静かな夜。空に浮かぶは満月。
 里外れに向かう、数人の人影があった。
 その彼らの前に、現れた影が一つ。

「待たれよ」

 中心に居た人物を護るように前に出た人間達に構わず、ソレは口を開いた。

「此処より先は危険なり。今宵は満月。妖共が騒ぐ夜。引き返されよ」

 だが、それを口にするその姿もまた、異形。
 銀灰の体毛を持った、大柄な成人男性の大きさほどもある一匹の大犬であった。
 ざわめいた人間達を押し留めるように、中心に居た人物――少女が前に進み出た。

「どうも、こんばんは」
「これは、阿求殿。どうなされました」
「慧音さんにお尋ねしたいことが在りまして」
「ああ、幻想郷縁起についてでありますか」

 阿求の前までやってきて丁寧に座り、犬――彼、と言うべきか――は応じた。

「ええ、ご案内願えますか?」
「……ふむ、生業のことでありますしな」
「ありがとうございます。手土産がないわけでもありませんから」
「承知いたしました、我が主のところまでお送りいたしましょう。では、どうぞ」

 今度は伏せの状態になり、阿求に乗るよう視線で告げる。

「それでは、失礼致します」
「あ、阿求様!?」
「大丈夫です。では、みなさんは先に帰られてください」

 横座りで大犬の背に乗った阿求に告げられ、稗田の家人達は慌てる。

「し、しかし」
「帰りは私と慧音殿で必ず送り届けます。御安心を」

 一見妖怪にしか見えないその姿に言われて家人達は戸惑ったようだが、くすくすと阿求が微笑って見せた。

「大丈夫です。二刻もかかりませんから」
「は、ですがならば、せめてこちらで待たせていただきたい」
「それでは、もう少し里に近いところでお待ちください」

 彼は仰々しく頭を下げると、阿求を背に乗せて歩き出した。




「今宵は、仕事も少ないと申しておりました。幾らかは話を出来るでしょう」
「ありがとうございます。でも不思議ですね、その姿だとそういった喋り方になるのですか」
「私としては変わったつもりでもないのですが、そう受け取られるようです」

 ゆっくりと歩きながら、そう言葉を交わす。

「間もなくであります……慧音殿!」
「うん、どうした……ふむ、阿求殿か、どうなされた」

 仕事をしていた慧音が、阿求と彼の姿を見つけて近付いてくる。
 頭には二本の角。彼女のもう一つの姿、白澤の形であった。

「少しお聞きしたいことがございまして」
「幻想郷縁起について、であるそうです。本日は仕事も些か少ないはずと、こちらまでお連れした次第であります」

 恭しいまでの仕草で頭を下げる彼に微苦笑を向けて、慧音はその額を撫でる。

「仔細は承知した。では、少し待っていただいてよいだろうか」
「はい」

 彼が姿勢を低くして、阿求が彼の背から降りる。
 そして、慧音が歴史を紡ぐ様子を見守っていた。




「さて、失礼した。用とは何だろうか、このような満月の日に」

 慧音と阿求が近くの岩に隣合って腰を下ろしたのを見て、彼は何か筒のような者を口に加えて持ってきた。

「慧音殿、その前にこれを」
「ああ、すまないな。阿求殿も如何かな。緑茶だが」
「いただきます」

 予備のカップを被せた水筒を受け取り、慧音はカップに注いで阿求に渡した。

「さて、話の腰を折ってしまってすまない」
「いえいえ。話とは、彼のことについてです」
「私ですか?」
「ええ、幻想郷縁起に入れさせていただこうと思いまして」

 その言葉に、ふむ、と慧音は形の良い顎に手を当てて少し考えるように苦笑した。

「確かに、それは今夜が相応しいな」
「そして、慧音殿に尋ねるのも。私もまた、半獣でありますから。そして、まだこの世界の理をよく知らない」
「外来人で、半獣……となると、やはり縁起には入れておきたいのです」

 阿求はそう言って、慧音の足元に座る彼を改めて見た。よく見れば、彼の左後ろ足に大きな傷痕があるのがわかる。
 ここに来て少しした頃、彼は妖怪に襲われ、慧音に助けられたものの左足に大怪我を負った。
 そして。

「怪我の治りは悪くなかったのだがな。まさか呪が残るとは」
「しかも、後天性にしては珍しく完全な獣の姿ですからね」

 我が家の家人達が恐れておりました、と阿求はくすくす笑う。

「申し訳ありません」
「いえいえ。貴方が獣人であることを知る人は少ないですし」
「一度言っておかねばならないのでしょうが、如何せん、まだ慣れませんで」
「まだ薄ぼんやりとしか物事を覚えていないらしい。まあ、時が経てばそういうこともなくなるのだろうが」
「家人には伝えておきましょう。それに、慧音さんと常に共に居るということが知れれば、警戒されることもないでしょうし」
「な、それは、その」

 微かに動揺した慧音に微笑んで、阿求は足元の彼に尋ねる。

「貴方自身も、大人しいようですしね」
「そう取っていただけると幸いです。私はただ、慧音殿の為に在る者ですから」
「こ、こら」
「お熱いことで何よりです」

 慌てる慧音と微笑い続ける阿求を交互に眺めて、しかし、と彼は口を開いた。

「呪などというものが、この世に在るとは露とも思いませんでした」
「……此処は幻想郷だから、な」

 どこか哀しげな慧音を見上げて、彼は失言をしたと言うように、クウ、と喉を鳴らした。



 そう、彼は人間なのである。いや、今となっては半人半獣。満月の夜にのみ、完全な大犬の姿になってしまう。
 襲った妖怪が大犬のカタチであったからか。それはもう知る術はないけれど。



「……少し重い話にもなりそうですし、とりあえずはこちらを如何ですか?」

 そう阿求が取り出したのは饅頭だった。それを見て、彼がピンと耳を立てる。

「疲れているときには良いでしょう」
「ありがたい」

 阿求から二つ受け取って、慧音は尻尾をブンブンと振っている彼の鼻の上に饅頭を乗せた。
 彼はじっと待っている。少し微笑って、慧音は、食べていいぞ、と告げた。
 嬉しそうにぽんと一つ宙に浮かせ、器用に口の中に放り込む。

「……何だか私、凄いものを見た気がします」
「……いや、何だかつい」

 尻尾をパタパタさせて饅頭を味わいながら、首を傾げている彼の姿に、思わず笑みが漏れる。

「そういえば、甘党って言ってましたっけ?」
「ええ、味覚は変わらないようで。今度御礼に何か作って持って参ります」

 機嫌の良い彼に、今度は阿求が一つ渡した。礼を言って受け取って、また美味そうに食べ始める。

「少々物堅くなるが、基本的にはいつもの彼と変わらないよ」
「そうですね。行動も、しっかりしてるかと思ったら、やっぱりいつもの様子ですし」

 クウ? ともう一度首を傾げた彼に、少女二人は声を出して笑った。





 約束通り一刻半の後、無事に阿求を送り届けて、一人と一匹は帰り道を歩いていた。
 不意に、彼は何かの匂いに気が付いたように、慧音の方を向く。

「慧音殿、それは?」
「ああ、竹林に落ちていたものだ。わかるか?」
「……教科書ですね。ああ、懐かしい。子供の頃のものと同じだ……」

 鼻を鳴らして、彼は慧音が懐から出した本を眺め、目を細めた。

「……帰りたいか?」
「……今となっては、懐かしくはありますが」

 首を振る彼の頭に手を乗せて、慧音は哀しそうな瞳で尋ねる。

「……私は、貴方を助けられなかった」
「仕方のないことです。それに貴女が来なければ、とうに僕は殺されていた」

 口調が一瞬だけ、いつもの青年のものに戻る。違う、と慧音は首を振った。

「私は、貴方が危険な方に行くのに気が付いたのに、止めなかった。
 何故止めなかったのかはわからない。だが、あの時止めていれば」

「慧音殿」

 自らを責める慧音に、彼は声をかける。

「それを言うならば、私にも咎がある」
「何を」
「獣人になったと知った時、私を引き取ると言ってくださった時、私は嬉しかった」

 目を細めて、彼は告げた。

「貴女の傍に在れるという事が。ずっと一緒に居れる事が。人間でなくなったことよりも、大事だった。
 だがそれが、貴女を苦しめているのなら、私はどうしたら良いかと、今考えている」




