「○○さん、準備は出来てる?」
「はい、咲夜さん、オーケーです」

 二人して頷き、用意していた荷物を紐解く。

「ん、やはり、浴衣は白地に赤ですね。金魚の柄がまた」
「こちらの薄黄色を基調にしたのもいいわね、お疲れ様」
「いえいえ、里には用事もありましたし」
「選ぶのも任せたのは少し心配だったけど……いいのを選んできたじゃない」
「……酷い言われような気がします」

 冗談よ、と微笑う友人に、○○も微笑い返した。

「みなさんの分もあります。今回はみんなで出かけるという形でいいんですよね?」
「お嬢様のご意向だもの。妹様もお出かけになるから、何かあったときのストッパーでもあるんでしょうけれど」

 後は妖精メイド達への休息も兼ねてね、と咲夜は頷いた。
 そう会話をしながら楽しげに浴衣を並べてたたんでいる二人に、背後から声がかけられる。

「何をしているの?」
「ああ、レミリアさん」
「お嬢様、丁度良いところに」
「?」

 浴衣を手にした咲夜がとても良い微笑みで振り返るのを、レミリアは首を傾げて見ていた。





 今晩は里の豊穣祭、である。夜に行われることもあってか、妖怪でも遊びに行くものが多い。
 目的は、どちらかというと酒が振舞われる宴会なのだろうが、陽気な空気に誘われる者も当然のことながらいる。
 その話を聞いたレミリアが、今年は妖精メイド達の休暇を兼ねて紅魔館総出で遊びに行くことに決めたのだった。





 そしてその決定を受けて、咲夜が○○に浴衣の調達を頼んだ、というのが事の次第。
 浴衣自体に興味がないわけではないし、買って来てくれたそれを身に着けるのも、楽しみでないわけではないのだが。

「……どうして○○と咲夜の方が楽しげなのかしらね……」
「諦めたら? 意外に機能的で面白いわよ、これ」

 パチュリーも小悪魔に手伝わせて、浴衣に着替えている。

「なるほど、通気性を良くしているのね……興味深い」
「パチェは研究熱心ねえ……」
「お姉様、これどうするの?」

 フランドールがレミリアの袖を引く。手にしたものの使い方が分からないようだった。

「帯ね。ええと、どう着けるのだったかしら」
「ああ、お嬢様、私が着けますので」

 咲夜がフランドールから帯を受け取り、さっと巻いてしまう。
 気が付けば、レミリアも着付けられている。相変わらずの早業であった。

「咲夜は着ないのー?」
「私は……」
「咲夜さんの分もありますよー。綺麗な柄です」

 美鈴がさっと咲夜の分を出す。藍色を基調に白い小柄な花をあしらった、落ち着いた雰囲気の浴衣だった。

「あ、いえ私は……」
「あら、綺麗な柄じゃない。さあ、咲夜も着替えなさい」
「は、はい……」
「それでは着付けましょうね。小悪魔さん、そっちの帯取ってください」
「あ、はい」

 手早く咲夜に着付けた後、美鈴と小悪魔もそれぞれ浴衣を身に着ける。

「さて、では出かけましょうか」
「何か不思議な感じ……ちょっと暴れにくいかも」
「暴れては駄目よ、フラン」

 妹を嗜めながらホールに出たレミリアは、男性ものの浴衣に着替えた○○が既に待っているのを見つけた。

「ああ、待たせたかしら?」
「いいえ。手間取ったので、今来たところです」

 浴衣は着慣れないもので、と微笑って、彼は浴衣姿のレミリアを見つめる。

「よくお似合いです」
「そう?」
「ええ、とても」

 褒められて嬉しいが、○○の方がもっと嬉しそうなのはどういうことだろう。
 そうは思いつつも、レミリアも頬を綻ばせる。

「はいはい、折角涼しくなってきたんだからまた暑くしない」
「お姉様達、先に行くよー?」

 呆れた声が、背後から聞こえてきた。





「随分と賑やかなものね」
「秋の神様達も呼んで行うそうですから。やっぱり盛大になるんでしょう」

 レミリアは○○の返答に頷いて、屋台やら櫓やらが出ている里の光景を眺めた。
 まだ宵の口なのだが、すっかり出来上がっている気配のあるところもあれば、楽しげに談笑している場所もある。

「すごーい、賑やかー!」
「ああ、走っては危ないですよ」

 飛び出そうとするフランドールを、美鈴が押し留めている。

「それにしても、目立ちますね」
「目立たない方が不思議とも言えるけれど」

 小悪魔とパチュリーがそんな言葉を交わしていた。紅魔館総出の姿は、かなり目立つ。

「……また大層なグループが来たな」
「どうも、慧音さん」
「大丈夫よ、白沢。大人しく見て回るだけだから」

 何とも言えない表情をしている慧音に、レミリアはそう告げた。

「まあ、それならいいのだが……」
「お姉様ー! ○○ー! 何かふわふわしたのがあるー!」
「ああ、わたあめですね。すみません、少し失礼して」

 ○○は慧音に断りを入れて、わたあめの屋台を指差すフランドールに尋ねた。

「買ってみますか?」
「うん!」
「では、みなさんの分も」

 わたあめの屋台にひょいと近付いて声をかけ、自分以外の分を作ってもらう。
 くるくると綿飴が絡みついていく様子をレミリアとフランドールが楽しそうに眺め、パチュリーも興味を示していた。
 屋台の親父には「何か……壮観だな」と言われたが、それに対しては曖昧な笑みを返しておく。

「はい、どうぞ」
「ありがとー」
「いいんですか、私達にも」
「折角のお祭りですし」
「○○の分は?」

 レミリアに問われ、彼は少し首を傾げる。

「さすがに、その量は入らないな、と……」
「じゃあ、一緒に食べましょう」

 どこか楽しげなその様子に、いただきます、と彼も笑う。

「……レミィ、私は適当に回ってるわ。邪魔はしないから」
「わ、私もパチュリー様にお供しますのでー!」
「咲夜、美鈴、私たちも行こうー?」
「かしこまりました、妹様」
「ごゆっくり、お嬢様、○○さん」

 パタパタとそれぞれに行ってしまった館の者達に、レミリアは苦笑めいた表情をする。

「まったく……」
「あー……私ももう行くが、何と言うか、程ほどに」
「善処するわ、白沢」
「仲睦まじいのはよく知っているがな。では」

 からかうような口調に、少しだけ微笑って応じて、レミリアは○○の手を引いた。

「はい、では、いろいろ回ってみましょうか」
「ええ」

 丁寧に手を取った○○に、レミリアは灯りで赤く染まった顔を、嬉しそうに綻ばせた。





 まだ祭事は始まらないとの事で、始まるまで適当に屋台を冷やかすことにした。

「何か面白いものとかないかしらねえ」
「んー、くじとかですかね。食べ物もあるかもしれませんが」
「今はわたあめがあるからいいわ。ああでも、かき氷もいいかもね?」
「もう大分涼しいですよ」

 そう言いつつ、そういえばそんな話もしていましたね、と○○は笑った。

「おー、杏飴もあるなあ」
「○○、子供みたい」
「あ、あはは、子供ですか。かもしれません。昔から、やっぱりお祭りは好きです」
「貴方が楽しそうなのを見るのは楽しいわ」
「それは嬉しいです。ちょっと複雑ですが」

 レミリアは軽く微笑んで、○○の腕に手を絡めて歩き出す。実際、少し歩きにくいのもあった。
 ○○もそれがわかっているのか、歩調をいつもよりも緩め、レミリアが歩きやすい速さに落としている。

「こういうのも風流ね」
「ええ、まったく……おお?」
「何、また何か見つけた?」
「ええ、型抜きの屋台です。これは懐かしい……」

 型抜き、といわれても、レミリアにはピンと来ない。○○だけが嬉々として眺めている。

「どういうものなの?」
「この型を……型抜き菓子っていうんですけど、爪楊枝で綺麗に抜くんです。で、上手く出来たらそれに応じて、賞金とか景品とかがもらえるんですけど」
「随分脆そうだけど」
「そうなんですよ、すぐに割れてしまうんです。でも楽しくてついつい、という奴ですね」
「やっていく?」
「いいですか?」

 では、と楽しげに、彼は屋台主に声をかけ、何枚かもらってきた。

「レミリアさんもどうぞ」
「やってみるわ」

 渡された型抜き菓子を手に、二人して露台に腰を下ろして型抜きを始めた。



「んー、上手く出来なかったわねえ」
「まあ、そういうものですよ」

 案の定、チャレンジしたものは全て途中で折れてしまった。
 それでも十分楽しかったらしく、レミリアは上機嫌である。

「今度咲夜に買ってきてもらおうかしら」
「みんなでやるんですか?」
「それも楽しそうよねえ」
「程ほどにしないと、みんな仕事になりませんよ」
「貴方も、かしら?」

 悪戯っぽく言ったレミリアに、○○は曖昧に微笑って頬をかいた。

「まあ、祭りで浮かれる気分はわからなくないわ」
「レミリアさんも楽しそうですね」
「ええ、楽しいわ……あ、○○、あれ何?」
「あ、りんご飴ですね。杏飴もあるのか。先程はわたあめ持ってましたから見送りましたけど、買ってみますか」
「ええ」

 今度は二人分買って、それぞれりんご飴と杏飴を手にする。

「随分甘いのね……でも、少し食べにくいかも」
「零しやすいので注意してくださいね」
「ん。あ、○○のも一口ちょうだい」
「はい、どうぞ」

 差し出した飴を、かり、と噛んで、こっちも甘い、とレミリアは頬を綻ばせた。
 可愛いなあ、とその表情を見つめていると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「……ここだけ季節が逆戻りしてるんだけど」
「相変わらず、仲がよろしいですね」
「あら、霊夢、早苗」

 振り返れば、呆れ顔の霊夢と早苗が立っていた。

「どうも、こんばんは。お二人は?」
「もう少ししたら神事が始まるから、その準備ね」
「主役は秋の神様お二人なんですけど、私達も巫女として手伝いを。今は少し時間が出来たので、お茶でも飲もうか、って」
「で、戻るとこ」
「そういえば神事なんだっけ。忘れてたわ」

 飴を齧りながら、レミリアが頷く。

「悪魔が神事を見に来る、ってのも変な話よね」
「楽しみにきただけだしね」
「それはそれでどうなんでしょう……」

 早苗が困ったような表情をした。レミリアは楽しげに飴を一つ回して片目を閉じる。

「邪魔はしないわ。精々楽しませて頂戴」
「偉そうに言われるとむかつくわねえ……」
「まあまあ霊夢さん」
「ああ、ええと、神事はいつ頃始まるんでしょう?」

 取り成すように尋ねると、霊夢と早苗は、ああ、と頷いた。

「そろそろ始まるわね」
「そうですね。私たちは先に行きますけど、よろしければ広場の方へどうぞ」

 先に飛んでいってしまった二人を視線で追った後、レミリアは○○の腕を引いた。

「行きましょう、○○」
「はい」





「あ、お嬢様、こちらですー」
「ああ、みんな来てたのね」

 美鈴が手を振ったのを目印に歩いていくと、全員がそこに勢ぞろいしていた。

「ここが一番良く見えるかと思いますわ」
「まあ、真正面だしね。私と小悪魔も今来たところだけど」
「ご苦労様。フラン、楽しかった?」
「うん!」

 買ってもらったらしいお面を頭に付けて、フランドールは楽しそうに笑った。

「そちらも……随分楽しかったみたいね」
「え、そ、そう?」
「二人とも随分緩んだ顔してるわよ」
「……気を付けるわ」

 親友の言葉に、レミリアはぱしぱしと軽く自分の頬を叩いた。
 見れば、○○も同じような動作をしている。

「そういうところまでシンクロしなくていいから」
「別にしようと思ってしてるんじゃないわよ……」
「同じく、です」
「だからこそ性質が悪いって言うのに……ああもう、始まるわよ」

 呆れた口調のパチュリーは、視線だけで広場の先を指し示した。



 粛々と行われた神事は、終わった後お決まりであるかのように和やかな宴会へとシフトした。
 祭りが終わっていくのを惜しむかのような、珍しく騒々しすぎない宴会。
 こういうのもいいな、と思いながら仰いだ空に花火が上がった。あれは弾幕ではなかろうか。

「ん、いい気分ね」

 宴会の片隅で、レミリアと○○もグラスを傾けていた。

「レミリアさん、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、そう強い酒は飲んでないわ」

 そう言いながら、レミリアは上機嫌のまま○○の腕の中に納まった。
 紅魔館の面々もそれぞれに分かれて宴会を楽しんでいる。というか、気を利かされたらしい。
 丁寧に抱きかかえながら、○○は近くにおいてある果実酒の瓶を手に取った。

「今年の新酒、ですか。解禁には少し早い気もしますが」
「そうね、でも今年もいい葡萄が出来てたみたいだから、これは試しということでしょう」
「ヌーヴォ、ですか。ということはやっぱり早くないですか。一月ほど」
「いいのよ、秋神達が直々に配ってるんだから」

 レミリアは手にしたグラスを傾ける。そして、○○にもグラスを渡した。

「○○も付き合いなさい」
「はい」

 くい、とグラスを傾ける。素直に美味かった。雰囲気もあるのかもしれないが。

「美味しい、ですね」
「そうね。でもまあ、一本くらいにしておきましょう。次は時間を置いた後に楽しむべきね」
「じゃあ、そんなお二人に十年物を」
「ああ、穣子さん、静葉さん。お疲れさまです」

 ことん、と小さめの瓶を持ってきた秋姉妹に、○○は軽く礼をした。

「ありがとう。小さい瓶だけど丁度いいでしょう。熱心に見てくれてたお礼」
「いただくわ……貴女達も」
「では、一緒に」

 二人の分のグラスも渡し、四人でしばし歓談することとなった。

「でも、いいのかしら? 主役がこんなところで吸血鬼と飲んでたりして」
「どうせみんなに挨拶にはいかなきゃいけないから」
「それにさっき言ったでしょう、随分と熱心に見てくれていたようだから」
「……滅多に見ないものだからね」
「ふふ、それでもありがたいわ。私達のような神も、そうやって見てもらえて何ぼだからね」
「まあ、お二人の雰囲気作りに協力しちゃった気もするけどねえ」
「からかいに来たのならどこかに行きなさいよ」

 まったく、というレミリアに、二柱の神はくすくすと微笑う。

「では、お酒がなくなるまで堪能させてもらって、それから行きましょうか」
「あまり邪魔しても悪いもんね、姉さん」
「さっさと飲んでどこかに行け」

 言いつつ、レミリアは苦笑してワインのグラスを傾けた。



「さあて、では他の人のところに行きますかー」
「そうね。じゃあ、二人ともまだ楽しんでいってね」

 穣子が伸びをし、静葉が軽く声をかける。

「はいはい」
「お疲れさまです」
「いえいえ、二人ともごゆっくり」
「また」

 二柱を見送り、レミリアは軽くため息をついて○○にもたれかかった。

「まったく、何しに来たんだか」
「まあまあ、お祭りですし」
「まあ、そうだけどね……ワインはいいものだったし」

 いい感じに酔ったわ、と言いながら、レミリアは○○の胸にすりよる。

「外ですよ、レミリアさん」
「いいじゃない、どうせ誰もこちらを気にかけてなんかいないわ」
「そうかもしれませんが……」

 いつもと違う風景に、違う姿。どぎまぎするこちらの気分にもなってほしいものだ。

「何、照れてるの?」
「そういうわけでは……って、レミリアさんも顔紅いじゃないですか」
「少し酔っただけ」

 顔を逸らすのは照れ隠しだと知っている。思わず笑うと、不満そうな声をあげた。

「笑わないでよ、もう」
「すみません」

 とはいえ、○○に余裕があるわけでもない。そもそも強くない酒をだいぶ飲んでいて、いろいろとぎりぎり、である。
 乳白色の地に赤い金魚の浴衣は、レミリアの白い肌に似合っていて、思わず何度も見惚れてしまうほどだと言うのに。

「……そろそろ、みなさんのところに行きませんか?」
「ん、いいけど、どうしたの?」
「いや、その……」
「珍しく歯切れが悪いわね。どうしたの」
「……勘弁してください」

 見れば、レミリアはくすくす微笑っている。ということは、大体の把握は出来ているはずなのだ。

「わかってるんでしょう、僕のことくらい」
「いつも全部わかってるわけではないもの。そうでないと楽しくないわ」
「まあ、それは同意です。僕だって、唐突なイベント企画を読めるわけではないですから」
「あら、でも楽しいでしょう?」
「ええ、楽しいです」

 額がくっつくほどの距離で、二人はもう一度笑った。
 花火の音が、少しずつ派手さを増して行く。終わりが近いのだ。

「……祭りが終わるわね」
「……そうですね」
「みんなのところへ行きましょうか」
「はい」
「じゃあ、その前に」

 レミリアは彼の頬に手を当て、そっと、口付けを落とす。
 遠くで一際大きい、最後の花火が上がり、歓声と共に小さくなって消えた。





 帰路に着く頃には、もう時間だけ見れば朝方とも言える時間になっていた。

「日が昇る前には帰らないとね」
「妹様もすっかりお疲れのようですしね」

 美鈴に背負われて、フランドールが寝息を立てている。随分とはしゃいだようだった。

「問題も起こさなかったみたいで何よりだったわ。ご苦労様、咲夜、美鈴」
「いえ、それが……」
「問題は起こしてなかったんですけれど、途中からその、弾幕花火に加わってしまわれまして」
「……あれ鬼の方々だけじゃなかったんですか」
「……この子はもう……まあでも、楽しかったようなら何よりだわ」

 レミリアはそう、軽いため息と共に妹を見上げた。

「しばらくは静かに過ごせそうね、レミィ?」
「まあ、そうね。それが続くのはそれはそれで退屈だから、また何か企画しましょうか」
「程ほどにね」

 わかってるわ、と頷きながら、レミリアは○○の手に自分の手を重ねた。
 ○○もそれに気付き、手を広げて、レミリアの手を握る。

「また、来年も来ましょうか」
「ええ、そうですね。そのときもみなさんで」

 レミリアは頷き、涼しげな風に気持ち良さそうな顔をした。

「そのときもこれくらい涼しいといいわね」
「そうね、局所的に暑さが戻ってきたりするから」
「パチェ、それは気候のことよね?」
「さあ、どうかしら」

 親友のからかいに顔を紅くしながらも、レミリアは○○の手を取ったままだった。

「……もう」
「まあまあ……もう、日が昇りますよ。急がないと」
「ああ、そうね」

 それでも、紅魔館はもうすぐだった。足を速めなくても、すぐに着くだろう。

「この服も、もう少し着ていたかったけど」
「また今度、ですね」
「そうね……ありがとう、○○」
「え?」
「咲夜と一緒に、浴衣を着れるようにしてくれたのは○○だったでしょう?」
「ああ、ええ、まあ」
「だから、よ。楽しかったわ」

 そう、嬉しそうな笑顔を、レミリアは○○に向ける。○○も心の底から嬉しそうに微笑った。

「熱々ですねえ……」
「はいはい、二人とも。本当に日が昇って暑くなる前に帰りましょう」

 呆れたパチュリーの声が、二人を促した。





「かくして祭りの夜は終わり、というところかしら」
「ええ。お疲れさまです」
「楽しかったわ」

 ○○の胸にすりすりして、レミリアは機嫌良く応えた。

「ふぁ……少し、眠いわね」
「だいぶ楽しみましたからね」
「ん。ねえ、○○。寝るときに着る浴衣もあるって聞いたんだけど」
「ああ、ありますよ」
「今度はそれ着て寝たいわ」
「ああ、はい、まあ、いいですけど……」
「何か不満?」

