6月と言われて梅雨を真っ先に思い浮かべる人は多い筈だ。
 しとしとと降り続ける雨。ジメジメとした室内。天日に干せない洗濯物。
 どうしてもあまり良くはないイメージの方が先行しがちだ。
 まぁ事実変わりないのだが。
 
 しかし、ここには雨が降らない。
 当たり前だ。ここは地下なのだから。
 
 雨というのは地面に"降る"ものであり、地下には"沁み入る"か"流れ行く"ものである。
 要は地下水脈の水位がいつもより上がるだけのこと。
 水辺はそれなりに危険なことになるが、近づきさえしなければどうということはない。
 梅雨と言われても、地下にとってはそのくらいの変化しかないのだ。
 
 「……ね~」
 
 最初こそは特有の湿気に幾らかの不快感を感じてはいたが、
 人間3日も経てばその程度は十分に慣れることができるということが分かった。
 というより、もと住んでいた場所もそういう点が近かったからだろう。
 大して日も当たらず、湿気のこもりがちな安アパート。
 あそこが酷かったのか、ここが案外快適なのか、実際の所は知らない。
 まぁ、俺にとってはどっちも大差なかったということだけは言える。
 
 「……ね~ってば~」
 
 こうして地底に住まわせてもらうようになって早二週間。
 未だに旧都の鬼の人たちにはちょっとだけ苦手意識が働くが、少しずつここにも馴染めてきた気がする。
 最初こそは"覚りのとこの人間"というレッテルがあったからか、
 旧都に赴いた際にはどうにも居づらい雰囲気を出されていた。
 しかし勇儀さんのお陰で、今では普通に町を歩くこともできる。
 "物好きな人間"というレッテルが代わりに張り付けられたが。
 
 「…………………」
 
 環境への適応はできた。一応。あとは働き口を探すことが急務か。
 今度はこっちが居候という形であり、その分の対価は当然払わなければならない。
 彼女はそんなこと気にしなくても良いと口にしてはくれるが、
 こればっかりは男の意地みたいなものである。
 今だけは甘える形となっているが、末永く家事手伝いでいることだけはなんとしても避けねばなるまい。
 
 「……ねぇっ!」
 「ぬわっ!?」
 
 突如に襲い来るドンッ という衝撃に情けない声が漏れる。
 突然の出来事といえばそうであるのだが、しかしこれにも若干慣れてきた気がする。
 
 「…やぁ、こいしちゃん」
 「お~そ~い~。もうちょっと早く気づいてよ」
 「いや、無意識じゃ…ん、ごめん……」
 
 やはり、というよりほぼ確実に当たるだろう。
 こういう手の驚き方をした場合、結構な確率でこの子の仕業だ。
 次点は鳥頭気味のあの子になるが。
 
 黒い丸鍔の帽子と、その縁から覗く銀色のふわりとした髪。
 さとりのとは対照的な、緑と黒を基調とした色調の服。
 胸元に一つ存在感を放つ、閉じた瞳。
 意識の向こう、"無意識"にいるさとりの妹。古明地こいし。
 
 こうやって驚かされるのもこっちに来てからの日常の一幕。
 俺だけじゃなく、みんな同じように驚かされているけれど。
 
 「それよりさ、お掃除してるの?」
 「あぁ、うん。やっぱり綺麗にしておきたいしね」
 「ふ~ん・・・」
 
 不思議そうに、物珍しそうに、しげしげと目の前の物を見つめる彼女。
 本来幻想郷には無い、俺が持ち込んだ"外"の化学が生み出した産物。
 
 黒と銀の金属質な輝きは、さっきまで考えごとをしながらも手を動かした成果。
 片側にすっと延びる2本のストレートマフラーが醸し出す引き締まった存在感。
 ロー&ロングのフォルムは特徴であり売りの一つ。人気の秘訣とも言われている。
 中古で新しい俺の相棒、2001年式ドラッグスター400。
 
 最初は"逃げ道"の為に手に入れたコイツ。
 思い出したくもない、嫌な嫌な春先の日々。
 虚ろなままカレンダーを進めていく"何もなかった時間"。
 その虚ろを埋めるために無理矢理詰め込んだ何かの一つ。
 
 あの時一番効果があったのはコイツだった。
 誘ってくれた友人と一緒に高速道を飛ばしたり、
 一人になったときにただ黙々と山道を走ったり。
 走っている最中は、何かしらの充足間がほんの少し感じられた。
 走りを止めたときには、そのツケも含めた虚無間が襲ってきたが。
 後にこうやって、共に幻想郷へ来るとは思いもしなかったけど。
 
 「ねぇねぇ、これってさ、走るんだったよね?」
 「うん。というよりそのために作られたものだしね」
 「速い?」
 「地面を走る分には十分速いと思うよ」
 
 少しずつ少しずつ、声色が高くなっていくこいしちゃんの質問。
 何となくわかる。これは何かを期待されている。
 あまり当たった試しのない俺の感だけど。
 
 「じゃあさじゃあさっ!」
 
 きらきらと瞳を輝かせて見上げてくる彼女。
 それはどう見ても、小さな子供が何かをねだる際の強力な手段の一つ。
 真っ当な精神の者にとって回避は困難。
 
 
 「動かして良い!?」
 「ダメ」
 
 とはいえ流石に限度はある。
 
 
 「えー!? なんで!?」
 「あのね、バイクは免許がないと動かしちゃいけないの。
  というより、ちゃんと動かし方を習わないとダメなの」
 「じゃあ○○が教えてよ。それでおっけー」
 
 それとなく感じていた予感通り、簡単に引き下がるつもりはないようだ。
 なら仕方ない。アレをしてもらおうか。
 
 「……そうだね。じゃあまず、教える前にこれだけはできないと」
 
 言いつつバイクに近寄り、ハンドルを持ちスタンドを外す。
 あとはゆっくりと車体を傾けていくだけ。地面に着くまで。
 
 「こいつを起こしてみて。それができたら運転方法を教えてあげるよ」
 
 うん、何も間違っていない。
 これができなければ教えることはできない。
 まずそうは無いが、これのせいで免許をあきらめる人も居るとか居ないとか。
 教習所で誰もが通る第一歩。引き起こし方。
 違うのは車両の重さが教習車より100kgほど重い点だけ。
 
 コツがわかれば体重が50kgも無い女性でも大型バイクを簡単に起こせるそうだ。
 そう、コツがわかれば。
 
 「ふぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎッッ!!!」
 
 タンクの下に手を差し入れて奮闘する姿。
 まず以て、その方法では無理であろう。
 だがコツは教えない。決して意地悪ではない。
 これもまた一つの勉強である。         ……たぶん。
 
 「ッッーーー!!! ああもうっ! ○○の意地悪っ!」
 「いやいや、バイクは倒れてから引き起こせる人じゃないと乗ってて危ない乗り物だから」
 「………意地悪」
 
 上唇を噛みながら俯いてしまったこいしちゃん。
 よくよく見てみると両の眼にはうっすらと光が溜まっていくのがわかる。
 まずい。この状況は非常にまずい。
 下手に乗ると危ないから諦めてもらうためにやってもらったが、
 これではどう言い繕っても俺が悪いように見えてしまう。
 
 「ま、まぁまぁ。代わりと言っちゃアレだけど、
  後ろには乗せてあげるから。ね?」
 「…………本当?」
 「嘘は言わないさ」
 「本当に本当?」
 「本当に本当」
 「絶対の絶対に本当!?」
 「絶対の絶対で完全無欠なまでに本当だよ」
 「…ありがとう○○っ!」
 
 先ほどまでの雰囲気はどこへやら。
 抱きついてくるほど喜んでくれたのは良いが、
 これはこれでまた罪悪感が募る。
 もとより後ろになら乗せてあげるつもりだったのだから。
 
 若干良心にチクチクとした痛みを抱えながらも、
 ともかくはバイクを引き起こしておく。
 綺麗だったボディからは砂利やら砂やらが剥がれ落ちていく。
 仕方ないか。一応、軽くだけでも拭いておこう。
 
 
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 
 
 嗅ぎ慣れない臭い。
 玄関先に残留していたそれらは、たしか彼が持ち込んできた物。
 正確に言うなら、持ち込んできた物が吐き出すモノだったはず。
 他に残っていたのは、バケツと雑巾と、地面に残された一本の跡。
 
 「………どこに行ったのかしら?」
 
 仕事が一段落し、彼が用意してくれたお茶菓子を一緒に食べようと部屋を出たまではいい。
 それから彼を探しに居た筈の此処まで来てはみたものの、結果はご覧の通り。
 たしかさっきまでバイクとかいうのを拭いていた気がするけど………
 
 と、少しずつ遠くから近付いてくる重低音。
 音の方向へと目を向けてみれば、小さくも煌々とした灯りが一つ。
 局所的な眩しさに一瞬目を細める。
 
 「はい、着いたよ」
 「ふぃー………速い! 風すごい!」
 「楽しんでもらえたようなら、こっちは何より」
 
 目の前に停まった一台の機械。
 それに乗っていたのは二人の知った顔。
 
 「っと、ただいま、さとり」
 
 前に乗っていた人物。○○。
 以前私が"外"に放り出された祭に知り合い、助けてくれた人。
 今では地霊殿の新たな住人。
 
 「あ、ただいまお姉ちゃん」
 
 後ろに乗っていた人物。こいし。
 "目"を閉ざしてから放浪癖が付いた、少し困りものな私の妹。
 今では前ほどフラフラと出ていかなくなったけど。
 
 「………お、おかえりなさい」
 
 二人がどこかしらから帰ってきたことは何の問題もない。
 彼が妹と仲良くしてくれているのも嬉しいことだ。
 
 
 だが目の前の光景は些かそれが過ぎていやしないか?
 
