「おーい、こっちはこんなんでいいのー?」
「おうさー」

 大晦日。地霊殿の台所は賑わいでいた。
 人間上がりであるために他の妖怪達よりもマメである、ということで指揮を任された青年の元、年始に向けての準備をしているのだ。

「お餅の追加分持ってきたよー」
「おー、ご苦労だお空」
「今何作ってるの?」

 ひょい、とのぞき込んだ空に、彼は説明する。

「雑煮の仕込みだ。明日の朝、出汁作ったらすぐ食えるようにな」
「わーい! でも何だかお餅少し小さくない?」
「去年喉詰めかけただろ焦って食って。今年は雑煮に入れるのは小さめだ」

 その一件から、来年は空がはしゃぎすぎて事を起こすのを未然に防ごう、と、燐と二人で決めいる。

「えー」
「焼く方のはきちんとした大きさだから心配すんな」
「わかった!」

 ばたばたと嬉しげに羽を動かす空に苦笑した彼に、別方向から声がかかる。

「お酒はこんなもんでいいのかな」
「おう、お燐お疲れ。そうだな、そんなもんでいいだろう。お節も直に出来るから、そうしたら蕎麦を作るか」
「お、いいねえ」
「二人ともお疲れさんだ。ああ、出汁巻きの味見するか?」
「「するー!」」

 労いの意味も含めて、二人に小さく切った出汁巻きを渡す。

「あ、美味しい」
「ん、いい味だね。いいんじゃないか」
「そいつぁよかった」

 微笑って、彼は後ろから尋ねてきたペットに応じた。今日ばかりは、人型になれるペット総動員である。
 話が終わるのを待って、燐が尋ねる。

「餅の大きさは大丈夫かい?」
「おう。前回の轍は踏まんさ」
「もー、お燐まで」
「前はそれでさとり様に心配かけただろうに」

 そう言った燐に続けて、彼はなだめるように言葉をかけてやる。

「ま、きちんと小さく作ったし、今回は大丈夫だ。でかい奴も綺麗に焼いてやるから」
「本当に?」
「ああ。だから今回は落ち着いて食えよ」

 頭を撫でてやると、空は楽しげに頷いた。それを見ながら、燐がやや呆れた声を上げる。

「全く、お空は子供だねえ」
「子供じゃないよー。ああでも、こうしてるとお父さんみたいな感じだよね」

 お父さんってよく知らないけどさ、と無邪気に空は彼を評した。

「……お父さん、て」
「あはは! 確かに確かに! 何て言うか、面倒見の良いところとかお父さんだね!」

 絶句して手を止めた彼の隣で、燐が腹を抱えて笑う。きょとんとしている空と笑い続ける燐に、しばらくしてから彼は我に返った。


「だ、れ、が、お父さんだっ!」


 どうしてこんな大きな子供を持たなければならないのか。それ以前にいろいろそれはおかしい。
 不意に、くすくす、と微笑う声が背後のドアの方から聞こえ、三人は振り返る。様子を見に来たらしいさとりが楽しそうに微笑っていた。

「お父さん、ね」
「さとり様、来てたんですか。そんなに笑わんでください」

 少し複雑そうな表情で応じる。ここの面々の中では最年少の部類に入るはずなのだが。

「『最年少の部類のはず』、ですか。ええ、一番下と言ってもいいくらいのはずだけど」
「なのに何でお父さんですか。地味にダメージでかいですよ」

 はあ、と彼はため息をつく。まだくつくつと笑いながら、燐が告げた。

「面倒見はいいもんねえ」
「そうね。助かってるわ」
「フォロー、なんですかね、そいつは」

 苦笑しながらも、彼は気を取り直した。あまり拗ねているわけにもいかない。まだ準備は残っている。

「あら、じゃあ私も手伝おうかしら」
「大丈夫ですよ。ああ、でも直に出来上がりますんで、食堂で待っててください」
「ええ」

 彼の言葉に、さとりは頷いた。
 現在の状況から、もう手伝うところはあまりない、というより、手伝うとかえって手間になると判断したのだ。

「……ねえ、お燐」
「何だい?」
「こいつがお父さんなら、さとり様はお母さんかな?」

 特に他意なく言ったその言葉に、燐は再び吹き出した。

「……お空、お燐」

 一瞬で顔を紅くしたさとりが、静かに二人に言う。

「あまり、からかわないで」
「にゅ?」
「さとり様、言っては何ですが、お空は割と本気ですよ」
「『あたいと同じ事思ってたみたいですけど』、ですか」
「…………お前らなあ」

 自分も顔が紅くなっているだろう事を自覚しながら、彼は再びため息をついた。
 空にしろ燐にしろ、悪気がないのはわかっている。だが、まあ、いろいろと考えてしまうのだから、勘弁してほしいものだ。

「もう……何か、せめて準備できることはない?」

 さとりが話題を変えようとしていることに気が付いて、彼は思考を巡らせる。

「ええと……ああ、それなら、そちらの器を向こうに運んでもらえますか。お燐とお空も」
「あいよー」
「はーい」

 運んでいく姿を見送りながら、彼はぶつぶつと呟く。

「お父さん、お父さんか。そんな歳じゃないはずなんだがなあ」

 結構根は深かった。





「初詣、ですか」
「ええ。いろいろと上には世話にもなっているし、新年の挨拶も兼ねてね」
「だとすると山と麓と両方ですかね」

 準備した蕎麦を食べながら、彼は頷く。

「そうね、何だかんだで両方に世話になってるから」
「あの巫女は苦手ですけどねえ」
「うん、いきなり喧嘩しかけてくるんだもん」

 どっちだろう、と思いながら、彼は蕎麦をすすった。良い味が出ている。我ながらよく出来た。

「そうね。美味しいわ」
「さとり様にそう言ってもらえるんなら上出来ですね」
「こいし様も一緒にいたらよかったのにねえ」

 空が残念そうな声を上げる。こいしは何処にいるのかわからない。今日が新年の始まりだというのもわかっているのかどうか。

「またどこか、ふらふらしているのね」

 さとりは微苦笑気味の表情を浮かべた。こいしを一番心配しているのは、さとりだと誰もが知っている。

「上に出たら、こいし様探しながら行きましょうか」
「そうですよ。よく山の神社や麓の神社にもいるみたいですし」
「私も探します、さとり様!」

 三者三様の言葉に、さとりは微笑んだ。

「ありがとう」
「では、そのついでに里にちょいと顔を出していきますかね。ああ、命蓮寺の方にも」
「挨拶周りが多いねえ」
「世話になってるとこは結構あるからな」
「どうせならみんなで行きましょうか。私も挨拶が必要でしょうし」

 そうさとりが言って、これからの方針が決まった。




 地底から地上に出て、守矢神社を周り、博麗神社に来たところでちょうど初日の出の時刻になった。




「ああ、初日の出ですね」
「ええ、久しく見ていなかったわ」
「去年も地底でしたしね」

 博麗神社の境内から、さとりと並んで日の出を眺める。
 境内には珍しく、ぽつぽつと人の姿も見られる。流石に正月には多少の参拝客は来るようだ。

「今年もよろしくお願いします、さとり様」
「ええ、よろしくね」

 気の利いたことの一つも言えればいいのだが、まだそういうのはどうも苦手だった。
 ありきたりな言葉になってしまって、何とも言えない気分になる。

「大丈夫よ」
「さとり様」
「想いは、きちんと伝わっているから」

 そう言って、さとりは彼の手を取った。だいぶ冷えていて、少し気遣わし気に彼は声をかける。

「寒くないですか」
「少し、ね。でも大丈夫」
「こうしてたら、少しは暖かいですかね」

 そう、彼は指を絡めるように手を握った。

「去年もいろいろあったし、今年もいろいろあるだろうけど、よろしくです」
「ええ、私からも。よろしく」
「あんたら、いちゃつくんなら余所でやりなさい余所で」

 背後から霊夢が呆れ気味の声をかけてきた。

「ああ、あけましておめでとさん」
「あけましておめでとうございます」

 言いながら手を離す。いつから見られていたかはわからないが、やはり気恥ずかしい。

「まったく、照れるんなら最初からやらないでよ。で、どうしたの」
「正月に神社と言えば初詣しかないだろう」
「へえ、随分殊勝じゃない」
「『何にしろお賽銭もらえればそれで良いわ』ですか」

 さとりに読まれても、霊夢は何処吹く風だ。泰然自若というか、気にも止めてないらしい。

「それはいいんだけど、あいつらは放置するな」

 見れば、空と燐がガラガラと神社の鈴を鳴らして遊んでいる。

「こら、お空、お燐! あんまり遊ぶなよー!」
「二人とも、こっちにいらっしゃい」

 さとりが声をかけると、二人はこちらの方に駆けてきた。

「日が昇ってるぞ。これも見に来たんだろ。参拝は賽銭投げ込んでからにしろ」
「ああ、そうだったそうだった」
「わー! 綺麗ー!」

 空は楽しげにそう言って、鳥居の上に上がってしまう。それを追うように、燐もその隣に並んだ。

「まったく、少しは落ち着けよ、二人とも」
「……何だか、保護者っぽくなってるわよ」
「『もっと言うならお父さん』、ですか……それはちょっと傷ついてるようなのでやめてあげてくださいな」
「……あんたの言葉がとどめ刺したみたいだけど」

 落ち込んでるわよ、と、霊夢は額に手を当てて何とも言えない表情をしている彼を見遣った。




 しばらく神社で参拝だの神籤だのを終えた後、さてそろそろ里に行くか、ということになった。

「早めに終わらせないと。地霊殿帰ってからもやることありますしね」
「ええ、そうね」
「慌ただしいわねえ」

 霊夢にそう声をかけられて、彼が応えた。

「まだいろいろやんねえといけないのもあるしな。年始めだからいろんな初物があるし。初売りはこれから行くが」
「そうだね、初夢とかー!」

 無邪気に合いの手を入れた空に、彼は苦笑した。

「まだ日が昇って間もないのに寝る話なのか」
「でもいいかもねー。初夢をみんなで見る、っていうのもいいんじゃない?」

 背中に急に重みを感じて振り向くと、さとりの背中にこいしがしがみついてきていた。

「こいし様。あけましておめでとうございます」
「おめでとー。ね、そうしようよ、お姉ちゃん」
「……ええ、そうね」

 神出鬼没の妹にため息をつきながら、さとりは頷く。
 少し残念な思いがする気もしたが、何故そう思ったのかは考えないようにした。

「……さとり様が決めたんなら、俺からは特に言うことはないですが」

 ふむ、と彼は少し考え始めた。だとすると、夜遅くならないように早めにいろいろ終えてしまうのが良いか、等々。

「じゃあ、今日はみんな一緒ー」
「最近寒いし、暖を取るには丁度良いかねえ」
「……端から聞いてると、凄い会話してるわよあんたら」

 空と燐の言葉まで聞き終わった霊夢が呆れ気味に言う。その思考を読んで、さとりはため息をついた。

「『随分大変そうだけど』……って、そういうことはないですよ」
「……? あああ、霊夢何か勘違いしてるだろ!? 何もないからな!」
「うん、そうだろうなとは思うけどね。そういう会話してると誤解されるわよ」

 本気では考えていなかったようで、霊夢は随分あっさり頷く。そんな甲斐性はないだろうと考えていた。

「……気を付ける。いや俺が気を付けてもあまり意味はないんだろうけど……」
「ま、頑張りなさい」
「すみません、いろいろと」

 さとりはため息をつきながら、背中で首を傾げる妹の髪を撫でた。それと同時に、彼の思考に同意する。

「『ここが山でなくて良かった』、ですか。確かに」
「天狗だのに聞かれたらまた騒動になるしね。まあ、それはそれで退屈しのぎにはなるだろうけど」

 完全に他人事の立場で、霊夢はそう言い放った。




 その後、里と寺を挨拶やら買い物やらをして巡り、旧都を通って地霊殿に戻る頃には夕刻を過ぎていた。
 改めて新年の挨拶を交わし、お節やら雑煮やらを夕食にした後、早めに休むことになった。
 前日から動きっ放しなのもある。どのみち、早めに休むに越したことはなかった。




「……あれ、何でみんなもう準備万端なんですか」

 風呂上がりに台所で水をもらって部屋に戻ってきた彼は、既にベッドの上に座っているさとり達を見つけて目を丸くした。
 今日は一緒に休むことは周知のことだったので、一度部屋に戻ってから何処で休むのか聞きに行こうと思っていたのだが。

「ああ、ええと、そろそろ来る頃かなと思って」
「遅いよー」

 ベッドの上で燐と空を抱いたまま、こいしがそう手を振る。腕の中の燐と空が、みゃあ、かあ、と同意するように鳴いた。

「ごめんなさい、驚かせたわね」
「まあ、驚きはしましたが」
「少し前からお姉ちゃんが来たそうにしてたから、一緒に待ってたのー」
「こいし!」

 さとりが慌ててこいしを止める。何となく嬉しくなって、彼は微笑んだ。

「ああ、その、お待たせしました」
「ん、ええ、いいの。急かそうとしたわけじゃないから」
「でも、俺が来るまで少し冷えちまってるでしょう」

 そう言いながら、彼はベッドに近付き、さとりの手を取った。やはりだいぶ冷えている。

「ああ、やっぱり冷えてる。俺が風呂最後にもらってますからね」
「これは、その、貴方がお風呂上がりだからだと思うのだけど」

 でも、ありがとう、と、さとりは微かに頬を赤らめながら微笑んだ。

「らぶらぶなのはいいからさ。もう寝ようよ。貴方も冷めちゃうよ」
「う、ああ、すみません」

 くい、と水を飲み干して、サイドボードにコップを置き、ベッドに上がる。
 不意に、昼間霊夢に呆れ顔で言われたことを思い出した。確かに、慣れてきたとは言え、これはどうなのだろう。

「……気にしなくて、いいのよ」
「そうだよ。私達がこうしたいって思ってるんだから」
「……さとり様はともかく、こいし様?」

 心を読んだのだろうか。その心の中の問いにはさとりが首を振った。

「いいえ、読んでるわけではないわ。無意識なのね」

 そう、こいしの頭を撫でて、優しい表情をする。

「無意識、ですか」
「そう。けれど、無意識だからこそ、本心でもあるのよ」
「そうそう、特に、お姉ちゃんはね」

 そう言いながら、こいしは彼の腕を引き、こいしとさとりの間に座らせた。

「お姉ちゃんも貴方も、早くくっつきたいのに我慢しちゃダメだよ」
「こ、こいし」
「ほらほら、横になろう?」
「え、ええ……ぐお!?」

 彼が横になる前に、燐と空が腹部に突っ込んできた。仰向けに倒れて、彼は額に手を当てる。

「あー、わかったわかった。布団になってりゃいいんだろ」
「にゃあ」
「くあ」

 やる気のなさそうな声に、彼は一つため息をつく。その両腕を引かれて、左右に視線を動かした。

「じゃあ、私はこっちー」
「私は右腕ね」
「好きにしてください。俺はどのみち」

 言いかけた言葉を飲み込んで、彼は首を振った。

「……ん、それは、その」
「え、何? 何考えたのー?」
「何でもないです」
「えー」

 こいしは不満そうに彼の腕を揺さぶる。

「勘弁してください……」
「……私のものだから、ということ、よね」
「さとり様」
「ん、らぶらぶなのはよくわかったよ」

 こいしは満足気に言って、楽しそうに言う。

「私は、貴方がお姉ちゃんを大事にしてくれるのが一番だもの」
「そりゃ、まあ、当然ですが」

 彼は照れた声で応えた。腹の上で、空がばたばたと羽を動かし、燐も何事か鳴く。

「何かお前らの言ってることがわかるような気がするよ。大丈夫、泣かせもしないって」
「ふふ、よくわかったわね」
「いつも言われてますからね。泣かせたら容赦しないって」

 くすくすと微笑うさとりの言葉に苦笑していると、こいしがにこにこしながら腕を引いた。

「でも、お姉ちゃんには伝わってるのかもだけど、きちんと私も聞きたいなー」
「……え」
「そうしたら安心できるもの。ほらほら、一年の計は、って言うし。お姉ちゃんへの想いをどうぞ」
「えええ、何でそんなことに」

 助けを求めようとするが、二匹は到底助けようなどと思っていないようだし、さとりは彼の肩に額をつけて表情を隠してしまっている。
 耳まで紅くなっているから、気恥ずかしいのだろうことはわかる。

「ああ、その」

 さとりが大事なことなど、言葉にするまでもないのだ。何より大事で、泣かせたくなくて、幸せになってほしくて。
 上手く言葉にできるかは怪しかったが、それでも、彼は頑張って口を開いた。

「……俺は、さとり様が何より大事だし、幸せに、したいって思ってる。これで、いいですか」

 右腕だけでさとりを抱きしめて、そう呟く。想いを全部言葉には出来ないけれど、大事なことは伝わるはず、だ。

「……わあ、まるでプロポーズだね!」
「…………え、あれ?」

 そんなに凄いことを言っただろうか。自分の言ったことを反芻して、彼は顔を真っ赤にした。

「……あああ、その、あの」

 そこまでのつもりではないのだ。そういう言葉はもう少し凝った言葉にしたいのだが。
 何と言ったものかと困っていると、右腕の中のさとりが身動ぎした。

「……ちょっと、痛いわ」
「ああああ、すんませんさとり様」

 だが、腕を緩めても、さとりは彼の服を握りしめたまま、離れようとしなかった。

「……嬉しい、わ。ありがとう」
「…………いつも、言葉が足りなくてすんません」

 さとりが首を振る気配が伝わってくる。それに安心しながら、彼は大きく息をついた。

「さ、こいし様、もう良いでしょう。寝ますよ。灯り落とします」
「はーい」

 一時的に片腕を解放してもらって、灯りを落とす。暗くなると、急に眠気が襲ってきた。

「お疲れ様」
「ああ、ええ、お疲れ様です」
「うん、お疲れ様だね」

 三人でそう言ってくすくすと微笑いあって。

「んでは、おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
「おやすみー」

 目を閉じると、あっという間に意識が遠くなっていくのを感じた。
 ああ、そういえば初夢だな、と思い出す。この分だと、良い夢が見られそうだ。
 こうして家族と、大事な人と、一緒に眠れるのなら。


 きっときっと、いいゆめがみられるにちがいない。






「……寝ちゃった、かしら?」

 さとりの囁きに、返ってくるのは彼の寝息だけだった。

「……私も、大事よ。貴方が大事で、幸せにしたいと思ってるわ」

 そっと、彼にだけ届くくらいの声で。彼の耳元に口唇を寄せて。

「…………貴方が、言ってくれたのに、こういうのは卑怯だってわかってるけど」

 それでも、と、さとりは彼の頬に口付けを落として、微笑む。

「今度は、起きているときに」

 だから、今は。

「おやすみなさい、良い夢を」

 そして、と、さとりは思う。

 この愛しい人の側で見る夢はきっと優しく、暖かいものだから。
 何も、心配せずに眠れるから。
 この優しい温もりに包まれて、眠っていよう。


 さとりはゆっくりと目を閉じると、彼に出来る限り身を寄せた。
 年の始めから、こうして眠れるのは、きっと幸せなのでしょう。
 そう思いながら、さとりも眠りに落ちていった。




 今年も、良い年でありますように。



Megalith 2011/01/05
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 これは夢だ。
 そう思いながら、さとりは薔薇の茂みを歩いていた。
 茨が刺さることはない。ただただ、不安感だけがあった。