 いえ不満ではないのですが、と彼は手を振った。
 不満どころか、少し見てみたい気がする。だが、浴衣は随分肌蹴やすいのだが、それは考えているのだろうか。

「じゃあ、いいわね」
「今度、里で何か見繕ってきます」
「ん……浴衣は着るのも脱ぐのも、すぐ出来るしね」
「……どういう意味かわかって言ってますか?」
「○○は、どう思う?」

 悪戯っぽい口調で言うレミリアに、彼は一つため息をつき、腕を回して抱きしめた。
 わかって言っているのだろう、きっと。それはそれで、嬉しくないわけではないのだが。

「……降参です」
「あら、残念。じゃあ、休みましょうか」
「はい、おやすみなさい、レミリアさん」
「ええ、おやすみ」

 安心しきったような声で応えて、レミリアは彼の腕の中で寝息を立て始める。
 今日は寝てしまうだろうから、明日辺りに里に出ようか。そして、何か良い柄のものを探そう。レミリアに合うような、綺麗な――
 そう考えながら、彼も目を閉じた。




 厚いカーテンに覆われた窓の外では、朝霧が湖を覆い始めている。
 夜の喧騒をどこかに置いてきたような、静かな朝が始まろうとしていた。


Megalith 2010/10/24
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「あれ、珍しい。格言集か」

 図書館の整理中に、古今東西の格言集なるものを見つけ、物珍しさから彼はそれを開いた。

「どうしました? 何か厄介なのありましたか?」
「ああ、いえ、外の本です。特に何もないと思いますけど」
「んー、そうですね。特に魔力の香はしませんし、何の変哲もないものですね」

 また流れてきたんですねえ、と小悪魔も珍しそうに本を眺める。

「昔よく読みましたよ。ああ、恋愛の格言とかもあるんだ」

 ○○はぱらぱらめくりながら、楽しそうに笑う。

「お嬢様にお見せしたりします?」
「うーん、皮肉めいた格言もありますしねえ。結婚すれば後悔する、しなくても後悔する、みたいに」
「それは、確かに……」

 小悪魔も軽く苦笑する。確かに恋人に見せるようなものではない。

「ああ、でもこれはいいかな」

 開いたページには、グリルパルツァーの格言が載っていた。これなら機嫌も損ねまい。

「どういうのですか?」
「キスの格言ですね。キスする場所によって意味がある、という。手の甲が尊敬とか」
「なるほどなるほど。他にどんなのあるか見ていいですか?」
「いいですよ」

 二人して本をのぞいて、何だかんだと話し始める。





 何か話し声がする、とレミリアは踵を返した。
 ○○が今日図書館の整理をしているのは知っていたので、見つけて何か面白いものでもなかったか聞こうと思ったのだ。

「んー、難しいですねえ」
「そこはお嬢様が一番、と」
「一番と言いますか、唯一と言いますか」
「お熱いですねえ」
「何の話をしているの?」

 ひょい、顔を出すと、彼と小悪魔が何やら楽しげに話していた。

「ああ、格言集を見つけまして」
「面白いんですよ」

 仲良く話してる姿が何となく気に食わず、レミリアは○○の側に寄った。
 まあ、他愛もない嫉妬なのも理解してはいる。

「今は何を見てたの?」
「キスの格言、という奴ですね。グリルパルツァーの詩からです」
「どこにするかー、って話をしてまして」
「……誰に?」

 少し険が入った言葉を二人に向ける。

「小悪魔さんはパチュリーさんへは尊敬、でしたか」
「はい。主従なので忠誠、なのでしょうけど、尊敬の念もありますから」
「小悪魔らしいわね」

 気が削がれて、レミリアは軽く息をついた。確かにまあ、らしいといえばらしい。

「で、○○は?」

 気は削がれたものの、○○に対しての態度は変わらない。
 まあ、これくらいならわかってくれるはずだ。それくらいの時間は過ごしてきたつもりである。

「ん、ああ、はい」

 レミリアが機嫌を損ねていることに気が付いたのだろう。どうするのかな、とレミリアはぼんやりと思う。
 ○○は少し考えた後、何かを思いついたように朗らかに微笑った。

「そうですね、レミリアさん、小悪魔さん」
「何、○○?」
「どうしました?」
「実践、というのをお見せしようかと」

 暢気とした言葉の割に、内容はとんでもないことを言わなかったか。

「○○、それはどういう……っ!」

 レミリアの言葉は、途中で中断させられる羽目になった。




「手の上は尊敬」
 ○○はまずレミリアの手を取り、その甲に口付けた。目を丸くしているレミリアと小悪魔を気にした風はない。



「額の上は友情」
 何か言おうとするレミリアを抑えるように軽く髪を撫でて、額に口付けを落とす。



「頬の上は厚意」
 一度離して、頬に軽いキスをする。少しくすぐったくて、その感覚にレミリアは身動ぎした。



「唇の上は愛情」
 そのまま、抱き寄せられて口唇を塞がれる。意思とは関係なく頭がぼうっとするのを感じて、レミリアは○○の服を握りしめる。



「瞼の上は憧憬」
 口唇への少し長いキスの後、彼は瞼の上に軽いキスを落とした。その行為に我に返って、けれども身体に力は入らなくて。



「掌の上は懇願」
 抱き寄せたまま、再びレミリアの手を取り、掌に口付ける。くすぐったさに声が出そうになって、それを我慢する。



「腕首の上は欲望」
 レミリアの様子に気が付きながらも、掌から滑らせて、手首に痕を付けた。
 無論、すぐに消えるだろう。それが意味のない思考なのはわかっているが、それくらいしか頭が動かなかった。



「さてそれ以外は――」
 最後に強く抱き寄せて、○○はレミリアの肩口、いつも血を吸うあたりに軽く牙を立てた。
 びく、と身体を震わせたレミリアの耳元に、○○はそっと囁く。
「――全て狂気の沙汰」




「――という感じですかね」

 くたりとしてしまったレミリアを抱き寄せたまま、○○は笑顔で小悪魔に言った。
 レミリアの羽もくったりしていて、少し、ぱた、ぱた、と動いている。耳まで紅いのは、さすがに小悪魔には見えていないだろうけれど。

「あ、え、えーっと……ご、ごちそうさまでしたっ!」

 何故か一礼して、バタバタと小悪魔は走っていってしまった。

「……何するのよ、いきなり……人の目もあるところで」
「嫌でしたか?」
「嫌とかそういうのじゃなくて……」

 怒っているような声だが、本気で怒ってはない。照れ隠しが強いのだろう。声にあまり力がないのもその証拠だ。

「誰にどうしたいか、というのを示すにはいいかなと」
「誰も実践しろなんて言ってないじゃない」

 甘えるように嘆じて、レミリアは○○に自分から身体を寄せた。

「お気に召しませんでしたか」
「そうね、気に入らないわ」

 レミリアはむくれたようにそう言って、○○の顔を見上げる。
 何が気に入らなかったのだろうか、と首を傾げた彼に、レミリアは続けた。

「貴方からだけというのが、気に入らない」
「……ええと、それは」
「私からも、よ」

 まだ紅い顔で、レミリアはさらに顔を近付けてきた。だが、その表情はどこか楽しそうで。

「確か……口唇が愛情、よね」

 そう言いながら、そっと、レミリアは彼の口唇を塞いだ。







「……どうしたの小悪魔。息を切らせて」
「ええと、いえ、少し刺激の強いものを」
「……だいたい把握したわ。何やってるのかしら図書館で」

 部屋でやれと追い出そうかしら、とパチュリーはため息混じりに呟いた。


Megalith 2010/12/04
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「うん、こんなものかな」

 ○○は満足そうに頷くと、目の前の中の鍋をかき混ぜる。
 汲みおきの水でさっと手を洗って拭い、一つ息をついた。鍋からは温かい蒸気が上ってきている。
 満足そうにしている○○の背後から声がかかった。

「何作ってたの?」
「ああ、レミリアさん。七草粥ですよ」

 今日は一月七日。七草粥を食する日である。
 レミリアは軽く頷くと、○○の手元の鍋をのぞき込んだ。

「随分簡単なものなのね」
「そうですね。元々、正月に使いすぎた胃腸を休めるためのものらしいですから」
「……この館でその程度で胃腸を悪くするのはいなさそうだけど。人間なのは咲夜くらいだし」
「まあ、そうですけれどね」

 ○○は軽く困ったように微笑って、鍋の蓋を閉じる。
 その感情を見透かしたように、レミリアはため息をついた。

「まったく、ただ単に作りたかっただけでしょう?」
「あはは、そんなところです」

 悪びれもせず、○○は頷いた。レミリアは再びため息をつく。

「まあ、いいけどね」
「ええ。みんなで食べましょう」

 そう、楽しげにいうと、レミリアも微笑って頷いた。

「楽しみにさせてもらうわね」
「ええ、素朴なものではありますが、たまにはこういうのも」

 もう一度頷いて、レミリアは○○の手に視線を移した。

「手、だいぶ冷えてない?」
「ああ、水仕事もしましたからね」
「流水には気を付けてね?」
「それは重々承知の上ですよ」

 レミリアの言葉に、○○は微笑って応えた。そして、何かを思いついたように声をかける。

「レミリアさん」
「何? ……ひゃっ!?」

 いきなり首筋に冷たい手を当てられて、レミリアは驚いた声を上げた。

「……な、何?」
「いや、驚くかなって」
「驚くわよ、もう」

 子供っぽく微笑う様子に少し呆れて、レミリアは○○の手を包むように重ねた。

「本当に、随分冷えてるわね」
「少し暖まりましたよ」
「もう」

 むくれるように言いながらも、レミリアの表情は柔らかい。
 じんわりと指先が温まってきて、○○も頬を綻ばせた。
 しばらくそのままでいたところに、どこか呆れたような、たしなめるような声が聞こえてくる。

「……仲が良いのはよろしいですが、そろそろ場所を変えていただけませんか?」

 いつからそこにいたのか、咲夜が戸口に立っていた。





 しばらくの後、食堂に集まって一同で食事を取っていた。
 紅魔館でみんなで粥を食べるというのもなかなか奇妙な光景ではあるが、誰もあまり気にしていない。

「ああ、いいですねえ、お粥は身体が温まります」
「お外は雪?」

 食べて一息ついている美鈴に、フランドールが無邪気に尋ねる。

「ええ、だいぶ積もっていますよ」
「じゃあ後で遊びに行く!」
「羽目を外さないようにね」

 レミリアが一応釘を差す。とはいえ、どこまで効果があるやらと、あまり期待はしていない。

「七草は体調を整える効用があるけれど、それ以外にもいろいろ意味があるのよね」
「そうなの、パチェ?」
「ええ。古くはこの時期が春と呼ばれていたのもあるだろうけれど――」

 そう言いながら、パチュリーは手元に何か書き込んでいる。

「やれやれ、パチェも相変わらずね」

 そう言いつつ、レミリアも七草粥を口に運ぶ。思ったよりもずっと味があり、それでいてあっさりしている。

「……結構美味しいのね」
「それは良かった。滅多に作らないものですから少し不安だったのですが」
「まあ、季節ものだものね」

 そう言いながら、レミリアはもう一口食べる。流石に血は入っていないから直接的な栄養にはならないが、気分的には悪くない。

「咲夜、これに合うお茶はあるかしら」
「ええ、そうですね。玄米茶などどうでしょう」
「あら、いいわね」

 言うが早いか、咲夜の手によって温かい茶がそれぞれの前に置かれた。

「ああ、いいですね。温まります」
「そうね。まあ、何でこれがうちにあったのか気になるけど」
「あ、それは僕が買ってきてたんです。冬が来る前に」
「本当に貴方は自由ねえ……」

 呆れた声でレミリアは玄米茶を啜る。
 しばらくそうして食事を取っていたが、外をずっと眺めていたフランドールが、不意に目を輝かせて声を上げた。

「お姉様、雪合戦しよう!」
「何でそんなことしなきゃならないのよ」
「だって楽しそうだよー」

 見れば、庭で妖精メイド達が雪かきのついでに何か遊んでいるのが見えた。随分と楽しげで、確かに興はそそられる。

「あら、本当ね」
「サボリでしょうか、申し訳ございません、今すぐ――」
「いいわ、咲夜。どのみち雪かきなんだから変わらないでしょう」
「やったっ! 行こう、お姉様!」
「ええ、いいわよ」

 楽しげに言って立ち上がったフランドールに続いて、レミリアも立ち上がる。

「ああ、お嬢様方、私もお供しますよ」
「わーい、美鈴も一緒ー!」
「え、それはその」
「いいんじゃないですか。そうでしょう、咲夜さん」
「ええ、この際はね」

 ○○の言葉に、咲夜も仕方なさそうに肩をすくめる。

「咲夜、戻ってきたときに何か温かいものよろしくね」
「かしこまりました」
「では、僕もお供します」
「いいわね、チーム戦と行きましょうか」

 レミリアの提案に、フランドールが羽を楽しげにバタバタさせる。

「負けないよ、お姉様!」
「あら、私も負けないわよ」

 そう言う二人の後ろを歩きながら、美鈴と○○は言葉を交わしていた。内容はレミリア達まで届いていない。

「お嬢様も随分楽しそうですね」
「ええ。まあ、こういうのもたまには。冬は退屈ですし」
「そうですねえ。で、チームはやっぱり私は妹様で」
「ええ、僕がレミリアさんと」
「楽しみですねえ。ああでも、熱すぎて雪は溶かさないでくださいよ?」

 珍しい美鈴のからかいに、○○は照れたように笑った。

「善処します」
「二人とも何話してるのー? 早くやろうよー」

 玄関のところで、フランドールが手を振って二人を呼んだ。






 かくして、雪合戦が途中で雪だるま作りになったりかまくら作りになったりしたものの、無事雪かきという名の雪遊びは終わりを迎えた。
 いろいろと一段落して、湯浴みも終えた後の、レミリアの部屋。

「お疲れ様」
「かまくらなんて久々でしたよ。楽しかったです。多少冷えましたが」
「今は随分暖かそうだけど、ね」
「まあ、風呂上がりですからね」

 ベッドに並んで腰掛けて、レミリアと○○は談笑していた。

「それにしては、随分時間がかかってたみたいだけど」
「片付けも多少ありましたし。随分お待たせしましたか」
「そうね、これくらい?」

 言いながら、レミリアは○○の頬に手を当てた。ひんやりとした感覚が、頬から広がる。

「やっぱり、私の方が手が冷えてしまってるみたいね」
「ですね」

 微笑う彼の首元に、レミリアは手を滑らせた。唐突な行動に驚いて、○○は声を上げる。

「わ!?」
「ふふ、お返しよ」
「それは何とも……」

 昼の意趣返し、といったところか。ばつが悪そうに笑いながら、○○はレミリアを抱きしめた。

「本当に冷えてますね」
「ん、そうね。ね、○○。身体の中からも温まりたいのだけど」
「もう七草粥はないですよ」

 わかってるわ、と応えて、レミリアは○○の首筋に牙を当てた。
 ○○もわかっていたように、レミリアをさらに抱き寄せる。

「どうぞ」
「ええ、いただくわ」

 ちく、という痛みは、相変わらずどこか甘い。レミリアが満足するまで、彼はそのまま抱きしめていた。

「ん、ごちそうさま」
「ええ、お粗末様です」

 言いながら、○○は軽く自分の首筋を拭う。止まるまで多少の時間がかかるのは仕方がないと言えるだろう。

「○○も、いる?」
「ああ、ええと」

 レミリアは小首を傾げるように○○を見上げていた。言い様のないものに押される形で、○○は頷く。

「ええ、欲しいです」
「じゃあ、どうぞ」

 レミリアが、首筋から肩口にかけてを○○の目の前に曝す。
 いつもながらどこか扇情的なそれに動悸が早くなるのを感じつつ、○○はレミリアに牙を立てた。

「ん……っ」

 あまり飲み過ぎるのはレミリアの身体に負担をかける、と思っているが故に、○○は程々でレミリアから口を離す。

「あ……もう、いいの?」
「ええ。ごちそうさまです」

 ○○はそう、レミリアの髪を撫でる。傷口はすぐに塞がった。流石に生粋の吸血鬼は治りも早い。

「僕も治りが早くなればいいんですけどね」
「まあ、それはゆっくりと、ね」

 それよりも、と言いながら、レミリアは○○にすり寄った。意味を理解して、○○も再びレミリアを抱きしめる。

「ん、正解。温かいわ。○○は寒くない?」
「大丈夫、温かいですよ」
「なら、いいけど」

 そう言いながら、嬉しそうにレミリアは頬を寄せた。

「それでは、休みましょう?」
「はい」

 毛布の中に潜り込みながら、○○はぽつりと呟く。

「暖かいな、やっぱり」
「○○?」
「いいえ」
 ○○は軽く首を振った。

 この方の側にいられることが、七草粥よりもずっと、心と身体が温まるものなのかもしれない。
 そういう思いを飲み込んで、○○はレミリアを強く抱く。

「どうしたの?」
「いえ、何となく。こうしてると暖かくて」
「じゃあ、もっと温まってみる?」
「熱くなりそうな気もしますが」

 そう言いながら、○○は悪戯っぽく微笑うレミリアの口唇を塞いだ。



 外は雪が降り続いている。まだ、当分は寒い日が続くだろう。
 それでも、この温もりがあれば、それもまた悪くないのかもしれない。


Megalith 2011/01/12
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「随分賑やかね」
「あら、パチュリー様」
「……レミィと妹様?」
「ええ。二人でチョコレートケーキを作るのだと仰いまして」
「……それはいいけど、咲夜、貴女が手伝わないと○○さんが随分大変そうなことになってるわよ」

 そう、パチュリーはため息混じりに咲夜に告げた。



 二月十四日。紅魔館の厨房はにわかに戦場じみた騒ぎとなっていた。




「ねえ○○、これくらいー?」
「ええ、それくらいで。あまり混ぜすぎるのもよくないですから」
「咲夜、これはどうするの?」
「そちらはトッピングに使いますので……」

 苺の籠を置きながら、咲夜はレミリアに説明する。が、レミリアは頷きながらもどこか上の空だった。

「……お嬢様?」
「ああ、うん、聞いているわ」
「気になりますか?」
「別にいいわよ、○○は私のものだし」

 少し拗ねたような声で、咲夜の言葉に返す。
 視線の先は、フランドールが勢い余って調理器具を壊さないかどうか心配している○○の姿があった。

「他意はないと思いますが」
「それでも、よ」

 子供っぽいとは自覚もしているが、それでもどうしても押さえられない。
 むう、となりながらも、レミリアもボールの中のクリームを混ぜる。

「これに入れるの?」
「ええ、こぼさないように気をつけてください。そちらはどうですか?」

 型にケーキの元を流し込みながら、○○がレミリアと咲夜に尋ねる。

「そろそろ出来るわ」
「後は少し冷やしておけば良ろしいかと」

 咲夜はそう言いながら、フランドールの手伝いにも回る。フランドールは楽しそうに全部の元を入れてしまうと、咲夜を見上げた。

「これでいいの?」
「はい。それでは、焼き始めましょうか」
「こちらもよく暖まってますよ」

 ○○はそうオーブンの戸を開ける。そこに、レミリアとフランドールが型を差し入れた。

「後はこのまま少し待つの?」
「ええ、そうですね」

 ○○の声に続けて、咲夜がレミリア達に申し出る。

「では、待っている間、紅茶をお入れしましょうか」
「あら、いいわね」

 レミリアは少しだけ機嫌を直したように、そう頷いた。




 かくして、半刻ほどの後、大きなチョコレートケーキが焼き上がった。
 思いの外綺麗に焼けたそれに、少しまた騒ぎながらもトッピングをし、見た目にも可愛らしいケーキが出来上がる。
 出来上がったなら、とにかく今度はそれを食べようという流れになった。