 
 バイクに跨る二人。
 その二人の距離は、一切の隙間が介在していない。
 後ろに乗っているこいしが、前に座る彼の背にひしと抱きついている。
 そう、抱きついている。しっっっっかりと。
 
 
 もやが一つ、立ちこめる。
 
 
 「よいしょっと…また乗せてね○○~」
 
 言いながら彼の背を離れ、館へと走っていくこいし。
 それを微笑ましい笑みと共に見送る○○。
 
 「……それで、○○?」
 
 一歩一歩、ゆっくりと歩み寄り距離を詰める。
 努めて冷静に。穏やかに。優しげに。
 
 「随分こいしと仲が良かったようだけれど………」
 
 努めて冷静に。穏やかに。優しげに。
 
 けれど、声だけはほんの少し低く。
 けれど、こめかみはほんの少しひくついて。
 
 「早々に乗り換えかしら?」
 「いやいや、違うって。
  乗りたいって言うから乗せてあげただけだよ」
 「へぇ、そう…それにしては随分と密着していたようだけれど……」
 
 ゆっくりと見上げながら、○○に詰め寄っていく。
 しっかりと、両の目で彼を見つめながら。
 
 「ああでもしないと危ないからだよ。
  ……それと、わかってやっているでしょ、さとり?」
 「あら、やっぱりバレちゃうのね」
 
 バレてしまっては仕方ない。まぁ当然であるが。
 もう少しくらいは引っ張れるかと思っていたが、さすがに無理があったようだ。
 
 私は"覚り"。人の心を読む妖怪。
 無論、投げかけた質問に対する回答の真偽を"見る"程度、朝飯前という奴である。
 例えば、今の彼に何もやましい想いが無いこととか。
 
 彼はしっかりと私が"覚り"であることを認識している。
 言いたいことも言いたくないことも。
 伝えづらいことも伝えたくないことも。
 一切合切の"心を読む"。それが覚りという妖怪。
 
 そしてそんな覚りである私を、それでも構わず……
 いや、"覚りである私だからこそ"愛してくれる○○。
 優しくて、たまに意地悪で、変なところで意地っ張りで。
 だから、そんな彼に私も惹かれて。
 
 それでもたまには、私から意地悪したくなったり。
 
 (………一応、嫉妬してくれたかな?)
 「いいえ、ただからかってみたかっただけ。
  けど、もう全然慌ててくれないのね」
 「…そりゃあ、最初でもう大体は慣れちゃったしね」
 
 はぁ、と○○は肩で息を吐く。
 最初というのは、幻想郷に来て本当に間もない頃。
 周りの子とちょっと接しただけで、散々同じように弄り倒された記憶を浮かべて。
 
 「しかもブン屋さんが居たら、余計厄介になるし………」
 「あれはまぁ、私ももう勘弁してほしいわ………」
 
 うん。あれはもう思い出したくもない。
 
 こいしがいつもの気まぐれで彼の腕に抱きついていた時だったか。
 見つけた私がとっさに閃き、もう片方の腕に私も抱きついてから、
 「ねぇ、私よりこいしの方がいいの!?」と、目を潤ませつつ言い放った。
 姉妹という間柄で何かを感じ取ったのか、こいしも私に目配せをした後
 「え……私とは遊びだったの!?」と、加勢してくれた時は危うく笑いそうになってしまったが。
 
 今になって思い返せば、よくあんなことをしたものだと思う。
 同じ烏の妖怪である空の元へ、ブン屋が取材の為地霊殿に訪れていた時に。
 
 翌日、見出しにデカデカと
 "地底でもつれる姉妹の愛!?"、"外来の青年はどちらとの愛をとる!?"
 等という見出しの印字された号外が幻想郷全土にばら撒かれたのは言うまでもない。
 私と彼はしばらく地霊殿から外出できなかったことも言うまでもない。
 
 幻想郷は残酷なまでに全てを受け入れる。
 例え、人権やプライバシーを完全に度外視した犯罪級の超出歯亀新聞でさえも。
 改めてそれを認識させられた事件だった。
 
 まぁ一部人物の場合はそれをされた場合に"適切な対応"へと乗り出す者もいる。
 その後の天狗は……推して知るべし、というやつである。
 私はその限りではないが。
 
 「…あ、そうだ。さとりも乗ってみない?」
 「え……私も?」
 「そ。多分、楽しめると思うよ」
 
 どこか気恥ずかしくなった空気を入れ替えるためか、彼はやや走り気味に口を動かす。
 こいしも乗ったのだからどうせなら私も、といったところだろうか。
 
 (というか、本当はさとりを最初に乗せたかったんだし……)
 「え」
 
 思わず零れ出たのは、小さな驚きの声。
 
 「…ん。あぁ、そのね……男だったら、
  こういうのの後ろに乗せたいのってさ、やっぱ……ね」
 
 (やっぱり、好きな人を乗せたいものだから)
 
 何も言わずとも察して補足してくれる○○。
 心を読まれることを受け入れ、もうそれが当たり前であるかのように彼は振る舞う。
 "聞き取る"分では少々足りないが、"見て取る"分では十分な説明。
 それでも、私には十分に通じていることを彼は知っている。
 
 端から見れば奇妙極まりない、私たちだけに成立する会話。
 欲を言うと、たまにはちゃんと言葉にしてほしいこともあるけれど。
 
 「えと……どうかな?」
 
 うっすらと顔を赤らめながらこちらを伺う○○。
 たまにこういった可愛らしいところが見れるのも彼の魅力の一つ。
 ただ、こうされると私の方も顔が熱くなってしまうのが難点だが。
 
 「そ、そうね…お願いしようかしら」
 
 舌が詰まる感覚を堪えつつも、なんとか平静を装いながら口を動かすが、
 余計に頬や耳あたりが熱っぽくなるのを感じる。
 不快ではないけど、なんというか、落ち着かない。
 
 「よし、じゃあ行こう!」
 
 対する○○はといえば、一瞬でパァッっと明るい表情へと移り変わる。
 見つめるまでもなく、"心"も喜びに打ち震えているのがわかる。
 今現在の彼だけを見れば、子供がそのまま大きくなった様な風にしか見えない。
 不意に覗かせるこういった子供っぽい所が、また彼の魅力でもあるのだけれど。
 
 「それで、どこに行くの?」
 「どこってわけじゃないけど、とりあえず地底の走れる場所を一回りかな。
  さっきもそうしてきたし」
 「散歩みたいなものね」
 「速さは比べものにならないけどね」
 
 言いながらバイクに取り付けていた鍵をひねる○○。
 続いて装置類とおぼしきものに彼が手をかけると、しわがれた金切り声のような音が発せられる。
 
 瞬間。
 
 金切り声はかき消され、空間を地響きのような爆音が支配する。
 
 それは鼓動のようであり、吐息のようでもあり。
 彼が右手を動かす度、力強い返事で目の前の"モノ"は応える。
 
 「ん。さっき走ってきたばかりだし、機嫌がいいみたいかな」
 「機嫌?」
 「そ、へそ曲げてると全然エンジン掛けてくれなくてね、コイツ」
 「あら、じゃあ今は相当ご機嫌みたいね」
 「そうみたいでよかったよ」
 
 はにかみながら彼は言う。
 目の前で鼓動している乗り物を、まるで友人のように。
 
 手が空いたら彼が磨いているからか、バイクは曇り一つない金属質の光沢に包まれている。
 こうまで大事に扱われているのを見て、少し妬ましく感じるのは秘密である。
 機械に嫉妬なんて、なんとも見苦しい。
 
 「よっと…それじゃ、後ろに乗って」
 
 革製のクッションの上から伸ばされる彼の手を取り、彼の背に寄り添うように腰掛ける。
 堅めの弾力越しに、小さな振動がお尻に伝わってくる。
 
 「あっと…スカートは足で押さえてね。
  じゃないと、走ってるときに大変なことになるから」
 「……そ、そうね」
 
 忠告のまま、左側へと投げ出した両足にスカートを巻き付け、
 余白の部分を足で挟むようにして抑える。
 ただ……
 
 「…別に思い浮かべる必要はなかったわよ」
 「……ごめん」
 
 "想像図"を見せられる気持ちも考えてもらいたいものだ。
 ……ほぼ当たっているのが余計に恥ずかしい。
 
 「…じ、じゃあしっかり掴まって」
 「えと…こうでいいかしら?」
 
 先ほどのこいしを思い浮かべ、
 同じように彼の腰元へと腕を回し背中へとしがみつく。
 
 (…………!)
 