 ――こんな夢、久し振り。

 小さく呟くのは、不安を逸らしたいから。
 いつもは、こうした漠然とした不安の中を歩くだけの夢だった。
 けれども、今回は違う。どこか確信的な不安がある。
 さとりは薔薇の中を歩き続けた。どこまでも続く、薔薇の茨の道。
 様々な色の薔薇が咲いている。咲いている夢は、初めてかもしれない。
 だから、道の先に開けた場所を見つけたとき、一瞬足を止めた。
 先に何があるのか、わかる気がした。見たくない。見たくないのに、足は勝手に再び進みだす。

 ――嫌。

 そう思うのに、足は止まらない。薔薇の茂みの中の広場。その真ん中に寝転がっている人。
 周りには白い薔薇が多くなってきた。いつかの薔薇の花が、数え切れぬほど咲いている。
 ああ、昼寝をしているのか。いつものように。そう思う。そう思いたい。
 けれども、近付けば近付くほどわかる。
 その肌に生気がないこと。息をしていないこと――生命の気配が、全くしないこと。
 駆け寄るように近付いて、その肌に触れて、それが恐ろしいほど冷たいのに気が付いて――



「――――っ!!」


 さとりは、彼の名を叫びながら飛び起きた。






「……夢、ね」

 ぽす、ともう一度ベッドに横になりながら、さとりはぽつりと呟いた。

「……嫌な夢」

 そこはかとない不安を抱く夢は、時に見ることもあるものだ。
 けれども、ここまではっきりとしたものは珍しい。それが、目が覚めても不安に駆られている理由なのだろう。
 ベッドを見回す。久し振りに一人だ。普段は誰かしらペットが居るのだが、今日は誰も居ない。
 だからあんな夢を見たのだろうか。そう一瞬思って、さとりは苦笑気味に首を振った。

「……でも、そうね」

 彼の顔を見に行くくらいなら、別にいいだろう。今更、傍に誰か居ないと不安になるような子供でもないけれど。
 あんな夢を見てしまったのだから、これくらいは。
 そう自分に言い訳をしながら起き上がり、ガウンを羽織る。

「後は……」

 手に小型のランタン――この前、河童が改良に成功したとかで鬼経由で貰ったもの――を手に、さとりは廊下に出た。




 彼の部屋の前に立って、さとりは一つ深呼吸した。
 顔を見るだけ、それだけだ。それだけで、きっと自分は安心できる。
 ノックをしようとして、やめる。起こしてしまっては申し訳ない。
 そっとドアを開く。鍵がかかっていないのは相変わらず無用心だが、基本鍵をかける必要はない、と彼自身が言っていたことも思い出す。

『まあ、どうしても困るときは鍵かけますが、それ以外なら別に誰が来ても』

 そう、微笑っていた。それに甘えて、さとりは中を覗き込む。

「……あら?」

 部屋の中に気配がなかった。とくん、と心臓が鳴って、それを隠すようにさとりは中に入る。

「寝てる、の?」

 声に応える声はない。寝息さえも聞こえない。不安が蘇ってきて、さとりはベッドに近付く。
 彼の名を呼ぼうとして、さとりはベッドが空であることに気が付いた。

「……っ」

 声をあげそうになって、さとりはそれを押し留める。
 どこに行ったのだろう。こんな夜中に。もう寝ている時間のはずなのに。
 パニックになりそうな心を抑えて、さとりは後退りする。とにかく、ドアを開けて探しに――

「お、っと」

 出ようとしたところで、いきなり目の前のドアが開く。
 水差しとコップ、灯り用の小さな蝋燭を置いた盆を持って、目を丸くしている彼が、そこにいた。

「あれ、さとり様、どうしてここに……わっ!?」

 何も言わず、さとりはただ、彼に抱きついた。




 青年は面食らっていた。喉の渇きに水を取りに行って、戻ってきてみれば部屋の中に主が居る。
 そしてその主にいきなり抱きつかれれば、誰だって驚くというものだ。

「さとり様、一体どうし……さとり様?」

 抱きついている、さとりの肩が震えていた。泣いているのだ、と気が付いた彼は一瞬混乱したが、それを無理に押さえつける。

「さとり様、とりあえず、落ち着きましょう。座りましょうか」

 こく、と、頷いたさとりに頷きを返して、彼はさとりと一緒にベッドに腰掛ける。サイドボードに盆を置いて、蝋燭だけを消した。
 ランタンがあるので、そう暗くはない。そのランタンもさとりの手から受け取って、サイドボードに置く。

「さとり様」
「ん……」

 髪を撫でると、さとりはようやく顔を上げた。泣いていたからか、目が若干赤い。
 何より、気にかかったのはその表情だった。こんなに不安そうなさとりを、彼は初めて見たかもしれない。

「……どうしました?」
「その、少し」

 出来る限り優しく訊くと、さとりは我に返ったのか、恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。

「……怖い夢でも、見ましたか」

 どういう連想からか発想からか、彼自身にもよくわからないが、ふと思ったことを口にしてみる。
 さとりは驚いたように彼を見上げ、そして、軽く頷いた。

「そういう夢は、話しちまったほうがいいって言いますが」
「………………よく、覚えていないわ」

 長い沈黙が少し気になったが、覚えていないのなら無理に聞き出すこともないと思いなおす。
 どうしようか、と考えて、とりあえずは、と水差しからコップに水を移す。

「飲みますか?」
「ええ」

 大分落ち着いてきたかな、と思いながら、それでも彼はさとりの髪を撫でるのを止めなかった。

「……ありがとう。ごめんなさい、随分心配かけたわ」
「いえいえ。落ち着いてくれたならそれで」

 あんなに取り乱したのを見たのは初めてだったから、少し驚きはしたが。

「私も驚いたわ。部屋を訪ねてみたらいないんだもの」
「ああ、昼間ちょっと中途半端に昼寝したんで寝つけなくて。本読んでたんですが喉渇いちまって、それで」
「そう、そのときに丁度、私が来たのね」
「すんません、タイミングが悪かったですね」

 さとりは軽く首を振った。そして、ぽつりと呟く。

「夢、本当は覚えているの」
「そう、ですか」
「……貴方が、いなくなる夢。冷たくなってしまっている、夢」

 きゅ、と、コップを握っているさとりの手に力が入る。

「そんな夢を見て、それで」
「……ああ」

 それでか。それで、自分がいなかったことにあんなに動揺していたのか。

「……ええ。貴方が、どこかに行ってしまった気が、して」
「……俺は此処に居ますよ、さとり様。どこにも行かない」
「……うん」

 抱き寄せると、そのまま素直にさとりは腕の中に納まった。軽く震えているのは、夢を思い出したからだろうか。
 実を言えば、少しだけ嬉しさもある。そこまで想われて、嬉しくない者はいないだろう。

「……私は、怖かったのに」
「すんません、こればかりは」

 申し訳なさげに苦笑して、彼はさとりを包むように抱きしめる。

「けど、俺はさとり様のものです。いつだって、さとり様の傍に居ます。いなくなったりしない。それだけは絶対、だから」
「……うん」

 嬉しそうに頷いて、さとりは彼の胸に頬を寄せてきた。まだ少し震えていたが、その震えが収まるまで、抱きしめていようと、彼は決めていた。






「ありがとう。その、落ち着いたわ」
「ん、良かった」

 柔らかに微笑う彼に、さとりも笑みを返す。そして、身体を離した。

「ごめんなさい、夜中に」
「いや、こんなことならいつでも」
「ありがとう」

 サイドボードにコップを置いて、さとりはそこにあった栞に気が付く。押し花を使ったものだった。

「……いつかの、薔薇の花びら?」
「ああ、はい。あのときのです。さっきまで、本読んでたんで」

 それを使っている、と、彼の心が伝えてくる。白い薔薇の花びらの栞。それを撫でて、さとりは尋ねた。

「花言葉は、知らないのよね」
「ああ、はい。調べようとは思いつつ」
「いいわ、まだ知らなくても」
「知ってるなら、教えてくれても」
「内緒。じゃあ、私はそろそろ戻るわね」

 さとりは悪戯っぽく微笑んで、立ち上がろうとした。そろそろ戻らないと、明日にも差し支える。
 本当はもっと傍に居たいが、そういうわけにもいかないだろう。そう思ったさとりの手を、彼が不意に掴んだ。

「え?」
「あ、ああ、すんません、考えるより先に動いちまった」

 そう言いながら、彼は軽く首を振って、さとりに告げる。

「良かったら、今日、ここで休みませんか」
「え……?」
「あ、と、別に変な意味はないです。えと、その、そういう夢を見たときは、誰かが傍にいると安心できるかな、って」
(それに、今のさとり様、一人にしたくない)

 彼の想いに、さとりは胸を突かれた思いになった。ああ、本当に。本当に、彼はどこまで自分を想ってくれるのか。
 先ほどとは違う意味で少し泣きたくなって、それを誤魔化すように、さとりは微笑んだ。

「……じゃあ、お願いして、いい?」
「勿論」

 手を伸ばした彼の腕の中に、さとりは再び納まる。体温と心臓の音が、さとりを安心させた。

(……細いな、相変わらず)

 彼の声が、心に聞こえてくる。いつも、抱きしめられる度にそう思われている気がしてきた。

「貴方が、大きいだけだと思うのだけど」
「そうかな。俺そこまで太ってはないはずなんですが」

 こっちに来てから運動量増えたし、と笑う。

「鍛えられてるものね」
「まったくです。んじゃ、休みますか」
「ええ」

 抱きしめられたまま横になって、彼が灯りを落とすのをさとりはぼんやりと見つめた。

「ね、白い薔薇の花言葉、だけど」
「え? ああ」
「『わたしはあなたに相応しい』って意味もあるのよ」
「っ……! それは、その、えっと」
「ふふ、知ってるわ。貴方が知らなかったことも。けれど」

 嬉しかった、と、さとりは呟く。

「……あの頃を思えば、大それた意味だなあ、とは思いますが」
(今なら、少し自惚れてもいいだろうか。拙いかな、やっぱ)
「……『自惚れてもいいだろうか』ね。いいと、思うわ。私も、同じものを貴方に返したのだもの」
「……ああ」

 彼の表情が、暗がりの中で少し和らいだように見えた。

「…………さとり様、やっぱり、俺はさとり様が好きですよ」
「私も、大好き」

 手を伸ばして彼の口唇をなぞると、その求めを理解してか、口付けが返ってきた。

「……間違ってました?」
「いいえ。正解」

 だから、もう一度。そう呟いた口唇を、再び塞がれる。

「……ん」
「……安心、してもらえてますかね」
「ええ、安心、出来るわ」

 少し鼓動も速くなったけれど、それを上回る安心感が、さとりを包む。

「それでは、おやすみなさい、さとり様」
「ええ、おやすみなさい」

 抱きしめたまま髪を撫でてくれる彼の手に身を委ねながら、さとりは目を閉じた。
 彼の手つきは、本当に優しくて、穏やかで、何よりも安心できて。
 今度は、とても安心して眠れそう。
 そう、さとりは彼のぬくもりを感じながら、眠りに着いた。



 今度見る夢は、きっと優しいものだという、確信を抱いて。


Megalith 2011/01/23
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 地霊殿の台所から、何かを作る音と甘い匂いが漂っていた。
 それに首を傾げて、火焔猫燐は台所をのぞき込む。

「何やってんだい?」
「おお、お燐か。ちょうど良いところにきた。味見してくれるか」

 妙に気合いの入った青年に勧められて、燐は小さなパンケーキのような菓子を口にする。

「ん、美味しいじゃないか」
「それに蜂蜜だのチョコレートだのをつけて食べるようにしようと思ってな」
「美味そうだねえ。でもどうして急に」
「ああいや、外でバレンタインだったのを思い出してな」

 そう言いながら、彼は幾つもパンケーキを皿に盛っていく。

「みんなで茶会でも出来たらいいかと思って作ってみた。
 ペットの中にゃチョコ駄目な奴もいるかと思ってな。いろいろ変えてる。人型じゃない奴ら用に甘味抑えた奴もある」
「……手が込んでるねえ」

 そこまで気を回すからお父さんだと言われるんだ、というのは黙っておく。

「そういえばバレンタインが何だの、って地上でも言ってるとか聞いたね。外から入ってきたんだ」
「案外、紫さんとかが広めてたりとかな」

 そう言いながらいろいろ用意する彼に、燐は首を傾げた。

「でも、確かそれって普通女から男に、じゃないのかい?」
「世話になった相手に菓子を渡してもいい、っていうのもあったはずだ」
「さとり様から欲しい、とかは思ってないのかい?」
「……そりゃ、もらえりゃ嬉しいけど、そういうのをねだるのは違うだろう」

 このイベント知ってるかどうかも知らないしさ、と彼は苦笑気味に笑った。

「ふうん、まあ、あんたがそうならそれでいいけどね。で、ここは一段落したのかな」
「一応な。足りなくなっても、作ろうと思えば簡単に出来るし」
「じゃ、あたいがここ準備してやるから、さとり様とかこいし様とか呼びに行ってきなよ」

 燐の申し出に、彼は首を傾げる。

「お、こいし様も帰って来られてるのか。だが、いいのか?」
「いいっていいって、先に味見させてもらった礼だよ」
「んじゃ、行ってくる。すまんな」

 ひら、と手を振った彼が食堂を抜けて廊下を歩いていったのを確認して、燐は声をかけた。

「さとり様、もういいですよ」
「ありがとう、お燐」

 食堂の物陰に座って隠れていたさとりが姿を現す。燐は呆れ気味にため息をついた。

「そんなところにいないで出てくれば良かったでしょうに」
「『隠れることでもないでしょう』、ですか。けれども、やっぱり気恥ずかしいから」

 さとりはそう言いながら、台所の隅に置いてある、簡易型の氷室を開けた。
 河童が断熱材の箱とやらを改造して簡易冷蔵庫にしたものだが、結局誰もが氷室と呼んでいたりする。

「あいつ、大喜びしますよ、きっと」
「そうだと、嬉しいけれど」

 そう言いながら取り出した容器には、綺麗に象られたチョコレートが並んでいた。
 さとりが昨日のうちに作って冷やしておいたものだった。
 台所には結構な確率で彼がいるので、いない時間にこっそりと作っていたらしい。

「へえ、綺麗なもんですねえ」
「外からの料理の本に書いてあったの。材料調達を頼んでしまってごめんなさいね、お燐」
「いえいえ。おこぼれはいただきましたし」

 燐はそう笑い、さとりも笑みを浮かべた。香霖堂や里に買い出しに行ったのは彼女の仕事だった。

「しかし、あいつもそこまで想われていて羨ましい限りです」
「あ、あまり、からかわないで」

 さとりは顔を赤くしながら、丁寧に箱に詰めていく。
 この様子を彼に見せてやりたいような、それは悔しいような気分が燐の中に広がる。

「『この様子見せたらそれだけで喜びそうだもんなあ』、ですか」
「う。だって、さとり様」
「……ふふ、ありがとう、お燐。貴女達の気持ちも、きちんとわかっているわ」

 さとりは柔らかに微笑み、箱を閉じて燐の頭を撫でる。

「けれども、同時にごめんなさい、でもあるわね。彼のことは、やっぱり、特別なの」
「……わかります、わかってます、さとり様」
「ありがとう」

 あいつが来てから、さとりの気配はさらに優しくなった、と燐や空といった古くからのペット達は感じている。
 悔しいけれどそれは事実で、それが嬉しいのも事実なのだ。悔しいからこそ、彼を弄って楽しみもするが。

「程々にしてあげてね」
「それは……お約束できないかもですね」

 それを聞いて、さとりは楽しげにくすくすと微笑った。そこにあるのが、悪意でなく信頼だとわかっているからだろう。

「さて、そろそろ彼も戻ってくる頃ね」
「そうですね。ああ、来ましたよ」

 燐は耳をピンとたてて、廊下の方を見遣った。




「おーい、お燐、さとり様見なかった……って、こちらにいらっしゃったんですか」
「ええ、ごめんなさいね。探させたかしら」
「ああ、いえ、その」
「ほら、だから言ったでしょ。お姉ちゃんは台所にいる、って」

 彼と一緒にやってきたこいしが、そう笑顔で告げる。
 おそらくバレているのだろうな、と思いながら、さとりも笑みを浮かべる。

「ところで、どうしたの?」

 隣で、燐が何とも言えない表情をしているのはわかっていたが、そこはスルーして彼に尋ねた。

「ああ、はい。菓子を結構作ったんで、みんなでお茶でも、と」
「バレンタイン、なんでしょ?」
「ありゃ、こいし様もご存じなんですか。あたいも上で聞いたんですか」
「うん、私も上で聞いたんだ。お姉ちゃんも知ってた?」
「さて、どうかしら」

 さとりは動揺を表さないように、そう応えた。こいしは本当に一番答え難いところを尋ねてくる。

「ふふ、そうなんだ。じゃ、お燐、私と一緒にみんなを呼びに行こう!」
「はい、こいし様!」

 燐の手を引いて、こいしは台所から走って飛び出していく。それを見送って、彼は肩をすくめた。

「よく考えたら、俺がみんなを呼びに行けば良かったかな」
「それだと、貴方が働きすぎにならないかしら」
「そうでもないはずなんですけどね」

 その様子にさとりは微笑う。いかにも彼らしい。

「ああ、じゃあ、今のうちに、かしら」
「え?」

 首を傾げる彼に、さとりは椅子を勧めた。首を傾げつつ、彼は椅子に座る。

「えと、失礼します」
「ええ。はい、貴方に」

 小さめの箱を渡されて、彼は目を瞬かせた。

(あれ、これは、でも、本当に?)
「ええ、貴方が思っているとおりよ。バレンタインは、女性から男性に、なんでしょう?」
「え、あ、その、開けても」
「どうぞ」

 頷いて、彼はもどかしそうに箱を開けた。中を見た彼から、嬉しそうな気配がさとりの心に流れ込んでくる。

「あ、ありがとう、ございます」
「どういたしまして。『何か気の利いたこと言えればいいのに』、ですか。いいの、嬉しい気持ちは私に伝わるから」
「ああ、はい。でも、ええと、嬉しい、です」

 心の中の想いを口にするのが難しそうに、彼はそれだけを口にした。

「ありがとう。あと、そ、その、少し落ち着いてもらえると、ありがたいのだけど」

 あまりにも、嬉しい、という想いが流れ込みすぎて、さとりは顔が火照ってくるのを抑えられずにいた。

「……頑張ります。ああでも、本当に嬉しいんですよ」
「そこまで喜んでもらえると、私も嬉しいわ」

 テーブルの上に箱を置いて、彼はチョコレートを眺めている。

「……『食べるのがもったいない』、って、折角作ったんだから、食べて欲しいのだけど」
「ああ、その、すんません」
「じゃあ、はい」

 不意に悪戯心が湧き上がり、さとりは一つ摘み上げると、彼の目の前に持ってきた。

「はい、あーん」
「っ!?」

 彼の思考が大混乱しているのがわかる。嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちと、どうしたら良いのかという気持ちがせめぎ合っている。

「あら、食べさせられるのは嫌?」
「い、いえっ! そんなことはっ!」

 焦っている様子に、さとりはまた楽しげに微笑った。たまには、こういうのも悪くない。

「……さとり様、楽しんでませんか」
「気のせいよ。ほら」

 むう、という意識とともに、彼は少し悔しそうに思考を回し始めた。

(……ああ、そだ、これなら)
「っ、ちょっと、待ってっ」

 思考を読んで制止しようとした言葉は少し遅く、彼はそのまま、さとりの指ごとぱくりとチョコレートに食いついた。

(あ、美味い。ビターじゃなくてもっと甘いの使ってるのか。って……!)