「美味しいですよ、お嬢様方」
「そうですね! 苺をトッピングにしてるのもとても可愛らしいです」

 美鈴と小悪魔が、そう切り分けられたケーキを口にしながら評する。
 食堂にて、紅魔館の主たる面々が顔を合わせてケーキの試食と相成っていた。
 ケーキ自体かなり大きいので、運の良い妖精メイドなども口にすることが出来るだろう。

「上出来ね。あの状況を見たときはどうなるかと思ったけど」
「えへへ、パチュリーにも誉められたー」
「まあ、私達でもこれくらいはね」

 嬉しそうなフランドールの頭を、レミリアは当然のような顔で撫でている。

「お嬢様方も楽しんでいただけたようで何よりね」
「ええ、そうですが、その、んー……?」

 その様子を見ながら、○○は首を傾げている。

「どうしたの?」
「いや、レミリアさんが少しご機嫌斜めのようなので」

 ケーキを作っているときからも感じていたのだが、あまりこちらを向いてくれない。
 何より、雰囲気が少し堅い。怒っている、まではないが、どこか拗ねている雰囲気がある。

「あら、よくわかったわね」

 もう少し鈍いかと思っていたわ、と咲夜は感心したように言う。

「え、僕何かしました?」
「直接貴方が、というわけではないけど、貴方が原因なのは原因ね」
「……え、何だろう……」
「そこには気が付いて欲しいところだけれど、まあお嬢様の様子に気付いただけ及第としてあげるわ」
「それはまた手厳しい……」

 ○○は頭をかきながら、何が原因なのかと考え始める。

「わからなかったら直に訊くことね」
「了解しましたー……」

 その力ない返答を面白がるように、咲夜は軽く微笑った。





「レミリアさん」
「何?」
「僕、何かしましたでしょうか」

 部屋に帰ってからもいまいち機嫌の悪いレミリアに、○○は尋ねた。

「……気が付いてないならいいわ」
「そうもいきませんよ」

 ○○はそう言いながら、後ろからレミリアを抱きしめる。拗ねているだけで、本格的に怒っていないのはわかっていた。
 本格的に怒ったときは、部屋に入ることはおろか、姿すら見せてくれないときがあるから。

「僕が怒らせてるならなおさらです。レミリアさん」

 声をかけながらレミリアに手を伸ばすと、レミリアは意外にあっさりと腕の中に収まった。
 収まってすり寄ってきて、それでも機嫌は直っていないらしい。

「……○○のバカ」
「……返す言葉もないですが、唐突にそう言われましても」
「…………昼間」
「昼間?」

 こく、と頷いて、レミリアは○○に頬ずりして黙ってしまう。
 甘えながら拗ねられるというのも何とも珍しいが、とりあえず記憶を探る。
 昼間は、暖房と調理場用の薪を取りに行って、廊下の掃除を手伝って――

「あ、もしかして」
「わかった?」
「妖精メイドさんに、チョコを頂いたことですか?」

 廊下の掃除後に、数人の妖精メイドに呼び止められ、チョコレートを渡されたのだった。
 別に他意はなく、ただお祭りに参加したかっただけのようだったが。

「そのこと、ですか?」
「……だって、嬉しそうにもらってたんだもん」

 むう、と拗ねたように腕の中でレミリアが呟く。

「そういうわけではなかったんですが。それに、僕もらったあれは食べてないですし」
「え?」
「そういうお祭りに参加したかった、とのことでしたから、あの後ホットチョコにしてメイドさん達にあげたんですよ」

 美味しそうに飲んでましたよ、と○○は告げた。

「じゃあ、もらったけど、食べてはないの?」
「もらった、といえるかどうかも怪しいのですけど……」

 食べてないしなあ、と苦笑気味に微笑う。

「……じゃあ、甘くした方が良かったかしら」
「え?」

 疑問の声には応えず、レミリアは○○に小さな箱を渡してきた。

「……頂いても?」
「うん。ただ、気に入るかどうかわからないけど」

 その言葉に首を傾げながら、○○は箱を開け、中のチョコレートを一つ摘んで口に入れる。

「……ああ、なるほど」
「……甘いの食べた後なら、これでいいと思って」

 拗ねた口調に、違う心理も混じり始めていた。○○は微笑んで、口の中のチョコレートを味わう。
 苦味が口の中に広がった。ビターチョコとしても、かなり苦い方に入るだろうか。

「ん、これはこれで」
「……甘党じゃなかったの?」
「甘党ですけどね、こういうのも嫌いじゃないですよ」

 ただ、と、レミリアをさらに抱き寄せながら言う。

「甘いのはやはり好きですので」
「……うん」

 目を閉じたレミリアに、○○は口付ける。苦いだけでない感覚がして、機嫌を良くしたように彼はレミリアの口内を味わった。

「……苦いわ」
「僕は随分と甘く感じましたけどね」
「……じゃあ、私も甘く感じるまで、ちょうだい」

 強請るように腕を伸ばしてきたレミリアを抱きしめて、では、と彼もまた一つチョコレートを口にした。その口唇を舐めて、レミリアは微笑う。

「ん……まだ、苦い」
「では、何度でも」

 口唇を塞ぎながら、どうやら随分と甘い夜になりそうだ、という確信を、彼は持つことになった。
 それはどうやら、レミリアも同じことを思っているようで。
 それでもいいか、という想いを抱きながら、彼はまた、チョコレートを、今度は口移しで渡した。
 苦そうに少し顔をしかめたレミリアの表情が、それを感じなくなるまで。
 さて、それはチョコレートがなくなったときか、それともその後か。
 甘さに痺れそうになりながら、彼はそのときを楽しみに待つことにした。


Megalith 2011/02/28
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「っ、くしゅん」
「どうして貴方が風邪引くのよ……」
「どうしてでしょうねえ……」

 心底呆れた声と、それに同意する声。
 いくら雪かきで雪まみれになったとはいえ、風邪を引くほどとは誰も思いもしなかったのだが。

「まさか僕も風邪を引くとは。熱が出たのなんて何時以来だろう……」
「少なくとも、私の眷属になってからは初めてね」
「そうですね」

 ○○は弱々しく微笑った。レミリアは深々とため息をついて、彼の額の上のタオルを手に取る。

「とりあえず、薬師を呼びに行かせてるから」
「大丈夫だと思うんですけどね」
「それでも、よ。前代未聞なんだから」

 この時期に熱くて目が覚めるなんて思いもしなかった、と、レミリアは呆れたまま言う。

「とにかく、今は大人しくしていなさい。いいわね?」
「はい……」

 力のない声で、彼は頷いた。






 往診に来てくれた永琳は、やはり呆れたように診断を下した。

「……風邪ね」
「それ以外言いようがないのね」
「ないわ。ただ……完全に精神的な風邪ね」
「……すみません、永琳さん、意味がよく」

 ごほ、と咳込みながら、彼は尋ねる。

「前に、今日みたいに雪まみれになって風邪を引いたことは?」
「え? ああ、ありますね……懐かしいな」

 ○○は目を細めると、少し懐かしげな表情をした。

「雪がたくさん積もるのが珍しい地域でしたから、大雪が楽しくて。ついつい遊びすぎて……だいぶ昔の話です。まだ子供でした」
「なるほど。では、それが原因ね」
「薬師、意味がわからないわ」

 レミリアの不満げな抗議に、永琳は一つ頷いて説明を始めた。

「昔の追体験ということよ。こうしたときに風邪を引いた、という思いが精神に強く作用して、というところかしら。だから寝てれば治るわ」
「……ああ、なるほど」

 ○○は軽く微笑って、一つ頷いた。

「……懐かしいですね、言われてみれば。こんな風に風邪を引くのも、寝込むのも」
「放っておくしかないの、薬師?」
「一応手はあるわ。当時の思い出からなら、それ相応の薬を出せばいいから……」

 往診用の薬箱を開けて、永琳はいくつかを取り出す。

「こんなものかしら」
「……うわー、何か懐かしいものが見えます。というかその水薬まであるんですか」
「あら、ビンゴ? じゃあこれでいいわね」
「それ甘ったるくて嫌いだったんですけど」
「薬師、それでお願い」
「了解」

 殺生な、という彼を無視して、レミリアと永琳は薬を決めていった。





 しばらくの後、永琳を見送ったレミリアは、彼の元に戻ってきていた。

「眠ってる?」

 寝息だけが返事をしてきて、レミリアは仕方なさげに微苦笑する。
 ベッドに腰掛けて、彼の額を撫でた。まだ熱いが、少しマシになっただろうか。
 ずり落ちていたタオルを水に浸して絞り、再び額の上に置いてやる。

「……この私がこんなことをするなんてね」

 くすくすと笑いながら、それも悪くないと思う。そう思うのは、彼に変な感化を受けたからだろうか。
 しばらく笑った後、レミリアは永琳との会話を思い出した。




『彼は甘えているのね』
『甘えている?』
『そう。精神的な追体験は、無意識に子供の頃を思い返しているのでしょうね』
『……家族と一緒に居た頃の?』
『きっとね。まあ、人間だったからこそかかったとも言えるわ』
『……懐かしいのかしら』
『私達にはわかり難いけれど、きっと』

 永琳の頷きに、レミリアは軽く息を吐く。

『わかった。感謝するわ、薬師』
『いいえ、当然よ。では、私は里も回るから』
『ああ。診察代と薬代は咲夜から受け取っておいて』
『ええ、そうさせてもらうわ』

 お大事に、と言って去っていく永琳を見送った後、レミリアは、さて、と一つ頷いて、踵を返した。




「私にできることは……ないも同然だけど」

 レミリアはそう呟いて、ああ、と何かを思い出すように微笑む。

「懐かしさは伝染するものなのかもね」

 それも悪くない、と言いながら、彼女は一つ息を吸い込んだ。



「――――nd」
「……歌?」

 ○○は薄く目を開けて呟いた。視界は未だぼんやりしている。

「……ああ、起こしちゃった?」
「レミリアさん。今の、歌は?」
「子守歌よ。煩かった?」
「いえ」

 彼は首を振り、額のタオルを自分で持ち上げつつ呟いた。

「綺麗な歌です。言葉はわからないけれど」
「西洋のものだからね。昔はフランにもよく歌ってたのよ」

 レミリアの言葉に、懐かしそうなものが混じる。

「○○も、気に入ってくれた? 私はそんなに、歌が上手いというわけではないけれど」
「気に入りました。レミリアさんの声も好きですよ」
「ありがとう」

 そう照れたように微笑ったレミリアに、○○も微笑んで、口を開いた。

「よければ、続けてくださいませんか」
「ええ」

 そして、レミリアは再び歌い始める。



 Schlafe, schlafe, holder, suser Knabe,
 leise wiegt dich, deiner Mutter Hand;
 sanfte Ruhe, milde Labe
 bringt dir schwebend dieses Wiegenband――



「○○?」

 レミリアの声に、返ってくるのは穏やかな寝息だけだった。

「……よく眠ってるわね」

 頭を撫でて、レミリアは優しげに微笑む。そして、枕元のベルを軽く揺らした。

「お嬢様」
「咲夜。ご苦労様」

 咲夜が持ってきた新しいタオルを受け取り、レミリアは○○の汗を軽く拭った。

「咲夜、私ももう休むわ」
「はい。お召し物も準備しています」
「相変わらず、用意がよくて助かるわ」

 咲夜は瀟洒に微笑んで一礼した。満足げに頷き、レミリアは咲夜に手伝わせて服を着替え始める。

「懐かしい歌でしたわ」
「あら、聞いていたの?」
「聞こえてきたのですよ」
「咲夜が来た頃にも、歌ったことがあったわね」

 ええ、という咲夜の言葉にも、懐かしいものが混じる。

「子供に歌って聞かせるもの、と仰っていた気がしますけれど」
「○○を子供扱いしてる、ってこと? そういうつもりではなかったのだけれど。ただ、これがいいと思っただけ」
「ええ、きっとそうなのでしょう」

 咲夜はそう言って、レミリアの服のボタンを留めた。
 レミリアは一つ頷き、咲夜に告げる。

「じゃあ、咲夜、後よろしく。終わったら貴女も休みなさい」
「かしこまりました。それでは、おやすみなさいませ、お嬢様」
「ええ、おやすみ、咲夜」

 一礼した咲夜が消えるのを待って、レミリアは○○の隣に潜り込んだ。
 まだ身体は熱いが、だいぶ落ち着いてはきているようだった。明日にはよくなるだろうか。
 よくなったら、また暇つぶしに付き合わせよう。何がいいだろうか。昔の話も良いかもしれない。彼の歌を聴くのもいい。
 そういろいろと考えながら、レミリアも眠りに落ちていった。 


Megalith 2011/03/25
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「眠いわ」
「まあ、春眠暁を覚えず、とは言いますしね」
「夜明けまではだいぶ時間があるけどね」

 レミリアは小さく欠伸をして、青年にぽすと寄りかかった。

「んー、温かい」
「まあ、温泉に入ればだいぶ長い時間温もりますからね」

 レミリアさんも温かいですよ、と○○はレミリアの髪を撫でる。

「ふふ、たまにはいいものね」
「霊夢さんは呆れ顔でしたけどね」
「あら、いつものことじゃない、神社に妖怪が集まるのなんて」
「きっとそれが問題なんですけどねえ」

 彼の言葉にくすくすと笑って、レミリアは瞳を眠そうに瞬かせた。

「眠いわ」
「そうですね、そろそろ休みましょうか」
「じゃあ、連れてって」

 腕を伸ばすレミリアに頷いて、優しく抱き上げる。いつもながら軽い。

「春の夜に、桜を見ながら温泉に入って、その温もりを抱きながら春眠に現を抜かす、なんて、この国のこの時期ならではね」
「そうですね。そういった風流があることは僕も嬉しく思いますよ」

 レミリアはもう一度微笑って、重たげな瞳を閉じた。余程眠いのだろう、と彼は落ちないように気を付けてティールームのドアを開ける。
 まだ夜明け前なので、妖精メイドたちも眠っているのか、気配がない。静かな、まだ少し春の夜の冷えが残る時間。
 静かに廊下を歩きながら、外が冷える分腕の中の温もりが強く感じられて、そう思った自分に呆れるように彼は息を吐いた。

「……何考えてるのやら」

 そう、苦笑気味に息をついたそのとき。
 はむ、と音がしそうなほど緩やかに、レミリアは彼の首筋に噛みついてきた。
 普段血を吸うのとは全く違う噛み方。ただ甘えているときにだけ、こうした噛み方をしてくるのだった。

「……完全に寝てしまいましたか」

 小さく呟いて、彼はレミリアを丁寧に抱きなおした。こうした甘噛みは、余程リラックスしているときだけする行動と知ったのはいつだったか。
 以前、甘噛みをするのはどうしてか聞いたのだが、顔を真っ赤にして「そんなことしてない」と怒られたことだけが印象に残りすぎている。

「……ああ、そうか、パチュリーさんとフランさんに聞いたんだっけ」

 声に出さず笑って、彼は思い出す。




 吸血鬼が甘噛みをするのはどういうときなのか。血を飲むというのとは違うようだけれど。
 その問いをしたとき、パチュリーはくすくす笑いだし、フランドールは目をパチパチさせていた。

「余程安心してるのね、レミィは」
「お姉様がそこまでするなんてー……私にはそういうこと出来る人なんていないもん」

 そう言いながら、フランドールは羽をパタパタさせた。面白そうな、少し羨ましげな様子だった。

「ええと、全くわからないのですが」
「吸血鬼が甘噛みをするのは、信頼し、親愛する相手だけよ」
「でも、いくら大事な人でもやっぱり恥ずかしいよ」

 フランドールはそう笑みを浮かべる。

「寝てるの見られるよりもずっと恥ずかしいし、そんなに安心してるって思われるのも」
「それは吸血鬼の矜持なのかしらね。まあとにかく、そういうことよ」
「……安心してる、と」
「それよりもっと大きな信頼、信用。そして甘え。そうね、レミィはそこまで甘えることは滅多にないから」
「だって、お姉様はお姉様だから」

 フランドールはそう答えになるようなならないようなことを言いつつ、いいなー、と呟いていた。





 部屋への道を急ぎながら、思い返したことに、小さな呟きを漏らす。

「絶対の信頼か、それは嬉しい限り」

 彼は笑みを浮かべたまま、少しだけ微妙な顔もする。

「咲夜さんにも絶対の信頼を置いてるからなあ」

 まあ、主従であるからにはそれくらいはなければならないものなのだろうけれど。

「あら、私にもしたことないわよ?」
「いつからそこにいましたか咲夜さん」
「そろそろ休まれる頃だと思ってお部屋のメイクをしていたの。ちょうど良かったみたいね」
「流石です」

 その読みと手際の良さに内心で感嘆しつつ、彼は片手で部屋の扉を開けた。

「それでは、休みます。おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」

 咲夜に一礼して、レミリアを抱いたままベッドに向かう。

「……さて、僕も休みますかね」

 いい加減眠い。春眠暁を覚えず、とは何も人間のためだけにあるものではないのだな、と妙な納得をする。
 きゅ、と服を握ってくるレミリアに少し微笑んで、彼は起こさないよう気を付けながら、ベッドに寝かせたレミリアの隣に横になった。

「おやすみなさい、レミリアさん」

 彼はそう小さく囁くと、目を閉じる。睡魔は思った以上にすぐにやってきた。




 翌日夕方。図書館にて。

「……そんなこと訊いたの?」
「ええ。貴女がそんなに無防備な姿を見せるなんてね」

 パチュリーはくすくすと微笑いながら、レミリアの表情を伺う。
 しばらく紅くなったり憮然としたり表情を変えていたレミリアは、悔しそうにぽつりと呟いた。

「……○○もやってるのに」
「……え?」
「○○も! 寝てるとき偶に私に甘噛みしてくるのに!」

 真っ赤になりながら、レミリアはそう喚く。自分だけばらされたことが余程悔しかったのか恥ずかしかったのか。

「……はいはい、ごちそうさま。それなら彼にはっきり言いなさいな」
「だって○○、そういうのに鈍いんだもの」
「人間上がりだからそういう感覚が薄いのかもね。けれど、いろいろ吹き込んだからそれなりに恥ずかしがってくれるとは思うわよ」
「何を吹き込んだのよパチェ」
「私だけじゃなくて妹様もね」

 答えになっていないその言葉に、ぴし、とレミリアは固まる。

「え、何それ、何でフランも知ってるの?」
「○○さんが訊いてきたときに妹様もいたもの。不可抗力よ」
「……帰ってきたら殴る」
「程々にしてね」

 耳の先まで紅くしている親友の隣で砂糖抜きの紅茶を飲みながら、今日彼が帰ってきた後は随分賑やかになるだろうな、と他人事のようにパチュリーは思っていた。





 余談として、自分も甘噛みをしているのだと知らされたときの彼の照れ様と慌て様は見物だったとか何とか。
 とにかく、紅魔館は今日も穏やかに甘い時間を過ごしていくのだった。


Megalith 2011/04/26
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 随分と突き抜けた青空だった。
 はて、今は梅雨の真っ直中だったはずだが、と首を傾げる。
 里から紅魔館への道の途中。買い出しの品を持って、帰っている途中、のはずだ。
 梅雨時は雨に降られると面倒だから、他の誰かに買い物を任せていたはずなのだけれど。