 目を閉じれば浮かんでくる。大犬の妖怪に襲われて、もう駄目だと思った瞬間のこと。
 自分の名前を叫びながら、駆けつけてきてくれた慧音の姿。
 裂かれた左足の感覚はほとんどもうなくて、血と共に命が抜け落ちるなんてこんなものかと思って。
 だから、最期に見れたのが、この方の姿で良かったと、本気で思った。
 気が付いたときには永遠亭で、一命は取りとめたが左足の後遺症と獣人の呪いが残ったことを知らされて。
 その責任を感じたらしい慧音が、自分を引き取ると、面倒を見ると言ってくれた。
 左足が不自由になったことよりも、獣人になってしまったことよりも、ただそのことが大事だったなんて。
 本来ならば、口にしてはならないことだったかもしれないけど。




「軽蔑されても仕方が無いのかもしれない、私は――」
「貴方、は」

 言葉を遮るように、慧音は地面に膝をついて、彼を抱きしめた。

「……慧音殿、服が汚れます」

 彼の言葉に構わず、慧音は心情を告白する。

「貴方は、私を恨まないのか。私は人間の守護者などと言いながら護れなかったのに。
 貴方が傷ついたのを奇貨として、貴方を傍に置こうとしているかもしれないというのに。それなのに」

 泣きそうな声で、言葉で、彼女は告げ続けた。

「いや、そうに決まっている。私は貴方に傍に居て欲しかったのだ。私はあの時、薬師に貴方を治せるか尋ねなかった。
 尋ねなかったのだ! 貴方を人間に戻せたかもしれないのに。私は私のエゴで、何も言わなかったのだ……!」

 きつく結んだ目の端から、涙が零れ落ちていた。
 生真面目な彼女の事、自分でさえも謀ることができないのだろう。
 本来ならば口にせずとも良い言葉だから。真正に誤魔化しておかねばならないのは、彼女自身に対してだから。
 この言葉で何よりも傷つくのは、何よりも彼女なのだから――
 肩を震わせる彼女に、彼は少し迷った後、ぺロリと頬を舐めた。

「……っ?」
「……女性の泣き止ませ方も知らない無作法者で申し訳ない。本来なら、手で拭えばよいのだろうけれど」

 どこか照れたように頭を巡らせて、それでも、と彼は続けた。

「貴女には、そんな顔をしないで欲しいのです。貴女がつみに思うことは何もない。
 いや、むしろこの姿で貴方の傍に居られるなら――これ以上の僥倖はないのです。それを感謝したいほどで」
「貴方は、何を」

 慧音の戸惑いに、彼は少し考えた後、意を決したように口を開いた。

「――私は、貴女をお慕いしています。たとえこの姿が、人であっても、獣であっても、妖であっても。
 何一つ変わらぬ想いで、貴女の事を全力で、愛しています」

 恭しいまでの態度で言われた言葉が、慧音の頭に浸透するまで、少し時間がかかった。
 耳まで顔を紅くして、驚いたように彼の顔を見る。

「な、え、あ、何を……」
「上手い言葉を知らないので、こういう言い方しか出来ませんが」

 言葉に迷うように、それでも選びながら、彼は言葉を紡ぐ。

「ですが、これが本心です。紛れも無い、この私の」
「……私、も」

 さらに強く抱きしめて、慧音が彼に告げる。

「私もだ。私も、貴方のことを想っている。本当だ」
「……嬉しいです、慧音殿。ならば、真正にそうならば、一つお願いを」
「何だ? 何でも――」
「もう、自分を責めるような事はしないでください。貴女が悪い事ではないのですから」
「……努力、しよう」

 そう体を離して、少し困ったように微笑んだ表情に、彼も微笑を――犬の形でも辛うじて判る程度に――返した。

「ようやく笑ってくれた。貴女は笑顔の方が素敵ですから」
「む、か、からかうな」
「そのつもりはないのですが。ああ、私も一つ謝っておかねばならないことが」

 楽しそうにしていた彼が、すまなそうに鼻を鳴らす。

「……前と同じように、人に戻れば、このときのことはあまり覚えていないと思います」
「そうか……まあ、仕方がないな」
「それでも、想いは同じですから。貴女を慕っているのは、この私もあの私も変わりません」
「そ、そうか」

 照れたまま立ち上がって歩き出した慧音の隣に、駆け足で近寄って彼は笑う。

「ええ、そうです。私はいつでも貴女の隣に」
「……ああ、うん。私も、そうしてもらえると、凄く嬉しい」

 紅い顔を彼に向けて、慧音は輝くような微笑を、彼に送った。





 帰って軽く湯浴みをして――彼は水浴びをしただけだったが――休みに入る。

「ほら、きちんと上掛けを被る」
「面目ありません……」

 少し湿った毛皮のまま、彼は慧音が横になっている布団の隣に伏せた。
 だが手招きされて、布団の上に伏せなおす。それでも戸惑うように顔を巡らせた。

「……慧音殿、やはり私は向こうで」
「そうやって風邪を引いたのはどこのどいつだ?」
「むう」

 少し居心地悪そうにした後、彼は諦めて自分の前足の上に頭を乗せた。
 以前、毛皮だからといつものように別室で掛け布団なしで寝ていたところ、朝になって風邪を引く破目になったのだった。
 そう考えていると、唐突に、ぽす、と背中に感触があって、彼は顔を上げる。

「……湿ってますよ」
「いや、背中は乾いている。ふかふかだな」

 慧音が彼の背中に頬を当てていた。もふもふと気持ち良さそうにしている。

「……暑いでしょうに」
「いや、心地良いぞ。うん、毎回こうしても良いくらいだな」
「……夏は暑いと思いますよ」
「冬はさぞ暖かいだろうな」

 少しからかうような言葉をかけた後、慧音は彼の耳元に顔を寄せる。

「……ずっとこうしていてくれるんだな」
「貴女が望んでくれるならば、ずっと」
「……ありがとう」

 慧音の言葉に笑んで、彼はもう一度、前足に顔を伏せた。





 翌朝、少し陽が高くなった頃。

「ふ、あぁ……おはようございます、慧音さん。すみません、寝坊して」

 目をこすりながら、着流しを身につけた一人の青年が台所の方に現れた。

「おはよう。いいさ、まだ慣れてないのだろう」
「はい。満月はこれで……三回目ですか」

 左足を少し引き摺りながら、彼は慧音の隣まで近付く。
 頭一つ分以上高い彼を見上げて、彼女は頷いた。

「そうだな。少し遅いが、朝餉にしよう。待っていてくれ」
「はい」

 嬉しそうに頷いて、円状の卓の傍に彼は腰を下ろす。朝食の膳を用意して、慧音も彼の向かいに座った。
 唱和して食べ始めてすぐに、彼が口を開く。

「すみません、例の如く、昨晩のこと、僕あまり覚えてなくて」
「そうか、まあ、それも慣れてくるさ」
「はい……慣れてきて、覚えていられるようになったら、僕も一人前ってことなんですかね」
「……完全に獣人になるのは抵抗があるか?」