 同時に彼の"声"が驚愕の色を示す。
 自身の背中へと神経を集中させながら。
 
 「………えっち」
 「…一応、俺も男だからね」
 「というか、"こいしより大きい"なんて考えるということは、
  しっかりこいしの大きさを覚えている訳よね?」
 「………ごめんなさい」
 
 時たま破廉恥な思考に偏るのが珠に傷。
 彼も男性であるのだから、仕方ないのだろうけど。
 
 まぁ、妹より勝っていることが確認できたから今回は不問としよう。
 
 「えい」
 「……ねぇさとり。しっかり掴まってくれるのはいいんだけど、
  あまりその、からかわないでね?」
 「ふふ、何のことかしら?」
 「……いや、なんでもないです」
 
 嬉しいやら恥ずかしいやらといった声で、降参を告げる○○。
 全く、これだから○○を弄るのはやめられない。
 あまりやりすぎると後で拗ねてしまうから抑えた方がいいのだろうけど。
 
 「はぁ…じゃあ、そろそろ行くよ」
 「えぇ、お願い」
 
 改めて両腕に力を込め、しっかりと彼に掴まる。
 ○○は立てかけていた足を外して、右手でバイクの鼓動を加速させる。
 待ってましたと言わんばかりに、唸り声は力強く高らかに地底を響かせる。
 
 カタンという音に続き、後ろに引き寄せるような力が体に掛かる。
 周囲が少しずつ後ろに流れていく。走り出した。
 
 伝わってくる大小の振動。
 小刻みに迫る震えは、バイクから伝わる脈動。
 時たま来る縦揺れは、土石を蹴り上げて進む反動。
 
 風の重みがよくわかる。
 うっすらと乗り出した頭くらいだけでしか感じていないのに、
 それでも過ぎ去っていく風を、頬と髪でしっかりと感じることができる。
 飛んでいたときでも、ここまで感じたことはない気がする。
 
 お腹のあたりから、怖い感覚が迫ってくるのがわかる。
 締め付けられるような。握りしめられるような。
 紛らわせるために、より強く彼の背にしがみつく。
 けど、不思議といやな感覚はない。
 むしろ、どこか楽しさを覚えるような、よくわからない感覚。
 
 唸り声が息継ぎをする度、速度は段々と増していく。
 生暖かい風と心地よい怖さが、同調するように勢いを増す。
 
 「怖くない!?」
 
 風に浚われ、切れ切れになった○○の声が届く。
 横目でこちらを見つつ、体を傾け道を曲がりながら。
 
 「大丈夫っ!」
 
 下から響く爆音と過ぎて行く風音に負けないよう、半ば叫ぶように答える。
 そして、もう一言付け加える。
 
 「もっと速くっ!」
 
 特に意識した言葉ではない。
 けれど、そうして欲しいと無意識の内に告げていた。
 
 「喜んでっ!」
 
 横顔から見えた彼の表情は、楽しげな微笑みを湛えていた。
 
 
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 
 
 「どうだった?」
 「ちょっと怖かったけど、とても楽しかったわ」
 「みたいだね。まさかあそこで"もっと速く"なんて言われるとは思わなかったけど」
 「何故かしらね。なんとなくはしゃぎたくなっちゃったのかしら?」
 「いや、よくわかるよ。俺もいつも乗ってるのにそうなるし」
 
 地底での短時間ツーリングを終え、館の前でさとりと談笑する。
 もしかするとさとりが楽しめなかったらという不安もあったが、
 それも杞憂であったようで何よりである。
 
 「あら、もっと怖がって必死にしがみついていた方が良かったかしら?」
 「う~ん…それはそれで良いかもね」
 
 クスクスと笑みを漏らしながら、さっきまでの余韻に浸る。
 纏わりつくような湿気も、今は全く気にならない。
 
 向こうにいたときでは味わえなかった、何とも心地よい疲れ。
 色の抜けた世界にはなかった、暖かさを身に染みて感じる。
 
 
 やっぱり、ここが俺の居場所なんだな。
 
 
 「ありゃ? お兄さんもさとりさまも、そんなところで何しているんだい?」
 
 不意に聞こえた声に振り向くと、働き者の少女が一人。
 
 燃えるような赤髪のお下げと、ピクピクと小刻みに動く黒い猫耳。
 深い緑色で染められたドレスのようなワンピースは、彼女のお気に入り。
 ポイントは袖や裾のフリルとゴシック風の作りであるとは、いつかの彼女の弁。
 口元から覗く八重歯は、動物らしい快活さと悪戯っぽさが印象に強く写る。
 
 さとりのペットであり、火車の女の子-火焔猫 燐-は不思議そうに尋ねる。
 
 「お燐、仕事は片づいたの?」
 「はい。それで、二人は何してたんですか?」
 「お疲れさま。いや、実はね……」
 
 掻い摘んで先ほどまでの経緯を二人で話す。
 
 「へぇ~、いいなぁ。あたいも乗りたかったよ」
 「それなら、お燐も乗せてもらったら?」
 「え!? いいのかいお兄さん!?」
 「勿論」
 「うにゃっはぁいっ! ありがとうお兄さん!」
 
 ストレートに嬉しさを表している燐ちゃん。
 こうも喜んでもらえると、こちらとしても嬉しい限りである。
 
 「二人とも気をつけて行ってらっしゃい」
 「うん、ありがとう。
  それじゃ、スカートは足で抑えてしっかり掴まってね」
 「合点承知ぃ!」
 
 さとりに告げたのと同じ注意を燐ちゃんにも伝え、タンデムシートへと座らせる。
 高いテンションを抑える素振りも見せず、元気のよい返事が返ってくる。
 
 「よっと、こうでいいかいお兄さん?」
 (…………!?)
 
 瞬間。
 触覚神経が背中側へと奪い去られる。
 それと同時に、少し離れたところから若干冷えた視線が飛んでくるのも背中で受け取る。
 見えるわけではないが、何故か視線が緑色をしているように思えたのは気のせいだろうか。
 
 「え、えと、じゃあ行くよ」
 「あいよ! うんと飛ばしてねお兄さん!」
 
 快活な返事を受けつつ、再び地底を走り出していく。
 
 
 ~~30分後~~
 
 
 「いやぁ、自分で走り回るよりすっごい気持ちよかったねぇ」
 「うん、それなら良かったよ」
 
 視界に入るのは、満面の笑みを浮かべている燐ちゃんと、
 どこか影のある薄い微笑みをたたえたさとりの表情。
 
 「あー、みんなして何してるの?」
 
 新たに近づいてきた声に、皆が首を向ける。
 
 身を包むのは白地のブラウスに緑の短めなスカート。
 背中には目を疑う様な裏地が広がる、白い大きなマントをはためかせて。
 その下から視界いっぱいに広がる黒々とした艶のある翼と、同じく黒々とした艶のある美しい長髪。
 頭上の大きなリボンが黒髪と合わさり、
 妖艶さと可愛らしさが混在した独特の雰囲気を周囲に散らしている。
 
 もう一人というかもう一羽というか。
 さとりのペットである地獄烏の少女-霊烏路 空-が声と共に寄ってくる。
 
 「いやいや、今さっきお兄さんにだね……」
 
 先ほどと代わり、燐ちゃんが空ちゃんへと説明をしてくれる。
 まださっきまでのテンションが残っているからか、
 幾らか熱の籠もった言い回しだったが。
 
 「えー! お燐ばっかりずるいー!」
 「まぁまぁ、それならお空も乗せてもらったらどうだい?」
 「えっ!? いいの○○!?」
 「あ、うん。いいよ」
 「ぃやったぁ! ねね、早く乗せて乗せて!!」
 
 純真無垢な子供の様に、キラキラとした目で急かしてくる空ちゃん。
 燐ちゃんも相当だが、彼女のそれはよりワンパクで一途な感情の現れに見える。
 
 「んと、スカートを足で抑えてしっかり掴まってね」
 「わかった!」
 
 二人と同じく、注意を伝えて後部席へと手を貸し座らせる。
 勢いよく彼女が座った為、ギシという音と共にサスペンションが車体を上下させる。
 
 「んしょ…こうでいいの?」
 (…………!!??)
 
 瞬間。
 触覚神経が背中側へと奪い去られる。
 それと同時に、戦慄を覚えるような気配と共に、
 突き刺すように凍り付いた程冷たい視線を全身の痛覚で感じ取る。
 決して見えるわけではない。だが、緑色の炎がこちらを狙っているのがしっかりと感じとれる。
 
 「ふふ、お空も楽しんでらっしゃい……」
 「はーい、さとり様!」
 
 視界に入るのは、元気いっぱいな笑みと返事を返す空ちゃんと、
 こめかみの痙攣を必死で堪え満面の笑みを形作るさとり。
 
 さっきから冷や汗ばかりが出てくるのは何かの勘違いだと思いたい。
 
 「えと、行こうか」
 「はーい! 出発出発ー!」
 
 こちらの心を知ってか知らずか。
 陰一つない純粋そのままの笑顔を輝かせる空ちゃんを乗せ、
 本日四度目となる地底ツーリングへと走りだす。
 
 ~~30分後~~
 
 「うっはー、楽しかったーっ!」
 「あたいももう一回、近いうちに乗せてもらいたいもんだねぇ」
 「そう…良かったわね二人とも……」
 
 心から満足げな表情を浮かべる空ちゃんと燐ちゃん。
 そして、色々と一周して慈愛に満ちた笑みを見せるさとり。
 声色も同様に優しげなのだが、何故俺はさっきから竦んでいるのか。
 
 「お燐、お空。おやつを用意してあるから先に食べてらっしゃい」
 「「はーい」」
 
 綺麗な返事を場に残し、ペットの二人は館の中へと駆けて行った。
 残されたのは俺とさとりの二人だけ。
 しかし、空間を支配する雰囲気は途方もなく重苦しい。
 
 「さてと……」
 
 くるりとこちらに振り返り、彼女は頬笑みをこちらへと向ける。
 細く開かれた瞼から覗く視線は、刺々しい冷たさを含んで。
 
 「まず言うべきことは?」
 「……不可抗力です」
 
 
 
 その後、渾身の力で耳を引っ張られてから彼女の機嫌を直すのに苦労したのは秘密である。
 

Megalith 2011/07/10
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 「……あっつい」
 「……そうね」
 
 一言だけ。気怠げに気温に関しての呟きを姉と交わす。
 その流れを今日だけで何回繰り返したかもわからない。
 じっとりむしむしとした環境では、そんな余裕もあるわけない。
 ただ言えることは、暑いというその一言くらいしかないのである。
 