「どうしたの? ぼうっとして」

 傍らから声がする。恋人の声にはっとなって、青年は一つ首を振った。

「いえ、雲一つ無い天気だなあと思って」
「もう、それはいいけれど、貴方もあまり日に当たるのはよくないんだから、気を付けてね」

 怒ったような心配したような声でそう言って、レミリアは日傘越しに空を見上げていた。

「でも、確かにそうね。私達には決して、いい天気、ではないけれど」
「まあ、それはそうですが」

 彼は笑う。吸血鬼にとって晴天は良いものではない。それでも、人間だった頃の名残としてか、彼は未だに晴天が嫌いではなかった。

「随分昔から、貴方は晴れが好きよねえ」
「そうですね」

 そう頷いて、彼は傍らのレミリアを見る。
 出会った頃から考えると、随分背が伸びたものだ。妖怪は全く成長しないのかとも思っていたが、ある程度までは成長するものらしい。
 髪も長く伸ばして、深窓のお嬢様と言っても全く遜色無い姿になった。ただ本人は相変わらず我儘を言い、日々を楽しんでいる。
 それこそがレミリアの魅力であるから、彼としては嬉しい限りではあるのだけれど。

「……随分、髪も伸びましたね」
「ええ、そうね。これはこれで悪くないわ」

 くるり、とレミリアは身を翻す。
 すらりと健康的に伸びた手足も、あの頃よりも高くなった、それでも彼の肩ほどまでもない背の丈も、長く伸びた美しい髪も、あの頃とただ一つ変わらない表情の豊かさも。
 その全部が合わさって一つの美術品のように見える。それを独占できるというのは、とんでもない幸せ者なのだろう。

「ふふ、昔でも思い出した?」
「ええ」
「あの頃はまだ髪も短かったものね。ねえ」

 レミリアは再び彼の隣に寄り添うと、悪戯っぽく尋ねてきた。

「髪の短い私と、今の髪の長い私。どちらが好き?」
「そんなこと」

 そんなこと決まっている。答えは一つだけなのだから。レミリアの髪に手を伸ばし、答えを口にしようとして――






「……なさい、そろそろ起きなさいよ」
「う……」

 声に、彼は目を覚ました。軽く頭を振って、周りを見回す。時計は夜の十時、亥の刻辺りを指していた。

「ああ、おはようございます、レミリアさん」

 いつものレミリアがそこにいた。いつもの、というと変な表現だが、とにかく、小柄な体格の、髪の短い、彼の大好きな恋人の姿。

「おはよう、というには変な時間だけどね。『夜昼』逆転してるんじゃない?」
「梅雨前に結構里に出たから、それでかもですねえ……」

 一つ欠伸をして転寝していたソファから身を起こし、外の雨の音に耳を澄ます。相変わらず雨が強い。
 この時期にしっかり雨が降らないと作物の生育にも関わるのは確か、ではあるが。

「随分楽しそうに寝ていたけれど、何か夢でも見てた?」
「ええ、まあ、ちょっと変わった夢を」
「どんな夢?」

 暇つぶしにはちょうど良いと思ったのか、彼の隣に座って、レミリアは尋ねてきた。

「随分と未来の夢、だと思います。レミリアさんと散歩している夢です」
「いつもしてるじゃない、それくらい。どうして未来だとわかったの?」
「ああ、その……レミリアさんの背と髪が随分伸びていたので」
「そう? どれくらいの背かしら」

 レミリアはぴょんと床に降りると、彼の前に立った。
 レミリアから彼の顔を上からのぞき込むには、まだこうして、レミリアが立った状態と彼が座った状態ということが必要だった。
 それもソファだからできるようなもので、ベッドなどになると、レミリアが彼の膝の上に乗っても目線が合う、くらいなのだ。

「そうですね、もう少し……これくらい、ですか」
「あら、随分伸びるのね。そうしたら、貴方の目線に少しは追いつけるかしら」
「そうですね、少しは」

 冗談っぽく笑って、彼はレミリアの髪に手を伸ばす。さらさらとした感触は、いつ触れても心地よいものだ。

「そういえば、髪も伸びてたって言ってたわね」
「ええ、結構長く」
「そういうのも悪くないかもね……ねえ」

 レミリアは悪戯っぽく微笑って、彼に尋ねてくる。

「今の髪の短い私と、夢に見たっていう髪の長い私。どちらが好き?」
「そんなの、決まってるじゃないですか」

 彼は髪を撫でたまま、夢の中では言いそびれた答えを告げる。

「どちらも好きに決まってます。だって、どちらもレミリアさんなのに」

 その答えに、レミリアは目を瞬かせて、花が咲くような嬉しげな笑みを浮かべた。

「ふふ、合格」

 そのまま、彼の胸元に飛びついてくる。余程満足のいく答えだったのか、羽がパタパタと動いている。どうやら照れ隠しもあるらしい。

「期待に応えられたようで何よりです」
「ええ。そうね、よく出来ました」

 そう言って、レミリアは少し紅くなった顔を彼に向けた。

「だから、これはよく出来たご褒美」

 そう、彼の口唇に、軽く口唇を触れさせた。

「今はこれだけ。後で、もっとあげるから」
「それは……楽しみにさせていただきます」

 その言葉が、少し残念そうにも聞こえたのか、レミリアは楽しそうに微笑った。

「ええ、後で。今はお茶も待たせてるしね」

 その言葉に、彼はようやくここがティールームであり、お茶の準備をするために咲夜が入り口のところで控えていることと、呼ばれてきたらしいパチュリーが呆れ顔で立っていることに気が付いたのだった。





「お茶に呼ばれてラブシーンを見せつけられるのはいい加減勘弁なんだけど」
「ごめんなさい、パチェ」

 謝りつつも全く悪びれない親友の様子に、パチュリーはため息をついた。

「まったくもう、夢一つでそれだけいちゃつけるのなら、本当に世話がないわね」
「いいじゃない、ちょっと嬉しかったんだし」
「ちょっと、ねえ……」

 パチュリーは親友の背に視線を向けた。羽が上機嫌を表すように、ぱたぱたと楽しげに躍っている。
 指摘すると藪蛇になるのは見えたので、何も言わずに紅茶にミルクを注いだ。砂糖はこの際必要ない。

「で? 今日もチェスの手ほどきかしら」
「ええ、僕とレミリアさんで一局やるので、終わった後に指摘等々お願いします」
「まだ私の方が強いものね」
「そのうち追いついてみせます」

 彼の負けず嫌いがわかったのもつい最近なのだが、それはそれとして、梅雨の暇つぶしとして二人の吸血鬼はチェスを楽しんでいるようだった。
 その二人に振り回されつつも、パチュリーもまたそれを、一つの楽しみにしていた。





「しかし、夢で、ねえ……レミィの能力の一端が彼にも影響を及ぼしているのかしら」

 チェスを見ながら、パチュリーはそう小さく呟いた。チェスに熱中しているレミリアと彼には届いていないようだが、近くにいた咲夜には聞こえたようで、問いが返ってくる。

「それは……何か問題になるでしょうか?」

 それに、パチュリーは軽く首を横に振った。

「大丈夫じゃない? 彼なら悪用もしないだろうし、第一レミィに対してしか反応しそうにないもの」
「それは、それで……」

 微かに苦笑した咲夜に、同じような表情をしたまま、パチュリーは紅茶を口に運んだ。

「周りに害がない分はいいでしょう。まあ、糖分的な被害は山のように出そうだけどね」
「食事に砂糖控えめのものが多くなれば、健康には大変よろしいかと」
「精神的には糖分取りすぎになりそうだけどね。まあ、それもまた、ということかしら」

 そう、微笑んで、ああ、悪手を指したな、とパチュリーはチェスの試合を眺め始めた。



 外はしとしとと雨が降っている。まだ梅雨明けには長いが、紅魔館はその暇つぶしには事欠かないのかもしれなかった。

Megalith 2011/06/11
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 日差しが強くなった夏の幻想郷。
 紅魔館の数少ない窓からその陽射しを見やって、青年は一つため息をつく。

「暑いなあ……台風がすぎてから一気に暑くなったなあ」

 少し前に一嵐あった後、一気に気温が上がった。本格的な夏、という気配である。
 廊下に射し込む陽射しはほとんどないものの、熱を完全に遮断することは出来ない。館内の気温は高めではある。
 夜も結構暑いしなあ、と、彼はまだ眠っている恋人のことを想った。
 毎晩こう暑いと、そろそろいらいらがたまってくる頃だ。
 解消方法に何かないかな、と考える。また何か冷たいものでも――

「……そうだ」

 何かを思い付いたように、彼は厨房の方に足を向けた。




「…………また何か作ってるの?」
「ああ、レミリアさん。はい、簡単なものですが」
「アイスだってー」

 先に来ていたフランドールが、彼の手元をのぞき込んで楽しげに羽をはためかせている。

「材料が心配だったのですけど、幸いにして手に入りまして」

 レミリアも、そう言う彼の手元をのぞき込む。
 甘い香りのする、固体と液体の中間にあるようなものを、彼は丁寧に混ぜていた。
 果実が混ざっているのか、綺麗な赤や青が白いアイスの中にマーブル状の模様を描いている。

「後もう少しだけ待っていていただけますか。後は一冷やしだけですので」
「ちょっと味見させて」
「あ、私も」

 フランドールとレミリアが、指を伸ばしてアイスをすくい、一舐めした。甘く冷たい感覚が、口の中に広がる。

「美味しい!」
「そうね、冷たくてとてもすっきりする甘さ」
「それは良かった」

 まだ物欲しそうにする二人を制止しつつ、彼は手にしたボウルに再び果実を再び適当に混ぜて、厨房の氷室に入れた。

「もっと食べたかったのに」
「少し待ってくださいね」

 不満そうなフランドールを宥めて、彼は微笑う。

「前のかき氷といい、貴方はいろいろ知ってるのねえ」
「かき氷もまた作りましょうかね。今回のはふとレシピを思い出して」

 そうレミリアに応えながら、どうぞ、と、彼は二人の前にアイスティーのグラスを置いた。

「あれは何から作ったの?」
「生クリームとヨーグルトに砂糖を入れたものです。それて段階的に冷やしていくだけの簡単なものですよ」

 昔作ったのを不意に思い出しまして、と応えて、彼は自分の分のアイスティーも作って一口飲んだ。

「手の込んだものではないのですが、やっぱり冷やす時間がですね」
「咲夜に頼めば早かったんじゃない?」
「……それもそうでしたね」

 フランドールの指摘に、全く念頭になかったらしく彼は小さく呟いて頷いた。

「まあ、待つというのも悪くないけどね。貴方は相変わらずそういうところが抜けてるわよね」

 くすくす、とレミリアに笑われ、彼は誤魔化すように頬をかいた。

「……もうそろそろ出来上がります。結構作りましたし、みなさんで食べますか?」

 照れを隠すようなその声に、そうね、とレミリアは微笑んで返した。






 テラスで涼みながら食べる、ということになり、パチュリーも交えてアイスの試食会になる。

「非常に効率的よね」

 アイスを口に運んで一口味わって、パチュリーが評する。

「そう?」
「ええ。果実によるビタミンの補給も乳成分による栄養補給も出来る、かつこの暑い時期に身体を冷やすにもよい」
「……そんな難しいこと考えながら食べるものかしらねえ……」

 果実の甘酸っぱさとアイスの甘さを楽しみながら、レミリアは呆れた言葉をかける。

「美味しいー。おかわりある?」
「はい、妹様」

 咲夜が、フランドールの求めに応じて新しい器にアイスを盛りつける。
 彼はその一連を楽しそうに見つめていた。例によって、作ったところまででだいぶ満足なのだろう。

「……○○」
「はい?」
「はい、あーん」

 絶対挙動不審になるとわかっていて、レミリアは彼に無茶を振った。
 スプーンにアイスを乗せて、彼の前に突き出したのだった。

「っ!?」

 はたして、目を白黒させながら彼はそのスプーンを見つめる。

「食べないの?」

 そう首を傾げるレミリアとスプーンをしばらく交互に見て、観念したように口を開いた。

「……いただきます」
「ええ」

 ぱく、と観念しきった表情の彼がアイスを口にする。

「……ああ、思ったより美味く出来ましたか」
「ええ、美味しいわ」
「これ、かき氷に添えても美味しいんですよね。次はそうしましょうか」
「あら、いいわね」

 またシロップを作って、と楽しそうに言う彼を、レミリアは楽しげに見つめる。

「……レミィ、いくらアイスが冷たいとは言え、気温を上げないで頂戴」
「……咲夜、咲夜も熱いでしょ。一緒に食べよう?」

 パチュリーとフランドールが、それぞれの表現で自身の心情を表した。
 それに対して、我に返ったようにレミリアが抗議する。

「二人とも何よ」
「言われるようなことをする方が悪いわ」
「そうそう。ね、咲夜」
「……それでは、ご相伴に預からせていただきます」

 咲夜はそう、どちらに同意するでもない微笑みでフランドールの要請に応えた。







 十分に涼んで、彼はレミリアと、彼女の寝室に戻ってきた。
 決して自分の部屋ではないのだが、もう既にここ以外で休む方が珍しい。

「また作って欲しいわね」
「材料さえ手に入ればいつでも。ただまあ、今日のようなことは程々にしてもらえると」
「あら、嫌だった?」
「嫌ではないんですが……さすがにその、照れるので」

 頬をかいた彼を見て、レミリアは先にベッドに座ると、枕を抱えた。

「……ね、ああいうのを作るのは懐かしい?」
「懐かしいです。このどこか懐かしい感じを、貴女と共有できるのなら、もっと嬉しいですよ」
「……言いたいことを先回りされた気がするわ」

 むう、とむくれて、レミリアは枕にあごを乗せたまま彼を見上げてきた。

「何となくわかりますよ。もうどれくらいの付き合いだと」
「……ん、そうね」

 レミリアはそう頷いて、身体を起こして彼の方に身を近付ける。
 目を閉じたのを見て、彼は軽く口付けを落とした。

「休みましょうか」
「ええ」

 優しく抱きしめると、レミリアは甘えるように胸に擦り寄った。

「貴方といると、本当に退屈しないわ……」
「それは光栄ですね」
「永い時間の中では、退屈しのぎは大事よ」

 レミリアはそう言いながら、軽く彼に口付ける。

「貴方は、スパイスとしては少し効きすぎだけれど」
「そうでしょうか」
「そうよ」

 ぽす、とベッドの上に彼を倒して、その上に乗ったまま、レミリアは楽しそうに微笑う。

「……だから、これからも楽しいことを、もっと教えてね」
「頑張ります」

 嬉しそうに揺れる羽を撫でて、彼もまた笑った。
 しつこく撫でていたら、くすぐったい、と、手を羽ではたかれてしまったが。

「残念」
「くすぐったいのわかっててやってるでしょう、もう」

 レミリアは少し顔を紅くして、彼の腕の中におさまる。

「休みましょう、夜が明けるわ。夏の陽は長いのだから」
「そうですね」

 今度は髪を撫でる。気持ちよさそうに目を細めて、羽を畳んで、レミリアは彼に囁いた。

「大好きよ」
「はい、僕も」

 そう言いながら、彼はレミリアに口付けを落とした。




 陽が長いなら、一緒にいられる時間も長い。
 この一時一時を大切に楽しみながら、今年の夏も過ごしていこう。


Megalith 2011/08/10
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 冷え込む秋の朝方。

「いきなり寒くなったなあ」

 呟きながら、青年は台所に向かっていた。
 紅魔館の廊下の窓から見える空も、だいぶ澄んでいる。
 日が昇るのもだいぶ遅くなった。まだ白む様子さえ見えない。
 一つ息を吐く彼に、声がかかった。

「野分けが過ぎたものね」
「レミリアさん」
「一人で寝床を抜け出して、どうしたの?」

 言いながら、寝着のままの姿で彼の隣に並ぶ。

「何となく、寝付けなくて」
「まだ暗いからかしらね」

 レミリアも、視線を遠くに投げる。少し前までは、もう日が昇っていた時間だった。

「もうすぐまた里の仕事も忙しくなるので、幾分かは身体を休めないといけないのですが」
「そうね、秋の陽も強いもの」

 少し心配そうな光が、その紅い瞳の中に揺れる。そっと髪を撫でて、彼は微笑んだ。

「大丈夫ですよ、無理はしませんから」
「それなら、いいんだけど」

 撫でられるままになりながらも、レミリアの羽はぱたぱたと動いていた。嬉しいのだろうと、彼の頬がさらに綻ぶ。
 その表情で自分の感情が読みとられたことに気が付いたのか、少し膨れてレミリアは手を離させた。
 少し名残惜しく思いながら手をおろす。そうすると、今度はその腕に手を絡めてきた。くっついてはいたいらしい。

「で、どこに行こうとしてたの?」
「眠れないので、ちょっと飲み物でもと」
「血は流石に咲夜がいないとどうしようもないわよ?」
「栄養を補給したいわけではないので」

 よろしければ一緒に、という彼に、レミリアは嬉しそうに頷いた。





「甘い匂いがするわ」
「これくらいがいいんですよ」

 小半刻後、台所のテーブルで、カップを手にしているレミリアと青年の姿があった。
 正確にはレミリアだけが椅子に座り、彼は立ったままなのだが。

「熱いので気を付けてくださいね」
「火傷なんてしないけどね」

 言いながらも、ふうふうとレミリアはカップの中に息を吹きかけている。

「眠れないときにはいいんですよ」
「ホットミルク、ね。貴方は甘いもの好きだものねえ」

 レミリアもそうなのだが、彼はあえて口にはしなかった。

「甘いものは心を落ち着けますからね」
「そんなに常にさざ波立っているようには思えないけど?」
「……結構、穏やかじゃないこともありますよ」

 何とも言えない表情で、彼はそう呟いた。
 こちらの心を乱す最大の原因に言われてしまっては、微妙な顔をするしかない。
 まあ、乱されることを同時に楽しんでもいるのだから、文句などありはしないが。
 自分の分のホットミルクを飲みながら、行儀悪くテーブルに肘を突いて、彼はレミリアを見つめていた。

「なに?」
「いえ、特には」
「そう」

 そう言いながら、レミリアはこくこくとミルクを飲んでいる。
 何となく可愛らしくて、少し目を細めた。そして、再びマグカップを傾ける。
 そうしているうちに自分の分を飲んでしまったらしいレミリアが、こちらを向いた。
 何か聞かれるのかと、マグカップを置いた、その次の瞬間。

「んー……ねえ」
「はい? ……っ!?」

 身を乗り出したレミリアに唐突に口付けられて、彼は目を白黒させた。
 口の中に甘い味が広がる。ちろ、と塞がれた口唇に何かが触れた。レミリアの舌だと気が付くのには時間はかからなかった。
 まだどこか不慣れな舌つきで、いつも彼がするように、彼の舌を絡めとろうとしてきているのだった。
 そうはさせじと、彼は逆にレミリアの舌を絡めとる。

「ん、んんっ……!」

 そのまま、抱き寄せてその口唇の甘さを堪能した。
 少しだけ驚いたように身動ぎしたものの、レミリアはそのまま大人しく身を委ねてくる。

「ん、んん……」

 ほとんど椅子から浮いてしまったような形のレミリアを、彼は強く抱き寄せてその口唇を何度も奪う。

「ふ、あ」

 少し息を乱しながら離れて、彼は元の通りにレミリアを座らせる。
 微かに瞳を潤ませていたレミリアも、少し後にはいつもの調子に戻っていた。
 少し残念そうな、でもどこか嬉しそうな声色で拗ねてみせる。

「もう、折角驚かそうと思ったのに」
「十分驚きましたよ」

 そう? というレミリアの口唇をもう一度塞いで、彼は仕方なさそうに微笑んだ。
 残りのホットミルクを喉に流し込む。もうかなり温くなってしまっていて、何とも言えない甘さになっていた。
 微妙な表情をしたこちらに、悪戯っぽい声がかかる。