 瞬間で我に返ったらしい彼が、慌てて離れる。解放された手を、さとりは自分の胸元に引き寄せた。

「す、すんません、さとり様」
「い、いいえ、私も、からかいすぎたわ」

 二人して、耳まで真っ赤になってしまう。しばらくして、彼が口を開いた。

「美味い、です。うん、中に何か入れました?」
「す、少し、お酒を入れてみたんだけど」
「ああ、こいつはそれですか。甘い中に酒の風味があって非常に美味いです」

 そう、彼は嬉しそうに頷いた。真剣に評していたのは照れ隠しも含めてだったようだが、評するうちにだいぶ落ち着いてきたらしい。

「先に紅茶入れてましょうか。これにはそれも合いそうだ」
「え、ええ。お願いするわ」

 その彼の心境を羨ましく思いながらも、まだ照れが残っていることもわかって、さとりも嬉しそうに微笑む。

「じゃ、行ってきます」

 彼が立ち上がったのをぼうっと見送って、その姿が見えなくなった後、さとりはそっと彼に銜えられた指先を見つめる。
 彼が、子供っぽい対抗心からそんなことをした、というのはわかっている。
 けれども、触れられたところが熱を持っているような気がしてならない。ただ指先だけ、だというのに。
 その感覚が何なのか、ぼうっと考えながら、そっと、その指先に口付けようとして――


「お姉ちゃん、どうしたの?」
「ひゃっ!?」


 背後からのこいしの声に飛び上がらんばかりに驚いた。




「どうしました!? ああ、こいし様」

 大きな声に驚いて顔を出した彼は、大きく肩で息をしているさとりと、不思議そうな顔をしているこいしを見つけた。

「みんなそろそろ来るよー」
「ああ、じゃあ、用意しますかね」

 そう言って戻っていく彼に、さとりから声がかかる。

「わ、私も手伝うわ」
「え、いえ」
「いいから、お願い」

 そこまでは言われては、と、彼は一つ頷いた。それを見て、さとりは箱を閉じる。

「先に行ってますね」
「ええ」

 一つ息をついて、さとりも箱を持ったまま立ち上がる。氷室に入れようとの考えだった。

「ふふ、お姉ちゃん、照れなくてもいいのに」
「……見てたの?」
「見てはないけどだいたいわかるかな。今更照れなくても、みんな二人がらぶらぶなのは知ってるのに」
「もう」

 こいしを窘めるように一つ頭を撫でて、さとりは台所に向かう。やってきたさとりに、彼は声をかけた。

「どうしました?」
「ん、ちょっと、ね。これ、氷室に入れておくから、後で食べて」
「ああ、はい。向こうに置いておくと他の奴らに食われそうですしね」

 死守するけれど、と彼は呟いて、沸いた湯を注ぎ始める。

「そこまで喜んでもらえると嬉しいわね」
「貰うのなんて縁のなかったことですし、何より、さとり様から貰えたってのが」

 そこまで言って、自分の発言に照れたように、彼は視線を彷徨わせた。

「……そこで貴方が照れるのはずるいんじゃないかしら」
「すんません、つい」

 さとりの用意するカップを盆に乗せながら、彼はまた、ぽつりと呟く。

「後で、その、さとり様も一緒に食べませんか」
「え?」
「美味かった、し。その、さとり様とも、一緒に食べたいし」
「……さっきみたいに?」
「いや、そこまでは、ですけれど」

 あれはいろいろ諸刃の剣だ、と彼は心の中だけで唸った。
 驚いた表情とか、銜えてしまった指の感触とか。
 いろいろと何か拙い気がした。何が拙いかは考えないようにしているが。
 さとりもそれを読んだのか、少しまた顔を紅くしながら、だがそれでも微笑みを返してくれた。

「……そうね、後で部屋で食べましょうか」
「ええ、そうですね。じゃ、今は早く持っていきましょうか。そろそろ集まって来たようですし」

 食堂の方を気にした彼に、さとりは一つ頷く。

「貴方が作ったのも楽しみだわ」
「結構自信作なんで、期待してください」

 そう微笑い合って、二人は食堂へと歩いていった。






 その晩、部屋にて。

「……ね、さっきから、思い出してるみたいだけど」
「はい?」
「……勢い余って、私まで食べちゃダメ、だからね」
「っ、は、はい」
「その、チョコレートは、食べさせてあげるから」
「は、はい、いただきます……」

 そんな会話があったとかなかったとか。


 あまいあまい夜を、あなたに。


Megalith 2011/02/14
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「……この光景も久しぶりに見る気がするわね」

 ソファにだらしなく横になって眠っている青年の周りに、猫やら犬やらが集まって寝ている。
 勘の良い猫の何匹かは、さとりが近付いたことに気がついて顔を上げ、にゃあ、と鳴いた。

『さとりさま? さとりさまもお昼寝ですか?』
『こいつあったかいー。ばしょあけますよ』

 もそもそと動こうとした猫の頭を撫でて、さとりは首を振る。

「ふふ、ありがとう。でもこれからまだ仕事があるから」

 にゃあ、と残念そうに猫達は声を上げる。その声に、彼がうっすらと目を開けた。

「……ん、くぁ、なんだ?」

 軽く欠伸をしながらのっそりと起きて、さとりが目の前にいることに気が付いて目を丸くする。

「ああ、さとり様、すんません、仕事は一段落したんですが」
「ええ。もし良ければ、少し手伝ってもらっていいかしら」
「もちろん」

 彼が起きあがると、眠ったままだった猫や小型の犬が転げ落ちて抗議の声を上げた。

「すまんすまん、行ってくるんでな」

 なら仕方ない、というように鳴くペット達の頭を撫でる彼を見て、さとりはくすくすと微笑った。

「どうしました、さとり様」
「まるでその子達の声がわかるみたい、と思って」

 貴方は覚りではないのにね、と微笑う。

「あはは、まあ、何となくです」

 がしがし、と大きめの犬の頭を撫でて、彼は軽く笑った。

『さとり様こいつとおしごと?』
『がんばってー』

 ええ、とさとりもペット達を撫でて、部屋を後にする。その後ろに控えるように、彼もついてきた。

「なんか久々にがっつり昼寝してた気がしますよ」
「あら、貴方は大抵いつも昼寝してる気がするけど」
「あはは、まあ、そうですけどね。けど、何というか、最近俺が寝てるとき近寄ってきてる奴増えてるような気が……」

 気のせいかな、という彼に、さとりは少しだけ微笑んだ。
 それは、他のペット達からも、彼が認められてきているというだけのことなのだ。
 実際にさとりは声を聞くことが出来るから知っているのだが、彼にとっては不思議らしい。

「今は冬だからいいが、夏は暑いかなあ」
「それなら、どこか涼しい場所で昼寝すればいいわ」
「ああ、それもそうですね」

 あいつらはそういうの良く知ってるからなあ、と彼は笑った。

「ところで、仕事ってのは」
「少し書類が多くなってきていて。片付けるのを手伝ってほしいの」
「了解しました」

 もう何度かやってきた仕事なので、彼の中でも手順はわかってきていた。問題はほとんどない。

「どれくらいかかりそうですかね」
「夜までには、一段落つけそうだけど」
「じゃあ、夜は時間空いてますか?」
「え? ええ、空いてるけど」

 そう応えると、彼は頬を綻ばせた。

「んでは、良ければお時間いただけますか」
「ええ、いいわよ。『渡したいものがある』?」
「そうです。こういうのは隠しときたいものですが」
「ごめんなさいね」

 謝ると、彼は慌てたように首を振った。そういう意味じゃない、と、懸命に伝えようとしている。

「さとり様、その、そんなつもりじゃ」
「ええ、わかってるわ。ごめんなさい。じゃあ、私の部屋で待ってるわ」
「あ、はい、では、お邪魔します」

 少しはにかむような表情になったのは、今でもまださとりの部屋に入るのは緊張するからだった。

「もう、あまり気にしなくていいのに、今更」
「いやまあ、そうですが」

 さとりの部屋で夜休んだことも、もう一度や二度ではないというのに。大抵は、他のペット達も一緒なのだが。

「ん、では、仕事頑張って終わらせちまいますかね」
「そうね。貴方に手伝ってもらえれば、早めに終わらせられるだろうから」
「頑張ります」

 そう笑う彼の心は、少し躍っていた。




 夜。湯浴みも既に終えた時間に、彼はさとりを訪ねてきた。

「お邪魔します、さとり様」
「いらっしゃい」

 招かれるまま、ベッドサイドのテーブルに着く。

「え、と、ああ、すんません、ちと緊張して」
「そんなに緊張しなくてもいいのに」

 くすくすと微笑いながら、さとりも彼の向かいに座った。

「まあ、こういうの経験ないもんで」
「ほわいとでー、ね。そういうのもあるのね」
「ええ。まあ、外じゃ商業戦略の一環にもなってる奴ではあるんですが」

 そういうのにかこつけられる、というのは、実は悪くない方法なのかもしれない。

「と、いうわけで。簡単なものになっちまいましたけど」

 そう、クッキーの袋を、さとりの前に差し出した。

「いろいろ作ってみてます。仕事の時にも摘めるようにと」
「ありがとう」

 さとりの表情に喜色が浮かんで、彼も何だか嬉しくなる。

「あ、と、それと、こいつはよければ、ですが」

 こと、と、ハーフボトルよりも小さめの瓶をテーブルの上に置く。

「あら、白ワイン?」
「ええ。その、いいのが手に入ったので」

 わたわたと、入手経路を誤魔化そうとするが、誤魔化そうとすればするほど、思い出してしまう。

「……また紅魔館まで行ってたの?」
「いや、仕事ではあったんですよ。で、まあ、そういうので渡すんならいいのを一つやろうと言われて」

 断るのもなんなので、有り難くもらったのだ。報酬の一部という形ではあったし、断る理由もない。

「……よければ、その」
「ええ、一緒に飲みましょうか」

 そう言われて嬉しそうな顔をした彼に、さとりは悪戯っぽい表情をしてからかってきた。

「でも、二人きりだというのに、私を酔わせてどうするつもりなのかしら?」
「え、いえ、そのっ、そういうわけでは」

 思いがけない言葉に真っ赤になって否定すると、さとりは楽しそうにくすくすと微笑った。

「ったく、んなこと言ってると本気で襲っちまいますよ」

 照れ隠しに本気混じりで呟いた言葉に、さとりの顔が紅く染まる。いや、からかっておいてそれはずるいのではないか。

「ず、ずるくはないと思うけど」
「なら、そこまで照れないでくださいよ。さ、グラスも持ってきてますし、飲みますか」

 妙な雰囲気になったのを振り切るように、彼はグラスを用意し、手際よくワインを開けて注いだ。



 ほろ酔いに少し足りない、というワインの量は、寝酒にもちょうどよいものだった。

「空いちまいましたね」
「ええ。でも、ちょうど良かったわ。『もう少しあっても』って、それだと本当に酔ってしまうわよ」
「あはは、自重します」

 彼は笑って誤魔化した。その様子に、仕方ない人、というように軽くため息をついて、さとりは尋ねる。

「で、どうしてそんなにそわそわしてるの?」
「ああ、うん、やっぱり隠すのは無理か」

 彼は頭をかいて、懐から一つ包みを取り出した。

「その、後、これ」
「あら、まだあるの?」

 さとりは目を瞬かせて、彼から渡された包みを開ける。小さな、一本の薔薇の花を象ったブローチが入っていた。

「小さいなら、その、仕事の邪魔にも、ならないかと」
(渡すかどうか、ずっと迷ったけど)
「……迷っていたのは、どうして?」
「や、その、こういうの、って、好みがあるから」

 さとりに気に入ってもらえるかどうか、ずっと心配していた、らしい。それこそ、どう渡すか、そもそも渡すかどうかを迷うほど。

「……もう、やっぱり貴方はわかってないのね」
「え?」
「貴方からプレゼントをもらって、私が嬉しくないわけがないでしょう?」

 馬鹿ね、と優しく言いながら、さとりは彼の頭を撫でた。

「大事にするわ」
「ありがとうございます」

 嬉しくなって、彼は頬を綻ばせる。子供扱いのような感じなのが多少気にはなっているようだが、それよりも嬉しい想いが大きいようだった。

「そこまで嬉しがられると、私がどう喜んでいいのかわからなくなりそう」
「ああ、すんません」

 それでも、まだ彼は嬉しそうだった。さとりは微笑んで、彼に近付く。

「じゃあ、これはお礼」
「へ? ……っ」

 軽く口唇を重ねられて、彼は驚いたように目を瞬かせた。

「あ、うー、あ、ありがとう、ございます」
「どういたしまして」

 さとりとしても照れがないわけではないが、より照れている彼は気が付いていないようだ。

「じゃあ、もう休みましょうか」
「ああ、はい、では」

 立ち上がろうとした彼の袖を、さとりは掴んだ。

「……帰ろうとしているみたいだけど、貴方もここで休むのよ?」
「え」
「今日は私が貴方を一人占めするの。いいでしょう?」

 さとりの言葉に、彼は顔を紅くして頷く。

「あー、まあ、さとり様がそう言うのなら」
「ええ、よろしくね」

 照れたように頬をかく彼を愛しく想いながら、さとりはそっと微笑んだ。




 翌日。

「あれ、さとり様、そのブローチ綺麗ですね!」
「ありがとう、お空」
「きらきらしてて、綺麗で、さとり様によく似合ってる」

 空が楽しそうにさとりの周りを回っていた。さとりは宥めるように空の頭を撫でる。
 それを、ぼんやりと見ている彼に声がかかった。

「……へえ、あれあんたがプレゼントしたんだ」
「何故わかる」
「そりゃあ、嬉しそうな締まりのない顔でさとり様の方見てたらねえ。それにさとり様も随分嬉しそうだし」
「う、そんな顔してたか俺」

 ぺしぺしと頬を叩いて、彼は照れを隠すように呟いた。

「似合うと思ったんだよ」
「うん、よく似合ってるね」
「だろう?」
「あんたが自慢気にすることじゃあないと思うんだけど」

 それはそうだが、と彼は頬をかく。

「まったく、昨日もさとり様一人占めにしてるしさ。ちょいと羨ましいねえ」
「……何もしてないぞ」
「どうだかねえ」
「本当だ」
「お燐、わかっていてからかわないの」

 いつの間にか近くに来ていたさとりが、燐を窘めた。

「ありゃ、さとり様」
「さあ、そろそろ仕事に戻りましょう」
「はーい」

 答えて、燐は空に声をかけ、部屋の外へと出ていった。また、燃料を探しに行くのだろう。

「俺はどうしましょうか。またお手伝いした方が?」
「ええ、お願い」

 さとりの言葉に頷いて、彼は椅子から立ち上がる。

「その、さとり様」
「何?」
「……似合ってます、とても」

 自分で選んどきながらなんですけれど、と胸中で呟きつつ、彼はそう告げた。

「ふふ、ありがとう」
「……じゃ、仕事に行きましょうか」
「ええ、そうしましょう」

 照れている彼の手を取りながら、さとりはそう頷く。
 そのさとりの胸元には、薔薇のブローチが灯りを反射して、綺麗に輝いていた。



Megalith 2011/03/23
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 発端は宴会での話だった。
 普通にキスとかしたりするのか、と絡まれたのが遠因と言えば遠因になる。

「…………それを俺は答えなければならんのか」
「ほほう、そういう返答はそういうことはしているということだな?」

 既に出来上がっている魔理沙がにやにやと話題をつつく。

「……俺のことなんざいいだろうが」
「墓穴を掘る方も掘る方よね」

 アリスが静かにグラスを傾けている。彼は唸って、頭をかいた。

「俺は魔法について聞きに来たはずなんだが」

 どうしてこうなった、と心中だけで呟く。

「まあ、いいじゃないか。想いってのは大事だぜ」
「魔法に傾ける情念というのは、確かに恋に似ているのかもね」

 パチュリーがそう言葉を繋げる。

「そんなものなのか」
「ある程度の理論は見えていても、それでも手の届かないもどかしさ。それでも心を焦がす程に求めるもの。
 私は恋についてはよく知らないけれど、こんな感じかしら」
「なかなか詩人だな、パチュリー」
「今のが詩的に聞こえるのならかなり酔ってるわよ、魔理沙」
「はい、ではこちらを」

 白蓮の差し出した水を、魔理沙は軽く礼を言って飲み干した。白蓮自身は茶だけを口にしている。

「……難しい」
「朴念仁の貴方には難しいのかもね」
「手厳しい」

 アリスの言葉に、彼は仏頂面のまま小さく呟く。だがまあ、そうなのかなあ、というぼんやりとした思いで話を反芻した。

「それでも、だいぶ魔法の知識はついてきましたね」
「みなさんのお陰です。感謝してます」

 白蓮に頭を下げる。それは本当だった。実践にはまだ程遠いが。

「それもこれも全部、貴方の主のためということかしら」
「そりゃ、もう」

 何故か彼の背後を見ているアリスに気が付かず、彼は心の中でさとりへの思いを口にする。
 大事で、心配なんてかけたくないし、役に立ちたい。
 まあ、いろいろとしたいことがないと言えば嘘になるけれど、それでも大切な人だ。

「……お前が何を考えているかはわからんが」
「さとりの表情見たらだいたい読みとれたわね」

 は? と疑問に思うのもつかの間。ばっと背後を振り返れば、顔を真っ赤にしたさとりがそこに立っていた。

「さ、さとり様」
「ええと、うん、戻ってくるのが遅かったので見に来たのだけど」

 そう言われれば、随分と長居してしまっていた。魔法の話だけのはずが変に脱線していたのもあるが。

「ああ、そうだった。すんません」
「いえ、いいのだけど」
「へえ、何だ、心配してきたのか? 心配なんかせずとも、そいつはさとり一筋だと思うんだが」

 魔理沙が楽しそうに茶化す。彼は話がつながらず、少し首を傾げていた。
 こほん、と、さとりが一つ咳払いして、彼に尋ねる。

「どうする? まだ話があるのなら、向こうで待っているけれど」
「ああ、いえ、戻ります」

 そう、彼は立ち上がって魔法使い達に一礼する。

「では、また」

 めいめいに挨拶する中、ちょいちょい、と手招いて、魔理沙が何やら耳打ちしてきた。

「な、おま」
「まあ、試してみたらどうだ」

 楽しげな魔理沙にため息を一つついて、さっさと酔いを醒ませ、とそれだけ言って彼はさとりの隣に並ぶ。

「何と言ってたの? ……『もっと自分から攻めてみたらどうだ』ですか」
「酔っ払っているから本当に性質が悪い」

 そう言いながら、彼は紅くなった頬を軽くかいた。





 宴会の後、地霊殿に戻った面々は、それぞれに就寝の準備を始めていた。
 彼とさとりもまた同様で、先の宴会のことを話しながら部屋に向かっていた。

「随分とまあ賑やかでしたね」
「そうね、まだ朝晩は冷えるというのに」
「だからこそなんですかね」
「かもしれないわね」

 他愛のない話をする中、不意に思い出して、彼はさとりの方を向いた。

「そだ、さとり様」
「なに? ……『ちょっとしてみたいことがある』?」
「ああ、うん、そうなんですけど」

 怒られるかなあ、と考えながら、彼は第三の目に触れて、軽く口付けた。
 魔理沙の言葉に触発されたのかどうなのかは、自分でも怪しい。酒の勢いを借りなければ出来なかっただろう。
 それでも、気分的には、手の甲に口付けるのとあまり変わらない気分、だったのだが。

