですよ、俺は)

 その言葉に、少し体温が上がるのを感じながら、さとりは右手を伸ばして彼の左手を探した。

「さとり様?」
「手、繋いでていい?」

 暗闇の中で彼が微笑ったのを感じて、さとりは彼の指に自分の指を絡めた。

「少し、冷えてますね。寒くないですか」
「大丈夫。ありがとう」

 頷いて、さとりはそっと彼の腕に身を委ねる。

「まだ、鼓動が早いわね。緊張してる」
「まあ、まだどきどきはしますよ」
「……私に、何かしたい、って気持ちもあるから、ね?」
「それは、その」

 それでも、それを我慢してくれていることも、さとりにはよくわかっている。

「ごめんなさいね。それでも、私は貴方と居たかったの」
「ん、大丈夫ですよ、さとり様」

 何が大丈夫なのか、彼は口にしなかった。さとりの不安を読んだかのように。こうして我儘を口にすることで、彼が嫌わないだろうか、という不安を。

「たまに我儘も言ってもらわないと、こっちが心配になりますよ」
「ん……ありがとう」
「いえいえ」

 そう、彼の右手がさとりを安心させるようにぽんぽんと軽く頭を叩いた。優しい感覚に、さとりの瞼が重くなってくる。

「眠くなってきたわ……」
「ん。では、寝ましょうか」

 こくり、と頷いて、さとりは彼の頬に手を伸ばす。

「その、前に……」
「っ!」

 唐突に口唇を塞がれて、彼が驚いたような声を上げた。

「おやすみなさい……」
「あ、ああ、はい」

 彼の慌てている感情を楽しみながら、さとりは瞳を閉じる。
 しばらく何とも言えない気分で困っていた彼も、軽く息をつき、さとりの耳元にそっと囁いた。

「おやすみなさい、さとり様」



 珍しいことに――本当に珍しいことに、その日、彼とさとりが寝入ったのは、ほぼ同じ時間だった。






「ああ、朝、か」

 時計に目を走らせて、起床時間になっているのを確認する。
 起き上がろうとして断念したのは、自分の胸にしがみつくように眠っているさとりを起こしかねなかったからだ。
 さりとて、そろそろ起きねば遅刻する。まあ、冬なので中の仕事が主になっている。多少遅れてもそう支障はないだろうが。

「さとり様、起きる時間ですよ」
「ん……?」

 眠たげに双眸が開かれて、何度かゆっくりと瞬きした後、起きるのを嫌がるように彼の胸にすり寄ってきた。

「……もう、ちょっとだけ……」
「寝坊しちまいますよ」
「たまには……」

 むずがるように言って、目を閉じてしまう。寝息まで聞こえてきた。
 どうしたもんかな、と思いつつ、永琳からもらった手紙を思い出す。

「……だな、たまには、いいよな」

 第一、さとりがここまで甘えを見せてくれるのは本当に珍しい。それを向けてくれるのが自分なのは、どこか嬉しさも感じる。
 ふと見れば、第三の目も眠たげに開いていた。眠たいのを我慢するようなその様子に微笑って、彼はその瞳を撫でる。

「ゆっくり休んでください。俺はここにいますから」

 その言葉に安心するかのように、第三の目も静かに閉じる。
 それと共にぎゅっと抱きついてきたさとりの頭を撫でて、彼も少し二度寝を楽しむことにした。





 静かな部屋のドアが開かれて、ひょこ、と誰かの顔がのぞく。

「あらら、まだ寝てるんだ」

 そっと入って――そっと動かなくても彼女は誰にも気が付かれないのだが――眠っている二人をのぞき込む。

「幸せそうだねえ」

 何となくそう呟いて、こいしは微笑んだ。姉が幸せそうなのも、その想い人が幸せそうなのも、何となく嬉しかったからだ。
 こいしはそれを確認するだけすると、くるりと踵を返し、ドアに向かう。部屋から出て、跳ねるように歩き始めた。