「よく眠れそう?」
「……逆に目が覚めてしまった気もしますが」

 憮然とする彼に、くすくすと微笑ってレミリアは腕を伸ばしてきた。
 求めに応じて、そっと抱き上げる。

「合格。じゃあ、ご褒美をあげる」
「ご褒美ですか」
「ええ」

 彼の頬に口付けて、レミリアはそっと囁く。

「貴方が眠るまで、私が付き合ってあげるから」
「……それは、どういう意味で?」
「きっと、貴方が思っている通りよ」

 悪戯っぽく、だが少しだけ頬を染めて微笑むレミリアに、ずるいですね、と困ったように告げて、彼は部屋へ向かう。

「ね」
「はい」
「……大好きよ」
「……僕もですよ」

 レミリアの額に口付けを落として、青年はそう微笑った。






 寒い日には、温かい飲み物と、暖かな想いをどうぞ。
 あなたのためになら、いくらでも用意するから。

Megalith 2011/10/03
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「ふむ、ポッキーですか」
「ええ、ポッキー」

 ずい、とレミリアにポッキーを突き出され、青年は少し困った顔をした。

「今年もまた香霖堂にでも入ってたんですか?」
「ええ、咲夜に買ってきてもらったの」

 ベッドのサイドテーブルには、幾つも菓子箱が置かれている。「季節限定!」と書かれたものから、あまり目にしたことがない物まで様々だ。
 それに視線を走らせていることが既に現実逃避だと理解しながら、彼は再びレミリアに尋ねた。

「で、それはもしやまた」
「ええ、去年出来なかったからね」

 やはり、前年のリベンジ、というところなのか。ポッキーゲームとはそんなにムキになってやるものでもないはずなのだが。

「でも、これどうやったら勝ちなのかしらね」
「……さあ、それは僕にも」

 首を傾げたレミリアに、何とも言えない表情で一言だけ返す。

「たくさん食べれたらいいのかしら?」
「……そういうものなんでしょうかね」
「とりあえず、やってみる?」

 そう、レミリアはポッキーを咥えて、ぱたぱたと羽を羽ばたかせた。どうやら、このお菓子を随分気に入っているらしい。
 だがまあ、楽しそうにポッキーを咥えてベッドの上に座っている恋人の姿というのは、どうもいろいろな感情を沸き立たせる。
 大きく息をついて、ひとまずある程度の感情は収め、だがある程度は自分に素直に行動することにした。

「では」
「ん、っ!?」

 そう、レミリアを抱き寄せると、反対側から食べ始める。
 さくさくとした感触とチョコの甘みが口の中に広がる。久しぶりに食べるチョコは中々美味い。
 突然のことに硬直するレミリアに構わず、そのまま食べきって口を塞ぐ。
 舌で口の中にある物を奪い、軽く咀嚼して飲み込むと、再びレミリアの口の中に舌を侵入させる。

「ん、んん……!」

 軽く離して、息を付く間も与えずにもう一度口の中を蹂躙した。驚いたようにピンと羽は張ったまま、手は彼の服を掴んできている。
 それを可愛く思いながらしばらく丹念に味わって、彼は口を離した。

「ごちそうさまです」
「な、なな、な……っ!」

 彼の腕の中で、レミリアが抗議するように暴れる。

「レミリアさんから振ってこられたんでしょうに」
「け、けど、こんな一方的に……」
「そうやって誘われれば、そうもなります」

 そう言いながら、彼はレミリアの身体を離す。少しやりすぎた反省はあるものの、自分の所為だけではない、と自己弁護の思いもある。

「しかし、僕が丸々一本いただいてしまいましたね。食べますか?」

 気分を誤魔化すように、袋からまた一本取り出す。
 だが、それに対する反応は、小さな声だった。

「……悔しい」
「は?」

 疑問の声に対する返答はなく、レミリアの小さな両手がこちらの両肩に触れる。

「えい」

 ぽす、とベッドの上に青年を倒すと、レミリアはその口にポッキーを咥えさせた。

「えーと、これは、どういう」

 折らないように気を付けながら尋ねれば、レミリアの楽しげな声が降りてくる。

「私が勝つまでやるの」

 意地になっているのだろうレミリアに、彼は降参と恭順のを意を示した。

「……レミリアさんの御意のままに」
「よろしい」

 パタパタと羽をはためかせて、レミリアは少し顔を赤くしつつ、ポッキーの端を咥えた。






「……しかしこうなるのはわかっていたような気もしますが。前にもやったでしょうに」
「……うるさい」

 耳まで真っ赤にしてくったりと彼の胸の上に乗りかかっているレミリアの髪を撫でて、彼は仕方なさそうな声で微笑う。

「まあ、たくさんいただきましたので満足ですね」
「むー……」

 不満そうな顔で、レミリアは彼を見上げた。

「そんなに不満そうにされても困るのですが」
「だって……」

 余裕そうなのが腹立つ、とレミリアはむくれている。これは困った、と思いながら、髪を撫でていた手を頬に滑らせる。

「……すみません、と謝るところなんでしょうかね、僕は」
「貴方が悪いから何も問題はないわよ」
「……すみません」

 よろしい、と頬を撫でる手に自分の手を重ね、ようやく満足そうに微笑んだレミリアは、菓子箱に視線を向けた。

「でも、まだ一箱も食べてないわね」
「一箱全部でやるつもりなんですか」

 僕は構わないですが、と、彼はレミリアから手を離し、まだ半分入っている箱を持ち上げた。

「……レミリアさんは大丈夫ですか?」
「何が?」
「お菓子だけなので紅茶がいりませんか、とか」

 後は、と、悪戯小僧のような表情で尋ねる。

「僕がもっと甘いものが欲しくなったりしたらどうしましょうか、とか、ですかね」
「……? ……っ!」

 さっと耳まで赤くなり、レミリアはこちらの胸に再び飛び込んで――というより、頭突きをしてきた。少し痛い。

「な、何を言い出すの……!」
「言葉の方を先に欲しかったです」

 レミリアの背中を軽く撫でて、謝罪の意を伝える。

「とりあえず、紅茶を淹れてきましょうか」
「ん、咲夜を呼ぶわ。その後、また食べましょう?」
「……今度は普通に?」
「……そのときに決めるわ」

 とりあえず今は、と、レミリアは彼に軽くキスを落として、楽しそうに微笑った。

「咲夜の紅茶で休憩しましょう?」
「了解しました」

 ひょい、とベッドを降りるレミリアに、やっぱりこの人に翻弄されたままなんだろうな、と感じながらも青年も身体を起こした。
 りん、と鈴が鳴って、咲夜が現れる。一言二言レミリアと言葉を交わすと、ふっとまた消えた。
 それを見ながら、菓子箱を意味なく軽く振って中身を確かめる。
 今日も随分と甘ったるい日になりそうだ、という確信を持ちながら、レミリアの近くに行くべく、彼もベッドから立ち上がった。




 まだ夜は長い。甘い夜も、また。
 ならばこの夜を、思い切り楽しむこととしよう。

Megalith 2011/11/14
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 誰が持ちこんだやら、というものがたまに幻想郷にはある。
 それはものだったり風習だったりいろいろだが、どうしてこんなものまで、というものもある。

「……うん、これまで流れ込んでるとはなあ」

 呟きながら、青年は両手に余る――視界が遮られそうなほどの荷物を抱え直し、紅魔館への帰路を急いでいた。




 紅魔館の門前までようやく戻ってきた青年に、門前に立っていた美鈴から声がかけられた。

「ああ、お帰りなさーい……って凄い荷物ですね。そんなに買い物ありましたっけ?」

 そう首を傾げられて、青年は困ったように笑う。

「ただいま戻りました。いやまあ、こんな荷物になる予定ではなかったのですけどね」
「ではまたどうして」
「人里でちょっと、また何か風習が外から流れ込んできてまして」
「ほほう、どんなものですか」

 荷物を受け取りながら、美鈴が尋ねる。幸いながら手伝ってもらえそうで、青年は一つ息をつく。

「……いい夫婦の日、だそうで。伴侶を持ってる人が買い物したらおまけがつくとかで」
「ははあ、なるほどです。買い出しついででしたもんねえ」

 納得したように、美鈴は頷いた。持ってもらってだいぶ楽になったがそれでもまだ荷物は多い。

「私も手伝いましょうか」
「ああ、咲夜さん、お願いできるとありがたく」

 不意に隣に現れた咲夜に、彼は軽く頭を下げた。咲夜が手早く受け取っていくにつれ、だいぶ楽になった。
 この際の問題は重さではなく、体積である。人ならぬ身となった今となっては、ある程度の重さは簡単に持ち上がるし、動きも軽快だ。
 だからといって、大量のものを運ぶ際に気を使ったりバランスを取ったりというのから逃れられるわけではない。ましてや空も飛べないような身だ。

「ああ、もう大丈夫です。楽になりました」
「あら、いいの? まだだいぶあるけど」
「これくらいなら問題なく運べますし、これ以上女性に持たせるわけにも」

 そう言いながら、彼は咲夜と美鈴と肩を並べて紅魔館の中に足を向けた。




「しかし、随分慣れましたよね」
「慣れた、というのは、幻想郷に?」

 美鈴の言葉に問い返して、青年は厨房のテーブルの上に荷物を置いていく。

「それもありますけど、それ以外もですね」
「そうね、紅魔館にも随分馴染んだ気がするわ」
「そういえば、住んでからもう随分経ちましたねえ」

 荷物を置いてしまって、数えるようにいくつか指を折る。いずれはこうして数えられないほどの時間を過ごすのだろう。

「それ以外にもいろいろね。こんな量の荷物を一人で運んだりとか」
「咲夜さんが急に現れても驚かなくなったりとか」

 言いながら、咲夜と美鈴は買い出しの品を分類ごとに分けていく。手慣れた様子は、まだ敵わない。

「それは前からのような気もするけど……でもそうね、随分慣れた気はするわ」

 咲夜と美鈴の言葉に、彼は荷物の分類を手伝いながら首を傾げた。

「そうですかねえ、僕としては何とも」
「まあそもそも、紅魔館に何の危機感もなく出入りしてたと考えれば、やっぱり変わってないのかもですね」

 美鈴はそう笑いながらくっと一つ伸びをすると、さて、と肩を一つ回した。

「私はまた門番業務に戻ります」
「お疲れさまです」
「またご飯の時には呼びに遣らせるから」
「待ってますねー」

 楽しそうにそう言って、美鈴は厨房の戸の向こうに去っていく。
 それを見送った後、ごそごそと荷物を漁って何かを見つけると、彼も咲夜に声をかけた。

「さて、では僕はレミリアさんのところに行きますね」
「ええ、後で紅茶を持って行くわ」
「よろしくお願いします」

 軽く挨拶代わりに手を挙げて、青年は一足先に主の部屋に向かった。






 カーテンの隙間から射し込んでいた陽も、もう沈んでしまったのか、廊下はだいぶ薄暗い。
 その薄暗い中でもよく見えるようになった瞳を細めながら、彼は廊下を歩いていた。
 そういえば、と思う。この廊下を歩くのにもだいぶ慣れたものだ。
 紅魔館は広く、ともすれば迷いがちになる。最初の頃はよく迷ったものだが、もう迷わなくなった。
 確かにこれも慣れかもしれない、と思いながら、レミリアの部屋の前までたどり着いた。こんこんと、軽く扉を叩く。

「いいわよ、入って」

 すぐに中からの返事が返ってきた。どうやらもう起きているらしい。
 失礼します、という言葉と共に中に入ると、ベッドのに座ったレミリアが、彼を迎えてくれた。

「ただいま戻りました」
「ええ、おかえり」
「もう起きてらっしゃったのですね」
「うん、今日は何だか目が覚めてね」

 んー、と身体と羽を伸ばしながら、レミリアは彼を手招く。
 招かれるままに近付いてベッドに腰掛けると、レミリアが膝の上に乗ってきた。いつの間にやら定位置になってしまっている。

「咲夜と美鈴と何話してたの?」
「ご存知ですか」
「まあ、ね。何話してたの?」

 仲が良さそうに見えたのだろうか、レミリアは少し拗ねたような口振りで質問を繰り返す。

「ちょっといろいろ。ええとその、僕が今日人里であったことといいますか」
「どういう話?」
「それが……」

 そう切り出した彼の話を聞くにつれ、少しご機嫌斜めだったレミリアも、少し頬を染めて羽をぱたりと動かした。

「……いい夫婦、ね」
「……ええその、それでいろいろ捕まってまして」

 レミリアの羽がぱたぱた揺れている。どうやら照れているらしい。髪を撫でてなだめながら、困ったように笑う。

「そこまで照れられると困ってしまいますが」
「て、照れてないわよ」

 羽の動きが速くなって、彼の手をぺちぺちとはたく。それすら可愛らしくて、思わず頬がゆるんでしまった。

「可愛いです」
「……煩い」

 ぷい、とレミリアはそっぽを向いてしまった。その怒りそうな気配を逸らすように、彼はレミリアの手元に何かを渡す。

「ということで、とりあえずこれを」
「なにこれ?」

 レミリアの手元に、今日もらった小瓶を渡す。中には、赤、白、黄色、緑と、カラフルな小さい何かが入っていた。

「まだいろいろ物はあったのですけどね、綺麗だったので」
「……金平糖?」
「そうです」

 レミリアがくるりと回すその瓶の中で、金平糖が踊る。ランプの光を反射するそれは、きらきらとして宝石のように見えなくもなかった。

「……結構いいものね」
「おそらくは。僕はそういう目利きは利かないですけど」
「いいんじゃない? そういう目利きは出来る者にやらせればいいわ。そういう者を見分けられれば問題はないの」

 レミリアはそう、軽く指を振って説明する。それは貴族としてのものがそう言わせるのだろうか。何となく頷きながら、彼はレミリアに説明を続ける。

「他のものは、咲夜さんに任せています。また何かあったら持ってきてもらえるかと」
「ん、わかったわ。ご苦労様」

 ぽす、と寄りかかって、レミリアは彼を労う。そして、何かをふと思い出したように、急に落ち着かない様子を見せ始めた。

「どうしました?」
「いや、その、ね」

 うん、と意味をなさない言葉を口にしながら、レミリアは彼を見上げてその言葉を口にする。

「……事実婚という言葉があるそうだけど」
「どこで覚えてきましたかそんな言葉……」

 顔を紅くしたままぼそぼそというレミリアに、彼も紅くなった頬をかきながら応じた。

「……まあでも、形式は大事よね」
「精進します」
「ん、待ってるわ」

 知っている。焦るわけではない、急ぐわけではない。
 それでも、どこかにそういう想いがあるのも否定はできないだろう。

「……そういえば、慣れてきたって言ってたわね」
「ああ、はい。幻想郷にと言うか、紅魔館にと言うか」
「……吸血鬼であることにも?」
「だいぶ慣れてきたつもりですけれど」

 その言葉に、レミリアは瞳を細め、少し考えて――少しだけ、悪戯っぽい声を上げた。

「……慣れてきてたら、まさか日向で昼寝なんかしないわよねえ」
「……あれは始めたときはまだ日陰だったのです。不可抗力と」

 悄然、といった様子で彼は答える。少し前の話ではあるが、うっかりそうして眠ってしまってレミリアに酷く怒られたのだった。

「本当に気を付けてね。貴方はどうもそういう自覚が薄いし」
「それは自覚もしてます」
「一度霊夢あたりに退治されたら自覚も出るかしらね」

 そう冗談めかした言葉を向けながら、レミリアは彼の膝の上なのはそのままに、向かい合うように座り直す。
 そうして、彼の瞳を真っ直ぐに見ながら微笑んだ。

「愛してるわ」
「ええ、僕も愛してます」

 この想いは本物で。この言葉も本物で。
 だからこそたまに、それを本当に形にしてしまいたくもなるけれど。

「咲夜に紅茶を頼みましょうか、そして今宵はこのまま散歩にでもでましょう」
「はい。月は生憎、まだ細いですけれど」
「そんな月夜もまた悪くはないわ」

 けれどもその前に、と、レミリアは彼に抱きつくように身体を近付けると、首筋を軽く口唇でなぞった。

「頂戴?」
「はい、どうぞ」

 さっとボタンを二つほど外して、飲みやすいようにシャツの襟元を緩めた。
 微かな痛みと共に、レミリアの吐息と舌遣いを感じる。ゆっくり、丁寧に、味わうように舌が動く。

「ん、んん」

 レミリアの飲み方はあまり上手いとは言えないものだが、それでもどこか畏れと共にぞくりとしたものが背筋を這い上がらせてくる。
 唸りを堪えて、レミリアが飲むに任せた。そうたいして多い量を飲むわけでもない。
 やがて口を離して、レミリアは血に濡れた口元に手を当てて妖しく微笑んだ。

「美味しかったわ、ごちそうさま」
「はい」

 レミリアの口元を丁寧にハンカチで拭い、首から流れる血を軽く押さえている彼の口唇に、レミリアは再び口付けてきた。

「っ……!?」
「ふふ、不意打ち成功、ね」
「……今のタイミングでは対応できませんよ」

 そう憮然と呟いて、彼は苦そうに――というよりも不味そうに自分の口元を拭った。

「……キスに妙な味が混じるのはどうも。仕方ないとはいえ」
「こんなに美味しいのにね」
「こうも味覚が変わるものですかね」

 悪戯っぽく返すレミリアの言葉に軽口を叩きながら、彼はレミリアの腰に手を回して再び抱き寄せる。

「あら、口直し?」
「そういう感じのもの、です」
「ふふ、いいわ。食べなさい」

 許可を受けて、彼はレミリアの首筋に顔を近付ける。白い首筋になんだか誘われているようで、若干頭がくらりとなるのを感じた。
 気を取り直すように、牙をそっと首筋に当てる。いつもながら、この瞬間は心が躍ってしまう。彼女を自分だけのものにできる瞬間のように感じる。
 ぐっ、と牙に力を入れると、肌を破る感覚が牙から全身に伝わってきた。流れる血をこぼさないよう、舌を使って舐めとる。

「ふ、ぁ、んん……」

 甘い声に脳髄が灼かれそうにもなるが、そこは理性に手綱を付けて耐える。ただ血の甘さと心身を満たすものにだけ集中する。
 しばらくして、そっと口を離す。もっと味わっていたいが、飲み過ぎるのはよくない。

「……ごちそうさまです」
「ん……もう、いいの?」
「はい」

 少し陶然となった表情に、また何かが煽られそうになるものの、それをまた自身の中で抑えつける。

「血の飲み方は上手くなったわね」
「まあ、最初の頃に比べれば」
「強引なやり方でもなくなったし、我慢もしなくなったものね」

 楽しげに羽をはためかせながら苛めてくるレミリアに、彼は動作で降参の意志を示す。

「……反省してますので、あまりつつかないでください」
「……でも、大事なことよ、貴方は人ではないのだし」
「それは、肝に銘じています」

 そう、レミリアを再び抱き寄せて、軽く口唇を塞ぐ。

「ん……! 随分、唐突ね」
「何となく、欲しくなってしまいまして」

 もっといいですか、という言葉に、レミリアはこくりと頷いて目を閉じた。
 普段通りを装っているようだが、少し頬のあたりが紅くなっている。

「では」

 遠慮なく、と言わんばかりに、今度は深く口付ける。少し驚いたようにびくりとなった身体を抱きしめて、深く、深く。

「ん、んん……あ、ん」

 空気を求めるように離した口唇を、角度を変えて何度も奪う。
 舌を忍び込ませ、そっと歯列をなぞり、牙を丁寧に舐めあげた。

「ん、んっ……!」

 僅かに開かれた瞳が、微かに潤んでいた。牙の感覚が敏感なのは、自身でもう知っている事実だった。だからこそ、丹念に。

「ふ、あ」

 しばらくしてから離したときには、レミリアはくたりと彼に寄りかかってしまっていた。羽は小さく折り畳まれてぱた、ぱた、と動いている。

「も、う。激しすぎるわ」
「失礼しました」
「全然そんなこと思っていない癖に」

 とん、と拗ねるようにレミリアは胸を叩いてきた。無論、力などは入っていない。

「……そういう可愛い仕草を見せられると、いろいろ困ってしまいますが」
「……冗談も程々にしなさい」

 今日は出かけるんだから、と、レミリアは彼の身体から自分の身を離す。
 冗談ではないのだけどな、と思うものの、それはおそらくレミリアにもわかっていることだから、彼は何も言わないでおいた。