「……すみません、嫌だったです……か? さとり様?」
「あ、い、いえ、その……」

 さとりは顔を真っ赤にして、少し慌てた様子を見せた後、ふるふると首を振った。

「さ、先に部屋に戻るわね、また、後で」
「え、あ、はい……」

 パタパタと走っていってしまったさとりを見送って、彼は頭をかいた。

「まずったかな、やっぱ嫌だったか」
「ふふふ、意外と大胆なんだねー」
「うお、こいし様。どういうことですか?」

 急に背後に現れたこいしに、彼は驚きつつも問い返す。

「え、知らなかったの?」
「何をですか? てか、目に触れるのやばかったですか……?」
「んー、何と言うか……ね、私達の第三の目、って、心の目なんだよね」
「ええ、ああ、はい」

 だからこそ、こいしの第三の目は閉じているのだったか。閉じた心の姿。
 その彼の思いには当然の如く気が付かず、こいしは彼の胸に突きつけた指をくるくると回して見せた。

「その心に、直接触られてキスまでされて……平常心で、いられると思う?」
「…………もしかして、俺、とんでもないことしました?」
「だから、大胆だねー、って言ったのに。知らなかっただけなんだ」

 なんだー、とつまらなさそうにこいしは呟くが、彼にとってはそれどころではない。

「おおお、謝らねえと!」
「え、謝るの?」
「いやだって……」
「お姉ちゃん、嫌がってなかったよ」

 楽しげに笑って、こいしは再び彼の胸を指差す。

「貴方だって、下心はなかったみたいだし。ビックリしてどうしたらいいかわかんなくなっただけ、だろうから」
「……読めてるんですか?」
「ううん、何となくそうかなってだけ」

 だが、妙に確信めいた口調に、彼は少しだけ苦笑する。

「それでも、さとり様を驚かせたのは事実ですから」
「生真面目だよね」
「かな、怖いだけかもしれないですが」
「それもあるだろうね」
「ということで、後で行ってきます」

 彼の言葉に、こいしはうんうんと頷いた。

「頑張ってねー」
「はい、頑張ります」



 就寝前の時間に話に行く、来る、というのはよくする。一緒に眠るかどうか、というのは、その時々によるが。
 ドアの前で大きく深呼吸する。そして、軽くノックした。

「どうぞ」
「失礼します、さとり様」

 ドアを開けて、さとりの部屋に入った。入るときにはまだ緊張する。

「そんなに、硬くならなくていいのに」
「ああいや、まだ慣れないです、いろいろと」

 頭をかいて、どう切り出そうか迷っていると、それを読んださとりが軽く微笑った。

「あまり、気にしなくていいのよ」
「いや、でも、やっぱ、謝っとかないとな、って。驚かせてしまったのは、事実ですし」
「あまりそう謝られると、私も思い出して恥ずかしいのだけど」

 微かに顔を紅くして、さとりが応える。そして、彼を手招いた。招かれるままに、さとりの隣に腰を下ろす。

「ありがとうございます。でも、すんません」
「謝らなくてもいいの。うん、本当に吃驚しただけだから」
「心に直接触ることだった、って聞きました」
「こいしからね?」

 頷くと、さとりは軽く微笑んだ。

「こいしが言ったとおり、私達覚りの目は心の目だから。触れられたら、やっぱり驚いてしまうの」
「ああ、はい。あー……」

 不意に思い出したことを誤魔化そうとした彼の思考を読んで、さとりが首を傾げた。

「……『しかし、だとしたらあれは拙かったんだろうか』って?」
「ああ、その、ええと」

 彼は、最初に一緒に眠ったときに、さとりの第三の目を撫でたことを思い出す。
 そのときは、そんなに大事と思ってなかったのもあるのだが。
 が、それを読んだ瞬間、さとりの顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。

「さ、さとり様?」

 そのまま、さとりは何も言わずに枕を手に取ると、彼をぽかぽかと叩き始めた。

「す、すみませんさとり様! でもすみませんいまいち伝わらないです!」



 さとりが落ち着くまで待って、彼はさとりに尋ねかけてきた。

「どういうことなんでしょうか?」
「ごめんなさい、その、ちょっと取り乱して」
「それはわかるんですが、何というかその、こう、上手く伝わってないです」

 彼の言葉に、さとりは少し視線を彷徨わせる。どう説明したものか、と考えて、口を開いた。

「ええと、そう、ね」
 呟くなり、さとりは再び彼を手招く。言われるままに、彼はさとりの方に少し寄った。
「ここ?」
「ええ、少し、私のすることに抗わないで」

 そう言って、さとりは彼の身体をベッドに倒すと、覆いかぶさるように上に乗り、軽く、口唇に口付ける。

「っ!?」
「こういう、感じかしら、気分的には」

 顔を真っ赤にして、さとりは彼の上から離れた。動悸は激しい。大胆に過ぎる行動だとはわかっている。

「……うあ、俺これに匹敵することやったんですか」
「少し違うけれど、驚きはそんな感じね」
「……すんません。あー、こいし様が大胆だって言った意味がようやくわかりました」

 うあー、と、声にならない呻きを上げて、彼も身体を起こした。

「いいの、そんなに謝らなくても。それに、私も、今の貴方と同じような気持ち、だったから」
「……それ、って」
「……嫌では、ないの。本当に、吃驚しただけで」

 囁くような小さな声で呟いたさとりの心に、驚くぐらいの歓喜の声が流れ込んできた。
 思わずびくりとなって、さとりは第三の目を隠すように身体を抱いた。

「……っ、ちょっと、驚いたわ」
「す、すみません、いやあの、嫌われてない、ってだけでも、嬉しいんで」

 寝込みを襲ったようなもんなのに、とぼそぼそと彼は胸中で呟いている。

「そ、そういう言い方は、その」 
「いやあのその、すみません」
(いかんな、どうも)
「まったく、もう」

 頬をかきながら反省している彼の頭を、軽く撫でてやる。さとり自身もペースを取り戻すためだった。

「子供みたいですね、これだと」
「そうね、そうかも」

 くすり、と微笑って手を離したさとりに、彼も微笑った。そして、少し真剣な、だが優しい表情で、さとりに声をかける。

「さとり様」
(キスして、いいですか)

 心の言葉に顔を赤くしながらも、さとりは軽く頷き、彼に身を寄せて瞼を閉じた。
 重ねられた口唇は熱く、少し、意識が溶けそうになる。

「……っ、ん」

 いつもよりも長い口付けに、空気を求めようとした口唇がさらに塞がれた。何かを思うよりも先に、口付けがさらに深くなる。

「ん、っ……ふ」

 驚いて、さとりは彼を押し返そうと服を掴む。そのさとりを支えるように、彼の腕が身体に回された。
 激しいような優しいようなその仕草に、口の中を蹂躙する彼の舌の感覚もだんだんわからなくなるほど、頭がぼんやりしてくる。
 押し返そうとした手は、いつの間にやら縋りつくように、彼の服を強く握りしめていた。

「ん、んん……」

 こんな口付けは初めてで、さとりは未だに戸惑っている心と、それを望んでいる心が同時にあることに、また戸惑った。
 彼の心を読もうとして、そしてそれを少し後悔する。彼の心の中には、さとりを想う心がほとんどを占めていた。
 それに触れてしまい、読んでしまい、さとりはさらに抵抗する力を失う。そもそも、抵抗しようとしていたかも怪しいのだが。

「あ……ふ、あ……」

 やがて口唇が離されたとき、口唇が離された、ということにも気が付けなかった程、さとりの意識は茫洋としてしまっていた。
 彼の表情が、少し滲んでいる。目元に溜まった涙が、視界を歪ませていた。

「っ」

 彼が、真っ赤になって視線を逸らした。ぼんやりとした思考で、彼の意識を読む。

「……『その表情は、やばい』……? どうして……?」
「どうして、って、そりゃあ」
(いろいろ、抑えられなくなりそうで)

 彼の手が頬に触れて、その手の熱さにさとりは目を閉じる。閉じた拍子に、目の端に溜まっていた涙が一筋、流れ落ちた。

「あ……」

 こぼれた、と、彼は心の中で小さく呟く。ぼんやりとしたまま、さとりは彼の手に自分の手を重ねて――




(さとり様を……)

 一際大きな思考の声に、にわかに我に返る。

(……いじめるな――っ!)

 我に返ったその視界に、八咫烏ダイブ(with鴉形態)を彼に向かって敢行した空の姿が飛び込んできた。




「さとり様さとり様さとり様っ! 大丈夫ですかこいつにいじめられてないですかっ!?」
「ぐ、おおお……」

 人型に変化した空が、さとりに飛びつかんばかりの勢いで抱きつく。その向こうで、腰辺りに突撃を受けた彼が苦悶していた。

「さとり様すみません、お空が……って、え、何この状況」

 続いて入ってきた燐は、そのあまりにカオスな状況を見て、頭上にクエスチョンマークを浮かべていた。




「っつつつつ……いてえ……」
「自業自得だよ! さとり様泣かせて……」
「お空、落ち着いて。そうではないから」

 さとりがぽんぽんと空の頭を撫でている。それを見ながら、吹き飛ばされた身体を起こして、彼は腰を軽く叩いた。

「……今の、普段のお空の突撃だったら下手すりゃ死んでたな」
「むー」
「いや、責めてるわけじゃない。ってか、助かった。ありがとな」

 その言葉に、空は一つ首を傾げた。

「にゅ? どうしてお礼?」
「いや、まあ、何というか、気にすんな」

 やばかった。何がやばかったと言われれば全部やばかった。
 あの時点で空が飛び込んでこなければ、無理にいろいろしてしまっていただろう。
 大好きな――何より愛している相手にそんなことなど、許されるわけがない。

「っ、ええと」

 さとりが顔を紅くする。今の想いを読まれたかと、彼も頬をかいた。

「ああその、もう休みますか。ちょうどお空とお燐も来たことだし」
「そ、そうね」
「なーんか、怪しいなあ」

 燐はじと目で彼を眺め、まあいいか、と呟き、猫型になってさとりの腕の中に飛び込んだ。

「にゃあ」
「はいはい。わかったわ」
「え、何て言ったんですか?」
「内緒。さ、こいしもいるんでしょう?」

 その言葉と共に、彼は何かが背中に飛びついてきた感覚を感じて目を丸くする。

「こいし様?」
「どうしてばれちゃったかなー」
「さあ、どうしてかしらね」

 何となくそんな気がしたの、と言いながら、さとりは空の頭を撫でる。空も烏の姿になって、嬉しそうにさとりの手に頭をすりつけた。

「今日もみんなで、だね」

 こいしがそう言いながら、彼の腕を引く。

「ああ、まあ、そう、ですね」
「では、休みましょう」

 こいしが引く側と反対の腕をとって、さとりはそう微笑む。

「……はい」

 何とも言えない照れが不意に襲ってきて、彼は少しぶっきらぼうな返答をしてしまった。
 それも全てわかっているのだろう、さとりはその様子にくすくすと微笑んだ。

「さ、こいし」
「うん!」
「え、何を……わっ」

 両側からいきなりベッドに引き倒されて、彼はまた目を白黒させた。

「さ、これで抱き枕の出来上がりー」
「そういうわけだから、ね」
「……ああもう、好きにしてください」

 心の底から、かなわないな、と思いながら、彼はそのまま目を閉じる。
 明かりの消える気配と、両側にぬくもり――と、腹の上に衝撃。また二匹が勢いよく乗ってきたのだろう。

「……お空、お燐、明日覚えてろ」

 小さく呟いて、彼は眠くなるのを感じる。瞬間睡眠体質だけはどうにもならないらしい。

「ああ、すんません、眠い」
「ええ、わかってるわ。おやすみなさい」
「おやすみー」
「はい、おやすみなさい……」

 言いながら、彼は重い瞼を閉じた。それでもすぐに寝てしまわなかったのは、さとりが耳元に近付いてきたのを感じたからである。

「ごめんなさい、今日は」

 何のことかわかって、気にしないように、と彼は首を振る。自分が強引だったのもよくわかっているから。

「えと、その。まだ、心の準備は、出来ていないから」

 そう、さとりの口付けが、彼の瞼に落ちてくる。

「その、そういうのは、そのうちに、ね」

 彼にだけ聞こえる囁き声で、さとりはそう告げ、おやすみなさい、と彼の腕を枕に再び横になった。
 それはどういう反応をすればいいのだろう。期待する気持ちと、過剰に負担をかけるなという気持ちと、何とも言えない状態に彼は胸中で唸る。
 さりとて眠い頭ではきちんと考えが回るわけもなく、彼はまあいいかと問題を棚上げにした。
 自分がさとりのことが好きで大事にしたい。さとりもそれをわかってくれている。それで十分だ。
 元々単純なところを持つ彼が眠い思考の中で辿り着いた結論がそれだった。それに満足して、彼は本格的に眠りに落ちる。



 こうして地霊殿の春の夜は、のんびり穏やかに過ぎていくのだった。


Megalith 2011/05/01
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 そういえば、と思う。
 もう、人を辞めて一年と少しも過ぎてしまったのだな、と。

「……そういや、こんな時期だった……いや、もうちょっと前か」

 普段は意識しないし、結局そういうのは数えても仕方のないことだとはわかっている。
 それに、自分はこの先ずっとさとりの側に在るのだし、それは望みこそすれど、厭うことなどない。
 だが何だったか、好きな小説のシリーズに、無意識のうちに数えてしまう、というのがあった気がする。
 人でなくなって、どれほど生きたかというのを何年かまでは数えていくものだと。
 タイトルをど忘れしてしまった。好きなシリーズだったのだが。
 一つ息をついて、自分のこの思考が現実逃避であるということをしみじみと実感する。実感しつつ、近くにあった饅頭を口に運んだ。
 その彼に、大きな声がかかる。

「おーい! 何さぼってんだい!」
「大丈夫だすぐ戻る! 饅頭一個分くらいは休ませてくれ!」

 もぐもぐと咀嚼しながら、さてどうするか、と一瞬目を背けた現実に目を向ける。
 いろいろ凄まじいことになっている宴会の場が視界に入って、彼はもう一度、今度は大きくため息をついた。



 宴会の誘いは、いつも通り突然のものだった。
 いつもと違うのは、地底の者達で行っている、という点。夏も終わったがまだ暑いし暑気払いに、と鬼から提案があったのだ。
 そうでなくても飲んでるだろうに、と思ったが、さとりが了承した以上、彼にどうこういうつもりなど一切ない。
 それに、そういう宴会なら少しはおとなしいかと考えたのだ。その目論見が甘かったのも痛感しているが。



 しばらく給仕やら酒の補充やらを行った後、彼は燐と空に声をかけた。

「こんなもんか。お燐、お空、大丈夫か?」
「まあね、少しは疲れたけれど」
「うん、適度に休んでるもん」

 近くの料理をつまみながら、二人がそう返す。頷いて、彼も近くの飲み物をあおった。

「あんたはあんまり食べてないんじゃないかい?」
「少しは食ってるよ。それにまあ、いろいろやるのに適任って言われちまうとな」

 彼は少しだけ苦笑する。
 人間上がりだから、というのが最近彼に仕事を任せる口実になってないかとも思うのだが、別に本人は嫌でないのでそのままだ。

「何だったら私達でやるよー?」
「サンキュ、お空。まだしばらくは大丈夫だ」

 空の頭を撫でてやって、彼は宴会の席を眺めた。

「しかし、賑やかになったもんだな」
「まあ、こんなに地霊殿周りが賑やかになるのも珍しいけどね」
「そうだね。ね、さとり様は?」
「鬼と話をしてたな。まあ、仕方ないといえば仕方ないだろうが」

 空の問いに答えて、彼は、少ししたら探しに行くかと考えた。
 地霊殿主催、とまでは言わなくとも、地霊殿の場所を開放していることには変わらない。
 さとりがいろいろ回るのも仕方ないことではある。
 だが、普段はさとりも周りもそういうことを遠慮するのに、どうして今日に限ってそうなのだろうか。

「……ちょっとしたら様子見に行ってくるよ」
「何なら今からでもいいよ。何かあったらあたい達が何とかするさ」
「……すまん。ありがとな。行ってくる」

 二人に軽く手を振って、彼は宴会の中心に向かった。





「……おいおい」

 途中酒を勧める鬼達にさとりのところに行くからと断りつつたどり着いた場所では、勇儀や萃香、ヤマメやパルスィ達といったよく知る相手から、見慣れない鬼や妖怪までがいた。
 その中で、さとりは盃を持ったまま、ゆら、ゆら、と少し揺れている。一見してわかる。酔っている。

「さとり様」

 心配して駆け寄る。周りが囃すが、それは聞いてないことにして。

「さとり様、大丈夫で……っ、さとり様!?」
「あ……」

 どこがぼうっとしているさとりの瞳がこちらを認識したと思った瞬間、いきなり抱きつかれて彼は目を丸くした。

「さとり様っ!? どうしたんですか!?」
「おー、見せ付けてくれるねえ」

 楽しげな声をかける友人に、彼はじと目で尋ねる。

「……勇儀さん、何をどんだけ飲ませたんスか」
「私はこれだけかな」

 ふらふらになっているさとりを抱きしめたままの彼に対して、勇儀は一升瓶を二、三本揺らして見せた。
 しかも、私は、などと言っている辺り、周りも相当飲ませたのだろう。

「どこがこんだけですか。ああもう、完璧酔っちまってるじゃないか」

 人前で無言で彼の胸に頬擦りしているさとりなど、滅多にどころでなく見られない光景だ。

「どう、したの……?」
「それは俺のセリフです。仕方ない、今日はもう下がってください」
「ん……」

 頷きつつも、彼の服から手を離そうとしない。さて困った。このまま連れて行くしかないだろう。足元もおぼついていない様子なこともある。

「仕方ないか」

 そう言いつつ、さとりを抱き上げる。思った以上に素直に、さとりは彼に抱かれた。相変わらず軽くて細い。

「おお、お持ち帰りかい?」
「そんなんじゃ……」
「おもち、かえり……?」

 甘い声が胸元から聞こえてきて、彼はさっと紅くなった顔を周囲から隠すように視線を逸らした。

「……とにかく! さとり様ももう下がるし、ぼちぼちお開きにしてくださいよ」
「まあ、そのうち私らも戻るさ。主人が下がった後も居座るのはあれだしね。邪魔しても悪い」
「だから……」
「面白いものが聞けたし見れたし、楽しかったよ」

 萃香が楽しげに微笑いながら言う。彼は少し不満気な表情をしたが、やがて大きくため息をついた。

「んでは、俺は一先ず失礼します」
「ほいほい、食べるのを邪魔なんかしないさ」
「? ……っ、んなことしない」
「あれ、据え膳食わぬはー、って言うじゃないか」
「そう言うとしても」

 普段より口数が少なくなりつつ、彼は一礼して鬼達の前を去っていく。

「いやはや、中々だねえ」
「そうだねえ。ま、だからこそからかってて面白いんだがね」
「違いない」

 鬼達は楽しそうに笑いながら、また酒杯を酌み交わす。






 地霊殿の中をゆっくりと歩き、彼はさとりの部屋に入る。入るのは何度目かしれないが、許可なく入るのは初めてだ。
 無論、許可を出すべき相手が腕の中で酩酊しているのだから仕方ないと言えば仕方ない。

「さとり様、着きましたよ」
「ん……」

 少しは醒めたのだろうか。曖昧に返答するさとりをベッドに腰掛けるように下ろして、彼は息をついた。

「水、用意しますね」

 軽く頷いたさとりに、彼は来る途中に頼んで持ってきてもらった水筒から水をコップに移す。

「今度本格的に水道設備でも作るかね」

 鬼の技術があれば不可能でもない気がする。ある程度の上水道技術も、エネルギー関係を使えば何とかなるかもしれない。
 こくこくと水を飲むさとりを見守って、向こうを燐達ばかりに任してだけというわけにもいかないと立ち上がる。