 少し間を置いて尋ねられた問いに、彼はあっさり、いいえ、と答えた。

「それはそれで。こういう数奇な人生と言うのも楽しそうですし」

 それより、と彼は困惑した声で続ける。

「朝起きたとき、どうしてそこに寝ていたかくらいきちんと覚えていないと……服も着てないわけですし」
「ああ、まあ、そうだな」

 互いに何となく照れたような気まずい雰囲気の後、ずず、と彼は空気を変えるように味噌汁を啜った。

「それに、朝ご飯を作るのを、満月の度に慧音さんにさせてしまっていては申し訳ないですから」
「それは別に良いのだけどな」
「それでも、ですよ。お世話になっているんですから」
「寺子屋も手伝ってくれているのだから、そこまで気にしなくても良いんだぞ?」

 そう言われて、彼は少し照れたように頬をかいた。

「いえ、そもそも甲斐性も何もないですからね。傍に置いてもらえるんなら、出来ることはしたいんですよ」
「……そうか」

 慧音もどこか嬉しそうに微笑んで、彼の言葉を受け入れた。

「……昨晩のこと、覚えてないんだったな」
「はい……でも、大事なことを話した気は、してます」

 目を細めた彼に、そうだ、と慧音は微笑った。

「だから今度は、覚えているときに聞きたいな」
「はい、努力します。これでも、一生懸命思い出そうとしてるんですよ?」
「ああ、期待している」

 微笑んだその表情に、彼は思わず見惚れて、紅くなったことを誤魔化すように、再び朝餉に手を伸ばした。 



 里では、時折仲の良い二人の姿が見られると言う。
 美しい里の守護者と、彼女に寄り添うように歩く片足の悪い青年。
 仲睦まじい様子を子供達にからかわれながら、里の者達に微笑ましく見守られながら。
 幸せそうな様子を隠すこともなく過ごしていると言う。


 そして満月の夜には、竹林にて歴史の神獣とその従者のように傍に伏す大犬の姿が見られるらしい。
 らしい、というのは、それを見られる者が限られているから。
 それでも、蓬莱人やら天狗やらが伝える様子は、彼女達が良いパートナーであることを窺わせるものがある。
 ちなみに、パートナー、が別の単語に変わるのもそう遠くない日のことだろう、とは、二人をよく知る者達の言である。

───────────────────────


 幻想郷には、時折外来人が流れてくる。
 神社から帰るものも居れば、そのまま住み着く者も居る。


 その青年も、そういう者の一人だった。
 里の片隅に住処を構え、里の者に教えを請い、守護者に助けられながら、何とか生活の基盤を作ろうとしているところだった。





「やあ、頑張ってるみたいだな」
「ああ、慧音先生。こんにちは」

 ちょうど家に入ろうとしていた彼に声をかけた慧音は、軽く手を振った。

「先生はいいよ。寺子屋に通っていた者達がそう呼ぶだけだから」
「では、慧音さん」

 青年はそう、はにかんだように笑う。その言葉に軽く微笑み返して、慧音は用件を告げた。

「その、前に稗田の資料を見たいと言っていたと思うが」
「ああ、はい」
「話が通ったよ。明日訪ねていくといい。私の紹介だと言えば通してくれる」
「本当ですか!」

 嬉しそうに、彼は喜色を表した。慧音も嬉しくなって、頬を綻ばせる。

「貴方はここに来てまだ日が浅いからね。いろいろと学んでおくといい。外と違って危険なこともあるから」
「ありがとうございます」
「喜んでもらえて嬉しいよ。では、私はこれで」
「はい、また。本当にありがとうございます」

 軽く手を振って、慧音は彼の家の前から離れた。
 彼が頭を下げて見送るのを見ながら、彼の姿が見えなくなるところまで来て、一つ息を付く。

「……はあ、まだ、緊張する」

 慧音は胸に手を当て、そう呟いた。





「……私はそんな初々しい慧音を初めてみるよ」

 慧音の家の縁側で茶をすすりながら、呆れたように妹紅が呟いた。

「な、何だか気恥ずかしくて」
「……慧音はそういうの慣れてると思ってたんだけどなあ」
「慣れてるってどういうことだ、妹紅」

 むっとした慧音に、妹紅は呆れ顔で言う。

「だって、よく告白されてたりしたろ? 里の子供とかにさ」
「あれは子供だし、小さな頃から見ているからそういう感覚はないよ」

 慧音は妹紅の言わんとするところを察して、軽く頷く。

「おかしいのは、重々承知しているんだ。普段通りに接せられればいいのにな」
「……うん」

 妹紅はただ頷いた。言葉にしがたい部分であるのは、彼女にもよくわかっていたから。

「まあでも、慧音が恋とはねえ」
「こ、恋、って」
「そういうことだろう?」

 くすくすと微笑う妹紅に、慧音は少しだけ苦笑を見せた。

「だが、私は半獣だ。寿命も在り方も、違う」
「それはそうだけれどね」

 妹紅も、少しだけ哀しく笑った。それはわかっている。妹紅の方がもっと痛いほどにわかっている。
 それでも、恋するということはどうしようもないのでは、とも、思う。
 完全に悟れているわけでも、理解ができているわけでもないが。

「……まあ、それはさておき、だ。とりあえず、その挙動不審をどうにかしないとね」
「そんなにおかしいのか、私は」

 妹紅の冗談めかした言葉に、慧音はため息混じりで応じた。






 翌日、稗田の屋敷を訪ねる青年の姿があった。

「おや、ようこそ。慧音先生のご紹介の方ですね」
「はい、初めまして」

 彼は名乗りを上げて、阿求に一礼する。阿求も礼を返して、口を開いた。

「幻想郷縁起について聞きたいと伺っておりますが」
「はい、やっぱり、こちらの風習や歴史に、興味がありますので」

 彼は熱心に言葉を紡いだ。阿求は頷き、幻想郷縁起を取り出す。

「この度の幻想郷縁起は広く読んでいただこうと、いろんな方に見ていただいているのです」
「これが……」
「ええ、是非感想など。それと、外界のことも教えていただけると」
「僕にわかることでしたら」