「出かける前にお茶にしましょう。咲夜を呼ぶわね」

 そう言いつつ、ちりんと鳴らしたベルの音に応じるように、扉からノックの音がした。

「あら、早いわね咲夜。いいわ、入って」

 失礼いたします、という言葉とともに、咲夜が部屋に入ってくる。
 おそらくは外で待っていたのだろう。先ほど話をしてから時間は随分経っていた。

「今日の紅茶もいい香りね」
「アッサムでございます」

 それを微塵も感じさせないやりとりに、いつものことながら何となく感心してしまう。
 それでも、レミリアの顔が微かに紅いのと、せわしない羽の動きが、微妙な心の動きを物語っていた。

「さ、お茶にしましょう。今日はいい夜になりそうね」

 レミリアがそう言うのなら事実なのだろう。そう思いながら、彼もレミリアと同じテーブルに着くことにした。







 後日。

「……あいつらもうほとんど夫婦だよな」
「言わずもがなでしょう、そんなの」

 魔理沙の言葉に、パチュリーが何を当然のことをと言わんばかりの態度で応じた。
 二人の――というより魔理沙の視線の先では、いつものようにレミリアが青年の膝の上に乗って、無理難題を出しながら甘えている。

「まあ、正式なのはまだ随分と先でしょうけどね」
「気の長いことだな」
「どうなのかしらね」

 パチュリーは気のない言葉を告げながら、手元の本をはらりとめくった。
 それを聞き咎めた魔理沙が、テーブルの上に行儀悪く肘を突いて身を乗り出す。

「なんだなんだ、何かあるのか?」
「特に予定もないのだけどね。何が起こるかわかってるのなんてレミィだけだし」
「ふぅん、でも、パチュリーがそう言うってことは何かあるんだな」
「何かまではわからないけれどね。まあ、レミィが気紛れに何か起こすのは今に始まったわけでなし」
「それもそうだな」

 魔理沙は快活に笑うと、手元の紅茶を飲み干し、おかわりを求めるために咲夜を呼んだ。




「好き勝手言ってるわね」
「まあ、これを見られればそうも言われそうですが」

 膝の上にレミリアを乗せたまま、彼はそう応じた。かといって、彼にもレミリアを下ろす様子はない。

「ところで、パチュリーさんがああいうということは、何かあるのですか、また」
「……そうね、ちょっといろいろ」

 そう呟くレミリアの瞳は、少しだけ遠くを見ていた。何か見えているのだろうか。レミリアの能力は、決して彼の手が届かないところにある。

「……ねえ」
「何でしょう」

 少し不安げに見上げてきたレミリアに、彼は優しく問い返した。その本当の意味を知るのは、もう少し後になるけれども。

「……大好きよ」
「はい、僕も」

 大好きですよ、と言いながら、彼はレミリアの額に、軽く口付けを落とす。





 かくしてまた、紅魔館に寒いながらも暖かい季節が訪れるのだった。
 ――ほんの少しだけの、不安も孕んだまま。


Megalith 2011/12/03
───────────────────────────────────────────────────────────

 静かに雪が降り積もる。積もってなお、しんしんと降り続いている。
 レミリアはそれをしばらく眺めて、一つため息をついた。

「失礼いたします、お嬢様」
「ん」

 背後からかかった声に軽く頷きを返して、静かに振り返る。

「準備は出来た?」
「はい」

 レミリアは再び頷いた。紅いケープを羽織った、クリスマス仕様のドレスを着ている。

「そろそろお客様もいらっしゃっています」
「咲夜がここってことは、今は?」
「ええ、彼にお任せしております」

 では、交代しに行くわ、とレミリアは告げた。賓客は主自らが迎えるのが筋と言うもの。
 それを彼に任せている、ということは、ある一つのことも示しているのだが、それに関してはレミリアも咲夜も口にしなかった。

「……少しは立ち直ってくれたようね」
「……そのようにお見受けしますが」
「随分悩んでいたもの……まあ、今日その話はいいわね。行ってくるわ」
「はい」

 咲夜に手を振って戻るように促し、レミリアはホールの方へと向かった。





「ああ、レミリアさん」

 玄関ホールでは、来客を迎えている彼の青年があった。妖精メイド達に声をかけ、一時的に場を任せた彼はレミリアの近くに寄ってくる。

「お疲れさまです」
「いえ、準備をしていただけ。客人は?」
「もうだいぶいらっしゃってます。ほとんど僕がご案内を」
「よろしい。では、後は私がやるわ。ホールの方で来客の相手をしていて」
「わかりました」

 よろしくね、と言って、レミリアは彼を向かわせる。

「……ん、経過は良好ね」

 だいぶ持ち直した、とその背中を見送りながら思う。
 わかりきっていたこととは言え、やはり心配にはなるものだ――悪魔が心配というのも滑稽なものだが。
 後でまたきちんと話をしよう。今日は多少忙しくなるはずだから。
 そう、レミリアは新たにやってきた客人の気配に、軽快な動作で身を翻した。




 かくして、粛々にはほど遠いパーティが始まった。
 とにもかくにも、騒げればいい、というのがあるのは否めない。
 それを誰も咎めない。幻想郷の宴とはそういうものである。




 そんな中、ホストとして動き回っていたレミリアに、背後から聞き慣れた声がかかった。

「どうも」
「ああ、白澤か。いらっしゃい」

 振り返ったレミリアは慧音に丁重な態度で迎えた。
 一礼して、慧音はレミリアの隣にさりげなく立つ。何か会話をしたそうな気配だった。

「今、よろしいかな」
「ええ。どうしたの」

 横に並んでいる慧音に、静かな声で問う。答えなどもうとっくに知っているのだが。

「例の件の連絡をしようと思って」
「……そう」

 応えて、レミリアは視線だけで先を促した。

「……幸い、命は取り留めた。肺炎も併発して危険な状況だったようだが」
「そう……もう、伝えた?」
「いや、貴女に先に伝えておこうと思って」

 慧音もまた、静かな声で応える。ふう、と深い息をついて、淡々と続ける。

「……真っ青な顔をしていたよ。流れ水を見て」
「そうでしょうね。私やフランでも、流れ水は厭うわ。ましてや、まだ慣れない身だもの」
「うん……皆は泳げないだけと思ったようだが」
「そこを伝えるかは任せる。私達の弱点はほら、稗田が残しているので十分わかるだろうし」

 レミリアもまた、淡泊な声で告げた。別段隠すようなことでもない。

「ともかく、運んでくれて助かった。お礼を申し上げたい」
「それはいいわ。里の人間に危害を加えない、私達はその約定を守ったに過ぎないのだから」

 レミリアは軽く首を振った。それは全くの事実だった。
 だがそれが事実だとしても、一件についての彼の衝撃はかなりのものだっただろう。




 数日前。雪が止んだ時を見計らってかの青年が買い物に出たときのことだった。
 珍しく暖かい日でもあり、子供達も遊びに出ていたものが多かったという。
 買い物の途中、店先で話していたとき。子供達が血相を変えて大人達を呼びに来た。
 曰く、一人川に落ちたと。
 一人に案内させ、他の子供達に慧音を呼びに行かせ、川に辿り着いて、ようやく彼は気が付いた。
 水に触れられない、流れ水に近付くことが出来ない。
 速く冷たい水流の中で溺れる子供に一切何も出来ず、慧音が来るまでを待つしかなかったのだ。
 助け出された子供を永遠亭まで運ぶのを手伝い、荷物だけ受け取って帰ってきた。
 事実だけを並べてしまえばたったこれだけのこと。



 ただ、目の前で命が消えようとしているのを見てしまった、そしてそれに対して全くの無力であった自分を、彼がどう思ったのか、全てはしれない。





 二人して、大きく息をついた。思っていることは違うが、何に対してなのかは同じである。

「随分憔悴していたようだったが」
「そこは大丈夫、何とか持ち直させたわ」
「……貴女がかな」

 慧音の声色が少し優しくなり、レミリアの羽が少しだけ忙しなく羽ばたいた。顔も微かに紅くなっている。

「そこはいいでしょう、別に。まあけれど、いい転機にはなったわ」
「……妖である以上、いろいろなものは目にすることになるからな」

 その呟きに、レミリアは羽をはためかせることで応えた。そんなものはわかっているのだ、きっと。

「……とにかく、今日は貴女も楽しんで行きなさい。蓬莱人も来ているのでしょう」
「ああ、うん、そうだな。失礼した」
「いろいろ気を回してくれたことは感謝している。だから、その分楽しんでもらえると嬉しいわ」
「では、そうさせていただこうかな」

 慧音はそう相好を崩した。レミリアも頷き、微笑を浮かべて、会場の方に案内をする。
 そして、ついとテラスの方に視線を向け、足をそちらに向かわせた。




 テラスに出ると、また雪が降り始めていた。酔い醒ましのつもりだったが、いっぺんに気まで引き締まってしまいそうだった。
 雪の白さに、数日前のことがふと記憶をかすめた。軽く額に手を当てる。
 昔ならば、それこそ飛び込んででも何とかしようとしただろう。だが、あの一瞬、足が一歩も前に出なかった。
 本能的に身が避けるとはこういうことか、と、妙な納得もしたものである。
 助けたのは結局後に来た慧音で、その間彼は立ちすくむ以外何も出来なかった。
 ふう、と息をつく。結局のところ、彼はその後を尋ねられなかった。経過も聞かず、送り届けた後に逃げ帰ってきた。
 レミリアに話をしてもらえなければ、まだ落ち込んでいたのかもしれない。何とも弱い存在だ。
 何が出来なくなろうと、誰を助けられなくなろうと、今の道を選んだということを忘れてはならないのだ。
 その再確認はしかし、大事な人への想いの再確認でもある。レミリアが大事で、愛しくて、恋しくて、何よりも、何にも代え難くて――

「あら、こんなところにいたのね」

 その愛しい人の声に、我に返る。振り返れば、先程まで想っていたレミリア本人がそこに立っていた。

「レミリアさん」
「ゲスト達をあまり放っておくものではないけれど」

 そう言いながら、雪を眺めている彼の隣に並ぶ。はあ、とその口から出る息は白かった。

「すみません、少し酔ったもので」
「まあ、いいわ。少しは休息も必要だもの」

 特に咎めているわけではないようで、息が白く染まっているのを楽しむように、レミリアは微笑んだ。
 しばらく黙って雪を眺めていたが、ふと、レミリアが口を開いた。

「……ね」
「はい」
「例の子供、命を取り留めたそうよ」
「……ああ、それは」

 一つ大きく息を吐く。ほっとしたというのが正直な思いだった。

「……よかった」
「わざわざ白澤が知らせてくれたわ」
「後でお礼を言っておきます」

 そうしなさい、というレミリアは、それきり何も言わずただ彼の隣に寄り添ってくれた。
 静かな沈黙は、それでも不快なものでも気まずいものでもない。もう慣れ親しんだ、静かで大事な時間だった。
 そう、もう慣れ親しみ始めているのだ。そしてそれはきっと、喜ばしいことだった。大事な人の側で、大事な人と過ごす時間が大切なのは――きっと何よりも幸せなこと。
 自分の中にすっと下りてきた気持ちに頷いて、青年は箱を取り出す。そして、傍らの大事な恋人に声をかけた。

「レミリアさん」
「なに?」

 尋ねかけたレミリアの首に、彼は腕を回して、何かを付ける。レミリアは二、三度目を瞬かせた後、楽しげに瞳を細めた。

「……珍しいわね、こんなシンプルなの」

 首元に躍る、雪の結晶を象った金の飾りに指で触れて、レミリアは微笑む。

「今日のドレスについて聞いていまして。だとすると、こうシンプルな方がいいかと思ったのですよ」
「ん、いいわね、こういうのも。ただ一時、このときだけのためのもの」
「はい」
「気に入ったわ」

 レミリアは上機嫌そうに頷いて、彼の好意に報いてくれた。
 ただ今日のためだけに用意したものだったが、その贅沢をきっとレミリアは許してくれると思ったのだ。

「……一人で選んだの?」
「頑張りました」
「……嬉しいわ」

 レミリアの頬は少し上気していた。嬉しさが伝わってきて、こちらも頬が緩む。
 ただ、どうやら赤みを帯びているのはそれだけではなさそうだ。そっと触れれば、随分頬は冷たくなっている。
 吸血鬼はこの程度で何ともなるわけではない。わかっているが、それでも。

「冷えてしまいます、そろそろ」
「ええ。見せびらかしにも行かなきゃ」

 目の前で一つくるりと回ったレミリアに、そっと手を差し伸べる。
 その手に手を重ねた彼女を、丁寧にエスコートする、その前に。

「……んっ」

 軽く身を屈めて、触れる程度に口唇を重ねる。

「……いきましょう」
「……ええ」

 頬を紅くしたまま、レミリアは彼の腕に手をかけた。そして、まだ賑やかなホールの方にゆっくりと歩き出す。
 テラスの向こうでは、また静かに、雪が降り続いていた。




 きっと、万の宝石でも足りない。
 この想いを告げるにも、伝えるにも。
 そして、この想いの永きを伝える、にも。


 だから、今は、この口付け一つ。
 それで、きっと十分すぎるのだ。



Megalith 2011/12/30
───────────────────────────────────────────────────────────


 どんよりと曇った日になっていた。午前中は晴れていたのにな、と、重くなってきた空を見て、美鈴は小さく呟いた。
 奇妙に暖かい日だったから雨になるだろうか。いや、ぐっと気温も落ちてきたからきっと雪になるに違いない。

「冬妖怪さんがさぼってでもいたのかな」

 少しだけ朝寝が過ぎたとか。誰かに聞かれれば貴女でもあるまいし、と言われそうなことを呟いて、美鈴は周囲をもう一度見回す。
 そして、その瞳をすっと細めた。随分と荒れた気配が紅魔館に近付いてくる。
 こんな日に紅魔館を攻めようとは――と、そこまで思って、その気配が慣れたものであることに細めた瞳を見開いた。

「え」

 ずる、ずると重たい気配を持ったそれは、ゆっくりと門に近付いてきた。
 やがて、気配だったそれは、荷物を肩から提げて、上着を適当に羽織った青年の姿として視界に入ってくる。
 そして、彼は門前で顔を上げ、疲れた笑みを浮かべた。

「ああ、美鈴さん、ただいま戻りました」
「あ、お、おかえりなさい」
「すみません、ちょっと、荷物をお願いしても」
「は、はい」

 そう応えた美鈴に荷物を渡すと、彼は身を引きずるように館の中に入っていった。

「……何があったのかな」

 小さく呟いた美鈴は、荷物が僅かに濡れていることに、ようやく気が付いていた。





「一体、何があったの?」

 館に帰ってきた青年に、咲夜は落ち着いた声をかけた。様子がおかしいことなど一目瞭然だった。

「ちょっと、いろいろと」

 だが、彼はといえば、少し疲れたような、どこか焦燥した笑みで首を振るだけだった。

「すみませんが咲夜さん、お湯をいただいて良いですか。それと、後ほど紅茶をいただけると幸いなのですが」
「……その程度なら良いけれど」

 咲夜は、僅かな驚きを押し殺した。彼が頼みごとをするのは非常に珍しい。
 特にこういった、人を使う類のものは今まで本当になかったことだった。

「すみません、それではよろしくお願いします」

 そう言いながら背を向けた彼に、微かな違和感を感じる。
 疲れ切っているが、それだけではない何かがあるような。
 去っていく彼を見ながら形の良い顎に手を当てた咲夜に、背後から声がかかった。

「咲夜さん」
「美鈴、門番は?」
「荷物置く間だけ任せてきました」

 そう、荷物を担いだ美鈴が、ホールの真ん中に歩いてくる。
 咲夜の側に近付きながら、自分の部屋の方に歩いていった彼の方を見やっていた。

「……怪我してるのかも、と思ったのですけど」
「やっぱり?」
「咲夜さんも思いました?」

 二人は顔を見合わせ、軽く頷く。今は何ともならない。ならば、できることだけをやっておこう。

「とりあえず、私は頼まれたから準備をしてくるわ」
「お嬢様への報告はどうしましょう」
「それも私がやっておくわ。貴女は荷物をお願い。厨房に置いてくればいいから」
「了解しました。後で、お願いしますね」

 美鈴が踵を返す前に、咲夜もその場から消えた。まずは各々、やるべきことを済ますために。






「……様子が変?」
「はい、里から帰ってから……」

 報告に来た咲夜に、決済書類を机の脇に寄せて、レミリアは眉をひそめた。

「今日は特に仕事等はなかったはずだけど」
「買い出しに行くと言って。特に問題もなさそうだったのでそのまま送り出したのですが……」
「……そう、里に出たのね」

 大きくため息をついた後、レミリアは座っていた椅子から降りる。

「咲夜、部屋に紅茶は?」
「今からです。そろそろ湯浴みから戻られる頃ですので」
「そう。じゃあ、準備が終わったら行くわ」

 私の分もよろしく、と、レミリアはそれだけを告げて、椅子から立ち上がり、咲夜に下がるよう手振りで示した。
 小半刻ほど適当に館の中を歩き回って時間を潰し、彼の部屋に向かう。
 そして、彼の部屋近くで、妖精メイド達がさざめいているのを見つけた。

「どうしたの?」
「お、お嬢様! あの、その」
「その、えっと」
「落ち着きなさい。何があった?」

 レミリアの言葉に、妖精メイド達は顔を見合わせ、そして、彼がワインの瓶とグラスを手にして部屋に入っていった、と答えた。

「ワインを?」
「は、はい、珍しかったのと、なんだかちょっと、怖くて。今メイド長にもお話ししたのですけど……」
「そう」

 レミリアは頷き、メイド達に仕事に戻るように告げた。そして、恋人の部屋の前まで歩みを進める。

「咲夜」

 部屋の前に立っている咲夜に、レミリアは声をかけ、軽く頷いた。

「お嬢様、如何致しましょう」

 ティーセットを乗せたトレイを手にしたまま、咲夜は問いかける。

「それだけ中に置いておいて。後は私がどうにかするわ」
「かしこまりました」
「……二、いえ、三時間。それくらい経ったら、また呼ぶわ」
「はい」

 一礼した咲夜にもう一度頷いて、レミリアは部屋のドアを開け、中に足を踏み入れた。
 部屋の中は暗かった。奥のテーブルで、彼はワインをグラスに注いでいたところだったようで、その手が一瞬止まる。

「レミリアさん」
「帰ってきた報告もせず、こんなところで飲んだくれてるなんてね」
「……すみません」

 申し訳なさそうな彼は、どこか茫羊として見えた。目の前に急に現れたティーセットにも、それほど驚いていない。
 レミリアは彼の向かいに座り、こちらもごく自然に、当たり前のように紅茶のカップを手に取った。
 別に、一々報告をする必要など微塵もないのだ。けれども、いつもしていることをしなかった、その一点だけでも、不安定さが見て取れる。