「では、さとり様、俺は」

 宴会のまとめに、と言おうとした彼の袖を引っ張って、さとりが不安げな表情になる。

「……いっちゃう、の?」
「っ……」

 そんな不安げな表情で見ないで欲しい。意志が緩むし、理性もいろいろやばくなる。

「……向こうに連絡だけして、汗だけ流したら戻ってきますから。さとり様は先に休まれていてもいいですけれど、俺は戻ってきますよ」
「……絶対よ?」

 そう言うさとりの頬に手を伸ばして、彼は困ったように微笑った。

「ええ、絶対です。三十分だけ、時間ください」
「うん」

 さとりは彼の手に頬を一度すり寄せて、手を離した。だが、すごく寂しそうにされて、彼は頭をかく。

「できるだけ早くには戻ってきますから」
「……待ってる、から」
「ええ」

 さとりの頭を撫でて、彼は部屋を出る。廊下に出て、一つ息をついた。

「……お燐達に連絡だけしてくるかな」

 自分を落ち着けるためだけにそう呟いて、彼は宴会の席に向かって歩きだした。





「すまん、お燐。さとり様に呼ばれてるんで俺はもう下がる」

 戻ってきた青年に開口一番そう言われて、燐は軽く頷いた。

「いいよ。さとり様は?」
「随分酔ってたからな。もう休まれると思う」

 その言葉に頷いて、燐は胡乱げな視線を向ける。

「変なことするんじゃないよ?」
「しねえよ」

 不本意そうな顔で、彼はそう答えた。まあそうだろうなあと思いながら、燐は頷き返す。

「まあ、だろうねえ。後はあたい達がやっておくから、さとり様のとこに行きな」
「すまねえ、ありがとう」

 軽く手を挙げて、彼が地霊殿の中に入っていく。
 それを見送って、さて、と燐も自分の仕事をしようと宴会の中に足を向けて――勇儀に呼び止められた。

「や、猫。どう思う?」
「どう思うって、何が?」
「あいつがさとりに手を出せるかどうか」

 楽しげに言う勇儀の向こうで、他の妖怪達も賭けのようなことを始めている。
 その様子に、燐も状況を理解した。

「……ああ、そういう賭けか」
「そうそう。あんたはどっちに賭ける?」

 どちらでも構わないのだろう、鬼達も他の妖怪達も非常に楽しそうである。
 主を賭けの対象にされているのを怒るべきなのかどうなのか、少し考えた燐は、「どう思う?」と再び返事を求められてため息をついた。

「そんなの、決まってるじゃないか」
 そう、答えなど決まりきっているのだ。






 そんなことがあっているとも知らず、彼はさっと風呂に入ってしまうと、さとりの部屋を訪ねた。

「……さとり様、起きてますか?」

 そうノックすると、どこかぼんやりした返事が戻ってきた。
 まだ起きていたのかと驚いてドアを開ければ、ベッドの上にぺたんと座っているさとりの姿がある。

「さとり様、風呂入ったんですか」

 軽く頷いたさとりの側に寄って、彼はまだ髪が結構湿っていることに気が付いた。
 ため息をついて、肩にかけていた乾いたタオルで丁寧に髪を拭く。少し届かなかったので、ベッドの上に片膝をつけて、身を乗り出して。

「ったく、きちんと乾かさないと風邪引きますよ」
「ありがとう……」

 大人しく拭かれている様子が、何となく空と同じような感じで、彼は軽く苦笑した。

「お空にも、こういうことしてるの?」
「たまにお燐と一緒に。大抵お燐辺りが注意してお空が自分でやってますが」
「……ちょっと、羨ましいかも」

 少し拗ねたような声で、さとりは大人しく彼のなすがままに任せた。

「まあ、いつもってわけじゃないですから。何だったら、さとり様にこういうことしましょうか、これから」
「いいの?」

 冗談に対して嬉しそうに見上げられて、逆に表情に困った。何というか、酔っ払っていろいろタガが外れているのだろうか。
 可愛いが、いろいろ困る。

「……はい、これでだいたい乾いたからいいでしょう。本当はもう少しきちんとしないと朝大変そうですが」

 誤魔化して、さとりの髪から手を離す。近くに櫛が見つからなかったので、適当に手櫛で整えた。
 女の子の髪だからもっと丁寧に扱うべきなのだろうが、生憎どうすれはいいかわからない。

「ん、ありがとう」
「いえいえ、明日はまたきちんと整えてください」

 そう言って、彼はどうするか迷った。ベッドに半ば身を乗り出している格好だが、さてどうするか。

「さと……わっ!」

 問いかける前に、さとりに引っ張られて、彼はさとりの方に倒れ込んだ。

「……今日は、一緒に寝ましょう?」
「……仰せのままに」

 押し倒しているような状況は拙いので、さとりの横にごろりと寝転がる。履き物はベッドの下に放った。何というか、手慣れてるのが何ともいえない。

「ふふ、ありがとう……」

 その様子を見て微笑むと、さとりは彼の腕を引っ張る。いつものように枕にするのかと思えば、胸の方にまですり寄ってきた。
 腕の中にすっぽり潜り込む形で幸せそうに微笑むさとりに、彼はがしがしと頭をかく。
 まあ、ここで休む覚悟はしているから、それはそれで構わないのだが。
 その彼の寝着の胸元を、さとりはそっと掴んできた。

「……ね、私は、貴方の側にいるから」
「さとり様?」
「貴方が不安に思うことも全部受け止めて、側にいるから。貴方が人をやめたこと。私がやめさせてしまったこと。全部」

 だから、と、さとりは彼をぎゅっと抱きしめる。

「思っていることを、言葉にも出して。貴方の心を私はわかるけれども、それだけでは、きっとだめ、だから」
「……そうですね」

 思うだけで伝わる。けれども、それは会話ではない。本当に自分でも感じていないだろう不安を形にするには、話すことがきっと大事だ。
 自分では、人を辞めて一年と思うことをそこまで大事に思っていなかったのだが、意外にそうでもなかったということらしい。

「……けれど、さとり様。俺は、何の後悔もないです。それも本当です。貴女の側にいるのが嬉しくて、幸せなのも、本当です」
「……うん」

 それも伝わっているはずなのだ。けれども、心は単純ではないと言うことか。

「……そうね、きっと、ものすごく複雑」
「……また改めて話をしましょう。今は休んだ方がいい」
「……ん」

 頷いたさとりを抱きしめて彼は小さく、囁くような声で告げた。

「大好きです、さとり様」
「……私も、だいすき」

 そう応じると、すっといきなり顔を寄せて、さとりは彼の口唇に口付けた。あまりに唐突で、彼は目を白黒させる。

「っ!?」
「おやすみなさい……」

 とろんとした瞳と声でそう告げて、さとりは彼の腕の中に潜り込むと、すぐに寝息をたて始めた。

「……ああ、うん、俺はこのまま朝まで耐えろということか……」

 とんでもない耐久スペルである。彼とて健全な男だ。いろいろと思わないわけではないし、酒が入っているのもあってか、少し揺らぎそうにはなっている。
 だが、酔っている女性に何かするなど言語道断、と、自分を戒めた。

「……うん、我慢我慢」

 それに、だ。自分でも気が付いてない部分を気が付かせてくれたのも確かで。
 それを考えると、心の中が暖かくなってくる。

「……ありがとうございます、さとり様」

 彼はそう言ってさとりの髪に口付けを落とし、眠れそうにもないのはわかりつつ、目を閉じた。




 翌朝、さとりは目を覚まして、数瞬の間状況が把握できなかった。

「……ん、そう、か、私は」

 鬼に随分と飲まされて、酔っ払って。昨晩の記憶が繋がっていくにつれ、さとりは顔が熱くなっていくのを感じた。

「……何してるの、私……」

 酒の勢いとはいえ、とんでもないことをしたものだと思う。
 心配事があるなら聞くよ、と言った勇儀の言葉に甘えて相談を持ちかけたまでは良かったが、あんなに飲まされるとは思わなかった。
 未だにぼんやりする頭を軽く振って、現在の状況を確認しようとして――

「っ!」

 ただでさえ紅かった顔がさらに紅くなる。
 今、自分を抱きしめている腕の感触と、その腕の主に何をし、何を言ったのかを思い出してしまったからだった。
 慌てることも出来ず固まっていると、さとりが起きたことに気が付いたらしい彼から声が降りてきた。

「……おはようございます、さとり様」
「……お、おはよう……」
(この様子だと、全部覚えてるかな)

 くあ、と、欠伸をしながら思う彼を見上げて、一つ頷く。

「ご、ごめんなさい……」
「いや、まあたまには悪いとは言いませんが」
(心配させんでください)

 声には、心配と、憤りと。それと、珍しくあまり寝付けなかったのか、寝不足の不機嫌さがあった。

「ごめんなさい、本当に」
「わかってるならいいですけれど」

 若干呆れ気味の様子ではあるが、さとりが意外に元気とわかって、少しほっとしてもいた。
 とはいえ、それを表には出そうとはしていない。少し怒っている、というポーズは見せたいようだった。
 それも全部読めてしまうのは何というべきか。

「……随分、心配させたのね」
「…………隠す方が無理ってのはわかってますが」

 ふう、と大きく彼はため息をついた。だが、相変わらず不快ではないようで、そのことにさとりの心は救われる。

「……でも、ありがとうございます」

 ふわ、と頭に大きな手が乗ってきた。感謝の気持ちと嬉しさと、どこか申し訳なさそうな思考が流れてくる。

「俺、鈍いから、そういうのに気が付けなくて。さとり様に言ってもらって初めて自覚したから」
(けれども、大丈夫だから)
「……うん」
「……俺は、貴女の傍にいられて、こうして心配してもらえて、幸せです」

 彼の手が、頭を撫でてくれる。その心地よさに、さとりは少し目を細めた。
 酒の力を借りたのと、いろいろ相談した結果、ではあるものの、こうして彼に思ってもらえるのは、本当に嬉しかった。
 しばらくそうしていた後、ああでも、と彼は少しだけ苦笑した。

「今日は適当に休憩取らせてください。流石に眠い」
「ええ、そうして」
「ありがとうございます」

 彼はそう言いながら、のっそりと起きあがる。

「片付けがどうなってるかも心配ですし、俺はもう行きますね」
「あ、ええ」
「ああ、さとり様」

 これだけは伝えとかなければ、と、彼は真剣な瞳でさとりの方を見た。
 その視線に、思わずどきりとしながら、さとりは言葉を待つ。

「何、かしら」
「ええと、まあ、ここまで酔っ払うのは今回限りでお願いします」
(次は、ないですからね。問答無用で)

 押し倒します、と、そのあまりにストレートな想いに、さとりは顔を真っ赤にして、こく、と頷いた。

「き、肝に、銘じておくわ」
「そうしておいてください」

 気恥ずかしさから顔を背け、後ろ手に手を振って、彼は部屋を出ていく。
 それを見送って、ベッドの上で上掛けを抱いたまま、さとりは動悸を治めるために大きく息を付いた。






 廊下を歩いていると、随分と食堂から賑やかな声がすることに彼は気が付いた。

「何だ、もうみんな飯食ってんのか」

 ひょい、と覗いてみれば、確かにペット達も多くいたが、客人の姿もあって彼は額を押さえる。

「……何やってんですか勇儀さん。帰ったんじゃ」
「いやいや、顛末を聞きに来たんだよ」
「だから言ったじゃないか、こいつが手なんか出せるはずないって」
「うーん、これは大負けした奴は多そうだなあ」

 からからと笑う勇儀に、燐が呆れたようなため息をつく。

「まあ、あたいは関係ないけどさ」
「お燐も一口乗ってれば良かったのに。大勝ちしてたよ」
「いくらなんでも、こいつだけならともかくさとり様まで対象なのに出来るわけないよ」

 その会話に、少し考えて、彼は不意に思いつき、そしてその思いつきがほぼ正しいと直感した。

「……俺とさとり様を賭けの対象にしたな?」
「おお、ご名答。いやあ、さすがにあの状態のさとりを目の前にしたらあんたも手を出すだろうと踏んだんだけどねえ」
「やめてくれ……酔っぱらってる相手に手なんか出せないでしょうに」

 彼は怒る気もなくして大きくため息をついた。

「意外に律儀だねえ」
「意外でも何でもいいですよもう。ところで、勇儀さん」
「うん?」
「俺の後ろにいる方にもきちんと説明お願いしますね」

 そう、彼は自分の後ろで話を聞いていただろうさとりを勇儀に指し示した。

「お、おお。起きてたのかい。おはよう」
「ええ、おはようございます。勇儀さん」

 ゆら、と何かの闘気を纏ってやってきたさとりを見て、燐は、仕事があるので! と一言残して猫型になって走って行ってしまった。

「さて、ゆっくりお話しましょうか」
「ああ、まあ、お手柔らかに頼むよ」
「じゃあ、俺は適当に何か食って仕事に行きますね」

 さとりの怒りにも勇儀のたじろぎにも何の感想も述べず、彼はその場を離れた。
 しばらくして、説教の声と轟音が響いてきたが、彼はそれを聞かなかったことにした。
 こうして、地霊殿の朝がまた始まっていく。




 その日、休憩時間に昼寝をしている青年の隣で、愛おしそうに彼を労るさとりの姿があったのだが、これはちょっとした余談である。


Megalith 2011/10/11
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 こんにちは。古明地さとりです。
 今日もだいぶ寒い日となりました。
 息も、館の外では随分白く見えるのではないでしょうか。
 窓から外を見れば、ちらほらと雪が舞い始めています。
 地底にも、冬がやってきました。



 地底の冬も、随分と冷え込みます。幸い、地霊殿の中は暖かいものですが。
 灼熱地獄の熱もあって、中庭付近では草花が多少咲くほどでもあります。
 その手入れをするのも、この時期の大事な仕事の一つです。
 住むところを整備するのもまた、大事な役目ですから――大抵は、ペットに任せてますが。
 閑話休題。
 そして今、この地霊殿の中で、私は探しもの――というより、探し人をしています。
 大抵、この時間には仕事を終えてしまってどこかの部屋にいるはずなのですが。

「ああ、やっぱり」

 のぞき込んだ部屋の一つ。暖炉のある居間に、探し人はいました。
 部屋の真ん中にあるソファで、その人は寝ています。その周りには、猫や犬、他にも多くのペット達が集まってきていました。
 そう、ペットの皆が、彼の周りで昼寝を始める季節にもなったのでした。




 此処に来た頃から、昼寝中の彼の周りには誰かしらペットが寄ってきていました。
 温かいから、安心できるから。そう言うペット達を私は止めませんでしたし、彼も特に気にしてはいないようでした。

『気が付いたら猫だらけ犬だらけ、ってのは中々驚きましたけどね』

 そう言う彼も、動物に好かれるのは嬉しかったようで、よく側に来る子達とは仲が良いようです。
 私の側で休む子達もいますが、最近は彼のところに行く子も多いようで。
 彼に嫉妬すればいいのか、それともペット達に妬くべきなのか。彼の恋人として、そして館の主としては、中々複雑な心境ですが。
 そんなことを思っていると、ぱち、と何匹かの猫達が目を覚ましました。
 私に気が付いたのでしょう。手を伸ばして頭を撫でると、機嫌良さそうにくるくると喉を鳴らしました。

「よく寝てたみたいね」
(こいつに毛繕いしてもらったの)
(気持ちいいから寝てるの)

 にゃあにゃあと鳴きながら、何をしていたのかを教えてくれます。
 いつものように、仕事が終わった後、昼寝をしていたようです。

(さとり様、こいつに用事? 起こす?)
「いいえ、いいわ。ちょっと探してただけだから」

 そう、別に何か理由があって探していたわけではないのです。
 ちょっと、顔が見たくなってしまっただけ。
 ただそれだけで、探していただけなのですから。

(じゃあ、さとり様、こいつの横で寝る?)
(さとり様もおやすみ?)
「……そうね、どうしようかと思っていたのだけど」

 私の返答に、ペット達は楽しそうな声を上げると、彼の右側を空けました。
 別に定位置というわけではないのだけど、と、何とも言えない気分になります。
 そんな思いも知らず、場所を空けたペット達は、やはり思い思いに彼の側に再び横になりました。
 側が温かいから仕方がないのでしょうけれど、やっぱり少し羨ましくも感じます。
 何を羨んでいるのかは、私にも曖昧なのですが。

「では、私も、少しだけ」

 何だか言い訳がましいことを言いながら、彼の右腕を枕に横になりました。
 確かに気が付けば、此処が定位置になっているのかもしれません。

「……ん」

 声がして、少しびくりとしてしまいました。けれども起きた様子はなくて、どうやら寝言なのだと一安心。
 起こしてしまうのは、本意ではないから。
 そう息を付いていると、彼が左腕を私の身体を抱えるように回してきました。
 あ、と思ったときには、大抵もう遅くて。
 そのまま、ぎゅう、と抱き寄せられて、頬がかっと熱くなるのを感じました。何度されても、こればかりは慣れません。
 彼は寝ぼけて――無意識で、私を抱き寄せてくるのです。意識していれば、心の準備もできるのですが。

「もう」

 言葉だけで歎じて、私は彼の腕に身を委ねることにしました。私も、彼の側が好きなことに変わりはないのですから。


 そして何より、こうして彼が抱き寄せるのは、私だけだと、知っているから。


 隣に寝る相手を、誰でもこう抱き寄せるのかと、不安になったり心配になったり、少し妬いたことさえあります。
 けれども、お燐やお空、そしてこいしに尋ねたときに、そうではないと教えてもらいました。
 ……正確には、そうやって抱きしめてもらっているのかとからかわれることになったのですけれど。

『けど、本当にあの人は、お姉ちゃんのことが好きなんだねえ』

 こいしが楽しそうに言っていた言葉が、ふっと脳裏によぎります。

『無意識のうちにでも、そうしていたい相手なんだよ、きっと』

 それはこいしが操っている結果なのでは、と少しだけ思ったりもしましたが、素直にその言葉を受け入れることにしました。
 現金な話ではありますが、こうして抱きしめてもらえるのが私だけの特権だということが、嬉しかったのもあります。
 ……もちろん、彼には内緒ですが。



 少しもぞもぞと動いて、彼の腕の中にすっぽりと収まるように体勢を変えました。
 正面から抱き寄せられるのも好きですが、後ろから包むように抱きしめられるのも好きではあるのです。
 難点としては、強く抱きしめるがあまり身動きが出来なくなることでしょうか……。
 動こうとすると、かえって抱きしめる力が強くなったりするのです。

「……それも、嫌いではないのだけど」

 ぽつりと呟いて、私は彼の手に自分の手を重ね、安心できる温もりを全身で感じながら、彼に寄りかかりました。



 そういうことで。私はほんの少しの間だけ、贅沢な眠りにつくことにします。
 それでは、みなさま。おやすみなさい。


Megalith 2011/12/19
───────────────────────────────────────────────────────────

 少し休憩するかと、食堂で茶を飲んでいたところだった。
 冬の仕事は、ほとんどが館の中のものだ。外に出るのも雪で一苦労になることが多いからだった。
 旧都は穏やかに降って積もる程度だが、地上はそうもいかない。
 自然と、中での仕事が多くなる。だが、学ぶことも多いので、そう退屈はしていなかった。