 「なんでですかねぇ……今年に限って、夏の妖精が元気らしくて……」
 「にゅぅ…じめじめはいやぁ……」
 
 元気が取り柄のペットに至っても、二匹揃い踏みで長椅子にぐでんと垂れている体たらく。
 お空にとっては、暑さより湿度が問題らしいけど。
 それもそうか。普段から核融合なんてやってるくらいなんだし。
 
 聞くところによると、どうにも今年だけ地底も含め、幻想郷は記録的な猛暑となったらしい。
 色々と条件が重なった結果こうなったとも聞いた気がする。
 正直そこはどうでもいい。
 
 「ねぇ…なんとかならないお姉ちゃん……?」
 
 ソファでうつ伏せになったまま、首だけを動かす。
 隣でテーブルに向かい書類に目を向けていた姉が、呆れたように口を動かす。
 
 「なんとかできるならしたいわよ……汗で紙がひっついて満足に仕事もできないし……」
 「あたいも、流石にこの中走ってたら干物になっちゃう……」
 「……じめじめいやぁ…………」
 
 分かり切っていた答えに、再びソファへと顔を落とす。
 でなければ氷室の次に館で一番涼しいこの部屋にみんな集まって、
 一様にだれながら汗など流しているわけもない。
 みんな、考えることは一緒だったわけだ。
 
 「うにゃ……ところでお兄さんは……?」
 「あれ、いないね…お燐知ってる?」
 「今誰が聞いたねこの鳥頭……」
 
 ペット漫才を聞き流しながら見回すが、確かにあの人の姿が見えない。
 また表でバイクでも磨いているのか、この暑い中。
 あ、そうだ。あれはもう河童に預けてここにはないんだった。
 そうなると、どこで何をしているのやら。
 
 「ただい……って、なにこれ」
 
 噂をすれば何とやら。そんなにはしてないけど。
 ちょうどよく現れた声に再び顔を上げる。
 苦そうな顔をして立ち尽くす○○の姿がそこにあった。
 
 「少しでも涼しさを求めた結果よ……おかえりなさい」
 
 当社比2割り増しのジト目で迎えてあげるお姉ちゃん。
 暑いからって、流石にその顔はちょっとこわいんじゃないかな。
 
 「それでこれね……何か冷たいものでも用意しようか?」
 「「「「お願い」」」」
 
 綺麗なカルテットのコーラスが響きわたった。
 
 
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 
 
 「ぷはぁ、生き返る~」
 
 用意されたレモネードを飲み干し、やっと人心地付いた気がする。
 どうせだったらもっと早く誰かが用意してくれたらいいのに。
 暑いから私はパスだけど。
 
 「冷房でも使えればどうとでもなるんだけどねぇ」
 「"外"と違って、ここにはそんなものもないものね……
  それで、さっきまで何してたの貴方?」
 
 氷を鳴らしながら傾けていたグラスを置き、すっかりいつもの調子に戻ったお姉ちゃん。
 先程までの剣呑な顔を絵にでもして残しておきたかったけど。
 
 「中庭の手入れをちょっとね。
  芝も延びてきてたし、また毛虫も湧いてたりしたから」
 「いつも悪いわね。お疲れさま」
 「というより、こんなことしかできないんだけどね」
 「それでも助かってるのには違いないわ。ありがとう○○」
 「…そう言ってもらえると嬉しいね」
 
 またか。
 微笑みとともに視線を重ねる姉と○○。
 仲むつまじいのは良いことだけれど、見せびらかすのは少し抑えてほしいといつもながらに思う。
 さっぱりとしたレモネードの余韻がたるく感じてきた。
 

 しかしこの二人も本当に見てていじらしくなる。
 ブン屋にもあれだけすっぱ抜かれたのに、未だちゃんとした進展は無し。
 けどこういった浮ついた空気は惜しむこともなく出し放題。
 そんなサービスはいらないのに。胃がもたれてくるわ。
 
 さっさと籍でも何でも入れてしまえばいいのに。
 そうすれば妹の私としても嬉しいことだし、
 もしかしたら落ち着きも出てきてレモネードをたるく感じることもなくなるかもしれないし。
 もう○○は完全に家族として打ち解けているのだから、結婚したって何も代わりはないだろうに。
 強いてあげても、私と○○が義理の兄妹になるくらいだし。
 毎日変わらず甘酸っぱい空気ばかり吸わされていたら、本当に胃がもたれそうで心配になる。
 

 「……そういえば○○、貴方は暑くないの?」
 
 そんな姉の言葉に甘く憂鬱な未来予測を終えて視線を動かせば、
 大した汗もかかずに平然としたままみんなのグラスにおかわりを注いでいる○○の姿が。
 爽やかに笑いながら給仕している姿が、妙に板に付いてる辺りが彼らしいといつも思う。
 しっかりとした主夫になれそうで、義理の妹になるであろう私としては喜ばしい。
 あまりこういう事ばかり言ってからかっているとお姉ちゃん怒るけど。
 
 「あれほんとだ。お兄さん、あんま汗かいてないや」
 「向こうと比べればまだ涼しい方だしね。
  あっちの夏はふざけなしに死人が出るから」
 「………それ本当?」
 「今ぐらいの気温なら、向こうの午前中くらいかな。
  もっと日が射してきたら、そりゃあもう」
 
 幻想郷の外は凄い所らしい。
 それでもたくさんの人が毎日変わらず働いているというのだから驚くしかない。
 いや、死人は出てるらしいけど。
 
 「てことは…もっと暑くなれば死体持ち帰り放題……」
 「え、地上を灼熱地獄にするのお燐?」
 「おやつを抜かれたくないんだったら、二人ともその辺でストップしてね」
 「「はーい」」
 
 調子に乗る二匹をいつも軽くたしなめるあたり彼も中々やる。
 どう見ても普段からの餌付けの成果だろうけど。
 
 「けど、やっぱり暑いわね…」
 「確かにね、湿気も本当に凄いし。
  どこか近くに、水場みたいな涼める場所でもあればいいけど」
 
 近くに水場みたいな涼める場所。
 あぁ。すっかり忘れてた。
 
 「そーだ!」
 
 パチと両手を打ち合わせ、傾注させてから提案を投げかける。
 
 「みんなで涼みに行こう!」
 
 
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 
 
 「突然何かと思えば、こういうことね」
 「確かに、涼しいやこりゃ」
 
 急遽こいしちゃんに引っ張られる形で連れられてきたのは、
 地霊殿より程なく歩いたところにある川であった。
 正確に言うなら、割と浅めな地下水脈路ということになるのだろうけど。
 
 実際にはよくある渓流と同じく、岩の間を静かに音を立て水が流れる場所に見える。
 水面に反射し散っていく光がない分、こちらのほうがより涼やかに感じるが。
 飛沫となって水が舞う箇所もあるお陰で一帯はひんやりとしており、
 凉を求めて訪れるにはもってこいの場所と言える。
 
 「近くにこんな場所があったなんてね。知らなかったわ」
 「そりゃお姉ちゃんは籠もってばっかりだから」
 「…余計なことは言わなくていいのこいし」
 「はは…ともかく、ここなら十分涼めるね」
 
 下手ないざこざの種はさっさと片づけておく為、逸れた話題を戻しておく。
 とはいえ、涼むとは言ったところでどうしたものか。
 まぁたまにはこうしてのんびりと佇むのも悪くは……
 
 「ほらほら、二人とも早くいこ!」
 「…え? こいし、何で靴脱いでるの?」
 「何でって…脱がないと濡れちゃうじゃん」
 
 言うが早いか、素足になり駆けていくこいしちゃん。
 勿論、行く先は決まりきっている。
 
 「あっはは、冷たーーい!」
 
 パシャパシャと水面を蹴り上げながらはしゃぐ姿は、見ていて何とも微笑ましい。
 健康的な満面の笑顔を振りまきながら、早く早くとこちらを呼び立てている。
 
 「どうする、さとり?」
 「とか言いながら、もう決めてるじゃない」
 「まぁね」
 
 思考を読まれるまでもなく、言いながら靴を脱いでいるなら誰でもわかるか。
 事実、向こうと比べればこちらは涼しいには涼しいが、それでも暑いことには変わりない。
 何より、楽しそうなことには参加しといて損はない。
 後々後悔するのだけは、惨めで仕方ないから避けておきたい所だ。
 
 「確かにそうね。せっかくこうして皆で来たんですもの」
 「そうそう。あの子達なんてもう、ほら」
 
 左手で指し示した先にさとりの視線が向けられる。
 恐らく、川のど真ん中でバッシャバッシャと盛大に音を立てて、
 苦手なんじゃないかと突っ込みたい水で戯れている猫と烏が見えているだろう。
 
 「はぁ……元気ね全く」
 「だね。それより、俺たちも行こうか」
 「ふふ、そうね」
 
 互いに履き物を手頃な岩に置き、さとりは先に川へと向かう。
 いそいそとズボンの裾をめくっているのは俺だけ。
 当たり前だ。皆のようにスカートはこういう場合でも裾を持てば事足りるが、
 野郎の俺が身に纏うつもりなど毛頭無い。
 しかし、今日着ていたのがチノカーゴで良かったとこんなところで思うとは。
 デニムなんかの厚く硬い生地だったらで膝頭までめくる事なんてまず不可能だろうし。
 無理にやったとしても痛そうだし。本当に運が良かった。
 
 膝から下を生まれたままの姿にし、割と濃いすね毛をさらけ出す。
 別段気にしているわけではないが、この環境ではイヤでも目立つのは仕方ないだろう。
 裸足で踏みしめる川石の感覚に若干戸惑いながら、ゆっくりと流水に足を浸ける。
 流石は地下水と言ったところか。足先の皮膚が張りつめるような冷たさである。
 下手をしたら、あっという間に風邪をひけそうだ。
 