 嬉々として、彼はその申し出を受けた。



 しばらく、縁起を眺めながら話をする。彼は熱心に、質問し、また自身の知る限りのことについて答えた。

「中々面白いですね、外の話というのも。ああ、喉が渇いたでしょう。よろしければどうぞ」
「あ、ありがとうございます」

 勧められた紅茶を口にする彼に、阿求がふと尋ねた。

「ところで、慧音先生に憧れていらっしゃるので?」
「っ!?」

 むせかえって、彼はごほごほと咳をする。

「どうしてそう思うんですか」
「貴方の態度が正に表しているかと。それに、先程慧音先生の項を熱心に読んでおられたようでしたから」

 くすくすと笑う阿求に、彼は頭をかいた。

「……ただの憧れですよ。尊敬する人です」
「ええ、そうですね。尊敬できる方です」

 彼は動揺を隠すように、幻想郷縁起に目を走らせる。人間の欄もあるんだなと、どうでもいいことに思考を巡らせた。



 帰り際に、また話を、ということになった。

「今度は先生も来られるときにどうぞ。教材もこちらのものを使っていますし、勉強になりますよ」
「ああ、はい、お願いします」
「こちらこそ、外界のことをまた教えてくださいな。それでは」
「はい、それでは」

 一礼して、彼は稗田家を辞した。日は少し傾き始めているが、夕刻と言うにはまだ少し早かった。

「……うん、お礼は言いに行かなきゃな」

 小さく呟いて、彼は里の中に足を進めた。





 結局、団子を幾つか買って、彼は慧音の家の前までやってきた。

(どうしよう、訪ねるのは変かな。でもお礼も言いたいし、けど……)

 うんうんと悩みながら門の前をうろうろする。端から見れば十分不審者だ。

「おい、何やって……って、お前か」
「ああ、妹紅さん」
「何やってるんだこんなところで。怪しいぞ」
「ああ、うん、ええと、慧音さんにお礼のお菓子持ってきたんですけど」

 入るに入れず、門の前をうろうろしていたことを妹紅に告げる。

「なんだ、それなら普通に訪ねればいいじゃない」
「ああいや、妹紅さんが訪ねてきたのならお任せして帰ろうかと……」
「お前が渡さないと意味ないだろう。ほら行くよ。慧音ー!」

 彼が止める間もなく、妹紅が門を開けながら家の中に呼びかける。

「どうした、妹紅……と、貴方も来ていたのか」
「ああ、ええと、はい」
「お礼の菓子だってさ。何のなの?」
「稗田の家への紹介だよ。幻想郷縁起の」
「ああ、なるほど、前に言ってた奴か」

 テンポの良い会話に入れず、彼はどう切り出したものか、と悩む。

「ああ、放ってしまってすまない。お礼なんて良かったのに」
「いえ、やっぱり。その、助かりましたし楽しかったですから」
「それは良かった」

 慧音の笑みに、顔が熱くなる。少し口ごもりながら、彼は包みを差し出した。

「あ、その、では僕は」
「折角来たんだ、お茶でも一緒に」
「え、でも」
「いいじゃないか。どうせなら今日の話も聞かせてよ」

 妹紅に言われて、彼は少し悩み、では、と頷いた。

「お、お邪魔します」
「堅くならなくていいよ。では、お茶を煎れてこよう。今日は天気もいいし、縁側で待っててくれ」

 慧音はそう言って、奥に入っていった。



「へえ、じゃあ、外じゃ書生だったんだ」
「とはいえ、専門職にはまだ遠かったですけどね」

 茶を口に運びながら、青年は妹紅の言葉に頷いた。

「だが、確かに民俗学なら幻想郷はうってつけだな」
「まったくです。帰る気をなくしてしまうくらいに」

 彼は笑って、慧音の言葉に頷いた。

「生きるための仕事、というのは今までにない経験で大変ですが、それでもやりがいはありますし」

 ず、とまた一口茶を口にする。

「失われたものがたくさんあるこの郷は、やっぱり僕にとって非常に魅力的です」
「楽しそうだな」
「ええ、楽しいのだと思います。今日の稗田さんのお話も、とても面白かった」
「熱心で何よりだ。いいことだと思うよ」

 そう、慧音は微笑む。彼は、いやそんな、と言いながら、照れたように頭をかいた。

「そんなに勉強が好きなら、いっそ慧音の寺子屋手伝ってやればいいのに」

 妹紅が団子に手を伸ばしながら呟く。

「あ、いえ、そんな、僕なんて」
「無理は言えないよ、妹紅。まあ、確かに学問に造形の深い貴方に手伝ってもらえると楽かもしれないけれど」
「そんな、僕はそこまでは」
「ほら、慧音もこう言ってることだしさ」
「……少し、考えさせてください。えと、その、頑張ってみたいとは思うんですけど」
「うん、返事はすぐでなくていいよ」

 慧音の言葉に頷いて、彼は考えるように湯呑みに視線を落とした。
 本心では、とても嬉しい。だがそれに甘えていいのかどうかがわからないし、仕事のこともある。

「無理はしなくていいんだぞ」

 心配そうな慧音に、彼は首を振った。

「いえ、そういうわけではないんです。やってみたいとは思うので」
「じゃあ、見込みは有りってことだな」
「こら、妹紅」

 楽しそうな妹紅を、慧音が軽く窘める。
 仲いいなあ、と思いながら、彼は自分が持ってきた団子を一つ、口に放った。





 里の子供達とも仲良くなったり、里の者達にも少しずつ受け入れられて、青年は幻想郷に馴染んできていた。
 日々懸命に生き、働き、糧を得て――そして、ほんの少しの時間でも、想いを寄せる人と会話をする。


 そんな生活が、何となく続いていくのだと思っていた。
 続いていけばいいと思っていた。



 そう、思っていたのだ。





 そんなある日のこと、だった。

「ああ、どうも」
「足りない薬はありますか?」
「今は大丈夫だよ。ご苦労様」

 薬を売りに来た鈴仙に、慧音はそう労いの言葉をかけた。

「お茶でも飲んで行くか?」
「いえ、遅くなると師匠に怒られますので」

 鈴仙はそう微笑って辞した。そして、ピン、と耳を立てる。

「どうした?」
「ああ、いえ、ちょっと。竹林に誰か人が入ったような」
「そういえば、さっき彼が向かっていたな……」

 慧音はあの青年が竹林の方に歩いていくのを見たことを思い出した。
 筍の季節だと里人と話をしていたから、掘りにでも行ったのだろうか。

「……え、今竹林に変な妖怪が出るって話があるんですけど」

 大丈夫かな、と鈴仙は何となく呟いた言葉に、慧音はさっと顔色を変えて尋ねる。

「どんな妖怪なんだ?」
「大きな犬のようなものと。だからうちの妖怪兎も外に出ないようにって……あ、ちょっと!」

 聞くが早いか、慧音は走り出した。竹林に行く前に、せめて妹紅に声をかけてくれていれはいいが、そうでもなければ――

「慧音、どうしたんだい、そんなに息を切らして」
「も、妹紅、こっちに、彼は来てないか」
「うん? ああ、あいつ? 来てないけど、どうしたの?」
「竹林に入ったらしい」

 妹紅の表情が険しくなった。妖怪の話は既に聞いているのだろう。

「わかった、私も探す」
「すまない」
「ああ、やっと追いついた」

 こちらも息を切らしながら、鈴仙が現れる。あまりの様子が気にかかったらしい。

「何も言わずに走っていくんだもの」
「……ちょうどいい、慧音、こいつにも手伝ってもらおうよ」
「へ?」

 首を傾げる鈴仙に、妹紅は軽く口の端だけで笑ってみせた。





「ああ……くそ」

 悪態が口を付いて出る。言われていたじゃないか。里の外は危険だって。
 近い場所にある竹林も、妖怪が出るって聞いてたじゃないか。
 抉られた左足が熱いのに、泣きじゃくりたいほどの痛みもあったはずなのに、もう何故か遠い。
 顔も痛みから来る涙で濡れているはずなのに、もうよくわからない。
 何故なのか、なんて、わかりきっている。