「話しなさい」

 その一言だけで良かった。彼はレミリアの命令に抗えない。そういうものだからだ。
 レミリアは口を開き始める彼を見ながら、ワインは私も減らしておいた方がいいな、と、どこか遠く思っていた。





 もう一つグラスを出し、それにワインを注ぎながら、彼はぽつりと呟いた。

「……子供が溺れました」
「うん」
「…………僕はただ見ているだけでした。それだけじゃない、本当はそこから逃げたいほどでした」

 ボトルを机の上に置き、自分のグラスを揺らしながら彼は続ける。酔っているという自覚のある頭の裏側で、今日の光景を思い出していた。

「子供が走ってきて、川辺で遊んでいて、一人脚を滑らせて溺れたと告げてきて、助けに行ったつもりでした」

 一息にワインを空け、そしてもう一度注ぐ。
 それを、レミリアがどこか気遣わしそうな目で見ているのも理解していた。
 少しだけペースを落として、大きく息を吐く。

「僕はただ、慧音さん達が来るまでそこにただ立っていることだけしか出来ませんでした。出来たのはせいぜい、助けられたその子を永遠亭まで運んだことくらいです」

 走ってきた慧音は、立ちすくんでいる彼に驚き、ついで理解して自分で助けに行った。その頃には何人も来ていたが、彼はただ立ち尽くすしかできなかった。
 その後、永遠亭まで運ぶ者に名乗りを上げ、妹紅に先導されて運んできた。その程度しかできることはなかった。
 『大丈夫なのか』という妹紅に頷き、後事を終えて彼の買い物の荷物を持ってきてくれた慧音に礼を言って戻ってきたのだ。

「……何とも、情けない話です。僕は、僕が何なのか、忘れていたつもりではないのですが」

 本当は最後に運ぶのさえ、他人に任せれば良かったのかもしれない。だが、焦燥感が彼にそうさせた。
 結局、自分の思いさえ不明瞭なまま帰ってきて、今に至る。

「……見えていたわ」
「そう、なのでしょうね」

 くいと、やや乱暴な手つきでグラスを傾けて、彼は微妙な表情をする。自分が何を言いたいのかさえよくわかっていない気分だった。

「……何とも持て余している感じです。僕がやはり吸血鬼なんだなと、そう実感したというか」

 んー、と、声だけは気の抜けたような音を出して、彼は大きく息をついた。

「よくわからない、わからないんです」

 それは人間と妖怪の狭間で揺れ動いているようなものにも思えた。自分でも掴みかねている、不思議な、奇妙な感覚だった。

「助けに行ったのは、約定からかしら」
「おそらくは。里では人に危害は加えぬ、ですから、大意では助けるという事にもかかるのでしょう」
「その辺りはここの判断によっても揺らぐところね。あえて揺らぎを作っておいたのだけれど」

 悪魔はそういう揺らぎを突くものだから、と、レミリアは口元だけで微笑んだ。レミリアらしくない、あるいはらしい、静かな微笑みだった。

「…………揺らぎですか」

 くい、とグラスを空けてしまう。ワインはもう残っていなかった。レミリアがちょくちょく飲んでいたのもある。

「僕自身が不安定なんでしょうかね」
「かもしれないわね。私にはそれはわからないけれども」

 私は最初から吸血鬼だものね、とレミリアは薄く笑った。瞳の色だけは静かに、こちらを見据えたまま。

「人から吸血鬼になったのなんて、私は見るの初めてだもの。どういう風に貴方が揺らいで、どういう風に考え感じているのか、全てがわかるはずはないわ」
「それは、確かに」

 同意して、少し冷めてしまった紅茶を口にする。レミリアの言葉はまさにその通りだった。彼自身の揺らぎはきっと、彼が完結させるものなのだろう。
 レミリアもグラスを空にしてしまうと、静かな、穏やかとも言えるほど密かに口を開いた。

「……後悔してる?」

 レミリアの問いかけは、いろいろなものを含んでいる。
 子供を助けられなかったこと。その後の行動を取らざるを得なかったこと。引いては、そんな身体になってしまっていること。

「いいえ」

 それに対する答えは、いつも一つだった。間違いなく、それだけは真正のものだった。
 どれだけの痛みを被ろうと、矛盾に苦しもうと、それだけは決して変わらないものだった。

「いいえ、後悔はないのです。ただ、ああ、そうですね」

 彼は自分の思いを言葉にしようとして、その適当な言葉が見つからないのを歯痒く感じていた。

「どうすれば良かったのか。どうすべきだったのか。自分の最善がわからず困っている気分なのでしょう」

 苦い笑みが、口元に浮かぶ。自分を嘲る笑みだとわかっていても、それは止められない。

「あるいは見捨てれば良かったのか、自分を損ねてでも助けるべきだったのか。どちらも僕は選べなかったし選びませんでした。
 妖怪らしくも人間らしくもない。何とも中途半端な状態な自分に――ああ、そうですね、憤っている、のかもしれません」

 言葉にすれば、何ともすっきりしたものだった。たったこれだけのことで悩んでいたのかと、笑い出したくもなる気分だった。
 そしておそらく、たったこれだけだからこそ、酷く悩むのだろう。

「単純なことだったのかもしれないですかね」
「単純なのは貴方自身なのかもしれないけれどね」
「手厳しい」

 空になってしまったワインを退けて、少し冷めてしまった紅茶を口にする。
 レミリアはその様子を見て、少し呆れたように、だが心配もしているように、囁くような声で告げた。

「背中」
「え」
「清水は身に毒よ。気が付いてないとでも?」

 ばれましたか、と彼は小さく笑った。背中が雪解けの清流の水で、少し爛れていることをレミリアは知っているのだった。
 本来は爛れるだけではないはずなのだが、とりあえず彼の身にはそういう結果として残った。

「貴方には、いろいろと不利なものだけを抱え込ませてしまっているわね」
「お気になさらず、レミリアさん、僕の選んだ道です」
「……そうね」

 レミリアは紅い瞳を細めた。疑っているわけではあるまい。それでも、いろいろと揺らぐ彼を不安にも思えるのだろう。
 だから。

「レミリアさん、僕は後悔しません」

 誓いにも等しい言葉を口にする。

「今回のようにこれでよかったのかと悩んだり迷ったりすることもあるでしょう。時には、間違うこともあるかもしれません。でも」

 立ち上がり、レミリアの瞳をまっすぐに見つめて、言葉を紡ぐ。

「僕は、その全てを後悔しない。間違った選択でも、悩むことでも、迷うことでも。自分の選んだものと胸を張っていきます。
 そして、どこまでも貴女の側に。ずっとずっと、この身が尽きるまで、貴女の側にいます」
「……随分熱烈ね」
「そうでしょうか」

 ふわ、と微笑んだレミリアに安堵の気配が見えて、彼も相好を崩す。言ってしまえば、随分と思いは楽になった。
 これからも悩むだろう、迷うだろう。けれどもそれがまあ、人生と言うものではないだろうか。
 もう人ではない身ではあるが、それでも、生きると言うことを精一杯楽しみ、後悔せずにいこう。
 まだ、この一件について自分の中に迷うものはある。割り切れていないものも多い。今しばらくは悩み続けるのだろう。
 それでもただ一点だけ、レミリアを愛しているという一点だけは、何があろうと揺るがない。それを再び、自身の中で確認できた。

「けれども、折角こんな楽しい生き方をいただいたのです。目一杯、楽しんでいきたいと思うのです。出来ることなら、貴女と」
「そう言ってもらえるなら、私もこうして話をしにきた甲斐があるわね」

 応えながら、レミリアは彼を座らせ、その膝の上に乗った。

「うん、ここに入ってきたときとは違う、いい表情ね。まだいろいろありそうだけど」
「ご心配をおかけしました」
「わかればよろしい」

 偉そうなレミリアの言葉にも余裕がある。随分と心配をかけたものだ、と、申し訳ない思いになった。
 それとともに、不意に、いろいろと欲しくなる。何だかんだで消耗した心身は、レミリアを強く求めていた。
 それを知らせるために、つっとレミリアの首筋に指を滑らせる。くすぐったそうに首をすくめた彼女に、小さく囁いた。

「少しだけ、いいですか」
「貴方が求めるなら、私はいくらでもあげるといつも言ってるつもりだけど?」

 ああ、そうでした、と笑って、彼はレミリアを抱き寄せる。
 そして、貪るように、その首筋に牙を突き立てた。荒々しく、全てを奪うように。








 かくして数時間後。

「お嬢様」
「ええ、咲夜、ご苦労様」

 ティーテーブルの上を整える咲夜を見ながら、レミリアは頬杖を突く。だがその瞳は楽しそうで、随分と生き生きとして見えた。

「……一応立ち直ったわ」
「左様ですか」

 咲夜はそう頷く。レミリアも頷き返して、ベッドの上でだらしなく眠っている青年に視線を向けた。

「少し休めば、大体もと通りになるでしょう。もう少し、時間はかかるでしょうけれど」
「はい」
「心配はないから、と今回の一件を知る者に伝えておきなさい。私も、もう少ししたら戻るわ」
「かしこまりました」

 咲夜は一つ頭を下げて、その場から姿を消す。その空間をしばし眺めた後、レミリアは彼の側に腰掛けた。

「……ご苦労さま」

 レミリアには全て見えていた。余計な運命は見ないことにしているが、見えるものは多い。彼のこのこともその一つ。
 そうなのだ。これは、これから起こるであろう、人を辞めた彼への試練の、些細な一つにすぎないことも知っていたのだ。
 その一つ一つで、彼は選択と決断を迫られる。もしかすると彼は延々と、人と妖の間に揺れ続けるのかもしれない。
 レミリアはそれでもいいと思っている。人であれとレミリアが願い、共にあれと望んだのだ。それくらいの揺らぎは許容すべきだった。

「……それで貴方には負担をかけるだろうけれど」

 その辺りは、レミリアには推し量るのは難しい。レミリアはあくまで吸血鬼であり、人間的な感性の全ては、きっとわからない。
 今回のことも、ほんの僅かなことにも思えるし、実際些細なことなのだろう。
 けれどもこれは、大事なことだったのだ。彼とレミリアのこれからを、他所うなりとも左右することだった。
 彼がどの道を選ぶのか、レミリアは決めることも強制することも出来ない。もしそれが、離れていくことだとしても。
 だから、側にいてくれると言ってくれて、何よりも嬉しかったのだ。

「私のエゴだけれど」

 悪魔らしいと言えばそうかもしれない。けれども、何を犠牲にしてでも、側にいてくれるという決意をしてくれるのを、レミリアはどこかで望んでいたのだ。
 そして、彼はそれに応えてくれて、これからも側にいてくれる。
 それだけで、もしかすると十分なのかもしれないが、もっとと求めるのは――間違ってはいないだろう。
 けれども、今はとりあえず。

「……ありがとう。お疲れさま」

 レミリアはそれだけを告げて、彼の額に口付けた。



Megalith 2012/02/09
───────────────────────────────────────────────────────────

 チョコレートを作ろうと思っていたのだ。
 この時期は八雲からチョコレートやカカオが入ってくるし、後は何とか工面すれば手に入らないこともない。
 とはいえ、だ。レミリアは目の前のボールに入っているものを眺め、首を傾げて咲夜に尋ねた。

「咲夜、これ何」
「生クリームですわ。今年は生チョコなど如何かと思いまして」
「……うん、まあ、何でもいいんだけど。どうしてもう用意してあるの」
「何事も準備が肝心と申します――後は、ちょっとしたタイミングですわ」

 どこか楽しそうな咲夜の言葉に、少し胡乱げな視線を向けて、レミリアはため息をついた。

「まあ、それはおいおい聞きましょうか。とりあえず、咲夜、手伝ってちょうだい」
「かしこまりました。ところでお嬢様」

 エプロンをレミリアに着けながら、咲夜は問いを返す。

「今日はおひとりで?」
「ん、まあ、ね。向こうには蝙蝠つけてるから、心配はないわよ」
「はい」

 ぱた、ぱた、と照れを隠すような羽の動きに、どういう心理なのか悟った咲夜はそれ以上尋ねなかった。






「きー」
「あら」
「こんにちは」

 図書館に入ってきた蝙蝠と、それを従えた青年の姿に、パチュリーは一度だけ視線を上げた。
 正確には、従えられているのは青年の方なのだろうが。

「レミィは?」
「厨房です。僕は追い出されてしまいまして」
「あら、そう。そうね、今年もそんな時期か」
「そんな時期なのです」

 パチュリーは軽く頷きだけを返して書物に視線を戻した。
 いつもの光景に特にコメントすることもなく、彼は蝙蝠を手に乗せて一つ頭を撫でると、机の上にそっと置く。

「きー?」
「本を取ってきますので」

 わかった、と答えるように一つ羽を羽ばたかせ、蝙蝠は大人しくテーブルの上に座る。
 それを優しい目で見やって、彼はパチュリーに声をかけた。

「それでは、本をお借りします」
「ええ。貴方に丁度いいのをいくつか小悪魔に見繕わせてるから声かけてあげてちょうだい。向こうの棚の方で整理してるはずだから」
「ありがとうございます」

 一礼した彼は蝙蝠に、少し行ってきますね、と声をかけ、本棚の森の中に入っていく。
 それを見やりながら、きゅー、と小さく蝙蝠は鳴いた。器用に机の上に座っている。
 追いかけていきたいが、待てと言われた以上待ってやっている、という態度だった。本体同様、中々不遜な態度である。
 だが、不遜ながらも視線は彼の行った方向を見つめている。それに対して、パチュリーは軽く呆れたような息を付いた。

「貴女も過保護よねえ」
「きー、きー」

 そんなんじゃない、と抗議するような蝙蝠の鳴き声を、はいはい、と適当にあしらって、パチュリーは読書の続きに入ることにした。






「……側にいないと意味はないけど……まあいいか」
「お嬢様?」
「ううん、こっちのこと。咲夜、これからは?」

 生チョコだけでは味気ないからと、簡単なケーキにアレンジしている途中であった。
 実際、生チョコ自体がすぐに出来てしまうもので、レミリアが満足しなかったのも大きい。

「生地を作ってしまえば、後は焼いてデコレーションですね」
「よし、作ってしまいましょう」

 レミリアは頷いて、咲夜に指示をさせながら調理を進めた。その途中。

「……ん」
「どうなさいました?」
「…………ううん、何でもない」

 微かに紅い憮然とした顔で、羽を羽ばたかせながらレミリアは手を動かす。
 たまに、びく、と羽を動かすのを不思議に思いながらも、咲夜はレミリアの手伝いを完璧にこなしていた。






 程なく彼は小悪魔と戻ってきて、パチュリーの向かいの椅子を借りて、持ってきた本を開いた。

「きゅ、きゅー」
「はい」

 帰ってくるなり、待っていたように手に乗ってきた蝙蝠の求めに、彼はその頭を撫でる。

「可愛らしいですね、お嬢様ですか?」
「レミィの蝙蝠ね。それでも彼と同等以上の魔力はあるけど」

 パチュリーは小悪魔に紅茶を求めつつ応えていた。それを聞きながら、彼は手元の蝙蝠がすりよるに任せる。

「まったく、ここは図書館だという自覚はあるかしら」
「一応」
「ならいいのだけど」

 パチュリーは彼の方を向きもせずにそう呟いて、小悪魔が紅茶を注いだ手元のカップを手に取った。
 ここに来たときから予測を付けていたような声でもあった。
 彼の方の読書は遅々として進んでいない。蝙蝠がかまってかまってと催促し、それに一々彼が応じているからだ。
 勿論、彼も嫌々ながら付き合っているのではなく、むしろ楽しんで蝙蝠を愛でているのだから何の問題もないのだが。
 彼に蝙蝠が付いているのは、ひとえにレミリアが彼を心配してのことに他ならない。
 ならないはず、なのだが、どうもこの蝙蝠はそれを幸いとして彼に甘えまくっているようにしか見えなかった。
 きゅー、と鳴きながら、蝙蝠は彼の手にすりすりと頬を寄せている。
 その表情は何とも幸せそうで、少し微笑みを浮かべたまま彼はその喉元を撫でてやっていた。

「仲が良さそうで何よりね」
「可愛いですよ」
「その可愛がりようを見てたら十分伝わるわ」

 パチュリーの声には呆れが混じっている。彼にもそれは十分にわかっていた。
 だが、こうして可愛らしく寄ってこられると、どうしても愛でたくなるもので。

「……それはレミィ自身だっていうこともわかってる?」
「え? ええ」

 蝙蝠と揃って小首を傾げた後、彼はあっさり頷いた。

「レミリアさんの使い魔であり、レミリアさんの一部でもある、と。会話も出来なくないけれど、館でそれは必要ないからと聞いてますが」
「……それがわかっていればいいわ」

 パチュリーが言わんとするところはわからなくはなかった。
 おそらく、この子には幾分か感覚も共有されているのだろうこと、くらい。

「……それでも、可愛いから仕方ないのですよ」

 再び頭をなでると、甘えたような、きー、という声が返ってきた。






「さて、出来上がりです、お嬢様。……大丈夫ですか?」
「ええ。とりあえず、これでいいのよね」
「はい、十分すぎるものと思います」

 若干前衛的にチョコが刺さっているところもあるが、基本的なガナッシュケーキの体裁は取っている。
 生チョコはトッピングと、横に茶請けのように出来るよう二つに分けていた。そちらの方が良いのではという咲夜の進言に基づいている。
 それは満足だった。問題はそこではなく。

「じゃあ、咲夜、これ運んでおいて。私は彼とパチェ達を呼んでくるから。フランや美鈴も呼んでおいて」
「かしこまりました」
「じゃあ、行ってくる」

 言いながら、レミリアはほとんど駆け出すように厨房を後にした。
 残された咲夜が怪訝そうな顔をしていたのも気が付いていたが、それに対して説明はしなかった。
 咲夜ならばいずれ気が付くだろうし――こんなこと、口が裂けても言えるものか。
 そして、レミリアは図書館に着くと、盛大に扉を押し開いた。





 大きな音と共に、図書館の扉が壊されんばかりの勢いで開いた。
 蝶番が少し悲鳴を上げたが、十分強固な作りな作りのため、悲鳴を上げるだけにとどまった。
 これが館の別の部屋などであったら、壁ごと扉が粉砕されていたところだっただろう。

「何してるのよーっ!!」
「ああ、こんばんは、レミリアさん」
「図書館では静かにね、レミィ」

 落ち着いた二人とは対照的に、レミリアは大きく肩を上下させている。
 そして、彼の手元にいる蝙蝠に向かって、軽く手招いた。
 その仕草を受けて、蝙蝠は彼の顔とレミリアを交互に見る。
 やがて、ぴー、と彼に向かって一つ甘えた声で鳴くと、レミリアの元へ飛んでいき、彼女の羽と一体化した。

「まったく」
「それはこちらの台詞よ、レミィ」

 図書館であまりいちゃつかないでちょうだい、と、パチュリーは甘くない紅茶を飲み干してため息混じりに告げた。

「そんなつもりはないわよ」
「そんなつもりではないのですけどね」
「ハモらなくていいから」

 はあ、とパチュリーは緩く首を振る。どこか諦めきった様子にレミリアは不満げな気配を見せたが、言葉にしては何も言わなかった。

「ところで、お嬢様はどうしてこちらに?」
「出来上がったから呼びにきたの」

 小悪魔の問いにレミリアは簡潔に答えだけを述べた。彼とパチュリーは軽く頷いて立ち上がる。

「意外に時間がかからなかったわね」
「咲夜がいたからね。ということで、三人ともティールームに移動。もうみんな集まる頃よ」
「了解しました」
「はーい! あ、ではこちらの本は持って行きますね」