 「本当ね。けど、汗は一気に引いたわ。それに気持ちいいし」
 
 小さく川面を蹴り上げながら笑う姿は、やはり姉妹と言うところか。
 つい先程見たばかりの姿にぴたりと合わさる。
 だというのに、さとりの姿の方が魅力的に映るのは惚れた弱みか。
 自分でしっかりと意識している時点で、相当なのだとは自覚している。
 
 あと、そろそろだろうか。
 確認するために、薄ら笑いを押し殺しながらしっかりと彼女の方へと向き直る。
 
 「…わかっているんだったら勘弁してちょうだい……」
 「それができないから"惚れた弱み"って言うんだと思うよ」
 
 いつもの通りに、得意げに返す。
 真っ赤に染まった耳と僅かに震えて何かに耐えるこの表情を拝むために。
 意地が悪いというべきか、ひねくれた性格というべきか。
 あまり良くないものとはわかっているが、こいつばっかりは中々直せそうもない。
 
 「…てりゃっ!」
 
 と、目の前が突然冷たい何かに覆われる。
 だらしなく弛緩していた表情筋が一瞬で引き締まり、
 にやけていたであろう面は多分ちゃんとした真顔に戻れた筈だろう。
 それだけを確認するように考えてから、ゆっくりと右手で顔面を拭う。
 ほんの数秒だけ閉ざされた視界に再び写り込んだのは、
 得意げな顔でふんぞり返っているさとりの姿だった。
 
 「だらけた顔より、そっちの方が男前よ」
 「…ならこっちもお礼をしなくちゃ、ねっ!」
 
 すかさず姿勢を低くし、流水に浸した右手を前方に向けて振り上げる。
 掌が水面から描く軌跡とともに、薄暗い中で微かな光を反射しながら透明なそれは飛んでゆく。
 刹那の後に短い空の旅を終えた地下水は、目前のしてやったり顔の上で弾け飛んだ。
 残されたのは、水を滴らせながらジト目でこちらを見つめ返してくる不敵な表情の少女が一人。
 
 「…やったわね?」
 「どっちが先だったかな?」
 「それなら「横やりーーっ!!」
 
 響き渡った陽気な声が近くの岩壁に反響するより早く、
 対峙し合った二人の側面へと大きな飛沫が到着する方が早かった。
 僅かばかりの間を挟んでから、呼吸を合わせたかのように俺とさとりは同時に振り返る。
 勿論、予想通り銀色の癖毛を揺らしながらけらけら笑う少女の姿があった。
 
 「……そこは「隙有り」じゃないの?」
 「ふふーん、敗者にそんなことを言う権利は無いよっ」
 
 我ながらずれた質問だとは思ったが、それに胸を張りながら即答する方もどうかと思う。
 だが、既に勝ち誇ったつもりでいるのは間違い以外の何物でもない。
 横目でアイコンタクトを図り、同じくして返答を受け取ったところで次の行動が決まった。
 
 「敗者は……」
 「どっちかしらっ!!」
 
 その言葉を合図に、冷たい戦場の火蓋は切って落とされた。
 
 
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 
 
 「あー楽しかったー!」
 「にゃははは、たまにはこういうのも悪くないねぇ」
 「そーだねー。また皆で来よう、お姉ちゃん」
 
 何とも愉快な声を上げて余韻に浸っている3人とは対象に、
 私と○○は全く真逆の疲れた空気を周囲へと放つ。
 
 「それは良いのだけれどね……」
 「うん、今になってみるとね……」
 
 二人揃って溜め息が吐いて出る。
 すっかり冷えた頭で考えるまでもなく原因は分かっている。
 揃いも揃って全身ずぶ濡れになったこの場の5人である。
 
 あれからこいしの側にお燐とお空を加えての水遊びにすっかり白熱した結果、
 こうなるのは当然としか言えない。
 
 途中、「だぼーれっぷーけーーんっ!!」と叫びながら腰を入れて交互に腕を振り上げていたこいしや、
 「水だけど、サンドスプラーッシュ!」と叫びつつしゃがんで足を使い水を蹴り上げていたお燐はまだ良い。
 いや、少々言っていた言葉の意味は分からなかったけれど。
 どうせ集中的に狙われていた○○が前に何かを吹き込んだからに違いない。
 
 問題はその後。
 例によって例の如く、調子に乗ったお空である。
 
 「ぱぅわー、げいじゃーーーっ!!」
 
 その声と共に極限の手加減をされ撃ち込まれたヘルゲイザーが、
 遊んでいた場の中心でそれは見事な水柱を打ち上げ、一瞬の避ける間もなく全員を飲み込んだのだ。
 誰にも怪我は無かったものの、滝の方が突っ込んできたような状況なわけであり。
 当然の結果として、今の状況ができあがったというわけだ。
 
 「…いや、うん。見事なゲイザーだったね」
 「入れ知恵した当人が感心しないで……」
 
 途方に暮れたまま笑顔を浮かべる彼に、呆れた溜め息を返しておく。
 
 「けど、こりゃ早く帰って着替えないと風邪引きそうだ」
 「そうだねー。下着までびしょびしょだし」
 
 こいしの言葉に気付き、視線を自分の身体へと向ける。
 たっぷりと水気を含んだ服はぴたりと私の身体に張り付き、一向に離れるような気配を見せない。
 そのせいで身体のラインがはっきりと現れており、羞恥の念が途端に顔を熱くさせる。
 そればかりでなく、あろうことかうっすらと下着のラインと色まで浮かび上がっている始末。
 いくら何だって、はしたないにも程がある。
 
 (ちょっとこれは……目の毒すぎるって………)
 
 どうやら○○も気付いているらしく、遠くを向いて必死に何かを堪えていた。
 しゃっきりと伸ばした背筋にしっかりと握り締められた両の拳が、
 長身の青年の背中を通してなんとも初々しいオーラを放っていた。
 こういう所で変にウブなのが、実に○○らしい。
 
 「んにゅ? どしたの○○?」
 
 不思議そうな顔で背中から○○の様子を伺うお空。
 彼女が何の気もなしに右へ左へと頭を揺らし様子をうかがう度に、
 たっぷりと水気を含んだ長い黒髪が水滴とともに光の粒を散らせる。
 それと同じように、頭に回らずに胸元で停滞してしまった栄養を誇示するかの如く、
 たわわに実ってしまった"2つ"が、張り付いた衣服に合わせ小刻みに元気な動きを見せつけていた。
 
 「あんれ~? お兄さん、耳が真っ赤に成ってるねぇ?」
 
 対してもう一方のペットはといえば、しっかりと立派な雌猫らしく育ってくれていたようで。
 濡れた服によりはっきりと現れたのは、美術品と見間違う程の美しい曲線のライン。
 しっかりとくびれた腰元と2本の尾をくねらせて、お空ほどではないものの見事な胸元を張りつつ○○の左手側へと取り付く。
 細くなった目の端を吊り上げつつ、唇の端からは立派な犬歯と艶めかしい舌先をチロリと覗かせている姿は、
 妖怪として、女として、双方の魅力を余すことなく使い、獲物を堕としにかかっている女豹を思わせる。
 全く、どこでああいった知識を身につけているのやら。
 
 「ほんとだ。なんか可愛いね○○、うりうりー」
 
 お燐のいる左手側の反対では、いつの間にかこいしが右手に組み付いていた。
 濡れそぼった癖のある銀髪をかき揚げるように弄くりながら、
 妖しく持ち上げられた口の端と共に悪戯っぽい色の表情を浮かべている。
 未だ幼さの残る顔立ちから醸し出されている悪魔のような色香を従え、
 密着したまま肘で○○の脇腹を小突くこいし。
 所々で透けて見える小柄な体つきと奇抜な色合いの布地も含めて、大変危なげな様相にしか見えない。
 と言うよりかは、彼の理性にとって大変危険な状態という方が正しいのだろう。
 "声"にもならない彼の"心"からの悲鳴が何よりの証拠である。
 
 無邪気な一名を除き、青年を囲み依然ちょっかいを加えるずぶ濡れ娘たち。
 肘で突いている者の姉として、妖しい表情で覗き込んでいる者の飼い主として、
 他の誰かに育て方を疑われそうで心配になる。
 ただ、そうは思いつつも同じように包囲網に加わろうと歩み寄っている私も私か。
 
 「あら○○、顔が赤いわ。風邪かしら?」
 
 自分でも安いと思う台詞を吐きつつ、○○の正面から両手でそっと頬を掴み、こちらへと顔を向かせる。
 尚もきゅっと目を瞑って抵抗を続けている辺りが、余計に私の嗜虐心を煽らせる。
 さっきまでの羞恥などは、既にどこへともなく吹いている風に連れ去られていたようだ。
 私も十分にひねくれた性格である分、彼の性格をとやかく言うこともできないだろう。
 まぁ、お互い様ということで。
 
 「……いじめ、よくない………」
 
 消え入りそうな程弱々しく掠れた言葉をやっとの思いで吐き出す○○の姿に、
 危うく吹き出しそうになるのを両隣の二人が必死で耐えている。
 もう少しだけ続けてもみたいけど、さすがにそろそろ止めないとまた彼が拗ねてしまうだろう。
 ちょっとだけ名残惜しいけど、手を離し○○を解放してあげる。
 
 「ふふ、ごめんなさい。ほら、貴女達も」
 「「ちぇ……はーい」」
 「ふぇ?」
 
 呆けて首を傾げる烏と、舌打ちしながら残念そうに離れる猫と妹。
 今更だが、やはりこの二人は少し教育方法を間違えた気がして不安になる。
 
 「はぁ………ともかく、帰ろうか」
 
 深く深く息を吐き出してから、少しだけ落ち着きを取り戻した○○。
 変わらずに赤いままの耳と頬が彼の必死さを物語っているが、気付かないでおくとしよう。
 本当に拗ねちゃいそうだし。
 