「しぬ、んだなあ……」

 今度竹で何か作ってみようかと、子供達と話しただけのこと。ついでに筍でも探してみようか。そんな軽い気持ちだった。
 もう少し、自分の居る場所について、深く知っておくべきだったのだ。今言ってもどうしようもないことだが。
 出会った大きな犬のような妖怪は、何も言わずこちらに襲い掛かってきた。必死に転げまわって逃げたが――
 ちらりと、左足を見る。真っ赤だった。どれだけ血が流れたのだろう。確実に肉も抉られたはずだが。

(仕方ないか。これでもけっこう、がんばった方だろう)

 恐怖は、不思議ともうなかった。死ぬ瞬間なんてこんなものなのだろうか。それとも、もう狂ってしまったのだろうか。
 どっちでもいいか。彼は呟く。ゆっくりと近付いてくる大犬の姿に、軽く目を閉じた。後は食われるだけなのだろう。
 忠告をきちんと聞かなかった、いや理解していなかった、自分のミスである他ない。
 ああでも、叶うなら。

「……もう、いちど」

 あいたかったなあ、という言葉は、もう声にすらならなかった。
 一瞬、閉じた視界に光が差した気がして、彼は薄く目を開けた。おかしいな。もうそろそろ食われても良さそうなのに。
 霞む視界の中、大犬が光に包まれたのが見えた。何が起こっているのだろうか。

「――――――!」

 ああ、声が聞こえる。自分を呼ぶ声。幻聴だろうか。
 もう微かにしか見えない目でも、はっきりとわかる姿。
 綺麗な銀の髪が揺れている。間違えようもない。何かを必死で叫びながら、こちらに近付いてくる。
 死ぬ間際の幻かな。
 それでもいい、と思った。それでも構わなかった。
 死ぬ直前に見れたのが、何より恋した女性の姿、だなんて。




 ――ああ、なんて、しあわせなのだろう。


─────────


 目の前が明るかった。

 死んだのかな。

 確かに死んだら彼岸に行くんだっけ。そう彼は思い出していた。
 まだ会ったことはないけれど、死神がいて彼岸に運んでくれるんだったか。
 そういうことよりも、もっと危機回避を覚えておくべきだったな。

「ああ、気が付いたのね」
「…………え?」

 薄ぼんやりとした光の中で、見覚えのある薬師の姿が見えた。




「……八意、先生」

 言葉は掠れていた。二、三度咳をして、少しいがらっぽい喉を整える。

「ええ、そうよ。運が良かったわね。貴方、普通なら死んでたわよ」
「……身体、あまり痛くない、ですが」
「痛み止めが効いているだけ。また痛むわよ」

 そう言った後、永琳は鈴仙を呼んだ。程なく現れた鈴仙は、目覚めた彼を見て目を丸くする。

「師匠お呼びで……あ、目が覚めたんですか」
「ええ、ついさっき」
「最初見たときはもう駄目かと思ったんですけど」
「貴女の応急処置が最適だったのもあるわ。よくやったわね、ウドンゲ」

 永琳に褒められて、鈴仙は微かに頬を綻ばせた。彼は横になったまま、鈴仙に礼を言う。

「ありがとうございます」
「私も連れて行かれただけだもの。お礼はあの二人に言うことね」
「あの二人」
「慧音さんと妹紅よ」

 その言葉に、青年は驚いた表情になる。では、あのときの姿は幻覚ではなかったということか。

「では、お二人にも、お礼を言わないと」
「はいはい、動こうとしないの。後にしなさい。まだ休んでいた方がいいわ」
「けれど」
「いいから休みなさい。まだ安定したわけではないのだから」

 永琳に言われて、彼は無理に起き上がろうとしていたのを諦める。諦めると、不意に眠気が襲ってきた。

「すみません、先生、少し、眠いので」
「ええ、休んでいなさい。説明は落ち着いたらしてあげる」
「ありがとう、ございます……」

 そう呟き、鈴仙に何やら指示する永琳の声を遠くに聞きながら、彼は再び深い眠りに落ちていった。



 次に目が覚めたのは、身体を襲った痛みのためだった。

「ぐ、うう、うっ……!」

 正確には、左脚。大きく抉られた場所が、悲鳴を上げそうなほどに痛んだ。

「……大丈夫か! 今、永琳殿を呼んでくるから……!」
「う、あ……!? 慧音、さん……?」

 痛みを一瞬忘れそうな程に、茫然となる。どうして、ここにいるのだろうか。

「いいから、無理は……!」
「はいはい、落ち着いて。痛み止めが切れたのね」

 いつの間にやら来ていた永琳が、てきぱきと処置をする。
 すぐに痛みが引くと言うことはなかったが、鋭い痛みが少し鈍い、我慢できないことはない程度には治まった。

「ありがとうございます、先生」
「いいえ」
「すまない、取り乱して」

 慧音が謝罪し、それにも永琳は首を振る。そして、上体を起こした彼に向き直った。

「だいぶ落ち着いてきたようだから、貴方の状況について説明したいのだけど、いいかしら」
「はい、お願いします」
「……私も、いてよろしいか」
「僕は構いませんが」
「私も構わないわよ。一度説明はしているのだけど」

 慧音は、感謝する、と頭を下げた。彼は首を傾げる。一度聞いたのなら、一緒に聞く理由は特にないと思ったのだ。
 だがまあ、断る理由もないし、こんな状況で不謹慎だが、姿を見ていられるのは嬉しい。
 命が助かった途端にこれだ。我ながら浅ましいと思う。

「では、始めるわね。まず、貴方の怪我について。左脚に大きな裂傷――というより、抉られた傷があります」
「それは、何となく感じてます」
「幸い、大きな血管には傷が付いていなかったから、そちらの問題はありません。ただ……」
「ただ?」
「左足が不自由になるのは避けられません。杖などの補助具を使えば、日常生活上の歩行などは出来ます」

 永琳の言葉に頷いて、彼は口を開く。

「日常生活は、となると、仕事などにはやはり」
「そうね。激しい動きはもう無理だと考えて良いです。そもそも、筋繊維から欠損しているから」
「……なるほど、これは困った」

 彼は苦笑した。命が助かっても、これでは現在の日々の生業に支障を来す。
 事務屋のような作業なら出来るだろうが、仕事を見つけるまでが大変そうだ。

「それだけではないわ。これは幸か不幸か――なのだけど」
「まだ、何か?」

 永琳は、少しだけ慧音の方を気にした。慧音は正座をしたまま、膝の上で拳を握りしめている。

「……貴方に、呪がかかっているの」
「呪? 呪い、ですか?」
「ええ。幻想郷縁起を見たなら知っていると思うけど、半獣――獣人が里にも結構いるのは知ってるわね?」
「ああ、はい。先天的の人と後天的の人がいると」

 幻想郷縁起の説明通りのことも、里で目にしたこともある。意外にいるものだ、と思ったりもしたのだが。

「貴方の呪は、獣人となるもの。例の妖怪の呪いね」
「……はい? ああ確かに、呪いでそうなるという例もあると聞きましたけど」
「ならば話は早いわね。そういうことなの。そして皮肉なことに、獣人になったことで、貴方はあの出血にも関わらず生き延びたのよ」