「ん?」

 不意に、足下に気配を感じて、彼は視線をそちらに向ける。
 猫犬をはじめとしたペット達、今日は亀やら大トカゲやら烏やらも集まってきていた。

「どうした、お前等。ああ、飯か? この時間だとおやつか」

 そうだそうだというように、各々が鳴き声を上げる。
 いつもおやつを貰っているわけではないが、今日は貰えそうだと踏んだらしい。

「わかったわかった。ちょっと待ってろ」

 言いながら、のっそりと彼は台所に向かった。何が好物だったか、と呟きながら適当に見繕い、大皿に入れる。
 幾グループかに分かれて食べれるよう、大皿もいくつか準備した。それを手にして食堂に戻る。

「持ってきたぞ、喧嘩するなよ」

 彼がそう床に並べるなり、機嫌のよい声と共にペット達が大皿に飛びつく。
 がつがつと食べる彼らを眺めながら、彼はため息をついてもう一口茶を啜った。
 自然、表情は優しいものになっているが、本人には自覚はあまりない。
 よく食うもんだ、とか何とか口の中で呟きながら、青年はペット達を見守っていた。




 ほとんど皿を空にした頃、不意に何匹かが耳を立て、顔を上げた。

「どうした」

 問いてはみたものの、こちらに向かって返事をしたその言葉が彼にはわからない。
 がしがしと一匹の猫の頭をなでながら、彼は少し苦笑した。

「すまんすまん、お前等の言葉はわからないんでな」

 その言葉がわかるのか、猫は首を傾げた。そして、ドアの方を向くと、にー、と甘えた声を上げる。
 何匹かも同じような鳴き声でドアの方を向いた。何だろう、と思うもつかの間、現れた者を見て、彼は全てを理解する。

「さとり様。休憩ですか」
「ええ。貴方は……休憩兼お仕事、かしら」
「そんなところです」

 何匹か寄ってきたもの達の頭を撫でながら、さとりは、そう、と微笑んだ。
 不意に、一番大きな犬が、ばう、と一声鳴き、それに全員が応じて食堂を出て行った。

「あ、もう、そんなこと……」
「どうしました?」

 さっと顔を紅くしたさとりに、彼は首を傾げる。

「……つがいは一緒にしておかないとだめ、って言われた、ですって」
「…………つがい…………」

 何というか、ペット達らしい言い方だとは思うが、照れていいのかどうかも微妙にわからない。

「……うん、困ってるのはよく伝わるわ」
「……すみません、どうもまだよく」

 青年は両手を挙げて軽く振った。そして、言われた意味を反芻して、ああなるほど、と少し理解する。
 ペット達にも認めて貰っているということだろうか、それはそれで嬉しくはあるのだが。
 と、よくよく考えると相当に恥ずかしいことを言われているのではないだろうか。
 つがい、ということは、恋人どころかそれ以上の――

「……さ、さとり様、何か飲みますか」
「え、ええ、お願い」

 少しぎこちなく会話をかわして、彼は台所に向かう。何が良いかな、と考えて、ひょいと食堂に顔だけ向けた。

「どうですか、ホットチョコレートでも」
「そうね、いただくわ」

 さとりの言葉に頷きを返して、牛乳を温めにかかった。
 温めながらチョコレートを砕き、程良い大きさにしたところで温かくなった牛乳に溶かし入れる。
 後は焦がさないように溶かして温めて出来上がり。レシピ本からの知識である。

「出来ましたよー」

 温めたチョコレートをマグカップに移し入れて、彼はさとりの前に置く。
 さとりは、ありがとう、と答え、ふうふうと息を吹きかけて口をつけた。

「あつ……!」
「大丈夫ですか!?」

 少し温めすぎていたのか、さとりが小さな叫び声を上げる。

「火傷してませんか? ちょっと見せてください」

 口元を押さえるさとりに、彼は少し強い語調で尋ね、視線を合わせるように椅子のそばに膝をついた。

「だ、大丈夫よ」
「いいから」

 強く言うと、さとりはおずおずと舌を見せた。少しだけ赤くなっている。
 水でも持ってこようか。すぐに冷やせばそんなに痛くもならないはずだ。

「だ、大丈夫だから、本当に。私も妖怪だから、すぐに治るわ」
「……ああ」

 そうだった、と心の中だけで彼は呟いた。ついうっかりしてしまう。
 おそらく彼が、さとりを妖怪としてよりも大事にするべき女性として見ているのが大きいのだろう。
 さとりの頬が紅くなった。その言葉にしない気分のようなものが伝わったからだった。

「……何というか、その、すんません」
「ううん、いいわ。その、心配してもらえて、嬉しくない訳じゃないから」

 少し目を細めて、さとりはそう応える。その表情に、どきりと心臓が高鳴った。
 ほんのりと紅く染まった頬に手を当てて、小さく尋ねる。

「……さとり様、もう一回、舌、見せてもらっていいですか」
「……ん、うん」

 何をしようとしているのかわかっているだろうに、さとりは目を閉じて彼に舌を見せた。

「失礼します」

 ぱく、とそれを咥える。びく、と震えたさとりを引き寄せて、口唇を強く奪った。

「んん、ふ、あ……もっと、優しく……」

 強すぎたか、と腕の力を緩めて、一旦離した口付けを優しいものにかえる。焦るのは未熟な証拠、なのだろう。
 薄く開いたさとりの瞳が潤んでいる。それを確認して、口付けを深くした。

「ん……ん」

 甘い声に、脳髄に向かって快感が走る。舌を絡めて、赤くなっていた部分を探る。

「ふ、あ。んん……んっ!」

 いきなりさとりの身が大きく震え、口唇を離した。
 そして、彼の胸に顔を押しつけてしまう。耳が真っ赤なのがわかる程度で、何が起こったのかわからない。

「さとり様……?」

 さとりは微動だにしない。どうしたのか、どうしたものか、と視線を前に向けて――



 食堂のドアの向こうで、こちらを覗いているペット達と目が合った。
 動物型だけでなく、人型のも。



 数瞬互いに固まって、絞り出すように声を出したのは、彼の方が先だった。

「……待てこら、お前等まさか」
「見つかったー!」
「逃げろー!」

 その声を皮切りにして、一斉に全員逃げ出す。

「こら、お前等!」

 さとりを離し、廊下に飛び出す。見れば、結構な人数、いや匹数がいたらしい。ばたばたと賑やかに逃げていく。

「お父さんが怒るぞ、逃げろー!」
「こら待て誰がお父さんだああああああ!」

 思わず心の底からの怒号を上げれば、きゃー、と楽しそうに逃げていく。
 というか、人型の者までお父さん呼ばわりしているとはどういうことか。

「……大丈夫?」

 まだ紅い顔のまま、さとりがその場で脱力した彼に声をかける。壁に背を付けてずるずると座り込んだ青年は、うーむと軽くうなった。

「大丈夫です。あー、ったく、何がお父さんだ」
「本当にね」

 そう言いながらも、さとりもくすくす微笑っている。憮然とした顔で、彼は軽く手を振った。

「まだそんな歳じゃあないつもりなんですが」
「精神的なものかもね。貴方の側は落ち着くわ」

 さとりは彼の手を取って立ち上がらせる。大人しく立ち上がって、彼はもう一つため息を吐いた。

「まあ、それはそれでありがたいんですがね」

 さとりともまだ恋人という関係であるというのに、そう言われるというのはどうもこう、落ち着かぬものがある。
 その連想によって脳裏によぎったものに、さとりはさっと顔を紅くし、そして少しだけすまなそうに目を伏せた。

「そ、その、ごめんなさい、私、その」
「ああ、うん、すんません、気にしないでください。と言いますか、そう反応されるとまた連想するんで」
「う、うん、ごめんなさい」

 二人の関係はまだ恋人といえる程度のものであり、かつ、そこからまだ踏み入った関係ではない。
 へたれだの据え膳を食わぬ男だの散々に言われているが、それに対して文句は言うものの弁解はしていない。
 そういうのは、もう少し心の準備やいろいろなものができてからだと、二人で理解している。それでいい。

「で、でも、部屋の外では、その、自重してね」
「ええ、今回実感しました。何で覗いてるんだあいつらは……」

 顔を押さえて、彼はぼそぼそと弁解がましいことを口にした。

「気を付けましょうね。さ、戻りましょう。きっと丁度良い熱さになってるはずだわ」
「ええ」

 苦笑して、彼はさとりの後に続いて食堂に入っていった。





 そして、夜。彼の部屋を訪ねたさとりは中の様子を見て目を瞬かせた。

「ああ、さとり様」
「随分賑やかね」
「ええ、まあ。こいつらがどうやら一緒に寝たいみたいで」

 彼の膝の上や背中に、生後一年も経っていないような子猫ががしがしとしがみついている。
 それが何となく微笑ましくて、さとりは頬を緩ませる。
 今日は彼の部屋で休むことになっていたので、風呂から上がったのを見計らってやってきたのだ。

「いいですかね」
「断る理由はないわよ」
「だそうだ、よかったなお前ら」

 そう、ベッドの上で胡座をかいている彼の膝の上で、子猫達がごろごろと喉を鳴らしながらじゃれていた。
 さとりは今度はくすくすと微笑う。猫達が暖かい暖かいと歌うように考えているからだった。

「貴方が暖かいのもあるみたいね」
「ああ、風呂上がりだからですからね。まったく、ちゃっかりしてる」

 そう言う彼の瞳は優しい。実際心も、口に出しているほど迷惑に思っていない。さとりと二人きりでないのを残念がるところはあるものの、だ。

(さとり様も)
「ああ、ええと、上がりますか」
「ええ」

 彼のベッドの上にあがって、さとりは猫達の頭を撫でた。ごろごろと上機嫌な声が聞こえる。

「さて、寝ますか」
「ええ」

 にー、と、それに答えるように子猫達は鳴いた。わかってんのかねこいつら、と言いながら横になった彼の隣に、さとりも身を横たえる。

「本当に、暖かいわ」
「さとり様までそういうことを」

 苦笑して、彼はさとりの顔に落ちてきた髪を軽くはらった。その手付きが優しくて、さとりは目を細める。

「おやすみなさい、さとり様」
「ええ、おやすみなさい」

 軽い口付けだけをかわして、彼は眠そうにまばたきをすると、そのまま眠りの手に落ちていった。
 相変わらず見事なこと、と思っていると、枕元の猫達が、さとりに話しかけてきた。

(さとり様ー。こいつお父さんって呼んだらこたえてくれるの)
(だからお父さんなの)
「ふふ、そうね……」

 彼は心など読めない。さとりの妖力を流し込まれているだけで、能力は持っていない。
 けれども、ペット達――特に、最近産まれた子や来た子達達はそんなことを知りもしないから。

「でも、あまり言うと落ち込んじゃうから、こっそりね」
(はーい)

 異口同音に答えるペット達に微笑みを返して、さとりは彼の頬を撫でた。

「お父さん、ね」

 さとりはくすりと微笑って、少し未来を夢想してみる。それが本当になるのか、夢想のままなのかは、わからないけれど。
 とにかく、いつも彼が寝てしまってからこういうことを言っている自分がちょっと狡いようにも思えた。

「……気恥ずかしいもの、ね」 

 まるで自分が小さな娘のようになってしまった気がして、さとりは今度は微苦笑する。
 多くのことを読み、暴き、怨霊からさえも恐れられる自分がこういう心境なのは、どこか滑稽に思えたのだ。
 それでもいいと、きっと彼は言ってくれるのだろう。言葉にせずとも思ってくれるのだろう。
 そう思い、暖かなものが胸に満ちるのを感じる。そして軽く彼の額に口付けを落とし、さとりも瞳を閉じた。





 もうじき冬の閉ざされた時間も終わる。また忙しくなるのだろう。
 だからその前の、ちょっとした休息の時間を楽しんでおこう。
 幸せな眠りに落ちながら、そんなことを考えた。


Megalith 2012/04/02
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「涼しくなってきたな」

 山の端に落ちていく陽を見ながら、青年は呟いた。
 幻想郷の夏は短い。外から来た身だからか、たまにそう思うときがある。
 とはいえ、まだ数えるほどしか季節を越えていないから、こうした言い方は偉そうなのかもしれない。
 何にしろ、涼しくなってきたのはありがたかった。けれども、今度はすぐに冬がやってくるのだろう。
 早く帰らないと、日が完全に暮れてしまうな。
 そんなことを思いながら、彼は地底の入り口の方に足を向けた。




 旧都を通って地霊殿に戻り、仕事道具を置いてからさとりのところに顔を出しに行く。

「ただいまもどりました、さとり様」
「おかえりなさい」

 書斎兼執務室で仕事をしていたさとりは、手にしていた書類から顔を上げた。

「……地上の暑さも、盛りを過ぎたようね」
「まだ少し暑いですが、だいぶ過ごしやすくなりました」

 彼はそう頷きながら、さとりに近付く。脳裏には今日帰り際に見た夕焼けが浮かんでいた。
 さとりはそれを読みとって、こくりと一つ首肯した。

「本当に、涼やかだったのね。そして綺麗」
「今度、みんなで一緒にまたピクニックにでも行きましょう。弁当持って」
「そうね」

 地上にあまり上がらないさとりだが、地上を厭っているわけではない、ということは知っていた。
 郷愁もあるのだろうか、と以前思ったときは、肯定も否定もされなかった。
 懐かしくないわけではないが、戻ろうと思うわけでもない、という答えだった。
 ならば、過去よりもこれからだろうと、折を見て誘うことにしている。それでも、宴会以外では気候の良い頃くらいだが。

「ありがとう、いろいろ気にかけてくれて」
「いいえ」

 彼としては、この程度しかできないのだ。けれども、するとしないとでは大きな差があるのも確かで。

「では、いい場所を探しておきますよ。人が少ない方がいいから、湖畔とかがいいですかね」
「けれども妖精が寄ってくるんじゃないかしら?」
「あー……チルノとお空があったら弾幕始めて大事になるからなあ……」

 いつかの宴会で始めようとして霊夢に撃ち落とされていたのを思い出す。

「まあ、その辺りは追々決めましょう?」
「ええ、そうですね」

 秋の山もいいかもしれない。紅葉が綺麗な頃に。
 さとりはそれも読んだのか、嬉しそうに頷いてくれた。




 さとりは彼に椅子を勧めて、もう少し話をすることにした。

「旧都も通ってきましたが、だいぶそちらも暑気は引いてますね。熱気は相変わらずですが」
「そうね。また秋の祭りにかこつけての宴会もあるでしょうし」
「心構えはしておきましょう」

 軽く笑って、彼はそう応える。あまり旧都に出ないさとりの代わりに、旧都の状況を見聞きしてくるのも彼の仕事の一つになっていた。
 無論さとりも旧都の代表者――勇儀に会って話をすることもあるのだが、それとは違う視点での話も欲していた。
 さとりは地底を統べている。そこに住む者達のことを考えるのは至極当然のことだった。

「まあ、そんなものですね。気が早いところは、もう熱燗で一杯とやっているようですが」
「それは随分気が早いわね」
「まったくです。ですが、そろそろ晩は涼しくなってきてますし。もう少ししたら本格的に冬支度ですね」

 彼は神妙な顔になった。さとりも頷く。幻想郷の冬は厳しいし、地底も基本外とは隔絶される。
 以前は完全に隔絶され、基本旧都の中だけで回っていたから話は早かったが、今は外との流通もある。考えることは多い。

「まあ、それもまた、秋に入ってから考えましょう」
「そうですね、今年の実りを見てからでも。一応素案だけは」
「そうね、準備しておくわ」

 業務じみた会話を一段落させて、さとりはそっと息を吐いた。彼が心配そうに見ている。

「大丈夫よ」
「ん、疲れは溜めないでくださいね」

 心遣いが嬉しい。こくりと、再び頷く。
 しかし、涼しくなってきたということは。

「涼しくなってきたなら……」
「ん?」
「あ、いえ、その」

 うっかり口に出してしまっていた。彼の前だとつい気を抜いてしまう。
 いや、気を抜けるようになった、ともいえるのかもしれない。

「……? どうしました?」

 当然ながら彼はわかっていないようだった。聞きたがっているのはわかる。
 どうしようか。少し迷って、さとりは口を開いた。直視しながら言うのは少し恥ずかしくて、顔を俯けて。

「……一緒に寝るとき、過ごしやすくなってくるかな、って」
「あ、ええ、ああ」

 彼は意味のない言葉を口にした。動揺している。
 夏は地底といえども暑く、やはり夜はやや寝苦しい日もある。
 それでも、余程忙しい時期でもなければ一緒に休んでいた。
 いつも二人きりというわけではなく、ペット達も寄ってきて寝ることもあるにはあるが、大抵二人で寝ているのには違いない。
 けれども、だとしても、こうして改めて告げるとなると気恥ずかしさというものはあるもので。

「……ごめんなさい、そんなに動揺させるつもりでは」
「いや、すみません、俺こそ」

 彼はゆっくりと首を振った。心の中は、むしろ喜んでいる。
 さとりも嬉しくなって、頬をほころばせた。

「……じゃあ、今夜も、行ってもいい?」
「…………ええ、待ってます。それとも」
(俺が行きましょうか)

 その想いに、さとりはさっと顔を紅くして、こくりと頷いた。

「…………うん、待ってる」

 袖を少し引いて、そう伝える。彼もまた顔を紅くして頬をかいた。

(そういう反応は、ちと、困るんだが)

 彼の心によぎったものに、さらに顔に熱が上ってくるのを感じる。

「も、もう、そういうのは駄目」
「すみません、本当にこれは男の性というか」

 彼は誤魔化すような声で両手を上げた後、さとりの頬に手を伸ばす。

「大丈夫です」
「うん」

 その手に自分の手を重ねて、さとりは頬をすり寄せた。


 温かくて大きな手。さとりを安心させてくれる手のひら。
 仕事をしていて、少しごつごつしていて、けれどもそれが心地よくて。
 本当はずっとこうしていたいけれども、そうもいかない。
 それもわかっていてなお、さとりはこの手を求めている。


「……そろそろ、夕食にしましょうか」
「はい」

 名残惜しさと共に手を離す。彼もまた名残惜しさを感じていて、それが少し嬉しかった。
 書類を揃えて立ち上がりながら、これからのことを口にする。

「ご飯を食べて、寝る準備をしたら今日は早めに休みましょう。横になって、だらだらと本を読むのも良いかもしれないわ」
「ああ、そいつはいいですね。では、風呂に入ったら、すぐに向かいます」
「ええ」

 同じく立ち上がった彼を促して書斎を出ながら、さとりは思う。そうした益体もない時間を、恋人と過ごせるというのは、何とも贅沢なものかもしれない。
 彼は、書斎を出ながら何の本を持って行くのか考えていた。一緒にのぞき込んで読んでもいいかもしれない。物凄く読みにくいだろうけれど、そんなことはわかっているけれど。

「行きましょうか、さとり様」

 彼がが手を差し出す。そっとその手を取ってつないで、それが何だかとても嬉しくて。

「ね」
「はい?」
「大好きよ」
「っ!?」

 思いもよらない発言に、彼の思考が大パニックを起こしているのを楽しんで。

「さ、行きましょう」

 さとりは心からの笑みを浮かべて、自分も好きだとかそんな唐突にとか、ぐるぐると思考を回している彼の手に指を絡めた。

「……さとり様」
(不意打ちは反則です)

 結局、どこか拗ねたような言葉が返ってきて、さとりは思わず吹き出す。

「笑わんでください」
「ごめんなさい、でも」

 くすくすと笑いながら、そういうところも愛しくてたまらないのだと、さとりは自身の想いも感じ取る。

「全く……ああ、その、さとり様」
「うん」
「俺も、その――」
(大好きです)