 「…っくしゃん」
 「あ、お空に鼻提灯できてるー」
 「おやまぁ。馬鹿は風邪引かないっていうのにねぇ」
 「え、そうなのお燐?」
 「……迷信だよ」
 「ほらほら、早く帰って着替えないと皆風邪ひいちゃうからね」
 
 相変わらず仲がいい妹とペット達を手際よく誘導する○○。
 それでも視線は高く上げている辺り、徹底された初々しさである。
 
 「はぁ…」
 「お疲れさま、私達も帰りましょう。
  流石に冷えてきてしまったし」
 「……誰のせいですかねぇ、こうも疲れたのは」
 「さぁ? どっかの背の高いウブな子のせいかしら?」
 「…勘弁してください」
 「冗談よ。ほら、行きましょう」
 
 くすくすと笑みをこぼしながら、肩を落とし苦笑する○○を引っ張っていく。
 オーバーに振る舞っていても、彼が言うほど参っているわけではないのはよく知っている。
 もうこれもいつものことであり、日々の楽しみの一つだからだ。
 勿論、言うまでもなく"私たち"の楽しみである。
 
 まだまだしばらくはこの暑さが続くだろうし、
 あの子達も希望していたから近いうちにまたここへ遊びに来るだろう。
 私も、また○○や皆と一緒に来たいものだ。
 稀に見る猛暑の中でまた見つけた、小さな幸せを楽しむために。
 
 (…それでもまぁ、眼福といえば眼福だったのかな。うん)
 
 今日もそんな小さい幸せを確かめながら帰り道につく。
 一発だけ隣の不健全な思考に肘鉄をかまして、くぐもった呻き声を聞きながら。

Megalith 2011/09/22
─────────────────────────────────────────────────────
 振動。
 今現在知覚している感覚はほぼそれのみ。
 シートから伝わってくる、エンジンの粗暴な鼓動のみ。
 視覚・聴覚情報は極めて薄い。
 
 辛うじて見えるのは、自分自身とメーター類だけ。
 前照灯は問題なくハイビームで動作させているが、
 前方に照らし出される物体はなく、また返ってくる光もない。
 それでもただただ、まっすぐに走り続けるだけ。
 
 聞こえてくるのも、エンジン音と自分の息づかいのみ。
 他の生き物の声も、サスの軋む音も、果ては風の音一つすらも聞こえない。
 
 
 気味が悪い。 
 変な寒気がする程、ここには何もない。
 息はできるのに風もない。目は見えるのに光りもない。
 
 けど何もないはずなのに。誰もいないはずなのに。
 走り始めて暫く経ったあたりからか。
 
 
 気配のない視線に囲まれている錯覚を覚える。
 
 
 勿論、何もないのは目と耳で把握しているつもりだ。
 けれど、何か、誰かに見られている感覚が確かにある。
 走っても走っても、視線が追い続けてくる錯覚。
 やはり気味が悪い。
 
 
 それでもスロットルは一切緩めない。
 進む道はこれしかないのだから。
 
 何も見えない道だろうと。風も聞こえない場所だろうと。薄気味悪い空間だろうと。
 何も考えず、ただひたすら真っ直ぐ進み続ける。
 考える時間はもう十分に過ごしたのだから。
 
 たとえ紫さんに騙されていたのだとしても、たとえ間違えた道だとしても。
 見つけることができた道はこれだけだから。
 
 今は、見つけたこの道を進むだけ。
 
 
 と。
 風が音と共に、耳をかすめる。
 
 
 はたと我に返り一気にブレーキをかける。
 力みすぎた右足は勢い余り、後部タイヤをがっちりと固定させてしまう。
 幾らか横滑りを起こしながらも、何とか無事に止まることができた。
 
 バブルシールド付きのジェットヘルメットを脱ぎ去り、深く呼吸する。
 大きく一つ息を吐き周囲を見回してみれば、
 一面に広がるのは、背の低い芝が覆う丘の風景。
 いつの間にかあの気味の悪い空間を抜けていたらしい。
 
 遠くへと視線を移せば、標高は低めながらも山と思しき影が見える。
 一際目映い月明かりが照らし出すそれは、
 不気味でありながらどこか荘厳な空気を放つ。
 
 鳥と虫の声に混じり時たま聞こえてくるのは、聞いたこともない獣の声。
 知らない内に腹の奥が縮こまるような恐怖と共に押し寄せる雄叫びは、
 生存競争を勝ち抜いてきた生物が持つそれなのだろう。
 生き物として内在している本能の奥底が揺らされる。そんな声だ。
 
 手つかずの自然。文字通りの原風景。そうとしか言いようのない景色。
 とうの昔に消え去り、現代日本ではまず拝めなくなった"幻"の様な光景。
 
 とすれば、やっとだ。
 やっと、辿り着いた。
 
 「着いたのか……幻想郷に………」
 「はい、ようこそ幻想郷へー♪」
 「どわぁっ!!」
 
 闇夜に全く似つかわしくない明るい声は、
 緊張で固まっていた俺を驚かすには十二分の威力であった。
 危うくシートから転げ落ちそうになったのを、ギリギリのところで堪える。
 あと少し体勢が悪ければ、やや緩い地面と抱き合って頬ずりをかましていただろう。
 再び大きく息を吐き、気を落ち着かせる。
 
 不意を打ってきた声の方へと首を向けてみれば、
 にこやかな笑顔を湛えた少女が一人。
 
 闇夜に浮かぶ赤みを帯びた瞳は、奥底に鋭さを秘めた印象が強い。
 それと対照的なまでに夜にとけ込んでいるのは、
 肩あたりまで伸びた緩いウェーブのかかった黒髪。
 それのてっぺんにちょこんと居座っている、山伏のかぶるような小さな赤い帽子。
 身を包んでいるのは白いブラウスと黒いミニスカート。
 向こうでよく見るような服装ではあるが、
 背中からいっぱいに広がる黒い翼のお陰でそんな印象は意識しない限りわからない。
 紛れもなく、目の前の少女は妖怪なのだろう。
 
 「い、いきなり大きな声を出さないでくださいよ。
  こっちが驚くじゃありませんか」
 「あ、いや…すいません。
  えと、妖怪の方……ですよね?」
 「おりょ。そこまでご存じですか」
 
 冷静に努めながら話す内に、彼女の視線が興味の色を帯びるのが見えた。
 同時に、場の空気が張りつめていくのも。
 
 「衣服や持ち物、そして跨っているその機械。
  あからさまに外来の方ですよね? 貴方」
 「…えぇまぁ、はい」
 「しかし幻想郷のことをよく知っている………
  つかぬことを聞きますが、目的は?」
 
 次第に眼光が鋭さを表し始める。
 ともすれば、猛禽のような獲物を狙うそれに近い。
 返答次第、というやつなのだろう。
 
 下手に嘘をついたところで為になるとも思えないし、
 まず俺に上手い嘘を考える技能は生憎と備わっていない。
 正直に話し、信じてもらう他はない。
 
 「…人に、会いに来ました」
  
 慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと口を動かす。
 こんなプレッシャーを感じながら誰かと話すのは大学の面接試験ぶりか。
 いや、命の危険までは無かったからあっちのほうが断然マシか。
 
 「誰にです?」
 「地霊殿の、古明地さとりに」
 「地底の? なんだってまた……」
 「……………恋人ですから」
 「ほぅ恋人……………………ぇあっ!? こいびとっ!?」
 
 数拍ほどの間を挟んで、冷静な目の前の少女の空気が一瞬で消し飛び、
 同時に場を締め付けていた緊張感もどこかへ行ってしまった。
 
 「なんという! なんという特ダネ!
  これぞカモネギ…じゃなかった、たなぼた!」
 
 代わりに現れたのは、両目を輝かせて笑顔で迫ってくるうら若い妖怪少女が一人。
 というか、カモネギと仰られたかこの子。
 
 「ちょっと、今おもいっきりカモって…」
 「お二人の馴れ初めは!? いつからそういうご関係になられたので!?
  あ、あと…」
 
 ガンスルーである。ダメだ全く聞いていない。
 彼女にとって俺はネギを背負ったカモにしか見えないのだろう。
 さっきとは別の意味で不安になってきた。
 
 「…っと、そうだったそうだった。
  申し遅れました。私、こういう者です」
 
 ハッとした表情で何かを差し出してくる目の前の女の子。
 一連の行動所作すべてがまくし立てるように続くので、
 こちらの発言は一方的に抹殺され通しである。
 正直、こういうのはひたすら苦手でしかない。
 仕方なくも半ば諦めながら、差し出されたものを受け取る。
 
 それはどこにでもあるような、一枚の名刺だった。
 
 -鴉天狗、文々丸新聞  射命丸 文-
 
 それだけがシンプルに納められている、飾り気の全くない名刺。
 しかし内容から察するに、どうにもこの人は鴉天狗のようだ。
 ……鼻は筋が通って綺麗だけど、至って普通の長さだ。
 
 「えっと、新聞記者さんですか」
 「ッ~~……そうです、えぇそうです! その反応が欲しかったんです!」
 「え」
 「いやー、一度こうやって名刺を差し出して、
  記者らしく畏まった挨拶を交わしてみたかったんですよ!
  なのに皆さんったら知ってるだのまた紙の無駄遣いしてだのとノリが悪くて……」
 
 少しだけわかってきたことがある。
 この人、テンションが上がるとマシンガントークに移行するタイプなのだろう。
 当人の様子から見るに、悪気があるわけではないのはわかるが、
 さすがにずっとこのままはこちらが困る。
 こういうタイプはこの上なく苦手なのだから。
 