 低く唸って、彼は腕を組む。あまりに多くのことがありすぎて、一度に整理するのは難しかった。

「……ああ、うん、すみません、困ってます」
「まあ、そうでしょうね」
「……まず治療費からどうしようかなと」
「……随分と現実的なところから来たわね」

 それはそれでありがたいけれど、と少しだけ呆れた調子で永琳は応じる。

「いや、現実的なとこからいかないと、後どうしようもないことだらけなんで。生活とかも」
「……それ、なんだが」

 今まで黙っていた慧音が、そっと口を開いた。

「……もしよければ、私が面倒みたいと、思う」
「え?」
「あら、いいの?」

 永琳が意外そうな声を上げる。

「獣人は、最初何が起こるかわからないし、それに関しては私に一日の長がある。仕事も、一先ずは私の寺子屋を手伝ってもらえばいい」
「……それは、願ってもない、ですけど」
「今回のこと、私の監督不行き届きもある。貴方が気に病むところではない」

 慧音はきっぱりと言い、彼と永琳を交互に見つめた。

「どうだろう、病状的に何か不都合はあるだろうか」
「私としては問題はないわね。というより、むしろ好都合。彼を退院させるにしても、一人暮らしのところに戻すのは不安が残るから」
「ならば、後は貴方だけだ。私が引き取ろうと思う」

 真剣な瞳に、彼は目を伏せた。一緒にいられるということに、一瞬でも心が躍った自分が、あまりに矮小に感じたのだった。

「……僕に、否応はありません。ただ、申し訳ない思いだけがありますが」
「それは気にするところではないよ。では、そういうことで」
「ええ。まだしばらく入院は必要だから、その辺りの打ち合わせは好きにしてくれていいわ」

 永琳はそう言って、一つ頷く。

「そうね、退院後について貴女にも説明することにしましょう」
「お願いする。それでは、私は一度失礼しよう。診察もあるだろうし、私の方も準備をしなければならないから」

 慧音は一つ頭を下げ、病室を出ていった。

「……何だか、いろいろと申し訳ない気分で一杯です」
「いいじゃない、甘えてしまえば。いずれどうなるかは別としても、貴方にはとりあえず頼れる者が必要よ」

 永遠亭もいつも看ていてあげれるわけでなし、と永琳は一つ息をつく。

「……そうですね。ああ、妹紅さんにもお礼を言わないと」
「後で言えばいいんじゃないかしら。ここに来てるし」
「あれ、こちらにいらっしゃってるんですか」
「姫と遊んでるわよ。ほら、聞こえてくるでしょう」

 そう耳を傾けた彼の耳に、遠く爆音が聞こえてきた。



「妹紅」

 輝夜と一晩弾幕勝負をしていた妹紅に、慧音が声をかけた。
 勝負自体は今日もイーブンのようだ。というより決着はつくのだろうか。

「慧音、どうなった」
「私が引き取ることになった」
「ん、そうかい」

 少し焦げた服を払いながら、妹紅が頷く。彼女はそれでいいと思っていた。
 だが、慧音は顔を伏せて、低い声で言う。

「……妹紅、私は浅ましいな」
「そんなことはないさ」
「いや、浅ましいよ。私は、これを口実に……」
「慧音、自分を責めるんじゃない」

 妹紅は少し強い調子で言葉を紡ぐ。

「あいつは生き延びた。生き延びた以上、どうにか生きなきゃならない。ただ、今のあいつにそれは困難だ」
「……うん」
「慧音はそれを手助けしたいんだろう。それは間違っちゃいない」
「……ありがとう、妹紅」

 慧音は妹紅の肩に額をつける。妹紅は宥めるように、慧音の背をぽんぽんと軽く叩いてやった。





 退院の日、松葉杖をもらって、彼は竹林を一歩一歩歩いていた。

「むう、これは中々歩きにくい」
「そもそも道もあまり良くはないしね。ほら、気を付けて」
「大丈夫か」

 妹紅が先導し、慧音が傍らにつく。

「すみません。大丈夫です。少しは慣れないといけませんしね」
「最初から無理はしないことだ。そもそも入院で体力も落ちているのだから」

 慧音の言葉に、彼はすまなそうに頷いた。

「はい。けれど早く、松葉杖から卒業はしたいですね」
「それ不便そうだもんなあ」
「腕が使えないので。きちんとリハビリしていけば、普通の杖で歩ける程度にはなると先生も言ってましたし」

 頑張りますよ、と軽く微笑う。

「振れる限りの仕事は振るように、と私も言われているからな」
「過保護は駄目だよ、慧音」
「わかっているさ」

 妹紅の茶化しに、慧音も軽く微笑む。

「しかし、短い期間によくそこまで回復できたなあ」
「ああ、それは半分人間じゃなくなったからとか。まだ変身もしていないので、ピンときていませんけど」
「そっか。まあそうだよな」

 妹紅は何となく頷き、少し慧音を気にする。慧音もその視線に気が付いたのか、大丈夫だ、と頷いた。

「とりあえず、日々気を付けておくことだな。何が契機になるかわからないし」
「はい。お、っと」

 窪みに足を取られて、彼は転びかける。それを、さっと慧音が支えた。

「気を付けて」
「はい、ありがとうございます」
「息がぴったりなことで。さあ、里に着くよ」

 妹紅は微かに笑ったような声で、視線を先に向けた。





 荷物自体は既に慧音の家に運び込まれていて、青年は一室を間借りすることになった。
 とはいえ、いろいろなものは共有することになる。
 食事や洗濯や風呂一つでばたばたしつつも、何とか共同生活の形は取っていこうとしていた。

「勢いで始めた面もあることは否定はしないが、大変なものだな、誰かと暮らすというのは」
「まったくですね。いろいろと大変です」
「いちいち騒いでるからだと思うんだけどなあ」

 そう呟く妹紅に、騒いでいるつもりはない、と二人の声が重なる。
 重なったことに少し気まずそうな表情を交わして、二人は茶を飲んだ。

「まあ、寺子屋周りには周知も出来てきてるし、少しは慣れたか?」
「まだ何日も経ってませんから、まだ全然です」
「それでも、子供達とは仲が良かったからな、受け入れは早かったよ」

 慧音がそう、安堵の息を吐く。寺子屋の仕事を手伝い始めた彼の手際は良いものだった。

「ま、何にせよ少しずつだろうね。焦ってもどうにもならないさ」
「妹紅さんに言われると重みがありますねえ」
「ふふふ、そうだろう。少しは見直すと良い」
「仲が良いな」

 慧音が呆れのような微妙な想いを含んだ呟きを漏らすと、妹紅が軽く笑った。

「慧音とこいつ程じゃないと思うんだけどなあ」
「……そうかな」
「……僕を見ないでくださいよ。どうコメントすれば良いやら」

 困惑する彼の様子が少し子供っぽくて、慧音と妹紅は笑いだした。ひとしきり笑って、妹紅は、さて、と立ち上がる。

「私はそろそろ帰るよ」
「待て妹紅。夕飯を一緒にしていくんだ」
「いやいいよ」
「いいえ、慧音さんに聞きましたよ。たまに夕飯をサボるとか」
「そういうことだ。三人前作るぞ」
「了解です」
「……本当に息ぴったりなことで」