 心の声だけが先走って、さとりはそれを微笑ましく思いつつも、微笑もうとして失敗した。
 どうしても駄目だ。彼のそういう言葉を聞くと、顔と心が熱くなってしまう。

「……不意を打ったつもりはないんですが」
「うん、わかっては、いたのだけど」

 紅くなった頬をそっと彼の腕に寄せて誤魔化しつつ、さとりはそっと息を吐いた。

「わかっていても、よ。さあ、早く行きましょう」
「……はい」

 二人して紅い顔をしつつ、廊下を歩いていく。




 それを見ていた何匹かのペットが、呆れたような鳴き声で互いの意志を交わしていた。
 何とももどかしいが、仲良いことはきっと良いことなのだろうと。


うpろだ0007
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 一日の仕事が終わって、二人きりの時間というのを、前までは書斎で持つことが多かった。
 今は、書斎だけでなく、互いの部屋で取ることも多い。
 一日が終わって、何があったか、どういうことをしたのかの報告をすることもある。
 だが、もしかすると一番多いのは、静かに隣り合ったり背中合わせになったりして本を読むことかもしれない。
 最近、そういうことを思うようになった。





 この日もそういう日だった。
 ベッドの上に座り込んで、背中合わせで本を読んでいる。別に申し合わせたわけでもなく、気楽な格好で読んでいるだけだった。
 少し前に忙しさも一段落ついたからか、ここのところは毎日こうして過ごしている。
 隣り合って座ることもあれば、こうして背中合わせの時もあるし、少し本は読みにくいがさとりが膝の上、というか膝の間に座っていることもある。
 そういう風に過ごせる時間は、何となく幸せに感じるものだ。そう思いながら、ページをめくる。
 丁度そのとき、背中合わせで本を読んでいたさとりが、本を閉じて大きく寄りかかってきた。

「どうしました?」
「……気付いてないのね?」

 さとりの声が若干拗ねているような気がする。何故だろうか、心当たりがない。
 そう思ったことは当然伝わっていて、さとりは軽いため息と共に告げた。

「無意識だと思うのだけど、声に出す出さない関係なく、結構歌を歌ってるでしょう? 外の歌」
「あー、そう、ですかね」

 言われてみれば、くらいだが、本を読みながら鼻歌を歌ったり口ずさんだりはしているかもしれない。
 いや、読書に限らず何かしているときは歌っているのかもしれない。本人に自覚はあまりないのだが。
 もしかして歌が何か気に障っているのだろうか。凄く下手だとか。
 それに対して、さとりはゆっくりと首を横に振った。

「そうじゃないの。貴方が、悲恋の曲ばかり歌うものだから」
「ああ……そう、ですか?」
「やっぱり気が付いてないのね」

 さとりは仕方ないな、というように微笑んで、背中に頬を付けてきた。

「別にいいのだけど、こう、ずっとそれだとちょっと」

 そこまで言った後、さとりは気まずそうに付け加えた。

「ごめんなさい、我儘ね、こういうのは」
「いえいえ、俺も全く気が付いてなかった」

 悲恋の曲が特に好きだというわけではないのだが、ふと思い出すのがそういう曲ばかりだったらしい。
 申し訳ない反面、こうしてさとりがちょっとした我儘を言ってくれるのは珍しく、少しだけ嬉しかったりもする。これは応えねばならないだろう。

「ん、では」

 何か別の曲でも、と思考をたぐる。悲恋でない曲、悲恋でない曲、といろいろ思い出してみる。
 あれでもない、これでもない、と考えた先に、ふと、懐かしい曲が浮かんだ。

「『いとしいだなんて いいなれてないけど』……」

 その懐かしい曲を口ずさんでみる。確か元々は女性ボーカルの歌だったが、歌えないこともない。
 ああ、歌詞も好きだった。懐かしさのあまり、そのまま口について出てくる。
 本をめくりながら、歌詞を思い出す。意外に歌えるものだな、と他の曲も思い出しながら、思い出した歌を続ける。
 だが唐突に、ぎゅう、とさとりに抱きつかれて、青年は目を瞬かせて歌を止めた。
 どうしたのか、という内心の問いに、さとりは抱きしめる力を強くしながら呟く。

「あ、あのね」

 さとりの声には明らかな照れが混じっていた。何事だろうか。

「だからって、恋歌を歌えってわけじゃないのよ……?」
「あ、あー……」

 本に栞を挟み、ぱたんと閉じて頬をかく。悲恋の曲でなければ、という短絡思考ゆえだった。
 無論意識したわけではない。だが考えようによっては凄く恥ずかしいことをしているのではあるまいか。
 たとえばそう、さとりに対しての恋歌を歌っているような。
 そう思えば思うほど顔が熱くなってくる。気恥ずかしさが先に立ってしまって、さとりの方を直視できない。
 いや、さとりもこちらの背に顔を埋めてしまったままなのだが。少し体温が高い気がするので、さとりも照れているのだろう。

「いたたたた」

 そう思ったら背中をつねられた。痛い。

「もう」
「いやすみません。俺も恥ずかしいんで、それで勘弁してください」

 どういう交換条件なのか自分でもよくわからなかったが、とにかくさとりにそれで納得してもらうしかなかった。

「……許します」
「ありがとうございます」

 依然くっついたままだが、機嫌を直してくれたらしい様子に少し微笑う。
 いや、元々そこまで機嫌を崩してもいなかったのだろうけれども。

「まあ、そうだけれども」

 さとりはそう言いながら、彼を背もたれにするように座り直した。
 そして、少し甘えるような声色で続ける。

「……ね」
「はい」
「続き、歌って」
「歌詞間違ってるかもしれないですが」
「それでも」
「結構うろ覚えですけど」
「それでもいいから」



 歌って。



 甘い声でのおねだりに当然抗え得るはずもなく。一つ息を吸って、彼は再び歌い始めた。
 いざ聞かれているとなると、中々緊張もするものだ。音も外れてるような気がする。
 けれども、不思議と暖かい気持ちにもなる。無心に歌えるように再び本を開いて、彼は歌い続ける。


 さとりもまた、本を開いて静かにそれを聞き始めた。
 時折調子の外れる、けれども彼女の好きな声が、心地よく耳に、心に染み込んでいく。
 今度は私も覚えてみようかしら。
 背中越しの体温と、その歌声に暖められながら、さとりはそんなことを思っていた。


 そうして、夜は静かに更けていく。


うpろだ0011
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「おかえりなさい。どうしたの、それ」
「ただいま戻りました。ああ、まだ残ってますか」

 外回りから帰ってきた青年は、わざわざ玄関ホールまで出迎えてくれた自分の主、古明地さとりの言葉に少し苦笑した。
 台車から下ろした荷物を置いて、さとりの方にきちんと向き直る。

「悪戯に、遭いまして」
「『帰るときに金木犀の木の下を通ったら、妖精に花びらを振りまかれた』ですか」

 こくりと青年は頷く。配達の帰り、崖上の金木犀の花を見上げていたら、悪戯好きの妖精達に花びらを思い切り振りかけられたのだ。
 そして振り払っているうちに花弁を潰してしまったらしく、身体に香りが染み着いてしまったのだった。
 帰りに旧都に配達したときも散々それでからかわれた。妖精の悪戯に引っかかることなど珍しいのだろう。
 無論、帰ってきた後も、何匹かのペット達には首を傾げられたり変な顔をされたりした。馴染みのない香りだからかもしれない。

「帰ってきて、何人かが妙な顔を。やっぱり匂いますか」
「ええ、心地よい香りだけど」
「もう、だいぶ俺は鼻が慣れてしまって」

 苦笑して服を払うと、小さな花弁が床に落ちた。それを見て、少し困ったような顔をする。

「ああ、服の中にも」
「そうね、一度着替えた方がいいかも。ついでに先にお風呂に入ってしまう?」
「ではお言葉に甘えて」

 先に湯を頂くことに申し訳なさがないわけではないが、この状態で歩き回るよりはマシだろう。
 まだ何か話すことがあったような気がした。何だったか、と荷物を振り返って、ああ、と思い出す。

「ついでに、思い切り揺らしてて折れてきたこれが」
「あら、金木犀の枝ね。まだ花も散ってない」
「妖精が持ってたからでしょうか、随分と」
「ええ、長持ちしてるわね」

 青年の説明を補うように心を復唱して、さとりは頷いていた。

「……そう、旧都で、酒に入れないかと言われたのね」
「桂花陳酒がそれで作れるかどうかは知らないですけど、でも、持って帰りたくて」
「ありがとう。うん、いい香りね」

 嬉しそうに笑むさとりの表情に、持って帰ってきてよかった、と彼は思う。
 こうした表情が見られるのは、やはり嬉しい。
 それを読んださとりは、少し照れたように微笑した。

「ありがとう。……でも、このままではすぐ枯れてしまうわね」
「挿し木……にするには、ちと日の光が足りませんか」
「そうね、金木犀は陽光に当ててあげないといけないものだし……」

 空に頼むという手もないではなかったが、彼女も常日頃から地霊殿に居られるというわけではない。
 仕事の片手間に、といえば役に立てると喜ぶだろうが、それもそれで申し訳なくも思う。
 少しばかり考えていたさとりが、うん、と一つ頷いた。

「……ポプリにしましょうか」
「ポプリ、ですか」
「ええ、まだ新鮮だし……モイストポプリにしてしまいましょう」
「モイストポプリ?」
「ただ乾燥させると、香りが飛んでしまうらしいの。花が新しいうちに作ってしまうわ」
「お願いします」

 そう、青年はさとりに金木犀の花の付いた枝を渡した。





 それが一月ほど前のこと。





「良い匂いですね」
「ええ。とりあえず試しに部屋に置いてみたの。扱いを丁寧にしないといけないのは少し不便だけど」
「花を振りかけられるのはあれですが、うん、こういうのはいいですね」

 さとりの私室で、青年はベッドサイドに置かれているポプリの入った瓶を撫でた。
 柔らかな香りが、部屋を包んでいる。金木犀の香りだった。

「少し香りは強くなってしまったけれどね」
「この程度なら大丈夫では」
「もう少し香りが飛ぶかと思っていたの」

 さとりはくすりと笑んだ。確かに、香りは少し強い。彼は手を離してふむと頷いた。
 そこまで新鮮ではなかったはずなのだが、妖精が宿っていたからだろうか。
 ともかく、随分と長持ちするような物になりそうなのは確かだった。

「うまくできて良かったわ」
「え、ああ」
「ええ、そうね。『地底ではあまり花が咲かないから』。貴方の思っている通りよ」
「こういうのは」
「あまり作ったりはしなかったわね。押し花にして栞にするくらいはあったけれど……でも、こういうのも悪くないわ」

 さとりもポプリの瓶を撫でた。こうした楽しみが増えるというのは、やはり不思議なことなのかもしれない。
 地霊殿のあの異変の後、随分いろいろなものが変わったと聞いている。
 こうした変化は、良い方向に行くのかどうか。行けばいい、と彼は何となく思った。
 過去のことは何も知らない。現在しか知らない。ならば、未来のことくらいは考えられるように。

「気負わなくていいのよ」
「え、あ、はい」

 さとりはくすりと笑んだ。こんなときにそんなことを考えていたのが気恥ずかしくて、彼はふいと顔を背ける。

「でも、ありがとう。そういうのは嬉しいわ。そろそろ、休みましょうか」
「ええ、ああ、はい」
「『だいぶ贅沢な気がする』ね。そうね、こうした香りの中で眠れるのは」
「……はい」

 青年は応えながら明かりを絞った。胸中を全部言われなかったのは有り難かった。
 金木犀の香りの中で、さとりと一緒に休むのは、何とも贅沢だと思ったのだ。
 言われていたら、顔が紅くなる程度では済まなかったかもしれない。息を一つ吐いて横になる。
 ぬくもりが寄り添ってきた。寄り添うさとりの頬も少し紅いなど、彼は知る由もなく。
 だから、小さく囁くだけにとどめた。

「おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」

 柔らかな声が、耳朶に心地よく響いた。





 数日後。地霊殿に来客が来ているという報告を聞いて、青年は玄関口で待機していた。
 とはいえ、ペットの報告からもう誰かはわかっている。わかっているからこそ、彼自身が応対に出ているのであった。

「お、やあ」
「どうも、勇儀さん。こちらに向かってると聞いて」
「うん、例の会合をいつにするかの相談にね」
「ああ」

 青年は頷いた。会合、というのは、ここ数年行われているもので、旧都の代表やら何やらを話し合うものだった。
 元々旧都と地霊殿はそこまで密接な関係にはないが、地上との繋がりが出来たことで両者の協力体制があると対外的に見せることも必要になってきたのだった。
 会合の最後はほとんど宴会のような席になってしまうが、どのみち話し合うことによるプラス収支が多いので継続している。
 いつものさとりと勇儀のやり取りほど簡単なものではなく、さりとて随分昔――彼が知らないほど昔ほど張り詰めたものでもなく。
 これもまた、大きな一つの変化なのかもしれなかった。

「では、中に」
「いや、ここでいいよ。すぐに私も用があるんだ」
「わかりました」

 青年は一つ頷くと、奥に下がっていった。
 この辺り、余計な問答をしなくていいので勇儀などは気が楽なのだった。
 無理に請われて時間を無駄にするよりずっと良い。

「お待たせしました」

 程なく、さとりが現れた。勇儀は軽く声をかけようとして、少し妙な顔をする。

「いや、そんなに待ってな……さとり」
「?」
「同じ匂いがしてるから、気を付けた方がいいんじゃないかね」

 勇儀の心底呆れた声に――声と同時に心まで読んでしまい――さとりは顔を赤らめた。

「そんなに、しますか」
「まあ、そこまで気になるものかはわからないけれどね。この館の中だとやっぱり目立つな」
「気を付けます。ポプリなのでそこまで付かないと思っていたのですが」
「珍しい香りだからね。金木犀かい」

 勇儀はそう言いながら、少し前に青年が金木犀の花びらを被って帰ってきたことを思い出していた。
 さとりはそれにも肯定を示すように頷いた。

「ええ。彼が持って帰ってきてくれて」
「お熱いことで」
「そういう、わけでは」

 さらに顔を赤くしたさとりにくつくつと笑って、勇儀は続けた。

「ま、仲良くしてるのはよいことさ。会合までにそれは抜いておいた方がいいかもね」
(酒の肴になるよ)

 勇儀の声にため息をついて、さとりは仕方なさそうに笑んだ。

「書斎か居間か、どこかに移すことにします」
「ああ、やっぱり閨か」
「……そういうのはずるいのでは」
「……ひっかけたつもりは微塵もなかったんだ」

 ごめん、と素直に謝られて、さとりは気恥ずかしさを隠すように首を振った。

「私も少し過剰反応でした。とにかく、会合は」
「ああ、いつものように師走の頭で。ま、そんなに来ないとは思うが」
「『あいつが来るなら何人かも来るだろう』と。彼も?」
「一応商売みたいなもんだからね。今年のまとめと来年の運搬のことについてとかだな」
「わかりました。連れて行きましょう」
「よし、伝えておこう。じゃあ、私はこれで」

 勇儀は軽く片手を挙げて挨拶をすると、旧都の方に帰って行く。
 さとりは一つ息をついて天蓋を見上げた。会合用の資料のまとめを考えるためだった。
 その視界に、白いものが降りてきた。雪だった。地底にも雪は降る。

「……地上も、もう白くなる頃かしら」

 少し目を細めて呟くと、さとりは地霊殿の中に戻っていった。
 ホールで待っている彼と、何か温かいものを飲みながら、これからの話をするのもいいかもしれない。
 冬の足音が聞こえるこの時期に、金木犀の香りの中でそう出来ることは、何とも贅沢なことのように思えていた。




うpろだ0057
───────────────────────────────────────────────────────────

 地底に入ろうとして、ざあと吹いた風に髪を撫でられた。

「ああ、いい風だ」

 青年は地上を振り返り、ぽつりと呟いた。秋の午後の空気は心地よい。
 地上と地下を結ぶ運搬は、春と秋がやはり注文が多い。冬になれば閉じるし、夏はそれほど物資が行き来するわけではない。今日も今日とて、旬の果物などを運んでいる。
 それでも、そろそろこれも終わる時期だ。もうすぐ霜月、そして師走になれば、雪で閉ざされる季節になっていく。
 人も物も行き来は少なくなる。その前に、できるだけの仕事はやっておかねばならない。
 夕暮れの景色を眺めて、そういえば、と思い立つ。

「そういや、今日は」

 ふむ、と呟いて、車を引きながら彼は地底へと足を進めた。



「ただいま戻りました」
「お帰りなさい」

 旧都での配達を終え、地霊殿に帰ってきた青年は、まずは自分の主人であるさとりのところへ報告に向かった。
 さとりは机に向かって何か書き付けていたが、入ってきた青年を、立ち上がって出迎える。

「お疲れ様。どうだった? ……そう、もうそろそろ仕舞いなのね」
「そうですね、果物とか野菜とかも、もう。後は、冬の備蓄、くらいでしょうか」
「そうね。後は嗜好品かしら」

 さとりの言葉に、青年も頷く。日数を確認するように、何度か指を折った。

「年内は、後、二、三回というとこでしょうか」
「また、受け渡しの物資の品目を教えてね。その辺りも記録を残しておきましょう」
「はい、帳面は残してるんで、それをまとめます」

 そこまで告げて、青年は一つ息をついた。お疲れ様、とさとりは微笑む。

「私も今日はここで終わりにするわ。何か言いたいことがあるみたいね?」
「ええ、さとり様」
「『今日出かけませんか』ですか?」

 頷いた青年に、さとりは一つ首を傾げて、ああ、と微笑んだ。

「満月なのね。そう、綺麗に晴れていると」
「そうです。なので、よければ」

 中秋の名月ではない。それは一月前に見に行った。あのときはこいしや燐や空とも出かけたし、旧都からもちらほら月を見に出る者もいて、なかなか賑やかな中での月見だった。
 だから、今回は二人でどうだ、という誘いである。さとりは少し考えて、うん、と頷いた。

「そうね、行きましょうか」

 青年はその返事に嬉しそうな表情をした。無論胸中は全力で喜びを伝えている。
 さとりは少し仕方なさそうに微笑んだ。こうした青年の様子はどこか幼く見えて、彼女にはそれが愛しく感じられるのだった。



 何か買っていこうか、と、旧都のあちこちで開いている店の一つに顔を出した。

「おう、どうした……お付きか」

 入った店の店主は、青年の後ろにいるさとりを見て硬直した。青年とは馴染みだが、その主とは当然そう面識はない。
 無論、さとりは気を利かせて後ろで待っている。だがそれでも、地霊殿の主がいるというのは店主にとって落ち着かないことのようだった。むしろ、恐れているといっていい。
 彼自身もそれをわかっていて、だから簡潔に用を告げた。

「そんな感じだ、何か飲み物ないかな。少し出かけてくるんだが」
「ん、ああ。なんだ逢い引きか。じゃあ、これなんてどうだ」

 逢い引き、という言葉にふいと顔を背けた青年に笑って、店主は奥に入っていく。すぐに、小さな酒瓶を二つ持って戻ってきた。
 燗にしてある梅酒だった。道行く者が、帰るまでに一杯引っかける用のものなのだろう。

「少し甘めなんだが、いい奴だ。出る頃にゃ、いい案配になってるだろう」
「じゃあ、それで」

 ぶっきらぼうな言い方だが、店主はまだ笑っている。背後のさとりがくすくすと笑っていることに気が付いているのだ。
 流石に無視も出来ないとみて、店主がさとりにも声をかける。だが、先程までほど過剰に怯えてはいない。