 「…あのー」
 「あ、はい何でしょう何でしょう!?」
 「………喋っていいですか?」
 
 それだけを何とか告げると、ばつが悪かったのか、
 「あやややや…」と呟きながら顔を真っ赤にして縮こまってしまった。
 
 可愛らしいが、なんというかまぁ、よく疲れないなぁ…
 
 
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 
 
 「いやいや、昨日はとんだ失礼を」
 
 一晩おいて彼女 -射命丸さん- は落ち着きを取り戻したようだ。
 穏やかに話しかけて、殺気立てて訝しんで、
 目を輝かせて詰め寄って、今度は顔を赤くして恥ずかしがって。
 忙しい人なのだろう。主に性格面で。
 
 とはいえ、悪い人ではない。
 
 あの後、あたふたとしながらも少し離れた場所にある無人小屋を教えてもらい、
 朝にまた訪れるので一度そこで休むよう勧められた。
 断ろうにも言い終えてから消え去るように飛んでいってしまった為、多少困りはしたが。
 だがこちらを配慮してくれての行動なのだろう。多少の打算は絡んでいそうだが。 
 
 「いやしかし外の技術はすごいですねぇ。そんな奇っ怪な形の物が走るなんて」
 「こっちからすれば、そうやって飛んでる貴女の方がよっぽど奇っ怪なんですけどね」
 「そうですかね? 人間も飛ぶのは飛んでますよ?」
 
 軽い会話を交わしつつも低空でこちらと平行し飛行する射命丸さん。
 先程粗方の事情を話してみると、進んで道案内を買って出てくれたのだ。
 "無事に事が済んだら独占取材をさせてもらう"という条件付きで。
 
 だがその程度で見知らぬ土地の案内をしてくれるというのなら安いものである。
 勿論、喜んで取材の確約をさせてもらった。
 
 「しかし○○さんも運がいい。
  会ったのが私でなく宵闇の妖怪だったりしたら、今頃胃の中ですよ。
  いや、場所的には毒人形の方が遭遇し易かったかな?」
 「う…やっぱそういうのもいるんですね……」
 「そりゃあ妖怪ですもの。
  両方とも見た目は10にも満たない童女ですが、れっきとした妖怪ですよ。
  …あ、天狗は節度ある理知的な妖怪ですので心配無用ですから」
 
 サラッと出てきた言葉に一応は安堵しておくが、
 さとりに聞いていたより幻想郷の地上は殺伐とした場所なのかもしれない。
 先ほど言われたとおり、喰われずに済んだ俺は運が良かったのだろう。
 
 「…っと、そろそろですかね」
 
 言いながら射命丸さんは速度を緩めてゆく。
 合わせてこちらもブレーキをかけ、ほぼ同時に地に足を着けた。
 ヘルメットを取り、辺りを見渡す。
 
 案内されるまま連れてこられたのは、昨日見たのとは違う山の麓付近にある渓流。
 まだ登りきっていない日が木々の合間から差し込み、木々の朝露がそれを淡く反射させる。
 静かに音を立てる涼しげな水音と相まって、何とも風情を感じさせる場所である。
 頬をかすめる水気を帯びた風が、微かなヘルメットでの蒸れを飛ばしてくれる。
 何もなければ、長い時間をここでゆっくり過ごしたいものだ。
 そうはいかないのが現状であるが。
 
 「ここが…地底の?」
 「いえ、河童の巣です」
 「巣って言うな。"ラボ"だっていつもいつも言ってるじゃんか」
 
 突如聞こえてきた突っ込みの声の主は、川面から音を立てて現れた女の子だった。
 少しだけ驚きはしたが、文さんの時ほど取り乱さずには済んだ。
 
 「紹介します。こちら谷河童でエンジニアの、河城にとり」
 
 そう言って文さんは目の前の少女に手を向ける。
 
 二カ所で結い上げた深い青色の髪。その上にポンと乗せた緑色のキャップ帽。
 水色のスカートには、これでもかと縁に沿うようにずらりとポケットが並んでいる。
 一つ一つが結構な膨らみで、且つ小さな金属音が聞こえるあたり、中身は工具とかの類なのだろう。
 しかも背中のパンパンに膨れたリュックも同様に金属音を奏でているあたり、
 彼女の機械に対する姿勢は相当なもののようだ。多分。
 ただ、特徴的な胸元にかけてある鍵は何を意図しているのだろうか。
 両肩と両脇腹から紐を回して固定してあるため、
 体の凹凸が局部的に強調されているのはどうなのだろう。
 男としては、少々目のやり場に困る。
 
 しかし、今度はエンジニアな河童の女の子か。
 頭は帽子を被っているからわからないが…いや、失礼なことを考えるのはよそう。
 相手は女の子だ。そもそも、偏見はよくない。
 
 「ん? って人間? ……ってしかも何その機械!?」
 
 2つステップを挟む形で、河城さんの声がトーンを上昇させていく。
 なんだろう。悪い予感がする。
 
 「おぉ、おおおおおぉぉぉぉぉ…………」
 
 一心にドラッグスターを見つめる河城さんの視線。
 遠目で見ることができれば、あるいは視力がいくらか悪ければ、
 ただ機械の好きな女の子の可愛らしい仕草で過ごすこともできただろう。
 その両方に当てはまらなかった俺は見てしまった。
 彼女の瞳から光彩が消えているのと、口腔内で唾が糸を引いているのを。
 さらに、いつの間にか後ろ手に回していた右手にレンチやらの工具が握られていたのも。
 
 「ね、ねぇ…ちょっとイジらせてくれないかなぁ……ソレ………」
 「いや、そのちょっと…」
 「ね!? 先っちょ、先っちょだけだから!? ね!?」
 
 何の先っちょなのだろうか。
 最早会話すら成り立たなくなってきてる。
 まずい、このままでは相棒がよくてバラバラ、
 行くとこまで行けば -FATALITY- されてしまう可能性だってある。
 
 「にとり、ダメなものはダメですよ」
 「…ちぇ。冗談だって」
 「またわかりづらい冗談を。というより、紹介が途中でしょうに。失礼ですよ」
 「ん、それもそうだね。ごめん」
 
 本当に冗談だったのか怪しい。完全に彼女の目は本気だった。
 
 「それでこちらが○○さん。なんと自ら進んで外からやってきた人です」
 「自分から? そいつぁまた何しに?」
 「そ・れ・が……愛する人に会うためなのです!」
 「うぇっ!? あ、愛する人ぉ!?」
 「そう、それはある一冬の奇跡。異世界の男女が巡り会い、運命に身を任せ恋に身を投じてゆく……」
 「な、なんとぉ…」
 「しかし運命とはかくも無情! やがて二人は想い空しく引き剥がされ、無理矢理元通りへとあてがわれる…」
 「………ゴクリ」
 「だが男は立ち上がった! 翻弄する運命など自らの手でねじ伏せて……」
 「文さん、脚色しすぎです恥ずかしいです…」
 
 熱の籠もってきた舞台のような語りをやめさせる。
 人を勝手にドラマかなんかの人物みたいにするのはよくない。
 当事者は恥ずかしくてたまらないのだから。
 ましてやその当事者の前でするなど、一種の拷問である。
 
 「本筋はちゃんと合っていますでしょう?
  だから何も間違ってはいませんよ」
 「いや、さすが盟友。大したもんだよ」
 「………どうも」
 
 諦めも肝心。先人の残した言葉はやはりいつだって正しかったりする。
 場の流れに逆らい続けても疲れるだけ。
 流されるときは流されてしまうのも一つの手である。
 ここに来て一つ、早々に学ぶことができた。
 
 「それで、誰に会いに来たの?」
 「ほら、地底の館の主ですよ。貴女が黒白をけしかけたときの」
 「ほぅほぅ。それで私のところに来たってわけね」
 
 預かり知らない話が進んでしまっては、部外者であるこちらはただ待つしかない。
 ただ、地底のことに関して彼女たちは何か覚えがあるらしい。
 "黒白をけしかけた"という単語の部分で、さとりから聞いた話に思い当たるところもあったりするが。
 
 「あっと、○○さんに説明がまだでしたね」
 
 こちらの意を察してくれたのか、文さんが説明をしてくれるようだ。
 変に気を使わせてしまったようで、少し悪い気がする。
 
 「少し前に間欠泉の騒動があったときにですね、
  山の神様と河童たちで地底を利用した技術革新の計画があったんですよ」
 「あ、その辺りは聞きました。お空って子の核融合の力を使うやつですよね」
 「ご名答。その時、山から地底に河童が資材などを運搬するための坑道を掘ったのですよ」
 「その道を使えば道中妖怪に合うことなく安全に地底まで行けるってわけさね。
  通じている場所も旧都から旧地獄まで地底の隅々まで繋がってるし」
 「今はもう以前ほど使われなくなったので河童もあまりいません。
  どうです、いい抜け道でしょう?」
 「…はい!」
 
 成程。それは魅力的な抜け道である。
 いろいろな場所に繋がっているとあれば、恐らく地霊殿のすぐ近くに繋がる道も在るはずだ。
 
 気持ちが高ぶるのを抑えられなくなってきている。
 あと一歩。あと一歩で辿り着ける。
 彼女のもとへ。
 そう思うだけで、知らずのうちに心拍が加速させられていく。
 
 「ただなぁ、部外者を…しかも人間を通すってなるとなぁ……」
 「そ、そんな」
 「ほら、そこをなんとか。私の一大スクープが待ってるんですから」
 「というかさ、ここに連れてくるのだって本当はだめなんじゃなかったっけ、"天狗様"やい」
 「まだ麓の方ですから大丈夫ですって。それにもう山じゃなく地底に行ってしまわれるんですし」
 「ぬぐぐぐ……でもなぁ…バレたら私だって怒られるんだぞ?」
 「お願いします、通してください!」
 