 小悪魔が彼とパチュリーが積んであった本を手にした。それを見て、青年は、ああ、と声を上げた

「小悪魔さん、僕のは自分で」
「いいんですか?」
「自分で読む分くらいは」
「いいわ、小悪魔。渡しておいて」

 レミリアの言葉に頷いて、小悪魔から本を受け取る。レミリアとパチュリーが、やれやれと言うような表情を交わした。

「まだ人を使うのは慣れないようね」
「まだ、中々」
「まあ、それもおいおいでしょう。レミィ」
「はいはい、焦らないわ。さ、行きましょう」

 そうして、四人は図書館を後にする。







 かくして、一同でささやかにチョコパーティをした後、レミリアと彼はレミリアの部屋に戻ってきていた。
 前々から一緒に休むことが多かった二人ではあるが、もう彼の部屋のものはほとんどこの部屋に移してある。
 というより、部屋自体も隣に移してしまった。ほぼ書斎のような扱いである。
 そして今、ベッドに横になってレミリアを見上げながら、彼は改めて感想を述べた。

「美味しかったですよ。ちょうどよい口当たりでしたし、甘すぎず苦すぎず、でした。読書もしたところでしたから丁度良かった」
「……読書はあまりはかどってはなかったみたいだけど?」
「まあ、それはそれで、と」

 じと目で上に乗っているレミリアに見下ろされながら、彼は困ったように微笑う。
 この体勢になった原因は、ベッドに腰掛けた瞬間押し倒された、ただそれだけなのだが。

「それに、あれが私と感覚共有させていたことも知ってたでしょう。なのに、あんな……」

 レミリアの頬が、微かに朱を帯びた。可愛いな、と思いつつも、口に出せば怒るのも目に見えている。
 第一、あれは甘えてきたのは向こうからだから、不可抗力であるとも思うのだが。

「ついつい」
「つい、じゃないわよ」

 むう、とむくれて、レミリアは彼の頬を引っ張った。

「いたいいたい、痛いですって」
「少しは反省しなさい」

 ため息混じりで落とされた言葉に頷きつつ、ふと、彼も言葉を口に上らせる。

「ところで、レミリアさん」
「なに?」
「あの子が僕に随分甘えてくれていたのは、どういうことなのでしょう?」

 意地悪な聞き方かな、と思わなくもなかった。
 あの蝙蝠がレミリア自身だとするならば、あれはレミリアが甘えてきてくれていたのと同義である。
 その言葉に、息をのんだようにレミリアは黙ると、視線を彷徨わせはじめた。

「……もしかして、本当に?」
「………………知らない」

 ぷい、とレミリアはそっぽを向いてしまった。これは本格的に機嫌を損ねただろうか。どう機嫌を直すかな、と考えたのも一瞬だけだった。
 不意に、レミリアがこちらに身体を倒してきたからだった。表情を見せないまま、彼の胸元に身体を近付ける。そして。


「…………きゅー……」


 レミリアは小さく、耳に届くかどうかわからぬほどの小さい声でそう鳴くと、彼にすり寄ってきた。
 耳は紅い。顔もきっと真っ赤なのだろう。照れながらも、彼の服をきゅっと握って寄り添っている。
 笑みを浮かべ、幸せな気分で、彼はレミリアを抱きしめた。

「可愛いですよ」
「……うるさい」

 照れたような憎まれ口を嬉しく思いながら、髪に指を絡ませる。
 抵抗することもなく、むしろさらに抱きついてくるレミリアを抱き返して、指を髪から背中に回す。

「……ありがとうございます」
「…………どういたしまして」

 感謝の言葉はいろいろなものに対して。レミリアもそれをわかっていて、だから返すのは一言だけだった。

「ね」
「はい」

 レミリアが顔を上げ、口唇に指を滑らせたのを見て、その求めに過不足なく応じる。

「ん、ん……」

 口付けは甘かった。今日食べたチョコと同じか、あるいはそれ以上の。
 口唇を舌で軽く舐めて、伺うように瞳をのぞき込む。薄く開かれたそれは微かに潤んでいて、ぞくりとしたものを背筋に感じた。
 小さく開いた口唇を舌で割り開いて、口の中に潜り込ませる。そのまま舌を絡ませて、思うがままに求めて。

「んん、は、っ、んん」

 空気を求めるように一度離した口唇から、ちろりと小さく舌がのぞいたのにまた煽られて、再び口唇を重ねる。
 今度は、歯列をなぞり、牙を舐める。牙に舌が触れたとき、レミリアの体が小さく震えた。
 それを楽しみながら、しばらく口付けを続ける。再び舌を絡めて、蕩けるような思いで、お互いを求め続けた。

「ん、ああ、は、ぁ……」

 しばらくの口付けの後、レミリアの頬を上気させて息を荒げていた。
 それがまた可愛らしくて、次は軽く額に口付ける。それを少しぼうっとした様子で受け入れて、レミリアは甘くねだってきた。

「ね、もっと」
「はい」

 貴女が望むだけ。そう応えて、再び口唇を奪った。今度は乱暴にせず、優しく、溶かすように。
 レミリアも、彼の背に手を回す。きゅ、と少しだけ強く抱きしめてくる腕に、彼もまた、強く抱き返した。





 甘い夜も、時間も、まだこれから。



Megalith 2012/02/16
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「どうも、香霖さん」
「やあ。言われたものは調達しているよ」

 ぱたん、と読んでいたらしい本を閉じて、霖之助は来訪した青年に応じた。
 小さな箱が、カウンターの上に置かれている。それだろうな、と見当をつけつつ、彼は霖之助に近付いた。

「随分ご無理を言いました」
「いや、いいさ。あらためてくれないか」

 頷いて、箱を開ける。紅い光が、箱の中から差したような錯覚にとらわれて、彼は満足げに笑った。
 光の正体は紅い宝玉だった。鮮血で染め上げたような、見事な、だが透き通ったブラッディレッドの宝石。ピジョンブラッド、というものだったか。

「うん、いいものですね」
「細工はどうするんだい?」

 霖之助の問いに、彼は宝玉を眺め透かしたまま応える。

「里の細工師に頼もうかと」
「金属の手配も大変だったろう」
「いろいろと伝手は。それにまあ、費用は範囲内に収まりましたから」

 彼は大事そうに懐に宝玉を収めると、霖之助に向き直った。

「金額は足りていますか」
「ああ。まあ、もう少し色を付けてもらっても良いかとも思ったんだけどね」
「それは今度こちらで買い物するときとしましょう」

 霖之助の軽口に、彼はそう笑って返した。





 次に向かった先は里である。

「こんにちは」
「おお、おお、これは、よくいらっしゃいました」

 老年の細工師が出迎えてくれた。差し出されたその少し皺の寄った手を握り返して、彼は笑う。

「お元気ですか」
「ええ、それはもう。どうなさいましたか」
「一つ、今日はお願いがありまして」

 この細工師とは顔見知りだった。まだ人間だった頃に仕事で顔を合わせ、人を辞めてからも作業場の修繕で話す機会があった。
 そして、その細工を見せてもらって彼は子供のように楽しんだのだった。むろんそのときは軽い砕けた口調だった。
 今こうした口調なのは、彼が客であること、そして妖であることに相違ならないだろう。何より、彼の素性はこの里では有名だ。

「何でございましょう」

 細工師はもうすでに予見しているような声だった。その予見に、彼は過不足なく応える。

「こちらで、作っていただきたいものがあって」

 そう、差し出したのは稀金属と、香霖堂で手にした紅い宝石だった。どちらも、どこに出しても恥ずかしくないものだと思っている。
 金属の方は加工が難しいらしいが、変なものでもここの者達は皆慣れているらしい。そういうことを、前に聞いた。
 この金属にしても、きちんと手順を踏めばそう加工には手間取らないはずだった。

「これは……」
「僕に用意できるものはこれだけです」
「……わかりました」

 細工師はじっとその二つを見つめていた。どんな細工にするのか、彼の中ではイメージが出来始めているのかもしれない。
 イメージの海に細工師が沈む前に、彼は肩を叩いてこちらに注意を向けさせた。

「先にお渡ししておきます」

 かちゃり、と音とたてて、彼は袋を細工師に渡した。細工師は中をあらためる。そして、軽く頷いた。

「足りますか」
「十分でございます。これは、ご婦人に」
「何よりも大切な方に」
「かしこまりました」

 余計なことは口にしなかった。どこまでも職人気質の者で、だからこそ彼はこの細工師を選んだのだ。

「これだけ、日をいただけますか」
「構いません」
「ではこの日に……ああ、そういえば、この日は最近流行りだした行事の日ですな」

 細工師は暦表を指でなぞりながら呟いた。

「ああ、言われれば。では、その日に合わせていただいて良いですか」
「十分でございます。何か細工に注文がございましたら承りますが」
「そう、ですね」

 一つ二つ、彼は注文を付けた。かしこまりました、とだけ細工師は応えた。





 外に出たときは、日が傾き始めていた。早めに帰らないとレミリアが起きてしまうかもしれない。

「あら、里に出ていたのね」

 声に振り向くと、咲夜がそこに立っていた。荷物を持っているところを見ると、買い物の途中だったらしい。
「ああ、咲夜さん。買い物でしたか」
「ええ。今日は一日館にいるものと思っていたけど」
「ちょっといろいろと」

 彼は曖昧に笑った。咲夜は少し探るような瞳で彼を眺めたが、すぐに合点が行ったように微笑む。

「お嬢様に?」
「……僕は隠し事さえさせてもらえませんか」
「わかりやす過ぎるのよ。もう少し腹芸を覚えないと筒抜けよ?」

 いやはや、と彼は頭をかいた。どうしてもこう、館の者には隠し事が出来ない。
 それでも、これの目的までは気が付かれていないはずだ。丁度、カムフラージュになるものもあることだ。

「お菓子も一緒に作りますかねえ」
「開き直るのも大事ね」
「まだ買い物はありますか?」
「そうね、ついでにいろいろ見ていくのもいいわ」

 例の行事のもの、と咲夜は判断したようだった。
 会話が最小限に済むのは有り難い。こうした友人関係というのは貴重なものだ。
 冬の空はまだ厚い雲がある。もうじきまた雪が降ってくるのかもしれない。

「雪が降り出す前には終わらせてしまいたいですね」
「そうね、私はともかく貴方は大変だものね」
「雪が溶けたら大惨事です。またレミリアさんにも怒られます」

 咲夜はくすくすと笑った。その様子を想像したようであった。

「では、お叱りを受けないように急いでしまわないとね」
「まったくです」

 彼は肩をすくめた。怒った顔も可愛いのだが、そうとも言ってはいられない。
 はあ、と白い息を吐き出して、彼は依頼したものの完成を思った。






 かくして当日。菓子を作り上げて冷やす間に、彼は外に出てきた。
 この日が雨だったらどうする気だったのか、と我ながら思うのだが、まあ降ってなかっただけよいとしよう。
 雲は薄い。春が近付いてきているのだ。レミリアは今年もテラスで春に変わっていく幻想郷を楽しむのだろうか。
 そう思いながら、店の戸をくぐる。細工師は既に待っていた。

「お待ちしておりました」
「こんにちは」

 出来ましたか、とは聞かない。細工師に対して失礼とも思ったのだ。

「こちらになります」

 小洒落た箱に、依頼物は入っていた。箱は、この店には不似合いな西洋風のものであった。
 そっと箱を開き、中を確かめる。思わず、唸りともため息ともつかぬ声が出た。

「……素晴らしい」
「でしょう」

 細工師は謙遜しなかった。笑んだ顔の皺が、その満足を表していた。

「箱も、随分気を遣っていただいたようで」
「なに、酒にもその酒に合う酒器がございましょう」
「なるほど」

 彼は笑った。鷹揚にも見えたかもしれない。満足げにもう一度中身を見つめると、箱を閉じた。

「ありがとうございます。不足分は出ていませんか」
「問題ありません」

 頷きを返す。足りなければ足りないと言っただろう。そういった信頼があった。

「お変わりになりましたな」
「変わりましたか、僕は」
「貴方様に限りませんよ。そういったものを頼まれるお客様というのは、どこか一つ越えたような顔をなさるものです」

 細工師はゆったりと笑んでいた。そうかもしれない。自身の中で、一つの区切りと目したのは事実なのだ。

「少しは男を上げなければ、呆れられてしまうでしょうからね」
「確かに。女性というものは、常に厳しい目をお持ちですからな」
「頑張りたいところです」

 細工師の冗談めいた口調に、彼は笑った。笑って、大事な人のことを思った。
 早く渡したいものだ。ああだが、少しは雰囲気というものを考えなければならない。
 そう思考を弄んで、彼は細工師に礼を言い、店を辞する。逸る気を抑えて、館への帰路を急いだ。






 菓子自体の出来は悪くなかったはずだ。だが、如何せん上の空であったので、味はどうにもわからなかった。
 レミリアやフランドール、パチュリーといった遠慮のない面々が、悪くない、と評したので、実際まずまずのものは出来ていたのだろう。
 柄にもなく、緊張していたのは否定しない。何とも情けないことに、彼は緊張していたのだった。

「変ね、今日の貴方は」
「そんなに変ですか?」
「ええ、とても」

 何かあったのかしら? と、レミリアは微笑う。彼は曖昧に微笑を返した。
 レミリアの部屋のベッドに腰掛けている、いつもの状況。
 いつもと同じなのに、今からのことを考えると緊張してしまう。懐の箱が、妙に存在感を主張していた。
 息を一つ吐いて、心を落ち着ける。情けないことこの上ないが、それはそれで自分らしいのかもしれない。
 そう思うと少しだけ気が楽になった。どのみち、格好をつけるのは似合わないのだ。

「レミリアさん」
「なに?」

 意を決して、彼はそっと、膝の上のレミリアの手に箱を握らせた。
 手のひらに収まってしまうほどのそれを見て、レミリアは目を瞬かせる。
 しばらく見つめた後、彼を見上げた。瞳には、言いようのない光が揺れている。

「……開けても良いわね?」
「はい」

 確認の途中から、もうレミリアは箱を開けにかかっていた。無論、それを咎めはしない。
 箱の隙間から、紅い光が見えた。だがそれは、香霖堂で見たときよりも鋭利な、だがそのくせ柔らかみを帯びたものに変わっていた。
 小さな羽をあしらった指輪に、紅い宝石が象嵌されている。文様は禍々しくも美しい。
 いつか手直しすることまで考えられた、そんな細工だった。
 幾つかだけ、注文を付けたのだ。それに過不足なく、細工師は応えてくれた。華美に走りすぎず、さりとて地味過ぎもせず。

「……いいものね」
「そう言っていただけると有り難く」

 彼は微笑み、レミリアの両手を握った。

「サイズも合っているはずです。付けてみてもらって、いいですか」
「ええ」

 レミリアは左手を差し出した。彼は指輪を台からはずすと、その薬指に填める。
 すっと吸い込まれるように、その指輪はレミリアの指に収まった。

「……随分と上等なものを使ったわね」
「銀は痛みますからね。けれども、レミリアさんには銀色が似合うと思ったのです」
「……そうね」

 レミリアは優しげに微笑み、その指をかざして見つめていた。
 その様子を眺めて、彼は、一つ息を吸い込んで呼びかける。

「レミリアさん」

 呼びかけに応えるように、レミリアは肩越しに振り返った。瞳は静かで穏やかで、紅いそれに、彼は何故か海を思った。
 深呼吸を一つ。そして、一言だけ。何の衒いもない、この一言だけを。

「結婚してください、レミリアさん」

 万感の想い、と表しては、語彙の乏しさを指摘されるだろう声だった。
 どこまでも真剣で、想いに満ちていて。こちらを見つめる愛しい人の、その紅い瞳をじっと見つめたまま。
 レミリアはしばらくじっと見つめ返してきて、そして、緩やかに微笑んだ。

「……その言葉だけは、受けておくわ」

 そう応えて、自分の言葉を確認するように、瞳を閉じて一つ頷く。

「ええ、そうね。その約束だけは、先に受けてあげる」
「……ありがとうございます」

 わかっている。正式に夫婦になるには、足りないものが多すぎる。
 それでも、形式は時としてとても大事なのだ。その形式の一歩を彼は踏みだしたに過ぎない。
 そしてレミリアは、それを受け、それに対して約束した。吸血鬼の約束は決して違えられることはない。

「絶対の約束、ですね、文字通り」
「ええ。約束できぬことを、吸血鬼は約したりはしないわ」

 レミリアの瞳は一瞬だけ遠くを映した。それが遙か遠い、昔に仕えていた女性を思ってのことだったと知るのは随分後になる。

「ねえ」
「はい」
「愛してる」

 レミリアは膝の上で体勢を変えると、彼と真正面から向き合い、その口唇を重ねた。
 いつまでもどこか不慣れなその口付けを、レミリアは何度も繰り返す。

「貴方が欲しいわ」
「今日は、僕から差し上げる日のはずですが」
「だから、私が求めているの。貴方を頂戴。全部全部」

 レミリアの口唇が再びこちらの口唇を塞ぎ、そして首筋に降りた。首筋に口唇を這わせて、レミリアは囁くように呟いた。

「血も、想いも、貴方自身も――全部、頂戴」

 甘えきっているのだと、彼はようやく理解した。この瞬間まで、彼の脳細胞は変に痺れたままであったのだ。

「レミリアさんが望むなら、どこまででも」

 けれども、それを理解した瞬間、彼の心は歓喜に包まれた。

「ええ、何であっても用意しましょう。僕が出来るだけのこと全部。全部差し上げます」

 ぎゅっと抱きしめて、その想いを告げる。嬉しくて爆発してしまいそうだった。
 誰より何より愛している人に、自分が伝えた分、あるいはそれ以上のものを返してもらったのだからなおさら。

「嬉しいです。嬉しいんです」
「ええ。でも、ちょっとだけ、緩めて」

 血が飲めないわ、と甘く嘆じたレミリアに、彼が血を与えられるようになるまでには、少し時間が必要だった。






 灯りに透かすようにして、レミリアが嬉しそうに指輪を眺めている。

「本当にいいものを作らせたわね」
「わかりますか」
「勿論。これくらいはね」

 レミリアの声は軽快で、まるで空中で躍っているかのようだった。
 きらきらと、レミリアの指に銀色の光が輝いている。時折紅い光も差す。
 目を刺しそうなその光は、けれどもどこか暖かくて、誇らしくも思えた。

「細工師に会いたいわ」

 レミリアの求めの意図は明確だった。このあたりは、やはり貴族的なものが前に出るのだろう。

「今度ご案内しましょう」
「そうして」

 レミリアは微笑んだ。どうやら相当気に入ったらしい。それが嬉しくて、こちらの頬まで緩んだ。

「そうね、ついでに、散歩に出るのも良いわね」
「里にですか。では、いいカフェや茶処を探しておきましょう」

 それを聞いて、レミリアの瞳が嬉しそうに輝いた。こうしたデートの約束というのは、そういえばあまりしたことがない。

「……約束」
「はい、約束です」

 くすりと、笑みを交わしあう。吸血鬼の約束は絶対。こんな子供染みたものでさえも。わかっているからこそ、今二人は約束した。
 しばらく、くすくすと笑った後、レミリアは彼の腕を引き寄せた。枕にしながら、少し眠たげに瞬きをする。
 少し疲れさせたかな、というこちらの思いを読んだかのように、レミリアは甘えた声で彼に求めてきた。

「もう少し、眠らせて」
「はい」

 胸にすり寄ってきたレミリアを、彼は優しく抱きしめる。






 冬が終わる。新しい芽吹きの季節が訪れる。
 丁度良い区切りになると思った。
 新しく芽が出るように。新たな季節が訪れるように。
 新たな約束を、貴女と契ろう。


Megalith 2012/03/17
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最終更新:2012年03月21日 21:31