「けど、あそこまでして進展なしかあ。まあでも、あれも進展なのかな?」

 呟きながら、こいしは上機嫌に地霊殿の廊下を歩いていく。





 しばらく眠って起きても、さとりはまだ眠っていた。

「よく寝てるなあ」

 自分も偉そうなことは言えないが、と胸中で呟いて、さとりの髪を撫でる。

「ん……」
「ああ、起きました?」
「あ……おはよう……」

 『う』なのか『ふ』なのかわからない声でさとりは挨拶をしてきた。

「ん……朝……?」
「もうだいぶ遅い朝ですけどね」
「ああ、いけない、寝過ごしたのね……」

 そう言いながらも、さとりはまだ眠そうだ。意外に寝起きが悪いのだろうか。
 それを読んだのか、さとりの頬が少し紅くなる。目も少し覚めたようだ。

「貴方のように、起きてすぐに動ける人が羨ましいわ」
「あまりわからないですけどね」

 そう、彼はさとりの髪をもう一度撫でた。

「『寝起きも』……っ!」

 彼の思っていることを反射的に反復しようとしたらしく、さとりは顔を真っ赤にした。

「な、何思ってるの……!」
「いや、すんません。でも可愛いんですから」
「も、もう、あまりからかわないで……」

 俯いて、さとりは彼の胸に額をつけた。

「あはは、すんません」
「笑わないで。もう、馬鹿」

 拗ねたような物言いは、けれども照れ隠しなのだろう。

「……ね、時々、で、いいから」
「はい?」
「時々で、いいから。こういう風に、また、一緒に寝てもらっていいかしら……?」

 どく、と鼓動が一つ高鳴ったのを自分でも感じて、彼は笑顔を浮かべた。

「さとり様が必要としてくれるんなら、いつでも」
「ん……ありがとう」

 そう言いながらこちらを見上げた顔はまだ紅かったが、とても綺麗で彼は慌てたように視線を彷徨わせた。

「あ、ああ、その、そろそろ、起きましょうか」
「ええ」

 その前に、と言って、さとりは彼の口唇に人差し指を当てた。

「その、おはようの、ね」
「ああ、はい、ええ」

 照れ隠しの、全く意味のない言葉を返して、彼はさとりの頬に手を当て、そっと口唇を塞いだ。






「…………」
「…………」
「何だ、お空、お燐」

 昼も過ぎた頃。じと目で自分を見てくる二人に、彼は何事かと声をかける。

「さとり様の匂いがする」
「うん、さとり様の匂いだ」
「は?」
「他のみんなも言ってるんだよー。今日のあんたからさとり様の匂いがすごくするって」

 むう、と空が不満そうに頬を膨らませる。

「あ、あー、もしかしなくてもバレてるのか。やましいことはしてないが」
「そんなことはわかってる。してなくても羨ましいんだよ。いいなー、あたい達も一緒に寝たいのに」
「今回はさとり様の要望だ。次はみんなで寝りゃいいじゃねえか」
「あんたも言うようになったねえ……」
「あれだけ枕扱いされりゃ慣れもするさ」

 燐の言葉にため息をついて、彼は軽く首を振る。

「ま、今回は永琳先生の話もあってだからな。さとり様のお願いにゃ出来るだけ応えるようにだとよ。俺だけじゃなくお前等もさ」
「さとり様のお願いだったら私何でも叶えるよ! 地上だって取ってくる!」
「そいつはやめときなお空……まあ、そういうことなら、だね」
「そういうことだ」

 頷いて、彼は自分を呼ぶさとりの声に気がついた。

「ああ、ちょいと行ってくる」
「はいはい」
「行ってらっしゃーい」

 ばたばたと走っていった彼を見送って、空と燐は顔を見合わせた。

「らぶらぶだねえ」
「だねえ。まあ、平和な方がいいだろうさ」
「でもちょっと羨ましい……」

 さとりにくっつくのが好きな空は少し不満そうだ。その気持ちはよくわかるのか、燐は軽く笑った。

「まあ、お邪魔にならない程度には邪魔しようか。行こう、お空」
「にゅ? にゅ? よくわからないよお燐! 待ってー!」

 楽しげな笑い声が、地霊殿の廊下に響いていく。




 この後、居間でお茶の時間となるのだが、さとりに妙にくっつくペット達を、何とも言えない表情で眺める青年の姿があったとかなかったとか。
 兎にも角にも、地霊殿は穏やかな冬の始まりを迎えたのだった。


Megalith 10/12/19
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最終更新:2011年01月15日 13:06