 必死に頭を下げるものの、最後の一歩でにとりさんが俺の通過を渋る。
 彼女の言い分も理解できる。
 だが、ここだけはこっちも流されるわけにはいかないのだ。
 
 うんうんと唸りながら思い悩むにとりさん。
 同じようにどうしたものかと考えあぐねている自分に、一つの案が浮かぶ。
 軽く右手が触れたのは、中古で新しい相棒の燃料タンク。
 できることならば、避けたい道ではあるが。
 
 「…河城さん」
 「ん? なんだい盟友」
 「通してくれたら、こいつ………いじってもいいですよ」
 「ひゅい!? 本当!?」
 「えぇ」
 
 気は進まないしこいつにも申し訳ないが、
 俺の中で双方を天秤に掛けた場合、傾くのはさとりであることは揺るぎない。
 そして今、天秤に掛けるべき時がやってきた。
 
 そっと、メーター類に触れる。
 愛着がないわけではない。だが、より大事なものが俺にはある。いや、欲しいものが。
 だから、こうやって蹴落とすような真似を許して欲しいわけではない。
 ただ、ごめんと言うしかない。
 
 「ん~~~……仕方ない、私の負けだ」
 「じゃあ…!」
 「いいよ、通りな。盟友の頼みでもあるしね。
  地霊殿までならずっと右手伝いに行けばいいし、そいつに乗ってならすぐだろうさ」
 「そいつって…これは」
 「今すぐとは言わないよ。余裕ができてから持って来とくれ。
  それに、私はこう見えてもリバースエンジニアリングの天才なんだから。
  分解して戻せないなんてド素人のヘマはしないさ」
 
 ニカッと、歯を見せるようにはっきりとした笑顔で河城さんは言い切った。
 
 「そうですよ。どうせなら、その時一緒にさとりさんも連れて来ちゃってください。
  同時取材というのもいい記事が書けそうですし、
  二人揃ってのお惚気話ならいいネタになりそうですし」
 「というか、いい酒の肴って所かねぇ」
 「それを含めてのネタってことですよ」
 
 少しだけ意地の悪そうな、優しい微笑みを向けてくる射命丸さん。
 
 鴉天狗と河童の女の子。
 射命丸さんと、河城さん。
 
 「……お二人とも、ありがとうございます!」
 
 できる限りの礼を込めて、頭を下げる。
 見ず知らずの俺に、手助けをしてくれた恩人に対して。
 
 「ほら、そっちに洞穴があるだろ。アレだよ、さっさと行きな」
 「早く行って、さとりさんを驚かせてきてください。
  あとでいい記事にするんですからしっかり忘れないでくださいよ」
 
 優しい妖怪の笑顔に見送られ、スロットルを回す。
 轟音を吐き出しながら、ハロゲン灯の明かりを頼りに地の底へと向かう。
 
 
 やっとだ。やっと。
 もう少しで。
 
 
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 
 
 「行っちゃいましたね~」
 
 土煙と僅かな異臭を残して、外来人の彼は旧地獄へと向かっていった。
 
 「こんなもんまで忘れてってるしねぇ。
  …ふ~ん、外の帽子はえらくごっついねぇ」
 「それどころじゃないのでしょう。
  もう、一刻も早くって顔してましたし」
 
 彼の忘れていった帽子を被りながら、感心そうにコンコンとつついてるにとり。
 しかし顔の前まで透明なつばが覆う帽子とは。やはり外のものは一々変わっているようだ。
 
 「というかさ。文、行かなくてよかったの?
  再会の場面撮るなら今しかないだろうに」
 「折角の場ですよ。そんな無粋な真似はできませんって」
 「有名パパラッチの天狗様がよく言えたもんだねそんな台詞」
 「余計なことは言わなくていいです」
 
 私にもこうやって若者の行動を見守る年長者らしいことをしたい時だってある。
 ああも青臭くひたすらな人間というのも、見るのは本当に久しい。
 下手すれば初めてかもしれない。
 
 「………ん?」
 「どうしました、にとり。何か変な仕掛けでもついてました?」
 「いや、なーんか忘れてるような気がして……」
 
 依然外の厳めしい帽子を被ったまま、頭を右へ左へと傾ける河童。
 端から見れば阿呆な妖精にしか見えない気がする。
 
 「その年で痴呆ですか?
  いい若い者がだらしないですよ」
 「ちがわい………あっ」
 
 ハッと目を見開き背筋を伸ばす。両手を帽子の横に添えたまま。
 もはや狙っているとしか思えない。勿論そうでないことは知っているつもりだ。
 時折天然な行動が目立つのも、まぁ彼女らしいと言えばらしいのだが。
 
 「その分だと思い出したようですが、何だったんです?」
 「えと……盟友に教えた道、地霊殿のすぐ近くに出るんだよね………」
 「いや、いいじゃないですかそれで」
 
 何の問題もないではないか。
 そう考えている途中で、ボソリとにとりは付け加える。
 
 
 「………館の真上に」

Megalith 2011/09/22
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 カツリ。カツリ。
 
 
 「しっかしまぁ、器用なもんだねぇ」
 
 
 カツリ。カツリ。
 
 
 場を支配するのは、秒針が律儀に音を刻み続けるような音。
 
 「言う程ではないですよ。
  コツさえ分かってしまえば、あとは繰り返すだけですし」
 
 
 カツリ。カツリ。
 
 
 休符も変調も、変化と呼ぶものを欠片も見せることなく、
 奏者は頬笑みを携えて、ひたすら単音と共に弾き語る。
 
 「そうやってチマチマチマチマ続けられるのがだよ。
  見てるだけで頭が痛くなってるあたしにゃ無理だ」
 
 
 カツリ。カツリ。
 
 
 観客と捉えるには些かやかましく、伴奏と呼ぶにはぶっきらぼうに過ぎる声。
 第一、彼女が放っているのは纏わり付くような酒気くらいなもの。
 日の拝めぬここでは確認できないが、恐らくまだ高い位置にそれはある筈だというのに。
 
 「"それ以前に、そんな細っこい棒なんかくしゃみの一発でおがくずにしちまう"」
 「そういうこった。前科なんて風には言いたかないが、
  まぁ覚えてらんないぐらいやらかしてきてる」
 「それは勿論知っておりますとも。
  いつだか家の門扉に酔った勢いで頭突きをかまし壊して頂いた件も含めて」
 「悪いね、言ったように覚えてらんないんだ」
 
 
 カツリ。カツリ。
 
 
 相も変わらず慎ましく自己主張を続ける単音の演奏。
 奏者であり指揮者である彼女は、ただ只管にそれを続ける。
 傍らで行儀悪く椅子にもたれる観客は何をするでもなく、
 ただ愉快そうに盃を傾け伴奏を受け持つ。
 
 「全く…人の家を何だと…」
 「良いじゃないか、どうせあいつが綺麗に直す。
  いや、あんないいのを引っかけてくるなんて、お前さんも中々やる」
 「ひ、人を遊女のように…!」
 「いやいや、あんないい優男連れ込んでるんじゃ、大して変わらんだろうに」
 「だ、だからっ! というか、変なこと考えないでください!」
 「あれ、まだなのかい?」
 「何が"まだ"ですか!」
 
 
 ケラケラと笑いながら調子よく揺れる一角。
 頬を朱に染めながらカッと見開かれた単眼。
 
 訪れた突如の変調。
 多少荒々しくも、どこか陽気な調べ。
 
 
 「ほらほら、そんなしてると解けちまうよ、それ」
 「っ………全く…」
 「あっはっは。しかしまぁ、○○とやらも幸せもんじゃないか。
  こんないい嫁さん貰えたんだ、地獄に落ちたって文句は言えんよ」
 「……一応、ここも"旧"地獄ではありますがね」
 「おっと、そういやそうだった。鬼の私が忘れてたんじゃどうしょもない」
 「"となれば、あの男がしっかり善行を積んでいるか監視してやらないとね"とは。
  どう取り繕っても、それただの出歯亀ですから」
 「いいじゃないか。偶には肴に甘いのも欲しくなるもんさ」
 
 
 カツリ。カツリ。
 
 
 多少テンポを落としつつも、再び始まった単音の演奏。
 変化と言えば、伴奏だけがやや主張を強くしたくらいか。
 
 「ま、男のためにせっせと編み物している"覚り妖怪"が見れただけでも収穫かね」
 「…貴女も、素敵な殿方を見つければ考えが変わるかもしれませんよ」
 「はは、言ってくれる。あんたの相手みたいに、
  良い感じで尽くしてくれそうな優男が他にもいたら考えてやるさ」
 「だったら無理でしょうね」
 「違いない」
 
 
 カツリ。カツリ。
 
 
 相も変わらず慎ましく自己主張を続ける単音の演奏。
 奏者でもあり指揮者でもある彼女は、ただ只管にそれを続ける。
 傍らで行儀悪く椅子にもたれる観客は何をするでもなく、
 ただ愉快そうに盃を傾け伴奏を受け持つ。
 
 
 やがて酒飲みの鬼が館から帰る頃には、
 花を咲かせすぎた会話のせいで予定の倍近く伸びすぎた編み物が一つ出来上がり、
 奏者であり指揮者である彼女の頭を悩ませるのだった。
 
 
 
 後日、旧地獄の洋館からそれを一緒に巻いた男女が出てゆき、
 寄り添い連れ歩くのを極少数の者に目撃されたが、それはここでは語らないでおくとしよう。

Megalith 2011/11/23
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最終更新:2011年12月04日 09:31