「お待たせしやした」
「いいえ。随分お世話になっているようで」
「いえいえ、こっちこそって奴です」

 そう言いながら、青年に風呂敷に包んだ酒瓶を渡す。丁寧な手つきで受け取って、青年はさとりの隣まで戻った。

「何かあったら教えろよ、おい」
「しないし教えねえ」

 店主の軽口に生真面目に返した後、一礼して歩き出したさとりの隣に、青年は付いて歩く。

「失礼しました、さとり様」
「私は別に気にしてないわよ。貴方をからかうネタにはしたみたいだけど」

 青年は何とも言えない唸りを漏らした後、諦めたようにため息をついた。

「……行きますか、もう月も昇ります」

 さとりは頷いた。ごめんなさいね、と囁いて、青年の腕に手をかける。
 青年は驚いた顔をした後、頬をかいて首を振った。照れているのだった。
 さとりが申し訳ないと思っているのは、今からかわれたことだけではない。今の会話の中で、上手く緩衝材のように扱ったことだった。
 彼女だけならばただ恐れるだけの相手も、彼を間に立たせることである程度の距離感を取れる。彼の認識がさとりの付属物程度なのもあるだろう。
 ともかく、それには申し訳なさと有り難さを感じているのだった。もっとも、彼はそれを知ったところで喜ぶだけだろう。
 彼自身は、さとりのためになることならば、何であっても嬉しいからであった。



 月は冴え冴えとして美しかった。晩秋の宵の澄んだ空気が、月をさらに美しく見せている。

「少し冷えますかね」
「大丈夫よ。それほどでもないわ」

 幸いなことに、今日は誰もいないようだった。それでも地底の入り口から少し離れた、見晴らしのいい開けた場所まで出て、青年はさっと敷布を敷いた。
 二人で座り込んで空を見上げる。風呂敷から酒瓶を取り出して、一人一本ずつ手に取った。
 蓋を開ければ、甘い香りが広がる。程良く温かいそれを、少し行儀が悪いが直に飲み始めた。
 一口飲んで、さとりは一つ息をつく。

「美味しいわね」

 青年は頷いた。胸中で、同意の言葉を述べている。
 甘いが甘ったるいまで行かない程良い味と、身体の底から温かくなってくる、程良い熱さだった。

「月も、よく見えます」
「ええ、そうね」

 二人で寄り添って、酒を口にしながら、ただ黙って空を見上げる。
 煌々とした月の明かりが降り注いでいる。ひゅう、と一陣の風が吹いてきて、さとりは小さなくしゃみをしてしまった。

「ご、ごめんなさい」
「寒いのでは」
「そういう、わけではないのだけど」

 青年は頷きつつ、さっと自分の上着を脱ぐと、さとりの肩にかけた。

「これだと、貴方が」
「大丈夫です」

 青年も、肌寒さを感じてはいる。さとりには手に取るようにわかる。けれども、折角のその好意を無碍には出来ず、さとりは頷いた。
 さとりも薄着で来たつもりではなかったが、青年の上着一枚増やすだけでも温かかった。けれども、これでは早めに戻った方がいいだろう。
 そう思って、青年を見上げる。真正面から見つめられる形になって、青年の顔が紅くなった。そして、それを誤魔化すように空に視線を映す。

「……ああ、月が綺麗ですね」

 何気なく口唇から零れた言葉だった。他意もなく、彼はただ本当にそう思ったのだった。
 さとりは少しだけ目を瞬かせた後、くすりと笑って、冗談めかした口調で告げた。

「そうね。私は『死んでもいいわ』と返すべきかしら」

 今度は青年の方が驚きに目を瞬かせる。しばし考えて、あ、と思い当たった。

「あ、いや、すみません、その、うっかり、そういうわけでは」
「ごめんなさい、からかいすぎたわ」

 急に慌て始めた青年に、さとりはくすくすと微笑む。不本意そうに、だが申し訳なさそうに青年は低く唸って手元の酒を飲み干した。明らかな照れ隠しだった。

「そんな、気障なことは言えません」
「ええ、きっとそうだと思って。ごめんなさいね」
「そこで納得されるのも」

 何とも、ともごもごと何か呟いて、青年は顔を紅くしたまま告げた。

「それに」
『愛してるというなら、真正面から言います』

 顔は紅いままだが、言葉は真剣だった。さとりの方が、顔が熱くなってしまう。

「……ええ、そうね」

 そうです、と頷いて、青年は今度は自分からさとりの顔をのぞき込んでくる。距離が近い。

「愛してます、さとり様」
「……うん、私も」

 愛してる、という囁きは、下りてきた口唇に飲み込まれた。
 口付けは甘かった。酒精がまだ残っている口付けだった。だが、気が付けば、別の甘さに囚われそうになる。
 ぼう、となるその心地よい甘さと長い口付けに囚われそうになって――その前に、さとりは青年を押し返した。
 離された青年は、気まずそうな表情になった。

「あー……その」
「大丈夫、貴方が心配してることじゃないの、嫌だったわけじゃなくて」

 やや強引に離したことで、嫌がられたのではと思っているのだった。さとりは否定するように首を横に振る。

「……他に、何か?」
「……誰が見てるか、わからないでしょう?」
「……ああ」

 とにもかくにもここは外である。しかも見晴らしのよい場所で、どこかの誰かに見られていてもおかしくない。
 それに気が付いたようで、照れたように青年はやや紅くなった頬の辺りを曖昧に撫でた。さとりはその心を読んで、じと目で告げる。

「『夢中になりかけてた』のね?」
「……面目次第も」

 彼はさとりに隠し事など出来ない。わかっているからこその率直な会話だった。

「全くもう……」
「すみません、本当に」

 悄然としてしまった青年を慰めるように、さとりは仕方なさそうに微笑った。

「そういうのは、その、二人きりのときにね」

 さとりとしても、あまり他意のない言葉であった。が、それを言われた瞬間、青年の顔がさらに紅くなり片手で顔を覆う。
 その胸中によぎったものを読んでしまって、今度はさとりの方が動揺した。二人きりで、というのに、青年があらぬことを考えたのを視てしまったのだった。

「っ、あ、そ、そういうのは」
「すみません、でも反射で思うっていつも言ってるじゃないですか」

 こほん、と一つ咳払いして、青年は気分を変えるようにさとりに尋ねた。

「どうします?」
「そう、ね。もう随分いい時間だし、帰りましょうか」

 少しまだ熱を持っている頬を冷ましてくれる風は心地よいが、そろそろ本格的に冷えてくる。上着を貸してくれている青年はなおさら寒いだろう。
 きっと、一言も寒いとは口に出さないのだろうけれども。
 それに目を細め、さとりは立ち上がって青年に手を差し出した。

「行きましょう」
「はい」

 手を取って、青年も立ち上がる。さっと敷布を片付けて帰り支度をすると、さとりの隣に並んだ。

「では、帰りますか」
「ええ」

 手を繋いで、地底への道を歩き始める。ざあと再び風が吹いた。秋の終わりを感じながら、地底の入り口まで戻ってくる。
 地底に入る前にもう一度だけ月を見上げて、さとりは囁くように呟いた。

「本当に、月が綺麗ね」
「……ええ、綺麗な月です」

 青年は頷いて、さとりと同じように月を見上げる。
 暫くそうして眺めた後、二人は再び旧都へと足を向けた。



 帰る途中、さとりは青年に上着を返した。着たままだと、どんな邪推をされるかわからない。
 夜になって賑やかさが本番を迎える旧都を歩く。寒さは外よりましとはいえ、やはり冷えてきている。間もなく雪が降るのだろう。

「冬になりますね」
「ええ。またその前に、一度二度会合はあるでしょうけれど」

 何となく、という青年の呟きに応じて、さとりも頷いた。また今年も冬がやってくる。
 変化に乏しい地の底ではあるけれども、その程度の変化は楽しめるようになってきた。
 いや、もしかすると、それは。

「……さとり様?」

 青年の問いに、さとりは何でもないと首を振る。

「冬毛に変わる子達の手入れが大変そうね、って思って」
「ああ、風呂嫌がる奴もいますからねえ……」

 青年が難しそうに唸る。大型のペット達も、いろいろとあった結果彼に従うものも少なくなくなった。

「また、暖炉の部屋とか占拠することになるかもです」
「それはそれで。私も顔を出させてもらうわね」

 頷いた青年に、さとりは微笑みを返した。言いたかったことはそれではなかったけれども、正直に言うのは少し気恥ずかしかった。
 大事な人がいて、そうして季節を感じるのが、楽しいことだというのを告げるのは。
 もちろん、今までも家族と共にいて、楽しくなかったわけではない。けれども、その楽しさとも違う、何かを。

「さあ、急いで帰りましょうか。遅くなってしまうわ」
「はい」

 頷きあって、地霊殿への道を急ぐことにした。
 一つ一つ移り変わる季節を、一緒に楽しめればいいと、そう思いながら。

うpろだ0046
───────────────────────────────────────────────────────────

 冬の地霊殿は、多少仕事は楽になる。日常の決裁と、入ってくる報告の確認が主になるからだ。
 その分、内仕事は他の季節より多く割り当てられる。地底の主たる古明地さとりの、その恋人の立場にある青年もまたそうで、ペット達の世話の仕事が多くなる。
 地上との運搬仕事も休止時期になるため、地霊殿での仕事が増えるためだ。さとりの補佐、と閻魔たる四季映姫に任ぜられているため、書類仕事もするにはするが、筋力を落とさないために他の仕事もやることにしている。
 今日もそういう形で、大型のペット達の世話をした後、青年はソファで休憩をしていた。風呂に入れたものもいたので、軽く汗も流して着替えた後である。

「今日は後は……」

 やらねばならないことを指折ってみる。幾つか作業は思い出したが、今日絶対やらねばならないことは特になかった。
 午前中は旧都の方に少し顔を出していた。冬場といえど、顔繋ぎ程度には顔も出すし買い物もする。
 商売の関係だけでなく、地霊殿と旧都の関係上もある。さとりが旧都を見て回るより、青年の方が騒動にはなり難い。
 さとりも何やら作業をしていたらしいので、朝に顔を合わせてから会っていない。この後会う約束はしているのだが。
 だが、少し眠かった。風呂で少し温まってしまったのもある。少しだけ、と思いながら、青年は重くなった瞼を閉じた。




 さとりは青年の姿を探していた。旧都に出た後ペット達の世話をしている、というのは知っていたが、仕事も終わった頃なのに姿が見えなかったからだった。
 館の中にいるのは間違いないから、心当たりのある場所を探していけばいい。たぶん、暖かい部屋の何処かにいるのだろう。
 まだ仕事が残っているのか、それとも、と思いながら、部屋の一つを開けた。

「……ああ」

 部屋の中にその姿を認めて、さとりは仕方なさそうに微笑んだ。ソファに横になって寝ている姿は見慣れたもの。恐らく、大きな子達の相手で疲れたのだろう。
 横になっているソファのところまで寄って、近くに座る。ん、と小さく寝言を呟いたが起きはしなかった。

「お疲れ様」

 さとりは優しく呟いて、青年の髪を撫でた。少しだけ休憩するのも良いかもしれない、と思っている。どのみち、急ぐことでもなかった。
 同じソファに横になると、青年の腕が伸びてきた。いつものように抱きしめられて、少し安堵する。
 少しだけ眠るならいいだろう、と思って、さとりも目を閉じた。




「……?」

 目を覚まして、青年は自分の頭が温かく柔らかいものに包まれていることに気が付いた。
 少し息苦しいが非常に心地良い。何だろうか、と身動きしようとすると、それを制するように包んでいる何かの力が強くなった。

「!?」

 それがさとりの腕であり、彼女の胸に抱きしめられているのだと気が付いたのはその瞬間だった。
 柔らかい感覚は、さとりの胸に顔が押し付けられているからだった。
 目を見開くが、視界はほぼない。狭い視界にはさとりの普段着の胸の部分だけが見える。
 押し付けられる、というよりは、埋められている、というほうが正しいかもしれない。
 さとり自身は、どうやら自分の胸をそこまで大きいとは思っていないらしいが、そうとは彼には思えないからだ。
 十分な大きさと形を保っている、と思っている。それは客観的な事実であり、ただ比較対象――空や燐や勇儀など――が悪いだけとも言えた。
 ただその胸に抱きしめられるという状況であれば、その事実はかえって拷問じみたものになる。
 何とか逃れようと、身体を動かそうとするがそれも叶わない。何より、自分の腕がさとりをしっかりと抱きしめてしまっていた。
 いつも無意識に抱きしめているらしいことは知っていたが、この状況は非常にまずい。動けない。

「ん、んん」

 悩ましげな声が頭上から聞こえる。抱えるように抱きしめられているので、声もすぐ側から聞こえるのだった。
 恋人同士になってもう数年。流石にもうその身体の柔らかさを知らないわけではないが、知っているだけに余計な思考が頭に過ぎる。
 柔らかさと共に感じる、あの女性特有の良い香りがさらに思考を悪化させていた。もっと触れ合いたい、という欲は、どうしても湧いてくるもので。
 そして、こうして悶々としていても、さとりが全く反応を示さない、ということは本当に寝入っているのだろう。第三の目はどうしているのだろうか。
 ため息をついてしまって、息をまた吸い込んでしまう。良い香りの中に、甘い香りも混ざっていた。何だろうか、嗅いだことのある香りだった。
 とにかくどうしようかと考える。余計に動けば起こしてしまう――いやこの際は起きてもらった方がいいのかもしれないが。
 だが、気持ち良さそうに寝ているのを邪魔するのもよくない気がする。何より、さとりが安心してくれているのは、嬉しい。この状況であまり安心しすぎないでほしいとも思うが。
 もう一度浅く息を吐いて、青年は目を閉じた。さとりが起きるまで、少しだけ眠っていようと思っていた。完全な現実逃避だった。




 かくして、さらに半刻ほど過ぎた後。

「ご、ごめんなさい」
「いや、大丈夫、です」

 ソファで並んで座って、さとりは青年に謝っていた。顔は紅い。謝られている青年も同様だった。
 目を覚ましたのはさとりが先だったが、青年も眠りが浅かったのかすぐ起きた。
 起きた瞬間、顔を見合わせて互いに顔を真っ赤にして固まってしまっていたのだから世話がない。

「うん、いろいろその、ごめんなさい。あまりに気持ち良さそうだったものだから」
「先に寝てたのは俺ですし。いやまあその」
『嫌な気分だったわけでは』

 顔を背けて、青年は胸中でそう呟いていた。さとりは耳まで熱くなるのを感じる。
 まさかあんなに大胆なことをしてしまうなんて。気が緩んでいたのだろうけれど。
 同時にさとりは、青年がどういう想いでさとりに抱きしめられていたのかも読んでいる。
 さとりとて、いやさとりだからこそ、そういう意識は理解できる。邪な思いを抱くのも仕方がないだろう。

「……嫌な気分ではないけど、困らせたでしょう」
「まあ、それは」

 歯切れの悪い青年の頬に手を伸ばして、さとりは小さく囁く。

「だから、少しだけ、お詫び」

 そう言いながら、青年の口唇をさとりの口唇がそっと塞ぐ。初めはただ触れるだけの。
 二度、三度と繰り返す内に、少しずつ、口付けは深くなる。

「ん、ん」

 さとりから重ねていたはずなのに、いつの間にか青年に主導権が奪われていた。

『さとり様』

 優しい声と共に、肩に腕が回されて、抱きしめられて。
 重ねられたところから感じる想いが甘くて――それに囚われそうになっていることに、さとりは気が付く。

「ま、待って」

 そう、さとりはそれに酔ってしまう前に青年の胸をそっと押した。何かまずかったか、と彼は首を傾げている。

「ま、まずくは、ないけど……いえ、場所が、場所だから、まずいのもあるけど」
「ああ」

 青年は頷いた。確かに、ここでは誰の目に触れるかわかったものではない。見られるのは流石に、と彼も思ったらしく、さとりから名残惜しそうに手を離す。
 自分を落ち着けるように息を一つついて、さとりは軽く頷いた。

「もう一つの理由は、貴方を探してた理由がね」
「そういや、何か仕事でも?」

 急ぎの何かが来たか、と心配する彼に、さとりは首を振った。

「お菓子を作っていてね。ほら、チョコを」
「ああ……ああ、そうか今日は」

 ええ、と頷く。青年はさとりから感じていた甘い香りがチョコであったかと納得していた。

「貴方にあげたいと思って。疲れてるだろうし、休憩も兼ねてね」
「そいつは、嬉しいです」

 青年は微笑んだ。心の底からそう思っている。さとりも頬を緩ませた。

「朝にこいしと作ってたの。もうどこかに行ってしまったけど」
「こいし様も?」
「ええ。私も大事な人に渡しに行く、って言ってね」

 さとりは微かに微笑んで、行きましょう、と告げた。一拍おいて、青年はその言葉の意味に気が付く。私も、ということは。

「そういうこと。行きましょう」
「はい」

 頷きながら、もう少し二人で、などとも思う青年に、仕方なさそうな笑みでさとりは問う。
 食堂の方に移動してしまえば、他のペット達も寄ってくるだろうことはわかっているからだ。
 それに、別の意味も含まれていることもさとりは知っている。

「もっとしていたかった?」
「ああ、まあ」

 照れたように頬をかいて、青年は素直に頷いた。さとりに隠し事は無理であるから、そういうこともあまり隠さないし誤魔化さない。

「じゃあ、また、後で……今は、これだけ、ね」

 さとりはもう一度、掠めるような軽い口付けを彼に送った。




 休憩を兼ねた茶会はやはり他のペット達もやってきて、賑やかな時間になった。

「また寝てたのかい」
「あれこれ動いてたんだよ」

 呆れた声の燐に、青年は肩を竦めた。その燐の隣では、空が菓子を口にしている。

「何人か、お風呂入ったーって言ってたよ」
「もうちょい大人しく入ってくれると俺は有り難いが」

 空の言葉に、彼は微苦笑する。どうにも暴れたりはしゃいだりするものもいるので、一苦労なのだった。

「みんなそれぞれお仕事お疲れさま。今日はもうみんな上がれる形かしら」

 さとりがそう、持ってきた茶をそれぞれの前に配って青年の隣に座った。

「あたい達も終わりですね」
「火の調子も万全です!」
「俺の方も、今日は」

 さとりは頷いた。ということは、もう今日はそれぞれゆっくり出来るということだからだ。
 他の喋れないペット達も、足元に来てそれぞれおやつを貰っていた。思い思いに鳴いたり返事をしたりしている。
 それを眺めながら、青年はやや優しげに表情を緩めた。

「『賑やかなのも悪くないか』ですか」
「ん、まあ」
「そうね、こういう時間も、悪くないわ」

 優しい言葉に、青年は嬉しそうな顔をした。その頬に菓子が付いていたのを見て、さとりがそれを指で拭う。

「あ、すみません」
「いいわ。でも落ち着いて食べてね」
「はい」

 空が、その仲睦まじい様子を見ながら、そっと燐に囁きかける。

「仲良しで何より、かな?」
「ん、そうだねえ。あたい達もいるってこと、忘れてくれてなければいいけどね」

 そう、冗談めかした燐の言葉に、さとりが顔を紅くし、青年も微かに慌てることになった。
 ともかく、冬の地霊殿も、緩やかに穏やかに過ぎていっていた。




 勿論、夜にまた、さとりと彼が二人きりで甘いチョコと時間を分け合うのだが、それは余談である。



うpろだ0060
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最終更新:2016年12月03日 23:44