 呆れながらも、妹紅は大人しく座りなおした。
 妹紅は知っている。二人がまだ、二人きりであるということに慣れていないと言うことを。
 それが故に、妹紅を引き留めることが多いのだ。いや、体調の心配も普通にされてはいるのだが。

「……ま、これからどうなるか、だよねえ」

 そう妹紅は、楽しそうに呟く。何だかんだと、一番楽しんでいるのは彼女なのであった。 





 そうこうしているうちに、退院して数日が経った。その、夕方。

「遅くなったな」

 こつ、こつ、と松葉杖をつきながら、彼は慧音の家へと向かっていた。

「今日は満月だっけ。慧音さんは仕事に行くだろうから、部屋で大人しくしてるかな」

 帰る頃には月がもう昇る頃だろうか。もう少し早く帰るつもりだったのだが、慣れない足故か、まだ時間を読み間違える。

「……はは、慣れないとな。一生これなんだし」

 生き延びた以上は、生きていく責任がある。いろいろな人に借りも出来た。それを全部返すまでは、少なくとも生きなければ。
 辺りはもう暗い。山の端に夕焼けの残滓がまだ残っているからこそ、辛うじて道が見える程度。
 急がなければ。そう思った彼は、何とも言えない違和感に立ち止まる。

「……あれ?」

 何だか、身体がおかしい、気が、する。


 訝る彼の腕から松葉杖が滑り落ちて、地面と乾いた音を立てた。




「さて、仕事に行くかな」

 満月を見上げて、慧音は呟いた。その姿は、双角と尾が生えた、半獣のもの。

「……遅いな。まあ、里から帰ってくるだけだからもうそろそろだろうけれど……」

 そういえば、彼にこの姿を見せたこともなかった。帰ってくる前に出かけても良いが、やはり説明はしておいた方が良いだろう。
 そう思い、門を開けた慧音の視界に、人の大きさほどもある、銀灰色の大犬が入ってきた。
 それだけでも警戒には十分であったが――問題は、その大犬が咥えているものだった。

「それ、は」

 彼の松葉杖と、着ていた服。それを半ば引きずるように咥えて、大犬は近付いてくる。

「貴様、その持ち主をどうした……!?」

 身構えた慧音に、大犬はきょとんとしたように数度瞬きし、やがて気が付いたように咥えていたものを離して叫んだ。

「慧音殿! 私です!」

 その声に聞き覚えがあった慧音は、自身の記憶とすり合わせ、出てきた結論に声を上げた。

「……え? ……まさか」
「その、まさかです。帰ってくる途中に、急にこの姿に」

 大犬は丁寧に言葉を紡ぎ、くるりと慧音の前で一つ回った。左足に、肉が抉れた形の大きな裂傷がある。

「……そうか、満月か、貴方も」
「そのようです。ああ、慧音殿はそのお姿なのですね。初めて拝見します」
「そうだな。その、貴方は少し話し方が堅いようだが」
「そうでしょうか。私としては変わったつもりではないのですが」

 大犬の姿の彼は一つ首を傾げ、ああ、と呟いて、服と杖を再び咥えようとした。

「ああ、私が持とう」
「申し訳ありません。この姿ですとどうも持ち難くて……随分地面にも擦ってしまいました」
「何、洗濯すれば問題もないだろう。しかし、そうか、完全に獣の姿になってしまうのか……」

 後天性だからと、人の形に近いものになるのだと思いこんでいた慧音は、自分の思いこみを反省した。

「視点も違いますし、随分と身体も軽くて不思議な感覚です」
「ふむ……うん、とりあえず私と一緒に行こう。一人では不都合も多いだろうし。少し待っていてくれ」
「はい」

 慧音は門の前に彼を残し、部屋に彼の服と松葉杖を置いた。洗濯は後程しようと決める。

「……目の当たりにすると、やはり感じるものだな」

 小さく呟いて、慧音は深く息を付いた。そして、彼の元に戻る。
 彼は門の前で、大人しくお座りして待っていた。

「待たせたな」
「いいえ」

 首を振る彼の頭を一つ撫でて、慧音は竹林に向かって歩きだした。



「妹紅」
「あれ、慧音珍しい、仕事は……って、何、そいつ」

 竹林を散歩でもしていたのか、ふらふらと歩いていた妹紅は、慧音に呼びかけられて振り返り、大犬の姿を見て表情を険しくした。

「彼だよ、妹紅」
「こんばんは、妹紅殿。この姿で失礼いたします」
「……え、何で犬なの?」
「そういう型の変身のようだ。妹紅、頼みがあるんだが」
「はいよ、何?」
「私の仕事の間、彼を見ていてほしい。早めに終わらせるつもりだが」

 何かあってはいけないから、と言う慧音に、妹紅は頷いた。

「いいよ、いってらっしゃい、慧音」
「いってらっしゃいませ、慧音殿」
「すぐ戻る」

 そう、彼の頭を撫でて、慧音は竹林の中に飛び立った。その背中を見送って、妹紅は近くの岩に腰を下ろす。

「……ちょっと嬉しい? 頭撫でられて」
「……そのような顔をしていましたでしょうか」
「いや、尻尾がさ」

 ぶんぶん、と勢い良く振られている尻尾を見て、妹紅は少し呆れを見せる。

「これは、失礼」
「いや、いいよ。うん、まだ戸惑ってる。私も、慧音もきっとね」
「私も、かなり戸惑っています」
「落ち着いているように見えるけどなあ」
「いいえ。戸惑っていますし、怖がっています」
「怖い? 何が?」

 彼は妹紅の隣に伏せをして、ぽつりと呟く。

「……ただでさえ、慧音殿の迷惑になっているというのに、いざ変身したらしたでこの有様。お嫌いになったかと」
「慧音が? まさか」

 妹紅は一笑に付した。慧音が彼を大事にしているのは、見ていればわかること。肝心の本人に伝わっていないようだが。

「……此処に来るまで、ずっと何やら思い悩まれているご様子でした」
「……誤解のないように言っておくけどさ。慧音は、お前を邪魔だなんて思ってないからな」
「……そうでしょうか」
「ただ、責任を感じているんだよ。お前を助けられなかった、獣人にしてしまった。慧音はそれを自分の所為だと思ってるだけ」
「そんなことはないのに」
「そうだとしても。お前がどれだけそう思ってもだよ」

 彼はしばらく顔を伏せ、目を伏せて、再び呟く。

「これは私の軽挙が招いただけのこと。慧音殿には、何の咎もない。それでも――あの方は、人間が好きだから、か」
「…………うん、そうだね」

 妹紅は曖昧に応えた。慧音の想いは、慧音自身が伝えなければならないことだから。
 そう思って、ふと、彼女は気になっていたことを尋ねることにする。

「……ところで、お前は慧音のことどう思ってるんだ」
「どう、とは?」
「何というかその、異性としてとか何とか」
「ああ、はい。好きです」

 さらっと返ってきて、妹紅は逆に面食らう。

「……もの凄くあっさり言われたよ。普段のお前だったら絶対言わないだろうに」
「少し気が大きくなっていると言いますか、それで割とさらりと」

 ただ、ぴこぴこぴこぴこ、と耳が忙しなく動いているので、幾許かの照れはあるらしい。

「……秘密ですよ」
「それはわかってる。へえ、でもそうなんだ」

 にやにやする妹紅から目を逸らして、彼は落ち込んだようにぼそぼそと言葉を紡ぐ。

「だから、今の自分があまりにも浅ましく狡い存在に思えてならないのです。この身体を理由として、側にいるようで」
「……そこは気にしなくて良いと思うよ。それに、告白して受けてもらえるかどうかは別な話なわけだし」
「痛いところを突きますな、妹紅殿は」

 彼は気分を変えるように笑った。少しすっきりしたような笑いだった。



「お待たせ」
「お帰り、慧音。早かったね」

 妹紅が岩から立ち上がり、慧音を迎える。伏せていた彼も身体を起こした。

「何か変わりは?」
「特にはありません」
「急に暴れることもないし、大人しいよ」

 妹紅の言葉に軽く頭を下げ、彼は、しかし、と呟いた。

「永遠亭で変身せず良かった。驚かせていたでしょう」
「あのふわふわもこもこ達かー。驚くだろうな」
「他人の心配する辺りが本当に貴方らしいよ」

 慧音は微笑んで、彼の頭を撫でた。嬉しそうに、彼はクウと鳴く。

「幻想郷というのは不可思議なものですね」
「ああ。だから、もう外では有り得ないものがここに有る」
「私もまた、そういうものとなったと。なるほど、これは肚が決まって丁度良い」
「……いいのか、それで」

 慧音の静かな問いに、彼は頷いた。

「どのみち、悩んでいたところでした。今ならまだ外に帰れなくはない。だが此処にもいたい。その迷いに片が付きました」
「いいの? 随分強制的だけど」
「良いのです。此処には私が帰りたくないと思うものに溢れていた。学ぶもの、求めるもの――まだ、いろいろと」

 妹紅の言葉に返した彼は、言おうとした言葉を途中で誤魔化すように打ち切った。それが何か察して、妹紅は笑みを浮かべる。

「そうかそうかー。なら、いいきっかけだったのかな」
「かもしれませぬ。まあそれでも、慣れていかねばならぬことは多いですが」

 冗談めかした口調で、彼はそう頷いた。

「……慣れねばならないことがあるなら、私にその手伝いは出来そうだな」
「あまりご迷惑をおかけしても、と思いますが」
「そんなことはないよ。私に出来ることがあれば」
「……ありがとうございます、慧音殿」

 深く一礼し、彼は慧音の隣に並ぶ。二人の遠慮と想いをただ一人知る妹紅は、やれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
 ふと見上げた天では、美しい満月がもう傾き始めている。これからどうなるかなど、誰にもわかることではなかった。





 かくして翌朝。

「うわああっ!?」
「ど、どうした!?」

 彼の叫び声に、慧音は料理の手を止めて彼の部屋に急いだ。
 昨晩、毛皮が暖かいのでこれでいい、と適当に床に寝ていたのは確認して休んだのだが、何かあったのか。
 そう思った慧音が彼の部屋の戸に手をかけた瞬間、彼の叫ぶような声が再び聞こえた。

「ま、待ってください! 開けないで!」
「ど、どうしたんだ……?」
「す、すみません、大きな声を出して。すぐに行きますから」

 そう言って数分もしないうちに、彼は部屋から出てきた。くしゅ、と小さくくしゃみをする。

「大丈夫か? どうした?」
「いえ、起きたら裸で床に転がっていて吃驚したんです。昨晩、僕何しました……?」

 心底不安そうに尋ねられて、慧音は理解する。彼は獣人になっていた時間の記憶がないのだ。

「……とりあえず、朝餉を食べながら説明しよう。もう陽も高いし」
「…………はい」
「心配しなくても、変なことはしていないよ。それより、風邪を引いていないか?」
「大丈夫、だと思いますけど」
「気を付けておこうか。貴方は大丈夫でないときに大丈夫ということがあるから」

 慧音はそう、悪戯っぽく微笑った。



「ということで、今日はこれから永遠亭に行こうかと思ってな」
「了解、案内するよ」

 慧音の言葉に、妹紅は軽く頷いた。

「本当に覚えてないんだな」
「ええ、全く。お酒飲んで記憶飛ばしたときの感じに似ています」
「なるほど、わかりやすい」

 妹紅は笑って、その笑いを納め、真剣な声で尋ねた。

「……ということは、お前はやっぱりもう、外には帰れないよ」
「妹紅!」
「ああ、そうですねえ」

 妹紅の言葉に、彼は微かに笑った。

「まあ、悩んでいましたし、これで肚が決まって丁度良いかと。僕の学びたいものはここにたくさんありますし」
「……貴方は」
「? 慧音さん、どうしました?」

 驚いた慧音に首を傾げている彼の背をどんどんと叩いて、妹紅は再び笑う。

「あはは、やっぱり同じなんだ。うん、安心した」
「え、昨日僕何言ったんですか」
「今と全く同じこと言ってたよ。あはは、うん、なら大丈夫だ」
「こら、妹紅」

 笑い続ける妹紅を諫めて、だが慧音もほっとしたように微笑んだ。

「大丈夫だ、貴方の中身があまりにも変わらないことにほっとしただけだから」
「僕は僕ですよ。ああでも、酒中別人、みたいでなくて良かったと僕も思いますが」
「あ、ちょっと別人っぽくはあったよ。喋り方とか」
「僕何をどう言ってたんでしょうか……?」

 不安そうな彼に応えず、妹紅は慧音に笑いかけた。

「ひとまず安心だね、慧音」
「うん。けれど、足の調子も看てもらうこともあるし、永遠亭に向かおうか」
「そうだね、さ、行こうか」

 妹紅は笑顔のまま歩き出す。彼女も安心していた。
 彼の想いが変わらないということは、昨晩話した慧音への想いも変わらないということだ。
 まだまだ前途は多難だろうが、それでもきっと何とかなるだろう。

「楽しそうだな、妹紅」
「そうでもないよ。ただ、生きてれば何とかなるんだろうなって思ってるだけ」
「それはそうですね。生きているということは、本当に大事なことだなあと、死にかけたからか本当にひしひしと」

 彼はそう頷く。そして、少し苦笑気味に微笑った。

「これからどうなるか、は、まだわからないですけど」
「……そうだな。出来る限りのことは、していくけれど」
「しばらく、お世話になります」

 それがいつまでなるのか、いつまで続くのか。その不安はずっと付きまとうのだろうと、慧音も彼も思っていた。

「……まあ、なるようになるもんさ」

 きっと悪くない方にね、と、二人の思いを誰よりも知っている妹紅は、小さく呟いた。


 ちなみにこの後すぐ、永遠亭周りの人妖もまた、二人が相思でかつ互いに気が付いてないということ知ることになる。




 これからどうなるか、という不安をはらみながら、この二人の共同生活はここから本格的に幕を開けた。
 とはいえ、不安を抱いているのは当事者の二人だけで。
 周りは、計らずとも相思の関係であると知った以上、その関係を楽しむことに決めた。
 主にみんな酒の肴として。


 想いはおずおずと、だが、少しずつ手を伸ばしていこうとしている。
 それを拒む負い目が消えれば、すぐに手を掴めるだろう。
 そしてそれは、きっと遠くない先のこと。


うpろだ1266,Megalith 2011/04/04, 2011/04/17
───────────────────────────────────────────────────────────

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2011年06月24日 23:26